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意味論

65千々松 健:2009/12/10(木) 10:02:10
>64
一行目の「WT・TO」を「T0・WS」へ訂正します。
「リスクをチャンスへ・弱みを強みへ」となります。

66プロジェクトラーニング:2009/12/10(木) 13:00:38
トムとジェリーで、トム(ネコ)がジェリー(ネズミ)を追っかけるのですが、ジェリーは壁の欠けた小さな穴を通るのです。体が大きいトムはそこで何もできずに立ちすくむ。千々松さんのオリジナル用語(SWOT分析でより他のフレームで説明した方が良いでしょう)だとWSです。ウィルコムの逆転戦略など事例は豊富にあります。「スズキが小型車しか造れなかった弱みを持っていた」などの認識は、私の指摘したSWOT整理の軽薄さを示すよい例となりましょう。鈴木修氏の発想をご存じですか。造れないのではなく造らないのです。繰り返します。強みを活かすことが真っ先です。ジェリーの認識に体の小さい「弱み」は存在しません。体の小さい「強み」を知恵を効かし活かしたのです。

67千々松 健:2009/12/22(火) 11:30:16
 インテリジェンスの高い人達が全てであれば、たとえ「禁じ手」も許されるのですが、世の中はよく2:8と言われるように、残念ながら8割程度は
言葉どおりに受けてしまい、予期せぬ反応をしがちな訳です。その点を考慮しないと大事は成就しません。
 実際的に禁じ手は生命にも危ないのでルール違反とされていて、武道家自身は「禁じ手」を打っては失格してしまいます。
必要ならば「禁じ手」や「封じ手」は影の参謀がやるものでしょう。
その意味で、鳩山首相と小沢幹事長の関係も捉えてみたら良いのではないでしょうか。
 打ち上げ花火も一度は可能ですが、継続して事業にして行くには、それなりの「人、物、金、情報、市場」の五つの要素が肝要な訳ですから・・・
多少の読み替えは必要になりますが、それは政府である「国家の経営」にも言えることではないでしょうか。
<新政権100日目と冬至を超えて>

68千々松 健:2009/12/23(水) 10:21:57
 本日の朝日新聞に「二人羽織り」で将棋を指している政治風刺漫画が出ていました。
「禁じ手」や「封じ手」は小沢氏が後に居て指していることが見て取れるのですが、まさに鳩山首相との関係を一枚の絵で見事に表現しているので、タイミング的にもびっくりしました。
さて、一昨日は岡本行夫氏が昨日は星浩氏が首相と会っているようですが、対米外交とジャーナリズムの再構築に繋がる切っ掛けとなるのでしょうか? 
今後、注目したいと思います。

69千々松 健:2009/12/23(水) 11:54:50
「カタルトシメス」という松岡正剛氏の表現に出会いました。外国語ではなくて「語ると示す」のことでした。
その意味するところを勝手に解釈すると「語る」とは物語るに通じて、文字のなかった時代から語り継がれた語り言葉になるのでしょう。また「示す」とは何かと考えると、具体的に何かを見せたり、絵に描き示すこと、あるいはノンバーバルで事柄を示すことと考えて良いでしょう。
そうすると、私流には「コトバとカタチ」になります。言葉を左脳で情報処理して、形を右脳で情報処理して、両方の情報処理を繋いでいる間脳(脳梁も含める)が左右を統合しながら処理して、インテリジェンスに定着していくのではないかと想像しています。

70千々松 健:2009/12/23(水) 20:49:57
“多民族の融合によって成る欧米社会にとって、社会的規範の存在は不可欠であり、その成立過程において西洋近代精神も育成されたと言える。実は「数学の論理」こそ、その根底にある。例えば欧米の「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また「必要条件と十分条件」の基本が理解されていなければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」も理解しがたい。
要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい”

以上が『超常識の方法』にて小室直樹氏の言いたかったことの骨子であろう。
そして、付け加えるならば、長く単一民族と信じて疑わないで来た日本人が、この多民族社会の持つ常識に欠けることを自身の「弱み」として認識した上で、何事にも当たる必要があると言いたいのであろう。

