したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本の城郭

393荷主研究者:2019/02/09(土) 23:33:58

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190101000037
2019年01月01日 12時10分 京都新聞
高まるブーム、安土城も再建? 復元向け滋賀県が調査

建築史家の研究に基づく安土城の模型。建造時の全容が分かる資料は見つかっていない(滋賀県近江八幡市安土町小中・安土城郭資料館)

 戦国時代に織田信長が築き、豪壮華麗な天主を誇ったとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の復元に向け、滋賀県が新年度から本格的な検討に乗り出す。全容の分かる資料がない「幻の城」で、海外の資料も調査してきたが実を結んでこなかった。近年の「城ブーム」などを追い風に民間団体の再建熱も高まり、県は調査団の再派遣も視野に、名城復活への道を探る。

 安土城は築城から3年後の1582(天正10)年、天主が焼失した。長年復元を望む声がある一方、城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには建造当時の設計図や絵図などをそろえる必要があった。

 そのため県と旧安土町は1984年、信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探す調査団をバチカンに派遣。その後も調査は続けられたが、発見には至っていない。

 一方で全国的に城巡り観光が注目され、信長を討った武将明智光秀が主人公のNHK大河ドラマの2020年放映が決定。国も文化財の保護から活用へかじを切る中、県は経済効果が大きいとみて、復元の糸口を探ることにした。

 ただ、仮に屏風絵が見つかっても、耐震性の観点などから木造での復元は難しいとの見方が優勢だ。そのため県庁内には、城跡に近く、かつ史跡指定外の場所に、信頼性が高いとされる復元図面で再建するのが最も現実的とする意見もある。いずれにせよ巨額を要するため、民間と連携して可能性を探る方針だ。

 昨年、県に再建を提言した滋賀経済産業協会はコンクリート造りの場合、工費は300億円程度と試算。商業施設の併設も構想し「長期的に考えれば費用面はクリアできる」とする。

 NPO法人「安土城再建を夢見る会」(近江八幡市)は今年からシンポジウムなどを通じ、全国的に再建の機運を高める方針という。尾﨑信一郎理事長は「安土城は普通の城ではなく、天下統一を目指した信長の思想が込められている。観光資源としてだけでなく日本の宝になる」と再建の意義を訴えている。

394荷主研究者:2019/03/17(日) 11:42:40
>>393
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190212000025
2019年02月12日 10時52分 京都新聞
安土城「復元」に大きな壁 設計や外観不明、滋賀県が調査法検討

安土城跡の大手道。滋賀県は城の復元に向けた取り組みを本格化させる(近江八幡市安土町下豊浦)

 滋賀県は新年度から、安土城(近江八幡市)の復元に向けた取り組みを本格化させる。2026年の築城450年祭に照準を合わせ、映像技術の活用を含めた「目に見える形での復元」を目指す。新年度は県民の機運を高める講座を開くほか、全容の分かっていない城の実像に迫るための調査手法を検討する。

 安土城を巡っては、県内の経済団体やNPO法人の間で再建熱が高まっており、年初に三日月大造知事が復元を目指す方針を表明した。その後「想定以上の反応がある」(三日月知事)として、急きょ新年度当初予算案に計900万円を確保。復元の方向性を探ることにした。

 ただ最大のネックは、城の設計図や外観が分かる絵図が見つかっていないことだ。城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには当時の姿を正確に再現する必要がある。これまでにも、築城した織田信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探すため、調査団をバチカンへ派遣するなどしてきたが、発見には至っていない。

 そのため、県は19年度に調査に携わった人への聞き取りなどを行い、復元に向けた課題や調査方法を検討する。また、小説家らによる講演会や過去の発掘成果を紹介する映像制作を通じて、県民の関心や理解を広げる方針だ。

 調査団の再派遣も視野に入れ、20年度には関連資料の調査や専門家の意見集約を行う予定。城跡での再建築の可否に加え、VR(仮想現実)技術や映像投影などの手法も検討し、21年度に具体的な復元方法や実施主体を決める。民間にも参加を呼び掛ける。

 三日月知事は「いたずらに天主を建てるのではなく、城を大切に思う方々とよく議論をしていきたい。第1段階は知恵を集めるために、夢を膨らませる取り組みを目指したい」としている。

395荷主研究者:2019/03/31(日) 10:18:19

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20190219/CK2019021902000050.html
2019年2月19日 中日新聞
現天守解体準備9億円超 名古屋市、完成スケジュール維持

 名古屋城天守の木造復元事業で、名古屋市は現天守を解体する準備工事費として九億六千万円を二〇一九年度の当初予算案に盛り込んだ。文化庁から復元事業の許可が得られない中、五月の文化審議会で解体許可を先行して得られなければ二二年末の完成スケジュールの維持が不可能となるだけに、河村たかし市長は新年度を「正念場」と位置付けている。

 現天守の解体には、内堀の中に解体片を仮置きしたりトラックで搬送したりする作業場「構台」を築く必要がある。内堀にすっぽり埋まる寸法で、トラック搬送路として北側の名城公園へ桟橋をかける工事と合わせ、二〇年度までに二十一億円を計上する計画だ。

 文化庁が復元許可に先駆けて解体許可を出すかは前例がないため未知数だが、市は許可が得られ次第、解体の本工事費も予算化する方針。逆に、許可が得られない場合は準備工事費を執行できず、翌年度に繰り越される可能性もある。

 復元天守のバリアフリー問題では、エレベーターに代わる新技術を募る国際コンペ開催費に四千万円、新技術の実証実験の場となる実物大(幅一・八メートル、高さ二十四メートル)の階段の制作費九千万円も計上した。階段は、正門南側の東海農政局に隣接する市管理の広場に設置し、二階建ての建物で覆って市民が上ったり実験を見学したりできるようにする。

 ほかにも天守内部の詳細な設計費に六億九千万円、木材の調達費に十七億一千万円など、計三十五億円を復元事業に充てた。

 北西側の外堀に船を浮かべたり、重要文化財の本丸表二之門を大規模修繕したりするための調査費や、本丸御殿の本来の場所にはめ込んで展示する重文障壁画を増やす費用など、観光施設としての名古屋城の魅力を向上させるための取り組みも予算化した。

 (谷悠己)

396とはずがたり:2019/04/09(火) 22:55:44
個人的には戦国スレの此処へ

https://bushoojapan.com/scandal/2017/12/14/107399
伊達政宗の手紙(書状)が、本人に気の毒なぐらい面白い件につきまして

397荷主研究者:2019/04/21(日) 23:35:33

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/823523
2019年3月27日 午前7時30分 福井新聞
丸岡城の天守、最古でない可能性
戦国時代でなく江戸時代の建築

