したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

alpha-archive-09

5α編集部:2014/02/27(木) 22:38:53
(無題)
.


          続・都市と田舎の狭間で 前編




(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)



プロローグ

 三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなったが、周りを親類・縁者で
取り囲まれた環境の中で、価値観の微妙なずれによるさまざまなカルチャー戦争に敗北した私
は住み始めて半年で再びそこを去ることを決意した。


パンドラの箱その?

――小さい頃の思い出――

 自らの決断で、都心の窮屈な生活から脱出し、田舎での静かな楽しい時間を期待して戻って
来たのだが、人生の半分以上を大都市の中で生きてきた私にとっては辛い体験をすることにな
ろうとは、思いもよらなかった。しかしもともとその田舎の生活は両親の里であり、本家の一
歳年上の従兄とは仲がよく、折にふれて町の方から泊まりに通ったものだから、どのような田
舎の暮らしかは承知していたつもりであった。私は小学生の頃私の住んでいる町の生活環境と
田舎のそれとはずいぶん違うものだと感じていた。その頃は何がどう違うのか言葉で表現する
能力もなかったのであるが、長じてその頃のこの郷里での生活を考えることが時々あった。親
と子の関係において、親しく子供に声をかけたり、子供が親に甘えたりといった、町ではよく
見かける家族の深い絆が感じられないのである。私の両親は子供に無関心では中ったが、ここ
では仕事の手伝いでうまく行かない子供の行動を叱責することのみが多かった。趣味や遊びに
ついても親は無関心で、ただ農作業の進み具合ばかりが気になるようだった。そのことはただ
本家だけの環境かというとそうではなく、この村のほとんどの家庭がそのように私には感じら
れたものだ。古い習慣や生き方や価値観をひきずっていて、夫婦や子や男や女といった人間関
係において町とそれと微妙に違うことが幼い私にも感じられた。

