[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
六巻抄について
183
:
無徳
:2005/02/15(火) 23:21:08
橋爪大三郎氏は仏教をインドにおけるお釈迦さんが<悟った>とされる
悟りの内実を追体験して自分も悟りたいと念願するサンガたちによる、
<悟りを訊ねあうゲーム>であるととりあえず規定したのだと思います。
しかし、お釈迦さんは自らの悟りの内実を言葉にする事の困難さを充分
に知っておられたため、最初はなかなかお説きにならずに沈黙されてい
ましたが、再三の弟子たちによる懇願に応えられ様々な比喩を屈しして
自らの悟りの内実を語り始められとするのが<悟りを訊ねあうゲーム>
の出発点と言えるのではないかと思います。
では、なぜお釈迦さんは悟りの内実を直接的な言葉で言い表す事が困難
とされ、多くの比喩を用いられたのでしょうか?
つまり、この事は言語に纏わる人間の認識能力における最大のアポリア
であることを意味しているのだと思います。そして、それは西洋哲学に
おいても人間の認識がどこまで真理に到達できるかという、人間の認識
能力の限界という最も困難な課題を意味する事柄だと思われます。
そして、いよいよインドに誕生した<悟りを訊ねあうゲーム>はインド
から中国そして日本へとわたるに随って、大乗仏教というまさに豊饒な
る言語の山脈を形成し、様々な困難を乗り越えてついに<言語ゲーム>
はクライマックスを迎へたと私は考えています。
さらに、私自身が現在に生きる意味とは、この<悟りを訊ねあうゲーム>
という<言語ゲーム>のクライマックスに参加し立ち会っているのだとい
う思いがしてしかたありません。
つまり、日蓮仏法との出会いと日寛教学を現在学ぶことの本来的意味は
<悟りを訊ねあうゲーム>の最終章に立ち会っているということなのか
も知れないということです。
そして、このことの意味は他者から見れば幻想に過ぎないと見られる事
でしょうが、あくまで自分自身にとっては<言語ゲーム>の完了であり
悟りへの道程の最終章でもあると思っています。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板