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哲学の掲示板

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1 : 歴史とは何か(1) / 2 : 善とは何か(9) / 3 : 無力感について(3) / 4 : 哲学とは何か(3) / 5 : 美の本質の普遍認識は可能か(1) / 6 : 「楽しさ」の現象学(7) / 7 : 自由の相互承認【実践編】(7) / 8 : メモ(4) / 9 : 現象学】意見対立の克服について【弁証法(5) / 10 : ベーメ『アウローラ』の研究(1)
11 : 雑記(1) / 12 : 哲学の掲示板(1)  (全部で12のスレッドがあります)

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1 歴史とは何か (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1名無しさん :2020/06/18(木) 07:06:35
歴史とは①実存の本質の記述②秘密性と開示性③同化性
①何故、私や物事がかくあるのかと言うことの説明
②開示されている部分と秘密にされている部分がある
③語られ、共有化されることによって、人を結び付ける

と言うような特徴があると思う。
看護記録などが治療を意識した記録であるとすれば、歴史と言うのは、その人や民族などが、何故かくあるのかを説明する記録になっている。
それ故に、開示されている部分と秘密になっている部分がある。
個人史で言えば、履歴書に書いていない部分が本当の歴史であって、この部分はごく親しい人間にのみ開示される。
民族の歴史などでも一般の教科書に書いていない部分が本当の歴史であって、一部のエリート層や特殊な人間しか知ることが出来ない。
例えば、会社の新入社員には絶対教えないような裏の歴史を3年くらい働けば先輩社員が教えてくれると言うことがあると思うが、こう言った秘密の共有によって、外部であった人が内部の者となる。夫婦や恋人同士の家族史や自分史の打ち明け話なども、見知らぬ人同士、お互いがお互いの家族となっていく契機になる。

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2 善とは何か (Res:9)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1名無しさん :2020/06/13(土) 20:19:56
我々は何をもって物事を善いとか悪いとか判断しているだろうか
例えば、ここにパソコンがあるとする。
善いとは①パソコンとしての機能を十分果たしていること②壊れにくいこと③デザインや色合いが美しいことなどを意味していると考えられる。
では、あの人は善い人だと言うとき、何をもって善いと言っているのだろうか?
①誠実さ②友誼に厚い③フランクさ④謙虚
物と人では善の条件が違う訳で、それは「その人を幸せにする性質」を我々が「善いもの」としているからではなかろうか。

3名無しさん :2020/06/13(土) 21:04:12
次に悪について考察してみよう。
悪とは、「物や関係の無意識的ないし意識的な破壊の為の破壊」と定義できるかもしれない。
だとすると、善とは物や関係性の保存や創造を意味するだろうか?
或いは、悪は秩序の破壊、善は秩序の維持、創造、洗練にあるだろうか
先に私は、善を「智慧の活動そのもの」とするアリストテレスの定義に賛同した。
秩序を創造する根源が知恵だとすれば、矛盾とは言えないだろう。


4名無しさん :2020/06/14(日) 22:15:02
ニコマコス倫理学で展開される善は、個人にとっての善である。
こにことはアリストテレスの倫理学の不完全性として批判されるところでもあるのだが
アリストテレスの倫理学は「政治学」への予備学としてニコマコス倫理学を書いている訳で、
個人としての善の究極目的が「幸福」であるならば、国家の善も同様に国民の幸福と考えていると思われる。
そして当然の流れとして人々を幸福にする政治体制は何なのかということの考察に入っていく。


5名無しさん :2020/06/14(日) 22:40:33
しかし、この場合は、個人の善の究極目的が幸福にあることと、国家の善をそれと一致させなくてはならない必然性が論証されてはいない。
確かに、我々は「善い」という言葉を「幸福」と関連させて考えている。
人を幸せにする物や人物を「善い」と言っている。
善い思考、善い行動とは「幸福をもたらすもの」である、ということには納得できる。
では善い国家とは「幸福をもたらす国家」の事であろう。
例えば、国家が金持ち減税すれば金持ちは「善い国家だ」というかもしれないが
貧困層からすれば「ろくでもない国家」となるかもしれない。
すると「客観的に善い国家」というものは存在しないという結論に至るだろう。
であれば、我々は、「普遍的に善いと言える国家」を目指さなくてはならないだろうか。
それは「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する国家」である。
人間として考えれば、「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する人間」を善い人間というだろう。


