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「のと」本編

122shin:2006/12/02(土) 14:22:51
まだ真新しいコンクリートの廊下を抜けると、少し広くなった踊り場に出る。
ここには警備の兵士が待機しており、東条に敬礼してくる。
それでも、彼らは東条の取り出す身分証を見て初めて、道を開けた。
そして、高畑に対しては、横の棚に置かれたファイルを取り出し、高畑と見比べる。
「失礼します。総研所長付きの高畑殿ですね。少し質問させて頂いて良いでしょうか。」
軍人にしては、口調が丁寧だと驚きながらも、軽く頷く。
「高畑殿が鈴木商店ロンドン支店長をお勤めだった当事に、現地で採用された二人目の秘書のお名前は何でしょうか?」
「えっ、あの頃の秘書・・・サマンサ、否、二人目ならばマリアの事かな。」
「ハイ、ありがとうございます。もう一つ。高畑殿が中等部に在籍中の同級の、山咲氏のあだ名をお願いします。」
「あだ名あ・・・デコ・・・か?」
「ハイ、ありがとうございます。お通り下さい。」
二人の兵士は左右に退き、東条が扉を開け、中にいざなった。
「何なんですか、あの質問は?」
「うん、中々良いだろ。本人確認の為の方法としては。」
「いや、そんな事じゃないでしょう。どうして、ここまで入ってきてセキュリティチェックがあるのですか。そんなのもっと前でやるべき事でしょう。」
東条が苦笑いを浮かべる。
「まあ、仕方あるまい。今回は初めての総研主催の全体会議だ。統合の情報部もその存在を示したいのだろう。」
総研の会合に、どうして統本情報部が絡んでくるんだ・・・
ブツブツぼやきながら、高畑は促されるまま、中に入る。

123shin:2006/12/02(土) 14:25:43
東条に連れられて会議室に入り、高畑は息を呑む。
勿論、高畑は会議室にいる殆ど全ての人々と面識があった。
しかしながら、そのメンバーが全員揃っているのを見るのはこれが始めてである。
井上、梅津、八木、高柳らがいるのは当然として、普段は殆ど交渉も無い、濱口首相以下、政府関係者、統合作戦本部の部長クラスを勤める軍人、そう現在の帝国を運営している要員が全て集まっていたのである。
これじゃあ、東条さんが迎えに来るのも仕方ないか・・・
そんな事を考えながら、高畑は促されるまま、会議のテーブルにつく。

「それでは、全員揃ったようですので、総研所長による緊急招集会議を開催致します。進行役は、所長の指名により、小職が勤めさせて頂きます。宜しいでしょうか。」
全員が頷く。
「本日の会議の目的は、二つあります。一つはこの召集が可能かどうかの訓練です。これは、個々におられる皆様方が、無事比較的短期間にお集まり頂けた事で、目的は達成しております。尚、統本情報部の協力の下、全員が密かにここに集まっておりますが、一応対外的にはここにはいないこととなっており、別の場所にいるという、所謂不在証明的な隠蔽工作は行われております。」
井上は、そこまで説明して全員が理解するまで一呼吸置いた。
「良いかな?」
「ハイ、どうぞ。」
濱口首相が口を挟む。
「井上君達、総研のメンバーがそこまで秘匿に拘る理由は何かね。確かに、これだけのメンバーが一度に介するとなると、目立たぬように留意は必要だろうが、ここまで徹底する以上、よほどの理由があると思うのだが。」
「ハイ、おっしゃる通りです。これはもう一つの目的とも関わりがありますが、国内よりも列強に対する情報対策がその主な理由です。」
井上は、堀情報部部長を見る。
「私から説明致します。」
振られた堀は、表情を変えずに話し始める。
しかし、付き合いの長い井上にすれば、堀部長が目で一つ貸しだと言っているのは良く判り、軽く頭を下げる。
「「のと」資料の分析から、わが国の防諜体制が非常に甘いものであった事が明らかになっております。特に、暗号通信に関しては、各部門間での機密の取り扱いの差から情報の漏洩が指摘されておりました。」
「それは、十分に承知しているが、それに対しては、かなり防諜面では厳しくしたのではないのかね。」
幣原外相が、怪訝な顔で問いかけてきた。
何せ、外務省から軍事情報が漏れていたと言う事実を突きつけられた結果、以前と比べてかなり外務省は情報の漏洩には神経質とも言えるくらい気を使っていた
「ハイ、確かに、暗号関係や、機密文章の扱い等は、以前とは格段の進歩が見られており、その方面での防諜レベルは格段の進展が見られております。しかしながら、帝国人は日本語と言う言葉は、他国の人間には判るまいと考えがちで、日本人同士であれば、平気で秘密を話していても大丈夫とすら考えてしまいがちです。そして、この方面の防諜対策は非常に難しい問題を含んでいました。」
多くのものが、怪訝そうな顔で、堀を見つめる。
「文章や通信に関しては、全体の規制の統一で、防諜レベルを上げることは可能ですが、個人間の付き合いの段階、いや、勿論疑わしき人物に対する調査等は情報部に限らず、特高等でも実施していますが、このような段階での情報の漏洩を全て抑えるのはほぼ不可能です。」
「要は、友人まで疑いだしたら、切りが無いと言う事か・・・」
「ハイ、そうです。勿論私も含め、皆さんが「のと」に関する情報を知らない人間に話すことはありませんが、相手が知っている、情報ランクが自分と同じと考えてしまう事は十分起こりえます。」
「情報が漏れたのかね。」
ぼそりと呟くように、核心に切り込んできたのは、吉田茂だった。
現在は、統本の外務省担当として、情報ランクが上位に入りだした人物だった。
「ええ、その通りです。最も、誰が漏らしたとか言う話ではなく、あくまでも各種の情報を総合した結果、「帝国が、何か途方も無いものを手に入れた」と言うレベルですが、列強各国の内、米国、ソ連、独逸、そして英国が真剣に動き出しています。」
会議に出席していた全員が、深刻に黙り込む。

124shin:2006/12/02(土) 14:27:00
確かに、帝国の動きは列強の国々からすれば、信じられない程鮮やかなものに見えるであろう。
何せ、各国が不況に喘ぐ中、好景気に沸きかえっている。
ある程度までは、東洋のミラクル、アジア数千年の歴史等のたわごとで、ごまかせるであろうが、流石に、原因があると考える人間が出てくるのは仕方ない。
「結果として、「のと」に関する総研と外部機関との会合は、可能な限り秘匿すると言う所長の判断で、このような回りくどいやり方を取りました事を皆様にお詫び申し上げます。」
井上が、頭を下げ、堀の言葉を引き継ぐ。
「で、情報が漏れたと言うだけでは、このような大げさな会合が必要な筈もあるまい。本当の理由を話してくれても良いだろう。」
二年前から国防総省長官(本人は嫌がったが)を勤めさせられている、永田が少し、怒ったように問いかけてくる。
それはそうである。
首相や、外相、そして彼本人も含めて、情報の漏洩に関する話は、以前から聞いている。その為に、総研との会合が、このような秘匿方法を取ることとなった事も、了承済みである。
しかしながら、今回の会合に関しては、その直前まで、彼にも知らされていなかったのだった。
自分の足元で、密かに知らない動きが生じていると言うのは気持ちの良いものではない。
しかも、彼自身、陸軍の縮軍に関わっているだけに尚更である。
「英国に対する「のと」情報の開示の可否です。」
梅津が、苦虫を噛み潰したような顔で答える。
会議室にざわめきが広がる。
列強からの詮索が強くなってきている、特に帝国総軍との共同研究から、兵器の共同生産まで踏み込みだした、英国からの詮索は強くなっているのは、ここのメンバー全員が感じていた事実である。

125shin:2006/12/02(土) 14:28:35
最も、英国にとっても、新規開発分野である電子機器関連では帝国が独自に開発していたと言う言い訳は割合素直に受け取られ、高柳や八木が提供した、マグネトロンやアンテナに関しては、素直にその技術を賞賛している。
 しかしながら、問題となったのは帝国が紹介した新型の中戦車であった。

中戦車そのものは、40年に独逸が実戦に投入してくる四号戦車の後期型を参考に、ほぼそれと同等の性能を持つ戦車を目指し、開発されたものである。
何せ、目標のスペックが、30年代初頭に提示されていた事もあり、開発は予想以上に進展した。前面に40ミリの傾斜装甲を持ち、57ミリ長身砲を搭載した中戦車は、英国との共同生産分に関しては、鋳造砲塔の搭載すら可能となっていた。
 その中で特に問題となったのは、エンジンだった。
「のと」資料の分析結果から、総研が主力エンジンとして開発目標に据えたのが、ロールスロイスマリーンエンジンである。
1936年に、その初期型がスピットファイヤに積まれ、「のと」世界の大戦最高峰の戦闘機として位置づけられていたP51ムスタングには、このライセンス生産であるアリソンエンジンが積まれているとの資料を見れば、この選択も頷けよう。
特に、マリーンエンジンは、陸戦用にディチューンされたものが、のと世界では、戦後の英国製戦車に搭載されていたと記されていれば、その汎用性も魅力であった。
このため、32年には総研は日商を通じてロールス社に対して技術提携の契約を交わしていた。
その内容は、年間最低100台の液冷エンジンの購入と、帝国から技術者の研修派遣、そしてその見返りとしての資本提供も含まれていた。
しかも、この契約はあくまでも基本契約であり、購入した100台のエンジンの素性が良ければ更に追加の購入が行われる事となっており、実際に日商は年間500台以上の各種エンジンを購入し、様々な分野に転売していた。
これは帝国側にも、液冷エンジンを整備出来る整備員の長期的な育成と言う目的もあり、三菱や中島製作所等の航空機メーカーに格安で販売され、多くが国産の戦闘機のエンジンとして使われることとなった。
お蔭で、ロールス社も世界不況に関わらず、ある程度の売り上げを維持出来た事もあり、マリーンエンジンは「のと」世界よりも一年早くそのプロトタイプの製造に成功しており、帝国には35年初頭に供給される事となった。
そして、半年後には、帝国独自の改良を加えた車載用エンジンとしての発注が行われ、その初期型が英国派遣兵団の新型中戦車に積まれることとなったのである。
帝国側にすれば、英国との共同生産を目論んでいる以上、全てが帝国製の戦車ではなく、エンジンが英国製である点、また、砲そのものも英国の七ポンド対戦車砲の搭載が可能である等の点が、有利に運ぶものとの発想からこのような戦車を提供した訳である。
しかしながら、この余りにも日本的発想が、逆に英国内で大きな問題として取り上げられることとなった。
勿論、表面上はこのような事は一切出てこない。
実際、英国は来るべき大戦に向け、兵器生産の可能な限りの増大を図らなければならず、その為には、同盟国である帝国側からの提案は渡りに船だった。
何せ、本国以外での生産拠点を手に入れられ、しかも価格が遥かに安くなる等の利点は大きい。
その上、提供された派遣兵団の各種兵装は、新式の自動小銃も含め、英国の製品の水準と同等、あるいはそれ以上の性能を持っていたのである。
それから一年、両国の兵器の共同生産は順調にその生産数を増加させており、目標である六個兵団分の各種戦闘車輌、航空機、自動小銃から補給用トラックまでの整備は36年初頭には整いそうな勢いであった。

しかしながら、その裏で、英国政府首脳は、流石に疑いの目を強めていた。
確かに、帝国側が言うように、戦車のエンジンとして適切なエンジンの開発が遅れたため、たまたま手に入ったマリーンエンジンを流用したと言う説明は思い切った処置だが、あり得ない事はない。
だが、あまりにもそのタイミングが良すぎた。
そう、あまりにも帝国側の対応が良すぎると言う事が、疑問を生んでしまったのだった。
帝国を訪れる英国人は徐々に増加していたが、その中でも国内の情報機関が英国政府筋の諜報員であろうと目される人物の増加は更に著しかった。
これは、情報関係者が把握している人物に関してだけであるのだから、国内の防諜網をすり抜けた諜報員も多々いる事は間違いなかった。
そして、その多数の諜報員を使い、英国は、帝国が何か途轍もないものを手に入れている。
さらに、それが「のと」と言うコードネームで呼ばれていると言う事までどうやら知られてしまっているようだった。

126shin:2006/12/02(土) 14:30:02
「結局、あまりにも上手く行き過ぎたのでしょうね。」
梅津が、これらのあらましを語り終えると、井上が溜め息を吐きながら、そう呟く。
「英国は既に、知りえた情報から、帝国側が何か秘匿しているとの疑いを強めています。これに対して、総研内でも、対応策に苦慮しています。」
「方策は、二つ考えられます。一つは嘘を塗り固めて対応する。この方策には、「のと」の全てではなく、一部だけ発見物として提示し、英国との情報をある程度制限する道も含まれています。もう一つは仲間に引き込んでしまう。ここにおられる「のと」関係者の一員として英国首脳も巻き込み、今後の戦略立案に組み込んでしまう方法です。」
井上は参加者全員を見回しながら、言葉を続ける。
「小職は、後者の案を推しております。理由は、ある程度疑惑を抱えたままでは今後の同盟遂行が難しい点、また、今後の世界情勢への対応を考慮した場合、帝国のみの国策遂行では無理がある点。帝国は大英帝国のような世界帝国の経験も、今後の運営意欲も不足していると考えております。」
そこまで話すと、井上は梅津を促す。
「本官は、前者です。理由は井上とは反対に、大英帝国に「のと」情報を開示すれば、それは帝国の自主性の放棄に繋がると言う点です。これまでのように、帝国独自の政策の遂行は困難となり、更には英国の国策に引きずられてしまうと考えております。」
二人はそこまで話すと、黙り込む。
会議室の誰もがあっけに取られ、暫くは話し声すら起こらない。
「判った、要は総研でも、政策立案が出来ないと言うことだな。」
流石に、全員を代表するかのように、濱口首相が言葉をつないだ。
「はい、残念ながらその通りです。極端に言ってしまえば、総研の設立目的は、大戦による敗北を避けると言う点にあります。英国の取り扱いは、どちらを選ぼうとも、敗戦を避けると言う点では大きな違いはありません。
現時点において、英国が帝国との同盟を破棄する可能性はゼロではないでしょうが、少なくとも「のと」情報の取り扱いによって左右されることはないものと考えます。」
「うむ、戦後のわが国のありようの問題だな。吉田君、君はどう考える。」
濱口が突然、吉田茂に振った。
「私ですか。私ならば、全部開示しますね。そうしながら、まだあるかも知れないと英国には思わせとけば良いじゃないですか。どうせジョンブルの事ですから、誠心誠意の対応を見せても、疑って掛かってくるのは当然ですし、それぐらい交わせないで、国家百年を計れる訳もないでしょう。」
「ハハハ、そうだな。君の言うとおりだよ。よし、英国に開示しよう。総研の諸君や先生方もそれで宜しいかな。」

127shin:2006/12/02(土) 14:30:59
「そ、そんなに簡単に決めて良いんですか。」
高畑が、思わず声を掛ける。
「うん、高畑君は反対かな。何か理由でもあるのかな。」
「い、いえ・・・そう言う訳ではないですが・・・
ただ、これまでわが国は「のと」情報でかなりの利益を叩き出して来ました。
開示するとなると、このからくりが英国に知られますので、これについては一悶着あるでしょうから・・・」
流石に、その資金の殆どを叩き出して来た高畑である。
今でこそ、日商と言う大財閥を指揮しているとは言え、「のと」情報をいち早く活用して、巨額の運営資金を叩き出した過去がロイズ社や他の英国企業に知られるのは非常にまずかった。
「ははは、流石にわが国の影の蔵相も形無しかな。仕方あるまい。そのリスクはどう転んでも避けられまい。まあ、暫くは居心地が悪いが、我慢するんだな。」
幣原外相に、笑いながらそう言われると、高畑も言い返せない。
ホンとに政治家ってやつは、一体誰のためなんだよ・・・
高畑は更に言いたい文句をぐっと飲み込む。
「それでは、帝国の方針は、英国に対する「のと」情報の開示、勿論相手は厳密に選ばせてもらいますが、それで宜しいでしょうか。」
政府首脳がその方向に同意した以上、それ以上の反対も起こらない。
梅津は仕方ないという顔を隠そうともしないが、反論する気は無いようだった。

「方針が決まった所で、それに関連する問題がもう一つございます。これに関しては、総研所長も本会議に出席されます。」
横の扉が開くと、全員が一斉に立ち上がり、頭を下げる。
ゆっくりと、陛下は正面の座席に腰をおろして、軽く頷く。
それに併せて、全員が再び着席する。
総研では陛下は公式の場とは違い、堅苦しい儀礼は略するのが最早当たり前になっていた。
「隣で一通り、議論は聞かせて頂きました。私も、英国に対する情報開示の方針が決まったことにほっとしています。とは言っても、秘匿となっていても、これに対して私の方からどうこう言う積もりはありませんでした。」
一言一言確認するかのように、陛下は話し続ける。
「ただ、英国にどのような情報を伝えるにしろ、私個人としてお願いしたい事があります。」
ここで、陛下は全員をゆっくりと見回した。
そこにはこの八年間、帝国を戦乱から避ける為に必死に走り回っているメンバーが揃っていた。
「それは、核兵器の扱いです。諸君らにお願いしたい。今後帝国の国策は、核兵器を作らない、作らせないと言う立場で立案、遂行して頂きたい。」

128shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:19:41
所長が井上を促す。
「ここにおられる殆どの方はご存知でしょうが、核兵器とは、ウラニウムやプルトニウム等の非常に重たい原子の核分裂を一時期に発生させ、大量のエネルギーを引き出し、それによる大量破壊をもたらす兵器です。
その破壊力は、通常兵器とは比較にならないほど大きく、「のと」世界では、西暦1945年に広島、長崎に使用され、両市は廃墟と化しました。
しかも、これは初期型の核兵器であり、その後更にその威力は強大となります。
戦後、米国とソ連の両方がこの兵器を手にし、両大国ともその被害想定が途方もないため、外交手段としての全面戦争が使えなくなりました。
何しろ、核兵器数発で、主要都市は灰燼に帰すると言う状況では、全面戦争は自殺行為です。
「のと」世界では、その結果、両陣営の間で核兵器を使わない、小国同士の争いに、それぞれ列強がスポンサーとなる所謂代理戦争が各地で発生しながら、最終的にソ連の崩壊する90年代まで、冷戦、冷たい戦争と書きますが、その冷戦体制が持続します。
ソ連崩壊後は、このような重石が取れた米国は、通常兵器による覇権活動を再開し、中東においては、それまでソ連を後ろ盾に米国の勢力圏入りを阻んでいた国家を叩き潰して行きます。
まあ、アジア地域においては、中華が核兵器を持っている為、米国の覇権活動は依然として制限されたままでした。
更に、大戦後、朝鮮半島の北半分に成立した、独裁国家、北朝鮮と呼んでいたようですが、が核兵器を持つに至り、状況は更に悪くなっていました。
 「のと」の本来いた時代、2015年でも、アジア地域のこの状況は変わらず、北朝鮮は、国内がガタガタになりながらも、依然米国の勢力圏に組み込まれるのを拒んでいました。
 まあ米国にすれば、早い話が、数人の鉄砲玉を抱えた弱小博徒が、近隣の住民を盾に立てこもっているような状況でしょうか。官憲も下手に手出しできないと言うところでしょう。
八木先生、現状での核兵器開発に関して、お願いします。」
「総研調査部の八木です。核兵器に関しては、その被害、破壊力、「のと」世界の兵器体系等の情報は豊富に存在し、また起動方法等の概念的なものは理解する事ができました。しかしながら、流石にこの情報はあちらの世界でも重要情報に指定されているのか、設計や理論等の詳細情報等はかなり乏しいものでした。
ただ、こちらの世界での帝国での研究の第一人者として、京大の仁科教授の名前が上がっており、彼や招聘した海外の科学者の協力も得て、基礎研究は既に完成しています。」
「それは、どういう意味かな。すまんな、私は科学に疎いもので。」
濱口首相が全員を代表して問うた。
基礎研究や理論と言われても、全員が理解できる訳でも無い。
「まあ、簡単に言いますと、どのようにすれば核兵器が作れるか。その為に何を用意しなければいけないか等まで判っていると言う事です。
核兵器では、起爆に関しての、タイミングの制御が非常に難しいらしいのですが、幸いこれに関しても、最近の電子部品と、「のと」のパソコン、電子計算機ですね、これを使えばそれ程困難ではないと言う見込みが立てられています。」
「と言うことは、わが国は明日でも核兵器を持つ事が出来るのかな。」
吉田が身を乗り出すようにして聞く。
「いや、それは流石に・・・」
どう答えてよいものか、八木はちらりと所長の顔を伺う。
しかしながら、所長は顔色すら変えず、そんな八木を黙って見ているだけだった。
自分で判断しろとのお達しですか・・・

129shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:22:10
八木は覚悟を決めたかのように、興味津々で次の言葉を待っている吉田を真っ直ぐに見つめた。
「総研調査部としては、三年あれば可能であると考えています。
原料の採掘と、必要施設の建設に一年、核物質の抽出に一年、最終的な爆弾の製造に一年程度でしょう。」
室内にざわめきが広がる。
「一つ良いですか。」
黙って聞いていた、永田が遠慮がちに問いかけた。
八木が頷くと、徐に口を開く。
「費用は?三年間で必要となる金額です。
そして、どれ位の量、爆弾とするなら何発ですか。
後、その威力はどの程度を考えておられますか。」
単刀直入な質問に、ピタッとざわめきが収まり、全員の目が所長と八木の間を彷徨う。
核兵器を「作らない、作らせない」を、国策にして欲しいと言ったのは所長、いや陛下である。
所長の言葉ならば、建策であるが、陛下であるが故にそれは命令に等しい。
それでも、誰もが今の今まで、核兵器そのものを遠い将来の課題程度にしか考えていなかった。
ところが、八木の話からすれば、直ぐにでも作れると言っているに等しい。
それ故に、建策とは裏腹に、誰もが永田の質問の答えに注目せざるを得なかった。
全員の視線が自分に集まっているのを感じながらも、八木は流石にそれには答えられず、黙って俯いてしまう。
「予算10億前後で、「のと」世界で帝国に落とされた程度のものなら、5発位は作れます。それ以降は、原料のウラン鉱石の入手と、ウラニウムの抽出に掛かる期間のみで、量産まで可能でしょう。」
梅津が、全く感情を殺したような声で、淡々と答えた。
「おおっ!」
「エエッ!」
「何と・・・」
会議室全体に驚嘆や唸るような言葉で満たされた。
誰もが、気がついていた。
それがあれば、帝国は世界の覇権が握れると。
「のと」資料で、米国が開発したと記録されていた時期よりも、少なくとも五年前に帝国だけが核兵器を開発する訳である。
逆に言えば、「のと」資料の無い他の列強は、後五年は開発出来ない。
いや、それどころか、帝国がその使用をほのめかせば、どこの国も作らせない事は可能である。
核兵器を唯一持つ帝国に逆らうのは、銃を持つ人に素手で立ち向かうようなものなのだ。

130shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:25:07
大変だ・・・
高畑は、真っ青になりながら、会議室内で広がるざわめきから一人離れ、総研の仲間達を見つめた。
所長は、表情も変えず、端然と座っている。
井上と梅津は、むっつりと黙り込んだまま、八木は顔を上げようともしない。
高柳は青い顔に困惑を浮かべて、視線だけがさ迷っている。
どうりで、こんな緊急召集が行われる訳だ・・・

本来ならば、高畑自身も、あちら側にいた筈である。
幸か不幸か、誰かが、英国との共同生産の状況確認と、資金状況を把握しに行く必要があり、久しぶりに長期出張中だった為、この会合の召集する側から、召集される方に回ってしまったのだった。
核兵器の開発状況の報告が総研メンバーに行われ、その結果高畑抜きでシナリオが検討され、このような発表の仕方に至った訳であろう。
仁科先生って、本当に優秀な方なんだなあ・・・
ふと、高畑はそんな事を思った。
当然、核兵器の問題は「のと」が現れた時以来、メンバーの間でしばしば話題になっていた。
しかし、米国での開発に掛かった費用で、連合艦隊がもう一杯作れると書かれていただけに、そんなに安く作れるなんて思いもしなかった。
最も安くとは言っても、戦艦が、何隻か作れる程度の金は掛かるが。
とにかく、総研の資金に頼らずとも政府がその予算内で何とか作れる金額に収まってしまっている。
あっ、それで緊急会議か。
高畑は漸く、自分がいない間に、シナリオが作られ、会議が開かれた理由に納得がいった。
情報は漏れる。
メンバーに報告が上がった以上、他の総研関係者がその情報を知るのに、それ程時間か掛かる訳ではない。
その結果、帝国としての方針が定まっていない内に、走り出すことは十分に考えられる。
所長の方針が「作らない」だとするなら、一旦走り出した動きは、止めねばならなくなる。
でも、絶対に止められないだろうなあ・・・
そりゃそうである。
帝国の為と考えれば、泥を被る連中は、ゴロゴロしている。
例えそれが、独りよがりで、独善的であっても、正しいと信じているならば、無茶をやる人間には事欠かないのが、悲しい限りだが帝国なんだよなあ・・・

131shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:26:57
しかし、どうやってこの状況を納める気なんだ。
高畑が、一人冷静になっていく中で、周りでの議論は更に白熱しているようだった。
特に、所長も止めようともしないため、お互い同士で話す声も自然と大きくなっている。
うん・・・
漸く、高畑も自分以外でも何名かが、表情を殺しながら周りの議論を聞いている事に気がついた。
もっともそれは、情報部の堀部長の様子がそうだったからであり、自然とそれ以外でもそうしている連中に注意が行った訳である。
ええっと、堀さんだろ、それに東条さんもか。
首相は、違うな本当に知らなかったみたいだな。
永田さんは・・・
うーん、あの人は判らないな・・・
どうやら、何名かのメンバーには事前に情報が漏らされ、何らかの指示が行われているようだった。
流石に、シナリオが読めない為、それ以上の判断が出来ず、高畑は後で詳しく事情を聞くのが待ち遠しくなってくる。
やはり梅津さんに聞くのが一番かな。
どうせ、悪辣な方法を考えるのは、井上さんだが、あの人にまともに聞いても上手くはぐらされそうだしな。

「もう、十二分に理解できたと思うが、どうかな。」
流石に、所長が口を開くと、全員が黙る。
「改めて、みなさんに言っておきます。帝国は核兵器を作りません。そして、他の国がこれを開発することは全力を挙げて阻止して下さい。」
所長が立ち上がり、深々と礼をする。
全員が慌てて立ち上がり、更に深く答礼して動かない。
そりゃそうである。
今の口調は、総研所長の話し方ではなかった。
それは、大日本帝国君主、今上陛下そのものの口調だった。

132shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:29:07
「私はこれで失礼します。後はみなさんで考えてみて下さい。」
所長がそのまま退席し、扉が閉まると、流石に緊張が緩むのが判る。
「で、どうするのかね。英国に対する情報開示、核兵器の開発停止。総研としての建策方針は出来ているんだろ。」
濱口首相が、疲れたような声で、井上と梅津を睨みつける。
流石に、「のと」発見直前から首相をしているだけあり、簡単には騙されないぞと言う表情がありありと判る。
「人聞きの悪いことを言わないで下さい。まあ確かに、英国に対する情報開示に関しては、以前から検討課題として上がっていましたが、核兵器の件は、総研でも突然の事です。」
そう井上が代表するように言っても、周りの疑いの目は変わらない。
「あっ、皆さん信用されてませんね。それじゃ、そこにいる高畑君に聞いて下さい。彼はこの三ヶ月程外地に出てましたから、今回の件は全く知りません。」
少しむっとした表情を浮かべ、井上が高畑を指し示す。
あっ、あの野郎、こっちに振りやがった・・・
全員の視線が集まり、流石に高畑も慌てた。
「えっ、はい。確かに、核兵器の件は私もここで初めて伺いました。
最も、研究開発が進展しており、近々報告があるとの事は知っていましたが、ここまで進展しているとは想像もしておりませんでした。」
そう言いながらも、高畑は井上を睨みつけるが、彼は知らん振りである。
「そうか、高畑君が言うなら信用しよう。で、英国に対する情報開示は?」
どういう訳か、こう言う場合には、首相も含め、政治家、軍人達は総研所長付きのメンバーの中で、高畑に対する評価だけが高かった。
金銭に関しては、別の意味で一目置かれているが、このような謀略的な事柄からは、一番遠い位置にいるものと思われているらしい。
まあ、現実にそれは正しいんだけどなあ・・・
高畑は一人、自分だけがこの会合のシナリオに関わっていなかった理由をもう一つ見つけ、納得する。
「はい、英国に対しては、井上さんの言うとおり、ある程度の方策は検討しておりました。」
「で、それは?」
「一本釣りです。」

133shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:30:28
「一本釣り?」
全員が、困惑した表情で高畑に先を促す。
「ええ、英国に情報開示といっても、英国政府を通しての情報開示は機密漏えいの問題が発生するとの話は出ていました。
もし開示するとするならば、特定の人物を指名して彼を通じて情報開示する形であろうと。
こちらが選んだ特定の人物を介して英国に対する情報開示のルートを構築すべきででしょう。」
こう言う話は余り得意ではない。
勿論、説明だけなら、高畑でも出来る。
お金に関する事なら、幾らでも対応できるのだが、流石に質問が出たら対応出来ない。
ちらっと、井上を見ると、流石に軽く頷きを返してきた。
高畑が話している内容が正しく、彼なりの礼をしているのは、付き合いが長いため高畑にも判った。
しかし、口元の僅かな綻びから、やはり彼が楽しみだしているのまで気がつき、こちらも目で促す。
「その先は、小職が説明致します。」
仕方ないと言う表情を高畑に隠そうともせず、井上が引き継ぐ。
「全面的な情報開示と言っても、無制限な情報開示は流石に実施出来ません。」

134shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:33:09
英国に対する「のと」情報の開示に関しての検討で、問題となった点は英国が取りうる国策だった。
勿論、英国が「のと」情報の内容を知ったとしても、それが日英関係の解消に繋がる事はまず考えられない。
誰も声を出しては言わないが、両国とも対独戦に向けた日英連合軍の構築に向けて動き出している。
それを、今の時点で破棄する事は、英国にとって何の利益ももたらさない。
しかしながら、梅津と井上の意見が食い違ったのは、英国の対米政策への影響だった。
「のと」情報の中には、第二次大戦中、米国がどのように英国への援助を提供し、そして、大戦終了後いかに取り立てたかについて、詳細な情報が含まれている。
これを知った時、英国の反応をどう見るかで、意見が判れたのである。
井上は、それ相応の対応、即ち米国に対する警戒を強めながらも、その状況を上手く利用しようとする流れで、推移すると考えた。
これに対して、梅津は大筋で合意しながらも、極端な反米政策に走る危険性をも指摘したのである。
勿論、「のと」情報を米国に提供することで、全面的な米国の援助を得ると言う選択肢、即ち親米政策に走ると言う可能性も検討されたが、流石に、大英帝国が没落する事が判っていれば、それはあり得ないと言うのが、総研内での結論だった。
要は、現時点で英国が帝国との同盟をどのように捉えるかの見方の違いだった。
対独戦を考えた場合、帝国との同盟により、何とかそれを遂行できると見るならば、対米政策は、極端に走ることはないであろう。
これからも、国際政治と言うものが判っていない我侭な放蕩息子をあやす積りで米国へ対応して行くであろう。
これに対して、万が一にも帝国との同盟が、十分なものだと考えたらどうであろうか。
しかも、これには「のと」情報の開示まで含まれるのである。
英国が、放蕩息子の我侭を聞かないケースも考えられる。
例えばカリブ海に於ける米海軍による臨検の権利がある。
英国は、これまでの米国のカリブ海洋上での臨検権を認めていなかったが、昨年これを許可している。
これも、欧州での戦乱が近づいているとの認識から、米国に対する譲歩であった。
帝国との同盟の価値を高く評価すればするほど、英国側からのこのような米国に対する譲歩は減少するであろうし、強いては英米関係が今以上に険悪になる可能性すらある。
梅津はこれを恐れた。
少なくとも、英国が米国に対して譲歩路線を放棄するのは、大戦勃発後が望ましい。
それ故、現在での英国に対する「のと」情報の開示は早すぎるとの判断であった。
これに対して、そのようなリスクを勘案しても、英国に対する情報開示が遅れる事による両国の関係の悪化を恐れたのが、井上である。
また既に、日英協調体制が確立されており、両国は対独開戦に向けて走り始めている。
この時点で、現在のように英国が帝国の機密を探る行為にその貴重なリソースを裂くのは惜しい。
それよりも、「のと」情報を活用しながら、そのリソースを対独、対ソに向けて貰いたい位である。

135shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:37:36
これ以外にも、総研では帝国内に対する影響を危惧する声もあった。
それでなくても、国内には、帝国の国策である親英政策に不満を持つ勢力もいるのも事実だった。
親英政策ではなく、英国従属政策とすら揶揄する連中もいる。
それが、「のと」情報の開示で、帝国が親英追従政策の強化、更には国益さえも売り渡すのかと一層非難を強める事となるであろう。
まあ、この連中は吠えるだけなので、何とでも対応は出来た。
また、具体的な「のと」情報に触れれるレベルでもない。
厄介なのは、総研メンバーと目されながら、政策には反対なのに、それを表に出さず、動こうとする連中が出る事だった。

 最も、過去八年間そのような動きが無かった訳ではない。
国防総省において、他の部門の長が、移動するにも関わらず、統合作戦本部情報部の堀部長が、首相と同じように八年間も移動せずその席に就いている理由がそれだった。
「のと」情報では、開戦時の連合艦隊司令長官であり、堀部長とも個人的に親しい間柄であった人物が二年前不幸な事故で他界した事を知らないメンバーは総研にはいない。
彼ほどの人物でも、不幸な事故にあう事は無い訳ではないが、それだけで、他のメンバーには十分だった。
ちなみに、総研の井上は、事故の一報を聞いた時、
「最近、車が増えたから、危ないからなあ。」
と呟いたとまことしやかに伝えられている。
しかも、それは事故の内容が、交通事故だと誰も知らない時にと言う注釈までつけて広められていた。
 本当の所は決して表に出る事は無い。
それでも、総研と統合作戦本部が、どのような意思で動くのかを全員に知らしめるにはそれで十分だった。

136shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:39:23
勿論、井上がこのような内容を直接話す訳ではない。
一連の説明の中で、「総研メンバーの方々に於いては、戦略が策定された場合、例え反対でもその遂行を妨げる方はいらっしゃらないと信じております。」
と、わざわざ梅津を見つめながら言っただけである。
まあ、梅津にすれば、良い迷惑でしか無いが、彼もこのような脅しが必要である事は十分に理解しており、それに対してどうこう言う程、修羅場を知らない訳でもなかったが。

「従いまして、英国の国策が極端に走る可能性も否定は出来ませんが、少なくともこの方向性に関しては、日英の協調により、対応は可能であろうと考えております。
いや、全力を挙げて対応する心積もりです。」
何事も無いように、井上は説明を続ける。
「即ち、英国の国策を、帝国の国策と合致させるべく、可能な限りの努力を払う必要があります。何卒皆様のご協力をお願い致します。」
井上は、英国が自らの意思で、帝国が望む国策を打ち出すように、全員で努力すれば良いと、こともなげに言い放つ。

137shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:41:19
濱口は、苦虫を噛み潰したような顔で、聞いていた。
それは、彼らにすれば、国内で行ってきた活動を更に海外まで広げると言う事にしか過ぎないのだと、理解しているからこそである。
初めからそうだった。
濱口は、総研が成立した頃を思い出す。
当事はまだ、甘さがあり、可愛げがあった。
その為、彼はそのような総研メンバーの建策を理解した上で、その流れに乗っていたと言えよう。
最も、暴漢に襲撃され、死亡と言う事実を突きつけられれば、濱口自身にも覚悟も定まる。
彼から見れば、若造でしか過ぎないこのような男達が、真摯に検討した建策を生意気だと潰すよりも、その流れに沿うように動くことこそ自分の役割だと考え対応してきた積りである。
それがどうだ。
あれから八年、この前の二人、いや高畑も含めれば三人は、大きく化けてしまった。
当事のような甘さは影を潜め、自分達のやっている事に自信を持って対応している。
確かに、井上が言うように、英国の政策すらも変えて行くと言うのは、困難ではあろうが、今の彼らに出来ない事とは思えない。
梅津ですら、それが気に入らないにしろ、不可能と思っているような面ではなかった。
彼らはきっとやるだろう、またその為の組織すら、今は手に入れている。
統合作戦本部情報部も、やはり化けたものだった。
堀は、普段の温厚そうな表情とは裏腹に、着々とその組織を整え、しかも、総研から直接資金提供を受け、国家が表立って出来ない部分すら、対応できる組織を作り出していた。
彼も含めると、四人か・・・
いや、そうではない、彼らに続く人材は溢れかえっている。
濱口はチラッと吉田の顔を見る。
吉田は、真っ直ぐに井上を睨みつけているが、その口元には面白そうな笑みがこぼれだしそうな顔をしている。
危ない・・・
濱口はそこに、大きな陥穽が広がるのが見えたように思えた。

今は問題とならない。
これからも彼らはしっかりと帝国の行くべき方向を策定し続けるであろう。
そして、その殆どが上手く嵌り、それは彼らに更なる自信を与えて行くだろう。
今はまだ良い。
彼ら自身が、それもこれも全て、「のと」情報があってこそだと言う事を見に染みて理解している限り。
だが、何時までそれが続くか。
今後、「のと」情報には無い状況が益々起こってくる。
勿論、彼らは既にそのような事態に備えるため、様々な情報の入手手段や、遥か未来の分析手法等も活用し、準備を進めている。
しかし人間のする事であり、全てを予測するなど、神のみがなしえる業である。
予期できない、予測できない事態の発生が、危機であり、その時にどのように対応するかが初めて試される訳である。
それが、残念ながら陛下が御作りになられた総研には、経験の無い事態である。
自分や井上蔵相が現役の間はまだましである。
いや、自負にしか過ぎないかもしれないが、少なくとも総研の建策に疑いを持って対応し、「上手くいかない」と言う事態も想定して動いている。
しかし、今回の英国に対する情報開示、そして核兵器の制限が上手くいけばどうなるのか。
彼らの評価は益々高まり、同時に自信も更に強まる。
そして、それが慢心に繋がるまでどれ程の時が必要だろうか。
その時に、果たして自分はいるだろうか。
いや、今よりも賛同者を増やした総研と言う化け物に対して、果たして自分は対抗できるであろうか。
濱口はも一度、吉田を見た。
今回は、彼も気がつき、その小さな瞳をこちらに向け、何かと問うような表情を浮かべる。
何でもないと言うように、濱口は首を軽く振り、溜め息を吐いた。
やはり、潮時か・・・
吉田茂、「のと」資料では、後の総理大臣であり、戦後の道筋を付けた人物と記されていた。
非常にあくが強く、毀誉方便の激しい人物。
今はまだ、化けたとは言えないが、既にその片鱗はうかがい知れる。
井上、梅津ら総研に、対抗できるだけの素質は備えている、いや、備えている事を願っていると言う方が正しい。
よし、そうしよう・・・
濱口は、自分なりの方針を固めると、再び井上の説明に耳を傾けた。

138shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:43:56
「英国と米国の関係で、留意する必要がある点がもう一つございます。」
井上は次の問題に移っていた。

既に述べたように、第二次大戦前の英米関係は、決して良好とは言えなかった。
現実問題として、独逸に対抗する上で米国からの支援が必要不可欠であったが故に、その辺りに目を瞑ったと言うのが実情だろう。
しかし、その割り切り方が物凄い。
「のと」資料によれば、米国を味方につけると決めたなら、その為に必要な手段は国を挙げて実施している。
資源地域の譲渡等の経済面での約束のみならず、技術情報の多くを提供して、米国を見方につけるため、動き回っている。
一部資料では、後のチャーチル首相自ら、米国の秘密結社である「フリーメイソン」にまで加盟しているとすら述べていた。
まあある種の陰謀史観であるが、要は、チャーチルは米国の為に英国を売り渡したとすら、言われているのである。
そこまで言われる程、戦争に勝つ為には手段を選ばない国である。
そのような国である以上、帝国との提携だけで、独逸やソ連に対抗出来ないとなった時の英国は、なりふり構わず様々な情報を米国に投げ出すであろう。
その中に、「のと」情報が含まれていない保証はない。
いや、むしろ最上級の情報として米国に譲り渡す可能性は高い。

「まあ、帝国と英国だけで、独逸に勝てれば問題とはならないのですが、確約は出来ません。
要は、国策の問題と、情報が米国へ流れる危険性があると言う二点を我々自身が理解した上で、情報開示の方策を考えねばならないと言う事です。」
「問題はそれだけかね?」
「ハイ、「のと」情報を英国首脳に開示するとした場合、留意すべき点はこの二点と考えております。」
「それ以外は問題にならない。と言うのだな。発明、発見等の先進情報の活用については、どうなんだね。
「のと」情報を活用し、既に帝国で特許を取得しているものは、様々に及んでいると聞いているが、それは問題にならないのかな。」
井上蔵相が、少し皮肉っぽく聞いてくる。
「まあ、確かに、発明者が知ったら悔しがるものはあるでしょうが、問題になるとは考えておりません。
理由としては、公開可能な発明や発見は、「のと」世界での研究者が思いつくよりも以前に公開されている点があります。
例えば、帝人にて発明された事となっている、「ナイロン」、いわゆる化学繊維と言うものは、本来ならば、米国のデュポン社の発明です。
しかしながら、デュポン社が例え「のと」情報を知りえたとしても、これを証明する方法が無いのです。
ましてや、今現在デュポン社では、化学繊維の研究を行っておりません。
当然、既にあるものの研究開発を行う理由が無いからです。
従いまして、デュポン社は、それが自社の技術者による発見の盗作だと訴えようにも、証拠が無いので、訴える事も出来なくなります。
但し、現在軍事関連等で、機密にされている発明、例えばトランジスタ等では、多分そのアイデアの特許を取得する人物も出てくる可能性はあります。
この場合は、その国の特許収入はある程度制限される事となるでしょうし、将来国家どうしの話し合いで、逆に特許料を払うケースすら出てくる可能性はあります。
しかし、それも「のと」情報を知っていると言う前提ですから、まず起こりえないでしょう。
国家間となりますと、後は外交レベルですか。
従って、この辺りは、対応できる世界ですので、問題にはなり得ないと考えております。」
井上がそつなく答えると、頷くしか出来ない。
「英国の国策に対しての影響と、米国への機密漏洩への対処としての方策として、検討しているのが、先ほど「高畑」から話が出ました、「一本釣り」です。」

139shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:46:38
「まず、最初に、正規の外交ルートを通して、英国に対して、いわゆる「のと」情報の開示の用意があると連絡を入れます。
但し、開示に関しては、帝国が指名する人物を介して行うとの条件を付けます。
こちら側が望んでいる人物を英国政府に、代表として選ばざるを得ない状況を最初から作る訳です。」
「それで、一本釣りか。」
「はいそうです。勿論英国は難色を示すでしょうが、少なくとも帝国が「のと」情報を開示しようとしていると言う姿勢は示せます。」
「まあ、そこら当たりは外交だな。」
幣原外相が答える。
少なくとも、自分の出番がある点を好意的に解釈しているのだろう。
「で、選んだ人物に「のと」情報全てを開示するのかね。」
「はい、その方が良いかと。
下手に隠し立てしても、信用されませんし、「のと」の船体と内部を見せるだけでは、この人物に対する交渉が出来ません。」
濱口は無言のまま、先を促す。
「情報開示とは言え、帝国内でもある程度の制限は行っております。
その意味で、英国内に情報が広がるにしろ、その情報閲覧ランクが必要となります。
こちらの指名した人物に、この情報閲覧のランク付けを担当して頂きたいと考えております。
あっ、勿論そのランク付けに対して、当該人物に対する拒否権は総研側にあると言うのが前提ですが。」

「なんだ、今の総研と同じ形じゃないか。」
幣原外相が呆れたように呟いた。
「仰るとおりです。「のと」情報を直接政治家に渡すのはあまりにも危険すぎます。」
「それは、我々に対する皮肉かね。」
濱口が嫌そうに顔を歪めている他の政治家を代表して言った。
「いや、別に皮肉でも何でもないと考えています。勿論、我々のような軍人も同様ですが。」
しれっとした顔で、井上は答える。
「現実に、大きな利害関係が生じない人物、また長期的な視点からこれを判断できる人物が最も望ましいと愚考します。
残念ながら我々自身もその基準を満たしている等というおこがましい事は考えませんが、少なくとも英国側にて「のと」情報を管理する人物も、そのような基準に近づく人を探すべきでしょう。」
井上は、一旦言葉を切りかけたが、直ぐに話を続けた。
「あっ、それと、残念ながら英国には所長のように、我々よりも遥かに基準に近い人物はいませんので、それをお忘れなく。」

140shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:48:28
全員が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
それはそうである。
お前たちでは「のと」情報を管理出来ない、帝国は陛下が辛うじてその基準を満たすと言われて、しかも全員が反論できないのだから。
あーあ、井上さん、また敵を増やして・・・
高畑は頭を抱えたくなった。
まるで、一心に全員の恨みを買うような行為をどうして、この人はいつもするんだろう。
皮肉屋であるのは判っているが、あまりにも辛らつである。
根は悪い人じゃないのになあ・・・

「で、それで、総研は候補者も絞り込んでいるのだろ。」
濱口が井上の先を促す。
「ハイ、アーサー・C・クラーク、後の小説家、現在、英国陸軍電波研究施設にて勤務している研究者、少尉です。
それと、こちらはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ジョン・メイナード・ケインズ、経済学者、現在は大蔵省顧問に迎えられ、大戦中の英国の資金繰りを担当する事となっております。
それと、ケインズ氏は、1946年死亡となっています。」
暫く誰も口を開かない。
どう考えても、このような組み合わせに何の意味も見出せなかった。
第一、ケインズだけならば、現在の濱口政権が実施している内需拡大策の基本理論を提供している学者であるから、知らないでもなかったが、クラークとなると、知っている人間すらいない。
「参考までに、教えてもらえないだろうか、どのような基準でこの二人が選ばれたのかね?」
かなり皮肉交じりに、濱口首相は問いかけるが、井上は平気な顔である。
「ハイ、一番の問題は、「のと」情報でも、英国人に関する情報はそれ程ないと言う点でした。」

141shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:50:50
膨大な資料の塊である「のと」情報でも、それはあくまでも「のと」世界の日本人が、自分達の興味で集めた資料でしか過ぎない。
その内容は、個人が興味を持った事柄に関する情報が多く、結果として興味が行かない分野に関しての情報は極端に少なくなっていた。
英国に対する情報開示において、その適任者を探すにしても、日本人のデータに比較すると、外国人のデータは遥かに少ない。しかも戦時中にどのような役割を負っていたかとなると、
それは殆ど見つからなかった。
ある程度詳しいデータが集まるのは、どうしても主要な政治家、軍人が中心であり、それ以外は名前だけが出てくる程度であった。
勿論、井上の場合のように、本人の伝記がある場合など、あり得よう筈も無かった。
政界に対してある程度顔が利き、政治に深く関与していない人物であり、尚且つ米国に「のと」情報を開示する事に積極的でなさそうな人物となると、探す方が無駄に近かった。
アーサー・C・クラーク博士の名前が上がってきたのは、大戦後、「のと」世界でも一二を争う小説家として、著書もあり、経歴もはっきりと資料の中にあったためである。
しかも、戦時中は軍の電波研究者であり、教官も勤めたと言う経歴がある点も好ましかった。
小説の分野は空想科学小説と言う荒唐無稽な分野であるが、逆に「のと」資料に接しても、拒否はしないだろうとの予測も立てられる。
勿論、クラーク博士の実績の半分以上が科学関係の書籍である点も、単なる無想家ではない事を示していた。
そして、何より戦後死亡するまで、セイロンに在住し、英国から勲章まで受けたと言う経歴が、米国寄りの活動を取るとは思えない点が上げられた。
英国側で「のと」資料の取り扱いを任せるに足る人物であると言うのが、総研での評価であった。
しかしながら、クラーク氏では、年齢が若すぎた。
1917年生まれ、現在まだ20歳にしかなっていない。
せめて、40代ならば、何とかなるであろが、これでは対象としてあまりにも若すぎた。
これに対して、ケインズ氏の場合は、逆である。
現在54歳で、しかも1946年には死亡している。
ただ、生粋の英国エリートであり、実際に第一次大戦後の講和会議では、大蔵省の随員として参加し、正論をどうどうと述べる胆力も備わっていた。
ちなみに、彼は独逸に対する賠償金に反対し、途中で辞表を提出している。
政財界にも顔が利き、第一次大戦後も様々な建策を述べながら受け入れられず、
しかも、その建策がことごとく正しいとの評価も高い。
「のと」世界では、37年の時点では、何度目かの建策が受け入れられず、不遇を囲っている状態となっていたが、現実には大蔵省の顧問となっている。
そう、総研からの働きかけで、英国政府も内需拡大策を実施しているため、その陣頭指揮を任されているのだった。

142shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:52:05
「ケインズ氏に関しては、既に「のと」世界とは違う方向に進まれているのは間違いありません。しかしながら、典型的な英国紳士であり、大戦時内閣のチャーチル首相とは反発しあいながらも、戦争遂行の為に、全力を尽くします。
そして、それだけの努力を払いながら、45年には、彼の政策が米国には受け入れられず、英国は切り捨てられます。
この事実だけでも、彼が米国側に立って「のと」情報を使う可能性は非常に低いでしょう。」
「しかし、それは逆に、初めらか米国側に立って働いていたと言う見方も出来ないことはないのじゃないかな。」
説明を聞いて、永田が尋ねる。
「ええ、そのような見方も出来るでしょうね。しかしながら、その場合、ケインズ氏にはどのような動機があるのでしょうか。」
「それは、英国内で自分の建策がことごとく採用されない辺りがあり得そうじゃないかね。」
井上蔵相が答える。流石に、同じ経済家としてその辺りは思いつく。
「その場合でも、現在は違います。英国は明らかに内需拡大策を実施しております。この事から、彼が受け入れられない為に裏切る事はあり得ません。
それに、彼は様々な投資活動を実践しており、十分に資産家です。名誉、金銭欲、あるいは脅しから等の各方面からの可能性はまずあり得ません。」
「そうか、君達がそう言うなら、そこは信じよう。しかし、なんでケインズ氏だけではなく、そのクラーク君と言う若手も同時なんだね。」
濱口の質問に、わが意を得たりと井上が続ける。
「ええ、それが鍵なんです。考えても見てください、ケインズ氏にとり、現在この世界で最も重要と思える「のと」情報に無制限でアクセス出来る権限が与えられると言う事は、彼の虚栄心を十分満足させるでしょう。
ただ、同時にその権限が、全く無名の20代そこそこの若造にも与えられると言う事が、ケインズ氏にとって、どのような意味を持つか。」
「とげだな。指先に刺さってしまった、気にはなるが見つからないとげのようなものか。」
「ハイ、おっしゃる通りです。ケインズ氏にとり、常に意識しなければいけない存在として、クラーク博士がいるだけで、彼の独善的な行動はかなり抑えられるものと期待しております。」
「しかし、そんなに上手くいくのかね。私には机上の空論のように思えて仕方ないのだが。」
幣原外相の顔には、疑いしか浮かんでいない。
「ええ、おっしゃる通りです。ここまではあくまでも我々の想定にしか過ぎません。
しかし、英国政府に対して、「のと」情報の全アクセス権を与えるのはこの両者だけと通知し、しかも、両人の同意があり、しかも帝国と、英国の情報部門が許可を与えた人物のみ、分野情報をその人物に提供すると言う縛りを入れれば、かなり違うのではないでしょうか。
少なくとも無制限の情報流出は防げます。」

143shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:54:56
「それはそうだが、それでも私には非常に危うい理屈にしか思えないのだが。」
濱口が全員を代表するように、述べる。
あまりにも理路整然としているように聞こえるだけに、余計に信用できないと言うのが、ほぼ全員の気持ちだった。

「お疑いはもっともです。我々自身もこれが十全の体制だとは考えておりません。」
これまで黙って井上に説明させていた梅津が始めて口を開いた。
「改めて申し上げますが、本官はあくまでも英国に対する情報開示には反対の立場です。
ただ、本官の反意は、その時期の問題です。
長期的には、英国に対して何らかの情報開示が必要不可欠であると言う点では反対はしておりませんでした。」
梅津は全員がその言葉を咀嚼するのを待つように、暫く黙る。
「「のと」情報をこのままわが国だけで、独占した場合、帝国はこれまで以上の繁栄を謳歌する事が可能でしょう。
しかし、それは逆に列強全部から怨まれる事に繋がります。
全ての発明・発見は帝国発であり、その先取利益を確保するだけでも、帝国には莫大な富が集中するでしょう。
これで、列強との軋轢が生じない筈がありません。
間違いなく、帝国は戦塵に巻き込まれます。
勿論、本官も軍人であり、今の帝国軍の実力、そして今後配備される先進兵器体系を持ってすれば、負ける事は無いと考えます。
しかし、それは何時まででしょうか。
どこかの時点で、いやはっきり言えば、帝国が「のと」情報を実用化しきった時点で、それは終わりを告げます。
そして、列強が追いついて来た時、帝国に対する恨みは考えたくありません。
それ故、「のと」情報の不必要な長期に渡る秘匿に対しては反対するものです。」

144名無しさん:2006/12/09(土) 13:57:36
「共犯者は増やしておくに限りますからな。」
吉田がぼそりとつぶやく。
誰もが、帝国の実力を十二分に理解していた。
以前とは違い、「のと」情報及びそこから派生した総研と言う組織のお蔭で、欧米列強に対する見方も大きく変わっている。
それまでの漠然とした不安を感じる存在から、ある意味現実として認識できるまで降りてきたと言う方が正しいかもしれない。
全てが情報量だった。
帝国の周辺には、欧米の植民地や没落した中華帝国しか存在せず、欧米は遥かに遠い。
米国の巨大生産施設を実際に見学したものは、それを見て帝国が敵う訳はないと思ってしまう。
だが、果たして彼は現在の八幡製鉄所を見学したことがあるのだろうか。
欧米恐れるに足らずと、声だかに叫ぶものは、本当に欧米の生産施設を見てきたのであろうか。
独逸に留学したものは、その良い面だけを見せられ、独逸贔屓となって帰国する。
逆に、フランスやイタリアに行ったものは、その差別的扱いや、退廃的な所のみを記憶に納めて帰ってくる。
そのような情報量の差が、列強に対する過大評価や過小評価を招いていたと言えよう。
それが「のと」の出現により、大きく変わった。
資料を直接目にしたものは、欧米列強と帝国の格差を明確な数字で突きつけられる。
そして、総研が「のと」資料で得られた、各種分析手法を駆使して提供する月例報告や、年次報告では、帝国の状況が列強各国との相対的な比較の上で語られている。
これが数年以上も続いた訳であるから、誰もが見方を変えざるを得ない。
各省庁からの報告も、以前よりは遥かに改善されていた。
何せ、省益を優先したようなレポートは、総研からのレポートで叩き潰されてしまうのである。
「君はそうは言うが、総研からはこのようなレポートが上がっているのだが、どちらが正しいのかね。」
いやみったらしく、大臣からそう指摘されると、官僚も下手な誤魔化しは効かなくなっていた。
結果、誰もが昭和12年現在の帝国の国力をある程度まで正確に把握できるようにはなっていた。
そして、事実を正確に把握すればするほど、米国の巨大さを認識させられる結果となる。
一つの指針である粗鋼生産量を比較しても、その巨大さは認識出来る。
「のと」発現以降、帝国はその生産量を飛躍的に増大させている。
特に、昨年は前年比170%と言う驚異的な伸びを示しているのである。
1936年時点での統計では、粗鋼生産量は、1200万トンと「のと」世界の6倍まで膨れ上がっている。
それでも、漸く独逸と並ぶレベルまで国力が大きくなったに過ぎない。
そして、米国は長期的な不況に喘ぎながらも、楽々この数字を凌駕し、2000万トンに達しようとしている。
しかも、この数字は不況のせいであり、不況以前は3000万トン近い生産を誇り、「のと」資料では40年に戦時体制がフル稼働しだすと、あっという間に4000万トンを超えてしまっている。
帝国がギリギリ限界まで頑張り、「のと」と言う裏技を使い叩き出した数字ですら、米国の半分にしか過ぎないのである。
このような情報が総研を通じて、軍需省だけで留まるのでなく、国防総省を含む全官庁に正確に伝えられている以上、列強と争う事が如何に無意味かは誰もが認識している常識だった。

145shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:59:39
「本官が適切と考えた開示時期は、来年です。」
再び梅津が話し始める。
「英国が独逸に対して先端を開き、これに対して帝国が参戦するタイミングにて、日英同盟を更に強化すると言う名目も立ちます。
そして、何よりも英国の国策がぶれても、対応は可能となっているでしょう。
帝国が、英国の強力な同盟者である事を示した後ならば、おのずから対米政策は今よりも厳しいものにならざるを得ません。」
「しかし、既に決は取っている。英国への開示は本年実施される。」
永田が冷たく言い放つ。
梅津が今更何を言い出したのか、その顔には少し苛立ちが浮かんでいた。
「失礼致しました。永田長官のおっしゃる通りです。
本官が述べたいのは、「何時開示するか」と言うタイミングの問題でしかなく、その内容は極端に言えばどうでも良いと言う事です。」
梅津がそれだけ言うと、再び黙ってしまう。
井上は、仕方なさそうにそんな梅津を見ていたが、おもむろに口を開いた。
「帝国は、既に「のと」情報を全て分析し、それぞれの分野で必要な記録を完成させております。
しかしながら、この情報は、決して体系だった情報ではなく、様々な欠落もあり、帝国が一夜のうちに未来の科学技術を全て実用化できるものではないのは皆さんも良くご存知の事です。
このような雑多な情報の中で、比較的体系だったものは、電子機器関連及び、兵器体系でした。
他の分野は、様々なヒント、またいずれこのようなものが出来ると言う程度にしか判らない情報ばかりです。
例えば、身近な例ですが、今から53年後に実用化され、帝国も「のと」から直接実物を手に入れる事が出来た、所謂「90式戦車」があります。
この戦車に関しては、この八年間の間、研究班は徹底的に調査し、どのようなエンジン体系で駆動しているのか、砲塔のライフリング等の仕組み、赤外線連動の照準機、更には特殊なサスペンションに至るまで、その仕組みは解明されております。
しかしながら、帝国はこの戦車を生産できません。
まず、エンジンそのものの成型技術がありません。
砲塔の鋳造方法、装甲板は組成まで資料から判っているのですが、それでも製造できません。
更に、電子制御の部分となると、同じものは作れたとしても、戦車に載せる程小型化は不可能です。
勿論、この分析で手に入れた様々なノウハウは、帝国の最新鋭の97式中戦車に反映されています。
要は、八年間掛かって、分析もほぼ終了し、様々な分野で反映できるものは反映させておりますが、これ以上の「のと」資料の分析から帝国が得られる情報が無いと言う事です。」
「それは、「のと」そのものがもう必要ないと言うことかな。」
濱口首相が、憮然と問いかける。
必要ないなら、それを早く言えば、その使い道は様々考えられる。
「いや、そうではありません。
帝国の科学者では、これ以上の有意の情報を得るのは困難だと言うことです。
当然ながら、欧米の科学者は我々とは異なるメンタリティを持っています。
否、別に欧米と限定しなくても、要は新しいメンバーになればまた違う視点で見れると言うべきでしょう。
その場合には、我々が見過ごした資料から、全く違うノウハウを手に入れる事も考えられます。
しかしながら、これ以上のと情報を広く帝国内の科学者に提供することは、機密保持の点で大きな負担となるでしょう。
この意味で、友邦である英国に対して、開示する事は、新たな発見・発明に繋がると考える次第です。」

146shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:01:23
「従って、開示のレベルは関係ないか。」
「しかし、その場合、英国が帝国のライバルとして巨大化するのを助ける事に繋がるのではないのか。」
誰かがそう言うと、井上は冷たい視線を発言者に向ける。
「お忘れですか、英国は帝国のライバルではありません。遥かに巨大な列強なのです。今更どうしようと言うのですか。
遥かインド洋を横切って、英国まで攻め上がりますか。
手に入れた最新兵器で武装した帝国総軍をすり潰す覚悟で、スエズ運河を占領でもしますか。
小職は御免ですな。」
発言者が身を竦める思いで小さくなる。
「まあ、井上君、君達の言いたいことは良く分かった。
英国が資料を手に入れ、電子部品や、化学製品の作り方を取得しても、既に帝国で実用化してしまっているものに関しては、大きな違いは無いと言うことだな。」
濱口首相がとりなすように話をまとめる。
「いつかは、ばれる。その時に列強から袋叩きにあう前に、相手に喜ばれながら手渡し、その後の友好関係の構築を目指す。
まあ、妥当、いや、最善の策でしょうな。」
幣原外相が続ける。
「その場合は、全て提示し、他の列強からの恨みを一緒に被ってもらう。
しかも、それにより、英国が再び世界帝国に返り咲こうが問題ではない。
少なくとも、帝国が滅亡する事はない、と言うことかな。」
井上蔵相が更にそれを纏め上げる。
流石に、八年に渡って、帝国を運営してきた重鎮達である。
理解は早い。

147shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:03:39
「それでは、英国への開示は、この方向で政府も動こう。それで良いな。」
濱口がそう言いながら、辺りを見回すと、全員に安堵の雰囲気が広がった。

「それで、核兵器はどうなるのだ?」
そう、英国への開示は、まだ問題の半分にしか過ぎない。
更に大きな問題が、核兵器の取り扱いだった。

「核兵器に関しては、現時点では、所長の方針を遵守し、そのために努力する。
としか答えられません。」
「それは、総研として建策の案が無いと言う事なのかな。」
「いや、そうではありません。
現実問題として、既に統本情報部は動かれている筈ですが、それ以上の対応は、大戦の行方如何でしょう。
今の時点で、建策すること自体、本当に机上の空論に陥ってしまう可能性が大きすぎます。」
「そうか、言うとおりだな。
堀君、現状は特に変化は無いのかな。」
濱口首相が、統本情報部部長に問いかける。
「はい、皆さんもご存知の通り、核開発に関しましては、列強各国の開発を妨害するとの方針で、これまでも動いております。
既に、「のと」資料で名前の上がっていた科学者全員に対して、監視体制が整っております。
また、一部の科学者に対しては、帝国での研究の可能性を提示し、既に数名は国内に入っております。
特に重要なのは、レオ・シラード博士を招聘出来た点です。
亡命ユダヤ人の博士は、「のと」資料ではアインシュタイン博士をして、当時のルーズベルト大統領に核開発を促す手紙を書かせた人物としても有名ですが、
核兵器の可能性に気がついた初期の科学者でもあります。
まあ、彼を含む数名だけでも、米国における開発は若干遅れるものと考えられます。」
「そうか、原子爆弾の開発に関しては、「のと」世界のルーズベルトよりも、ランドン大統領の方が消極的なのか?」
濱口首相は、他のメンバーに聞かせる為に、自分の知っている内容であるにも関わらず、更に堀に問いかける。
「いえ、それはまだ判りません。ただ、少なくとも米国政府から科学者に対するアプローチはまだ始まっておりません。
「のと」資料でも核兵器開発の開始は41年となっておりますので、米国政府がその可能性に気がつくのにはまだ数年は必要だと考えております。
情報部としては、少なくとも今後一年間は、関係科学者の帝国への招聘と、監視に的を絞り動いて行く積りです。」
「そうか、了解した。で、一年後はどうなるのだ。」
「それは、今の所は何とも言いかねます。
今回の「のと」情報の英国への開示によって、英国政府も核兵器の可能性を知るわけですから、英国の出方次第でしょうか。
それと、戦争が開始されるでしょうから、我々のやり方も少し手荒なものにならざるを得ないでしょう。」
情報部の言う「少し手荒なもの」については、誰も聞こうとはしない。
それが、大人の常識と言うものだった。

148shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:10:34
「少なくとも、今のところ帝国以外に核兵器を開発できる国家は無い。
英国への「のと」情報の開示により、英国での核開発の可能性は大きくなるが、この一年でどうなるものでもない。
来年以降は、次期大戦が開始され、それに応じて状況が変化する以上、今の時点で現在の方針を変更する理由はないと言う事か。」
濱口首相が話をまとめる。
「はい、おっしゃる通りです。
それと、核兵器の研究に関しては、今後も継続します。
しかしながら、核兵器の生産は行わない。
この点はご留意下さい。」
井上が付け足す。

