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大日如来はブラフマン
1
:
時
:2013/05/26(日) 04:42:27 ID:kaIVvnv2
和井恵さん、始めまして。最近、仏教の教えに興味を持った者です。
釈尊の教えにある、縁起の法(四聖諦・八正道)は、四句分別の否定の理解が起これば涅槃に到達するのでは
ないでしょうか?涅槃に到達すると言う表現も変ですね。それは言葉で表現した瞬間に変質してしまう・・・
涅槃は、そのように理解しています。
こちらのブログで眼から鱗だったのが「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時で
す。なるほどと言う思いでした。
空の極至は八不で真諦。非想非非想処は想わず・想わずに非ずの処。と言う事で正定(八正道)の極致で真諦。
この境地を超えられれば・・滅尽定になるのでしょうか?この滅尽定と涅槃との関係が今ひとつ掴め切れていま
せん。
空についてですが、空は無自性ですので当然八不(不生の一不でも良いような)になり、同時に諸行無常(俗諦)
を表現しているように思いますがどうでしょうか。それと不思議なのが大乗等で説かれる大日如来や菩薩等なの
ですが・・これは、バラモン教のブラフマンの思想形態と何が違うのか分からないのです。なぜ釈尊の教えを根
底において学ばれたはずの高層達が、再度、大日如来等を曼荼羅の中心に描いたのか・・自力での苦の滅尽を説
いたはずの釈尊の教えが、なぜに他力の大乗の教えに変化したのか・・「皆空も空=空を空じる」で最終的に全
ては問題が無くなりますが、このような空の概念をいきなり説いて、はたして一般的に理解が起こるのだろうか
・・思考すれば思考するだけ疑問が沸き起こりますね。まだまだ修行不足です。何かとりとめもないお話になっ
てしまい申し訳有りません。
2
:
特明@討論希望
:2013/05/26(日) 23:31:07 ID:EgcCTBig
こんにちは、時さん。
> 釈尊の教えにある、縁起の法(四聖諦・八正道)は、
> 四句分別の否定の理解が起これば涅槃に到達するのではないでしょうか?
── 「四句否定」は、四聖諦を正しく理解するための「必要条件」なのです。
「四句分別」とは、「有る・無い」や「真・偽」といった「相対的な二つの価値」を利用して、
存在論〈ある特定の決めつけ〉を思考によって創作してしまう、あるいは選択してしまう「意行」なのです。
そして、その人が、ある特定の「見解〈価値観〉」を持つ、ということは、
その価値観へのこだわりそのものが、「執着」の結果なので、遠離 ・離貪・解脱・覚りへの妨げとなるのです。
それに対して、四聖諦は、「価値観〈見解〉」に執した「存在論」などではありません。
どうすれば、苦を滅することができるかという、具体的な「方法論〈How to〉」を略説したものなのです。
四聖諦は、苦の生滅のポイントをを「渇愛」の有・無に置きます。
そして、これが大原則で、これのポイントを外してしまったら、四聖諦は無意味になるのです。
渇愛が有れば、苦が生起し、渇愛が無ければ苦は生じない。そして、渇愛を滅すれば苦も滅尽する。
そして、渇愛を完全に滅ぼす道が「八正道」であり、完全に滅ぼした状態、それが「涅槃〈ニルヴァーナ〉」なのです。
これが、釈尊の「初転法輪」によって定義付けられた「涅槃〈ニルヴァーナ〉」の原義なのです。
> こちらのブログで眼から鱗だったのが
> 「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時です。
> なるほどと言う思いでした。
── 実は、この認識に到達した時に、
自分の中で、何度も何度も自問自答を繰り返したんですね。
そして、それが本当に正しいのだと判断するまでには、かなりの時間かかりました。
何と言っても、大乗仏教が「第一義諦」と呼んでいる教えでしたからね…
しかし、やっぱり、釈尊の教えのカテゴリーから言えば、
「非想非非想処〈Aでは無く、そしてAで無くもない〉」という教えを意味していて、
それはまた「四句分別」の四番目の「非A非非A」というカテゴリーを表わしているのです。
もっと、別の表現をするならば、不一不二の「無分別」という「分別」の領域。
釈尊は、三つの処〈領域〉を説いています。
1.有想処 … 別名「七識住」とも呼ばれ、現象界から、無所有処までの七つの階層世界を指します。
2.非想非非想処 … 不一不二、無分別、あるいは「不苦不楽」の世界。
3.無想処 … ここに到達すれば「想受滅」なのですが、普通は気絶状態になるので、
釈尊が教えた「想受滅定」を成就させるには、特殊な修行が必要なのです。
> 空の極至は八不で真諦。
> 非想非非想処は想わず・想わずに非ずの処。
> と言う事で正定(八正道)の極致で真諦。
> この境地を超えられれば・・滅尽定になるのでしょうか?