71千々松 健:2009/12/23(水) 22:56:17
「キリスト教の精神」と「契約の精神」との関係は多少の説明が必要です。キリスト教の「旧約聖書」はキリスト誕生以前の古い時代での神との契約について書かれたもので、「新約聖書」はキリスト誕生以降の神との契約の書と言えるからです。
決して旧訳・新訳ではなく、「約」は契約の意味なのです。
その契約はまた、人間関係においても、企業関係においても、国際関係においても成立するものです。
その要(かなめ)は何でしょうか? 最近 若き頃の孫正義ソフトバンク社長のDVD講演を聞き、気がつかされた事がありました。
それは何かと言うと、商売は「Win−Winの関係」が重要なことは確かなのですが、最初の切っ掛けはどうであれ、事業がお互い継続化するためには、事前に予知されるリスクの点においても平等に負うべきということです。
例えば、どちらかのみがリスクを持つ、あるいは一方がノン・リスクであるような場合は成功しないという大原則です。
リスクの無い関係はあり得ないのです。リスクをお互いが承知の上で、リスク・マネジメントをして行くことがより自然なのでしょう。
 それにしても沖縄返還に関して、実は「密約」が交わされていたという事実の発覚はショックでした。

72T.N.:2010/02/04(木) 21:56:33
 アップされた新記事”「無血革命」後の日本を展望”拝見しました。鳩山首相の所信表明演説での「無血の平成維新」
という言葉の使い方が批判されています。”維新”はファシストの言葉であり、その意味はクーデターであると。
 ただ、これについては「ジャパン・レボリューション」でも指摘されていますが、”革命”という言葉は”○○革命”
という形で商業的に散々利用され、手垢の付いたものとなってしまった。”回天”は一般には戦時中の兵器を連想させ、
本来の意味と結びつき難い。已む無く消去法で、受け入れられやすい”維新”に落ち着いた、と考えたいところです。
 言葉が水増しされている状況では、本来の意味の解説から始めねばならないのが厄介です。

73千々松 健:2010/02/04(木) 22:11:24
量子力学の父と言われたハイゼンベルグは「部分と全体」の中で、「専門家は、その対象とする部門について非常に多くの知識を持っている人というのではなくて、その専門とする分野において、起こりうる最も重大な間違いを知っており、したがって、いかにしてこれを回避できるかを知っている人である。」と述べて いる。これはまさに「リスク・マネジメントと危機管理」の分野でも大切なことであろう。

昨今のトヨタ自動車のアクセルペダルとブレーキに関する問題は、安全性における危機管理の甘さが露呈してしまったようだ。一方「政治とカネ」の問題は、回避の仕方を十二分に熟知した専門家であるために、一難は去った模様である。

74T.N.:2010/02/18(木) 01:18:20
 中野好夫著「人は獣に及ばず」から
 岩村忍の著書に中国元代の詩人・学者、鄭思肖の「心史」の話が出でいて、その中の一節、当時の元代社会に
おける職業の格付けについて

「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八娼、九儒、十丐」
  (道は道教、丐は乞食・物貰い)

 注目すべきは儒、つまり学者が娼よりも下であること。この基準に従うと、藤原氏が御用学者を批判するのに
使う「インテレクチュアル・プロスティチュート」は褒め言葉になります。

75藤原肇:2010/02/18(木) 22:57:20
音楽の素養が不足しているためだと思うが、気軽なオペレッタのほうが好みに合うせいで、年末にウィーンのブルグ座で「フレーダーマオス」を楽しみ、それで新年を迎えた経験が何度かあった思い出がある。
それでも、旅のつれづれにオペラの興行に遭遇して、かなりの数のオペラを楽しんできたのであり、どんなオペラが印象深かったかと尋ねられれば、「セビリアの理髪師」「マダムバタフライ」「椿姫」「フィガロの結婚」「ラボエーム」と答えそうだ。
ブタペストを訪れたときに幸運なことに、「ラボエーム」を三日連続で興行していたので、三晩立て続けにオペラハウスに通い詰めたように、ロッシーニの素敵なメロディーは魅惑的とはいえ、イタリア歌劇としては「蝶々さん」の方がピンとくるのは、舞台が幕末期の長崎を舞台にしたの話なのと、日米関係をシンボライスしているせいだろう。
また、「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」は共にボンマルシェの作品で、フィガロはウィーンのオペラ座で観劇したが、スカラ座での床屋劇の方がより印象的だった。「椿姫」はパリの古いオペラ座で見たか、ことによるとシャンベリーの劇場だったかも知れない。
セビリアの床屋はフィガロだから続き物であり、問題は「マダム・バタフライ」と「椿姫」であるが、蝶々さんは芸者というよりも娼婦に近い妾であり、椿姫はサロンを主催する高級娼婦である。十九世紀はまだ女性が解放されていなかったので、高級娼婦や妾が女性の生きる道だったから、悲劇の主人公として登場しても不思議ではない。
だだ、彼女たちは文学や歌劇に主人公として登場するが、江戸っ子から軽蔑されたヨタカは絶対に登場せず、私がかつて「電波芸者」についての議論において、田原総一郎や桜井良子を名指しで「電波ヨタカ」と呼び、御用学者をインテレクチュアル・プロスティチュートと呼んだのは、意味論的に厳密な区別をしたつもりだった。
だから、T,Nさんが娼が儒よりも上だと結論付けるのは問題で、娼には芸を身に着けてなる芸者を含む公と、私益のために芸もない私的な娼の違いがあり、御用学者の多くがカネのために走狗として、権力に節操を売るという解釈をしたいのですが、どんなものでしょうか。

