[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
生長の家政治連合と「今の教え」を考える
1
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:07:03
このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連し、
「生長の家政治連合」と「今の教え」について、自由に議論をするため
に作成したスレッドです。
生長の家に関連する話題なら、上記に話題に限定しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。
スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。
2
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:12:10
<はじめに>
この論考は、現在の状態に至までの生長の家と生長の家政治連合の概略を述べるとともに、現在の組織に与えた影響を考察したものです。
生長の家政治連合は、現在の生長の家教団内部では、タブーになっています。また、「本流復活」と言われる人々の間でも、評価は別れております。
最初にお断りしておきますが、私は、生長の家政治連合の活動そのものの評価をこの文章で行うつもりはありません。しかし、生長の家政治連合をタブーにしている現状には、一石を投じたいと考えております。
私自身は、当時、生長の家政治連合(生政連)にはほとんど関わっていません。ですから、生政連の是非や結果を論じる資格はないと思っています。また、直接、関与して
いなかったため、その情報の多くが、書物や伝聞によるものである事はご理解下さい。ここに書かれている事が「正しい」というつもりはありません。あくまでも、現在の生長の家の状態を説明する、一つの仮説だと思って下さい。おそらく、当時の関係者や歴史に詳しい人からは、不満がでるとおもいます。
実は、この問題を論じると、本が1冊できるぐらいです。ですから、かなり事実関係を簡略化しました。其の点、あらかじめお詫びします。
生長の家政治連合の関係者は、現在でも多数ご存命です。また、当時の関係者の証言もようやく聞かれるようになりました。多数のご投稿をお待ち申し上げます。
3
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:13:38
<初期 谷口雅春先生時代>
生長の家は、谷口雅春先生が始められたのですが、集会も当初は近畿地方や東京に限られていました。そのうち、全国で本を読んで、救われたという人達が本部に問い合わせて、近所の誌友と連絡を取り、勉強会を始めて、自然発生的に各地で支部が出来たのです。その後、急激に教えが広まると、各地で支部が出来、講演会も開かれるようになりました。しかし、支部の運営は有志の寄付などに頼っておりました。教化部長も常駐せず、定期的に本部から本部講師が派遣され、講話をするシステムでした。ですから、各地の支部は独立独歩の気概が強く、本部方針も細かい点まだは指事されませんでした。
言い方は悪いですが。家族的な雰囲気があると同時に、まだ、現在的な意味での「組織」ではなかったとは言えるでしょう。
谷口雅春先生は、人間的な魅力に溢れ、教えの素晴らしさと相まって、信徒は父親のような気持ちで接しておりました。家族のような雰囲気が部内には溢れていました。
戦争中、あるいは戦後は困難な時期が続きましたが、信徒はよく団結し、教団を守りました。(私は、この時期までの生長の家を“初期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
4
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:15:05
<前期 谷口雅春先生時代>
戦後は、生長の家の信徒が急速に増え、組織も拡大しました。
そのため、従来のような組織では、運営が出来なくなりました。試行錯誤の末、聖使命会員制度が発足、近代的な組織への一歩を踏み出しました。同時に、やや中央集権的な組織になりました。が、組織は順調に拡大し、信徒も増加の一途をたどりました。