> この滅尽定と涅槃との関係が今ひとつ掴め切れていません。
非想非非想処を超えるポイントは、ブログ記事に書いてあります。
小空経に説かれている「無相心三昧」のプロセスが、それに当たるのです。
その1.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0228aca4e5b588cfc65771c52a0d13d7
その2.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/d5db6a504b400c93a04a8de32f4a275e
非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。
そして、その時、「無想処」の境地にいるので、心作用〈想と受〉は消滅しています。
それと同時に「渇愛」もそこでは必ず消滅しているので「涅槃と同じ状態」が成立している世界なのです。
※ 涅槃とは、どの世界〈処〉に居ようとも、渇愛の働きが滅していれば、それが「涅槃」なのです。
何処に居ようとも、そこで渇愛を有していれば「涅槃」では無く、渇愛を滅していれば「涅槃」なのです。
〈 つづく 〉
3
:
和井 恵
:2013/05/26(日) 23:34:40 ID:EgcCTBig
※2.のコメントは「和井 恵」がしました。
> 空についてですが、
> 空は無自性ですので当然八不(不生の一不でも良いような)になり、
> 同時に諸行無常(俗諦)を表現しているように思いますがどうでしょうか。
そうですね、「無常」のベースに「空〈縁起〉」が来るので、そうとも言えると思います。
> それと不思議なのが大乗等で説かれる大日如来や菩薩等なのですが・・
> これは、バラモン教のブラフマンの思想形態と何が違うのか分からないのです。
> なぜ釈尊の教えを根底において学ばれたはずの高層達が、
> 再度、大日如来等を曼荼羅の中心に描いたのか・・
大乗仏教の目的は「衆生済度」です。
大日如来なども、基本は「空」なので、仮設された仏〈方便〉なのですが、
しかし、ただそれだけではありません。
密教で大切な一つのポイントとして、「法力〈超越的な加持力〉」の体現を必要とするので
す。
それを発動させるためのシステムとして、大日如来を中心とした「曼荼羅」が役に立つので
す。
つまり、単なる「バラモン教のブラフマンの思想形態」とは、似て非なるもの…なのですね
。
> 自力での苦の滅尽を説いたはずの釈尊の教えが、
> なぜに他力の大乗の教えに変化したのか・・「
> 皆空も空=空を空じる」で最終的に全ては問題が無くなりますが、
実際には、問題は無くなりません。
釈尊は、「非想非非想処」には、無智〈無明〉が潜在すると説いているのですから。
ですが、この境地に到達して留まることが出来るのならば、現世においては最強かも知れま
せんね。
「有想処〈七識住〉」の各境地に比べて、より安定性〈不変性〉が高い境地ですから…
ただし、到達することは、かなり難しいですけど。
> まだまだ修行不足です。
> 何かとりとめもないお話になってしまい申し訳有りません。
いえ、いつでもお気軽においでください。
4
:
時
:2013/05/27(月) 02:08:42 ID:kaIVvnv2
和井恵さん、こんにちは。返信を有難う御座います。
> ── 「四句否定」は、四聖諦を正しく理解するための「必要条件」なのです。
なるほど、必要条件だったのですか。
中論の帰敬序で、初めに八不、続いて「戯論の寂滅という吉祥なる縁起の理を説きたもう仏陀を、諸々の説法者のうちで最も優れた人として敬礼する。」と書かれていましたので、てっきり釈尊の教えを十二分に理解した龍樹が中論を書き上げる(説く)際に、「釈尊の教えの結果」=「龍樹の最終理解」=「戯論の寂滅」を冒頭に置いたのだと思いました。「戯論の寂滅」と言う「吉祥なる縁起の理」と言う事で、縁起の法の理解が起これば、その段階段階に応じて「戯論の滅」が起こると。そしてこの「戯論」とは、四句分別の事ではないのだろうかと思ったのですが・・
そして「空」が中論にて説かれ、その内容が「戯論の寂滅」と言うのは ⇒「四句否定」=「八不」=「第一義諦」=「戯論の寂滅」の流れのように感じていました。。
> 「四句分別」とは、「有る・無い」や「真・偽」といった「相対的な二つの価値」を利用して、存在論〈ある特定の決めつけ〉を思考によって創作してしまう、あるいは選択してしまう「意行」なのです。
> そして、その人が、ある特定の「見解〈価値観〉」を持つ、ということは、その価値観へのこだわりそのものが、「執着」の結果なので、遠離 ・離貪・解脱・覚りへの妨げとなるのです。
ご説明は理解しました。有難う御座います。
>それに対して、四聖諦は、「価値観〈見解〉」に執した「存在論」などではありません。
