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日蓮考察

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:10:24
このスレッドでは、日本では馴染みの深い、日蓮をテーマに議論していきたいと思います。
日蓮の呼称は、大聖人とか、聖人とか大菩薩など様々ですので、敢えてスレタイは日蓮とさせていただきました。
わめもここでは配慮して、日蓮と書く場合が多いかもしれませんが、配慮以外の他意はないことを予めお断りしておきます。
皆さんは馴染みある呼び方でも、日蓮とだけでも自由にお書きください。

それとわめの掲示板での議論のルールを説明します。
ネチケット尊守は当然して、ここではポパーが提唱する「可謬性」をお互いが認知し、「批判的合理主義」に則って議論をし、互いの知識を高めあっていこう、互いの誤謬を発見し合い、喜びとしようとするものです。
なので、自らの論の正当性を、訴えることに終始したり、他者からの批判を、攻撃されているように受け止めることは避けてください。
それと皆さん限られた時間の中での書き込みになるかと思いますので、レスを催促したりすることは避けてください。レスはむしろテキストエディター等で作成し、何度も読み返す&時間をおいて書き込む等を心掛けてください。

またテーマに関する範囲でその自己認識を提出し、誤謬がないかを指摘してもらうのもいいかもしれません。
ということでよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>

最後に「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説を載せておきます。

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう。

101Libra:2006/01/31(火) 03:57:09
3.『法華経』と縁起説の関係について

 縁起を説く詩(「法身偈」とか「縁起法頌」とよばれています)で終わって
いる『法華経』があります。縁起法頌とは以下のようなものです。

  ─────────────────────────────────
  いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、
  それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

  (中村瑞隆『現代語訳 法華経 下』、春秋社、1998年、p. 221)
  ─────────────────────────────────

 舎利弗がこの縁起法頌を縁として仏道に入ったいう話はとても有名です。

 イントロダクションともいえる序品をのぞけば、《『法華経』で説かれるす
ごい教え(妙法)とはいったい何なのだろう》ということが最初に問題にされ
るのは、いうまでもなく方便品です。その方便品の主人公として《縁起法頌を
聞いて目覚めたことで有名な舎利弗》を作者が採用し、最後に縁起法頌をズバ
リもってきているのは、《妙法とは縁起である》という主張のあらわれである
ようにわたしにはおもえます。

 法華経の中心思想は「縁起」であり、「空」であるとおもいますが、法華経
はそれを「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした」[*2]ものであると
わたしは理解しています。

 「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*3]、法華経は全編にわたって菩薩行
を説いています。

 法華経は「空の思想」について哲学的な議論を展開するものではないとはい
え、空について直接説いている箇所もあるという点につきましては、Leo さん
のご指摘のとおりです。


  [*2] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
     1969年、p. 400。

  [*3] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/069.htm

102Libra:2006/01/31(火) 05:25:04
 わめさん、おはこんばんちは。

 わめさんがおっしゃるように、ブログに投稿できなかったのは文字数超過が
原因だったのだと推測します。

 goo辞書の「経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態
度」というのは、仏教では否定される「信仰」だとおもいます。goo辞書のこ
の項目を書かれた人は、おそらく、仏教の信仰というものをご存じないのでし
ょう。

 わたしとしては、「信仰」という言葉を goo辞書 のような意味でのみつか
わなければいけない理由などはないし、実際、>>95 で引用した田村先生もそ
のような意味でつかわれてはいませんので、わたしが「信仰」という言葉を使
ったとしても、そのことによって、わたしの言いたいことが他人につたわらな
くなるともおもえません。そういう意味では、「信仰」という言葉のままでも
よいのではないかとわたしはおもうのですが、もしわめさんがそこにこだわら
れるのであれば、「信仰を捨て去れ」の中の「信仰」を含めて、たんに「信」
と読み替えて頂いても問題はないようにおもいます。「信」は日蓮もつかって
いる言葉なのでよいかもしれません。あるいは、「信仰を捨て去れ」という句
において「信仰」と訳されている原語の「サッダー」のままのほうがよいかも
しれません。

 わめさんは、「「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同
じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感があります」といわれますが、
肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべき「信」について
述べているところでも、初期経典では同じ「サッダー」という言葉がつかわれ
ているということをわたしは示しました。そういう意味では、わめさんは、初
期経典にも同様の抵抗感をお感じになられることとおもいます。わめさんのそ
の抵抗感は、わめさんと初期経典との間のズレに起因するものなのではないで
しょうか。

 少なくとも「信仰を捨て去れ」という句については、その句が埋め込まれて
いる文脈がかなりはっきりしています。この句を、goo辞書のような意味での
信仰を一般論として否定したものであると解釈することはひどく困難だとおも
います。たしかに切り文的にこの句だけを提示されたとすれば、ふつうの人は
そのように解釈するのかもしれませんが、それはたんに切り文だったというこ
とであって、あの句の解釈として誤っているということは動かないでしょう。
そのような切り文は、切り文をした人の思想を伝えるものではありえても、シ
ャカの思想とは無関係というべきではないでしょうか。

 わめさんは、「合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでし
ょうか?」といわれますが、ブッダゴーサも「自分の確かめたことだけを信ず
る」といっていますし、中村先生もそれを「合理主義の立場」[*]といわれて
いますから、「信じると言う」ことじたいが不適切なことであるとは、わたし
にはおもえません。

 残念ながら、もう時間ぎれです(涙)。続きはまたいつかやりましょう。

  [*] 『スッタニパータ』第851詩に付された中村先生の註(前掲『ブ
    ッダのことば スッタニパータ』、p.391-392)を参照。

104わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/31(火) 16:37:45
 Libra師匠、こんにちは。^^

 信仰について議論したいことがいくつかありますので、論点別に時間をかけて投稿したいと思います。

>  『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
> 〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
> が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
> ー」です[*4]。

 ブログ記事の『自灯明法灯明』*1のコメント欄、ひゃっきまるさんとのお話の中で「筏の喩え」*2の話で「目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。」との意見が出てきたのですが(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 00:19)、この「筏の喩え」*2と師匠の書かれている「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とは同じような意味があるように感じるのですが、ひゃっきまるさんは「比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)

この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。」(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 14:55)とおっしゃっており、この見解の「教え(法)を捨て去るべき」を「信仰を捨て去るべき」と解釈するならば師匠の言われる「仏教的信仰」も捨て去るべきものとなりましませんか?

*1『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html
*2 『信仰とその周辺スレから「筏の喩え」について』 http://wame.seesaa.net/article/9016740.html

105みれい:2006/01/31(火) 19:14:34
Libraさん

もういないですか・・・
最後までとても丁寧にありがとうございました。
読むものがたくさんあって短時間ではすべて吸収はできませんでしたが、説明はわかりやすかったです。
また次に会うまでにもう少しLibraさんのサイトも読み進んでいると思います。

Leoさん、引き続きこれからものんびりとよろしくおねがいします。

Libraさんの文を読んでみたら日蓮さんが中観派とおっしゃるのも自然に思いました。
今までの日蓮像にはない発想です。
そしてやはり中観派は日蓮だけではないと思います。
私はLibraさんの話される地獄や空、縁起の仏教観は学会以外で教わりました。
身近の創価学会員さんからはやはり空も縁起も聞いた事が無く、本人達も知りません。
今日丁度学会員さんにお会いしたので聞いてみると「法華経は輪廻よ。命はここで終わりじゃないの。宇宙の〜」とおっしゃっていたので「法華経にも空が説かれているそうで」という話をしたら、「??」でした。

また牧口さんが神格化否定にせよ、なぜ日蓮宗でなくて日蓮正宗だったのかはまだいまいちわかりませんが、日蓮正宗と離れるというご縁をいただけたのですから、Libraさん&Leoさんの提示する日蓮&法華経が創価学会でもスタンダードになってほしいと思います。やはり今のままではまったくの別物だと思えます。
そして釈迦に対して肯定してきたとはいえ、否定してきた昔と全く逆のことを平気で言う池田さんにもあらためてびっくりです。

今回のお二人のお話で、参考になるものがいくつか出来たので、活用させていただこうと思います。

脱線ついでに、学会員さんに日顕撲滅もたずねましたがノーコメント。残念。
あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。
まだ問題は今でも置き去りのままの気がします。
困った学会員さんとともに、私も勧持品を(ちょっとずつ)掘り下げつつ安楽行品もすすめたいと思います。

106Leo:2006/01/31(火) 22:39:44
ibraさん、お疲れ様でした。

みれいさん、こんばんは。

>Leoさん、引き続きこれからものんびりとよろしくおねがいします。

了解です。私は時々亀レスになってしまうことがありますが(今年は寒いですね)、
よろしくおねがいします(^^;

>Libraさんの文を読んでみたら日蓮さんが中観派とおっしゃるのも自然に思いました。
>今までの日蓮像にはない発想です。

やはり中観派というのは仏教の基準の(見方)ひとつになりますね。

>そしてやはり中観派は日蓮だけではないと思います。

そのようですね。LibraさんとA・S・Cさんのおすすめで浄土真宗の方の下記の本を買って
読んだことがあるのですが、彼らは法華経の伝統はないものの龍樹や般若経の伝統から
中観派の影響があると言えると思います。

  小川一乗 『大乗仏教の根本思想』 法蔵館、1995年

>私はLibraさんの話される地獄や空、縁起の仏教観は学会以外で教わりました。

私もそうでした。

私は5,6年前最初Libraさんとネットで出合った頃ものすごく反発してたんですが
おすすめの書籍やLibraさんの資料を読んだりして何ヶ月もかかって仏教の基本思想は
縁起・空・無我だなってことを理解することができました。

>身近の創価学会員さんからはやはり空も縁起も聞いた事が無く、本人達も知りません。
>今日丁度学会員さんにお会いしたので聞いてみると「法華経は輪廻よ。命はここで終わりじゃないの。宇宙の〜」
>とおっしゃっていたので「法華経にも空が説かれているそうで」という話をしたら、「??」でした。

新がつくまえの『小説人間革命』に書かれているように創価学会では教学は確信を持たせるための
ものだそうです。「なにも知らなくとも活動はできる」と現場での指導がありますし、
「仏教とは何か」について考える機会はなく(極端なことを言うと仏教はどうでもよいことに
なってしまいます)「確信を持たせるための教学」を教わってしまうのではないかと思います。

>また牧口さんが神格化否定にせよ、なぜ日蓮宗でなくて日蓮正宗だったのかはまだいまいちわかりませんが、

牧口会長の頃(戦前)は国柱会を中心とする日蓮主義がはやっており、牧口会長はご自分の教育論と日蓮思想を
プラスしようとしたのではないでしょうか。日蓮宗の北山本門寺では入信を拒否されて(牧口会長の教育論が余計
ということで)日蓮正宗の大石寺では入信を許されたとのことです。

>日蓮正宗と離れるというご縁をいただけたのですから、Libraさん&Leoさんの提示する日蓮&法華経が
>創価学会でもスタンダードになってほしいと思います。やはり今のままではまったくの別物だと思えます。

そうですね。その流れとしては学会員の方にも次の本を読んで欲しいですね。一番目の本は創価大学の先生
が書いた本です(日蓮本仏論を前提としない法華経の話です)。

  菅野博史 『法華経入門』 岩波新書、岩波書店、2001年
  田村芳朗 『法華経 真理・生命・実践』 中公新書、中央公論新社、1969年

>そして釈迦に対して肯定してきたとはいえ、否定してきた昔と全く逆のことを平気で言う池田さんにもあらためてびっくりです。

それが「なにも知らなくとも活動はできる」(裏返すと、なにも知らなくとも最高の地位を得た)の真骨頂なのだと
思いますし、悪いところと同時に良いところでもあるのではないでしょうか。
それに、彼は役回りとしては役者(俳優)のようなものではないでしょうか。スタッフ(台本)次第とも言えますし。

>脱線ついでに、学会員さんに日顕撲滅もたずねましたがノーコメント。残念。

阿部日顕氏が退座したから戦いは終わりではないか(一時代が終わった)と思うのですが...
そうではないようですね。

>あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。

『大白蓮華』の今月の御書講義を座談会の時読み上げるだけではないでしょうか。
(多少下調べするかもしれませんが...)

>まだ問題は今でも置き去りのままの気がします。

ううむ。そうなのですね。

>困った学会員さんとともに、私も勧持品を(ちょっとずつ)掘り下げつつ安楽行品もすすめたいと思います。

りょうかいです。

107マターリ:2006/01/31(火) 22:51:47
>わめ様、皆様、ご無沙汰しておりました。m(__)m

日蓮を御本仏と仰いだのは、江戸時代の日寛上人が初めてだったと思い
ます。日蓮自身は「上行菩薩の再誕」と言って、あくまでも釈尊の弟子と
いう立場を崩しませんでした。ですから、日蓮を仏としてではなく、
生身の人間として考えてあげないと御本人に可哀想な気がします。

108Leo:2006/01/31(火) 23:08:54
>>106 の続きです。

>>あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。
>
>『大白蓮華』の今月の御書講義を座談会の時読み上げるだけではないでしょうか。
>(多少下調べするかもしれませんが...)

