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近現代史綜合スレ

1204荷主研究者:2020/07/14(火) 21:40:10

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/429836?rct=n_hokkaido
2020年06/11 23:15 北海道新聞
稚内赤れんが通信所修復完了 真珠湾攻撃暗号を中継

屋根を修復した稚内赤れんが通信所のB棟

 【稚内】稚内市恵北にある歴史的建造物「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」(通称・稚内赤れんが通信所)で、壊れていた屋根などを修復する工事が終わった。1941年の日米開戦時、真珠湾攻撃を命じる大本営の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を中継送信したとされる施設で、修復に取り組んだ市民団体は7月以降、一般公開を目指している。

 修復されたのはA〜Cの3棟あるうちのB棟(木造平屋建て480平方メートル)で、中央にシンボルの望楼がある。老朽化が進み、雪害で全体的に屋根が崩れ落ちていた。資金的な制約もあるため、望楼を含む中央部分の屋根や窓を修復し、正面と側面の2カ所に扉も取り付けた。

残り:165文字/全文:455文字

1205とはずがたり:2020/08/19(水) 18:27:37
日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか
国家予算の280倍、今で換算すると…
加谷 珪一 プロフィール
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52599?page=2

1206荷主研究者:2020/09/05(土) 15:00:22

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/448584?rct=n_hokkaido
2020年08/08 05:00 北海道新聞
文化財33件、政令市で最少 札幌市、指定増やす方策探る

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido01.JPG

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido02.JPG
2018年に札幌市の有形文化財に指定された旧札幌控訴院(札幌市資料館)

 国や道、市町村が指定する文化財について、札幌市内は33件と全国20の政令指定都市の中で最も少ない。最多は京都市の2870件。札幌で都市開発が本格的に始まったのは明治時代で、他市に比べて古い建造物や美術工芸品が少ないことが理由とされる。一方で、市は「文化財となるメリットが所有者に周知されていない」として、文化財を増やす方策を検討している。

 市内の文化財は、国指定が旧札幌農学校演武場(時計台)や道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)など17件、道指定は旧永山武四郎邸など4件、市指定は旧札幌控訴院(札幌市資料館)など12件。最近30年間で新たに指定されたものは、市が4件、道は1件にとどまる。

 国や道は、それぞれの文化財保護審議会や市町村の推薦を受けて文化財を指定するが、道の担当者は「札幌市からの推薦が少ない」と説明する。市指定文化財については、市文化財保護条例で「国または道が指定したものを除き、市にとって文化的価値が高いと認めるものを、所有者らの同意を得て市の文化財に指定することができる」と規定。所有者の申請を前提とし、市文化財保護審議会で諮った上で指定する。

 文化財に指定されれば、所有者は補修などに対して補助金を受けられるほか、知名度が向上して観光客の増加が期待できるなどのメリットもある。一方、所有者には文化財を管理する義務が生じ、建造物の場合は改修などが大幅に制限される。市文化財課は「指定されれば規制が増えるため申請が少ない」と分析する。

 7月に開かれた本年度最初の市文化財保護審議会では、市内の文化財の少なさについて協議。委員からは「文化財(の価値があるもの)がどれだけあるか精査すべきだ」「文化財に指定されるメリットをもっとPRすべきだ」などの意見が上がった。市文化財課は「札幌は歴史が浅いという認識が市民にあり、文化財に関心が低いのではないか。市指定を年1件でもできるよう調査を進めたい」としている。(久保吉史)

1207名無しさん:2020/09/17(木) 03:15:47
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fbfd0c36cccf36dc3c95188abd8f49153185b16
「戦争は悲惨という以前に…」記録への意識低い日本 “美談”が後世への冒涜に
9/14(月) 12:16配信

 戦後75年に合わせて考えている「平和学習」。世界史や教育の意義を読み解く多くの著書がある立命館アジア太平洋大(APU)の出口治明学長に現状や課題を聞いた。

-平和学習の現状をどう見ているか。
 「情緒的に平和が尊い、戦争は悲惨だということ以前にまずなすべきことは、過去と向き合うには正確な記録を残すという教育だ。正確な過去が分からなければ反省もできず、教訓も引き出せない」

-日本では記録することへの意識が低い。
 「今夏に見たNHKの戦後企画は、米国の公文書館の新たな公表資料を基にしていた。米国との戦争だったので米国に記録が残っており検証できたが、日本に資料がないということ自体が恥ずかしい。一部の政治家は『秘密は墓まで持って行く』ことを“美談”として語るが、これは後世の人々に対する冒涜(ぼうとく)。少なくとも米国並みに公文書を残し、一定のルールで公開すべきだ。最近では新型コロナウイルス対策に対する政府の専門家会議で、議事録を作っていなかった」

-日本が例外なのか。
 「何百年も前から海外では歴史を記録してきた。(唐の太宗・李世民の言行録)『貞観政要(じょうがんせいよう)』に関する本を著したが、この時代にも歴史を記録する役職を置いていた。太宗が『良く書いてくれよ』というと、記録係は『良いことも悪いことも全部書き留めております』と返答し、干渉させないよう記述内容を見せることも拒んだ。当時から、国のトップの言動はしっかり残さなければ、後世の人が善しあしを判断できないという知恵があった」

-記録があれば、それを基に教育もできる。
 「教育基本法を読んでみたが、教育の目的は二つある。一つは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を言えるようにする。もう一つは、社会に生きていく上での武器(知識)を与えること。政府や政治、選挙やお金とは何か。抽象論ではなく、具体的に社会で役に立つことを教える必要がある」

-二つの目的に基づく教育は行われているか。
 「戦後の日本は復興が第一だった。結果的に学校は製造業の工場で働く人を育成してきた。今もその傾向にあり、(1)偏差値がそこそこ高い(2)素直(3)我慢強い(4)協調性が高い(5)先生の言うことを聞く-の5要素がベースになっている。素直であれば常識を疑わず、我慢強ければブラック企業でも耐え、協調性が高いと周囲に忖度(そんたく)し、先生の言うことを聞く人は上司に反抗しない。工場労働ならそれでもいいが、これだけでは新しいアイデアや豊かな個性が生まれるはずがない」

1208名無しさん:2020/09/17(木) 03:16:33
>>1207

-学校は子どもの自由な発想を育んでいないのか。
 「現在の日本の教育が全て悪いという意味ではない。小中学校の先生は努力している。経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出の割合は、日本はいつも最低水準。ところが、15歳を対象にした学習到達度調査(PISA)の結果では、先進7カ国(G7)の中で最良。お金をかけていないのに子どもが優秀な理由は先生の情熱だ。でも、情熱におんぶに抱っこのままではいけない。国民の税負担を引き上げ、教育にもっとお金をかけないと」

-文部科学省の対応は。
 「文科省も気が付いている。(本年度から小中高に順次導入する)学習指導要領は、問いを立てる力、探究力が何よりも大事だといっている。要するに社会常識を疑う力を養うということだ。まず探究力を大人が持たないといけない。大人ができないことを子どもに教えられる訳がない」

-探究力は浸透しているか。
 「していない。問いを立てる力や探究力があれば、(生活維持に不可欠な)エッセンシャルワーカーに対して、新型コロナウイルスに感染したといって差別するなんてあり得ない。私たちがステイホームできるのはエッセンシャルワーカーのおかげ。国が感染者を差別しないよう通達を出すのは恥ずかしいことだ」

-今後の平和学習の在り方をどう思うか。
 「平和学習ではもちろんだが、データ(数字)、ファクト(事実)、ロジック(論理)で考える癖を身に付けてほしい。探究力を育てず5要素のままでは、日本は衰退していく。情緒的な議論がファシズム(全体主義)のベースになったことはナチスの歴史が物語っている」

 (編集委員・四宮淳平)

出口治明(でぐち・はるあき)さん
 1948年、三重県生まれ。72年、京大法卒、日本生命入社。2008年にライフネット生命を開業し、18年からAPU学長。著書に「『教える』ということ」など。

西日本新聞

1209荷主研究者:2020/09/23(水) 22:29:27

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/451526?rct=n_hokkaido
2020年08/19 05:00 北海道新聞
戦争遺跡保存の動きなく 旧日本軍沼ノ端飛行場の掩体壕跡 「歴史の証し失う」 住民懸念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido01.JPG
沼ノ端飛行場の掩体壕の跡地。コの字形の盛り土は木々に溶け込み、小高い土手のように見える=2019年11月(藤原康成さん提供)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido02.JPG

