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神と科学は共存できるか

229NAN:2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230:2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231:2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232:2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233地下に眠るM:2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

234NAN:2008/01/26(土) 23:05:35 ID:???
私は哲学というものに素養がなく、知識が乏しい。だから、それぞれの論者による「ここに書いてある内容」だけを読んで、図々しくも自分の考えを書いてみようと思うのだけど、よく考えると哲学論に突っ込んで論じているのは二人だけなので、まぁいいか!とか思います(笑。

さて、不可知論とか不可知性について、がテーマということでよろしいでしょうか。
>>230で雄さんは
>NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と、批判をしてくださいましたが、私は「事実」だとか「実在」と云うときに、自然科学的な事実と一般(文化)論で云う「実在」との両方を併せて述べています。この二つはきちんと峻別するべきであり、そうしないと科学議論は成り立たなくなるでしょうから。
では私の立場とはどんな立場か?それは「あるひとの体験を第三者が否定することはできない」というものであり、「あるひとの体験は科学的証明でしか客観的な知識とはなり得ない」という、もうひとつの立場となかば対立しながら私の中では矛盾なく存在しています。
つまり「妖精を見た」と主張する誰かと私が会ったときには「このひとは確かに妖精を見たのだろう」と考えますが、一方で「しかしその妖精を私が見ることは極めて難しいか不可能で、科学的な実証も同じことだろう」と考えるのです。つまり私に云えることとは「私には妖精が見えない」ということであり、もうひとつ踏み込んで「科学的方法論でも妖精の実在証明は難しいだろう」ということです。しかしどう足掻いたところで「あなたが妖精を見たという主張は嘘だ」と断定することはできません。(無論、その他の発言に矛盾やデタラメが混在しているようだと、主張の信憑性は、そのひとの主観であることを念頭に置いてでさえかなり乏しいものになるのだけれど)

それでは「不可知論」というテーマに於いて、私はどんなスタンスでいるのでしょう。カントがどうしたとかいう話は、残念ながら私は無知なのでさっぱり分かりません。しかし「ヒトが不可知であるはずのもの」についてであれば、かなり明確にお答えすることができると思います。
「物自体」というここでの説明を読んで、私は(この議論に於いては批判対象になってしまった)かのドーキンスの「盲目の時計職人」の中で、私たち地球上の生物が、壁や鉄の板を「硬くて通り抜けられないもの」と認識している、その知覚の適応についての議論を思い浮かべました。

235NAN:2008/01/26(土) 23:06:04 ID:???
もしもカントという哲学者が「人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない」と述べたのであれば、それは科学的に見ても正しいのではないか?私はそう思います。また、私が述べる「物自体」とは電子や原子格子だったりクォークだったり、極論すると「場」そのものであるような、時空そのものを指しています。私たちはその本質を知覚できないことから、現象を体験するのであり、認識します。そもそも私たちが「モノ」と知覚するすべての物質が、実は時空の振る舞いであることなど、いったいどうやって知覚すれば良いのでしょう。

まぁしかし、雄さんの議論を見ていると「現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない」というカントへの反論もあるようです。なんだか先に挙げた「物自体」の定義(概念?)とは飛躍しているようですが、私たちがいる「世界」とは現象そのものなのですから、これがなにを批判しなにを意味しているのかが私には分かりません。(そう、モノもなにもすべて現象だろう、ということならこの批判は正しいけれど、なにをもって現実と定義しているのかが分からない)

ちなみに物質の属性として最後に残るものとは、ブラックホールの属性そのものである「質量・電荷・スピン」ですね。ホーキングら宇宙論学者たちの議論によると、ブラックホールの内部(つまり事象の地平面の向こう側)に「落ちた」物質も、それらの属性だけはブラックホールが消滅するまで残り続けるとのことですが、事象の地平の向こう側に「なにか」があると云う言明はなにを意味するのでしょう。さらに困ったことに、ブラックホールは物質を吸い込むばかりでなく、えらい勢いで吐き出すことも量子論の予測することとなり、近年の観測でそれが確かめられたようです。私たちの知覚からすると、恐らくブラックホールは「ある」ということですが、事象の地平の内部は「現実世界」でしょうか?これこそ、云うなれば「現象から切り離されたモノ自体」の顕現のひとつではないか?と私は思います。

同様にして、量子論におけるエヴェレットの多世界解釈を引っ張り出すと、私たちの世界は常に確率論的な「重ね合わせ」であり、ある二つの結果を持つ事象があるならば、その結果の発生と同時に二つの世界は切り離されたことになりますが、その切り離された世界は私たちに知覚することは不可能であり、不可知であることは明確です。大統一理論や超重力理論、膜宇宙論などが展開されるn次元宇宙でさえ、数学的には実証されているようですが、これを私たちが「知覚する」ことは可能でしょうか?

最近の私が思うことですが、ある物質を見て、これはボーズ粒子であるとかフェルミ粒子であるとかという「知覚」も、結局のところ情報に過ぎなくて物質の本質でもなんでもないのではないか?かつてのクォーク発見競争がそうであったように、いつまで経っても私たちジンルイは「物自体」になど辿り着けないのではないか?それは哲学などというややこしい理屈をこねるまでもなく「あって当然の疑問である」と私は思います。

236NAN:2008/01/26(土) 23:15:30 ID:???
あと、クイズもあったね(笑。

>1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?→存在しない。


>2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?→学問と呼ぶに値する
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?→これは判断保留

>3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

どっちにしろ「価値」の話なので、最終的にはポピュラリズムに委ねられる、と私は思う。
ちなみに私個人の判断においては、自然科学における実在性の否定は、それら観念の価値の否定にはまったく繋がらない、と思う。

237地下に眠るM:2008/01/27(日) 01:43:36 ID:XBKwcxm2
ありゃ、NANに答えてもらって質問の不備を発見したにゃ。
答えてもらったNANにはすんごく申し訳にゃーのだが、書き直すにゃ。


1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 A)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していることを前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 C)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していること前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 D)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?


3)以上の質問における「愛」を、
 A)「妖精」と置き換えてみた場合はどうか?
 B)「キリスト教の教義」と置き換えてみた場合はどうか? 
 C)「ある特定の妄想」と置き換えてみた場合はどうか?



僕の答えも書いておきますにゃ。要は「存在」とは多階層にわたったものだといいたいだけなんで。

1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない

2)A)自然科学としては成り立たない。人文・社会科学としてはまあ異端の学派であろうが、当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
  B)正統的な人文・社会科学といえる。
  C)純然たる「と」自然科学
  D)意味の通じないたわごと。社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」し、人文科学的な意味では狂人の私的な妄想すら「存在している」。自然科学的に存在しないものは自然科学の対象にならないように、社会科学・人文科学的に存在しないものは社会科学・人文科学の対象にならない。

3)A〜Cすべてにおいて基本的には「愛」の場合と同じ。妄想の共有の度合いが違うので差異はあるんだけど、めんどいので突っ込まない。

問題は 2)A)の立場なんだけど、これを簡単に切り捨てるのはやっぱり科学主義なんでにゃーの? この立場が学問的貢献をなしえにゃーという理由はどこにもにゃーんだよな。この立場にいる天才的学者っているぜ。W.ライヒはオルゴン・エネルギーの自然科学的実在を信じていた「と」だけど、その著書である「ファシズムと大衆心理」は紛れもにゃー名著だったりね。確かに自然科学に対して侵犯しやすい困ったヒトタチだけど、だからといってそれが人文・社会科学としてダメだということにはならにゃー。

238ka:2008/01/27(日) 03:08:15 ID:fopTCrCQ
雄様知らないこともあったのでとても勉強になりましたご丁寧なご返答ありがとうございました。
今度ヘーゲルの本を読んでみようと思います。
それではROMにもどります。

239NAN:2008/01/27(日) 05:40:30 ID:???
ちょっとこの問題は重要な気がするので、徹夜作業の途中で書き込み…。
(部分的に雄氏にレスしているけれど、全体としては私の雑感)

>>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
>と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

ん〜…事象の地平の内面について、すべて分かる(不可知などない)という言明は科学的なのだろうか?事象の地平を越えたモノは原理的に不可知ではないのか?あるいは「虚数時間」という数学的モデルとして「実証された世界」について、私たちは「知覚している」と明言できるのだろうか?
事象の地平の内面についての考察はホーキングが行ったEPR粒子(相関)による思考実験で「事象の地平のこっちとあっちに粒子のペアが分かれた場合、こっち側の粒子の状態が確定すれば、あっち側の状態も確定し、事象の地平の向こう側から『情報をサルベージできる』」というものがあるけれど、ホーキング自身が「だからといってブラックホールの中身がすべて分かる」と述べているわけではない(決定論の領域が少し増える)ことなども考慮すべき、と私は思うのだけれど。(さらにもちろん、そういう実験がジンルイにとって可能な実験なのかどうか?という技術的障壁も考慮すべき)

それと、上記のような「私の疑問」とは別個に「不可知であるモノを仮定した問いかけ」に対して「私は不可知論的立場はとらない」と返答することに「科学の側に立った考え」におけるなにかを示唆しているのか?そもそもダークマターなどという、宇宙に於いては圧倒的多量と予測されている「はず」のなにかさえ(現時点では)観測できないジンルイの科学において「不可知であるモノの仮定」を認めないことは、ただの思考停止か知の領域を広げることの拒否にしかならないのではないのか?

つまり「不可知であるモノを仮定すること」は、西洋哲学の流儀で云うと「それは分からないとあらかじめ決めてあることなので考えるだけ無駄だ」という思考停止に映るのだろうか?だとしたら、私の主張に対する反論の「動機」も理解できかけてくる。そう、私はこの問題を正逆に捉えていたんだよね。もちろん私は「不可知領域(面積)の絶対性」を肯定しない。「不可知である領域はいつまでも残る」と云っているだけ。
(還元主義の観点から云って、さっぱり還元してない>>232なんてのは少しも説得力がないし)
(ちなみに「物自体を作る」というのはエネルギー保存則に重大な亀裂を生じさせることになるのではないか?まさか化学物質を合成する程度のこととか、放射性物質の崩壊や核融合程度で「モノを作った」なんて認識じゃないよね?そりゃバカだぞ)

科学者でもなんでもない私が恐れ多くも勝手に標榜している「科学的な考え方」として、『今現在分からないことであっても、将来的には分かるようになる可能性が高いだろうね。それでもやっぱり、ヒトがすべてを知ることはできないだろうね…だって、すべてを知ったと判断したのと同時に知の拡大も停止するのだからね』というものがあります。また、この立場が「不可知論」というレッテルを貼られるべきものなのか、あるいは唯物論というレッテルを貼られるべきものなのか、私には分かりません。というかそもそも私は哲学に疎いし、そんなレッテルを知っていようがいまいが、これらの問題について私なりに考えることができるのでそれで十分だ、と思っているのです。

240NAN:2008/01/27(日) 05:41:20 ID:???
さて、次の問題。「カッパの生理学的研究」に果たして自然科学的な学問上の意味はないのか?少なくとも、さまざまな伝承や絵画をもとにして、カッパの実在を仮定した、まさしく科学的なモデルを構築することは可能だよね。その結果、現時点では「カッパと呼ばれている伝承上の生物は、その伝承どおりの形態で実在することはあり得ない」という結論を下すことができるかも知れない。それだって十分に意味のあることなんじゃないのかな?カッパの自然科学的実在を主張する誰かは、この結論を受け容れなくてはいけないけれど、カッパを「未知の生物」と置き換えれば、その生理学的な研究に意味がないなんて誰も云えないはずなのだけど、そもそもカッパの生理学的研究に意味がないという主張の思考停止加減のほうに私はうんざりしてしまう。(それともカッパや妖精が具象であるからダメなのか?それは想像力欠陥ではないのか?)

私に反論する多くのヒトの傾向は「自然科学的結論を無視して実在性を主張すること」についての主張だと思う。しかし私は、そんなことを肯定していない。それよりも「現存する伝承だけで、カッパについての言及のすべてが出揃ったと考えることは妥当なのか?」だとか「伝承とは違うかも知れないが、カッパとしか名付けようのない未知の生物がいる可能性は否定できるのか?」ということを危惧しているんだよね。

上記と同様の、あるいは類似した宗教への批判はあからさまに的外れだ、と私は思う。霊感商法やインチキ予言が「金になる」というのは、そもそも迷信を信じやすいジンルイブンカの体質上の欠陥であって、それはたとえば「家族」だとか「ムラ社会」だとか「国家」というレベルでヒトの文化的体質を批判しなければならないだろう、と私は思う。無論、その中には宗教だって含まれるけれど、それらの欺瞞が「宗教の属性である」という認識は対立を生むばっかりでなんの解決にもならないのではないか?というのが私の疑義だってことは何度も書いた。(だって、新しいから、という理由だけでモノを買うことだって同じだろう?)

神が自然科学的な意味で実在する、と主張するのであれば、それはあからさまに間違っているか、かなり特殊な(自然科学的に云えば、ただのヒトであることを認めた)主張であろう、と私は思う。しかしなぜ、そんなバカな主張について何度も確かめなければならないのか?ことは聖書の記述だけではない。神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?しかし「実在」とは、自然科学的な意味でだけ流通しているガイネンではない。言うなれば、言語あるいは数式で記述可能な「あらゆるすべて」が、私たちの周りに実在し、存在し、明確に影響を与えている。実在とか事実というガイネンが自然科学「だけに」許された表現であると、世界的なコンセンサスでも得られているのだろうか?