その頃、共産党などの左翼党派が跳梁跋扈し、安保改正などもあり、国内の思想状況は悪化していきました。そこで、愛国者陣営といわれるグループから生長の家に支援要請が届くようになり、それに応えて生長の家も少しずつ政治への接近を始めました。当時は、右翼陣営の世間的な信用は低く、評価の高い生長の家への期待が高かったのです。が、思想の悪化と左翼勢力の拡大は止まりません。国内の危機的な状況に、ついに、谷口雅春先生は、「日本を守るためなら、生長の家が潰れても良い」とのご信念のもと、生長の家政治連合を結成し、全面的な政治への参加を決意されたのです。
(私は、この時期までの生長の家を“前期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
5
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:17:56
<中期 谷口雅春先生時代>
この時期以後、生長の家は、純粋な信仰運動だけでなく、政治運動も始める様になりました。そのため、組織のあり方も中央集権的になり、運動のあり方もや組織のあり方、部内の雰囲気など、多くの点で変化が生じました。森田=安東の両先生などはこの時代の申し子と言えるでしょう。
一部の信徒は、政治への接近に批判的でしたが、反面、当時の青年を中心に、情熱的な運動を求める雰囲気が強く、青年会を中心に、活動は活発化しました。その意味で、当初は生長の家の教勢発展に寄与したと言えるでしょう。元号法制化運動など、各種の運動で成果を挙げると、いよいよ政治への接近傾向が強まり、生長の家政治連合の関係者が肩で風を切る傾向が強まりました。
生長の家政治連合は、生長の家教団の一関連団体にすぎないのに、実際には、生長の家を代表するような言動すらするようになりました。時には、総裁の権威をも無視する場合もありました。その反発を押さえる為に、生長の家政治連盟を中心とする上層部から中央集権化を合理化する教学が強化されました。私はこれは、組織教学と密かに呼んでいます。当時、谷口雅春先生はご高齢で教団運営の実務から離れつつあり、後継者の谷口清超先生の権威はまだ完全には確立していなかったので、生長の家政治連合の人達がその間隙をぬい教団に大きな影響を与え増しア。そして、彼らが、この組織教学の中心的な提唱者でした。
6
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:20:49
<組織教学>
これは、私の勝手なネーミングです。
生長の家の「中心帰一」とは、真理や理念の中心への無条件の帰依を意味しました。
あるいは、「道」を大切にすること、「大調和」を大切にする事をも含みました。無理矢理の服従ではなく、心からの調和がポイントでした。が、この時期以降の中心帰一は、「上層部への無条件の服従」という意味へ拡大解釈されるようになりました。その上、総裁=副総裁=み教え、というラインが、現象人間の「総裁、副総裁」という意味をも含むまで広まりました。これが行き着くと、その世界は、生長の家ではなく、昔の陸軍の内務班になります。実際、谷口雅春先生の直弟子の本部講師が、「これは(生長の家の)中心帰一ではない。支那式服従だ。」と断言されたのを、この耳で聞いております。
この時代までの教団内部の雰囲気は家族的でしたが、これ以後は、良い意味でも、悪い意味でも、軍隊のような雰囲気が混じりだした、と古い信徒さんは回想をしております。
組織教学の弊害は、教団が正しい理念に基づき、運営されている間は、問題が生じませんでしたが、今日のような間違った理念の下で運営されると、その弊害は著しいものになります。
生長の家政治連合の当時は、ご高齢になられたとはいえ、谷口雅春先生もご健在で、上層部にも谷口雅春先生の直弟子がご健在でした。暴走を指摘される生長の家政治連合の指導部も、部内では実力者だった森田=安東先生ラインでしたから、それなりの権威もありました。いわば、優れた指導者と有能な側近が健在なため、弊害はすぐには表面化しませんでした。
なお、組織教学は、これ以後、総裁の交代や重要な運動方針の変更で、組織部内に動揺が生じたたびに、動揺を収めるための手段として、強化されていきました。
7
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:22:11
<政治との絶縁生命>
