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神聖にして呪われたる生贄

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/12(火) 23:43:24 ID:???0
バタイユ的解釈の続投である。今回は劇場版におけるアスカと弐
号機が、まるでゼーレの宗教的犠牲の生贄のごとく扱われている、
という点に着目点を置いての考察である。

生贄とは、「有用」な富の総体の中から取り除かれる一種の剰余
であるとされ、それは利得なしに蕩尽されるためにしか、つまり
永久に破壊されるためにしか抽出されないというのである。それ
は生贄としてみなされるや否や、苛烈な蕩尽へと運命付けられた
「呪われた部分」となるのである。

アスカが復活し、暴れまわり始めたことは、忌むべき存在がゼー
レの宗教的儀式の妨げとなったことを意味している。これは連中
にとってアスカと弐号機の存在が、有用性を持たぬ富、つまり余
剰物と化したことを意味する。この時点で「毒は毒を持って制す
しかない」とされていることは、ゼーレにとって彼女と弐号機が
「呪われた部分」となり、徹底的破壊の対象として、蕩尽の対象
としてみなしたということなのである。

この呪詛は、毒なる存在は「もの」ですらあってはならないという
残酷さを露呈させ、彼らの認識からしてアスカと弐号機を「もの」
という次元からすら引き離すのである。つまり、当初は「もの」と
して使用していた存在だったが、この残酷性は、今度は「毒物」だ
という特性が明確になったことから、「もの」であることすら許さ
ん、というわけである。

「もの」である以上、それを縛り付けている現実の次元からそれを
真に引き離すためには、徹底的破壊によって「毒物」としての特性
を彼女と弐号機から剥奪して、その有用性を永久に除去する以外に
方法はないというわけである。アスカの運命は、彼らによって「呪
われた生贄」として聖別されたのである。

アスカは彼らによって「呪われた部分」であると聖別されるや否や、
投入された量産機と戦うことになった。だがこの戦いに「参加する」
ということは、自由への戦いにはあらざるものである。これは彼女
が自ら、自分を生贄として奉納しようとする者たちに接近し、破壊
的行為の対象物として、自ら彼らの蕩尽に参加する一員となること
を意味していたのである。

つまりアスカは自分から「生贄として」彼らの儀式の一員となった
のである。この場合アスカが勝てると思っているかいないかは問題
とならない。あくまでゼーレ主観であり、ゼーレからすれば彼女と
弐号機が「もの」ですらなくなるまで徹底的に破壊するという決定
事項は変わらないからだ。

アスカと弐号機にとっては明らかに余命いくばくもない「祭典」の
なかで、彼女は白目剥き出しで踊り狂うがごとく、量産機を相手に
血みどろの戦いを挑む。その顔つきと衝動と語り口調は、戦いに快
楽を、別の意味で共に享受しているとしかいいようがないほどであ
る。

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/17(日) 19:39:01 ID:???0
生贄の儀式といっても、その有様はどことなく古代ローマのコロッセオ、
つまり闘技場において、富のある者が自分の「もの」である奴隷闘士グ
ラディエーターを、見世物として、相戦わせるそれに近い。奴隷はそれ
を従えている人間にとっては「もの」であり、私財である。そしてその
富を有している者同士の優劣の競い合い、退屈に身をもてあましている
熱狂的観衆の娯楽のためだけに、奴隷闘士グラディエーターは命を賭け
て戦うことになるのだ。

これもまた生贄の儀式的なものとしてみることができる。この見世物と
しての娯楽、それはものであるグラディエーターを闘わせ、その殺し合
いという蕩尽によって華々しく私財を散らせるのだ。その中でグラディ
エーターは武器を手にとって戦うことが出来る。その有様は奴隷のよう
ではない。だが、その熱狂的な観衆の欲望を満たすために、それは生贄
として捧げられ、オルギアの中で死んでいく。

戦いの果てにアスカと弐号機は、ロンギヌスの槍に貫かれ、まるで鳥葬
の対象のように晒され、量産機によって蹂躙され、カンニバリズムに晒
される。エヴァをヒトだという説明があるならば、それは明らかに人肉
嗜食のカンニバリストたちによる、「凌遅刑」に等しいのである。