 しかし、私はとって大きな川に東側を抉られるように迫る山の麓にある本家の暮らしは、町
中では味わえない違った体験のできる場所であった。まだ小さい体の従兄と私達二人は親の指
示のもと、朝食がすむと小屋から農耕用の牛を出し、手綱を引いて餌場に出掛けて行った。多
分小学校に通っていたので、この子達の作業は日曜か祭日の時だけだったかもしれない。私が
学校の休みに訪れると必ず従兄の仕事になっていたが、牛の使役がおこなわれる農繁期や雨の
日を除いた毎日の大人の仕事であったろう。それとも餌場からの連れ戻しの仕事は学校を終え
た従兄の夕方の日課だったかも知れない。
 元来農耕用の雄牛はおとなしくするために去勢する慣わしであったが、ほんのまだ十歳に満
たない子供が五百?の重さを越える巨体の牛を連れて歩くのだから、今では考えられない情景
であった。目的地の餌場に行くまでのろのろ歩き、傍の草を食もうとするのを促しながら嫌が
るその背中に乗ってみたり、まつげの長い大きな目を覗きこんだりして数十分かけるのである。
川の土手の斜面に一本の杭を打ち紐を結んで、その周りの茅や酸模(すかんぽ)や虎杖(いた
どり)を食べて一日過ごさせるのだが、私達は次の農作業の手伝いを言い渡されているにも拘
わらず、川の側まで降りていって、次の日曜には手長海老(だくまえび)を釣ろうとか、上海
蟹に似た津蟹はもう取れるだろうかと相談しながら、未だ葉の中に隠れている茅萱(ちがや)
の柔らかい甘い穂を摘みチューインガムのように噛みながら、家に帰れば遅いと叱責されるこ
とを知りながらしばらくその辺で道草を食うのが常だった。
 時には、今思うと国有林であったのであろう、官山と呼ばれている山頂ちかくまで作業のた
め登らされることがあった。どのような農作業であったか思い出せないが、小半時かかって登
りつめると芋畑か茶畑があった。官山と畑地は山道で分れていて、官山は頂上に向かって檜が
整然と植林されていた。開墾された下の畑地はその先が断崖になっていて、長い間干拓埋立用
の石を調達する石切り場になっていた。この頃はもうその作業に携わる威勢のいい男達や飯場
を受け持つ女性達の喧騒もなくなりただ切り立った岩の壁だけがその面影を残していた。私達
が就学する前は、石を切り崩す発破の音が響き渡り、舗装されていない村道にはトラックが土
煙をあげて走り回り、採石場から船着場までは石を積んだトロッコが駆け下り、川縁には大き
な石積み船が盛んに行き来して、辺りは荒荒しい活気がみなぎっていた。いつ閉鎖されたか私
の記憶に残っていないが、干拓工事が縮小されたか終了したのか、石切場も村いつの間にかも
めっきり静かになっていた。
 山そのものはそんなに高くはなかったが、椎やブナなどの落葉樹、粗樫(あらかし)や椨(た
ぶ)の木など照葉樹に覆われた山の道は日光を遮り暗く、一?にも満たない通路は岩の間をよ
じ登っていくような沢道で、雨でも降れば一気に水が駆け下りる険しい場所もいたるところに
あった。低学年の二人がよくそのような人にもめったに出会わない山中を駆け巡って
いたことを今思うと、自分の子供達なら決してさせたりしないだろうと思うが、その頃の田舎
の子供達はそのようにして山の中で遊んでいたものである。どんぐりの中でもこれは食べられ
る実であるとかそうでないとか、この洞穴にはおおきな蝦蟇がいるとか、ここに木苺が実る場
所とか、いろいろと従兄に教わった。山鳥やウサギを捕るのだといい、作業場に行く途中細い
潅木の枝を曲げ、凧糸を三角に張って二本の棒に結びつけて動物が挟まるようにした構造の罠
をよく作ったものだ。鳥の羽根の数片の散乱は餌の米麦や青木や藪こうじの実を食みに来た形
跡であると認めるのだが、現実に獲物を見た経験は私にはない。ただ従兄の自慢話の中に罠に
かかった鳥やウサギを捕獲する情景を思い浮かべ、憧れとときめきを感じたのだった。その頃
山野で遊ぶ子供達の常備品は、物を切ったり結わえたりするための肥後守と呼んでいたホール
ディングナイフや凧糸、冬であれば鳥餅などであった。
 父もまたこの山で育った。寡黙な父は厳格そうであったが、それは己に対してだけであり、
私達には何事も強制はしなかった。私は甘えん坊で、貧しかった家の手伝いなど思っても見ず、
ただ頼りきっていて自分のことしか考えなかったが、父の意に添わぬことをしても、父は激昂
して体罰を与えるということは一度もなかった。しかしそのようなごつくて堅物の姿からは考
えられない趣味を父は持っていた。それは、小さな鋳物工場を経営し終戦後のまだ生活も苦し
い時期であったが、もあの優雅で美しい姿の目白や鶯を飼うことであった。常時六羽くらいは
育てていた。夜は山から切り出した竹でせっせと籤(ひご)を削り出しては小鳥籠をいくつも
作っていた。そして時には私を連れて厳寒の山に小鳥を取りに出かけて行った。野生の目白の
取り方は幾通りかあって、目指す鳥によって方法は違ってくることを私は身をもって教えられ
た。まず目指す鳥とは何か、目白の愛好家の間では一定の時期を設けて美しい鳴き声を競う遊
びがあり、優秀な鳥とは―高音を張る―すなわち高く鋭く鳴き相手を威嚇し屈服させることの
出来る鳥のことである。即ち餌場の縄張りを独り占めに出来る強い個体であることである。一
般に子供や初心者は雌や雛や未だ独り立ちしていない雄達からなる弱くて群をなす目白を取る
ことから始める。それには適当な藪椿などの餌場の小枝に鳥餅を塗っておく。鳥餅は餅の木の
樹皮から作り、鶯色で目立たないものである。気温の低い冬場は硬いので、仕掛ける前にチュ
ーインガムのように口の中で噛み解し、柔らかく粘りが出るようにしてくのである。
 父は、強い目白が独り占めしている甘い樹液の出る樫の木とか藪椿の大木がこの山のどこに
あるかを熟知していた。父が使う捕獲の方法は、縄張りを持つ強い目白に対して、手持ちの最
高に強い鳥を選んでわざと縄張りの木に掛け、戦いにきた野生の賢くて一筋縄ではいかないた
くましい鳥を捕獲しょうというもであった。それは囮籠といって、家で飼っている目白を囮と
して下の段に入れ、上部は落とし籠になっている。縄張りを守ろうとする野生の目白が、自分
のテリトリーを侵すものに戦いを挑んで上から攻撃しかけて来てその中に入り、入り口の扉が
閉まるという訳である。子供の頃庭で遊び半分に竹籠につっかい棒をつけて雀を獲った要領で
ある。しかしこれは運と偶然に支配されると言った捕獲方法で、群目白ならともかく個体数の
少ない強い鳥を得るには確率が悪く、父と私はちらちら降る雪の中一時間でも二時間でも藪に
隠れ潜んでいたこともあった。その豊かな餌場の縄張りを支配する鳥は用心深い知恵と勇気に
満ちた雄鳥で、捕獲するのは難しかった。そして父と私は薄暗くなってきた山を下り、手ぶら
で町へ戻る日も多かった。