 人口増が続き、住宅が立ち並ぶ苫小牧市沼ノ端地区には太平洋戦争中、広大な旧日本軍の沼ノ端飛行場があった。終戦から75年、飛行場の痕跡は開発で消え、現在確認されているのは戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)跡が1カ所のみだ。行政側には保存に向けた動きはなく、一部住民からは「このままでは貴重な戦争遺跡が失われてしまう」と懸念の声も上がる。

 市沼ノ端のJR日高線沿いの国有地に一辺25メートル前後のコの字形をした、高さ数メートルの盛り土がある。現存する唯一の沼ノ端飛行場の掩体壕跡。戦時中はネットなどで上部を覆い、戦闘機を隠したとの話も伝わる。ただ、ここがそうした戦跡であることの案内板や説明文などは見当たらない。

 「開発されにくい場所にあるため、残ったと思う。ただ、草木が生えて今は人工物だと分かりづらい」。戦争遺跡に詳しい勇武津資料館の藤原康成学芸員(63)は、こう説明する。7年前には2基が確認されていたが、1基はその後、工場建設でなくなったという。「掩体壕は盛り土で、いつかはなくなってしまう。貴重な戦争遺跡を保存したい」と危機感をにじませる。

 沼ノ端飛行場は、現在の東開町や沼ノ端一帯に広がっていた。1943年(昭和18年)12月、旭川に司令部を置く陸軍第七師団が整備した。滑走路は1500メートル2本と1200メートル1本の計3本。兵器製造工場があった室蘭の防衛が目的で、住民も動員し、数カ月程度の突貫工事で完成させた。

 旧日本軍の掩体壕はコンクリート製が多いが、沼ノ端飛行場では土製で36基あった。戦闘機「隼(はやぶさ)」が一時配備されたが、戦況悪化に伴い、道外へ送られた。同飛行場からの出撃記録は45年7月14、15日の北海道空襲時を含め、ないという。

 沼ノ端生まれの不動産経営の星野邦夫さん(77)によると、飛行場は終戦直後、米軍が滑走路を爆破。残った掩体壕は冬場、子どもたちがスキーで遊んだという。昭和40年代から宅地造成が始まり、飛行場の痕跡は消えていった。

 星野さんは「戦争遺跡を残すのは正直難しい。ただ、忘れてはいけない歴史の証しが消えていくのもどうなのか」と歯がゆさをにじませる。

 戦争遺跡の保存に積極的な自治体もある。東京都府中市は2007年、旧陸軍の調布飛行場の掩体壕1基を市の文化財に指定した。年1回、内部を一般公開している。市の担当者は「文化財に指定したことで市民に周知され、平和について考えるきっかけになっていると思う」と話す。

 一方、苫小牧市教委は沼ノ端の掩体壕跡を把握しているものの、「負の遺産を残すことには賛否ある。市民の保存活動の動きもなく、市として保存に向けた検討はしていない」(生涯学習課)としている。(山田一輝)

1210名無しさん:2020/10/19(月) 12:28:15
https://news.yahoo.co.jp/articles/2752e0e301faa55211ce13bd8ca2cf293e7bc1fb
【NEW】安倍前首相が靖国参拝
10/19(月) 9:42配信

安倍晋三前首相は19日朝、東京・九段北の靖国神社を秋の例大祭にあわせて参拝した。
安倍前首相は、参拝後、記者団に対し、「ご英霊に尊崇の念を表するため参拝した」と語った。
安倍前首相は、9月に首相を退任した直後に、靖国神社を参拝していて、退任後二度目の参拝になる。
首相在任中は、例大祭にあわせての参拝は行ってこなかった。

FNN

1211とはずがたり:2020/10/28(水) 14:49:20
2020-08-22
憲兵までゆるふわ化してしまった『この世界の片隅に』
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/22/083835

1212とはずがたり:2020/11/18(水) 20:35:14
財界四天王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

財界四天王(ざいかいしてんのう)は、池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。経済記者の重鎮、三鬼陽之助によって命名された。

氏名 出生年 死亡年 財界役職 自社役職
小林中 1899年 1981年 富国生命保険社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油社長
水野成夫 1899年 1972年 経済同友会幹事 産経新聞社長、フジテレビジョン社長
永野重雄 1900年 1984年 日本商工会議所会頭 富士製鐵社長
櫻田武 1904年 1985年 日経連会長 日清紡績社長
概略
財界四天王の呼称は、1961年(昭和36年)『文藝春秋』新年号で三鬼陽之助により初めて使用された。それ以後、池田内閣のご意見番として君臨する4名を示す言葉として広く使用されるようになった。

そもそも、池田勇人を支持するきっかけとなったのは、財界四天王の師匠、宮島清次郎(日本工業倶楽部元会長、日清紡績元社長)の存在に尽きる。宮島は吉田茂元首相と東京帝国大学時の同級生であり、一緒に下宿する程の大親友であった。さらに第1次吉田内閣当時には資金援助もしていた。そのような関係もあり、吉田は第3次内閣を組閣する際、財界の重鎮となっていた宮島に大蔵大臣就任を要請した。宮島は若き頃、首相を務めた犬養毅に一時師事し、代議士経験もあるなど政治に精通していたものの、これを拒否し、逆に櫻田武の推挙により池田を大蔵大臣に推薦し就任させた。ここから、財界四天王と池田との深い関係が始まる。

敗戦からまだ20年前後で、旧財閥は以前ほどの力がなく、働き盛りの4人が日本の財界を牛耳った[1]。この4人が相談すると、日本国の大抵のことは決められるともいわれた[1]。政治資金規正法という面倒な法律もなく、この4人を中心に集金して、ジャンジャン政治家に献金した。スポンサーとして金も出し意見もした。財界優位の時代で、ときの総理といえども聞かざるを得なかった[1]。池田内閣の「所得倍増計画」という根幹の政策からして、財界の意見をそのまま政策に反映するもので、貧乏だった日本経済が急激に上昇した時代であった。財界四天王は池田内閣時、財務面でのバックアップのみならず、政策にも大きくかかわった。池田の死後も、池田派により結成された宏池会の後見人として、政治の世界に影響力を持ち続けた。

1213名無しさん:2020/11/21(土) 22:02:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9fb9f448cdf02bd33652d98c246d6ae403a8cc
田中角栄に向けてニクソン大統領が放った、ヤバい「差別発言」をご存じか?
11/21(土) 6:02配信

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1973年7月31日、田中角栄はニクソン米大統領と2度目の首脳会談に臨んだ。しかし日中国交正常化に不満を抱くアメリカ側は、角栄に対して高圧的な態度で接する。そしてとうとう、ニクソンの口から衝撃的な「差別発言」が飛び出した…! 緊張が高まる当時の日米関係の様子を、新刊『ロッキード疑獄』から一部編集して紹介する。
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角栄とニクソンの関係悪化
 この頃、双方は7月31日〜8月1日に設定された、田中とニクソンの2回目の首脳会談の準備作業にとりかかっていた。

 両首脳にとって悩みは、大統領も首相も支持率が低下していたことだ。ニクソンはウォーターゲート事件、田中は金権政治が問題にされ、両者は人気回復策で悩んでいた。

 当時、日米間の主要課題は、(1)対中国政策の調整と、(2)日米貿易不均衡だった。しかし、(1)は既に「主要な論点」ではなく、(2)は「解決への道筋が付けられたよう」に見えた。

 だから、キッシンジャーはニクソンに「相互に関心がある多国間問題での協力」について、次のような協議をするよう提案した(注1)。

 ・日本の経済力に比例した役割を地域および世界で演じるよう求める。
・日本はエネルギー問題で、日本の協力が重要とされる地域で建設的に取り組む。
・新しい分野で米国とともに同盟関係への新たな日本の関心を創出する。

 「こうした議題は、CIAの報告によれば、田中が好む」と付記されている。

 二度目の田中との会談に向け、ニクソンは手ぐすね引いていたとみられる。田中に意見してやる、と意気込んでいたのだろう。

 第一に、両首脳は一緒にゴルフする計画だったが、理由もなく止めた。

 前年、1972年のハワイでの首脳会談の際、ロジャーズ国務長官は、次にワシントンで会う時は大平と「一緒にゴルフしないか」と話していた。今回、大平からインガソル駐日大使を通じて「プレーのお招きをいただけたら大平も田中も大変ありがたい」と提案した。

