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哲学の掲示板

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1 : 現象学】意見対立の克服について【弁証法(6) / 2 : 哲学的考察日記(1) / 3 : メモ(5) / 4 : 女神転生シリーズの考察(1) / 5 : 哲学とは何か(4) / 6 : システムとマンパワー 戦略的勝利と戦術的勝利(8) / 7 : ハイエク思想の研究(2) / 8 : 歴史とは何か(1) / 9 : 善とは何か(9) / 10 : 無力感について(3)
11 : 美の本質の普遍認識は可能か(1) / 12 : 「楽しさ」の現象学(7) / 13 : 自由の相互承認【実践編】(7) / 14 : ベーメ『アウローラ』の研究(1) / 15 : 雑記(1) / 16 : 哲学の掲示板(1)  (全部で16のスレッドがあります)

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1 現象学】意見対立の克服について【弁証法 (Res:6)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1名無しさん :2020/04/19(日) 08:08:36
哲学上のもっとも重要な問題のひとつだと思います。
この問題が克服されないがゆえに古来より戦争や紛争と言う物理的解決に訴えるようなことにもなる訳ですが、意見対立というのは家庭や会社からSNSや国家間まで様々な所で見受けられます。
この問題を解決するための一般理論としては、私が知る限りではヘーゲルの弁証法やフッサールの現象学などがあります。

2:2020/04/19(日) 10:17:14
竹田青嗣さんは、信念補強型思考と信念検証型思考の違いについて述べています。
我々がデータを集めるときに信念に沿ったデータにのみ目が行き、それ以外の情報はシャットダウンしている場合がある。これが信念補強型です。
心理学でも「スコトーマ」などとも言われます。
かなり博学な人間でも信念補強型の主張をしている人は結構居ます。
一方で信念検証型思考は竹田さんはフッサール的な思考形態を考えているのではないかとは思いますが、これも竹田さんと言えばフッサール現象学と言う私の思い込みが前提にあるので確実ではありませんが。


3名無しさん :2020/04/22(水) 15:19:59
もう一つ。竹田氏や弟子の苫野さんは「紛争解決の原理」としてヘーゲルの「自由の相互承認」という考え方を強調しているようです。
ヘーゲルの「相互承認」の思想は、「奴隷と主人の弁証法」などで知られていますが、要は奴隷が主人になり、主人が奴隷となりという革命や内紛、覇権と分裂という人間社会の本質を
「奴隷と主人の弁証法」という形で表現したのではないかと思いますが、このような対立運動を止揚することが可能だとすると「自由の相互承認」を原理化した社会ということになります。
(ヘーゲルや、竹田氏らがそのように考えていたかどうかは、色々複雑な議論もありますので、まだ確定的には言えませんが、大よそそのようなことだと捉えて先に進みます。)
法律論としては、日本国憲法19条や20条に「信教の自由」として担保されております。
確かに我々の市民生活は、特定に思想を抱いたことで身体的拘束を受けたり、拷問を受けたりということはありませんし、その根拠が「信教の自由」を保証したこの条文にあるとすれば、
ヘーゲルの言う「自由の相互承認」の理想が現実化したことによって我々の社会において「物理的紛争」は、ほぼ、消滅したと言えます。

ではもっと卑近な我々の生活の場面ではどうでしょうか?
友人関係や職場、家庭や地域において、我々は「紛争状態」を克服しえているでしょうか?
例えば、現代ではSNSでの炎上などが頻繁に見受けられます。
これはまさに「紛争状態」な訳です。
ただ物理的に危害を加えた訳ではないので、刑事罰の対象になることは無く、そうであるがゆえに抑止力が働いていない状態です。
(これは「言論の自由」との兼ね合いの問題とも言えるでしょうが)

