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哲学的・雑談的 3

1千手★:2007/07/16(月) 22:27:25
急遽新しいスレッドを作り、「2」を過去ログ倉庫に入れます。
よほど慌てていたのでしょう「雑談的」と記すべきところを何と「雑学的」と
してしまっていたのです。「雑学的」これはわたしの最も嫌悪するものです。

このスレッドは、他のスレッド同様、「非雑学的に」お願いします。
いまだ未知のいまだ脆弱であやうい観念に言葉をあたえ、姿をもたせてやりたいという希いです。
そしてそれをできれば世に通用する概念に育ててゆきたいのです。
参加をお願いします。

119千手:2008/03/24(月) 21:51:20
>>105
>神を語る資格のあるものは、自分以外の全ての人間から絞り尽くした血よりも自分の血の一滴のほうがはるかに価値があると思う人間か、その逆の人間だけです。

「神を語る資格のあるもの」を云々する資格を毛蟹さんはどこから手に入れたのですか?

120毛蟹:2008/03/24(月) 23:43:49
>>119
資格など要りません。そんなライセンスがここ(ペルセポリス)で必要なのですか。

121千手:2008/03/25(火) 01:21:17
>>120
とすると神を語るにも「資格」は要らないわけですね。
とすれば>>105の言明は>>120と矛盾することになりませんか?

122毛蟹:2008/03/25(火) 10:27:52
>>121
レス105を投稿した3月6日の毛蟹はかつて経験したことのないサイテーの精神状態に見舞われ嘔吐していました。吐いてから19日も経った干からびたゲロ(レス105)のチェックをしていただけるのであれば「資格」などという不用意な言葉が混じらぬような体裁のよいゲロを吐く訓練をしておけばよかったと反省しております。

123千手:2008/03/25(火) 21:57:05
>>122
健康回復を祈ります。

124千手:2008/03/26(水) 08:18:36
このところ「薬物ギョーザ事件」への対応から始まって、
「チベット騒乱」、「米ロ2+2会談」、「台湾総統選挙」とアジアニュースから目が離せないでいましたが
結局はよく分からない。〔「米」vs「中+ロ」〕体制から〔「米+ロ」vs「中」〕体制へ移行してゆくきっかけができてきたようには見えるが
内実がどこまで進んでいるのかはわからない。ロシアが手の内を見せていないのでどこも動けないように見える。
昨日は久しぶりに読むべきニュースがなかった。

125千手:2008/03/26(水) 08:44:02
またもう一つ感じたのは「米+中」によって世界の覇権を維持してゆこうとする動きがあるのかもしれない、ということだ。
やはり台湾からは目が離せない。

126千手:2008/03/26(水) 09:07:49
チベットがらみの人権問題、情報鎖国問題に関連して、独米と英仏の間にはだいぶ温度差があるように見える。
米国が中国寄りの姿勢を示していればどこでも独立運動の気勢はそがれる。
なかで鮮明だったのはチベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官がいたのが写真つきで暴かれたことだ。

127千手:2008/03/27(木) 20:07:38
>>126
>チベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官

上記の話は、情報ソースが少なすぎるので、真偽については現時点では「可疑」としておきます。

128千手:2008/03/27(木) 22:28:23
もっとか確実で重大な問題点は、あの劉荻ら30人の中国知識人の声明の5番指摘していることだ。
つまりラサで騒乱が発生した当日、チベット当局が、「これがダライ集団が計画的に引き起こした事件であるとする十分な証拠をもっている」
と説明したことだ。
 チベット当局は、予め知りながら、有効な措置を取らずに騒乱を発生させたか、あるいは当局自体がこの騒乱を扇動し、発生させたか、どちらかになる、ということだ。

129千手:2008/03/30(日) 15:39:20
「神は人間がつくった」という主張は不毛だ。
「誰が、何を、何のために(=何を狙って)神と名づけたのか」と問わなければならない。
これが多元論的な神の問い方だ。

130千手:2008/03/30(日) 15:44:00
「誰が」というのは「どういうタイプの人間が」、ということだ。

この問い方を学べ。
われわれにそんな暇な時間があるわけじゃない。

131千手:2008/03/30(日) 15:47:48
たとえば姑息な人間は「神」をどのように利用しようとするか。

132千手:2008/03/30(日) 15:53:33
弱い人間はどのような「神」をどのように役立てようとするか。

「神は人間が作ったものだ」と言って満足していると、「神問題」のおぞましい全領域をそのまま手つかずに取り逃がしてしまうだろう。

133毛蟹:2008/03/30(日) 21:02:32
掲示板に投稿された文章を僕に語る主体が投稿者なのか僕なのか、僕には判別できません。おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。それは僕の限界でもあるだろうし、そればかりでもないだろうとも思います。内田樹さんの言う「うなぎ@村上春樹」に語らせることができなければこういう場で発言してはダメなんだと思いました。そうゆう理由で退場です。

134毛蟹:2008/03/30(日) 21:21:41
>>133
>おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。

おそらくそのどちらの声でも投稿者の言いたいことは僕には伝わらないでしょう。に訂正します。

135千手:2008/03/31(月) 06:22:21
>>133

>>129はすでに毛蟹さんにターゲットしていません。
もちろん発言の元は毛蟹さんの発言にありますが。
うなぎではありませんがわたしも逃げてゆくのです。
多元論こそ最も強力な無神論であること、このことを示したいということです。