76T.N.:2010/02/19(金) 00:31:02
 藤原様、お手数を掛けることになり、大変申し訳ありません。まず、74の投稿目的なのですが、「情報を
発信することの価値」スレッドで書いている私自身、腹立たしく感じる内容が続いていたこともあり、読まれ
ている方にも気分転換になればと思い、書いてみたものです。中野氏の引いている岩村氏の本によると、鄭思肖
自身が学者であり、蛮族出身の元朝では、あまり学問というものを尊重せず、彼も学をもって官途を志したが
挫折に終った。そこでやっかみ、自嘲ということもあり、娼婦の下、乞食の上に置いたらしい。つまり、特殊な
条件下での八つ当り気味の基準を、私が冗談の種に使ってみたというところです。相済みません。

77千々松 健:2010/02/19(金) 11:06:59
<事業仕訳効果を3倍にする方法>
今回の国の事業仕訳における大義名分はムダを無くすことであった。しかし、ゲーテの「当為」=To Doを引用するまでもなく、ムダだけでは収まらないのです。「やりたいこと、できること、求められていることの三つが重なった部分=大切なこと=大事(ダイジ)と呼ぶ」に絞り込むことこそ大義としなければならないと思う。ムダは「やりたいこと且つできることだが求められていないこと」に過ぎない、その他にもカットされるべき対象にムリとムシがある。ムリは「やりたいこと且つ求められていることだができないこと」であり、ムシは「できること且つ求められていることだがやりたくないこと」である。数学の集合論の発想が必要とされるし、それは選択と集中の理屈であろう。

宮本武蔵が“われ、ことに於いて後悔せず”と言い残したことの意味を吟味するとゲーテとの共通性が見出されるのです。
この観点から事業仕訳を行えば、単純面積計算でムダ:ムダ+ムリ+ムシ=1:3となり、3倍のカット効果となるでしょう。事業のスリム化はこの三つのムを無くすことです。『スリー・ム』は3ムに通じると思います。(語呂遊び?)
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/sigoto.htm

78T.N.:2010/02/20(土) 00:43:51
>76 結果的に藤原氏を煩わせることになってしまったのですが、直接に意味論の話を伺えたのは怪我の功名
かとも思えるので、少しだけ続きを。先に引いた本によると、同様の自嘲を晴らした元朝の読書人はほかにも幾
人かいるそうで、順位が多少変わるものの、一官、二吏と、九儒、十丐はつねに不動だとのこと。問題は上位を
譲らぬ官、吏と儒との途方も無い格差。昨日までの貧乏学者が権力の走狗となるや、たちまち富と名声を得る。
この格差ゆえにそうしたことが、昔から続いてきたのでしょう。千々松氏が「日本の回天」スレッド49で引い
た「ルーミー語録」もそれを前提としたものと思います。窮乏の内に死んだとされる孔子の一番弟子顔回の真似
が、誰にでもできるものではない。利用される者の心の貧しさを攻めるだけで、解決することなのか。あるい
は、シャミッソーの「影を売った男」でも思い浮かべるべきなのか。

 新約聖書の”人はパンのみにて生くる者に非ず”、論語で孔子が政を問われて信・食・兵を挙げ、やむを得ぬ
場合はまず兵を去り次に食を去れと説く。いずれも食(経済)よりも大切なものがあるということで、藤原氏の
「理は利よりも強し」に通じるかと思います。ただ私などは、食(経済)を2番目辺りに置いているところに、
しっかりしているというか、したたかな一面を感じます。

79T.N.:2010/03/10(水) 23:05:54
 NHKのTV「クローズアップ現代」で無料ビジネスを取り上げていました。チョコレートを商品に使った実験で、
価格を下げていくのですが、価格が無料になると消費者の行動が予想のつかないものになる。無料というのは有料
の商品と全く違う意味を持ってくる。数学でゼロと無限の取り扱いが厄介なように、人類にとって無と無限は、
まだまだ謎が多い対象のようです(逆に言えば、活用の余地が多く残っている)。