江戸時代の寛永年間に建築されたとの調査結果が出された丸岡城天守=3月26日、福井県坂井市丸岡町上空から日本空撮・小型無人機ドローンで撮影

 戦国時代の創建とされてきた福井県坂井市の丸岡城天守の整備時期が、江戸時代の寛永年間(1624〜44年)と推定されることが3月26日、市教委の調査結果で明らかになった。全国には1615年の一国一城令以前に建てられた天守が姫路城など複数残っており、「現存する最古の天守」としてきたアピールの手法が軌道修正を迫られそうだ。

 ⇒「価値不変」国宝化運動は継続

 市教委から委嘱を受けた丸岡城調査研究委員会の吉田純一会長(福井工業大学客員教授)が同日、坂本憲男市長に報告した。

 天守に使われている部材について、年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体比から年代調査を行った結果、多くは1620年代後半以降に伐採されたと結論付けた。

 丸岡城の創建時期については、戦国武将・柴田勝家のおいの柴田勝豊による1576(天正4)年と、初代丸岡藩主の本多成重が入城した1613(慶長18)年以降の2説があった。調査結果を受け市教委は、丸岡藩が24年に立藩したことを契機として、成重の代に整備された可能性が高いと判断した。

 天守台の石垣が自然石をそのまま積んだ野面(のづら)積みで、16世紀後半に伐採された部材も天守の一部にあることなどから、吉田会長は、現存の天守が建築される以前に「前身となる天守が存在した可能性は高い」と指摘。ただ、構造的に重要な役割を持つ通し柱が1626年以降に伐採されたとの判定が出ており、天正期の天守を改修したのではなく、寛永年間に新たに建てられた可能性が高いとした。

 一方で吉田会長は、丸岡城は下層部の建築後に物見櫓の「望楼」部分を載せる望楼型であり、一国一城令以前の城に多く見られる天守草創期の造りであるとし「建築様式が移り変わる時期に、(当時としては古い様式の)望楼型で建てられたことは逆に意義がある」と述べた。

398荷主研究者:2019/07/10(水) 22:55:42

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20190621/CK2019062102000025.html
2019年6月21日 中日新聞
「浜松城二の丸」に迫る 旧元城小跡地を市が発掘調査

浜松城二の丸の発掘調査を始めた職員ら=浜松市中区の旧元城小跡地で

 浜松市は二十日、浜松城二の丸があったとされる同市中区の旧元城小学校跡地で発掘調査を始めた。江戸時代を通じて浜松藩政の中心だったといい、市は、徳川家康が浜松城に居城していた頃の遺物が出てくる可能性があると期待する。 

 来年度以降の本格調査に向けた試験的な発掘で、二〇二〇年一月末までを予定する。対象は跡地約一万六千平方メートルのうち約三千平方メートルで、幅二メートルの溝を網目状に縦横にショベルカーで掘り進める。数十センチから一メートル超の深さまで掘る予定で、江戸時代の地層まで調べる。

 市によると、二の丸には藩の政務を行い、藩主が日常生活を営む御殿があった。残された「二の丸御殿絵図」を見ると、御殿の北東側に台所、北西側に寝間があったことがうかがえる。

 絵図と照合しながら調査を進める。市は一一年にも跡地の一部で試験的に調査し、徳川家康が浜松城を居城にしていた一五七〇〜八六年ごろに使われた可能性がある井戸跡を確認している。

 旧元城小跡地は、明治時代は民家があり、戦後は小学校用地に整備されたとされる。二の丸のほか、浜松城本丸の石垣や堀があったとされる場所もある。市文化財課の担当者は「江戸時代よりもっと古い遺物や遺構が出土する可能性もある」と語る。

(篠塚辰徳)

399とはずがたり:2019/10/19(土) 21:53:35
勿体ない!

大きすぎてお蔵入り? 精巧な城模型、展示先決まらず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-00000004-kobenext-l28
10/19(土) 10:00配信神戸新聞NEXT

 兵庫県の三木市高齢者大学大学院の地域活動講座内のグループ「三木城再現模型を創る会」が昨年末に完成させた三つの模型の展示先がいまだに見つかっていない。模型やパネルなど1メートルを超える大きさがネックになっており、現在は一時的にまなびの郷みずほ(三木市細川町瑞穂)に置かれているが、このままでは文字通りお蔵入りに。同会会長の勝丸桂二郎さん(73)=三木市=は「官民問わず、三木の活性化に役立ててもらいたい」と願う。(大橋凜太郎

 模型の作製は2016年秋に勝丸さんが発案。みき歴史資料館主任の金松誠さんが描いた配置図を参考に、メンバーが図面を起こし、模型会社に依頼した。ところが、提示された制作費の試算は一つが約500万円。それなら自分たちで作ろうと、18年4月から制作に取りかかった。

 力を尽くしたのは、メンバーで設計会社やメーカーの元技術者ら。郷土史家の助言も受けながら想像を巡らせ、築城、降伏開城、廃城と3時代の姿を形にした。精巧な造りながら、制作費用は模型会社の試算の40分の1以下に抑えた。

 今年1月、三木市役所3階プロムナードを皮切りに、緑が丘町公民館(同市緑が丘町中3)、中央図書館(同市福井)で展示会を開催。延べ約2500人が見学したが、5月以降の展示実績はない。

 常設のネックになっているのはその大きさ。模型はそれぞれ縦横110センチで、3世代の歴史を紹介するパネルも1枚が縦110センチ横80センチと幅を取る。市教育委員会生涯学習課の担当者は「所管する施設などに声を掛けたが、期間限定の展示が前提。常設は難しい」と話す。

 勝丸さんは「常設でなくても、巡回展示や学校園への貸し出しで郷土史の勉強に生かしてもらえないか。展示スペースを持つ会社にも活用の検討をお願いしたい」と期待を掛ける。

400荷主研究者:2020/01/12(日) 12:50:58

https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20200103101.htm
2020/01/03 01:10 北國新聞
金沢城二の丸御殿復元に着手 詳細史料確認受け知事が表明

 石川県が復元の可能性を探る金沢城二の丸御殿で最大の謎だった内外装の詳細を記した史料が確認されたことを受け、谷本正憲知事は2日、北國新聞社の取材に「あれだけのデータが見つかれば取り掛からざるを得ない。全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と述べ、復元に着手する意向を示した。県は専門家による調査検討委員会に諮る方針で、金沢城整備の総仕上げとなる御殿の復元計画が加速しそうだ。

