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大日如来はブラフマン

7和井 恵:2013/05/27(月) 04:19:36 ID:EgcCTBig
> 「非想非非想処」は、やはり「七識住」とは次元が違うのですね。。

はい、色界から無色界の「無所有処」までは、
「連続(包摂)」しているので、瞑想を修練することで深化してゆくことは、それほど難しくはありません。
しかし、無所有処を頂点とする有想処と、非想非非非想処とは「断絶(カテゴリーが異なる)」しているので、
その断絶を飛び越えて非想非非想処へと至るのは、単なる瞑想の修練だけでは、かなり難しいのです。
つまり、飛ぶ前に、ある程度の、目的地〈非想非非想処〉の「把握」を必要とするのです。


>> 非想非非想処を超えて、尚かつ「気絶状態」を克服しているならば「想受滅定」なのです。

> 気絶状態ですか・・・何か凄まじいですね。

普通は、無想処へは、気絶〈心作用の停止〉をしなければ至れません。
「心作用」を構成する要素は「想」と「受」なのです。
そして、「行〈身・語・心〉」の働きも、同時に止まります。

 ※「語〈口〉」を構成する要素は「尋」「伺」で、四禅定の第二禅で停止します。
  「身」を構成する要素は「出・入息」で、四禅定の第四禅で停止します。
  「心〈意〉」をを構成する要素は「想」「受」で、想受滅定において停止するのです。

ですから、「受」や「想」や「行」という「諸蘊〈自我の構成要素〉」に囚われて〈執して〉いると、
それらの働きの停止〈消滅〉に巻き込まれて「識」の働きも停止〈つまり気絶を〉してしまうのです。

「五蘊無我」の教えによって、その実践によって、諸蘊への執着が消えると、無想所へと至っても、
「識」と「色」は、相互依存関係を保ち続けることが出来るので、その境地を「識知」することは可能なのです。
ですから、その特殊な「識」の状態を「智慧の眼」の発現と、経典では表現しているのです。


> 空は非想非非想と同じ次元ならば、有頂天と表現される「非想非非想処」は、
> まだ無明の残る「有の世界」なのではないのですか。

その通りです。


> それと同じ次元の「空」を説いていると言うことは・・
> 「衆生済度」は可能なのでしょうかね?

釈尊が説いた仏教と、大乗仏教は、その目的が異なります。

釈尊は、一人一人を、少しでも素早く「涅槃〈渇愛の滅・輪廻からの離脱〉」へと導くことを目的としています。
しかし、大乗仏教はそうではなく、一人でも多くの「菩薩」を目覚めさせ、自他共に、輪廻の流れの中に踏み留まり、
より多くの人々〈衆生〉を、輪廻の苦しみから救い出そう、と考えて、それを実践しようとしているのです。
そのためには、釈尊の教え〈ニルヴァーナへの最短の道を説く〉では、目的に合わないのです。
〈ニルヴァーナの手前で、一歩踏みとどまり続けることの出来る教え〉でなければいけないのです。

そういう意味では、「非想非非想処」の教えは、最強〈最適〉なのです。


> 大乗の僧は、自らの悟りを遅らせてでも「衆生済度」を説いているのでしょうか。。。

さあ、それはちょっと解りませんね。


> 小乗をなさぬのに大乗をなせるものなのでしょうか。。

私は、難しいと考えています。
基本〈根本〉を知っていなければ、応用もできませんから…


> 僧侶の修行においても、我々凡夫に教えを説いていただけるにしても「空」なのですよね。
> 「衆生済度」を説かれる大乗の僧侶は、釈尊の教えの「想受滅定」等はマスターされているのでしょうか。

「想受滅定」をマスターしている人は、いないでしょう。
それを、マスターしようとすら考えていないと思います。


> (何か私の認識の間違いがあるのかもしれませんが、出家者用の空を越える教えがあるのでしょうか・・)

それが、釈尊の説いた「四諦八正道」の教えなのです。


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