誰かが神を見たと主張する。無論、その主張は自然科学的な意味で肯定されない。しかし、それでなにか解決するのか?問題は、私たちジンルイが幻覚や妄想を(生理学的にも)現実世界と区別できないということなのではないのか?懸命になって、それは客観的事実ではないと証明することなんか必要なくて、単に「あなたには見えるし現実なんだろうが、私にはそうじゃない」で十分ではないのか。私が主張しているのは「超越存在を自然科学的な実在として扱え」という主旨ではない。ぶっちゃけ、この議論において自然科学的実在などどうでもいいとさえ思うほどだ。

批判の対象となるのは、そうした「超越存在への信用」に基づいて、他者に対してなんらかの侵害が成されるとき、だろう。しかしそれさえも、実は「規則だからと云う理由だけで貧困老人から生存権利を奪う行為」とか「軍人だからという理由だけで他者の命を奪う行為」と、狂気というモノサシでどれくらいの違いがあるのか、私にはよく分からない。増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、バイクを禁止すれば事故が減るという短絡ヒステリーとなんの違いがあるというのだろう?お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、そういうイキモノであることが明確なのだから。

241ちょちょんまげ:2008/01/27(日) 16:07:30 ID:vUxNW.gI
>猫さん

ご質問の件。
猫さんとほとんど同意見です。
2)A)については、内容次第かなぁと思います。

>当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。
まさにおっしゃる通りで、この段階で切り捨てる理由など無いと思います。

>ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
ここなんですよね。ここで「愛」の自然科学的な存在の証明とか、「愛」の物質的な組成とか、「愛」とはニンゲンとニンゲンが引き合う「力」のことで「愛波動」が脳から出てるだとか、脳と脳の間で「愛中間子」のやりとりがあって等々と始まると「と」になっちゃうんだと思います。

242ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:30:53 ID:vUxNW.gI
おぢさんは怒った。
うちのガキが小学校で「The Pledge of Allegiance」なるものを斉唱させられているのら。毎朝。
話には聞いていたけど1〜2年生の時はガキがあんまし言わなかったから気にしてなかったのら。まぬけな話なのら。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.なのら。
「one Nation under God」なのら。それも気に入らないけど、布っきれ(象徴なのはわかってるのら!)に忠誠を誓わされるのも全身に鳥肌が立つほど嫌いなのら。何に忠誠を誓うなどは誰かに強制されることではないのら。自分で決めるのら。うんこでもおしっこでも自分の決めたものならなんでもいいのら。(でも出来るだけ合理的に決めてね。)
おぢさんの怒りは当初、当該小学校のみに向けられていたのだが徐々にメリケンに対する怒り、ついには全世界に対する怒りに拡大され、凶暴な気持ちになって、「全人類の全文化をろーらーで踏み潰してでも、うちのガキにこれを言わせるのだけは勘弁してくで!」と、自暴自棄になっているのら。
「どいつもこいつもバカばかり」とおぢさんは見るもの聞くものをかたっぱしから痛罵しはじめたのである。(ウチん中で)
(以上東海林さだおさんの完全パクリでひた。)

243ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:35:39 ID:vUxNW.gI
ちゅうわけで、気分をすっかり切り替えて>NANさん(べつに怒りがNANさんに向いてるわけではないよ。)
レスあっちゃこっちゃ前後しますがご勘弁を。

>神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?
Wikiその他ネット上のソースによりますと、全世界の信仰者の数は:
キリスト教系:19億〜20億
イスラム教系:11億〜13億
ヒンドゥー教系:7.5億〜9億
仏教系:3億5,000〜6,000万

上記のトータルだけでも41億〜45.6億人が信仰者だということになります。
全世界人口が推計で66億人(Wikiによります。)だそうですから、上記だけで実に全世界人口の62%〜69%!
私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。(結果的に、現在自然科学的な意味で存在しているものの行動や思想に影響を及ぼす。)」と主張する人なりグループなりは、この中で相当な割合を占めていると思います。
(特にイスラムに多いのではないか。)

>しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、
>そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。

>宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、
>さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。

上に掲げた信じられないような数(私からすれば)の信仰者のうち多くは、NANさんの上記のケースに当てはまらないと思います。
両親を含む周囲、国家まるごとなどが信仰者の集団であった場合、「なんの疑いもいだかず」周囲同様になることは極めて自然なことではないでしょうか。(このあたりはドーキンスが強く批判するところでもあります。)
つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

続きます。

244ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:04 ID:vUxNW.gI
>増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、(以下略)

>お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?
>いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、
>そういうイキモノであることが明確なのだから。

信仰者の多くが「刷り込み」によって誕生することが事実であるとすれば、その中に社会的な抑圧により「信仰者」であることを多かれ少なかれ強制されている人が数多くいると思います。
また、その中には頭や心の中に大きな「?」を抱えながら生きている人たちも沢山いると思うのです。疑問を抱きつつも情報が届いてないケースも多いでしょう。
私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。
もし、現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。
また、かって幅を利かせていた「盲信されていたことや盲信を強制されていたこと」の「非合理性」、「根拠薄弱性」に人々が気づき、その「盲信されていたこと」の社会的な影響力が少なくなったり、その「盲信されていたこと」をいまだ信じている人たちの肩身が狭くなった例というのも歴史的に少なくはない、と思うのですが。

例:神風(うちの親父は吹く!と固く信じていたそうです。少なくとも、彼の周囲は同様であったとのこと。)、 優生思想、ルイセンコ学説、聖書の逐語解釈、等

>私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。

少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

更につづきます。

245ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:45 ID:vUxNW.gI
>しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

>私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。
>理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。

「宗教」という一般化が容易でないこと、安易にすべきではない事などは、この掲示板の猫さんやリリスさん、そしてNANさんのご意見を拝読して私なりにも多くを学ばせていただきました。
しかし、「全ての主張は等価である」というある意味無敵の理論を振りかざされたら、個別にさえ批判することは不可能なのではないでしょうか。
メリケンのバカクリに対しても、NANさんが批判の投稿をなさった「カルト」に対しても。
また、「旧約」には暴力を是とするような記述がありますし、イスラムは異教徒に対し極めて不寛容=暴力的であると思います。(国家、宗派による温度差はありますが。)
それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

この部分、私は一時全面同意だったのですが、今回の息子の「The Pledge of Allegiance」の一件で少々考えが変わりました。
「宗教が権力者の道具の一つ」であることは全くその通りなのですが、それにプラス「権力者がマジでビリーバーである」という鬼に金棒みたいなケースも多いのではないかということに気づきました。(遅いっ、て)
例えばぶっしゅはそうなのではないか。周囲の優秀な連中は計算づくで宗教を道具として使おうとしてるのかも知れませんが、ぶっしゅは危ないかも。
それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。
また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか(それまで「創造科学者」との法廷での対決等、グールドは米国の権力からにらまれるようなことをやっていますから、周囲からの風当たりは強かったのではないか)、やはり「本音」は別のところにあったのではないか、そしてそのあたりをして、ドーキンスが「仲間」の一人として、(猫さんがおっしゃるような)より「厳しい目」で批判をしているのではないかと。
この辺は私の推測ですから当たっているかどうかはなんともわかりません。証拠のようなものもあることはあるのですが、それが書いてある本を、いま人に貸してしまっているので引用不可なのが残念です。

246AH1:2008/01/28(月) 11:49:43 ID:fKqeZx4M
1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?
 脳の機能として「『愛情を感じている』に相当する状態・機構」は存在するだろう
 「これが愛」として取りだせるような存在ではないだろう

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 ここでは「取りだせるような愛」が存在しないという意味だとして,

 A)ありえなくはないが,学問と呼びうる誠実な物になるかどうかは本人の態度によるだろう
 B)ごく普通に,心理学も文学もこれだろう
 C)裏返しの超・科学主義なのではないだろうか.存在したら現実との接点を持たない単なる妄想になると思う.
 D)これも超・科学主義的かつ極度なニヒリズムになるような気がする.どんなに否定したところで「愛と呼ばれて来たところのもの」は存在しちゃう筈だし.どっちにせよ現実を説明できるものではないんじゃないか.

247NAN:2008/01/28(月) 16:04:03 ID:???
>>243>>245
>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

あのぉ…私の指摘への反論ですか、それ?「とにかく存在する」ってのは「神を認める宗教」のテーゼなんだから当たり前でしょ…。

>つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

これもね、国家社会が「刷り込み」を行うってのは代表例なので書かなかったんだけど「強い理由のひとつ」です。無論それは政教分離への批判に繋がるけれど、政治と宗教を混同するのは権利者の「獲得利益」のひとつだよね。

>私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。

確かに、無駄、というのは勇み足だったと思います。あまり有効には見えないけれど、そういう方法論もあるだろう、くらいに訂正します。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

248NAN:2008/01/28(月) 16:04:23 ID:???
>それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

可能ですよ。その主張が相手に受け容れられるかどうか?はともかく、なにに対しても批判は可能です。また、この掲示板がそうであるように、議論を取り巻く「ジャッジ」にも、主張は届くでしょう。
私はさんざん「宗教一般への批判と見受けられる文節」に対して、宗教一般を擁護する視点から反論を続けているけれど、私には「不十分で有効性が感じられない批判」であっても、その主張そのものを禁止しようだとか排除しようなんて意図はありません。イスラム原理主義者とどのような対話が可能なのか私には今のところ分からないけれど、それは「批判の正当性」というよりも「政治の世界」になりそうですね。

>それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。

いやだからね…宗教的動機を持つのは「個人」でしょ。自己正当化のための道具として宗教との同一化を図るってのが宗教的動機だと思うけれど、それはニンゲンの性質なんだよ。宗教的規範も行政による立法も同じこと。「正しいヒト」たらんとする性質に適応しているのだろうね。宗教「だけが」規範への強い同一化を求めるだとか、教義に基づいた統制を求めるというなら話は別だけれど。

>また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか

読み直して見れば明確なのですが、私は「NOMA原理」なるものについて、今初めて言及しています。
そもそも私はNOMA原理なるものをよく知りません。あまり興味もないし、さして重要なことであるとも考えていません。NOMA原理などというチンプンカンプンな原理があろうがなかろうが、宗教と科学を両立させている優れた科学者が多数存在するのが歴史的事実である以上、なに云ってんの?くらいにしか私は捉えていません。

ちょちょんまげさんはアメリカ社会になにを期待し、希望しているのですか?
アメリカの政治は政教分離が正常に成されているとはとても云えない。そんなことはアメリカの外からいくらでも分かる。だから、きちんと政治と宗教を分離すべきだ…とは云えるけれど「どうやって?」それをしましょう。

全世界の文化をローラーで潰す前に、お子さんを別の学校に移すことはできるかも知れない。そもそもちょちょんまげさん一家がアメリカを去ることだってできるはずだ。その問題がそれほど重要なことであるならば、プライオリティは明らかだ、と私は思う。しかしなぜかそうはならない。それよりも「アメリカ社会が問題だ」とか「小学校が問題だ」となる。でもその状況を選択したのは誰なのですか?あなたの不満は激しく矛盾していると私は思うのだけれど、私は間違っているだろうか?

私はサバンナに赴いて、そこが荒野だったり草原だったりすることを不満と思わない。海に出て、周囲が海水であることを不服と思わない。
毎日のように雨が降る多湿な気候に住むことが不満であれば、より乾燥した土地に移住すれば良い。関西弁や東北弁がイヤなのであれば、標準語地域に住めば良い。「私は私自身を変えたり選択することができるけれど、あなたや彼を変えることはできない」それだけのことではないのですか?

249カクレクマノミ:2008/01/28(月) 21:12:07 ID:nWqwz./A
答える前に、いくつか確認を。

>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

そして、「自然科学」vs「人文科学・社会科学」という分類がいまいちよくわからないので、確認のためいくつか質問を。
以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?
・心理学   ・進化心理学
・動物心理学 ・認知科学
・動物行動学 ・行動主義心理学
・経済学   ・行動経済学

250ちょちょんまげ:2008/01/29(火) 13:29:20 ID:vUxNW.gI
>NANさん

>>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、
>>「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、
>>あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

上記の私の記述はマヌケでした。撤回します。
ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

>>それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

甘いと断定されてしまいましたが(苦笑。ですが、カーストの最下位にいた人たちの多くがそこから抜け出すためにイスラムに改宗したのをはじめとして、自分たちに有利(に思える)な新しい考え方に触れたときに旧来の信仰を棄てたり、改宗したりした例はいくらでもあるのでは?
単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」
>であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

>>え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
>>この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

ん?このサウジアラビア人は無宗教者なんですけど? ここの設定は「私(ちょちょんまげ)が実はサウジアラビア人であった」ということで、私は無宗教者である旨明らかにしてたように思うのですが。また、そこまでは書きませんでしたが自国で不当な扱いを受けていると思っているわけです。それでも意味通じませんか?

NOMAの話は申し訳ありません。特にNANさんあてではありませんでした。勢いで書いてしまいましたが、分けて書くべきでした。

そして、愚息の話ですが、まず>242の投稿が遊びのつもりでした。「トチ狂った男」を演じてみたかったので.....投稿したこと自体が愚かでした。また、耳の痛いご指摘でもありました。
で、本件の優先順位は私としては高い方ですが、最上位ではありません。何らかの措置は取るつもりではありますが。

で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

251AH1:2008/01/29(火) 14:14:16 ID:fKqeZx4M
横レスです.
ホメイニやブッシュがビリーバーでダメダメだったとして,
それは宗教のせいですか?ホメイニやブッシュのせいですか?