「よし、以上かな。井上君、何か他に議題はあるかね。」
井上が無言で首を振る。
「それでは、この際だから、私から一言皆さんに言っておこう。」
濱口首相が改めて、全員を見回す。

149shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:12:25
「今回のように、総研の主要メンバーが集まれる機会は当分ないものと思う。
全員で改めて肝に銘じていただきたいのは、この総研そのものの目的を忘れないで欲しいと言う事だ。
井上君や梅津君、そして高畑君や他の科学者の先生方、あなた方の建策は、一重に、次期大戦にて、帝国が滅亡することを防ぐことにある。
だからと言って、何をやっても良いという訳でもないことを忘れないで欲しい。
帝国は、立憲君主制の国家であり、「のと」資料に述べられているような帝国主義、あるいはヒトラーのような独裁国家ではない。
それ故、回りくどいやり方しか出来ず、いらだつ事もあるだろう。
それでも、諸君らには頑張って頂きたい。
そして、どうしようもない時は、首相が責任を負う。
これを忘れないで欲しい。
諸君らの殆どのものが知っているものと思うが、帝国の運営はきれい事だけで済む訳は無い。
泥を被る事もあろう、後ろ指を差される事もあるだろう。
それでも、この八年間の活動の全ての責任は、首相であるこの濱口にある。
これは、形だけではなく、歴然たる事実として認識して欲しい。
諸君、これまで本当にありがとう。
そしてこれからも、この国をより良きものにする為に、頑張って欲しい。」
濱口首相が立ち上がり、頭を下げると、会議室にざわめきが広がる。
それもそうである。
濱口首相の話はまるで、辞任するかのような内容だった。
「あっ、それと最後に一つ。
私はまだ辞めるつもりはない。
少なくとも、後一年は勤めさせて貰う。
しかしながら、来年大戦が勃発すれば、挙国一致内閣を組閣するつもりである。
そして、私はその首相にはなれない。」
多くの者が、異議を唱えようとするのを手で制止ながら、濱口は続ける。
「戦争となれば、果断な決断力が要求される。
そして、その決断の責任は、平時よりも更に重い。
この重責に耐えるには、私は年を取りすぎた。
まあ、自分とすれば後二三年は大丈夫だと思いたいが、流石にこれから45年まで八年間も
続ける事は出来ないだろう。
だから、私はその任を後任に託すことにする。
吉田君、君に戦時内閣の首相をお願いしたい。」
ガターンと大きな音が会議室に響いた。
吉田茂が慌てて立ち上がり、椅子を後ろに倒していた。

150shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:14:23
真っ青である。
「わ、私ですか・・・」
それまで、吉田は、濱口さんがどうやら辞める積りらしいな、と他人事のように話を聞いていたのだった。
後任は、幣原外相かな、それとも永田さん辺りに振るかな、戦時だしなあ、などと気楽に考えていたにしか過ぎない。
吉田は、イタリア大使から急遽帰国させられ、それ以降は、総研と政府の間で外交関連の交渉取りまとめを中心に実務をこなしてきていた。
時に、皮肉交じりで意見を述べる態度から、幣原外相には煙たがられていたが、何故か邪険にはされなかった。
まあ、帝国も伸張しているし、自分もそれに寄与していると言う仕事上の満足感もあり、後8年もすれば、落ち着いて悠々自適の生活を思い描いていたに過ぎない。
突然の事で、舞い上がってしまい、立ち上がっていたが、改めて周りを見回すと、総研の主要メンバーは、納得の表情を浮かべている。
井上に至っては、ニヤニヤ笑みすら浮かべているのが、癪に障った。
「「のと」資料ですね。」
吉田はその理由に思い当たり、鋭く言う。
全員がほおっと、驚いた顔を浮かべて、また逆に納得してしまう。
これまで、自分もかなり仕事を任されていると思っていたが、その割には、「のと」資料の閲覧ランクが上がらなかった事が、今になって思い当たる。
「そうか、吉田君は、資料は閲覧できなかったんだな。」
「ハイ、流石に、彼に閲覧させる訳にはまいりません。これは所長の判断でもありました。」
梅津が簡素に答えた。
「それでは、所長に閲覧ランクの引き上げをお願いしよう。
これからは、彼もその立場で動いてもらわんとな。」
どうやら、「のと」世界では自分は結構頑張っていたようだ。
そんな事で、弱みなんか見せてなるものかと言う思いに、思わず、自分がやった事を聞きたくなるのをぐっと堪える。
「それでは、来年の開戦を持って、内閣総辞職、後任には挙国一致内閣として、吉田茂を首相指名する。
皆さんも異議はないでしょうな。」
吉田の「のと」世界での経歴を知っているものは、納得したように頷いている。
それはそうである。
戦後の内閣総理大臣を五回も務め、しかもサンフランシスコ講和条約を結んだ人物である。
適任と言えば、彼ほど適任者はいない。
事情を知らない他のメンバーは、濱口首相の言い方に口を挟めるものでもなかった。
本人があっけに取られている間に、次期内閣総理大臣は、あっさりと決まってしまっていた。

151shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:32:18
1937年6月14日
 所々に低い潅木か生い茂る以外は、目立つものが何もないこの地では、周りから少し高くなった所に設けられた、その建物は結構目立つ。
 逆に言えば、二階建てのその建物の屋上に設けられた四角い監視所に立つ兵士からすれば、近づいてくるものは、かなり早い段階から見えている事になる。
 しかしながら、その兵士は命令された通り、対岸を監視していたため、反対側から近づいてくる幾つかの車輌に気がつくのが遅れたのは、仕方の無い事だった。
 それでも、彼は気がつくと直ちに、下に声を掛け、下士官らしい人物が確認に上がって来、小さな監視所は、慌しい気配に包まれた。
アムール川を挟む川沿いの、渡河可能な地点に、このような監視所が整備されたのはここ数年の事だった。
 施設そのものは、中華政府のものであり、現にそこに詰めている兵隊は独逸軍に良く似た民国軍服を羽織っている。
 対岸からは、ある程度目立つように作られた監視所であるが、その後方は一段と低くなっており、車輌が何台か止まれる空間が確保されていた。
その広場から伸びる道らしきものを通り、高機動偵察車に先導されるように、一台の兵員輸送車が監視所に接近してきたのは、流石に対岸からは見えようもない。
帝国軍では、正式には高機動偵察車と呼ばれている車輌は、オープントップの四角い車体に、相応のエンジンを積んだだけの、四輪駆動の車輌であるが、その手軽さと利便性の為、非常に重宝されている。
プロトタイプは、30年代初頭に早々に作られ、あっという間に、旅団の標準装備になってしまった車輌であるが、ジープと言う通称の由来を知っているものは少ない。
これに対して、兵員輸送車は、一応正面からなら9ミリ程度の機銃弾では貫通出来ないよう装甲も施し、後輪の代わりにキャタピラ駆動の本格的なものである。
帝国総軍でもそれほど配備が進んでいる訳でもなく、近衛教導兵団でもなければ、旅団本部以外では滅多に見られないものである。
 監視所後ろの広場に辿り着くと、ジープからは、二名の将校が降り立ち、後方の兵員輸送車からは、若い将校と兵士達が素早く飛び出し、整列する。
予め、待ち受けていたのであろう兵に、その若い将校が何かを告げると、彼は慌てる様子も無く、監視所の中に戻って行った。
「全く、たるんどる。」
停戦監視団のま新しい制服を纏った少尉が、よっぽど、そんな兵の態度が気に入らなかったのだろうか、イライラと辺りを見回しながら、声高くつぶやく。
「まあ、そういらだつな、なんせここは辺境だ。こんな所で何か起こるなんて、国軍も思ってる訳ない。」
ジープから降り立った将校の一人が気軽に声掛ける。
「そうはおっしゃいますが、中尉、士気の弛緩は重大問題です。帝国軍なら彼らは懲罰もんです。」
「あのなあ、榊なあ。」
それを聞いていたもう一人の全体の指揮官らしい将校が横から口を挟んだ。
「はっ?」
突然指揮官に話しかけられ、戸惑いながら、統合本部作戦部停戦監視団派遣将校榊少尉は、答える。
「お前な、判ってるのか。俺らは帝国軍ではない。停戦監視団派遣将校だ。しかも、彼らは中華民国国民政府東北辺防軍所属のれっきとした部隊だ。帝国軍の基準で物事を判断するな。」
「いえ、そうはおっしゃいますが、軍は軍です。あのような緩慢な動きでは、敵に漬け込む隙を与えます。」
真っ直ぐに、見つめる目が、自分の言っている事に間違いは無いと心から思っているのが判る。
佐藤はうんざりとした顔で、榊の顔を見つめた。
こいつ、本当に、若い、若すぎる・・・
ここ、数年の改革で、士官学校もかなり変わったと聞いているが、それでもこんな坊ちゃんが出てくるとは。
佐藤は同行した、将校を振り返るが、彼は黙って首を左右に振るだけである。
佐藤は頭を抱えたくなった。

152shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:33:02
統本情報部は、一課から七課までの課からなっており、それぞれが担当地域を担っている。
情報部にはそれ以外に総務課がおかれている。
総務課には、後の世界で、庶務と呼ばれる一般雑務をこなす係もあるが、情報部においては、特別な扱いを受けていた。
通常は、五年前より受け入れが始まった事務系の女性兵士が、総務課より各課に派遣され、雑務をこなしているが、時折、そんな彼女達とは全く毛色の違う将兵が総務課より各課に派遣されてくる。
彼らか派遣されてくると、課長と打ち合わせをし、時には何人かの課員が呼ばれ、必要な情報を入手すると、出て行って暫くは戻ってこない。
否、場合によっては、それきり音沙汰の無い場合すらある。
勿論、課員は、彼らが何者かは判っているが、それは口にしない。
総務課特務班、世界の様々な紛争地域を渡り歩き、時には非合法な活動もこなしながら、情報部の必要とする情報を入手してくる実働要員だった。

佐藤が短い休暇を終え、特務班に顔を出すと、直ぐに班長に呼ばれた。
「体調は?」
「万全です。」
「そうか。この書類に目を通し、一時に部長室に出頭するように。」
班長は、めんどくさそうに書類を渡すと、もう用は無いというように、手で追い払う。
一言なんか言ってやろうかと思うが、罵声ではこの班長には勝てそうに無いので、黙って書類を受け取り、軽く頭を下げ、自席に戻る。
パラパラと渡された書類に目を通す。
一目見て、今度の任地は中華東北区である事が見て取れた。
俗に言う、満蒙である。
挟み込まれた白地図には、現在の満蒙地域の北辺軍、所謂張学良が指揮官の中華民国国軍の配置から、停戦監視団、帝国軍の配置まで全て記載されていた。
そうか、ロシアか・・・
更に地図には、アムール川を挟むように、対岸に位置するソ連軍の配置状況まで記載されている。
しかし、最近何かあったかな・・・
書類に尚も目を通しながら、佐藤は一人で、状況を推測してみる。
ソ連が脅威であることは、今も昔も変わらない。
しかしながら、ここ数年は国境紛争等も起きておらず、おとなしいものだった。
と言うことは、何か起きるのか、いや、起こすのか?
起こすなら、自分がそれを命じられるのは願い下げだなと思いながらも、取りあえず、与えられた情報は全て把握するように、少し真剣に書類に目を向けた。

153shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:33:39
「失礼します。」
部長室に入ると、既に先客がいた。
「梅津だ。宜しく。」
軽く頭を下げ、指し示されたソファに腰を下ろす。
「資料は読んだな。早速だが、行き先は、乾岔子(カンチャーズ)島だ。」
その名前を聞いても、一体何処にあるのか、佐藤には全く検討がつかなかった。
「アムール川沿い、ハルピンの北西400キロの地点、言うまでも無く中ソ国境だ。」
佐藤は、いやそうに繭をしかめる。
「一応、一個中隊を付ける。身分は、停戦監視団派遣将校。後方支援としては、ハルピンで習熟訓練中の戦車中隊が、演習も兼ねて、国境周辺を警備中だ。指揮官は島田大尉。50キロ程上流の、アイグンで、中華民国北辺軍に引渡し予定の新式河川砲艦が試験中だ。こちらは、木村大佐が試験管として乗船していることとなっているので、いざとなったら、彼の指揮下に入るように。」
佐藤の眉が釣り上がる。
ここまで、大掛かりな準備が整っている以上、事はただ事ではない。
「「のと」情報は知ってるな。」
改めて確認するまでもない。
総務課特務班が派遣される地点は、「のと」情報と呼ばれる丸秘情報からによる場合が多く、その由来は様々な噂があるが、精度の高い防諜情報である。
「今回は、精度はそれ程高いものではないが、アムール川にある中州に、ソ連軍が侵攻を企てているとの事だ。」
なるほど、その為の出動ならば、良く判る。
しかしそれが、特務班が動くほどの事なのか。
佐藤の疑問が顔に現れたのか、梅津が尚も話を続ける。
「現地指揮官の独断ならば、単なる国境での小競り合いで終る。しかし、裏でソ連首脳の意思が働いていたら、どう思う?」
「威力偵察ですか?」
何らかの意図があり、実施されるならば、それはその後の侵攻準備に他ならない。
なるほど、欧州でも徐々にきな臭い雰囲気が漂い始めていると聞く。
ソ連が動くとすれば、東か西か、どちらも可能性はある。
西が慌しくなり、列強がそれにかまけている間に、東で動く可能性、逆に東を固めておき、その間に西で動く可能性、両方とも可能であろう。
いくら、現在は大きな紛争も無く、帝国とソ連、中華の関係が比較的良好とは言え、ソ連が中国共産党を支援しているのは、公然の秘密だし、ロシアはロシアである。
「どちらの可能性が高いと考えられますか?」
「その判断がつかんから、情報部が動かざる得ないんだよ。」
それまで、黙って聞いていた堀部長が、ポツリと言った。
ごもっとも・・・
佐藤は、軽く頭を下げ、部長に敬意を表する。
「まあ、どちらにしても、禍根を断つため、中洲への侵入者は殲滅してくれ。但し、あくまでも中華国軍の手によってだ。」
「それは・・・難しいですね。」
「判っている。しかし、国軍が国境紛争一つ解決出来ないと判れば、ソ連はつけ上がる。帝国が他の地域での紛争にかまけて、動けないと見れば、何をするか判らんからな。」
なるほど、帝国は欧州に参戦する積りらしい。
その位は、ここにいれば、佐藤でも判る。
梅津はその辺りまで理解したらしい佐藤の顔を満足そうに見つめる。
まあ、「のと」資料では、陸軍中野学校の創設者と書かれている以上は、この位は当然か・・・
そんな事を梅津が考えているのは、佐藤幸徳中佐には、判るはずも無かった。

154shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:34:20
「大尉、田中大尉・・・」
「うん、あっ、俺か。」
生半可な返事を返すと、若い榊少尉の顔に、この人大丈夫かと言う表情が浮かんでいる。
佐藤は、思わず心の中で苦笑する。
今の自分は佐藤ではなく、田中大尉だった。
いかん、いかん、気をつけなければ・・・
と言っても、佐藤がそれを気にしている訳でもない。
40過ぎて、うだつの上がらない大尉役なので、結構気に入っている。
ぼおっとしていても、誰も不思議に思わないし、呼ばれて返事をしなくても、怪しまれない。
結構楽だな、大尉と言うのも。
「で、なんだ。」
「監視所の司令がお見えです。」
「おお、それは如何、挨拶せねば。」
大げさに驚いて、後ろを振り返ると、自分と似たようなやや小太りの少佐が困った顔で、こちらを見ていた。
いかにもぞんざいな敬礼を交わす。
それでも、階級章から、少佐と判るので、相手が手を下ろすまで、ちゃんと待った。
「停戦監視団、田中大尉、二人は、大衡中尉、榊少尉です。」
「東北辺防軍、劉少佐です。何かあったのですか?」
どちらかと言えば、濁音がきついが、それでも流暢な英語が帰ってくる。
昔は、日本語か北京語が使われていたが、最近では英語が共通語になりつつある。
勿論、佐藤も英語どころか、北京語も使えるが、ここはわざとゆっくりとした英語で答える。
「先月、北安郊外で、問題を起こした共産匪賊を追っています。ええっと、ソ連に逃げ込もうとしているとの情報があり、暫くこの辺りで警戒させて頂きたい。」

155shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:35:01
これは本当である。
蒋介石も張学良も、共産党の暗躍には手を焼いていた。
流石に、大規模な紛争は、治まっていたが、共産党はその代わり、徹底したゲリラ戦法に切り替え、あちこちで小競り合いを引き起こしている。
特に満州地区では、中華本土の腐敗した利権構造の為、逃げ出してくる人々が後を絶たず、お蔭で、紛れ込んでくる共産党員もきりが無かった。
まあ、満州地区では、停戦監視団や、東北辺防軍そのものが、利権構造とは無縁の存在であるので、中国中央とは違い、それほど彼らには活躍の場所は無い。
それでも時折、郊外で爆弾騒ぎなどか起こるのは止められなかった。
何せ、裏ではモンゴル経由で、ソ連製の武器弾薬が流れ込んでおり、幾ら規制しようとしても、広い大陸故、抜け道はいくらでもあった。
 ちなみに、東北辺防軍そのものが、利権構造から切り離されているのは、何も張学良を含む北方軍閥が、精錬潔白な訳では無い。
フリートレードゾーンのせいで、通関手数料である、3%以上の賄賂を要求できないため、通行料や、その他の名目で、軍隊が上がりを掠める事が出来なくなってしまった為である。
しかも、高畑達が、彼らに投資顧問を派遣し、裏技的な金儲けの方法を伝授している点も大きかった。
彼らは、満州地区の治安の維持が、日々増えてゆく資産の為に必要不可欠なものである事を良く理解しており、それ故、東北辺防軍が健全である事が要求されていたのである。

目の前にいる中国人の少佐も、その新しい東北辺防軍を良く表わしていた。
昔の軍閥と違い、この五年間で彼らの待遇は遥かに良くなっている。
しかも、少佐ともなれば、収入はかなりのものである。
制服も自分で誂えたものであろう、佐藤達が着ている停戦監視団のものよりも見栄えが良い。
血色の良さそうな顔に、小太りではあるが、流石に軍人らしく、無駄な贅肉に塗れている訳では無い。
今は、佐藤が手渡した、書類に目を通してるが、その態度も堂々としている。

156shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:35:45
「判りました、暫くこの辺りで、警戒待機されるのですね。宿舎は、どうされます?」
別に、彼が親切で言っている訳ではない。
いや、劉少佐の場合は、親切心からかも知れないが、とにかく、停戦監視団と北辺軍の間の協定では、北辺軍が提供したサービスには、相応の代価が支払われる事となっており、その請求は、よっぽど無茶を言わない限り、受け入れられる。
「いや、お申し出はありがたいのですが、共産匪賊に網を張って待ち伏せですから、そう言う訳には行かないんですよ。」
佐藤は残念そうに、言う。
北辺軍の少佐クラスともなると、専用のコックを引き連れている事もある。
提供される料理は、後で請求出来る事もあり、かなり豪華である。
「ほう、それは残念ですね。まあ、今晩位宿舎においでになりませんか、食事くらいは良いでしょう。」
「えっ、それは、」
「大尉!」
思わず承諾しようとすると、横から榊少尉が、肘でつついてくる。
「折角ですが、特命ですので、お受けする訳には参りませんよね、大尉」
「えっ、おまえ、な、何を・・・」
「お忘れですか、あくまでも気付かれないように留意を払えと言われたじゃないですか。」
「そ、それは・・・そうだが、しかしなあ・・・」
二人がこそこそ話し出したのを、劉少佐は、少し呆れ顔で、大衡中尉に視線を向ける。
年下の少尉が、うだつの上がらない大尉に諫言している図そのものの構図に、何とも言えない。
大衡中尉が、無駄ですと言うように、首を軽く振る。
「命令です・・・」、「日華友好・・・」とか言う言葉が聞こえてくるが、やがて意見がまとまったようだった。

「失礼致しました。劉少佐、まことに残念ながら、そのお誘いもお断りせざるを得ません。」
大尉は非常に残念そうな、いや未練たっぷりでこちらを見つめてくる。
きっともう一度誘いを掛ければ、今度は喜んで乗ってきそうである。
しかし、横にいる若い少尉は、さも当然であると言う顔で、真っ直ぐに見つめている。
まあそこまで、誘う義理もないし、何よりもそうなった時に、この若い将校のいらぬ恨みでも買いそうで怖い。
「判りました。まあお互い仕事ですからね。それで、食料の方は?」
「ああ、それは、後で兵舎の方に、給食班を向かわせますので、宜しく。」
「そりゃ良い、兵が喜びます。では宜しく。」
敬礼を交わすと、停戦監視団の三人の将校は、まだぶつぶつぼやいている大尉を中尉があやすように、何か言いながら、部隊の方に戻って行った。

157shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:36:26
あれじゃ、本当に共産匪賊とやらを捕まえられるのかね。
そんな事を思いながら、北辺軍少佐も、監視哨の中に戻る。

少なくとも、これで北辺軍には警戒されることは無かろう。
まだ心配ならないと睨んでいる榊少尉を半分からかいながらも、佐藤は心の中で一人頷く。
最も、中華料理を食べ損ねたのは本当に残念ではあったが。
まあ、食材を交換出来るから、隊の給食班が何かそれらしいものを作ってくれるのを期待するか。

大陸からの撤兵からこっち、導入された新しい制度に、給食班の整備があった。
それまでのような、兵一人一人に、飯ごうを持たせ、自炊させるのを廃止し、給食班による一括調理による配給制に部隊の食事は変わっていた。
食材は予め、補給品として用意されており、現地での略奪まがいの行為は堅く禁じられている。
これは、民衆の恨みを買わないために当然と言えば当然の事なのだが、その代わり、いかにも日本人らしく、食事に凝る給食班の班長達は、物々交換による食材の調達を行うようになっていた。
軍も、最初は便衣隊などの暗躍を恐れ、禁止しようとしていたが、それも今では積極的に奨励している。
帝国が持ち込んだ食材に、意外と人気がある事が判ったせいだった。
缶詰で提供される、鯨の大和煮や鮭や鮪の水煮等は、結構現地でも喜ばれた。
そして、最も人気のあるのが、五年前から食材に導入された乾燥麺だった。
何よりも、長期保存が利き、かさばらない点が、導入の理由だったが、予め味付けし、揚げてある乾燥麺は、お湯に入れて茹でるだけで結構上手いと評判になっていた。
製造元の日新製粉では、増産に励んでいるらしいが、まだまだ中華の辺境では数が少なく、貴重品扱いとなっており、補給班が、設営の準備を始めると、近所の農家から、食材を持って交換に来る程だった。

「それじゃ、少尉、何名か連れて、他の小隊の配置を確認してきてくれ。ジープを使ってかまわんよ。」
佐藤は辺りの地図を取り出し、眺めながら、榊少尉に告げる。
「この辺りが野営地に使えそうだな。取りあえず、この辺りが本部になるか。」
「そうですね、そこなら、隠れるにも適してそうですし、川にも近いですね。」
横から地図を覗き込み、大衡が答える。
「うん、どうした、何かあるか。」
佐藤は、榊がまだ動き出さないので、不振そうに声を掛ける。
一瞬、何か言いたそうな顔を浮かべた榊少尉だが、すばやく敬礼すると、きびすを返して、兵隊を呼び、準備にかかる。

158shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:37:06
「彼、絶対、大尉が自分のいない間に、大佐の招待を受けに行くんだと思ってますよ。」
馬鹿言えと言う顔を大衡に向けながら、それには気が付かなかったと一人納得する。
まあ、仕事が無ければ、否定は出来ないな。
あいつ、絶対サボらないで下さいと言いたかったんだろうな。
流石に、上官二人に対して、そこまで口は聞けない。
それに兵も見ている。
兵隊の前では上官の悪口を言わない位の教育は受けているようだった。
しかし、あまりに手を抜くとその内には彼もそんな教育も忘れてしまいそうだった。
まあ、二週間も一緒に行動していると、その辺はさっしが着く。
新任の榊少尉にすれば、自分のような上官は許せないのだろう。
偵察車に、三名程の兵隊を乗せ、榊少尉が出発して行くと、佐藤は改めて、残りの兵隊を見回す。
残った兵隊達は、休めの体制のままで、こちらの指示を待ち受けている。
全員がこれからの行動に興味津々であるが、それでも殆どの兵隊がその気持ちを上手く隠しているのに気が付き、佐藤は心の中で微笑む。
兵達の多くは、召集兵ではなく、ある程度熟練兵を選んであるのが判るだけに、安心出来る。
特に、残った下士官は、いかにも歴戦のつわものとと言う感じで、完全な職業軍人そのもののふてぶてしさで待機している。
十分な間合いを取り、兵たちから少し距離を置いて何気なさそうに佇んでいるが、警戒は崩していない。
昭和維新後、大きな紛争も起きていない帝国軍に取り、貴重な実践経験者であろう。
一瞬、視線が会うと、曹長は慌てて目を逸らした。
その仕草に、ふと疑問を感じ、佐藤は曹長を手で差し招く。

159shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:37:47
「ここの手前500メートル程戻った所に道があっただろう。ここだ。」
地図を広げ、曹長にも見えるように示しながら、佐藤は話す。
「ここを暫く進んだこの辺り、ここに本部を築く。ところで貴様、任務は聞いているか。」
流石に、隊長の自分がそう聞くのもおかしい気もする。
数年前までは、何をしに行くのかが知らされる方がまれだったのだ。
どこかで、引っかかる気がしたため、会話を繋ぐ為に聞いただけだった。
「はあ、一応は。」
曹長も、何か迷っているようで、言い方が曖昧である。
しかし、何か覚悟を決めたらしく、曹長は、ビシッと背筋を伸ばすと、
「失礼いたしました。本職の聞いていますのは、建前だけであります。田中大尉殿。」
やや痩せた鋭い目つきの曹長の、覚悟を決めて、探り入れるような言い方に、佐藤の目が少し動く。
『だいい』、『たいい』ではなく、旧陸軍の呼び方である。しかもご丁寧に『どの』まで付けている。
総軍創設以来、殿は普段は使われなくなった。大尉も陸海共通の『たいい』に変わっている。
ピンと来るものがあり、少し口調を改める。
「貴様、軍に何年になる。」
「ハッ、今年で20年です。先の大戦の折には、歩兵第32連隊でした。」
そうか、あそこにいたのか。それでは隠しても仕方ない。
佐藤は、大衡と目を合わせ、頷きあう。
歩兵第32連隊は、当事佐藤が中隊長を務めた部隊だった。
そして、大衡も、違う名前でそこにいたのだった。
「確か、チンタオだったな。名前は?」
「ハイ、坂口健吾特務曹長です。」
坂口は、あの頃まだ一等兵だった筈だ。それが特務とは、偉くなったもんである。
「そうか、坂口一等兵か、偉くなったなあ。」
大衡も、やっと思い出したのか、嬉しそうに言う。
「はっ、ありがとうございます。」
坂口がほっとした顔で、嬉しそうに答える。
そりゃそうである。
指揮官として、二名の将校が赴任してきた時、坂口は唖然とした。
二人とも、年はとっているが、明らかに坂口が最初に配属された部隊の小隊長と中隊長である。
当時連隊で、佐藤中尉と仲村少尉の凸凹コンビを知らないものはいない程の二人だった。
普段は、将校にしておくのはもったいない程、気さくで、とにかく兵を大事にする指揮官だった。
戦闘となると、人が変わったように、獰猛になるが、それでも、その命令はその後の無理難題を吹っかける天保銭将校とは全く違っていた。
それに、この二人はきっと忘れているであろうが、坂口は中隊長に命を救われたと信じている。
この中隊長がいなければ、そして、自分の属した小隊の指揮を仲村少尉が取っていなければ、あの時生きては帰れなかっただろう。
そんな、軍では珍しい事に、坂口自身が敬愛する指揮官二人組みが赴任してきたのである。
本当ならば、挨拶に行きたい所だったが、名前と階級が合わない。
坂口が覚えている中隊長は、佐藤幸徳の筈だが、田中幸徳と名乗られているし、小隊長は仲村栄一が、大衡栄一となっている。
二人とも、どこかの家系でも継いだのかとも思ったが、それよりも階級が合わない。
確か、中隊長は五年前に中佐になられていた筈だし、小隊長は少佐だった筈である。
何かある。
伊達に、特務曹長と名乗っている訳ではない。
それくらいは、坂口も察しがつく。
ここは、黙っていなければと思うのだが、それでも本人達を目にすると、落ち着かなくなるのはどうしようもなかった。

160shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:38:34
「それで、坂口曹長、どうして建前と気がついた。」
一通りの歓談を終らせ、佐藤が問いかける。
少なくとも、坂口のような歴戦の曹長が部隊にいるのは安心できる。
まあ、兵隊の経歴を確認しないで、編成を考えたやつには、帰ったらきっちりと落とし前はつけさすが、今はありがたい。
「ハッ、中隊の兵が、古参中心で選抜されております。それに、武装もほぼ充足体制です。」
言う通りだった。
近衛教導兵団ならばいざ知らず、沖縄特選管区所属の監視団派遣部隊にしては、装備が良すぎる。
「ふむ、やりすぎかな。で、それだけか?」
「いえ、戦車中隊が、後方に待機している点も、尋常ではありません。」
坂口が付け足す。
やはり、曹クラスの情報網は侮れない。
特に、任地によっては自分達の命が掛かっているだけに、情報収集は死活問題だろう。
「これは、何かあると思いましたが、やばいのは出来れば遠慮させて貰いたいと、他の連中と話しておった所に、大尉が着任されました。」
坂口が、言葉を選ぶように、話す。
「大尉が、あの当事の中隊長のお知り合いの方ならば、邪険にはされまいと、後は当たって砕けろです。」
「おまえなあ、他の連中だったら、ただじゃすまんぞ。」
佐藤はあきれてしまう。
自分だから、かなり突っ込んでも大丈夫だと言われては、あまり好い気はしない。
「ハッ、申し訳ございません。何分当事の中隊長は、それは型破りの方でしたから。」
隣で仲村が、笑いを堪えて真っ赤になっているのが、余計に気に障る。
しかし、一体どんな話になっているのか。
今回の件が終ったら、聞き出さねば。
「うむ、良く判った。詳しい事は言えんが、露西亜が越境してくる可能性がある。」
とにかく話はそこまでにし、声を落として、要点だけ伝える。
「場所は、一キロ程上流の中洲、乾岔子(カンチャーズ)島が怪しい。場合によっては、河川砲艦がお出ましの可能性もある。」
「河川砲艦ですか、剣呑ですな。」
坂口も、打って変わって真面目な顔で、一言も聞き逃すまいと、顔を寄せる。
「問題は、ここが中華だと言う事だ。撃退、いや殲滅してしまう必要はあるのだが、帝国軍が全面に出る訳にはいかん。」
「それで、三八が多いんですか。」
坂口も、兵員輸送車の中に、普段より余分に三八式歩兵銃が積んであるのは気が付いていた。
歩兵の携帯兵器は、五年前から順次、新式の九二式小銃に更新が進められていた。
40発入りの弾奏を用い、連射の効く小銃は、重宝がられていたが、三八式も、一部程度の良いものは残され、主に狙撃銃として部隊では、射撃の上手いものに渡されていた。
その三八が余分に積んであるのである。
北辺軍に紛れて、三八による狙撃を多用しようと言う考えは、坂口でも思いつく。

こいつ、中々鋭いな・・・
いや、この位は誰でも思いつくか。
佐藤は、少しがっかりしながらも、それは表情には出さない。
「そうだ、北辺軍があくまでも主功で、帝国軍はそれをサポートする事となる。遠距離からの狙撃や迫による砲撃、夜間戦闘、トラップの準備、貴様にやってもらう事は、沢山ありそうだな。」
軍は下士官で持つ。
ばれてしまったのは問題だが、この場合逆に良かったかもしれない。
信頼できる下士官が一人いるといないでは、その後の展開が全く違ってくるのだから。

161shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:22:46
「大尉、大尉!」
テントの外から押し殺したような声で、榊少尉が叫んでいる。
本部を決め、設営を行ってから五日が過ぎていた。
最初は、部隊にも緊張があったが、それも五日目の明け方近くともなると、少しずつ弛緩した空気が広がり始めていた頃だった。
「なんだあ・・・」
いかにも寝てましたと言う顔を浮かべ、佐藤はテントから出る。
「巡回に出ていた兵からの報告です。対岸で何かおかしな動きがあるとの事です。」
「お前、そんな事で俺を起こしたのか。全く、一体なんだってんだ。で、巡回に出てたのは誰だ。」
ちょっとやりすぎかなとも思うが、少し怒った顔で、榊少尉を睨む。
「ハッ、坂口曹長の分隊です。おい、曹長!」
暗闇の中から、坂口が進み出る。
坂口に分隊を与え、夜間の警戒に行かせたのは佐藤自身なのだが、それは言わない。
二日前に、密かに対岸の偵察に出向いた仲村が、情報を掴んで来ていた。
それによると、戦車数台を含む、大隊規模の部隊が前進して来ていた。
しかも、その後方には更に、数個師団規模の部隊が待機しているようである。
まあ後方の師団は、あくまでも後詰であろう。
師団規模での戦闘となると、最早国境紛争と呼べるレベルを超えてしまう。
第一そこまでの部隊を対岸に渡すための船舶の手配が行われている気配は無かった。
少なくとも大隊規模の部隊で、用意が整い次第、乾岔子(カンチャーズ)島を占領してしまう気であろう。
「対岸で、何やら音が聞こえました。」
「うん、対岸の音?」
「ハイ、夜間ですから結構遠くまで聞こえます。いや、対岸まで聞こえる程ですから、一両や二両の車輌が動いている音ではありません。」
「ふむ、ロシアが何かたくらんでいるのか。匪賊の迎えの準備か?」
自分でも白々しすぎて、声が棒読みに近くなっているのを慌ててごまかす。
「榊少尉、どう考える。」
「ハイ、共産匪賊がロシアと連絡を取っているならば、対岸で何か騒ぎを起こし、その間に、それほど遠くない地点からの渡河かと。」
「うむ、悪くないな。しかし、この辺りで渡河できるのは、我々のいる地点だぞ。その間をどうやって通り抜ける積りだ。」
「はあ、そうですね。あっ、逆に対岸ではなく、カンチャース島辺りで騒ぎを起こす積りでは。そうすれば、我々もそちらに気を取られて、監視哨と配置の間の警戒が薄れるかと。」
坊ちゃんだと思っていたが、榊も割合と頭は働くようである。
それ程誘導する必要もなく、望みの答えに辿り着いてくれた。
但し、ロシアの連中は別に匪賊を迎えに来るのが、その目的ではないだろう。
実際はこちらが予めリークした匪賊の話に乗って、中華領である中州を占領してしまおうと考えているのであろう。
「あっ、そう言えば、小型船舶でしょうか、トラックとは違うエンジン音も聞こえました。」
「あたりだな。で、どうする。」

162shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:23:23
「はっ、直ちに、我々も部隊をカンチャース島まで前進させ、待ち伏せします。敵の侵攻を阻止し、速やかに現状復帰致します。」
「40点」
「はあ、」
「一つ、ここは中華民国領だ。帝国軍が動く訳にはいかない。二つ、我々は停戦監視団であり、帝国軍ですらない。従って、国境紛争には介入する訳にはいかない。」
「あっ、そうですね・・・ それでは、直ちに劉少佐に連絡、我々は対岸で監視を継続。特に匪賊の渡河に注意を払います。」
「うーん、70点。」
「えっ、と言いますと。」
少しむっとしているのが判るだけに、面白い。
本当に、若いやつは判りやすくて楽しい。
「北辺軍は、大切な友邦である。我々はその辺りも考慮する必要がある。」
「直ちに、戦闘準備を整え、第一、第二小隊は、北辺軍の支援、第三小隊は、匪賊の接近に備え後方警戒に当たる。大衡中尉!」
「はっ!」
いつの間にか、出動準備を終えた大衡中尉が後方に控えている。
「第三小隊を任す。榊少尉!」
「は、ハイッ!」
いつもと違い、突然厳しい口調に変わった、佐藤に驚きを隠せない。
「直ちに、北辺軍劉少佐の元に行き、状況を報告。」
「ハイ!」
「あっ、それから、劉少佐には、「監視団は、表立っては国境紛争には関われませんが、出来うる限りの支援は致します。」とちゃんと伝えるんだぞ。それと、準備が整い次第、こちらから伺うともな。」
最後だけ、いつもの佐藤の口調である。
声を潜め、まるで子供の悪巧みを告げるような、その言い方に、榊は少し憮然とする。
「ハイ、了解しました。」
それでも、軽く答礼すると、急いでジープに走り寄る。

「やけに、丁寧ですね。」
大衡中尉事、仲村がニヤニヤしながら、佐藤につぶやく。
「なに、部下を育てるのも、上官の仕事だ。」
仲村は、口を半分開き、何か言おうとするが、それを飲み込み、頭を左右に振る。
イヤイヤ、この人がそれだけの理由で、これほど懇切丁寧に、状況を理解させた筈は無い。
きっと、榊少尉は大変な目にあうのだろうな・・・
佐藤も、仲村との付き合いは、長い。
何を考えているのかは、判ったが、特に何も言わない。
どうせ、こいつもその辺りは判っているだろう。

163shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:23:56
「坂口曹長!」
気持ちを切り替え、坂口を側に呼ぶ。
本部用のテントに入ると、仲村が手早く付近の地図を床机の上に広げる。
「迫の小隊は?」
「ハイ、ここに適当な場所がありました。正面は潅木に覆われていますが、十分な射角が取れます。一応、カンチャース島の要所までの方位、距離の計測は済ませました。広さは、不十分でしたので、兵を使い、広げてあります。」
やはり、有能な下士官を持つと楽である。
仲村と連絡を取りながら、既に準備を済ましている。
「移動地点は?」
振り返って、仲村に確認する。
「一応、第三までは、整備してあります。それ以外には、予備として未整備ですが、二つほどは。」
そんなの当たり前でしょと言う顔で、仲村が答える。
時々、無性に腹が立つのは、こういう時だ。
副官としては、申し分ないのだが、態度がでかいのが玉に瑕である。
佐藤は自分の事を棚に上げて、仲村をジロリと睨んだ。
そんな佐藤にびくともしないのが、仲村である。
あくまでも涼しい顔で、次の命令を待ち受ける。
「よし、カンチャース島自体はどうだ。確か中華の役人と、数名の砂金取りの連中がいた筈だが。」
「ああ、砂金取りの連中は、既に昨日退去しています。臨時収入が入ったと町に行くと言っておりました。役人の方は、突然北平からの呼び出しで、慌しく出て行きましたが。」
やはり、その辺りは抜け目が無い。
「ふん、上出来だ。戦車中隊はどこまで前進している。」
「ハッ、後方10キロの地点で待機中です。」
「今は、まだその辺りで良いな。それじゃ、何か抜けはないか。」
坂口は、びっくりしたように、首を振る。
目の前の中隊長は、自分のような曹長をも参謀のように扱っている。
確かに、型破りな人だと思っていたが、良いのかこれで。

「よし、それじゃ、仲村、後は任せたぞ。坂口、貴様の率いる分隊に、渡河の準備をさせろ。渡河用の船は、」
ちらっと仲村を見ると、軽く頷いたので、そのまま続ける。
「場所は、良しここだ。ここで待機してろ。車輌は少し下げて隠しとけ。無線を忘れるな。俺は、監視所に行き、話を終えたらそこに行く。何か質問は?」
二人とも異論はなさそうだった。
「それじゃ、かかれ。」

164shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:24:39
監視所まで着くと、榊から話が通っているのか、辺りの雰囲気が慌しい。
乗ってきたジープの兵に、そのまま待機するように言い、佐藤は中に入る。
外観は、二階建てだが、コンクリートの床があり、どうやら指揮所は地下に設けられているようだった。
金があるって良いな・・・
ほんの少し前まで、国境地帯の監視所と言えば、塹壕と、簡単なトーチカだったものだ。
それが、ここ数年で、コンクリート作りの立派なものに代わっている。
地下に向かう階段の前で、歩哨に要件を告げると、直ぐに確認が済んだのか、通してくれた。
階段の奥に鉄製の扉があり、中は結構広い指揮所になっていた。
どうやら、地下式のトーチカを先に作り、その上に監視所を設けたようである。
確かに、これなら、上の監視所が破壊されれば、誰もここに指揮所があるとは思わないであろう。
中央のテーブルに地図が広げられ、劉少佐が、それを見ながら部下に指示を出している。
榊少尉がこちらに気付き、軽く目礼する。
佐藤は、劉少佐の側に寄り、軽く頭を下げながら、直ぐに話を始める。

「どんな状況ですか?」
「田中大尉、助かったよ。君の所の部下が知らせてくれたのでな。直ぐに小隊を編成し、カンチャース島に渡らせるよう指示した。帝国軍はサポートに回ってくれると言う事だが?」
劉少佐は、サポートに力を込めて、こちらを探るように問いかけてくる。
少佐も馬鹿ではない。
五日近くも側にいるのだから、佐藤の率いる中隊が、かなり増強されているのは判っている。
それを当てにしてソ連軍に対応するのと、しないのでは全く意味が違う。
「はあ、一応我々は、停戦監視団ですから、表に出るわけには行きません。まあ、ばれない範囲で、可能な限りと言うとこですね。」
「うむ、それでもありがたい。宜しく頼む。」
このおっさん、中々やるな。
最近でこそ、日本人をあからさまに嫌うやつは減ったが、それでもそれまでの態度が態度だけに、反感を持っているやつは、少なくない。
それが、階級が上なのに、素直に頭を下げれるとは、たいしたものである。
「判りました。出来うる限り援護させて頂きます。」
流石にこんな所で敬礼する訳にも行かず、少し姿勢を正して、答える。
「で、早速ですが、小管も、分隊を引き連れて、カンチャース島まで渡ります。榊少尉を連絡将校として、こちらに残しておきますので、何かありましたら、彼を通じてご命令下さい。」
「貴官が、行くのか?」
流石に、劉少佐は驚いたように問う。
「ハイ、ソ連軍の国境警備隊が、匪賊の援護として騒ぎを起こすだけならば、小競り合い程度で、引き上げるものと思います。」
「うむ、そうだろうな。」
「しかし、国境の警備状況を探ろうとしているのであれば、事はそう簡単には済まないでしょう。」
「貴官は、大規模な威力偵察の可能性があると考えているのか。」
「いえっ、今のところはまだそこまでは。ただ、その可能性もある以上、この目で確認しておきたいと考えております。」
「そうか、了解した。しかし、無理はするなよ。私も友邦の士官に怪我でもされたら立場が無い。それに、君にはまだ食事に付き合ってもらってないしな。」
「ハッ、これが済みましたら、是非とも御相伴させて頂きます。」
にやっと微笑みながら、再び頭を軽く下げる。
きびすを返し、二人の会話を、目を丸くして眺めていた榊を招く。
「榊少尉、貴様はここに連絡将校として残れ。ジープの無線に常に一人兵を付けておくのを忘れるな。」
「えっ、は、ハイ、了解しました!」
うむっと頷き、劉少佐に軽く会釈して出て行こうとした。
「あっ、大尉!」
榊少尉が後ろから声を掛けてくる。
「ご無事でお戻りください。」
こいつ、俺が危ない目に会うと思っている。
軽く頷き、指揮室を出ながら、思わずニヤニヤ笑いそうになる。
俺に言わせれば、どう考えても、こっちの方が危なくなる筈だった。

165shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:25:17
川沿いの、指定地点のかなり手前で、ジープを止めて、辺りを見回す。
おっ、あそこか。
坂口の分隊が乗ってきた兵員輸送車がどこかこの辺りに、隠してある筈だった。
そろそろ夜も明けようか、かなり明るくなってきていたが、直ぐには見つからなかった。
轍も綺麗に消して、半分埋まっているような感じで、上手く偽装してあり、最初から輸送車を見つける積りで見ていなければまず気がつくまい。
ジープから降り、運転してきた兵には、そのまま本隊に戻るように命じ、川に向かって歩いて行く。
この時期、やぶ蚊が多いのは閉口するが、内地と違い、乾燥した地面は歩きやすい。
直ぐに、坂口らが待ち受けている場所に到着する。
「用意は出来ております。そろそろあちらさんも、渡河の準備を進めているようです。」
坂口が直ぐに飛んできて、敬礼もそこそこに状況を報告する。
早く渡河してしまわないと、敵さんに見つかってしまうと言う気持ちがありありと浮かんでいる。
「おお、すまん、直ぐに行こう。」
「ハッ」
2艘のゴムボートを引きずるようにして、川に浮かべながら、全員がボートに乗り込む。
佐藤も乗り込むと、直ぐに小型のエンジンが動き出し、ボートはゆっくりとカンチャース島に向かう。
幾ら川向こうから見えない点を選んで渡河していると言え、くぐもったようなエンジン音に全員が、気が気でない。
こんな所を襲われたら、お陀仏である。
兵たちも、ボートに積んであった、オールだけではなく、小銃の銃把をも使って、必死に漕ぐ。
幸い、弾も飛んでこず、何とか島まで辿り着けた。
全員が手早くボートから降りると、そのままボートを陸の上に引きずり上げる。
何せ、ボートには武器弾薬も積んであるから、全員必死だった。
最も、既に前日までにかなりの弾薬を島に運び込ませてはいたが、弾は大いにこした事は無い。
後の手配は、坂口に任せ、佐藤は二人ほど兵を連れて、島の中央に向かう。
全周四キロ程の小さな島だが、中央部には、中華民国の領土である事を示すように、簡単な詰め所が建てられていた。
一応、気休め程度だが、塀も作られており、普段は役人も詰めている。
佐藤達がそこまで辿り着くと、既に北辺軍の兵士が詰めており、鋭い誰何を浴びせてくる。
勿論、撃たれては堪らないので、ちゃんと目立つように途中から通路の真ん中を歩いてきた。
相手が、停戦監視団の将校と判ると、慌てて敬礼して来るのを軽く制し、責任者を呼ぶ。
建物から走り出てきた将校は中尉だった。
「北辺軍、梁中尉です。」
「停戦監視団、田中大尉だ。劉少佐には話は通してある。で、どうだソ連の様子は。」
手短に話すと、何か言いたげだったが、直ぐに気を取り直して、話し始める。
「ハイ、先ほどから対岸の動きは更に活発になっています。もう直ぐにでもこちらに渡ってきそうです。」
「で、中華北辺軍としては、どう対処するのだ。」
「はあ、一応警告ぐらいはする必要があります。あいつらの事ですから、そんな事聞きはしないでしょうが。」
実に、嫌そうに梁中尉が答える。
警告を発するのは梁中尉自身であり、それの返事が銃弾である可能性は十分あるのだ。
「そうか、で、警告を聞かない場合の対応は、」
「相手から弾が飛んでこなければ、警告射、飛んでくれば応戦です。」
普段はそんな対応を取っているとはとても思えなかったが、それは言うべき事ではない。
少なくとも、停戦監視団がいる所ではある程度お行儀よく対応しようと、努力は認めるべきである。
「そうか、良く理解できた。監視団としては、これは国境紛争なので管轄外であるが、劉少佐とも相談し、万が一ソビエト連邦の国境守備隊が国境侵犯を行った場合、監視団と言う立場は表には出せないが、全面的に北辺軍に協力する。一応一個小隊連れてきている。軽機もある。直ぐに配置に着こう。」
勿論、梁中尉に依存はある筈も無い。
手早く、配置を相談し、兵達を持ち場につかせる。

166shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:25:57
「大尉、来ました。」
梁中尉と話していると、坂口が走ってくる。
早速、二人は対岸が見渡せる地点まで走りよった。
川向こうから、三隻の小型船舶がこちらに向かって来ていた。
あちらから見えないように、腹ばいになったまま、佐藤は双眼鏡を取り出し、眺める。
「一隻は、河川砲艦だな。後の二隻は武装はなさそうだ。全部で2、30人程度か。」
ふと、横を見ると、佐藤の手にしたカールツァイスの双眼鏡を羨ましそうに、梁中尉が見ている。
高い金出して手に入れた最新式だけに、自尊心がくすぐられる。
そのまま、双眼鏡を渡してやると、軽く礼をして、梁中尉も近寄って来る船を注視する。
「どうやら、やる気満々ですね。でも、あまり警戒しているようには見えません。」
「そりゃそうだろう、こんな早朝からこちらが待ち伏せしているとは思ってもいないだろう。」
二人とも、一旦下がって、話を続ける。
その前に、佐藤が手を出して双眼鏡を取り返すのは忘れない。
梁中尉も名残り惜しそうに、それを返す。
昔なら、戦闘のドサクサに紛れて双眼鏡欲しさに、後ろから撃たれかねないな・・・
物騒な考えが頭をよぎるが、慌てて打ち消す。
「しかし、あれじゃ、警告にのこのこ出て行くのは自殺行為だな。どうする。」
「そうですね。一応警告は発しないと・・・」
梁中尉も困りこんでいる。
「メガホンか何か無いか。それなら陰に隠れて、声は届くだろう。格好なんか気にしている場合じゃないと思うぞ。」
兵の前で弱気を見せる事と、実際の危険を天秤に掛けて、梁中尉はまだ悩んでいる。
「貴官が撃たれたら、指揮系統もあったもんじゃない。ここは格好より、実利だろう。」
そこまで言って、ようやく自分を納得させたのか、梁中尉は頷き、詰め所に戻って行った。

167shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:26:37
佐藤は、坂口を呼ぶ。
「迫は、あちらまで届くか?」
「はあ、射程はギリギリですが、何とかなると思います。」
「それじゃ、用意させとけ、とにかく今は追い払わねばどうしようもない。」
佐藤は辺りを見回し、暫く考え込む。
河川砲艦は、小型船舶に、76ミリ歩兵砲を搭載して、装甲を施したものであろう。
あれが本格的に撃ってくれば、こちらは下がるしかない。
少なくとも、まともな塹壕すら用意していない状況では、どうしようもない。
迫撃砲の砲撃に、慌てて下がってくれれば良いが、幸運を当てにする訳にもいかない。
対戦車小隊の37ミリが三門あるが、あれは川向こうだ。
こんな事なら、一門位こちらに運ばせれば良かったとも思うが、最初からそんな事まで出来る訳ない。
「坂口!」
「はいっ!」
真横で声がしたので、びっくりするが、隣にいるのだから当然だった。
「あれあるか、ええっと、携帯式の擲弾筒、グレネードとか言うやつ。」
「はあ、一応、小銃分だけは、運んできておりますが?」
あんなもん、使うんですかと、顔が語っている。
最新式の装備と言う事で、派遣される前に渡された携帯式の擲弾発射装置だった。
小銃の銃身に装着し、小型の手榴弾のようなものを500メートル程飛ばせるとの事で、使用実績を報告してくれと言われて渡されたものだった。
そんなうんさくさいものを渡されて、兵が喜ぶ筈も無い。
佐藤自身だって、最初に使うのは願い下げだ。
第一、手元で爆発したらお陀仏だし、銃にどんな負担が掛かるのかも判らない。
技官は、これは大丈夫だと言っていたが、「これは」が気になる。
それでも、この状況ではすがってみるしかない。
「直ぐに、配れ。迫撃砲の砲弾が飛んできたら、各自、そうだな三発発射しろ。方向は大体で良い。」
「はっ、手配します。」
坂口が走り去る。
佐藤も急いで、通信手の待機している所に走る。

「大衡中尉を呼び出せ。」
通信手は、直ぐにダイヤルを調整し、相手と話を始める。
直ぐに、マイクとヘッドフォンを佐藤に手渡す。
「大衡中尉、そこにいるのか?」
「ハイ、大衡です。」
「直ぐに、戦車中隊、島田大尉に連絡を入れ、川沿いまで前進して貰え。それと、排土板が着いた車輌がある筈だから、直ぐにこちらに渡せるように用意しとけ。」
「あー、船が必要ですね。了解しました。」
仲村の事だから、船の手配ぐらい何とかするだろう。
「赤軍の野郎、しょっぱなから河川砲艦を持ち込んできやがった。何とか撃退出来たら、直ぐに排土板着きの戦車と、対戦車砲小隊を一個こちらに渡すんだ。」
「はい、了解しました。で、撃退できない場合は?」
こいつ、本当に嫌なこと聞きやがる。
「その場合は、後は頼んだぞ。」
イヤイヤだが、そう答える。
誰が、仲村なんかに後を頼むもんか。
必ず、還ってやる。
「ハイ、りょーかいしました。」
あいつも、そんな事起きる訳ないと思ってやがる。
一瞬、ここでくたばってやろうかとも思うが、あほらしいので、そのまま通信を切る。

168shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:27:12
「おい、これアイグンまで届くか。」
「はっ、アイグンですか。」
通信手は、急いで地図を取り出そうとする。
「大体50キロ位だ。」
「ああそれなら、大丈夫です。届きます。」
「それなら、アイグンの木村大佐を呼び出してくれ。周波数は、○○××だ。コードネームは、きつつき、これで通る筈だ。」
通信手は、すぐさま通信機に向かい、呼び出しを始める。
暫く、待っていると通信手がこちらに向かい頷く。
「木村大佐ですか。」
一方は既に入れてあるので、直ぐに出てくれる筈だった。
「おお、さと・・・否、田中大尉か、どうした。」
「ハイ、ソ連が国境を侵そうとしています。」
「うん、それは聞いているが。」
「最初から、河川砲艦を仕立てています。」
「判った。こちらも出動する。」
流石に話が早い。
「驚くなよ、こっちの河川砲艦は凄いからな。それじゃ。」
直ぐに切れてしまい、佐藤は少し唖然とする。
話は早いのは良いのだが、あいつ、大佐に昇格したのに、あんなんで良いのか。
いいのか、あんなに腰が軽くて・・・
無意識の内に、マイクとヘッドフォンを返し、首を振りながら、急いで戻る。
どうやら間に合ったようだった。
先ほどの所に腹ばいになると、まさしくソ連の舟艇が、島に着上する所だった。

何名かのロシア兵が、川に膝まで浸かり、河岸に走り寄って来る所だった。
手にしたロープを引っ張り始めると、直ぐに何名かの兵がそれを補助する。
河川砲艦は、一応、船首を上流に向け、数十メートルの所で流されない程度のエンジン音を響かせ、停止している。
二隻の船が、何とか固定されると、簡単な板が渡され、将校らしい人物が、それを渡って、上陸してきた。

さて、こちらの様子はどうなんだ・・・
「そこの船、ここは中華共和国の領土である。君達は不法にわが国の領土を侵犯している。直ちに退去しなさい。」
どうやら、メガホンレベルではない。
拡声器の設備でもあったのか、かなり通った梁中尉の声が、辺りに響く。
そんなもんまであるとは、佐藤も予想すらしなかったが、これはこれで効果的だ。
梁中尉はご丁寧にも、同じ内容をロシア語で繰返している。
更に、彼が英語に切り替えて話し始めると、突然銃声が響き渡る。
頭を竦めたまま、双眼鏡を向けると、将校の後からついて出てきたやつが、拳銃を振り回している。
あれが、政治将校と言うやつかな・・・
普通の軍人ならば、兵を散開させ、安全を確保してから様子を見る。
もう少し賢ければ、白旗でも立てて、様子を見るため、特使を派遣してくるであろう。
しかし、そんなまともな思考を全て打ち消すように、その男は、将校に何か怒鳴っている。
すぐさま将校は、兵たちに小銃を構え、前進を命じたようだ。
訳も判らず、ロシア兵が走るようにこちらに向かって来る。
このままだと、白兵戦も考えねばならないかと、思ったが、再び先ほどの政治将校が何かを叫んで、その心配を打ち消してくれた。
ロシア兵が一斉に発砲したのだった。

169shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:27:42
その途端、回り中から銃声が響いた。
真っ先に倒れたのは、将校らしい人物だった。
それも数発の玉があたったようで、ピクリとも動かない。
ロシア兵も打ち返してくるが、既に半数が倒れている。
後の連中は、その場に腹ばいになって撃っているが、このままでは彼らは一人も助からんだろう。
佐藤は、すぐさま双眼鏡を川に停泊したままの、河川砲艦に向ける。
やはり、気がついたのか、船が動き始めている。

「坂口!迫だっ!」
「ハイ、了解しました!」
帝国の下士官は凄い。何処にいるかの確認すらしていなかったが、いつの間にか側に戻ってきている。
返事をすると、すぐさま物凄い速さで、腹ばいのまま後方に進むかと思うと、そのまま後ろに手を振る。
間に合うのか。
再び、双眼鏡を河川砲艦に向けた。
船は、速度を上げ、ゆっくりと旋回している。
どうやら、走りながら砲撃する積りだ。
ロシア兵の被害は出ているが、この程度では、被害の内には入らないであろう。
76ミリで砲撃されれば、今の状況では、弾が当たった辺りの兵は助からない。
その時、微かな音がして、後方から幾つかの砲弾が落下してくる。
その途端、シュポッと言うような音が多数聞こえたかと思うと、目の前に地獄が生じた。

閃光が広がり、爆風と同時に、多数の火の玉が河川砲艦辺りから、ロシア兵のいる辺りまで、一斉に広がる。
しかも、それは暫く続き、辺り一面、白い煙で満たされた。
迫撃砲の砲撃は、まだ続いていたが、それでも少し視界が回復すると、砲艦は既に対岸に向かって、退散し始めている。
「迫撃砲中止!」
佐藤は立ち上がると、後方に大声で叫ぶ。
辺りが静かになると、目の前の河岸には動くもの一つ無かった。

170shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:28:13
「田中大尉」
ぼおっと、タバコを燻らせ、川辺の清掃を見ていた佐藤に、後ろから声が掛かる。
「我が方の損害は、負傷者が三名、軽症です。ああ、ありがとうございました。」
梁中尉が、少しやつれたような顔をこちらに向け、軽く頭を下げる。
「うん、礼は要らんよ。出来ることをしたまでだ。」
「ハア・・・しかし、凄いですね。」
辺りを見回しながら、梁中尉が溜め息を付く。
全体としては、半時にも及ばない戦闘だった。
日中側には、軽症者が数名出ただけで、対するソ連軍は、半数が死亡、残りは重軽症で、既に後ろの小屋に運び込まれ、治療を受けている。
「こんなもん、単なる偶然だ。連中の事だ、すぐさま体制を整えて、出っ張って来る。」
「それよりも、次の攻撃に備えるため、増援の要請と、塹壕の構築をお願いする。河川砲艦があの砲を打ち出したら、このままではえらい事になる。劉少佐からは何と?」
梁中尉は、一瞬何か言いたそうだが、それを諦め、答える。
「一応、直ぐに増援を連れてこちらに来られるとの事です。」
劉少佐も、ソ連の狙いがこの島の占領だと決めたらしい。
「一応、ソ連の狙いはこの島だろうが、他の地域も・・・いや、良い。お待ちしておりますと伝えて下さい。」
あの少佐なら、その辺りは抜かりなくやるだろう。
あまり、北辺軍に命令っぽく見える言動は控えたい。
「了解しまた。では。」

梁中尉が戻って行くと、佐藤は溜め息を吐き、側に来ていた坂口を促す。
「グレネードですか、あれはダメであります。」
「そうか?こんだけ結果が出れば、喜ぶぞ。」
坂口が首を左右に振る。
「報告致します。個人用擲弾発射装置ですが、12機用意してありまたが、現在使用に耐えるのは三機だけであります。戦闘開始時から、使い物にならなかった。言わば初段から不発のものが三機、二発目が不発になったものが二機、三発打てたが、それ以降動かないのが三機、四発打てたものもあったのですが、それも動きません。一回の戦闘で、計9機の不良ではとても兵に持たす訳には参りません。」
「うん、判った、判った。直ぐに回収して、技研に送り返してしまえ。しかしまあ、お蔭で助かったがな。」
「ハイ、これは望外のものだと思います。ちゃんと動けば、かなり使い勝手はありそうです。」
坂口も素直に頷く。
この上官が、下手に格好をつけるのを嫌うのは良く知っている。
あんな河川砲艦がまともに撃ってきたら、どんなことになっていたかと思うと、つくづく運が良かったとしか言いようが無い。

「とにかく、北辺軍を手伝って、塹壕作りだ。次はああはいかん。」
「ろ助、来ますか?」
「特務曹長殿が、それを聞いてどうすんだ。そんな事は誰とは言わんが新任の少尉殿にでも聞くんだな。」
佐藤が苦笑いを浮かべて、さっさと歩き始める。
少し調子に乗りすぎたと、坂口は反省しながら、その後姿に敬礼するのだった。
20名前後の死傷者で、赤軍がカンチャースを諦める筈もなかった。
今度はああは行くまい。
とにかく、穴掘りだ。
そう思いながら、坂口も駆け足で、兵達達の所に向かう。

171shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:28:44
戦闘になった河岸とは反対側に目をやりながら、佐藤は通信手の所に向かった。
「あっ、大尉、連絡が入っています。」
丁度、誰かから無線が入っていたようで、すぐさまマイクとヘッドフォンを渡される。
「誰からだ?」
「島田大尉です。川向こうに到着されたようです。」
早いなと、思いながらも、佐藤はマイクに口を向ける。
「田中です、どうぞ。」
「おおっ、田中大尉ですか。こちらは島田です。ご無沙汰しております。今河岸に到着しました。ご無事ですか。」
「ああ、大丈夫だ。ソ連さんは、目くらましに騙されて、一旦引いてくれた。またじきに来るだろうから、至急塹壕を作りたい。貴様の所に、排土板付きの戦車があったろ。あれをこちらに渡してくれ。手はずは大衡に言ってある。至急頼む。」
「了解しました。他の戦車のご用命はないですか?」
「いや、こっちの島の上じゃ、精々土に埋めてトーチカにする位しか役に立たん。それよりも島とそちら側の水路の確保を頼む。」
「判りました。では、ご無事で。」
島田大尉の口調は、少し残念そうであった。
97式の装甲は、37ミリでは貫通出来ない造りになっているが、ソ連の76ミリではどうだか判らない。
まあ76ミリと言っても今では旧式の単身砲だろうから、理屈の上では400メートルも離れればまず大丈夫とは思うが、それでもこんな狭い島で装甲試験をする気にはならない。
それに、木村大佐もじき現れるだろうから、河川砲艦には河川砲艦で対応してもらった方が良い。
マイクセットを通信手に返し、一旦中央の小屋に向かう。

梁中尉と、防御について打ち合わせを済まし、川辺に戻ると、既に対岸からは、大きな筏のようなものが近づいて来ていた。
中央のシートに覆われた大きなものが多分戦車だろう。
連絡が入っていたのだろう、坂口が既に数人の兵を連れて来ている。
河岸までその筏が近づくと、素早くロープが投げられ、兵たちがそれを固定する。
佐藤達が渡ってきた時に使ったようなゴムボートならば引き上げてしまえるが、筏となるとそうも行かない。
手早くシートが取られ、ガソリンエンジンのややかん高い音が響き渡る。

172shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:29:20
97式中戦車、昭和10年から配備が始まった、帝国が誇る最新鋭の戦闘車両である。
傾斜のついた前面装甲と、丸みを帯びた砲塔は、明らかにそれまでの戦車のイメージとは全く違うものだった。
最初に部隊に配備された時には、どうしてこれが中戦車なのだと言うのが、戦車兵たちのもっぱらの感想だった。
少なくとも、今まで細々と配備されていたこれ以前の戦車と比較すれば、どうみても重戦車である。
しかしながら、部隊の中から特に選抜され、習熟訓練に派遣された特技章持ちの兵や下士官達は、大村総合演習場から帰ってくると、様子が一変する。
彼らは部隊の演習でも、そして勿論たまに発生する小規模な紛争においても、徹底した機動戦術に拘るようになり、停車しての射撃は最低限に抑えようと必死になるのだった。
そう、彼らは大村で、いやと言うほど思い知らされるのである。
97式は、あくまでも中戦車であり、それよりも遥かに強力な重戦車が帝国には存在することを。
現在はほぼ手作りで、制作費が駆逐艦に相当すると言われ、演習に用いるしかないが、いずれ帝国が本格生産に乗り出すであろう、次期、いや次の次かもしれない、強力無比な戦車。
搭載されている砲塔は100ミリ以上でありながら、そのシルエットは、限りなく低い。
演習を行えば、到底自分達の97式が届かない距離から、正確な模擬弾を叩き込んでくる、隔絶した存在。
そんな戦車がいずれ登場すると判れば、戦車兵達もその戦い方からおごりが消えるのも無理なかった。

