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日本茶掲示板同窓会

226キラーカーン:2018/02/23(金) 00:29:42
8.3.4.4. 変動期:「大正政変」(第三次桂内閣)

 立憲政友会と山縣閥との間の棲み分けと相互依存関係を基盤とする1900年体制に桂は飽き足らなくなっていた。通算総理在職日数が最長となった桂は、山縣以下の元勲元老の影響力を排除した上で、伊藤のように自らが政党を結成することによって政友会を凌ぐ政治勢力を築こうとしていた。

 その桂の「野望」を看取した山縣は、明治天皇崩御、大正天皇践祚に乗じ、桂を内大臣兼侍従長に「押し込む」ことに成功する。皇室事務と一般政務との峻別は厳格になされるべきという考え方の実施形態である「宮中府中の別」が確立されていた当時、内大臣や侍従長といった宮内官に就任することは政治家としての引退を意味していた 。

 丁度その頃、二個師団増設問題を巡って、増設の実施を求める陸軍と財政上の理由から延期を企図する西園寺政友会との対立が深まっていた。政友会は海軍・薩派と連携して師団増設の延期を決定する。これに反発した上原勇作 陸相 は師団増設の旨を帷幄上奏の上単独辞任し、陸軍が後任陸相を推薦しなかったため、第二次西園寺内閣が総辞職に追い込まれる事態が発生した 。桂は、この機を逃さず、元老会議で次期首相の指名を受けることに成功する。しかし、陸軍大臣の帷幄上奏で総辞職した内閣の後継首相が「陸軍大将」の桂太郎であったことに民衆は激昂する。

 激昂した民衆及び民党(政府に批判的立場を採るな政党)は「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに掲げ桂倒閣運動へ突進していく。このため、第二次西園寺内閣総辞職から第三次桂内閣総辞職までの政治的混乱を「大正政変」或いは「第一次護憲運動」という。

 この政治的混乱を桂は即位間もない大正天皇の詔勅や勅語で乗り切ろうとするが、逆に即位間もない大正天皇の「政治利用」 であるとして「詔勅をもって弾丸となし、玉座をもって胸壁となす」と咢堂尾崎幸雄に批判される始末であった。桂は、後備役陸軍大将 であることを活かして自身に連なる官僚や国会議員を糾合し、政友会に対抗する政党(当時「桂新党」と呼ばれていた)を結成しようとした。

 しかし、「混乱を収拾するように」という勅語を受けた西園寺政友会総裁の協力も得られず、桂は、在任2カ月程で総辞職に追い込まれる 。ここにおいて、10年以上にわたり存続し、日本の政治的安定をもたらした桂園時代は終わりを告げることとなった。

227キラーカーン:2018/02/24(土) 02:30:59
8.3.4.5. 第2期:「変動の時代」(第一次山本内閣から第二次大隈内閣)

8.3.4.5.1. 総説

 桂園時代を支える基盤であった山縣閥と政友会との「棲み分けと相互依存」による政権寡占状態は大正政変で変動を余儀なくされた。当時、桂の権力基盤である山縣閥と西園寺の権力基盤政友会が非選出勢力と選出勢力を代表する二大勢力であったのは言うまでもないことであるが、非選出勢力及び選出勢力双方にそれ以外の「第二勢力」が存在した。非選出勢力においては海軍であり、選出勢力であれば大隈系(憲政本党⇒桂新党⇒同志会⇒憲政会⇒民政党)であった。この時点で桂園という二極体制は山縣閥+海軍(非選出勢力と政友会+同志会(選出勢力)という「2+2体制」へと変化した。

 大正政変で打撃を受けた山縣閥及び政友会が首相を輩出することが不可能となり、『正調』1900年体制が継続していれば首相になれるはずもない山本(海軍)及び大隈に首相の座が回ってきた。しかし、首相を輩出したとはいえ、海軍も同志会も独力で内閣を組織できるだけの力はなかった。このため、山本も大隈も山縣閥か政友会のいずれかを提携相手として選択しなければならなかった。桂園時代からの因縁もあり、山本は政友会を選択し、大隈は山縣閥を選択した。

 このように、大正政変の結果を受け、非選出勢力(現役軍人首相)と選出勢力(政党党首)との間の政権交代構造という1900年体制の大枠は維持しつつ、二大勢力である山縣閥或いは政友会のいずれからも首相を輩出できなかったという点で、この時期は「変動の時代」といえる。

228キラーカーン:2018/02/24(土) 02:33:10
8.3.4.5.2. 第一次山本内閣

8.3.4.5.2.1. 「第三の男」山本権兵衛

 大正政変で総辞職した第三次桂内閣の後を襲ったのは海軍の山本権兵衛であった。山本は、「桂園権」の「権」として桂や西園寺と並び称されることもあったが 、それでも桂、西園寺に次ぐ「第三の男」であった。山本は海軍武官で初めて首相の印綬を帯びたものであった。これ以降、海軍武官(大将)が首相の印綬を帯びることが度々発生するが、その場合、

本命、対抗双方とも何らかの事情で首相に就任できない事態において「誰も反対出来ない中間派」として首相に指名されるという

場合が多い。

 その場合の本命及び対抗は時期によって変動するが、この場合、その両者は、山縣閥と政友会であったことは間違いない。大正政変で桂が内閣総辞職に追い込まれ、西園寺も「混乱を収拾するように」という勅語を守れなかったという「違勅」により一時的な政治的蟄居に追い込まれた 。

 このように、桂はもとより西園寺までも傷を負い、第三次西園寺内閣が不可能となった。かといって、山縣閥及び政友会に桂及び西園寺に代わる首相候補は存在しなかった。そのため、自他ともに認める桂園に次ぐ「第三の男」山本に首相の座が回ってきた。
8
.3.4.5.2.2. 政友会との「連立内閣」