6名無しさん :2020/06/14(日) 22:45:34
しかも、そのような国家は「中庸」をわきまえている必要がある。


7名無しさん :2020/06/14(日) 22:47:52
もし国家が「悪しき国家」であった場合、個人はいかにするべきであろうか。


8名無しさん :2020/06/16(火) 05:52:03
善についての過去の理論家を上げると
プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子、孟子、老荘、カント、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガー、西田幾多郎のような人々から言説を抽出することは可能である。
もし、善を現象学的に考察する場合、これらのだれが真実を説いているかとか真実に近いかと言う方向性は取らない。
しかし、彼らは皆、死者であるので、間主観性を意識するのは、生者とコミュニケーションを取る場合とは違ってテキストの読みこみを通した対話が必要になる。
我々は彼らの言説から善の様々な側面を意識することが出来るが、善の形相的還元と言う段階では、削ぎ落とされる情報も出てくると思う。


9名無しさん :2020/06/29(月) 19:04:14
善とは何か

アリストテレスは善の目的は幸福であると考えました。そして幸福であるためには物事の本質や中庸を見抜く知性を発揮して生きる事が必要であるとしました。
確かにいかなるピンチも知性によって相対化することが出きればそれを楽しむことすら出来るのではないかと思います。
一方、カントは善を社会正義の次元で捉えました。もし、自分の行動が普遍化したした場合自己矛盾が起きないかを善の基準としました。
ヘーゲルや西田は個人の幸福感や正義感よりも精神の次元での善を尊重することを重視しました。


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3 無力感について (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1名無しさん :2020/05/29(金) 12:41:36
陰鬱な気分の現象学

2名無しさん :2020/05/29(金) 13:06:57
陰鬱な気分の可能性の条件

①継続して否定的なメッセージを受けとる
②努力によって状態が改善する見込みを感じられない
③失敗が続き原因がわからない


3名無しさん :2020/05/29(金) 13:09:30
④自分や行動の価値を感じられない


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4 哲学とは何か (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1名無しさん :2020/05/20(水) 14:54:58
竹田青嗣著『哲学とは何か』を叩き台として考えてみましょう。

2名無しさん :2020/05/28(木) 13:09:18
竹田氏の欲望論を借りたがこの『哲学は何か』がエッセンシャル版になっている面はあると思う。
氏の言いたいことは大体整理されているのではないかと思うのでこちらの方を先に整理してみよう。


3名無しさん :2020/05/28(木) 13:17:48
117ページまでを簡単にまとめてみると
哲学はゴルギアステーゼに対する反論の試みであったともいえる。
ゴルギアステーゼとは
①何も存在しない。
②たとえ何か存在するにしても、それについて知りうることは何もない。さらに、
③たとえ何かそれについて知りうることがあるにしても、それについての知識を他人と理解し合うことはできない。
というテーゼを主軸にした「相対主義」の源流になる思想家であるという。

要するに我々は存在(或いは実在/実体)を知ることはできないというテーゼであり、これに対する明確な反論は現代にいたるまでできていない。
そこで、フッサールは「いかにして実在を認識するか」という試みを止め、「普遍認識は如何にして可能か」という方向性にかじを切ったということらしい。


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5 美の本質の普遍認識は可能か (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1名無しさん :2020/05/28(木) 13:07:39
ある作品が美しいと言えるのは何故か、言葉によって明確に説明することが評価者には求められる。美術評論の世界も哲学同様、独断論や相対主義が幅を効かせている面もあるかもしれない。
哲学(人文科学)が相対主義に陥っている故に、権威者の独断論が「美しさ」を決める基準になってしまっている面があると思う。
美術の世界が興隆するためには、普遍的な美術評論が必要である。それは制作者と鑑賞者が共に参加する共創作的な体験となるだろう。

