[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
六巻抄について
222
:
犀角独歩
:2009/02/01(日) 11:21:22
偶ロム偶ログさんが紹介された『現代宗教研究』第42号P329所収「『六巻抄』の構造と問題点(5)―「依義判文抄」を通して(その1)―」を通読。
小編ながらよくまとまっています。
早坂師とは『顕正会についてⅡ』で執筆を共にしました。
現代宗教研究所主任を経、現在は研究員だったと記憶します。
数年来『六巻抄』研究を手がけています。
創価学会・顕正会を含む大石寺圏の僧俗には、『六巻抄』は他派を完全に破折した完璧な書であると信じ込まされており、<破折宣言> → <大石寺は正しい> というトコロテン短絡思考の元祖のような存在。
日寛の記述はたしかに、それなりの構造を有し、理が尽くされている…、と見えます。それは文章がうまいこと、何より構成がうまいことが、その理由でしょう。しかし、どんなに人を感動させる文学や映画も、虚構であるように、いかに大石寺僧俗を虜にしようと虚構は虚構にすぎません。
信心で読むとアラもわからないが、日蓮教説から割り出した教学から見れば、他愛もない虚構であることは了解できます。
今回の所収分の結論に、早坂師は、シニカルな一言を放っています。
…こうして、三大秘法の文証論、教証論を説くべき「依義判文抄」の序においても、堅樹日寛の己義、曲会私情の釈であり、「依義判文抄」というより、むしろ「己義判文抄」といえましょう。(P345)…
適正な結論です。
日寛が死ぬときに蕎麦を食ったら自分がいったことは羅什の舌が焼けないのと同様、すべて真実だとか遺言したといいますが、破戒僧羅什の舌が焼け残ろうが、日寛が蕎麦を食おうが、そんなことは訳釈の是非と何ら関係ありません。
「日寛は己義判文」という早坂師の嘆息はしかし的を射ています。
そもそも依義判文という解釈の態度がすべての誤りの元となっています。
解釈に供する義が己の好いように考えられたところから文を判(解釈)じようというのだから、まことに厚かましいと言わざるを得ません。
わたしが高校生の頃、創価学会では、池田本仏論がまことしやかに囁かれていた。こう言われたものでした。
「御書にある釈尊はすべて日蓮大聖人と読み替えるのが文底読み。そうすれば日蓮本仏論はわかる。
同じように、御書にある日蓮はみな池田先生と読めば、創価学会の正しさはわかる」
創価学会の都合のよい義によって文を判じると、どうにでもいいように解釈できたわけです。
しかし、日蓮の教説は、そうした読者側の勝手な解釈に併せて、その遺文を読んでもわかりません。
当たり前すぎる話ですが、日蓮の遺文を虚心坦懐に拝し、その文から意義はくみ取るのが在り方です。つまり、依義判文ではなく依文判義こそ、正当な理解です。
依義判文などといって憚らない日寛の教学的態度は、仏教を学するものとして落第なのです。
しかもいえることは、日寛のこのふざけた手前勝手な解釈は、いまも依然として創価学会・顕正会を含む大石寺圏に蔓延していることです。
彼らのいうところ、日蓮といい、日興というとも、結局、自分たちの都合よく解釈した己義判文です。受けて立つ側がいくら依文判義で立ち向かっても、元とするところは己義私情からでた勝手な考えに基づく押しつけです。
ならば、どんな明証、明文をもってしても好いように解釈して「自分たちが正しい」「破折済み」だなんだと、お得意のトコロテン短絡思考でおしまいとなります。結局は、いまの信者たちの短慮の元祖は、このふざけた日寛の解釈をなす態度にその起源があったわけです。
よって、今日、早坂師が、堅樹日寛を批判することは、日蓮の真意を見出すうえで実に意義のある作業であると、わたしは評価します。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板