 政治家としての山本の基盤は海軍及び薩派であった。しかし、両者とも、山縣閥や政友会のように独力で政権を維持できるだけの勢力ではなかった。この点に関しては、第二次西園寺内閣において、海軍と政友会は「師団増設反対」で利害が一致していた経緯もあり、山本と政友会との提携に落ち着いた。副総理格の内相には、政友会代表として第一次、第二次西園寺内閣で内相を務めた原敬が第一次西園寺内閣、第二次西園寺内閣に続き三度目の就任となった。
原の内相就任に加え、政友会の協力の条件として、現役軍人であるため、正党員資格を持たない首相、陸相、海相の3名に(外交は一党一派に偏しないという観点から政党内閣であっても非政党員も許容される )外相を加えた4名以外の閣僚の就任については政友会員又は政友会への入党が条件となった 。この結果、第四次伊藤内閣以来初、西園寺内閣でも実現できなかった、過半数が政友会員である内閣を実現した。このことは、第一次山本内閣が「海軍と政友会との連立内閣」或いは「山本(海軍)をみこしに担いだ政友会内閣」である事を如実に示すものであった。

 このように、第一次山本内閣は桂園時代とは異なり、現役軍人を首相とする事実上の政党内閣というキメラのような内閣であった。但し、武官が政党を基盤に内閣を組織するという点において、第一次山本内閣は第三次桂内閣の延長線上にあった 。

8.3.4.5.2.3. 軍部大臣現役武官制の撤廃と政治的任用職の拡大

 現役海軍軍人が首相ではあるが政友会員が過半数を占める第一次山本内閣において、政党側に有利な制度改正がなされていく。その代表例は
① 軍部大臣現役武官制の撤廃
② 高位の文官職の政治任用対象ポストの拡大
であった。

 このように、初めて政党員首相となり、また閣僚の過半数を政党員が占めた第一次大隈内閣において政党員が行為の文官職を占めたことの反動で第二次山縣内閣において制定された政党員の登用を防ぐ規定が緩和されていった。

8.3.4.5.2.4. ジーメンス事件の発覚から総辞職へ

 山本と原の政治家としての力量も申し分なく、安定政権 かと思われていたこの内閣が急転直下総辞職に追い込まれることとなった。海軍高官も関与した疑獄事件として有名な「ジーメンス事件」であった。

 ジーメンス事件の詳細については省略するが、本件については、海軍高官が関与した贈収賄事件であったことから、現役海軍大将である山本首相に対する貴族院からの追及が厳しく、予算案が貴族院で否決されたことを見届けた上で山本内閣は総辞職となった。

8.3.4.5.2.5.  第一次山本内閣の意義

 第一次山本内閣は、桂園時代の政権交代構造である山縣閥(桂)と政友会との政権構造を維持しながら、第三次桂内閣で果たせなかった、「軍人首相と政党との融合」という政官軍を縦断する内閣であった。これ以降、海軍大将が「誰も反対できない中間派」として首相となる場合であったも、政党員を閣僚とするなど政党との協力関係構築が前提となっていく。

229キラーカーン:2018/02/25(日) 00:35:58
8.3.4.5.3. 第二次大隈内閣
8.3.4.5.3.1. 難航する首相選定

 第一次山本内閣の総辞職を受け、元老は次期首相の選定を始めた。海軍・政友会連立内閣であった山本内閣が総辞職した以上、後継首相・内閣はそれ以外の政治勢力から選ばれるのは当選の成り行きである。とすれば、次期首相は山縣閥から輩出する順番となる。しかし、次期首相選定は難航する。

 当時、桂を失った陸軍にはこの時点で推したい首相候補がいなかった 。勿論、当時においても寺内正毅という首相候補は存在した。しかし、大正政変から2年も経っておらず、また、第一次山本内閣も軍(海軍)の汚職事件で総辞職したことから、陸軍から首相を輩出することは憚られる情勢であった。

 結局、元老会議は、これまで首相を輩出した政治勢力(山縣閥(陸軍系)、海軍、政友会)とは無縁であり、政治的には無色の「徳川16代将軍」である徳川家達 を次期首相に指名した。しかし、徳川が辞退したため次期首相選定は振出しに戻った。

 徳川が辞退したため、、次期首相は山縣閥の文官系から選定することが第一選択肢となった。当時、山縣閥の文官系で首相候補となり得るのは、平田東助と清浦奎吾がいた。元老会議は清浦を次期首相に指名する。清浦は組閣作業に着手するが、海軍大臣予定者の加藤友三郎に辞退され 組閣辞退に追い込まれた 。

 清浦の大命拝辞で非選出勢力の首相候補が払底した。とはいっても選出勢力側に首相候補となり得る人物も存在していなかった。第一次山本内閣総辞職の経緯から政友会から首相を出さないことは「当然の前提」となっており、「桂新党」改め立憲同志会側の首相候補である桂は既に鬼籍に入っていた。桂の死後、同志会は加藤高明を指導者としてまとまりつつあり、官僚系の同志会員としては大浦兼武もいた。しかし、両名とも元老からは首相としては「今一歩」とみなされていた。

 ここで、井上馨が「大隈再登板」という奇手を提案した。大隈は明治十四年の政変で失脚するまでは、元老の上席を占める参議、且つ、元首相であり、経歴の点では問題はない。また、内閣制度創設後も閣僚として元老達と席を並べていたこともある。更に、大隈は同志会の前身と言ってもよい進歩党⇒憲政本党の指導者であり「同志会名誉総裁」と言ってもよいくらいの立場であった。他の元老も大隈以上の候補者が思い当たらず、「明治十四年の政変」以来の行きがかりもあるが 、「反政友会連合」という観点から、次期首相は大隈に決した。

