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6α編集部:2014/02/27(木) 23:48:59
続・都市と田舎の狭間で 後編
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          続・都市と田舎の狭間で 後編




(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)


―朝帰りー

 ある梅雨明けの早朝、事務所に出勤する時の出来事である。車で家から一分も走らないなだ
らかなカーブの舗装された道路上に、見事な直線で直角に過ぎる何か判断のつかない物が目に
入った。右手に民家と山を左手に水田を控えた場所での出来事である。そのまま踏みつけて走
り抜けようと思ったが、いつも何かを踏んだ時車輪から伝わる衝撃に気味悪さと後悔の念が苦
い味となって残るものだ。私は一瞬のうちにそのことを思い出し、間髪を入れず急ブレーキを
掛けた。その一本の「縄」かと思えた物体はもんどり打って二つに折れたように見えた。そし
てすぐさまうねりながら水田の方に向かって逃げて行った。その時はじめて蛇であることが判
り、踏まなくてよかったと安堵した。事態に驚き悲劇に終わらなくてよかったと、そうお互い
に思っているようで、なんだか友人になったような心の通いを感じた。
 そういえば山側の部分は頭で太く水田側の部分は尾で細かったことを、いかにもその一瞬判
っていたような錯覚をしていたが、実は通り過ぎてから納得したものだった。そういうことは
よくあることで、蛇という頭の中の概念で細部を補って認識したのであろう。
 涼しい朝方、水田で捕獲した獲物の蛙でも得て満腹し、冷えたアスファルトの心地よさにつ
いうとうととしたか、二?を越えると思しき見事な巨体であった。爬虫類は死ぬまで成長し続
けると聞くが、そこまでなるには相当の年月を、人間からの危害や鷲や鷹の襲撃、交通事故か
ら首尾よく逃れる知恵をもった尊敬に値する個体だと思った。そして私は民家の納屋に主とし
て棲みついている朝帰りの青大将であろうと勝手に想像し、何時の日か再び見えんことを期待
するのであった。



