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詩・歌・管・弦 part 2

1千手★:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。

147千手:2008/07/30(水) 08:44:36
山中さんのその歌とりあえず全体紹介しておきます。

ただよひてその掌に死ねといひしかば虚空日月夢邃きかも (『虚空日月』)

148千手:2008/09/28(日) 11:44:21
>>141
こんな言い方ができるかもしれない。
短歌は濃縮ジュースのようなものだ。正しく還元できればもともとのシュティムング(Stimmung)を現に再生できる。
高度な歌の場合還元法は非常に複雑だ。だが必ず音律法があり、音律によってみずからのあり位置を正確に指示する。
そしてしばしば本歌など、自分の思考の位置、所在地を指示するための参照歌ないしは参照テクストがある。
音律の組み立て方が作家のもっとも個人的なところ。
還元法は音律を軸にその他の要素を織り込んでゆく一種の個人文法のようなもの。

とりあえず思いつくまま。

149千手:2008/10/07(火) 00:16:06
鶴見和子歌集『花道』 二十四首を読む をupしました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_1.html
コメントをいただければ幸いです。

150千手:2008/10/16(木) 22:40:37
「風土と日本文化研究会」第十六回研究会(2006年11月18日)の『折口信夫・釈迢空の「國」歌』の配布資料をブログで公開しました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_2.html
さらに議論が広がるならなお幸いです。

151千手:2008/10/22(水) 15:00:50
山中智恵子さん、亡くなるとき、わたしの夢枕に現れてくれた、という話です。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_3.html

152千手:2008/10/31(金) 22:41:33
フランキーさんという翻訳をしてくれたインドネシアの先生が
「オイナニケケ」というスラウェシ島マナドの民謡のテープを送ってくれました。
その話です。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_5.html

153千手:2008/11/01(土) 00:20:55
>>152
CONNIE MARIAさんの歌うその歌を聞くと、言い難い幸福感を感じます。
その幸福感は、そのミナハサ・ツアーの間中感じたものだった。深い深い幸福感。
そのまま死んでもいいと思うような。比類がない。
ちょっと違うが、シュトラウスの「死の四つ歌」の「眠りにつこうとして」に近いかもしれない。
「ケケ」の方がもっと暖かいものだが。
どこかに南の国の幸福があるのだ。

154千手:2008/12/04(木) 13:44:18
 今日読んだ鶴見和子『歌集 山姥』より

翼のべ空飛ぶ鳥を見つつ思う自由とは孤独を生きぬく決意

いい。すばらしい。

155千手:2008/12/20(土) 00:25:51
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen.
(Hoelderlin: Haelfte des Lebens)
'kalt'の続きが何なのか分からなくなっていた。'trunken von Kuessen'かと思っていたところだ。
'Klirren die Fahnen'だった。それだとなお救いがない。

156毛蟹:2008/12/20(土) 15:13:12
>154
そうでしょうか?
鳥もコミュニティーを離れては生きてゆけないはずです。
「孤独を生きぬく決意」ではなく、「誰にも助けられず一人で死に行く覚悟」なら僕にも共感できます。

157千手:2008/12/20(土) 23:32:20
>>156
そのどちらでもなく、孤立することをおそれずに進んでゆくという姿勢を明確にしている歌だと理解しています。

158毛蟹:2008/12/21(日) 09:53:18
>157
生き物への理解の足りない歌だと理解しました。

159毛蟹:2008/12/21(日) 10:47:53
この歌人の望むところは「生成」ではなく「説得」だと思います。

160千手:2008/12/22(月) 23:34:24
同じく鶴見和子『歌集 山姥』より

もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

この揺れ、振動に宇宙の無限のふるえがあるようだ。

161千手:2008/12/31(水) 14:49:13
鶴見和子歌集『山姥』の紹介。
http://25237720.at.webry.info/200812/article_4.html

162毛蟹:2009/01/03(土) 10:22:29
>160,161
旧年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いします。

161拝読しました。160の歌は未来の予測不可能性(意志なき意志)に対する「探り」だと感じました。
「もう死にたい」がなければいい歌です。くどい。どうしてこの歌人はこうも読み手を説得したがるのでしょう。
生理的に拒絶反応が生じます。

