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優しい衛兵と冷たい王女のようです 番外編 『暁の綾蝶』
1
:
名も無きAAのようです
:2015/07/20(月) 13:06:18 ID:VABT4D4M0
2板より出張してきました。
番外編投下します。
2
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:09:40 ID:VABT4D4M0
血は鉄の味がするというのは妙な話だ、とクーは思った。
血液は体内を循環することでその生命を持続させる。無くなれば生物は死ぬ。あるいは
死んだら無くなってしまう。
生命と極めて強固に結びついているその液体が、口に含めると無機物の味わいになると
は、いったいどういう理屈なのだろう。
そもそも鉄を口に含む機械だってあまりないというのに。
クーは血を浴びている。
目の前で人が倒れた。顔の中央から血が吹き出している。
宙に弧を描くほどの勢いはすでに無く、口元や喉、肩や胸に真っ赤な襦袢をじわじわと
広げている。
見知った人物だ。
「ドクオ」
自分の声のか細さに、クーは驚いた。震えてしまっている。喉の襞が痙攣を起こし、徐
々に熱を帯びつつある。
泣こうとしている。そんな反応を、クーはほとんど経験したことがなかった。感情を表
に出すことへの抵抗が常にあったのだ。
クーは他人が怖かった。何をされるかわからないことをおそれたために、どんな出来事
に対しても冷静に対処することを信条とした。
そうして過ごしているうちに、顔の筋肉が堅くなった。咄嗟の出来事にもほとんど驚か
なくなり、状況を見渡せる目を獲得していた。
感情の作り方をすっかり忘れてしまったとばかり思っていた。
だけれども、クーは今泣いている。
倒れているのがドクオだからだろうか。確かに彼とは、ほかの人よりは話していた。
親しかった、といっても過言ではないだろう。
3
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:11:09 ID:VABT4D4M0
「ドクオ!」
考え事の最中で、口から言葉が飛び出した。
叫ぶつもりなどなかった。頭の中と身体が上手く連携できていないようだ。
気がついたら彼に駆け寄っていた。鉄のにおいが鼻を突く。膝を突いて彼を抱えれば、
服の裾が血で滲んだ。
ドクオの鼻は無くなっていた。削ぎ落とされたのだ。一際真っ赤なその傷跡に、不格好
な二つの穴が開いている。
呼びかけても、ドクオは反応してくれない。身体を揺らし、肩を叩き、顔を撫でても、
青白い細面がぴくりとも動かない。
彼はひたすら昏倒していた。
うなり声がした。
振り向けば、大柄な身体。人の身体によく似ていたが、四つん這いになっている。その
口は大きく裂けており、頭の上には一対の尖った耳がある。
4
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:12:10 ID:VABT4D4M0
彼らは魔人と呼ばれている。
人と同程度の頭脳を持ちながら、身体に獣の部位を宿した種族。頭に耳を生やすだけの
者もいれば、身体を自在に獣へと変貌させる者もいる。
300年に突然現れた彼らの出自には戒厳令がしかれており、いまをもってなお公には明
かされていない。
魔人は自分の前足に鼻を寄せてにおいをかいでいる。
爪の先が赤くなっている。先ほどドクオを襲った爪だ。
この魔人が飢えていたことをクーはよく知っていた。
村の羊が襲われる事件は数年前から話題になっており、ここ最近は特にその頻度が増え
ていた。
餌にありつけない魔人が森の中に潜んでいると、村の誰もが推測していた。
しかしその魔人をクーが介抱していたことについては、誰にも気づかれていなかった。
「君」
クーが呼びかけると、魔人はにおいを嗅ぐのをやめてクーと向き合った。白く濁りがち
な瞳を見据えながらクーは言う。
「彼を運ぶのを手伝ってくれ」
5
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:13:12 ID:VABT4D4M0
反発するようであれば刺し殺そう、と考えていた。
怒りがあった。それを怒りだと気づくまでに、鈍った内面では時間がかかりすぎてしま
ったが。
魔人は低く唸ると、ドクオのそばに近づいた。
長い爪がドクオに食い込みやしないかと、クーははらはらしながら見ていたが、杞憂だ
った。
魔人は意外なほどに繊細にドクオの背中を支えて立ち上がった。
内側の怒りがあっけなく鎮まるのをクーは感じた。
ドクオに申し訳ないとは思いつつも、仕方がなかった。クーの心は、自然や魔人と親し
む方に傾いていた。
昔から傾き続けている価値観は簡単には揺るがない。
丈の長い薬草で鼻の傷口を縛り付けたのち、村の外れの診療所を訪ねた。
力強く入り口を叩き、ドアが開くと察すると、すぐに植え込みへと隠れた。
眠そうに挨拶をした医者の、驚きの悲鳴が通りにこだまするのを聞いて、クーと魔人は
その場を後にした。
親友を傷つけてしまった自分に、もう戻る場所などない。
時は早朝。血のにおいにももう慣れた。道行くクーの傍らを、一頭の赤い蝶がひらりと
舞った。
6
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:14:36 ID:VABT4D4M0
何にも属さないという、軽やかすぎる状態に慣れるまでに、三日とかからなかった。
村人であることも、話し好きだが自分とは反りの合わない家族がいたことも、学び舎に
通っていたことも、遠い過去となって記憶の奥に沈んでしまった。
クーは森の中にいた。
カシやブナの木に見下ろされ、草花に見上げられながら、獣道をひたすら歩いた。遅い
か速いかと問われれば、遅く、それでいてふらふらと。
目指す場所は西北にあるエウロパの森だ。
北と西の隣国にも広がるその森は、かねてより魔人のすみかとして知れ渡っていた。
もっとも、その中を見たことがある者はほとんどいない。その実態は深い木々の奥底に
隠れてしまっている。
さらにいえば、エウロパの森を目指していたわけではなかった。行ったことのない土地
に期待を寄せすぎるほど弱り切ってはいなかった。
一番の目的は人のいる場所、かつて自分の暮らしていた村からできる限り離れることで
あり、森の中で自然に包まれていればその目的はもう達成されていた。
7
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:15:17 ID:VABT4D4M0
クーの歩みは遅々としていた。疲れたら木陰に座り、のどが渇いたら川の水を飲み、お
なかがすいたら果実を囓った。
それでも満たされなければ、魔人に頼んで野生の動物を仕留めてもらった。
弱っているとはいえ、彼には大きな鋭い爪があり、クーよりも遙かに狩猟の腕に長けて
いたし、人の身体も知っているためか肉の下処理にも慣れていた。
クーが休んでいるさなか、森の中をさんざん走って、ウサギやシカ、イノシシなどを捕
まえてきてくれた。
そのような場合はクーだって奮発し、川の水や山菜をふんだんに使って水炊きを作って
あげた。
とはいえ、狩りが常に好調とは限らない。時間がたつにつれて空振りも多くなった。
大量の血液や体液を浴びている上に、歩みも遅いものだから、野生の動物たちに恐れら
れる格好の的になっていた。
飢えは確実にクーと魔人の身体を蝕んだ。
動ける距離が短くなった。木々の隙間から見える池まで歩こうと決めていたのに半ばで
あきらめることもあった。
足がだんだん持ち上がらなくなり、息も続きにくくなった。
休みも増えていく。魔人はまだ体力があるため、餌をとってきてくれるが、それを満足
に食べる体力すら衰えつつあった。
肉だけでは足りなかった。果実で潤しても限界があった。クーの胃は穀物を欲した。米
でも麦でも粟でも稗でもかまわないから、腹を満たすものを食べたい。
クーの願いが実行に移されることはなかった。穀物は農業が育てるものであり、つまり
は社会の産物である。社会から隔絶された人間にそれを得る資格はない。
一度食べてしまえば二度とその味わいを忘れることはできないというのに。
8
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:16:09 ID:VABT4D4M0
「静かに」
魔人が鋭く口にした。
クーたちは、小さな湖畔に腰掛けようとしたところだった。
丈の長い水仙の花の陰に魔人が隠れ、クーもそれに倣って身を伏せた。
話し声がする。馬の足音もだ。はじめにかすかに聞こえていた音が、次第に大きくなっ
てくる。
やがてブナの隙間から姿が見えた。二頭の大きな馬と二人の手綱引き、そして大きな
籠。馬はおそらく魔人だろう。
籠の中には、人が十数名入っている。いくつかの頭からは獣の耳が生えていた。
「あれはいったいなんだ」
魔人が低い声で訊いてくる。
クーは言いよどんだ。が、魔人がまっすぐな視線で答えを要求してくるものだから、観
念して息を吐いた。
「三角貿易だよ」
9
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:18:14 ID:VABT4D4M0
クーは手近にあった木の枝を拾うと、足下の地面に大きめの三角形を描いた。
西の端を指しながら「テーベ」と言い、北の端を指しながら「マルティア」と添える。
そのあとは、学び舎での地政学の授業で習った内容を噛んで含めるように伝えた。
クーたちが今いる場所は、ラスティアの北西であり、西の隣国テーベと北の隣国マルティアに挟まれている。
二つの国は魔人の扱いで両極端だった。すなわち、魔人を使役することを是とするか、否とするか。
否とするテーベ国は工業立身国である。魔人の力に頼らないという国の方針のため、人間たちの作る製品で日常の些事をまかなおうとする技術が発達した。
工業を維持するためには資源が必要となり、それは国内にある山脈からまかなうことができた。
が、工業の発展に伴い資源需要も増しつつあり、今では他国の資源もある程度は確保せざるを得ない状況となっている。
