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α編集部
:2014/02/28(金) 05:05:36
モダンとポストもモダンの狭間で
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モダンとポストモダンの狭間で
私が建築設計の職業を選んだのは自分の将来に確信があった訳では決してない。小・中
学時代から運動よりも絵や工作が好きだったので、何かの時に先生からその職業を示唆さ
れたような覚えがあった。しかし、機械を扱う家業だったせいか、いずれは学校を卒業し
て「親元で働くのかな」と何となく考えていたとみえて、最初の選択は機械工学科を受験
したものだ。ところが今ではロボットや車などの最新テクノロジーを駆使して「価値ある
ものを創る」というわくわくするような喜びも理解出来るのだが、その時は無機質の機械
相手より人間の喜怒哀楽にちかい面白そうな職業と思われたのか、浪人した一年間で誰に
も相談することもなくころりとその志望学科を建築にかえてしまったのである。その後道
楽に近いこの仕事を毎日退屈せず続けている訳だが、いまだもってそのころのいい加減さ
は続いていて、モダンとポストモダンといったパラダイムの狭間で、あっち岸にぶつかり
こっち岸を目指したりと、絶え間なく迷い漂っている。
*
さて、古代から近代にいたる建築の変化を解き明かしたS・ギーディオン著の「時間・
空間・建築」という有名な建築入門書から始まって、モダン・ポストモダンにいたる建築
のコンセプトの変遷、さらにそれに基づくさまざまな表現手段が現れ時代時代を風靡した
ことを学んだ。例えば瘤のように表面に凸凹をつける「瘤派」とか、壁の配置や構成で変
化を付ける「壁派」とか、なかには、ある意味では人の金を拝借して設計者の道楽だけを
満足させ、住む人の自由気ままな生活を阻むほど完成度の高い、まるで名人芸の手工芸品
なみの建築とか、その反面夏目漱石のいう「露悪趣味」的表現の「壊れたような、或いは
未完成の出来の悪い形態や色彩」などで自己表現した建物で「これから後は住む人が完成
してください」と云わんばかりのものなど実に多彩である。不思議なことだが、日本画的
で繊細な芸術品風は関東に、油絵的情念とエネルギーを感じさせる建物は関西に多いよう
に私には思われるのだが、その表現手法はその地域で育まれた文化の違いであろうか。
*
そもそもモダニズムとは産業革命による高品質の大量生産を限りなく目指すもので、そ
の際、H・グリーノウの「美は機能の約束である」とか、L・H・サリヴァンの「形態は
機能に従う」という言葉が、この思想のが基となり近代建築運動において支配的な思潮と
なったのだが、機械文明を信奉するあまりA・ロースのいう無装飾主義に陥てしまった。
そしてポストモダンはその反省のもとに、ルイス・マンフォードのいうモダニズムの
巨大技術の反人間的性格、環境破壊や生活の質の悪化の問題を含む機能重視の大量生産の
産物である無機質的・没個性的な表現に反対し、もっと人間的なものをとりもどそうとし
て、機能とはあまり関係がない装飾や空間をとりもどすことで、大量生産による均質化と
は相反する差異化をめざしたものである。
しかし美や機能にすぐれている建物ものがどんなものかはモダンであれポストモダンで
あれ手法の問題だけではそう単純に割り切って語れない。そしてまた昨今のポストモダニ
ズム建築の過剰な装飾や意味のない空間が疑問視され始めると、徐々にではあるが再び機
能主義時代のシンプルで幾何学的な作品が再考される動きが出始めているのである。
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*
私は長い間、建築や都市の構成や美といった問題にかかわってきたのだが、近年身の回
りを見渡して見るにつけ住まいや都市景観、そしてその中での住み方にたいする個人個人
の意識のレベルが西洋との間になお格差があることを痛感する。
衣・食・住が豊かに暮らすための生活の基本であるのは間違いない。 しかし今の日本
では衣・食においては世界の中でも中流以上と考えてもよいと思うが、住にいたっては、
広さや質や美意識において非常に劣っていると考える。
だからそれらの問題への関心と美意識の向上が望まれるのだが、 残念ながら今の私は
「百年河清を待つ」心境である。
*
住まいについて
辞書によれば住まいの定義は人が住んだり、仕事をしたり、また、動物や物をおさめた
りするために、木材、金属、石材などでつくったもの、建造物、建築物とあり、英語では
a(family) house, a residence, a homeとある。
日本の建築基準法による建築物の定義では、壁または柱、及び屋根で構成された構造物
とあるり、仕事をしたり動物や物をおさめたり工場や事務所や倉庫などのあらゆる構造物
を含んでいるので、住居という用語はあるが住まいという特別の定義はない。それ故住ま
いとは「人が生活する建物」とするのが妥当であろうから、寺院やアリーナや国会議事堂
は建物でもあっても住まいとは言わないのである。
むしろ英語の定義の方がより象徴的にその機能を率直に表しているようである。人が外
での生産的な仕事を終えた後、住まいに帰り、団欒し、身体を休め、次の日の労働に備え
るためのエネルギーを蓄える場所と私は解釈する。すなわち外は生産の場所、家は消費の
場所となる。
そう思うと、物品販売やサービス業などの土地の立地条件で売り上げが決まるのであれ
ば、生産にかかわる土地の値段は高価でもよいが、消費の場である住まいのための土地が
一坪数百万円もするという現状、そして多くの人たちが競ってそれに大金を投じるという
世相が信じられないことである。
*
建築の芸術性について
そもそも芸術とはなにか?