8.3.4.5.3.2. 第二次大隈内閣の成立

 ともあれ、次期首相は大隈に決定した。同志会を与党とするため、加藤高明外相他、幾名かの閣僚は第三次桂内閣以来の再任である。また、山縣閥の「反政友会」の観点から好意的中立であった。山縣閥は2個師団増設、同志会は衆議院第一党の座を奪取という点で共闘していた「呉越同舟」でもあった。

 難産の末に第二次大隈内閣が発足したが、衆議院の多数派は依然として原が率いる政友会であった。このため、陸軍の悲願ともいえる2個師団増設に関する予算案は衆議院で否決され、1914(大正3)年12月、内閣は解散総選挙に打って出ることとなった。

8.3.4.5.3.3. 同志会の総選挙勝利と憲政会の結成と内閣の陰り

 先に述べたように、山縣閥は、二個師団増設或いは文官任用令の再改正 、同志会は政友会を総選挙で破り衆議院第一党の座を獲得すること、即ち、衆議院で政友会を第一党の座から引きずり落とすという点で利害が一致したことで提携関係が成立していた。

 依然として衆議院第一党であった政友会は2個師団増設に関する予算を否決したことを契機に、内閣は解散総選挙に打って出た。同志会は大隈の知名度を最大限に利用した選挙戦 を行い、381の議席を争った。結果は同志会153、政友会108と同志会が念願の第一党を奪取した。また、同志会の他に中正会など大隈内閣を支持する勢力を合算すれば過半数となり、ここに「反政友勢力」の悲願が達成された。

230キラーカーン:2018/02/25(日) 00:36:20
8.3.4.5.3.4. 加藤外相の「強情」から「苦節十年」へ

 ここで、時計の針を少し前に戻す。1914(大正3)年6月、オーストリア=ハンガリ帝国皇太子フォランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺されたことがきっかけとなって第一次世界大戦が発生した。

 列強各国は中国に権益を有していたため、日本も影響を受けないわけにはいかなかった。しかし、当時の筆頭元老である山縣は「欧州の内戦」として静観すべきとの立場であった。しかし、外相の加藤高明は日英同盟に基づき英国側で参戦することを企図していた。

 当時まで、和戦の決定など国家の存立にかかわる決定は元老の了解を得るというのが不文律であった。それは、名実ともに明治国家の「建国の父」である元勲元老自身の実績に基づく権威がそうさせていた。

 しかし、加藤外相は元老の同意を得ることなく日英同盟に基づく参戦を決定する。大日本国憲法上、外交大権の輔弼者は外務大臣(と総理大臣)である事を根拠に、加藤外相は山縣以下の元老の要請或いは抗議を無視しした 。元老が大日本帝国憲法上の規定に基づかない、自身の実績と天皇の信任に基づくという「属人的制度・不文律」である事の弊害がと呈した形となった。

 また、加藤外相は、参戦に併せ「対華21ヶ条要求」を中華民国に提示し、その秘密条項で対中利権獲得を露わにしたことから、中華民国はもとより列強の不信を買った。この一連の「失策」で加藤は「首相候補として『落第』」との判定を下された。これも、第二次大隈内閣総辞職後、同志会(憲政会)が与党に返り咲くまで10年 を要した一因でもある 。

8.3.4.5.3.5. 総選挙の勝利から総辞職へ大隈の「元老待遇」

 総選挙は同志会以下の与党(反政友会勢力)の勝利に終わった。しかし、この総選挙で大浦内相による選挙干渉が問題となり、大浦内相は辞任を余儀なくされる。内相という「副総理格」であり、且つ、同志会における官僚派の筆頭格ともいうべき大浦が閣外に去ることは第二次大隈内閣の屋台骨を揺るがす大事件でもあった。

 この事態を受け、閣内は総辞職派と内閣改造派に分裂した。大隈首相も一時は総辞職に傾いたが、大正天皇の即位を理由にして内閣継続を望んだ。結果として、選挙干渉を行った大浦内相に加え加藤高明外相ら総辞職を主張した閣僚を更迭する内閣改造による内閣続投ということとなった。

 第二次大隈内閣は、師団増設と大隈首相を支持する同志会以下の「反政友会連合」が衆議院の過半数という内閣発足当初の目標を達成した。そのことは、第二次大隈内閣を成立させていた山縣閥と同志会との呉越同舟もまた終わりに近づいたことを意味した。その結果大正天皇の即位の例が滞りなく挙行されてから程なく第二次大隈内閣は総辞職した。

8.3.4.5.3.6. 大隈の「元老待遇」

 第二次大隈内閣が小辞職した時、統治機構において大きな問題が持ち上がっていた。それは「元老の枯渇」であった。

 第二次大隈内閣成立時、元老は、山縣、井上、松方、大山の4人であった。元老の資格があった西園寺は大正政変のあおりで「政治的蟄居」状態であり、元老として活動できる状態ではなかった。第二次大隈内閣の間に井上が死去し、大山も第二次大隈内閣総辞職直後にこの世を去る。

 このような状況の中で、元老制度を維持するのであれば、元老を補充する必要がある。「政治的蟄居」中の西園寺を復権させたとしても、元老は山縣、松方、大山、西園寺の4名である。桂は既に鬼籍に入り、「第三の男」山本はジーメンス事件により「政治的蟄居」を余儀なくされている 。西園寺の同世代或いは次世代の政治家で元老に手が届きそうな人物は当時存在していなかった 。