>どうすれば、苦を滅することができるかという、具体的な「方法論〈How to〉」を略説したものなのです。
>四聖諦は、苦の生滅のポイントを「渇愛」の有・無に置きます。
>そして、これが大原則で、これのポイントを外してしまったら、四聖諦は無意味になるのです。
四聖諦は実践的な方法論ですね。
>渇愛が有れば、苦が生起し、渇愛が無ければ苦は生じない。そして、渇愛を滅すれば苦も滅尽する。
渇愛が滅する段階に応じて、その苦も軽減していくと言う理解ですね。
そしてその愛は、欲愛・有愛・無有愛の三愛と表現されるもので、それに執着する事で苦が発生すると理解しています。つまりは、無常なるものが「在る=自性」と言う思いに一瞬でも囚われてしまい、それに固執する事で「苦」が発生すると・・今は、こんな風に理解しているのですが・・・
>そして、渇愛を完全に滅ぼす道が「八正道」であり、完全に滅ぼした状態、それが「涅槃〈ニルヴァーナ〉」なのです。
>これが、釈尊の「初転法輪」によって定義付けられた「涅槃〈ニルヴァーナ〉」の原義なのです。
理解しました。有難う御座います。
・・続きます
5
:
時
:2013/05/27(月) 02:09:20 ID:kaIVvnv2
> こちらのブログで眼から鱗だったのが「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時です。
> なるほどと言う思いでした。
>── 実は、この認識に到達した時に、
>自分の中で、何度も何度も自問自答を繰り返したんですね。
>そして、それが本当に正しいのだと判断するまでには、かなりの時間かかりました。
>何と言っても、大乗仏教が「第一義諦」と呼んでいる教えでしたからね…
>しかし、やっぱり、釈尊の教えのカテゴリーから言えば、「非想非非想処〈Aでは無く、そしてAで無くもない〉」という教えを意味していて、それはまた「四句分別」の四番目の「非A非非A」というカテゴリーを表わしているのです。
>もっと、別の表現をするならば、不一不二の「無分別」という「分別」の領域。
「非想非非想処」は、やはり「七識住」とは次元が違うのですね。。お陰様で「釈尊の教え」と「龍樹の教え」が点で交わった感じがします。有難う御座います。
> 非想非非想処を超えるポイントは、ブログ記事に書いてあります。
> 小空経に説かれている「無相心三昧」のプロセスが、それに当たるのです。
> その1.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0228aca4e5b588cfc65771c52a0d13d7
> その2.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/d5db6a504b400c93a04a8de32f4a275e
ご紹介を有難う御座います。ゆっくりと拝見させて頂きたいと思います。
> 非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。
気絶状態ですか・・・何か凄まじいですね。
> ※ 涅槃とは、どの世界〈処〉に居ようとも、渇愛の働きが滅していれば、それが「涅槃」なのです。
> 何処に居ようとも、そこで渇愛を有していれば「涅槃」では無く、渇愛を滅していれば「涅槃」なのです。
理解しました、有難う御座います。
> 大乗仏教の目的は「衆生済度」です。
> 大日如来なども、基本は「空」なので、仮設された仏〈方便〉なのですが、しかし、ただそれだけではありません。
> 密教で大切な一つのポイントとして、「法力〈超越的な加持力〉」の体現を必要とするのです。
> それを発動させるためのシステムとして、大日如来を中心とした「曼荼羅」が役に立つのです。
> つまり、単なる「バラモン教のブラフマンの思想形態」とは、似て非なるもの…なのですね。
漠然とした私の知識では、やはり理解が起こらないようです。今は密教等は置いて置く事にします。
もう一つ教えていただきたいのですが・・
空は非想非非想と同じ次元ならば、有頂天と表現される「非想非非想処」は、まだ無明の残る「有の世界」なのではないのですか。それと同じ次元の「空」を説いていると言うことは・・「衆生済度」は可能なのでしょうかね?大乗の僧は、自らの悟りを遅らせてでも「衆生済度」を説いているのでしょうか。。。小乗をなさぬのに大乗をなせるものなのでしょうか。。僧侶の修行においても、我々凡夫に教えを説いていただけるにしても「空」なのですよね。「衆生済度」を説かれる大乗の僧侶は、釈尊の教えの「想受滅定」等はマスターされているのでしょうか。(何か私の認識の間違いがあるのかもしれませんが、出家者用の空を越える教えがあるのでしょうか・・)
表現等、勉強不足であまり的確ではないかも知れませんが、よろしくお願いします。
>いえ、いつでもお気軽においでください。
ご丁寧に、有難う御座います。