80T.N.:2010/03/13(土) 00:05:10
>「日本の回天」スレッド54 藤原氏が平野氏に託した「ジャパン・レボリューション」の意味をどう解釈するか。
例えば藤原氏が代価を受け取れば、本は商品ですが、無償としたことにより商品とは別の意味を持つものとなった。
藤原氏の言葉を借りれば”平成無血民主革命の行く手を照らす松明”となる。これに近いのは、教会で無償配布され
る聖書でしょうか。

 現在の経済学では無償の価値は測れない(無償のボランティアとか)。料金が無になると、意味の転換が起こり、
有料の商品とは違うものになってしまう。そこで経済より上位の価値を持つものとなったと考えるべきか、経済学
が無の概念を取り込めば説明できるようになるのか。
 ともかく経済学に限らず、無と無限の概念を取り込めれば、大きく視界が広がるような気がします。

81千々松 健:2010/03/13(土) 15:26:31
無は無限を産み、有は有限に終わる。そして更に、非無・非有であれば空が生まれ、そこには永遠の循環が見られるであろう。
その意味で清水博先生が述べている「生命の贈与循環」は正に無償の価値贈与を意味していると思う。
ギブ&テイクは交換価値から貨幣制度を産むが、無償のギブ&ギブは何ら貨幣を必要としない。それは同じく貨幣を必要としなかった物々交換の世界とも意味は違ってくる。
あくまでも「交換」は価値の双方向への移動であるが、「贈与」は一方向の移転となるからだ。
親から子へ、子から孫へ、それは遺伝子のごとく引き継がれていき、その母親の愛が無償であるように、その過程では何らの対価も求められない。
貨幣(マネー)も言葉もコンピュータも人間を幸福にするための道具でしかない。それらの便利性は認めるとしても、その便利な道具たちが主人となって人間を奴隷化してしまっては本末転倒である。どんなことが起きても人間が主人公でなくてはならないと思う。

82T.N.:2010/03/14(日) 21:09:41
>「英語版Japan's Zombie Politicsの出版について」84以降で取り上げられているキンドルを、無料ビジネス
の一例とすると、見事に無と無限の組合せです(実際には擬似的な無と無限ですが)。

・通信料無料で利用者を無限に増やす。
・再ダウンロード無料で、端末1つで無限の本が読める。
・ダウンロードに時間・場所の制約無し、これにより無限の時間・空間内での利用可。

 無と無限を捉えれば、21世紀のビジネスの方向性が掴めるかもしれません。

83千々松 健:2010/03/16(火) 17:01:48
「間脳幻想」を1年ぶりに図書館より借りて観ました。
絵図・イラスト・写真といったビジュアルは全て見開きの左ページに配置されていることが確認できました。
左側にカタチ、右側にコトバというスタイルが徹底していましたから、やはり左脳と右脳の情報処理機能でノーベル生理学・医学賞を取ったスペリーの理論に沿っていると感心しました。
 実は脳活性型ノートである「鎌倉ノート」においても、その考え方に沿った手書き式ノートになっています。
鎌倉と言えば樹齢1000年と言われた鎌倉八幡宮の大銀杏が3月10日に強風のため根元から倒れてしまいました。公暁が実朝暗殺時に隠れた銀杏として歴史に残った木であったのに残念です。
また、若木の生命体から育つことを祈願しましょう。

「間脳幻想」P312からの引用です。
藤原「新しい形態をもって生命体が発展していくメカニズムは、促進物質と抑制物質の攻防戦にあり、それがより高い次元において統一された表現形式がフィボナッチ数列だ、と確信します。」

「生命の贈与循環」により、親樹から子木へ更には孫の木へと遺伝子的に伝わっていくと考えると、フィボナッチ数列が関与するに違いないと思います。
そして、9を法とするモジュラー形式によりフィボナッチ数列を見直せば24項目毎の循環性とFLKM系列の4系列が「賢者の石=霊薬」となって現れたということになるのです。

84千々松 健:2010/03/17(水) 00:07:57
「間脳幻想」からの引用つづき
P130
藤井「量子物理学が素粒子理論を通じて、ハイゼンベルグの世界にたどりつき、易経における太極を物質の究極のモデルとして考える科学者たちが続々と現れています。そのアナロジーを使うならば、おそらく生命現象におけるさまざまなものが、そこにたどりつくだろうし、脳の機能における最後に残っているフロンティアとしての意識の問題も、最終的には陰と陽が統一された太極のモデルの中で、われわれにひとつの解答をもたらすでしょう。」
(原文の大極は太極に変更してあります。太陰大極図の表現もあるようですが、グーグル的には太極の方が圧倒的でした)
クオリア研究者である茂木健一郎が読んでいれば、何とコメントするでしょうか?
P233
藤原「記号論ばかりがもてはやされる日本では、意味論は苦労が多いから、誰もやらない。日本人で意味論に正面から取り組んだのは、弘法大師一人しか居なかった、と言えます。」