ちょちょんまげさんの御意見は
「もともとダメダメな奴が悪用したがる宗教なんかイラネ」
かな?と推測するのですが.

しかし,やっぱり
「暴走族がいるからバイク禁止」
「犯罪に走るからナイフ禁止」
と同じような気がする.
まあ,結局「宗教の有用性は有害性(悪用された時の,そして悪用される頻度)と比べてどうか」という話になり,
さらに「宗教の定義って?」になる,かな?
(漠然とお地蔵さん拝むのと産婦人科を爆破するのと,どっちも宗教に起因するけど有害性が同じってこたあるまい)

252NAN:2008/01/29(火) 16:20:30 ID:???
>>250
>ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

イエスが実在したかどうか?については、まぁ実在したとしてもよろしいんじゃないですか?
問題は、聖書に記述があるような数々の奇跡を起こしたかどうか?だと思いますよ。なお、私は「聖書逐語主義や原理主義者がいない」とは述べていません。いつも私が暴言を振りまいているように、そういう手合いは山ほどいます。いますが、それが大部分の宗教者であるかないか、というと少数派でしょう。ちなみに根拠はありません(笑。
#米国に於いてそれが多数だって?それは米国の問題だよね。

>単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

ない、とは言い切れませんね。確かに。

>それでも意味通じませんか?

あ〜、なるほどね。ていうかだったら簡単でしょ?そりゃぁ国家宗教という名の「法」が求めることだし、断罪するのは「宗教」ではなく政府もしくは司法だよね。信仰の名を騙った権力の代表じゃん。

>で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
>そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

ん〜、私自身も書くべきか書かざるべきか悩んだのです。でも、繰り返し書いておられるのでこれも議論のテーマにするおつもりなのかな?と思った次第です。正直、家族ネタに冷徹なレスを返すのは気がひけます。申し訳ありません。

さて、ご自身および一般化が可能なフォリナーについて、でしたらお答えできますね。
私は海外に長期滞在したことはありますが、居住するというほど長い期間、海外で生活した経験はありません。まぁそれでも、数ヶ月に及ぶ滞在ならしている、という説明にはなるでしょう。(ちなみに英国、フランス、そして中国です)
内的に答えるなら、ニンゲン、あらゆる事象に対してなにがしかの不満を持たないことなど出来ないでしょう。また、どんなに耐えるべきことであれ、時折愚痴をこぼすくらいは多めに見るのが人情だ、と私も思っています。
次に、外的に答えるなら、つまりこれは「タテマエ」ですが、一切不満を持たないことは不可能だけれど、彼の地においては自分こそがフォリナーでありストレンジャーであることは常に念頭に置くべきだ、と思います。これは海外であろうが内地であろうが同じことではないでしょうか。

また、もし仮に、そのひとが彼の地において永住するだとか、住民として地域社会に積極的に参加し、時にはその地域に対する影響力さえ発揮しようと云う「権利と義務」を志として担うのであれば、不満があればそれを改善すべく行動すればよろしいし、相応の社会参加をすれば良いのではないか?と思います。不満があり、社会への(とても大きな意味で)参加もせずに文句だけ云うということでないのであれば、いちいち尻尾を巻くことはないでしょう。さらに、積極的に孤立する、という戦略もアリだと思います。

253ちょちょんまげ:2008/01/30(水) 07:11:05 ID:vUxNW.gI
AH1さん

すんません、正直、私もうまく考えがまとまらないのです。

実は中学生ぐらいの時に、「エホバの証人」の訪問を受けたことがあり、生意気で理屈っぽかった私は相手を叩きのめしてやるつもりで玄関口で議論を始めた記憶があります。
その際、私は過去のキリスト教国がやってきた罪状やら戦争やら並べ立てたり、アダムとイブからニンゲンが始まったのなら、その後ずっと近親相姦ぢゃないかなどと攻め立てたつもりだったのですが、相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。
「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
その時は結局「興味がないのでお引取りください」、で事なきを得たので、今こうして、立派(?)な無神論者としての私がいるわけですが(笑)。
歴史は繰り返すで、数十年後、同じ質問をくらって「うっ」とつまっている自分がここにいるわけです。中学生から全く進歩していないことが証明されてしまった。

ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。

それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

254AH1:2008/01/30(水) 13:31:05 ID:fKqeZx4M
>相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。

あー,向こうも慣れているでしょうからねえ.
最初の答えは確かに「宗教そのものの罪じゃない」とも言えるでしょうね.キリスト教マンセー!な相手を冷やかすには使えるかもしれませんが.(あるいは「正しい」キリスト教ってのが実現された例はあるんかい?という突っ込みなら可かも)
後者は「だれが言ったんじゃ!」ですなあ(笑)

>「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
確かに「にょほほ〜」ではあります.


>ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

ええ,全くその通りです.恐らく,旅客機でビルに突っ込んではいけませんとか,ネクタイで他人の首を締めるのは危険だとか,包丁は料理に使いましょうとか,そういうのと(広い意味では)同じだと思います.
旅客機はライセンスを持ったパイロットしか運行しないから一応安全,ネクタイや包丁は生活に必須な道具として認知されてるから「なくなっても良い」とは言われないわけです.
バイクは趣味性が高くなるので「あんなもん無くてもいいから乗らせるな」という意見も出て来るし,ナイフに至っては「犯罪者にしか持ち歩く必要がない」に近い扱いを受けたりするわけです(私は登山やなんかで必携なんですが).
アメリカにお住まいでしたら,銃規制がこれに近いでしょうか.銃単体が人を殺すわけではない,しかし,悪用される場合はしょっちゅうあり,その結果も非常に重大である.それでもこの社会に銃が必要か?「必要である」とする派は規制に反対し,「いっそ無い方がいい」派は規制を求めるでしょう(NRAのロビー活動なんかはちょっと置きます).

そういう点を考えると,「宗教」と一括りにされているものが包丁やカッターナイフなのか,登山ナイフなのか,ピストルなのか,そういう見極めがいると思うのです.そして,その「有害性」の判断とは「宗教だから」という括りではなく,「あまりにムチャクチャで,同じ社会として共存できないようなもの」であるかどうかに委ねられると思うのですね.(宗教ないしそれに類するものが人類の文化と抜きがたく関わっているという点は同意頂けると思います・だから今すぐ全て無くなっていい,とは言えないという意見です)
つまり,まさに
>お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。
と仰っている判断そのものであると思います.私がドーキンスの「有害で侵略性の高いものだけを宗教と呼ぶ」という意見に同意できない,としたのはそういう事です.だってお地蔵さんに手をあわせるのだって(少なくとも私の感覚では)宗教がらみには違いないのだもの.排除したいものだけを「宗教」と認定して「宗教はダメだ」と言えば,それはつまり「ダメなものはダメ」という意見になって反論のしようがないのだけれども,それって「ナチスの指導者たちだけをドイツ人と呼ぶことにする.ドイツ人は犯罪者だ」と言ってるように聞こえるわけです.

>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

問いかけておいてなんなんですが,私もいい知恵がありません.どうすれば良いのでしょうねえ・・

255NAN:2008/01/30(水) 23:03:53 ID:???
バイクにせよ、ナイフにせよ、いやいやビニール袋だろうがヒモだろうが、ヒトを殺すことが出来るわけです。ただ、それらの道具は「能動的に」ヒトを殺せません。受動です。おそらくここがポイントなのだ、と私は思います。

ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。そういう議論が起きている最中に、ノコギリによる殺人事件が起きたりする。結局「刃物は全部悪者だ」みたいな論調にさえ、メディアと視聴者が狂っていると走りがちになる。私が危惧するのはそういうことです。

信仰・宗教に対する批判は、信仰・宗教に対する包括的で正しい知識に基づいた議論でなくてはならない。私はそう思います。これは「ナイフの使用法を正しく知ること」と同様です。私ごとき付け焼刃の宗教知識しかない者に「突っ込みどころ満載」に見えてしまうような論調では、お話にもなんにもならないだろう、ということでしょうか。また残念ながら、宗教に対する知識が私には足りません。だからこそきっと、有効な宗教批判が思いつかないのでしょう。

サッカーをやっていた子供時代に、ボールに座ってコーチから怒られたことがありました。神聖なボールを尻で踏むな、というわけです。料理人が包丁を大事にすることも、きっと似たような話でしょう。とても大きな括りをすれば、これらも信仰です。信仰の根本にあるものの、もうひとつの極として「大事にすべきもの」への敬愛があることを、私は疑いません。

さて、本題。
>>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。
もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。たとえばネットの掲示板には、書き込みをしないROMというジャッジがたくさんいます。たまたま「宗教」と検索をかけたひとが、そのソースに辿り着くだけでもいいと思います。

256NORTON3rd:2008/01/31(木) 10:40:09 ID:tQvpJqX6
まじめな議論の最中に、横道への茶々で申し訳ない

>ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。

これ、実際に俺がガキのころにありましてね
当時の社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中、右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件があったのですが、これを契機に『刃物を持たせない運動』が全国的に広がりました。その中にはご指摘のような『間抜けな議論』では実際になされましてね(国会でまで)・・・

んで、それまで、良い子の筆箱の中には必ずあった鉛筆削り用のペンナイフや切り出し、肥後之守追放され、各教室には鉛筆削り器が備えられるようになりました(刃物業者の中には売れ行き不振で自殺したヒトまでいたらしい)

まさしく『三ない運動』とおなじくお馬鹿な『一般化』の好例ですわ

257AH1:2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258AH1:2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261AH1:2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.

262ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 03:42:24 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?
おぢさんはそこで混乱してまふ。

263diamonds8888x:2008/02/01(金) 06:02:48 ID:4jx.OKmA
259<< そのブログ記事はとっても正確な認識をしてますね。ではどうしたらビリーバーさんの「心に届く」のかという処方箋は、当の執筆者氏も提起していませんし、私にも絶望的に思えます。と、今はこれしか思いつきません。

264NAN:2008/02/01(金) 08:16:56 ID:???
>>262
>批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

二つの点に於いて批判されるべきです。
1:「水伝」という科学を装った疑似科学理論に対する検証という批判
2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

1については「間違いじゃないか!」という指摘、2については「けしからん!」という指摘ですね。

265ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 09:53:51 ID:EBvpLwTs
>NANさん

>2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

これが「水伝」のもともとの提唱者に向けられるのは良くわかるのですが、提唱者でなく提唱者にだまされているあるいは信じたがってる人達には?

266e10go:2008/02/01(金) 12:20:57 ID:5/V6R9W6
>>264
もう一つ付け加えるなら、

3:道徳教育に「水伝」という科学的実験結果を用いる事の批判

3は「人間の心のあり方に科学を持ち込むな!」でしょうね。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

>>262
上の理由から、「水伝」も、それを肯定的に使う人も非難するべきでしょうね。

267NAN:2008/02/01(金) 13:47:39 ID:???
>>265
そもそもそれが科学でもなんでもなく、表現行為や信仰・信条(心情?)の一種であることを明確に主張できる相手であるのなら、「勝手にすれば?」で私は放置します。しかしそれが、客観的事実に基づく科学である、と主張するのであれば、提唱者であろうがビリーバーであろうが、科学のルールに則った批判に晒されるのは当然です。

ところで実際、ネットの議論であれば簡単に割り切れる話であっても、現実の知人や友人がこういうことを云いだして困ってしまうケースは多々あるでしょう。私自身も経験があります。

その際、これも先に書いたことですが、批判する、あるいは、批判される、というのは「それが科学である」のであれば当然のことであり、どんな理論も常に検証を繰り返し、批判に晒され続けていること、そこで間違いが判明したり理論を却下せざるを得ないことになったとしても、それが倫理的な「善悪」とは無関係であることなどを、相手に伝える段階がかなり難しいものです。

そして次の段階として、間違いであったり再検証不可能であったり、客観的事実とは云いがたい証拠の提出に基づく主張であることが明確になったのであれば、それを受け容れ、修正なり却下なりを「意地でもしない」ことは倫理的に問題であることを説明することになるのでしょう。大半の場合、これら2ステップを完了する前に会話は険悪になり(苦笑)、人間関係としてこじれます。はい、何度も何度もそれでこじれましたとも!(大笑。

だからといって私は曲げませんけどね。

268AH1:2008/02/01(金) 14:27:56 ID:fKqeZx4M
>「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

みなさまのお答えで全て言い尽くされてると思いますが,私からも重ねて.
多分,このような話の流れになると思います.
1 水伝が事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは事実かどうか疑わしいよ?
2 だって水伝は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう怪しい話を鵜のみにして事実であるかのように子供に教えるのはやっぱり問題があるな.道徳を教えるなら他にもっと適当な話を使うべきだ.

マジで信じてる人と話をしているなら,まず1の部分で言い争いになり(向こうは喧嘩売られたと思うだろう),2で決裂ですな.多分.
私が批判するのは,ド阿呆な話を科学であるかのように騙った水伝と,コロっとだまされた「大好きな人」の両方です.「大好きさん」については騙されること自体は本人の勝手ですが,学校の教材云々という所で他人への責任を持っています.また,「水伝は科学的に正しい」という部分に何らかの信頼を置いたのだとしたら,「その理解は科学として間違っている」と情報を正す意味もあります.

269ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:21:28 ID:vUxNW.gI
皆様、物分かりの悪いおやぢに辛抱強くお付き合いくださってありがとです。
それで、もうひとつだけお付き合いくださいませんか。

この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

270ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:24:07 ID:vUxNW.gI
diamonds8888xさん。

ご感想ありがとうございました。
やっぱり「絶望的」なんでしょうか。う〜む。

271AH1:2008/02/01(金) 16:48:12 ID:fKqeZx4M
水伝を「ペケ教」にしてみます.なお,水伝は最初から科学を謳っていましたが,今回は明確にするため「科学的に」などの補足を「」して若干入れています

1 ペケ教が「科学的にも」事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは「科学的な」事実かどうか疑わしいよ?
2 だってペケ教は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう「科学的には」怪しい話を「科学的に正しいから素晴らしいのだと」鵜のみにして「科学的にも事実であるかのように人に教えたり,「まして科学として教える」のは問題があるな.宗教ってそんな物じゃないんじゃないの?

となりましょうか.

272NAN:2008/02/01(金) 22:39:19 ID:???
>>269
この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

あの〜、自然科学の常識に反する内容を経典に含んでいるからと云って、すぐさまそれが疑似科学に繋がるとは思いませんけど?
なにかやはりとても失礼な疑義に感じてしまうんだよね。(無論、文脈から云って宗教的疑似科学のことを指しているのだろう、ということは参加者である私には察しがつくけれど)

ベースにあるものが宗教であろうとなんであろうと、科学を装い、証拠や実証を捏造したり、ただの迷信に過ぎないのにそれが事実だという強弁を振るうような行為が批判の対象とならないわけがありません。終末予言や末世〜来世信仰も然り。不可知であるはずの事象を可知であると断言してはばからず、なおかつ他者の危機感を煽るような扇動を批判することは積極的に行うべきでしょう。

ところで、そういう迷信に騙され、転びやすいヒトの体質が「日進月歩の科学技術」の中に生きる現代人の中でも、改善されるどころかさっぱり変化がないように見える原因はなんだろうね?それもまさか宗教のせい?そりゃぁ違うよね。もっと日常的で(この日本に於いてでさえ)誰でも触れていてほとんど空気のように存在感はないけれど確かにある「なにか」について、大半のヒトが考えようとしないからじゃないかな。

273:2008/02/02(土) 09:46:18 ID:QpQGFxc6
>テーブルにつかない相手………、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

問題は結局、国民(…と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

274ちょちょんまげ:2008/02/03(日) 07:36:15 ID:vUxNW.gI
「水伝」のタイプ 提唱者への    「水伝」そのものへの  ビリーバータイプ1    ビリーバータイプ2 「道徳」に採用した学校
   ↓         科学からの批判   科学からの批判                            関係者への批判
                 ↓        ↓            ↓           ↓          ↓             

タイプ1:「科学」を標榜 「ゴルァ」    「ゴルァ」      提唱者の言い分通り    よいお話だからと    「ゴルァ」
                                   「科学」を主張     飛びつく。科学か
                                        ↓      どうかなぞど〜でも
                                   科学からの批判    よい。なんも考えてまへん。
                                     「ゴルァ」          ↓  
                                                  科学からの批判  
                                                   「ゴルァ」    
タイプ2:「科学」であるとは   「ゴルァ」?   「ゴルァ」?   提唱者の言い分通り                「ゴルァ」
     主張しないが、                       科学だとはいわないが
     そういうことがある                     そういうことが無いとは      上と同じ
     と主張。現在のタイプ                    科学では断定できない     違う前提は提唱者
     がこれに近いか。                       と主張。           が科学だとははっきり
                                        ↓          言っていないこと。
                                      科学からの批判            ↓
                                       「ゴルァ」?         科学からの批判
                                                      「ゴルァ」?


タイプ3:上のタイプが       「信仰」だから 「信仰」だから  「信仰」であると主張    上と同じ        こういう宗教
     「水伝教」なる      「放置プレイ」 「放置プレイ」    ↓           違う前提は提唱者が   もあるという
     宗教だと言い出した。                      「信仰」だから     信仰」だと言ってること。紹介の仕方なら
     結晶の現象は奇跡である。                   「放置プレイ」          ↓       「放置プレイ」
     非信仰者が実験すると                                 「信仰」だから「放置プレイ」 
     結果はランダムになると
     主張。



お願いだから投稿した時にずれないでおくんなまし。
まとめると上記のような感じになるのでしょうか。「?」の部分はご意見をうかがいたいです。
ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

275NAN:2008/02/03(日) 09:46:45 ID:???
>>274
私の主張とはちょいと違うかな。
『科学とは云わないが、そういうことがないとは科学では断定できないと主張』という文節は、とても曖昧で焦点をぼかしているように見えなくもないですが、科学ではないのであればなんなのだ?科学では断定できないのであれば、なにが断定するのだ?という疑問を生むことになります。つまり主張に欠陥があります。

明確に、それが「願望」であり、一種の信仰であると主張するのであれば「そりゃまた変わったお願いなんですね」で私は放置するでしょう。しかし「今現在の科学水準および技術では証明されていないが、将来的にそうした客観的事実が見つかるかも知れないじゃないか」という主張は、まさに科学的な問いかけですので、科学議論の議題になります。

「いただきます」と手を合わせたり、「ありがとう」と声を掛けることで気分が良くなるでしょ!みたいなのを科学的に批判するのはナンセンスですよね。でも、いただきます、と声を掛けると、米や味噌の「物質としての変質」が起こるかも知れないというのは、いくらでも批判することができますね。

276diamonds8888x:2008/02/04(月) 06:01:29 ID:jcR/Lf4.
 恥ずかしながらNOMAというのが何かわかりませんで、グーグルで検索しましたら、まじめな宗教団体とまじめな経営学団体なぞがヒットしまして・・・。
 ようやく正解にたどりつきました(~_~)

ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

この人もドーキンス本の書評を書いていますね。
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061215
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/archive?word=Delusion

277NAN:2008/02/04(月) 09:33:54 ID:???
>>276で紹介された書評を順に読んでみたのですが、とても丁寧かつ冷静に(ご自身が宗教&哲学リテラシーに乏しいことを告白しながら)読解を原書から書かれており、秀逸だな、と感じました。

さて、事前にわかっていたことですが、問題は「宗教」ではなく「キリスト教と、その鏡となってしまったイスラム」のようです。私はさらに、経済的繁栄度とキリスト教信者との相関や、石油利権に絡んだ中東対英米の構図の中で、二大宗教の間に何が起きたのか?(これはまさに中東危機というかテロリズムというか、そういう暴力と悲劇の根源ではないか?と思うのだけど)みたいなことに興味が沸きます。また、宗教議論の一般化には強い懸念を(さらに)深めましたが、米国のバカっぷり、バカをバカと批判できないどうしようもなさについては、「もう本当にああいうバカな国を相手にするの、やめれば?」と思う次第です。(てかそれもバカな一般化なんだけどね)

「なぜキリスト教なんだ?」それは、利権だからだ、との考えも(私の中で)さらに強まります。
それはつまり支配(あるいは侵略)構造であり、なにかに忠誠してくれた方が統制し易いという単純な理由なのだろう。

278diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:36:50 ID:jcR/Lf4.
雄さん218の以下を読んで思いついてしまいました。

> 「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、
>浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、
>教義と信者の頭の中にしか存在しません。

 多くの宗教にとってみたら、科学なんぞとの折り合いよりも、経済や政治との折り合いの方が深刻で実際的な難問であることが多かったのではないでしょうか?

277でNANさんの書いている宗教の混迷も、誠治との折り合いの問題という気がしますね。さりながら、古来より宗教と政治とは分かちがたく結びついていたことも事実です。

279diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:41:54 ID:jcR/Lf4.
 地下に眠るMさんの233,237の質問を考えて見ましたが、「愛」「妖精」とはどんなものをイメージしているのかが結構多様な可能性がありますので、どのイメージを想定するかで違ってきそうですね。質問1に対する私の回答と共に示します。

 a)愛というなにかしら物体的実在物 −>No
 b)人が何かを愛するという現象 −>Yes
 c)人が何かを愛するという心 −>Yes
 d)愛というなにかしら形而上学的もの −>No

 dはそもそも形而上学的なものとは自然科学的な意味では存在しないものでしょうから、いうまでもないかも知れません。
 b,cなら、人でなくても動物の一部にも存在しますし、その進化論的起源を考察することも可能です。おっと、「心というなにかしら物体的実在物」の実在をYesとは言いませんよ。
 aは、現在の科学の知見からはトンデモに近いのですが、本当はdだけどイメージとしてa、ということもあるのかも知れませんね。そのへんはよくわかりません。

 で、aは一般論としては自然科学における仮説となりえます。有名なのは燃焼におけるフロギストン説(燃素説)です。燃焼という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、燃素という物質的実在物の存在を提唱したのです。
 人が愛を抱くのは、アモールの金の矢がハートに刺さっているからだ、という仮説は、愛という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、なにかしら物体的実在物を仮定していることになりますね。(キューピッドの方がポピュラーだけど、アモールの方が「愛っ!!」という印象が強いから)
 生命という現象を説明するために生気や生命力を仮定するとか、意識という現象を説明するのに、なにかしら物質的実在物としての魂や脳の中の小人を仮定するとかも、似たような仮説ですね。いずれも反証可能であり、科学の遡上に載せられる仮説といってよいでしょう。
 物体が互いに引き合うという現象に重力場という実在物を仮定するのも、これと似ているかも知れません。

 さて「妖精」の場合は、はじめから、なにかしら物体的実在物イメージであるといって良いと思います。とすると、この場合にありうる意味は、私の想像力の範囲では次のようなものが考えられます。再び、これらが自然科学的な意味で存在すると思うかどうかについての、私の答えと共に示します。
 a)通常の物体と同じく、客観的な実在物 −>No、ただし妖精の定義による
 b)特定の人間にしか感知できない実在物 −>No、ただし感知の定義による
 c)妖精を見たと主張する人が存在するという事実 −>Yes

 aの場合、妖精がどんなものかを描写してもらえれば、それが客観的な実在物として存在するかどうかは自然科学の土俵に乗ります。それは、雪男やネッシーやツチノコと同じことです。調査の結果、実は新種の生物だったと判明するかも知れません。

 bの場合、感知というのが通常の五感という意味であれば、「特定の人間だけが妖精を感知するという現象」は自然科学の土俵に乗ります。それは「同じ状況で特定の人間だけが痛みを感じるという現象」とか「ある周波数の音を聞かせたら、特定の人間だけが反応したという現象」などと同じです。ただ、その人が意識的、無意識的に嘘をついている可能性も考慮しなくてはいけないのがつらいのですが。
 もっと広義に、ともかく特定の人間には妖精の存在がありありと感知できる(でもそれは結局、その人が五感で検知したと感じた、ということになりますよね)ということであっても、嘘でない限りは自然科学の土俵に乗ります。これはもうcの場合に近いかな。
 いや社会科学や民族学の領域だという話も出るかも知れませんが、私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

280diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:58:27 ID:jcR/Lf4.
 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・。

 雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか?

281地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:41:28 ID:MxpO/apg
あいかわらずだらだらと遅れてすまにゃーこってす(ぺこり

>カクレクマノミ

>>222

>>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

>同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

にゃっはっはっは(ぽりぽり
僕は精神年齢が低いので、一応、言い返しておくにゃ。
例えば「水からの伝言」を批判するのにあたって、当該著書を丁寧に読まなければ適切な批判ができにゃーと考える必要があるとは思えにゃーんだけど、どう? あれ、どうみたって明らかに馬鹿本だもんにゃ。「神は妄想である」は「水からの伝言」とたいしてレベルの違わにゃー本なので、僕の言動にそう問題があるとは思えにゃーのだが。実際に読んでみたら、思っていたよりもヒデエものでしたにゃ。
ま、ヒデエ本というものはたいてい「思っていたよりヒデエ」ものにゃんがな。


>>249

>>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

>この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
>どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

「流通」というところにポイントがありますにゃ。

>以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?