163千手:2009/01/03(土) 14:44:53
>>162
(もう死にたい )
まだ死なない 
山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

「もう死にたい」はかなりの部分作者のサービス精神でしょう。
一筋だけが対話になっていると思います。
ベートーベンの
「こうでなければならないのか?
こうでなければならない」
というメモ書きのように。

164千手:2009/01/06(火) 00:39:25
『鶴見和子を語る』という本を読みはじめたが、その中で鶴見俊輔さんがこう語っている。
>それは彼女の価値判断の基準が変わったんです。つまり学問の世界というのがあって、一番はだれだというのが彼女のはじめの発想だったんです、アメリカへ行っても。人生の終わりになったら、自分はいまここで身障者とsていこうやってここで暮らしている。この片隅の暮らしがすべての基準になるんです。だから価値の転換があるんです。(p.62)
>だから名声からは離れていると。(p.62)
>片隅の人生の、これが実人生なんです。だから一番病(いちばんびょう)だと私は批判してきたんだけれども、最後の十年は一番病から自由になった。(p.63)
 俊輔さんのこうした批判的な捉え方はおよそ的確で魅力的なのだが、「最後の十年は一番病から自由になった」という理解には疑問を感じる。短歌を作っていた最後の十年、和子さんは短歌の中にも自分の実経験を型に帰属させる発想法と、よき未来の予告を語るという(未来病的な)発想法を持込んでいて、その大別して二つの発想法によって実人生のリアルな経験を干物のようなものにしてしまっている。
晩年の三歌集(『回生』『花道』『山姥』)を読んで、私がほんとによいと言えるのは二首だけだ。『回生』のなかの「カタストロフィー、カタストロフィー」の歌と、>>160に引いた「もう死にたい」の二首。

165千手:2009/01/06(火) 00:56:55
鶴見俊輔さん(↑)の
>八十歳に近く、彼女が脳出血で倒れたとき、歌は彼女にもどって来た。はじめは型はずれだったけれど、だんだんに型がととのって来て、その後、彼女は紀貫之の歌の理論、歌は生きとし生けるものの、生きる姿勢の中にあるという伝統にもどりました。
という理解にも二重の疑問を感じる。一つは紀貫之の歌論の理解に関して。もう一つは鶴見和子の歌の位置づけに関して。
 これについてはきちんとした反論を書くつもりだが、和子さんはよきにせよ悪しきにせよ、「一番病」を、名利の意識と言えそうなものを、短歌の中にまで持込んでいるのだ。99.9%までがそういう歌だ。通例の一番病や名声欲のようなものとは違ったものだが、だが「リアルなもののかかわり」を何よりも尊重する態度とは逆の物なのだ。

 このことをきちんと書こうと思うのだが、同時に自分は何という修羅の中にいるのだろうと感じる。
 だが俊輔さんは多分わたしのこのような反論も分かっていて、明確には語らないが、そこのところを鶴見和子の「業」として、「自分性」(わたしの造語)として捉えているのだと思う。

166千手:2009/01/06(火) 01:44:58
>>164,>>165
http://25237720.at.webry.info/200901/article_2.html
に修正・再録しました

167毛蟹:2009/01/07(水) 13:17:58
>166
この歌人は「(誰にも助けられず、看取られず)黙して死にゆく」生き物ではありません。しかしほとんどの生き物はそのように死んでゆきます。
この歌人はそのような生き物たちの死から何かを学んだのでしょうか。
山中智恵子の「蝉」の歌にはこの「黙して死にゆく」生き物と同じ生が感じられるのです。なんとなくです。