フィボナッチ数列から産まれた「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」と「ラセンモデル」は、まさに陰陽の太極を表現しています。そしてカタチとコトバ(数)で或る何かを意味しているのではないでしょうか。

85T.N.:2010/03/18(木) 00:57:04
>82 ネットで調べてみた限りでは、0×∞ というのは定義できない、従って値としても示せないということ
のようです。無料ビジネスというのは、こうしたことを考慮して行っているのかどうか。
 ただ経済的な利が仮に無だとしても、それ以外の面が無という訳ではない。キンドルを例に考えれば、膨大な数
の人々に極めて効率的な読書の機会を提供するわけで、その結果はそうでない場合と比べて、たいへんな違いがあ
る。あまりにも利にだけ着目すると、それ以外の面(特に簡単に測れない要素)を見逃し、誤った評価をすること
になりかねない。歴史上、経済的にも軍事的にも無に等しいような聖人が、後世の歴史を変える程の影響力を持ち
えたのは、測れない面が巨大だったからではないかという気がします。

86藤原肇:2010/03/19(金) 09:54:24
『間脳幻想』は終に出版社において在庫がなくなり、再販予定がないので入手が困難になると思います。その理由は図版が多かったために製作コストが嵩み、一冊作るのに5000円以上も費用がかかったが、内容がそれに値すると落合莞爾さんが考えたので、初版を買った人にプレゼントする意味で本を出し、飼った人に喜んでもらうという配慮があったのです。
だから、ぼろぼろになるまで三冊買い換えたという飯山さんなどは、その恩恵を最大限に満たした読者だと言えるし、多くの人が同じ満足感を味わったと聞いています。熱心に書き込みを続けている千々松さんが、図書館から借りて読んでいたと知り驚きましたが、藤井先生の薫陶を存分に味わうという意味では、本を手に入れて書き込みしながら読めば、より多くの収穫が期待できると思います。
品切れになった今となって唯一の方策は、「宇宙巡礼」の書店を訪れることであり、そこには未来の読者のために何十冊かが確保され、入手可能になっているはずですが、同じことは『ジャパン・レボリューション』にも言えもことでして、後数週間で平野さんとの対談が出れば、たちまち読者が殺到して売り切れてしまうかも知れません。
鳩山や小沢はこの本を平野さんから受け取ったでしょうが、彼らがこの本を呼んで理解するだけの人物なら、日本の政治はもつとまともな形で動いているはずであり、それを正慶さんは草葉の陰で嘆いているのではないかと思います。

87千々松 健:2010/03/20(土) 08:17:48
「間脳幻想」は読めば読むほどに味が出て来て、まるで噛めば噛むほどに滋養となる高級梅干しのようです。
読む人の問題意識に比例して、威力を発揮する不思議な力があるのですね。是非とも手元に置いて書き込みしながら、また時間を置いて何度も読み返しながら愛読して行きたいと思います。

さて「想念力の驚異」(東明社1996年)P30から
塩谷信男「メタでもパラでもないより大きなもので、宇宙の無限力と共に生きること」にヒントを貰いました。
もしや「パラメタ」は般若波羅蜜多のパラミータに通じているのではないでしょうか?
パラ般若でメタ般若が「Infinite Cosmic Power」の意味になるのではないかと思います。
そして、道具も道場も必要としない「正心調息法」はまさに無料で無限を産むという例になると考えました。

88千々松 健:2010/03/20(土) 21:38:40
有機化学におけるベンゼン環の結合には「オルト結合、パラ結合、メタ結合」の3種類が存在し、6角形の核で、隣同志に位置する場合はオルト結合(位)、一つ越えた場合はメタ結合、二つ越えた場合(反対側)はパラ結合と名付けられているそうである。
ギリシャ語が語源であるとされるが、パラについては「パラギャーテー」のパラ(彼岸)に似ているので梵語にも共通するであろう。
パラは両側の、〜の向こうに、〜に似た、という意味もあるし、折り紙のイメージかもしれない。中央の折れ線(川)でもって折ると両側(岸)になるカタチであるので、こちらの岸から、あちらの岸へ渡るイメージになり、
それは陰の世界と陽の世界の違いとの相似象でもあろうか。
お彼岸の季節にあたり、十勝産の小豆のつぶあんで出来たおはぎを食べながら、そう考えた。


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