―囚われの身―

 我が家には農薬を混ぜるコンクリート製の水槽が、裏山の始まる屋敷の北側に一基造り付け
てあった。柿の木の下にあるそれは、手前が水槽の底と地盤が同じ高さで、反対側の土地は水
槽の上の部分と同じ高さになっていて、ポンプや溶液の攪拌機の納められている小屋が隣接し
ているという、段々畑の一角にあった。横二?奥行一?深さ一?半で、中心に仕切りを持つ二
つの槽に分かれていて、まるで木製の角風呂を二つ合わせたようなものだった。それは、父が
亡くなってからはもう殆ど使用されず、一つの槽は空で、他の槽は排水口でも詰まっているの
か、底から三十?くらいまで雨水が溜っていて水は淀んでいた。
 これらの工作物は、みかんや梅の木を消毒する際薬品と水をかき混ぜて薄める施設であった
が、役目を放棄されてからずいぶん日が経っていた。その理由はもっぱら働き手としての父が
居なくなったからなのか、それとも時代とともに消毒作業のやり方に変化があったのか、転居
して間もない私には、その理由を判断することができなかった。とにかく、この家に出入りす
る人達はみな水槽に関心を寄せることを既に止め、その中を覗くという行為をするのは、私み
たいに何にでも好奇心を示めす新参者だけであった。
 ある時私は手持ち無沙汰のまま何の意図もなくひょいと右側の水の溜まった水槽を覗いて見
たのである。その水槽は下から五分の一ほどまで雨水で満たされていて、五十?ばかりの細い
棒切れが二つ三っつ浮いていた。そこには白い腹を上に向けた少し大きめの蛇の死体が一つあ
った。そして三十?に満たない生き絶え絶えの―私にはそう見えた―別の蛇が三匹それぞれの
木切れにしがみ付いていた。死体が母親なのか、ほかの三匹がその子供なのか私には判断がつ
かなかった。それ以上に、異常な光景と爬虫類独特の無気味さに圧倒されて、助け出そうかと
いう気持ちが一瞬頭をかすめたが、そのまま私はそこを立ち去り、母にそのことを告げた後は
敢えて思い出そうとはしなかった。
 助けるか死に至らしめるままに放置するかを迷ったのは、それが毒蛇ではないかという懸念
があったからであった。マムシの形状や色合いを聞いたり本で調べたりしたことがあるが、実
際に見た経験がないから決定的にそれがその蛇であると言い切る自信はなかった。見るという
行為も漠然と印象だけを記憶することでは、後で書物でそれを調べ比較するにも大した手助け
にはならなかった。
 その蛇は細長く黒い中に赤い斑点があった。確信はないが、とにかく後日調べた書物による
と、どうもヤマカガシらしかった。二、三日を経たある日、「まだ二匹が生きている」と母が
言ってきた。「助けようか」「毒蛇のマムシではないようだ」などと二人で思案した結果、助
け出すことに意見が一致した。田舎では、鼠など穀物を食い荒らす小動物を駆除するものとし
て、ヘビが必ずしも忌み嫌われるものではないし、なるべく不必要な殺生はしたくなかったた
めである。
 しかし、その後調べた詳しい資料には「ヤマカガシは毒を持ち攻撃的である」と記してあっ
た。その水槽の際の湿った石垣に逃がしたのだから、そしてもともと水槽に一家で入り込むの
だから、ずいぶん以前から住み着いていたに違いないことも知り、助けられたことを覚えてい
てくれればよいがと、変に恩着せがましいことを思いながら、今後草取りをする時は用心しな
ければならないと考えた。
 そして話はここで終わらず、数日後癖になってしまった覗きの結果、褐色のヘビが一匹木片
にしがみついているのが再び見えた。そして図鑑を片手にまた悩み始めたのである。今度のは
地が褐色で黒いひし形の模様が見られ、こんどこそどうもマムシではないかと思われた。しか
し前の判断の迷いと同じく、確信がもてない。母との協議で「マムシみたいだからしばらくそ
のままにしておこう」ということになり、一週間ほど経過した。
 なぜそのような深くて脱出不可能な水槽に飛び込むのか、それもたまたま間違えてドジな一
匹が入ったとも思われず、数匹の蛇が何回も飛び込むことには何かの正当な理由があるのだろ
う。隣の蛇の入っていない水槽を覗くと土色をした三?ばかりの蛙が四、五匹常時侵入してい
る。このことから推量するに、彼らはその蛙を狙って飛び込むのではないか。そして一度は入
ったらよほどの大雨で水槽から水が溢れないかぎり脱出できないにもかかわらず、上から飛び
込む蛙を待ってさえいれば、労することなく生き長らえることは可能であり、水槽の外で必死
で捕食する努力するよりも楽であるかも知れないのだ。
 私達がその水槽の中の生き物のことを忘れかけた頃、突然予想だにしない結末がやって来た。
訪問客と交わしたその話を誰かに伝えたらしく、村はずれの人が「マムシ酒にするから下さい」
といって捕獲し、貰い受けて行ったのである。私達は自ら難題を解決する手間が省けてほっと
安堵した訳だが、その一方直接害を与えられた訳でもないのだから逃がしてやってもよかった
のではないかと思い、可哀想なことをしたという思いも密かに残った。