 だから、首脳同士のゴルフも「同意されるなら、(会談前日の)7月30日でアレンジする」とロジャーズはニクソンに伝えた(注2)。

 しかし、この計画について、キッシンジャーの部下は、7月18日付のキッシンジャーあてメモで「先月日本側から提案があったが、あきらめた」と連絡。キッシンジャーも、大統領あてメモで「ゴルフの可能性はない」と伝えた(注3)。ニクソンが断ったとみられる。

 第二に、8月1日の会談終了後に、ホワイトハウスの「ローズガーデンを両首脳が散策し、2人で共同声明を発表。宇宙中継で日本のテレビにライブ映像を送信する」という日本側提案の演出も、同じ憂き目に遭った。

 日本の提案は会談前日の7月30日、キッシンジャーに伝えられた(注4)。しかし、当日の「大統領日誌」によると、「大統領は別れのあいさつをして、3分後に執務室に戻った」。米国側は、会談開始予定を30分繰り上げて午前9時半とし、テレビの宇宙中継はやるが、両首脳による共同声明発表には応じなかったのだ(注5)。

1214名無しさん:2020/11/21(土) 22:03:32
>>1213

争点は貿易赤字と日中関係
 日米首脳会談前、課題とされていたのは二つ。第一に米国の対日貿易赤字削減、第二に対中関係で異なる日米の政策をいかにして両立させるか、だった。第二点、日米の対中政策の相違は、まだ問題化していなかった。

 米国の対日貿易赤字は前年の約40億ドルの半分以下に削減されることが確実となっていたので、ニクソンが高く評価して当然だった。

 だが、会談1日目、7月31日のニクソンは上から目線で、傲慢な話し方が目立つ(注6)。

 田中は「1973年上半期、日本の対米輸出額は前年同期比8%しか増加せず、逆に米国からの輸入額は49%増加して、日本の貿易黒字額は約12億ドルに大幅削減となった。日本政府の景気刺激策で内需が拡大し、達成した」と成果を明らかにした。

 しかし、ニクソンはこれに対し、労をねぎらうわけでもなく、「日米のような高度に発達した先進国は競争の運命にある。……こうした競争が激しい政治的対決に発展しないようにすべきだ」と将来の日米対決に警告した。

 その上で、ニクソンは「首相は『コンピューター付きブルドーザー』と呼ばれている。どれほど難しくても首相のような指導者は、危機回避に貢献してくれる」と期待感も示している。

日本人は「裸で立っているピグミー」
 その後、ニクソンは次のように、計3回、日本をアフリカの「ピグミー族」にたとえる差別的な発言をした。

 ニクソン「自分の基本的な見方だと、経済大国は政治的なピグミーにとどまることができないということだ。それは自然の法則に反する。経済大国は政治的ピグミーにとどまれない……首相は日本が将来歩むべき道をどう考えるのか」
田中「すべての日本国民は米国が過去四半世紀、日本に与えた援助に感謝している。それによって、日本は全面的敗北から復興するまれな成果を挙げた。日本国民の基本的な願いは、米国と緊密に協議し、永久に自由諸国とともに地位を維持することだ」

 ニクソン「中国、ソ連、日本、米国を見ると、一つの事実が際立っている。日本は近隣諸国の中でソ連などとは対照的に、経済大国ながら軍事的かつ政治的にはピグミーとして裸で立っている。……現在の安保関係の取り決めは、それら諸国が熟れたスモモのような日本を見ても、むしり取ろうと思わないよう、最良の保障となっている」
田中「大統領の見方と同感です。米国と日本の固い結合が他のあらゆる関係にとっても重要です。それなしに日本は中国と国交正常化できなかった」(太線筆者)

 田中はニクソンから「ピグミー」と侮辱されても、反発することなく、戦後米国から受けた支援に感謝し、安保条約のおかげで日本は守られていると認めた。そして、日米安保があったから日中国交正常化ができた、とも主張した。論理的には、のれんに腕押しのような反論だ。

 では、「5年後の世界」はどうなるか。ニクソンは「日米安保条約が廃棄され、日本で支持されなくなったら、多くのアメリカ人は喜んで出て行く。韓国から米軍も撤退する」と言った。言うことを聞かなければ米軍を撤退させる、というカードをここで見せた(注7)。

 それにしても、日本と日本人に対して、これほど侮辱的な言葉を使った米大統領がいただろうか。日本側の会談記録はどうなっているのか。外務省に情報公開請求して入手した(注8)。

 外務省の会談記録では、ピグミーを訳さず「政治的な小人(political pygmy)」とカッコ付き、あるいはカッコなしで英文のまま記していた。

 「田中総理・ニクソン大統領会談の模様」と題する1973年8月23日付9ページの文書は、こうした刺激的な発言を省いていた。この会談が外交問題化しないよう配慮した形だ。

 「ピグミー」は、『リーダーズ英和辞典』(研究社)によると、「アフリカ赤道森林地帯の矮小黒人種」とある。それが転じて「こびと」「知力の劣った人」という意味もあるとしていて、差別的に使用され得る言葉であることが分かる。

1215名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:10
>>1214

ニクソンはさらに醜態を重ねる…
 ニクソンの荒っぽい発言はそれにとどまらなかった。同日夜の公式夕食会で、乾杯の際に、ニクソンはもっとひどい醜態をさらけ出している。

 あきれるほどの不規則発言をしてしまって米政府高官を慌てさせ、後になって発言が日本側に勘付かれてしまっていないか、とキッシンジャーが通訳に確認を求めた。通訳がまとめたメモが残されていた(注9)。

 アメリカ大使館の通訳、ジェームズ・ウィッケルがまとめたメモは、「注」として、次のような経緯を説明している。

 大統領は投げやりな様子で、低い声でブツブツ言いながら、「あなたは自分が望めば誰を祝して乾杯してもいい……やりたければ、悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言った。田中首相は、通訳してもらいたいとウィッケルの方を向いたので、ウィッケルは「誰でも、望む人を祝して乾杯をしてもかまわない」と訳した。しかし、外務省の通訳、沼田はやり取り全体を聞いていたようで、田中首相の耳元でささやいた……ウィッケルが聞き取れた唯一の単語は「悪魔」だった。田中首相が一連の言葉と翻訳をどのように受け止めたかは分からない。(……は原文の通り。太線は筆者)

 メモから想像すると、夕食会で、ニクソンと田中は誰を祝して乾杯すべきか、と短い会話を交わしていた。ニクソンが外交儀礼上、日本の国家元首とされる天皇陛下の健康を祝して乾杯すべきだと言い、田中は「私は大統領の健康を祝して乾杯したい」と話した。しかし、ニクソンは脱線して「悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言ったようだ。

 1ページのこの文書、「7月31日ホワイトハウス」、キッシンジャーあて。「シークレット、センシティブ(機微)、アイズオンリー」と、最高ランクに次ぐ機密に指定されている。キッシンジャーは、日本側に本当の発言を気付かれていたら大変だと考え、具体的な経緯をウィッケルに報告させたのだ(注10)。

 「沼田」とあるのは、田中、福田、大平の歴代三首相らの英語通訳を務めた外務省の沼田貞昭(後にカナダ大使)のこと。筆者は沼田の知己を得ていたので、2009年、沼田と駐日米大使公邸のレセプションで偶然会った機会に、このことを確かめようとしたが、「覚えていない」と確認を拒否された。

 当時の田中の秘書、木内昭胤は「ピグミー」の件も「悪魔に乾杯」の件も「まったく記憶がない」、としている(注11)。

 こうした事実は、ニクソン回想録で確認されていた。1978年に出版された回想録で、ニクソン自身がこの舌禍事件を認めていたのだ。

 田中に対する失礼な発言は「3カ月にわたりウォーターゲート事件による業務の停止で、国内問題、国際問題で議会の仕事はほとんど止まった。この状況への私の怒りは、7月の田中首相との公式夕食会での私の乾杯スピーチの際に突出した」と白状している(注12)。

 原因は、ウォーターゲート事件で追及され、イライラしていたからだった。田中はそんな怒りをぶつけるのに便利なサンドバッグだったようだ。古い友人の国務省元高官によると、ニクソンは泥酔していたとみられている。

1216名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:20
>>1215

 〈注釈〉

 (注1)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council Institutional (“H”)Files, Study Memorandums(1969-1974), National Security Memorandums, NSSM-172 (2 of 3), Box H-197、Memorandum For: The President, From: Henry A. Kissinger, Subject: Japanese Prime Minister Tanaka’s Visit: The Question of Focus

 (注2)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3 ) to (3 of 3), Box 927, Secretary of State, June 7, 1973, Memorandum For The President, Subject: Possible Golf Match with Japanese Prime Minister Tanaka and Foreign Minister Ohira

 (注3)同、National Security Council, July 18, 1973, Memorandum For : Mr. Kissinger From: John A. Froebe, JR. Subject: Proposed Schedule for U.S. Visit by Japanese Prime Minister Tanaka

 (注4)同、National Security Council, Urgent Action, July 30, 1973, Memorandum For: Mr. Kissinger From: John A. Froebe, Subject: Prime Minister Tanaka Request

 (注5)President Richar Nixon’s Daily Diary, August 1, Nixon Library,  2019年11月26日アクセス

 (注6)FRUS, 1969-1976, Volume E-12, Documents On East And Southeast Asia, 1973-1976, Document 179. Memorandum of Conversation, Washington, July 31, 1973,11 a.m.