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/17(日) 20:33:28 ID:???0
この「凌遅刑」、実は彼女が自分の「死の恐怖」として抱いていたイメ
ージと意味がまったく変わらないのである。バタイユの思索の方向を決
定的にしたのが、中国において行われていた残酷刑のひとつであるこの
「凌遅刑」だった。

これはプロメテウスの罰などというような生易しいものではない。実際
に、アスカと弐号機のようにされる残酷刑というものが存在していたの
だから恐ろしい。バタイユはその最後の著作「エロスの涙」において、
自分が受けたショッキングな事実を語っている。

時は1905年、中国においては清王朝末期の時代である。
フー=チュ=リという人物がモンゴルのアオ=ハン王を殺害したことで、
モンゴルの諸王がこの人物を火刑に処すべしと願い出ていたのだが、光
緒帝がいうのには、火刑は残酷であるから、凌遅(刻み切り)刑によっ
て緩慢な死に処する、これを尊べ!というのだ。

正直わけがわからない。ジャンヌ・ダルクの火炙りの刑にしても十分残
酷すぎるというのに、凌遅刑に処することが「緩慢な死」であり、残酷
ではないというのか。ただし光緒帝自身は変革運動に失敗して、西太后
によって幽閉されていた時期であるから、光緒帝自身がそのように述べ
たのかは怪しい。

だが問題は光緒帝がそのように言ったかどうかの真偽はともかくとして、
そのような記録が残っており、実際にそれが、過去において何度も行わ
れていたということなのである。どう考えても残虐すぎる。しかもこれ
にはそれを見物していた人間(バタイユではない)が詳細に渡ってその
プロセスを物語る写真を残しているからたまったものではない。

この刑が課せられている間、フー=チュ=リは確実に生きているのだ。
死に至るまで、かれはその「切り刻み」を受け続けなければならない。
文字通り、死と限りなく隣接した「生の極限状態」である。そういう極
限状態を、アスカも同様に受けたのだ。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/18(月) 00:07:05 ID:???0
凌遅刑を受けている間、このフー=チュ=リはイッてしまったかのよう
な表情をしている。「緩慢な死」の刑(一体どこが緩慢なのかは分から
ないが)を受けたアスカもまた、白眼剥き出しでイッてしまっている。
それ以前にも量産機に対する異様なまでの殺戮への衝動、そしてそれに
歪んだ笑みを露呈させていたそれは、生の極限状態と死の衝動の限界の
一致をみており、これもまた一つのエロティシズムの恍惚状態を露呈さ
せているのだ。

アスカが死のイメージとして思い浮かべた自身の体に蛆がわいている様
な自身の腐りゆく死体のイメージに見たのも、自身の凌遅、すなわち自
分が解体されていくことに対するイメージだった。その死の暴力的な恐
怖から、「偽りの再生」を果たしたアスカが、今度は生の極限状態にあ
りつつ、暴力の快楽におぼれ、自身が恐怖を抱いていたはずの死、すな
わち解体されていく凌遅刑の中に埋没して消えていくこの有様は、極限
の苦痛と極限の快楽の一致という、エロティシズムの逆説をそのまま表
している例と言えよう。

つまりアスカは、死の恐怖という限界を、母と共にあれるということの
快楽によって一致させ、恐怖を魅力の補強にかえ、錯乱と紙一重の歓喜
の状態に、すなわち自己を見失うまでの恍惚の極点にまで達したのだ。

すなわち「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」というバ
タイユの論になんら支障をきたさない。エロスは人間を燃え上がらせ、
その中に死なせるのだ。この彼女の狂気的なエロティシズムは、そのま
まシンジとの内的生活の描写、即ちあのキッチンにおける凄まじい愛憎
劇を繰り広げることにも一致することになる。

すなわち、なぜ「シンジはアスカの首を絞めたのか」に対する「なぜア
スカはシンジの絞首には反抗しないのか」を解明するすべともなろう。

5【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/18(月) 23:07:49 ID:???0
私は巷でよくラストシーンにいたるまでが絶賛の対象となっている論考
を目にすることがある。しかし、果たしてそれが絶賛される対象であろ
うか?私には悲壮としかいいようがないくらいなのだが・・・。なにか
それには本来みもふたもないことをさらけ出されることへの恐怖からく
る、是が非でも無意味な妥協と擁護を試みようとする人間性の必死さが
見受けられるのだ・・・。