―遊びー

 野生の動物に背中から尻にかけてパクリと齧(かじ)られた生まれて数ヶ月の子猫が引っ越
してきた家にすでにいた。生命は取り止めてはいたものの、長い尻尾は食い千切られ肛門の括
約筋も傷つけられ、糞をうまく処理できない状態であった。獣医からも、背中の深い傷よりも
むしろ排便をうまく出来るようになるかが生死のわかれめだ、とのことであった。背中の傷を
除けば真っ白で優雅な姿と鳴きき声のその猫を私達は可愛がった。病院から貰ってきた消毒剤
を塗るのだが、皮の剥けた赤みの肉を見るたびにこの子猫が生き延びれるか危ぶまれた。そう
いうことがあったためか、白猫は新参者の私にはなかなか気を許す気配がなかった。それでも
日を経るにつれ、畑に行くときは遠巻きにしてついてくるし、梅をちぎる作業が始まり、私が
梅の木の高い実をとっていると納屋の屋根の同じ高さに駆け登ってきたりして、付かず離れず
遊ぶようになっていた。なかなか抱かれるのは嫌がったが、朝夕の餌をねだる時は、足に擦り
寄ってくるようになってきた。
 部屋には上げず土間で寝起きさせていたのだが、筋肉の感覚をまだ取り戻せなくて糞を所か
まわず出してしまうので、母が怒って戸締りする夜は外に出すようになった。よく出窓に上が
って部屋に入りたそうにするので、母が寝室にこもった後時々私はこっそり部屋に入れた。望
みが叶った喜びに興奮したのだろうか、テーブルクロスや椅子の陰にかくれたり、走り回った
りして遊ぶのだった。
 朝土間の戸を開けると何所からともなく飛びこんできて餌をねだり、また家の外に出ていっ
てしばらくは姿を見せない。昼間そこを覗くと椅子に寝そべっていたり、母が収穫した小豆や
胡麻の入っている竹籠の中に眠っていたりして、母から怒られ追い出されたりしていた。夜よ
く浴室の窓の外にある洗濯機の上で寝ているのを入浴する時見かけたが、そこにいない日はど
こで寝ているのだろうか。
 休みの日曜などに家にいて観察してみると、餌を食べる以外はほとんど外で過ごしているよ
うで、西側の洗面室から格子窓ごしに白がみえた。蝶々やトンボや蛙をを狙って草むらの中に
身を伏せている姿で、それらの小さな生物が近づくと飛びあがって捕獲しようと試みていた。
 日を経ているうちに、白の行動パッターンがだいたい分かるようになった。括約筋も少しづ
つ感覚が戻り、意志どおり糞を処理できるようになると、朝食を済ますと坂を下りていって屋
敷の前の隣の人の畑に糞をし、しばらくその畑を一巡りしながら遊んでいる。私達が事務所に
出勤する時はいつも花畑の入口の箒草の蔭で私を待っているし、帰って来た時もどこからとも
なく近寄って来てその箒草の所で出迎えてくれる。私達が郷里にいる間中この白猫は一日中前
の畑や西の草むらや屋敷の裏の段々畑で一心不乱によくひとりで遊んだ。それは待遇や身の不
遇を嘆きもせず見事に生きている姿だった。私達夫婦はしっくりいかない人間関係の中で、こ
の白猫からのみ慰めと安らぎを与えてもらったように思う。背中の赤剥けの皮膚もすっかり真
白い毛にふさふさと覆われ、秋まで持たないのではと思われた華奢な体も豊かに肥えて、近所
の飼い猫や野良猫の間でも際立った優雅さの「白猫」と成長した。そして母に「もう外もだん
だん冷え込んでくるからこの猫を夜だけは土間にいれてやってくれ」と頼んで私はこの故郷を
あとにした。



―ある友人への手紙―

 拝啓 ついに二十一世紀の夜明けを迎えました。個人的には還暦と歴史的には百年のみなら
ず千年単位の新しい物事の始まりという実に記念すべき時の重なりは、私にとって幸運な星の
巡り合わせとしか言いようがなく、変化の多い近年の中でも今年は記憶すべき年になりそうで
す。小さい頃はこの世界を覗くことすら及ばないような遥かな遠い未来でしたが、現実になっ
てみて「よくぞここまで来たものだ」という感慨が沸いてきます。そしてもうそろそろこの十
年の不遇を逆転させてくれる幸運の女神に会えるような気もします。たとえそうでなくても、
若くしてこの世を去って逝った友人や、親類、親しかった人達のことを思うと、この歳まで生
き長らえて来た己の人生は満足すべきものであり、充分帳尻があっているなどと考えたりして、
自分なりに納得しています。

 さて、貴君に出した最後の便りはいつの頃だったか、手帳を調べてみて昨年八月以来の随分
の無沙汰を決め込んでいた自分にあきれました。いくら環境に馴染まず落ち着かない悶々とし
た日々を過ごしていたからとは言え、許されざることと反省しています。それでも過ぎ去った
それらの長い月日の間中頭の奥の暗がりには足の裏に刺さった刺のように、たとえ見えなくて
も折に触れて気になる痛みを発し、良心の呵責を覚えさせていたことは事実です。
 その便りの途絶えた間にも私の身の周りには色々の変化がありました。むしろ変化があった
からこそそのような雑事や煩悩に時を奪われて、便りを出すエネルギーが枯渇したと言えるで
しょう。

 ご存知のとおり去年の五月上旬に郷里の母の里、杵島山の麓の町に戻りました。そして、私
の少年の頃育った土地、現在兄が経営する四十六室を持つ三階建学生マンションの一室に設計
事務所を構え、山里から三十?の道程を車で四十分駆けて妻と共にそこへ通いました。母の面
倒をけなげにみるといってくれたものの、彼女に今まで経験したことのない閉鎖的で因習のい
まだに残る荒々しい環境に一人残して来るのが可哀想であったからです。
 そして私は毎日、友人や親戚の紹介や口利きのもとに建設関係や設計事務所、役所などに営
業に出かけ、例年になく記録的な猛暑の中六ケ月余り自分なりに頑張りました。努力がまだま
だ足りないとか才能がないとか、人から見ればその原因は本人より明かに解明できるかもしれ
ません。また他の人であれば成功を手中に収めることができる状況があったのかも知れません。
しかしその結果は一つも実らず、期待は敗れ去り、終に私は「この時、この地では身を立てる
ことは難しい」と判断せざるを得なかったのでした。時が悪いのか、場所が悪いのか、能力が
欠けているのか、多分三つとも当たっているのでしょう。
そのような状況を打開すべくいろいろの方法を思案している丁度その時、都会の知り合いから
仕事の依頼がありました。継続性のある受注が望めるかどうかを確認しに十月中旬出かけた結
果、経済上考えていたよりもひどい冷え込みのこの地方より大都市の方が活路を見出せると思
い、戻る決心をしました。そして半年前に盛大な送別会をしてもらって出てきたこの大都会へ
再びやって来た次第です。