 (注7)同

 (注8)外務省情報公開第00014令和2年4月2日、開示請求番号2019-00903

 (注9)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3), Box 927、Secret Sensitive Eyes Only- Henry Kissinger, July 31, 1973 The White House, Subject: Remark Before / President’s Toast, James J. Wickel, American Embassy - Tokyo August 4, 1973

 (注10)同、NSC Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973, Box 927, Secret Sensitive, Eyes Only - Henry Kissinger, July 31, 1973, the White House

 (注11)2020年1月29日インタビュー

春名 幹男(国際ジャーナリスト)

1217荷主研究者:2020/11/21(土) 22:19:27

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201105579279.html
2020/11/05 11:00 新潟日報
戦争遺跡 五泉で発見
旧陸軍の「秘匿飛行場」や塹壕

塹壕とみられる跡=五泉市

秘匿飛行場の滑走路があったとみられる場所=五泉市

 新潟大人文学部の清水香助教(48)=考古学=の研究チームが、新潟県五泉市の新大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション(村松ST)内で、旧陸軍の「秘匿飛行場」の滑走路や塹壕(ざんごう)の跡とみられる戦争遺跡を発見した。新大の史料や聞き取り調査で施設の存在は知られていたが、考古学の面からも裏付けが取れた形だ。清水氏は「県内にも戦争遺跡があると知ってもらうきっかけになってほしい」と期待している。

◎新大研究チーム 史料や住民証言裏付け

 新大は2014年から当時の建物の配置図を分析。周辺住民らへの聞き取り調査を続けている。発掘の実績がある清水氏が18年に新大に赴任。分析結果などを基に今年8月、発掘調査が行われた。現在はほ場として使われている4カ所の試掘で、塹壕の凹型のくぼみが埋め戻されたような形跡を発見した。その上の層からは自然堆積では形成されない石や砂が混ざった地質も確認できた。

 清水氏は「石や砂が含まれている層は人為的に搬入されたと考えられる」とする。これは聞き取り調査で複数の住民が語った「練兵場には塹壕があり、それを平らにした」「滑走路はローラーで固めた」などの証言と符合し「この場所に秘匿飛行場があったと思われる」と説明する。

 これまでの研究で「陸軍用地」と記された石の標柱が複数見つかった敷地南西部の森林も調査した。この周辺でも今回、塹壕とみられる幅2メートル、深さは最大1・6メートルの落ち込みが確認された。清水氏らは「くぼみの規模や地質からほ場の塹壕と同時期に作られたものだと推測できる」とみている。

 南部の一角からは医療用アンプルや1920〜50年代のものとみられる酒の王冠や歯磨き粉、統制品の陶器も見つかっている。清水氏は「塹壕の地質からもこうしたものが見つかれば、ほぼ間違いなく戦争遺跡であることが分かる」と指摘する。

 今回の発見について清水氏は「住民の口承証言を考古学的に目に見える形で示せた」とし「本県では戦争遺跡の調査がまだ進んでいない。身近な所にある戦争の記憶を後世に残していくことは大きな意義がある」と語った。

<新潟大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション> 広さ約33ヘクタール。日清戦争後の1897年に国の軍備拡張の一環として兵営が置かれ、陸軍歩兵30連隊が駐屯した区域に立地する。太平洋戦争末期には村松少年通信兵学校が設置され約7千人の少年兵を養成したが、終戦で解散。米軍の駐屯地を経て、1946年に新潟大農学部の前身となる県立農林専門学校が移転した。兵舎もそのまま使用されていたが、新施設の建設に伴って解体された。

1218名無しさん:2020/11/25(水) 19:03:38
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fab4f61b1914286e17a1c5fc3a1f75241ad7ff2
加藤長官「衝撃的な出来事でしっかり覚えている」 三島由紀夫決起から50年
11/25(水) 18:37配信

 加藤勝信官房長官は25日午後の記者会見で、作家の三島由紀夫が昭和45年に陸上自衛隊施設に立てこもり自決してから50年たったことについて「私も15歳のときだったが、大変衝撃的な出来事だったとしっかり覚えている」と述べた。

 三島は自決の4カ月前に将来の日本について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目(ぬけめ)がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」との文章をサンケイ新聞(現・産経新聞)に寄稿した。

 加藤氏はこれに対し「三島氏の言葉に反論するということではないが、この間、先人、現在いる方々の努力でこの国は繁栄と平和を構築してきた。少子高齢化、コロナ禍などさまざまな課題はあるが、そうした形で国づくりをしっかり進めてきたと認識している」と強調した。

1219とはずがたり:2020/12/01(火) 21:54:16
# 戦争# 国家・民族# 日本
インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
本当に、牟田口ひとりの責任だったか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56995?page=3
広中 一成 プロフィール

河辺は唯一、作戦を支持した
作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

あなたも「牟田口」にされるかもしれない
戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。



しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。

1220とはずがたり:2020/12/08(火) 15:59:08

その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73024/
2020年12月8日 06時40分

 その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、一九四一(昭和十六)年十二月八日。日米開戦の日だという▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう▼十一年後の五二年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは十二月八日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。

雑賀忠義
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%B3%80%E5%BF%A0%E7%BE%A9-1076528
1894-1961 大正-昭和時代の英文学者。
明治27年3月25日生まれ。大正13年広島高教授,昭和24年広島大教授となる。同年,浜井信三市長の依頼で広島市平和記念公園の原爆慰霊碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび,揮毫(きごう)した。昭和36年2月8日死去。66歳。和歌山県出身。京都帝大卒。著作に「英詩入門」など。

1221とはずがたり:2020/12/11(金) 15:17:46
戦時補償債務
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E8%A3%9C%E5%84%9F%E5%82%B5%E5%8B%99
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦時補償債務(せんじほしょうさいむ)とは、太平洋戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。


概要
1945年の敗戦後、幣原内閣は個人財産増加税や財産税の臨時賦課を財源としてこれらを支払う方針であったが、連合国はインフレーション促進につながるこの方針に反対した。そもそも連合国は日本の企業が政府とともに自分達と敵対したことに対して何らかの制裁を課す必要があると考え、戦時補償債務打ち切りもその一環であった。

1945年11月24日にGHQは「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」を日本側に通告した。1946年4月、連合国は日本に対して戦時補償債務支払の打ち切りを正式に要求したが、直後に就任した第1次吉田内閣の石橋湛山大蔵大臣は、自由経済の根幹にある契約の論理が破壊されることによる日本経済への打撃を危惧して強く反対した。だが、対日理事会におけるソビエト連邦の強い要求によって8月8日になって日本政府はこれを受け入れることとし、形式上は戦時補償債務は全額支払うが別途新税を設けて支払額に対して100%の税率を賦課することで連合国側の同意を得た。

1946年10月29日に戦時補償特別措置法が公布され、同法に基づく「戦時補償特別税」が戦時補償債務917億円余に課税、実質無効とされた。このため、多くの銀行や企業の資金繰が困難となったため、会社経理応急措置法・金融機関経理応急措置法などが公布されて救済策が講じられた。

1222とはずがたり:2020/12/15(火) 00:03:22

三菱、中国の強制徴用被害者に初めての補償金支給…「不法は認めていない」(1)
https://s.japanese.joins.com/Jarticle/273315
? 中央日報/中央日報日本語版
2020.12.14 07:34

中国山東省の済南時報は今月7日、三菱重工業が第2次大戦中に強制的に連行した中国人30人に対する補償金を支給したと報じた。遺族30人は1人あたり10万人民元(158万円)を受け取った。日本戦犯企業の三菱が中国人に初めて支給した補償金だった。