バタイユは、そこに起こっている事象にかつ目することこそ重視する
が、弁証法的な思索は一切認めようとしない。かれは人間の心理が抱
えるテーゼとアンチテーゼの衝突からくる葛藤に、直接まなざしを向
ける。この葛藤のなかで人間の心理に傷口が生じ、「裂け目」が生じ
る。この裂け目をバタイユは表現しようとしている、というのだ。

バタイユの分析方法によれば、アスカという少女ほど自分を裸(ら)
にして曝け出している女性はいない。見るにも痛々しいのだが、彼女
はまるで彼の表現からすると「襤褸切れ(ボロきれ)」のようである。
彼女の場合、自分の内面と外面の葛藤があまりにも激しすぎて、その
裂け目もまたビリビリに破かれていくかのように、止め処もなく引き
裂かれていく。

ここに悲壮さこそあれ、絶賛や擁護論の妥協の介入など、本来ないは
ずである。描き出された以上、それはそこに存在してしまった。我々
は、そのように生成された存在にかつ目して、それをどう捉えるかし
かできない。ましてや、この「襤褸切れ」の「裂け目」を、アスカ自
身は自分でそれを押し広げ、シンジに直に見ろ、というのだ。

6【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/08/22(金) 20:30:54 ID:???0
サド的宇宙の考察をしているバタイユは以下のように言う。
「極端にまで突っ走った愛の衝動は死の衝動である」(バタイユ)

男女の関係に活が入らない状態。つまりうだつの上がらない主人公
と、それにやきもきしているヒロイン。バタイユのエロティシズム
解析に寄れば、シンジとアスカはこんな位置づけとなる。アスカは、
シンジを狂気的なエロティシズムに導くヒロインであり、それはど
ことなく「マダム・エドワルダ」によってバタイユが比喩的に表現
しようとしたことを想起させる。

第弐拾弐話の精神汚染シーンにおいて、使徒によって彼女の襤褸切
れのような心理に生じている裂け目は引き裂かれていく。しかも上
帝賛歌のリズムに、悲壮感漂う中でのた打ち回りながらである。そ
の際彼女は、シンジに助けや愛情を求めていた自分がいたことを曝
け出す。

あらゆるエロティシズムの遂行は、存在の最も深部に意識を失うま
で到達せんとすることを目的にしている。ということはあのアスカ
の心理描写は、使徒の精神攻撃という、精神的レイプによって彼女
を生の極限状態にし、穢れていない精神状態を汚し、解体する作業
によって明確になったものなのだ。

それはさておき・・・。
彼女はユニゾン当初の頃から、彼に対し少なからず気になる存在と
しての意識を持っていたということを表している。それは彼女の不
条理な「心情のエロティシズム」を如実に描き出しているのだ。心
情のエロティシズムは、恋人同士が相思相愛の愛情によってしか、
安定させられない側面がある。
(この項続く)

7【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/13(土) 19:12:01 ID:???0
ケース① ユニゾン特訓最後の夜
ミサトが泊りがけであり、シンジとアスカの二人きりという状況になっ
た葛城邸。なぜかアスカは、わざわざそれを強調するかのような発言を
しつつ、それに反してシンジに対して「ジェリコの壁」云々の話をし、
怒り飛ばし、ふすまの戸を閉める。ビデオフォーマット版ではその後の
暗がりで、なぜか項(うなじ)を垂れて落ち込んでいる描写が挿入され
ている。

その後、寝ぼけてシンジの隣に寝転がってしまう。その際にシンジがキ
スをしそうになったという事実が、あとで公衆の面前で暴露される。散
々怒り飛ばしているように見えるが、コミカルな描写になっている。樋
口監督が加わっているストーリーにおいてはこのような展開が見られる
ことが多い。