御書学担当者と勘違いしました。通常は男子部の適当な人がやったりしますね。

「教授」は上級(青年教学1級)試験に受かった人のことですね。こういう人は地区では
いなかったりしますね。
上の方の教学試験に受かっているのに活動に出ない人もいれば、教学部(多分教授以上の人?)
(圏の教学部の人)の方で密かに現状に批判的な発言をポロっという人もいるので勉強している人は
消極的に密かにかもしれませんがなにか示してますね。

あと創価学会の教学部は無力化されているのだそうです。
(批判をやったりすると退転者が出るからなのだとか、
石田次男氏や原島嵩氏や福島源次郎氏のような人が出るのを恐れているのだと思います)
他の宗派では御書のCDROMを出したり研究が進んでいるのを見ると教学部の無力化
はやはりそうなのかなと思います。

直接組織には期待できないので個人個人が頑張るしかないように思います。
(いくらなんでも個人には制限はかけられないです)

109Libra:2006/02/01(水) 01:20:25
 わめさん、こんばんは。

 せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。

 ひゃっきまるさんとの対話は追跡しておりませんが、「筏の喩え」は、わた
し自身、先の[*6]でご紹介しておいたところです。

 わめさんのご主張は、相対主義が自滅するときの論法にとてもよく似ている
とおもいます。わめさんの論法からすると、「批判的合理主義は批判的合理主
義を捨てなければならない」ということになるでしょう。

 いうまでもなく、わたしは、「批判的合理主義は批判的合理主義を捨てなけ
ればならない」などとはおもいません。

 批判的合理主義は、「批判に耐えないものは捨てよ」といいます。いまのと
ころ批判にたえているものであっても、いつかは挫折してしまう可能性が大い
にあるのは確かです。だからといって、批判的合理主義は、「いまのところ批
判にたえているものを含めて、一切のものを捨てよ」などとはいいません。

 シャカの「筏の喩え」もおなじだとわたしはおもいます。今まで、どんな流
れをもみごとに横切ってきた優秀な筏があったとしても、いつか、流れにのみ
こまれてしまう可能性は常にあります。だからといって、シャカは、「筏はす
べて捨ててしまいなさい」などとはいっていません。シャカは、シャカ自身の
教えもふくめて、一般的に、教えとはそういうものであると正しくしりなさい
といっているのです。
 
 もし、将来、何らかの具体的な材料から、「シャカの教え(縁起説)は批判
に耐えていない」と感じたときには、わたしは、シャカの教えを捨てるでしょ
う。それが、「自分の確かめたことだけを信ずる」ということであり、「反駁
し得ないものとして説」かれているもののみを信じるということ(仏教的信仰)
です(>>93)。逆にいえば、反駁されてしまったものは信じないということで
す。

 註までふくめて、ていねいに読んでさえ下されば、きっと、わたしの主張は
理解して頂けるだろうとおもいます。

110みれい:2006/02/01(水) 01:27:02
>わめさん、

流れと全く関係ないのですが、
こないだわめさんのおっしゃりたかった「多元論」と関係しなくもない「宗教的多元主義」を見つけたので貼っておきます。

知人からジョン・ヒックを教えてもらって調べたら出てきました(名前色つきです)。
宗教哲学者です。
http://72.14.203.104/search?q=cache:dSZx3KW-NRsJ:www.bun.kyoto-u.ac.jp/user/sashina/sub14B11.pdf+%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%AF&amp;hl=ja&amp;gl=jp&amp;ct=clnk&amp;cd=1

http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_abstract9-1.html

http://72.14.207.104/search?q=cache:_ZtEaLroa1UJ:www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_newsletter8.pdf+John%E3%80%80Hick&amp;hl=ja&amp;gl=jp&amp;ct=clnk&amp;cd=6&amp;lr=lang_ja

111Libra:2006/02/01(水) 02:01:36
 みれいさん、こんばんは。

 みれいさんは、わたしの説明をわかりやすいといわれた最初の人物かもしれ
ませんね。

 日蓮は中観派といってよいとおもいますが、それはあくまでも、日蓮思想の
中心がそうであるということです。ちなみに、龍樹もまた「戦闘的」と評価さ
ることが多い人物ですね。

 先にも紹介しましたように、松戸行雄さんは、「日蓮滅後の教団化の過程に
おける解釈の相違と分流の問題〔中略〕の淵源は、日蓮自身が伝統的なコスモ
ロジー、神仏習合思想、聖霊信仰、天皇制、神国思想を是認する中で独自の法
華本門観心の立場を樹立していったこと、そしてその重層的な習合思想を未整
理のままにしておいたことにあると言えよう。」[*1]といわれています。

 日蓮の中には、中観思想だけがあるわけではなく、日蓮当時にあったいろん
なものが未整理のまま是認されてあるということですね。したがって、「今一
度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択す
る作業」[*2]が、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最
も大きな課題になってくるとおもいます(>>84)。

 これからは、日蓮の中にあるどのような視点を「現代思想として重要な視点」
として選択していくかというところに、各日蓮教団のそれぞれの特色があらわ
れてくるのだろうとおもいます。

 今回はこのへんで失礼します。またいろいろとご教示ください。


  [*1] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/119.html

  [*2] 同上。

113わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 02:39:33
 Libra師匠、こんばんはです。^^

>  せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。

 o(゜▽゜o)(o゜▽゜)oニパニパッ

 師匠、私のテキストがダメダメなのでちょっと論点がずれてしまったように思います。汗
 >>104 は思想・主義等についてのことじゃなく信仰についての議論のつもりで書いたもので、師匠は「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」と分けられましたが、この二つに使われた「信仰」は両方とも「サッダー」という語句を使っているとのことで、師匠のように「信仰」という言葉に別々の意味をつけてこそ理解が出来ますが、ブッダが何故意味の違う信仰について同様に「サッダー」と言う語句を付けたか、また意味が違うなら意味が違うという説明を何故つけなかったのかということに、師匠の説明でもその見解には私は疑問が残ります。

 そこで >>104 で書いたことは「サッダー」の指す信仰に区別はないのではないかと推測してみたのです。
 仏教という思想も他の思想(仏教以外の宗教等)も信仰対象という意味では同じだと思います。筏の喩えからも読み取れるのが、ブッダは正しい思想も誤った思想に対しても信仰対象とすることを否定されたのではないかと私は考えます。
 師匠のお示しくださった『ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)』で、『比丘たちよ、かくも清らかで明瞭なこの見解でさえ、あなた方がこれにしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着するならば、あなた方は、われわれの教えが筏に似たものであることを理解していないのだ。筏は流れを横切っていくためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。』との言葉にある「執着するならば・・・」は信仰を指す言葉と私は解釈しました。
 なので「かくも清らかで明瞭なこの見解」がブッダの教えであり、信仰(しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する)することを諌められているように思うのです。勿論「かくも清らかで明瞭なこの見解」は捨て去るものではないと思います。
 「かくも清らかで明瞭なこの見解」に対して信仰するものではなく、反駁しようのない教えであり納得するのが当たり前といったことではないでしょうか。

114わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 02:48:12

> 「かくも清らかで明瞭なこの見解」に対して信仰するものではなく、反駁しようのない教えであり納得するのが当たり前といったことではないでしょうか。

 表現が変だなw汗
 「かくも清らかで明瞭なこの見解」は合理的(信じなくとも明瞭に理解が出来るはず)であり、車に例えると人や物を運ぶ実用的な教えであり、その教えはしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する(信仰)ようなものではないと言ったほうが、私が思っていることをうまく表現できてるかも・・・

115わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 03:06:28
 マターリさん、皆さんこんばんは。^^

>>107

> わめ様、皆様、ご無沙汰しておりました。m(__)m

 シナプスさんちでの投稿は見させてもらってますので、私にはあまりご無沙汰感がありません。(^-^)

> 日蓮を御本仏と仰いだのは、江戸時代の日寛上人が初めてだったと思い
> ます。日蓮自身は「上行菩薩の再誕」と言って、あくまでも釈尊の弟子と
> いう立場を崩しませんでした。ですから、日蓮を仏としてではなく、
> 生身の人間として考えてあげないと御本人に可哀想な気がします。

 このスレッドの >>2 で書いてますが、第9世日有上人が最初だったと思いますが、日蓮久遠本仏論が宣揚されたのは第26世日寛上人だったと私も認識しています。

116わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 03:13:04
 みれいしゃん、こんばんは。^^

>>110

> こないだわめさんのおっしゃりたかった「多元論」と関係しなくもない「宗教的多元主義」を見つけたので貼っておきます。

 うーん、こないだのお話とは関係ないようなw汗
 紹介くださったサイトでは「宗教的多元主義」を述べているようですが、そこでも唯一絶対神(一元論)を神的実在と書いてますし、その上に立って包括的に他の宗教を包含する考え方が書かれているように思いました。

 って結構長いのでしっかり読んではいない(根性なしw汗)ので、私の解釈に誤りがあるかもしれませんのでその場合ご指摘くだされば幸いです。

117Libra:2006/02/01(水) 04:02:51
 初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッダー」という言葉で表
現しているのは、「サッダー」と言う言葉が、意味の違うそれぞれの信仰を含
みうるより広い意味の言葉だからでしょう。

 初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したものではありません。
実際に話されたさいには、どちらの意味で「サッダー」と言う言葉を使ってい
るのかが文脈から明らかでない場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文
脈から明らかな場合には説明はなかったでしょう。

 わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
ません。

 「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する」というのは、たしかに
仏教では否定されるところの「信」でしょうが、そのことは今の議論とは無関
係だとおもいます。そのようなものではない「信」を仏教は肯定していますし、
それを「サッダー」と表現しています。

 わめさんは、どうしても、「信仰」という言葉を《仏教で否定される「信」》
という意味にのみ限定して使用されたいようですが、そのこだわりは捨てるこ
とができないものなのでしょうか。初期経典の表現やオーソドックスな解釈を
無視してまで、そのことにこだわる必要がどこにあるのか、わたしには全く理
解できません。

 「自分は信仰を捨てた」と自己解釈されるわめさんにとっては、仏教とは信
仰を否定するものでなければならないのかもしれませんし、別の動機があるの
かもしれませんが、いずれにしても、シャカが「信仰」という言葉を否定的な
意味でのみ使ったなどという説にはわたしは賛成いたしません。

118Leo:2006/02/01(水) 06:49:03
みなさん、おはようございます。

>>106 ibiraさん -> Libraさん

>>108 (圏の教学部の人) → (区の教学部の人)

どうも書き間違いが多くてすみません。

区の教学部長が男子部が池田先生、池田先生と叫んでいるのは間違っている。
御書根本だから御書をもっと勉強しなければいけないという意味のことを
いった人がいるという話を聞いて(これは又聞きですが)少し驚いたことがあります。
(その方はどうなったかわからないのですが気になります)

第一次、第二次宗門問題のときに活動家だった人が非活動になったとも聞きます。

いずれにせよ教学がずっと危機的状況にあるのは間違いないようです。

一方で、LibraさんやA・S・Cさん(2〜3世の方)は本を読んだり、自分で考えたりして
学生部の時分にはもう学会がおかしいと思ったのですね。
池田氏は青年に「本を読め」と言いますが、確かに本を読むのはよいことです(^^;

私はというと学会員の幼なじみがいて学会にはそれほど違和感がなかったのですが
(幼なじみは私を折伏することはありませんでした)
ひょんなことから入会したのです。
自分は所詮もともとよそ者だしということで自分を自分で妄信状態に追い込んで
いたというところがありました。
LibraさんやA・S・Cさんに色々ご教示いただいたり、皆さんとの出会いがあったりして
学会の意味は大いにあったですね。

あとLibraさんが『小説人間革命』読まない派だということは面食らいました。
読んじゃいけない本もあるのですね。
(私の頃は『小説新人間革命』が出版される前でした)

119Leo:2006/02/01(水) 07:07:05
>自分は所詮もともとよそ者だしということで自分を自分で妄信状態に追い込んで
>いたというところがありました。
>LibraさんやA・S・Cさんに色々ご教示いただいたり、皆さんとの出会いがあったりして
>学会の意味は大いにあったですね。

こういう状況で思い出すのがトインビーの歴史観です(飛躍し過ぎ?)。

トインビーの歴史観によれば旧日本軍の侵攻は欧米の支配下にあったアジアの独立を促した
とされます。学会は「旧日本軍」に相当するのかなと。
(だからといってマイナス面も捨て置けないような...)

121わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 12:37:33
 Libra師匠、皆さんこんにちは。^^

>>117

>  わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
> 際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
> ません。

 信も正信や盲信などで意味が違ってきますから、私もどのような信仰もすべて忌避すべきものとは思っておりませんし仏教的にもそうだと思います。
 ただ信仰という言葉の意味がgoo辞書にもありましたように「神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。」と言うようなイメージが一般的に定着しているように思いますし、『シャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないものとして説」かれているとしか思えない時に生じる』のが「仏教的信仰」であるならば、現代において当たり前にあると思われている「引力」とか「遠心力」に対して”当たり前にある”と思うことも「仏教的信仰」であると言えるのではないでしょうか。
 私はこの”当たり前にある”ような(反駁し得ない)ことを「仏教的信仰」と呼ぶことにもまた信仰するということにも違和感を感じるのです。
 ブッダの教えも「引力」や「遠心力」も”当たり前にある”ものであって人が生きていくために活用することが大切で、それは”当たり前にある(正しい)”と常識的に捉えていけばよいのではないでしょうか。
 そこに至るまでの途中段階として、ブッダの教えを吟味するにあたり信も必要であるのかもしれませんが、それが自身の中で信が確信に、確信が当たり前にあるものとなっていくように思います。
 この当たり前に思うことが「清らかで明瞭なこの見解」を正しく理解したということではないでしょうか?

 話が前後しますが信仰(信)という精神的な”思い”は、理性・合理的に当たり前に”思う”ことに比べ、その”思い”の強さは弱く不安定であるように私は思います。

 私は言葉足らずが多くて、受け手に妄想を生みそうな仏教用語を使うのはなるべく避けたいと思っております。涙

122マターリ:2006/02/01(水) 13:09:11
日蓮の性格は、千葉県生まれということにも影響されていると思います。
私は、千葉にいたことがありますが、あの辺の人はストレートに物を
言う性格をもっています。まわりの人の気持を考え、なごやかに過ごす
という感じではないです。昨年のロッテ選手に見られる、「野武士的
性格」があると思います。

また、ご両親が漁業を営んでいたということも影響していると思います。
漁業は「板子一枚下は地獄」というように、豊漁か不漁か、生か死かという
ような仕事です。日蓮も当然ながら漁業を手伝っていたと思われます。

そうした厳しい仕事の体験が、法華経にのめり込む一因だったのではない
でしょうか?また「地獄」を繰り返し言うのも、生死のはざまを行き来す
る厳しい仕事の記憶をたどっていたせいではないでしょうか?

123みれい:2006/02/01(水) 19:36:07
>わめさん

わめさんの言う「絶対神」の一元論と仏教の一元論は意味合いが異なります。
でもこの話はもうやめておくので、Libraさんの話の理解のほうに努めてください。

>Libraさん、

ありがとうございました。といいつつ書き残し。夏にでも。
私の「わかった」は、まだまだごく一部に過ぎない自覚があります。
少しでも一般仏教の知識と専門用語がわからないとLibraさんのサイトは理解できません。
酸素ボンベをつけずに海の中に潜るような感じで、すぐ出てしまうでしょう。
私もぎりぎりですが、いずれ魚になってみたいと思います。

>日蓮の中には、中観思想だけがあるわけではなく、日蓮当時にあったいろん
なものが未整理のまま是認されてあるということですね。

>これからは、日蓮の中にあるどのような視点を「現代思想として重要な視点」
として選択していくかというところに、各日蓮教団のそれぞれの特色があらわ
れてくるのだろうとおもいます。

日蓮さんえらいもん残してくれました。

124みれい:2006/02/01(水) 19:37:24
>Leoさん

レスは亀でもカタツムリでもかまいません。私もマイペースです。

>私は5,6年前最初Libraさんとネットで出合った頃ものすごく反発してたんですが

ええっそんな最近なんですか。これまたびっくりです。もっと昔からいるイメージです。

>日蓮宗の北山本門寺では入信を拒否され

やはり、戦前という時代の影響があったわけですね。牧口さんも、せめてあと2回は日蓮宗の門を叩くべきでしたね・・・

>学会員の方にも次の本を読んで欲しいですね
菅野博史 『法華経入門』 岩波新書、岩波書店、2001年
 田村芳朗 『法華経 真理・生命・実践』 中公新書、中央公論新社、1969年

ブログでも学会員さん&元学会員さんにお勧めさせていただきます。
ちなみにLeoさんがサイトに載せられている友岡さんも、いい事書いていると思います。
http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/c/e4800f61366a0ac2ef39b6932aa48d5e
Leoさんのサイトもあらためて勧めておきたいです。
川田洋一さんは良く知らないのですが、何か残されてますか?
私は河合隼雄さんと対談したものをみかけました。
町でのめいわく行為について突っ込まれていたのに関してはその本ではコメントなしでしたが。

>悪いところと同時に良いところでもあるのではないでしょうか。
それに、彼は役回りとしては役者(俳優)のようなものではないでしょうか。スタッフ(台本)次第とも言えますし。

う〜ん、いいところといえば・・・なんだろ?損害賠償しなくて済むとか。
最近のシナリオライターさんはチョンガーさんの提言(と同じもの)もいつのまにか取り入れているそうです。
>「教授」は上級(青年教学1級)試験に受かった人のことですね

地区によるのですね。
危機的状況は、それだけズレがしょうじているのがわかる、ということでしょうか。
うちの地域では教授はいましたが(女性)地域は前回の答えのままです。

私も人間革命は小学生〜中学生の頃に読み終わりました。新は1巻しか読んでいません。
あれで公宣流布を覚えました。ようやく忘れてきました。

125みれい:2006/02/01(水) 19:38:32

今日買った雑誌の社長さんの言葉に
「心は理と情で動くものだ」というものがありました。
日蓮さんをあてはめてみると、「理」(理論的という意味で)の面では高度なアプローチがあるかもしれませんが、逆に「情」の面でのアプローチがまだまだ弱い、とも言える気がします。
ゆえに勘違いして情が戦闘的になる傾向が増えると。
また勘違いしなくても、釈迦の教えに忠実でない限り、日蓮の弟子はそうなる傾向はあるのではと。
その補強に日蓮の書簡を意識した本が出されてみたり、安楽行品からのアプローチをはじめてみる方がいたり、ということなのかな、とも思えます。
逆に日蓮さんの「理」はおきざりにして池田さんの「情」のアプローチだけで進んでいるのが創価学会かもしれないと。非常に情熱的です。
ゆえにメンタルでの被害が出ます。
そしてLeoさんのおっしゃる教義的な危機も、そこかと。

なにかと忙しい現代人は、高度な理から入って理解するのはなかなか困難です。
ゆえにとりあえずわかった気がする情からのアプローチはもってこいだったりすると思います。

鎌倉時代の中では情からのアプローチは親鸞さんが上手いのではと思います。
ちょっと女性ファンが多いのもそのおかげかもしれません。

126みれい:2006/02/01(水) 19:41:25
>マターリさん、

千葉県の気質、とても興味があります。
日蓮さんはそれほど貧しい生活ではなかったという説もあります。
それにしても、やたら地獄という言葉を使うのは、困りますよね。

127Leo:2006/02/01(水) 22:24:50
みれいさん、みなさん こんばんは。

>ちなみにLeoさんがサイトに載せられている友岡さんも、いい事書いていると思います。

そのようです。

○『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/016.html
「何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあります。
 一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。」

○ ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm
「権力の呪縛からの解放という、仏教のメインテーマはどこにいってしまったのでしょう。
 悪しき業報因果論にはこういう陥穽(かんせい)が潜むのです。」

○呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/042.htm
「「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、
 「法を語る者」となることを主張する。そうすることによって、「法華経」は、
 呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。」

>川田洋一さんは良く知らないのですが、何か残されてますか?

川田洋一さんは東洋哲学研究所(http://www.totetu.org/)の所長さんですね。

川田洋一さんは著作は下のリンクのように色々ありますが「生命論」系の方ではないでしょうか。
http://esearch.rakuten.co.jp/rms/sd/esearch/vc?sv=30&amp;sitem=%C3%F8%BC%D4%CC%BE%A1%A7%C0%EE%C5%C4%CD%CE%B0%EC

128Leo:2006/02/01(水) 22:42:49
(続き)

>う〜ん、いいところといえば・・・なんだろ?損害賠償しなくて済むとか。

会則改正を見ると役員などの一切の責任職についていないことがわかります。
たとえ学会にどんな不祥事が発生したとしても捕まることはありません。
著作を彼の名前にしておけば古い学会の著作に名前ののっていた原○氏や福○氏の
ようようになってしまうことがありません。

>最近のシナリオライターさんはチョンガーさんの提言(と同じもの)もいつのまにか取り入れているそうです。

ええっ?そうなんですか。

まあ『法華経の智慧』(生命論を強調してしまっている部分もありますが)や、
『池田名誉会長の青春対話』のスタッフもなかなかなものがあったと思います。


「真摯な学問的成果なら、大いに受け入れるべきでしょう。」
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p. 91)
http://freett.com/Libra0000/kangaeyou_03.html

「法華経では「一切衆生の成仏(じょうぶつ)」が仏(ほとけ)の一大事因縁(いちだいじいんねん)、すなわち、
 仏がこの世に出現(しゅつげん)した、最大(さいだい)で究極(きゅうきょく)の目的(もくてき)であると説かれている。
 滅後の衆生、特に末法という濁世(じょくせ)の衆生を救(すく)わなければ、その理想(りそう)は叶(かな)えられない。
 だから滅後(めつご)の衆生(しゅじょう)のための教(おし)えを仏(ほとけ)が説(と)かないはずがない。
 そのための慈悲(じひ)の経典(きょうてん)が法華経です。」
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、pp. 62-63)
http://freett.com/Libra0000/z018.html

「歴史観を養え!歴史の「真実」を見抜け!
 ほとんどは「勝者が書いた」歴史
 (中略)
 その歴史は、永遠の流転の一コマですが、真実をきちんと残し、積み重ねていかないと、
 正しい歴史観がゆがめられ、また未来に不幸を重ねてしまう。
 正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。
 歴史は、ゆがめたり、歪曲したりしてはいけない。歴史をつくってしまっては小説になってしまう 。
 悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。
 歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければなりません 。」
( (池田大作 『池田名誉会長の青春対話③―21世紀の主役に語る―』 聖教新聞社、1997年、pp.100-102)
http://page.freett.com/leo020503/note007.html

129ひゃっきまる:2006/02/02(木) 00:09:06
わめさんに僕の発言の引用があると聞いたのでちょっと確認までに覗いてみました。

>Libraさん

まだいらっしゃるのでしょうか?
おそらく5年前か6年前と思いますが、少しだけメールのやりとりをさせていただいたことがありました。
その際はありがとうございました。

130わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/02(木) 03:59:53
 皆さんこんばんは。^^

みれいしゃん

> わめさんの言う「絶対神」の一元論と仏教の一元論は意味合いが異なります。

 「絶対神」の一元論は、世界の成り立ち(の原理)がすべて神によって成されたという意味での一元論ですので、私も意味合いが異なると思います。

> でもこの話はもうやめておくので、Libraさんの話の理解のほうに努めてください。

 ( ̄▽ ̄)ゞラジャ


ひゃっきまるさんいらっしゃい。こちらでは初登場ですね。(⌒〜⌒)ニンマリ

> わめさんに僕の発言の引用があると聞いたのでちょっと確認までに覗いてみました。

 >>104 です。勝手に引用しちゃいましたw(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

> まだいらっしゃるのでしょうか?

 微妙なところかもw(^^;;

 >>91 からLibra師匠と信仰について議論しています。

 その中でひゃっきまるさんのコメントを引用させてもらったのですが、「なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである」の善き教えは「いまのところ批判にたえている」教えだと思うのですが、この善き教えが筏とするならば川を渡り切れば必要ないものとして釈迦は「捨て去るべきである」と言っているように私は思うのです。

 よかったらひゃきまるさんのご意見もお聞きしたいところです。^^

Libra師匠

 もしかしたらLibra師匠と私とでは「善き教え」の捉え方が違うのかなって思ったりするのですが、師匠はこの「善き教え」に縁起の思想まで含めておられて、私は「善き教え」を目的を達成するための実践・修行方法であって縁起の思想は含まれていないと思っています。
 なので目的が達成されれば実践・修行方法(善き教え)も、それに対する信仰も必要なくなるのではないかと思いますし、ひゃきまるさんのコメントから引用させていただいた上記部分も私は違和感なく読むことができます。

131Leo:2006/02/02(木) 23:55:58
みなさん、こんばんは。

「筏のたとえ」ですが、佐倉哲さんのHPにも資料がありますね(わめさんも引用してたページと
違うページにも引用されています)。「筏のたとえ」とは「ドグマへの信仰」を捨てよといっている
のであって、「正しい理解」や「真実・真理を知ること」まで捨てよとはいってないのではないでしょうか。
陸に上がって筏をかついでいるのは確かにおかしいですが、なんでも捨てろだったらたとえば砂漠を行くのに
ラクダや水や食料や地図を捨てるんでしょうか?!
2番目の資料ではブッダの主張も暫定真理だというニュアンスはあるかもしれないですね。

「(3)信仰ではなく、「正しい理解」による
(中略)
ブッダは見解(ドグマ)への執着を捨てることを説いたのですから、ドグマへの信仰はブッダの思想に似合いません。
 人間苦の原因やそれからの解放に関する真実・真理を知ること、それこそがブッダの思想に似合うものと思われます。

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。
  悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism31.html