山東省強制徴用被害者連合会の劉煥新会長は「たとえ金額は大きくなくても、これは数十年間続いてきた問題提起を通じて勝ち取った結果」とし「戦争がもたらした罪悪と犯罪は忘れられてはならず、今後三菱の『黒歴史』を明らかにしていく開始点になるだろう」と強調した。

補償を受けるまでのこれまでの過程は長く険しいものだった。中国政府は1972年「日中共同声明」で戦後補償問題に対して明確に言及せず、問題を避けた。

民間から問題提起があったのは1990年に入ってからだ。1944年9月、旧日本軍によって33歳という年齢で故郷の山東省から日本の三菱鉱業株式会社のある鉱山に連れて行かれた劉連仁さんが1996年に日本政府を相手に最初の損害賠償訴訟を起こした。

東京地方裁判所は2001年7月、劉さんの訴えを認めた。日本政府が戦後救済義務を違反したとし、遺族に2000万円の損害賠償をするよう命じる判決を下した。

しかしその4年後、東京高等裁判所が判決を覆した。2007年最高裁判所は原審を確定し、中国が請求権を放棄したので賠償責任はないとの結論を下した。その後、この最高裁の判決はその他の一連の中国被害者の訴訟に引用されてすべて棄却される根拠になった。

反転の契機は中国政府の介入が始まってからだ。2014年、中国人民抗日戦争博物館が日本強制徴用対象者3万4282人の名簿を公開した。終戦70年を控えてのことだった。

山東省から強制連行された人だけで9177人にのぼる。その年2月に三菱を相手取って訴訟が再開された。死亡者722人を含めた3765人の遺族が原告として参加した。生存者はたった4人、10代の時に日本に連れて行かれた80〜90代の高齢者だった。彼らは老骨に鞭打って東京の法廷に出席し、自分たちが体験した強制労役の惨状を証言した。

1223名無しさん:2020/12/21(月) 23:45:12
https://news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c
【75年目の告白】岐阜・黒川開拓団 満州で性的な接待を強いられた女性たち「歴史の渦の中で引き回され、きょうまで生きるとは」
12/21(月) 18:09配信

中京テレビNEWS

中京テレビNEWS

1224名無しさん:2020/12/23(水) 23:01:02
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca0bca32e7688a717dbc7a53987c4c448a25d3ec
基地と男性に頼りたくない 20歳の女性は沖縄を旅立った【#コザ騒動50年】
12/23(水) 18:12配信

琉球新報

琉球新報社

1225名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:43
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c456a793d4afdb9646cc778c237aad67df59615
「もし、東京五輪が中止になったら…」研究者が“警戒”すること
2/13(土) 15:09配信
BuzzFeed Japan
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、患者や事業者への罰則を設けたふたつの改正法が2月13日に施行された。戦前の歴史に詳しい研究者は、「戦前と同じように、人々が自ら自由や権利を差し出してしまった」と懸念する。空気による同調圧力、美談や恐怖に巻き起こされる感情的な議論。その先に待っているものとは何なのか。そして、なぜ私たちは東京五輪の「あと」を警戒しなければいけないのか。【BuzzFeed Japan / 籏智広太】

「外側からくる戦前ではなく、人々の内側からくる戦前を、懸念しています。われわれが自発的に、自由や権利を差し出してはいけないはずなのに……」

BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、近現代史研究者の辻田真佐憲さんだ。

「日本人にとって、太平洋戦争は大きな教訓であり、失敗の比喩として用いられます。私はあらゆることについて『戦前』ということに対しては反対ですが、いまこそ言わなければならないと感じています」

「戦前の歴史で気をつけなければいけないのは、政府からではなく、民衆の側から私権制限を求めてしまうという動きがあったことです。私たちは政府から押しつけられたものには警戒感を持っている一方で、我々が自発的に権利を差し出してしまうことには無警戒なのです」

辻田さんがこのように「警戒」するのは、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い今国会で改正された特措法と感染症法をめぐる議論だ。

改正されたふたつの法律では、都道府県知事の営業時間の短縮の命令に従わない事業者や、入院拒否や逃亡をした患者、保健所の調査を拒否した人には行政罰としての「過料」が科されることになった。

私権制限に前のめりだった「リベラル」
一時は「懲役」を含む刑事罰の導入も議論の遡上にあがったが、結核やハンセン病の強制隔離で患者の人権が侵害された歴史を踏まえ、患者に対する差別や偏見を煽りかねないとして、専門家らが強く反対。行政罰である過料にとどまった。

なお、特措法においては特定地域における重点的取り組みを実施するための「まんえん防止措置」も新設された。緊急事態宣言と同様に罰則を伴う措置にもかかわらず、その発動要件に対しては恣意的な運用への懸念もあがっている。

一方で、多くの世論調査では強制力のある法改正を求める声が高まっていたのも事実だ。

NHKの昨年6月の世論調査では、「外出を禁止したり休業を強制したりできるようにする法律の改正が必要」と答えた人は42%に対し、「必要ない」は18%だった。

また、毎日新聞の今年1月の世論調査でも、罰則が「必要だ」との回答は51%で、「必要ない」の34%を上回った。辻田さんはいう。

「このような感染症ですから、市民が自分で考えて、自らの行動を制限するのは問題がないと思います。しかし、政府による私権制限や、それをもとにした同調圧力が用いられていることについて、私たち市民はもっと自覚、危機感を持つべきだと思います」

「また、感染拡大の防止策をめぐっては、リベラルと言われる野党側やその支持者も私権制限に前のめりだったように感じています。そうなってしまうと、制限によって奪われる移動の自由や集会の自由を擁護するのは誰になるのでしょうか」

1226名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:55
>>1225

美談、恐怖、そして空気
戦争協力のため「慰問金品受付所」に自らの貴金属を寄付する人たち(1937年)

日中戦争から太平洋戦争に突き進んだ日本。メディアや多くの企業もそれに乗じ、熱狂が生まれた。人々は率先して戦争に協力し、多くの権利を「お上」へと差し出した。その悲惨な結果は、今を生きる私たちが知る通りである。

「前線も苦労している、人も亡くなっているのだから、少しだけでも辛抱しなければならないーー。美談や恐怖など、感情を刺激するような報道がメディアを通じて流れ、人々がそうした『空気』に煽られ、同調圧力に走り、政府が私権制限へと動いていくのは、戦前とまったく同じです」

「医療従事者がいかに大変なのか、重症患者がいかに苦しんでいるのかを伝えることは、止むを得ないでしょう。しかし、そうした感情的なものと私権制限は本来であれば切り離して議論をしなくてはいけないと思います。こういうことをいうと、反発が寄せられると思うのですが……そこまで、戦前と同じですよね」

戦前といま。日本社会において、変わらず大きな力を発揮しているのが、「空気による同調圧力」だ。

戦時中は「隣組」によって相互監視をし、戦争協力をしない人たちが「非国民」と後ろ指を刺されていた。これは近代日本社会において、普遍的なものであると辻田さんはいう。

「『空気』を気にして生まれる日本社会の同調圧力は、戦時中に限ってあったわけではありません。東日本大震災のときにも『節電警察』のような振る舞いがあったように、非常時に現れやすいものなのだと思います」

評論家の山本七平はいまから40年以上前の『「空気」の研究』(1977年)で「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」と指摘している。

日本社会では「いざというときは(…)すべてが空気によって決定され」、合理的な判断から遠ざかっていく、というものだ。辻田さんはこの考え方に触れながら、コロナ禍の特殊性についても言及した。

「いまの日本社会では東京五輪が予定されていたため、みんなでやろう、感情でひとつになろうという同調圧力が広がっていました。それがコロナに置き換わり、自粛の同調圧力へと変化した。政府も五輪を開催したいがために本来は強制力を用いたいがそれをせず、人々の同調圧力を煽るような振る舞いをみせた」

「警察が警棒を持って巡回したり、自治体が県外ナンバーを監視したり……。そうしてできた特有の空気によって差別なども横行し、SNSでの特定など人権侵害に近いようなことも起きてしまった。ハンセン病などの教訓が普段はあれだけ叫ばれているにもかかわらず、非常時にはここまで変わってしまうのだな、と感じましたね」

1227名無しさん:2021/02/13(土) 21:20:52
>>1226

もし、東京五輪が中止になったら…
今回の法改正は、第3波における緊急事態宣言下という、やはり特殊な「空気」のなかで議論が進んだ。懲役刑などの刑事罰の制定は回避されたとはいえ、罰則付きの法改正がされたことには変わりがない。