自然科学;動物行動学、動物心理学、行動主義心理学
人文・社会科学;経済学、行動経済学
学際分野;進化心理学、心理学
基礎論;認知科学

基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

282地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:42:18 ID:MxpO/apg
さて、ドーキンスがフロシキを広げすぎていることはカクレクマノミにもご同意いただけたようですにゃ。
いわば「不誠実なフロシキの広げ方」が「神は妄想である」の一番の問題点なんだけど、そこをつつき始めてみますかにゃ。

まずドーキンスは神というものは事実とされているのだから自然科学的な仮説だといっているけど、この前提が白痴的。この前提で「超越的」なものを否定できると思っているとしたら本当にアタマがワリイ。
もちろん、聖書は自然科学的な意味で事実だと思っているメリケンの馬鹿クリに対しては有効な論点であることは間違いありませんけどにゃ。例えば、あるアボリジニは自分たちの部族の伝誦する創世神話について「そのまんま事実だなんて思ってない」と発言しているにゃ(出典忘れた)。聖アウグスティヌスも聖書の逐語解釈を問答無用でダメだししているし、古代ギリシアの賢人がエジプト神話について逐語解釈はアホの所業だといっている記述もあったっけ。もちろん、江戸時代の国学者に日本の創世神話が事実そのものであったかと聞いたら「はあ? 君はアホかね?」という返答となることは受けあってもいいにゃ。

自然科学的仮説としての神、なんてものを主張する馬鹿クリは歴史的に見ても地理的に見ても、アホ中のアホなのだにゃ。アボリジニやインディオなどに比べるのも申し訳にゃーほど知能程度が低いウルトラ馬鹿軍団。
無論、何度も何度も書いているけれど、そのようなアホが政治的に幅を利かせている事実は困ったものだにゃ。アホに対する対抗言説は必要にゃんな。
しかしさ、アホへの対抗言説を一般化するってのはどうなんだろね? この一般化の過程において、ドーキンスはずいぶんと不誠実なことをしているにゃ。

例えばユングへの言及にゃんな。日本版79〜80P。
ユングは「私は神の存在を知っている」と述べたことは事実。しかし、その神は自然科学的な仮説としての神などでは断じてにゃー。ユングの知っている神は、いわば心的現実としての神だにゃ。
自然科学的仮説としての神、などという白痴対抗フィールドを設定し、そのフィールドに心的現実としての神を想定した論者(ユング)をひっぱりあげた揚げ句に「ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念を持ち続けることができるのが信仰の本質である(ユングは本棚の中の本が突然大きな音を立てて爆発することがある、と信じていた)。」などと書く卑劣。(ついでにいうと、ユングはシンクロニシティの具体例としてナイフの爆発的破断をあげているけれど、これはユング自身が体験したものであり「信じて」いたものではにゃー。この記述は捏造の疑いが濃い)

つまり、ドーキンスは神概念を恣意的に使い分けて他者を批判するという真似をしているにゃ。

神概念の恣意的使い分けの他の例として、「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」なんかも看板に偽りありだよにゃ。
確かに、自然淘汰によって複雑な生物が進化しえたということの証明にはなっているけれど、この論法で否定できるのは聖書逐語解釈による神概念だけだろ? 少なくとも理神論の神には傷一つつけることはできにゃーはず。進化を否定してにゃー教義に対してはまったく無意味だしにゃ。「創造論者の言う神がほとんど存在しない理由」とするならわかるんだけどにゃ。
ところがドーキンスは理神論的な噛みも否定すると以前の章ではっきりといっているにゃ。超越的存在を想定するすべての考え方を否定すると。
この理屈で超越的存在一般が否定されるなんて考えは、ほぼ創造論者並に白痴的な考えだにゃ。

宗教全般、超越的存在を想定した考え全般を否定すると威勢のいいことをいいながら、中身としてはアホへの対抗言説という特殊なものをもって恣意的で卑劣な一般化を行う白痴本、というのが「神は妄想である」への適切な評ではにゃーだろうか。

さて、次回はさらに卑劣で白痴的な一般化について踏み込んでみますにゃ。

283ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 11:23:38 ID:vUxNW.gI
>猫さん

一つ質問があるのですが、「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

284AH1:2008/02/05(火) 12:15:09 ID:fKqeZx4M
>>274

>ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

一つは本人がどの程度関わっているかという点じゃないでしょうか.主犯か従犯か,みたいな(いや,言葉が非常に悪いのは承知しています).その関わり方において「同じにゃ扱えないなあ」と思うか,「ンなもん,同罪同罪」と思うか,その辺の判断というか酌量の違いでは.

もう一つは「科学ではわからないが」という「仮説の確かさに対する理解および誠実さ」じゃないでしょうか.科学をちゃんとわかって,でも「そういうこともあるのかもしれないねえ」と考えるか,「そういうことってあるんだ」が先にたって「科学?・・・(ちょっと困ってる)・・・科学って完全じゃないでしょう?」と来るか.
ちょちょんまげさんが想定しておられる(というか,実際に遭遇されたのかな)タイプ2ビリーバーさんはほとんど後者なんでしょうけれど・・

285ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 12:26:46 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「後者」ですよね、ほとんど。うちのツレアイとか(笑)私がうるさいんで少々変わってきましたけど。
それで、「水伝教」はやっぱり放置が正解だと思われますか?

286AH1:2008/02/05(火) 13:19:50 ID:fKqeZx4M
「現在の科学としては考えられない」というのが一点ですね.
もちろん科学の進歩とは「あり得ないはずのことの発見」に他ならないので,「現在の科学では考えられないことの存在」を否定はしません.
しかしながら,「科学者は自分の見たものですら疑う」という鉄則があります.科学の誠実さはそこにあるわけです.
だからこそ,何かの間違いや偶然ではない事を確認するために条件を整え,あれこれ実験をし,統計計算をやり,ディスカッションし,論文を投稿すれば査読があり,それでやっと「単なる妄想ではない仮説として認めてもらえる」レベルなわけです.その後でさらに追試され,整合性や再現性が確かめられて「なるほど正しいようだ」と認めてもらえる.
その誠実さや厳しさを,「水伝」には感じることができない.私はそのようなものを科学と呼ぶことを拒否します.
水伝を「科学的な意味で『実際に観察された事』だと思って」信を置いている人がいれば,上のように言います.

287ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 13:34:51 ID:vUxNW.gI

>AH1さん
ん?「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。
こういう場合は信仰だから放置が正解なのかな、と。
私は批判したくなっちゃうのですが。

288NAN:2008/02/05(火) 13:57:43 ID:???
>>287
それは批判なのか、干渉なのか?がポイントだろうねぇ。
つまり、わざわざ相手のテリトリーに乗り込んで否定的言説を述べたりしないけれど、布教に来たとか友人や知人から相談を受けたなんて場合は徹底的に批判する、という感じかな。あと、表現活動の一環として自分のサイトとか作文の中で、水伝教を批判するってのはやるかも知れないなぁ。

289AH1:2008/02/05(火) 15:11:19 ID:fKqeZx4M
>「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
>その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。

ああ、なるほど。そうですねえ、私なら放置ですね。信じこんで「素晴らしい!」と言い出す友人でもいれば、「ありゃ科学っぽく見せてるだけにすぎないし、『美しい』の定義からしてサギみたいなもんだが、それでもいいか?」くらいは言うでしょう。科学だとか客観性・再現性のある事だとか言い出したらぶっ叩くと思います。

「非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまう」は「客観的な検証ができない事象」として扱うべきかと思います。観測者効果みたいなものではないかと。(例えば『霊は見える人にしか見えない』なんてのもこれに近いし、本当にそうである可能性をどうしても否定はできない)
それがわかってて利用してるなら、実に狡猾ではあります。

290地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:24:49 ID:cizMQ0FI
>>233 >>237の僕のへたくそなクイズにお答えくださった方々にお礼申し上げますにゃ。

diamonds8888xの緻密な答えは面白かったにゃ。
>私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

学際的な分野は確かにいくらでもあるけど、典型的な人文科学とか社会科学もやっぱりあるのではにゃーかと。人間社会に現実に存在する「価値」についての研究なんて自然科学には向かにゃーだろし。


僕がいいたかったのは、ある妄想の対象が自然科学的な意味で存在していると信じていようが信じていなかろうが、そのことと社会・人文系研究の学問的価値は基本的には分離しているということですにゃ。

例えば
>>237、3)C)の「ある特定の妄想」の持ち主として「イヴァン・カラマーゾフが実在の人物であると信じてしまっているけど、それ以外はいたってまともなドストエフスキー研究者」なんかを想定していただけますかにゃ。ある小説の主人公が実在していると信じちゃっているからといって、その研究者のしていることがダメになるということはにゃーわけだ。むしろ、面白いものを書いてくれることが期待できそうにゃんね、この設定なら。

もともとはドーキンスが「妖精学」と同様に「神学」が学問として成り立たないとかいうアタマのワリイ難癖をつけてきたことをとりあげただけですけどにゃ。イヴァン・カラマーゾフの実在を信じるドストエフスキー研究者のしていることを学問とみなすことのできる常識的な判断力の持ち主ならば、神学に対するドーキンスの難癖が意味のにゃーものであることはわかるだろにゃ。
まあ、ある特定の信念や世界観(ここでは自然科学的な意味で存在しているかどうかという判断)が、自然科学以外の分野における学問の判断基準となるというドーキンス先生の科学主義は唾棄唾棄唾棄で却下にゃんな。

291地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:23 ID:cizMQ0FI
ついでに
>>225 >雄

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>>特に 雄 の病状がヒデエ。

>骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。

>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。


>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー


そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。
僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど、例えばウィキペディアの「物自体」の記述を読んで「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」と思うヒトはいにゃーと思う。
ちなみに日本大百科の「物自体」の項のまとめ部分を引用すると
>物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であったともいえる。

また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。ソーカルもどっかでそんなこと書いていたにゃ。

292地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:45 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
>>283

>「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

「すべてのものの90%は屑である」スタージョンの法則
ゆえに、クリスチャンもクリスチャニティも90%は屑。
しかし、ほとんどが屑であるという事実は、すべてが屑であるという推論を正当化できにゃー。

馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。
ドーキンスは党派的思考でガチガチだろね。

実際問題として、まともな宗派とか会派はあるんではにゃーかと思う。
メリケンの場合、反公権力・反国家権力の拠点として教会を中心とした共同体があったという事情も本来はあったのではにゃーかと思ったりもするのですにゃ。政教分離あるいは宗教と法の分離というのは、宗教保護のためという側面がたしかにあるはずなんだけど、そのあたりがマニュアル馬鹿にはわかんにゃーしね。
メリケンの国はいろいろとねじくれていてオモチロイよね。


それと
水伝が宗教を名乗ったらラッキーだろ?
理科教育現場から完全に駆逐できるじゃにゃーか。
教義としては面白みがまったくにゃー3流宗教にゃんな。

293地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:04:28 ID:MxpO/apg
では、ドーキンスの程度の低い詐術をさらに指摘しますにゃ。

第2章 神がいるという仮説 NOMA P95
>この非干渉を貫くNOMA神は、確かにアブラハム神ほど暴力的でなく、がさつでもないが、こういうタイプの神の有無でさえ、公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う。

はあ?
グールドのいうNOMA原理の前提は、宗教は事実の領域に踏み込むべきではない(神は科学的仮説ではない)というものじゃなかったのかにゃ? もちろん、本当に両者を切り分けられるのかという批判があってももっともではあるけれど、ドーキンスはしかるべき手順をふむことなしにいきなり「公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う」とちっとも公明正大でにゃーことをいっているにゃ。

ドーキンスには事実の分野(科学の分野)において神を否定する論理を宗教にそのまま適用する悪しき科学主義の論理を振り回すしかにゃーので、必然的にこういう馬鹿理屈になると考えられますにゃ。ユングを否定した知的詐術と同じ論法だにゃ。
事実の領域における論難を、そのまま価値の領域に適用して宗教を否定するというのが、「神は妄想である」の基本論法だといえるでしょうにゃ。



第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より
>穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443
>「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448

ドーキンスは心底から侮蔑に値すると確信した1節だにゃ。

これまでドーキンスは超越的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことはメリケンの馬鹿クリ対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」だあ?
てめーはどこの3ない運動だ? どこの行かれPTAのエロ本禁止運動だ? どこの国防婦人会だ?

この理屈が通用するのなら
「開明的・進歩的な科学者集団でさえ、それ自身には軍事にかかわりなくとも、産軍複合体に協力していることになるのだ」
とか
「本人が例え疑似科学批判に注力していようとも、科学にかかわるというだけで科学主義を助長し、疑似科学を生み出しているのである」
とかいったたぐいの
「資本主義」だの「環境破壊」だの、その他諸々の政治的仮想敵をジッパヒトカラゲにまとめて否定する粗雑で粗くて馬鹿で白痴的でアホ相対主義的で最悪の意味で政治的なガキの決めつけ理屈はすべてオッケーにゃんな。

忘れてはならにゃーのだが、進化論裁判において科学者・教育者だけでなく「まともな」宗教者も創造論を理科で教えることに反対したという事実もグールドがNOMA原理を打ち出した理由のひとつにゃんね。で、NOMAを否定するドーキンスの出してきた中二病理屈は、誠実で知的でまともな信仰者、創造論を理科で教えることにはっきり反対した宗教者も「過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」から責任があるんだってよー。現代日本で言うと、馬鹿マスコミに躍らされたお歴々の医者や教師叩きみたいにゃんなあ(げらげら


ではまとめるにゃ
1)自然科学仮説としての神、という人類史的にみても馬鹿理屈への対抗言説がこの本の内容の大半。
2)ところが、自然科学仮説としての神という神概念をもってない者(ユング、グールド)を自分の措定したフィールドで批判しているなどの不当な言説。妖精学への嘲笑もこの関連。
3)自分が批判する対象についての明らかな無知と侮蔑
4)創造論的な神がいなくても進化は成り立つという言明が、直接的にすべての超越的存在を否定することになるという、それこそ超越した論法。
5)「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」ので穏健で誠実な宗教も否定するという、3ない運動というか国防婦人会というか、その程度のレベルの言明に支えられた超越的ロジック。

結論;「神は妄想である」は知性も誠実さもみられない白痴的駄本。

「神は妄想である」についてはだいたいこんなところにしておきますにゃ。細かいところをいえばまだまだいくらでもいえるにゃんが。
このあたりについては、ブログつくってそこにまとめるつもりですにゃ。

294地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:49:11 ID:MxpO/apg
さて、とっても悪趣味な僕としては、雄クンの>>225
>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
この科学の定義をビール飲みながら考えてみたいにゃ。

雄クンによると、以下の発言を行うことは科学になるにゃんね
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