 そしていま考えるに、郷里に移り住むということに対して抱いていた、親兄弟そして私達の
それぞれの間の「思惑」に、微妙な違いが存在していたことが、徐々に明らかになりました。
 第一は 兄夫婦がなぜ私達の帰郷を強く望んだか?
       昨年の春突然電話があり、「亡くなった父がこの屋敷や山を住宅地として開発
      することを望んでいる。また学生マンションも計画道路実施による建て替えもす
      ぐに発生するから、都会で苦労するより見切りをつけて早く帰って来るように。
      そしてそちらの住居を引き払うなら住まいに困るだろうから母と同居すればよ
      い」とのことでした。
      数年前から東京での仕事がうまく見つからない理由を常々報告していたからかも
      知れないし、又親兄弟の情で少しでも面倒を見なければという義務観念上のこと
      だったかもしれません。母、兄夫婦、そして彼等が日頃の色々な悩み事を相談し
      ている女性の占い師が同席しての結論だったようです。
      しかし、亡き父の声を聞き取る力を持っていると言われるその女性のような者を
      信じる環境が私の周りに今でもあることに驚くとともに、根拠もない他人の意見
      で自分の行動が左右されるような生きかたが私達に押し付けられることを私は恐
      れました。書物や人の考えや生き方を学び悩み抜き、己の力で解明する努力こそ
      がものごとの真実に近づく道であり、他力ではなく自力本願の生き方を目指す私
      達とそれとは真っ向から対立するものでした。恨みや不満や不浄のごとき人間の
      煩悩に倦み疲れた人達に取り入るり、さも本当の原因を見つけたと称して実はそ
      れ等を捏造し、祓い清めることを生業とする人達に違いありません。元来自分で
      物事を解決しようと努力する人にはこの手の商売は成り立たず、人の心の弱さに
      付け入りその隙間でしか生れないものだと思います。そしてそのような不幸にな
      る因果を見つけだす占師と、不浄を清める祈祷師が対になり、役割分担し心弱い
      迷える子羊を救っているのです。その程度で心の重荷を下ろすことの出来る人達
      もいることは事実であり、またそのような人が却って自然体に近く楽な生き方を
      しているのではないかと思う時もありますが・・・。
      今まで母が元気であるという一事で別居して済ませていた兄夫婦は、母のもとか
      ら県庁所在地の店まで私達がしたように毎日通えない訳はなく、それにも拘わら
      ず八十四歳という高齢者を一人山里に住まわせる、このことに多少の後ろめたさ
      があったはずです。私達は自分達のことを決してそうとは考えないのですが、都
      落ちした私達のために住まいを提供し母の面倒を見させ、山や畑や屋敷を管理さ
      せることは兄夫婦にとっては願ってもない一石三鳥の効果を期待できたのではな
      いか。私達を熱心に呼び寄せたその真意ははたしてなんであったか、私達には判
      りません。

 第二は 母が私達に望んだものはなにか?
未だ元気な母は毎日裏の千坪の畑に折々の作物を作り、二十羽の鶏を飼い、お
花や習字や踊りの稽古で忙しく、近所の訪問者も沢山でさびしい思いはしていま
せん。だから私達が同居することは、自分で作るのが面倒になった食事や苦手な
家の中の管理を代わってしてくれることは嬉しいのだが、一方愛想のない気難し
い息子達が近所の人達との楽しい付き合いに水をさすのではないかという不安と
不満を感じているようなのです。
また、親の面倒も見ず自分の意志で家を出て行き、突然帰ってきては田畑を守る
苦労をしている後継ぎから財産の分け前を要求するという、田舎ではよく耳にす
る話で、昔で言えば戯けも野「田分け者」といって蛇蠍のごとく嫌われたもので
す。長子制度の時代に育った高齢の母はそのような話を私達に当てはめているの
ではないかとも思えました。