「本来であれば、冷静なときに議論をすべきだったのに、なぜそれをしなかったのか。この法改正では、さらなる感染拡大が起きた場合、営業している店舗の通報合戦や脅迫など、より激しい同調圧力を目覚めさせてしまう恐れもあると思います」

「また、日本は先進国のなかでも強制力を持たずに感染者を比較的抑えられてきている。第3波も減少傾向に入っています。それにもかかわらず、ここで自由を捨ててしまうのであれば、次の感染拡大では際限なく私権制限が広がり、歯止めが効かなくなってしまうという怖さもある」

このように語る辻田さんが特に警戒するのは、東京五輪が中止になった場合だという。

「いまの自民党政府は、その憲法改正草案からもわかる通り、国民に権利よりも義務を科したいと考えている。五輪があるからそのような強権的な姿勢は出していなかったわけですが、中止になれば、ロックダウンができないのならできるように憲法改正をしよう、という流れになりかねないと思っています」

実際、新型コロナウイルスの感染拡大当初の昨年1月末には、自民党の重鎮である伊吹文明元衆院議長が、コロナ禍が「緊急事態のひとつ」として、「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない」などの発言が飛び出したこともあった。

「憲法改正そのものは否定しませんし、変わっていくべきだと思っていますが、政府ではなく国民を縛るための改正には反対です。非常時にこうした議論をすれば、感情的に進んでしまうわけですから、私たちは次の感染拡大のときに、どう振る舞えるのか、政府が何をしようとするのかを、より警戒しないといけないと感じています」

新たな「失敗」にならないために
では、そうした政府の振る舞いを警戒するために、どうすべきなのか。辻田さんは「冷静でいるために、歴史を参照するべき」と語る。

「法律や憲法を変えるような、われわれの権利や自由に関わる議論をするときは、冷めた態度をどこかで持つことが大切だと思っています。沸騰した議論を冷静にするために、効果を発揮するが過去の非常時の『失敗』なのです。現代日本社会のおける最大の失敗は、やはり戦争ですよね」

「一方で、戦争から教訓を学ぶというパターンに、『昔の話でしょ』と感じてしまう人が多くなっているのも事実です。政権批判のたびに『戦前』が用いられすぎたことも関係しているでしょう。政治の側だけではなく、自分たちの内側にある『戦前』の要素にも自覚的になるように、言葉の使い方や、歴史を伝えるアプローチを変えるべきなのかもしれません」

「このような非常事態は、何十年に一度しか訪れません。社会は進歩したところもある一方で、やはりパニック状態における振る舞いは変わらない。歴史を知っていれば、政治も、私たちも、同じことをやっているなと冷静になれるはずだと思っています。いまのコロナ禍が、後世に『失敗』として参照されないためにも、まず自分のなかにある『戦前』を見つめて見ると良いのかもしれません」

あの戦争は政府によって生み出された失敗であるという、わかりやすい「戦前」だけではなく。人々が率先して熱狂という空気を作り出し、自らすべてを捧げていった「戦前」を、私たちは改めて知る必要がある。

______

1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。近刊『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)、『教養としての歴史問題』(共著、東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(共著、ゲンロン)。

1228名無しさん:2021/03/11(木) 19:07:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4007683a9bee4d37b3671ecd035e9f0eb1bf813
空襲補償法案、今国会成立目指す 超党派議連が確認
3/10(水) 20:09配信
時事通信
 太平洋戦争中の空襲で被害を受けた民間人への補償を目指す超党派の「空襲議連」(会長・河村建夫元官房長官)は10日、衆院議員会館で総会を開いた。

 一定の要件を満たせば特別給付金50万円を支給する議連がまとめた法案を今国会に提出し、成立を目指すことを確認した。

 この日は推定10万人以上が亡くなった東京大空襲から76年目。河村氏は「全国で空襲があったが、民間被害者への対応は何もできていない」と訴え、その後、自民党本部で二階俊博幹事長に面会して協力を求めた。二階氏は「われわれの代でやらないといけない課題だ」と答えた。

1229名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:08
https://news.yahoo.co.jp/articles/5be2ad91f4d389de55cfa9fc0ce6822657853171
大出世蹴った首相、馬肉の委員長、総務省疑惑に想う清廉な政治家
3/23(火) 12:40配信
Wedge
 近年、あまり聞かれなくなった言葉に、「清廉潔白」、「謹厳実直」がある。「井戸塀政治家」もそのひとつだろう。

 古い言葉を持ち出したのは、総務省の接待疑惑に関与した政治家、役人の卑しさに呆れたからだ。

 かつては、金銭、名誉などに目もくれず、ひたすら国のために奔走した人たちがいた。官僚時代に出世を2度も辞退した総理大臣、馬肉が唯一の好物という野党第一党委員長……。清貧に甘んじた大先輩たちは、不肖の後輩のご乱行に眉をひそめているかもしれない。

“ライオン首相”の自宅は借家
 古くは明治の元勲、西郷隆盛、自由民権運動の闘士、板垣退助らを思いうかべるむきもあろう。そんな歴史上の人物にまでさかのぼらなくとも、昭和以降でも、偉大な政治家は何人もいた。

 筆者は“独断と偏見”で、昭和初期の宰相、浜口雄幸を真っ先にあげたい。

 1929(昭和4)年に総理大臣に就任、日本経済を世界の標準に合わせることを目的に金輸出解禁(金解禁)を断行した。主要艦以外の制限をめざしたロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の猛反対を押し切って調印。強い信念、誠実、剛毅な人柄とその容貌から“ライオン宰相”と親しまれた。

 しかし、世界恐慌のあおりで景気は悪化、軍縮会議では補助艦のトン数で欧米より不利を強いられたため、不満を持つ青年に東京駅ホームで撃たれ、志半ばで倒れた。 

 浜口が偉かったは、まず公私混同をしない。破格の収入を伴う高い地位にも目をくれず、ひたすら自らの職務に精励した。質素、謹厳実直という表現は、数多くある浜口の伝記に必ずと言っていいほど登場する。

 首相の印綬を帯びて自宅で新聞社の写真撮影に応じた時、カメラマンに「あまりマグネシウムをたかんでくれ。借家だから天井を焦がしては家主にすまぬ」とあわてて制止した。当時はカメラの照明用にマグネシウムを発火させていたため、熱で家を傷めることを心配したらしい。記者団は笑って相手にしなかったが、本人はいたってまじめだったという(城山三郎『男子の本懐』)。 

 首相に就任してから、鎌倉の別荘で週末の静養をとることがあった。わずか4、50坪、2階屋ながら階段は段梯子というあばら家。ゴルフをするでもなく、随筆を書いたり、思索にふけった。その鎌倉行ですら、「面倒だ」といってめったに出かけなかった。

1230名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:19
>>1229

出世断り地味な仕事に精励
 破格の出世を2度断っている。

 最初は専売局長官として塩田整理という厄介な仕事に取り組んでいるとき。初代満鉄総裁の後藤新平が、堂々たる見識を持ちながら誠実な態度で地味な仕事に黙々と取り組む浜口にほれ込み、満鉄理事に来てほしいと口説いた。

 国策会社、南満州鉄道の理事といえば、中央官庁の次官以上といわれ、報酬もはるかに多かった。華やかさに欠け、中小の製塩業者からの恨みを買う損な役回りから逃げ出すには、渡りに船という以上だったろう。

 浜口は惜しげもなく断った。「今の仕事を途中で投げ出すわけにはいきません」というのが理由だった。 

 後藤の誘いはこれで終わらない。第2次桂太郎内閣の逓信大臣に就任すると、今度はその次官の椅子を用意した。浜口はまたも「塩田整理がまだ終わっていませんから」とにべもなかった。

 こうなるともはや頑迷という方が適当だろうが、後藤もしぶとい。桂の3回目の組閣で逓信大臣に再度就任したのを機に3たび浜口を口説く。

 延々と続いた塩田整理も終了していたため、浜口も今度は断る理由がみつからず、ついに逓信次官のポストを受けざるをえなかった。

 内閣が短命であることを承知で、後藤の恩義に応えるためにあえて引き受けた(川田稔『浜口雄幸 たとえ身命を失うとも』など)あたり、いかにも浜口らしい。

 大風呂敷というあだ名を奉られた後藤と、正反対のタイプの浜口の心の触れ合いも興味深い。 

 近年、政界の有力者とのコネクションを求め、その力を利用してのし上がろうという目前が利く官僚が少なくないことを考えると、浜口の行動は愚直とでも評すべきか。

 現代史研究家の間でも浜口の点は高い。波多野勝は「金権腐敗で名を高めた首相は数多いが、公明正大、謹厳実直という視点で国民の付託を受けた首相は浜口ただ一人と言い切っても過言ではない」(『浜口雄幸 政党政治の試験時代』)と激賞する。