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6 「楽しさ」の現象学 (Res:7)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 6
1名無しさん :2020/05/20(水) 16:41:55
楽しさの本質看取をしてみたいと思います。

2名無しさん :2020/05/20(水) 17:36:26
「楽しさ」とは何か

私の定義

「①基本的な安全が担保された上での②新奇性や冒険性の本質を持つ③体験の継続可能性」と、一旦は定義しました。もっとブラッシュアップしていける可能性は多々あると思います。

と言うのも「①基本的な安全」があるから、「バイオハザード」のようなゲームや映画が楽しめる訳です。もしリアルで「バイオハザード」を体験したら恐怖だし、ひたすら苦しいでしょう。
また「②新奇性や冒険性」の要素がないと、マンネリで退屈です。新奇性には「新しい知識を得る」とか「法則を発見をする」と言うことも含まれて良いかもしれません。
「③体験の継続可能性」がないと、寂しさや虚無感や苦痛を感じることがあるかと思います。
夏休みの後半がそんな感覚です。


3名無しさん :2020/05/20(水) 17:38:24
問題としては「やや男性よりの楽しみ」に傾いており、女性を含めた普遍性に難があるかもしれない。


4名無しさん :2020/05/25(月) 14:05:22
或いはアリストテレス流に「徳の発揮」と定義することもできるかもしれない。


5名無しさん :2020/05/25(月) 14:23:51
ところで、現象学の方法を確認しておきたい。

現象学の原理は「感覚」(直覚)にある。
しかし、その感覚は、不純物を取り去った純粋感覚(直覚)でなくてはならない。
不純物を取り去るためには「判断中止」が必要である。
我々は、何かについて語る以前に、ある価値判断を持っており、それに基づいて現象は理解されていることが普通である。
例えば「あの男は悪人である」という信念があると、その信念に従って「あの男」を解釈し、信念通りの現象(「悪人」)として現れがちだ。
現象学的に還元するならば「私はあの男を悪人だと考えている」ということは言えると思う。
これに関しては、とりあえず疑いようがない事実である。
「あの男」が悪人かどうかはさておき「悪人であると考えている」こと自体は意識の中で観察できるはずである。


6名無しさん :2020/05/25(月) 14:34:21
「私はあの男を悪人だと考えている」これが還元を通した意識内容である。
それが事実かどうかはさておき、「悪人と考えている」こと自体はこれ以上疑うことができない。
しかし、現象学はここで終わる訳ではなく、「間主観性」を重要視する。
この場合でいうと、「あの男は私の意識には『悪人』として現れるのだが、君はどう思う」という訳だ。
「いや、そんなことは無いですよ。あの人は良い人ですよ。」という返答があるか、「そうですね。私もそう思います」というかは分からないが
「私」は「あの男」に対する別の側面を発見するかもしれない。竹田青嗣さんは「開かれたテーブル」と言っているが、このようにして「客観性」に迫っていく。
これが現象学であると私は理解している。
例として〇〇という人間というような具体的な人間の性格のケースを上げたが、「美とは何か」とか「善とは何か」「国家とは何か」といった抽象的な対象も現象学として語ることができると思う。
私のこの文章も「現象学の現象学」と言っても良い部分がある。ぜひ、色々なご意見をいただきたい。様々な意見が交わされることによって「現象学」のイメージや概念が変わっていけば、それが一つの「進歩」と言える面もあると思う。


7名無しさん :2020/05/25(月) 14:39:32
例えば、アリストテレスは「善とは何か」という考察で、それは幸福である。幸福とは徳の発揮である。
徳の発揮とは智慧の生活であるというように、ある種の「本質観取」の連発で『ニコマコス倫理学』を書いた。
我々は、アレストテレスの見解は『』でくくり、各々の「善の現象学」に取り組んでも良いと思う。
西田幾多郎には『善の研究』という著作がある。彼はフッサールとほぼ同時代の人間であり、影響もあったはずである。
特に西田の倫理学はアリストテレス倫理学との対決という面があったように思う。これも一種の「善の現象学」であろうと思う。