うにゃ、雄ダイセンセイの科学の定義は僕なんかには計り知れにゃー深遠なものですにゃ。


そういえば、雄ダイセンセイはドーキンスの「3ない運動 もしくは国防婦人会」的批判と同様のロジックを>>218 >>273あたりでご開陳なされているようですにゃ。

あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、事実言明と価値言明の分離という欧米インテリの言論における作法をベースとしているのではにゃーかな? 対するドーキンスは明らかに事実一元論に近い立場にゃんな。ちゅうか、事実一元論に基づく詐術を行っているし。

295:2008/02/06(水) 07:21:33 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏
楽しく読ませて頂きました。

>>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

>空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。

仰っていることが分かりません。私はただ………、
>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。


>そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。

私は、No-225で、地下猫氏が引用されたフレーズに先立って「カントについても、その汲むべき内容が多い中で、………」と書いています。

読んでお分かりの通りカントを全否定している訳では有りません。特に「批判前期」と呼ばれる時期のカントは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」を提唱するなど、後の弁証法的宇宙論に繋がる重要な業績を挙げています。ここで問題にしたのは「物自体」です。
何でもそうですが、新しい知見・業績と言うものは、それに先立つ先人のそれを土台に、批判的構築されるもので、カントもヘーゲルも観念論者だからと言って、私は一概に否定はしません。今の高みに立ってこき下ろすことは、そもそも私の本意では有りません。

そしてNo-230での、kaさんへのコメントの中にも「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので………」として、あくまでも私の個人的な見解表明であることを断って有ります。
「現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね」と付け加えながらね。地下猫氏のご批判はとっくに織り込み済みです。

その上で、あえて言わせて貰えば………、
「創造論」は進化生物学を中心とする自然科学陣営からは、完膚なきまでに論駁されて、自然科学的には決着が付いていると私は思っています。
しかし実際には多くの人たちの間で、創造論は生き残り、事実とされ、「省みられ」続けています。
同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

ただまあ、一言苦言を呈させて頂ければ………、
>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

>また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。

私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

296:2008/02/06(水) 07:24:32 ID:QpQGFxc6
続きます。

>>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

>ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー

一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。

なお地下猫氏の設問自体余りに漠然としているのですが、私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

>>237;
>「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?(地下猫氏の設問)
>1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない(ご本人の答えの一部)


「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

類人猿のオス・メスの間に「愛」の感情が有るかどうか、難しい問題ですが、ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です。チンプやボノボ、ゴリラ、オランウータン、全てそれぞれ配偶システムが異なり、ヒトはヒト特有な配偶システムを発達させて来ているからです。
その理解に、適応上の淘汰を含め、進化生物学の知見が関与できない筈は有りません。

文化人類学のジョージ・マードックによる有名な統計が有ります。世界中の849の民族社会を調べての結論として、ヒトの配偶システムは全体として、ゆるやかな一夫多妻を含めて基本的には一夫一妻だと言うことです。
これは体の大きさの性的二型からも概ね裏付けられます。

それに対し、ヒトのオスの精巣はチンパンジーに次いで巨大です。
チンパンジー、特にボノボは猛烈な乱婚で殆ど挨拶代わりにSexをするようです。必ずしもオス・メス間の交尾だけではないのですが、チンプやボノボの巨大な精巣は、この乱婚による精子間競争に対応して発達したものです。
ハーレムを作るゴリラのオスでは、精巣の大きさはチンプの5分の1に過ぎません。

ヒトの進化の過程で、チンプのような乱婚の時代が有ったとは考えられないことから、ヒトの精巣の巨大さは、おそらく結構頻繁に婚外交尾、つまり浮気が有っただろうことを推測させます。
ヒトのメスに発情期が無くなり、当のメス本人にさえ判らない程に排卵時期が隠されることになった理由が、婚外交尾に関係しての「子殺し」防止では無いかと言う説も有ります。

ヒトは直立二足歩行により、メスの難産を招きました。
又、脳の巨大化によりますます難産の傾向が強まり、結果的に生理的な早産を発達させました。その為ヒトの新生児はあまりにも無力で、ヒトの基本である直立二足歩行さえ、およそ生後10ヶ月を要する程になっています。更にその後も長い間の養育が必要です。

こう言う状況下で、他の哺乳類のようにメスだけの子育ては不可能となって来ました。
オスに取ってもメスに協力して、一緒に子育てに励む行動を発達させた個体が、結局は多く子供を残したのでしょう。
更にはその絆を強くする為、お互いの「愛」を発達させた個体同士が、厳しい環境下でより多くの子供を残し、その形質がヒトと言う群れに広がってきたのでしょう。
その合間に適当に浮気を挟みながら。

こう言った進化上の要因が、人間の「愛」の考察にどうして関係しないと言えるのか。
そもそもヒトの配偶システムが、ゴリラのようにハーレムを形成するもので有ったら、或いはボノボのように猛烈な乱婚であったら、オス、メス共に今の人間の「愛」の形は、ガラリと変わったものになっていたでしょう。
愛は確かに精神的なものですが、その形成の基礎に人間の進化の過程が反映されていることは、およそ常識と言えるでしょう。

297:2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298NAN:2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?

299NAN:2008/02/06(水) 11:33:50 ID:BZb9Dt8w
正直枝葉なんだけど…あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。
というわけで>>297:雄氏

>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

誰もそんなことを云ってないよ?
「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を支持(注:引用者による修正)しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ」という指摘は、キミが発したドーキンス本に対する主張に内在する表現の曖昧さや雑さから来る誤解か語弊かあるいは、確かに「自然科学的に実在しないものは研究として意味がない」という無意識下の本音の吐露に対してなされた指摘でしょ。

>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。

それでね、
>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
勝手な解釈なんだから、勝手にすればいいんだけど、愛というのをラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)に見出すというのも…なんだかとってもげんなりというか、短絡的思考に見えるんだよね。(これは、見える、だけなので反論ってことじゃないけどさ)

そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。
で、これに遺伝や進化学的な要素を絡めると、ドーキンスの利己的遺伝子のガイネンが役に立つ。遺伝子は自分自身とそのコピーを守ろうとし、表現型が拡張されると「体外の事象を自己の財産として子孫に継承する」という複雑な進化が起き、文化や文明の理解にも役立つんだろうな、と私は納得している。血縁淘汰と遺産相続に伴う家庭内紛なんか相関してて面白いね。

地下猫氏によるテーマの提唱とはさっぱりかけ離れた議論になっちまったけど(その責任は私にもある)、もうちょっと『愛』について。(byスガシカオ…ってうまいんだかうまくないんだか良く分からないけどなにげに好きだ)

男女の愛ってのは自己愛の拡張で、配偶者を「獲得し、所有する」という行為に絡み、やがて「血縁者を保護する・共有する財産を保持する」という情動に繋がるのではないか。ヒトには社会性動物としての稀な特徴である「なにかを所有する」という行動があって、所有(獲得)することを欲望するという、さらに因果な行動動機を持ち…結果として報われない愛の方向性のひとつに破滅があるんだろうね。これはラヴアフェアだろうが経済行為だろうが消費行動だろうが同じ。羨望・妬み・嫉妬なども報われない愛のカタチの類型かな。こういう短絡的かつ還元主義的な「愛の説明」を突き詰めていくと「愛の結果=シアワセ=所有満足度」なのではないか?という結論も出てくるし、それなりの説得力もあると思う。

こういったことを論じるのは、生物学的なアプローチも出来るだろうし、心理学でもアリだと思う。実際、私の議論の大半はこの二つの知見から出発しているし。自己投影とか依存の関係なんかも遺伝子を絡めて考えることは可能だよね。(つまり、自然科学的な学問として有意と判断)

300NAN:2008/02/06(水) 11:34:16 ID:BZb9Dt8w
さて、せっかくなので議論を本筋に戻します。
>>272で私が述べた「なにか」について。実はそれは「依存」である、と私は考えています。

依存は、程度によって「依存症」とさえなるとても因果な性質ですが、親子の依存に代表されるように割とさまざまな生物に普遍的に備わる性質でもある、と私は思います。配偶者への依存、親への依存、職場への依存、金銭への依存、さらにはネット掲示板とかギャンブルにまでヒトは依存できるわけで、対象が実在するなにかであろうが仮想の存在であろうが、おかまいなしに依存することができます。こうした依存の各種は、パーソナリティを保持する上で必要なものもあれば、逆にパーソナリティに対して障害をもたらすものであるのに、依存してしまうという種類のものもあるでしょう。アルコール依存や薬物依存が典型ですが、男女の依存関係や金銭への依存も度が過ぎれば破滅を生みます。

一連の議論で問題となっているのは「宗教の弊害」ですが、これは極端な主義・主張による弊害と言い換えることができ、原理主義だとか根本主義などに傾倒するという側面には、それら信仰への極度の依存が間違いなくあることでしょう。ここで、依存の鍵となるのは快楽です。快楽には「興奮」と「沈静」の二種があり、これは自律神経の作用と相関します。
■死への不安や人生の不安→信仰により和らげられる=マイナス方向の興奮(不安)が沈静される快楽(ダウナー)
■日常への倦怠感や無気力→信仰により活力を得る=停滞した沈静から活動的興奮へ向かう快楽(アッパー)

上記のうち、問題行動と結びつき易いのは、恐らくアッパー方向への快楽を求めて「なにか」に走る機会に於いて、ではないでしょうか。これは、受験やその他試験に対する不安や対人不安、財産を失う不安や死後の不安が信仰によって癒され鎮静されたからといって、それが他者への迫害や威圧行動に繋がるとは考えにくいというのも私の中にあります。(無論、信仰者自身の中でそれが本来の問題解決になるかどうか?は分からない)

A:信仰は、獲得し、所有される。
B:信仰は、快楽である。
C:信仰は、依存である。
上記の3命題の「信仰」には「配偶者」「仕事」「カネ」「セックス」「技能」そして「愛」など、およそあらゆる対象を当てはめることができます。それだけ我々の誰もが、信仰と似たものに傾倒し、依存しているということです。また、依存の度合いが強すぎたり、歪んだものになれば、どんな対象を当てはめても弊害を生み、時には暴力にさえ繋がるでしょう。これが最近気付いた「宗教批判の難しさ」の大きな要因です。

信仰が上記3命題を満たすものである以上、一旦それを所有し依存しているひとがこれを捨てることは、私が自分のパーソナリティを捨てられないように難しいことでしょう。愛して(所有して)いるものをあなたは捨てられるのか?という問題です。(時に、信仰はそれを求めるけれど)少なくとも、自分はなにも捨てないのに、相手には捨てろと述べるというのには不公平感があり、容認されることはないでしょう。

それでは当初、後悔と懺悔さんが述べていた「これから宗教に触れるリスク回避」についてはどうでしょうか。
私はそれを「科学的方法論を浸透させていくしかない」と述べましたが、基本的には変わりません。ただ、相手が快楽を生むモノである以上、科学的方法論は甚だ抑制的で、禁欲的でさえあるため、有効に働きにくいことも想像に難くありません。しかし、宗教が悪者であることを殊更「悪い事例」ばかり列挙して説得を試みたり、間違った一般化によってその弊害を列挙したりという、詭弁的な方法論よりはマシだろう、と思うのです。

1:所有や獲得(達成)は依存に繋がる。
2:ヒトはなにかに依存するイキモノである。
3:依存の度合いが強いか間違っていると弊害を生む。
結論として、知識としての核を成すのは上記の3点ではないでしょうか。迷信や超越存在に対する強い依存が弊害を生むのは間違いないことですが、その他のあらゆるすべてに対してだって同じことが云えることを、私は強く自戒したいと思います。最後に、ブッダの原典にはこれら依存のリスクへの警鐘が強く込められていたことを、あらためて指摘します。

301:2008/02/06(水) 19:26:26 ID:QpQGFxc6
>あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。

私の表現の稚拙さをご指摘なのであれば、それは甘んじてお受けします。
……ただ、話の進め方やテーマの扱いはそれぞれの論者の問題意識と直接関連していて、つまりその辺は私の「教導権」に属する問題だと思っています。今読み返してみても本人には特に問題を感じません。
と言うことで、多分今後も直らないでしょう。悪しからず。

同時にNANさんが何を聞きたいのか、イマイチ理解できません。全体としてNANさんのご主張の展開のようで、私としては「それはそれで良いんじゃないの」と言う感じです。
そこに私の「教導権」を主張する積りも有りませんし。

>自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。(No-299)

読んで頂ければ分かりますが、私は別に地下猫氏からの「科学主義批判」に反論なんかしていませんってば。する積りも有りません。明確になっていないのは当たり前です。
No-297でも「それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。」と書いて有る筈ですが。

私はただ、地下猫氏が「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは………」と書いて来たから「そんなことは言っていませんよ」と、いわば事実関係を返しただけで、その裏に地下猫氏がどう言う思惑を込めたかなど、余計な推測をする積りはハナっから有りません。
「無意識下の本音の吐露」かなんか知りませんが、後になってあれこれ付け加えられても、
「そんなの知ったことか」ってのが本音です。だったら最初から書けばいいのに、ってね。

302:2008/02/06(水) 19:27:06 ID:QpQGFxc6
「愛」について言えば、NANさんの解釈は解釈として「それはそれで良いんじゃないの」に尽きるのですが、私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