 西園寺は元政友会総裁であったことから、その均衡上、「新元老」は憲政会系が好ましい。そのような思惑から、大隈が新元老候補として浮上する。大隈の経歴は元老達に匹敵することは自他ともに認めるところである。このような経緯もあり、大隈が総理を退任する際に、内容が「元勲優遇の勅語」に類似した「御沙汰書」を大隈が賜った。

 しかし、大隈は「元老」として振る舞うことはなかった。それは、政党指導者として今更、憲法上に規定のない天皇との個人的信頼に基づく元老の一員になる事は不可能であったからである。しかし、退任時に加藤高明を次期首相に推薦することや、個人的に意見を求められた際には「元老格」として意見を述べることはあった 。
 その後、元老補充問題は、原首相暗殺後、西園寺が「一人元老」となった時点で次期首相指名に際しての「御下問範囲拡張問題」として再燃することとなる。

231キラーカーン:2018/02/25(日) 23:54:43
8.3.4.6. 第3期:「桂園時代の『復活』」(寺内内閣から原内閣)

8.3.4.6.1. 総説

 第一次山本内閣及び第二次大隈内閣は、「2+2」体制の中で、選出勢力及び非選出勢力双方の「+2」が相次いで首相を輩出した点で「1900年体制」の「変動期」であったと言える 。「+2」が双方とも首相を輩出する間に体制を整えていた「2」側が「満を持して」出馬したのがこの時期の寺内内閣及び原内閣である。

 寺内、原の両名とも桂園の正統後継者というべき地位にあった。その点では、まさに「正調1900年体制」への回帰と言ってもよい時期である。この時期は第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、第一次世界大戦の終結とパリ講和会議、そして、ワシントン軍縮会議からワシントン体制への参加と日本の対外政策に関する大事件が生じているが、本節で述べる政治体制論、特に「交代大統領制」に関しては「正調1900年体制」へ回帰した以外、特記すべき事項は余りない。

 但し、「初の本格的政党内閣」と称されることもある原内閣で初めて「純政党内閣」をこの時期の主役である寺内及び原双方とも「元首相」として政治的影響力を行使することはできなかった。寺内は首相退任後程なくして死去し、原は首相在任中に暗殺されたからである。このように、元勲元老の衣鉢を継ぐべき政治が相次いで亡くなり、その役目を貫徹できたのは、「最後の元老」となった西園寺、もう少し広く取っても「準元老」として並び称された山本と清浦であった。

 これまで参議、閣僚、首相、元老と地位や呼び名は変わっても、明治の太政官制末期から大日本帝国憲法体制を支えてきた元勲元老(大隈を含む)も、原首相の暗殺(1922(大正11)年11月)と前後して山縣及び大隈が死去する(1923(大正12)年2月)。この時点で、元老の持つ「政治的な天皇の代行者(≒大統領)」としての機能は事実上消滅することとなる。それは、「交代大統領制」としての「1900年体制」が名実ともに滅亡したことを意味した。

232キラーカーン:2018/02/27(火) 01:15:49
8.3.4.6.2. 原内閣と陸軍

 原内閣は、初の「本格的」政党内閣と言われることがある。これは、それまでの「政党内閣」は、
① 短命内閣(1年未満):第一次大隈内閣、第四次伊藤内閣
② 軍部大臣及び外務大臣以外の閣僚にも与党員ではない閣僚が存在
 (第一次、第二次西園 寺内閣、第三次桂内閣、第一次山本内閣、第二次大隈内閣)
であったことから、大手を振って「政党内閣」と呼称することを憚られる事情が存在したからである。

 しかし、原内閣は、そのような政党内閣を称することを「憚る」事情が存在しない初の内閣でもあった。また、原は初の平民(華族ではない≒爵位を持たない )の総理大臣となったことから「平民宰相」 との異名を持つ。そのような経歴も「本格的政党内閣」という原内閣の性格を強化することに繋がっている。

 1900年体制の主役である政友会と山縣閥を率いる者として原と山縣は当然のことながら政治家としては対立関係にある。原の首相指名についても、山縣は最後まで抵抗している。このため、陸軍対策として、原は筆頭元老でもある山縣と田中陸相との二正面作戦を展開した。結果として原首相は陸軍の統制に一応の成功をおさめた。

 陸軍の側も、第一次世界大戦が「総力戦」となった現実を踏まえ、政党との協力関係を構築する必要を感じていた。政党は国民だけではなく、経済界も統合する実力を持つ。三菱財閥は大隈や加藤高明を通じて憲政会と密接な関係にあった。一方、三井財閥は井上馨(政友会設立に関与)及び西園寺公望(実弟が住友家の当主)を通じて政友会と密接な関係にあった。

 総力戦を遂行するためには、政党の国内各勢力を束ねる能力を利用すべきだという見解が陸軍内でも発言力を増していった 。このため、陸軍は首相の座には拘らず、陸相を通じて政党内閣を「裏から」利用した方が都合がよいとの考えも出てきた。特に原内閣のような強力な政党指導者が組織する政党内閣に対して真っ向からの対立姿勢を採るということも、政治力学上困難であった。これに、ワシントン軍縮会議への海軍大臣出席に際しての海相代理問題に端を発して、軍部大臣武官制の撤廃まで具体的な検討になっていった。

233キラーカーン:2018/02/27(火) 23:25:30
8.3.4.6.3. 政党と軍とのパワーバランスの変化(軍部大臣武官制撤廃問題他)

 軍部大臣武官制撤廃は、大正政変の際にも「政変の元凶」として問題となったが、結局現役武官制の撤廃に留まった。しかし、非現役武官は政党員の資格があるので、非現役大中将まで軍部大臣任官資格を拡張すれば政党員の軍部大臣も可能となるという点において大きな意味を持つ改正であった。

