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六巻抄について

1バックアップ:2002/02/19(火) 20:21

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/15(火) 22:12

名前: 独歩 投稿日: 2002/01/15(火) 21:44

さて、六巻抄の発題をさせていただきます。

「六巻抄は何を説こうとしたのか」

まず、この点をフリーハンドで論じ合いたいと思います。

175愚鈍凡夫:2005/02/13(日) 13:01:03

無徳さん、お気遣い有り難うございます。 m(_ _)m
小生は、無徳さんの「六巻抄」に対するお考えを知りたいと思います。
良ければ投稿なさって下さい。読ませて頂きたいです。

176管理者:2005/02/13(日) 13:02:08

「素朴な疑問」スレッドでの議論を、このスレッドに移転させていただきました。引き続き、活発なご議論を宜しくお願いいたします。

177愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 10:08:03

補足
済みません、>>167:の

> 「阿難。若世中有二如來者。終無是處。若世中有一如來者。必有是處。」(中阿含心品多界經第十第四分別誦)

の読み下しは、

「阿難、世中に二如来有らんは終に是のことわり無し。世中に一如来有らんは必ず是のことわり有り」(中阿含心品多界經第十第四分別誦)

に訂正します。悪しからず。 m(_ _)m

また、「一世界一如来」に関して、世親の「倶舎論」に次のようにあります。

「若爾何故一世界中無二如來倶時出現。以無用故。(若し爾、何故に一世界中に二如来倶時に出現すること無し。無用を以っての故に)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

「謂一界中唯有一如來便深敬重。(一界の中に唯一の如来のみ有れば、便ち深く敬重せしめうればなり)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

「故一界中無二佛現。(故に一界中に二仏現れる無し)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一)

とあります。

178愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 12:38:28

追伸、
「ひつこいちゅうねん!!」 (▼▼メ)
ひょっとして、
「倶時ではなく、異時ならば一世界に二如来でもセーフじゃないのか」
と仰る方もいらっしゃるやも知れませんので、長文ですがそのまま引用します。
尚、長文の読み下しは全く自信がありませんので、ご訂正願えれば幸いです。

「若爾何故一世界中無二如來倶時出現。以無用故。謂一界中一佛足能饒益一切。又願力故。謂諸如來爲菩薩時先發誓願。願我當在無救無依盲闇界中成等正覺。利益安樂一切有情。爲救爲依爲眼爲導。又令敬重故。謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故。謂令如是知一切智尊甚爲難遇。彼處立教應速修行勿般涅槃。或往餘處。便令我等無救無依。故一界中無二佛現。(若し爾、何故に一世界中に二如来倶時に出現することなし。無用を以ての故に。一界中に一仏足りせば能く一切を饒益す。また願力の故に、諸の如来菩薩の時に先に誓願を発す。願わくは我当に無救無依の盲闇界中に在って等正覚を成さん。一切の有情に安楽を利益し、救いと為し、依と為し、眼と為し、導きと為す。また敬重の故に、一界中に唯一の如来のみ有れば、便に深く敬重せしめうればなり。また速行の故に、是の如く一切智尊を知り甚だ難遇を為す。彼の所立教を速やかに修行し応に般涅槃すこと勿れ。或は便に我等無救無依の余所に往かん。故に一界中に二仏現れること無し。)」(阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之五)

再び訂正
>>177:の倶舎論の文証は、
「阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一」ではなく「阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之五」です。悪しからず。 m(_ _)m

179犀角独歩:2005/02/14(月) 14:07:57

愚鈍凡夫さん、

引用される所から考えると、この南閻浮提、娑婆世界においては一仏=釈迦以外の仏は有り得ないというのが、その所説、ひいて言えば仏法の基本中の基本であるということですね。

つまり、それ以外の仏を「此土」で言ったとき、それはもはや、此土(一仏土)の仏法ではないということですね。

そこから結論すれば、日蓮本仏とは、似非仏であるという結論が容易に導き出されることになるわけですね。

この点を乗り越えるために寛師は久遠釈尊=日蓮という‘一仏論’を展開したわけですね。

ところが、近代の教学は、この点を読み誤って、釈尊と日蓮を別々の仏であるとし、さらには日蓮は釈尊の師匠仏であるという珍妙な説まで展開したわけでした。この時点では、一仏土一仏という鉄則を知って論を展開した寛師以上に、逸脱をしてしまった近代石山(学会)教学史があるということですね。

180愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 18:36:41

犀角独歩さん、どうもです。
蓮祖は一世界一如来の原則にしたがって、娑婆世界有縁の仏は釈迦牟尼仏一人と決められたんだと思います。故に相伝書・口伝書と称する、まるで蓮祖自身が釈迦牟尼仏に取って代わるような事を暗示させる書を残すはずがないと思います。
本仏も何もない。娑婆世界に仏は釈迦牟尼仏唯お一人。これが終生変わらぬ蓮祖のお立場であったと理解しています。

181無徳:2005/02/15(火) 02:47:47
愚鈍凡夫さん今晩は、私はいま『三重秘伝抄』を読みながらこの拙文を
書かせていただいています。

先日(2月6日)は犀角独歩さんの計らいでオフ会を兼ねた島田裕巳氏
の私的体験と創価学会に関する試論とも言うべき講演を聴く機会を得さ
せていただきました。

オフ会に参加する前に島田氏の著書である『創価学会』を読んでいまし
たから、将来のことはともかく、現在時点で島田氏の創価学会論に大き
な期待をすることは無理であると思っていましたので、島田氏の人とな
り知ることを出来たことが収穫でありました。

ただ、島田氏がいま「御書」を読み進めているとの事でしたので、いず
れ氏が書くであろう「日蓮論」?とも言うべき著書に大いなる期待を抱
いております。

それにしても『三重秘伝抄』を読みながら、あらためて愚鈍凡夫さんと
私の日寛教学に対する理解の違いを確認せざるを得ませんでした。
そのことは173にも書きましたが、私が自称日蓮本仏論者でありなお
かつ天台本覚論的要素のある真偽未決の御書や相伝書等を排除せずに、
日寛教学を理解しなおかつ高く評価もし、その説かれているところの内
実とも言うべきものを信じてもいるのですから当然と言えば当然のこと
と思われます。

したがって、私の現在時点の教学的能力では日寛上人が説かれるところ
の諸説・所論に対し疑義を差し挟むところはあまり有りません。

ただ、島田裕巳氏との共著で『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』なる
本を出した橋爪大三郎氏が、かつて『仏教の言説戦略』なる著書を出して、
ヴィトゲンシュタインの<言語ゲーム>理論をモデルに仏教を社会学的に
読み解くという野心的な試みをしています。

その著書の中で、仏教を<悟りを訊ねあうゲーム>であるとする、あらた
な視点で読み解こうとする作業をしつつ、イスラムやキリスト教との違い
を浮き彫りにしようと試みています。

次回には、私も<悟りを訊ねあうゲーム>と言う橋爪氏の試論を借りて、
総本山の宗門としてのあり方や、教義の問題点を浮き彫りにしたいと考え
ています。その中であらたな日寛教学の解釈や位置付けが可能になるかも
知れません。

182愚鈍凡夫:2005/02/15(火) 12:02:30

無徳さんどうも。レス有り難うございました。
「六巻抄」を読みながら、お気づきの点などを色々と御教示下さい。

183無徳:2005/02/15(火) 23:21:08
橋爪大三郎氏は仏教をインドにおけるお釈迦さんが<悟った>とされる
悟りの内実を追体験して自分も悟りたいと念願するサンガたちによる、
<悟りを訊ねあうゲーム>であるととりあえず規定したのだと思います。

しかし、お釈迦さんは自らの悟りの内実を言葉にする事の困難さを充分
に知っておられたため、最初はなかなかお説きにならずに沈黙されてい
ましたが、再三の弟子たちによる懇願に応えられ様々な比喩を屈しして
自らの悟りの内実を語り始められとするのが<悟りを訊ねあうゲーム>
の出発点と言えるのではないかと思います。

では、なぜお釈迦さんは悟りの内実を直接的な言葉で言い表す事が困難
とされ、多くの比喩を用いられたのでしょうか?

つまり、この事は言語に纏わる人間の認識能力における最大のアポリア
であることを意味しているのだと思います。そして、それは西洋哲学に
おいても人間の認識がどこまで真理に到達できるかという、人間の認識
能力の限界という最も困難な課題を意味する事柄だと思われます。

そして、いよいよインドに誕生した<悟りを訊ねあうゲーム>はインド
から中国そして日本へとわたるに随って、大乗仏教というまさに豊饒な
る言語の山脈を形成し、様々な困難を乗り越えてついに<言語ゲーム>
はクライマックスを迎へたと私は考えています。

さらに、私自身が現在に生きる意味とは、この<悟りを訊ねあうゲーム>
という<言語ゲーム>のクライマックスに参加し立ち会っているのだとい
う思いがしてしかたありません。