「もうひとつ、仏教には、有名なブッダの「筏の教え」というのがあります。ブッダ自身が、自分の教えを「筏」にたとえて、
川を渡るのに大切な筏も、川を渡ってしまえば必要ないものとなるのだから、捨てるべきである、
と教えたという仏典の記録です。

比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。
 (中略)
(マッジマ・ニカーヤ 22)

 ブッダは自らの教え -- その中には「一切は壊れる」という無常の思想も含まれますが -- を「永遠不変の真理」
 として主張はしなかった、と思われます。」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud078.html

132Leo:2006/02/03(金) 00:13:31
(続き)

「筏のたとえ」の「大水流」は「煩悩」、「彼方の岸」は「涅槃」ではないでしょうか。
煩悩を制し迷いの生存を脱して涅槃に達せば、煩悩を制する教えなどが必要なくなるのは
当然なのですね。

「筏のたとえ」は「釈迦の教えは最初からいらないよ〜ん」ではないことは確かなようです。
でなければ経典などで釈迦が比丘に精進をすすめているのはおかしいことになってしまいます。

133Leo:2006/02/03(金) 00:20:55
続き)

(こういうこと書いているととまらなくなってしまうので、いかんです(^^;)

たとえばある人が激流を渡って筏を捨てたとします、がその人はまた激流にはまってしまった。
その人は言います、「釈迦が筏を捨てろといったんだから俺は筏は使わない。」
その人はおぼれてしまいいました。

これは「筏のたとえ」が「ドグマ」になった例ですね。

134Libra:2006/02/03(金) 00:27:25
>>130 

 わめさん、こんばんは。

 同じことを何度も何度も書かなければならないというのはものすごく苦痛な
ので、どうかどうかこれ以上はご容赦ください。あとは読者の方々とも自由に
検討して頂いて、よろしくご判断いただければさいわいです。

 わめさんはすでに目的を達成されており、シャカの教え(縁起説)も、もう
不要であるとのですが、それならばたいへんけっこうなことです。もちろん、
そのような方にとっては、わたしのコメントなどはそもそも不要でしょう。

 残念ながら、わめさんとはちがって、わたしの目の前には、まるでワンピー
スに出てくる「グランドライン」のような、激流渦巻く大海がはてしなく横た
わっています。それは、少し前に進むのさえもこわくなるくらいに広大です。

 しかし、さいわいなことに、わたしには、シャカ&ポパーの筏と、「嵐が来
たら肩組んで その先の希望を見」たいとおもえる「善き友」がいます。だか
ら、彼らとなら、これからも進んでいけるとおもえます。七色の風を切り、冒
険の海へと。

135わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:29:39
 Leoさん、皆さんこんばんは。^^

> 「正しい理解」や「真実・真理を知ること」まで捨てよとはいってないのではないでしょうか。

 「正しい理解」や「真実・真理を知ること」、知ったことや理解したことはどうあがいても捨てられないように思います。(^^;;
 知る・理解する・納得するなどは信仰のように捨て去ることができないように思います。

> 陸に上がって筏をかついでいるのは確かにおかしいですが、なんでも捨てろだったらたとえば砂漠を行くのにラクダや水や食料や地図を捨てるんでしょうか?!

 「善き教え」とは涅槃(彼方の岸)に至るための実践・修行法だと思うので、目的(涅槃)が果たせた場合には必要がなくなり、涅槃を目的にしない方には元々「必要がない」ものなのではないでしょうか?

 一つひとつ議論をしていきたいので「ドグマへの信仰」についてはまた改めてお返事したいと思います。

137わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:38:17
 Leoさんにお返事かいてたら師匠の書き込みがきたわ。(゜▽゜*)ニパッ♪

 Libra師匠こんばんは。

>  わめさんはすでに目的を達成されており、シャカの教え(縁起説)も、もう不要であるとのですが、

 (ノ゜⊿゜)ノあうぅ!! そんなことはどこにも書いておりませんし、縁起は暫定真理として私にとっては今のところなくてはならないものです。(>▽<;; アセアセ

 シャカ&ポパーの説を必要とすることを師匠は信仰と呼び、私は知る・理解・納得・腑に落ちると呼んでいるだけかもしれませんが・・・

138Libra:2006/02/03(金) 00:39:41
>>129

 ひゃっきまるさん、こんばんは。

 お名前だけは記憶にあるのですが、恥ずかしながら、肝心のやりとりの中身
をまったく記憶しておりません。もうしわけなくおもいます。

 ここに参加してしまったこともありまして、今のわたしは、やらなければな
らないことに押しつぶされそうになっております。どうしよ(汗)。

 そういうわけなので、残念ながら、今はまだ、ひゃっきまるさんとじっくり
とお話できないのですが、またの機会にお話をお伺いできればありがたいです。

139わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:50:46
 Leoさん

> 「善き教え」とは涅槃(彼方の岸)に至るための実践・修行法だと思うので、

 釈迦の説かれた実践・修行方法は涅槃に至るための「善き教え」であるとしても、その実践・修行方法でなければ涅槃に至れないわけではないと思いますし、もしかしたらもっと良い実践・修行方法があるのかもしれません。

 私はこの涅槃に至るための実践・修行方法(善き教え)は、縁起などの暫定真理を元にして考え出されたもので、「涅槃に至るための実践・修行方法(善き教え)」と、縁起などの「真実・真理を知ること」はまったく別ごとと考えています。

140Libra:2006/02/03(金) 00:51:20
>>132

 Leo さん、こんばんは。

 ワンピースでいうなら、Leo さんは誰になりますかね。ウソップ?(笑)

 あとは頼みました…。正直いって、もうそれしか言えない(涙)。

141わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 01:22:15
 Libra師匠、忙しい中ありがとうございました。m(_ _"m)ペコリ

 Leoさん、よかったらこんな私を見捨てないでお相手をしてください。。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

142わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 02:29:20
 Leoさん

 釈迦の涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法は四諦・八正道で、日蓮は摂受・折伏(化他行)・題目行(自行)だと私は思いますが、釈迦と日蓮では涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法が違うように思います。
 このどちらが涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法として勝れているかは分かりませんが、この両方が涅槃(成仏)に至るための正しい実践・修行方法だとするならば、実践・修行方法は一つではないことになります。
(瞑想行も加えると3つになりますが。これを言い出すと禅もあるいはキリスト教だってそうかもで一杯出てきそうw)

 私にはどの実践・修行方法が涅槃(成仏)に至れるのか、あるいはどの実践・修行方法が一番早く涅槃(成仏)に至れるのかが分かりません。(楽しくとか簡単にとかも考慮に入れると余計に分かりませんがw汗)
 また私にはこの3つ(瞑想行も入れて)の実践・修行方法がそれぞれ正しいのか間違っているのか分かりませんから、私が涅槃(成仏)に至ることをもしも願うとしたら、この場合どれが正しいのか理解できていないわけで、どの実践・修行方法を実行するにしてもそこに信仰が必要になると思うのですが、この場合の信仰は正しい信仰姿勢と呼べるのでしょうか?
 私はこの場合の信仰は「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」するような誤った信仰のように思いますが、それでもこれらの実践・修行方法が(運よく)正しければ、実践・修行方法に忠実に実践すれば(激流を渡るなどの)目的は果たされるのかもしれません。

 あるいは私が縁起の思想などからこの3つの実践・修行方法を吟味して明解に判断できたとするならば、その場合にも信仰は必要なのでしょうか?

 釈迦の言われた「清らかで”明瞭”なこの見解」は、心が何かに囚われていなくてそれなりの智慧があれば信仰は必要なく、理解・納得し実践できるように私には思えてならないのです。

 以上述べたことは仏教の枠から外れた私のとんでもない我説かもしれませんが、「信仰を捨てよ」・「清らかで”明瞭”なこの見解」・「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とも符合するように思います。

143わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 03:02:53
 訂正w
>>142

>  私はこの場合の信仰は「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」するような誤った信仰のように思いますが、それでもこれらの実践・修行方法が(運よく)正しければ、実践・修行方法に忠実に実践すれば(激流を渡るなどの)目的は果たされるのかもしれません。

 上記の「実践・修行方法に忠実に実践」するならば、「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」ではないですね。汗
 「実践・修行方法に忠実に実践」じゃない場合に「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」してしまうと言うことか・・・

144わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 19:10:29
 Leoさん皆さんこんばんは。^^

 改めて信仰(信)に関するコメントを読み返して( >>69 >>70 >>92-97 )みましたが、まだ我説を翻すに至っておりません。涙

 >>69 でLibra師匠の言葉として「わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいます。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとおもいます。」とあり、少なくとも佐倉哲氏の仏教理解は研究・考察というアプローチであったと思いますし、私は佐倉哲氏のテキストから「仏教に信仰の必要性」を読み取ることが出来ませんので、正しい仏教理解に必ずしも信仰が必要とは言えないように思います。

 ただ >>93 の「自分の確かめたこと」だけを信ずるのが仏教的信仰とすると、佐倉哲氏のアプローチも仏教的信仰になってしまうのかもしれませんし、ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰となってしまうと思いますし、物理法則その他諸々を「自分で確かめて」支持することも仏教的信仰となってしまうのではないでしょうか。そうだとすると釈迦の時代はともかく現代においてそれらに信仰という語句を使うのは誤解を生む可能性が高く適切でないように思ってしまうのです。
 あるいは仏教に対する仏教的信仰とそれ以外とに何か大きな違いがあり、私はそれに気が付かずに一緒くたにしてしまっているのでしょうか?

145Leo:2006/02/03(金) 22:35:35
わめさん、こんばんは。

Libraさんは「仏教に信仰の必要性がある」と主張したのではなく
「仏教的信仰とは本来こういうものである」と説明されたのですね。
(確かに一般的な「信仰」のニュアンスとは違うという注意点はあります)

Libraさん曰く:
「わめさんは、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という言葉を、《何か
 を信仰すること一般》をすべて否定する言葉だと解釈されているようですが、
 このような解釈は妥当ではないとわたしはおもいます。」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/91
2.中村説批判
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/92
3.仏教的信仰とは
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/93
4.日蓮の信は仏教的信仰といえるか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/94
5.『法華経』の信は仏教的信仰といえるか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/95
「今回は、まず、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という表現を《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉であると解釈することは困難であ
るということを示し、そして、《仏教において肯定される「信仰」》とはどの
ようなものなのかということについてのわたしなりの理解を述べてみました。
そのうえで、『法華経』およびその信者である日蓮や牧口の「信」についても
一瞥してみました。 」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/97
[註]
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/97

146Leo:2006/02/03(金) 22:45:11
私なんかも時々ある(あった)のですが、師匠を困らすようなことは避けましょう。
以下の原始仏典の言葉(全部)をかみしめて...

『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)、三の集まり 大なる章 67

(抜粋)
「討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
 比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、
 仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、
 このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

 比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立て、
 仮定とするものをはっきりと立て、了解した論議をはっきりと立て、方法をはっきり立てるならば、
 このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。」

(心にしみる原始仏典(マニカナ・エムさん)、http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/mahavagga.html

147わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 23:17:47
 Leoさん皆さんこんばんは。^^

> 私なんかも時々ある(あった)のですが、師匠を困らすようなことは避けましょう。以下の原始仏典の言葉(全部)をかみしめて...