 軍部大臣は閣僚の一員とはいえ軍の代表という側面もあるため、軍部大臣の任用資格は1900年体制の主役である山縣閥と政友会の権力バランスの決定する大きな要素である。第一次山本内閣で副総理格の内相として文官任用令の改正により政治的任用職を拡大し、軍部大臣現役武官制を軍部大臣武官制に改正した当事者でもあったことから、自身が首相である原内閣が軍部大臣の任用資格についてをどのように扱うのかは注目を集めていた。

 当時は軍部大臣現役武官制ではなかったため、原内閣では予備役或いは後備役の大中将の軍部大臣を起用するのではないかという観測もあった 。しかし、原は現役の田中義一を指名した。これは、山縣以下の陸軍と決定的な対立を避け、陸相を通じて陸軍を統制しようとする原首相の姿勢を示すものであった 。

 それから時は流れて、「本格的政党内閣」となった原内閣は、第一次大戦後の世界情勢の変化を見据え、他国間協調主義そして対米協調主義に舵を切るべきだと考えていた。そうした折、ワシントン軍縮会議が開催されることとなり、日本からの全権として加藤友三郎海軍大臣が出席することとなった。

 海軍大臣が長期にわたって不在となることから、(正式な肩書はともかく)海軍大臣臨時代理の任命が避けられない情勢であった。軍に対する政治側の優位を確立しようとする原政友会は勿論のこと、海軍における軍政面の責任者である加藤海相自身も軍部大臣に武官でない者が就任すること(軍部大臣文民制度)もあり得るとの考えを持っていた。

 結局、敗戦までに文民海軍大臣は実現しなかったが、原首相が海軍大臣事務管理に就任した。事務管理とはいえ、事実上の「文民海軍大臣」が現実のものとなった 。原首相が暗殺されたため、原内閣での文民軍部大臣問題はここで突然の終焉を迎えることとなった 。しかし、この問題は以後も政軍関係上の重要問題としてくすぶり続ける。

 軍部大臣任用資格の他に政軍関係上重要な制度改正としては、朝鮮、台湾領総督に武官でない者(所謂「シビリアン」)の任用が可能となったことである。原内閣で両総督の任用資格が改正されるまで、両総督には現役将官が任命されてきた 。原内閣はこれを改正し、両総督に文民或いは文官を任用することを可能とした 。勿論、これまで通り、現役武官からの任用も可能であった。以後、朝鮮総督は非現役大将の任命はあったもの、文民や文官からの任用は敗戦までなかったが、台湾総督には文官総督が実現した。

234キラーカーン:2018/03/01(木) 00:25:59
8.3.4.6.4. 原内閣の突然の終焉

 原内閣は発足から3年を超え、長期安定政権を気づいていた。最大のライバルである山縣閥に対しても山縣本人との良好な関係構築ともに田中陸相通じて陸軍に対して影響力を及ぼしていた。また、原は松田正久の死後、政友会における「唯一無二」の指導者であり、政友会を完全に掌握し、衆議院においても安定多数を擁していた 。原内閣は、当時(そして現在においても)最長である第一次桂内閣を上回る長期政権が視野に入ってきた。

 病気で天皇としての執務を遂行が困難になりつつある大正天皇の摂政として皇太子裕仁親王(昭和天皇)の摂政就任の準備を着々と進め、欧州外遊、久邇宮良子女王 との婚約発表を終え、あとは11月の摂政就任を待つだけとなっていた。

 最大の政敵である山縣にもその力量を認めさせ、将来は盤石に見えた原内閣であるが、その終焉は唐突にやってきた。皇太子裕仁親王の摂政就任を約1か月後に控えた1921年10月、原は東京駅で暗殺される。原首相を屠った凶刃は、原首相・内閣のみならず、約四半世紀にわたって日本政治の安定と漸進的民主化に多大な貢献をした1900年体制をも同時に屠ったのであった。

235キラーカーン:2018/03/02(金) 00:06:38
8.3.4.7. 第4期:「1900年体制の終焉」(高橋内閣から清浦内閣)

8.3.4.7.1. 総説

 この時期は、原首相の暗殺と政友会の混乱、そして、現役軍人首相候補の払底と山縣の死去による山縣閥の終焉により、「1900年体制」の時代が終焉したことを日本全体に周知するための時期である。

 大正10年後半から翌11年初めの間、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の摂政就任、原首相の暗殺(大正10年10月)、山縣、大隈両元老(格)の死去(大正11年2月)、そして、大正13年には松方も死去し、西園寺が「ただ一人の元老」となり、時代の変わり目を意識せざるを得ない事象が連続して生起した。

 内閣も原首相の暗殺の後、高橋内閣、加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣、清浦内閣と推移していくがいずれも短命に終わり(加藤友三郎内閣は加藤首相の死去という突発事象によるものではあるが)、政友会及び海軍の政権担当能力の低下が明らかになっていた。

 一方、陸軍も総力戦に対応するには、現役陸軍軍人が首相になるよりも政党内閣の下で総力戦体制を構築する方が効果的との見解が(後の統制派に連なる軍人を中心に)有力となりつつあり、山縣閥(陸軍)と政友会との棲み分けと相互依存による政権交代構造を前提とする「1900年体制」の限界が白日の下に曝された。

 時代は、元勲元老が全員死去し、事実上の新帝即位である摂政皇太子就任に相応しい「新しい体制」の必要性を感じさせるものとなった。

 この「新しい時代」は現在では「憲政の常道」と呼ばれている。その時代をもたらした原動力は、一度は元老達に「不合格」の烙印を押された加藤高明憲政会総裁であった。加藤高明は「苦節十年」を耐え切り、首相就任後の「西園寺の追試」に合格する。一方の政友会は憲政会と革新倶楽部との「護憲三派連立内閣」から離脱し、原内閣の陸相であった田中義一を総裁に迎え、来るべき将来の政権奪取に向け体制を立て直しつつあった。「護憲三派」の一角を占めていたが、小政党であった犬養毅率いる革新倶楽部は憲政会、政友会の間で埋没し、犬養は革新倶楽部を政友会に吸収合併させ、犬養自身は政界引退を表明した 。