しかし、得た資源を元に作った製品をそのまま輸入元の国に還元することはできない。魔人を使役できる他国では工業製品に価値がないからだ。
そのため、テーベは工業製品を一端中継地で別の製品へと変換する必要があった。
10
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:20:33 ID:VABT4D4M0
ラスティアの北西においては、工芸が鍵となっていた。
中継地はスィオネという街だ。
盆地に広がるこの中核都市は、魔人がくるより遙か昔から、織物、ガラス、鋳型といった工芸品製造業で栄えており、魔人が来てからもその担い手は人間のままだった。
魔人がいかに力強く、実直で、超能力にも似た不思議な力を持っていようとも、工芸職人たちの持つ技術を真似ることはできなかった。
魔人を必要としないスィオネの工芸業が欲したのは絹を作るための生糸や鋳型の原料となる鉄鉱等であり、その生成にはテーベ由来の工業製品が必要だった
。このため、マルティアから送られてくる資源で作られたテーベの工業製品は、その需要を維持できた。
三角貿易を成立させるためには、あとの一辺、スィオネの街とマルティアとの間の貿易関係が必要となる。
ここで中核をなしたのは、ほかならぬ魔人だった。
「テーベの国策で、魔人がよく国外退去を命じられている。住む場所を追われた彼らの多くは隣国のラスティアに流れてくる。
一方マルティアは魔人の活用が盛んな国で、フリーの魔人はいれば居るほど助かる。
そこに目を付けたスィオネの街の商人は魔人たち何人か集めて一括りに氏、労働力に換算して価値を付け、商品として市場に売り出しているんだ」
三角形の残りの一端をつつきながら、クーは説明を終えた。
11
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:21:18 ID:VABT4D4M0
じっと地面を見つめていた魔人が、口を開けてため息をついた。
人型であっても、顔は獣。その口は常人より大きく開く。生ぬるい吐息がクーの肌を覆った。
「奴隷、ということか」
クーは小さく息をのみ、身を強ばらせた。魔人の目に不穏な煌めきのあったのを見逃してはいなかった。
「待って」
クーは木の枝を置いた。
「魔人が人間に使役されるのはどこの国でも同じだ。奴隷に見えるだろうけど、マルティアでの生活が格別悪いとの話も聞かない。
それならば、今更目くじらを立てることもないだろう」
12
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:22:09 ID:VABT4D4M0
「それでも私は、それが気にくわないんだ」
魔人は強めに言い放った。
「私たちは生まれたときから人間に使役されるように言い伝えられている。それは何故なのか、知っている人はほとんどいない。
少なくとも私が生まれた集落では一人としてまともに答えてくれる大人は居なかった。
どうしてそんなルールがある。いったい誰が決めたんだ。どうして俺たちは、人間の言うことに逆らえないんだ」
問いかけはクーに向けられたというよりも、独り言に近かった。たまりにたまった感情の澱が口汚い言葉となって宙に浮く。
クーは魔人の横顔を見つめていた。
目線は合わない。彼は遠くを向いてしまっている。
先ほどの商人たちが歩き、過ぎ去ってしまった方向へ。
13
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:23:10 ID:VABT4D4M0
その魔人に名前は無かった。
生まれ落ちたときから集落を離れ、一人で生きてきたらしい。
耳の形や大きな口、尖った牙は狼によく似ていた。そのために、クーは彼のことをオオカミと呼ぶことにした。
出会ったのは、村の外れにあった崖の下だ。オオカミの足は真っ赤に染まっていた。
猟師に見つかって散弾銃を撃ち込まれ、逃げているうちに崖から転落した。
それが、彼が後に話してくれた経緯だった。
オオカミを見たクーはすぐに彼に駆け寄り、肩を支えて河原まで運んだ。
傷口を濯ぎ、乾いたタオルで拭き、傷口に効く軟膏を塗った。痛みに暴れそうになるオオカミを宥めもした。
「なぜ私を助けた」
歩けるようにまで回復したオオカミに、そう尋ねられた。
何故助けたのか自分でもわからないでいた。傷ついたオオカミを見たときに、ただできるだけのことをしてあげたいと思った。
でもそれだけで理由というのはあまりにさみしい。わざわざ口に出すのも気恥ずかしい。
クーは曖昧に笑い、それきりにした。
14
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:24:10 ID:VABT4D4M0
オオカミの介抱は毎日夜に行われ、次第にかける時間を延ばしていった。
会う時間が宵の時刻から黄昏時へと早くなり、分かれる時間が夜中から夜明けへと遅くなった。学び舎にも通っていないため、家にいる間はほとんど寝て過ごした。
人と関わろうとしなさすぎて、家族にも半ば見捨てられていたクーだから、そんな生活が可能だった。
オオカミはクーによく話してくれた。
自分の境遇のこと、魔人のこと、人間のこと、森のこと、世界のこと。
孤独な身の上であるからか、彼の思考は誰によることもないもので、クーの興味を引きつけた。
あるいは、孤独であるということに共感を抱いていたのかもしれない。
オオカミを介抱することに、クーは熱中した。傷が癒えたら、今度は飢えをしのぐ方法を探すのを手伝った。
手頃な牧場を教えてあげて、羊を襲う手助けをした。最初のうちは少なかったが、オオカミが復調するにつれてその数が増えていった。
15
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:25:09 ID:VABT4D4M0
クーはうれしかった。動くオオカミを見ていると、達成感が湧きあがった。
自分に何かできると気づく。その感情はとても熱く、甘美でさえあった。
そんな折りに、ドクオがオオカミに襲われた。
クーは傷ついたドクオを残し、オオカミと連れだって放浪する道を選んだ。
何も考えていなかった、といえば嘘になる。
怖かったのだ。
ドクオを襲った原因に自分が関係していると、ドクオに知られれば、忌避されるだろう。
ほかの人と同じように、彼が自分を奇異の目で見てくるであろう。そのことがとてつもなく恐ろしかった。
恐ろしいものを見るくらいならば、逃げてしまった方がいい。
16
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:26:12 ID:VABT4D4M0
村を離れてすでに十数キロは歩いた。人里離れた森の中、歩みは遅いが、クーの気分は軽い。
村のことやドクオのことを思い返せば絶対に重くなってしまうから、なるべく思い出さないように心配りしている。
オオカミも優しくしてくれる。
介抱されたことに恩義を感じているのだろうか。言葉は少ないが、魚や獣を捕らえては、処理をしてクーにわけてくれている。
クーもまたそれを静かに受け取り、粛々と食べた。
お腹が膨れるほどの量ではない。食欲はつねに胃の中でもだえている。しかし何かを食べてさえいれば、動くことはできる。
村というコミュニティを離れてみて、そんな単純なことに気づいた。
一人じゃとても気づけなかっただろう。
だからクーは、オオカミと一緒に歩いている時間を満喫していた。
自分はオオカミを支えてあげている。オオカミもまたクーを支えてくれている。
そんな役割分担が確固としてある今は、生きてきた中で一番充足しているとさえ思っていた。
たとえ二人の間に、ほとんど会話がなかったとしても、大した問題とは思わなかった。
17
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:27:09 ID:VABT4D4M0
オオカミは憤っていた。
商品として売られる同胞を見たときからだ。獲物を捕まえるときの動きが乱暴になり、夜寝る前に遠吠えをあげるようにもなった。
彼が落ち着きを無くしているのは明らかだった。
「大丈夫か」
一度だけ訊いた。
それがよくなかった。
オオカミはクーに唸り、睨みつけ、そしてまた押し黙った。
その日の夜はひたすら狩りを続けて帰ってこなかったので、クーは果実だけを食べてすごすはめになった。
オオカミはクーに心を開いているわけではない、とクーは痛感した。
そう感じると、自分が人間であることが悔しかった。
せめて魔人であればもっとオオカミのことがわかったかもしれないのに。
18
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:28:08 ID:VABT4D4M0
クーはオオカミをそっとしておくことにした。
それでいて、生活を支えることはおろそかにしなかった。
食材を調理し、寝床を整え、傷ついたオオカミの身体を洗った。
勘を頼りにマッサージをしてあげたら思いの外上手く言ったらしく、その最中はオオカミだって黙っていてくれた。
言葉などいらないのだ。
余計な心配もしなくていい。
生きている彼が気持ちよく過ごせているのであればそれだけで自分は充足できる。
少なくとも、村にいて一人黙り、何にも気力が湧かなかった頃よりずっといい。
これらのことをクーは自分に言い聞かせた。
一人の夜、獣除けの炎のゆらめきを見つめながら、何度も何度も。
何度でも。
19
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:29:10 ID:VABT4D4M0
叫び声がクーの耳に届いた。
一人、二人、三人以上。聞き取れないほどの折り重なりが、クーに鳥肌を立たせた。
声の方向におおよそのあたりをつけ、焚き火を消して駆けつけた。
時間はかかった。夜の森では月明かりしか頼りにできず、低木や根っこに足を取られもした。
それでも押し進み、空が青じみてくるころに、開けた場所で血のにおいを嗅いだ。
人がたくさん倒れていた。
先日見かけた商人と同じような風体をしている。身体の周りの草原が黒ずんで見えてるのはおそらく血で汚れているからだ。
夜営のためのテントは支えを欠いて不格好にくずおれている。中にはもう誰もいない。
