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10α編集部:2014/02/28(金) 03:03:17
パラノイアとスキゾフレニアの狭間で
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        パラノイアとスキゾフレニアの狭間で 
           ???????? (偏 執 分 裂)




 「狭間シリーズ」も十回近くまで続けるとなるとやはり根も種も尽きそうになる。
いきおい難しそうな表題をつけて人の目をくらませる魂胆だが、内容はそれほどあ
るわけでなく、専門用語や日頃使わないような曰くありげな言葉を羅列することで、
多少の有り難味が増すのではと期待するものである。
 それはまるで京料理のようなもので、筍とか大根や豆腐といったそこいらの安い
食材を使い、 あたかも貴重なもののように「歴史の重み」でたっぷり味付けした
「能書」とともに味わう暇もないほど少量の小皿に盛った料理を提供し、「さすが
洗練されているぞ」「さすが絶品」とばかりに田舎者や金満家を感心させる手合い
に似ている。
 たしかに同じ食材でもガード下の汚れた暖簾の屋台で床机に腰掛けて割箸でつつ
くよりも、贅を尽くした数寄屋造りの瀟洒な部屋で手入れの行き届いた見事な庭を
眺めながら食する料理は、舌だけではなくあらゆる感覚を刺激して数倍上等に思え
るのは私だけではあるまい。

                  *

 さて、浅田彰の逃走論「スキゾ・キッズの冒険」によれば、パラノ型というのは
偏執(パラノイア)型の略で、過去のすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負いこ
み、それにしがみついているようなものを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》
競争の熱心なランナーであり、一歩でも先に進もう、少しでも多く蓄積しようと、
眼を血走らせて頑張り続け、より深く潜行する型である。
 他方、スキゾ型というのは分裂(スキゾフレニア)型の略で、そのつど時点ゼロにおい
てしているようなのを言う。スキゾ人間は《追いつけ追いこせ》競争に追い込まれ
たとしても、すぐにキョロキョロあたりを見回して、とんでもない方向に走り去っ
てしまうだろう。

 《パラノ》         《スキゾ》
 インテグレーション     ディファレンシエーション
 蓄積            ギャンブル
 定住            逃走
 セントラル         マージナル
 メジャー          マイナー
 ドメスティック       ワイルド

                  *

 パラノ型のある種の人は蒐集を趣味としている場合が多い。それも生半可な集め
方ではなく、ほとんど考えられない分野まで、安価なものから目も飛び出るような
高価なものに至るまで種々雑多におよぶものだ。そのきっかけは知り合いの蒐集品
を見て思い立ったものや、偶然旅の中で触発されたものや、なんとなく集めている
うちに一つの方向を見い出し特化していく場合もあり、生い立ちや環境や教育など
の影響によって各々ちがってくるのである。そしてテレンス・スタンプ主演のcoll
ectorという映画の主人公のように、ついには美女の蒐集にまでに至り殺してしま
うという冥府魔道の世界をさまようような犯罪者も生まれないともかぎらないほど
その世界は暗い情熱を潜めていると感じるときがある。

                  *

 私も多少そのような経験を持っている。切手集めは高校時代に友人の蒐集を見て
始めた。見返り美人、ビードロを吹く女、雁など学生の小遣いで求められるあまり
高価でないものばかりを集めたようである。あるときなど授業が終ってから二十?
ばかり離れた町の郵便局まで自転車を走らせ二シートを求めたこともあった。その
蒐集は数冊に至ったが、学生のころ家が特定郵便局をしているという後輩に夏休み
郷里に帰ったときに切手友の会やらで金に代えてもらった覚えがある。そしてその
二万数千円の金は専門書に化けたようだが、その本はどれであったか今では定かで
はない。