 清浦からの禅譲路線(これは、情意投合的な1900年体制の延長線上の発想であり、当時においては「王道」の考え方であった)を期待した政友本党は政友会へ出戻るか憲政会に合流するかで事実上分裂する。

 こうして非選出勢力(山縣閥と海軍)と選出勢力(政友会と同志会)との疑似二大政党制的政経交代構造、更には超然内閣とい政党内閣との政権交代構造という「交代大統領制」というの「成功例」としての「1900年体制」は終わりを告げたのであった。

236キラーカーン:2018/03/03(土) 01:06:22
8.3.4.7.2. 原の暗殺と政友会の迷走

 首相の急死による内閣総辞職であったため、次期総理も政友会から出すということは衆目の一致するところであった。とはいえ、 原という絶対的指導者を失った政友会は混乱に陥る。全政友会総裁でもある元老西園寺の再登板も取りざたされたが、後継総裁が高橋是清蔵相に決まり、高橋が首相兼蔵相となり、その他全閣僚留任の上高橋内閣が発足した。 このように、高橋内閣は「居抜き」で発足したが、高橋の指導力は原と比べるべくもなかった。程なくして閣内対立を招き、高橋内閣は約半年で総辞職を余儀なくされる。

 高橋内閣が総辞職した後を襲うべき陸軍には、当時、衆目の一致する首相候補が存在しなかった。このため、ワシントン軍縮会議の後始末もあり、加藤友三郎が首相に就任する。首相が加藤友三郎に決定する過程で、当時の筆頭元老の腹案は「本命が加藤友三郎、対抗が加藤高明」であった。これを知った政友会が加藤県政系内閣成立を阻止すべく、加藤友三郎内閣への全面的閣外協力を申し出たことで、次期首相は加藤友三郎に決定している。このような軍(現役軍人首相)と内閣との協力形態はこれまで存在した、「情意投合」や「第一次山本内閣」とも異なるため、しなかったため、「変態内閣 」と称された。

 加藤友三郎は海相を兼任し、海軍軍縮といったワシントン会議の後始末を堅実にこなしていたが持病が悪化し、在任1年余りで総理在任のまま死去した。

 加藤友三郎が死去したことで、陸軍、政友会、海軍の首相候補が払底し、加藤高明憲政会総裁は未だ「首相の器」とはみなされていなかった。残る候補は、当時、唯一人の「元首相」である山本権兵衛か山縣閥(官僚系)の重鎮であり、山縣の後継者として現任の枢密院議長であり、「鰻香内閣」で「事実上の元首相」でもある清浦の両名しか残っていなかった。当時、両名を指して「準元老」という呼称もあり、名実ともに、西園寺に次ぐ長老政治家とみなされていた。

 「最後の元老」西園寺は加藤友三郎路線の継続も含みで山本権兵衛を選択する。山本は海軍大将ではあったが、首相在任中(第一次山本内閣)のジーメンス事件の余波で現役を去っており、当時は退役海軍大将であった。このこともあり、組閣には薩摩人脈が活躍している。この他には錦城学校卒業生から4人の閣僚を輩出しており、政党から唯一入閣した犬養毅も一時期、薩摩の錦城学校の教員をしていた。しかし、この内閣も虎の門事件(摂政宮狙撃事件)で総辞職を余儀なくされ、約3カ月という短命内閣に終わった。

 山本本人には責のない事件とはいえ、総辞職を余儀なくされ、政治の表舞台から退場した以上、残る首相候補は清浦しか残されていなかった。元政友会総裁という経歴を持つ元老西園寺は、清浦の後は非選出勢力(陸軍、海軍及び官界)の首相候補が払底するとの認識に立っており、清浦の後は体制を立て直した政友会を本命と見ていた。

 清浦は超然内閣として発足した。この時点で、清浦内閣は来るべき総選挙までの「選挙管理内閣」となることが事実上決定した。加藤友三郎、第二次山本、清浦と非政党内閣が三代連続したことから、当時の二大政党である政友会と憲政会、そして、小政党の革新倶楽部は政党内閣復活を要求し、清浦内閣と対決姿勢を打ち出すに至った。この運動を「第二次護憲運動」という。この動きの中で、衆議院で圧倒的多数を有していた政友会が野党派と与党派(清浦からの禅譲路線)に分裂し、後者が政友本党を結成したという政友会の分裂が生じた。このため、運動の主体となった政友会、憲政会、革新倶楽部の三党を「護憲三派」と称するようになった。

 このような中で総選挙が行われ、結果は護憲三派の圧勝であった。この結果を受け、清浦は退陣を決意し、後継首相は、比較第一党党首である加藤高明が就任し、政友会及び革新倶楽部と「護憲三派連立内閣」を組んだ。

 非選出勢力にとって「最後の手札」というべき山本、清浦という「準元老内閣」であってに短命に終わり、陸軍以外の非選出勢力が政権担当能力を消失したことが明らかになった。清浦内閣の下で行われた総選挙で護憲三派連合が勝利したことから、山縣閥と政友会との棲み分けと相互依存による疑似二大政党的政権交代構造を基盤とする「1900年体制」は名実ともにその命脈が尽きた。