6
:
和井 恵
:2013/05/27(月) 03:33:24 ID:EgcCTBig
> 中論の帰敬序で、初めに八不、続いて
> 「戯論の寂滅という吉祥なる縁起の理を説きたもう仏陀を、
> 諸々の説法者のうちで最も優れた人として敬礼する。」と書かれていましたので、
> てっきり釈尊の教えを十二分に理解した龍樹が中論を書き上げる(説く)際に、
> 「釈尊の教えの結果」=「龍樹の最終理解」=「戯論の寂滅」を冒頭に置いたのだと思いました。
> 「戯論の寂滅」と言う「吉祥なる縁起の理」と言う事で、縁起の法の理解が起これば、
> その段階段階に応じて「戯論の滅」が起こると。
> そしてこの「戯論」とは、四句分別の事ではないのだろうかと思ったのですが・・
「戯論」=「六十二見〈梵網経〉」=「四苦分別」は、その通りで正しい認識だと思います。
ただ、「四句否定」をしただけで、ニルヴァーナ〈渇愛の滅尽〉へは到れません。
そもそも、釈尊が弟子たちに説いた「縁起」と、大乗仏教の説く「縁起」とでは、内容が異なりますからね…
※釈尊の説いた「縁起」の説明 →
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0c6cafb7465274c6899e8885bdd173f3
> そして「空」が中論にて説かれ、その内容が「戯論の寂滅」と言うのは
> ⇒「四句否定」=「八不」=「第一義諦」=「戯論の寂滅」の流れのように感じていました。。
大乗的な「空」の解釈としては、そうなるのでしょうね。
> 四聖諦は実践的な方法論ですね。
その通りです。
> 渇愛が滅する段階に応じて、その苦も軽減していくと言う理解ですね。
そしてその愛は、欲愛・有愛・無有愛の三愛と表現されるもので、
> それに執着する事で苦が発生すると理解しています。
欲愛とは、欲界〈五感に執した五妙欲の世界〉への渇愛。
有愛とは、色界と無色界〈より優れた瞑想の境地〉への渇愛。
無有愛とは、無想処への、あるいは「涅槃」への渇愛なのです。
つまり、言い換えれば、有想処・非想非非想処・無想処、
これら「三処〈三界〉」への執着〈結縛〉を生み出す渇愛を、全て滅するのです。
渇愛によって「輪廻転生」の苦しみの連鎖が生じる、ということが、
釈尊の教えの「根底にある認識〈基本認識〉」なのです。
> つまりは、無常なるものが「在る=自性」と言う思いに一瞬でも囚われてしまい、
> それに固執する事で「苦」が発生すると・・今は、こんな風に理解しているのですが・・・
大乗仏教の教義としては、その理解で正しいと思います。
ただ、大乗の教えと、釈尊が直接説いた教えとは「異なる」のです。
( つづく )
7
:
和井 恵
:2013/05/27(月) 04:19:36 ID:EgcCTBig
> 「非想非非想処」は、やはり「七識住」とは次元が違うのですね。。
はい、色界から無色界の「無所有処」までは、
「連続(包摂)」しているので、瞑想を修練することで深化してゆくことは、それほど難しくはありません。
しかし、無所有処を頂点とする有想処と、非想非非非想処とは「断絶(カテゴリーが異なる)」しているので、
その断絶を飛び越えて非想非非想処へと至るのは、単なる瞑想の修練だけでは、かなり難しいのです。
つまり、飛ぶ前に、ある程度の、目的地〈非想非非想処〉の「把握」を必要とするのです。
>> 非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。
> 気絶状態ですか・・・何か凄まじいですね。
普通は、無想処へは、気絶〈心作用の停止〉をしなければ至れません。
「心作用」を構成する要素は「想」と「受」なのです。
そして、「行〈身・語・心〉」の働きも、同時に止まります。
※「語〈口〉」を構成する要素は「尋」「伺」で、四禅定の第二禅で停止します。
「身」を構成する要素は「出・入息」で、四禅定の第四禅で停止します。
「心〈意〉」をを構成する要素は「想」「受」で、想受滅定において停止するのです。
ですから、「受」や「想」や「行」という「諸蘊〈自我の構成要素〉」に囚われて〈執して〉いると、
それらの働きの停止〈消滅〉に巻き込まれて「識」の働きも停止〈つまり気絶を〉してしまうのです。
「五蘊無我」の教えによって、その実践によって、諸蘊への執着が消えると、無想所へと至っても、
「識」と「色」は、相互依存関係を保ち続けることが出来るので、その境地を「識知」することは可能なのです。
ですから、その特殊な「識」の状態を「智慧の眼」の発現と、経典では表現しているのです。
> 空は非想非非想と同じ次元ならば、有頂天と表現される「非想非非想処」は、
> まだ無明の残る「有の世界」なのではないのですか。
その通りです。
> それと同じ次元の「空」を説いていると言うことは・・
> 「衆生済度」は可能なのでしょうかね?