136千手:2008/03/31(月) 06:42:13
デリダの「神とは……の名だ」という結論的表現は、
デリダがこのニーチェ的な多元論の方法に従って論を組み立てていっていることを示しています。
わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです。
わたしにとってこの議論の中で本当のうなぎはデリダです。
このうなぎとりに役立たない議論にはあまり関心をもちません。それを無礼に感じるかもしれませんが。
『死を与える』のデリダうなぎに釘を打てたか?
打てたつもりでいます。
次ぎは「Donner le temps」のうなぎに釘を打ちたいと思っています。

137千手:2008/03/31(月) 06:51:44
>わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです

これ(「秘密」を必要とした論の展開)は狂暴な民主主義時代におけるうなぎの生息方法、生存戦略には違いありません。

138千手:2008/03/31(月) 07:02:07
>>133
>こういう場

あなたは逃げるも加わるも自由です。
ここは演舞場です。

139千手:2008/04/01(火) 00:25:20
>>126,>>127
一応ソースを紹介しておきます。
http://en.epochtimes.com/news/8-3-29/67906.html
修正済み写真の方をどういう機関が出したのか、それがもっとわかればいいのですが。

140千手:2008/04/09(水) 12:41:40
あの小泉義之さんのブログを発見。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/
けれど期限つきで、もう終了してしまったようです。
ものすごい勉強家!!

141E嬢:2008/04/09(水) 16:25:02
>>140

面白いので、サクサク読んでしまいました。
今度は、ジックリ読んでみようと思います。

142千手:2008/04/17(木) 20:54:08
Ein Buch für Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)

ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証の正しさを理解してもらうためにはところどころドイツ語の理解を必要とする、といったところだ。この授業を機会に、手塚富雄訳(中公クラシックスw17)を手に入れたので、叩き台にするものが増えた。しかし日本語訳の出発点にするのは、今回も同じく氷上英廣訳、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』である。まずは「序説」を最後までやりたいと思っているが、いろいろな都合でどうなるかわからない。先のシリーズでは授業では説明したが、説明がかなりやっかいなところは幾つか飛ばした。今回はそういうところを補えればいいのだが。その余裕があるかどうかは、まあ、やってみなければわからないことだ。まずは4月15日の授業で考えた、巻頭の、"Also sprach Zarahtustra."というタイトルの下につけられた"Ein Buch für Alle und Keinen"という添辞について述べてみよう。

 その添辞というか、「副題」というよりはコメントに近いと思われるその言葉は、次のように訳されている。

1.「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」 氷上英廣訳、岩波文庫。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」 吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
3.「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」 手塚富雄訳、中公クラシックス

三者三様の訳、と言えるかもしれない。けれど一番分かりやすいのは氷上氏の訳だ。読者に向かって、ちょっと高踏的に、お前たちのだれでも文章は読めるだろうが、内容は誰にも分からないだろう。そんな本だ、と構えているところを見せているのだ、というわけである。なるほど確かにわかりそうな気がする。しかし、もしこの本は「だれに読めない」本だと宣言するのであれば、何でそんな本を公にするのであろうか? 
 実際わたしには、この問いを問うだけで、ニーチェがこの言葉にこめたものにまっすぐにたどりつくことができるように思う。だがしばらく寄り道をしよう。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」の吉沢訳であるが、これはドイツ語の文字どおりの逐語訳に近い。それだけに訳者がそこにどういうメッセージを読み取っているのか示してもらいたいところだが、吉沢訳んぼ巻末につけられた豊富な注にも、この「添辞」の解釈は見当たらない。となると、訳者がどう解釈したかわkらないままである。しかしこの短い訳文からも、わたしなら決してそうは訳さないところが見出せる。それは「ための、そして」の間の「、」だ。後で述べるが、わたしはこの「、」が誤りだと思うのである。
3.の手塚訳は、まるで正岡子規の『歌よみに与える書』を思い出させる。おそらく訳者の念頭に浮かんでいたものに違いない。しかしこの「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」は何か滑稽である。「万人に与える書」の方はお前らみんなこれを読んで勉強しておけ、というような高慢な姿勢として理解できるのであるが、しかしその同じ高慢な調子で「何人にも与えぬ書」とやられると、それなら自分の部屋に積んでおいてベッド代わりにするか、あるいは寒いときには薪にでもされたらよいでしょう、と言いたい気になる。つまり、この後半は「お願いだからもらっておくれ」と言いたいのに、言えないで、さびしくしている自尊心のお高い男のセリフにしかみえないのである。それにそもそもどうして「与える」などという訳語が出てくるのだろうか? "für"に与えるという上から下への視線を読み取るのは誤りである。"für"は、「〜向きの」、あるいは、「〜のための」というぐらいの意味である。誰に、あるいは何にフィットするか、というようなことである。その後に"gegeben"(与えた)が省略されているのだ、と言い張る人がいるかもしれないが、それなら"für"ではなく、"Alle""Keinen"も3格にして語るはずだ。手塚訳は、一応日本語にはなっているが、一貫した解釈ができているとは言い難い訳だ。