237キラーカーン:2018/03/04(日) 00:52:19
8.3.4.7.3. 山縣の死去と山縣閥の終焉

 非選出勢力の主力ともいうべき山縣閥も転換期を迎えていた。第一次世界大戦が「総力戦」であったことから、政党の持つ民衆統合機能を活用し軍は政党を支援して総力戦体制を構築すべきという考え方が、後に「統制派」と呼ばれる軍人から出てきた 。

 この考え方によれば、最早「現役(陸軍)軍人首相」に拘泥する時代ではないということになる。原内閣における田中陸相のように、強力な指導力を発揮できる(文民)首相と協調して(陸軍の組織的利益を確保することは前提としつつも)軍政優位の立場から総力戦体制を構築することが最適解となる。これは、「1900年体制」からの離脱に他ならない。

 さらに、1900年体制というよりも大日本帝国憲法体制の保証人でもあった筆頭元老の山縣も天寿を全うし鬼籍に入る。山縣の死の直前には大隈も鬼籍に入っており、「元勲元老(格)」も過去のものとなりつつあった。政界、官界、陸軍を束ねる「扇の要」であった山縣が没すると、山縣閥自身が陸軍と官界・政界(貴族院勢力)に分割され、前者は「首相輩出勢力」から一歩身を引いた形となった 。

 このようにして、1900年体制の一方の主役であった山縣閥はその歴史的使命を終えた。それは、別の観点から見れば、国家体制整備が完成の域に達し、「元勲」や「元老」という属人的な統合ではなく、国家組織に基づいた統合或いは「縦割り」という時代に移行したともいえる。

238キラーカーン:2018/03/05(月) 00:33:16
8.3.4.7.4. 「第二次護憲運動」と1900年体制の完全なる終焉

 高橋内閣の総辞職から加藤(友)、第二次山本、清浦と(政党からの支援があったことが明白であったとしても)非政党内閣が3代続いたことは1900年体制においても異例のことである。1900年体制の主役である政友会はもとより、第二党として政権交代構造に参画したい憲政会双方とも、この状況に不満を持っていた。このような中で、政党内閣を目指すという点で利害が一致した政友会、憲政会及び革新倶楽部の三党は清浦内閣打倒を目指すこととなる。

 政友会内部では、①清浦内閣との対決路線、②清浦内閣からの禅譲路線、という政権奪取戦略を巡っての路線対立があり、後者は政友会から分離して「政友本党」を設立する。このような情勢を背景に、政友会、憲政会及び革新倶楽部の3党は俗に「護憲三派」と称されるようになる。

 清浦内閣で行われる総選挙は日本初(そして大日本帝国憲法下では唯一)の「政権選択選挙」 となった。その選挙結果は
① 護憲三派の勝利
② 憲政会が比較第一党(第二党は政友本党)かつ護憲三派内での過半数確保
という憲政会の「完全勝利」であった。

 この選挙結果を背景に、加藤高明憲政会総裁は「苦節十年」の末に念願の首相の座に就いた。加藤内閣は途中で護憲三派連合が崩壊し、憲政会単独内閣となったが 、治安維持法、普通選挙法などの成立など課題を着実にこなしていった。加藤は元老西園寺の「追試」に合格し、「二大政党」の一角としての座を確実なものとし、「山縣閥と政友会」の政権交代構造から「政友会と憲政会(民政党)」という政権交代構造の変革に成功した。

 以後、515事件まで二大政党による政権交代の時代を「憲政の常道」の時代という。ここにおいて、1900年体制はその歴史的役割を終えた。

239キラーカーン:2018/03/06(火) 01:30:10
8.3.4.7.5. 1900年体制の終わりと「御下問範囲拡張問題」

 西園寺は「最後の元老」という異名で語られることが多い。政治家としての西園寺を一言で言い表すなら、「桂園時代」よりも「最後の元老」の方が相応しいというのは衆目の一致するところであろう。

 この時代のもう一つの特徴として、大隈も含めた元勲元老が全員鬼籍に入り、元老が「最後の元老」西園寺公望のみとなったことである。また、西園寺自身も70歳を超えており、決して若くはなかった。したがって、憲法習律上元老のみに与えられてきた機能、即ち、次期首相の奏薦機能を今後(特に西園寺死後)どのように担っていくのかという問題が政治問題するのもこの時期からである。

 次期首相の奏薦以外にも、元老は和戦の決や宮中事項について関与してきた。しかし、和戦の決など国家の重要事項については第二次大隈内閣の加藤高明外相が元老に諮らず参戦を決定するなど、既に元老が関与することは憲法習律ではなくなっていた。また、宮中事項については元老の所掌とされているが、内大臣、宮内大臣、侍従長など宮中の官僚組織も確立されていることから、元老がいなくなっても特段の問題は生じないと思われていた。このため、「西園寺死去後」を見据えた元老機能再編問題は、次期総理選定の際にける「御下問範囲拡張問題 」に収束することとなった。

 「御下問範囲拡張問題」の解決策として考えられるものは、①元老を補充するか否か、②元老を補充しない場合、どの機関(既存、新設)に元老の権限を代行させるかに大別される。

 前者の元老の補充であれば、当時「準元老」とも称された山本権兵衛及び清浦圭吾の両名を元老に任命すれば当面の危機は回避できる 。但し、問題点としては、その次の世代の政治家で元老に相応しい者が軒並み鬼籍に入っており、元老候補の人材が枯渇していたことにあった。寺内は首相退任後程なくして無くなり、原、加藤(友)、加藤(高)の3名は在任中に死去(暗殺を含む)したため、彼らが「元首相」として活躍することはできなかった。