辞書には「鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術」とあるが、いつもながらこ
の手の注釈は抽象的すぎてなにをさすやら判然としない。もっとも飯の種にもならない心
の奥深くの衝動にかかわるものだから哲学的な領分の難しい定義が必要なのであろう。
とにかく隔靴掻痒(かっかそうよう)の感があるが、早い話が絵や文学や演劇のことを指
すのである。
そして、いろいろの分類方法があるが、あらゆる芸術をあるファクターで分類すると次
の3の種類に分けられる。
1.【時間芸術】
その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術の総
称。すなわち、音楽、文芸など。
2.【空間芸術】
芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられて、
人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なものに建築、
彫刻が含まれる。
3.【総合芸術】
建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調和し
た形式で表出される芸術。
なるほど建築は芸術の栄誉を与えられているが、はたして現在の我々の「ウサギ小屋」
には芸術性がみとめられるのかどうか疑わしく、むしろキッチュで猥雑で芸術という言葉
をあてはめて揶揄するのが落ちであろう。もっとも小説や絵や演劇がすべて芸術性が高い
ものばかりとはかぎらず、近年は酷い作品で大衆の興味次第では世を風靡するものが多く
なった。名もない、金もかけない、小さなものでも考え方や住まい方実に心豊かになる住
まいもあるというのに。
*
戦前と戦後の違い
すべて昔がよかったと老人じみた懐古趣味に凝り固まっているわけではないが、谷崎潤
一郎の「陰翳礼賛」にあるように、住まいにおいては奥ゆかしさや快適さや健康的な環境
は、やはり昔のほうがまさっているとわたしは考える。これは日本の風土のなかで永い年
月を経て作り出された住まいの形であるからであろう。
戦後といっても終戦直後の十年くらいはまだ戦前の窮乏を引きずっていて以前とたいし
た違いはないのだが、昭和三十年を過ぎたころから高度成長期に入り住まいを構成する材
料や工法そして住まいにたいする考え方も一変した。いわゆるモダニズム全盛期である。
それより以前の住まいは木、竹、葦、土、藁、紙、瓦などの天然素材が主で自然のサイ
クルに組み込まれていて最期は無害な土にかえって行き、次の世代の植物の栄養となって
再びよみがえるのである。
それに反し、現代の住まいは、コンクリートと鉄と塩化ビニールやプラスチックなどの
化学製品が主で、不要になって捨てられても分解されて自然に戻るということはない。
化学製品は鮮やかで美しいものと感じられるが、創られた最初が最高の輝きを表し、時
を経るにしたがって衰えて行くのは、天然素材の使い馴染むほど味が出てくるのと対象的
である。それ以上に問題なのは、シックハウス症候群などの原因になるトルエン、キシレ
ン、ベンゼン、ホルムアルデヒドなどが含まれる防腐剤、塗料溶剤、接着剤、木材保存剤、
防蟻剤などが多く使われていることである。
しかし、自然の素材で出来た住まいがすべて優れているとばかりはいえない。耐久性に
欠けていていたり、怠ることなく常に手を入れて管理しなければならないものが多く、火
事に弱いことなどがあり、それぞれの工法、材料には一長一短があるのだが、人に優しい
そのような天然素材で創ることが現在は残念ながら庶民の手の届かない高価な、金持ちの
道楽でしか建てられなくなった感がある。
しかし最近は、高度成長期のモダニズム的大量生産、大量消費の時代は曲がり角に来て
いて、今までのように欲望をかき立てて新しい物を追いかけるのではなく、以前のように
もっと身近な物をじっくり大切に慈しむ時代にもどりつつあるような気がする。
*
景観について
現代でも犬の糞の臭いを除けばヨーロッパの町並の美しさに感嘆するのは私ばかりでは
ないと思う。
例えばパリなどの大都市やローテンブルク・ハイデルベルクなどといった都市国家のな
ごりの小さな街にいたるまで、特別緑が多いといえるものではないが、なんとなく整然と
していて心地よく、現代の日本の町並みよりすっきりしているように感じられるのはなに
ゆえか?緑や公園や広い道路がなくても、たとえ古くなって色がくすぶっていても美しく
感じるのはなぜか?