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


4名無しさん :2020/04/22(水) 17:56:31
紛争克服の原理としての自由の相互承認論について

反論①
竹田青嗣さんらが提唱しているヘーゲル哲学の再解釈ですが
仮に自由(価値や行動や選択の自由)をお互いに認め合う事によって、紛争克服が可能だったとしても、別の問題が出てこないでしょうか?
例えば、職場において「それぞれ自由ですよ」という原理が共有されていたとして、それで仕事が成り立つでしょうか?
例えば、ここに喫茶店(例えスターバックス)があるとする。
企業理念や上司の指示を無視して店員が「自由に振舞う」としたら、それはもはや我々が知る「スターバックス」ではないでしょう。
だとするとそこでは「職務規定に従うか、辞める自由」しかないのではないでしょうか。


5名無しさん :2020/06/16(火) 05:21:51
対話の難しさ

自分と異質の価値観を持った人間と対話することは難しいものがある。
現象学的な対話でもそもそも現象学的還元と言うお約束が共有されていないと哲学的対話は難しい。


6未来 :2022/11/07(月) 14:51:26
>4
まず、公序良俗に反する企業活動は認められない訳です。
職務規定に書いていたとしても無効になります。
ただ、公序良俗に反しない形での企業理念に関しては、認められないという事はないので
もし、自分の考えと合わないならば、退職の自由があるという事です。
勿論、それ以前に労働法で定められた権利などは存在したうえでのことです。
企業理念より、労働法や憲法の方が上位の規範です。


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2 哲学的考察日記 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1:2022/11/07(月) 14:46:26
哲学的な考察を記録する

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3 メモ (Res:5)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1:2020/04/22(水) 11:43:08
人が増えるまで個人的に使わせて貰おう。

2名無しさん :2020/04/22(水) 11:48:48
筋トレの哲学

何事もそうだが、一度為した事は継続される法則がある。
筋トレは一度やれば次回は無意識に同じことをやっているので初回が出来るかどうかが勝負である。
そして「記録」することも大事かもしれない。
私は筋トレをする度にカレンダーにシールを貼っている。するとカレンダーを見る度に筋トレをしているようになる。


3名無しさん :2020/04/22(水) 18:36:24
紛争解決の原理論として「自由の相互承認」は良いとしましょう。
しかし「いかに生きるべきか」というテーマはまた別次元の問題ではないかと思う。
ある意味では、大昔から言われている「信仰・思想の自由論」を繰り返しているともいえるし、実際そうなのだが。
竹田氏は、善真美のような価値論を説くのではなく、「欲望論」に解決の糸口を見出したのではなかろうか。(氏の『欲望論』はまだ読んでいないが。)
そして人間の最大の欲望は「承認欲求である」というような見通しがあるのだろう。
例えば「ミュージシャンになりたい」とか「哲学者になりたい」というような承認欲求である。
結局、ヘーゲル的には労働を通してその承認欲求も結果的に?或いは労働の方が承認欲求の産物なのか、満たされると。
当初主観的独りよがりであった仕事が客観的な価値を持つようになると、意識の空無な夢や願望に過ぎなかった「ミュージシャンになりたい」が「ミュージシャンである」というように存在へと転化する。
その契機になるのが「労働」だったりするのではないかと思う。
労働を通して無が存在に転化する。
苫野氏は欲望が苦悩をもたらすケースとして「能力の問題」を上げている。
例えば「ミュージシャンになりたい」→「ミュージシャンである」(自己実現)が達成されるには「能力の問題」が横たわるというわけだ。
苫野氏は「欲望のハードルを下げるか、別の欲望にチェンジするか、欲望を断念するか」というようなことを述べている。
「ミュージシャンである」ためには必ずしも武道館で客をいっぱいにする必要はなく、「地域のイベントで演奏する」とか「趣味で演奏する」というものもあり得るわけだ。
むしろこのようにして音楽を楽しんでいる人の方に「資本主義経済の下で操作された欲望」から脱却している場合もあるかもしれない。