 では、後者の「元老の機能を他に移譲する」という方策も同様の問題点を抱えていた。天皇の諮問機関としては、国務では枢密院、統帥(軍事)分野では元帥府或いは軍事参議院、宮中では宮中顧問官という機関が存在していたが、元老に匹敵する人的集団であるとは言えなかった。というよりも、そのような機関の一員に留まらない「大物政治家」だからこそ元老と呼ばれたのであった。そのような経緯からすれば、既存の機関に元老の機能を委譲することは「元老の格下げ」に他ならないということになる。そこで「大物政治家」を一堂に会した最高諮詢会議の設立も検討された。

 しかし、西園寺はそのいずれの方策も取らず、一人で元老の職責を果たすことを決意した。しかし、完全に単独ではなく、内大臣と協議した上で次期首相の奏薦を行うこととした 。この時期まで、内大臣 の殆どは、元老(格)若しくは元老に準ずる政治家が就任しており、元老の相談相手或いは協議相手として最も適当であると考えられていたため「元老内大臣協議方式」はすんなりと受け入れられた。

 また、丁度、憲政会が政権担当能力を身に着けつつあり、元老が消滅したとしても、英国のような「憲政の常道」路線で首相が決定される見込みが高い。そうであれば、元老の次期首相奏薦機能は形式的なものでよい。

 このように、二大政党制の確立と西園寺の意思という二つの偶然が重なり、西園寺が「最後の元老」となることが決定した。しかし、時代はそれを許さず、515、226事件など、元老の機能が形式化することはなかった。そして、515事件以後、「御下問範囲拡張問題」は内大臣が主宰し、首相経験者と現任の枢密院議長が構成員となる「重臣会議」に移行し、昭和20年の敗戦を迎えたのであった。

240キラーカーン:2018/03/07(水) 00:36:30
8.3.5. 「交代大統領制」或いは「1900年体制」を支える「影の条件?」

 このような交代大統領制或いは1900年体制のような「幅広い」或いは「節操のない」政権交代構造が可能となるためには、そのような政権交代が「些細な事」であると思わせる明野国家元首(大統領或いは君主)に絶対的権威があるということが必要なのかもしれない。そのような存在自身が「国内の分断を治癒する」存在となり得る

241キラーカーン:2018/03/07(水) 00:41:10
8.3.6. まとめ

 大日本帝国憲法の規定は簡潔であったため、幅広い政治体制の包含が可能であった。特に、大日本帝国憲法には「内閣」や「内閣総理大臣」という文言すらなく、「国務大臣及び枢密顧問」として第五十五条第一項に「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」、同第二項に「凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」とのみ規定されているだけである。したがって、内閣の性格はその時々の政治情勢によって変化し得る体制であった。これが、大日本帝国憲法体制において幅広い政体を採ることができる要因でもあった。

 また、「元老」という憲法に規定のない「政治面での天皇の代行者」というべき存在もあり、元老と内閣との関係ひいては天皇大権の行使と内閣の権限行使の態様も両者の力関係により変化した。現実の歴史に見るように、大日本帝国体制下における内閣は(選挙を経ない疑似)大統領制的内閣である超然内閣から議院内閣制まで多様な形態を採り得た(「図3」のレベル2からレベル5)。このように憲法上許容される政体の幅が広いのも大日本帝国憲法体制の特徴である。大日本帝国憲法体制における政権交代、特に「山縣スタイル」の内閣を樹立するためには、タイのように「クーデター⇒民政移管⇒クーデター⇒以下繰り返し」のように憲法改正或いはクーデターを必要とする。

 しかし、大日本帝国憲法体制においては、「平穏」な通常の政権交代手続で可能であった。そして、現代においても「平穏且つ公然、そして合法的で体制変革を伴わない」正規の政権交代としてある買われている。このような「柔軟な政権交代構造」により、クーデターや革命或いは憲法改正を経ずに政治状況に応じ最適な政権形態を選択することが可能であった。

 この結果、非選出勢力との政権交代構造を維持することで立憲政友会に代表される選出勢力が政権担当能力を身に着ける時間を稼ぐことができ、他国に比べれば、円滑或いは平穏に権威主義体制路言ってもよい超然内閣から「憲政の常道」までの政治体制変革を成し遂げることができた。

 もう一つの効果として、その時点における政治体制を憲法の枠に縛られず「自由」に選択できるということが挙げられる。諸般の事情から、政党内閣ではなく「各政党から中立な超然内閣」という選挙管理内閣で「政権選択選挙」を行い、その結果を見定めてから民選内閣制に移行するという手法も「当たり前のように」可能となる。これは、大日本帝国憲法体制下において西園寺が清浦内閣で使った手法でもある。また、類例は、現代のイタリアでも見られる(例モンティ内閣(2011〜2013年)。。

 このように、「1900年体制」はサルトーリが提唱した「交代大統領制」という概念を先取りしたものである。この観点からも、「1900年体制」特に「山縣スタイル」に代表される現役軍人首相(内閣)の果たした役割を「非民主主義的で権威主義的体制」であるとの否定的側面だけではなく、円滑に憲政の常道にまで移行させたという観点からの再評価をすべきではないかと思われる。実際に、政党政治家は元老、特に山縣という「巨大な壁」に挑むことで政権能力を身に着け「憲政の常道」時代を自らの力で引き寄せたのであった。

 そして、現在、俗に「右傾化」(本稿では「ネトウヨ化」)と言われているものの要因とされてきた、「大統領制化」と「リベラル・左派の暴走・自滅」によってなされた「敵味方」を峻別する「1ビット脳的政治」によってもたらされた修復不能とも見える分断による隘路を潜り抜け、国民或いは国家統合を回復するための手掛かりを「1900年体制」は示しているのかもしれない。

242キラーカーン:2018/03/07(水) 00:45:37
長くなりましたが、これで終わりです。
実際には、ここに書き込んでから修正した個所は多多あります。
また、ここには掲載できませんでしたが、図表や脚注、参考URL
などもあります。


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