緑や公園の数にいたっては日本もそれらの都市に決して劣っているわけではない。むし
ろ塀で囲われた坪庭などの緑を勘定にいれるとすればむしろ日本のほうが多いのではない
かと思われる。しかしそれにもかかわらず現代の日本の都市や街はまったく美しく感ぜら
れないのは私だけだろうか。
じつは日本の町々も戦前まではしっとりとした情緒を感じさせる町並みを保っていたの
である。また今でも京都や金沢などを代表する、昔ながらの伝統を守っている都市におい
てはその景観をかろうじて残しているところもあるが、日本のほとんどの町がそのよさを
すでに失いつつあるのが惜しいことである。
都市の美しい景観を構成するおおよそ次の要素が考えられる。
1.色彩:壁や屋根を構成する材料の質感と色彩
2.形態:建物や道路やランドスケープの構成する形及び空間
3.文化:そこを利用する人たちの住まい方
1. 色彩について
歴史のある町の建物を構成する建材は石やれんがや土カベ、瓦、スレートなどであるが、
その都市その地方によって特徴のあるものが使われている。そしてそれぞれの街々の建物
はほとんどそれらの同じ材料で出来上がっている。たとえばシエナやブレシヤやその他の
イタリアの都市のようにサンド色の石の壁と赤い瓦で葺かれた屋根が町の景観を構成する
色となっている。また一方フランスの都市コルマールやドイツのクヴュトリンブルグは木
造の梁と柱と漆喰壁で構成されていて、それぞれの街の個性あるイメージつくっている。
またそれらの建材は、現代の必要以上に精緻に規格化された建材のもつ冷たさや、表面
的で表情のなさに反し、焼き過ぎレンガや石や瓦の色の違いによるグラデーションによる
変化や、規格の不統一による型の面白さに深みと趣を感じるのである。
かたや、現代の日本の色とテクスチャーの氾濫による猥雑さはどうであろうか。屋根や
壁の色や材料は好き勝手に、袖看板、広告塔はあくまでもけばけばしく、自由の国である
から何を表現してもよいとばかりに我がもの顔にのさばり、あらゆる欲望を肥大化させる
都市としてのエネルギーはあるけれど、成熟した大人の文化を享受するにはまだ未熟であ
る。
最近、石原慎太郎都知事の音頭で「都市景観」について考えることを提案された。これ
はほど良くセーブされた色彩によって彩られた都市の洗練された景観を求めたもので、歴
史ある世界のすばらしい景観をもつ都市の美しさを念頭に置いたものであるとみる。
なお、我が国においても江戸時代の街並みは銀色の屋根と白い漆喰や板壁などのモノト
ーンの色で成り立ち、緑の大木に囲まれていて、生ゴミや紙くずや木片や糞尿にいたるま
で、ものの見事にリサイクルのシステムを完成した、塵ひとつない清潔で美しい街であっ
たことを忘れてはならない。
2. 形態について
建物の形を決めるものには構造的な要因とその建物の所在する自然の要因が大きく作用
するものである。
石造りの家は構造的に横に広い開口部は不利であるから、いきおい巾を狭くした窓で構
成されていて外部からみると壁面のしめる面積が広く重厚な外観となる。しかし防寒にす
ぐれているが、外部の明かりを奥深く取り入れるには十分とはいえない。
木造の家は梁と柱からなり、構造体から壁面は解放されていてどこにでも窓や出入り口
を設けることが出来る。日本の木造建築のように四方を開口とすることも可能で、瀟洒で
優雅な外観となる。しかしその一方冬の寒さや火事にたいして弱点をもっている。
雪の多い地方は傾斜のきつい屋根となり、そうでない地方では緩やかな屋根となる。
このように一地方の自然とそこで産する建材がほとんどの建物の形態を決めてきた。
和辻哲郎の著書「風土」の論のように、文明はそれを取り巻く自然に左右されて決まる
と論じられてきたが、現代では自然の厳しさも技術的な面で克服出来るようになった。
人も住めないアリゾナの不毛の土地に、水や電気を作り出し冷暖房から昼夜を問わず真
昼のごとき照明で一大歓楽街を築いたラスベガスはその顕著な例である。これは世界中に
それぞれ独自の文明をもつ国々をポリティカル・パワーで圧倒するアメリカの傲慢な行為
