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14α編集部:2014/02/28(金) 20:01:10
光と影の狭間で
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              光と翳の狭間で 




 最近、谷崎潤一郎著の「陰翳礼賛」についてよく耳にしたり、記事に接するようになっ
た。これはどういう現象であろうか。かつて私何が建築学科学生だった頃、専門書以外の
分野の中からその記述を見つけて、思わず日本建築の持つ特性を的確に言い表していると
感心したものである。
 昭和八年に書かれた著書の中に、純日本風の家屋とガスストーブや電灯や扇風機などの
科学文明の恩沢とがしっくりと調和することがない。
 また、建具等趣味から云えばガラスを嵌(は)めたくないけれど、そうかと云って、徹
底的に紙ばかりを使うとすれば、採光や戸締まりの点で差し支えが起きる。よんどころな
く内側を紙貼りにして、外側をガラス張りにする。そうするためには表と裏と桟(さん)
を二重にする必要がある。さてそんなにまでしてみても、外から見ればただのガラス戸で
あり、内から見れば紙のうしろにガラスがあるので、やはり本当の紙障子のようなふっく
らとした柔らかみがなく、イヤ味なものになりがちである…。と既に六十年も前に、古来
の住まいと日進月歩する新しい建材や調度品と調和をさせることの難しさを嘆いているの
である。
 また、西洋と違って、我々の国の建築は庇(ひさし)が作り出す深い広い蔭の中へ全体
の構造を取り込んでしまっている。宮殿でも庶民の住宅でも、外から見て最も目立つもの
は、その庇の下にただよう濃い闇である。日本家屋の屋根の庇が長いのは気候風土や、建
築材料や、その他いろいろの関係があるのであろう…。と云っている。

 現代ではずいぶん数少なくなった数寄屋作りの家も、戦前の頃までは庇の深い和風の家
が多く、障子越しの柔らかい光を室内に採り入れた住まいであった。
 その外と内を結ぶ、外でもない内でもないあいまいな翳の空間が、戦後アメリカの文化
の影響と新しい建材や工法の出現で、なくなりつつあるのが残念である。
 和室が洋間にとって変わられて障子がガラスの窓になり、あくまでも明るく、あくまで
も快適にと目指すことで、外と内の中間の薄暗い空間が作り出す柔らかい光と翳の微妙な
趣をなくしてしまった。
 また、伝統的な家屋は古来その土地の材料を使い、その土地の気候に合った工法を編み
出し、時代を経ながら作りあげられたものであった。ところが、文明の発達で自然の過酷
な条件さえも技術の力で克復出来るようにになり、ラスベガスのように人も住めない砂漠
の中に電気や水を施し灼熱の乾燥した自然を、冷暖房による快適な空間と交通による便利
さを整えたことにより、近代的な享楽の都市を造ってしまった。
 近代建築はまた限りなく明るさと機能と効率を追求し、高層のビルは軽量化による材料
の省力化、工期短縮を求め、あくまでも透明で明るく軽快に、科学の最先端を表現するた
めガラスや鉄やアルミの素材をふんだんに使用した。
 その反面あまりの科学信奉による危うさが心配されるのである。オフィスビルばかりで
なく豪華な住宅においてもその傾向があらわれ、ある富豪の住居においては、大きな居間
の南面を開閉できないガラスのはめ殺し窓とし、明るさを最大限に採り入れる設計であっ
た。しかし、真夏の昼下がり、凍てつく冬の夜、電気や機械の故障で冷暖房がストップし
た場合はまさに焦熱地獄や極寒の地と化し、余所へ逃げ出さねばならぬであろう。
 そのような思想のもとに自然を征服し屈服させて成り立っている物のいくつかは、エネ
ルギー資源の枯渇やランニングコストの高騰で稼働できず、無用の長物に陥る運命が待っ
ているかも知れず、再びその風土にあった工法と材料による住まいが息を吹き返すかもし
れない。