このような事実が暴露されているにもかかわらず、アスカはシンジ、ミ
サトとの同居を辞めようとはしなかった。

ケース② マグマダイバー
浅間山の火口内という灼熱地獄の中で、サンダルフォンと戦い、その死
に際に命綱を断たれてしまうアスカの弐号機。死を覚悟するがそこに、
耐熱装備なしで飛び込んできたシンジが、間一髪のところで彼女は助け
られる。それは後に、借りを作ったままにしておくのは気持ち悪いと称
しつつも、極限状況においてもたらされた決して小さくはない感動だっ
た、ということがビデオフォーマット版で追加されたところで説明され
る。
(この項続く)

8【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/18(木) 20:31:44 ID:???0
ケース③ 嘘と沈黙
実はこの嘘と沈黙の題名とその英文サブタイトルは、結末において破綻
していくストーリー内でも、バタイユのエロティシズム論ならばその不
条理な人間模様をいともあっさりとミもフタもないほどに曝け出せる。
・嘘と沈黙
・Those women longed for the touch of others lips, and thus invited their kisses.
まずは英文サブタイトルの意味を踏まえてみよう。
これはTV版がビデオ発売されたときの、ケースの裏側にも紹介として
書かれていることだが、「女たち」に該当するのは明らかにミサトとア
スカであり、彼女たちは他者の唇との触れ合いに焦がれ、そしてそれは
結果的に「彼ら」、すなわち加持とシンジを、各自それぞれとのキスへ
と誘った(いざなった)ことを意味するといえる。

絵コンテを担当している甚目喜一氏とミサト役である三石琴乃嬢の芝居
が映える演出となっているミサトと加持のキスシーンだが、このシーン
との対比関係にあるのがシンジとアスカの場合でもある。バタイユ論は
その著作の中で、この対比関係をものの見事に言い当ててしまう。バタ
イユの言及でキーポイントとなる用語が、「淫売」「狼狽」「羞恥心」
「娼婦性」などなどである。

こんなものがキーポイントとなる用語なのか?と単純にみただけであれ
ばそう思われるかもしれない。しかしそれは、俗語として、卑猥なもの
を連想させているだけのことであって、バタイユが言わんとしているの
は、そのような貶下(へんげ=軽蔑)的な意味をこめているわけではな
いということをくれぐれもご留意いただきたい。

バタイユは、女性的宇宙を特徴づけるものとして「他者への依存性」を
挙げ、それを「娼婦性」と呼ぶ。これについては澁澤龍彦が実に明瞭に
説明しているのだが、この娼婦性は、他者に依存しており、買われなけ
れば顕在しないが、しかし一方で、買われる事を期待しつつ、期待だけ
で生きることが出来るのも、女性の特権であるというのである。

この「娼婦性」は、女性のセクシュアリテの、男性にとって自分が欲さ
れ、望まれるところのものとしての対象として、自分そのものを曝け出
す特徴に帰結する。要するに、自分を相手にとっての欲望の対象として
売り込むのだ。この娼婦性は、女性が自己の裡を他者の裡に委ねざるを
得ないという、解剖学的な事実にも則るものとして説明されている。

9【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/18(木) 21:09:28 ID:???0
ミサトは自分のがんじがらめさに自己嫌悪の虜となり、ムシが良すぎることを
承知しながらも止め処がなくなっていた。酒に酔った勢いというのもあるだろ
うが、これは「狼狽」であり、「羞恥心」を覚えながらも、他者への依存がな
ければやっていけないという、「娼婦性」を明るみにしているといえるであろ
う。

そしてそれは加持を、彼女へのキスへと誘うことになる。かつて父親の幻影を
見て加持から逃げたミサト。アスカに言わせれば、このよりを戻したことが、
後に「不潔な大人の付き合い方」だと軽蔑のはけ口になるのだが、このミサト
と加持の関係について、バタイユに言わせるとこうなる。

「エロティシズムの対象は欲望の内在性に対応している。対象を選ぶのは、常
に主体の個人的な趣味に属することである。大部分の男が選ぶであろうような
女が対象であるとしても、男を動かすものはしばしば捉えがたい一面であって、
この女の客観的な性質などではない」

「逃げるということは女が売り込まなかったことを意味せず、ただ必要な条件
が整っていないのである。たとえ条件が整っていても、売り込みの明らかな否
定である最初の忌避は、彼女の価値を(男性に対して)強調するだろう。」