と同じに見える。しかしそのようなに力ずくで自然を屈服させても、一度事故やエネルギ
ーの枯渇に至るとすれば、自然の驚異に晒されて人間の住めない都市に変貌する危険を常
に孕んでいる。
このように立地する場所の自然に影響されることなく建築の工法や設備が可能になった
おかげで、都市の景観があらゆる工法、あらゆるテクスチャー、あらゆる色彩の氾濫を招
き、まるでパンドラの箱をひっくり返したみたいな様相を呈する結果となった。特に我が
国の大都市の周辺はそれが顕著であり、落ち着いたまとまりのある景観がなくなってしま
い、馬籠宿や奈良井宿や白川郷といった地方地方の特色をもった町並の存はもはや風前の
灯火である。
3.住まい方について
都市の景観の美しいさまは今まで述べてきたように、統一された色と形状が重要な要素
だが、それだけでは十分ではない。ヨーロッパ及び日本のある一部の美しい街に共通する
ものは、実に単純なことである。それは公共の空間に私物を置かない、平気でそういうと
ころ物を捨てないことである。
醜悪で猥雑な街を観察して見れば、紙屑、ゴミ袋、食堂や飲み屋の置き看板、放置自転
車、トロ箱の植栽などが我がもの顔に置かれていて、美観を損なうとともに通行の妨げに
なること甚だしい。それは災害時の消防車や救急車の運行の妨げになり人命にかかわるこ
とにつながらないともかぎらない。
ヨーロッパの都市国家の狭い城壁の中ではたくさんの市民が居住しなければならず、高
層の住居と狭い道で成り立っていた。それゆ道路や広場を私物でふさぐことは犯罪行為に
等しかったに違いない。 または公共の空間にある私物はもはや私物でなく落とし物とみ
なされ、発見者の物として持ち去らされる運命であったかもしれない。
いまでは考えられないが江戸の町並みはゴミ一つなく実に清潔で整然としていた。だか
ら日本人がそうゆう美意識がはじめから持ち合わせ無かったということではなく、大量生
産・大量消費による効率や経済に重きをおくモダニズムの考え方が主流になってから失わ
れたものと考えられる。とにかくこの私物を公共の空間に放置しない住まい方を会得しな
ければ、百年たっても美しい町並みは戻ってこない。
「公共の空間の私物放置厳禁」とか「捨てた物とみなし拾ったひとのものとする・たと
え車や高価な品物でも」とかの法律を作れば解決するやもしれない。
リフォームについて
最近のテレビで盛んに住宅のリフォームをとりあげている。エステの使用前・使用後の
手法を模し、みすぼらしい・狭い・使い勝手の悪い・収納場所が無い家が改造によって、
いかにすばらしい居住空間に生まれ変わったかを得意げにうたいあげるである。
しかしこれも、冷静に見るといくつかの問題点があるようである。それは狙い通りの目
論見が果たして成功したのか、その物が本当の価値の評価に耐えられるか、報道で提示さ
れたすべてが真実を伝えているか、クライアントがその後はたして快適に暮らしていて何
の問題も感じていないのかという疑問が残り、どうしても一方的な高い評価がマスコミの
視聴率獲得競争のやらせぎりぎりの報道と見えてくる。
たとえば、工事費が果たして報告されているその金額で本当に出来るのか?実は設備工
事は別途であるとか、照明器具は計算外とか、植栽や特殊基礎や諸々の諸経費を勘定に入
れないで安さを強調していないか。
たとえば、使い勝手が非常によくなったとか見栄えが格段にシャレタ雰囲気を作り出し
ているなどと自画自賛しているが、はたしてその出来映えが真実であるか?調度品や庭園
やでゴージャスサを演出したり、本当にクライアントの生活に馴染んでいるのか。小賢し
い・見てくれだけの・小手先だけと思われる仕掛けや造作は、ただ設計者の自己満足にす
ぎないような気がする。
たとえば、改造するに用いたコンセプトがはたして快適な住空間に必要な要素か?光が
さんさんと降り注ぐ部屋がはたして常に理想的なものか。真夏の紫外線や光と翳の強烈な
コントラストによる健康上・精神上の悪影響は考えられないか。大きな吹き抜けの空間を