歩き回って確認していたら、足下に気配を感じた。商人の一人が息を吹き返し、微かな呻きを漏らしていた。
「何があった」
明け方の空では相手の顔もよくは判別できない。だから質問するのも厭わなかった。
漏れる吐息に阻まれながら、商人の声はクーに届いた。
20
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:30:10 ID:VABT4D4M0
「オオカミが」
それだけわかれば、想像が正しいことを悟るのには十分だった。
草原を見渡して手がかりを探そうとした。
何でも良いから手がかりが欲しかった。草が折れている場所はないか。血で染まったところはないか。
「オオカミさん」としか呼べないことが、ひどく頼りなく悲しく思えた。
そのとき、獣の声が耳をつんざいた。人間の声とは明らかに違う濁りを帯びた叫びだ。クーは弾けるように森の中を駆けだした。
日はすでに昇った。空の色は群青から青に代わり、木々の色は緑へと回帰しつつある。
世界に色が戻る中、クーは腕を振るって、草木を踏みしめ、よろめきながらもひたすら走り続けた。
もう一度、小さめの叫び声がしたとき、木々の隙間から人影が見えた。
21
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:31:10 ID:VABT4D4M0
「待って!」
躍り出た場所は岩場だった。前のめりに倒れそうになるのをこらえ、諸手をあげて相手を見据えた。
二人いた。一人はオオカミで、岩に背をもたれて座り込んでいる。
もう一人は知らない男。クーと同じくらいの歳の若者で、右手には剣。その切っ先は血を浴びていた。
ひるんだクーは一瞬固まったが、オオカミがうめく声をきき、呪縛が解けたように彼の元へとかけつけた。
「オオカミさん」
胸から脇腹にかけて深い傷がある。流れ続けている血はまだまだ止まりそうに見えない。
オオカミは音を発していた。答えようとしているのだろう。しかしどの音も文字を刻むことはない。
呼吸をするのも辛そうで、震える吐息がクーの耳にかかる。今まで受けてきたどれよりも熱く、弱々しい吐息だった。
22
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:32:09 ID:VABT4D4M0
「お前は誰だ」
知らない男が言う。
「そいつは商人を襲った危険な魔人だ。社会のためにも始末しなければならない」
「社会だと」
クーは男を睨みつけた。
「人間の社会と同じように魔人にも社会がある。干渉なんてするべきじゃない。この魔人が瀕死になる理由なんて、どこにも」
異音がして、言葉は中断された。袋の破けるような音と、打ち水をしたかのような音。魔人が血を吐いていた。
23
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:33:11 ID:VABT4D4M0
「オオカミさん!」
慌てて座り、その顔に手を触れてあげる。今まで感じていた獣のぬくもりが失われつつある。血が足りない、と直観した。
「どうしてこんな目に遭わなくちゃなんだ」
切実な思いの呟きがのどの奥から漏れた。
オオカミが商人を襲った理由は、魔人の奴隷のせいだろう。そんなもの、無視すればよかったのに。
憤ったところで社会は変わらない。魔人が人間に使役されている社会はすでに完成されてしまっており、多くの人がそれに従っている。
疑いの余地がないものを、今更とやかくいうことなどできない。
どうして諦めてくれなかったんだ。
今の生活で満足できなかったのか。餌を捕まえ、果実を啜り、川で洗い流せば、たいていのものごとはうまくいったじゃないか。
24
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:34:37 ID:VABT4D4M0
クーは俯いていた。感情が胸多くから次々と湧き、泡のように弾けていった。
言えないことだ。全部、言ってはならない。言ったって、オオカミは聞いてはくれないだろう。
誰にも届かない言葉など、口に出したら、自分あ傷つくだけだ。忘れた方がいい。忘れろ。忘れてくれ。
今までだってそうやって生きてきたじゃないか。
「危ない!」
見知らぬ男の叫びに、クーは顔を上げた。
右の頬が風を浴びる。
白刃が空気を切り裂き、オオカミの肩を貫いた。
オオカミの口から尋常でない動揺の唸りがあがる。座っていることもできず、クーの袂を離れて横に突っ伏した。
白刃が抜かれ、鮮血が噴き出す。クーの顔にもかかる。服にも、身体にもかかった。
25
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:35:38 ID:VABT4D4M0
「あ」
クーの思考は止まった。
何一つ、文字すら思い浮かばない中、反射的にホルスターからナイフを取り出し、振り向きざまに斬り掛かった。
男の剣がそれを器用に受け止めた。
「今、その魔人はお前に爪を伸ばそうとした」
蠢いている魔人のそばに爪が転がっていた。クーが見ていない間に、男が切り捨てておいたらしい。
「盾にでもしようとしたのだろう。お前はそいつに利用されようとしていた」
「そんなこと、あるものか」
ナイフを持つ手に力がこもった。剣の束をナイフごと押し、顔を相手に近づける。
男は整った顔立ちをしていた。幼さの面影もある。端正の部類に入るだろう。だが今のクーにとって、その顔はすべてが憎むべきものだった。
26
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:36:36 ID:VABT4D4M0
「私はこの魔人を介抱していたんだ。傷を癒やし、飢えをしのぎ、ともに旅をした。親しかったんだ。殺されるはずがない」
「だから、俺が斬ったのは間違いだと言いたいのか? 何を馬鹿な。人が襲われるっていうに、襲われるときまで待ってなどいられるかよ。
もとより商人を大量に殺しているんだ。言い逃れなどできはしない」
ナイフの束から手が離れた。剣によって手の甲がたたかれ、落とされたのだ。
痛みに呻きが漏れる。
、男はクーの前からいなくなり、オオカミの元へと駆け寄った。
やめろ、とクーは口にする。絶え絶えの言葉はぼろぼろに擦り切れていた。
「黙ってろ」
男は止まらなかった。
男は懐から縄を取り出すと、魔人の手をまず括った。不自由さにわめく魔人を無視し、あっという間に足も縛る。
のけぞることしかできなくなった魔人は、最後にその口を曲輪で縛られた。すべては手慣れている者の行いだった。
27
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:37:36 ID:VABT4D4M0
クーを残したまま、男が去っていく。言葉の一つも残さない。もう話しかける意味すら無いというのだろう。
クーは呆然としていた。
呆然としながらも、胸の奥が激しく渦巻いていた。
自分にそんな感情があることを長らく忘れていたらしい。
拾ったナイフを握る手に力が籠もる。
叫んだ。
言葉にならない声となった。
ナイフを正面に、まっすぐ男に向かって駆ける。
男はクーを見ていた。動揺は、さほどしていない。
そのことに失望しながらも、クーは止まることができなかった。
止まったら、自分の全てが否定される。
ナイフと剣が入り交じり、弾け飛ぶのを目の当たりにした。
それが最後の記憶だった。
28
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:38:36 ID:VABT4D4M0
目が覚めたとき、木目調の天井がクーの目に見えた。
窓から陽光が差し込んで瞳を刺激してくる。
「起きた」と、誰かが言った。
「寝てるよ」と、また別の誰か。二人とも幼い声だ。
「さっき起きたよ。僕、見たもん」
「でも今は閉じてるよ。また寝たんだよ」
「起きてるもん」
「寝てるって」
29
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:39:36 ID:VABT4D4M0
やりとりの無邪気さに、クーは思わず笑ってしまった。
とたんに「あっ」と声がかかり、クーに視線が集中する。
五歳ほどの子どもが二人いた。学び舎にいくにはあと一、二年といったところだろう。
くりっとした四つの瞳がクーをとらえて離さなかった。
人嫌いといえども、幼子の無垢な目はさすがに嫌いになれない。
「起きたら兄さんに言わないと」
片方の子がいい、入り口の方へと走り込んでいく。「僕も」ともう一人があとに続いた。
一人残されたクーは、部屋の中を見回した。
30
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:40:37 ID:VABT4D4M0
木造の家屋。かといって古くさくもない。床や壁にもシミや汚れが少ない。
タンスや鏡台、本棚はあったが、そのほかにはなにもない殺風景な部屋だ。
その中で、壁に掛かったいくつもの布や陳列された華美なガラス細工が一際目立っていた。
スィオネは工芸の街。
自分で魔人に教えたことだ。
そう思ったとたんに息が詰まった。
そういえば魔人はどこへ行ったのだろう。というより、どうなった。
焦って身体を持ち上げようとする。が、腕に鋭い痛みが走って断念する。見れば包帯が大量に巻かれていた。
「痛いの?」
また別の声だ。驚いてベッドの周囲をみれば、シートの奥に小さな女の子がいた。歳はさっきの男の子たちよりもう少し幼い。
31
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:41:36 ID:VABT4D4M0
「怪我してるの?」
女の子が近づいてきて、目を広げてじろじろとクーの腕を眺めた。興味津々といった様子だ。
「そうみたいだ」
「誰かにやられちゃったの?」
「そうだな」ふっと、クーの鼻から笑いが漏れる。「やられちゃったみたいだ」
「酷い」
女の子が顔をしかめて言う。
32
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:42:37 ID:VABT4D4M0
「誰にやられたの?」