143千手:2008/04/17(木) 20:55:01
(つづき)
 今やわたしの解釈を示さなければならない。わたしの解釈は氷上訳をさらに進めることによって導かれてくるものだが、それは、「この書を読むことによって、この書にふさわしい人が生まれてくる」ということを願って付けられた添辞だろう、ということだ。とすると読者はどこにいるのだろうか。まさにこの"und"(「と」、英語の"and"に相当)のところにである。ひとは、読者は、この「万人」("Alle")と「無人」("Keinen")の丁度中間にあり、同時に「万人」であり「無人」であるのである。ひとは生成の中に置かれる。
 この拙論の読者はジル・ドゥルーズが純粋な生成を性格づけるために語る「同時に二方向」("deux sens à la fois")という定式を思い出すかもしれない。ニーチェの"für Alle und Keinen"という定式をきちんと考えようとすれば、ひとはこのドゥルーズの定式に達するのである(だから"und"を「、」で区切る訳は誤りなのだ)。
 ニーチェの「添辞(副題)」を訳してみよう、「万人であり同時に何者でもない者のための書」。「生成する者のための書」と訳してもいいかもしれない。こう訳せば立派な副題である。『ツァラトゥストラ』を読む人は、この「生成する者のための書」という副題の主旨を最後まで忘れないでほしい。

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145<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

146千手:2008/05/23(金) 20:04:45
>>144,>>145
ブログに掲載したので削除しました

147千手:2008/05/24(土) 12:24:54
>グルジア領内にありながらグルジアの統治が及ばない「国内国」が南オセチアとアブハジア。
このふたつの「地域」にロシア軍が駐留しており、これら「未承認国家」を「国家」クラスに格上げして、「正式の外交関係を結ぶ」とした大統領命令に、プーチンがサインしたのは4月16日だった。
> 後継メドベージェフ政権になってロシアの領土的野心は、さらに露骨になった。
 「南オセチア」を「北オセチア」と合邦(合併)させて、その新国家の独立を直ちに承認し、続けて「ロシア連邦」に加盟させる。
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第2196号より)

こういうニュースを聞くと、プーチンと戦ってみたいという気になる。中国を敵国に想定する北野幸伯さんの見方ではこれからはまずいと思う。

148千手:2008/06/19(木) 23:33:26
イランが欧州金融セクターから資産を引き揚げはじめているという(RPE No.523)。
資産凍結を予期してのことだろう。
近々イラン攻撃が始まるか?
北朝鮮のテロ支援国家指定解除と連動してのことだろう。
ペルセポリスが灰になるか?

149千手:2008/06/20(金) 00:17:13
バクダッド次はテヘランを滅ぼすと
ペルセポリスの破壊者の裔

150<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

151<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

152千手:2008/07/23(水) 06:22:38

美留軒のはなし、修正のため削除しました。修正したものは、
http://25237720.at.webry.info/200807/article_3.html
をお読み下さい。

153千手:2008/08/02(土) 14:32:43
ブログに書いたものを再録しておきます。
http://25237720.at.webry.info/200808/article_1.html

神の定義2

先にわたしの「神の定義」の試みを示した。フランス語で。まずそれを日本語にして示しておこう。

神とは、わたしが、内面的に感知されるものである距離のパトスを肯定することを可能にするものの名前である。
  ---中路正恒---

ちなみにフランス語の方は以下である。
Dieu est le nom de la possibilité pour moi d'affirmer le pathos de la distanz qui est sensible à l'intérieur.
--- Masatsune Nakaji ---

 このように定義される神であれば、それをニーチェが否定することはありえない。逆である。全力を挙げて肯定するであろう。距離パトスの肯定以外に、永遠回帰の思想が教えることはないのだから。

 デリダが『死を与える』の中で提示している神の定義との対比は後に行なう。まずとりあえずは本ブログの「ニーチェ対デリダ」を参照していただきたい。

154毛蟹:2008/08/03(日) 11:05:44
>>153
他者のブログをペルセポリスで引用するなら、それを考察の対象としなければならないと思います。
ペルセポリスを運営者の個人的な目的に奉仕させようとするなら誰もエントリーしなくなるのは当然です。

155毛蟹:2008/08/03(日) 11:10:51
ブログとペルセポリスの二股は自演になるということです。

156千手:2008/08/05(火) 08:50:22
>>154
ご意見ありがとう。

この掲示板の主旨は「板情報」に書かれている通りです。

>ペルセポリス (高速度ゼミナール)
> 議論を戦わせ、思考を鍛えてゆきましょう。ここからのヒントでものを書いた方はその明示とご連絡を。(代表中路正恒 責任管理)

157千手:2008/08/05(火) 09:06:27
>>156

"le nom de la possibilité"
a.「可能性の名前」(ブログ・現)
b.「可能にするものの名前」(ペルセポリス・哲学153)
この二つは当初は訳し方の違いと思っていたのですが、展開すれば別のことになるかもしれません。
ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。
議論がなければ打ち捨てるのも当然です。
ブログの方は修正が容易だという利点があります。必要な修正は随時行なっています。

158千手:2008/08/05(火) 09:17:28
墓参り(松山)と出雲大社の本殿特別拝観に行ってきました。

159毛蟹:2008/08/05(火) 12:24:20
>>157
>ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。

著作権?他者の著作物を掲示板に引用すると著作権上の問題が生じる恐れがあると?
もしそのような問題が実際に発生する確率が1パーセントでもあるとしたら、僕はペルセポリスの運営者に迷惑が掛からぬようにまず自分のブログを立ち上げ、そこに引用したいテキストを収めてから引っ張りださなくてはいけませんね。でもそれは滑稽なことですね。