                  *

ナイフはこれも夫婦で最初のアメリカを一月ばかり貧乏旅行した時に、ナッツベリ
ーファームで買ってから集めるようになった。カスタムナイフやアンティークナイ
フそしてホールディングナイフ、シースナイフといった色々の分類方法でたくさん
の種類があり、特にカスタムナイフ(注文生産品)は有名なラブレスという作家の
もので数十万円もする業物もある。その鋭い刃を見ていると自らの身を傷つける危
うさと、自然の中での生活には欠かせない道具としての必要性とが併せ持つ不思議
な魅力が私を捉えたのである。今はそれも過去のことで蒐集の名残としてブレード
とドライバーとはさみを収納したスイス製のアーミー(ポケット)ナイフをキーホ
ールダーに付けていつも持っている。遠出しているときに遭遇するであろう大震災
に対して、蛙や蛇や鼠といった日頃食しないものまで採取しながら、何が何でも家
族のもとへ生き延びて帰ることが出来るためのサバイバル用に備えているのだ。

                  *

 パイプは二十代のころ六本木にある会社に勤めている時に集め始めた。二グラム
の煙草の葉をパイプにつめてどれくらい長くふかし続けるかという競技の大会に興
味がわき、近くのパイプの店にしげしげと足を運んだことがある。
 両切りの煙草は二十歳のときから嗜んだが、しゃれた紺色の「ピースの缶」(ピ
ーカン)を手元に置きながら麻雀をするということを洒落ていると思い込んだ学生
時代があった。そのほか懐に余裕のあるときは、かの楕円形のドイツの「ゲルベゾ
ルテ」とかイギリスの「ウエストミンスター」などといった外国製の最上級ものを
粋がって求めていたこともあり、日ごろは真っ赤な箱の「光」やモダーンなデザイ
ンの「スリーA」で、金のないときは二口三口吸うとすぐ燃え尽きるほどスカスカ
の「ゴールデンバット」を吸っていた。その謂われが何なのか判らないながら、半
分しか葉が入ってなくてあとの半分はフィルターのような吸い口のある「朝日」と
いう銘柄で「女郎煙草」と呼んでいたものを冷やかしに吸ったこともある。そして
このころに現在主流となっている「セブンスター」が初めて販売された。
 しかし喫煙も子供が誕生したのも理由の一つに違いないが、ある風邪気味の日、
喉がいがらっぽく煙草があまりにもまずかったので、その日からきっぱり止めた。
それ以来二十年以上になる。そして例に洩れずその禁断症状は精神的、肉体的の二
つになって現れた。
 一つは設計図の中に認められた。線と線の交わりがうまく描けないのである。綺
麗な図面は線の太さの強弱も要素だが、垂直と水平の線がきちんと結ばれているか
で決まるといってよい。仕上がった図面をみてことごとく線の交点が見当たらず、
間の抜けた作品に戸惑ってしまった。手先の感覚に問題があるのか根気が続かない
のか理由はわからないが、その一月間の図面は完成度の低いまるで学生時代の代物
であった。
 もう一つの症状は、仕事の一区切りにおもむろに煙草に火をつけその紫煙に身を
ゆだねる行為は、休息として一般に認められた時間を意味するのだが、それをやめ
てからはその漫然とした時間の至福感が得られず、すぐ次の仕事や目的を必死で探
している己の姿勢に認められた。これには愕然とさせられたことである。そして仕
事と仕事の間に生ずるこの休息の時間を何で埋めたらよいのかがなかなか見つから
ない、それは苦しい禁断症状の期間であった。授業をなまけて数学の問題がさっぱ
り解らなくなったという試験前に焦っている夢と、 煙草をしこたま吹かしていて
「俺は禁煙したはずなのに」という罪の意識に嘖まれる夢をいまでもよく見る。
よほどその強いなまなましい印象が強迫観念なって年を経てもなおしつこく残って
いるのであろう。

                  *

 スプーン集めは二十年数年前、親子三人で初めてヨーロッパ旅行した先で記念に
買って来たときから始まった。模様をプレスした窪みとデルフト焼きの陶器の柄を
しつらえた小さな銀製の可愛らしいティスプーンであった。しかし次の旅行の時は
珍しいものを探せる機会でありながらすっかり情熱も冷め忘れてしまっていた。