つまり、日蓮仏法との出会いと日寛教学を現在学ぶことの本来的意味は
<悟りを訊ねあうゲーム>の最終章に立ち会っているということなのか
も知れないということです。

そして、このことの意味は他者から見れば幻想に過ぎないと見られる事
でしょうが、あくまで自分自身にとっては<言語ゲーム>の完了であり
悟りへの道程の最終章でもあると思っています。

184無徳:2005/02/15(火) 23:22:07
続きです。

しかし、そのためにはどうしても突破しなければならない大きな課題と
壁があるのです。

それは、成功したか否かは別としてヴィトゲンシュタインが為したよう
に、人類が築き上げた既存の言語体系(哲学)をまずもって一旦は解体
せんとしたことをモデルにして、我々も現在の日蓮正宗の宗門が絶対化
している言語体系である既存の教学、そしてそれは私が現在学んでいる
日寛教学も含めて一旦は解体し、相対化する必要があると考えています。

なぜかならば、宗門の僧侶や法華講に属する在家信徒たちまでが宗門の
法主を法水写瓶であり唯受一人の血脈付法にて「戒壇本尊と不二の尊体」
とまで形容して法主を絶対なる存在に仕立て上げてしまったため、それ
らが日蓮正宗という体制内言語として、つまりはイデオロギー化してし
まった結果、創価学会や正信会さらには顕正会等を次々に破門に処し、
更には正本堂や大客殿等々信徒のまごころで寄進した建造物を殆ど破壊
するというアナクロニズム的な暴挙に打って出る始末です。

しかしながら、かつては創価学会や正信会さらには顕正会等もそのよう
な体制内言語を当然としていたのですから、皮肉な結果ではありますが
今も創価学会や顕正会もそれぞれの長を絶対化するという同じ過ちを犯
しているわけですから、その意味で富士宗門全体が言語(教学)を含め
て現体制を一度解体して出直すことが肝要であり、そうでなくては何時
までも<悟りを訊ねあうゲーム>を終焉させることは出来得ないであり
ましょう。

もっとも、<悟りを訊ねあうゲーム>つまりは<言語ゲーム>に終焉は
もともとあり得ず。人間にとって「悟り」などありえないとする言語も
あり得るのかも知れません。

186愚鈍凡夫:2005/03/20(日) 17:01:12

> 日寛上人が正しく書写された御本尊を正しい信力・行力で拝み、厳然と仏力・法力に浴している学会員に、何一つ足りないものなどないのである。

「ふむふむ。創価学会には、カルト宗教として何一つたりないものなどないのか・・・・」
メモメモメモ_φ(._.φ(゜-゜;φ(._.φ(゜-゜;φ(._.φ(゜-゜;)カキカキカキ

187一字三礼:2005/03/20(日) 20:44:50
> 185

ハンドルネームから想像するに、浄土門の方のようですね。ただ何を主張されたいのかよくわかりませんが「究極の奥義」ってなんか凄そうですね。

「究極の奥義」を会得する為にはやっぱり、がんばって座談会に出て、体験発表して、濁悪の歌うたって、強制新聞5部くらいはとらないとダメかもしれませんけど。

191愚鈍凡夫:2005/03/21(月) 12:15:56

法蔵さん、初めまして。
続編の投稿がない。期待しなかった方が良かったかな。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

小生は、日蓮正宗が新手の「密教」で、創価学会が正真正銘のカルト宗教であると言っているように受けとれましたが・・・・・。

193犀角独歩:2005/03/22(火) 12:01:14

かつて創価学会は、戸田さんを中心に国立戒壇を目指し、(公称)75万世帯を達成。その後、池田さんに継承されて(公称)750万世帯。その後、昭和42年、正本堂供養を行い、800万人実名供養名簿とともに500億円近い金額を集め、同47年に正本堂建立。この段階で、石山・学会は国立戒壇の名称を放棄。しかし、この段階で創価学会側が固執したのは正本堂が事戒壇であるか否かという点でした。石山は事戒壇を「願って」の範囲に留めたわけです。その後、正本堂は解体されるも、それまでの主張であった民衆立戒壇についても、論じられることはなくなり、今日に至っています。

唱題行はまだ盛んなことから本門題目義は存していることになるのでしょう。また、三大秘法本尊とその呼称を代えるも、まだ本門本尊義は存していることになります。

では、上述した本門戒壇義については、まったく不問とされることになります。
投稿で紹介された「四大秘法」なる造語が何を意味するのか、ここでは、どうでもいいことであるけれど、では、本門戒壇義(解体された正本堂に変わる事戒壇)を、現学会教学が欠くとすれば、これはもはや、三大秘法とは言えず、二大秘法と言うことになります。となれば、一つ足した四大秘法を糾弾するのよいとしても、一つ欠いた二大秘法はどうなるのか、という問題は少しも解消されていないことになるがこの点はどうでしょうか。