 谷本知事は2日に金沢市内のホテルで開かれた自身の新年互礼会の席上、馳浩衆院議員や福村章県議会議長に御殿復元に前向きな考えを伝え、馳、福村両氏は復元計画に協力することを約束した。

 史料「二之御丸御殿御(にのおまるごてんご)造(ぞう)営(えい)内装等覚(おぼえ)及び見本・絵(え)形(がた)」は、金沢市立玉川図書館に所蔵される加越能文庫で見つかった。御殿で使われた全ての金具の意匠が描かれ、壁紙は説明に加えて実物見本も付いていた。

 谷本知事は取材に「史料そのものにも一流の価値がある。カラーで描かれており、御殿の内装が全て再現できる」と評価した。実物や写真がない障(しょう)壁(へき)画(が)や欄間(らんま)についても「作者が誰で、どんな絵かも全て書いてある」と述べ、作者と題材の類例を調べることで復元は可能との見方を示した。

 二の丸御殿は加賀藩政の役所機能を備えながら藩主らの生活の場でもある城内最大規模の建物だった。谷本知事は「これまで復元してきた櫓(やぐら)や門とは違う」と話し、加賀百万石の威容を示す精緻な内外装の再現が重要になると強調した。

 建坪約3200坪(約1万600平方メートル)に及ぶことにも触れ、「一度に復元することは無理だ。これから計画を作っていくことも念頭に置くと、全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と指摘した。

 県が2018年度に設置した金沢城二の丸御殿調査検討委員会は、19年2月、二の丸御殿のうち、藩主が政務を執った「表向(おもてむき)」を中心に「御殿の復元を具体的に検討することは可能」とする中間報告をしている。国史跡「金沢城跡」内であり、「史実に沿った建物」の復元計画を立てた上で、文化庁の許可を得る必要がある。

401荷主研究者:2020/01/12(日) 16:23:21

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54121610X00C20A1CR8000/
2020/1/7 17:23 日本経済新聞 南関東・静岡
駿府城跡で新たな石垣遺構 小天守、江戸時代前で初

402荷主研究者:2020/01/12(日) 16:27:35

https://www.gifu-np.co.jp/news/20200108/20200108-204895.html
2020年01月08日 08:05 岐阜新聞
信長築いた石垣確認 岐阜城天守が日本最古?

今回発見された織田信長が築いた岐阜城の天守台の石垣=7日午後2時20分、岐阜市、金華山

 岐阜市教育委員会は7日、市内の金華山山上部で行った発掘調査で、戦国武将織田信長が築いた岐阜城の天守の土台(天守台)の石垣が初めて見つかった、と発表した。市教委などによると、これまで文献では山上部の建築物に触れられていたが、今回、信長が造ったとみられる天守に相当する高層建築物が実在したことが裏付けられた。信長が築いた天守は、1579年完成の安土城が最初に築かれたといわれているが、岐阜城が最古の可能性が高くなったという。市教委は「天守の起源を考える上で重要な発見」とし、今後も調査を進める。

 市教委は昨年10月から、現在の天守西側や二ノ門周辺、岐阜城資料館南側の山上部3カ所で発掘調査を実施。今回、現在の天守西側で、天守の北西隅の石垣を確認した。

 天守台の石垣は、1910年に初代の復興天守の建設時に積み直されたものがあるが、信長期の石垣は現存しないとみられていた。だが今回、石垣の一部が地表に露出していたことから、周辺の約5平方メートルを発掘し、長さ約180センチ、高さ約70センチのチャートでできた3段の石垣が見つかった。

 石垣を斜めに積み上げているほか、石材の隙間に小さな「間詰め石」が詰められていたり、石材の合わせ目が奥側にあったりする信長期の石垣の特徴が見られ、改修した形跡もない。市教委はこれらを基に、1567年に信長が岐阜城に入城した直後に築造されたと判断した。

 江戸中期の元禄年間に描かれた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社所蔵)には、今回石垣の見つかった場所に「天守台」と記され、位置や形も合致していた。絵図によると、天守台石垣は長さ約16メートル、高さは約4メートルとされる。

 山上部の建築物について、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書では、信長期に山上部に豪華な座敷があったという旨の記述があったが、詳細が分からず、天守が実在したことは証明されていなかった。

 今回の調査では1600年の廃城時に埋められた天守の屋根瓦も見つかったが、信長期のものかは不明という。二ノ門や岐阜城資料館周辺でも信長期の石垣が確認された。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「(岐阜城天守は)日本最古の可能性が高く、日本の城郭の変遷や天守の成立を考える上で意義がある」、柴橋正直市長は「大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』の放送の年に今回の大発見が重なったことは、貴重な出来事」と話す。

 市教委は今月14〜18日に石垣などを現地で公開する。公開は午前10時〜正午、午後1時〜同3時。雨天中止。

403荷主研究者:2020/02/02(日) 23:17:17

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54633150R20C20A1CE0000/
2020/1/21 11:35 日本経済新聞 電子版 中部
天守の木造再建に高い壁 文化財保護や史料確保

404荷主研究者:2020/02/03(月) 21:28:51

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20200123/CK2020012302000033.html
2020年1月23日 中日新聞
二俣、鳥羽山城跡 浜松市が保存活用計画概要

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020012202100318_size0.jpg
石垣が残る二俣城跡=浜松市天竜区で(同市提供)

 浜松市は、天竜区二俣町にある国史跡の二俣城跡と鳥羽山城跡について、二月中旬に国への申請を予定する「保存活用計画」の概要をまとめた。基本方針には、周辺の歴史遺産や文化施設を含めた活用を盛り込んだ。

 二十二日の市議会市民文教委員会で報告した。

 市文化財課によると、二〇一九年四月の文化財保護法改正に伴い、史跡の管理団体が保存活用計画を作成し、国に申請できるようになった。認定されると、補助金交付手続きの円滑化などが期待できる。二つの城跡を管理する市が計画を申請し、順調に進めば五月中に認定される見込み。

 市はこれまで、有識者の協議や住民の意見を参考に保存活用計画の作成を進めてきた。概要には、史跡が目指す姿として「城郭の推移と特徴が理解できる場としての魅力を高め、歴史の重層性が体感できる城跡を目指す」と明記。基本方針として調査研究、保存、活用、整備、運営体制の五項目を挙げた。

 保存では「周辺環境との調和を図りながら史跡全体の保存管理に努める」、活用については国史跡に指定される光明山古墳(天竜区山東)、秋野不矩(あきのふく)美術館(同区二俣町)など周辺の遺産や施設も含めて「関連する歴史文化資源と一体で行う」とした。