4名無しさん :2020/04/22(水) 18:48:59
正直、このような人間の在り方はハイデガー的に言うと「頽落」な訳で、竹田さん始めお弟子さんたちがやたらとハイデガー思想を
毛嫌い無いし「脱構築」しようとするのはそれなりに「痛いところを突かれている」からではないかと思う。
というのもハイデガーの哲学はまさにヘーゲル哲学的な「お互いの欲望を肯定し合った市民社会」にどっぷり漬かって生きている人々が忘れているもの、つまりそのような市民生活の
根底に存在している「存在」なるものへの問いであるからである。
ただ、ハイデガーは、こういった市民的価値を全否定している訳ではなく、少なくとも消極的には肯定しているのではないかと思う。
というのも、こういった自我承認の世界が無ければ、あとは「死の世界」が横たわるだけだからである。とはいえ我々が「無」や「死」というものに、ある意味では「包括されて」生きているのも
事実な訳で、このところを忘却して生きることが「不安」や「絶望」のような心理を喚起するというのは確かではないかと思う。
ヘーゲルを表の世界の哲学者だとすれば、ハイデガーは裏世界の哲学者ということが言えると思う。
この表裏一体になっているところに我々の生の本質がある訳で、相補的な関係にもなっていると考えられないだろうか。


5名無しさん :2020/11/07(土) 12:34:53
人生をより楽しく充実して生きる為に考えるべき要件について

多くの場合、考えるべき対象を考えると言う作業なしに、職場(学校)と家庭に関することのみを考えている。
しかし、あえて問うべきである。より善く生きる為には何を考えるべきなのか

①健康
②住環境
③職場環境
④政治
⑤哲学
⑥家族
⑦友人


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4 女神転生シリーズの考察 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1:2020/09/14(月) 20:26:01
女神転生―デジタルデビルストーリーズは1987年、徳間書店からメディアミックス路線の一環としてアニメ化された西史明氏の小説です。
この小説はその後ゲーム化されてロングセラーとなっの女神転生シリーズの原点とも言える作品になっています。
この小説がアニメ化された1980年代は、日本がバブル景気に突入し、ファミリーコンピューターが発売され、パソコンがギリ持ち運び可能になり始めるような時代のようですね。
後のインターネットに繋がる技術が開発されるのもこの時代で、「オタク族」などの言葉も生まれました。
王や長島と言うスター選手も引退し、石原裕次郎さんが亡くなったのもこの頃です。89年には昭和天皇も崩御され、昭和が終わり平成と言う新しい時代に突入する前段階の時代に当たります。
一方で、ノストラダムスの大予言が流行したり、金属バット殺人事件やコンクリ殺人、宮崎事件など猟奇犯罪などが起こり、学校の虐め事件や校内暴力、自殺率も半端なく上昇していた時代でした。
このような時代背景の中で、女神転生と言う小説が生まれました。
私は原作は読んだことがありませんが、アニメ版を読むとかなりヘビーな内容になっています。
どういう層がこれを買ったのか分かりませんが、元々、下地になるようなオカルトブームが社会のなかにあったようです。生まれ変わりをテーマにした小説に女神転生に先駆けること1976年に幻魔大戦と言う小説が発売されています。
この小説はGLAと言う宗教団体の教義の影響を受けており、後の新宗教のバイブル的な影響力すら持っていたようです。このような下地があって、女神転生のようなコアな世界観を持った小説が誕生し、アニメ化、ゲーム化されていった訳ですが、現代の女神転生シリーズは初期のオカルト感が大分稀釈されて順数に娯楽化の方向に向かっているような所があると思います。
しかし、元ネタまで辿っていくと、かなりカルト感が強い思想と近接性があり、このカルト要素がゲームに危険な薫りわかもし出させ、一種の魅力となっているのでしょう。

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5 哲学とは何か (Res:4)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1名無しさん :2020/05/20(水) 14:54:58
竹田青嗣著『哲学とは何か』を叩き台として考えてみましょう。

2名無しさん :2020/05/28(木) 13:09:18
竹田氏の欲望論を借りたがこの『哲学は何か』がエッセンシャル版になっている面はあると思う。
氏の言いたいことは大体整理されているのではないかと思うのでこちらの方を先に整理してみよう。