このように記すと、「本尊を安置する場が戒壇である」という反論は、当然怒るわけでしょうが、これはしかし、寛師の言う義・戒壇であり、事戒壇ではないわけです。この点を現学会教学は、未だクリアしていません。

三大秘法惣在本尊とは弘安2年大本尊であることは火を見るより明らかであり、これを一大秘法に束ねて、究竟の本尊とするのが、寛師教学です。つまり、この彫刻本尊を抜きにした寛師教学などあり得ないわけです。また、この本尊顕彰の表裏を為すのが、唯受一人血脈相承で、石山歴代のみが正統師である、また、富士戒壇・本門寺と共に、その主張であるわけです。

わたしは、取るに足りない寛師教学から、学会が脱皮していくことに対しては薦めるところです。その場合、しかし、会員頒布用の印刷本尊は寛師書写という点は、高いハードルと思えます。

戒壇義無き二大秘法教学、そして、彫刻本尊・唯受一人顕彰の寛師教学を学会が是認することは、まったく自己矛盾であり点を、それこそ、寛師の六巻抄すら読まない会員の教学レベルの低さで露呈しないという構造を、ここに見ます。

それにしても、いまどき、創価学会が、寛師教学を取って、石山を批判すれば、その返す刀で自ら斬り殺すほかない点に、いまだ気付けないとは、笑止千万というほかありません。寛師教学から脱却は、創価学会が今後を歩んでいくための必須条件であることは、その著述を熟読すれば、すぐに気付けることでしょう。

不都合なところは全部改竄、削除して用いるというのであれば、話は別です。しかし、少なくとも、現段階で創価学会が寛師教学を用いれば、既にそうなっている構造があることを、少しでも寛師を学んだことがある人であれば、直ぐに理解することができるでしょう。

194犀角独歩:2005/03/23(水) 00:44:26

しかし、三大秘法、就中、一大秘法、すなわち、弘安2年彫刻本尊、この問題を語るのであれば、是非とも『本尊抄文段』でやりたいですね。
寛師の文段・愚記はなかなか面白い、大いに議論したいと思います。

まさか、読んでない?なんてことはないでしょうね(大笑)

195吉祥仙人:2005/03/23(水) 06:29:54
 まさかの、読んでない人間なので、ロム専門にさせていただきます。

196犀角独歩:2005/03/23(水) 08:16:34

以下、nbさんの資料室に置かれています。
お読みになってみては如何でしょうか。

観心本尊抄文段上
http://nakanihon.net/nb/honnzonnsyoumonndann.html
観心本尊抄文段下
http://nakanihon.net/nb/honnzonnsyoumonndannge.html

その他
http://nakanihon.net/nb/gorekidai.html


付言します。
文底秘沈抄以上のものはないそうですが、同文段には

「当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」

とあります。一瞥すればわかるとおり、文底秘沈抄のみにその相伝があるわけではありません。また、先立つ、精師は家中抄に

「日目天奏の為に上洛せんと欲す当宗嫡々法門相承どもを日道に付属す、其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云はく。
日興御さくの釈迦一そん一ふく/御しゆうそく/日興の御ふみ一/授職灌頂きりかみ/結要付属きりかみ/三衣の相伝/三衣の口決/廻向口伝/広裳衣相伝/念珠の相伝/今此三界きりかみ/蓮師名相の口伝/大黒のきりかみ/日蓮弘法日興付属きりかみ/天台大師四十八の起請文/当家神道きりかみ/日文字のけいづ/佐渡妙泉寺日満と申す付弟のきりかみ/大聖人の父母の御事きりかみ/日円の御本尊一ぷく/日番御本尊一ぷく/高祖の仏法修行の習ひきりかみ/十羅刹のきりかみ/三衣授与のきりかみ/日興上人の御自筆御経(ありと云ふ事以後の証文になるべし)。/大石寺のさしづ/二字の習のきりかみ/観心本尊抄の合文/三大秘法のきりかみ/本尊相伝のきりかみ/愚者が日文のきりかみ
日目御自筆今当山に在るなり」

と相伝を語ります。この実否を言うところではありませんが、少なからず、精師の何代か跡を取った寛師が、この内容を知らないわけはなく、しかし、これら一切が文底秘沈抄に記されてはいません。