 整備は「山城の姿を顕在化させるとともに、都市公園としての機能と自然学習や市民憩いの場としての価値に留意する」との考え方を示した。

 これらに関連し、二つの城跡の整備計画を想定し、地図の複数箇所に「土塁の復元検討」といった課題を記した。市は、将来の整備指針となる「整備基本計画」を二一年度末までに策定する予定。

 二俣城跡と鳥羽山城跡は戦国時代の山城で、徳川軍と武田軍が攻防戦を繰り広げた。一八年二月、国史跡に指定された。

(原一文)

405荷主研究者:2020/02/03(月) 22:05:02

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607338&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/25 中国新聞
広島城にぎわい拠点に 20年度試掘に着手方針

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200125chugoku01.JPG
広島市が飲食・物販施設などの導入を検討し、現在はバス駐車場となっている広島城の三の丸(手前)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200125chugoku02.JPG

 広島市は、広島城(中区)を囲む「三の丸」がかつてあり、現在は観光バス用の駐車場として使う場所に飲食・物販施設などを整備するため、2020年度に試掘、発掘調査に着手する方針を固めた。国内外からの観光客でにぎわう拠点にしようと、関連経費を20年度の当初予算案に盛り込む方針でいる。24年度をめどに施設の開業を目指す。

 市は、三の丸のあった場所に飲食・物販施設のほか、観光案内所や広島城の収蔵品の一部の展示場、イベント広場、バスの乗降場を整備する構想を描く。調査と並行して、具体的な整備計画の策定を進める。

 天守閣や二の丸のある広島城跡は国史跡で、駐車場は市が管理する国有地。地下に文化財が埋まっている可能性がある土地として市が指定しており、文化財保護法に基づき、開発の際には調査する必要がある。発掘調査で遺構を保存する必要性が出た場合は、導入する機能や施設を柔軟に見直すという。

 三の丸は江戸時代、旧広島藩主浅野家の屋敷などがあり、近親者たちが暮らしていたとみられている。明治以降は旧陸軍の施設が建てられ、戦後は観光バス駐車場や噴水広場などに改変されていた。

 市は広島城全体の見直しを議論する有識者会議を27日に開き、基本構想の素案を示す。素案では広島城を「広島観光のネットワーク拠点」などと位置付ける。観光客に広島城で原爆により壊滅する前の広島の歴史や文化を理解してもらった上で、平和記念公園(中区)やサッカースタジアムができる中央公園自由・芝生広場(同)への回遊を促す想定でいる。

 広島城を巡っては、昨年度の入館者数が約30万人で、約152万人訪れた原爆資料館(同)に比べ、観光客を誘導できていないことが課題となっていた。市は昨年10月に建築や観光の専門家たちを集めた有識者会議を設け、再建から62年を迎える天守閣の老朽化対策を含めた魅力の向上策などを議論している。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊。58年に鉄筋5階建てで復元された。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

406荷主研究者:2020/02/16(日) 11:38:44

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607848&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/27 中国新聞
広島城天守閣、耐震性不足 市、有識者会議で中間報告

公共施設に必要な耐震性の不足が判明した広島城天守閣

 広島市は27日、耐震診断をしていた築62年の広島城天守閣(中区)について、震度6〜7程度の大規模地震で「倒壊、または崩壊する危険性が高い」とする中間報告を公表した。城内への立ち入り制限をするかどうかは現時点で未定で、専門家の意見などを踏まえて判断する。耐震改修などの具体的な対策は、2020年度に有識者会議などで検討する。

 広島城天守閣は原爆により倒壊した後、1958年に地上5階建てのコンクリート造で復元された。耐震診断の速報値によると、耐震指標(Is値)の最小値が0・3未満となり、「危険性が低い」とされる0・6や、市が多数の人が利用する公共施設が満たすべき基準としている0・75を大幅に下回った。

 市役所で開いた広島城の魅力づくりを考える有識者会議の中で説明した。市は3月下旬をめどに天守閣入り口の木造部分を含めたより詳細な診断結果を公表。その後、有識者会議を中心に耐震改修の方法を検討する。市議会の一部などから要望のある木造再建の選択肢も残しつつ、費用面の試算を踏まえて議論する。

 城内への立ち入り制限については、市文化振興課の後藤和隆・文化のまちづくり担当課長は「専門家の意見や詳細な診断結果を見て判断したい」とした。

 戦後、コンクリートで再建された天守閣を巡っては全国で老朽化が課題となっている。中国地方では岡山城(岡山市北区)や福山城(福山市)が17年度に耐震診断を実施。いずれも耐震性の不足が判明し、補強工事を進める方針を示している。一方、名古屋市は耐震性の不足した名古屋城天守閣について、総工費約500億円をかけ木造での復元を目指している。

 市はこの日、広島城の魅力づくりの方策をまとめた基本構想の素案も公表。現在、観光バス駐車場となっている三の丸への飲食・物販施設やイベント広場などの導入に向け、20年度に基本計画を策定する方針を示した。国史跡の本丸や二の丸内で仮想現実(VR)を使った往時の建物の再現なども検討するとした。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊した。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

407荷主研究者:2020/02/16(日) 13:25:47

https://www.chunichi.co.jp/article/toyama/toku/isan/CK2020020202000200.html
2020年2月2日 中日新聞
利長築城時の姿残す 高岡城跡の石垣

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020020202100187_size0.jpg
高岡市博物館前から見える水濠と石垣(内堀側)=高岡市の高岡城跡で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020020202100188_size0.jpg

 江戸時代初期の一六〇九(慶長十四)年、高岡開町の祖・前田利長が築城した当時の石垣や水濠が残る国史跡高岡城跡(高岡古城公園)。石垣は本丸と二の丸をつなぐ土橋の内堀側と外堀側に見ることができる。

 石を割る時にくさびを打ち込んだ矢穴の跡がある「切石積み」。積み上げられた石数は内堀側が八百六十三個、外堀側は八百三十七個。全体の54・8%を占める砂岩は氷見市の灘浦海岸や虻(あぶ)が島、高岡市の雨晴海岸の石切丁場から運び込まれた。雨晴海岸の義経岩も丁場で、矢穴の跡が見られる岩が残っている。

 面白いのは「φ」「+」「田」など石の表面に刻まれている刻印。石工集団が付けた目印で文字や象形など八分類百二十七種類が確認されている。中には串団子のような印も。

 内堀側は、縦目地に見える所があり、近代に積み直したとの説もある。公園内の朝陽橋の橋台にも石垣の痕跡が見受けられる。

 公園内の市博物館前は石垣のビューポイント。市博物館の仁ケ竹(にがたけ)亮介副主幹学芸員(44)は「郭がすべて馬出しで最強防護の縄張(なわばり)(設計)と言われています。水濠と石垣の風景は城らしい。高岡城跡は語りだしたら切りがない魅力があります」と話す。 (武田寛史)