「知らない男の人」
「悪い人だ」
「そうなの?」
「男の子は女の子に怪我させちゃいけないんだよ」
断言されるものだから、クーは若干たじろいだ。
「そっか、悪い人か」
「そうだよ。絶対、悪い人。今度会ったら怒らなきゃダメだよ」
「怒る」
33
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:43:36 ID:VABT4D4M0
自分の頬が緩むのをクーは感じた。
誰かに面と向かって怒ったのは、むしろあの男と斬り合ったときだけだ。
たぶんこの子の想定するような起こり方はいままで一度もしたことない。それが自分の生き方だった。
「わかった。悪い奴はちゃんと怒らなきゃな」
「ずいぶんな言われようだ」と、そこへ突然入ってくる者がいた。
クーにはさして驚かなかった。
あの状況で自分を助けたのは誰か、予感は十分にあった。
「おはよう、悪人」
クーは痛んでない方の腕を振った。
34
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:44:36 ID:VABT4D4M0
男は眉を吊り上げ鼻を鳴らす。
「もうとっくに昼すぎだ、寝坊助。食事したけりゃ自分で食堂へいきな」
「自分で斬っておいてそんなことを言うのか。酷い奴だな」
「俺じゃない。お前のナイフがお前の腕に刺さったんだよ」
憤然とするクーに対し、男は指をくるくる回して腕を指した。
「でも弾き飛ばしたのは貴様だ」
「襲ってきたのはそっちだ」
「最初に連れを殺そうとしたのは貴様だろ」
「最初というなら商人を殺したところから始めるべきだ」
35
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:45:36 ID:VABT4D4M0
言い返そうとしたところで、またクーの腕に痛みが走った。身を屈め、呻きを漏らす。
「痛み止めを」
男が近づいてこようとする。
クーは声を荒げて「触るな!」と叫んだ。
しん、と部屋の中の音が止む。
「貴様の助けなど借りたくはない」
「かっこつけてる場合かよ」
「格好などつけてない」
「へえ?」
男が眉根をよせて、嫌らしい声を発した。
36
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:46:36 ID:VABT4D4M0
「言っておくがな、お前が寝ているベッドも、着せている服も、塗った薬も巻いた包帯も全部ここのものだ。
お前を運んだのもこの俺だ。助けを借りたくないならば、もう一度腕刺して素っ裸で森で寝てろ」
畳みかける物言いに、クーの言葉は潰される。クーの唇がわなわなと震えた。
「できないなら、大人しくここで休んでろ。助けをたっぷり借りてな」
男の最後の四文字にはたっぷりとした拍子がついていた。
クーの唇の震えが頬のあたりにまで波及していく。
「この悪者め」
それだけ言うのが精一杯だった、苦虫をかみつぶしたようなクーを前に、男は実に満足そうに顔をゆがめていた。
「悪者じゃない、モララーって名前だ。お前は?」
「クー」
穏やかならぬ邂逅から数時間、二人はようやく名乗りあえた。
37
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:47:37 ID:VABT4D4M0
魔人が来て300年、国家間での戦争は一度として起きていない。
しかし、小規模の内紛ならば、指で数えられる程度の数ではあるものの、いくつかの地域で起こっている。
直近の大規模な内紛の舞台はマルティアだ。
民族間の経済格差と生活観の違いが募りに募って発生した小競り合いが長く尾を引き、宗教団体の対立を中心にした秘密裏の暴行沙汰が拡大化されてしまい、国際的にも知れ渡るようになった。
内紛には魔人も投入され、多くの死傷者を生んだといわれている。
生き延びた人々のうちにはラスティアに逃げた一団もあった。
戦争で家を無くした者、家族を亡くした者、身寄りの無い者たちがそろい、ラスティア国は対応に追われた。
国境に位置するスィオネの街も動揺の混乱が起こり、領内に施設を急増して難民の収容を行った。
38
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:48:36 ID:VABT4D4M0
「ここはその戦乱時に建てられた孤児院だ」
モララーの説明はそこでいったん途切れた。
高台から見下ろせる施設は四角く無骨であり、年季を感じさせるひび割れも生じている。
それでも不潔な印象を受けないのは、周りを囲む芝生が青々と茂っており、背後に聳える森の色が深く澄んでいるからだろう。
見窄らしさが、むしろ緑に良く映える。
「スィオネの街が雇い入れた保母さんがほとんどこの施設を切り盛りしていた。母、と俺たちは呼んでいたよ」
「俺たちというと、君もこの施設にいたのか」
「いたよ。全然、意識も何も無い頃だったけどな」
39
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:49:40 ID:VABT4D4M0
おもむろに、モララーは腰を下ろした。目線は施設を外れ、青々とした空のどこかに向いていた。
「俺の本当の母さんはこの施設にきた日の夜に俺を産み、朝が来る前に死んだ。それからは保母が俺の母代わりになった。
今は出かけているけれど、いつもはここの人々のことを本当によく見てくれているんだ」
モララーの声は、帯びたゆるやかな風に運ばれて、クーの耳に静かに届いた。何も言わないでいたら、モララーはまた話を始めた。
「もう十年近く前のことになる。ここにたくさんの魔人が流れてきたのは。
マルティアとの国境付近にあった魔人たちのコミューンから流れてきたらしい。何があったのか、彼らは教えてくれなかった」
風の雰囲気が変わった。湿り気がある。空の端っこに、膨らみ続ける雲の固まりが見えていた。もうじき夏の嵐が来るのだろう。
話は、続いた。
40
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:50:39 ID:VABT4D4M0
「それから数日がたって、今度は北西にあるエウロパの森から魔人の使者がやってきた。魔人のお偉いさんが、孤児の魔人を引き取りに来たんだ。
母さんはこれに反発した。魔人であろうとも、子どもであることに変わりないのだから、匿って育ててやらなきゃならない、そう主張したんだ。
話し合いはもつれにもつれた。魔人の使者はどういうわけか引いてくれなかった。最終的に、力尽くで魔人の子どもを奪っていきやがった。
当時孤児院で働いていたたくさんの大人たちを襲いまくって、死人まで作ってな。事件の後に抗議の連絡もしたのだけど、魔人側からの応答は一切なし。
以来この施設に、魔人が出入りすることは禁止されている。母さんも魔人を嫌っている。会うと、思い出しちまうからだろう。
自分らと違う社会のルールに縛られている人たちを、守ろうとして、果たせなかったことをさ」
モララーの言葉は切られた。続きを発する気配はなく、時間だけが費やされた。クーはとうとう口を開いた。
「魔人には近寄らない方がいいと言いたいのか」
「必要性が無いならば」モララーが頑とした口調で言う。
41
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:51:37 ID:VABT4D4M0
「母さんみたいに、守る場合だけじゃ無い。あいつらを頼る場合も同じだ。
俺たちと違うルールに従っているあいつらと付き合うには、こつがいるんだ。
俺たちよりも力があり、命令も聞いてくれるあいつらに、俺たちはいつだって従ってしまう。
依存していてはだめだ。俺たちには俺たちのルールがあり、規範があり、秩序がある。
それを無視すれば、価値観は揺らぎ、バランスは崩れ、後には怠惰が待っている」
「そんなのは言いがかりだ」
クーの声に力がこもった。見下ろした先、モララーはまだ前を見続けている。
「怠惰になるなど誰が決めた。どうしてお前にそんなことがわかる。私は一緒にいたいからオオカミと一緒にいたんだ。
村を離れ、森で生き延びていたんだ。人を殺したことは確かに悪かっただろう。だけれども、私は彼とともに生きてきたつもりだ」
42
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:52:36 ID:VABT4D4M0
「嘘だ」と、モララー。
「なに?」
「でなきゃ回りが見えていないただの馬鹿だ」
「……何が言いたい」
「お前、森の中で生き延びたと言ったよな。じゃあその間、どうやって食べ物を調達したんだ。
獣でも魚でも、何でもいいから捕まえないと食えないだろ」
クーは言い返そうとしたが、先にモララーの視線が飛んできて、何も言えなくなった。
43
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:53:36 ID:VABT4D4M0
「狼の魔人が捕まえていたんだろう」
モララーが指摘する。
クーは多少言いよどみ、それから伏し目がちに答えた。
「私には、爪も牙も無い。餌をとることなどできない」
「本当にそうか?」
モララーは立ち上がった。クーよりも高い位置から、相貌がのぞいている。クーの息を止めるのに十分な威圧感があった。
「持ち物は勝手に調べされてもらった。危険物でももってもらっちゃこまるからな。
で、その中にナイフを見つけた。お前のナイフだろう、あれだって立派な武器となる。鹿だっていくらでも捕まえられる」
「そのナイフはただの護身用だ。餌を捕まえたり裁いたりすることはできない」
44
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:54:36 ID:VABT4D4M0
「やってみたのかよ」
「……いや。でも」
「言い訳なんか聞いたってしかたない」
モララーがぴしゃりと音のたちそうな物言いをする。
「捕まえる意思なんてなかったんだ。はじめから、長々と旅することだってイメージなんかできちゃいなかった」
「…………」
45
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:55:36 ID:VABT4D4M0