また、完則の大石寺宝蔵目録には、

「日目上人記 宗祖孫弟日興弟子大石三祖 云高祖開山両師相伝切紙目録 一授職灌頂切紙 一結要付嘱切紙 一三衣相伝 一回向口伝 一念珠相伝 一今此三界切紙 一蓮師名相之口伝 一大黒切紙 一日蓮仏法日興付嘱切紙 一当家神道切紙 一日文字之系図 一佐渡妙泉寺日満申付切紙 一大聖人父母之御事切紙 一高祖仏法修行習切紙 一十羅刹女切紙 一三衣授与切紙 一二字之切紙 一観心本尊抄切紙 一三大秘法切紙 一本尊相伝切紙 已上大石寺宝蔵有之」

とあります。
もちろん、わたしは、これら相伝類の正当性を論ずることを目的とするのではありません。寛師の時代、既にこのような切紙相伝、相承は成立していたわけです。となれば、子細の相伝はこのような切紙、もしくは口伝をもって相承されていたことはほぼ確実です。つまり、文底秘沈抄一抄に限らず、以上のような形式で伝えられていたのでしょう。先にも記したとおり、七箇相承、三度相伝のように図示して具体的な書き方を示されていますが、漫荼羅書写を本山住職の権能に据える石山では、当然、この書写儀式に就き、何らかの秘伝があったとしても不思議はないでしょう。(ただし、それが蓮興嫡々と伝えられた形跡は見当たらない)

いずれにしても、寛師教学は「弘安二年十月十二日本門戒壇の大御本尊」を究竟漫荼羅として構築されたものである以上、その彫刻本尊そのものが偽物であれば、一切合切は灰燼に帰するわけで、いまさら、寛師、就中、文底秘沈抄を最高だと言ったところではじまりません。

既にわたしは、この(現在の)彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本とし、臨模・作為して制作されたものであることを明らかにしました。
よろしく、この事実を受け容れ、自身の信仰を再考することを勧めるばかりです。

199大盛:2005/03/23(水) 19:41:09
日寛が知識人に通用するわきゃないのだ

200大盛:2005/03/23(水) 20:58:16
185と197は違う人間が書いているな、たぶん。
クズビラがフェイク紙にかわったんはなんで???

205顕正居士:2005/03/24(木) 09:43:14
松岡雄茂師の文章というのはこれでしょう。

http://www.nichiren.com/ronbun.html

まあ日蓮正宗の宗学の範囲内の議論といってよいでしょう。

206顕正居士:2005/03/24(木) 09:51:37
コピペ投稿

本文がなく、引用のみで、かつ引用元を示さない投稿は著作権を侵害していますから
投稿のルールにこのことを示しておかれるのがよいかとおもいます。

208彰往考来:2005/03/24(木) 16:02:26
>207

犀角独歩さん、

件の文章はフェイク第586号でしょう。

http://www.sfken.net/easyBBS/bbs.acgi?r=room_02&BBS_MSG_050319164432.html

210犀角独歩:2005/03/24(木) 16:24:41

彰往考来さん、ご教示、有り難うございます。
なるほど、こんな他での投稿があったということですか。
顕正居士さんが仰るよう出典不掲載のコピペであったわけですか。
ようやくと謎が解けました。

211愚鈍凡夫:2005/03/26(土) 01:53:37

聖教新聞の「寸鉄」って、結構笑えるネタが多いのですが、これを書いてる御仁はギャグの意識がないのが、ちょっと怖いかも・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ

寸鉄2004年7月から
http://www.geocities.jp/unofic/04bsunt.htm

213犀角独歩:2005/03/26(土) 02:11:16
愚鈍凡夫さん、

> 寸鉄2004年7月から

こんなの本当に活字になっているんですか! 冗談でしょう。
これを読んで、学会員は、変とも何とも思わないわけですか。
これはこれは(爆笑)

219管理者:2005/04/08(金) 06:19:10

法蔵さん
犀角独歩さん
皆さん

185の法蔵さんによるコピペ投稿は、著作権を侵害している恐れがあります。このまま放置いたしますと、掲示板管理者が管理責任を問われる恐れが有りますので、誠に申し訳有りませんが、削除させていただきたいと存じます。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

なお、この措置に伴い、犀角独歩さんの189、192、198、201、202、204、207、215。法蔵さんの197のレスが、意味不明となりますので、誠に申し訳ありませんが、合わせて削除させて頂きます。

ただし、この削除は規約に抵触したための削除ではなく、当掲示板運営上の必要性からの措置ですので、必要に応じて、現ルールに抵触しない形で再投稿していただくことを遮るものでは決して有りません。どうか宜しくお願い申し上げます。

