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:
α編集部
:2014/02/28(金) 05:32:24
AとBの狭間で
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AとBの狭間で
私はこの歳になるまで数々の迷い道に入り込み、戸惑い、やむなく決断し、今に繋がる
判断をして来た。それが果たして正しかったかどうかは判らない。その道と別の道を同時
に体験出来るわけでもないので他の道の方がより正しかったかどうかも判らない。元来私
は先のことを緻密に計画を立て、着実に目的に向かって努力するという生き方でなく、む
しろ自分の好みに合った方を直感的に選んで来たようでもある。そしてある部分において
は別の道の方がいい結果になったことを認めるざるをえないこともあった。
そのような時々の分岐点に立ちつくしAとBの狭間で揺れ動き想い迷う姿をパイロット
版から第6号までシリーズとして書いてきた。それはすべて私の彷徨う人生の分かれ道の
座標点そのものであった。
????パイロット版(創刊0号)―「趣味と道楽の狭間で」
創刊号――――――――――「晴(は)れと褻(け)の狭間で」
第2号――――――――――「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」
第3号――――――――――「光(ひかり)と翳(かげ)の狭間で」
第4号――――――――――「本音(ほんね)と建前(たてまえ)の狭間で」
第5号――――――――――「都市と田舎の狭間で」
第6号――――――――――「続【都市と田舎の狭間で】」
*
思うに、AとBの道の分かれ道に立ちつくし、行く先のことを思いめぐらし、Aを進む
とどのような展開をするのか、あるいはBの方向が正しいかも知れないと疑い迷うのには
一定の条件がある。その分岐点に立った時、歴然とAよりBの方が価値があり、その置か
れた状況に合目的であると判断できる時は選ぶ方向を迷うことはない。難しいのはむしろ
その想定が等価の場合悩みも多く、決断も鈍く逡巡するのである。それが優劣付けがたく、
どちらも捨て去るには忍びないと思えるときほどAかBかを迷うのだ。捨てた方がどうも
正しかったり、魅力があったり、将来性が豊かなように感じられて後日臍を噛むのである。
そこには義理、人情、正義、虚栄、妬み、猜疑といった複雑な人間関係も絡んで来る。ど
うかしてでも両方を得られないかと算段するのだが、現実はAかBを選ぶか両方とも諦め
るかの三者択一の道しかないことが多いのである。
?? *
小さい田舎町、蒸気機関車の力強い息吹の身近に聞こえる国鉄の駅前に住んでいた頃、
私の家の隣に専売公社の営業所とその官舎があった。たいした企業もなく農業と零細の商
業で成り立つ町で暮らす私のような土着の者からすると、何年か一度、知らない街から転
勤してくるその公社の家族はまぶしいくらい洗練されていて、朝から夕方まで近所の製材
所の原木の間や、小川の中で泥まみれになって魚取りに惚ける私達とは違って、想像もつ
かない高度な文明の異邦からやって来た家族見えた。時には下半身麻痺で両足を前に突き
だし両手で器用に膝行する同い年の不幸な子供などもいたが、そのような人達ともすぐ仲
良くなりよく家庭のもとに遊びに行っていた。
ある時そのような転勤の家族が移り変わる中で、美しい姉妹の一家が住み着いた。もし
恋人として選ぶとすればA子とB子のどちらをはたして自分は選ぶべきであろうかと自問
したのはその頃である。A子は小柄で小太りの丸顔で利発そうな大きな目を輝かせ積極的
に行動的する溌剌とした魅力的な子であった。そしてB子はすらりとした容姿で、いかに
も貴族的で気位の高そうな静かな娘であった。A子がアン・シャーリーのような娘とすれ
ばB子はアリサのようであったと形容しようか、私はこれほど見事に違った魅力を持ち合
わせた姉妹を以前にもその後も邂逅したことがない。未だ目も眩むような恋に陥る前の少
年期で、少なくともどちらかに偏る程成熟した歳でなかったからかもしれない。もう少し
成長して、隣の家族ともずっと長くつき合っていたらAかBの娘の間で苦悩するという罠