「通常、男は自分の身に即して、掟が侵犯されるという感情を抱くことが出来
ない。だから、たとえ演技でも、女の狼狽を期待するわけであり、女の狼狽が
なければ侵犯の意識を抱くわけにはいかないのである。演技だろうとなかろう
と、女が女の中の人間性の基盤に同意するのは、羞恥心によってである」
(この項続く)

10【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/21(日) 22:31:06 ID:???0
ミサトは、加持に父親の幻影を見て「他に好きな人が出来た」といった
とある。自分で言っているように、それは彼女が、父親の幻影から、加
持から逃げるために必要とした「嘘」である。

加持のもっとも特徴的なところであるが、彼はその嘘をも含めて、眼前
に起こっている、自身にとって衝撃的な、暴力的な沈黙をもたらされる
事実において、『現に在ること』、『現に起こっていること』を眼を開
いて正面から見据えようとする意志を持ち合わせている。

これは言外に、曖昧に済ませるのではなく、事実を知るということがい
かなることなのか、をよく踏まえている人間の謂が含まれているといっ
ていい。「輝かしいパースペクティヴに到達する知識と、どうしようも
ない暗黒とは同じものなのである」とバタイユは言う。もし加持が、極
端な快楽を知らず、極端な苦痛を少しも知らなければ、このような態度
は持ち得ないといえる。

何かを知るということは、それを知ることができるという喜びの代償に、
常に痛みを伴う暗黒面があるということである。加持はこの辺りをよく
踏まえている人間なのだ。それは後に加持の口からシンジに伝えられて
いるが、それはさておき・・・。

加持とミサトとは対照的に、欲求不満の態を示しているアスカのほうは
悲劇的である。これはエロティシズムが本来笑いとは一切関係のない、
悲劇的なものであるというバタイユの指摘に反さない。
(この項続く)

11【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/22(月) 04:04:06 ID:???0
失礼、論を続ける前に訂正です。
文中に「悲壮」という語がありますが、これは正しくは「悲愴」あるい
は「悲惨」の方が正確です。「悲壮」では勇ましくなってしまうので、
訂正させていただきます。

12【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/09/23(火) 01:39:17 ID:???0
退屈だから、という理屈でシンジにキスを持ちかけるアスカは、まくし
立てるように挑発する。

アスカの性格からしてなのだが、その自尊心の高さ故にシンジに対して
彼女は「退屈だから」という「嘘」を必要とした。後に明かされること
であるが、アスカは、「1人で生きる」という主張と「1人で生きられ
ない」という本音の間に生じる葛藤に苛まれており、心情においては娼
婦性の例にもれず、他者よりの愛情を誰よりも欲し、他者に依存する脆
弱さを隠し持っていた。だが、彼女の自尊心は、その本音を無理やり押
さえ込もうとする。その術として、自分にも他人にも嘘をつくのだ。

シンジに対して退屈だからといったのは、明らかに嘘である。それは彼
女のもつ御しがたい自尊心、あるいは虚栄心が本音に対して最大限譲歩
しうる嘘だったのだ。娼婦性の説明の項を見直していただければ分かる
が、キスに誘うのは、自分を彼に望まれるところの、欲されるところの
対象として、自分自身を彼に晒し、売り込んでいる状態であり、買って
くれる事を期待していたのである。この点は子どもゆえに見かけは不自
然だが、ミサトと同じなのである。
(この項続く)

13【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/10/11(土) 19:17:37 ID:???0
ところがアスカの場合、ミサトと違うのは、シンジに対して狼狽を見せ
ることができなかったところが致命的だった。あろうことか、鼻をつま
んでしまったのである。そのような状態であれば息が詰まってしまうの
は当たり前なのにもかかわらずだ。それがシンジにそれ以上の線分を超
える侵犯の感情を抱かせることにならなかったのだ。

羞恥心に駆られながらも内なる衝動に駆られ、他者に依存していなけれ
ばやっていけないという娼婦性を持っていたということにおいてはアス
カもミサトも変わらなかった。しかし決定的な違いは、男を動かす捉え
がたい一面を揺り動かすだけの狼狽をみせたかそうでないかだったので
ある。