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7 自由の相互承認【実践編】 (Res:7)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 7
1名無しさん :2020/04/29(水) 08:03:09
ヘーゲルは社会紛争は自由の相互承認によって克服(止揚)出来ると考えたようである。
人はそれぞれ「このような人生を生きたい」(自由に成りたい)と言う意志や願望があり、それが阻害されるときその障害を排除しようと戦いが起きる。それは人類の数千年の歴史の中でも、我々の身近な生活の中でも確認できる。
だとすれば、お互いがお互いの自由を認め合う事でしかこの矛盾は克服出来ないはずである。
理屈ではその通りであるが、では現実にそんなこと可能であろうか。
実践を通して考えてみよう。

2名無しさん :2020/05/04(月) 20:19:51
「人々が自由の価値を自覚し、人倫国家を運営することが出来るようになれば、世界は善くなる」と言うのは、「人々が道徳的になれば世界は善くなる」と言うカントテーゼとそれほど違いが無いと思う。
ヘーゲルの自由論と同等にカントの実践理性もそれなりに意義があるし、説得力もあるのだ。
例えば、人間関係がギスギスしている空間があるとする。側に居る同僚が「ああ!イラつく!」とかいって机の引き出しをバン!と閉めたりする。
まさに「普遍闘争」のような状態がそこにある。
ヘーゲル的に言えば「権力」(管理職など)が実力行使して彼女を注意すれば良いかもしれないが、このような状態になっているときはボスが権力を失っている場合が多い。


3名無しさん :2020/05/04(月) 20:33:14
自由選択の主体は人格を持った個人なのだから、自由を尊重すると言うこと各人の人格を尊重しましょうと言うことである。結局の所、ヘーゲルも道徳論を語っているような面はあると思う。
普遍的な自由や人格の尊重に価値を置いていない人の方が多数なのであるから。


4名無しさん :2020/05/04(月) 21:12:06
竹田氏の『人間の未来』を読むと、上記のようなことも考察の対象にしているようである。
近代人は理想主義への執着を断ち切ることが出来ない。それゆえに価値の多数性の問題に行き着く。そして近代思想は「絶対的正しさが成立しない」と言うことを知っているので、それは相対主義に行き着き、イロニーが蔓延する。
このイロニーがポストモダン思想だと言うのである。竹田氏はこの相対主義的状況を克服し得る思想して「普遍ルール社会」を考えているようである。


5名無しさん :2020/05/04(月) 21:31:14
竹田氏は、何故普遍ルール社会が現実としては実現しないのかと言うと、第一に近代国家同士で普遍闘争が消滅していないからだと言う。
しかし、「普遍闘争」は経済活動を普遍ルール化するだけで克服出来る問題だろうか。
個人の理想と理想の対立も「ルールの確立」によって調停できると言う考えだと思うのだが。


6名無しさん :2020/05/05(火) 07:46:29
究極的には国家対立を世界政府的な実力機関が統制する事で、国家間闘争圧力が無くなれば、「人倫共同体」が成立する事になるとは言える。
しかし、それは、「普遍ルール社会」の原理を人々が受け入れている場合に限るのではなかろうか。イスラム教国や北朝鮮、中国などでは、自由の普遍化がまだ進んではいない。
この時点で普遍ルール社会を作ろうとしても混乱が生まれるだけだろう。
現実的な話、中国や北朝鮮はいまだ「覇権原理の国」である。
日本人でも、合理的当為からではなく「死の恐怖」から「社会の法」を守っているケースが多数あるだろう。
いまだに覇権の原理の方が強いと言う場面は日常生活で多いと思われる。


7名無しさん :2020/05/05(火) 09:20:17
自由の相互承認を実現するものとして「ルソーの一般意思」が考えられるのかもしれない。
ただ、ルソーの一般意思はカントの実践理性とかなり似ている所があると思う。
結論として、各人が個別意思(利害)を捨て、一般意思を志向して行動することが「自由の実現」なのだろうか。ヘーゲルの『精神現象学』を読むと「個別精神を断念、滅却して、客観精神、絶対精神になることが自我の成長過程である」と言うような考えが随所に見られる。
ただ、これは「近代人は自己理想への執着を断ち切れない」と言う認識と対立しないだろうか。