 まずこちらからお返事します。 私のコメントは言葉足らずの上に倫理性にも欠けているようで、お相手してくださる方に忍耐力を強いる面があると自覚しています。涙
 このように自覚していますので私なりにはしっかり努力しているつもりで、投稿前のテキストも何度も読み返してからの投稿になっているのですが、この”私なり”が曲者なのか、テキストを書く・議論をするなどに不慣れだからか、自身の誤謬の発見と訂正に性急過ぎるあまりになのか、あるいはそれらの要因をすべて含むのか等で今回は師匠を困らす結果になってしまったようです。

 今回Leoさんから提示くださった引用とリンク先も参考に、早急に直していけることは早急に、すぐには無理なことも少しづつでも直していきたいと思います。

 ご指摘ありがとうございました。

148わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 00:00:00
 私は師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”については正しい見解だと思います。
 また釈迦の「信仰を捨てよ」には、この”「仏教的信仰」の中身”は含まれていないと思いますので、捨て去るべきものではないと思います。

 私が言いたいのはそれを信仰とか信じると言う言葉で表すのは如何なものかと指摘しています。

 なぜかと言えば、その一つはLeoさんも言われているように『一般的な「信仰」のニュアンスとは違』い、読み手に釈迦が否定した信仰と同様に思われる可能性が少なからずあるということ。

 二つ目は、自灯明法灯明』*1の記事で書きました「ダンマパダ、97には『何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)』」の、”何ものかを信じることなく”は信仰をも指す言葉であり、また「佐倉哲氏はブッダの「信仰を捨てよ」の言明について『この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。 『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』 』」とあり、これらの言葉からすると師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”から言えば、それを”信仰”や”信じる”と言うことは否定されるべきものとなってしまうように思いますし、”「仏教的信仰」の中身”は信仰・信じるなどの不安定・非合理性を含んだ表現は妥当ではなく、正しく理解するとか納得するなどの合理的・安定的な言葉が相応しく思うからです。

 3つ目は、正しく理解するとか納得するなどには智慧が必要に思いますし”「仏教的信仰」の中身”は信仰・信じることよりも智慧が要求され、智慧は釈迦も日蓮も信より上位に位置づけているように思います。この観点からも信仰・信じるとの表現は相応しくないと思います。

*1『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

149Leo:2006/02/04(土) 00:32:17
わめさん、こんばんは。

>まずこちらからお返事します。 私のコメントは言葉足らずの上に倫理性にも欠けているようで、
>お相手してくださる方に忍耐力を強いる面があると自覚しています。涙

いえいえ、私なんかもネットに出てきた頃はアンチの方々から(懐かしいなあ)創価人は日本語がわから
ないから小学生からやり直せといわれましたよ。アンチの方々は別に倫理性はもとめてなかったようで、
ということは求めるのは論理性でしょう(まさか語学ではないでしょう)。
Libraさんの求めるのも論理性じゃないでしょうか。こんな参考書のご紹介がありました。

三浦俊彦 『論理学入門 推論のセンスとテクニックのために』 NHKブックス、日本放送出版協会、2000年

あとなにごとも焦らず急がずですね。以前私もLibraさんの資料読んで理解するのにものすごく時間
かかりました。最初の頃はLibraさんのホームページの内容全部印刷して本のようにして読んで、
ポイントをラインマーカや赤ボールペンで線ひいてました。
お小遣いが潤沢ではないんですが本も読みました(なるべく文庫本中心)。
学会教学や指導に悪い意味でハマッていた状態から抜け出すには(信じないだけではまだ抜け出せていないんです、
ここがコワいとこ)仏教の勉強もありますがもっと基本からやり直す(やり直すというより新規勉強の場合もあり)
というのも意味のあることだったりします。
(経験者Leo談)

150Leo:2006/02/04(土) 00:47:51
>Libraさんの求めるのも論理性じゃないでしょうか。

論理性というよりむしろ思考力といった方が正解でしょうか。

そういえば、私が昔Libraさんに指摘貰ったのは【鰻のように散乱した説】ですね。
(思い出してしまった)

「仏教では、肝腎な論点を外してノラリクラリと鰻のように話を展開する答弁を「鰻のよ
うに散乱した説」[注1]と呼んで忌避しています。」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html

○真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://page.freett.com/Libra0000/011.html
「しかるに、そういう明確な主張命題の提示がないばかりか、重要な問題についても断えず論点をはぐらかして
 鰻(うなぎ)のようにぬらりくらりと周辺の問題ばかりに言葉を費すのを仏教では amara(_)-vikkhepa
(鰻のように散乱した説)と呼んで一番恥ずべきこととされております。」

あと、Libraさんが懸念してたのは「真の「論争」の欠如」と「そのたびごとにイロハから始まる」
ということでしたね。

「丸山真男が『日本の思想』において「諸思想間の真剣な対決を促すことあまりにも少な
 いわが国の知的風土における思想的「無限抱擁性」あるいは「雑居性」を批判」[注1]し
 てからもうずいぶんたちますが、いまだに、わが国には「真の意味での「討論の精神」」
 [注2]が欠如しているのかもしれません[注3]。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残
  されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そ
  こでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まる
  と、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。

  (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html

151みれい:2006/02/04(土) 02:04:17
わめさんは言葉の相応しさを提案して、そしてどうしたいのかと。

152わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 03:12:18
 Leoさん、みれいしゃんこんばんは。^^

 Leoさん、またまたアドバイスありがとうございます。ぺこ <(_ _)>
 この話題については他の方に読んでいただく場合も 「議論しませんか?(議題検討スレ)」がいいかなと思いますので、私からのお返事や、またアドバイスを頂けるのでしたらそちらでお願いしたいと思います。

みれいしゃん

> わめさんは言葉の相応しさを提案して、そしてどうしたいのかと。

 質問の趣旨が漠然としてましてこのお返事は難しいです。(^^;;
 でももしかしたら『未来的にどうしたいかのために「言葉の相応しさの提案」を書いたわけでもありません』が、みれいしゃんが求めるお返事になるのかもしれませんが、質問の趣旨がよく分かりませんので的外れなら申し訳ないです。
 また改めて質問の趣旨をご説明くだされば、それに応じたお返事が出来るかもしれませんのでよろしくお願いいたします。

153Leo:2006/02/04(土) 23:43:53
>このような「信は慧の因」の話は「日蓮考察」スレに戻ってやったほうがよかったかもw汗

わめさん、上のご意見でこのスレに戻りました。

>私が気になったのが「日蓮考察」スレの師匠の93、94の慧と信の関係なのですが、「仏教的信仰」以外の
>信仰も「信は慧の因」が成り立つのではないかと思うことです。

>それと3番目に関わることだと思うのですが上記の慧と信の関係、93の「慧に基づいた信」と94の「信は慧の因」が
>一見ループしちゃっているように思うのです。

>ループを避け慧を中心に少し角度を変えて考えてみると、94の「信は慧の因」(聞法位・信解脱)はやがてそれが
>93の「慧に基づいた信」になると言うことだと考えることもできるのですが、94の「信は慧の因」も
>「慧によって煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生じていることとである」とあり、
>やっぱりそこにも慧は必要であると書かれているように思います。とすると94の「信は慧の因」の前提として
>慧が必要となるのではないでしょうか。

>上記の解釈から94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、
>その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に
>該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。

信解脱のポイントは「智慧が不十分な段階でも」「心に少しでも清浄な部分」があるということではないでしょうか。
(たとえ不十分であっても「慧」は必要ですね、慧がなくともよいとなっていないので)

「このような信は、智慧が不十分な段階でも得ることができる。心に少しでも清浄な部分があれば信解脱は可能である。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm

>また如来に対する信が確立は何によって起こるのかが私には不明です。

たとえ不十分でも智慧を持って「釈尊の無我などの教えを信ずること」によって「如来に対する信」
が確立するのではないでしょうか。

「これに対し原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであり、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信である。」
「原始仏教の信解脱は慧が劣っていても可能であり、本性浄心を考えなくても、釈尊の無我などの教えを信ずること、
 信解脱を得ることによって、段階的に悟りへと精進努力することができると考える。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm

154わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 04:49:05
 Leoさん、こんばんは。

> わめさん、上のご意見でこのスレに戻りました。

 ご配慮ありがとうございます。^^
 今回の議論は収束に向いたかったのだけど、どうしても異議があり反論します。涙

> > たとえ不十分でも智慧を持って「釈尊の無我などの教えを信ずること」によって「如来に対する信」
> > が確立するのではないでしょうか。

 これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。
 これは「議論しませんか?(議題検討スレ)」47で私が書いたことに類似することっではないでしょうか?
『94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。』

 私の思い過ごしならいいのですけど・・・

155Leo:2006/02/05(日) 08:31:29
わめさん、おはようございます。

>これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば

それは前段階かもしれないですが「慧」は捨ててないわけです。また次の段階もあります。

>「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。

ですので、「釈尊の無我などの教え」などから「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」などへのスリカエ
に気をつけるということですね。

仏教の創始者は釈迦ですし日蓮聖人は釈迦への回帰を説いたのだし現代では初期仏教の様子が明らかに
なっているので、上に書いたようなスリカエはもはや批判に耐えることはできないでしょう。

157わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 09:13:08
 Leoさん、おはようございます。

> >これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば
>
> それは前段階かもしれないですが「慧」は捨ててないわけです。また次の段階もあります。

 私もこの点は同様に思うのですが・・・

> >「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。
>
> ですので、「釈尊の無我などの教え」などから「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」などへのスリカエに気をつけるということですね。

 スリカエと本物と出会う比率はハンパじゃなく極端にスルカエが横行しているように思います。

> 仏教の創始者は釈迦ですし日蓮聖人は釈迦への回帰を説いたのだし現代では初期仏教の様子が明らかに
> なっているので、上に書いたようなスリカエはもはや批判に耐えることはできないでしょう。

 私がついつい信(信仰)に否定的(全否定ではないですがw)になりがちになるのが、現実問題として創価学会の会員や他の宗教の信者で、師匠の言われるような「仏教的信仰」をされている方の割合はその他の信仰をしている方達と比べてどのくらいの比率になるのでしょうか。

 「もはや批判に耐えることはできない」には私も同意しますが、これも現実問題として批判を受けた学会員さんは過ちに気付き素直に退会されているのでしょうか。

 私は一度深く信じてしまったことには、たとえ反駁できない批判を受けたとしても簡単には訂正できない方が大半だと思っております。

 ですのでこのような信仰を仏教的に許して(奨励して)いるとしたならば批判的に成らざるを得ません。

158Leo:2006/02/05(日) 11:42:01
わめさん、おはようございます。

>私がついつい信(信仰)に否定的(全否定ではないですがw)になりがちになるのが、現実問題として創価学会の会員や
>他の宗教の信者で、師匠の言われるような「仏教的信仰」をされている方の割合はその他の信仰をしている方達と比べて
>どのくらいの比率になるのでしょうか。

> 「もはや批判に耐えることはできない」には私も同意しますが、これも現実問題として批判を受けた学会員さんは
>過ちに気付き素直に退会されているのでしょうか。

> 私は一度深く信じてしまったことには、たとえ反駁できない批判を受けたとしても簡単には訂正できない方が
>大半だと思っております。

悪徳商法(ちょっとたとえが極端ですが)と同様に、「騙すより騙されるのが悪い」
(騙されたくないのであれば)というのが私の持論です。

ネットやリアルでやっているのが啓蒙というか知識の普及(のお手伝い)ですね。
縁起説や批判的合理主義が参考になればと思います。

身近な例としては「縁起説や批判的合理主義」は学会の非活動のための強力な理論的根拠
になります。

初期仏教の中の初期的「信」を禁止しても効果は少ないでしょう。

>ですのでこのような信仰を仏教的に許して(奨励して)いるとしたならば批判的に成らざるを得ません。

経典では「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」など奨励している部分はどこにもないです。

包丁が犯罪に使われるからといって料理の包丁を禁止しないのと同様です。

159わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 15:13:55
 Leoさん、皆さんこんにちは。

 以前にこのようなやり取りをLibra師匠としました。その中で師匠は牧口先生の「信仰的模倣時代から理性の時代」を参考リンクとしてお示しくださいましたが、現実の世界に眼をやると師匠の言われる「仏教的信仰」以外の信仰の方が大半を占めているように思います。

> 悪徳商法(ちょっとたとえが極端ですが)と同様に、「騙すより騙されるのが悪い」(騙されたくないのであれば)というのが私の持論です。

 悪徳商法は取り締まる必要がないということでしょうか? 相依関係として私は両方に問題があると思うのですが。

> ネットやリアルでやっているのが啓蒙というか知識の普及(のお手伝い)ですね。縁起説や批判的合理主義が参考になればと思います。

 初期的「信」を仏教が認めていることが、騙す側(意識してかどうかは分かりませんが)、騙される側を増やすお手伝いをしているとは言えないでしょうか?

> 初期仏教の中の初期的「信」を禁止しても効果は少ないでしょう。

 今となって禁止は出来ないこととは思いますが、できるとしてどうして効果は少ないと思われますか?
 禁止が法的規制のようなものなら十分効果があるように思います。

> >ですのでこのような信仰を仏教的に許して(奨励して)いるとしたならば批判的に成らざるを得ません。
>
> 経典では「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」など奨励している部分はどこにもないです。

 これは詭弁じゃないでしょうか? ザル法があるから法の抜け道を考えるのも人間です。

> 包丁が犯罪に使われるからといって料理の包丁を禁止しないのと同様です。

 包丁を使った犯罪率が社会的に問題にならないレベルだからではないでしょうか?
 極端な例ですが、料理で使うより犯罪で使われる場合が多くなれば(そこまでいくまでに)何かしらの対策を練るように思います。
 これを信仰に置き換えた場合、師匠の言われる「仏教的信仰」と、初期的「信」の方との比率はどうなのでしょうか。
 包丁の例で言えば「仏教的信仰」(料理)で使う場合は極端に少なく、ほとんど初期的「信」(犯罪)に使われていると言えないでしょうか?

160Leo:2006/02/05(日) 17:14:42
わめさん、こんばんは。

>以前にこのようなやり取りをLibra師匠としました。その中で師匠は牧口先生の「信仰的模倣時代から理性の時代」を
>参考リンクとしてお示しくださいましたが、現実の世界に眼をやると師匠の言われる「仏教的信仰」以外の信仰の方が
>大半を占めているように思います。

「「仏教的信仰」以外の信仰の方が大半を占めている」から「牧口先生の「信仰的模倣時代から理性の時代」」や
「仏教的信仰」は無意味ではないと思います。

>悪徳商法は取り締まる必要がないということでしょうか? 相依関係として私は両方に問題があると思うのですが。

「悪徳商法は取り締まる必要がない」とまでは言っていません。取り締まりが完璧になることは期待できない
のではないでしょうか。被害を受ける側が知識を持ち被害を回避する方がはるかに簡単と思います。

> 初期的「信」を仏教が認めていることが、騙す側(意識してかどうかは分かりませんが)、騙される側を増やす
>お手伝いをしているとは言えないでしょうか?