 第三は 私達が郷里に望んだものはなにか
 私達が郷里に帰ろうと決心した理由はいくつかありました。
まずバブル崩壊に伴い収入が落ち込んだこと。子供の学費を作るため住んでいる
マンションを処分しなければならなかったこと。借家でそのまま頑張る手もなく
はなかったが、約二年毎に転居して来た私にとって、二十年の同じ場所の都会生
活にいささか飽きてきたこと。 『夢と現の狭間で』に書いたごとく、それまで
の二十六回の転居が示すようにその性癖は既に現れていました。
これは、途中の努力や忍耐を跳び越えて未知なる物や場所に憧憬を抱く分裂症的
私の性格であると言えます。そして計画通り郷里でうまくいくとは限らないと考
えたものの、現状からの脱出の期待と何か飛躍できそうな気分になったのです。
そこに地道な調査と検証があった訳ではなく、兄の示した宅地開発と学生マンシ
ョンの建て替えという仕事に託しました。その後裏山の宅地開発については母が
「そんな話は兄から聞いていないし売りもしない」といい、「離れ家」云々につ
いても承知していず、学生マンションの建替え計画に至っては、私達が帰って間
もない頃「補償金を貰っても建物を建てずに現金で持っていた方がよい」と兄は
言ったこと。縦今すぐ仕事があろうと無なかろうと一年くらいは無収入でも頑張
ってみようと思っていたのに、頼りにしていた事への目論見を一つ一つ潰された
という思いで、夢破れた訳です。

 しかし、 去年春以来かくの如き冴えない結末であった当の本人は、周りの人達から見ると
「さぞ悲痛な面持ちで見るに耐えなく落ち込んでいる」と心配されるかもしれませんが、さほ
どのことはなくむしろ自我を押し込めたり、偽りの関係を強制される窮屈な環境から脱出でき
ることが嬉しいのです。たとえ貧しくても、意思と感性と行動が自由に発揮できる状況が私達
には必要でした。

 三十数年という空白はたとえ親兄弟といえども簡単に感覚の違いや生き方を埋めるというこ
とは難しく、郷里だからすべてを受け入れてくれることはないことを実感しました。私達はあ
まりにも自己意識の強い都会生活に馴染んだせいか、親類縁者のもとの生活はかえって窮屈で
むしろ他人の中での暮らしが望ましいと悟りました。先の水槽の中の蛇達のように、ある種類
の不自由さを我慢し耐え忍べば安穏で平和な生活が保証されるかも知れません。だからこちら
の人達は郷里を捨てるほど激しく自由を渇望する私達のこの思いを決して理解できないだろう
と思いました。私達は、ことある毎に微妙な行き方の違いの中で、親子兄弟がこれ以上抜き差
しならない関係に陥り憎しみ合うようになる前に離れるべきだと考え、見事につらい傷を負い
ながらなにものにも捕らわれず自由に遊び楽しむ、あの「白猫」のように生きたいと思います。
 そして河口湖のほとり富士山を望みながらデッキで朝食をとることを夢みて、いつの日か終
の棲家を実現するために建築家の間借人生を卒業すべく努力したいと思います。
                                       敬具



エピローグ


 私には「この家に反逆をする者としての卦が出ていると」数十年前件の占い師が家族に告げ
たことを思い出した。そのご宣託だけは見事に当ったようで、突然やって来て静かに暮らす田
舎の人達の中に別の価値観を持ち込もうと試みたのである。辻褄の合わないことに反論し、自
分の趣味や生きかたを押し付けたことは、長い時を経て培われたこの土地の慣習に対してとう
ろう蟷螂の斧を振りかざしたに過ぎないことを私は悟らざるをえなかった。
「お前が帰って来ることを望んでいる」というその言葉を信じ郷里に戻って来たのだが、亡き
父の声はついに私には聞こえてこなかった。そして当時死の床に間に合わなかった私は葬儀の
あと見つからなかった父の遺書を郷里に戻って時真剣に探したものだった。あれほど生前その
必要性を説いてきちんと〔けじめ〕をつけていた父が自らのものを残さなかったとはとうてい
考えられず、私には今でもそれに納得がいかないのである。遺産などという現実的な問題では
なく、父が私をどう捉えていたか、私に対する最期のメッセージは何であったかを私は聞きた
かったのである。もはや亡くなって五年経つがその当時はさほどでもなかったものの、「都市
と田舎の狭間」で揺れた今、出来るのであればもう一度父に会いたいという感情が切ないほど
強くなった。

   

6号 2001年8月

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