ペルセポリスで論考を試し、ブログで著作権を確定する。正直に言ってセコイ印象を免れないと思います。とんだ誤解だということであればブログとペルセポリスの関係について納得のゆく説明をお願いします。

160千手:2008/08/05(火) 15:17:57
ペルセポリスは誰もが議論を研くために使ったらいい。
参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。
毛蟹さんもまずそれを自分でやってごらんなさい。

161千手:2008/08/05(火) 15:18:59
著作権はペルセポリスに発表した時点で生じます。誤解ないように。

162毛蟹:2008/08/05(火) 20:52:16
>>161
ゴッホの絵の贋作を描いて「私のオリジナルだ」というバカはいません。著作権なんてそんなもんですよ。それを必要とする人間が考え出したものです。

163毛蟹:2008/08/05(火) 21:39:50
>>160
>参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。

千手さんと同じようにやったらどうなるか、皆さんよくわかっているんじゃないでしょうか。

164千手:2008/08/06(水) 11:08:41
私の第3ブログ、6月半ばのある日、一日3000アクセスを越えた。
だがそういうことがわかってみると逆にアクセス数なるものに興味を失う。
それに病みつきになるひともいるのだろうが。

また、毎日1万アクセスぐらいになるとステータスから何から違ってくるのだろうけど。

165毛蟹:2008/08/09(土) 09:52:29
「ニーチェ対デリダ」のスレッドの意味がわかりません。
千手さんにとって1つのテーマを2つの机(ブログとペルセポリス)を使って考えることに積極的な意味があるのかも知れません。しかし読み手にとって何の意味があるでしょう。ご紹介のとおり「ニーチェ対デリダ」の全てのエントリーは千手さんのブログで閲覧可能です。読み手からすると両者の関係は卵とニワトリの関係でしかない。
ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。
ブログで論考を完成し、それをペルセポリスにリンクして意見、感想を求める、つまり完成した論考を批判可能な対象としてペルセポリスで取り上げる、これなら意味があるでしょう。

166毛蟹:2008/08/09(土) 10:17:35
>165を「ニーチェ対デリダ」のスレッドに差し込まなかった(差し込むのを躊躇した)理由を想像してください。
僕が言わなければならないと思ったことはこれで全て言いました。

167千手:2008/08/09(土) 14:28:20
>>165
纏めておけばこれだけ見て議論の概要を掴めるはずです。それがメリットです。

>ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。

今後はそうでなくなることを予想しています。
現在もそういう知識を必要としていません。

168千手:2008/08/24(日) 13:52:43
>>165
参考にします。

169ほかいびと★:2008/09/05(金) 23:34:50
千手さん

トポイポイねっとで紹介されてた動画サイトYou tubeで見れる
Karlheinz Stockhausenの映像は英語?も
含め理解できませんでした。
また、「短波」のCDは5万円とか高価でまだ入手していません。

彼の音楽もよく解りませんが、ひとつの室内に4つでしょうか
複数の楽団がそれと同数の指揮者で演奏してたり、
4機のヘリコプターに4人のヴァイオリン奏者をそれぞれのヘリに乗せて
空中で弦楽四重奏のようなことをさせてたりとか、
なんの意味か解らないけど、不思議で子供でも興味を持ちそうな作品から
理解していけたらと、のんびりかまえております。

以前に、ウグイスの鳴き声を聴いてそれに応えるように
笛を吹いたことを書いておられましたが、
それもシュトックハウゼンに関係あるのかなと、想像してました。

170ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:10:17

岩波書店から新しい「講座・哲学」が20年ぶりくらいに発刊が始まりました。
その中に美学が1巻含まれてるのでそれだけでも最低読みたいと思っています。

1980年代に出版された「講座・美学全5巻」は
夏にかけ一通り読み通しましたが、
その中のXenakisと今道友信の対談があり、
クセナキスが映像の音楽化を情熱的に語るくだりが最高に面白く、
あの時点で次の時代にたくされた
芸術概念上の最重要の課題だったのではないか!と、胸がときめきました。

でも、音楽的な素養も有りクセナキスを子供をあやすように理解してあげて、
助言する今道さえ、演奏家や画家など視覚芸術家がすぐにでも
具体的に表現できる実際の技法や譜面など概念も含めまったく
論文や理論を示せなかったというのにはがっかりしました。

京都造形美術大学の指導方針ばかりでなく、
全国のアート系の大学や専門学校の学生さんや卒業された方々が
CGアートなど動画サイトYou tubeに作品を発表するとのことですしたので、
期待して楽しみにして北京オリンピック期間に捜し廻ってました。
・・・・でも、学生さんのは見つけられず、そのかわり
造形大学の先生の西洋美術史の授業があったので、
それだけ見ました(でも、これもがっかりでしたヨ)。

他にはNHKの「デジタル・スタジアム」もあります。
ぜひ、クセナキスの夢を実現した「視覚の音楽化」を実現成功させて欲しいです。
私は演奏とか絵書きは全くしたことがなく表現出来ないので、
芸術学的な概念のほうを自分なりに空想で組み立てて考えてみたいです。

171ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:14:44
170の訂正

京都造形美術大学→京都造形芸術大学 しつれいしました。

172毛蟹:2008/09/12(金) 09:31:21
ほかいびとさんご無沙汰です。

シュトックハウゼンのCDはSternklang-Diskという札幌のお店にオンライン注文されるとリーズナブルな価格で購入できます。

ちなみに「短波」は全集の13番(cd13)にあたります。
価格は¥3460+送料100です。

ただ、基本的に在庫はもっておらず毎月10日に注文を締め切り15日にドイツへ発注、翌月上旬に入荷という形態をとっています。

あまりフォローの良くないお店ですが(代金を入金してもなしのつぶて)、今までのところトラブルはありませんでした。

ご参考になれば幸いです。

173千手:2008/09/28(日) 12:05:41
http://25237720.at.webry.info/200809/article_6.html
折口信夫(釈迢空)の
よこしぶき 萬世橋にふる雪は はるかに過ぎて、明り來るなり
の歌を読解してみました(それを本歌とする自歌自注も付記)。ご検討いただければ幸いです。

174ほかいびと★:2008/09/28(日) 23:27:23

ポスト構造主義に影響を与えたとよくいわれてるニーチェを読んでる最中です。
自分の頭のレベル程度にですが、少しづつ解ってきました。
ニュートンが引力の法則を発見したり、
アインシュタインが相対性理論にたどり着くときまでの感、
ひらめきみたいなのを掴んだのと同じ様な気分で、
それまでの哲学の成果の成分を徹底して吟味批判し、
理性や真理といわれたものを捉え直し提出してくれてたんだなと感授しました。

もし、構造主義が出現しなくとも、ニーチェをちゃんと読んでいれば、
別のアプローチで現在の先進国の様態とほとんど変わらない
人文科学や政治体制が存在していたのではと思いました。

それとジル・ドゥルーズやデリダのようにしっかり読み込み、
論をさらに発展させることのできる人がもっともっと何十倍もの人が
出現してきてもいいのではとおもいます。

そのくらいニーチェの考えは根源的で強く豊潤であり、
とんでもない可能性を秘めてます。べつに私などが言わなくとも当然そうでしょう。
「善悪の彼岸」や「ツァラトゥストラはかく語りき」などは20代の頃に
読んでみてたのですがまったく歯がたたず理解できてませんでした。
しかし、いまは読んだぶんのかぎりですが理解できてるようなので安心してます。

感じることや思惟することは意思の素因だと彼は言っています。
この意思の捉え方は美学や芸術学にも応用して使えるでしょう。

未知でいて多くの人々、庶民にも受けそうな芸術ジャンルの探索や、
自然や人間観察上の人類にとって
未知の鑑賞法を提出できるよう考えてみたいです。

175ほかいびと★:2008/09/29(月) 00:27:39
>>172
毛蟹さま

しばらく掲示板を離れておりしつれいいたしました。
「短波」のレコード、ご紹介いただきまして、ありがとうございました。

今月はシュトックハウゼンやブーレーズ、クセナキス、メシアンなどの
音楽の解説書をコーヒーのカフェインに酔った気分で読んでいました。

レコードやFMを聞かないで、その音楽を映像、形、色、振動などを
ココロの中にアニメ化してその音楽の概念を楽しんでました。

私は音楽いうもの東北の民謡を除いてほとんど、
1970年代にとても流行ってた
歌謡曲さえ13才まで全く解らなかった者です。

音楽は学校で習ったのも含め轟音にしか感じない奇脳を所持してました。
音楽は見てあるいは音楽の説明文を何百回も読み直してしか理解できないんです。

ロックは2年ぐらい、JAZZもDJなど人の説明やJAZZの入門書や
解説書200冊以上は読みましたが、いつも苦しかったです。
でも、絶対に人並みに鑑賞したかったので我慢して聞いてましたが、
聞いて心地よくなるまで10年近くかかったとおもいます。
それまでは、すべて音や説明を抽象のアニメを頭に描いて理解するしかないんです。

「短波」は完全にはイメージ出来てませんが、おそらく勘違いの知識で
アニメ化してあります。音もいろんな自然音や楽器音で想像はしています。
始め、持続、終りとか。始め、中途半端、中途半端な終りとか。
実際「短波」聞いたときの違いの大きさが楽しみです。

メシアンの「音価と強度のモード」は説明読んでるだけで、抽象画のアニメが
ココロに涌いて止まりません。
音高、持続、強弱、音色。光を表現する要素は音より多数ありアニメ化がラクです。
シュトックハウゼンは音の位置の表現も付け加えたとか。
面白いです。それで、あの廻り移動するスピーカーだったのか・・・?。

レコードがない、それ以前にステレオも
ラジオもないっていうのは自由で表現豊かです。

音を聞かないで、さんざん音楽をココロでイメージして、飽きてから
実際にレコードを聞けるという幸福。
さて、どの辺の至福まで阿弥陀様はお導きくださるか。

176毛蟹:2008/10/05(日) 12:02:58
>>173

2つの歌の紹介ありがとうございます。

>よこしぶき 萬世橋にふる雪は はるかに過ぎて、明り來るなり

「萬世橋に立っていたときの私の生にはリアリティーがあった。生成の銀河の中にあって諸々の力と格闘していた。今、生成の銀河は私から遠く離れてしまった。」という印象を受けました。
僕がそう感じたのは、