私は初期的「信」よりその先の合理的「信」が普及していないことの方が問題と思います。
仮免許の人の路上試験を禁止しても自動車事故が減らないのと同じです。

>これは詭弁じゃないでしょうか? ザル法があるから法の抜け道を考えるのも人間です。

法律をなくせば犯罪が減るのでしょうか。

>包丁の例で言えば「仏教的信仰」(料理)で使う場合は極端に少なく、ほとんど初期的「信」(犯罪)に使われていると
>言えないでしょうか?

としても現状法律で規制されてないですね。
先にお話したように、初期的「信」よりその先の合理的「信」が普及していないことの方が問題と思います。

161わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 18:14:11
 Leoさん、皆さんこんにちは。^^

> 「「仏教的信仰」以外の信仰の方が大半を占めている」から「牧口先生の「信仰的模倣時代から理性の時代」」や「仏教的信仰」は無意味ではないと思います。

 そのようなことは言っておりませんし、「牧口先生の「信仰的模倣時代から理性の時代」」はブログの記事ウォッチングでリンクしておりますように、私はかなり参考になることと位置づけてます。
 また「仏教的信仰」は信仰と呼ぶ呼ばないに関わらず正しい見解であると一貫して言っております。
 無意味と思われたのは私のどのコメントからなのでしょう? 気になりますので是非ご指摘ください。

> 「悪徳商法は取り締まる必要がない」とまでは言っていません。取り締まりが完璧になることは期待できないのではないでしょうか。被害を受ける側が知識を持ち被害を回避する方がはるかに簡単と思います。

 今回の初期的「信」を徳商法に置き換えてのLeoさんの例えと思いますが、取り締まりが完璧になるどころかまったく野放し状態、あるいは奨励していることになりませんか?
 野放し状態・奨励しておきながら、被害を受ける側に回避行動を求めるのは矛盾があるように思います。

> 私は初期的「信」よりその先の合理的「信」が普及していないことの方が問題と思います。
> 仮免許の人の路上試験を禁止しても自動車事故が減らないのと同じです。

 合理的「信」は師匠の言われる「仏教的信仰」で、初期的「信」より合理的「信」が普及していないことのほうが問題とされていると思いますが、自動車事故を起こすのはこの場合初期的「信」でしょうか、合理的「信」でしょうか? 何か整合性が取れない例えのように思います。
 私は合理的「信」のみ認めれば(この場合免許を与える)自動車事故は減ると思います。もちろん自動車を運転される方は激減するとは思います。この場合の初期的「信」は仮免許までの段階で路上試験を禁止しなくてもよいと思います。

> >これは詭弁じゃないでしょうか? ザル法があるから法の抜け道を考えるのも人間です。
>
> 法律をなくせば犯罪が減るのでしょうか。

 多くの被害者を生まないため、法律をザル法ではなくもっと厳しくすればいいと思っております。

> >包丁の例で言えば「仏教的信仰」(料理)で使う場合は極端に少なく、ほとんど初期的「信」(犯罪)に使われていると言えないでしょうか?
> としても現状法律で規制されてないですね。
> 先にお話したように、初期的「信」よりその先の合理的「信」が普及していないことの方が問題と思います。

 ですから現状の法律で規制されていないことも大きな問題ですね。合理的「信」以外認めなければよかったのじゃないかな。

162Leo:2006/02/05(日) 19:44:16
わめさん、こんばんは。

>無意味と思われたのは私のどのコメントからなのでしょう? 気になりますので是非ご指摘ください。

私は(も)無意味でないと思っております。わめさんも無意味でないと思っておられるならば見解が一致します。

>今回の初期的「信」を徳商法に置き換えてのLeoさんの例えと思いますが、取り締まりが完璧になるどころか
>まったく野放し状態、あるいは奨励していることになりませんか?
>野放し状態・奨励しておきながら、被害を受ける側に回避行動を求めるのは矛盾があるように思います。

新興宗教を悪徳商法にたとえたのは法律が行き届きにくいことと新たな手口がいくらでも出てくることを示しています。
法律を改正する運動をしている間に悪徳商法に引っかかるという矛盾をついたものです。

たとえば信号が青で横断歩道を渡っているとき信号無視の車が突っ込んできたらさければよいのです。
信号を青で渡ることに拘っていたら怪我をしてしまいます。
それに信号無視の車をさけたからといって車の信号無視を野放し状態・奨励していることにはなりません。
信号無視の車が突っ込んできたとして法律違反を叫んで非難してもほとんど車は止まらないばかりか
危険な目にあうでしょう。

> 合理的「信」は師匠の言われる「仏教的信仰」で、初期的「信」より合理的「信」が普及していないことのほうが
>問題とされていると思いますが、自動車事故を起こすのはこの場合初期的「信」でしょうか、合理的「信」でしょうか?

合理的「信」が足りないことを示しています。

>私は合理的「信」のみ認めれば(この場合免許を与える)自動車事故は減ると思います。もちろん自動車を運転される方は
>激減するとは思います。この場合の初期的「信」は仮免許までの段階で路上試験を禁止しなくてもよいと思います。

ですので、同様に初期的「信」の非難も不要ではないかと思います。

>多くの被害者を生まないため、法律をザル法ではなくもっと厳しくすればいいと思っております。
>ですから現状の法律で規制されていないことも大きな問題ですね。合理的「信」以外認めなければよかったのじゃないかな。

現実的に宗教法人や宗教というものはよほど民事的刑事的な問題が発生しない限り規制されないです。

たとえばLibraさんが仏教や哲学について色々ご教示して(場合によっては宗教団体の問題を示されています)
くださっていますが宗教団体の運営者にとっては痛くも痒くもないという可能性は十分考えられるでしょう。
私がLibraさんのご教示に興味があるのは学問的なことというのも少しありますが「悪徳宗教対策」的に(も)
使えるなあと思っているからです。

163わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 20:23:34
 Leoさん、皆さんこんにちは。^^

 今回はLeoさんのご意見である『初期的「信」の非難も不要」』について書きたいと思います。
 私は初期的「信」(一部の慧は含むとしても)は盲信に近いように思いますし、被害者を生み出していると思いますので否定的立場です。

> 新興宗教を悪徳商法にたとえたのは法律が行き届きにくいことと新たな手口がいくらでも出てくることを示しています。

 私は仏教も含め信仰対象を問わず、初期的「信」を仏教が認めてしまっている、あるいは奨励していることが問題と考えますので、もしも仏教が明確に初期的「信」に否定的であれば初期的「信」を持たない方が増えて悪徳商法に引っ掛かりにくくなると思いますし、悪徳商法も引っ掛かる人が少なければおいしい商売となり得ないので自然消滅的に減っていくように思います。

> 法律を改正する運動をしている間に悪徳商法に引っかかるという矛盾をついたものです。

 法律を改正する運動が盛り上がれば悪徳商法はやりにくくなりますし、引っ掛かりにくくなると思います。

> >私は合理的「信」のみ認めれば(この場合免許を与える)自動車事故は減ると思います。もちろん自動車を運転される方は激減するとは思います。この場合の初期的「信」は仮免許までの段階で路上試験を禁止しなくてもよいと思います。
>
> ですので、同様に初期的「信」の非難も不要ではないかと思います。

 さて、冒頭で言ったようにこの意味がまったく不明です。ここでは初期的「信」は仮免許までとするならば免許者のように一人で車を公道で走らせることが出来ないわけです。いわば自動車学校等で合理的「信」の方に指導を受けている状態です。このように初期的「信」の方に制約を設ければよいのではと言っているわけです。非難を制約に読み替えて頂ければ分かると思いますが不要ではないと思っています。

> 現実的に宗教法人や宗教というものはよほど民事的刑事的な問題が発生しない限り規制されないです。

 だから問題だと思うのです。アメリカも宗教には寛容かと思いますが、それでも日本のようにまったくの野放し状態ではないと思います。

> たとえばLibraさんが仏教や哲学について色々ご教示して(場合によっては宗教団体の問題を示されています)くださっていますが宗教団体の運営者にとっては痛くも痒くもないという可能性は十分考えられるでしょう。
> 私がLibraさんのご教示に興味があるのは学問的なことというのも少しありますが「悪徳宗教対策」的に(も)使えるなあと思っているからです。

 私は「悪徳宗教」もそれに引っ掛かる方が沢山出るのも、仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つことに根本的問題(一因)があるのではないかと思っております。根本的問題を生み出す仏教がその根本的問題を解決しないで現状の改善を目指すのは、犯罪集団が犯罪を平然と奨励しながら犯罪抑止を謳うのと似て矛盾を感じます。

164Leo:2006/02/05(日) 20:42:56
わめさんへ、提案です。

このままだと水掛け論のようになってしまうので、私から提案です。
仮に初期仏教の初期的信に不備があり新興宗教や会員に悪影響を与えているとして、わめさんは具体的にどう対策されますか。
「法律をザル法ではなくもっと厳しく」というところを具体的にお聞かせ願えればと思います。
よろしくおねがいします。

165Leo:2006/02/05(日) 20:46:30
あ、わめさんどうも >>164 は >>161-162 へのレスです。

166Leo:2006/02/05(日) 21:05:20
>さて、冒頭で言ったようにこの意味がまったく不明です。ここでは初期的「信」は仮免許までとするならば
>免許者のように一人で車を公道で走らせることが出来ないわけです。いわば自動車学校等で合理的「信」の方に
>指導を受けている状態です。このように初期的「信」の方に制約を設ければよいのではと言っているわけです。
>非難を制約に読み替えて頂ければ分かると思いますが不要ではないと思っています。

これについてはわかるような気がします。仮免許の方は教官が隣に座っているということですね。

> 私は「悪徳宗教」もそれに引っ掛かる方が沢山出るのも、仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つことに
>根本的問題(一因)があるのではないかと思っております。根本的問題を生み出す仏教がその根本的問題を解決しないで
>現状の改善を目指すのは、犯罪集団が犯罪を平然と奨励しながら犯罪抑止を謳うのと似て矛盾を感じます。

たとえ新興宗教が初期的「信」を野放し・奨励(悪用)することがあっても、合理的「信」はそれを
許すものではないので「仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つ」宗教とは思えないです。

また、初期的「信」を克服するには「教官」に相当する長老や僧侶、仏教学者などが必要と
いうことでしょうか。

167Leo:2006/02/05(日) 21:12:44
>また、初期的「信」を克服するには「教官」に相当する長老や僧侶、仏教学者などが必要と
>いうことでしょうか。

仏教系宗教団体の指導者は全国(世界)共通仏教試験に合格することを条件とするとか。
そして仏教を信じるには初級者は全国(世界)共通仏教試験に合格した教師に指導を受けるという感じでしょうか。
全国(世界)共通仏教試験が実施できるかが当面の課題ですね。

168わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 21:23:06
 Leoさん、皆さんこんにちは。^^

>>166-167

 私の思うがまま述べさせて頂くなら、仏教は合理的「信」以外の信は認めないとして欲しいです。(懇願)
 また信などなくとも仏教は理解でき、苦や呪縛から心の解放ができることも宣言して欲しいです。

 また国としても宗教に対する税制面での優遇措置の廃止や宗教法人の情報開示義務付け、カルトの定義を定め宗教団体に厳しい規制を望みます。

 まだあるかもだけどこれだけでも書けてスッキリしました。

169みれい:2006/02/05(日) 22:00:53
どうにもこうにも・・・・
参加しようにも・・・・
ポイントがまったくわからない。

Leoさんがんばってください。

170わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 22:11:09
 Leoさん、みれいしゃんこんばんは。^^

> 「仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つ」宗教とは思えないです。

 仏教は初期的「信」を認めてませんか? もちろんより高い信を求めるとしても。


みれいしゃん
> どうにもこうにも・・・・
> 参加しようにも・・・・
> ポイントがまったくわからない。

 (● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

172わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 22:27:50
 みれいしゃん、皆さんこんばんは。

> 参加しようにも・・・・
> ポイントがまったくわからない。

 拙い説明になりますがこれは信仰についての議論です。
 私はLibra師匠の言われる「仏教的信仰」以外の信仰態度は盲信を含む信仰のようで否定的なのです。
Libra師匠の言われる「仏教的信仰」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/nt91-93

 それはカルトチックな宗教への盲信的信仰姿勢を生む根本的原因にもなっていると思うからで、また仏教に対してもそのような信仰姿勢は正しい信仰とは思えないということです。

 私の説明能力ではこれが限界かもw汗 ぺこ <(_ _)>

173Leo:2006/02/05(日) 23:14:51
>> 「仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つ」宗教とは思えないです。
>
> 仏教は初期的「信」を認めてませんか? もちろんより高い信を求めるとしても。