とは言え、現在では多分最強の戦車の部類に入る、97式中戦車は、慎重に動き出し、河岸に設置する。
筏が傾きかけるが、それでも強力なキャタピラは地面を掴み、何とか無事島に乗り上げることが出来た。
普通の97式と違い、カンチャース島に降り立った戦車には、背後に長方形の鉄板のような物が付いていた。
簡易式だが、排土版がついており、その意味ではトラクターとして使える一台である。

「田中大尉!お久しぶりです。」
砲塔から顔を出して、嬉しそうに佐藤に話しかけてくるのは、島田大尉だった。
「なんだ、結局貴様、来たのか。」
「ええっ、対岸の守りは部下に任せて来ました。あちらより、大尉のいる所の方が面白そうですしね。」
半分、笑いを堪えるような言い方で、島田は茶化すように、言ってくる。
何せ、本土で出動する前に、木村大佐と三人で打ち合わせを行っており、島田も佐藤が変名を使っている事を知っている。
しかも、こいつは恐怖と言う感情をどこかに置き忘れたような漢であり、その行動基準は、面白いかそうでないかに限られている。
「判った、判った。直ぐに排土板を使って、援体壕を作るのを手伝ってくれ。急げ、じきに赤軍さんがやってくる。」
「了解しました。」
エンジンが、一際うなりを上げて、戦車は兵たちに先導されて、作業に向かっていった。

173shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:30:06
「た、大尉!」
やれやれと首を振っている佐藤に、坂口が声を掛ける。
うん、と首をそちらに向け、佐藤も驚いたように、口を開ける。
幅の広いアムール川の上流から猛烈な勢いで、一隻の艦艇が近づいてくる。
あっという間に、近づいてきたそれは、急激にその速度を落とし、佐藤達が佇む河岸に、停戦しようとしていた。
勿論、艦尾に翻っている旗は、中華民国国旗であるため、誰も慌てることなく、唖然とその船体を見つめていた。
昔、朝鮮に亀甲船とか言う名前の船があったな。
佐藤は、停船した船を見つめてそんな事を考えた。
シルエットは、鋭い鏃型の船体に、上部まで装甲で覆われた突起の少ない形状は、何か悪い冗談のように思えた。
軸船に沿うように、丁度中央に、くぼみがあり、そこからは37ミリはありそうな砲塔が覗いている。
これじゃあ、まるで戦車だな。
そんな感想を覚えていると、船体の中央部のハッチのようなものが開き、将校が顔をだす。
「よう、佐藤!、いや違ったね。田中大尉、大丈夫だったか。」
顔を出したのは、案の定、木村大佐である。
どうして、こいつはこんなヘンな船に乗っているのだ。
佐藤は頭を抱えたくなった。

佐藤は知る由も無いが、木村昌福大佐は、「のと」発見時に、最初に駆けつけた駆逐艦の艦長だった。
それ以来、彼は総研のメンバーとして活動を強いられている。
それはそうである。
なんにせよ、のとそのものを見てしまっている上に、「のと」資料にも、名前の上がっている提督となる人である。
総研メンバーに取り込まれない訳は無かった。
当初は、陸戦隊を率いた大田実中佐らと同様に、警邏の任務が中心だったが、総研の研究施設が整って来るに連れて、彼らの役割も変わってきた。
研究班が、直接実物のある未来兵器を基に、可能な限りの現在技術と、「のと」そのものに積まれていた各種工作器機を利用して試作品を作り始めると、当然ながらそれを試験する必要が生じたのだ。
結局、外部から新たな要員を取り込むよりはと、木村大佐達が実地試験を行うようになるまでには、それ程時間は必要としなかった。
ただ、二人とも海軍出身であり、陸戦兵器はそれ程得意ではない。
当初は陸戦隊を率いていた大田中佐に任されていたが、研究が進み、未来技術を応用した各種試作兵器が作り出されだすとそうも行かなくなった。
結局、1933年には陸軍部より、新たに栗林大佐が陸戦兵器の試験官として招聘されている。
また、航空機の分野まで試作品の製作が進みだすと、35年には、「のと」資料を基に、元陸軍の加藤健夫少佐、元海軍の淵田美津夫少佐、野中五郎中尉等も招聘されている。

とにかくそのような経緯は佐藤には関係はない。
彼にすれば、情報部の仕事で、秘匿兵器の受け取りと講習に大村の特殊ドックに入った時に出会って以来の付き合いである。
秘匿兵器と言っても、ゴムボートに過ぎなかったが、それでも圧縮空気で一瞬の内に展開出来るそれは、使い勝手が良く、今では結構各地の部隊で使われていた。
技官の説明を聞いていた佐藤の側に現れ、同じように説明を聞いていたかと思うと突然話しかけてきたのが、最初だった。
どうやら、佐藤が実戦で使うと言う事で興味を持ったみたいで、どのように使うかを、色々探りを入れてきた。
その時は、任務が任務であり、曖昧に誤魔化していたが、彼もそれに気が付いたらしく、簡単な自己紹介をして離れて行った。
驚いたのは、それから数ヶ月して、任務から帰国した佐藤の元に彼がやって来た事だった。
わざわざ情報部まで来られる以上、彼のセキュリティレベルが高い事にも驚いたが、高々ゴムボートについて、そこまで尋ねてくる事自体に驚きを覚えたものだった。
結局、その事について、尋ねると、訳が判らない顔で、これがあると、いざと言うときに部下が助かるじゃないかと真剣に言うのに、更に驚かされた。
こいつ、いやこの人は、本当に部下を大切にする人だと気付かされ、それ以来佐藤も真摯に彼の質問に答えた。
それ以来の付き合いである。
木村大佐の方でも、佐藤が気に入ったようで、何かあると直ぐに連絡してくる。
今回の任務に関しても、木村大佐本人が希望して参加してくれたみたいで、それはそれでありがたいとは思っていたが、まさかこんな船で現れるとは予想すらしていなかった。

174shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:30:44
「木村大佐、で、それは何ですか?」
佐藤が、顔一杯に呆れた表情で問いかける。
「うん、これ?中々面白いよ。研究班で、船の船体形状に関して色々作っていてね。丁度英国からマリーンエンジンが幾つか手に入ったので、載せさせてみたら、結構良いものが出来たんだよ。」
ニコニコしながら、そう説明する木村大佐には、佐藤も余計に呆れるしかない。
どう見ても、数百トンレベルの小船にしか過ぎない。
そこに、強力な戦闘機のエンジンを積むなんて、何を考えているのかと、素人の佐藤でも思ってしまう。
「パワーボートと言うらしいんだけどね。残念ながら、速度は凄いんだが、安定性がもう一つだね。結局河川か、湾内位しか使い道はなさそうなんだ。」
木村大佐は、そんな佐藤の呆れ顔に頓着する様子も無く、説明を続ける。
「でまあ、解体するのもなんだから、北辺軍に使って貰えないかとこちらに運んできたんだよ。まあ、丁度手頃な試験になりそうで良かった。で、ソ連軍は直ぐにでも来そうなのかい?」
「えっ、ええ、余り時間は無いと思います。」
「そうか、間に合ったね。もう直ぐ、残りの三隻もやってくるだろうから、何処で配置につこうかね?」
「いや、それでは、一応、こちらにおいで願いますか。」
幾らなんでも、今の自分は田中大尉である。
佐藤は、一応口調に気を使いながら、木村大佐を指揮所代わりに使われている、詰め所までいざなった。

詰め所には劉少佐も駆けつけていた。
木村大佐を連れて、佐藤が中に入ると、流石に驚いたようだが、事情を話すと、納得してくれた。
また木村大佐も、階級には頓着せず、あくまでも劉少佐を立てた事もプラスに働いた。
簡単な打ち合わせを済ますと、全員が忙しそうに動き出す。
それはそうである。
何時再びソ連軍がやってくるのか判らない状況で、ゆっくりと歓談している余裕は無い。
榊少尉も島に来ていたが、この状況では彼の事を、気を使っている暇も無い。
かなり引きつった顔に、可愛そうには思うが、それよりも戦闘準備が優先された。
佐藤も、坂口を引き連れて、陣地の構築状況を見に行くしかなかった。

河岸から少し離れた所で、97式中戦車が後ろ向きに土を押している。
戦車に取り付けられた排土板にしか過ぎないが、それでもあると無いでは全く違う。
見る見る土を盛り上げ、少なくとも前面からの攻撃には暫くは持つ程度の塹壕が出来てい行く。
「全部完成するまで、待ってくれると助かるんだがな。」
誰に言うでもなく、佐藤は呟いた。
とにかく何も無い島に援体が出来るだけでもかなり粘れる。
「大尉、そうも行かないようです。」
坂口が、川向こうを指差して、佐藤を促す。
腰に吊るした双眼鏡をそちらに向けると、今度は二桁以上の船舶が、こちらに向かって動き始めていた。

175shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:31:28
「で、ソ連は間違いなく、こちらのメッセージを受け取ったんだな。」
「ああ、あれだけやられれば、当分、そうだな最低一年は手を出しては来ないだろう。」
アムール川流域のカンチャース島を巡る紛争から、既に二ヶ月が経過していた。
欧州派遣から帰国した井上に、梅津がカンチャース島事件を説明していた。
結局、紛争そのものは、ソ連の完全な敗北に終った。
木村大佐の率いる、4隻の装甲艇の戦果は凄まじく、ソ連が用意した4隻の河川砲艦は、あっという間に沈められていた。
40ノット以上の高速で走り回りながら、37ミリ速射砲を撃ちまくる小型の船舶に翻弄される形で、河川砲艦が沈没すると、後に控えていた兵員輸送用の小型船舶の末路は惨めだった。
しかも、カンチャース島からは、一台だが、97式中戦車が、小型船舶を狙い打ち、それでも島に辿り着こうとした船舶は、護岸に造られた急増のトーチカからの重機の射撃で、次々と沈められていった。
結局、後退命令が出されないまま、ソ連軍は、大隊規模の部隊を失っていた。
この時点でも、ソ連の極東司令部は、強気の姿勢を崩さず、更に部隊を集結させようとしたが、
中華政府からの国境侵犯に対する正式な抗議と、北辺軍が、カンチャース対岸に、部隊を集結させ、渡河準備を始めると、流石にその動きは終息に向かった。
そしてそれに呼応するように、陸海空軍総司令となった蒋介石が、華北の中共軍に対する攻撃を本格化させると、ソ連は日英政府に対して、中華政府との紛争調停を依頼してきたのだった。
「蒋介石も流石にしたたかだよ。不可侵条約の締結を迫っている。」
「ソ連が支援している中共軍を叩き潰さない代わりに、条約の締結による満州地区からのソ連軍の影響の排除が目的か。」
「ああ、それもあるが、主に帝国に対する牽制が目的だろうな。」
「のと」資料を使い、帝国がその進路を大きく変えた結果、中華大陸での覇権争いも、大きく変化していた。
大慶油田からの収入で、他の軍閥とは格段の資金力を持った蒋介石の支配力は強化されており、最早蒋介石政権に直接反旗を翻しているのは、華北の一部を何とか維持している中共軍だけとなっていた。
「のと」世界では、あくまでも各地の軍閥の合意の上に成り立っていた中華政府であったが、現実の世界では、完全に独裁体制を確立し始めていた。
蒋介石にとって、華北の中共軍も、単なる軍閥の一つでしか過ぎず、力でねじ伏せるのは難しく無い。
そして、このような状況の中で、彼にとって気になるのが、張学良率いる北辺軍と、その後ろにいる帝国の存在だった。
他の軍閥に対しては、蒋介石自らの子飼いの部下を送り込む事により、順次完全な支配下に置きつつあった。
しかしながら、北辺軍に対しては、この政策が中々上手く行かない。
張学良は、蒋介石のそのような動きに対して、決して表立っては反対せず、中華政府からの軍人の派遣と言う形を取っての部下の送り込みも素直に受け入れてくる。
しかしながら、送り込んだ部下達は、数ヶ月以内に贈賄の疑いで告発されて、弾き出されるのが常だった。
北方軍閥の支配地域では、蒋介石自身も含めた、他の軍閥では当たり前になっている、各種賄賂が通じないのである。
フリートレードゾーンと言う仕組みが稼動しているせいで、利権構造が全く異質の体制となっているのだが、中央から派遣された子飼いの部下達は、理屈として言い聞かされていても、それが理解出来ず、馬脚を現してしまうのだった。
そして、更に問題を複雑にしているのが、その背後に見え隠れする帝国の存在だった。
勿論、帝国と中華政府の関係が悪化している訳では無い。
しかしながら、北辺軍を完全な支配下に置こうとして、軍事的な衝突が発生した場合に、帝国、特に停戦監視団がどのような動きを示すかは、蒋介石にとっても大きな問題となりつつあった。

この結果が、蒋介石によるソ連に対する不可侵条約の締結へと結びついていた。
そう、満州地区の支配体制の確立のため、蒋介石は、帝国とソ連を手玉に取ろうとしているのだった。

「華北の中共軍支配を黙認する代わりに、不可侵条約の締結、それによる帝国への牽制か。」
「ああ、そうだ。しかし、大丈夫なのか人事ながら、心配してしまうね。」
梅津は溜め息を吐き出しながら、井上に告げる。
「中国共産党の存在を単なる軍閥の一つと捉えている限り、間違ってはいないんじゃないか。」
井上は、冷たく言い放つ。
「まあ、いずれ痛い目に会うのは蒋介石だ。少なくとも中華本土での利権構造が変わらない限り、足元から崩される危険性は大きいし、それを教えてやる義理はないしな。それに、」
「いずれ、放棄する予定の満州地区だ。痛くも痒くも無いか・・・」
梅津が井上の最後の言葉を奪うように、結論を話す。
少しむっとした井上だが、軽く肩を竦めるだけだった。

176shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:22:18
1938年、欧州では昨年末、フランコ総統の下にスペイン新政権が樹立されたが、戦乱は納まらず、多くの人々は暗い影を感じ取っており、不穏な空気の中で年を開けた。
一月初旬に、イタリアが海軍増強計画を発表すると、各国ともそれに合わせるかのように、新たな艦船の建造計画を表明し、米国ですら、ルーズベルトに代わって大統領に就任していたランドン大統領が、年頭調書で、海軍の増強を提案する始末だった。
アジア地域では、「のと」資料に記されたような、大規模な日中紛争は発生しておらず、蒋介石中華政府は、華北の共産軍も国軍第八軍として取り込み、統一中華政府としての体制を確立しようとしていた。
しかしながら、昨年10月から開始された、日英米との満州地域の停戦監視団の扱いに対する交渉は、1月を迎えても、一向に進展しないままだった。
帝国も含め、参加国すべてが、フリートレードゾーンの存続を望んでいる限りにおいては、当面の交渉が、暗礁に乗り上げるのも無理もなかった。
蒋介石自身も、交渉そのものが、独立中国の体面だけの問題である事を良く認識しており、強攻策に出るよりは、政権の足場固めに精を出しているのが現実だった。

「イタリアは、「のと」資料とほぼ同じ内容か。」
さっきから資料に目を通しながら、色々見比べていた梅津が、井上に話しかける。
「ああ、帝国の改変の影響を一番受けなかった国と言えるからな。」
「独逸は、空母が無い。その代わり巡洋戦艦が一隻増えている。英国もその影響で、プリンスウェールズ級五隻が六隻の建造に。ソ連はまあ、計画だけは立派だな。」
「おお、中々意欲的な計画だよ。戦艦を四隻も作るそうだ。どんな船になるのか興味はあるね。」
「フランスは、まあ、あれだ。政権のごたごたのせいで、腰が据わってないな。それでも、イタリアに対抗出来る艦船の建造だけは続けているのは、立派だな。」
「で、やはり頭の痛いのは、米国だな。」
二人が顔を揃えているのも、米国のランドン大統領の年頭調書のせいだった。

1936年に、帝国も批准した第2次ロンドン軍縮会議は、各国の軍備拡張に対して、ある程度の歯止めにはなっていた。
その証拠に、各国で建造される戦艦の主砲は軒並み14インチクラスであり、排水量も35000トンと言う枠組みをある程度維持しようとしている。
独逸がビスマルク級に15インチを積もうとしたり、ソ連が16インチを積むとの話もあるが、所詮陸軍国の海軍とあまり誰も気にはしてなかった。
しかしながら、独逸の2艦の戦艦建造により、英国が戦艦枠の拡大を要求し、それが認められた結果、日米はスライド条項により、新たな戦艦建造の枠を手に入れていた。
米国は旧型艦のリプレイスとしての枠も含め、3万5千トンクラスならば代替艦4艦、新造6艦、帝国は代替2艦、新造3艦までは建造可能となった。
帝国の場合、厳密に言えば、対英米5.5割が認められた枠なので、3.3艦となるが、そんな船作れる訳は無い。
そこで、英米に対して、交渉が行われ、代替艦2艦、新造戦艦2艦、2万5千トン級の空母2艦の枠を手に入れている。
戦艦を一隻減らし、逆に空母2艦の追加建造を認めさせたわけである。
この結果、戦艦部隊は、旧型に分類されるが、機関及び電装関係を一新している16インチ砲艦の「長門」、「陸奥」、14インチ砲艦の「伊勢」、「日向」、「榛名」、「霧島」。
31年に代替艦として建造が開始され、34年に竣工した新鋭の14インチ砲艦の「金剛」、「比叡」の計8艦体制から、1939年には、新たに竣工する新造艦としての「扶桑」、「山城」と、現存の「春名」、「霧島」の代替艦を含め10艦体制となる予定だった。
しかしながら、帝国は39年には大戦が勃発している事を予測しており、無条約時代が訪れるのを見越していた。
そのため、「榛名」、「霧島」は、解体と称して大改装が密かに予定されている。
そう、帝国は、戦時に突入する39年には、10艦体制ではなく、12艦体制を密かに計画していたのである。
 勿論、「のと」資料の分析から、戦艦に対して航空攻撃が有効である事は理解していたが、それでも、米国の戦艦14艦体制に対して、新造艦6艦、改装艦6艦の体制は、米国が新造艦を就航させても、暫くの間の安全保障としては十分なものであった。
 特に、欧州大戦に対して積極的に介入を目論んでいる状態では、少なくとも4艦程度の派遣は考慮せざるを得ず、残り8艦が本土防衛として残されている点は大きかった。

177shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:23:12
 ところが、ランドン大統領の年頭調書が、この目論見を大幅に崩す事となった。
なんと、ランドン大統領は、米国が保有する戦艦建造枠を一斉に行使し、現在建造中の2艦に加え、8艦、計10艦の大量建造計画をぶち上げたのだった。
全ての戦艦を本年度中に起工し、全艦を三年後の1941年には竣工させると言うものだった。
少なくとも戦艦に関する限り、1941年には新造艦を組み入れて20艦体制が確立される。
しかも、帝国が目論んでいる代替艦の改装まで対応されれば、24艦体制となってしまうのだった。

「どうみても、景気浮揚策なんだがな。」
「ああ、国内向けだ。しかし、同時に帝国の戦略の大幅な見直しを迫ることとなるな。」
「迷惑以外の何者でも無いな。」
二人が、いや帝国が、頭を抱えたくなるのも、仕方なかった。
ルーズベルトの後を継いで、36年に大統領に就任したランドン大統領は、共和党とは言え、ニューディール政策そのものを全面的に否定した訳ではなかった。
ただ、その政策が、余りにも共産主義的で、結果として労働争議の拡大をもたらした点を突き、ルーズベルトを破っていた。
このため、大統領に就任してからは、大規模公共投資を継続しながら、対外不干渉の原則を守り、農業保護等の政策を打ち出していた。
しかしながら、米国資本が、好景気を示す満州や独逸に流れ出すのを防ぐ事は出来ず、米国の景気は2年経っても低迷し続けており、40年の大統領選挙では、余程の事が無い限り再選される見込みは無いと言われている。
それに対する起死回生の一打とも言うのが、今回の戦艦大量発注である。
確かに、軍備増強は、非常に判りやすい大規模公共投資だった。
戦艦10艦ともなると、現在のドックでは不足しており、本年中に新たに追加のドックが建造される。
また、新造艦の追加に伴い、海軍そのものが要員確保に走る必要から、2万人程度の増員が必要となる。
造船ドック建築に対する周辺での雇用創出、海軍の増員に対する新規雇用に対する期待感等は、ダムや道路建設よりも非常に判りやすかった。
しかも、戦艦だけ建造する訳ではない。
艦隊を編成する以上、補助艦艇も大量に必要となり、来年以降、それらの艦艇の建造が期待される事となる。
勿論、問題が無い訳ではない。
軍事関連の投資は、完成後の見返りが何も無いのである。
道路やダムならば、その後の公共財としての価値もあるが、戦艦は、そのような価値を生み出さない。
あくまでも一時的なカンフル剤でしか過ぎず、しかも、効果が表れるまで、追加投資、即ち継続的な軍備増強が必要となる。
そして、その行き着く所は、戦争だった。
景気浮揚策としての、投資の回収を目論むならば、旧態然としてはいるが、戦争による資源地帯や市場の拡大が必要不可欠となる。
ある程度までは効果的な景気浮揚策であるが、その反動も大きい劇薬と言えよう。

「のと」世界では、ルーズベルトがそれを行い、見事景気を回復させたとも言える。
しかしそれは、同時に戦争での勝利が絶対条件であった。
もしも、米国が敗戦していたなら、大恐慌と呼ばれる米国の不況が冗談に過ぎないような不況に見舞われていただろう。

178shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:23:51
しかしながら、現実にはそのルーズベルトは既に過去の人物となっている。
ランドン大統領は、ソ連とのコネクションも無ければ、英国のチャーチルと特に中の良い訳で無い。
「軍備が充実すれば、戦争以外に道は無いか。」
梅津がポツリとつぶやく。
「ああ、「のと」世界とは立場が逆転しているな。あちらの世界では、帝国が分不相応な軍備を持ち、戦争に突入したのに、こちらでは、米国がそうなりそうだ。」
「問題は、米国がどこと戦うか・・・だな。」
暫く、二人とも何も言わない。
やがて、徐に井上が口を開いた。
「帝国と言う選択肢は非常に小さいか。」
「あたりまえだろ、そうなるように我々がどれだけ苦労していると思ってるんだ。」
大陸からも撤退し陸軍を縮小し、戦艦の数も減らしている。
しかも、徹底した英国追随外交まで展開しており、満州への米国資本の導入も積極的に行っている。
少なくとも、米国が帝国に因縁をつける材料は無い。
今の時点で、日米が戦争になると言えば、頭がおかしいのではと思われても仕方ない。
「独逸についての参戦は、それを起こらせないためにも、「のと」世界よりも一年早い開戦を目指している訳だし。何よりも、どこも米国に戦争を吹っかけようとはしないぞ。帝国を締め付けて、開戦に持って行くと言う方法も、今更締め付けられる要因もないしなあ。」
梅津が、ぼやくように、井上に投げかける。
「そうなんだよな。ソ連はさらさらそんな気は無いだろうし、英国ならば係争関係になる事案も無い事はないが、「のと」資料を手に入れた今の英国がそれに乗る訳ない。」
井上が少し考えるようにしながら、話続ける。
「一番良いのは、このまま米国が軍備拡張を続けて、世界最大の海軍でも作って貰い、他の列強がそれを無視し続ける。そして、ある日国家として財政破綻でもしてくれたら。いや、ありえんだろうなあ。」
「そりゃ、無理だ。幾らなんでもそう上手く行く訳ない。その前に、米国が自ら戦争を引き起こすだうろな。」
井上が、はっと何かに気がついたように、梅津を睨む。
「まて、戦争を引き起こすだと!」
「えっ、いや、「のと」世界では、帝国がそうじゃないかと思って。中華との戦争で経済が破綻に近づいた時に、言い方は悪いが、米国に戦争を吹っかけたとも取れるだろう。それと同じ事じゃないか。」
「そうか、そうだよな。米国みたいな大国が、そんな馬鹿な事する訳無いと考えつかなかったが、他の選択肢が無くなれば、その可能性もあるのだな。」
「「のと」世界では、国内の反対を押し切る材料としての帝国からの参戦が必要だったが、それすらも考慮しないで、戦争を吹っかけるとなると・・・」
やにわに、井上が立ち上がり、壁際の棚に向かう。
巻かれて置かれていた世界地図を手にすると、部屋のテーブルに広げる。
「どこで、紛争を引き起こす?どこだ?」
じっと地図を眺め、ブツブツつぶやく井上の横に立った梅津も、同様に地図を睨み考え込む。
暫くして、二人は顔を見合わせる。
「そうなると、可能性はここと、ここ、それとここだな。」
二人は、ほぼ同じ可能性に行き当たり、黙りこんでしまう。
米国が、地域紛争を引き起こして、メリットのある場所は限られている。
その結果、米国が権益を手に入れられる地域として、世界地図を眺めれば、井上が指し示したエリアは、限定される。
また、それ故、梅津も躊躇いなく同意したのだった。
特定地域で紛争を捻出し、米国が大規模に介入出来る地点。
それにより、米国に利益をもたらす資源地域となると、おのずから限られてくる。
一つは、中東の石油資源、次が東南アジア、特にオランダ領インドネシア一帯、そして最後が、大慶油田を抱える満州だった。

179shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:24:29
「可能性が一番低いのは、中東か・・・」
梅津がつぶやく。
「ああ、あまりにも米国から遠い。地中海を通っていては、その前に阻止されてしまう。インド洋から回り込もうにも、英国を味方につけない限り、周りに中継地点が取れない。」
「フィリピンを拠点としてのオランダ領インドネシア、満州がターゲットとなるな。」
二人は考え込む。
「紛争を起こすなら、満州の方がやりやすいだろうな。米国資本もかなり入っており、米国系市民の保護と言う名目で、停戦監視団の増員も可能だ。」
「しかし、その場合は、日英のみならず、ソ連・中華も巻き込む大騒動になるぞ。
まあ、インドネシアの保障占領が良い線だろう。」
梅津が呆れたように言う。
「判らん、そこまで追い詰められたら、何をするか・・・」
そこまで、話して、ふと、井上が顔を上げ、梅津を見る。
「うん、何だ?」
「いや、先走り過ぎたかなと思ってな。」
そう言われて、梅津も苦笑いを浮かべる。
「ああ、そうだな。まだ机上の空論なんてレベルじゃないな。」
「まあ、先を見るのは悪くないが、今はまだ・・・早いな・・・」
「留意はしておくさ、とにかく、総研でのランドン調書に対する意見をまとめよう。」
「ああ、そうだな・・・」
井上も頷き、二人は部屋を出て、総研の研究員との打ち合わせに向かう。
数年後、二人ともこの時の会話を痛いほど思い出す事になろうとは、その時は予想もしなかった。

180shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:25:01
「ううっ、まだ寒いなあ・・・」
欧州を走り抜ける豪華列車から降り立った高畑は、着ていたコートの襟を立てて、辺りを見回す。
3月に入ったとは言え、まだまだウィーンは冬だった。
「高畑さんでしょうか。」
突然大きな声を掛けられ、高畑はびっくりして振り返る。
「ああ、君は、迎えの?」
「ハッ、榊し・・・、榊です。」
手を額に持って行こうとするのを辛うじて堪えたのが、見ていても判る。
これじゃ、軍人だって丸判りじゃないか。
直立不動の体勢は、どう見ても、帝国軍人そのものだった。
着ている背広がまるで似合っていない。
まだ、若く、真面目そうな顔は緊張に歪んでいる。
「うん、まあ、とにかく、行こうか。」
「ハイ!ご案内致します。」
コチコチに緊張したまま、辺りを警戒しているのが、いかにも判りやすい。
これじゃ、防諜もあったもんじゃないなあ。
呆れ返ると共に、不安になるが、ふと気が付くと、もう一人付かず離れずについてきている。
相手が東洋人でなかったら、全く気が付かない所だった。
ははあ、こっちが正式の護衛か。
高畑は、妙に納得しながら、駅の出口に向かった。
外には、ロールスロイス ファントムⅢが止まっており、思わず高畑も口笛を吹くように、口をすぼめる。
榊が、緊張したように、後部座席の扉を開く。
高畑が中に入ると、既に先客が待っていた。
こちらは、貫禄があり、背広が良く似合っている。
これで葉巻でも咥えれば、米国のギャングの親玉と言っても、信じてしまいそうだった。
「佐藤さんかな?」
「高畑さんですね。宜しく。」
扉が閉まり、車は音も無く走り始めた。
前後に一台ずつ護衛の車が付き、三台はウィーン郊外目指す。
英国の最高級車の乗り心地は流石で、高畑はそれを堪能するように目を閉じた。

「高畑さん、着きましたよ。」
「ああ、すまん。寝てしまったようだ。」
車は、広大な森の中を走っている。
着いたと聞いたのに、辺りは森と言うのは、どう言う事だ。
「ここは、もう敷地の中なんですよ。」
高畑が怪訝な顔を浮かべていると、佐藤が呆れたように言い捨てる。
やがて、その先には宮殿かと思うような大邸宅が見えてき、車はその正面に停車した。
建物からいかにもバトラーと言う感じの男が駆け寄り、車のドアを開けてくれる。
流石に高畑も少しは緊張しながら、建物の中に入った。

181shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:25:39
佐藤ともう一人、併せて三人だけで、控えの間を通り抜け、正面の部屋に案内された。
「ほおう、流石に欧州の大富豪、凄いものですな。これを見れば東洋の帝国なんぞ、本当に貧乏国だと思い知らされますね。」
暫く待つ間、佐藤が辺りをゆっくりと見回しながら、話しかけてきた。
「ああ、まあ世界一の金持ちの一族だからね。比較は出来んよ。」
高畑も気軽そうに答える。
きっと、どこかで誰かが三人の様子を伺っている筈だった。
幾ら、英国のネイサン・ロスチャイルドの紹介とは言え、当然警戒はしているだろう。

バトラーがお茶を運んでくると、漸く扉が開き、この館の主人が現れた。
「あなたが、高畑さんですか。一度はお会いしたいと思っておりました。」
にこやかに微笑みながら、手を差し出されたが、流石に高畑も緊張が隠せなかった。
ルイス・ロスチャイルド、オーストリア最大、いや欧州一の大富豪との面会である。
握手する手が、震えそうになるのを何とか抑えるのが精一杯だった。
連れの二人の紹介が済むと、ロスチャイルドは正面に腰を下ろす。
「それで、ご用件はなんでしょうか?ネイサンからは、話を聞くようにと言われていますが、出来れば手短にお願いしたいのですが。」
いかにも、人を見下したような言い方に、あきれ返る。
そう来るなら、要件はとっとと済ましてしまうに限る。
「三日後、3月13日に、ナチス独逸が、オーストリアを併合します。予定では、貴方は明日、イタリアに向かって脱出しようと考えてられるでしょうが、それでは遅すぎます。」
流石に驚いたのか、ロスチャイルドの眉が上がり、先を促す。
「我々の車に乗って、このままスイスに向かって頂きたい。その為の用意は出来ております。」
佐藤がその先を引き継いで、話し始める。
「そうですか?あなた方の話が本当だと信じる理由はないんですがね。」
「信じていただかなくても、我々は気にしません。同行願えないなら、無理やりでもお連れするだけですから。」
そう言いながら、佐藤は何処に隠していたのか、背中から、短機関銃を取り出し、ロスチャイルドに突きつけるのだった。
これには、ロスチャイルドも驚き、手にしていたティーカップを落としそうになる。
「これは、玩具のように見えますが、立派に機能します。少なくとも護衛の方が来られる前に、貴方に怪我をさせる事ぐらいは出来ます。」
「ら、乱暴な・・・」
「あ、あの、この男の失礼はお詫びします。一応、ネイサン氏にも了解はとっております。」
高畑が、余りにも短絡的な佐藤の行動に驚いて、慌てて声を掛ける。
「な、なんですか。」
「えっ、いや、言う事を聞かない場合は、無理やりでもお連れするように、頼まれましたので。」
高畑が、頭を掻きながら、仕方なさそうに、答える。
全く、これだから、情報部の軍人は、困るんだよな。
ロスチャイルドはそんな様子に、目を白黒させるが、それでも直ぐに決断したようだった。
「判りました。それでは参りましょう。ネイサンがそこまで言うならば、信じるしかないでしょうしね。用意する時間はありますか?」
その質問に、佐藤が首を左右に振って答える。
「す、すみません。既にナチスの監視が付いています。我々も余り時間の余裕はないと考えていますので、直ちにお願いします。」
なんで、俺が答えなきゃいけないんだ、本当に。
高畑は頭が痛くなるようだった。

182shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:26:18
「仕方ないですね。まあ、銃器で脅されている立場では、従うしかないですな。」
ロスチャイルドは立ち上がり、それでも執事を呼んで、事情を説明する。
流石に、ロスチャイルド家の執事である。
佐藤が銃を突きつけているにも関わらず、一切それを見ようともせず、主人の話を聞いていた。
「それじゃ、まいりましょうか。」
そう言って、ロスチャイルドは自分が先頭に立って、部屋を出ようとする。
「あっ、その銃のようなもの。本当に弾が出るのですか。」
佐藤が軽く頷く。
「それじゃ、一寸試しに、そこの花瓶を撃って見てくれませんか。」
ばばっと軽い連射音が響き、花瓶は粉々に崩れ落ちる。
「ほう、凄いもんですね。私も一つその銃が欲しいですな。」
「残念ながら、これは売り物では無いので。」
佐藤がそう言うと、ロスチャイルドは、残念そうに首を振りながら、二人を引き連れるようにして、部屋を出て行く。
高畑も慌てて、その後を追う。
しかし、あんな銃、どっから取ってきたのだ。
いや、聞かなくても判る。
少なくとも、背広の後ろに隠せるような機関銃なんて、この世界何処を探しても、手に入る場所なんて他にある訳も無かった。

183shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:06:58
 スエズ運河は、言葉とは裏腹に、結構広い川のように見える。
日本郵船が誇る2万5千トンの最新鋭の豪華客船、新田丸でも、両岸までは十分な距離がある。
「なんだかなあ・・・」
その豪華客船でも一際豪華な、特別船室のテラスに腰を下ろし、良く冷えたジントニックのグラスを燻らせながら、高畑は、大きく溜め息をついた。
目の前を通り過ぎてゆく、いかにも異国情緒溢れる中東の風景も、彼には目に入っていなかった。
「疲れるなあ・・・」
高畑は、何度目かの溜め息を吐き出し、グラスを口に運ぶ。
「おや、ここにおいでだったのですか。イーデン氏が捜しておられましたよ。」
断りもせず、彼の船室に入ってきて、更にテラスまで高畑を探しにずかずかと入ってくるこの人物が、高畑を疲れさす原因だった。
「あまり、勝手に部屋には入って欲しくないんだけどね。」
「ああ、これは失礼しました。しかし、本官の仕事上、それも止む終えないかと。」
絶対そんな事思ってもいないくせに。

二ヶ月前、オーストリアでルイス・ロスチャイルドを拉致同然に連れ出し、監視していたナチスの特務、所謂ゲシュタポと激しいカーチェイスを行い、挙句の果てには銃撃戦まで演じて見せた統合本部情報部総務課の佐藤大佐だった。
本来ならば、高畑の役割はスイスの某所にある日商が手配した山荘まで、ルイス・ロスチャイルド氏を届ければ終るはずだった。
しかしながら、山荘に到着すると、既にネイサン・ロスチャイルド氏も駆けつけており、その場でロスチャイルド家の緊急会議のようなものが開かれ、その結果が出るまで足止めされてしまった。
会議は三週間近く続き、その間には独逸のロスチャイルド一族のフランク・ゴールドスミスまでやって来て、夜遅くまで何やら話が続いているようだった。
元々、今回のルイス・ロスチャイルド氏の救出劇は、ネイサン氏からの依頼だった。
英国政府筋より、ネイサン氏にナチス独逸のルイス・ロスチャイルド氏が拘束されようとしているとの情報が伝えられ、同時にその救出には、英国政府としては動くことが出来ない旨と、代理に日商の高畑を通じて、帝国政府に依頼してはどうかと言うアドバイスも含まれていた。
まあ、この辺は「のと」情報から、ルイス・ロスチャイルド氏の救出が必要であるとの判断が日英の首脳陣でなされた結果の表上の筋書きである。
ネイサン氏も裏に何かあるとの事は気が付いているだろうが、それには触れず、正式に高畑に依頼をとってきた。
その結果、予め情報部より派遣されていた佐藤大佐以下のメンバーが準備を整え、高畑が、ネイサン・ロスチャイルド氏の紹介で、出向いた訳である。
本来ならば、これで高畑の出番は終了の筈が、足止めをくらい、スイスにある日商の支店から各種指示を出しながら、滞在するしかなかった。

184shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:09:05
そして、高畑がスイスを離れられないとなると、情報部も部隊のメンバー全てを他に移す訳にも行かず、佐藤大佐以下、四名の要員だけが、スイスに残る事となった。
結局、この四名に対する対応で、高畑が振り回される事となる。
佐藤大佐は、何故かルイス・ロスチャイルド氏に気に入られたようで、会議を行っていない場合には、良く呼び出されて食事を共にしている。
そして、困ったことにそのような場には必ず高畑も招かれる。
佐藤大佐は、英語はそれ程得意ではないようで、言葉数は少なくなるため、会話を繋ぐのが高畑の役割だった。
佐藤大佐の部下もそれぞれが、個性豊かな連中であり、何かしらトラブルを引き起こすと、それに対しての対応も、高畑がするしかない。
英語の殆ど話せないくせに、酒が好きな坂口特務曹長は、町に出て酒場で喧嘩をしてくる。
まだ若い榊少尉は、高畑の護衛任務は継続していると言い張り、何処に行くのでもついてくる。
しかも、あからさまに、周りを警戒する態度を示すので、否でも目立ってしまう。
比較的健全そうに見えた、仲村少佐にしても、あの騒動の最中にどうやったのか、独逸製の武器を多数手に入れており、帝国に持ち帰る方法を相談してくる始末だった。
三週間も経つと、慣れない対応にいい加減疲れていただけに、ネイサンらロスチャイルド家の連中から、相談を持ちかけられた時は、ほっとしたものだった。

「で、私に英国政府に対する仲介を頼むと。」
高畑は更に、頭が痛くなるように思えた。
ロスチャイルド家のお歴々が集まっているかと思うと、代表してネイサン氏が話し始めた内容は、唖然とするような話だった。
どうして、俺なんだ!
高畑は心から叫びたくなる。
要は、ロスチャイルド家は、その家を上げて、ヒトラー打倒に力を貸す事に決めたと言う事を、英国政府首脳に話して欲しいとの事だった。
そんな事ぐらい、自分でやれよと言いたくなるが、よくよく話を聞けば、その裏があった。
要は、英国民としてネイサン氏が話すと、単なる国内での協力関係が主であり、一国と言うレベルを超えた協力となると、仲介者が必要だと言う説明だった。
しかも、痩せても枯れても彼らは商人である。
それだけに、協力には見返りがつきものだと言うのだ。
その交渉を高畑にお願いしたいと言う事である。

185shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:09:59
本当に油断も隙もありゃしない。
高畑達が、英国とどのような交渉を行ったか、まるで知っているような口ぶりに、脱帽するしかなかった。
帝国は、英国側に立って、来るべき対独戦を戦う事を英国政府に表明していた。
勿論、それは密かにであるが、その為に武器の共同開発から、軍隊レベルでのすり合わせまで既に実施している。
しかしながら、英国を見方につける為だけに、「のと」情報の開示まで行い、その見返りを求めない程帝国も愚かでは無かった。
今回の対独戦への参戦にて、直接的なメリットは、中東における石油資源の開発がある。
「のと」情報より、イラン及びエジプト南部、のと世界では、クゥエート及びサウジアラビアと言う国になっている地域での優先的石油開発権を認めさせていた。
ロスチャイルド家がその辺りの事情をどの程度まで理解しているのかは、流石に聞くわけにも行かない。
それでも彼らが、少なくとも日英の間で石油資源に関する取引が行われた事を知っているのは間違いなかった。
なぜなら、ロスチャイルド家としての対独戦に対する全面支援の見返りも、新たな石油資源の開発に関してだったのである。

それから一ヶ月、高畑は再びロンドンに戻り、総研の情報班と検討を加えながら、英国政府に対する交渉を行う羽目になった。
最終的に、イタリア領リビアで発見されるであろう油田の開発権を、「今後発見される新たな油田に対する第一開発権をシェル石油に認める」と言う形で、交渉を纏め上げた。

そして、漸く日英の最終交渉が行われるインド洋に向かうために、英国代表のイーデン外相と最新鋭の日本郵船の豪華客船に乗っているのだった。

186shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:10:43
「で、なんで、貴方が一緒にいるのですか?」
うんざりした顔で、ずかずかと部屋に押し入ってきた佐藤大佐に対して、高畑は問いかける。
英国に戻った後は、ようやく開放されたと思っていたのに、船に乗り込んだ途端、彼らがいたのだった。
「お忘れですか、我々の任務は、高畑さん、貴方の護衛ですからね。」
おそらく、堀さん辺りの差し金だろう。
護衛と言うのは嘘ではないだろうが、監視の役割も兼ねているに違いない。
最近、総研の情報班と、統本情報部の間で、色々確執が増えて来ている。
まあ、情報を扱うと言う意味では、両者が反目するのは仕方ないのだが、ここまで来ると流石にうんざりする。
今度、情報班の班長に会ったら、良く言っとこう。

「で、イーデン氏は何と。」
「はあ、高畑さんは何処にいるかと聞かれまして。アデンに着いてからの予定の確認だと思われます。」
「それじゃ、行かなきゃな。判った。」
徐に立ち上がり、テラスから部屋に戻る。
しっかりと、仲村少佐と、坂口曹長まで控えている。
うんざりしながら、部屋を出ると、ご丁寧に直立不動で、榊少尉が挨拶をしてくる。
本当に、軍人ってやつは。
高畑は頭を左右に振りながら、イーデン氏の部屋に向かうのだった。

結局、新田丸がアデンに着くと、高畑、イーデン等は随行の数名を引き連れ、密かに下船する。
しっかりと佐藤大佐の案内で、暫く車で海岸線を移動すると、停泊中の四発の大型飛行艇が待ち受けていた。
彼らはそれに乗り込むと、飛行艇はすべるように動き出し、やがて海岸からは見えなくなっていった。

187shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:15:58
 チャゴス諸島、ディエゴガルシア島、2年前に、帝国が緊急展開軍のプロトタイプを初めて英国に開示した場所である。それ以来、この諸島は日英の秘匿活動の拠点として大きく変貌していく事となった。
 島から、本来の住民は全て他の諸島への移住を強制され、代わりに各種軍事施設が急ピッチで建造されており、今もその建造は続けられていた。
最終的には、4000メートル級の大型滑走路を初め、一度に5万人の兵員を収容できる各種施設、大量の武器弾薬を備蓄する倉庫群、そしてこれらの諸施設を維持管理するための荷揚げ能力の有する大規模港湾施設に至るまで、それはここがインド洋に浮かぶ孤島群だとは想像も出来ない程の充実が目指されていた。
そして、建設が進むこれらの施設を横目に、既にここには大量の物資が運び込まれつつあった。
いや、物資のみならず、多くの軍人さえも、集結し始めていた。
大きく弧を描く岩礁の中には、多数の輸送船が停泊しており、そことは少し離れた所には、帝国国軍の艦艇や、英国海軍の艦艇すらも停泊している。
 現在集積しているのは、対独戦に向けた第一陣であり、帝国、英国からの兵員を抽出した二個兵団であった。
本年に入り、日英は対独戦に向け、機動兵団の本格編成に突入していた。
帝国は、九州管区の機動兵団がその第一陣に選ばれ、旅団毎に移動を開始している。
彼らは、連隊規模で、輸送船団に組み込まれ、密かにオーストラリアに向かった。
秘匿と言っても、九州管区の兵団3万人近くが丸々一個移動する訳だから、完全に隠蔽する事など不可能である。
その為、兵団の将校達には、半年の特別機動訓練を英国軍と実施するため、オーストラリアに向かうとの情報が与えられていた。
明らかに、来るべき欧州大戦の準備と丸判りであるが、それは覚悟の上である。
要は、参戦時期を見誤ってくれればそれで良いのである。
指定の港湾まで、列車で運ばれた兵士達は、背中に一杯の装備を背負い、船に乗り込んで行く。
良く見れば、船の大きさに対して、乗り込む兵士の数が少ないのは判るはずだが、別に乗船港がここだけと限られる訳では無い。
実際に同じような船が、日付をずらして他の港湾に現れており、それを裏付けている。
これと呼応するように、英国でも、本国師団が丸々二個、オーストラリアに派遣される事となり、その準備は盛大に実施されていた。
こちらは、逆に独逸等に対してのアピールの意味合いが強い。
即ち、英国はいざとなれば参戦出来る体制は整えようとしているが、師団をオーストラリアに送る以上、その時期はまだ先であると。
オーストラリアに到着した、日英の兵団要員は、その地に集積された機動用車輌を提供され、一ヶ月程の合同訓練が実施される。
彼らに関しては、元々本国にいる時から、分隊レベルでの機動訓練は優先的に実施されていたのでその期間は比較的短い。
むしろ、第二陣、三陣となる兵団の訓練期間が長くなるのが、仕方ない事であるが、厳しかった。
訓練の終了した彼らは、再び輸送船に乗り込み、ディエゴガルシアまで渡って来ていたのである。
第一陣は、ここで装備を完全充足し、用意が整い次第、南アフリカに向かう。
その頃には、第二陣がここ、ディエゴガルシア、第三陣がオーストラリアに展開される。
そして、作戦命令が発令されるまで、そこで待機することとなるのだった。

188shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:19:11
「壮観なものですね、輸送船が60隻、護衛艦隊二個群、空母が4席もこの狭い岩礁に待機しているのは。」
「ああ、ある意味無茶ですね。事故でも起こったら目も当てられない。一体いくら金が掛かっていると思っているのか。」
高畑は、イーデン氏の言葉に、嫌そうに相槌を打つ。
狭い岩礁内だけに、停泊できる場所も限られてくる。
結果として、10隻以上の輸送船が、串刺しのようにくっつき合って止まっているのは、結構怖いものがある。
しかも、その船の中には弾薬が満載されており、ここに一発でも爆弾が落ちたらと思うと、落ち着いてろと言う方が無茶だった。

「しかし、その為のロスチャイルド家でしょう。高畑さんも努力なされたじゃないですか。」
イーデン氏は笑いながら、話しかけてくる。
「のと」資料では、この年の三月にチェンバレン首相の対イタリア宥和政策に反対して外相を辞任している筈だが、現在でも英国外相の地位に留まっている。
そう、のと資料が、彼の経歴も大きく変えつつあった。
同盟国日本との共闘体制が確立されると、宥和政策は、39年までの時間稼ぎではなく、38年までと一年早まっている。
既に開戦時期は、独逸のチェコスロバキア侵入時と決められており、これに対してはイーデンも異議を挟む事なく、結果として外相の辞任までには至っていない。
しかも、今回のロスチャイルド家の取り込みにより、彼の立場は更に変わっていた。
ルイス・ロスチャイルドの救出により、一族を挙げての英国支援を決定したロスチャイルド家が、戦争指導者として強く望んだのが彼だった。
そして、ロスチャイルド家が望む以上、他の財界要人に対する根回しは終了しており、チェンバレン首相や、政府関連者もその方向での政策策定に向けて動き出していた。
当初、帝国は「のと」資料も含め、各種情報分析から、チェンバレンーチャーチルでの推移を予想していた。
特に、チャーチルはロスチャイルド家とも親しく、当然ながら、ロスチャイルド家は彼を推してくるものと思われていた。
ところが、現実にはチャーチルではなく、イーデンを推薦したのだった。
流石に高畑も、ネイサン氏と二人きりの時に、その事を聞いてみる誘惑には勝てなかった。
ネイサン氏の答えは短的だった。
「彼は、米国に近すぎる。」
これがその回答だった。
ロスチャイルド家は、日英の戦争準備を独自のルートで調べ上げ、彼らなりの結論として、米国抜きで対独戦を戦い切れる、いや、自分達が資金援助すれば、可能であるとの結論に達したようだった。
また、それ故、独逸の財閥である一族のゴールドスミス家も、日英側に立っての協力を申し入れてきている訳ではある。
 戦争には金が掛かる。
日英併せて六個の完全機動化兵団の武装、100隻以上の輸送船の手配など、どれ一つとっても、膨大な金額が必要となるのは言うまでも無い。
「のと」世界では、米国がこの戦費を肩代わりし、そして第一次大戦時よりも更に情け容赦無く取立て、大英帝国は没落している。
それが判っているだけに、戦費の調達を米国に依存するわけには行かなかった。
そして、それ以外のスポンサーとして日英が目をつけたのが、ロスチャイルド家を筆頭とする欧州の大富豪達だった。

189shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:19:54
「いや、戦費調達の目処がある程度立ったのは、嬉しいんですが、やはりこれだけのものを用意したのが、戦争となると消えて行くのが何ともねえ。それにきれい事かもしれませんが、やはり人死にが出るのはやり切れませんね。」
「ああ、成程、判りました。それならば、私もきれい事にしか過ぎないでしょうが、こう返すしかありませんね。つまり、我々が努力しないと、更に被害は増えるのです、と。」
「確かに、おっしゃる通りです。きれい事、だけどそれが人生ですね。」
「ええ、それじゃ、そろそろ行きましょうか。」
「そうですね、参りましょう。例え建前だけでも、「より良き明日を作るために。」」
「より良き明日を目指して。」
英国の次世代の指導者イーデンと、帝国の影の財務長官と言われる高畑は、ここ数ヶ月の活動を通じて、お互い相手を認め合う存在となっていたのだった。

190shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:21:26
 1938年5月24日、欧州での戦乱の気配が濃厚になる中、彼らはその部屋に集まっていた。
大英帝国全権大使イーデン外相、駐英全権大使吉田茂、カニンガム陸軍中将、サマービル海軍中将、山口多聞中将(役務)、栗林少将(役務)、英国情報部マッキンレー部長、帝国統合本部情報部堀貞吉部長、特別情報担当、ケインズ、クラーク、そして総研井上、高畑らであった。
誰がどこで気を使ったのか、日英の主要メンバーの比率は丁度一対一に設定されていた。
公式にはイーデンは、インド独立問題を検討するため、スエズを越えてインドに向かう船の上であり、吉田茂は、逆に英国に向かう船の上にいる事となっていた。
 他のメンバーも何らかの理由を付けて移動中と言う名目で、彼らは密かにディエゴガルシアに集まってきていたのだった。
「全員揃ったようですね、それでは始めましょうか。」
イーデンと高畑が揃って部屋に入り、席に着くと、井上が話し始める。
「本会議は、公式には来るべき対独戦に向けた日英の最終打ち合わせ会議です。それ故、今回設立された、日英統合軍欧州派遣司令官であるカニンガム中将に会議の進行はお願いすることとなります。」
井上は、カニンガム中将に軽く頭を下げる。
「そして、まあ、今更ここにいる皆様には隠す必要も無いのですが、これは「のと」情報に関する最初の日英共同会議である点もご認識頂きたい。」
「それは、どう解釈すれば良いのかな。」
イーデンが怪訝そうに井上に尋ねる。
「つまり、ここで話された内容のかなりの部分が議事録から抹消される可能性があると言う点を、お含み置き願いたいのです。」
「ああ、そりゃそうだね。表に出せない内容がかなりあるだろう。」
吉田がいかにもと言う顔で頷く。
「そう言う事です。では、カニンガム中将、宜しくお願いします。」
井上が頭を下げると、日英統合軍欧州派遣司令官、カニンガム中将が徐に立ち上がった。

そう、カニンガム中将の司令官と言う立場は、決して二つの国家の別々の軍隊を運営する連合軍の司令官ではない。
あくまでも、日英両国が一つの軍として組織された統合軍の司令官だった。

191shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:22:18
1936年より始まった日英の武器共同開発に端を発した一連の、両国の武装の共用化は、一年もしない内に、全ての分野にまで広がった。
何しろ、満州地区では武装監視団の名目で、英国将校の下に、帝国将兵が配備についている。
東南アジアでは、艦隊指揮権は英国にありながら、その艦隊そものは帝国が運営すると言う状況が、既に数年に渡って続いていた事もあり、少なくともアジア方面での武装を共用する事に関しては、何処からも異議は出なかった。
そして何よりもコストの問題がそれに拍車を掛けた。
満州、オーストラリア、インドに作られた、公称トラクター工場、実質戦車工場での戦車生産は、部品の共用化、最新鋭の製造機器、そして徹底した生産管理の手法の導入で、誰も予想すらしなかったほどのコストダウンをもたらした。
何しろ、帝国内では、大村にある工廠と、三菱重工静岡工場、帝国車輌群馬車輌部の三箇所、日英共同出資による満州、オーストラリアの工場、その上に、ロールスロイス社の本国工場とインドのニューデリー工場の世界計7箇所で二年間強の期間、同一車種を生産し続けたのである。
しかも、大村の工廠と、ロールスロイスの本国工場以外の生産ラインは、その設計から、冶具に至るまで全て同じものが使われている。
工場により生産ラインの数は、4本から6本であるが、戦車生産に使われたのはその半分のラインである。
それでも全部のラインを合わすと、20本近い同一ラインによる同一機種の生産と言う、かって無かった生産方式である。
「のと」資料を縦横に活用し、戦後のマスプロダクションの考え方を全面に押し出し、どこかでトラブルが発生したならば、全生産ラインに直ちにその対応策が通達されると言うシステマチックな対応は、これまで存在した、いかなる生産方法も太刀打ち出来ないものだった。
その結果、1937年中に、年間生産台数は6千台にも達する。
むしろ、エンジンや主砲、砲塔の生産が追いつかず、急遽同様の生産方式が導入された程だった。
エンジンは全てロールスロイスマリーンエンジンのディ・チューンバージョンであるが、英国ロールスロイス社での生産だけでは到底足りず、帝国では、三菱重工と中島製作所がライセンス生産を実施している。
両社とも、航空機エンジンとしての需要も高いため、三菱は岡山に、中島製作所は、栃木にそれぞれ専用のエンジン工場を新たに建設し、その需要に対応することとなった。
しかしながら、主砲と砲塔、特に鋳造砲塔は、最後まで生産に追いつかず、結局生産された97式シリーズは、1万台を超えたが、その1/3が様々なバリエーションの車輌として完成している。
 ともかく、これだけの車輌を生産した結果、そのコストは、関係者全てを唖然とさせるものだった。
何しろ、最終的に、一台辺りの単価が3万円を切るまで下がってしまったのである。
戦車、それも現在では最強の一つに十分数えられる中戦車の値段が、装甲車程度まで落ちたことに、両国の軍事関係者が狂喜乱舞したのも頷けよう。
少なくとも、多くの陸戦関係者の頭の中に、大平原を駆け抜ける、機甲師団の勇姿が浮かんだことは間違いない。
おかげで、両国政府とも、軍部からの機甲部隊増設の要求に四苦八苦する羽目になった。

192shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:23:10
 値段はともかく、主要陸戦兵器の戦車のこのような状況が明らかになった37年には、戦闘機に関しても、両国での共同開発・生産が本格化する。
帝国側が、当初からマリーンエンジンを戦闘機開発の主要エンジンに据えていたことも、この開発を推進した。
英国側では、既にプロトタイプの完成していたスピットファイヤを、帝国側では97試戦闘機「疾風」を持ち寄り、量産型の検討を行った。
元々、ある程度スピットファイヤを意識して作られた97試である。
帝国側も、97試そのものにそれ程のこだわりは無い。
スピットファイヤのプロトタイプに幾つかの提案を行い、量産型を決定している。
最も、この影で、帝国において、何人もの技術者が自棄酒に浸ることになったのは別の話であるが。
とにかくこうして、英国側ではスピットファイヤ、帝国名称疾風改の共同生産も開始された。
その後、更に共同開発・生産項目は増加し、各種野砲、高射砲、兵員輸送車、更には戦艦まで共用設計が行われるに至る。
 流石に、戦艦そのものの生産に関しては、共用部品の多様化で落ち着いたが、この結果、両軍の意識はかなり変化した。
即ち、帝国軍の装備には認めるべき点があると、しぶしぶながら英国側も認め、また帝国側も、「のと」資料から時代に先行した武装体系を展開しようとしていたが、かなりの部分で検討課題がある事を気がつかされることとなった。
例えば、将来の小銃弾が小型化する事が判っているため、帝国は6.5ミリより大きな口径の携帯兵器に消極的であった。
しかしながら、小隊レベルでの火力支援の減少に繋がるとの指摘により、英国製の携帯型の機関銃、と言ってもかなりの重量であるが、を採用している。

193shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:24:06
そして、「のと」資料の存在が、一部英国首脳陣に開示されると、英国内で一大パニックが発生した。
帝国が、所謂未来技術を手に入れており、しかも、それを9年近く秘匿しながら、展開していた。
このことが、一挙に帝国脅威論に発展するまでに、それほど時間は掛からなかった。
一国だけ突出したアドバンテージを有しており、しかもそれが黄色人種であると言う、人種論まで飛び出す始末だった。
しかしながら、「のと」資料の自由閲覧が許可された、ケインズ、クラークらが帰国すると、それは終息して行った。
ケインズは、自らの経済的な視点から、帝国の政策の的確さを評価し、クラークはまだ若いながらも、その可能性に着目し、首脳陣を説得して回る。
最も、ケインズにすれば、自らの経済論がある程度実践されている事実、及び「のと」世界では米国に経済を牛耳られていると言う資料を提示されれば自らその方向も決まろう。
二人は、今更帝国の脅威を訴えるより、英国がそれに乗る事の方が、メリットが大きい事を説いて回ったのである。
とにかく、全てが遅すぎた。
既に、英国は、武装の共同開発・生産の面で帝国との連携に抜き差しならないレベルまで踏み込んでいた。
こうして、あるものは積極的に、そして一部はしぶしぶながら、帝国、即ち総研の打ち出した建策に、英国は乗ることを決めたのだった。

こうなると、英国の対応は素早かった。
早々に、軍の共同運用の打診を打ち出してきた。
即ち、これまでの計画では日英は連合軍と言う形で、それぞれの運用を行い、作戦レベルでのすり合わせを行うと言うものだった。
これに対して、英国側の新たな提案は、それを更に一歩踏み込み、指揮系統の統一から、部隊運用・補給に至るまで一つの軍として運用しようと言うものだった。
これまで、アジア地域においては、英国仕官による帝国軍の武装監視団の運用等は行われていたが、この提案は、更に逆の場合も含んでいた。
いや、とにかく帝国軍、英国軍と言う区分ではなく、統合軍として一つにしようとい言う提案だった。
具体的には、本国警備の軍はこれに含めない。
逆に、地球レベルでの軍事活動においては、日英は一つの軍としての組織を形成すると言うものだった。
指揮系統に関しても、アジア地域、太平洋に於いては、帝国政府の主導を認める。
欧州、大西洋、インド洋地域では英国政府の主導を認めると言うものだった。
勿論、通常は両国政府の合意が前提であるが、緊急を要する対応を行う必要が生じた場合、両国とも事後承諾を認めると言う事であった。
英国側が、正式にアジア・太平洋地域を帝国の勢力範囲と認めた事は、ある意味喜ばしい事であるが、逆に言えば、それ以外では英国の権益を優先すると言う事である。

194shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:25:05
今度は、帝国側が一大パニックに陥った。
アジア地域以外での軍の指揮権を移譲せよと迫っているようなものだと、憤慨するものもいれば、帝国の権益を確保できると単純に喜ぶものもいる。
そして、この海外活動における統一軍の形成を置き土産に、濱口首相は10年近くに及ぶ、政権の座から降りる事を表明したのだった。
最も、この辺りの内容は、政府及び国軍、そして野党政治家の一部のみが知っている事実であり、国民への発表は、本年10月頃に予定されている欧州大戦の開始まで伏せられている。
とにかく、英国の大胆すぎる提案に対して、濱口首相は身体を張って、それに答えて見せた訳であり、反対意見も自ら封じられる事となった。

所長も含めた総研主要メンバー達は、濱口首相も含めた秘密会議の席上でこの結論を採択していた。
全員が、気がついていた。
「軍の統一運用」、これが何をもたらすかを。
「宜しいのですか?」
結局、誰もそれを口にする事が出来ず、所長にその質問をぶつけたのは、濱口首相だった。
「何がだね。私は賛成だが?」
所長は落ち着いた口調で、言葉を返す。
「し、しかし、軍の統一運用は、始まりにしか過ぎません!」
堪えきれず、梅津が思わず叫んでいた。
所長は、黙って頷く。
「軍の統一運用により、両国の垣根は一層低くなります。そして、それにより両国政府間での調整事項は、膨大なものとなる。」
井上が、誰に言い聞かせるでもなく、話し始める。
「統一運用が上手く行けば行くほど、両国の恒常的な調整機関の設立が必要となり、それは外交問題一切に関する権限がいずれ必要となる。そして、その調整内容は、直ぐに軍事レベルだけではすまなくなり、行政機関としての権限が必要となる。その行き着く先は・・・、連邦政府。」
井上が話し終えても、暫く誰も何も言わない。
皇居に隣接する、今では総研の分室になっているこの部屋は、9年前に、井上と梅津が始めて所長にあったその部屋でもあった。
小さな部屋に、井上ら五人、それに所長と濱口首相の七人も入ればもう一杯である。
静まり返った部屋の中で、全員が所長を見つめ続ける。
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
徐に話し始めた所長の口から出てきたのは一遍の歌だった。
「これは、「のと」世界の私が、英米開戦に至る御前会議にて、詠んだ明治帝の歌です。この中にはご存知の人もいるでしょう。」
全員がその歌を知っていた。
八木や高柳ら調査班のメンバーにしても、英米開戦に至る経緯は確認せざるを得ない事項だった。
それ故、御前会議の内容に関しては、ほおっておいても、行き当たる。
「あちらの世界では、これをして、私が非戦主義者だったと言う理由にしております。
しかし、今の私はそうは思っておりません。
「のと」世界の私は余程悔しかったのでしょう。
何も戦争を望んでいたとは思いませんが、明らかに私自身の政策の失敗を理解していたと思います。
自らは、平和を望んだ筈です。
そして、その為に、果敢にも中華出兵を早期に片付けようと、展開兵力の増強も行ったのでしょう。
しかし、上手くいかなかった。
中華問題を片付けられるように、東条ら陸軍の首脳陣を政権につけさえしています。
「のと」資料を読むと、あたかも私は関与していないように書かれていますが、この私がそんないい加減な君主ではないと言うのは一番良く判っています。」

195shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:25:46
そう言って、所長は全員の顔を一人一人眺めて行く。
完全に硬直したような表情を崩さない梅津。
少し斜めに構えたポーズを崩さないが、それでも真摯に話を聞いている井上。
本人はそれを隠そうとしているが、これから何を言うのか、興味を隠し切れない高畑。
研究者故か、冷静そうな表情だが、感銘を受けたような八木。
驚きを隠しきれず、視線を辺りにさ迷わせている高柳。
真っ直ぐに、こちらを見つめ、次の言葉を待っている、剛直そうな濱口。
「のと」資料が無ければ、これ程のメンバーを集められたのか、それとも、資料があったからこれほどのメンバーに化けたのかは判らないが、全員が本当に頑張ってくれている。
「諸君らの協力で、ここまで何とか私の希望するような世界を目指してこれました。
本当にこれには感謝しています。」
そう言って所長が頭を下げると、流石に全員が困りこんでしまう。
いくら、所長と言う立場に慣れているとは言え、やはり相手は主上である。
「諸君には、これからも頑張って頂かないといけないのですが、今後を考えた場合、一つ問題があります。」
「1945年・・・ですか?」
高畑が、驚いたように、声を発する。
成程と頷く、井上や濱口首相であったが、他のメンバーは訳の判らない顔である。
「総研は、1945年8月15日に解散するんだよ。」
井上が、所長が微かに頷くのを見届け、そう言った。
「戦後を考えなければいけません。」
所長の言葉に、全員が頷く。
「私自身、立憲君主制をどうこう言う訳ではありませんが、制度としてみた場合、何時までもこの体制で良いとは思ってはいません。
責任の所在が非常に曖昧になる現行の制度では、やはり安定に欠けています。」
立憲君主制の元では、政府首脳や軍の行為の最終責任は、君主にある。
しかしながら、君主に責任を取らせる訳にはいかないため、自ら、責任の所在を曖昧にしてしまいがちだった。
「勿論、くにぬし(国主)として、祭ごとを行うのは室の勤めであり、それは今後も続けていかねば行けないと考えていますが、終戦後は政治からは身を引くべきと考えています。」
「しかしながら、所長がそのように決断されても、おいそれと、体制の構築は出来かねます。」
梅津が悲鳴に近い言葉を発する。
「そう、ですから、外圧が必要となるのです。」
部屋の中に、うめき声とも何とも言えない声が響く。
為政者が、その責任を国民に対して全うする上で、民主主義と言うのは、最良とは言えないかもしれないが、決して悪い方法ではない。
しかしながら、日本では明治以降立憲君主制を取ってきた為、責任の所在を曖昧にすると言う手法が確立されてしまっている。
その為、例え「のと」世界のように、純然たる民主国家に変貌したとしても、慣用として、責任不在の政治手法が生き残ってしまう。
これを防ぐのには、外圧、即ち、英国との連邦政府の可能性と言うのは、非常に有益であろうと言うのが、所長の言いたい点だった。
今はまだ、その可能性まで気がついている人間は少ないであろう。
しかしながら、この先八年近くの期間を統合軍として戦い抜いて行けば否応でもその可能性に気がつく人間は増えて行く。
何時になるかはまるで判らないが、少なくとも政治を行う人間が、それを意識して政権を維持する限り、曖昧な責任所在は取れるものではない。
そんな事をすれば、統合政府どころか、逆に英国に飲み込まれてしまう可能性すら出てくるのである。
「判りました。陛下がそこまでお考えならば、不肖濱口、命に代えても英国との統合軍の設立を承認させます。」
最早老齢にさしかかっている濱口首相が立ち上がり、それだけ言うと、頭を深々と下げる。
激情家の濱口、その二つの眼からは、止め処も無く涙が溢れていた。

196shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:13:34
「英日統合軍欧州派遣司令官のカニンガムです。それではこれまでの状況を山口の方から説明致します。」
「日英統合軍欧州派遣艦隊運営司令山口です。統合軍欧州派遣部隊、以降は統合軍と略させて頂きます、の現状を説明させて頂きます。」
Chif-Commander of Allied Force of Great Briten and Japan for Europa とカニンガムが言ったのに対して、山口は、わざわざChif-Commander of Control for Navy Division of Allied Force of Japan and Great Briten for Europaと言いなおしている所に、お互いの意識の違いが見える。
これにはカニンガムも苦笑を浮かべて座り込むしかなかった。
現実には、文章では日本語、英語の両方が作られるため、英語表記ではカニンガムが言ったように、英国が先に来て、日本語では日本が先に来ている。
まあだれも、正式名称を口にすることもなく、最終的には書類上からも統合軍と言う部分しか残らなくなるのだが、まだ出来たばかりではこれも仕方なかった。

「統合軍は、6個兵団、兵力18万、後方支援7万人、総員数25万人からなる軍組織です。」
部屋の明かりが消され、大型のプロジェクターを使い、組織図が示される。
「それぞれの兵団は、三個旅団及び工兵、輸送のそれぞれの大隊からなる総勢2万8千人の部隊です。
兵員、物資、燃料輸送用の車輌は、約5600台、戦車などの戦闘車両は約500台を擁する機動兵団となります。
更に、計画では兵団には、指揮艦として巡洋艦1、防空用の空母2、船団護衛の為の駆逐艦8、上陸支援用の強襲艦12、輸送船24隻、油槽船3隻が所属する事となっております。
現在、この兵団の編成を急ピッチで進めておりますが、完全充足に達しているのは、ここディエゴガルシアに滞在している、第一及び第二兵団までです。
第三、第四兵団に関しては、既に兵員は充足されオーストラリアにて練成中です。
第五、第六兵団については、現在、オーストラリアに向けて集結中です。」
スライドが変わり、オーストラリアに向けて航行中の船舶が指し示される。
航路は、インド、満州地区、そして日本からオーストラリアに向けて伸びていた。
「また、第三兵団以降に関しては、強襲艦、指定エリアに海岸から展開するために、特に作られた専用の艦艇ですが、そのものの絶対数が不足しており、配備は見送られる予定です。」
山口は、一旦話を止め、会議室を見渡した。
「ここで、問題となっているのが、残りの四個兵団、現在オーストラリアにて練成中の、第四以降の輸送船の割り当てです。
現在、輸送に割り当てる事が出来る輸送船は、ここディエゴガルシアにて出動待機中のものを除き、60隻程度であり、これは四個兵団を完全充足状態で輸送するのに必要とされる船舶の半分でしかありません。」

197shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:14:30
統合軍の編成にて、一番の問題は船の手配だった。
六個兵団を完全充足する場合、巡洋艦6隻、駆逐艦48隻は目処が立っていたが、その他の艦艇は厳しい限りだった。
空母12隻は、正規空母ではなく、当初よりそのために建造されていた自動車輸送船の改装による、所謂護衛空母が当てられる予定だが、現在稼動しているのは8隻にしか過ぎない。
残りの4隻については、既に2隻が習熟訓練中であるが、残りはこれから習熟訓練が開始されるありさまだった。
問題は輸送船である。
既に徴用された輸送船の数は、108隻に達しているが、これでも4個兵団を輸送するに足るだけであり、更に60隻が必要とされている。
船そのものは、日英の商船隊からの徴用で不可能な数ではない。
帝国は、当初から護衛空母や輸送船の拡充に力を入れており、既に30年代初頭より商船の大増産を開始していた。
全国の造船所に対する技術指導と、政府系の超優遇融資の提供により、5万トン以上のドックが20箇所以上で建造され、当初は1万5千トン、32年からは「のと」とほぼ同じクラスの輸送船が大量に増産されていた。
同一船型の艦船の大量生産であり、竣工に要する期間は、年々短くなり、今では一隻辺り、1年程度となっていた。
最も、これは戦車等の製造と同様に、量産体制が確立されているせいである。
船体等の鋼板は、予め製鉄所の側に作られた工場で大量に量産されており、ドックでは、運びこまれたこれらの鋼板を組み立てる作業が中心となっているせいだった。
電気溶接等の技術開発や、ディーゼルエンジンの耐久性や生産性もかなりのレベルまで達している。
造船所そのものも、政府推奨以外でも大型ドックを備える所も増えていた。
長崎造船所などは、1号から7号までのドック全てが、5万トン以上に拡大され、しかもそれらが全て稼動していると言う近年まれに見る活況を示している。
結果、2万トンクラスの輸送船船そのものは38年の時点で、300隻近くまで膨れ上がっていた。
そして、現在ではこれらの造船所では高畑が欧州から乗ってきた新田丸ような、2万5千トンクラスに拡大された輸送船の生産が開始されている。
当初計画では、2万トンクラスの輸送船が、戦時体制下徴用される事を見越して、より大型の艦船に置き換える事で対応して行く予定だったのである。
全て、当初計画を上回る規模で拡大しており、英国における生産も加味すれば、必要船舶は余裕でクリアできる筈だった。
しかしながら、これらの2万トンクラスの大型輸送船は、現実には世界中の主要航路で活動中の船だった。
そして、帝国の予想を遥かに上回る好景気が、徴用を困難なものにしてしまっていたのである。
高畑らが画策したのは、輸送船の大型化による、輸送費の大幅なコストダウンであり、これは見事に成功した。
特に、戦車と同様に、同一艦形の大量生産と言う発想は、これまでに無く、生産コストの面でも他国を圧倒した。
米国や欧州各国の不況が逆に幸いし、欧米の輸送会社は軒並みその規模を縮小するなか、帝国系の日本郵船等の運送会社はそのシェアを伸ばし続けた。
そして、35年前後から、米国を除く他の列強が、景気回復局面に入りだすと、需要は一気に膨らみ、帝国系の運送会社の船舶需要はうなぎ上りに増加している。
現在統合軍に組み込まれている、108隻の輸送船にしても、その六割が、元々日英の軍用の輸送船として押さえられていた船舶であり、新たに徴用出来たのは、50隻にも満たない数でしかなかった。

198shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:15:39
「平時においては、強制的な船舶の徴用は、防諜上の理由からもなるべく避けたいと考えております。
この結果、作戦案に一部修正を加え、これに対応する事となります。」
スライドが入れ替わり、アフリカが大写しになる。
「当初計画では、南アフリカのケープタウンが最終待機場所の予定でしたが、現在ここシエラレオネ、フリータウン近郊に、新たな集結拠点を建築中です。」

今回の対独戦の開始にあたっては、「のと」資料の分析から得られた二つのコンセプトが作戦計画に組み込まれていた。
一つは欧州において、独逸が対仏戦にて展開した、電撃戦の考え方。
そして、もう一つが、米国海兵隊と言うコンセプトである。
電撃戦に対しては、様々な資料があり、それらを分析した結果、独逸軍の機動化は不十分であるとの結論に達していた。
即ち、正面装備である戦車の充実には力が注がれているが、それらに付随する歩兵の機動化、更には段列、所謂補給部隊に対しては、資源の配分の問題があるにせよ、殆どなされていない。
結果が、対仏戦におけるダンケルクの撤退戦を引き起こし、更には対ソ戦での敗北に繋がったとの分析だった。
ダンケルクにおいて、あれだけ狭い地域に英仏の軍を追い込んでおきながら、最後は取り逃がしている。
対ソ戦においては、確かにソ連側の戦車が優秀ではあったが、全体の兵力の展開、作戦指導、その他総合力では独逸が遥かに勝っており、それぞれの局面では見事勝利を修めている。
しかしながら、補給が不十分なため、個々の勝利を継続する事が出来ず、ソ連側に退却戦を実施する時間的な余裕を与えてしまった点が対ソ戦開戦の一年目の状況であろう。
少なくとも、ソ連の戦争指導の稚拙さを考慮するならば、「のと」世界のヒトラーは、機甲師団の増設よりも、補給部隊の機械化を重視した方が、初年度での勝利の可能性は高かったと分析されている。
要は、短期での制圧を目指すには、独逸の機動力が不十分であったとの結論である。
その為、統合軍では、部隊全体の継戦力も含めた機動化を目指し、正面戦闘に従事する、戦車部隊、歩兵部隊のみならず、砲兵、工兵、燃料弾薬、燃料の輸送に至るまでの機動力の充実に力が注がれている。
 そして、この機動部隊に更に米国の海兵隊を参考に、航空戦力、海上輸送戦力を組み込み、一つの兵団として編成が行われていた。

199shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:16:27
もっとも、短期間での機動兵力を海に面してさえいれば、任意の地点に展開出来る部隊として編成された訳であるが、問題が無いわけでは無い。
長期的な船舶輸送では、兵員の質の低下、即ち、船酔いが大きくクローズアップされたのである。
何しろ、大洋を越えての部隊の展開であるから、輸送される期間はどうしても、長くなる。
一ヶ月以上に渡って、船に乗せられた兵員が、海岸から陸に上がって、直ぐに戦えと言っても、流石に無理がある。
想定では、2割が戦闘正面に展開出来ず、4割が展開できても、殆ど戦力とならず、実質的に4割程度の正面戦力まで減衰してしまう。
最も、「のと」資料によれば、陸軍は、太平洋戦争の緒戦において、東南アジア方面の展開において、実際にこれを成し遂げている。
日本から一ヶ月以上掛けて、アジア各地域に兵員を輸送し、見事緒戦の勝利を得たわけであるから、どれ程日本軍が精強であったのか、あるいは敵が弱かったのか判ろうと言うものである。
そして、困ったことに、統合軍は日英共同であり、今回の敵は精強なる独逸軍である。
いくら帝国軍が精強と言っても、統合軍として戦う以上、それを考慮する必要は十分すぎる程理由があった。
結果、出された結論が、船舶による輸送は、二週間、船の居住環境を改善したとしても、20日間以内の展開が望まれる事となった。
ちなみに、当初の帝国軍の見積もりでは、30日であったが、流石にこれは、英国側将校から却下されている。
最終的に、ディエゴガルシアで1次集結を行った部隊は、南アフリカに設けられた、集結地点で、十分な休息を取り、開戦三週間前に、現地から出動する。
一旦兵団は、スコットランド北方の秘匿湾まで一気に前進し、その場で待機、そして欧州上陸を目指すと言う作戦に決定されていた。

200shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:18:04
しかしながら、ここに来て船舶の不足が明らかになった。
その為、限りある輸送船の使いまわしを考える必要が出てきたのである。
その場合、南アフリカでは、中継拠点として余りにも遠く、更に欧州に近いデポの選定が必要となったのである。
結果、中部アフリカ西海岸にある、シエラレオネのフリータウンがその地として選ばれた訳である。

「フリータウンは、勿論英国の植民地ですが、欧州に近い分、防諜上のリスクは大きくなります。」
山口は続けた。
「また、気候的にも熱帯地域に属し、兵の疲労も南アフリカより大きいかと考えますが、統合軍としては、許容範囲と考えています。
何よりも、戦闘正面に、十分な兵力が展開出来ないよりは、良いとの結論に達しました。」
ここまで話すと、山口は席に戻る。
部屋の明かりが戻ると、再びカニンガムが口を開いた。
「以上が、統合軍の状況です。何か質問は?」
「色々あるぞ、まずは、勝てるのか?」
吉田茂駐英全権大使が、単刀直入に質問し、全員があっけに取られる。
「いや、勝つための算段を行っている積りなのですが。」
カニンガム中将は、微苦笑を浮かべながら答える。
この帝国次期首相は、一体全体、何を言い始めるのだ。
「ああ、それは判っている。諸君らがその為に努力しているのも承知している。
しかしだ!対独戦の勝利条件は非常に厳しいぞ。
個々の戦闘では、負ける事はまずないと言うのは、良く判っているが、本当にベルリンまで辿り着けるのかね?」
全員が改めて、納得した表情を浮かべる。
カニンガムは、さりげなくマッキンレーに顔を向ける。
英国情報部部長は、帝国側のパートナーである堀部長と視線を交わす。
「それに関しては、情報部からお話しするのが適切でしょう。英国情報部のマッキンレーです。」
軽く頭を下げ、マッキンレーが話し始めた。
「本作戦の最重要点は、ナチス独逸にどこまで気付かれずに、部隊展開が出来るかに掛かっております。
現在の所、独逸側が我々の動きに気付いていると言う兆候は全くありません。」
マッキンレーはそれだけ告げると、黙り込んでしまう。
会議室に困惑が広がる。
「マック、それじゃ皆さんが納得しない。もう少し詳しく説明してくれないか。」
流石に、困った様子でイーデンが口を添えた。
「本作戦の最重要課題は、どれだけ早くベルリンまで辿り着けるかにあります。」
マッキンレーは仕方なさそうに、話し始める。
「軍事作戦そのものは、統合軍の皆さんの方が、詳しいでしょうから、それは省きますが、要は、上陸予定地点から、ベルリンまでの間で、どれだけ独逸軍の戦線が構築されるかに掛かっていると認識しています。」
あってますか、と言う風にマッキンレーはカニンガムに目線を向けた。
カニンガムが頷くのを確認し、更に言葉を続ける。
「現在の独逸軍で、我が方の統合軍に対抗できる可能性のあるのは、現在練成中の独逸陸軍機甲師団ですが、これはグーデリアン少将の下、二個師団が編成中であり、場所は東独逸である事は確認済みです。」
「それ以外の部隊で、即応可能なものは、今の所見受けられません。」
どうだ、十分説明したぞと言う顔で、マッキンレーが再び黙り込む。

201shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:18:42
仕方なさそうに、溜め息を付きながら、カニンガムが口を開いた。
「まあ、吉田大使が危惧されるような、ベルリンをいち早く制圧すると言う勝利条件を阻害する可能性のある部隊で、即応可能なものは、今の独逸には無いと言う事が判っております。
また、それ以外の地域拠点の部隊は、我々が的確に判断さえすれば、対処可能であろうと考えております。
そして、何よりも、現在独逸国内には、英国情報部を初め、帝国統合本部情報部、そして総研情報分析班も含め、日英の情報収集の専門家が張り付いており、これから半年間、独逸側での通常と違う活動が行われれば、いち早く情報が伝わる体制を構築しており、不足の自体に備えております。」
一気に、まくし立て、カニンガムは吉田大使の顔を見る。
全く、どうして司令官の私が説明しなきゃ行けないのかと思うが、この会議のメンバーでは他に方法は無かった。
「うむ、良く判った。可能な限りの対応は取られていると考えるべきだな。それでは、次に懸案だった補給はどうなっている?」
吉田大使は、休む間もなく、突っ込んでくる。
実は、日本を立つ前に、総研で梅津から散々レクチャーされているのだが、全員の意識合わせは必要不可欠だった。
「はい、確かに。作戦そのものは、短期決戦を想定していますが、それでも最悪の場合も考慮し、潤沢な補給が絶対必要であるのは言うまでもありません。
従いまして、陸戦部隊は、エルベ川沿いに、ベルリンを目指します。」
今度は山口が答える。
流石に、カニンガムばかりに答えさせては申し訳無いと思ったのであろう。
「幸いなことに、ドイツ国内では河川輸送路が発達しており、エルベ川はチェコスロバキアが、航行権を有しております。
予め、数隻の油槽船が、チェコを目指して南下する予定ですし、開戦後は、航空支援も行えます。
また、河川砲艦も手配しておりますので、補給路の確保は出来るものと考えております。」
「そうか、では米国、ソ連の動きはどうなんだ?」
これは情報部マターである。
全員が、マッキンレーを見るが、彼はイヤイヤと手を振り、堀を指差す。
「統合本部情報部堀です。それについては、小職から答えます。」
少しげんなりしながらも、堀が話し始める。
「ソ連については、昨年のカンチャース、満州の北部を流れる国境ですが、での全面敗北を受け、アジア方面での策動は、暫く延期される模様です。
しかしながら、欧州方面での活動がその分活発化しており、「のと」資料の対フィンランド戦が早まる可能性があります。」

202shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:19:12
昨年のカンチャースでの国境紛争は、ソ連側が予期したよりも、中華北辺軍及び、帝国主体の停戦監視団の展開が速く、紛争に関与したシベリア方面軍は、少ない部隊ではあるが、徹底的に敗北している。
この結果、アジア方面への進出は、ある程度大規模な攻勢以外は無理であるとの結論が出されたようで、シベリア方面軍の活動は、減少している。
これに対して、欧州方面、ポーランドからチェコスロバキア、ルーマニアに対する部隊の強化、及びフィンランド方面での部隊の増大が伝えられている。
帝国政府は、密かにトルコ政府、フィンランド政府と交渉を持ち、対ソ監視網を構築していた。
帝国が偵察用の機体を提供し、トルコ、フィンランドが滑走路と補給・整備施設を提供するとの条件で、二個偵察小隊が、それぞれ一個ずつ、トルコとフィンランドに展開している。
トルコを飛び立った真っ黒に塗られ、国籍マークも消した双発の偵察機が、ソ連領内を縦断する形で、フィンランドまで、そして、フィンランドからは逆方向に飛んでいる。
まだ配備の少ない機上電探を搭載し、いざとなれば、大概の戦闘機を振り切れる性能を持つ、最新鋭の機体により、ソ連軍の活動は克明に写真に納められているのだった。
ちなみに、撮影された写真は、情報部の分析も添えて、同じものが両国政府に渡されており、対ソ連に関してだけで言えば、両国とも帝国の同盟国と言って良かった。
ただ、帝国の最新鋭の偵察機に関しては、両国とも興味津々のようで、着陸するたびに、見慣れない軍人の質問責めにあうのは困りものだった。
とにかく、「のと」世界では、張鼓峯、ノモンハンと言う一連のアジア方面の国境紛争の後、ソ連は独逸のポーランド侵攻に合わせる形で、ポーランド、そして英仏と独逸が睨み合っている隙をつくようにフィンランドへの侵攻を行っている。
現実には、アジア方面での策動は早々と見切りをつけたようで、フィンランド国境付近への部隊の集積が既に開始されていた。
どうやら、スターリンは、本年度中にもフィンランドとの「冬戦争」を開始する積りのようだった。

203shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:19:44
「それは、承知している。と言う事は、特に大きな変化はないと言って良いのだな。」
わざと、むっとした顔を浮かべ、吉田大使は答える。
この辺りの分析結果は、当然両国政府首脳にも伝わっており、今更言われるまでも無い内容である。
現実に、帝国から様々な情報を提供されているフィンランドからは、支援要請が寄せられており、日英両国は、密かに支援策を打ち出している。
戦闘車輌80両と、航空機120機が10月までに、第一陣としてフィンランドに売却される事となっていた。
ただ、今の時点で対独戦用の、97式中戦車や、疾風を売却する訳には行かないので、提供されるのは、97式の車体を利用して作られている、突撃砲と、帝国側で増加試作された、疾風のプロトタイプであった。
日英共に、米国との戦争は出来れば避けたいと考えているが、ソ連とは戦わざるを得ないと考えていた。
米国は、何と言っても大洋が国家そのものを隔てている。
あちからユーラシア大陸に関与してこない限り、大きな問題にはならない。
それに対して、ソ連は違う。
思想そのものが違う上に、陸続きで侵攻出来る所に、両国の権益が山ほどある。
それ故、衝突は避けて通れないものと考えられていた。
また、「のと」資料からも、超大国が二つもあると言う情況は非常に好ましくない。
何せ、その二つの超大国の間に挟まれているのが、日英そのものである以上、少なくとも片方は無くなって貰いたいものである。
「のと」世界では、英国がフィンランドを援助しようにも、対独戦の戦争準備の為、十分な装備が割けなかったようだが、現実には日英の同盟により、ある程度までは可能となっている。
ただ、やはり対独戦の開始に向けての準備が急がれている現状では、それにも限りがあるのは仕方が無かった。

204shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:20:24
「それで、米国の方はどうなんだね。」
吉田大使に代わって、イーデン外相が先を促すように、声を掛けた。
「はい、米国は何か感ずいているようです。オーストラリアに向かう船団から米国の駆逐艦との遭遇情報が増えております。
また、大西洋での米国海軍の活動も以前より活発化しております。」
「うーむ、何時までも隠しおおせるものでもないか。」
堀の答えに、イーデン外相が呻く。
「まあ、仕方ないですな。チャーチル卿にもうひと働きしてもらうしか無いでしょう。」
吉田大使が、嬉しそうに言うので、イーデン外相の顔が少し強張る。
「のと」情報が、帝国から王室を通じて英国政府に伝えられた時、チェンバレン首相はその情報をチャーチルから隠したのだった。
井上達からの働きかけもあったが、現実問題として、「のと」世界では次の首相となるチャーチルは米国とのつながりが大きすぎた。
その結果、少なくとも開戦までの一年間は、「のと」情報の開示者のリストからは除外されていた。
最も、チェンバレンのチャーチルに対する評価は高くなく、彼自身もその結論に異論はなかった。
その結果、昨年の統合軍設立の話では、一時はチャーチルが海軍卿を辞任するかと言う騒ぎまで行った経緯すらある。
今では、チェンバレンとチャーチルの仲は険悪と言っても良く、その影響を受ける形で、イーデンの地位が上昇しているとも言えた。
これまで、チャーチルの下で働いてきたイーデンの立場は、同等、いや、ロスチャイルド家の支持が明確になった今では、チャーチルよりも上位に来ている。
実際、イーデンが、昨年来「のと」情報の閲覧が許されているのを見ても、王室がどちらを支持しているのかは明確であった。

205shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:21:05
イーデンにしてみれば、非常にやりにくい事おびただしかった。
チャーチル自身も、自分に隠れて関係者が何か画策している事は気付いており、色々探りを入れているが、結果ははかばかしくない。
逆に、それが更にチャーチルの立場を悪くしているのが判るイーデンには何ともやり切れないと言うのが正直な感想だった。
「で、米国はどの程度気付いていると、情報部のお歴々は、考えているのかな。浅学の私どもに、説明してもらえるかな。」
これさえなければ、吉田も悪い人間ではないのだか。
堀は溜め息を殺し、無表情で離し続ける。
「はあ、日英で対独戦を始めようとしてるのには、明らかに気がついております。
米国海軍艦艇の整備状況、備品の購入情況等から、戦時体制への準備に入ったものと推測されます。」
「問題は、どちらに付くか?だな・・・」
イーデンが気を取り直して呟く。
「ハイ、ルーズベルトが大統領ならば、独逸を叩くと言うので間違いは無いのですが、ランドン大統領の場合、選択肢が十分にあります。」
米国内の、独逸支援勢力は、意外と多い。
勿論、ナチス独逸自身が、そのプロパガンダの為に、かなりの資金を投入していると言うのもあるが、何を言っても、白人系の移民の三分の一近くが、独逸系なのである。
最も、彼らの場合は、好意的中立が精々で、自分達から積極的に欧州での戦争に加わろうと言う意識は無かったが。
「どちらかと言えば、独逸側での参戦を狙っているものと思われます。」
始めて、井上が口を挟む。
流石に、総研の主要メンバーである彼の言葉に、全員がその先を待ち受ける。
「政策的には、民主党よりの共和党の大統領ですが、ルーズベルトと大きく違う点は、ソビエト政府の影響が少ない事です。
特に、労働問題でルーズベルトを破って大統領になっただけに、その方面のスタッフは排除されており、代わりに米国の大手資本家の息のかかった連中が入っております。」
「そして、彼らは独逸に大きく投資している、そう言う事か。」
井上の言葉を吉田が引き取る。
「更に、「のと」世界では、ルーズベルト大統領の下、独逸に対する重金属の禁輸措置、中立法の改正等で、独逸に対する締め付けを行ってたようですが、ランドン大統領はこれらの措置を一切実施しておりません。」
「むしろ、対独貿易は徐々にですが、拡大傾向にあります。」

206shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:21:44
「それで、総研はどう考えているのかな。対米戦の可能性はあるのかね。」
「まあ、当面は大丈夫かと。米国の戦争準備は全く整っておりません。」
井上が、まさかと言う顔で答える。
「ただ、明らかに独逸側に立った動きをしてくるものと考えられます。」
「具体的には?」
「まずは、情報の提供からでしょうね。独逸に対して、日英の艦隊がどこにいるかの情報を伝える。
さりげなく、独逸の輸送船の航路上に駆逐艦が展開し、偶然にも出くわした国籍不明の潜水艦を追い払う位はやるでしょうね。」
「統合軍の対応は?」
「大西洋を北上する時点で、米国に察知される可能性はゼロではありません。」
今度は山口が答えた。
「しかし、艦隊には電探も搭載していますし、航空機の護衛もついております。
そうやすやすと、米軍の艦艇を近づける事はないと考えております。」
「ふむ、そうか、少なくとも最低限必要な期間の秘匿は可能か。」
「ええ、まあ、それでも気がつくものがいないとは限りませんが、それだけでは判断材料としては不十分かと。」
「よし、判った。ここまでの準備は概ね順調である訳だな。イーデン外相、何か他に質問はありますかな。」
イーデンも首を横にふり、特に何も無いことを示す。
「それでは、作戦は、予定通り進めると言う方針で宜しいですかな。
で、開戦時期は?」
吉田はイーデンに話を振る。
「九月末から10月初頭、ナチス独逸のチェコスロバキア侵攻の時点となる。
後四ヶ月を切った訳だ。最早、我々は引き返す事は出来ない。」
「また、引き返す積りもないですな。」
吉田が口を挟む。
「ええ、ナチス独逸は何としても、叩き潰す必要があります。」
「しかし、独逸を叩き潰す必要は無い。」
今度は井上が、ぼそりと呟く。
「そう、その通りです。」
イーデンは、口を挟む連中に戸惑いながらも、気を取り直して話し続ける。
「諸君らも、今更ではあるが、この点を留意して作戦指導を心がけてくれたまえ。」
統合軍の首脳陣を一人ひとり見つめながら、イーデンは、言葉を選ぶ。
「本年10月までに、日英統合軍は、独逸に戦闘を挑む。しかしながら、これは戦争ではない。
いや、我々はこれを国家間の戦闘とは位置づけていない。
我々は、あくまでも独逸帝国におけるナチス政権の打倒を目指し、独逸に侵攻するのである。
結果、単なる軍事行動よりも更に困難な役割を諸君らに要求することとなる。
この先、侵攻までの作業は大変なものであろうが、それは序章にしか過ぎない。
統合軍の役割は非常に重大である。
今後の日英の行方が君達の行動に掛かっていると言っても言い過ぎではないだろう。
月並みな言葉しか浮かばないが、本当に、宜しくお願いする。」
イーデンは深々と頭を下げ、話を締めくくった。
カニンガム司令官を筆頭に、山口、サマービルら統合軍首脳は一斉に立ち上がり、見事な敬礼を返すのだった。

207shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:22:47
会議が終り、高畑がイーデン外相と話していると、井上が呼びかける。
「それじゃ、また。」
挨拶もそこそこ、井上の後をついて廊下を歩いて行く。
「何ですか?」
「うん、情報分析班の班長が来てるんで、挨拶にな。」
高畑が回れ右して立ち去ろうとするが、井上にがっしりと腕を掴まれ、離さない。
「離して下さい、あの人と関わると、ろくなこと無いんですから。」
「まあ、そう言うな。我々で選んだ人物なんだから。」
井上がニヤニヤ笑っているだけに、余計に癪に障る。
「そうは、言いますがね、お蔭でオーストラリアまで行かされ、挙句にはゲシュタポに追いかけられたの私なんですからね。」
「ああ、聞いてる。お手柄だったじゃないか。」
ずるずると引きずられるようになりながらも、高畑は辛うじて抗議を続ける。
「私はね、軍人じゃないんですよ、これでも立派な実業家なんです。どうして、あんな目に会わなきゃ行けないんですか。それもこれも全部あの人のせいでしょうが。」
「いや、軍人でもあんな危険な事は、普通やらんぞ。」
「なーにが、ちょっとオーストラリアまで頼まれて欲しいですか。護衛は堀に頼んで、優秀なものを付けるですか。ほんとに・・・」
まだ、ぶつぶつ言っているが、高畑も観念したらしく、自分で並んで歩き始める。
「まあ、そう言う不満は、本人に言うんだな。お蔭で、欧州の大富豪をこちらに引き寄せる事できたんだし。良かったじゃないか。」
「あのね、言えると思います?井上さんだって苦手じゃないですか。」
「そりゃ、仕方ない。何せ階級はあちらが上だからな。軍隊は階級が全てさ。」
絶対そんな事、井上が思ってる訳無い。
高畑は、確信を込めて言えるが、皮肉そうに笑っている井上の顔を見ると、もう何も言う気にならなかった。

208shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:26:14
「入ります。」
ディエゴガルシアに建てられた、統合軍司令部とでも称すべき建物の中には、日英のそれぞれの部局の支部が設けられている。
二人が入ったのは、帝国統合本部の情報部の部屋だった。
既に何度も来ているのか、井上は幾つかの机の間を通り抜け、奥の応接室の中に入る。
正面に、堀部長が腰を下ろし、向かい合う形で、問題の人物が座っていた。