>「明り來る」世は折口を必要としない世であろう。

このせいかもしれません。


>よこしぶき 隠元橋にふる雨のつめたく冷えてこほる心か

折口が上の歌でやったように千手さんも隠元橋に立っていたときの私と今の私をぶつけてほしいと思います。そうすることで私達は両者の比較が可能になるとおもいます。

177毛蟹:2008/10/05(日) 12:16:02
>>175

さすがほかいびとさん、ブレがありませんね。
雪舟画の3D鑑賞法を紹介していただいたときには批判めいたことを申しましたが今は3D鑑賞法が重要な指摘であり発見であるように思えてきました(とはいえ自分では試しておらず「アタマの中でアニメ化したもの」にすぎないのですが)。

178毛蟹:2008/10/05(日) 12:21:50
>>176

言い忘れました。
萬世橋の写真がとてもよかったです。

179千手:2008/10/07(火) 00:13:13
>>176,>>178
コメントありがとう。
隠元橋は昔でなく、今なのでしょう。

180千手:2008/10/13(月) 01:24:53
>>175
パソコンはお持ちなのでしょう。むかしパソコンでコピーした『短波』をお送りします。
コピーなので限度があると思いますが。
最初にデモ・レコードでこの曲の一部を聴いた時のことを少し思い出します。
そのレコードは人にも聴いてもらおうと思って「音研」の部室に置いておいたら、いつなまにか無くなってしまいました。

181千手:2008/10/25(土) 11:37:17
私にとって重要な論文である「なめとこ山の死の贈与」をUPしました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_4.html
ご検討いただければ幸いです。

182毛蟹:2008/10/28(火) 09:04:16
>181

拝読しました。
感嘆しました。

山中智恵子と賢治の「瞬息」の時にこれほど長い時間とどまり、その「時」の特性を丁寧に解きほぐしてみせる(僕ですら分かる)著者の集中力と分析力に感嘆しました。「瞬息」を「直観」に置き換えてみると著者の「集中」の保持力と「直観」を呼び戻す力の強さが分かります。

何度も反復して読みたくなるテキストで、素晴らしい仕事だと思います。

183毛蟹:2008/10/28(火) 09:23:17
>181

「瞬息」において贈与されるのは「神性」のみならず贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与されるのではないでしょうか。
つまり「わたしの中にある主観的な時間(わたしの歴史)」が「瞬息」に連結される、それも「贈与」ではないかなと考えてみました。

184千手:2008/10/28(火) 13:34:32
「この最終的な永遠の確認と封印以外の何ものをももはや望まないためにはお前はおまえ自身と生をどれほどいとおしまなければならないことだろう」
というニーチェの(『悦ばしい知識』341晩)と関連させると、
>贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与される<
というこの贈与の対象は、「この永遠の確認」だということになるのでしょう。
 直観音楽を「何のために演奏するのか」の答えもまた、「この永遠の確認のため」となるのでしょう。

>>182,>>183の評、ありがとうございました。

185千手:2008/12/02(火) 21:16:13
Youtubeでみつけた田中角栄さんのスピーチ。
聞いてると並の漫才師ではとうていかなわないほどおもしろい。
感心した。
http://jp.youtube.com/watch?v=3IICS3Hsyy8

186千手:2008/12/04(木) 22:20:36
『正法眼蔵』四十六「無情説法」の中、
「いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに所生長の百草万樹、おほよそ有情と学しつべきあり、無情と認ぜられざるあり、草木の人畜のごとくなるあり、有情無情いまだあきらめざるなり」
有情と無情の境を引くのはとても難しいからよく考えろ、と言っているのだが、なるほどと感心する。
だがこれは有情論、仏性論にとっては、きわめて本質的で斬新な提案ではなかろうか。

187千手:2008/12/09(火) 03:20:26
「無情説法の会下には、諸聖立地聴するなり。諸聖と無情と、聞を現成し、説を現成せしむ」
無情がする説法は諸聖が聴くというのだ。「無情説法諸聖聞得」とも言われる。

「無情すでに諸聖のために説法す、聖なりや、凡なりや」
無情がする説法は当然ありがたいものなのだ。

さらに
「無情説法、無情聞得」
これもおもしろい。無情のする説法は無情こそが聞きとり得る、ということか。人間も無情にならなければ無情のする説法を聞取り得ないのだ。
「無情説法什麼人得聞」とはそういうことだろう。

188千手:2008/12/09(火) 03:31:11
私がここで言っていることは、『法華経』如来寿量品14に
「是(これ)より來(このかた)、我常に此の娑婆世界に在りて、説法教化す」
と説かれていることに含まれている問題、つまりその場合常住の如来は一体どういう形で説法をしているのか、という問題に対する道元の、あるいは禅門の、答えをここに見出せるのではないかということなのだが、お分かりいただけただろうか?
これはこの前の「風日」の研究会で、堀田さんの発表を註釈して付け足して言ったことなのだが。

189千手:2008/12/09(火) 03:40:22
『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。
或いは当り前のことかもしれず、また道元の専門学者からは問題にもされないことかもしれない。
誰か問うた事のある問題提起であり、解釈なのだろうか?
『正法眼蔵』を『法華経』から解釈するということは、あるいは『法華経』が残している問題に道元がどう取組んでいるかを考えるということは、日本仏教史の研究が当然しなければならない研究のはずなのだが。
 まあ、私も辻さんの本を読んでから言うべきなのだが、まずは最近発見したことを書きとどめておくことにしよう。

190千手:2008/12/09(火) 18:15:57
>>189
>>『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。

webで調べたところ、『法華経』→『禅』という研究はなく、むしろ浄・禅関係で研究がされているようです。
「無情説法」の話です。

191千手:2008/12/31(水) 14:48:10
床田和隆さんのビデオ作品『ワイア(WAIA)』を観た感想。
http://25237720.at.webry.info/200812/article_3.html

192千手:2009/02/11(水) 22:49:45
ドゥルーズのこういう理論はどうでしょう?