この点は私とわめさんは平行線かもしれません。

私は仏教が初期的「信」を認めていることが問題でなく、初期的「信」を行う場合正しい(妥当な)
仏教の教師が傍にいないことが問題であると思います。仏教では初期的「信」を行う場合、釈迦の在世で
あれば釈迦、後であれば正しい(妥当な)指導者がいたと思います。現代において新興宗教などで
仏教の初期的「信」を実施しようとすると場合正しい(妥当な)仏教の教師がいないばかりか、
偽り(スリカエ利用)の教師が存在したりします。

現代においては初期的「信」は心もとないので(特に正しい(妥当な)仏教の教師が傍にいない場合は)
はじめから合理的「信」を推奨すべきかもしれません。
(...この部分はわめさんの意見にやや近づいたかもしれません)

174わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/06(月) 00:16:32
 Leoさん、皆さんこんにちは。^^

> 私は仏教が初期的「信」を認めていることが問題でなく、初期的「信」を行う場合正しい(妥当な)
> 仏教の教師が傍にいないことが問題であると思います。仏教では初期的「信」を行う場合、釈迦の在世で
> あれば釈迦、後であれば正しい(妥当な)指導者がいたと思います。現代において新興宗教などで
> 仏教の初期的「信」を実施しようとすると場合正しい(妥当な)仏教の教師がいないばかりか、
> 偽り(スリカエ利用)の教師が存在したりします。

 そうですね、よいご意見かと思いますがやはり平行線になりそうです。釈迦はともかく後の指導者ともなると、その指導者が果たして合理的「信」の人と言えるかどうかなども確実ではないように思いますし、初期的「信」ではその判断がつきかねるように思います。
 私は、思想(仏教・宗教に限らず)に対する姿勢のようなものを信仰とするならば、やはり初期的「信」ではまずいんじゃないかと思います。ここでもややっこしいことを言わせてもらえば、一般的には合理的「信」は信に非ず正しく理解(反駁しえない・反駁の尽きた)することだと思いますが、初期的「信」は一部の理解によりその思想全体は分からないまま「信」じることでその「信」自体が盲信を含むことであるように思いますから、Leoさんが悪徳商法の例えで言われた「被害を受ける側が知識を持ち被害を回避する方がはるかに簡単」とするならば初期的「信」は持たないことがいいように思います。

> 現代においては初期的「信」は心もとないので(特に正しい(妥当な)仏教の教師が傍にいない場合は)
> はじめから合理的「信」を推奨すべきかもしれません。
> (...この部分はわめさんの意見にやや近づいたかもしれません)

 「はじめから合理的「信」を推奨すべき」は私の意見に近いっす。(*´∇`*)
 この前に『初期的「信」を否定し』がつけば尚うれし。笑

175Leo:2006/02/06(月) 20:59:24
わめさん、こんばんは。

>「はじめから合理的「信」を推奨すべき」は私の意見に近いっす。(*´∇`*)
> この前に『初期的「信」を否定し』がつけば尚うれし。笑

お気持ちはわかるような気もしますが、やはり平行線のようです(涙)

仏教を正しく用いれば盲信は克服されますので、「初期的「信」の否定」は反駁しえない・反駁の尽きた
ものではないと思います。

ある無毒どころか滋養のある食べ物に誰か悪い人が毒を入れたからといって無毒で滋養のある食べ物が
悪いわけではないのと同じことと思います。

176みれい:2006/02/06(月) 21:02:44
わめさん
ほとんどLeoさんとLibraさんの意見に賛同しながら読んでいるのですが、
私は「信」にこだわる必要はないように思っています。

それより「盲信」をどうにかすべきかと。

ではでは。

177Leo:2006/02/06(月) 21:54:07
みれいさん、わめさん こんばんは。

>それより「盲信」をどうにかすべきかと。

たとえば養老氏の著作『バカの壁』の最後には「一元論」的思考や「絶対の真実がある」
という姿勢を否定する必要性を語っており、養老氏は「常識」という普遍性を持ってくる
ことを提案しています。

私が注目するのはLibraさんが以前示されたような仏教の法でさえも確固不変なものでなく
「危機的存在」という点です(一元的思考や絶対の真実を否定するものです)。
またこのような考え方は仏教と批判的合理主義に共通するものです。

○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について、No. 292-293(Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_001.html
「たとえば、松本先生は、「法は確固不変なるものではなく、反対に実に
不安定な中ぶらりんな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこ
にもない。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在
しているのだ。」[*3]といわれています。」

「仏教の源流から」スレッド 主な発言 その1〜8、付録1〜3、No. 951(Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html
「これに対して、私は、批判的合理主義の非正当化主義を《無我説の認識論版》
だと捉えます。「我々の生に存在論的な根拠などどこにもない」のと同様に、
「我々の主張に認識論的な根拠などどこにもない」と。 」

178みれい:2006/02/06(月) 22:51:23
ああ、書き込んでいるうちにLeoさんの書き込みが。
かぶってしまいました。
そして同感です。

>「バカの壁」

以前ぱるぱるさんに推奨されて読みました。その本でもポパーが紹介されてましたね。「死の壁」もよかったです。

>「一元論」的思考や「絶対の真実がある」
という姿勢を否定する必要性を語っており、養老氏は「常識」という普遍性を持ってくる
ことを提案しています。

宗教被害やカルト対策という面から見ても、仏教だけの問題ではなく、各国の宗教被害問題になってくるので、宗教や信仰の定義や規制をするのではなく、被害者の側からの倫理観(おそらくかなり世界で共通なチェック部分もあると思う。それが普遍性の常識かしら)や法律側からのカルト被害予防対策をとる必要があると思います。

本来の仏教の一元論は空になり、あらゆる宗教を包括する立場になりますが、
一神教が一元論になることによって神=私となり、我をたてることになり非常に排他的でよろしくないものになるようです。
そこで宗教学者ジョン・ヒックがうちたてた(キリスト教における)宗教多元主義でしょう。
「人は何を信じても、自分の信仰だけは絶対唯一正しいわけではなく、いろいろな信仰はその文化や社会環境にあわせて正しいというのだから、自己の信仰を信じながら他人の信仰を認めることは必要だというのです」
(Religious Pluralism.友人訳)

そしてそれはLeoさんやLibraさんのおっしゃるように仏教の教えと同じになるとおもいます。

他に寛容性を持つということは、時に自分の打ちたてたものを捨て去る覚悟(というか柔軟性)も必要になってくると思います。

ブッダの教えは調合次第で薬にも毒にもなりますし、そういったものを超えたもっと根本的な「水」のような部分がある。
そういうものではないかと思います。

179Leo:2006/02/06(月) 22:54:48
>私が注目するのはLibraさんが以前示されたような仏教の法でさえも確固不変なものでなく
>「危機的存在」という点です(一元的思考や絶対の真実を否定するものです)。
>またこのような考え方は仏教と批判的合理主義に共通するものです。

私は世の中をちょっとばかり観察していて思うことがあります。色々なスーパの
チラシを比較して少しでも安い品物を買おうとして合理性を発揮している人が
宗教を比較せずに自分の宗教が一番と思っていることや、野菜や肉や魚をよく吟味
して買う吟味の達人の方が宗教指導者の言葉だと安易に信じて吟味しようとしない
のは不思議なことではないかと思います。一般に「危機的存在」という言葉は
わかりにくいかもしれません。野菜や肉や魚を冷蔵庫に入れなければ
(入れていても)いつかは腐ってしまいます。一元的思考や絶対の真実について
「悪徳商法」をたとえとするならばと「うまい話などない」ということだと思う
のです。

180Leo:2006/02/06(月) 23:00:10
あ、みれいさんどうも、かぶりましたね(^^;

181みれい:2006/02/06(月) 23:03:32
ちょっと脱線しますが、学会のおかげで輪廻は悪のようになっていますが、
(そもそも輪廻で地獄行きかゾウリムシしか使われない気もする)
タイも仏教王国で、輪廻が説かれているそうです。
前回の大水害で多数の死者が出たにも関わらず、PTSDの確立が低かったのは、
輪廻の思想が根付いている為、親族や愛する人の死に対する悲しみを昇華することがスムーズにいったという結果ではないか、
という仏教学者さんの一説もありました。
生死に対する概念が日本とタイでは全く違いますが、「苦しむ人を救う」という仏陀の立場から言えば、
あながち間違いともいえないと思います。

日本の輪廻の思想での被害はほとんど個人使用パターンでなくて宗教団体の都合で使われた結果ではないかと。

182みれい:2006/02/06(月) 23:05:34
>PTSDの確立

>PTSDの確率

183みれい:2006/02/06(月) 23:34:27
Leoさん、
同じ時間に別の場所でネットをしているというのがいまだに不思議です。

お寺ネットなどでご住職などのお話をみていると、
正しい教えの探し方なんかはたびたび話されていたります。
けど、一般に浸透していないのが弱点ですね。
完全にメディアでは出遅れているように思います。
あと、すでに仏教的なものが、仏教という名前を使わずに世に出てきている。
ジェームス・アレンなんかいい例だと思います。
仏教もさらに東へ渡った後逆輸入の可能性が。ないかしら。。。

けれどもカルトでなくて原理主義的な問題は、ちょっと先がわからないです。

184Leo:2006/02/07(火) 00:04:26
みれいさん、どうも。

>同じ時間に別の場所でネットをしているというのがいまだに不思議です。

一段落してからネットに向かうともうすこし遅い時間になります。
(今日は雪がふるかもしれないということで早まりました)
以前わめさんとチャット状態になることもたびたびありましたよ(^^;
(今回はわめさんも私も熱くなりすぎてしまったかなあ)

私は輪廻は確認できないので信じてないですが、映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』
で映画館を建築しようとして出てきたミミズを「前世自分のお母さんだったかもしれないと」
いって僧俗が大事にする場面があるのですが輪廻は方便としてよいなあと思いました。
同様に「生まれ変わり」(自分がそのまま輪廻する)も信じてないのですが、
現代の科学でわかっている数十億年の生命の連鎖に思いを馳せたりすることはあります。

>お寺ネットなどでご住職などのお話をみていると、
>正しい教えの探し方なんかはたびたび話されていたります。

そうなのですか。確かに仏教にも「ナビ」は必要そうですね。

>仏教もさらに東へ渡った後逆輸入の可能性が。ないかしら。。。

文献研究などで仏教が西洋に知られてから哲学者や科学者で仏教の影響を受けた
人はおられるようです。

>けれどもカルトでなくて原理主義的な問題は、ちょっと先がわからないです。

私はあまり気がついてないのですが原理主義的な問題も宗教界では問題なのですね。
(特殊なケースと思ってました)

185わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 02:16:03
 Leoさん、みれいしゃんこんばんは。

> お気持ちはわかるような気もしますが、やはり平行線のようです(涙)

 できることなら平行線を脱したいです。(^^;

> 仏教を正しく用いれば盲信は克服されますので、「初期的「信」の否定」は反駁しえない・反駁の尽きた
> ものではないと思います。

 私は「初期的「信」」を、盲信を生まないために仏教側から否定して欲しいと懇願しているのであって、事故を起こしやすい欠陥車(「初期的「信」)でも目的地に辿り着けないといっているわけではありません。
 でも事故を起こしやすい欠陥車(「初期的「信」)はリコールや販売禁止にしたほうがよいと思いませんか?

> ある無毒どころか滋養のある食べ物に誰か悪い人が毒を入れたからといって無毒で滋養のある食べ物が
> 悪いわけではないのと同じことと思います。

 車の例えで言えば毒・滋養は目的地にあたると思いますが、目的地を誤る可能性が特に現代においては非常に高い(現実をみると)欠陥車(「初期的「信」)は、リコールや販売禁止にしたほうがよいと言っているだけで、すべての目的地が悪いといっているわけではありません。むしろ良い目的地(滋養)に多くの方を向わせ、悪い目的地(毒)に誰も向わせないために、欠陥車(「初期的「信」)のリコールや販売禁止をすべきではないかと言っているわけです。


みれいしゃん

> それより「盲信」をどうにかすべきかと。

 人を極力「盲信」に向わせないための話をLeoさんとしているわけです。涙

187わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 02:38:53
 みれいしゃん

>>178

> 法律側からのカルト被害予防対策をとる必要があると思います。

 lこれは >>168 で書いた『 また国としても宗教に対する税制面での優遇措置の廃止や宗教法人の情報開示義務付け、カルトの定義を定め宗教団体に厳しい規制を望みます。』と似ているかな?^^

> 本来の仏教の一元論は空になり、あらゆる宗教を包括する立場になりますが、

 本来の仏教に空はないと思いますが、空を縁起の解釈とするならば間違いではないように思います。
 でも縁起の意味するところは「すべての存在は依存・因果・相依関係にある」と思いますから多元論だと思います。
 仏教の根本思想が縁起とするならば、私には仏教があらゆる宗教を包括する立場にあるなどとは到底考えられません。

188わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 02:54:50
 みれいしゃん

>>181

 輪廻があるとかないとかそんな証明しようのないことを、”ある”もしくは”ない”と信じることは盲信(妄想)に過ぎないと思います。
 でも盲信(妄想)であっても苦を和らげるために役に立つこともあれば、逆に現実逃避になることもあるでしょう。

 私は盲信(妄想)は避けたいですし、皆さんにもできることなら避けて欲しいと思いますが、時と場合により方便もアリかとも思います。

189Leo:2006/02/07(火) 08:03:00
わめさん、おあはようございます。

>できることなら平行線を脱したいです。(^^;

「危機的存在」は理解されましたか。

>私は「初期的「信」」を、盲信を生まないために仏教側から否定して欲しいと懇願しているのであって、
>事故を起こしやすい欠陥車(「初期的「信」)でも目的地に辿り着けないといっているわけではありません。
> でも事故を起こしやすい欠陥車(「初期的「信」)はリコールや販売禁止にしたほうがよいと思いませんか?