220藤川一郎:2005/04/08(金) 10:13:28
>>213
本当です(爆)。
さて寸鉄ですが、我が家には、私が料金を支払ってもいないのに、毎日聖教新聞が届きます。
寸鉄は、月〜金の平日は最後には必ず「坊さん批判(就中、日顕上人)ネタ」があり、
土日は多少お休みして、政治家批判ネタになる場合が多いようです。
しかし、毎日毎日すごいね。

221藤川一郎:2005/04/08(金) 10:14:11
なお、これ以上は、スレ違いなので、ここで中止します。

222犀角独歩:2009/02/01(日) 11:21:22

偶ロム偶ログさんが紹介された『現代宗教研究』第42号P329所収「『六巻抄』の構造と問題点(5)―「依義判文抄」を通して(その1)―」を通読。

小編ながらよくまとまっています。
早坂師とは『顕正会についてⅡ』で執筆を共にしました。
現代宗教研究所主任を経、現在は研究員だったと記憶します。
数年来『六巻抄』研究を手がけています。

創価学会・顕正会を含む大石寺圏の僧俗には、『六巻抄』は他派を完全に破折した完璧な書であると信じ込まされており、<破折宣言> → <大石寺は正しい> というトコロテン短絡思考の元祖のような存在。

日寛の記述はたしかに、それなりの構造を有し、理が尽くされている…、と見えます。それは文章がうまいこと、何より構成がうまいことが、その理由でしょう。しかし、どんなに人を感動させる文学や映画も、虚構であるように、いかに大石寺僧俗を虜にしようと虚構は虚構にすぎません。

信心で読むとアラもわからないが、日蓮教説から割り出した教学から見れば、他愛もない虚構であることは了解できます。

今回の所収分の結論に、早坂師は、シニカルな一言を放っています。

…こうして、三大秘法の文証論、教証論を説くべき「依義判文抄」の序においても、堅樹日寛の己義、曲会私情の釈であり、「依義判文抄」というより、むしろ「己義判文抄」といえましょう。(P345)…

適正な結論です。

日寛が死ぬときに蕎麦を食ったら自分がいったことは羅什の舌が焼けないのと同様、すべて真実だとか遺言したといいますが、破戒僧羅什の舌が焼け残ろうが、日寛が蕎麦を食おうが、そんなことは訳釈の是非と何ら関係ありません。

「日寛は己義判文」という早坂師の嘆息はしかし的を射ています。
そもそも依義判文という解釈の態度がすべての誤りの元となっています。
解釈に供する義が己の好いように考えられたところから文を判(解釈)じようというのだから、まことに厚かましいと言わざるを得ません。

わたしが高校生の頃、創価学会では、池田本仏論がまことしやかに囁かれていた。こう言われたものでした。

「御書にある釈尊はすべて日蓮大聖人と読み替えるのが文底読み。そうすれば日蓮本仏論はわかる。
 同じように、御書にある日蓮はみな池田先生と読めば、創価学会の正しさはわかる」

創価学会の都合のよい義によって文を判じると、どうにでもいいように解釈できたわけです。

しかし、日蓮の教説は、そうした読者側の勝手な解釈に併せて、その遺文を読んでもわかりません。

当たり前すぎる話ですが、日蓮の遺文を虚心坦懐に拝し、その文から意義はくみ取るのが在り方です。つまり、依義判文ではなく依文判義こそ、正当な理解です。

依義判文などといって憚らない日寛の教学的態度は、仏教を学するものとして落第なのです。

しかもいえることは、日寛のこのふざけた手前勝手な解釈は、いまも依然として創価学会・顕正会を含む大石寺圏に蔓延していることです。

彼らのいうところ、日蓮といい、日興というとも、結局、自分たちの都合よく解釈した己義判文です。受けて立つ側がいくら依文判義で立ち向かっても、元とするところは己義私情からでた勝手な考えに基づく押しつけです。

ならば、どんな明証、明文をもってしても好いように解釈して「自分たちが正しい」「破折済み」だなんだと、お得意のトコロテン短絡思考でおしまいとなります。結局は、いまの信者たちの短慮の元祖は、このふざけた日寛の解釈をなす態度にその起源があったわけです。

よって、今日、早坂師が、堅樹日寛を批判することは、日蓮の真意を見出すうえで実に意義のある作業であると、わたしは評価します。

223北斗:2009/11/26(木) 00:11:43
素朴な疑問スレか、こちらか迷いましたが、こちらにレスします。

早坂鳳城さんの「『六巻抄』の構造と問題点(二)「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して」

を現代宗教研究所ホムペで見ました。(携帯で見てるせいか、現代宗教研究第37号(平成15年3月)より後年のは見れないんです(┰_┰))


早坂先生の指摘によると、日寛による御書等の「改竄」がありますよね。

この「改竄」している時点で、もはや日蓮を裏切っている事にはならないのでしょうか?また、そのように石山一家は感じないのでしょうか?