教団の過度な政治への接近は、信仰への軽視を生み出す場合もあり、次第に部内からも批判があがるようになりました。生長の家政治連合の関係者の専横も目立つようになりました。生長の家政治連合が推薦した議員のスキャンダル、支持政党の政治汚職なども加わり、内外から批判の声があがるに至りました。優生保護法改正での支持政党が約束を反故にした事等、政治への不信が強まり、遂に、谷口清超先生が、谷口雅春先生のご了承を得て、政治活動の停止を宣言しました。同時に、生長の家政治連合も解散となりました。
(私は、この時期までの生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
8
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:24:00
<政治活動停止の疑問点>
教団の政治活動停止の経過は、今日でも公になっていない点が多いです。
政治活動停止が正しい決定だったとしても、段階的な廃止という手段もとれたはずです。なのに、何故、いきなりの停止だったのか、疑問があります。
当時、「聖使命」新聞紙上に掲載された、「生長の家政治連合解散、政治活動の停止」についての声明文は、今から思うと、谷口雅宣先生のご文章と類似点があるような気がしております。気のせいでしょうか? 最近、公表された村上氏の回顧録を見る限り、谷口雅宣先生が生長の家政治連合に極めて批判的な言動を当時からしていたようです。
谷口雅春先生が、生長の家政治連合の解散の報告を聞き、激怒された、という噂が教団内部に今日でもあります。が、教団の公式見解、ならびに本流復活の中にも、谷口雅春先生はご納得されていた、との事です。この点について、私は判断をする材料を持ちません。
その他、不明の点が多々あります。今後の解明が待たれます。
9
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:26:35
<後期 谷口雅春先生時代>
谷口雅春先生は、長崎に生長の家総本山を建立、信仰の力での日本国の実相顕現と世界平和に方向を転じられました。その後、共産主義の間違いが周知になり、冷戦崩壊へとつながったのはご承知の通りです。
谷口雅春先生は、教団運営の実務を谷口清超先生に任せ、ご自分は長崎の総本山で、もっぱら、祈りによる日本国実相顕現に時間を費やされました。その後は、亡くなられるまで、総本山での活動を継続されました。この時期は、比較的に安定した時期でした。
(私は、この時期の生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
10
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:29:18
<谷口清超先生時代>
さて、生長の家政治連合の解散は突然発表され、部内での説明も不十分だったので、生長の家政治連合の関係者を中心に、多くの信徒からの激しい反発がありました。そのために生長の家から離れて、独自の運動を始める人も出ました。本部の権威も傷つきました。
それを納める為に上層部がとった手段が「組織教学」の強化でした。が、当時はまだ谷口雅春先生がご健在だったので、何とか納める事ができました。しかし、もっと順序を踏んでの議論をすれば、情勢は違ったと考えています。
重大な事は、生長の家政治連合がなくなったのに、教団内部に生長の家政治連合の組織体質、発想、部内の雰囲気は残った、という点です。「純粋な信仰」を目標と掲げながらも、運動の発想などは、生長の家政治連盟当時と同じままでの運動が展開し、現場の活動者や会員は、その齟齬に悩みました。
生長の家政治連合までは、生長の家は、外部への関わりを積極的に推進する方針でした。が、生長の家政治連合解散後は、内向き、閉鎖的な体質への変化をしました。それまで生長の家の行動は、社会に一定の影響を与えていました。また、生長の家から角界で活躍する有為な人材が多数輩出されていました。が、この時期以降、そのような事は少なくなりました。
さらに、敢えて言うと、このときから、生長の家の迷走が始まったと言えるでしょう。
私見では、谷口清超先生の目的は、生長の家を政治への介入以前の状態、つまり信仰だけを目的とする組織に戻すものだったと推測できます。しかし、谷口清超先生には大変申し訳ありませんが、それに成功したとは感じていません。組織の目的が何なのか、現場の活動者にも不明なまま、活動をする状態が続きました。
しかし、谷口清超先生は、偉大な指導者であり、谷口雅春先生の正当な後継者でした。この困難な時期にもかかわらず、教団を純粋な方向へと指導され、内外の信徒の尊敬を集めました。この先生だからこそ、この困難な状態を乗り切れたと言えるでしょう。
