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大日如来はブラフマン
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:
特明@討論希望
:2013/05/26(日) 23:31:07 ID:EgcCTBig
こんにちは、時さん。
> 釈尊の教えにある、縁起の法(四聖諦・八正道)は、
> 四句分別の否定の理解が起これば涅槃に到達するのではないでしょうか?
── 「四句否定」は、四聖諦を正しく理解するための「必要条件」なのです。
「四句分別」とは、「有る・無い」や「真・偽」といった「相対的な二つの価値」を利用して、
存在論〈ある特定の決めつけ〉を思考によって創作してしまう、あるいは選択してしまう「意行」なのです。
そして、その人が、ある特定の「見解〈価値観〉」を持つ、ということは、
その価値観へのこだわりそのものが、「執着」の結果なので、遠離 ・離貪・解脱・覚りへの妨げとなるのです。
それに対して、四聖諦は、「価値観〈見解〉」に執した「存在論」などではありません。
どうすれば、苦を滅することができるかという、具体的な「方法論〈How to〉」を略説したものなのです。
四聖諦は、苦の生滅のポイントをを「渇愛」の有・無に置きます。
そして、これが大原則で、これのポイントを外してしまったら、四聖諦は無意味になるのです。
渇愛が有れば、苦が生起し、渇愛が無ければ苦は生じない。そして、渇愛を滅すれば苦も滅尽する。
そして、渇愛を完全に滅ぼす道が「八正道」であり、完全に滅ぼした状態、それが「涅槃〈ニルヴァーナ〉」なのです。
これが、釈尊の「初転法輪」によって定義付けられた「涅槃〈ニルヴァーナ〉」の原義なのです。
> こちらのブログで眼から鱗だったのが
> 「空は非想非非想と同じ」と言うような事が書かれていたのを見た時です。
> なるほどと言う思いでした。
── 実は、この認識に到達した時に、
自分の中で、何度も何度も自問自答を繰り返したんですね。
そして、それが本当に正しいのだと判断するまでには、かなりの時間かかりました。
何と言っても、大乗仏教が「第一義諦」と呼んでいる教えでしたからね…
しかし、やっぱり、釈尊の教えのカテゴリーから言えば、
「非想非非想処〈Aでは無く、そしてAで無くもない〉」という教えを意味していて、
それはまた「四句分別」の四番目の「非A非非A」というカテゴリーを表わしているのです。
もっと、別の表現をするならば、不一不二の「無分別」という「分別」の領域。
釈尊は、三つの処〈領域〉を説いています。
1.有想処 … 別名「七識住」とも呼ばれ、現象界から、無所有処までの七つの階層世界を指します。
2.非想非非想処 … 不一不二、無分別、あるいは「不苦不楽」の世界。
3.無想処 … ここに到達すれば「想受滅」なのですが、普通は気絶状態になるので、
釈尊が教えた「想受滅定」を成就させるには、特殊な修行が必要なのです。
> 空の極至は八不で真諦。
> 非想非非想処は想わず・想わずに非ずの処。
> と言う事で正定(八正道)の極致で真諦。
> この境地を超えられれば・・滅尽定になるのでしょうか?
> この滅尽定と涅槃との関係が今ひとつ掴め切れていません。
非想非非想処を超えるポイントは、ブログ記事に書いてあります。
小空経に説かれている「無相心三昧」のプロセスが、それに当たるのです。
その1.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0228aca4e5b588cfc65771c52a0d13d7
その2.→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/d5db6a504b400c93a04a8de32f4a275e
非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。
そして、その時、「無想処」の境地にいるので、心作用〈想と受〉は消滅しています。
それと同時に「渇愛」もそこでは必ず消滅しているので「涅槃と同じ状態」が成立している世界なのです。
※ 涅槃とは、どの世界〈処〉に居ようとも、渇愛の働きが滅していれば、それが「涅槃」なのです。
何処に居ようとも、そこで渇愛を有していれば「涅槃」では無く、渇愛を滅していれば「涅槃」なのです。
〈 つづく 〉
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