「なあ、クー。お前どうしてムネーメの村を逃げたたんだ」
「逃げてなどいない」
「嘘だ」
「嘘じゃない!」
今度はクーがしゃがみこむ。
「嘘じゃない、私は、逃げてなど」
耳をふさぎ、目を閉じ、息を潜めた。
何も聞きたくなかった。自分に降りかかるあらゆる評価を避けたかった。
46
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:56:36 ID:VABT4D4M0
それでもモララーの声は届いてきた。
「俺はお前を責めたいわけじゃないんだ」
もしもここで、施設に泊まっていることをやり玉にあげられたら、ますます黙っていただろう、とクーは思った。
荷物などとっととまとめてまた森へと入るのだ。今度は生きていけるかわからない。ナイフ一本で生きられる世界ではないだろう。
モララーの言葉が、自分を責めないばかりに、気づいてしまった。
なるべくなら、行きたくない。そう思っている自分が確かにいることに。
「私は……」
気づいてしまったら、思考が止まらなかった。
47
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:57:38 ID:VABT4D4M0
自分が逃げている理由を構築していたものがいくつかあった。
魔人が置かれている環境への哀れみ、傷ついた魔人の保護、村人との対面、ドクオへの反省。それらすべてがはがれ墜ちていく。
誰かに対する気負いを失っていくと、やがて最後にたどり着くのは、ひたすらに自分についてのことだけだ。
誰とも打ち解けず、何も話さず、一人で遠くに佇む自分。
「あんなふうに、生きていたくはなかったんだ」
呟くように、クーは答えた。
風に頬を撫でられて、そこの一筋がひやりとした。
自分が泣いていることに、クーは今頃になって気づいた。
48
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:59:28 ID:VABT4D4M0
モララーが短く息を吐いた。
「感情が昂ぶっているうちは、ナイフだろうと、剣だろうと、何を使っても上手く斬れやしない」
モララーはクーに冷たい視線をぶつけると、そのままそっぽを向いて施設へと草原を下り始めた。
足は止まろうとしない。刻一刻と彼の姿が遠ざかっていく。
クーの視界が滲んだ。
何もできない自分のことを惨めに思うことはこれまでにだって少なからずあった。だけど、これほどまでに胸を打ったのは初めての経験だった。
普段奥底にしまってある感情を引っ張り出して、表にあふれさせるなど、およそ自分らしくないと思っていた。
顔が崩れ、目が潤み、嗚咽が漏れていく。その繰り返しが、今のクーにはとてつも辛かった。
「モララー!」
叫び声が木霊となった。
振り返るモララーのいぶかしげな表情を見て、クーの迷いは消えた。
49
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:00:26 ID:VABT4D4M0
草原を蹴り、駆けだしていく。武器は何も無い。拳だけを握りしめてモララーへと飛びかかる。
とたんに、身をかわされた。クーの拳が宙を泳ぎ、足を払われて転がりこむ。
口の中で草と土の味がした。無機質で、不味くて、しょっぱい。
それらをすべて、否応なく噛み締める。
地面を弾いて身体を浮かせる。辛うじて届いたモララーの足首を無理矢理握りしめた。
「あ」とモララーがこぼす。
思いっきり強く足を引き、モララーの身体を地面にたたき込む。間髪入れずにその上に乗る。暴れるモララーを無理矢理押さえつけた。
肩を握り、足を組んだ。抵抗されて転がり込んで、何度も天地が逆転する。
引き離されそうなときもあった。罵りの言葉も聞こえてきた。それでも、モララーの襟を握りしめる手は離したくなかった。
50
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:02:28 ID:VABT4D4M0
彼の上になったところで強引に動きを止めた。足がほつれて自由となる。時間は無い。間髪入れずにクーは叫んだ。
「私を強くしろ」
叫んだ直後、蹴られると思い、クーは身をこわばらせた。
ところが、予想に反してモララーはおとなしかった。抵抗せずに、クーを見てくれた。
そこには嫌悪も、軽蔑も、何もかもが呆然とした様子に取って代わられていた。
落ち着きを取り戻したクーは、呼吸を整え、もう一度口にした。
「私を強くしてくれ、モララー。私が、自分で生きられるように」
涙はとうに乾いていた。
51
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:03:47 ID:VABT4D4M0
それから、鍛錬の日々が始まった。
クーはモララーから剣の指南を受けた。
剣を握り、構え、攻め、受け流す。
一連の絶え間ない連関を意識する術を得るのに、クーの持ち前のセンスは向いていた。
月日が流れるごとに身体のしなやかさを極めたクーは、そのうちモララーとも張り合えるようになった。
鍛錬の年数分、モララーの方がまだ数段上手ではあったものの、組み手で見事に勝利を収めることも次第に現れつつあった。
やがてモララーはクーを本気で相手取るようになった。
クーの勝率は再びゼロに迫り、剣をはじき飛ばされる回数も増えた。
しかしその強烈なカウンターは、モララーにも余裕が無くなっていることの証左でもあった。
クーはめげなかった。およそくよくよするという感情と無縁だった彼女は、鬼気迫る表情でモララーに剣を振るい続けた。
52
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:04:28 ID:VABT4D4M0
クーは孤児院で、他の子どもたちとともに過ごした。
保母さんとモララーを含めた数名のスタッフで維持されていた孤児院で、クーは匿われる側であり、同時に子どもたちをあやすお手伝いにもなっていた。
遊技場に入ると駆け寄ってくる子どもたちに付き合うことは、鍛錬が終わったばかりの身体には応えたが、気を晴らすのにちょうどよかった。
「姉」と、いつの間にか子どもたちがクーのことを呼ぶようになっていた。
モララーは「兄」で、だからクーとモララーは兄弟。鍛錬場でやっているのは兄姉喧嘩、そう思われているらしかった。
「お姉ちゃん、次は勝てそう?」
よく話してくれたのは、孤児院に来たばかりの頃に病室にいた女の子だった。
ボリュームたっぷりに膨らんだ髪型をした、浅黒い肌の女の子で、自分の指をよく舐める癖があった。
引っ込み思案で、なかなか他の子どもとも話していないようであり、その姿がどことなく自分を思わせて、クーは積極的にその子と会話してあげていた。
53
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:05:13 ID:VABT4D4M0
「頑張るよ」
クーは微笑んでそう答えた。
すると、女の子がやけに顔を明るくさせる。
「最近、お姉ちゃんよく笑うようになった」
え、とクーは思わず返す。
「そう?」
女の子はこくりと頷く。
「笑った方がいい顔だよ」
まるで口説かれているみたいだ、クーは思わず、小さく噴き出してしまった。
このままではばつがわるいから、きょとんとする女の子の頭を撫でてあげる。
54
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:05:56 ID:VABT4D4M0
穏やかな時間だった。
こんな平穏を味わうのはいつぶりだろう。
感傷に浸っていたクーに、唐突に女の子が声かけた。
「お兄ちゃんも笑えば良いのにね」
「モララー?」と、クーは首をかしげる。「あいつはいつも笑っているじゃ無いか」
比喩でも誇張でもなく、モララーは常に笑っていた。
朗らかなときもあれば、嘲りのときもある。締まりがないとも言えるほど、口元が常に緩んでいた。
そんな印象を持っている者だから、女の子が何を指摘しているのかいまいちぴんと来なかった。
55
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:06:39 ID:VABT4D4M0
女の子は首を横に振る。
「笑ってるけど、あれは違うの」
詳しい説明を待っていたが、女の子は何も言ってくれなかった。
女の子自身、なんと言って良いのかわからないみたいだった。
結局そのまま、食事に呼ばれ、クーから離れた。
「笑ってないのか」
一人残されたクーは、笑いの消えたモララーの顔を思い浮かべようとしたが、どうしても上手くいかないでいた。
56
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:07:25 ID:VABT4D4M0
冬が過ぎ、草花が生い茂り、二度目の夏が盛りとなった頃、クーはモララーの剣をたたき落とすことにとうとう成功した。
それとほぼ時を同じくして、ラスティア城からの使者がスィオネの街を訪れた。
尋ね人は、モララーだ。
「街の治安維持に関する貴兄の活躍は我が国の衛兵士官方々も聞き及んでいる。
たびかさなる殊勲を評価し、また今後益々の活躍を期待するにつけ、貴兄を衛兵見習いとして招待する」
鍛錬の時は終わりを迎えようとしていた。
モララーは祝われた。衛兵見習いとなることは、遠出であり、また王様のお膝元につけるという意味でめでたいこととされていた。
孤児院とその関係者たち総出での宴会が連日のように催された。
とはいえ、もとより懐に余裕の無い人々の集まり。ちり紙で作った花を巻き、手料理を振る舞えばそれは立派な宴会だった。
彼らはみな、楽しむことに飢えていたようだった。
57
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:08:13 ID:VABT4D4M0
「行ってしまうのか」
答えが分かりきっていても、クーは訊いた。
鍛錬が十分だとはまったく思っていなかった。
それに、モララーとの組み手があるからこそ孤児院に住み着いていた。彼がいなくなるとなれば、また根無し草とならなくてはならない。