(私は、この時期の生長の家を“谷口清超先生時代"と呼んでいます)
11
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:32:41
<谷口雅宣先生の時代>
谷口雅宣先生は、副総裁時代に「大東亜戦争侵略論」をいきなり発表し部内を混乱させるなど、適性には最初から疑問視する声も一部にありました。
その後、生長の家総裁に就任された谷口雅宣先生は、「国際平和信仰運動」なるものをご提言、「愛国的国際人」とか「両軸体制」とか「座禅的瞑想」とか、一見、おどろおどろしいが、実は内容のない合成語を羅列し、迷走状態にあった生長の家をまとめあげ、滅亡へとしっかりとご指導されているのです。彼は、生長の家政治連合を毛嫌いしていましたが、皮肉な事に、トップダウンが大好きで、議論を嫌い、邪魔な人間は片端から追放し、信仰以外の目的に組織を使うなど、やっている事は、生長の家政治連合の連中と似たり寄ったりの事をしているのです。しかも、その総裁の独裁を理論的に裏付けしているのが、生長の家政治連合時代に生み出された組織教学だったのです。
彼の組織指導を見ていると、<中期 谷口雅春先生時代>の全否定だと言う事が見えます。この時代は、組織の一部が暴走し、制御がきかなくなっていました。その時代に感じた恐怖が現在の暗黒体制の動機になっているのでしょう。そして、生長の家政治連合について「正しい判断」を下した自分への過大な評価と、「間違った」信徒への過小な評価も見えます。強引な独裁体制を引いているのは、自分の頭脳への自信過剰のなせるものだと言えます。
公平を守る為に彼を援護すると、生長の家という古い体質の組織を改革する必要は確かにあったのです。生長の家政治連盟当時の体質を改善し、普通の社会通念から見ても通用する組織にする意欲は持っていたと思います。
当初、私を含めて、彼に期待していた人間は少なくないです。が、信徒の皆様がご存知の通り、組織指導の結果は悲惨なものです。今日では、もはや行き詰まりは明白、という状況になっております。
以上が、生長の家と生長の家政治連合との関わりです。
12
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:33:43
<現在の生長の家政治連合の教団からの評価>
この生長の家政治連合の一連の事件は、当時の関係者に深いキズを遺しました。
生長の家という組織の威厳も低下しました。谷口雅宣先生が、かって
「祖父は間違いをしました。」と
言ったのは、この点をさします。
彼は、もともと、生長の家政治連合を嫌っていました。また、村上正邦氏によると、自分が新聞社で希望する部署に行けないのは、生長の家政治連合関係者の妨害によるもの、と思い込んでいたようです。当時の生長の家政治連合推薦の議員が谷口雅宣先生に、散々、叱られたという話もあります。いくつか要因が重なり、彼は、生長の家政治連合に嫌悪感を持っているようです。
今日の生長の家では、生長の家政治連合とその時代は、生長の家の「汚点」と見なされています。少なくとも、現在の総裁はそう考えています。で、「日時計主義」を唱える原宿教団では、「臭いものにフタ」とばかり、この件を議論する事は禁じられています。そのくせ、生長の家政治連合と親近性のある言動は取り締まられる、という現実があり、このあたりが部内を萎縮させる原因となっています。
13
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:34:51
<現在の生長の家政治連合の関係者からの評価>
生長の家政治連合の末期には、その専横や内容に対し教団内部でも批判が強かったので、生長の家政治連合の活動停止には、賛同する声が多かったです。しかし、生長の家政治連合は信徒の自発的な動きではなく、生長の家教団の意向で始まり、活動をしていたのです。発表も突然でした。ですから、関係者からは「裏切られた」という声があがりました。現在でも、「本流復活」掲示板などに、当時の関係者が怒りの投稿をするのは、こういう背景があるのです。それが嵩じて、生長の家政治連合廃止の急先鋒だった谷口雅宣先生への敵意へとつながっているのです。