1231名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:42
>>1230

ぼろアパートが終の棲家
 もうひとり筆者が触れたいのは、浜口同様、暗殺という非業の死を遂げた元日本社会党(現社民党)委員長の浅沼稲次郎だ。

 年配の読者は覚えているだろう。1960(昭和35)年、革命前夜を思わせた日米安保条約改定反対の闘争を指導、その年の10月、日比谷公会堂で演説中に右翼少年の凶刀に倒れた。

 魁偉な容貌でエネルギッシュ、それでいて気さくに国民に語りかける活動ぶりから、親しみを込めて“人間機関車” “ 演説百姓”などというニックネームで呼ばれた。 

 死後出版された追悼集『邁進 人間機関車ヌマさんの記録』の中で、生前ゆかりの人たちが大衆政治家・浅沼をいきいきと描いている。

 驚くのは、死去するまで住んでいた東京の下町、深川のアパートだ。

 戦前の建設当初はモダンさを誇ったようだが、浅沼の晩年は、壁や窓は荒れ放題。洗濯物があちこちに干され、質素という表現すら誉め言葉に聞こえるほどのぼろアパート。いわれなければ、社会党現職委員長が住んでいるとは到底想像できなかったろう。

 浴衣姿の浅沼が当時の子供たちの娯楽、紙芝居をベランダからニコニコしながら、のぞき込んでいる写真が残っている。どうみても下町の好々爺だ。

楽しみは“馬肉パーティー”
 食べ物にしても贅沢なものは好まず、好物はさくら肉、つまり馬肉だ。党本部の職員を慰労するときなど、かならず登場する。もちろん、自分も大いに食べる。

 浅沼の前任委員長の河上丈太郎は何度か“馬肉パーティー”によばれたことがある。多くの人に囲まれてうまそうに頬張る浅沼は楽しそうだったと回想している。

 夜討ちに訪れる新聞記者にふるまわれるのはカクテル「深川割り」。何のことはない国産3級ウィスキーを番茶で割っただけの代物。味などはおかまいなし。

 子宝に恵まれず、かわいがっていた秋田犬が唯一の自慢の種という嘘のような話もある。

 昨今のコロナ対策のために、自衛隊の看護師らが迷彩服姿で他の病院に応援に出動している中、最高指揮官の総理大臣が高級レストランで夜の会食を楽しんだり、総務省の役人が業者の接待で7万円ものステーキに舌鼓を打つなどとは、時代も違うが、まるで別世界の出来事のようだ。

 浅沼が亡くなった時、当時の首相、池田勇人が衆議院本会議で追悼演説をした。さわりを引用する。

 「君は、日ごろ清貧に甘んじ、30年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます」――。

 浅沼について、すべて言いつくされているだろう。 

 池田の秘書官だった伊藤昌哉の筆になるこの演説は国民の間に感動を呼んだ。池田は後に「5億円か10億円の価値があった」と、好敵手の死を悲しみながらも満足気げだった(伊藤昌哉『池田勇人 その生と死』)。

1232名無しさん:2021/03/23(火) 17:47:03
>>1231

疑惑の時代の清涼剤
 身辺清潔だったのは浜口、浅沼だけではない。冒頭に触れた西郷、板垣のほか、憲政の神様といわれた尾崎行雄、「五・一五」事件で暗殺された犬養毅、最近では、「首相の座を蹴った男」、元官房長官、伊東正義らの名もしばしば聞かれる。

 浜口、浅沼についても異なった評価もあるだろう。しかし、あえて取り上げたのは、総務省のスキャンダルにうんざりしている国民も、かつて身辺清潔な政治家、官僚が活躍していたことに救われる思いを感じるだろうと思うからだ。

誠実さ欠く疑惑の政治家、官僚
 総務省の問題に少しだけ触れてみたい。

 今回の問題は、多額のワイロが動いたケースではなく、高額ではあるものの接待、饗応だ。そのせいか、検察など捜査当局に表立った動きはみられないようだ。

 しかし、国会でのやり取りなどからみるかぎり、総務省の当事者はじめ、菅首相ら政府首脳に誠実さ、正直さの欠けることが、国民の強い反発を呼んでいると思えてならない。

 国会で追及を受けた同省の官僚がうそを重ね、省内調査が進行中であることを盾に答弁を拒む。総務相自ら委員会の席で事務方に「記憶にないと言え」と指示、追及されると「無意識に口に出た」と人を食ったような弁明をする。

 野党の舌鋒が政権の失点探しと感じられることを割り引いても、不十分な省内調査を国権の最高機関に優先させ、大臣が不誠実な答弁を指示したりすることは許されまい。

 2人の総務大臣経験者にも驚いた。元部下が国会で窮地に立っているときに、同様に業者と会食していた事実をひた隠し、発覚すると、「会費を払った。それを上回る費用がかかっていたなら先方の約束違反だ」と開き直る。職務に関する依頼はなくとも、饗応を受けただけでも収賄になることを知らないのだろうか。

  追及逃れのように辞職した官邸の高官の退職金は5000万円にものぼるという。

 饗応役人に平均的な国民の何倍もの退職金を税金から払うほうも払うほうだが、罪の意識もなく受け取る方も受け取る方だ。実際に支給されたとしたら、コロナ騒ぎに苦しみながら額に汗して働く納税者の悔しさをどう感じるか。  

 疑惑の時代にあって、私利私欲がなく、身辺を飾らない政治家がいかに新鮮に思えることか。

 かれらがいま健在だったら、何と言うだろう。

樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)

1233とはずがたり:2021/03/28(日) 12:17:57
和田 豊治
わだ とよじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%B1%8A%E6%B2%BB

生年月日 1861年12月19日
(文久元年11月18日)
出生地 日本の旗豊前国
没年月日 1924年3月4日(62歳没)
出身校 慶應義塾
前職 富士紡績社長
日華紡績社長
明治神宮奉賛会理事長
称号 従五位勲三等瑞宝章(1924年)
藍綬褒章(1911年)
日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1922年 - 1924年

和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。

従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。

人物

豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。

はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に奇食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。明治17年(1884年)7月に慶應義塾を卒業して翌年に渡米し、甲斐織衛の商店や葉巻煙草製造所で職工として働く。

1891年(明治24年)に帰国し、日本郵船神戸支店へ入社したが翌年退社し、三井銀行を経て鐘淵紡績東京本店支配人に就任。欧州の先進技術を導入して同社の経営を立て直し、その功績により1911年(明治44年)に藍綬褒章を受けることになる[1]。 1893年(明治26年)から1900年(明治33年)まで中国に漫遊し、日清戦争や遼東還附、義和団の乱を見聞した。帰朝後の1901年(明治34年)に三井家を辞職し、富士紡績に身を移し、専務取締役となった。東洋協会評議員、南亜公司相談役となり、大正元年(1912年)にエジプトで行われた万国紡織聯合会に日本国代表者として出席。

1913年(大正2年)に東京商業会議所特別議員となり、日本興業銀行総裁を辞退、以来政府の国策政策に次々と関わるようになり、大正4年(1915年)正六位、同年に明治神宮奉賛会理事長。大正6年(1917年)日本郵船取締役、東洋製鐵会社取締役、翌年日華紡績会社社長。大正8年(1919年)輸出綿織物連合会組長、第一生命保険会社相談役。大正9年(1920年)日華実業協会副会長。大正10年(1921年)皇典研究所理事、同仁会理事に就任し、理化学研究所創立に奔走した。大正11年(1922年)貴族院勅選議員、日本経済連盟会常務理事、南洋協会副会頭、山東鉱業会社を創立し、中国を漫遊。南満州鉄道株式会社に入り社長に推されるも辞退。大正12年(1923年)には、山本内閣の下で帝都復興審議会委員(大臣待遇)として聘され、内務省社会局参与に就任した。大正13年(1924年)に多忙により健康を損ね、胃癌のため早世した。叙従五位勲三等瑞宝章。