そんな日寛教学を持って「自分達が正しい」とよく豪語できるな〜と、つくづく思います。


で、石山一家はこの「改竄」について、どういった解釈しているのでしょう?

224顕正居士:2009/11/26(木) 11:52:54
遺文ではなく『修禅寺決』です。日蓮の前後に成立した日本天台文書で、
「臨終の一心三観」として唱題を勧めています。早坂師のいうのは
「南岳大師。以一念三千觀本尊。付智者大師。所謂繪像十一面觀音也」です。
これは史実ではないでしょうが、唐代には十一面観音像が多く作られました。
その文の後はなぜ阿弥陀仏でないのか、観音・弥陀は一体の異名であるから
と続きます。
日寛には「一念三千を観じるための本尊」(観心の本尊)を「一念三千の本尊」
(一念三千=三秘惣在の本尊=我山の例の曼荼羅)というレトリックはあって
わざと「觀」を落としているというのは、そうかも知れないですが。

225北斗:2009/11/26(木) 19:08:49
顕正居士さん


>遺文ではなく『修禅寺決』です。

確かに、その部分も早坂さんの論文では指摘されてました。

しかし、「文底秘沈抄」本門の戒壇編を通して」では「三大秘法抄」を日寛が改竄していると指摘しています。
その部分を引用します。

>次に『三大秘法抄』には、「事の戒法と申すは是れなり」とありますが、☆堅樹日寛は、「正しく事の戒壇とは」と戒法を戒壇に改竄し、宗祖の御書の如き言い回しで述べていますが☆、これは、法の理論と場の理論にすり替えたのに他なりません。
『三大秘法抄』の「懺悔滅罪の戒法のみならず」を堅樹日寛は、「懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず」と「戒法」を「処なり」と改竄し、同じく宗祖の御書の如き言い回しで述べ、法の理論を場の理論にすり替えています。
 また、『三大秘法抄』に云くと、言いながら『同抄』の改竄が見られます。それは、原文の「三大秘密の法を持つて」を「三大秘密の法を持たん時」と改竄している所です。


このように指摘されています。

>「三大秘密の法を持つて」を「三大秘密の法を持たん時」と改竄している所です。

この部分は、私自身、調べました。

確かに、改竄しています。


「法を持って」と「法を持たん時」では、随分意味合いが変わると私は思います。

そして、真偽未決ではあるものの「御書改竄」したってのは日蓮に背く行為だと思うのですが…。

また、それを「教学決定版」のように使う石山一家に義はなしと判断しています。

226顕正居士:2009/11/26(木) 23:09:23
北斗さん。

「秘法抄に云く」の引用は「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん」を
はしょっていますが、それは「王臣一同に三秘密の法を持つ」ことと別のことではなく、
依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。

227北斗:2009/11/27(金) 01:20:23
顕正居士さん


>依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。




なんか腑に落ちないですね。

早坂さんの解釈だと、

>『三大秘法抄』には、「事の戒法と申すは是れなり」とありますが、☆堅樹日寛は、「正しく事の戒壇とは」と戒法を戒壇に改竄し、宗祖の御書の如き言い回しで述べていますが☆、これは、法の理論と場の理論にすり替えたのに他なりません。


「戒法」と言っている文を「事の戒壇」などと「改竄」してるのが単なる「省略」ですか?

全く、意味合いが変わって来ますよね。


また、『三大秘法抄』の「懺悔滅罪の戒法のみならず」を堅樹日寛は、「懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず」と「戒法」を「処なり」と改竄し、同じく宗祖の御書の如き言い回しで述べ、法の理論を場の理論にすり替えています。



これも「単なる省略」ですか?


三大秘法抄全文を、別の書にて引用しているからと「改竄」(省略?)するってのは、どうも、腑に落ちないです。

228北斗:2009/11/27(金) 01:29:07
顕正居士さん


もうひとつお尋ねしたいです。

>依義判文抄には全文を引いていますし、文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない
人はあり得ないので、単なる省略であって意図はないものと思います。


「持って」と「持たん時」じゃあ、省略とは言わないのではないでしょうか。

全く意味合いが変わってしまいますよ。

いくら、別の書で三大秘法抄引用しているからと言っても、「文底秘沈抄を読む人で三秘抄の文を知らない人はあり得ない」
なんて、なんで言い切れるのでしょう?