特に、谷口雅宣先生は、谷口家の他の兄弟姉妹と違い、運動には参加せず、冷笑的な立場だったと言われています。当時の活動者からは嫌悪されていた、との投稿が別のサイトにありました。これが一般信徒ならともかく、信徒の浄財で小学校から一流私立大学に通い、海外留学までされた人物だったから当然です。言い換えれば、闘わなかった人間が、「美味しい汁」だけ頂戴し、闘った人間を批判し,その上、指導者になったのです。賛否は別にして、関係者の怒りは理解は出来ます。
14
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:35:40
<私見>
現在の教団内部では、生長の家政治連合は、タブーになっています。それは、関係者が生長の家政治連合を「汚点」と考えている点や、この問題を掘り下げると、生長の家教団、ひいては谷口雅春先生の責任論が噴出しかねないと考えているのでしょう。
しかし、この問題をタブーにしていたために、現在の迷走が始まったと思うのです。ですから、どこかで、一度、きちんとした総括なり反省はしなければいけないと思います。
この文章で、生長の家政治連合の是非を論じるのは、あまりも範囲が広すぎるので、省きます。また、私は、当時、生長の家政治連合には反発を感じて距離を置いていた人間でしたから、論じる資格もないです。
今日から考えると、谷口雅春先生は、日本国という立場で行動をされました。生長の家の損得ではなく、国家の正義という観点からの行動だったのです。現在の政治の混迷を見る限り、生長の家政治連合が目指したものは、否定はできないのではないか、という気がします。また、谷口雅春先生と当時の指導部が目指したものは、当時の社会情勢を見る限り、当然とも言えるものでした。ですから、生長の家政治連合を論じても、決して、谷口雅春先生を否定するものではない、と考えております。この点については、当時の関係者の積極的なご投稿を期待しております。
15
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:36:48
<雑感>
生長の家政治連合の突然の解散は、関係者に深いキズを残しました。これこそが、日本を救うのだと信じて、政治活動をしていたのに、いきなり「間違い」にされてしまったのです。私は、生長の家政治連合にはいくつかの点で否定的な考えを持っていますが、この点については、彼らが怒るのは当然だと思います。当時の理事長の和田英雄さん(のちに教団を離れました)など、当時の責任者の説明も心のこもったものではありませんでした。今でも、この問題がぶり返されると、教団上層部は上から目線で説教をします。が、彼らにそんな資格があるか、どうかは疑問だと思います。
極端な言い方をしたら、生長の家政治連合が問題というよりも、その後始末のまずさこそが問題だと考えています。
現在の谷口雅宣先生は、再三、生長の家政治連合は「間違い」だった、と断言をしております。実は、私自身、生長の家政治連合には批判的だったので、この点について、何もいう権利はありません。しかし、彼は評論家ではありません。生長の家総裁です。もし、生長の家政治連合の活動が「間違い」だったというのなら、彼の立場では、先ず、生長の家という組織がした間違いについて、当時の関係者に謝罪をすべきです。これは彼の個人的な見解とは別の話です。公人としての義務です。
さらに、生長の家政治連合はなくなったのに、当時生み出された「組織教学」は、そのまま残りました。少なくても、「前期 谷口雅春先生の時代」までは、総裁がここまで独走できる体制ではなかったです。これが、現在、谷口雅宣先生の「独裁」を正当化する理論とされているのです。この「組織教学」を否定する事ができないまでも、21世紀の新しい「組織教学」の検討が必要な気がします。もし、生長の家政治連盟の活動に「負の遺産」があるとしたら、この「組織教学」かもしれません。
生長の家が、ある時期、政治に関わり、運動をしていたのは、否定できない事実です。それを単に否定するのではなく、もっとポジティブにとらえ、将来への教訓にもする姿勢こそが、必要だと考えています。その意味で、皆様のご投稿をお待ちしております。生長の家政治連合の肯定的な側面からの投稿も歓迎します。よろしくお願い申し上げます。
16
:
トキ
:2011/06/20(月) 13:53:39
<追加>
生長の家の長い歴史を見ると、障害もなしに順調に発展をしたとは言えません。「生長の家30年史」「40年史」「50年史」も良い本ですが、谷口雅春先生のかかれた「明窓浄机」が実は、生長の家の歴史を知る上では、たいへん参考になります。それを読むと、谷口雅春先生がたいへんなご苦労をされたのがよくわかります。その歴史の中で、栄光もあれば、挫折もあったのです。