「鴎会」を創立してよく中国を漫遊し、中国と日本の間の友好と相互的経済発展を促進したことでも知られる。ワシントン会議と期を同じくして、原敬内閣の下では、首相官邸で話し合いが行われ渋沢栄一以下、井上準之助、和田、藤山雷太、団琢磨の五人が発起人となって実業団を編成して「英米訪問実業団」が途についた。財界に大きな足跡を残し、渋沢敬三の晩酌人を務めた。渋沢栄一が財界から身を引いた後は、和田と井上準之助の二人が「財界世話役」としてこれを継がんとしたが、両君ともに他界してからは、政界と密接に癒着して頭角をあらわしてきた「番町会」のパトロン・郷誠之助がその座に就いた。

皇典講究所理事としては、國學院大學(当時皇典講究所が経営母体であった)の渋谷移転に尽力。皇典講究所・國學院大學の創立以来、校地に神殿がないことを遺憾とし、校庭に学神を鎮祭する神殿建立を希望してその費用1万5千円を指定寄付したが、関東大震災で着工が遅れ、1930年(昭和5年)5月1日の鎮座を目にすることなく死去した[1]。

1234名無しさん:2021/03/29(月) 06:47:34
https://news.yahoo.co.jp/articles/964543370be0c6c8641f58c031ad68af0d297663
李鶴来さん死去 96歳 韓国人元BC級戦犯の政府補償求め活動
3/28(日) 19:57配信
毎日新聞
 元日本人軍属で、日本政府に補償を求めている韓国人元BC級戦犯者でつくる「同進会」会長の李鶴来(イ・ハンネ)さんが28日、外傷性くも膜下出血のため亡くなった。96歳だった。葬儀は家族で営む。

 日本統治時代の朝鮮半島全羅南道出身。1942年、17歳で日本軍の軍属となった。タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設現場で捕虜監視員として働いたが敗戦後、シンガポールでの裁判で「戦犯」とされ死刑判決を受けた。懲役20年に減刑され、56年まで巣鴨プリズンに収容された。日本が52年に独立した際、旧植民地出身者は日本国籍を失い、日本政府は日本人の元軍人や軍属に対しては行う補償や援護を拒んだ。李さんは仲間とタクシー会社を起こす一方で、歴代の首相に解決の要望書を出すなど活動を続けた。司法にも訴えたが99年に最高裁で敗訴が確定。その後、立法による救済を求めて活動していたが、近年は病気などで入退院を繰り返していた。今月24日、自宅で転倒して頭を打ち入院していた。

1235とはずがたり:2021/04/05(月) 10:23:15
旧日本軍を学ぶためにおすすめ本
2021年3月25日2021年4月4日 5分
https://www.paya-paya-kun.jp/?p=442

1236とはずがたり:2021/07/13(火) 13:20:28
五輪控えた日本が公開的赤恥…ユネスコ「軍艦島歪曲」に警告
? 中央日報/中央日報日本語版
2021.07.12 18:03
https://s.japanese.joins.com/JArticle/280680?sectcode=A10&servcode=A00

ユネスコが日本の強制徴用被害歪曲の試みに公開的に警告状を投げかけた。

ユネスコ世界遺産委員会は12日、日本が2015年6月に「軍艦島」(端島)など7カ所の朝鮮人強制労働施設を含む23カ所の近代産業施設が世界文化遺産として登録された当時に約束した「犠牲者を記憶にとどめるための適切な対応」をまともに履行していないと指摘した。

この日公開された世界遺産委員会の決定文には、1940年代に該当施設で韓国人などが強制労働の被害を受けたという事実をしっかり伝えておらず、犠牲者に対する追悼措置もやはり不十分だったとされている。特に決定文には日本の後続措置未履行に対し「強い遺憾を示す」という表現が盛り込まれた。「強い遺憾」という表現自体も強度が高い上に通常は政治的な判断をしないユネスコがこのような形で事実上の警告をしたこともまた異例と評価される。日本としては東京五輪開幕をわずか11日後に控えて強制徴用問題で国際的に恥をかいた格好だ。

1237とはずがたり:2021/09/24(金) 21:30:35

731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
https://mainichi.jp/articles/20210911/k00/00m/030/011000c
イチオシ 前谷宏
毎日新聞 2021/9/12 14:00(最終更新 9/12 14:00) 有料記事 1396文字

 ロシアのプーチン政権が第二次大戦中の日本軍の戦争責任を強調する動きを続けている。8月には旧関東軍の細菌兵器開発などに関する文書を公開。今月には旧ソ連が日本の戦犯を裁いた「ハバロフスク裁判」に関する学術会議を開き、プーチン大統領が歴史の「改ざん」を批判するメッセージを寄せた。専門家の見方を交え、その背景を考える。

 「事実や公文書に基づく議論は、第二次世界大戦の歴史をゆがめる試みに対抗するために重要だ」

 ロシア極東ハバロフスクで6日に開かれた学術会議の冒頭で、司会者がプーチン氏のメッセージを読み上げた。ラブロフ外相も「日本の軍国主義者の残虐行為を将来まで記憶することが重要」と述べるビデオメッセージを送った。

 ハバロフスク裁判は1949年に関東軍の幹部や、細菌兵器の開発などに取り組んだ731部隊の隊員らを裁いたソ連の軍事裁判だ。ロシアの情報機関・連邦保安庁(FSB)は8月、学術会議に先立って、関連する文書を機密解除し、国営メディアが大きく報じた。731部隊がソ連兵らの捕虜を細菌兵器の人体実験に使ったとの文書や、関東軍がソ連との戦争を準備していたとする文書が含まれているという。

 学術会議はナルイシキン対外情報庁長官が代表を務めるロシア歴史協会や内務省、国防省などが主催者となり、「ソ連軍が日本軍の細菌戦を防ぎ、世界を救った」ことが強調された。

 プーチン政権は北方領土交渉で、「第二次大戦の正当な結果として北方領土の主権がソ連に移った」と主張するなど、しばしば日本に対し歴史問題を取り上げてきた。学術会議にオンラインで参加したナルイシキン氏も「日本が大戦の結果を認めることが、最も敏感な問題も含めて露日関係を新たな水準に発展させる基礎となる」と発言。ソ連軍による北方領土の不法占拠を訴える日本の立場をけん制した。

この時期に歴史問題を持ち出す理由は
 ただ、ロシアの歴史問題での「攻撃」がどの程度まで対日関係に影響するのかについて、学術会議に出席したドミトリー・ストレリツォフ・モスクワ国際関係大教授(日本史)は「それほど深刻にはならない」との見方を示す。機密解除された文書の内容はすでに知られている事実がほとんどで、日本の新たな「戦争犯罪」を追及するような資料ではないためだという。

 むしろストレリツォフ氏が指摘するのは…

1238とはずがたり:2021/10/15(金) 21:10:19
北海道と北方領土つなぐ海底通信ケーブル、ついに発見…専門家ら40人が発掘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211011-OYT1T50002/
2021/10/11 09:03

1239荷主研究者:2021/11/27(土) 22:54:42
>>1238
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/598325?rct=n_hokkaido
2021年10/09 20:00 北海道新聞
根室と国後島を結んだ通信用海底ケーブル発見 陸揚庫で初の発掘調査

陸揚庫海側の敷地内で発掘されたケーブル(手前)

 【根室】終戦直後まで根室と北方領土国後島を結んだ通信用海底ケーブルの中継施設「陸揚(りくあげ)庫」周辺で9日、初めての発掘調査が行われた。施設海側の地下から、国後島方面に延びるケーブルの一部が見つかった。陸揚庫は国の登録有形文化財になることが決まっており、根室市は調査結果を今後の保存や活用に役立てる。

 陸揚庫は鉄筋コンクリート造り平屋建て。ケーブルは旧逓信省が1900年(明治33年)に国後島との間に38キロにわたって敷設し、戦後は切断されたまま放置されていた。99年にホタテ漁に支障があることから沿岸近くの1・5キロを撤去したが、陸上部分は手つかずだった。

 市が実施した調査にはボランティアら約30人が参加。施設の海側を重機やスコップで掘ると、深さ約50センチの場所で直径5・5センチのケーブルが見つかり、陸揚庫内部にも通じていた。

 調査を指導した北海道博物館(札幌)の右代啓視(うしろ・ひろし)学芸員は「建物がケーブルの中継に使われていたことが明確になった。北方四島とのつながりを示す象徴的な建物だ」と話した。(武藤里美)


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