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神聖にして呪われたる生贄

15【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/10(土) 23:56:28 ID:???0
訳し方によって違うようだが、バタイユの言葉に「至高性」というの
がある。『マダム・エドワルダ』の冒頭にはこんな文がある。

「俺の苦悩はついに至高の王座にのしあがった。廃された俺の主権は
街路に彷徨い出た。悲哀を包み隠した静寂に取り囲まれて。恐ろしい
何物かを待ち伏せして蹲り、にもかかわらずこの悲哀は一切を笑いと
ばす」(生田耕作訳)

至高性とは彼の独創的なエロティシズム論や経済学の中で、有用性や
未来への配慮を一切欠いた純粋なエネルギーの消費のことを意味して
いる。これは西欧合理主義における理性が「生産」への配慮に重きを
置いていることとは真っ向から対立する。それゆえにその立場から見
たならば悪徳ということになろう。

エロティシズムの基本的な領域は暴力であり、その極限は死である。
そしてそれはまた混乱であり、その本質は破壊的な錯乱である。蕩尽
あるいは消尽の概念もこの延長線上にあるが、バタイユはサドなどの
例を持ち出して語るように、これを至高の体験とみなすのである。

「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚だ」

かつて、この至高の体験を保証しているものは神であった。それは祝
祭や供犠といった宗教的儀式を例に挙げればよかろう。神によって、
価値を保証されていたそれは、「神が死んだ」今、無意味なものと化
した。バタイユからすれば、いまや悪徳となったこの至高性の体験の
回復が急務となる。

『マダム・エドワルダ』に登場するヒロイン、エドワルダ夫人。彼女
は「あたしは神なのよ!」と言う。その場面についてはサルトルなど
が解釈を加えているが、端的に言ってそれは、このヒロインが導く極
限的エロティシズムの世界で、主人公『私』ことピエール・アンジェ
リックが、神なき見神体験とでもいうべき、生の極点における一瞬の
至高性を知ることになるからである。だが、そこには薔薇色のエクス
タシーや、天上的な法悦、すなわちアヴィラの聖テレジアのような見
神体験とはわけが違うということを述べておく。それはただただ悲惨
であり、本質的に死と結びついた悦楽・熱狂・錯乱・狂気などへと高
まる悪魔的な活動なのである。


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