3名無しさん :2020/05/28(木) 13:17:48
117ページまでを簡単にまとめてみると
哲学はゴルギアステーゼに対する反論の試みであったともいえる。
ゴルギアステーゼとは
①何も存在しない。
②たとえ何か存在するにしても、それについて知りうることは何もない。さらに、
③たとえ何かそれについて知りうることがあるにしても、それについての知識を他人と理解し合うことはできない。
というテーゼを主軸にした「相対主義」の源流になる思想家であるという。

要するに我々は存在(或いは実在/実体)を知ることはできないというテーゼであり、これに対する明確な反論は現代にいたるまでできていない。
そこで、フッサールは「いかにして実在を認識するか」という試みを止め、「普遍認識は如何にして可能か」という方向性にかじを切ったということらしい。


4:2020/09/09(水) 06:06:18
現象学の解釈について、①現象学は本質学であるという立場と②現象学は内的思考を重視するという立場がある。
どちらも正しいのであろうが。往々にしてどちらか片方のみを強く押し出した解釈がなされることがあるが、
①②を統合すれば「内的に本質を探る」ということになる。


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6 システムとマンパワー 戦略的勝利と戦術的勝利 (Res:8)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 6
1:2020/09/07(月) 08:19:28
野村監督のID野球は選手の個別能力に頼るのではなく、「チーム力」によって勝利しようとしていた。
これに対して、長嶋巨人はスター選手を集めることで勝利につなげようとした。
勿論、マンパワーもシステムもどちらも大事であり、いくら監督が野村さんでも小学生のチームでプロ選手には勝てないだろう。
それでも、小学生特有のせまいストライクゾーンを利用して、相手の四球を誘うという戦略は考えられるかもしれない。

要するに、「知性」「戦略」「思考」を重視するのがシステム重視の戦いで、経験や勘、個人技重視なのがマンパワーの戦いということになる。

2:2020/09/07(月) 08:24:51
将棋で喩えてみよう。

歩がすべて金だったら、それはかなり有利である。
しかし、歩がすべて金の小学生と羽生名人が戦ったら、恐らく羽生さんが勝つだろう。

しかしプロ同士の戦いならば歩が金の方が絶対的有利である。


3:2020/09/07(月) 08:39:27
システムとマンパワー、戦略と戦術は、ミクロとマクロの視点の違いと言い換えることもできる。


4:2020/09/07(月) 08:47:19
介護福祉の領域で考えてみよう

ある施設で、利用者が離設し、大けがをしたという事例があるとする。
戦術的に見ると「現場職員の注意が不足していた。これからはもっと注意しなくてはならない」
というようなことになる。
太平洋戦争の末期に「大和魂が不足していたから戦争に負けたのだ」と言った東条英機もこのパターンである。
しかし、このような「分析」は現実的分析というプロセスを怠っている訳である。
それは「将棋で負けたのは、歩が全部金でなかったからだ」と言っているようなもので、現実的ではない。
「日本がアメリカの3倍の工業力があれば勝てた」というのも、空想的仮定を現実分析に混入させているので、現実分析にはなってない。


5:2020/09/07(月) 08:51:53
そもそも人間が様々なことを意識しながら強い注意力を発揮し続けるのは数分が限界である。
なので、「注意すれば事故が防げた」というのは、それ自体、空想的である可能性がある。


6:2020/09/07(月) 08:58:59
「1918年最強ドイツ軍は何故敗れたのか」という本があるが、それによると、
ビスマルクのころのドイツでは権力の三角形という「システム」が機能していたが、1918年のドイツでは
システムは形骸化しており、ルーデンドルフが専横的に国の政治決定を支配するようになった結果、個々の軍事的勝利のみを追い求めるようになった結果として
戦略的に敗北したというようなことのようである。
これは日本でも当てはまっており、明治のころは元老政治が上手く機能していたが、昭和の時代には全く機能しなくなり、軍のメンツの為の戦争のようになってしまっていた。


