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現象学】意見対立の克服について【弁証法

3名無しさん:2020/04/22(水) 15:19:59
もう一つ。竹田氏や弟子の苫野さんは「紛争解決の原理」としてヘーゲルの「自由の相互承認」という考え方を強調しているようです。
ヘーゲルの「相互承認」の思想は、「奴隷と主人の弁証法」などで知られていますが、要は奴隷が主人になり、主人が奴隷となりという革命や内紛、覇権と分裂という人間社会の本質を
「奴隷と主人の弁証法」という形で表現したのではないかと思いますが、このような対立運動を止揚することが可能だとすると「自由の相互承認」を原理化した社会ということになります。
(ヘーゲルや、竹田氏らがそのように考えていたかどうかは、色々複雑な議論もありますので、まだ確定的には言えませんが、大よそそのようなことだと捉えて先に進みます。)
法律論としては、日本国憲法19条や20条に「信教の自由」として担保されております。
確かに我々の市民生活は、特定に思想を抱いたことで身体的拘束を受けたり、拷問を受けたりということはありませんし、その根拠が「信教の自由」を保証したこの条文にあるとすれば、
ヘーゲルの言う「自由の相互承認」の理想が現実化したことによって我々の社会において「物理的紛争」は、ほぼ、消滅したと言えます。

ではもっと卑近な我々の生活の場面ではどうでしょうか?
友人関係や職場、家庭や地域において、我々は「紛争状態」を克服しえているでしょうか?
例えば、現代ではSNSでの炎上などが頻繁に見受けられます。
これはまさに「紛争状態」な訳です。
ただ物理的に危害を加えた訳ではないので、刑事罰の対象になることは無く、そうであるがゆえに抑止力が働いていない状態です。
(これは「言論の自由」との兼ね合いの問題とも言えるでしょうが)

所で、竹田氏は「カントは皆が道徳的になれば紛争は解決するという姿勢だから現実的ではない」というようなことを言うのですが、ヘーゲルの「自由相互の承認論」でも事情は同じで、
「みんなが自由の相互承認の考えを受け入れれば紛争は解決する」ということになります。
これはカントの道徳論とそう変わりのない面もある。

現実の日常生活で、紛争状態が珍しくないとすると、「自由の相互承認論」が前提として受け入れられている訳ではないということです。
そして、それを強制するのもかなり難しい。カントが「人々が道徳的になるのを待つしかない」と考えたとすれば、ヘーゲルは「人々が自由の価値に目覚めるのを待つしかない」といったような話になってしまいます。


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