- 1 :1 :2020/09/07(月) 08:19:28
- 野村監督のID野球は選手の個別能力に頼るのではなく、「チーム力」によって勝利しようとしていた。
これに対して、長嶋巨人はスター選手を集めることで勝利につなげようとした。 勿論、マンパワーもシステムもどちらも大事であり、いくら監督が野村さんでも小学生のチームでプロ選手には勝てないだろう。 それでも、小学生特有のせまいストライクゾーンを利用して、相手の四球を誘うという戦略は考えられるかもしれない。
要するに、「知性」「戦略」「思考」を重視するのがシステム重視の戦いで、経験や勘、個人技重視なのがマンパワーの戦いということになる。
- 2 :1 :2020/09/07(月) 08:24:51
- 将棋で喩えてみよう。
歩がすべて金だったら、それはかなり有利である。 しかし、歩がすべて金の小学生と羽生名人が戦ったら、恐らく羽生さんが勝つだろう。
しかしプロ同士の戦いならば歩が金の方が絶対的有利である。
- 3 :1 :2020/09/07(月) 08:39:27
- システムとマンパワー、戦略と戦術は、ミクロとマクロの視点の違いと言い換えることもできる。
- 4 :1 :2020/09/07(月) 08:47:19
- 介護福祉の領域で考えてみよう
ある施設で、利用者が離設し、大けがをしたという事例があるとする。 戦術的に見ると「現場職員の注意が不足していた。これからはもっと注意しなくてはならない」 というようなことになる。 太平洋戦争の末期に「大和魂が不足していたから戦争に負けたのだ」と言った東条英機もこのパターンである。 しかし、このような「分析」は現実的分析というプロセスを怠っている訳である。 それは「将棋で負けたのは、歩が全部金でなかったからだ」と言っているようなもので、現実的ではない。 「日本がアメリカの3倍の工業力があれば勝てた」というのも、空想的仮定を現実分析に混入させているので、現実分析にはなってない。
- 5 :1 :2020/09/07(月) 08:51:53
- そもそも人間が様々なことを意識しながら強い注意力を発揮し続けるのは数分が限界である。
なので、「注意すれば事故が防げた」というのは、それ自体、空想的である可能性がある。
- 6 :1 :2020/09/07(月) 08:58:59
- 「1918年最強ドイツ軍は何故敗れたのか」という本があるが、それによると、
ビスマルクのころのドイツでは権力の三角形という「システム」が機能していたが、1918年のドイツでは システムは形骸化しており、ルーデンドルフが専横的に国の政治決定を支配するようになった結果、個々の軍事的勝利のみを追い求めるようになった結果として 戦略的に敗北したというようなことのようである。 これは日本でも当てはまっており、明治のころは元老政治が上手く機能していたが、昭和の時代には全く機能しなくなり、軍のメンツの為の戦争のようになってしまっていた。
- 7 :1 :2020/09/07(月) 09:09:46
- ところで、1918以後のドイツでも皇帝、首相、参謀総長の「権力の三角形システム」が存在しなかったわけではない。
ビスマルク以後も、これらの役職は以前も以後も変わらず存在していたが、これが「システム」として機能しえるかどうかは それを「システム」として認識しえる人間がいて初めて存在するのであるし、そもそも、ビスマルクの世代は、「システム」を意識して行動していたわけではなく、 皇帝ウィルヘルム1世、首相ビスマルク、参謀総長大モルトケの三者の個性や才能が拮抗した結果、システムのような動きをしていただけで、システムが客観的に存在していたかどうかは不明である。 しかし、この三者は「システマティック」に動いたということは言えるだろう。 ビスマルクは首相の権限の範囲内で行動したし、大モルトケも政治には口を挟まなかった。 そして皇帝ウィルヘルム1世は、部下を統制し、大局を見る君主としての役割を果たした。
- 8 :1 :2020/09/07(月) 09:49:09
- マンパワーとは、軍事でいえば「兵力」に相当する概念と考えてよいと思う。
上書によれば、ルーデンドルフが戦術的勝利にのみこだわって国が崩壊したというような話であるが 「なぜ戦うのか」を問うことが必要。
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