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8 メモ (Res:4)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 8
1:2020/04/22(水) 11:43:08
人が増えるまで個人的に使わせて貰おう。

2名無しさん :2020/04/22(水) 11:48:48
筋トレの哲学

何事もそうだが、一度為した事は継続される法則がある。
筋トレは一度やれば次回は無意識に同じことをやっているので初回が出来るかどうかが勝負である。
そして「記録」することも大事かもしれない。
私は筋トレをする度にカレンダーにシールを貼っている。するとカレンダーを見る度に筋トレをしているようになる。


3名無しさん :2020/04/22(水) 18:36:24
紛争解決の原理論として「自由の相互承認」は良いとしましょう。
しかし「いかに生きるべきか」というテーマはまた別次元の問題ではないかと思う。
ある意味では、大昔から言われている「信仰・思想の自由論」を繰り返しているともいえるし、実際そうなのだが。
竹田氏は、善真美のような価値論を説くのではなく、「欲望論」に解決の糸口を見出したのではなかろうか。(氏の『欲望論』はまだ読んでいないが。)
そして人間の最大の欲望は「承認欲求である」というような見通しがあるのだろう。
例えば「ミュージシャンになりたい」とか「哲学者になりたい」というような承認欲求である。
結局、ヘーゲル的には労働を通してその承認欲求も結果的に?或いは労働の方が承認欲求の産物なのか、満たされると。
当初主観的独りよがりであった仕事が客観的な価値を持つようになると、意識の空無な夢や願望に過ぎなかった「ミュージシャンになりたい」が「ミュージシャンである」というように存在へと転化する。
その契機になるのが「労働」だったりするのではないかと思う。
労働を通して無が存在に転化する。
苫野氏は欲望が苦悩をもたらすケースとして「能力の問題」を上げている。
例えば「ミュージシャンになりたい」→「ミュージシャンである」(自己実現)が達成されるには「能力の問題」が横たわるというわけだ。
苫野氏は「欲望のハードルを下げるか、別の欲望にチェンジするか、欲望を断念するか」というようなことを述べている。
「ミュージシャンである」ためには必ずしも武道館で客をいっぱいにする必要はなく、「地域のイベントで演奏する」とか「趣味で演奏する」というものもあり得るわけだ。
むしろこのようにして音楽を楽しんでいる人の方に「資本主義経済の下で操作された欲望」から脱却している場合もあるかもしれない。


4名無しさん :2020/04/22(水) 18:48:59
正直、このような人間の在り方はハイデガー的に言うと「頽落」な訳で、竹田さん始めお弟子さんたちがやたらとハイデガー思想を
毛嫌い無いし「脱構築」しようとするのはそれなりに「痛いところを突かれている」からではないかと思う。
というのもハイデガーの哲学はまさにヘーゲル哲学的な「お互いの欲望を肯定し合った市民社会」にどっぷり漬かって生きている人々が忘れているもの、つまりそのような市民生活の
根底に存在している「存在」なるものへの問いであるからである。
ただ、ハイデガーは、こういった市民的価値を全否定している訳ではなく、少なくとも消極的には肯定しているのではないかと思う。
というのも、こういった自我承認の世界が無ければ、あとは「死の世界」が横たわるだけだからである。とはいえ我々が「無」や「死」というものに、ある意味では「包括されて」生きているのも
事実な訳で、このところを忘却して生きることが「不安」や「絶望」のような心理を喚起するというのは確かではないかと思う。
ヘーゲルを表の世界の哲学者だとすれば、ハイデガーは裏世界の哲学者ということが言えると思う。
この表裏一体になっているところに我々の生の本質がある訳で、相補的な関係にもなっていると考えられないだろうか。


