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「楽しさ」の現象学
1
:
名無しさん
:2020/05/20(水) 16:41:55
楽しさの本質看取をしてみたいと思います。
2
:
名無しさん
:2020/05/20(水) 17:36:26
「楽しさ」とは何か
私の定義
「①基本的な安全が担保された上での②新奇性や冒険性の本質を持つ③体験の継続可能性」と、一旦は定義しました。もっとブラッシュアップしていける可能性は多々あると思います。
と言うのも「①基本的な安全」があるから、「バイオハザード」のようなゲームや映画が楽しめる訳です。もしリアルで「バイオハザード」を体験したら恐怖だし、ひたすら苦しいでしょう。
また「②新奇性や冒険性」の要素がないと、マンネリで退屈です。新奇性には「新しい知識を得る」とか「法則を発見をする」と言うことも含まれて良いかもしれません。
「③体験の継続可能性」がないと、寂しさや虚無感や苦痛を感じることがあるかと思います。
夏休みの後半がそんな感覚です。
3
:
名無しさん
:2020/05/20(水) 17:38:24
問題としては「やや男性よりの楽しみ」に傾いており、女性を含めた普遍性に難があるかもしれない。
4
:
名無しさん
:2020/05/25(月) 14:05:22
或いはアリストテレス流に「徳の発揮」と定義することもできるかもしれない。
5
:
名無しさん
:2020/05/25(月) 14:23:51
ところで、現象学の方法を確認しておきたい。
現象学の原理は「感覚」(直覚)にある。
しかし、その感覚は、不純物を取り去った純粋感覚(直覚)でなくてはならない。
不純物を取り去るためには「判断中止」が必要である。
我々は、何かについて語る以前に、ある価値判断を持っており、それに基づいて現象は理解されていることが普通である。
例えば「あの男は悪人である」という信念があると、その信念に従って「あの男」を解釈し、信念通りの現象(「悪人」)として現れがちだ。
現象学的に還元するならば「私はあの男を悪人だと考えている」ということは言えると思う。
これに関しては、とりあえず疑いようがない事実である。
「あの男」が悪人かどうかはさておき「悪人であると考えている」こと自体は意識の中で観察できるはずである。
6
:
名無しさん
:2020/05/25(月) 14:34:21
「私はあの男を悪人だと考えている」これが還元を通した意識内容である。
それが事実かどうかはさておき、「悪人と考えている」こと自体はこれ以上疑うことができない。
しかし、現象学はここで終わる訳ではなく、「間主観性」を重要視する。
この場合でいうと、「あの男は私の意識には『悪人』として現れるのだが、君はどう思う」という訳だ。
「いや、そんなことは無いですよ。あの人は良い人ですよ。」という返答があるか、「そうですね。私もそう思います」というかは分からないが
「私」は「あの男」に対する別の側面を発見するかもしれない。竹田青嗣さんは「開かれたテーブル」と言っているが、このようにして「客観性」に迫っていく。
これが現象学であると私は理解している。
例として〇〇という人間というような具体的な人間の性格のケースを上げたが、「美とは何か」とか「善とは何か」「国家とは何か」といった抽象的な対象も現象学として語ることができると思う。
私のこの文章も「現象学の現象学」と言っても良い部分がある。ぜひ、色々なご意見をいただきたい。様々な意見が交わされることによって「現象学」のイメージや概念が変わっていけば、それが一つの「進歩」と言える面もあると思う。
7
:
名無しさん
:2020/05/25(月) 14:39:32
例えば、アリストテレスは「善とは何か」という考察で、それは幸福である。幸福とは徳の発揮である。
徳の発揮とは智慧の生活であるというように、ある種の「本質観取」の連発で『ニコマコス倫理学』を書いた。
我々は、アレストテレスの見解は『』でくくり、各々の「善の現象学」に取り組んでも良いと思う。
西田幾多郎には『善の研究』という著作がある。彼はフッサールとほぼ同時代の人間であり、影響もあったはずである。
特に西田の倫理学はアリストテレス倫理学との対決という面があったように思う。これも一種の「善の現象学」であろうと思う。
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