229顕正居士:2009/11/27(金) 02:42:07
戒壇者王法冥仏法仏法合王法王臣一同に三秘密の法を持て(有徳王覚徳比丘の
其乃往を移末法濁悪未来)時勅宣並御教書を申下て尋似霊山浄土最勝地可建立
戒壇者歟可待時耳事の戒法と申は是也

{王臣受持→勅宣並御教書→尋最勝地→建立戒壇}=事の戒法 ということです。
「事の戒法」とは理戒に対する事戒の意に非ず、戒壇建立のことなりとの意味です。

この文を暗記していない人が六巻抄を披くことは当時に於てあり得ません。
六巻抄は漢文です。()を省略すれば「持たん時」と訓むことになります。

230北斗:2009/11/27(金) 04:11:37
顕正居士さん


なんか、納得出来ません。

しかし、私は漢文読めないので反論できませんので「持たん時」の解釈が正しい事にしておきます。


しかし、他のはどうですか?

231北斗:2009/11/27(金) 04:28:20
とは言ったものの、早坂鳳城さんが「漢文読めない」なんて有り得るのかな?

まして、日蓮宗現代宗教研究所の方…。

う〜ん…。

232犀角独歩:2009/11/27(金) 04:33:14

ありませんよ(笑)
もちろん、読めます。
現宗研の元主任です。

師の『六巻抄』講義は、数度、拝聴していますが、主張は、仰るとおり、日蓮の原文の改竄と牽強付会です。

233顕正居士:2009/11/27(金) 06:28:47
三秘抄は日蓮党があるていどの勢力になってから、三井寺の三昧耶戒壇に倣って
山門からの独立を述べた文書だと考えます。日蓮の思想の正規の発展ではあるが、
これだけが三秘中の戒壇の正釈とはいえないから、三秘抄自体を批判するのは
よいのですが、日寛の解釈に別に問題はありません。

日寛の宗学の難点は三秘の中心を本尊とすることです。三秘は戒定慧ですから
どれを取ることもできますが、やはり三秘惣在という際は題目だろうとおもいます。
ここで戒壇が関係して来るので、戒壇とは一箇の事壇であるから、その戒壇本尊と
いう一箇の本尊があるべきで、それは我山の例の板曼荼羅である、そしてこれが
あるから我山は日蓮宗の総本山なりというわけです。しかしそういう理屈が成り立つ
としても、我山の板曼荼羅に客観的な由緒がありませんし、壇信徒にしか通用しない。
日蓮自身のアイデアとしては三位日順の曼荼羅は戒壇の図というのが妥当と思う。
三秘惣在は通常皆が題目とするのに無理に本尊とするのはこういう我田引水に
持っていくためである。そして後世に我田引水のほうが教義になってしまい、日寛の
すぐれた部分が台無しになっていると感じるわけです。

234北斗:2009/11/27(金) 07:13:40
犀角独歩さん


>もちろん、読めます。
現宗研の元主任です。


ですよね〜。読めない訳がないですね(笑)

早坂さんに、大変失礼な発言してしまいました(泣)。


>主張は、仰るとおり、日蓮の原文の改竄と牽強付会です。


私が、知る限り(早坂さんの論文で、私が見れる資料の範囲ですが)改竄を4ヶ所ほど確認しました。

早坂さんが指摘された箇所を、当該御書と六巻抄とで比較しました。

やはり、意味が変わってしまう「省略」は「改竄」だと思います。

235北斗:2009/11/27(金) 07:25:59
顕正居士さん


>日寛の解釈に別に問題はありません。


いやぁ、宗祖の遺文を改竄してまで自分の解釈に論拠があるようにしないといけない「日寛の解釈」は、大いに問題ありだと私は感じますけどね。


>そして後世に我田引水のほうが教義になってしまい、日寛のすぐれた部分が台無しになっていると感じるわけです。


いくら優れていても本仏と崇める「日蓮」の遺文を改竄したら、それこそホーボーではないでしょうか。

と、いうか私には日寛の優れた部分ってのが、よく理解出来ません。

236天蓋真鏡:2009/12/04(金) 10:50:01
漫荼羅は 法華経伝播を説明する図であって 戒壇堂の配置では無いと考えたいです。 弟子檀那への戒壇であって堂宇指図では違うのでは無いかと。 五重塔中心指図は斬新過ぎます

239a:2016/08/22(月) 09:58:49
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