多用しているのを見かけるが、はたして冬場の暖房に充分答えられるのか?などの疑問が
わいたのだが、裏に隠された計算違いや失敗こそが実は私たち知りたい有益な情報なので
はあるのだが。
収納について
家財が多すぎて、或いは収納場所が少なくて部屋が片づかないと嘆いている人がたくさ
んいると聞く。だから家を建て替えるときにまず収納する部屋や天井裏や床下といった空
間をすべてそのために確保しようと特別に必死で努力する人がいる。本来は高価な土地や
家の空間であるのだから住人の快適さが先にあるべきことなのに、人間の空間を物に奪わ
れている現状である。ところが、いかに自分は工夫を凝らしそれを解決したかを誇るとい
った本末転倒の思いこみをしている人がいる。
では、家の中がすっきりと片づくということはどういうことかをまず考えてみると。
1. すぐに必要とされない物が部屋の中に見当たらないこと。
2. 足下周りに物が置いてなく動くに支障を来さないこと。
3. 絵や陶器などの飾りが多すぎないこと。
4. 家具などの高さや色や質感が程よくまとまり統一感があること。
しかし、収納場所の問題は住居の条件により自ずと制約があり、それ以上増やすことが
出来ない場合が多い。そうであれば、それを解決する次の一手は溜まりにたまった物を減
らす算段をするしかない。その家を埋め尽くし、人の住空間を圧迫する物とはなにか。
1.戦前の貧しい時代では考えられなかったのだが、高度成長を経て物の使い捨て時代が
到来してから不急不要の物まで手当たり次第購入するようになった。
2.不要になった物を抱え込み新しい物を購入しても使わない物をいつかは必要になるだ
ろうと考え処分出来ないこと。
そこで不要不急の物はなるべく買わないこと。収納している物で半年も目にしないもの
は再び使用することはまれだから思い切って処分すること。要するに考え方を一変し「シ
ンプルライフ」を目指すことである。
この年になるとあまりたくさんの食べ物も必要としないし、数多くの種類の身を飾る衣
装や宝石などその他、欲望を肥大化させるものからきっぱりオサラバし「量より質の時代」
なのだと考え直してはいかが……。
*
巨大建築について
最近の六本木ヒルズ・汐留・新宿・品川の高層ビルのごとき「ヒューマン」スケールを
遙かに超えた巨大建築群が人々にもたらす物ははたして良いことばかりか?実は高層の居
住空間が人間に与える負の部分がまだ研究され尽くされてはいないのである。例えば災害
時電気、エレベーターが止まり、水道が供給されない高層階の非難問題、生活の問題、老
人・子供がはたして階段を水や食料を階段を登り高層階まで毎日行き来出来るかどうか想
像してみて欲しい。また高層で生活する子供や老人のコミュニケーションの減退など精神
的な影響も無視出来ない。さらに、9.11の日系の建築家ミノル・ヤマサキの設計したア
メリカ国際貿易センタービルがあのような崩壊の仕方を誰が想像しただろうか。設計者自
身でさえそのような倒壊を想定しなかったであろう。そのようにまだ解析されていない構
造上のファクターがあるにも拘わらず、想定出来ない危険にかんしては安全率という係数
を加味して強度を増して処理しているに過ぎないのが現状である。
そのように我々の行動のスケールを超えた巨大建築・構造物はバベルの塔の故事のごと
く「人間の驕り」の産物と私には思えて、いつの日か人為的・自然的に猛烈な反逆に会い
そうな気がする。
*
と、まあ売れない建築士のたわごとを書き並べてみるに「田作(ごまめ)の歯ぎしり」
「引かれ者の小唄」の誹りを免れず、とても「モダンとポストモダンの狭間で」という大
層な命題は私には大きすぎ、ただただ夜空に煌めく偉大な星を仰ぎ見るような思いであり
ました。
そして最後に、モダンであれポストモダンであれ、手法は違えど、これからの世の中は
すべてにおいて「ヒューマン」に根ざしたパラダイムが基本になることと私は考えている。
9号 2004年
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