一体誰に「リコールや販売禁止」して貰うのですか?
ブッダやLibraさんは盲信されてないし盲信を脱する方法を示されてますよ。
仏教は識者に尋ねたり自分で学んだりするしかないのですよ。

わめさんがどうしても納得されないのであれば「仏教側から否定」を是非勝ち取ってみせてください。
私は上に書いた理由で賛同しないのです(涙)

190Leo:2006/02/07(火) 08:22:03
初心者マークの人が車でジコったらその車は欠陥車だといってメーカにリコール出すんでしょうか?

191わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 10:38:29
 Leoさん、おはようございます。^^

> 「危機的存在」は理解されましたか。

 ここで言われる危機的存在とは >>177 の『仏教の法でさえも確固不変なものでなく「危機的存在」という点です(一元的思考や絶対の真実を否定するものです)。』ですよね?
 私はすべてのモノ・コトが危機的存在だと思っておりますので「仏教の法」も例外ではないと思っておりますし、だから初期的「信」をリコールや販売禁止にして欲しいのです。

> 一体誰に「リコールや販売禁止」して貰うのですか?

 >>168 で書いた『 また国としても宗教に対する税制面での優遇措置の廃止や宗教法人の情報開示義務付け、カルトの定義を定め宗教団体に厳しい規制を望みます。』と師匠やLeoさん、識者などにです。

> ブッダやLibraさんは盲信されてないし盲信を脱する方法を示されてますよ。
> 仏教は識者に尋ねたり自分で学んだりするしかないのですよ。
>
> わめさんがどうしても納得されないのであれば「仏教側から否定」を是非勝ち取ってみせてください。

 「盲信を脱する方法示されて」いることは良いことですが、それは >>163 の最後のほうに書いた『根本的問題を生み出す仏教がその根本的問題を解決しないで現状の改善』にあたるように思います。『 私は「悪徳宗教」もそれに引っ掛かる方が沢山出るのも、仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つことに根本的問題(一因)があるのではないかと思っております。』
 もし仏教が初期的「信」を否定されていたとしたら、仏教系の宗教(カルト系宗教含む)にこれほど多くの盲信者は出なかったろうと推測しますし、仏教に詳しい方たちが『仏教では初期的「信」は認めているが、少なくとも現代においては否定されるべきものである』などとの共通見解をもつならば、新たな盲信者が生まれにくくなるように思います。
 元を断って(仏教側から否定)、その上で盲信を脱する方法も示されるべきだと思います。

> 私は上に書いた理由で賛同しないのです(涙)

 。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

> 初心者マークの人が車でジコったらその車は欠陥車だといってメーカにリコール出すんでしょうか?

 初心者マークの人が事故るのは初期的「信」だからで、たとえ初心者でも合理的「信」の方は事故らないと思いますし、この例えを使わせてもらうなら、初心者の人が初期的「信」の人であるとするならば欠陥車でも知らずに乗って気に入ってしまう可能性は高いと思いますし、初心者でも合理的「信」の方はすぐ欠陥車であると見抜けると思います。

192わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 10:57:40
> 仏教が初期的「信」を野放し・奨励する教義を持つ

 野放しとは言えないですね。(^^;;
 「仏教が初期的「信」を奨励する教義を持つ」に訂正します

193わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 11:12:49
> 仏教は識者に尋ねたり自分で学んだりするしかないのですよ。

 自分で学べば仏教では初期的「信」が認められていることが分かりますよね?
 で、初期的「信」の状態で識者と思しき人に尋ねたら、カルト宗教に入ることになってしまったなんて可能性は高いのではないでしょうか。

194Leo:2006/02/07(火) 21:40:38
わめさん、こんばんは。

>私はすべてのモノ・コトが危機的存在だと思っておりますので「仏教の法」も例外ではないと思っておりますし、
>だから初期的「信」をリコールや販売禁止にして欲しいのです。

すべての存在が危機的存在なのになぜ初期的「信」だけを禁止するのですか?

> >>168 で書いた『 また国としても宗教に対する税制面での優遇措置の廃止や宗教法人の情報開示義務付け、
>カルトの定義を定め宗教団体に厳しい規制を望みます。』と師匠やLeoさん、識者などにです。

わめさんのご意見に賛同しないLibraさんや私がなぜわめさんに協力しなければならないのですか?

>元を断って(仏教側から否定)、その上で盲信を脱する方法も示されるべきだと思います。

仏教側はわめさんのご意見に賛同されているのですか?

>初心者の人が初期的「信」の人であるとするならば欠陥車でも知らずに乗って気に入ってしまう可能性は高いと思いますし、
>初心者でも合理的「信」の方はすぐ欠陥車であると見抜けると思います。

情報を求めれば誰でも欠陥車はわかるのではないですか?

>自分で学べば仏教では初期的「信」が認められていることが分かりますよね?
>で、初期的「信」の状態で識者と思しき人に尋ねたら、カルト宗教に入ることになってしまったなんて
>可能性は高いのではないでしょうか。

対カルト宗教の知識を広めればよいのではないですか?

195わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 22:18:42
 Leoさん、こんばんは。
 今回はなんか話が逆戻りしちゃった感があるのですが…w

> わめさんのご意見に賛同しないLibraさんや私がなぜわめさんに協力しなければならないのですか?

 私に協力じゃないですよ。盲信する方を少しでも減らすために協力して頂く事はできませんか?

> 仏教側はわめさんのご意見に賛同されているのですか?

 どうなのでしょう。 Leoさんも賛同されないくらいですから鼻にもかけてもらえないかもしれませんね。涙

> 情報を求めれば誰でも欠陥車はわかるのではないですか?

 これは盲信の方やカルト被害者は情報を求めないから自業自得ということですよね。

> 対カルト宗教の知識を広めればよいのではないですか?

 結局加害者を放置してなるべく被害に遭わないように情報を流すだけでよいということでしょうか?

 私は >>159 で、加害者だけの責任でも被害者だけの責任でもないと言っておりますが、やっぱりLeoさんは被害者側のみへの対策でよいと思ってられるのですね?
 それともカルト宗教を生む原因は初期的「信」にはないと思ってられるのでしょうか?

 私は盲信になる方が出来るだけ少なくなればいいと思っておりますが、Leoさんもそのように思ってられるように感じますが、これだけ意見が合わないのは私の考え方に誤りがあるとしか思えません。
 よかったらズバっと指摘してください。 というかそれが一番うれしいのですが。^^

196わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 22:32:42
> 情報を求めれば誰でも欠陥車はわかるのではないですか?

 私も長年創価学会で信心をやってきましたが、その頃外部からの情報を求めていなかったですし、学会に都合の悪い情報はデマか中傷と思っていました。
 また母親が熱心で物心つくかつかない頃から御本尊の前で題目あげておりました。
 幼い頃から学会員ばかりの中で育ちましたから疑うことなど考えも及びませんでした。
 学会2世3世の方で私のような方は沢山おられるように思いますし、母親も何も悪気があって創価学会に入ったわけでもないと思います。むしろ自分自身や家族の幸せのためを思い一生懸命に信心をしていたと思います。
 Leoさんの言うように私の母親が情報を求めれば、学会のおかしさに気がつけた可能性はありますが、父親の上司の薦めもあり断わりにくいのと、学会の雰囲気や指導や体験に触れてしまうとなかなか否定的な情報を求めないものかもしれません。
 でも私情を言わせてもらうなら情報を求めなかった母がすべて悪いとは思えないのです。いえすべて悪いとは思いたくないですし、母だけが悪かったなどとはやっぱり思えません。
 やっぱり盲信になる方ばかりが悪いとは思えないです。

197みれい:2006/02/07(火) 23:13:23
わめさん

>人を極力「盲信」に向わせないための話をLeoさんとしているわけです

ですから、信をどうにかすることと、盲信の対策をすることは別問題だと思っているのです。

>『 また国としても宗教に対する税制面での優遇措置の廃止や宗教法人の情報開示義務付け、カルトの定義を定め宗教団体に厳しい規制を望みます。』と似ているかな?^^

その方面でいいと思います。

>でも縁起の意味するところは「すべての存在は依存・因果・相依関係にある」と思いますから多元論だと思います。

ご自由にどうぞ。

>仏教の根本思想が縁起とするならば、私には仏教があらゆる宗教を包括する立場にあるなどとは到底考えられません

わめさんと私で「包括的」の意味が違うようです。この件もまた脱線していくのでやめておきます。ご自由に。

>輪廻があるとかないとかそんな証明しようのないことを、”ある”もしくは”ない”と信じることは盲信(妄想)に過ぎないと思います。

輪廻=盲信と決めているわめさんと、神の存在を信じている人=盲信、リストの復活を信じている人=盲信と決め付けている学会員さん、同じ事をしているように見えます。
極論すぎると思います。
押し付けられなければ盲信とはいえないと思いますし、
他の考えを肯定出来れば問題ないと思います。

>でも盲信(妄想)であっても苦を和らげるために役に立つこともあれば、逆に現実逃避になることもあるでしょう。

私は盲信はできるかぎり反対です。あと、輪廻を「現実逃避の手段」といちづけするのもどうかと思います。

今のところわめさんの持論には賛同できませんが、わめさんが皆さんを説得、または納得されるような論文(や考察)を作成されて啓蒙されればいいとおもいますよ。
出来上がったら読ませていただきます。私も納得出来れば賛同させていただきます。

ではでは。


Leoさん

>確かに仏教にも「ナビ」は必要そうですね

そう思います。

仏教=輪廻と思っている人も多いんじゃないかと思います。
うちにあるビデオ「リトルブッダ(キアヌリーブス出演)」もサブタイトルが「すべての人は生まれ変わる」です。
内容もどうやらブッダ再誕らしいです。ブッダが生まれ変わるという時点ですでに変ですが、アメリカの映画なのでキリスト再誕とかぶせているかもしれません。

リンカーネーションという言葉なら聞いたことがあったり、また言葉の解釈も様々であったり。
「もしもうまれかわったら」なんて話は日常でも聞いたりします。
「去り行くものをいかに受け入れるか」、そういった気持ちから出来た発想なのではないかと。

198みれい:2006/02/07(火) 23:16:24
>私は盲信はできるかぎり反対です

加えて、盲信させる宗教も反対です。

199みれい:2006/02/07(火) 23:31:13
リストの復活→キリストの復活

すみません。

200わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/07(火) 23:46:24
 みれいしゃん、こんばんは。

> 押し付けられなければ盲信とはいえないと思いますし、
> 他の考えを肯定出来れば問題ないと思います。

 盲信(妄想)がすべて問題であるとは言えないと思います。
 「他の考えを肯定出来れば問題ない」にも同意できますが、例えば自身が輪廻があると信じていて、他の人が輪廻はないとする意見を肯定できるのでしょうか? 肯定できるとするならば輪廻があると信じていないことになると思いますので、盲信でもなくまた信じてもいないことになるのではないでしょうか。
 あるいは「他の考えを肯定出来れば問題ない」を、人それぞれ色んな考え方や信じるものがあると自身の信じること以外の方も許容する(押し付けられない)という意味であれば”一般的”にはやっぱり盲信や妄想と言えると思いますが、他者の信じることを許容できるのであれば、たとえ盲信や妄想であっても害は少ないと思いますし、効用もあるのではないでしょうか。

もうしん まう― 0 【盲信】 わけもわからずに信じること。

もうそう まうさう 0 【妄想】 (1)〔仏〕 精神が対象の形態にとらわれて行う誤った思惟・判断。妄想分別。
(2)根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念。

> 私は盲信はできるかぎり反対です。あと、輪廻を「現実逃避の手段」といちづけするのもどうかと思います。

 みれいしゃんは「押し付けられなければ盲信とはいえない」と思っておられるようですので、「人に押し付けるような盲信」は反対と読み替えまして、私もできるかぎり反対です。
 輪廻を「現実逃避の手段」というのは一例です。「親族や愛する人の死に対する悲しみを昇華することがスムーズにいった」も一例だと思います。良いようにばかりも悪いようにばかりも考えられないように思います。みれいしゃんが良い例を引かれましたので私は悪い例を引いてバランスを取ったつもりなのです。(みれいしゃんが悪い例を出していれば私は良い例を出していたと思います。)

> 加えて、盲信させる宗教も反対です。

☆^∇゜) ニパッ!!


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