168千手:2009/01/08(木) 04:00:52
>>167
自分の死としては現在望みうる最高の環境での死しか想像できなかった人だと思います。

169千手:2009/01/08(木) 04:12:29
承前
鶴見俊輔さんがとても的確な捉え方をしている。
>自分ひとりを相手にして、自分ひとりで芝居をしていて、楽しんでいる。p。120
と。主に宇治の施設での最後の十年の生活についてのことだ。この批判的な眼差しに少し驚いた。
 それがさらに、肯定的な捉え方でもあるということが次のところからわかる。
>和子は戦後、政治に出ていたら、当選してますよ。それから一回ぐらいは大臣をやれたでしょう。それが彼女にとって大変にまずいことになっただけなんだ、好きじゃないんだから。それは宇治の施設で自分の部屋で一人芝居しているほうがいいんですよ。それも自分の幸運と思うだけの見識が、彼女には具わっていた。
 鶴見和子の晩期十年の短歌をどう肯定的に捉えられるかを思慮しているのだが、「ひとり生活の処世術」として大きな意味がある仕事だと言えないか、と思っている。

170千手:2009/01/08(木) 04:16:04

後半の引用はp.130

171千手:2009/01/08(木) 04:28:17
こんなページがある。
>鶴見(俊輔) 着るものも、おふくろの着ていた着物を裁断して、自分がいま着て寝てるって。これは和服の問題ですね。ちょっと洋服じゃそうならないと思う。そういうことを楽しんでいたんです。
>黒田(杏子) 終の日のお着物も決めておられたんです。
   「藍鼠の郡上紬に朱の衿かけたるままに書きおきぬ旅装束と畳紙の上に」(『山姥』)
  そのとおりに旅立たれた。俊輔さんがお通夜のとききれいだねえと。
>鶴見 すべて自分の想像の中で楽しんで、死に装束すらも楽しんでいた。
>黒田 最後まで衣食住を堪能された稀有の人。
>鶴見 そうですね。本当に。
>金子(兜太) できたといいうこtだな。それが。見事だよ。敬服するな。p.115
 わたしはそれを「堪能した」とは思わない。むしろ「管理した」と感じる。
 そして金子さんは「敬服する」と言っているが、わたしは敬服しない。むしろ哀れむ。どうしてここまで自己管理しないと気がすまないのか?

172千手:2009/01/08(木) 04:36:19
わたしは最近、哲学者も一種の猟師で、殺すことを本来の仕事にしている存在だと感じている。
何を殺す? 業の尽きた有情を。
 そしてまた「送り」をして成仏の手助けをしてやらなければならない、と。まさに諏訪の勘文の思想だ。

173千手:2009/01/08(木) 04:41:15
「送り」をして、もしくは「食べて」と言い直した方がいいか。

174毛蟹:2009/01/08(木) 08:22:55
>172
よくわかりますが、「カタストロフィー」と「もう死にたい」も火に食わせてあげないと。

175千手:2009/01/09(金) 23:35:57
>>172
を修正してブログにup。
http://25237720.at.webry.info/200901/article_4.html

176千手:2009/01/10(土) 02:11:56
宇治ゆうゆうの里に行って来ました。
診療所の鶴見和子さんの最後にいた病室に入れてもらって、窓の外に「山茱萸の緑の青葉」を探したのだが分からなかった。

177千手:2009/01/10(土) 02:15:29
>>174

哲学者としては、自分も食わないと、という発想をしますが。

178千手:2009/01/10(土) 02:35:12
結局鶴見俊輔さんが和子さんの最後の十年も「一人芝居」と批判している。
これを越える観点と言葉をもてなければ、俊輔さんより先へ行ったことにはならない。
自分にはそれがまだ見つかっていない。
紀貫之の歌論ががアニミズムとえいるのか。
鶴見和子の歌が近代短歌ではなく、貫之につながると言えるのか。
この二点は俊輔さんの議論に対する疑問だが。
和子さんの最後まで貫いた意志的な努力の姿勢はそれはそれで素晴らしいものだと思わざるをえない。
そしてそこに欠けているものとを合わせて、どう位置づけ、どう評価するか。
「ひとり生活の処世術」としての評価以上のことができるのか。
ゆうゆうの里へ行って、ああいう老人ばかりのところで死を迎えたくはないと思った。

179千手:2009/01/10(土) 02:46:41
最後まで業の尽きなかったひとなのだ。

180毛蟹:2009/01/10(土) 21:19:17
>138
こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。