釈尊が説いた仏教と、大乗仏教は、その目的が異なります。
釈尊は、一人一人を、少しでも素早く「涅槃〈渇愛の滅・輪廻からの離脱〉」へと導くことを目的としています。
しかし、大乗仏教はそうではなく、一人でも多くの「菩薩」を目覚めさせ、自他共に、輪廻の流れの中に踏み留まり、
より多くの人々〈衆生〉を、輪廻の苦しみから救い出そう、と考えて、それを実践しようとしているのです。
そのためには、釈尊の教え〈ニルヴァーナへの最短の道を説く〉では、目的に合わないのです。
〈ニルヴァーナの手前で、一歩踏みとどまり続けることの出来る教え〉でなければいけないのです。
そういう意味では、「非想非非想処」の教えは、最強〈最適〉なのです。
> 大乗の僧は、自らの悟りを遅らせてでも「衆生済度」を説いているのでしょうか。。。
さあ、それはちょっと解りませんね。
> 小乗をなさぬのに大乗をなせるものなのでしょうか。。
私は、難しいと考えています。
基本〈根本〉を知っていなければ、応用もできませんから…
> 僧侶の修行においても、我々凡夫に教えを説いていただけるにしても「空」なのですよね。
> 「衆生済度」を説かれる大乗の僧侶は、釈尊の教えの「想受滅定」等はマスターされているのでしょうか。
「想受滅定」をマスターしている人は、いないでしょう。
それを、マスターしようとすら考えていないと思います。
> (何か私の認識の間違いがあるのかもしれませんが、出家者用の空を越える教えがあるのでしょうか・・)
それが、釈尊の説いた「四諦八正道」の教えなのです。
8
:
時
:2013/05/27(月) 12:26:31 ID:haDDP0xo
>ただ、「四句否定」をしただけで、ニルヴァーナ〈渇愛の滅尽〉へは到れません。
何処でずれたのか、どうも私は知らない間に大乗の教えを自ら学んでいたようですね。それでしたら、大乗の空が菩薩を多く目覚めさせる
目的を持ち、非想非非想処と同じ次元でこの有の世界では頂点(最強)だと言う意味も理解できます。
現在の「仮我」は、生まれてから現在までに積み重ねられた「無明→行」が基本となり存在すると仮設します。無明とは、四聖諦を知らない事。行とは、身口意の三行ですので、この場合は、無明故に正しくない三行を習慣的に行ってしまっていると言う事で、これを打ち破る為に、身念処=不浄想・受念処=皆苦・心念処=無常・法念処=無我の「四念処」の修行を実践します。これにより「識と名色」を滅する流れを作ります。身念処は、四大の観察と墓場の死体の観察等の、あるがままのものをあるがままに観察し続けると言う事で、これにより「一切において、これは私のものである」等の自他共にその仮我の抱く各種幻想から離脱し、身体と言う色は生滅変化しているだけなのだと観る。四念処の修行とは、観の瞑想の事でしょうか。これを継続する事により、五取蘊、つまりは今までの記憶や体験等による現在の「識 名色」を滅する事に繋がると言う理解で、そしてこれは「木の根ごと根こそぎ引き抜く」作業、慧解脱に通じる修行であり、渇愛の大元である現在の私と言う「識と名色」の滅尽に繋がる修行と言う理解で宜しいでしょうか。
9
:
和井 恵
:2013/05/28(火) 03:58:32 ID:GE8fIX9k
> 身念処=不浄想・受念処=皆苦・心念処=無常・法念処=無我の
> 「四念処」の修行を実践します。
> これにより「識と名色」を滅する流れを作ります。
「 四念処 」を、「 身 … 不浄・受 … 苦・心 … 無常・法 … 無我 」に当てはめたのは、
部派仏教のアビダルマ論者たちですので、あまりこのようなパターン認識はお勧めできません。
> 身念処は、四大の観察と墓場の死体の観察等の、
> あるがままのものをあるがままに観察し続けると言う事で、
> これにより「一切において、これは私のものである」等の