 従兄とは近くに住むようになった今時々は会って話をする機会もあるが、まったく違う道を
数十年歩いてきた私達に共通する話題は、天気のことやこれらの幼い頃の思い出ばかりで、ご
く限られたものになってしまった。



―離れの家―

 郷里へ戻れば早速母屋の横に離れを作れるという望みがあり、これを私は喜んだ。なにせ人
様の家を設計する職業に就いていながら、自分のための家を創る夢を一生実現できないのでは
ないかと思われた。医者の不養生、紺屋の白袴の譬を地で行きはしないかと半分諦めていたか
らである。
 生を受けて以来今まで三十回近く転居した私には、棲家という定着目的の器を創ることにお
いて、まことに不適当な職業を選んでしまったのかもしれないと思うこともあった。転居の意
味を「いたる処の良い点と不便な環境をつぶさに体験し、どの部分が不都合かどうすれば住み
よくなるかを研究してきた」と強弁することもできるだろう。
 ともかく自分なりの理想の住居は常に頭の中にあり、研鑚も計画も怠らなかったものの、已
む無く他の人が造った西洋長屋に屈辱の三十五年間を過ごしてきたのが実情だった。そして遂
にそれを清算し小さいとは言え、自分の考えだけを尊重した自前の家を実現できる時がやって
来たのだ。
 工事費の問題はあったにしろ、お手のものの設計は希望の光に満たされて楽しくかつ迅速に
進んだ。設計行為自体は一銭のカネもかからず、ここまでは実にスムーズにことが運んだもの
だ。
 母屋から半間のところ、二十数羽の鶏とその小屋を裏の畑に移転し、百坪の花畑に向かって
八坪ばかりのワンルームをとの計画である。ラスコーリニコフやファルスタッフ、エルキュー
ル・ポアロ、アン・シャーリー、ジュリアン・ソレル、ペーター・カーメンチント、ジャック
・チボーらの住んでいる本棚と、アキュフェーズのアンプ、ダイアトーンHR2000のスピ
ーカーのオーディオセットとが、十分効果を発揮する居場所を確保することをめざして、リビ
ング兼寝室を計画した。見晴らしのきく景色の良い高台で、そして花に囲まれたテラスでお茶
を飲む幸せな時間を思い浮かべて・・・。
 今まで私は自分の家に対して抱く思いが人と私のものとでは少し違うことを感じていた。建
物が出来終わった時「この家は最上のもので未来永劫変ることなく自分に満足を与えてくれる」
と人々は思っているが「完成した時がすべての出発点である」と私は考えているのだ。結婚が
その人達の最終点ではなく、お互いがそれまで背負ってきた習慣や考え方の違いの中で、未来
により良く生きるための絶え間ない工夫と努力が必要であるのと同じく、家も住む人が空間を
加えたり除いたりの繰り返しを十年、二十年しながら自分の好みに合わせ快適な家に仕立てあ
げるものではないであろうか。
 そのように私は「住居とは条件の変化で時と共に変わるべき物」と考えているので、竣工時
の完成度の高さは私には馴染まないものと言える。それはその質の高さゆえ変化させる自由を
奪われてしまうことが問題であり、私の家は贅沢な建材や完成時点の立派さや見てくれのよさ
を排し、最小限の機能とフレキシブルなシンプルな空間があれば良いとしたい。実際家に対す
る用途はその人の人生の時々によって違うものであり、家の大きさや仕上げ材や色合いや好み
も自ずと変化する。親から離れ独り立ちした時は六帖一間でもやっていけるし、結婚して二人
になれば二LDK程度あればよい。そのうち子供も増え個室が要求され、親も同居するとなれ
ば勢い大きな家が必要になる。そして子供達も独立して行き、親もいなくなるとその用途は単
純なものに戻っていくのである。もちろんそれぞれの時期でも用途の膨張や収縮に対応できる
のであるから、初めから広い方が理に叶っているのだが、工事費の問題で財布と相談するが大
抵はうまくいかないものである。
 そこで、我が離れ家はというと、安価に建てるため構造材として間伐材や民家の廃材を求め、
内壁・外壁の縦羽目板は製材のままの引き割り材とし、節や色むら有りでもかまわないことに
する、塗装は自ら暇に任せて完成後ぼちぼち急がず慌てず行い、坪二十万円くらいで建てる計
画をした。そして私の頭の中でこの計画も完璧に仕上がり、後は現実にこの夢を叶えるべく着
手さえすれば憧れの自分の家が手の届くところまで来ていると考えた。しかし、その計画の挫
折は意外に早くやってきて脆くも崩れ去って行ったのである。
 「今年あなたが家を建てたら親が死んでしまう」という御宣託が占い師によってもたらされ
たのである。私自身はたとえ野垂れ死しようと、人の指図に自分の人生を左右されることを好
しとしない性格であるのでそのような誹謗に怯む訳はなかった。方角が悪く行動を制限される
場合、どうしても行わなければならないならその時の方便があって、方違(かたが)いといっ
て一度別の土地に行き目的地への悪い方角を避ければすむ。私はそのような迷信や占いは当然
歯牙にもかけなかった。しかし土地は私のものではなく、帰ってくる時「都会生活の私達が田
舎の住環境に馴染まないだろうから離れを作ってもよい」という話があったが、現実になると
「その金は誰が出すのだろうか」という言を聞くに至り、いよいよ私達がここにいる根拠や正
統性に問題があることが露呈してしまった。これは郷里に戻ると決断した経緯の中にすでに萌
芽していたにも関わらず私が軽視したものだった。
 そんな訳で医者の不養生、紺屋の白袴、建築家の間借人生は当分続く見こみであり、ただ夢
の「離れ家」の図面のみが実現されることなく虚しく手元に残った。