問題はアスカだけでなく、シンジの無神経なまでの鈍感さもあるだろう
が、アスカにしてみれば、それは自分の魅力によってシンジの自身に向
かっている関心を自分に振り向かせることができなかった、ということ
になるのである。つまり自分を売っていたのに買ってくれなかった、と
いうことで、女性だけの特権である、買われることを期待しつつ期待だ
けで生きることができることを、踏みにじられてしまったのである。そ
れはどちらにとっても自覚がないうちに進んだことだけに、そのすれ違
いは極大なものだったといえるのである。

「暇つぶしにやるようなものではない」と強がりを言いつつ汚いもので
も触れてしまったようにうがいをしているのだが、追加されたカットで
はそこに悔しそうなカットが入っている。それがその期待に応えてくれ
なかった故の悔しさであったということは、そこに挿入されている台詞
とあわせてもわかるであろう。

(この項続く)

14【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/07(水) 15:19:18 ID:???0
新年早々、ブラックの話題であるが、上の論考は以前私がこの書き込みの続
きとして用意していたものだ。用意していたところでやる気をそがれたため
に中途放棄していたが、この度、無神学大全のバタイユを読んで復活させる
気になった。この解釈のコンセプトとしては澁澤が説明していたウェヌス元
型と娼婦性、そしてバタイユの『聖なる神』冒頭における主人公ピエール・
アンジェリックと、ショッキングなことをしでかす娼婦マダム・エドワルダ
を、それぞれ碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーに見立て、同じくバタイ
ユの『エロティシズム』『無神学大全』の論述から解釈を起こしたつもりで
ある。

15【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/10(土) 23:56:28 ID:???0
訳し方によって違うようだが、バタイユの言葉に「至高性」というの
がある。『マダム・エドワルダ』の冒頭にはこんな文がある。

「俺の苦悩はついに至高の王座にのしあがった。廃された俺の主権は
街路に彷徨い出た。悲哀を包み隠した静寂に取り囲まれて。恐ろしい
何物かを待ち伏せして蹲り、にもかかわらずこの悲哀は一切を笑いと
ばす」(生田耕作訳)

至高性とは彼の独創的なエロティシズム論や経済学の中で、有用性や
未来への配慮を一切欠いた純粋なエネルギーの消費のことを意味して
いる。これは西欧合理主義における理性が「生産」への配慮に重きを
置いていることとは真っ向から対立する。それゆえにその立場から見
たならば悪徳ということになろう。

エロティシズムの基本的な領域は暴力であり、その極限は死である。
そしてそれはまた混乱であり、その本質は破壊的な錯乱である。蕩尽
あるいは消尽の概念もこの延長線上にあるが、バタイユはサドなどの
例を持ち出して語るように、これを至高の体験とみなすのである。

「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚だ」

かつて、この至高の体験を保証しているものは神であった。それは祝
祭や供犠といった宗教的儀式を例に挙げればよかろう。神によって、
価値を保証されていたそれは、「神が死んだ」今、無意味なものと化
した。バタイユからすれば、いまや悪徳となったこの至高性の体験の
回復が急務となる。

『マダム・エドワルダ』に登場するヒロイン、エドワルダ夫人。彼女
は「あたしは神なのよ!」と言う。その場面についてはサルトルなど
が解釈を加えているが、端的に言ってそれは、このヒロインが導く極
限的エロティシズムの世界で、主人公『私』ことピエール・アンジェ
リックが、神なき見神体験とでもいうべき、生の極点における一瞬の
至高性を知ることになるからである。だが、そこには薔薇色のエクス
タシーや、天上的な法悦、すなわちアヴィラの聖テレジアのような見
神体験とはわけが違うということを述べておく。それはただただ悲惨
であり、本質的に死と結びついた悦楽・熱狂・錯乱・狂気などへと高
まる悪魔的な活動なのである。