僕はそうは思いません。この歌人は「黙して死に行く」生き物たちの生と死を自分の都合にあわせて利用しているだけとしか思えません。それは僕が思うに冒涜です。

181毛蟹:2009/01/10(土) 22:47:01
ご紹介頂いた歌たちのメッセージは「わたしはここにいるのよ!」というものだと思います。
鶴見俊輔さんは「観客が一人もいない」という意味で「一人芝居」とおっしゃったのでしょうか。それなら残酷ですね。哀しく滑稽でかわいい「ひとり生活の処せ術」です。

ある意味タフな歌人だと思います。↑のメッセージを発信するために何でも利用するのですから。

>翼のべ空飛ぶ鳥を見つつ思う自由とは孤独を生きぬく決意

千手さんには大変失礼ですが、こんな一人よがりの薄っぺらな歌を詠む度胸は僕にはありません。

182千手:2009/01/11(日) 16:55:02
>>181
>利用しているだけとしか
 この人にも「利用する」前の時間があるのです。その時間が、歌ではほとんど消えてしまって見えなくなっている。それが問題なのですが。

183千手:2009/01/11(日) 17:13:43
↑は>>180の間違い。
>>181
俊輔さんの読みの底までわたしはまだ達することができていませんが、
>鶴見俊輔さんは「観客が一人もいない」という意味で「一人芝居」とおっしゃったのでしょうか。それなら残酷ですね。哀しく滑稽でかわいい「ひとり生活の処せ術」です。
はかなり深い意味でそうだと思います。
けれどわたしが今思っているのは、鶴見和子さんにとって歌が暗黙に予感している他者は、ほんとはごく内密な世界で、自分に、そして俊輔さんに、そして他の兄弟姉妹に向けて作っているように見えます。
「わたしはこんなに意気高く生きてる」ということを示そうとして。
多分再晩期にしろ和子さんを訪ねたら、わたしの仕事が何かということを真直ぐに尋ねられたことでしょう。
その姿美しい意志の形をわたしは決してないがしろにすることができない。
 けれど歌の道としては、本道からは外れていると思います。
  高見山青透くばかりすがた立つつくづくと今をよき咲(ゑま)ひあれ
    山中智恵子『みずかありなむ』「離騒」
 こういう他者の持ち方が正道だと思います。
 けれど他方で、鶴見和子さんほどきちんとした意志の姿勢を貫き、示した歌人も他にいないと思います。
「ひとり遊び」「兄弟遊び」という狭さが残っているにしてもです。

184千手:2009/01/11(日) 17:26:49
「山姥の歌---ひとり生活の処世術」
わたしの鶴見和子論はこんなタイトルになるでしょう。

185千手:2009/01/13(火) 01:22:16
拙詠一首

ひとの死をつぶさに見つつ隅田川父は火中を生き延びたまひたり

柳田国男『炭焼日記』昭和二十年三月九日の条にこんな記述があります。
>今夜夜半過ぎ空襲、全体で百三十機ばかりという、東京の空を覆いしもの五十機、窓をあけて見ると東の方大火、高射砲雷の如し。三時まで起きてふるえて居る。いつ落ちるかもしれぬという不安をもちつつ。

わたしの父はその時三十五歳だったはずです。

186千手:2009/01/13(火) 01:30:24
柳田の認識は、この時のいわゆる「東京大空襲」を少し過少視し(約七分の一)ているようで、
実際はB29、344機だったと言われています。
 翌日の記述だと思われるのですが、「五十機」という発表が公になされていたのでしょうか。

187千手:2009/01/13(火) 02:12:13
再びこの歌:

 もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

これは古今集・貫之の「生きとし生けるもの」の歌の系譜につながるというよりも、
むしろ道元・正法眼蔵の「無情説法、無情得聞」につながるものではないだろか?
 「もう死にたい」という問も、それに対する「まだ死なない」という聞、これが朝の光の中の山茱萸の揺れのの問・答、説法・得聞なのだ。
無情の説法を無情が聞く。そういう関係に思える。このとき「生きとし生けるものの歌を聞く」という有情のレベルはもう超えられている。