―お中元戦争―

 ある時、私には考えもつかない種類のお中元をもらった。正確にいえば私にではなく母に頂
いたものだが、常識的に贈り贈られるものとして砂糖、サラダオイル等の料理に使用する調味
料 梨、葡萄、リンゴ等の果物、ビール、ジュース等の飲み物と相場は決まっている。しかし
贈られて来たものはダンボール箱一杯の生乾きの煮干である。それもビニールの袋に入れるで
もなく剥き出しのなので家中にその生臭さが広がり、べとりと身に纏わりつく湿気に満たされ
た空気の不快さと相まって、冷凍庫に封じ込める作業を終わるまで気分が優れなかった。世の
中にはこの匂いをこよなく愛する猫みたいな人も居るのかも知れないが、私は相手がその品物
を贈ることに何らかの隠された意図を含んでいるのではないかと深読みもしたくなった。そし
て貰った方はあまりにも想像を越えた質と量の品物にどう自分の頭を納得させればよいか、ま
たどう処置すればよいのか戸惑ったことである。
 贈り手が一年間でも使い切れないほどの大量の品物を贈る意図に、贈られた方がはたして率
直に感謝の気持ちを持つべきか。長い期間この生臭い匂いと収納場所に困り果てることは必定
で、むしろ嫌がらせかも知れない、そうではないとすればなんと無神経であることか。
 母は、そのものが何であれ、例え毒入りチョコレートや危険なキノコであろうとも、「贈り
手の好意なのだと納得して感謝しなさい」という。しかし私は贈り手が贈る相手に対しての感
謝の気持ち―あるとすればの話だが―もっと相手のことも深く思いやって、その人の好みや食
べる量などを密かに探り当てるべきであり、さすがあの人は趣味の良い人だと思われるほど見
事に遣り通す器量が欲しい。ダシの沢山必要なラーメン屋を営んで居る訳でもあるまいし、有
り難いと感謝するより却って不快さの方がより強く返って逆効果であろう。最早どこの社会で
もお中元やお歳暮などの贈答は、「相手が好もうと困ろうと贈っておけば義理は果たした」と
いうただ単にシキタリとしての形式を整えた安心を得るだけものに成り下がった感がある。受
け取る方もまた意に添わないものだらけか、または消化出来ない量に戸惑う結果、盥回しや百
貨店に引き取らせるなど、機械的に処理する形骸化した悪弊となってしまった感がある。
 そこで、なんとも悩ましい問題を提供されたお返しにブラックユーモアよろしく、そちらが
うならこちらも一つ想像もつかないお中元を考えてやろうという悪戯心を起したのである。そ
して、実現する訳にもいかないからせめて想像の世界の中においてだけでもその仇をしっかり
討ち、飲を下げたいと考えた。
 さて、それには三つの条件が満たされる物でなくてはならないと規定した。例えば、大根を
トラック一杯、トイレットペーパーを山ほど、ユニクロのバーゲンTシャツをごまんと贈ると
か、少しはあってもいいが好みもサイズもまちまちで収納や処理に困る量であることは必定で
ある。