18【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/21(水) 18:58:37 ID:???0
精神がおのれ自身から顔を背け、いわば背を向けて、その頑固さの中で自己
の真実の戯画となるのは、私の目にはさほど驚くべきことでもない。たとえ、
人間が自分に嘘を必要とするにしても、要するに、それは人間の勝手という
ものであろう!たぶん自尊心の高い人間も、人間の集団に溺れるのだ。それ
はそうとして、私が決して忘れることができないのは、現に起こっているこ
と、現に在ることを、眼を開いて正面から見据えようとする意志に結びつい
た、暴力的で驚異的なものである。もし私が、極端な快楽を少しも知らず、
極端な極端な苦痛を少しも知らなければ、現に起こっていることも知りえな
いに違いないのである。(バタイユ『エロティシズム』)

バタイユの論は常に、現実に出来していることに眼を見開くことに向けられ
ているとは既に述べているが、この意図というのは、「人間が不条理な出来
事に対してとりがちな不条理な態度」に対する暴露である。彼の論文には広
島に落とされた原爆によって引き起こされた悲劇についてなどがあるが、そ
こで述べられているのは、端的にいって被害者の悲劇であり、人間が自ら理
性の髄を凝らして作り上げられた核兵器という、最大級の暴力の手段が引き
起こしたものに「俺たち『人間』が、こんな醜悪的なことをしているのだ、
それをお前たちはわかっているのか!?」と突きつけるものである。

核兵器などはその性質について、理性的に語ろうと思えばいくらでも語れる。
バタイユが引き合いに出すのはトルーマン米大統領の発言だ。

「この爆弾の威力はT・N・T火薬二万トンに相当する。その爆発力は、兵
器技術がかつて開発したものの中で、最大の爆弾であるイギリスの『グラン
ド・スラム』より二千倍も強力である」

これは確かに知的な言い方として、その核兵器の性能について正確に述べら
れたものだとはいえる。しかしだ、広島・長崎の人間にそんなことをいって
なんになるというのだろうか。彼らは、そのそんなものが落下してくるとい
うことも、そんなものがあるということすらも「知らなかった」のである。
そしてそれは、人々の生命を瞬時に消し飛ばせた、あるいはあまりにも醜悪
的な後遺症を彼らに与えた。トルーマンの発言の中には一切このようなこと
についての説明はない。このような発言をそこに持ち込んだところで、この
「知」は無意味さを呈する。トルーマンが述べたようなこの「知」は、そう
した理性によっては語りえぬような沈黙の中で宙吊りになっているだけなの
だ。

19【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/18(水) 13:04:10 ID:???0
一旦それますが、チャット内でもいろいろな反響があり、思ったとおり
挑発的なネタであるので復活させました。三島文学との解釈を、さほど
エヴァに詳しくないヤルダバオトさんが、この動画だけを見て三島の解
釈を作ったりくれたりして、ほぼいきなり核心を突くようなものだった
ので驚倒させられました(^^;)。バタイユはサドの描き出すサディ
スティックな残酷譚を読んで眉ひとつ動かさない人たちにではなく、サ
ドのページを繰りつつ気も顛倒し、その激甚な恐怖に襲われるような人
たちに向かってこそ、ものを書くつもりだといっています。また何とい
う逆説だろうかと思いますが、過去十数年前に劇場版を見きった後に嘔
気に苛まれ、ただ沈黙の闇が垂れ込めるだけだったという事実が存在し
ているだけに、このような解釈はまたそれを掘り起こされるようで眉をし
かめる人間も多いのではないだろうかと思います。しかしそれこそが重
要で、バタイユの狙いだといえます。果たして、マスコミやら余暇産業
やらが呈のいい夢物語のような解釈を用意して客を釣り上げ、解説本に
も「なるべく差障りがないように暗部を隠そう」「そんな風には考えた
くない」とするお気楽な黒歴史下が進む事実の中で、かつて論うのもば
かばかしいほどの破綻ぶりを示したあの有様を、どれだけ根こそぎ暴き
出せるかがこの場合のポイントでしょう。このような闇の垂れ込める地
点にまで光をもたらさなければ、自分が無自覚に投げ込まれている状況
など知りえようがないというわけです。
サドを論じるバタイユ、澁澤、出口などを参考にすれば、わたしはむし
ろ、このような内実とは違うようなお気楽天下泰平ムードを煽るメディ
アなどをどのように見据えるか、また何の気なしにそれに乗せられてし
まうリテラシーのなさに戦慄する能力があるかないかで、その人間の生
き方の密度が測れるようなところまできていると思われます。


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