188毛蟹:2009/01/14(水) 01:06:31
>187
>このとき「生きとし生けるものの歌を聞く」という有情のレベルはもう超えられている。

そうでしょうか?有情、無常ってよくわかりませんが、「わたしのいのち」が他者として生きているということの気付きの瞬間だと僕には思えます。

189千手:2009/01/14(水) 02:13:39
>>188
? 有情/無情は確かにものすごく難しい。ただこれが分からなければ道元禅はわからない。
それで、まずはちょっと『古今集』「仮名序」を読んでみて下さい。

190千手:2009/01/14(水) 02:16:31
有情→無情:
生物から無生物(=宇宙の法)への飛躍があるのではないでしょうか。

191千手:2009/01/14(水) 02:22:31
「飛躍」というより「帰入」と言った方が誤解が少ないかもしれません。
「無情説法、無情得聞」で十分明確な表現だと思いますが。
この表現も、考えるならまずちょっと『正法眼蔵』の「無情説法」を読んでみて下さい。

192毛蟹:2009/01/14(水) 10:59:47
>190
>もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

「黙して生きている」状態にある歌人の「いのち」が歌人に何も語らなかったと断定する根拠を僕はこの歌から見つけることができません。
「いのち」の声を聴き取ったかもしれません。そしてこの歌人が生涯の中でいのちに最接近した瞬間であったかもしれません。それを否定する根拠もこの歌の中にはないと思います。
この歌は生物から無生物への侵入の手前にあると僕は思いました。

193毛蟹:2009/01/14(水) 11:41:57
>192
「侵入」を「帰入」に訂正。

この歌では体力が気力を上回っています。逃れようとする精神を捕まえて身体は生き続けています。青葉は簡単には落ちません。いのちの強さに半ば呆れつついのちに祝福を贈る歌人を僕は想像したいです。

194毛蟹:2009/01/14(水) 23:11:04
「この人は並外れた歌人ではない。この歌人は並外れた人ではない」これを自分なりに確認したかっただけです。

この歌人に関する僕のエントリーはこれで終わります。
千手さんありがとうございました。

195千手:2009/01/15(木) 22:52:31
>>193
いわば体力のなかに宇宙の法を聞きとっている、と考えるのですが。
それが「揺れている」ということではないか、と。

196千手:2009/01/17(土) 03:02:11
山中智恵子さんの歌を一首紹介しておきます。

  星は医師と誰か言ひけむこはれゆく銀河を仰ぎとどめむものを
             『青扇』

197千手:2009/04/04(土) 18:36:41
『風騒思女集』より山中智恵子さんの歌二首。

壊れゆく人間のため空は在り 鳥ありといふすべのなきか

束の間の狂気の晴れ間旅立たむわが尾の尽きるそのところまで

198千手:2009/04/17(金) 00:13:58
Susan Boyle - Britains Got Talent 2009 Episode 1 - Saturday 11th April
http://www.youtube.com/watch?v=RxPZh4AnWyk
「普通のおばさんが!」という驚きの。

199毛蟹:2009/04/17(金) 01:19:49
>>198
普通でない群集=装置から「普通でない」と驚かれる少々歌のうまい「普通のおばさん」を「普通でない」と思い込む努力を惜しまない僕ってたぶん普通なんだなと感じました。

200千手:2009/04/19(日) 05:28:34
拙論「岡本太郎はほんものである(1)」
http://25237720.at.webry.info/200904/article_2.html

201毛蟹:2009/04/19(日) 13:59:45
>200
読ませていただきました。
テキストの最後の部分では八重山の歌の限界について述べておられると読んだのですが、間違っていないでしょうか?

一つ残念なのは

>それは、たとえば、動物と相戦いそして仕留めることとそう違わないことのはずだ。

僕も含めてほとんどの読者がこのような「なまのなまなましさ」の物差しを持ち合わせていないことです。
たいへん意地悪な質問ですが、千手さんはいのちを賭して動物と戦い、仕留めた経験がおありですか?