7:2020/09/07(月) 09:09:46
ところで、1918以後のドイツでも皇帝、首相、参謀総長の「権力の三角形システム」が存在しなかったわけではない。
ビスマルク以後も、これらの役職は以前も以後も変わらず存在していたが、これが「システム」として機能しえるかどうかは
それを「システム」として認識しえる人間がいて初めて存在するのであるし、そもそも、ビスマルクの世代は、「システム」を意識して行動していたわけではなく、
皇帝ウィルヘルム1世、首相ビスマルク、参謀総長大モルトケの三者の個性や才能が拮抗した結果、システムのような動きをしていただけで、システムが客観的に存在していたかどうかは不明である。
しかし、この三者は「システマティック」に動いたということは言えるだろう。
ビスマルクは首相の権限の範囲内で行動したし、大モルトケも政治には口を挟まなかった。
そして皇帝ウィルヘルム1世は、部下を統制し、大局を見る君主としての役割を果たした。


8:2020/09/07(月) 09:49:09
マンパワーとは、軍事でいえば「兵力」に相当する概念と考えてよいと思う。

上書によれば、ルーデンドルフが戦術的勝利にのみこだわって国が崩壊したというような話であるが
「なぜ戦うのか」を問うことが必要。


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7 ハイエク思想の研究 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 7
1:2020/08/28(金) 10:53:40
ハイエク『隷属への道』をテキストとしてハイエク思想を学んでみよう。

前書きを読むと、訳者の西山千明は「ゲマインシャフト間でのなれ合いに終始する日本で
ノーベル賞受賞者が出ない理由である」と書いてあるが、2000年以降ではアメリカを除けばノーベル賞受賞者を多く輩出している
日本である。この本が書かれた時代とは根本的な条件が変わってきたのであろうか。
「異質な意見を受け入れる」という土壌が醸成されてきたのであろうか。

2:2020/08/28(金) 19:34:56
ところで、ハイエク主義者を自認する人間が「言論の自由」などを尊重しているかと言えば
そんなことはない。これは実体験としてそう感じざるを得ないのであって、ハイエクとハイエク主義者は違うのかもしれないし
ハイエク思想に問題があるのかよくわからない。
結局のところ、「原理主義思想」という意味では、社会主義も自由主義も同じで、お互いを受け入れることは無い。
そして自由主義者はそのことを矜持としているいる節もある。
人が誰かを批判するとき、己の影を見ているケースはよくあることで、自由主義思想こそ社会主義思想に近い面があるのかもしれない。


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8 歴史とは何か (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 8
1名無しさん :2020/06/18(木) 07:06:35
歴史とは①実存の本質の記述②秘密性と開示性③同化性
①何故、私や物事がかくあるのかと言うことの説明
②開示されている部分と秘密にされている部分がある
③語られ、共有化されることによって、人を結び付ける

と言うような特徴があると思う。
看護記録などが治療を意識した記録であるとすれば、歴史と言うのは、その人や民族などが、何故かくあるのかを説明する記録になっている。
それ故に、開示されている部分と秘密になっている部分がある。
個人史で言えば、履歴書に書いていない部分が本当の歴史であって、この部分はごく親しい人間にのみ開示される。
民族の歴史などでも一般の教科書に書いていない部分が本当の歴史であって、一部のエリート層や特殊な人間しか知ることが出来ない。
例えば、会社の新入社員には絶対教えないような裏の歴史を3年くらい働けば先輩社員が教えてくれると言うことがあると思うが、こう言った秘密の共有によって、外部であった人が内部の者となる。夫婦や恋人同士の家族史や自分史の打ち明け話なども、見知らぬ人同士、お互いがお互いの家族となっていく契機になる。

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9 善とは何か (Res:9)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 9
1名無しさん :2020/06/13(土) 20:19:56
我々は何をもって物事を善いとか悪いとか判断しているだろうか
例えば、ここにパソコンがあるとする。
善いとは①パソコンとしての機能を十分果たしていること②壊れにくいこと③デザインや色合いが美しいことなどを意味していると考えられる。
では、あの人は善い人だと言うとき、何をもって善いと言っているのだろうか?
①誠実さ②友誼に厚い③フランクさ④謙虚
物と人では善の条件が違う訳で、それは「その人を幸せにする性質」を我々が「善いもの」としているからではなかろうか。