に填っていたにちがいない。そしてまもなく繋がりをもつ手段も考える知恵もないまま、
その美しい姉妹は別の街に去って行き、私にとっては遙かな昔の記憶の残照のみとなって
しまった。
*
若い頃自らの意志で下したAかBかの決断が思わぬ苦悩をもたらすこともある。その中
には若さゆえの義理や侠気といった思いこみによる自己犠牲、又一方での情熱による利己
的選択もあろう。
夏目漱石の「こころ」に出てくる先生や「それから」の大介のように、ある若い時点で
選んだ道のために後の人生に大いなる悩みを残したように、私にとってもあらゆる転機で
選んだ道もまた同じようなもので悔恨の情を含んでいないとは言い切れない。しかしたと
え先生が若い頃奥さんを諦めるというもう一つの道を、大介が初めから友人を裏切って美
千代と一緒になることを選んだととしても、やはりどこかに疚しさや後悔の念が潜んでい
て別の悩みを持ち続けたであろうと私は思う。「三四郎」「それから」「門」は三部作とい
われているが、それぞれの主人公のもつ悩みは同じ線の延長上にあり、「門」の宗助は大
介と美千代が一緒になり、なおも悩み葛藤するその後の姿を描いているといわれている。
「こころ」の先生と「それから」の大介は立場が逆になっていることを見ても、AもBも
どちらもこれが正しかった道だとは誰も結論付けることは出来ないのではないか。どちら
を選んでも何かに悩み苦しむということは、まじめに生きる人の逃れられない性かもしれ
ない。
*
私の軌跡は中心を外れて脇道に迷う込んだり一転して戻ってきたりするサインカーブや
螺旋階段のように振れながらも確実に前に進むように、大きな視点からみればそれはそれ
なりに一本の道の回りを逸脱することなく進む、己の嗜好や意志を示しているのではない
か。別の道を歩くということは決して私が歩けない次元のちがったもので、結局行き着く
ところは己のイメージした到達点にほかならないのではと思う。それが人から見て世間的
な人の評価に耐えうるものかどうかはわからないとしても。
そして私はハムレットのように逡巡し悩み惑い、優柔不断で恋人のオフィリアを不幸に
するよりも、麻を絶つごとく一刀両断に物事を判断し決断できる人が羨ましい。果敢に行
動して決して結果を恐れず、振り返らない、自信に満ちた人はそのようなことが私に出来
ないだけに羨ましいと思う。
しかしまたその反面、私自身がそのように脇目も振らず、小さな価値は切り捨てて雄々
しく決断し討ち進むとすれば、小さい価値でも積もりつもって出来上がった何かを取り返
しのつかない大切な物を失ってしったと感じ、淋しい想いに駆られるにちがいない。
*
この宇宙は相対性原理と量子力学との間の矛盾も最近「超ひも論」という新しい有力な
理論により統一されるようとしている。宇宙的規模のマクロの世界では一般相対性理論や
特殊相対性理論で解決したかにみえたこの世界も、クオークや電子やニュートリノという
ミクロの世界ではその理論だけでは解けないことが判った。量子の世界では電子やクオー
クの動きを理論上で的確にとらえることができず、その推論は確率でしか表せないという
ことで、不確定性原理といわれている。この予測のできない働きをもたらす「揺らぎ」が
ビッグバンの直後この宇宙を形成したといわれている。
また「1/fの揺らぎ理論」というものがある。音楽においても名曲とそうでない曲は
この1/fの揺らぎがあるかないかによると説く学者もいるのである。次の音が100%
予測出来てもいけない、全く予測出来なくてもいけない、程良い意外性の音が聞き手に満
足を与えるという。モーツアルトやブラームやベートウ゛ェンの名曲はこの1/fの揺ら
ぎを持っているということである。
*
そして、そのような精緻にたけた科学の世界でさえ右に行くか左にするか確率論の中で
しか判らないのであるから、ましてやもっとも不可解な生き物である人間の理性や感情が
絶対に正しい判断をすること望むことは不可能であるという他はない。私のAとBの狭間
での揺らぎは当然の帰結であり、これからもハムレットの「to be or not
to be」の心境で狭間で立ちつくす己の姿を随分見るであろう。
7号 2002年
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