202千手:2009/04/20(月) 01:54:36
>>201
>テキストの最後の部分では……
挙げたCDの「とぅばらーま」のもっと先はあるだろうということです。
>いのちを賭して動物と戦い、仕留めた経験……
ありません。「いのちを賭し」のところ、猟師の経験ともちょっと違うと思います。

203千手:2009/04/20(月) 02:19:42
>>202 補足
強いクマにとっては、人間のまずもって来れないところに冬眠するということ自体が命がけの行動だと思います。
猟師にとってはそういうところまで行って、熊穴を見つけること自体が命がけだと思います。

204毛蟹:2009/04/20(月) 09:55:47
>>202
>「いのちを賭し」のところ、猟師の経験ともちょっと違うと思います。

そうですよね。熊に力を出させないような方法(寝込みを襲う)でないと職業としては成りたたないはずですから。

>>203
この場合、猟師と熊が命がけで取っ組み合っている相手は自然であって熊(猟師)ではありません。
一般的に「動物と相戦う」という場合、その瞬間、両者に相手に対する殺意があるということを前提していると思います。
穴熊猟の場合熊は・・・寝てるんでしょ?

205千手:2009/04/20(月) 14:56:32
>>204
穴から追い出してから撃ちます。

206千手:2009/04/20(月) 15:00:47
>この場合、猟師と熊が命がけで取っ組み合っている相手は自然であって熊(猟師)ではありません。
 熊と猟師は互いに相手の考えを読んで行動します。何でわざわざ危険な崖の上に寝場所を決めるのか。

207毛蟹:2009/04/20(月) 22:54:45
>>205
>穴から追い出してから撃ちます。

失礼しました。猟師によって2通りの方法があるようですね。

>>206
>何でわざわざ危険な崖の上に寝場所を決めるのか。

それは熊に限ったことではなく、天敵のいる動物に普通にみられる戦略です。天敵と戦うことを回避する戦略です。
もし熊が人間と戦うハメになることまで考慮して崖の上に穴を構えているなら特別な動物といえるかもしれません。

208毛蟹:2009/04/20(月) 23:24:06
今も行われる熊猟って人間の性なんですかね?

209毛蟹:2009/04/21(火) 00:13:13
やっぱり千手さんご自身が熊を仕留めた経験がないとダメだと思います。

210千手:2009/04/21(火) 05:08:23
>>207
>もし熊が人間と戦うハメになることまで考慮して崖の上に穴を構えているなら特別な動物といえるかもしれません
 熊は人間が追ってくることを考慮して寝穴を定めているようです。

211千手:2009/04/21(火) 05:17:22
>>209
最後の行一部修正しました。

>>207
寝穴が少なく、血の臭いがついても同じ穴にまた熊が入ってくるところでは穴の中で仕留めるのが普通のようです。
木曽福島の樋口さんの話。少量の火薬をつめた弾で銃口を耳に当てて撃つそうです。

飛騨の橋本さんは、原則穴から出して、1〜1,5mの近距離でかかってくる寸前に頭に撃ち込みます。

212千手:2009/04/21(火) 05:29:40
>>208
知と技と体術のすべてを傾けて強敵と対決し勝利する喜びが一番のようです。

213千手:2009/07/09(木) 22:48:01
アファナシエフの弾くブラームスop.117は(op.118-6も)は、グールドを越えて、ブラームスの火をその先にまで伝えている。
透明な湧きいでる泉の水が、いわば鋼のように厳しく、また厚みのあるものであることを教えてくれる。
そんな印象だ。

214千手:2009/09/12(土) 19:47:26
アファナシエフの《ショパン:ノクターン》。
こんな苦しいショパンを聞いたことがない。
重く、苦しい。

これはアファナシエフの栄誉だろう。

215千手:2009/09/12(土) 19:50:17
>>209
同行して、殺せば同じことだと思います。

216毛蟹:2009/09/14(月) 01:05:23
>>215
橋本さんがそう仰ったのなら同じなのでしょう。

217千手:2009/09/14(月) 01:21:23
>>216
橋本さんが言ったわけではありません。
技術、胆力では違います。

218千手:2009/09/27(日) 11:35:50
私が最も恩恵を受けているグールドの演奏のひとつは、バッハのピアノコンチェルトの7番だ。
この確信を持った強い音の響きは、最高の音楽の一つだ。
「すきなだけ多くの時間と空間をもっているという確信」もここ、この場にはある。
音楽の最高のもののひとつだ。

219千手:2009/10/10(土) 23:57:51
「ある日の伊東静雄」開始。
http://25237720.at.webry.info/200910/article_3.html