408荷主研究者:2020/03/14(土) 20:27:19

https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200224/CK2020022402000016.html
2020年2月24日 中日新聞
景観と利便、どう両立 松坂城跡、石段舗装や手すり整備検討

石段の舗装や手すりの整備が検討されている松坂城跡=松阪市で

 安土桃山から江戸時代にかけて軍事や行政の拠点だった松阪市の国史跡「松坂城跡」。築城から四百年以上がたつ史跡で、石段の段差を小さくする舗装や手すりの整備が検討されている。映画の撮影地にもなり多くの人が訪れる一方で、高齢者を中心に「石段が高く登りづらい」という声が出ている。史跡の「保存」と「活用」が全国で注目される中、市にも難しい判断が求められている。

 「景観的にも十分配慮した石段が必要」。昨年六月に市教育委員会事務局で開かれた整備検討委員会。市が路面舗装や手すりの整備を盛り込んだ園路整備案を示すと、委員を務める専門家や地元関係者らから、歴史的価値を有する「城」と誰もが利用できる「公園」の両面のバランスを求める意見が多く出された。

 古い歴史があり、城下町の面影を残す松坂城跡は一九五二(昭和二十七)年、県史跡に指定された。一方で、敷地が広く市民らが集う場所で、藤棚や野外劇場が設置されるなど、公園としての整備が優先された。

 八九、九〇年度には本丸上段の発掘調査が行われ、やぐら跡の礎石や排水施設、金箔(きんぱく)の瓦など貴重な遺跡が見つかった。前後して、史跡保護の観点から八八年度から十六年間、石垣の修復が進められ、二〇一一年に国史跡になった。これらを踏まえ、市は翌一二年三月、大まかな保存管理計画を策定し、一六年三月には計画を基に具体的な「整備基本計画」を作った。

 計画の園路整備案では、三十センチほどの大きな段差が目立つ二の丸から本丸上段までの石段十五段の舗装と、手すりや補足階段の設置が示されている。築城当時からの石段や、明治時代以降に修復された石段の舗装は、土や砂を主な材料にする「土系舗装」で行う。元々の土の色や質感を保ちながら段差を小さくする方法で、検討委でも理解を示す意見が多かった。

舗装されて手すりや補足階段も設置された石段のイメージ図=松阪市提供

 一方、補足階段や手すりの設置には慎重な意見がある。検討委でも「階段はかなり景観に与える影響が大きいのでは」「全ての石段に手すりが必要なのか」と史跡の価値を損ねないか危惧する指摘があった。市の担当者は「松坂城跡は中心市街地にあり、松阪のシンボルにもなっている。だからこそ議論を深めていかなければならない」と話す。

 検討事項は他にもある。車いすなどを乗せた福祉車両が安全に通れるように、進路の一部を拡張したり、舗装が荒い表門側の入り口付近を土色のアスファルト舗装にしたりする案も盛り込まれている。これらの整備案は詳細な発掘調査が必要で、先行きは不透明だ。

 史跡のバリアフリー化は松坂城跡だけの課題ではない。名古屋市の名古屋城では、復元する木造天守でエレベーターの設置も検討されたが、市はそれを見送り、ロボットなど新たな昇降技術の開発で対応することを決めた。国際コンペで世界から新技術を公募するという。

 委員長を務める奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は昨年十月の検討委で補足階段や手すりの設置について「文化庁でも近年、バリアフリーの充実はうたっている。史跡にふさわしい部分と共存できるものとして、手だてを打つことは大いにあり得ること」と指摘した。勾配が急な場所は本丸付近だけではなく「全体的な計画を示し、そこで検討する必要がある」とも話した。

 (冨田章午)
 <松坂城跡> 戦国武将の蒲生氏郷(1556〜95年)が1585年に築城を始めた。標高40メートル近い丘陵にあり、天守が建設された「本丸」や御殿があった「二の丸」、やぐらが建てられた「きたい丸」などで構成されている。自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」による築城当時の石垣が残っている。江戸時代、紀州藩領のうち勢州三領を治める役所が置かれていた。2006年に日本城郭協会の「日本百名城」に選ばれた。

409荷主研究者:2020/03/14(土) 20:42:42

https://www.sanyonews.jp/article/988640?rct=syuyo
2020年02月27日 18時53分 山陽新聞
岡山城天守閣、22年秋改装開業 21年度から耐震化の大規模改修

大規模改修が行われる岡山城

 岡山市の大森雅夫市長は27日、2021年度から大規模改修に着手する岡山城天守閣について、22年秋ごろの改装オープンを予定していると明らかにした。

 市議会代表質問の難波満津留氏への答弁で「岡山城や城下町の成り立ちを分かりやすく展示し、入場者数は改装前の130〜150%増を期待する」とも述べた。

 改修計画では、フロアごとにテーマを設けて池田家による城下町の発展、関ケ原の戦いにほんろうされた宇喜多家、小早川家の歩み、戦国時代の岡山などを紹介する。市出身の歴史学者で国際日本文化研究センターの磯田道史准教授に監修を依頼している。

 市は3月末までに基本設計をまとめ、20年度に実施設計を進める。21年夏から秋ごろの着工を想定している。

 天守閣は震度6強から7程度の地震で倒壊・崩壊の恐れがあるため耐震改修する。手すりの設置などバリアフリー化にも取り組む。

410荷主研究者:2020/03/29(日) 16:13:19

https://www.at-s.com/news/article/local/west/748181.html
2020/3/19 13:50 静岡新聞
浜松城 堀の規模克明 幕末の絵図発見、袋井の収集家保管

新たに見つかった浜松城絵図の複製を手に解説する神谷昌志さん=浜松市中区

絵図に記された浜松城の堀の規模

 江戸時代末期ごろとみられる浜松城(浜松市中区)の堀の幅や長さが記入された絵図がこのほど、袋井市の個人宅で確認された。絵図の記述は、過去の地籍図から推定された堀の位置や規模とほぼ合致するという。浜松城整備専門委員を務める郷土史家神谷昌志さん(90)=同区=は「堀の規模が克明に記された絵図を初めて見た。堀があった中心市街地は考古学調査が難しく、貴重な史料」と意義を説明する。

 堀は同区連尺町の国道交差点近くにあった大手門の周囲に掘られていた。「遠州濱松」と題した絵図によると、堀の幅16メートル、長さは大手門の西側111メートル、同東側102メートル。現在の市道(通称二俣街道)に沿って造られた空堀は291メートル、瓦門北側の水堀は55メートルだったことが分かる。