私自身、長く活動をしてきて、その間には、良い事がたくさんありました。が、否定的な事も、現象としては、現れた事があります。組織としての生長の家にも、類似の事があったと思います。
これは、たいへん畏れ多い事ですが、生長の家という組織は、世界や国家、個人にとって、優れた貢献を多数しました。が、何十年という間には、知らない間に「業」は積んでいた部分があったと感じます。多くの本を読み、そう感じました。
ここで、「業」というと、生長の家と谷口雅春先生を批判する人がいますが、それは間違いである、という点は申し上げます。人間であれ、組織であれ、行きて活動をする人は必ず「業」は積んでいるといえるでしょう。私は、この文章を書いている時点ですら、生長の家と谷口雅春先生の偉大さを一点の疑いもなく、信じております。
谷口雅春先生の愛国心、理想を求める純粋な姿勢とともに、教団運営のために、隠れたご苦労をされた点を、現在の信徒一同、深く感謝申し上げるべきだと強調したいです。その点は、何回でも繰り返したいと思います。
今日、生長の家で起こっている混乱、あるいは総裁の暴走は、今日、突然、生まれたものではなく、生長の家という組織に生じた永年の「業」が。出たものかもしれません。今回、生長の家政治連合をテーマにしましたが、実は、生長の家という組織の永年の「業」がでたものだと考えています。その意味では、総裁や生長の家という組織の問題であると同時に、生長の家に関わった信徒一人一人の問題だとも考えています。
でも、悲観をする必要はありません。
「業」は現れたら、消えて行くと教えられています。
今回の一連の事件で現れた以上、消えると確信しています。間もなく、問題は解決すると信じております。その意味で、夜明けは近いと確信しています。
17
:
山ちゃん1952
:2011/06/21(火) 01:02:15
トキ様ご提言ありがとうございます。
さて、本部内部の事情はわかりませんが末端の信者などを無視した行動は組織
としてどんな事情があるにせよ失格であり、私は擁護など出来ません。
そうしたツケがそのまま今の現状になっていることは本来猛省するしかありません
が今の組織に「祖父は間違っていた」という資格はないことは明確であり。
反対に反省しても、どうする対処も出来ないことは自明である。
それは組織の総括も出来ない組織は他を批判は出来ません。
さて、私は以前に「生長の家」の歴史を勉強することの大切さを提言しました。
何故そう書いたのか理由は書きました。
ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史を学ぶ」という言葉がありますが
人の経験というのはその人の歴史しかわかりませんが、歴史は綿々と流れた
縦の歴史を学ぶものです。その歴史がその人を見ていると悪い人は沢山いますが
それを長いスパンで考えると悪人と思えるひとが実は歴史に功績を残した実例は
あります。
たとえば、徳川綱吉は「犬公方」ともよばれ当時の新井白石すらその悪行を綴った
と言われます。
だが、長い歴史から見ると、日本人の優しさのようなものが熟成された初期にも
感じます。またいろいろと述べてみたいところですが、結論からすれば歴史は長い
スパンが必要なのです。
藤原正彦さんは近現代史は「共産主義」の脅威を語らないのでいる。分野の異なる
私がその歴史を紐解くことをされている。(数学者)
そこなんですよ、生長の家の政治に何故谷口雅春先生は推進されたかを語らないと
片手落ちのような気がします。トキ様にはそういう事を語って戴きたい。
しかし、私論では行けませんので生長の家政治連盟の作成した文書や経緯など
わかる範囲でお願いしたい。
私はそういうパンフレットや著書など僅かしかなく資料とはいえない。
是非公けにしていただければ助かります。ただ外部にマル秘は致しかたない。
許せる範囲でお願いいたします。
それにより、負の歴史というのはそうでないことも理解できるように思える。
18
:
トキ
:2011/06/21(火) 09:42:05
>>17
山ちゃん1952様
コメント、ありがとうございました。
こんな長い文章を読んで下さり、ありがとうございました。
生長の家政治連合の事を調べるのは、部内でも難しいです。複数の当時の生長の家政治連合の関係者に
当時の話を聞いても、皆さん、話してくれませんでした。教化部でも、当時の資料は処分されているみたい