コリントの例において、金属貨幣はまず(生産者)としての「貧しい者」に配布され、
彼らは土地に対する権利を買い取るためにこれを使用した。このとき貨幣は、停滞しないという条件、
つまり、貨幣と財および役務とのあいだのに等価交換が成立し、貧者は財または役務の形で、
富者は金銭の形で、富める者も貧しい者も全員が税を収めるという条件のもとで、富んだ者の手に渡るのである。
(『ミル・プラトー』13)

193千手:2009/02/11(水) 22:53:19
[承前]
貨幣はいつも権力装置によって配布されるのであり、財−役務−金銭のあいだの等価関係が成立するように、
保存、流通、循環という条件をともなって出現するのである。
(同前)

194千手:2009/02/12(木) 20:11:14
原国家(Urstaat)の仮説:
「国家というものは人類の最も遠い時代にまで遡るものである」
ドゥルーズはピエール・クラストルを、「未開社会を基体、すなわち自足した実体にした」として批判する。
MPp.444、訳本415頁

195千手:2009/02/26(木) 21:39:24
芸術大学の使命

芸術大学は
cultivating art (耕作芸術あるいは開墾芸術)
さらには
vegetating art (植物栽培芸術)
の学科を作るべきだ。
農学部とどこが違うって?
きっと大して違わない。
より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

たとえば、
ケシ栽培にたよらなければ生活を維持できないところに、
他の植物を栽培することによって生活できる途を作ってゆくこと。
イサム・ノグチが言ったアースのカーヴィング(彫刻)を、ほんの少し変えただけのことだ。
この芸術によって
きっと、ノグチが生みだした以上の喜びを生みだすことが出来るだろう。

196毛蟹:2009/02/27(金) 10:03:45
>195
僕の感じたことをお伝えします。

>農学部とどこが違うって?
>きっと大して違わない。
>より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

この文章は提案者のものとしてはおかしくないですか?
現在の大学農学部の教育、研究、活動の中身についてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?
そしてご自身は土、植物、動物、気象、マーケットについてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?

100人の専業農家の一人にでも勝る理解をお持ちですか?

おそらく答えは「NO」でしょう?
「耕作芸術、開墾芸術、植物栽培芸術」これらの概念に含まれる「芸術」は銀蝿とどこが違うのでしょう?

197千手:2009/02/27(金) 21:12:19
知識、技術の内容は農学部、専業農家のもつもを学ぶ。(他にあるとは思わない)
それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。
それは「銀蝿」でしょうか?

198毛蟹:2009/02/27(金) 23:02:19
>195
>この芸術によって

それは「農業」でしょ?「農業」と呼ばれてきた営みに「芸術」という名称を付けてパクる(失礼)のは如何なものでしょうか?
銀蝿は匂いを辿って飛来し、そこに止まって卵を産み付けます。

>197
まずはご自身で学び、実践した上で口を開かないと「ドラエモンのポケット」になってしまいませんか?

199毛蟹:2009/02/28(土) 00:04:48
>197
>それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。

「美しい姿」・・・それって見学者の、お客様のヴィジョンでしょ?
「実践的に探求する」ってことは農業で飯を食うということですよね?でなければ探求を続けられませんからね。
ということは、「お客様のヴィジョンを持ち、かつ農業やって飯の食える人間を育てる」ということになりますね。

農業の世界にも名人はいるでしょう。でもその名人の名人たる根拠は口で説明してもらわない限りわれわれには分からないはずです。名人とは事物の根っこを問い続けてきた人です。「なぜ名人はそうするのか?」その理由は同じところまで達した人間以外には分かりっこありません。
その程度の耕作芸術家が「食える芸術家」を育てられるとお思いですか?

200千手:2009/02/28(土) 00:49:14
ケシを栽培せずに、芋を栽培して食べれるようになれば、それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

201千手:2009/02/28(土) 00:54:49
誤解してほしくないのですが、わたしは「art」をラテン語の「ars」に近い意味で捉えているのです。
これが「art」の由緒正しい使い方だと考えています。
また「六藝」の「藝」にしても相当に生活密着的な技のことです。
近代日本の「芸術」の観念が異常だとわたしは考えています。

202毛蟹:2009/02/28(土) 09:17:58
>200
>それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

観光や視察でそこを訪れた人間、メディアの流す映像を見た人間なら皆心を痛めてそう言うでしょうね。

ところで、彼らは芋が好きなのですか?

>201
なぜ「技」と言わないのですか?農家の人びとにとって「芸術」という言葉は、正に千手さんが異常だとする観念を喚起するのではありませんか?