>最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。

「自分の命を守ろうとしたり」の行動は、特に愛などと言わなくても、捕食者から反射的に身を守ったり、交通事故を咄嗟に回避するなど、ウイルスからナメクジ、コウモリやカラスまで全て、本能(最近この言葉は使わないようだ)として持っているものでしょう。いわば危機管理ですかね。ヒトにおいてもその延長として理解可能です。
勿論、NANさんがそこに「愛」を見出しても「それはそれで良いんじゃないの」なんですけどね。

生物が生物たる目的は、自己複製でしょう。単細胞から無性生殖、有性生殖を含め、全てね。
ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)と呼ぼうが何と呼ぼうが、生物は、適応度最大化の為に組織されたタンパク質だと言って、大きく間違いではないでしょう(なお、ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)が可能なのは、有性生物、つまり生物の一部です)。

実際生物の行動は全て、適応度(つまりは残した子供の数)最大化の為に特化されていると言えます(人間の場合、社会が絡みますので少し複雑になりますが、これも社会科学という科学の範疇です)。

その中で、ヒトのオスとメスは子育ての必然からペアボンドを発達させざるを得なかっし、ペアボンド強化の為に、つまりは絆を強化する為に「愛」と言う感情を発達させた個体が、オスもメスも結局適応的だった、と言うのが私の見解です。
だから人間の「愛」の契機・基本は、男女の愛からだったろうと………。
「ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です(No-237)」との、私の書き込みはその辺を歴史的に俯瞰したものです。

人間の「愛」の感情を全て、進化生物学で解釈できるとは言っていません。しかしその理解の基礎に進化生物学が関われることだけは確かです。
そしてこの掲示板で今問題になっていたのは、NOMAとの関係も含めて、そう言う「愛」とか、芸術とかを科学として扱えるかどうか?、と言うことだった筈です。

私は「扱えるんじゃないの」と言う立場で、幾つかの項目に渡って例を提示した訳です。若干中身に踏み込んでしまいましたが、兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

しかも私の「少しばかり広い意味での科学」に対する、地下猫氏の揶揄(と言うか、何というか)への反証として、丁度手ごろな教材としての意味合いも含めてのことです。

>>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。
>誰もそんなことを云ってないよ?

「愛」が科学の対象にはならない、とするどなたかの主張が有ったようなので、そのアンチテーゼとして言ってみた訳なんですがね。


>>233; は従ってコメント済みだと思います。NANさんの意には沿わないかもしれませんが。
>>234; についてはなるべくそのうちに。

303diamonds8888x:2008/02/08(金) 06:30:39 ID:jcR/Lf4.
>>302
>兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

 これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
 それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

 「基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考え(>>281)」ということでは全く異論はありません。ですが、その研究対象をどのようにして【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在に区分けするのか、というところで、どうもしっくりこないのです。この点については考察中なので時間を下さい。


 雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。

>私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

 私の回答(>>279)では「何かを愛する」ということで、ここの何かは何でもよいと想定しています。異性愛については自然科学的研究も実際に進んでいるので例として挙げやすいことは確かです。ただ設問は「存在すると思うか?」であって、「実際に科学的に研究されているか?」ではありませんでしたから。

304:2008/02/08(金) 09:08:31 ID:QpQGFxc6
>これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
>それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

diamonds8888xさんの「突っ込み」の意図は充分理解できます。以下三点ほど言い訳です。

一つには地下猫氏の設問「「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?」が、私からすると色々な意味にとれて………。
だから一応私も、(>>296)で、「『愛』は精神的なものです。その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。」と書いては置いたのですが。つまり「愛」と言う固まりのようなものが有る訳では無いと。
だからモノとして直接「愛」を自然科学の対象には出来ないし、その意味では『自然科学的な意味で存在』しないのは当然な訳で、まさかそんな陳腐な意味での設問ではないだろうと思ってましたし。

二つ目として、元々私は地下猫氏のクイズに参加する意志は無かったのですが、猫氏から私の科学観(猫氏より少し広く、科学を見ている)について揶揄されましたので、その返答として、丁度手元に有った手頃な教材として「愛」を選んだってことで。
そんな訳で猫氏のクイズに「逐条的」に対応する形は取らなかったし、その積もりも無かった。

三つ目、このトピで一貫してNOMA的主張への適否と言うようなことが議論されていて、一部の方々は「愛」とか芸術とか、そう言ったものは科学の対象にならない旨主張されていたようなので、私はそうは思わない、と言う観点でコメントしました。
ですから「>ただ設問は存在すると思うか?」と言う枠をはみ出しました。と言うかそう言う枠は意識していなかったと言うことですね。
アプローチの仕方は異なっても、科学はどこにでも突っ込みどころは有る、と思っている訳です。
そして社会科学も又、立派な科学で有ることには、多分diamonds8888xさんと問題意識を共通にしています。


実はこれから出かけます。

>雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。
>異性愛については………、

これらについては後ほど書き込ませて頂きます。
「愛」の適応上の考察(私はそう言う問題意識で書き込んでいますが)は、非常に面白そう。
多分又、ずれまくると思うのですが、悪しからず。

305AH1:2008/02/08(金) 13:30:13 ID:zfjW98z.
「愛」と人が呼ぶ、あるいは感じる、であろうところのナニカに生物学的基盤は当然あると思いますが、
行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑

というような感じかなー、と漠然と思いました。

306:2008/02/09(土) 08:32:08 ID:QpQGFxc6
RE AH1さん
>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。
普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。

遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

………と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、
>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
………と書いたことへの言い訳でも有ります。


>>299;NANさん
>そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

NANさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

1)、NANさんが述べている内容は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

2)、自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

307:2008/02/09(土) 08:36:58 ID:QpQGFxc6
「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。

ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「賢い人」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは、生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。
ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

308:2008/02/09(土) 08:37:44 ID:QpQGFxc6
哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させたでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

ヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。


なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です。

309ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:47:18 ID:vUxNW.gI
AH1さん、NANさん

「水伝教」の件、くだらない仮定の話につきあってくださってありがとうございました。
雄さんの書き込みを読んで考えたのですが、「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

310ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:56:22 ID:vUxNW.gI
猫さん

レスありがとうございました。

>馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
>ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、
>敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、
>味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。

これは、耳がいたいですね。NANさんにも指摘されたことですが、確かに宗教批判するときに「最低」を基準にして「全体」を批判する傾向があります。まぁそれ以外にも「宗教全体」に対する疑問は疑問としてあり、ドーキンスを支持したくなる理由もあるのですが。

311NAN:2008/02/09(土) 19:41:37 ID:G81kGdtk
枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

>>306
>それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

>少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

自己を自己と意識する必要?キミは情緒における自己と個体認識としての自己を混同しているでしょう。愛の発現を生物学的に解明しようというのであれば、ヒトを見るよりもまず、その他の生物に普遍的に見られる行動的特徴から、我々が「愛してるっぽい」と感じる行為をピックアップし、それがどうヒトに共有され、変化したのか?を探るべきだよね。なぜなら、愛がヒトだけのものでなくてはならない理由などないのだから。
カメムシが自分の子供を背負っているのを見て、我々ジンルイは「母は子供を愛しているのだなぁ」とか云う。無論、カメムシが私たちヒトと同じ情緒的な意味で「子供を愛している」などと私は思わない。いやむしろ、子孫を守ろうとする激烈な行為の発現に於いては、彼らのそれの方が遥かにヒトを上回るだろう、と私は思う。

それでは、なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
雄クンがなにをもって「愛」と述べているのか、私にはいささかも理解できないけれど、愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。そう、なるほどヒトは複雑な情緒を持ち、さまざまな性癖を持っているけれど、なにかを守ろうとする激烈さに於いては、他の生物種に一歩も二歩も行動としては劣る。この点について私は、愛、と呼ばれる「なにか」の本来的な要求から、ヒトはむしろ離れているとさえ考えている。

さて、もう一歩議論に踏み込む前に、私から「愛」を定義してみよう。無論、私の個人的な定義なので反論も異議もあるだろう、と思う。
1:愛は平等なものである。
2:愛とは与えるものである。
3:愛は寛容である。
4:愛は普遍的なものである。

実はヒトほど「愛」からかけ離れている存在はないだろう、と私は思う。たとえば「男女間の愛」について述べるなら、ヒトは性行為を経済行為として「商品化」し、これを古代から受け継いでいる。また、所有する財産や社会的地位によってさえ、繁殖・婚姻の機会が大幅に変動し、差別的である。これは他の社会性動物にも云えないことではないが、ヒトの顕著さは目を見張るばかりだろう。これらによって「男女の愛はまやかしに過ぎない」とまで私は述べないけれど、愛に対する誠実さ・切実さに於いて、ヒトは他の動物種より劣る、と考えている。

312NAN:2008/02/09(土) 19:42:01 ID:G81kGdtk
それでは非常にチンプで破廉恥な、ヒトにおける愛とはなんだ?と考え出すと、自己愛以外のなにがあるんだ?と私は考える。先に述べたように、生物は自分の生命を守ろうとする。そのためにさまざまな防衛手段を発達させた。また、その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。これら他の生物種が行う利他的行動を、ヒトがもしも行ったのであれば(そういう実例は数多くあるけれど)、それを「愛」と賞賛しないだろうか?なぜ、ヒトと同じ情動や意識下にないものが「愛ではない」と断言できるのか?むしろヒトほど愛を理解できない生物はいないからではないか?と考えたほうがすっきりできるのではないか?さまざまな生物種が行う慈愛的だったり利他的だったりする行動を見て「いや、あれはただの本能だよ」というヒトの傲慢ぶりに、愛との断絶があるのではないのか?そう、彼らの脳裏にはヒトと同じ情緒もなければ意識もないだろう。だがなぜ「同じでなければならない?」と、私は繰り返し問おう。

次に、ヒト「だけが」持つと思われる「愛と呼んでいる不明瞭な情緒」について。
小学校に上がるか上がらないかくらいの児童でも、感動的な絵本や物語に触れて涙することがある。これは「物語の登場人物に自分を重ね合わせる」という自己投影の結果に起こる現象だろう、と私は思う。あるいは、母親が持つ、男女の愛など簡単に消し飛ぶほど激烈な子供への慈愛や寛容さは、なにに端を発するのだろう?それはやはり、自己を投影しているからではないだろうか?つまり、母親は自分を愛するのと同じか、それ以上に強い衝動的な情緒に突き動かされることがある。これが男女の愛の比ではないことは、経験して見れば誰でも理解できるはずだ。

つまり、ヒトにおける「愛とか云う情緒」は、基本的に自己とその拡張である。男女の恋愛感情などまったく発現する以前の児童でさえ、自己を投影して他人の感情や境遇を思ったり、慈しみに近い感情を持つことができる。ちなみに男女にあるのは依存関係であって、愛とは若干違うだろう、と私は考えている。

最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

313:2008/02/10(日) 11:07:10 ID:QpQGFxc6
>枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

NANさんも結構長いですよ。…まぁいいけど。
最初に事実関係を………、

>キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

私は置き換えていませんよ。
人間の「愛」の感情とその起源を理解する為に、ゴリラともチンプとも違う、ヒトだけが辿って来たであろう進化人類学的な事情を解明するのは必須です。
その事情として、直立二足歩行や難産、それに伴う新生児の無力化を挙げたのですが、これはNANさんご指摘の「ヒトの生態」です。NANさんはこれを「愛」に置き換えられると言うのですか?
多少なりとも唯物論をかじった私としては、感情である「愛」と、その実在的基盤(NANさんが言う生態)を混同するようなことは、絶対有り得ません。


既に水掛け論の様相を呈してきました。そろそろ収束の頃合いかも知れません。

>>311;>>312;でも、NANさんが延々と述べられている生物の「愛」の行動について、既に、>>306;で「生物」「生物の行動」の単なる置き換えに過ぎないと述べていますので、ここで繰り返しません。
今回気が付いたことに絞ってコメントさせて戴きます。

>なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
>愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。
>その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。

これなどドーキンスの「利己的な遺伝子」とどこがどう違うんですか?
「利己的な遺伝子」についての賛否、評価については人それぞれだろうけれども(地下猫氏も『利己的な遺伝子』に付いては一定の評価をしているようだ)、NANさんに拠ればこの本一冊、丸ごと「愛の物語」になりそうです。

ドーキンスが、或いは進化生物学全体が理論付けた内容を、愛の物語に仕立てるのはNANさんの思想信条の自由だとして、しかしそれで一体何が分かったことになるのですか?
「愛」などと言う概念を殊更に持ち込まなくても、NANさんが述べられた「自己保存」「自己防衛」「子孫の繁栄」「利他的行動」など、全て進化生物学的な適応で解釈できます。
産卵の為命を投げ出す(と言うか命を掛ける)動物などザラにいます。と言うか遺伝子を次世代に引き継ぐ、それ自体が生物の本質じゃないですか。その為に特化したシステムが生物です。
だからここでもNANさんの言う「愛」は、「生物」「生物の行動」の単なる置き換え、同義置換、トートロジーに過ぎません。

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
環境汚染や温暖化を受け入れて、ただそこに佇む、愛の存在などと詠嘆するのは結構だとして、酸素も石灰岩も鉄も、全て生物との共同制作物です。或いは温室効果ガスも然り。
大事なことはそう言う地球の危機を科学的に分析し、経済や生活と折り合いをつけながら、危機を回避する方向での自然科学的な対象として、人類の英知をそこに向けることでは無いのか?