です。たまたま、個人が所蔵していた資料が、ご本人が亡くなり、ご遺族により表に出るのが数少ない例外
です。
生長の家を辞めた、生長の家政治連合関係者にも会った事がありますが、これは、ろくでもない人でした。
なるほど、生長の家政治連合が活動停止になったのも、宜なるかな、です。
生長の家の歴史を勉強する事の大切さは、全く同感です。素晴らしいご提言です。
生長の家の歴史で言うと、30年史にしろ、50年史にしろ、生長の家に都合の悪い事は書いてないです。
50年史を編集した人は、森田=安東先生派の人でしたが、あまりにも谷口雅春先生を尊敬するあまり、
生長の家を美化し過ぎるし、編集者の主観に会わない部分は控えめにしてあります。これも良くないと感じます。
一番、頼りになる資料は、谷口雅春先生の「明窓浄机」で、これは、結構、生長の家に都合の悪い話も
たくさん掲載されています。「ゆにはデパート」の話なんか、この本がなければ、知らなかったと思います。
谷口雅春先生は、ご自分に都合の悪い話も、全部、正直に書いておられます。この点は、素晴らしいと
感じます。
ただ、生長の家政治連合というのは、日本の政治史の上でも、一つの大事な存在だと思うのです。
私も勉強中です。
生長の家政治連合については、これから、当時の関係者の投稿をお待ちしております。
合掌 ありがとうございます
19
:
トキ
:2011/06/21(火) 09:48:32
>>9
訂正です。
×(私は、この時期の生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
◎(私は、この時期の生長の家を“後期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
20
:
山ちゃん1952
:2011/06/21(火) 13:49:23
普通会社では社史などは自社の悪いことは書きません。勿論余程社会の通念でなければ
避けるとは思います。過去に悪い印象を残したくないのは当然だと思います。それぞれの編纂史があります。
先日池田市の池田文庫に行ってきましたが、阪急電車の社史や宝塚歌劇団の通史が
掲載されていましたが、そこに悪いことは流す程度で良い方向に書くのは通史です。
それぞれの通史があります。神社は神社史や市史などいろいろありますが、自分の事は悪くは書きません。
生長の家50年史編纂に関わったのはS氏と言われますが、その細部に関わったOさんは生長の家
の歴史には大変詳しく、何度も大本教に行ったことなど詳細に語っていただいた事があります。
今は異なる所で活躍されておられますので、名前は出せませんが現在東京にお住まいであります。
昨日会社を休んで戦後を中心に雅春先生の年譜作成していました。数年前は気にも留めなかった
生政連のパンフレットが見つかりました。田中忠雄先生を中心の時代の小冊子です。
21
:
トキ
:2011/06/21(火) 15:51:00
>>20
山ちゃん1952様
コメント、ありがとうございました。
古い信徒さんと話していた時に、聞いた話です。
生長の家の組織は、各地の信徒さんが、自発的にお金を出し合い、分担して労力を提供し、独立独歩、作ったものが大半です。
もちろん、谷口雅春先生のご活躍が中心ですが、各地の信徒さんの協力がなければ、今日の組織はあり得なかったのです。今日の
原宿教団の歴史には、その視点が欠けていると感じます。ですから、過去、各地の信徒さんが、本部の専横には断固抗議したのは、そう
いう背景があるからなんですね。
谷口雅宣先生が、森のオフィスとか、環境とか、勝手な事をするのも、そういう視点が欠けているのが原因だと思います。
言い方は悪いですが、こんな勝手気ままをするのは、近代的な組織ではなく、”谷口商店”ではないか、という感じです。組織教学に
ついてですが、具体的な証言は紹介できないですが、谷口雅宣先生が、谷口清超先生の言う事には従わなかった、という証言は
複数あります。ところが、自分の言う事には従え、という世界ですから、困ったものです。
あと、生政連については、関係者もタブーとして、証言されませんね。見事なものです。
本当は、森田先生や安東先生など、関係者がきちんと証言を残して欲しいと願っています。
やはり、体験者の投稿は勉強になります。今後ともよろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板