220千手:2009/10/16(金) 11:32:40
「ある日の伊東静雄」6 ここで一応完結。補足を一つつける予定。
http://25237720.at.webry.info/200910/article_10.html

221千手:2009/10/28(水) 21:41:02
「杉本秀太郎の伊東静雄論」連載開始。

http://25237720.at.webry.info/200910/article_11.html

現在2まで公開。
乞うご期待。

222千手:2009/11/03(火) 18:48:09
ヘルダーリンの詩の朗読CDが手に入った。朗読はBruno Ganz。正確な韻律で読んでいるものと思う。
エリギー、とかオーデとか。
自分の思っていた読み方とずいぶん違うので、驚くと同時に、ヘルダーリンの詩が普通の詩人の詩とまったく別物なのだということがわかる。
ほとんど呪詛に聞こえるのだ。多くのドイツ人にとってもそうなのだと思う。
〜はどこにある、〜はどこにある、などということを本気で真っ正面から疑問にして問うているのだから。
たとえばあのアテナイはどこにある、等々(パンと葡萄酒)。
ほんとは呪いや呪詛ではなくて、深々と現在を問い出しているものなのだが。
だがともかくこういう詩には堪えられないドイツ人が多いだろう。

223千手:2009/11/03(火) 19:03:55
Brot und Wein


7
例えば「パンとP葡萄酒」の7の終わりのところ。
 Weiß ich nicht und wozu Dichter in dürftiger Zeit?
Aber sie sind, sagst du, wie des Weingottes heilige Priester,
Weiche von Lande zu Land zogen in heiliger Nacht.

乏しいい時代に詩人が何のために存在するのか、わたしは知らない。
詩人は、酒神バッコスの聖なる司祭のように、聖なる夜の中を、国から国へと移り行くのだ。
(詩人に引き付けて意訳)

聖なる夜の中をめぐり歩くより他のことを知らない者……。

224千手:2009/11/03(火) 19:17:38
さらに、その詩の最後のところ、

8
selbst Cerberus trinkt und schläft.

これが酒神の存在の意味なのだ!!!

ツェルベルス(地獄の番犬)さえ酒を飲んで眠るのだ、と。

葡萄酒はすでにキリストの血さえをも溶解させて、ディオニュソスの酒になっているのだ。
この"trinkt"に気を止める人は少ないのではないだろうか。
いやいや、ヘルダーリンをドイツ語で読もうとするほどの人なら、深くそこに気を止めるだろう。

このさりげない"trinkt"が酒神の存在の意味なのだ。

225千手:2009/11/03(火) 19:18:47
訂正
8→9

226千手:2009/11/03(火) 23:27:30
「パンと葡萄酒」最終行

ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである:

Selbet der neidische, selbst Cerberus trinkt und schläft.
(Brot und Wein)

ここのところ、手塚富雄氏の訳はこうである:

あの妬み深いもの、地獄の番犬ツェルベルスさえも、飲み、そして眠っている。


この訳に何の疑問があるわけでもない。問題はなぜヘルダーリンがここで妬み深い地獄の番犬ツェルベルスを登場させたのかである。
趣旨は、酒神の恩恵が、イエスを通して、ツェルベルスにまで及んでいるということである。
ツェルベルスも眠れるのである。
そして眠るのである。

そうすると「地獄」への行き来が、容易に行えるようになるのだろうか?
ということは、「地獄」が必要なくなるのだろうか。
あるいは「地獄」がなくなるのだろうか。
「地獄」といってもギリシア風の「冥界」のことだということになるのだろうが。

「パンと葡萄酒」最終行

ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである:

Selbet der neidische, selbst Cerberus trinkt und schläft.
(Brot und Wein)

ここのところ、手塚富雄氏の訳はこうである:

あの嫉み深いもの、地獄の番犬ツェルベルスさえも、飲み、そして眠っている。


この訳に何の疑問があるわけでもない。問題はなぜヘルダーリンがここで妬み深い地獄の番犬ツェルベルスを登場させたのかである。
趣旨は、酒神の恩恵が、イエスを通して、ツェルベルスにまで及んでいるということである。
ツェルベルスも眠れるのである。
そして眠るのである。

そうすると「地獄」への行き来が、容易に行えるようになるのだろうか?
ということは、「地獄」が必要なくなるのだろうか。
あるいは「地獄」がなくなるのだろうか。
「地獄」といってもギリシア風の「冥界」のことだということになるのだろうが。

ツェルベルスも酒を飲む。
そして嫉みを忘れ、眠る。

ヘルダーリンは何を言いたかったのか?