> 自他共にその仮我の抱く各種幻想から離脱し、
> 身体と言う色は生滅変化しているだけなのだと観る。
経典では、「 身 」 は呼吸の入出息と深く関わると説いてますから、
アーナパーナサティ〈入出息念〉を「身念処」と捉えた方がいいと思います。
経典としては、中部62経 「 大ラーフラ教誡経 〈 入出息念の修行法 〉 」 が参考になるでしょう。
「 受〈 苦・楽・不苦不楽の三受 〉」 にポイントを置いた瞑想は 「 四禅定 」 です。
これは、三毒の根本煩悩の全て〈 貪・瞋・痴 〉にアプローチします。
そして、それぞれの 「 受 」 の有無を、そのまま観察するのでする
「 心 」にポイントを置いた瞑想は「 四梵住〈 四無量心 〉 」です。
「 慈 … 怒り、悲 … 害心、喜 … 不平不満、捨 … 貪り 」にアプローチします。
そして、それぞれの「心」の有無を、そのまま観察するのです。
「 法 」 については、中部10経 「 念処経 」 などを読むと、
法 〈 五蓋・五蘊・六処・七覚支・四聖諦 〉 と、
「照らし合わせて」、自己の現状をチェックする … という感じですかね。
10
:
和井 恵
:2013/05/28(火) 03:59:31 ID:GE8fIX9k
> 四念処の修行とは、観の瞑想の事でしょうか。
── そうですね。
「 止 」 ではなく 「 観 」 の瞑想です。
ただし、テーラワーダ仏教が説く 「 観 〈 ヴィパサナー 〉 」 とは異なります。
「 観 」 = 「 有尋有伺定 」 と 「 無尋有伺定 」 を指しているのです。
〈 「 無尋無伺定 」 = 「 止 〈 シャマタ 〉 」 です。〉
> これを継続する事により、五取蘊、
> つまりは今までの記憶や体験等による
> 現在の「識 名色」を滅する事に繋がると言う理解で、
> そしてこれは「木の根ごと根こそぎ引き抜く」作業、
> 慧解脱に通じる修行であり、
> 渇愛の大元である現在の私と言う
> 「識と名色」の滅尽に繋がる修行と言う理解で宜しいでしょうか。
そうですね、要するに、渇愛を生起させる「妄執想」を滅するのです。
中部5経「無垢経」に、
また友よ、そのうち、無垢であっても〈私には内に垢がない〉と如実に知らない人には、
次のような事が必ず起きるでしょう。
すなわち、浄相〈貪りが生起する所縁となる〉を思惟しようとします。
彼が浄相〈 = 常・楽・我・浄 〉を思惟すれば、貪りが心を堕落させます。
彼は、貪りがあり、怒りがあり、愚痴があり、垢があり、
心の汚れた者として、死ぬことになるのです。
友よ、それは喩えば、店か鍛冶工の家から運ばれてきた、
塵や垢に覆われている銅鉢があって、
これを所有者が使用したり、綺麗に拭いたり、また塵の道に放置したりしない場合、
友よ、その銅鉢が後にはいよいよ清らかになり、綺麗になるようなものです」
とありますが、この「浄相を思惟すること」が、妄執想を作り出す因となるのです。
11
:
時
:2013/05/28(火) 04:45:36 ID:haDDP0xo
和井 恵 さん、今回は、ご解説有難う御座いました。
「 観 」 = 「 有尋有伺定 」 と「 無尋有伺定 」
「 止 〈 シャマタ 〉 」= 「 無尋無伺定 」と言う事ですので、「観」の瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)
を続けたいと思います。
今回は、大変勉強になりました。有難う御座いました。
12
:
和井 恵
:2013/05/28(火) 07:45:26 ID:GE8fIX9k
> 今回は、大変勉強になりました。有難う御座いました。
お役に立てたのなら、幸いです。
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