                  *

 地図の蒐集はやはり旅行の思い出を確かめるために買い始めたものである。悪い
癖で旅する国の地理や文化について下調べをほとんどしないで出かけてしまう。そ
してそこではあまり写真や記録をとらないで、見ること・触ること・経験する事で
場所の中に身を委ねてしまうのである。だから帰ってきてから旅行のルートや都市
や山の位置についての復習が始まる。そのよすがとしてユングフラウやモンブラン
やマッターホルンなどの山岳を対象とした細密な等高線上に稜線やガレ場や谷がは
っきりと解るように彩色された美しい地図とか、ニューヨークなどの大都市の立体
的に表現した鳥瞰の地図などを集めた。

                  *

 そのほか飲んだワインのラベルを集めてスクラップブックに貼り付けてはその産
地を調べてみたり、音楽のLPやCDを集めたりした。せっかく集めたLPもプレ
イヤーが壊れたりCDに変わったり重複したりして前の方式のものの処分に困った
りした。捨てたり人にあげたりするのも、なんだか親しんだものを手放すことに躊
躇された。そしてもうひとつ蒐集そのものの価値についての素朴な疑問もあるから
だ。音楽を鑑賞するとき何を評価するのかは人によって違うということがある。作
曲そのものの深さや美しさを鑑賞する、名演奏を鑑賞する、音質を愛でる、などが
考えられ、人それぞれの好みがある。
 一番いいのは名曲で名演奏家の実演が理想だろう。しかしなかには昔聞いたSP
やLPのアナログ音がデジタルの音より柔らかくて奥深いという人がいる。物理的
にはデジタルの方が演奏に忠実で、アナログはいくら忠実に再現しようとしても針
の雑音が入るものである。懐かしの音・いい音として刷り込まれているのかそれを
好む人がある。他の蒐集にたいしても、果たしてその蒐集家は本当にその品物を理
解しているのか蒐集する行為に酔いしれているのか解らなくなる。その行為はその
品物の価値から本質がはずれているのじゃないかと疑問を抱く。マニヤ達の経済行
為の手段と見えてくるのである。中途で蒐集の興味と情熱が萎えるのは暗にその辺
の思いが私の中に生じるからであろう。

                  *

 このように私もパラノ型の人間として蒐集に目を向けた過去があるのだが、暇や
金の問題でその蒐集が途中で放棄されいつまでも完結しない状態である。しかし私
は最近どうも自分はパラノ型よりもむしろスキゾ型の人間ではないかと思うように
なった。
 まず小さいころより学校や世間の決まり事に束縛されることにひどく苦痛を覚え
その場を逃げ出したくなったり、奇声を発したりあらぬ事をしゃべりまくり、その
雰囲気の気まずさを壊したくなる衝動にかられてきた。毎朝「遅いよ!」と促され
て決まった時間に学校に行き五、六時間もその施設の中に拘束され、やれ宿題だ、
やれ試験だと指図されることが堪らなく嫌いで、時々頭が痛いだとか腹痛を訴えて
は学校を休むことも度々あった。そのころは確かに登校の時間になると本当にそん
な気になったものであるが昼過ぎになると「治ったようだ」と言ってもそもそと起
き出し遊びに出かけるのが常套手段であった。今とは想像もつかぬほど痩せた華奢
な体をしていたのが幸いして両親もそのような登校拒否に対して厳しく咎めること
もなかった。高校三年のときなど遅刻の多さで同じクラスの友人についで二番目に
なった。低血圧で朝起きが苦手とはいえ四十回の遅刻の記録で、担任から注意もな
くよくぞ卒業できたものだと思う。その遅刻が一番多かった友人は八年前すでにこ
の世を去っている。
 いつも無意識に現実の束縛や期待や義理から逃れることを願い、或いは違う世界
に思いを馳せて逃走をはかる自分があった。三十回近くの転居も、社会的必然性の
結果と考えていたのだが、実は己のスキゾフレニーの性癖がなせるわざで逃走があ
ったのではないかという思いに至った。途中まで熱心に傾倒するが、先が見えると
たちまち詰まらなくなり興味が失せ外へ向かうのだ。それともそのような物に熱中
し深く填り込むという行為の中に己が囚われて行く、その閉塞感への恐怖かも知れ
ない。

                  *

 そして先の表によれば、私は確実にディファレンシエーション(差異)でギャン
ブル(運まかせ)で逃走でマージナル(辺境)でマイナー(少数派)でありスキゾ
フレニー型だと確信した。

8号 2003年?




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