227千手:2010/01/17(日) 00:50:13
マイ・ブログに今年初めてのUP。ヘルダーリン詩集について。
http://25237720.at.webry.info/201001/article_1.html

228毛蟹:2010/09/09(木) 16:15:20
ご無沙汰です。
このところ反射神経の顕著な衰えを自覚します。特に運転中など。ボーとしていることが多くて、事後に冷やりとすることがしょっちゅうあります。
夏の間に体内に溜まった老廃物のようなものがあって、それが精神と身体の回路をブロックしているように感じます。デトックスせねばと思うのですが、どうすればよいのか?

さて、千手さんのブログ(芭蕉の俳句についての批判)を拝読しました。

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風  『奥の細道』(金沢)

この句です。恥ずかしながら初めて目にしました。
千手さんはこう述べておられます。

>だがわたしの感じでは秋を感じさせるのは決して風ではない。まず光そのものの強さだ。光の暑さ、強さにどことなく衰えが感じられるのである。そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。そう、照らされる草花の影が、何となく長くなったように感じられるのである。

これは一連の草叢写真の撮影経験を通して獲得された観察眼でしょう。その観察眼は確かに芭蕉よりも鋭いと思います。
しかしながら、僕が疑問に思うのは、次の箇所です。

>とすると、芭蕉はここに、この句の中に、なぜ秋風をもってきたのだろうか? 答えはおそらく、秋風がさきにあったからである。古今集の敏行の歌は、「目にはさやかに見えねども、風の音にも」と歌っていた。それが秋を感じる敏感さの証拠であるかのように。おそらくはこの秋を感じる感性の図式のなかに、芭蕉もみずからも浸かっているのである。多分すっかりと……。

「秋風がさきにあったからである」と断ずるに充分な根拠が示せているとは思えません。
「強烈な日差しの中に立っていたらひんやりした風が吹いてきた」という凡庸なシチュエーションがなぜ考慮されないのでしょうか。なぜ考慮する必要がないのでしょうか。それが疑問です。古今集の敏行に絡め取られているのはもしかすると千手さんのほうかもしれないと思ってしまうのです。

それと千手さんの俳句についてですが、

> あかあかとつれなき日にも秋はきぬ葛の葉ながき夕べの光

「夕べの光」はもう「店仕舞いの光」ではないでしょうか。

>そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。

そうであれば、強さの頂点をすこし過ぎた時刻の日差しを捕らえないとせっかくの観察眼が生きてこないと思います。「夕べの光」と「あきの風」に決定的な差異が感じられないのです。

229千手:2010/09/15(水) 23:47:22
>>228
謝多。
1.「つれない日」は、自分がじりじりと照らされて逃れようもない日差しのことと思います。
とすると難所を越えていた頃かなと推測するばかりです。金沢では秋風に涼を楽しんでいたようです。
2.午後二時の光(影)の長さを歌の中で表現する技法が見つかりません。
以上です。

230毛蟹:2010/10/25(月) 11:53:22
千手さんの10月24日付けブログを拝見しました。

清らさや風霧水と土の色

その場所によってしか保持し得ないような「結晶」にも似た感触が伝わってきます。
ついメンディエタの作品(土シリーズ)に重ねてしまいました。

231千手:2010/10/26(火) 07:28:29
>>230
ご高評有り難うございました。
実はこの句の実体を基に、「清明」の思想と戦っていけると考えているものなのです。
メンディエタに繋がっていればなお心強いことです。

233千手:2013/11/30(土) 09:56:19
下記の書き込みが有りましたが、営業広告でしたので削除しました。IPアドレスも晒します。

> マフラー バーバリーnode-1aid.pool-182-52.dynamic.totbb.net[23.88.77.75]


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