子どもたちや、モララーの母は、クーに優しい言葉を投げかけてくれた。
表情の乏しい彼女の心情を慮り、残っていてもいいんだよ、と言ってくれさえもした。
ありがたく思いながらも、クーは首を横に振った。
悲しいことは悲しいのだ。
だけれども、自分で生きていくことを決めた身として、いつまでも人を頼り続けるわけにはいかなかった。
それでも迷いの残滓はまだクーの胸中に燻っている。だから、モララーへの問いかけとなった。
58
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:09:02 ID:VABT4D4M0
「何なら俺と一緒に城下町に来いよ。そしたらまた鍛錬できる」
その言葉をモララーから聞いたとき、嫌とは明確に言い切れなかった。思わず顔がほころびそうになり、慌てて止めた。
モララーは笑っていた。
口元に締まりの無いモララーが何を思っているのか、さっぱりわからなかったし、わかろうとしたところで自分が恥をかくだけだと思えて、そっと答えを保留にした。
モララーに話されて以来、城下町に行く自分を何度か想像した。
夢にまで出てきたこともあった。
「参ったものだ」
布団を跳ね上げて、呟き、頭を掻きむしる。邪魔だとわかりつつ意地でも切らなかった艶やかな黒髪が汗ばんだ指に絡みついた。
モララーほどではないにしろ、剣の技術が並以上であるという自覚はあった。
もしも自分が城下町で暮らしたら、そこで道場か何か、この技術を駆使して生きていけるのではないか。
そうすれば週に一度くらいモララーとあって稽古をつけることもできるのでは。
59
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:09:56 ID:VABT4D4M0
「何を考えているんだ、私は」
と、布団に潜りながらぼやいた。
自立すると決めたばかりの心の中に、モララーを潜ませる余地などどこにもないのに。
それに、自分は何か大切なことを忘れている。
そんな一抹の不安が胸によぎることもまた事実。
その不安が現実化したのは、モララーの門出の前日だ。
街の警備隊からの速報が入った。
スィオネの街の牢獄から脱走した者がいたとの知らせである。
60
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:10:39 ID:VABT4D4M0
「オオカミさんが?」
警備隊からの知らせを聞き、驚き呟いたクーは、このときモララーと鍛錬をしていた。
一年前にクーと旅をしていたあのオオカミの魔人は、他の数名の魔人とともに六国から忽然と姿を消していたという。
「モララーさん、あんたも危ないですよ」
警備隊が口添えをする。
「あの魔人はあんたが捕まえた魔人だ。一年間牢獄の中で暮らしていた、恨みは募るほどあるだろうよ。
それに、他の魔人の脱獄まで支援している。どいつもこいつもあんたの手柄になった連中だ。裏を返せばみんなあんたを恨んでいる。
明日は旅立ちだろうに。我々が匿うから、これから隊庁舎の方へ来てもらえないだろうか」
「そんなことをすれば、魔人は街の人を襲うだろうよ」
鍛錬用の木刀を脇に差し、モララーは警備隊に向き合った。
61
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:11:35 ID:VABT4D4M0
「狙いがついているのならばむしろ好都合だ。俺を街道の中央にたたせろ。そうすればあいつらみんな見えやすいところに集まってくれる」
警備隊はあんぐりと口を開いた。
「どうしてそんな無茶をするんだ。おとなしく逃げておけば無用な怪我をしなくてすむんだぞ」
「別にいいんだよ、怪我ぐらい。あんたら警備隊が支援してくれれば、最悪深手を負うことはあっても、よもや死ぬことはあるまいさ。
それに、こういうときのために今まで鍛えていたんだぜ? ここで逃げるなんて、それこそありえねえよ」
口を釣り上げ笑うモララーの、澄んだ瞳を、クーは黙って見つめていた。
警備隊が渋々といった表情のまま帰っていった。
62
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:12:22 ID:VABT4D4M0
閑散とした鍛錬場で、クーは静かに口を動かした。
「お前、昔孤児院に魔人がきたときのことを思い出しているな」
クーの鋭い指摘の声が、鍛錬場の出口へ向かうモララーの動きをはたと止めた。
「魔人が貴様を恨んでいるのと同じように、貴様も魔人を恨んでいるんだ。そうだろう」
モララーは振り向きもせずにけらっと笑った。
「それが、どうだっていうんだ」
クーは顔をしかめる。彼の笑い方が、このときばかりは到底信頼できるものと思えなかった。
63
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:13:12 ID:VABT4D4M0
「感情で剣を振るな、そう言ったのは貴様だったろう。憂さ晴らしに魔人を殺せば倒せるものも倒せなくなる」
「随分と殊勝なことを言うようになったもんだ。だが、いずれにしろ街の人は守らねばならないだろう。いったいどうすればいい」
「私が助ける」
「正気かよ」
モララーはようやくクーを振り向き、大袈裟なほどに肩をすくめた。
「お前こそ何言ってるんだ。逃げたのはお前と一緒に旅をしていた魔人だぜ。そんな奴を対峙すれば、お前だってまともに剣なんか振れないだろうよ」
「しかし私は、お前を放ってなどいられない」
「知らねえよ」
モララーの声には明らかに苛立ちが混じっていた。
64
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:14:02 ID:VABT4D4M0
「お前は来るな。足手纏いになるくらいなら、ここでおとなしく待っていろ」
クーは黙って聞いていた。剣は携えていたものの、その切っ先は決して持ち上げず、脇に携えたままだ。
モララーのことを睨む。目を泳がせているモララーの頬に、汗が流れ落ちるのまでよく見えた。
「貴様、街道で待ち伏せする気などないのだろう。前からも後ろからも襲われうる場所など、不向きだ」
クーは一歩前に出る。
「警備隊にまで嘘をついて、そんなことをしてまで、自分の姿を他の人に見られたくないのか。そ
の普段通りのふざけた笑みをかき消して、感情に――怒りや恨みに身を任せ、剣を振るう醜悪な自分を」
65
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:14:51 ID:VABT4D4M0
「クー!」
モララーの叫び声がすぐそばで聞こえた。モララーはもう目と鼻の先にいた。
彼の顔からは、いかなる笑いも見いだせ得なかった。
クーにしてみれば初めて見る彼の表情であり、またその笑みの奥底に潜んでいることを予感していた寂寞だった。
「お前は来るな」
クーは睨むことを止めなかった。もう一歩モララーに詰め寄り、その腕を掴もうとした。
と、そこへモララーが口を開く。
66
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:15:33 ID:VABT4D4M0
「お前だけは、来ないでくれ」
「なっ!」
クーの腕は袖をかすめた。驚いているうちに、モララーが遠ざかった。
彼はすぐに出口へと駆けていった。
クーは無意識のうちに目を見開き、頬に手を当てていた。
「なんてことを言うんだ、貴様は」
その場に立ち尽くしたクーの頭の中を、モララーの一言がぐるぐると回っていた。
67
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:16:22 ID:VABT4D4M0
モララーは逃げ続けた。警備隊から、クーから、自分の知り合いから、すべての目をかいくぐり、夕方過ぎにようやく街道へと躍り出た。
そこから歩いて、街の北の出口に向かう。もうすでに人通りは少なく、黄昏時を過ぎていることもあって視界も不鮮明だ。
魔人はおおむね夜の視力に自信がある。もしも自分を襲うならば、夜だろう、とモララーは踏んでいた。
街道は明るいので襲撃を予測しやすい。しかし、クーが指摘したように、待ち伏せには不向きだ。
モララーは別の選択肢として、出入り口付近の広場を目指した。
昼間こそ栄えるその一角は、住居が少ないので人もあまり通らない。魔人からしてみれば、塀を乗り越えてすぐのところにある。
怒りに駆られているのであれば、その軌道を読むことはたやすいと思われた。
モララーは魔人を一人で迎え撃つ気になっていた。
無謀な挑戦をするのではない。警備隊から漏れ聞こえた話によれば、逃げた魔人は狼の魔人を含めて三人ほど。
それだけの人数なら、動きさえ読めれば、あとは剣を振るだけで仕留められるだろう。
塀を越えてくることさえわかっていれば、薄曇りでぼんやりとしか届かない月明かりの元でさえ、十二分に対処できる。
68
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:17:13 ID:VABT4D4M0
モララーは自分を鼓舞し、剣の柄を握りしめた。ルビーの宝石を埋め込んだ、マルティアにあるという実の家宝の剣だ。
自分の故郷がマルティアにあるという話は母から聞かされた。自分の本当の母親が孤児院で亡くなった話も同時に聞かされた。
モララーは泣いたりしなかった。彼にとって、物心つく前に亡くなった母は知らない人であり、本当の母は孤児院の保母さんでしかなかったからだ。
この感想を率直に母に話したら、彼女は目を抑えて泣き崩れた。
幼かったモララーは、狼狽えながら、もう二度とこの話を母に振るのは予想と心に誓った。
モララーにとっての居場所はスィオネの街の孤児院であり、故郷と呼べる場所はそこ以外にありえず、母と言えばそこで働く保母さん以外にいなかった。
その母が泣くところを、モララーはもう一度だけ見たとがある。孤児院が魔人に襲撃されたときのことだ。
孤児院にいた魔人たちが全員エウロパの森へと連行され、孤児院は一気にがらんどうとなった。
広すぎる遊戯場の中央に立ち尽くしていた母は、上を見上げていた。
「上手くいかないものだね」
