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:
α編集部
:2014/02/28(金) 02:20:58
人は死して何を残すのか
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人は死して何を残すのか
「豹死留皮、人死留名」すなわち、虎は死して皮を留め、人は死して名を残すと言った西
暦十世紀、梁の国の王彦章(おうげんしょう)の言葉があるが、はたして人は何のために
名を残そうとするのか。
生前身近に接する人達に、その人なりの会話や姿や匂いや癖などの印象を残すことはある。
しかしそれも受け手の死によってその影響は終わってしまうのである。その一方願望とし
て肉体は死んでも魂は存在し続けるという考えはあるが、神への信仰という次元の違う世
界に飛躍できない私には、俄に信じ難いことである。だからこのまま人間関係の悩みや、
生への不安、病の苦しみ、死の恐怖などに脅えながら、命の消え去るまで生きながらえる
であろうことは覚悟している。魂が未来永劫この世に存在出来ないとすれば、己がこの世
の中に確かに存在したという証を、何らかの方法で残す必要があると考えた。これは単な
る自己顕示欲による悪あがきで個人差の問題かもしれない。
シャーリー・マクレーンの著書「OUT ON A LIMB」には肉体は死んでも、それが分解され
て原子に戻りこの世に残る。決して無になることはない。悠久の年月の中でそれを植物や
動物が吸収して、再びこの世に生まれ変わると言う考えもまた理屈は通る。だから彼女は
輪廻転生を信じるとその本には書いてあるが、だからといって肉体を離れた魂がそのまま
永遠にこの世に存在するということとは違い、やはり人間は肉体の死とともに精神として
の心や魂も消滅するものと私は考える。
だからこの世を去る前にどのような方法を人間はとってきたか。先ず考えられるのは遺伝
子による方法であるが、これは子孫をつくらなければならない。しかし世代が遠くなるに
ついて、或いは他人には本人という記録は見分けられない。
ではカエサルやナポレオン一世、伊達政宗、二宮尊徳、クラーク、西郷隆盛などの銅像は
どうか。イーリアスやオデッセイ、カレワラ、古事記などの元となった口伝伝承はどうか。
これらの銅像は初めて見る人には誰だか判らないし、音声による伝達は身近な限られた時
間と人達の間しか聞くことは出来ない。だから文字としての碑文や記録がないところには、
長い年月の伝承には耐えられないだろう。
はじめに言葉があり in the beginning was word,
言葉は神とともにあり and the word was with God,
言葉は神である and the word was God
と新約聖書、ヨハネによる第一章第一節にあるように、人間だけしか理解出来ない言葉を
文字としての記録なしには、己の存在を長く人の魂に留めておくことはできないだろう。
まさに文字の記録は人々の情念と知恵へのエネルギー発生器なのだ。
動物は事象に対して本能に従って機械的に反応するだけであって、懐かしさや感動や親し
みなどの感情を長くかみしめることは出来ない。それに反して人はどんなに時代が隔てい
ても、どんな環境や条件の違いがあっても、その記録を読むことによって、感動を覚えた
り、懐かしく思ったり、身近に感じる感性と知性を持っている。
その現象は、肉体は死んでも魂は生き続けると思えることもあり、またそうあって欲しい
という願望もあるが、他の人間にその人を想起させるエネルギーはその人の魂そのもので
はない。ただ記録の受け手の側の感性にあるのである。
さて表題に「人は死して何を残すのか」などという我ながら恐ろしい命題を掲げたが、私
の今までの生き様は実に平凡で記録に残すような足跡は、思想的にも政治的にも文学的に
も、精巧な虫眼鏡で探してもまったく見当たらない。しかし私という生き物はこの世に一
回切り、しかも誰にも代わることの出来ない唯一の存在であることには間違いない。それ
故、あるかないか判らないあの世への存在を夢見るよりも、この世に確かになにがしとし
てこのような生き物が生きたという証が望まれるのである。
それをいま実現するために、実に自己満足的ではあるが、己の思想や感情を文字としてせ
っせと記録することしかないのである。たとえその記録が「折たく柴の記」のごとく薪ス
トーブを燃やす粗朶の焚きつけとなり消えてなくなろうとも・・・。
15号 2012年年4月
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