 絵図は古文書の収集家鈴木邦彦さん(73)=袋井市=が保管していた。浜松市が城の図面や写真を集めているのを受け、神谷さんが親交のある鈴木さんに連絡し、存在が判明した。

 鈴木さんと神谷さんによると、絵図は幕末期に描かれ、討幕の動きに関わりがあるとみられる。鈴木さんが絵図とともに入手した古文書によると、官軍が江戸に向かう際、浜松城下の商人に兵士の配置や宿泊場所を告知していた。城下に迎えるにあたり、「浜松側から絵図を渡したのでは」(鈴木さん)と推測できるという。

 鈴木さんは似た形式で描かれた東海道沿いにある他の城の絵図も複数持っていて、官軍の進軍に伴い他藩で同様の動きがあった可能性があるとみている。磐田市歴史文書館の木村弘之館長は「絵図を作った目的や時期はまだ断定できない。官軍が宛てた文書が他地域で見つかれば、進軍と関連があった可能性が高まる」と話した。

 浜松市博物館によると、浜松城の堀の規模を記した絵図は他にも存在する。担当者は「収集家が持っている絵図は多く、さらに表に出てくる可能性がある」と期待を寄せる。

411荷主研究者:2020/06/20(土) 22:10:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1583890328822/index.html
2020年3月11日 山陰中央新報
月山富田城跡の竹伐採 大土塁、全長130メートル一望

伐採後に見えるようになった大土塁の北端部を指し示す長谷川弘治さん

 国史跡・月山富田城跡(島根県安来市広瀬町富田)近くに住む農業長谷川弘治さん(72)が、かつて城の防御機能を担った大土塁の全容を見てもらおうと、北側部分に繁茂していた竹を約2カ月かけて伐採した。全長130メートルの土塁が見渡せるようになり、長谷川さんは「全国屈指の広さと堅さを誇った山城に思いをはせてほしい」と願う。

412荷主研究者:2020/06/20(土) 23:13:36

https://this.kiji.is/616044326708937825?c=92619697908483575
2020/3/27 08:00 (JST)熊本日日新聞社
熊本城の宇土櫓、解体復旧へ 熊本市が方針

熊本城の宇土櫓(右)。熊本地震で倒壊は免れたものの、建物全体が傾いているという。奥左は小天守、奥右は大天守=1月、熊本市中央区本丸

 熊本市は、熊本地震で被災した熊本城の国重要文化財・宇土櫓[やぐら]を全て解体した上で復旧する方針を固めた。市役所で26日開いた第2回熊本城文化財修復検討委員会(12人)で報告した。

 宇土櫓(高さ19メートル)は慶長年間(1596〜1615年)の創建とされ、3層5階・地下1階。既に解体した続[つづき]櫓が付属している。当時から唯一残る多層櫓で、全て解体されれば1927年の大規模な解体修理以来となる。

 市によると、宇土櫓は地震による倒壊は免れたものの、基礎や柱の破損が地階と1階に集中して42カ所ある。柱の傾斜も各階で見られ、1階は東側に、4・5階は北側に傾き、全体が変形している。

 櫓の石垣は一部が変形しており、復旧方法を検討中。このため櫓の解体着手時期は未定。市は「部分的な修理での復旧は難しい。解体を進めながら調査し最終的に判断するが、全ての解体を見据えて進める方針」と説明した。

 委員からは「激しい破損状況なので、解体による修理はやむを得ない」「石垣の復旧は造形も守る必要があるのではないか」などの意見が出た。

 熊本城には国重文が13棟あり、これまで7棟を解体している。(園田琢磨)

413荷主研究者:2020/07/14(火) 21:57:08

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=653266&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/6/17 中国新聞
福山城北面の鉄板復元、400年事業 21年度完成予定、市が7月からCF

福山城天守の北側。今後、鉄板張りが施される

鉄板張りが施された往時の福山城天守を再現したCG(福山市提供)

 福山市は、かつて福山城天守の北側の壁に施されていた鉄板張りの「復元」に乗り出す。7月から、必要な資金をふるさと納税制度を使ったクラウドファンディング(CF)で募る。寄付した人には、返礼品の代わりに鉄板の裏に自分の名前や城への思いを書いてもらう。2022年の築城400年に向けた事業の一環で、21年度の完成を予定する。

 市によると、1622年に築城された福山城の天守北側には最上階を除く壁一面に黒色の鉄板が張られていた。北側は防御が弱く、砲撃から城を守るためだったとされる。福山空襲で焼失した後の1966年に天守は再建されたが、鉄板は張っていなかった。

 市が今秋から始める耐震工事の計画段階で、城の専門家が「鉄板が張られた城は唯一無二。耐震化に合わせて復元してはどうか」と提案。市も城の魅力向上につながると判断した。

 市は復元と同時に、劣化したり、割れたりした瓦約4千枚も取り換える計画で同様に寄付を募る。鉄板が1口10万円で600口、瓦は同1万円で4千口とし、目標額は計1億円。寄付した人を21年夏ごろに城周辺で開くイベントに招待し、鉄板と瓦の裏面に自分の名前や城の思いを書いてもらう。鉄板などは寄付の口数に応じて割り当てる。

 市によると、天守を再建した当時の事業費1億8千万円のうち、約9割の1億6千万円は寄付で賄ったという。渡辺真悟・築城400年事業推進担当課長は「城の知名度を高めるとともに、市民や全国の城のファンに親しんでほしい」と意気込む。CFによる寄付は市のホームページなどで募り、21年3月末に締め切る予定。(門戸隆彦)

414名無しさん:2021/03/30(火) 13:09:45
国宝 犬山城の天守 調査で現存する最古の天守との裏付け 愛知
2021年3月29日 18時26分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210329/k10012942841000.html

愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。

愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。

犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。
この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いの直後で、犬山城は信長の次男の信雄の勢力圏にあったということです。

市によりますと、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、関ヶ原の戦いより前にあたり、現存する天守の中では最も古い天守であることが裏付けられたということです。

専門家「今回の調査は非常に重要な意味を持つ画期的な成果」
調査にあたった名古屋工業大学大学院の麓和善教授は「今回の調査によって犬山城の天守が最初からほぼ、今の形で建てられたことが分かった。年代が科学的に特定できたので非常に重要な意味を持つ画期的な成果だ」と話しています。

また、調査に協力した奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員は「犬山城の目に見える建材をすべて調査した。創建の経緯の解明に役割を果たせたと思う」と話していました。