 光と翳における微妙な関係の中で、女性が美しく、奥ゆかしく、いわくありげで魅力的
に見える場の条件として、「夜目、遠目、傘の内」と昔から俗にいわれている。「夜目」
とは夜の幽かな光をとおしてみえる姿で、周りの闇のなかに浮かぶ女性の見えない部分を、
観察者の頭の中の美人の理想像で補って見るからであろうし、またそうであれかしと無意
識のうちに望んでいるからであろう。「遠目」や「傘の内」もまた然り、ぼんやりとした
姿、隠れた部分を想像させる間(ま)、全体の見えないもどかしさなどの相乗効果の結果
であろう。
 物事があまりにも見え過ぎてもいけないし、見えな過ぎてもいけない。即ち些細な欠点
や必要ないものまで見えることは、その本質にとって大した失点でなくても価値を損ない
興を殺ぐということではあるまいか。
 老人になったら耳が遠くなったり、目が近くなったりすることは自然の理で、そのこと
は大きな観点からすれば、余計な物を見たり聞いたりすることを意識的或いは無意識に避
けることで、世間の煩わしさから逃れる術を会得しているのではなかろうか。またそれは、
心の平安を保つ極意なのかもしれない。

 「陰翳礼賛」の著者は翳の文化は日本独特のものであると云っているようだが、必ずし
も日本人だけがその微妙な感覚をもっているとはいえないのではないだろうか。
 ノートルダム寺院の中は、はるか上部の小さな薔薇窓による幽かな光だけで、ほとんど
顔も見えないほど暗いのである。これは東大寺の大仏殿やその他の大伽藍と同じく、救い
を求める人々の精神的な環境と空間を創り出していて、洋の東西に関係なく、形や表現は
違えど「光と翳」の文化は存在すると思われる。
 アメリカ文化の代表的なものとして、ファースト・フードやコンビニエンス・ストアの派
手な看板と無機質で明るい店舗を思いうかべるが、必ずしもそれだけでもないと云える。
 郊外の住宅地では、家の中心を占める六畳ほどと思える広い玄関ポーチで、ほとんど物
も見えないくらいの夕闇が迫っている中で、電灯も点けずじっと椅子に腰掛けて時を過ご
す老人をよく見かけたものである。
 また高級レストランにおいても、テーブルの蝋燭だけの微光のなかで、手探りで食事を
する、それこそ「夜目」、「遠目」、「傘の内」の効果を充分に心得た演出を楽しむ人た
ちがいることは確かである。
 またTVのニュースのスタジオに目を移すと、照明過度の、バックもガラクタと思える
ほど小間物や花をいっぱいのうすっぺらなセットの中で、これまた陰影なしのキャスター
の姿を曝す日本のTVと、それに対する、バックを単純で暗く押さえた控えめなセットと
落ち着いた光と翳のバランスのよいアメリカのニュースショーとの対比は興味深いもので
ある。
 天井燈のみで部屋に陰翳をつくらない日本の住まいと、点灯するのにいちいちそこまで
いかねばならないという不便さはあるが、フロアースタンドやテーブルランプで光と翳の
バランスを考えた西洋の部屋もまた然りである。これらの事実を比べてみると、現代では
日本の住まいがもっていた陰翳がむしろ西洋の生活の中にあり、我々の国ではもはや疎か
にされているのではなかろうかという思いに至るのである。

 光と翳は一体のもので、光のあるところ影が在り、物の距離や大きさや深さや形状を認
識するにも光の部分と影の部分がなければそれも不可能である。この世は光だけでも、ま
た闇ばかりでも成り立たない。
 「物の一番明るい隣が最も暗い場所である」と昔美術のデッサンの時間に教わった記憶
があるが、人の心もまたそのようなものであろう。幸せを感じているかと思えば次の瞬間、
不安に怯えている。光と翳であやなす心の襞をうきだたせ、見えない襞の奥に人生の苦し
みや悲しみ喜びの記憶が潜んでいる。全てが見えなくていい、人には見えぬぼんやりとし
た翳りの部分があったほうがいい。
 情報の洪水に溺れそうな今、私は光と翳の狭間で「陰翳礼賛」の心が再び戻ってくる日
を予感する。

   


3号 1998年




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