言葉尻が震えていた。平常を保とうと話していることはモララーにもよくわかった。だから、何も指摘しないでおいてあげた。
69
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:18:02 ID:VABT4D4M0
魔人が格別悪い人ばかりでないことをモララーはよく知っていた。
孤児院にいた魔人と一緒に遊んだり騒いだりしていたので、その記憶は確かにある。
しかし同時に、孤児院を襲った魔人たちのこともモララーの記憶に強く焼き付いている。
彼らが自分たちの居場所を蹂躙していく様は、忘れたくても忘れられない。
魔人が本気になれば人間の積み上げたものを壊してしまうことくらい造作もないのだ。
人間と魔人は本質的に別の生き物だ。
だから、関わりはあくまでも峻別されなくてはいけない。
人間を害するような魔人は、必ず罰しなければならない。
モララーが抱いたこの価値観は、今をもってしても変わることなく生きている。
70
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:18:52 ID:VABT4D4M0
街の入り口には警備隊が何人かいた。彼らとて無能ではない。魔人が来る場所と考えれば塀からの進入は当たり前のルートだ。
モララーは居酒屋の脇道に置かれた酒樽の奥に身を隠して様子を伺った。
警備隊が両手で数えきれるほどの人数しかいない。他の出入り口もあるから、そちらの警備についているのだろう。
北の出入り口に張り込んでいるのは、以前エウロパから使者が来たときにつかったルートだったからだ。
エウロパの森はスィオネの街の北西にあるから、その過程で北の入り口を使ったのだろうと察しがつく。
今回は筆頭が狼であり、彼らの潜めそうな場所は北と南の森しかない。
もしも彼らが自分を襲った後にエウロパへと向かうと想定すれば、北の森が一番スムーズだ。ここまで推測して、モララーは北の入り口にヤマを張った。
もちろん他の場所から侵入したとの情報があれば速やかにそちらへ向かう心づもりでいた。
そして幸いなことに、その心配は杞憂に終わった。
71
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:19:55 ID:VABT4D4M0
まず異変に気づいたのは警備隊の一人だ。塀の頂上をめがけて指を差し、わめいている。
「来たぞ」
その声を聞いたとき、ようやくモララーも相手の姿をとらえられた。
塀の上に上ったところに、赤い目を光らせた何者かがたっている。魔人の誰かなのだろう。
その赤い目の両脇にまた別の光が現れて、警備兵たちが騒然となる。二人増えた。
脱獄したのは三人だから、数の上では問題がないはずだ。それなのにおびえているとは、警備兵はよほど魔人とあたることをいやがっていたに違いなかった。
歩み出ようとしたモララーの動きが、止まる。
72
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:20:45 ID:VABT4D4M0
「あれ」
目の光が、さらに増えていた。
四人目、五人目。目をこらせば六人目がいるようにも見える。
警備兵が悲鳴を上げた。
「撤退だ」
早計すぎる気もするが、警備兵たちが一目散に逃げていく。
モララーは堂々と表に出て、広場から塀を見上げた。
赤い目はすでに十人を数えている。
「森で仲間を呼んだのか」
73
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:21:26 ID:VABT4D4M0
言うと同時に、モララーの心臓が跳ねた。
剣を握る手に血が通っているのがわかる。
モララーは少しだけ目を伏せ、口元を大きく釣り上げた。
「そっか、仲間か」
あいた口が、思い切りよく、噛み締められる。
一挙に抜いた剣は、月光を照らして銀と赤にきらめいた。
「知らねえよ」
モララーの雄叫びは、塀の上縁に並んだ十数名の赤い光をどよめかせた。
74
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:22:19 ID:VABT4D4M0
戦いの最中、モララーの剣はよどみなく振るわれ続けた。
魔人が全員降りてきて、モララーを囲んでからも、その勢いは衰えなかった。薄明かりのもとで景色を把握する術を心得ていた。
魔人のにおいや足音を見分ける音も知り尽くしていた。
迷いのない太刀筋は、すべて今まで学んだことをよりどころにしていた。
魔人たちが怯んでいるのがモララーにはわかっていた。集団でかかれば勝てると思っていたことが見て取れる。
そのおびえが、モララーには愉快で、同時に腹立たしかった。
半月を描き続ける刀身が、何人もの魔人を切り裂いていく。鮮血がほとばしり、モララーにも降りかかる。
血液の一滴が眼球を濡らし、思わずモララーは目を瞑った。
その瞬間を逃さず、魔人の一人が鋭い爪を突き立ててくる。一方のモララーは、身を翻してこれを交わした。
あっけにとられた、という意味での唸りが聞こえる。
勢いにのったモララーの剣が、その魔人の喉元へと突き刺さる。噴き出す赤を、拭った片目で見やった。
広場には、他にもすでに倒れ臥した者たちがいる。
魔人たちが、モララーから距離を置いた。数メートル離れた位置から、姿勢を傾けて吠え声を浴びせかける。
恨み、恐怖、怒り、あらゆる感情がない交ぜになった、もの悲しく、荒々しい声。
75
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:23:05 ID:VABT4D4M0
モララーはすべて聞いていた。
何もかもを聞いた上で、昔のことを思い出した。
使者が孤児院をやってきたとき、泣き叫んでいた子どもの魔人たちのことを。
あのときの彼らも、まったく似たような声を出していたことを。
モララーは息を吸い込み、それから思いっきり強く、吠えた。
その場のどの魔人よりも大きく猛々しい吠え声に、場の空気が一掃される。
モララーは剣を構え、魔人の集団へと距離を詰めた。
「ぎいっ」と短い声がする。魔人の一人が、またひとつ命を落とした。
こいつらは敵だ。だから、斬らなければならない。
モララーは再び身をかがめ、魔人たちの様子をうかがった。
76
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:24:09 ID:VABT4D4M0
そこで、ふと異変に気づいた。
魔人たちが、武器である爪を下ろしている。
戦意喪失したのだろうか。
そう考えた矢先、一陣の風が耳をついた。
草を踏み分ける音。
モララーは咄嗟に身を翻し、剣を構えた。
爪がすぐ目の前まで伸びてくる。
魔人が背後から襲ってきた。気づいたところで、指の股に挟まった刀身はなかなか抜けない。
焦っているうちに、相手の姿が見えた。
「お前、クーの」
77
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:24:53 ID:VABT4D4M0
オオカミさん、と彼女が呼んでいた魔人が、モララーを見て牙をむき出しにしている。
突き出た大きな口が開き、モララーに咆哮する。唾液が数滴顔に飛びかかる。
剣を動かそうとするも、やはり逃れられない。
指ががっちりと刀身を押さえつけている。運の悪いことをした。
オオカミは顔を引っ込めた。もう片方の腕が、持ち上がり、爪を月光のもとに晒す。
薄汚れた白い輝きが、モララーの方へと向く。
「させるかっ」
78
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:25:46 ID:VABT4D4M0
モララーは短く吐き、手を離して身を引いた。
オオカミの爪が空を切り、広場の芝生の頭を撫でる。
モララーは腰を低くして、転がるのを防いだ。
剣はいまだ、オオカミの手に刺さっている。
低い唸りをともなって、オオカミはその剣の先に触れようとした。
「折るな!」
モララーが絶叫する。
「それに手を出すな。俺を殺したいなら、剣は放って俺だけを襲え」
79
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:26:38 ID:VABT4D4M0
モララーの睨みつけた先で、オオカミが呆然と立ち尽くす。
刀身に伸びていた爪が、ゆっくりと動き、柄を握る。
血の噴き出す音がした。魔人の手から、剣が離れ、傷口から鮮血が零れる。
モララーの剣は、オオカミの背後に投げ捨てられた。地面に落ち、からんと音を立ててそのまま横たわる。
モララーはため息を吐いた。
「ありがとよ」
そう言って、構えを変える。
80
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:27:26 ID:VABT4D4M0
剣を失ったにしろ、できることがないわけでもない。
二足歩行をする魔人の重心は人間と似通っている。力ではかなわなくとも、柔術で対抗することはできる。
理論ではイメージできていた。
が、実践するとなることにつき、モララーの冷や汗は止まらなかった。
逃げてもいいのだ。このまま逃げても、誰も俺を責めないだろう。
でも、それでは、あのとき孤児院で泣いていた母に、魔人の子どもたちに、何の顔向けもできない。
何のために強くなったのか、わからないじゃないか。
モララーは拳を握りしめた。
81
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:28:17 ID:VABT4D4M0
対するオオカミは、身を低くして、手を上と下に構えている。
爪はすべてモララーに向いている。
かいくぐれる量じゃない。剣を取り戻さない限り、勝ち目など無い。
モララーは息を吸い込み、敵の爪に神経を集中させる。
動きを読めば、とその一念だけを抱いて。
と、そのとき。
「えっ」
82
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:29:07 ID:VABT4D4M0
風の音を聞いた。
ついさっき似たような音を聞いたような。
閃きが、おぞましい想像に変わる。
まさか、他の魔人が?