415名無しさん:2021/04/03(土) 07:59:26
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1d57ba96e99c908233e5b3c11f138f005a413ae
幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp
【第4代幻の天守】明暦3年(1657)の大火で3代天守は焼失。天守の再建計画が立てられた。しかし保科正之が中止した。3代天守と同じ構造とされる。CG制作/中村宣夫。

家綱の叔父・保科正之が天守無用論を唱えて中止
3代将軍家光が没し、嫡男家綱が4代将軍となってから6年が経過した明暦3年(1657)正月の大火により江戸の四分の三が灰燼に帰した。江戸城も免れることができず、西の丸を残して焼き尽くされ、家光が造営した寛永度天守も類焼した。幕府は江戸城の再建を修復程度に止め、町人地と武家地の屋敷復興に努めている。ようやく9月になってから、幕府は、江戸城本丸の再建工事を来年に行なうこと、御手伝普請(天下普請)の助役大名は1万石に100人の人夫を出すことを命じた。天守台の担当となったのは、加賀金沢藩主前田綱紀だった。

翌明暦4年(万治元年、1658)正月に諸老臣とともに将軍補佐役の井伊直孝と保科正之が本丸工事を監視することになる。前田家による天守台の築造工事は5月に始まった。6月になると、将軍家綱が本丸工事の進捗を見舞い、前田綱紀・細川綱利ら助役大名に炎暑慰労の詞を掛けたという。8月18日に天守台の角石が据えられたことにより、10月初めに至り完工した。現在、本丸跡に残る天守台はこの時のもので、天守台本体はすべて御影石からなるが、南側の小天守台は伊豆石の安山岩である。御影石は瀬戸内海の小豆島と犬島から運ばれたものという。石垣の高さは6間である。「加賀百万石」の前田家は、人夫1万人を動員し、天守台築造を行なった計算になる。

天守台は成ったが、天守は築かれていない。あるいは、天守台のみ築く計画だったのか、それとも計画はあったがなんらかの理由で工事が中止となったのか、いずれであったとしても史実を語る史料は残っていない。これに関しては、保科正之(陸奥会津藩主)が天守無用論を唱えたという逸話がある。正之は将軍家綱の叔父に当たり、補佐役の立場を考慮すると可能性は高いといえる。明暦3年は家光の法会の年にあたり、4月20日の7回忌法会の前後に決断したのかもしれない。当日の正之は、本丸の留守居を務めており、上野寛永寺に赴いていない。

その時から40年以上が過ぎ、6代将軍家宣の正徳2年(1712)に儒者新井白石の建言によって天守の再建計画が進められ、5層の「江戸御城御殿守正面之絵図」が伝来する。また、翌正徳3年(1713)の「御天守絵図」も伝存する。後者は詳細な図面で、南側(正面)の妻側と平側の5層の外観図と、穴蔵の地階、高さ6間の天守台上の初重から5重目までの平面図があり、階段も描かれており、穴蔵の図には小天守台もある。再建が検討されたが、正徳2年10月の家宣没により中断し、翌正徳3年に再度再度俎上に上ったものの、家宣の子の7代将軍家継が正徳6年に没してしまい、4代天守は実現に至らなかったのだろう。

江戸城天守の高さと形状比較
【初代天守】

家康が建てた初代天守は大天守と小天守を伴う連立式。壁は白漆喰総塗籠でまるで姫路城のような白亜の天守だった。高さ22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【2代天守】

家康が死去すると2代将軍秀忠は家康が築いた天守を取り壊し、本丸御殿を大幅に拡張し、天守は北側に設けた天守台に新たに築いた。家康の連立式天守ではなく、独立した天守だった。元和9年(1623)に完成。五重五階で壁面は白漆喰。層塔型で下階から上階になるに従い、間口と奥行きが狭くなっていく。高さは22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【3代天守】

秀忠死後の寛永14年(1637)、2代天守を解体して造る。権威を誇示する独立式大天守。基部に入母屋(いりもや)屋根はなく、最上階のみが入母屋造り。青海波(せいがいは)という文様を打ち出した銅張の千鳥破風が12個あるのも特徴である。瓦はすべて銅瓦で、最上部に金鯱があった。各階に銅板張の突上窓がある。高さは22間5尺と現代の15階建てのビルに相当。CG制作/中村宣夫。

徳川家康が築城した初代江戸城は「日本最強の要塞」だった!に続きます。

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

416とはずがたり:2021/08/28(土) 12:03:38
安土桃山の話なので此処で。

信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
8/28(土) 7:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/827ec400e767b88cea6dedff1946c4c88fab7a5e
毎日新聞

 戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】

 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷酷非情とされる信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。

 寺の現在の本堂は1925年建築。庫裏は不明だが、江戸期とみられる。寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており、今回の取り壊しや売買の対象にはならない。しかし、寺がなくなった後にも墓標は立ち続けることになり、どのように保存、継承していくかが課題となる。

 寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)によると、寺には約60年前から専属住職はおらず、檀家も約10軒という。長年維持管理が課題になっており、約5年前から取り壊しを検討。耐震化や雨漏りの問題があるが、費用面から改修は困難だったという。本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、英夫さんは「信長ゆかりで先祖の菩提寺でもある歴史的な寺なので残したい思いはあったが、檀家も少なく財政的にやむを得ない」と話した。

 市によると、寺の境内南側は92年、北側は2012年から市に無料貸与され久昌寺公園として整備。20年8月、所有者側がこの無料貸与している土地を無償で市に譲渡し、本堂と庫裏の取り壊し後の跡地約1600平方メートルの買い取りを要望。市は所有者側と交渉を重ね購入の方針を決めた。

 9月2日開会の9月定例議会に土地鑑定、測量予算約59万円を計上する。22年度中に取り壊し・購入、23年度に公園として整備するという。

 同寺の案内もするボランティア団体「市歴史ガイドの会」の川田圭一会長は「歴史を伝える寺が無くなることは寂しい。皆で維持費を集められれば良かったが」と肩を落とした。その上で、「忘れ去られてしまわないよう、どこかに寺のことを伝える場を作ってほしい」と望んだ。

417荷主研究者:2022/01/09(日) 15:48:06

https://www.chunichi.co.jp/article/164837
2020年12月4日 05時00分 (12月4日 09時50分更新)
二の丸御殿 復元へ一歩 金沢城 基礎部分を発見 石川県教委

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi01.JPG
発見された金沢城・二の丸御殿の基礎部分=3日、金沢城公園で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi02.JPG

位置、規模を把握へ

 江戸時代に金沢城の中心だった二の丸御殿の玄関口に当たる北東地点で、建物の基礎部分が金沢城公園(金沢市)で見つかった。三日に発表した石川県教委の金沢城調査研究所は、御殿の正確な位置や規模の把握につながるとみている。御殿の復元整備を目指す石川県は、年度内にまとめる復元整備の基本方針に生かす。