「異常な観念を纏わされている(とする)」芸術という言葉を使うのであれば再定義したうえで(フェノロサ批判とか・・・よう知らんけど)用いる慎重さが必要ではないでしょうか?
僕なら使いませんね。

203毛蟹:2009/02/28(土) 09:40:53
>202
ケシ畑は視察も観光もできるところではありませんね(笑)。ま、その程度のお気楽人間なんですよ僕は。

メディアの伝える情報を美味いコーヒーを飲みながら(そのコーヒー豆はフェアトレードしたものか・・てなことは考えない)心を痛める人間はゴマンといるでしょう。
その中で『ケシ畑を芋畑に・・・』と考える人間もニマンはいるでしょう。
千手さんもその中の一人で、他と違っているのはそれに「芸術」という名前をつけるところです。

204毛蟹:2009/02/28(土) 10:51:47
思いついたのですが、

「掠め取る芸術学部」というのを設けて「技」を仕込んでやれば、その学部の卒業生は案外すいすい飯を食って行けるかもしれません。
実際そのような芸術のジャンルもありそうです。

205千手:2009/03/02(月) 01:26:35
>>204
>「掠め取る芸術学部」
 何を掠め取る? どうやって?
 香具師の術?
 オレオレ詐欺の術?

206千手:2009/03/02(月) 01:32:37
>>203
>ケシ 
ミャンマーのシャン州の話。地元住民なら殺されないということ。ごく親しく一緒に行動していれば大丈夫だそうだ。
見学に行ってみたいですか?
 アフガニスタンでも事情は同様でしょう。

207千手:2009/03/02(月) 01:34:49
>>202
芸術の新しい定義を提案すること、これは常に大事なことだ。

208毛蟹:2009/03/02(月) 11:26:31
もう止めます。

209千手:2009/03/04(水) 10:03:54
>>205
香具師の術(口上)は、「限界芸術」のカテゴリーに入るでしょう。

210千手:2009/03/07(土) 10:35:10
>>203
ニマンといるならしめたものです。受け入れられるかもしれない。
「芸術」の歪曲、「芸術」=高尚なものという「芸術」理解は誰が広めたか、というと
それは「芸術」を「上部構造」として位置づけたマルクスの影響が非常に強いのではないかと最近思うようになった。
 彼は労働者から芸術を取り上げてしまったことになる。もともと取り上げられていたから、だが、
労働者の内に「芸術の種」を認めてもよいはずだった。

211千手:2009/06/02(火) 01:12:44
鎮魂という思想(追出しの思想)という短いものを纏めたい。
人を追いだすなら賠償金を払ってあっさり追出せばいい、鎮魂のまねごとなどするな。
鎮魂をするなら、風土記の谷刀の神を追出した、マタチ(だったか)のように、永代にわたって鎮魂を続けよ。
せめて一身だけでも死ぬまで鎮魂に従事せよ、というような思想。
いつからこんなにまがいものの鎮魂がはびこってしまったのか?

212千手:2009/06/09(火) 01:21:23
>>211
今日『歴史懇談』25周年記念号にむけて纏め、送った。寄稿を求められていたので。

213千手:2009/07/23(木) 22:15:42
ニーチェの問題は、おおよそこの三つだろう。
1.神が死んだ
2.無意味なものの永続としての世界
3.肯定の発見
ヘッセの詩"Im Leide"(苦しみの中で)を読むと、この問題が縮約された形で読み取れる。ドイツ人がニーチェをどう理解したか、ということはヘッセを読むとよくわかる。非常にストレートに受け止めているのだ。哲学者が読むとどうも素直じゃない。

214千手:2009/07/23(木) 22:17:26
こんな詩だ。

Im Leide (Hermann Hesse)

Daß bei jedem Föhn
Vom Berg die Lawine rollt
Mit Saufen und Todesgetön ---
Hat das Gott gewollt?

Daß ich ohne Gruß
Durch der Menschen Land
Fremd wandern muß,
Kommt das von Gottes Hand?

Sieht Er in Herzensnot
Und Qual mich schweben?
--- Ach, Gott ist tot!
Und ich soll leben?

215千手:2009/07/23(木) 22:25:02
>>213
うまくない。
1.神が死んだ
2.永遠回帰---無意味なものが永遠に
3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する
 この方がいい。

216毛蟹:2009/08/10(月) 16:57:32
「コブクロ」という若者に人気のJポップのユニットがいる。
しょうもない歌詞を必死の形相で歌い合う二人の姿はさながらサルのせんずり合戦のようでキモイことこの上ない。
しかし、これがどうも彼らの商売上の戦略のようなのだ。
つまり彼らは彼らの曲に感情移入しているのではない。
彼らにとってのお客様は、「はい、ココで感動しろよ。次、ココ泣くところだからね」と教えてやらなきゃならないほどのバカになってしまった若者達である。
若者のバカ度が進むほど金が儲かるシステムを構築してバカをせっせと養殖しているである。

217毛蟹:2009/08/10(月) 18:00:00
>216
バカ度=情報化社会への適合度であるから彼らは情報化社会のビジネスモデルの最先端を実践していることになる。
バカは2つの種に分類される。一つは顧客になるバカ。もう一つはこのビジネスモデルを知らないバカである。

218毛蟹:2009/08/13(木) 11:03:25
>>215
>1.神が死んだ

神が死んだら神学者、宗教学者は何をなすのですか。

>3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する

ある事件がある者にとって歓びであると同時に別のものにとって苦痛であるような場合(たとえば戦勝国の国民と敗戦国の国民)、この事件は回帰するのでしょうか。


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