3名無しさん :2020/06/13(土) 21:04:12
次に悪について考察してみよう。
悪とは、「物や関係の無意識的ないし意識的な破壊の為の破壊」と定義できるかもしれない。
だとすると、善とは物や関係性の保存や創造を意味するだろうか?
或いは、悪は秩序の破壊、善は秩序の維持、創造、洗練にあるだろうか
先に私は、善を「智慧の活動そのもの」とするアリストテレスの定義に賛同した。
秩序を創造する根源が知恵だとすれば、矛盾とは言えないだろう。


4名無しさん :2020/06/14(日) 22:15:02
ニコマコス倫理学で展開される善は、個人にとっての善である。
こにことはアリストテレスの倫理学の不完全性として批判されるところでもあるのだが
アリストテレスの倫理学は「政治学」への予備学としてニコマコス倫理学を書いている訳で、
個人としての善の究極目的が「幸福」であるならば、国家の善も同様に国民の幸福と考えていると思われる。
そして当然の流れとして人々を幸福にする政治体制は何なのかということの考察に入っていく。


5名無しさん :2020/06/14(日) 22:40:33
しかし、この場合は、個人の善の究極目的が幸福にあることと、国家の善をそれと一致させなくてはならない必然性が論証されてはいない。
確かに、我々は「善い」という言葉を「幸福」と関連させて考えている。
人を幸せにする物や人物を「善い」と言っている。
善い思考、善い行動とは「幸福をもたらすもの」である、ということには納得できる。
では善い国家とは「幸福をもたらす国家」の事であろう。
例えば、国家が金持ち減税すれば金持ちは「善い国家だ」というかもしれないが
貧困層からすれば「ろくでもない国家」となるかもしれない。
すると「客観的に善い国家」というものは存在しないという結論に至るだろう。
であれば、我々は、「普遍的に善いと言える国家」を目指さなくてはならないだろうか。
それは「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する国家」である。
人間として考えれば、「様々な立場の人間の幸福を考え、支援する人間」を善い人間というだろう。


6名無しさん :2020/06/14(日) 22:45:34
しかも、そのような国家は「中庸」をわきまえている必要がある。


7名無しさん :2020/06/14(日) 22:47:52
もし国家が「悪しき国家」であった場合、個人はいかにするべきであろうか。


8名無しさん :2020/06/16(火) 05:52:03
善についての過去の理論家を上げると
プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子、孟子、老荘、カント、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガー、西田幾多郎のような人々から言説を抽出することは可能である。
もし、善を現象学的に考察する場合、これらのだれが真実を説いているかとか真実に近いかと言う方向性は取らない。
しかし、彼らは皆、死者であるので、間主観性を意識するのは、生者とコミュニケーションを取る場合とは違ってテキストの読みこみを通した対話が必要になる。
我々は彼らの言説から善の様々な側面を意識することが出来るが、善の形相的還元と言う段階では、削ぎ落とされる情報も出てくると思う。


9名無しさん :2020/06/29(月) 19:04:14
善とは何か

アリストテレスは善の目的は幸福であると考えました。そして幸福であるためには物事の本質や中庸を見抜く知性を発揮して生きる事が必要であるとしました。
確かにいかなるピンチも知性によって相対化することが出きればそれを楽しむことすら出来るのではないかと思います。
一方、カントは善を社会正義の次元で捉えました。もし、自分の行動が普遍化したした場合自己矛盾が起きないかを善の基準としました。
ヘーゲルや西田は個人の幸福感や正義感よりも精神の次元での善を尊重することを重視しました。


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10 無力感について (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 10
1名無しさん :2020/05/29(金) 12:41:36
陰鬱な気分の現象学

2名無しさん :2020/05/29(金) 13:06:57
陰鬱な気分の可能性の条件

①継続して否定的なメッセージを受けとる
②努力によって状態が改善する見込みを感じられない
③失敗が続き原因がわからない


3名無しさん :2020/05/29(金) 13:09:30
④自分や行動の価値を感じられない


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