「おう、今噂してた所だ、良く無事還ってこれたな。」
男が頭だけ、回して高畑に言った。
「あのねえ、山本さん、他に言う事あるんじゃないんですか。本当に・・・」
「おお、すまん、すまん、頑張って貰って、本当に悪かった。」
高畑が、文句を最後まで言わない内に、山本が真剣に謝って来た。
そう下手に出られると、それ以上文句も言えない。
矢張り、この人は苦手である。
申し訳なさそうな顔に、嘘は無い。
心のそこから悪かったと思っているのは間違いない。
本当に部下思いのいい人なのだが、仕事に関しては、冷酷になれる人でもあるんだよなあ。
そう思いながら、高畑は横のソファに腰を下ろした。
「おお、井上君、久しぶり、元気にしてたかね。」
黙って反対側に腰を下ろす井上に、今度は元気そうに声を掛ける。
「はい、おかげさまで、何とか元気にやっております。」
「そうか、うん、それは良かった。」
山本は一人で納得し、ウンウン頷いている。
「おい、イソ、何が良かったんだよ。単なる社交辞令じゃないか。」
堀が呆れたように山本に声を掛ける。
「いや、何を言う。帝国の明日を担う井上君が、元気なんだぞ、こんなめでたい事ないじゃないか。」
「あー、判った、判った、そう言う事で良いよ。」
「いや、堀、お主は判ってない、」
「ハイハイ、判った判った。」
堀は、適当に相槌を打って、話を打ち切ろうとする。
今や帝国の防諜を代表する二つの組織、統合本部情報部と、総研情報分析班の二つの長が、こんなに中が良くて、良いのかと高畑は思ってしまう。
「あっ、そうだ、堀さん、山本さん、現場での軋轢は、何とかして下さいよ。」
二人とも、話を止め、うん、何かと言う顔で高畑を見つめる。
「今回、山本さんの依頼で、オーストラリアまで行きましたが、護衛に付けてもらった情報部の方、佐藤さん達ですよ。」
「うん、佐藤からは無事任務を勤め上げたと報告はここで貰っているが、あいつらが何かしたのか?」
堀の表情が一気に真剣になる。
流石に長年、情報部の長を務めているだけはあり、その顔には凄みさえ滲み出ていた。
「いや、そうじゃないです。佐藤さんたちは良くやってくれました。」
高畑は慌てて、堀の心配を打ち消す。
「ただ、今回は長期間に渡って、護衛をして貰ったんですが、その間何かと、情報班について、探りを入れてこられるのに、閉口したんですよ。」
「なんだ、あまりびっくりさせんでくれ。これでも気は小さいんだから。」
どこをどう見たら、気の小さい人に見えるんだと、言いたくなる。
「いや、とにかく、情報部と総研情報分析班同士の現場での確執は何とかならないですか。」
「そりゃ、無理だろう。そう言うもんだから。」
山本が仕方ないよなと言う顔を堀に向けると、彼も頷いている。
元々、軍が主導する情報部や、公式情報中心の外務省に対して、全く独自のルートでの情報入手、分析の為に設立された総研情報分析班である。
現場での仲が良い訳なかった。
「ですが、情報分析班の班員の多くが、わが社の社員であり、殆ど素人ですよ。情報部のように荒事に対処できる連中なんていないでしょう。」
「そこで、情報部に目の敵にされたら、いざと言う時に、助けて貰えない事もあり得るでしょう。」
「いや、それは無い。と言うかね、そんな事、私が許さない。」
堀にそこまで断言されると、それ以上高畑にも言えない。

209shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:28:55
「しかし、現実問題として、堀さんが許さんと言っても、徹底できるもんでもないでしょう。」
その代わり、井上が切り込んできた。
「元々、情報分析班の存在そのものを秘匿してきた事が全ての原因です。何らかの方策を考えるべきでしょう。」

総研の情報分析班は、情報の重要性を痛いほど痛感している井上ら総研メンバーが独自に作り上げた情報収集組織である。
別に、非合法のスパイもどきを大量に抱え込んでいる訳では無く、組織と言ってもやっている事は、非常に地道な情報収集・分析作業を行うだけである。
ただ、高畑が絡んでいるだけあり、そこには大量の資金が投入されていた。
主要国それぞれに、情報分析センターが設けられ、そこにはその国で可能な限り手に入る全ての情報が集められる。
雑誌や新聞はもとより、市井の酒場等で聞きかじったゴシップさえも、情報として処理されるのである。
それぞれの情報分析センターは、日商系と判らないように、現地で別法人を立てられ、それが各国の同様のセンターと提携している形態が取られている。
元々、合法的な情報と、市井のゴシップ程度を集めているだけであるから、各国の首脳陣もそれ程注意を払わない。
しかしながら、ここに、「のと」情報で得られた、各種統計手法等の分析手法が用いられている為、驚くべき精度の情報が集まるのである。
単なる既存の情報ソースから、軍の動向まで判ると言われれば、普通は笑い飛ばす。
実際、「のと」世界でも、米国株式市場の薬品会社の株価の動向から、米国が南に向かうのか、北に向かうのか分析した者もいたのである。

このことが、統合軍情報部との軋轢の元となっていた。
要は、同じような情報が政府に届けられても、総研情報班の方が、精度が高いのである。
勿論、堀以下情報部の首脳陣でも、「のと」情報にある程度閲覧許可を得たものは、その理由が判っている以上、気にはしない。
しかし、現場は違う。
また、判っていながらも、堀達は、それを組織の発奮材料に使うのは仕方の無い事だった。
結果、情報部の現場にすれば、情報班には何か特別な情報入手ルートがあるのではないかと、要らない軋轢が生じているのである。

210shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:31:31
「しかしなあ、井上、そうは言っても、納得させる方法なんか無いぞ。」
どうやって情報を入手しているかを明かせば、どこからそれが他国に漏れるか判らない。
現在は、警戒されていない為に、ある程度自由に情報が収集出来る訳であるから、これは死活問題にも繋がりかねない。
山本は、それを指摘したのだった。
「その為の、山本閣下じゃないですか。」
井上が、掛かったと言わんばかりに、山本に詰め寄る。
ありゃ、またこの人、ろくでも無いアイデア思いついたに違いない。
高畑は、井上のこの表情を見るたびに、対象にされた人が可愛そうになるのだった。
「おい、また禄でもない事考えてるんだな。否だぞ、俺はやらんぞ。」
山本がそっぽを向いても、当事者でない、堀は気楽なものである。
「うん、井上君、何か良い方法があるようだな。」
この二人が揃うと、碌な事ない。
高畑は、悪友が頭を抱えているのを嬉しそうに見つめている堀と井上の顔を交互に見つめ、新たに確信するのだった。

山本五十六、「のと」世界では、開戦時の連合艦隊司令長官を務めた人物である。
帝国内では、交通事故で死亡したと思われているが、実際には総研情報分析班の班長として、主に欧州方面で、活動を続けていた。
「のと」情報によって、山本が開戦時の連合艦隊司令長官と知らされ、一番驚いたのは、誰を隠そう、堀部長その人だった。
確かに、若い頃には日露戦争にも従事し、実戦経験もあるが、指揮官として見た場合、アイツ程信用できない男はいない。
それが、堀の印象だった。
とにかく、賭け事が大好きで、人当たりも良い。
部下の面倒見も良く、人には好かれるが、悪友として言わしてもらえば、余りにも危ないのである。
乾坤一擲の大勝負が大好きなばくち打ちで、人情に熱いあまり、人事に感情を挟みかねない。
非常に徹するべき司令官が、それでは堪ったものではない。
「のと」資料を調べても、対米戦初頭の真珠湾攻撃等は、いかにも彼がやりそうな作戦だった。
しかも、彼はあちらの世界では、戦争半ばで戦死している。
堀は頭を抱えたくなった。
友人だけに、堀は彼の人となりを良く知っている。
そのまま、当時の海軍大臣辺りを勤めていれば、優秀な行政官を勤め上げるであろうが、艦隊司令官には向いていない。
だが、そう考えているのは、堀一人であり、「のと」資料を見ただけでは、そこまで判る筈も無い。
案の定、評価は二分したが、山本は統合軍と国防省の中で、頭角を現してきた。
そして1934年4月の人事で、彼に統合作戦本部作戦本部長の話が出たのである。
昭和維新からこの方、人事に先例なしとは言われているが、現実に前任者の永田本部長は、国防省長官に内定している。
確かに、そのまま四年間無事勤め上げれば、山本が国防省長官になると言うなら、問題は無かろう。
少なくとも、実戦司令官に就く事は無い。
しかしながら、4年後の38年は、大戦の一年前である。
当時は、本当に4年で人事異動が行われるのか疑わしい限りだった。
場合によっては、そのままの布陣で戦争突入とも考えられる。
現実に、本年の人事では、濱口首相の退陣が予定されているため、現在も大きな変動は行われていない。
後継と目されている、吉田大使が新たな構想で人事を検討出来るようにと言う配慮であった。

211shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:35:43
とにかく、34年の時点では、彼が作戦本部長に就任するならば、最悪第2次世界大戦での作戦指導は、山本が行うこととなる。
悩んだ末、堀は結局、自分の思いを山本に打ち明けたのである。

堀が滔々と自分の危惧を打ち明けるのを、山本は幾分気分を害したような顔をしたが、それでも言いたい事は理解してくれた。
そして、困ったことに山本自身、その危惧を納得してしまうのだった。
確かに、山本自身も「のと」資料に対するアクセス権は高い。
基本的に、「のと」世界で戦死している人物に対しては、完全秘匿か、高い権限を付与し、自分のやるべき事を考えさせる方策が採用されていた。
元海軍では、南雲、山口等が高い権限を与えられ、かなり自由に「のと」資料の閲覧が許可されていた。
山本もこの一人である。
そして、山本自身、考えれば考えるほど、自分が連合艦隊司令長官と言うのが上手く当て嵌まらないと感じていたのだった。
勿論、山本本人は、そのギャップを埋めるべく努力はしてきた積りだが、改めて堀に指摘されると、さも有りなんと思ってしまうのだった。
とは言え、今回の人事で、統合作戦本部、作戦本部長になれるのではないかと期待していたのは嘘ではない。
上手く行けば、四年後には国防総省長官であるから、その席は魅力だった。
しかし、堀に指摘されように、人事異動が行われないで戦争に突入した場合、どうなるのかと考えると、正直気が重い。

今更内定が出てしまったら、辞退するのは難しい。
いくらなんでも、山本自身、そこでキャリアを止めてしまう気も無いし、下手に動けないのも事実だった。
結局、二人は悩んだ末、井上を呼んだのだった。

「丁度よかった。山本さん、良い役職があります。」
簡単な説明だけで、井上が喜んで提示したのは、総研情報分析班の班長だったのである。
総研分析班は、一応梅津、井上、高畑らで可能な限り、運営していたが、流石に4年も経つと、全員が片手まで出来るレベルを超えていた。
彼らも適任者を捜していたのである。
班長である以上、政府首脳にも対等に口が聞けて、ある程度押しの強い人物。
かと言って、謀略を得意とする堀のような人物では、危なっかしくて任せられない。
ある程度語学の才能も必要であり、井上自身山本少将が適任だと思っていたとの事だった。
「それに、戦争指導に関しては、私も貴方を信用していないですから、ここで、こちらに移って頂くと、非常に助かります。」
あからさまに言われ、山本は気分を害するが、井上は頓着しない。
「それに、もう一つ、陛下の信任厚い総研のしかも班長にしか出来ない任務がございます。」
井上が、そのあらましを語ると、最初は渋っていた山本も、情報分析班班長就任を内諾する。
まあ、井上にすれば、山本が就任をごねたなら、所長にお出まし願うだけであるから、何とかなるとは思っていたが。

「しかし、それにしても、本当に作戦本部長に内定しているならば、それを蹴って総研に入るとなると、色々差し障りは無いのか?」
堀が、心配そうに聞く。
いくら、山本では心もとないとは言え、彼の経歴に傷が付くのは、悪友とは言え申し訳ない。
「なあに、俺の評判が落ちる位、どうでも良いよ。」
山本は、そう言うが、ある程度強がりであるのは堀だからこそ判る。
「いい方法が御座います。」
井上が嬉しそうに言い、情報部の堀は恐ろしいと言う評価が当分確立することとなったのである。

212shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:41:10
暫くして、連合艦隊の解散の話が、統合本部内に広まり、これに対して国防本部の山本航空担当部長が、異議を唱えているとの噂が一挙に広まる。
そして山本が、国防総省加藤長官や、統合本部作戦本部長永田部長にねじ込んだと言う事が広まり、軍部内は騒然となった。
1934年3月末、山本が交通事故に合い、亡くなったとの話が広まる。
しかも、その時、情報部の堀部長は、「そうか」と一言言って黙ってしまった。
総研の井上は、事故にあったと聞いただけで、「最近車が増えたからなあ。」と平然と答えた。
等の噂が広まる。
誰も事実を確認できないまま、四月の人事異動が発令され、統合本部作戦本部長には、豊田副武が抜粋される。
首脳陣は、一切山本には触れない。
それどころか、部下には声を潜めて、
「その話をするな。私は「情報部」に睨まれたくない。」
と言う始末だった。

ここに、目出度く山本は、総研情報分析班班長として、新たに本部の置かれたスイスに赴任したのであった。
それから四年、山本は主に欧州で情報班の組織化と、様々なコネクションを作るのに精を出してきた。
表向きは、総力研究所、欧州所長と言う肩書きで、欧州の様々な人物に会う。
総研の費用で一流の身なりを整え、様々な社交場に出入りしては、顔を売って行った。
ちなみに、大好きなギャンブルも、仕事の一環として顔を出せるので、こんなに嬉しい事は無かった。
お蔭で、出入り禁止の店が更に増え、Yamamoto Fifty Sixと言えば、一流のギャンブラーとしてその筋では結構有名になっていた。
勿論、自分を知っている日本人に会えば、
「お上のお仕事だから、内緒だよ。」
と口を塞ぐのも忘れない。
まあ、髪も伸ばし、英国セビルロー仕立てのオーダーメイドのスーツに身を包んだ山本を見て、本人だと直ぐに気が付く日本人はめったにいなかったが。

213shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:44:00
「で、井上、今度は俺に何をさせたいんだ。」
山本が諦めたように、井上の顔を見る。
「十分欧州でのコネクションも御作りになられたようですから、そろそろ本業の方の準備に掛かるべきかと。」
「うん?アラン・ダレスなら既に面識を持ったぞ。今度はスイスに赴任すると言ってたぞ。」
そう、総研所長から山本に託された重要な役割は、いざと言う時の米国政府を含む列強各国との非公式な交渉ルートの確立だった。
総研の存在は、既に各国も掴んでいた。
その欧州所長と言う肩書きから、列強も非公式な帝国の窓口である事は、察しが付く。
しかも、本人が様々な会合に顔を出していれば、なお更である。

「いや山本さん、確かに、表上の肩書きは皆さんご存知でしょうが、統本情報部もその情報ルートに興味を示している以上、列強各国もその情報入手方法に興味を持っているものと思われます。」
「そりゃ、そうだろうな。しかし、それがこの山本と繋がるのか?」
総研情報分析班、班長と言う立場と、欧州所長では明らかに役割が違う。
「ですから、それを繋げるのです。いや、繋げて下さい。」
「ふむ、表は総研欧州所長、しかしてその実態は欧州列強間を暗躍し、密かな秘密を奪い去る、総研情報班、班長。おいおい、何だが活劇に出来そうだぞ。」
堀が、どうやら井上が考えている事を察したように、楽しそうにコメントを加える。
「馬鹿言え、おれは活劇はやらんぞ。ふうむ、言いたい事は判った。単なる所長と言う立場だけじゃなく、欧州方面での情報入手の総元締めと言う立場だと示す事で、更に相手の気を引こうと言うのか。しかし、それが、情報部との軋轢とどう繋がるのだ。」
「情報分析班、班長として、新たに組織を作ってください。いや、表上の第二の情報部として、周りに判るように、情報収集組織を作るのです。」
「なんだって、おいおい、井上、お主、組織を作るとなると大変だぞ。」
「いや、本当に情報部を立ち上げる訳ではありません。あくまでもそれらしく見えれは宜しいのです。列強各国からすれば、丸判り、いや少しは隠蔽が必要でしょうが、ばれても良い組織です。」
「ふむ、戦争が始まれば、真っ先に潰されるか、逆情報を流す為に使われるようなものか。逆に、それらしいものがあれば、各国とも信用するな。そして本来の情報分析班を隠してしまうのか。案外いけるかもしれんな。」
堀が納得したように、解説を加える。
「しかし、それらしい組織と言っても、作るとなると事だぞ。金も必要だ。」
「組織そのものは、これまでの総研情報班の中から、幾つかの情報源となっている地元の顔役等を丸抱えにしてはどうでしょう。現地組織のリーダーとしてそのまま採用してしまうのです。資金の方は・・・」
あっ、何か前にもあったような・・・
高畑は、井上がこちらを向いたので、少し後擦りさる。
「そうか、高畑君が協力してくれれば、問題は無いな。」
山本が納得したように、頷く。
頼むからそこで納得しないでくれ。
高畑の心の叫びは誰にも聞こえずに、欧州での新たな組織作りが行われる事となった。
それは、欧州での開戦まで、あと四ヶ月を切った時点だった。

214shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:47:39
「で、井上、お前がわざわざこんな所まで出向いてくる以上、何か理由があるのだろう。」
「ええ、やはり独逸の動向が気になります。今の所は、チェンバレン首相が率先して、戦争回避の為に、走り回っていますが、独逸がそれをどこまで信用しているのか。
それと、独逸の国内情況は、どの程度まとまっているのかと。」
書面による情報は、国内にいても一応は届いていた。
しかしながら、細かいニュアンスとでも言うべき内容は、実際に現場にいる人間に聞くのが一番である。
今回、日英の所謂統合軍戦略会議に、井上も同行した一番の理由が、これだった。
「信用はしてないな。だけど、利用しているよ、ヒトラーは、」
山本が端的に答える。
「国内情勢は、ヒトラーのいない所では、批判も出る。だが、彼の前に出て批判する勢力は無い。
ありゃ、一種の神がかりだな。俺も一度パーティーに出たが、確かに人を引き付ける力はあるぞ。」
波に乗っていると言うのであろうか、今のヒトラーは本当に圧倒的な存在感で、場を支配していると言っても良かった。
山本自身、レセプションで端のほうで見ていただけだが、身体が震えるようにすら思えた。
独逸語があまり得意でなく、「のと」情報を知っているだけに、構えられたと言う点も大きい。
忙しいヒトラーが、会場にいたのは、ほんの短い間だったが、その場にいた全員が、彼の一挙一動を見つめていたと言っても良かった。
「それだけに、今の独逸で彼に逆らうのは大変だぞ。「のと」情報のように、戦争で負けが込んでくればまた話は違うだろうが、今の所そんな事も無いしな。」
「そうですか、やはり難しいですか。」
井上が残念そうに言う。
彼が、情報分析班に分析を依頼していたのは、独逸での反ナチス勢力の組成の可能性だった。
開戦ともなれば、早期に独逸軍を撃破すべく、作戦は検討されているが、その後の展開も重要だった。
単に、勝てば良いと言うのでは、「のと」世界の帝国と同じである。
最も、あちらの帝国は勝つことすら出来なかった訳であるが。
「で、ヒトラーは英国の宥和政策を利用していると言うスタンスは、「のと」世界と変わらないのですね。我々の対伊太利亜政策の変更や、米国の動向等の影響はそれ程見られないと言う事で、宜しいのですか。」
「うむ、分析班では予測とあまり大きな違いは出てない。動員は続けられているが、その動きに大きな変化は無い。少なくとも彼らが当面戦争にはならないと考えているのは、違いは無い。」
「堀さんの方で何か付け足す事はありますか?」
黙って聞いていた堀に、井上が話を振るが、彼は首を横に振るだけだった。
「それでは、この先は、英国の連中も呼びましょう。」
井上は、部屋の隅にある電話に向かう。

215shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:53:30
暫くして、部屋に三人の英国人が入ってくる。
井上たちは、会話を英語に切り替え、検討内容を告げる。
「海軍のレーダー提督、先ごろ首になった、フリッチェ上級大将、この二名を押さえられるかです。」
最初に口を開いたのは、マッキンレーだった。
そして、それだけ言うと、もう十分とばかり黙り込んでしまう。
「もう少し、説明しろよ。だいたい君は、言葉が少なすぎる。さっきの会議でもあの態度はまるで子供じゃないか。」
ケインズが真剣に怒っているのを、若いクラークは我関せずと何か一心に考えている。
「ケインズさん、貴方の意見は?」
井上が話題を変えるように、ケインズに振った。
英国側の三人は、昨年から「のと」資料の閲覧を許されている者達である。
ケインズとクラークは、総研側から指名した人物であるが、マッキンレーは違う。
ケインズとクラークの報告を元に、英国側が新たに送り込んで来た人物だった。
最初は、「のと」資料にも名前が上がっておらず、総研側もかなり警戒したが、どうやら、王室関係者らしい。
偽名の可能性もあるが、とにかく「のと」資料室に入ると、日本語の資料にも関わらず、彼は殆どその部屋に篭もりっきりで、目を通していた。
そして、二ヶ月間資料を調べると、その足で急ぎ帰国していったのだった。
それから再び、帝国の要人の前に現れた時には、今度は英国情報部と言う新設の組織の長としてだった。
正確には英国王室情報部であり、位置づけは総研と同じである。
即ち、英国王室の私的機関であり、政府に対しては建策機能を持っている。
どうやら、マッキンレーはかなり有能な人物であるようで、帝国にいる間に、「のと」資料だけではなく、総研の仕組みも理解して帰ったようであった。
あれだけ口数が少なくて、どうやって英国首脳陣を納得させたのか、不思議に思えるが、とにかくそこまでやり遂げる才能は持っている。
それだけに、独逸の戦後を考えた場合、押さえるべき人物に対する見解は適切だった。
レーター提督が、ヒトラーを含めたナチス幹部と中が良いわけでないのは、「のと」資料でも記載されている。
フリッチェ上級大将は、スキャンダルをでっち上げられ、先ごろ罷免された国防軍№.2の陸軍総司令官である。
両人とも軍内での人望は高く、それ故フリッチェ上級大将は首になっている。レーダーが生き残っているのは、海軍の勢力が弱小であり、また海軍内を見た場合、他の首脳陣も似たようなレベルでナチスを嫌っていたからである。

216shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:57:05
「うむ、独逸の戦後を見越した場合だが。」
ケインズが、マッキンレーを睨みつけながら話し始めた。
「人に関しては、マッキンレーの言うとおりだろう。私はそれよりも、戦後の復興策を上手くやる必要を訴えたい。」
流石に経済の専門家だけはある言い方だった。
まあ、逆に言えば、やはりそこかと言う気もしないでもない。
「少なくとも、ナチの政権下よりも悪化させては見も蓋も無い。直ぐに第二、第三のヒトラーが現れるぞ。まあ、今度はわが国の政府も賠償金をどうこうなどという馬鹿なことはするまいが。」
「しかし、英国もそうですが、わが国も戦闘となれば、それ相応の出費が必要となります。勿論、計画では短期決戦にて費用を最低限に抑えようとはしていますが、現実にはどう転ぶか判りません。」
「最悪の場合も考える必要は、あるな。」
堀がそう答えると、山本が付け加える。
本当に、この二人はピッタリと息があっていた。

「そりゃ、判る。戦費の回収は政権にとっての死活問題であるからな。まあ、それも両国政府には暫く我慢してもらって、回収は五年後位からとして予算を組んで貰うしかないだろう。」
ケインズが楽観的に言い放つ。
そうは言っても、国家予算を食いつぶす戦費であるだけに、誰も軽くは扱えず、沈黙が広がる。
「何、そんなに悲観する事はないだろう。上手く投資を行えば英独日の経済圏での経済成長は加速するぞ。そうすれば、負債なんて何とでもなる。
クラーク君、彼らにアレを見せてやれ。」
「ハア、」
どこかに意識が飛んでいるのか、クラークは生返事で、ポケットから紙を取り出す。
「ええっと、合成ゴム、冷鋼圧延処理、赤外線、光学ガラス、電子顕微鏡、電気回路遮断器、極性を持ったリレー、風洞、アセチレンガス、エックス線管、セラミック、染料、テープレコーダー、ディーゼル・エンジン、殺虫剤、カラーフィルム加工、バター製造機、まだありますが、続けますか。」
もう良いとケインズが首を振る。
「少なくとも、独逸では、これらの新規技術が開発中だ。これらに適切な投資と技術援助を行う事で、莫大な富を生み出す。それさえ間違えなければ、負債の回収なんか、簡単なものだろう。」
「のと」資料では、戦後、米国はペーパークリップ作戦と銘打って、これらの技術を殆ど強奪して行く。
この結果、あちらの世界では米国の戦後の繁栄が始まると言っても良かった。
それを、独逸の技術と認めて、日英が支援すれば、新たな経済拡大が待ち受けている筈である。
しかも、こちらには「のと」資料まであり、彼らに適切な助言を行う方策はどのようにでも取れる。
また、同時に共同特許と言う形も形成出来る。

217shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:59:59
「はあ、それはおっしゃる通りだと思いますが、その場合の問題は、どこがそれをするかなんですよね。」
高畑が口を挟んだ。
「うん、そりゃ、君とこだろう。日商の看板は伊達ではあるまい。世界に冠たる総合商社なんだから、それ位当然だろ。」
ケインズが不思議そうな顔で高畑を見つめる。
「のと」資料の使い方から、実際の技術指導、共同会社の設立まで、帝国内で散々行ってきた日商ならば、ノウハウも蓄積されており、そんなに難しい事では無い筈だった。
「いや、確かに、私の会社ならば、やれと言われれば幾らでも出来ます。しかし、一応、私企業ですよ。英国側はそれで良いんですか?」
高畑が慌てて反論する。
「今更、何を言っているんだね君は。ロスチャイルド家のネイサンが二ヶ月もスイスで君を拘束した理由もわかっとらんのか。」
ケインズが呆れたように、高畑の顔を見つめる。
「えっ、いや、そ、それは・・・」
一体、どこからそんな情報が漏れたのかと高畑は蒼くなる。
ちらっとマッキンレーを見ると、普段から無表情の顔であるが、確かに目が笑っていた。

「何かあったのか?」
井上が怪訝そうに、高畑を問いただす。
「いや、まあ、帰ったら相談しようと思ってたんですが。ロスチャイルド家からは、日商に対する資本参加の申し込みがありました。」
「どの程度?」
「全株式の30%です・・・」
ヒュウッと、山本が口を窄める。
それはそうである。
日商は、現在世界最大の総合商社である。
その実態は、非常に上手く隠されているから、殆どの者には判らないが、総資産は天文学的な数字となっていた。
関連会社は数知れず、ブリテッシュオイルカンパニー、ロールスロイス、ロイズ保険会社等の英国系大企業との合弁会社等も多数立ち上げており、その影響力は米国国内にも及んでいる。
高畑に言わせれば、「のと」情報等と言う卑怯なものを使う以上、これ位は誰でも出来ると言う事になるが、やはり彼の手腕が無ければここまでには至らないであろう。
毎年二回、高畑から、日商の経営報告的なものが、総研内部で行われるが、その度に、メンバー全員が唖然とせざる得ない世界が広がっていた。

218shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:02:36
「井上・・・、金があるって、素晴らしいな・・・」
実際、梅津が漏らしたこの言葉が的確に、全員の意識を示していた。
とにかく、日商が運営している現金類だけで、帝国の拡大し続けている国家予算を上回っているのである。
梅津らにすれば、それだけでも十分過ぎる程だった。
巧妙に分散され、隠されている各地の資源地帯の土地所有権等の資産を含めると、その金額は最早理解できるものではない。

そして、日商の恐ろしいのは、その株主だった。
資本金100万円にて立ち上げられた日商だが、1929年に総研経由の出資で、資本金は500万円に引き上げられていた。
そして、新たな株式が発行され、全発行済み株式の8割が、総研所有とされた。
言わば、日商は総研の経済上の看板なのである。
しかも、それの意味する所は、皇室所有の総合商社と言う前代未聞の会社だった。
昨年、「のと」情報が英国側に開示された時点で、総研所有の株式の25%、発行済み株式の2割に当たる株式が、英国王室に譲渡されている。
勿論、代価は払ってもらっているが、それは破格ともいえる格安のものだった。
お蔭で、現在の日商の株主は、皇室6割、英国王室3割、民間1割と言う構成になっている。
ちなみに、英国王室の残り一割は、高畑ら民間から別途買い上げている。

そして、この日商に対して、ロスチャイルド家が、資本参加を申し込んできた訳であるから、高畑も即答できるものではなく、帰国して相談する積りでいた訳である。

219shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:05:00
「ロスチャイルド家は、欧州大富豪、言わば欧州経済界の代表としてそれを申し入れているんだ。
それ位、高畑君も理解していよう。」
ケインズが続ける。
「ええっ、それは理解していましたが、しかし良いんですか、日商で。」
高畑にすれば、英国王室の資本参加はあっても、日商は帝国の企業だと言う意識はある。
最も、現在の社員は日本人でない者の方が遥かに多い、多国籍企業となってはいるが。
しかも、欧州と言う先進国家群が、帝国と言う後発国家から派生した企業を、その代表と認めるなんてありえる話とは思えないのだった。

「いまさら、日商のまねをしても始まらん。それに、間に合うものでもない。」
ケインズがにがにがしく言う。
「私個人としては、得体のしれんアジア人の作った会社なんてと言う意識に同調したいのが本音だが、君達がやってきた、十年のアドバンテージをひっくり返そうとするならば、
中に入って、内側から食い破るしかないだろうな。」
「はあ、そう言うもんですか。」
そこまで、あからさまに言われると、逆にいやみに聞こえないから不思議である。
油断すれば、何時でも取って代わってやると正面から言われるている訳であるから、腹も立たない。
少なくとも、外から訳の判らない謀略や暴力的な手段で対応されるよりは遥かにましだろう。
「とにかく、ここ五年間近く、戦争準備と言う形で、独逸経済はかさ上げされている。確かに、戦争でもしない事には、この景気は崩壊し、独逸は再び長い不況に陥るのは目に見えている。」
ケインズが、如何にも経済学者らしく話を続ける。
「それを、素早く侵攻し、更に経済を発展させる事により、我々の側に立たさなければならない訳だ。」
「追加投資と、新たな戦争目的の提示ですね。」
井上の口から漏れた言葉に、皆が驚く。
「新たな戦争目的と言うのは良く判るが、井上の口から追加投資と言う言葉が出てくるとは。
時代が変わったな。」
山本が呆れた顔で、言った。
「そう言う山本さんも、その言葉の意味が判っているじゃないですか。我々は最早軍人ではないんですよ。」

220shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:07:33
「そこ!ごちゃごちゃ言っとらんで、人の話をちゃんと聞きたまえ。これだから、軍人は始末に終えん!」
ケインズが釘を刺して、話を続ける。
「今回の独逸侵攻は、君達軍人には単なる軍事行動にしか過ぎんと思っているだろうが、実際はその後の我々経済人の活動が重要なんだよ。」
更に、嫌味を言うのを忘れないのが、如何にも英国人だった。
「侵攻直前までに、英国に、帝国の生産管理の専門家も含めた技術者集団、ナチス独逸の迫害から逃れてきた科学者を中心とする研究者集団を待機させる。」
「戦闘終了と共に、彼らは予め決められた拠点に駆けつけ、工場ならば、新たな生産計画の立ち上げ、研究施設ならば、研究の現状の確認と、新たな方向性の提示を行う。
特に、兵器生産に関しては、現状の独逸兵器の生産の継続と、新しい設計に基づいた生産、また生産施設の改装も行わなければいけない以上、大変なものとなる。」
「日商は、平行してシーメンズ、マン、クルップ社等の独逸企業に対する新たな融資、資本参加等の交渉を行う。この辺りは、ロスチャイルド家とも話を通してあるので、交渉がまとまる事を前提に、現場を先行させねばなるまい。」
「サイズの問題もあるぞ、インチ・ヤードではなく、メートルなんだからな。その辺りも上手くやらないと、偉い事となる。」
ここで、ふとケインズは話を止めた。
「そう言えば、八木とも話したのだが、高畑君が行った、亡命科学者達の確保は見事だな。あれにはほとほと感心させられたよ。」
「はあ、ありがとうございます。」
ケインズの話し方が教授の講義に近いせいだが、何だか、本当に学生の頃に戻ったような気がする。

221shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:09:56
核兵器の開発に関して、「のと」資料を分析していて気がつくのは、その科学者達の出身地である。
純粋に米国生まれの学者もいない訳ではないが、アインシュタインを初め、多くの学者は欧州から渡ってきているのである。
それも、30年代に入ってきてから顕著となっている。
勿論、帝国も国家として情報部を通じて、これらの学者に接触を図り、可能ならば帝国に来て貰う為、色々努力もし、成果も上がっていた。
しかし、彼らからすれば、辺境のアジアに移動するのは躊躇いが大きい。
この事に、早期から気が付いていた八木は高畑に相談を持ちかけ、総研として他の対策を講じたのである。
31年に、英国王室に話を通し、新たに皇室から信託財産が英国王室に預けられた。
エジンバラ郊外にある王室領の一部が敷地として用意され、そこに王室理化学研究所が設立されている。
一応、英国王室が、亡命科学者達に、生活と研究の場を提供すると言う建前で、多くの科学者達がそこに留まっているのである。
ケインズ自身も王室理化学研究所の設立は知っていたが、それが高畑らの画策である事は全く気が付いていなかったのだった。


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