尤もNANさんが、汎神論者を任じているのであれば、それはそれで一つの立場です。

遺伝子DNAを基礎とした(全てそれに還元される訳じゃないが)生物一般の行動様式は、当然類人猿やヒトの行動の土台です。それを「愛」と呼ぶかどうかは別として、そのことは当然私も認めます。
しかし人間の愛の感情をその生物一般の「愛」に還元することは出来ない。なぜかと言えば一番近縁な類人猿でさえ全て配偶関係が異なり、当然愛の感情(そう言うものが有るとしたら)も全て異なるだろう筈だからです。

人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、進化の歴史の過程でヒトだけが辿ってきたヒト特有の事情を、適応上の観点から見ること無しに、人間の愛の感情を理解することは絶対にできないと思う、「今日この頃」。

314:2008/02/10(日) 11:08:01 ID:QpQGFxc6
旧聞と言うことになりますが、何かのついでにと思っていた、>>229;の「妖精論議」についてもこの機会に少しばかり異議申し立てをさせて頂きますね。

>今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

本当に等価でしょうか?、妖精を神に置き換えても話の事情は同じですよね?
主にキリスト教系の神を念頭に考えて見ます。妖精で考えて貰っても同じことですが、神の方が話が分かりやすい。

私は無神論者です。精神的にも実践的にも神を必要としません。
こう言う罰当たりな者にとって、神の実在証明は勿論ですが、不在証明も実は全く必要無いのです。世界中の殆どの人が、スパゲッティモンスターの不在証明を必要としないのと同じことです。ですから殊更神の不在証明にエネルギーを割くことはしません。

しかし神を信じている人は事情が違います。
神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。
当然実在証明にも気合が入らざるを得ません。事実その為に多くの賢者と言われる人たちが、膨大なエネルギーを注いだことでしょう。

又、難易度と言う点でも雲泥の差が有ります。
実在証明は、たった一度それを示せれば良いのです。神でも妖精でも一度お出まし願って、記者会見でもテレビカメラの前でも、批判者の検証に晒せば実在を完全に証明できます。
しかし不在を証明するには、あらゆる実在の可能性をしらみつぶしに否定する必要が有ります。だからこそスパモンも不在を証明できないのです。

若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

必要度や投下エネルギー、難易度の点でこれだけの極端な勾配が有るとき、単に表面的な結果が同じだったとして、それで等価と言えるでしょうか? 私は神に対する、度外れて「不相応な敬意」だと思います。
事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

ここから論理的に導かれる結論は、神(或いは妖精など)の実在は限りなくゼロだということじゃ無いですか? ゼロと断定は絶対に出来ませんが。
その点ではスパモンと比較してさえ、神の実在は蓋然性が低いと言わざるを得ません。スパモン教はその実在証明にそれ程血道を挙げているようには思えませんからね。未だ見つかる余地を広く残していると言えます。

それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

315NAN:2008/02/11(月) 09:56:59 ID:G81kGdtk
>>313
つまり雄クンは「愛はヒトが独占的に持つ特性である」と述べているのだね。そして愛は男女間の愛に代表される、と。
>>314については特にコメントの必要なし。

316NAN:2008/02/11(月) 10:07:59 ID:G81kGdtk
ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。

差別的性向が適応度を高めるって云う議論は肯定するけれど、それを愛と呼ぶ傲慢は否定。
以上です。

317ちょちょんまげ:2008/02/11(月) 14:48:16 ID:vUxNW.gI
ちょっと酔っ払ってます。少々の失礼、トンチンカンがあってもご容赦。
まぁまぁお二人ともって、白黒つけたがる性格の私がこういうことは珍しいのですが、

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。
ニンゲンの言葉としての「愛」の定義はこれがぴったんこだと私も思う。

>地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
これはこれで素晴らしい。NANさんはあまり肯定しないかも知れませんが、私はこの「理性」部分が好きです。
(NANさんがおっしゃる「人間として良くあろう」の一つの側面として)

お二人は噛み合って無いように感じていらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私には、お二方のご意見は極めて有意義です。

318e10go:2008/02/11(月) 19:59:29 ID:5/V6R9W6
雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

雄さんは「愛」を「異性愛」に限定して科学で説明を試みているけど、何故「異性愛」に限定するんでしょうね。
確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。
しかし、「愛」はもっと広い意味があるんだから、(現在の)科学で説明できる事とできない事があると思います。
人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。
「愛」の形には多様性があり、「セックス」と関係なく「感情」をともなう部分があり、「感情」の部分は現在の科学では解明できないものもあります。

私は、NANさんの >>312 の最後のコメントが気に入りました。
>最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
>たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

今の私は、「愛」について「Aセクシャル」の「無性愛」に興味があります。

319:2008/02/11(月) 23:21:43 ID:QpQGFxc6
>雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

錯覚では有りません。
科学によって直ぐに全てが解決できると思うほどノー天気でいる訳では無いし、科学の悪用も有るので、「科学万能主義」と言う呼び方が適切だとは思いませんが、真理への接近の道が有るとすれば、それは科学だろうと思っています。


>確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。

…ですよね。
でもこの板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、「存在しない」と言う見解が主流のようでした。
そうではないだろう、と言うのが私の主張であって、それによって『異性愛』に限定しただけにせよ「科学で研究は可能」と思って頂だけたら嬉しいことです。一角が崩れた訳ですね。


>人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。

私は「愛の感情」の起源について述べています。その点で若干問題意識のすれ違いが有るのだろうと思います。

確かにe10goさんが述べておられるように「愛」はたくさん有りますね。しかしいずれにしてもこう言った感情は人類の長い進化の過程の、どこかで獲得し発達したものである筈です。
e10goさんが挙げられた、それぞれの、似たような内容を持つ感情が、ヒトの歴史の中で全く独立に、平行してヒトの意識に発生してそれぞれ別個に発達し、それに対してたまたま「愛」と言う同じ語彙が割り振られたとは到底考えられません。

そうではなくて、ヒトが生き残る上でののっぴきならない事情によって、先ず最初に何らかの、そう言った漠然とした感情がヒトに芽生え、それが適応上有利であった為選択され、定着・発達するに従い、次第に輪郭のハッキリした感情となり、いつの頃かその感情に「愛」と言う語彙が与えられたのでしょう。

その感情を内包とし「愛」と言う語によって外延とされる、「愛」の概念が次第に形成されてきたのだと思います。
そしてその過程で、同じような内容をもつ様々な、漠然とした意識内容が、先行していた「愛」の概念に寄りかかる形で輪郭化され、同じ語で呼ばれるようになったのでしょう。それがe10goさんが挙げられた様々な「愛」のバリエーションだったのでしょうね。
私はそう思います。

問題はその最初の「愛」の感情を生み出した「のっぴきならない事情」とはなんだったか? と言うことです。それは適応度と直結したもので有る筈です。

ヒトが置かれた進化の過程で、我々の遥か祖先のオジイチャンが、パートナーと一緒に子育てすると言う行動を、若し発達させることがなかったら、その行動を強化するために「愛」の感情を発達させることがなかったら、今の我々はまず存在しなかったでしょう。とっくに人類は絶滅していたか、少なくとも今の複雑な社会を築くことは有り得なかったでしょう。

「同性愛」「無性愛」「親子愛」「隣人愛」「人類愛」「自己愛」「地球への愛」などは、その後に発達させても充分間に合うことだったでしょう。
私はそう思うのです。

320GB:2008/02/11(月) 23:40:09 ID:zXfK7pu6
>>319
たとえばドストエフスキーの言う「人類を愛するのはたやすいが、隣人を愛する
のは難しい」といった次元の愛という表現は、どう理解したらいいでしょうか。

321:2008/02/12(火) 00:02:59 ID:QpQGFxc6
>>320

繰り返し述べているように、319を含め、「愛」の感情の起源についての私の見解表明でした。
現在の既に確立した「愛」の概念を使って、それぞれの人がどう言うことを言ったかは、今度は文章の解釈、表現、或いはその人の思想とか、考えとかと言うことになるんでしょうね。

ドストエフスキーがどう言う状況で、どう言う意図で述べた言葉であるか、私には分かりかねます。

322GB:2008/02/12(火) 00:16:42 ID:zXfK7pu6
>>319
>この板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、(略

そもそも…ズレてません?

323NAN:2008/02/12(火) 03:48:32 ID:G81kGdtk
「愛について」はもうやめたつもりだったんだけど、撤回。だってさ…んなのあり得ないだろ?
生物学的議論と限定してでさえ、親子の愛が「後からでも間に合う」などと云う、バカとしか云いようがない主張まで出てきたからね。
適応度の概念を用いたとしても、配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?てめぇで書いてるよね。生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ。だったらなんで「親子の情」が配偶者の情より愛の起源として高いプライオリティになるんだ?子から親の情、親から子への情がどれほど深く永いものか、さっぱりワカランのかね。ヒトオスの愛情表現なんか、子から親への情の架け替えじゃんか。

つぅか「愛」ってなんだ?
愛の定義をおざなりにして「愛を科学で説明する」ってのがまず、ポンツクなの。だいたい想像がついてるけれど、愛のなんたるかを少しも熟慮しないで激しく偏狭な勘違いを愛と定義しているらしきところからダメダメ。オスメス共同の子育てや配偶者間の役割分担なんか他の動物種でもあるだろ。ニンゲン至上主義ってのは科学万能主義より始末の悪ぃバカ丸出しだよ。あ、ついでに男性至上主義も混ざってんのかな。愚の骨頂だぜ。

しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

324AH1:2008/02/12(火) 12:22:28 ID:sNMJ1V0Y
>どうしてどうして、感動モノですよ。
>あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。


いやそれは・・ 確かにそうなんですが、なんか話が違う。うまく言えないんだが。
漠然としたイメージだけを言えば、「知的理解や生物学的基盤は『愛を理解する』ことの一形態であろうが、それが全てじゃあるまい」という事、かな・・・ 私が感じているのは、それだけの事かもしれない。そして、生物学など何も知らない作家や詩人の、あるいは人々が日々の行動でもって描き出す「愛」に価値がないかといえば、そんな事はないと思うのだけれど。

325AH1:2008/02/12(火) 12:25:29 ID:sNMJ1V0Y
>「水伝教」の件、

いえいえ、こちらこそ。

>「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

余計なことは考えない、というのも適応的な戦略でしょうね。少なくとも節約的です。

326e10go:2008/02/12(火) 13:32:39 ID:5/V6R9W6
>>319
「愛」ってもっと広い意味がありますよ。
全ての「愛」についての「感情」の発現が同じとは限りません。
色々な「愛」に対する「感情」の発現機序を考えてみては如何でしょうか。
例として、「親子の情愛」、「ペットの愛犬を愛する」、「登山家が山に登る事を愛する」または「スキーヤーがスキースポーツを愛する」

327:2008/02/12(火) 16:41:13 ID:QpQGFxc6
>配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?

自分のコピーを守る為にこそ、ヒトは「愛」の感情を発達させたと言っているのです。その感情を発達させなかった個体は自分のコピーを残せなかったでしょう。つまりヒトにおいて、メスだけでは子育ては難しかったのです。
共同して子育てをするオスの行動、その行動を強化する為の「愛」の感情を発達させた個体が、そうでなかった個体より適応的だった、と言っているのです。
子供が残らないのに、「親子の愛」の感情が発達する筈もないでしょう。
「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

「親子の愛」の感情など一切抜きに、自分のコピーを残している生物など幾らでもいます。
大腸菌の細胞分裂、カビの胞子、タケノコ、イチョウの実、等など、etcエトセトラ。
そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。
NANさんはここでも、「利己的な遺伝子」を「親子の愛」に置き換えたに過ぎません。

ゴリラもチンプもボノボも、父親は子育てに関与しません。
そもそもチンプやボノボでは、子供の父性さえ特定できません。父性の混乱を目的にメスは乱婚を発達させたと言う説が有力です。主に子殺し防止の為に。
まして哺乳類一般では、その大半で、半分の性は「親子の愛」の感情など、殆ど発揮する余地が有りません。
NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

そもそも私は(>>313)で、
>>人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、

として、NANさんの「>生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ」は既に、私の主張に織り込み済みです。
更に繰り返し述べているように、私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。
ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。


>しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。
少なくとも私は、地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。


ところで………、
>ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。(No-316)
>314については特にコメントの必要なし。(No-315)

クゥー!!、スルーせずにコメントして欲しかったなあ!!!!

328:2008/02/12(火) 16:45:36 ID:QpQGFxc6
RE GBさん
>そもそも…ズレてません?

まあズレているのは有る程度確信犯なのですが、質問・批判・非難に応対する形なので、あの形以外今のところ考えられません。
若しズレていて興味に合わないのであれば、無視していただけると有りがたいのですが。

RE AH1さん
>なんか話が違う。うまく言えないんだが。

元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、その例として「愛の起源」を述べ始めたら、その中身が本論になってしまったと言う訳で。
内容はあくまでも私の個人的見解ですが、兎も角科学の俎上には乗ると思っています。


RE e10goさん
>「愛」ってもっと広い意味がありますよ。

ですから色々有るけれども、その似たような感情が人類の祖先の歴史の中で、全く独立に平行して発生、発達したとは考えられない。
最初はある一つの漠然とした感情が発達して、そのバリエーションとして広がったのだろう、と言うのが私の見解の訳で。それが>>319;です。

勿論e10goさんがそうでないと言うことなら、それはそれで結構ですけど。


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