 発見されたのは、二の丸御殿の中でも公務の場である「表向(おもてむき)」の一角。柱を支えた礎石は撤去されていたが、礎石を安定させるための川原石や戸室(とむろ)石を詰めた土台部分が複数にわたり並んでいた。公式行事用の玄関「表式台(おもてしきだい)」と大広間につながる廊下「広縁(ひろえん)」に対応する部分という。

 一八〇八(文化五)年に火災で焼失した後の一八一〇年に再建され、一八八一(明治十四)年まであった二の丸御殿の基礎部分とみられている。古絵図や、再建時の古文書と照合した。

 今回の成果について、谷本正憲知事は三日の県議会代表質問の答弁で「史実に沿った二の丸御殿復元の精度をより高めるものと考えている。復元は県の最大の個性である文化の集積にさらなる厚みを加える」と強調した。復元整備の基本方針には事業の進め方や御殿内部の活用方法、事業全体の日程などを盛り込む。

 二の丸御殿は東から、公務の場である「表向」、藩主が住む「御居間廻(おいままわ)り」、藩主の母親や側室らが住む「奥向(おくむき)」で構成される。復元を巡っては、今年二月に有識者でつくる検討委員会が「表向の復元整備を進めることは可能」、御居間廻り、奥向は「引き続き調査検討が必要」と報告した。

 このほか、一九六九年度に県教委と金沢大が発掘調査した遺構の一部も再検出。表向の主要部と南に位置する台所の境にあり、中庭に出入りした通路「くぐり抜け階段」や表向と御居間廻りの境にあった排水施設なども姿を現した。

 一般市民向けの現地説明会は五日午後一時半から。参加無料。

【メモ】金沢城二の丸御殿=加賀藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。1631(寛永8)年の大火を機に本丸から移って建築され、2度の焼失を経験しながら、幕末まで機能を保った。明治期に入り、陸軍の兵舎として利用されたが、1881年の失火で失われた。

418とはずがたり:2022/05/10(火) 13:42:57

彦根城天守前でラジオ体操続けたい 市「文化財保護のため場所変更を」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/776604
2022年4月24日 6:00

 2024年の世界遺産登録を目指す彦根城(滋賀県彦根市)の国宝・天守前で、早朝にラジオ体操をしている市民に対し、市が場所を変えて行うよう求めている。開場時間外で文化財の管理面などが理由。参加者らは陳情書を提出し、継続できる環境づくりを求めている。

 天守前には広場があり、市民らが一年中集い、毎朝6時半にラジオ体操を始める。30年前から続ける男性(80)によると、市民らが自然に集まるようになり、昨年は家族連れや高齢者ら延べ約6800人が足を運んだ。

 琵琶湖や城下町の町並みの眺望も魅力で、男性は「城はもちろん、朝日を受けた一帯の景色を見ることができる超一流の場所で健康増進ができ、値打ちがある」と話す。これまで大きなけが人が出るなどトラブルはないという。

 世界遺産登録活動を進める中、市は3月中旬、参加者側に口頭で場所を変えるよう求めた。文化財課は「そもそも開場時間(午前8時半〜午後5時)外」とし、国宝や重要文化財の保全や防災・防犯面から、城の内堀沿いの金亀児童公園などでの活動に移行するよう伝えた。

 これに対し、男性らは「天守で健康づくりをする会」(仮称)を立ち上げ、4月4日、市に陳情書を提出。約140人分の署名を添え、「長年ラジオ体操を通じ、生活リズムや郷土愛を育んできた。城内の異変や不審者にも注意を払い、一定の防犯、抑止効果も担っている」とし、理解を求めている。

 市も、市民らの長年の生活習慣を突然断ち切るような事態は避けたいとし、対応に頭を痛める。

 井伊岳夫文化財課長は「参加者の方々の城を大切にされる思いはありがたい」とする一方、各地の社寺で液体がまかれた事件や3年前の首里城(沖縄)での火災などを念頭に、「市としても国宝などの文化財を保護し、将来に伝えなければならない。何とか場所を変えてお願いできないか」とし、今後、参加者との話し合いの場を設けるとしている。

419とはずがたり:2023/04/07(金) 22:54:22

美術よりこっちが近いんちゃうか。

刀剣は行方不明の旧国宝・伝則重か? 「刀剣乱舞」俳優も驚き
石田宗久
https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/117000c?cx_testId=0&cx_testVariant=cx_0&cx_artPos=4#cxrecs_s
毎日新聞 2023/1/8 07:00(最終更新 1/19 17:06) 有料記事 1897文字

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により接収され所在不明だった旧国宝の日本刀「無銘伝則重(のりしげ)」と刀身や装具の特徴が一致する刀剣が、オーストラリアで確認された。かつて鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)が保有していた実物の可能性が高いとみられる。ネットオークションで落札した愛刀家の男性が、史料を分析するなどしてその来歴に迫った。

ある刀剣との出合い

 「これまで見た刀剣の中では最も質が良い」。メルボルン在住の弁護士、イアン・ブルックスさん(66)は、10代からの日本刀ファンだ。日課であるオークションサイトのチェックをしていた2018年10月、一振りの刀剣に目を奪われた。

 刀剣は、米ニューヨークの個人が出品していた脇差しだという。刀装具である鐔(つば)は柳の木の下を走る馬の群れの細工があり、「桂永寿」の銘があった。ブルックスさんは迷わず落札し、コレクションに加えた。翌19年1月、何気なく愛好家団体の会報を眺めていると「行方不明の重要な日本刀一覧」の記事があった。記載されたリストを見て、落札した刀剣を急いで取り出した。
一致した特徴

 リストの記述は、手元の刀に当てはまった。さらに日本の旧国宝の刀剣に関する別の文献に照らすと、約60センチの刀長や刀を納める鞘(さや)、握るための柄(つか)といった刀装具の特徴が一致した。「私は行方不明の刀剣を手に入れた」との思いに至った。

 調べると、伝則重は鎌倉時代に活動した刀工、則重の作で、松の木肌のような見た目から「松皮肌」と呼ばれる太い鍛え肌が特徴だという。桂永寿が福岡県出身の優れた刀装具職人だったことも分かった。また、落札した刀剣に添えられたラベルは、判別が難しい2文字を挟むように「官幣大社……島神宮」の文字や「三二」などの数字が読み取れた。

 刀剣が鹿児島神宮に関係すると考えたブルックスさんは、来日して文部科学省や文化庁に照会した…
この記事は有料記事です。

残り1054文字(全文1897文字)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板