身体を反転させる。
悲鳴が聞こえた。
何が起こったのか、咄嗟には把握できなかった。
光景は段階的に認識される。
月明かりに輝く、自分に向かって伸びた白い爪。
倒れ込む魔人の一人。やはり自分を狙っていたのだろう。
そして、その上に覆い被さるように、長い黒髪がはためいている。
83
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:30:05 ID:VABT4D4M0
「無事か、モララー!」
「クー!?」
聞き覚えのあるその声は、顔を見ない限りとうてい信じられなかった。
「どうしてお前、ここに」
「昼間言ったとおりのことをしたまでだ」
「来るなって言っただろ」
「私は何とも答えちゃいない。聞く前に、貴様がかっこつけて勝手に出て行ったからな」
クーはそう言い、鼻で笑った。
84
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:30:56 ID:VABT4D4M0
モララーは唖然とした口をどうにか閉じ、訝しげに彼女を見やる。
「いいのかよ、あいつはお前の」
「わかってる」
言葉を断ち切って、クーは腰に両手を添える。
「わかってたうえで、来たんだ。それで十分だろう。貴様が何と言おうと、私は貴様を援護する」
抜き取られたのは、刀身の短い双剣。
「剣を拾いに行け。ここは私が食い止める」
モララーが言葉をいいかけるのを、無視して、クーは駆けだした。
85
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:31:38 ID:VABT4D4M0
双剣の切っ先がオオカミへと向かう。
見たことのある顔、見たことのある身体、見たことのある爪と牙。そのすべてを見据え、剣の構えを調整する。
オオカミは吠えている。攻撃する腹づもりらしい。
そうだとも、思いっきりやってくれ。その方が、迷わなくて済む。
心の中で呟いて、草原を蹴り、跳躍する。
加速度的に狭まる距離の先、オオカミさんの爪めがけて剣を振るう。
金属のぶつかりあうような、強く澄んだ音が響く。衝撃を受けた爪にヒビが入るのを確かにクーは見届けた。
着地して、間合いを取る。双剣の幅を広く取り、オオカミの顔を睨みつける。
「オオカミさん、悪いが私は、貴様を倒す」
強く地面を蹴りつけて、クーは再び敵へと駆けた。
86
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:32:25 ID:VABT4D4M0
迷いが無い、などと言えば嘘になる。
クーだって、できたらもうオオカミには触れたくなかった。
何もできなかった頃の自分と一緒に、彼との思い出を捨ててしまうつもりでいた。
その彼がモララーを襲うと知ったとき、クーは呆然とした。
思い抱いていた迷いが引き合いに出され、その存在感にうちひしがれた。
それから、自分が何をするべきか決めなければならないことを悟った。
その結果、今彼女はオオカミに向かい剣を振っている。
二つの腕をかいくぐり、爪をより分け、その先の身体めがけて白銀の刀身を突き立てている。
俊敏な動きのオオカミはなかなか捕らえられてくれない。あと一歩のところで身を引かれ、剣は空を切る。二つの剣を振り回したところで状況は好転しない。クーもまた身を引き、体勢を立て直す。
87
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:33:17 ID:VABT4D4M0
目の前にいるオオカミは、自分を救ってくれたオオカミだ。
ムネーメの町から逃げ続けていた自分に食料を分け与え、野生の獣から守ってくれた強靱さだ。
それに立ち向かわなければならない自分は、恩知らずで、薄情者だ。
だけど、とクーは心で反駁する。
オオカミにも恩はあるが、モララーにも恩がある。
孤児院で匿ってもらったのも、鍛錬をつけてくれたのも、自立するきっかけをくれたのも、すべてモララーのおかげだった。
彼を裏切ることは、どうしてもできはしない。
そうして自分は板挟みになった。どちらかを向けば、どちらかに背を向けることになる。恩がある限り、自分は何もできなくなる。
それならば、どうしたら。
88
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:34:05 ID:VABT4D4M0
クーは連撃を止めた。
オオカミの足下がよろめくのが見えた。
太刀筋のいくつかが彼の身体に幾筋かの傷を負わせている。
自分の攻撃が通っている。
驚きは、少なからずあった。鍛錬の成果が、目に見える形で現れている。そのことに胸が高鳴り、そして同時に胸が痛んだ。
だけど、止まってはいられない。
クーは再び身をかがめる。
89
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:34:56 ID:VABT4D4M0
双剣という武器は特殊だ。まっすぐに構えるとバランスが悪くなる。
思い切り振りかざすには、半身になり、上方に弧を描かなければならない。
攻撃に一手間かかる分、行動は遅くなりがちであり、奇抜ではあるものの、相手が慣れてくるとその目新しさの価値も下がる。
真価は防御にあると言えた。オオカミが絶え間なく両の手の爪を振りかざしてきても、クーも両の手でそのカバーができる。
受け流して、攻撃への流れもスムーズに運び出せる。
「守ることさえ覚えたら、足手纏いにはならない」
そう言って、双剣を勧めてくれたのもモララーだった。
オオカミの爪をかいくぐり、再び距離を開けた。
敵の傷が増えている。それを確認し、達成感に、クーの頬は上気した。
90
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:35:46 ID:VABT4D4M0
と、そのとき、視界の前を何かが流れ落ちた。
二筋ほどの黒髪。
思わず自分の横髪に触れる。
「油断はできない、か」
クーは息を短く吐き、一旦目を閉じ、また開いた。
鮮明になった視界の先で、オオカミもまた身をかがめている。攻撃をする気が伝わってくる。
こんなに好戦的だっただろうか。疑問が浮かぶも、確かめる術はない、いやむしろ、今ここにしかない。
クーは腰を低くする。
「いくぞ」
91
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:36:36 ID:VABT4D4M0
一言告げた、言葉が聞こえたのか、オオカミもまた吠え声を出す。
走り出し、回転の勢いで短剣が振り下ろされる。
オオカミの爪がそれを弾き、クーの顔めがけて突き立てられる。
クーの片手の剣がそれを防ぎ、身をかがめ、かけ声とともに蹴りを繰り出す。
オオカミが呻いている。
と、同時に、違和感があった。
「笑った?」
顔を向ける前に次の爪が伸びてきていた。
身体を引き、また距離を置く。
オオカミの顔は宵闇に紛れ、赤い瞳の輝きだけが辛うじて視認できた。
92
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:37:55 ID:VABT4D4M0
剣を拾ったモララーに、立て続けに二人の魔人が飛びかかってきていた。
体勢の整っていなかったモララーは、無理矢理剣を振るい、二人を組み伏せる。
魔人が狙っているのはモララー、攻撃が集中するのも当然と言えば当然だった。
「くそ、クーのとこ、行かなきゃなのによ」
信頼していないわけではない。
だが、相手がクーの知っている魔人であることが、ずっとモララーには気になっていた。
気持ちが乱れれば剣は乱れる。
クーは気丈だ。この広場に来たということは覚悟だってできているのだろう。
でも何が感情の揺れる引き金になるかは誰にだってわからない。
93
:
名も無きAAのようです
:2015/07/20(月) 14:38:08 ID:wgEta2/s0
しえん
94
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:38:45 ID:VABT4D4M0
魔人の牙をかわし、その腹に剣の柄を打ち込んで、振り向いた。
次の魔人が遠くに見える。そいつが来る前に、ほんのわずかだがクーの様子がうかがえた。
クーが立ち、オオカミが座り込んでいる。
「やったのか」
歓喜で手を上げそうになる。
が、どうも様子がおかしい。
「クー?」
問いかける間に、もう次の魔人がやってきている。攻撃を躱し、剣を振る。
クーの姿は見えなくなった。
モララーの胸がざわつく。
速くこの場を切り抜けて、助けに言ってやらねえと。
嫌な予感が、モララーの頬に汗を滴らせた。
95
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:39:39 ID:VABT4D4M0
クーの剣がオオカミの爪を三本はじき飛ばしたところで、組み手に区切りがついた。
魔人が尻餅をつき、その顔目がけてクーが剣の切っ先を向けた。
荒い呼吸に肩を上下させながら、クーはまっすぐオオカミを見下ろした。
オオカミは自分の腕を確かめている。
もうそこには爪が無い。武器を無くした彼の腕は、頼りないほどに丸まっていた。
当惑した表情が、揺れ動き、それからクーを見上げていた。
「貴様の負けだ、オオカミさん」
クーが静かに宣告した。もしもこれで逆上でもしようものならその隙が付けたが、あいにくオオカミは何もしないで、呆然とクーを見上げていた。
96
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:40:43 ID:VABT4D4M0
飛ばされた爪のうち、実は一本がオオカミの身体のすぐ後ろにある。
取ろうとすれば、オオカミに武器が手に入るが、同時にクーに背を向けることになる。
もしそちらに気が向けば、容赦なく切り捨てる、クーはそのつもりでいた。
オオカミは、まだうごかない。
あと10秒経ったら脚の腱を斬ろう。
そうすれば、死なないまでも、動けなくなる。
また牢屋に行ってしまえば、もう会わなくて済むだろう。
クーはそこまで考えて、心のうちでカウントを始めた。
9秒、8秒、7秒、6秒。
97
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:41:38 ID:VABT4D4M0
夜の静けさに、遠くでモララーの取っ組み合いの音が聞こえる。
彼は魔人を倒した私をどう思うだろうか。
倒せると、思ってなかったかもしれない。
彼のことだ、私を助けようとしているに違いない。
5秒、4秒。
だいたい彼はいつだって私を舐めているのだ。
自分が教える立場だからっていい気になっている。
私だって成長しているということを、しっかりその目に焼き付けてもらおう。
3秒、2秒。
98
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:42:27 ID:VABT4D4M0
私は強くなったんだ。
守ってばかりでいた自分から、変わって、もう一人で歩ける。
旅立つ彼に、そのことを伝えよう。
驚いてくれ。
笑ってくれ。
そうすれば、私もここを出て行ける。
そして私は、私は。
――あれ?
1秒。
99
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:43:31 ID:VABT4D4M0
「君は」
声がする。
「そんなに強くなったんだね」
微笑んだオオカミが、身を翻らせた。
咄嗟のことにクーの反応は遅れた。
彼の腕が、背後に伸び、地面に落ちてた爪の破片を拾う。
クーは飛びかかろうと構える。剣をを構え、つきたて、彼の得物をたたき落そうと狙いを定める。
100
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 14:44:13 ID:VABT4D4M0
そのとき、今一度オオカミがクーを振り向いた。
笑っている。
怖気を感じるクーの前で、オオカミはその顔のまま、爪の破片を彼の喉に突き立てた。
何かの破裂する音。
クーの視界が真っ赤に染まる。
温もりが顔に降りかかり、むせるような生命のにおいが鼻をつき、鉄の味が口を満たした。
思い出した。
強烈に思い出してしまった。
ずっと昔、今と同じように鮮血を浴びたことを。
そのとき自分が何を考えていたかを。
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