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9 現象学】意見対立の克服について【弁証法 (Res:5)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 9
1名無しさん :2020/04/19(日) 08:08:36
哲学上のもっとも重要な問題のひとつだと思います。
この問題が克服されないがゆえに古来より戦争や紛争と言う物理的解決に訴えるようなことにもなる訳ですが、意見対立というのは家庭や会社からSNSや国家間まで様々な所で見受けられます。
この問題を解決するための一般理論としては、私が知る限りではヘーゲルの弁証法やフッサールの現象学などがあります。

2:2020/04/19(日) 10:17:14
竹田青嗣さんは、信念補強型思考と信念検証型思考の違いについて述べています。
我々がデータを集めるときに信念に沿ったデータにのみ目が行き、それ以外の情報はシャットダウンしている場合がある。これが信念補強型です。
心理学でも「スコトーマ」などとも言われます。
かなり博学な人間でも信念補強型の主張をしている人は結構居ます。
一方で信念検証型思考は竹田さんはフッサール的な思考形態を考えているのではないかとは思いますが、これも竹田さんと言えばフッサール現象学と言う私の思い込みが前提にあるので確実ではありませんが。


3名無しさん :2020/04/22(水) 15:19:59
もう一つ。竹田氏や弟子の苫野さんは「紛争解決の原理」としてヘーゲルの「自由の相互承認」という考え方を強調しているようです。
ヘーゲルの「相互承認」の思想は、「奴隷と主人の弁証法」などで知られていますが、要は奴隷が主人になり、主人が奴隷となりという革命や内紛、覇権と分裂という人間社会の本質を
「奴隷と主人の弁証法」という形で表現したのではないかと思いますが、このような対立運動を止揚することが可能だとすると「自由の相互承認」を原理化した社会ということになります。
(ヘーゲルや、竹田氏らがそのように考えていたかどうかは、色々複雑な議論もありますので、まだ確定的には言えませんが、大よそそのようなことだと捉えて先に進みます。)
法律論としては、日本国憲法19条や20条に「信教の自由」として担保されております。
確かに我々の市民生活は、特定に思想を抱いたことで身体的拘束を受けたり、拷問を受けたりということはありませんし、その根拠が「信教の自由」を保証したこの条文にあるとすれば、
ヘーゲルの言う「自由の相互承認」の理想が現実化したことによって我々の社会において「物理的紛争」は、ほぼ、消滅したと言えます。

ではもっと卑近な我々の生活の場面ではどうでしょうか?
友人関係や職場、家庭や地域において、我々は「紛争状態」を克服しえているでしょうか?
例えば、現代ではSNSでの炎上などが頻繁に見受けられます。
これはまさに「紛争状態」な訳です。
ただ物理的に危害を加えた訳ではないので、刑事罰の対象になることは無く、そうであるがゆえに抑止力が働いていない状態です。
(これは「言論の自由」との兼ね合いの問題とも言えるでしょうが)

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


4名無しさん :2020/04/22(水) 17:56:31
紛争克服の原理としての自由の相互承認論について

反論①
竹田青嗣さんらが提唱しているヘーゲル哲学の再解釈ですが
仮に自由(価値や行動や選択の自由)をお互いに認め合う事によって、紛争克服が可能だったとしても、別の問題が出てこないでしょうか?
例えば、職場において「それぞれ自由ですよ」という原理が共有されていたとして、それで仕事が成り立つでしょうか?
例えば、ここに喫茶店(例えスターバックス)があるとする。
企業理念や上司の指示を無視して店員が「自由に振舞う」としたら、それはもはや我々が知る「スターバックス」ではないでしょう。
だとするとそこでは「職務規定に従うか、辞める自由」しかないのではないでしょうか。


5名無しさん :2020/06/16(火) 05:21:51
対話の難しさ

自分と異質の価値観を持った人間と対話することは難しいものがある。
現象学的な対話でもそもそも現象学的還元と言うお約束が共有されていないと哲学的対話は難しい。


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10 ベーメ『アウローラ』の研究 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 10
1:2020/04/15(水) 23:37:59
ドイツ神秘主義のテキストより

図書 アウローラ
著者 ヤーコブ・ベーメ
スレッドの趣旨 著作内容の要約

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