一つ目は量の問題、考えもつかないほどの量。
二つ目は想像だにしない物。
三つ目は金の掛からないもの。
 この空想は当分暇つぶしの宿題にしておこう。



―イングリッシュガーデンー

 離れ家の挫折に懲りずにまた暇にまかせて、百坪の花畑をイングリッシュガーデンに改造し
ようとして、あれやこれやと考え始めた。郷里に帰って数ヶ月、友人やら親類やら知人の紹介
で色々の会社や工務店、設計事務所を営業して歩いたが、好意的な返事は至るところで貰った
ものの、この地方の仕事量の少なさは驚くべきもので、如何ともし難いものだった。その中で
唯一の仕事が、ある首都圏の県営団地の基本計画コンペティションを、某設計事務所から成功
報酬でよければ頼むということだった。それは裏返せば当選しなければ報酬無しということで
あったが、それでもこの耐えがたい湿度とクソ暑さに脳みそをいたずらに腐るままに放置する
よりましだと考えた。毎朝田舎道を四十分、県庁所在地の事務所まで車で通う日々、百十五戸
敷地三千坪というかなりの団地計画も、の大きさの図面一枚に纏めるのには一カ月という期
間があり、時間は有り余るほどあった。
 母が管理するその花畑は、花園というよりやはり畑感覚のものであった。これも個人個人の
好みの問題と言い切ってしまえばそれはそれで良いのだが、それでもいくつかの根本的な問題
があった。碁盤の目のように植えられたバラや菊やボタンは整然としていて、市場に出荷する
畑の花を思わせるのであった。種々の花がお互いに干渉し合わない配置の妙だとか、季節によ
って咲く花とそうでない緑の葉との関係、高木と低木、地被類とのバランスなどが考えられて
いないのだ。たしかに丹精して咲かせた花はテーブルやちょっとした空間に置かれた単体は素
晴らしいものであるが、ところ狭しと種々雑多な花の氾濫は決して印象には残らない。私は花
の種類と量や数がバランス好く計算された庭を求めて本を買い、資料を集めて動きだした。
 花壇と歩道の境界はオーストラリア産の鉄道の中古の枕木を、そして歩道にはこの近くのず
いぶん前に使用されなくなった久間焼きの釜に使われていた耐火煉瓦を求めた。それは帰郷し
てまもなく見学に行った時目に付けていたものだったが、しかしそれはすでに町に寄付したも
のであるからということで、手に入れることは出来なかった。それならとそのような古色蒼然
とした風合を持つナチュラルレンガに決めた。そして家族が団欒できるスペースを中心にする
ことを意図し、精神的な求心力を創り出すため、シンボルツリーを中央に二組のベンチをその
周りに配置した。私はそのシンボルツリーを胡桃の大木でないといけないと決めていた。この
木には小さい頃からの憧れの生活を象徴していて、何十年もの間理屈ぬきの思いとなっていた。
 胡桃の木は小学校に通う道沿いのとある病院の庭にあった。道路より一段高い石垣の端にあ
り、数十メートルの大木の姿は富と文化の象徴に見えた。秋になると私達子供は登下校の際、
時々胡桃が実っている空を見上げては、果実を落とすために石をなげたり、またすでに落下し
たものを探したりした。運良く手にすると宝物のように大事に家へ持ち帰ったものである。私
は、この山里の雪の降る夜、だるまストーブを囲みながら、自分の庭で採取した沢山の硬い殻
を割りながら食べている団欒を夢見ていた。
 しかし、私の設計事務所としての仕事がうまく稼働しないこと。郷里に戻り父の意思を果し
母親の面倒を見るという目的に反し、都市での生き方がここでのそれと歯車が合わないこと。
それらの問題が自分も回りの人達も不幸にしているのではないかと言う思いに行き当たった。
私はこの状態が続けば徹底的に衝突することが予感され、いづれ何らかの決心をしなければな
らないだろうと思われた。
 そしてまたイングリッシュガーデンの計画も実現の日を見ることなく虚しく図面だけが残っ
た。



6号 2001年8月

http://


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板