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「俳句ダービー」?
伏儀の子とペテロの対決
ローマ帝国での宗教争いも興味深い課題なのですが、
○○さんなど、詳しそうな人が多そうなので私は追いませんが、
キリストは伏儀派の一派、ミトラ教により作られた飾り。
「伏儀さまの権威に従いなさい」という思考なのだが、
ヒクソスが伏儀に屈服するはずがない。
ローマ帝国にマナセ族が関与している可能性を平御幸が指摘していたが、
「この岩(ペテロ)の上の私は教会を築く」教会は、
キリストの権威を、
教会(伏儀と関係ない人)が勝手に判断して使用できるという思考から、
ヒクソスが作ったと仮定したい。
なぜ自由の女神(イナンナ)がアメリカ、日本にあるのか理解できないので、
ローマ、ヨーロッパ史も複雑そうです。
イナンナの子をエフライム、マナセと捏造したいのかもしれませんが、
よくわからないところなので、私は別の課題に移ります。
テングリ雑談
坂本龍一−売野雅勇の「美貌の青空」好きですけど、
インダス−エジプト型の思考なので、思考的には受け付けない。
エフ工によるとマナは瞳だったか愛だったか、マナカイは愛の交換。
エジプト的なんでしょうね。
フェニキアの紫。チベット踊り。バルセロナ。
ベニヤミン。
インダス的な陶酔。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
「元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、
チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、
いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた」
↓
この天神がミトラ、すなわちモンゴルのハーン、というモンゴル帝国の教義と仮定。
「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。「テングリ」崇拝は匈奴の時代から確認されている。
テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。
↓
モンゴル信仰はエジプトの天地がひっくり返った、
ホルス信仰かもしれない。
ベニヤミン系か?
ただモンゴル帝国で母が重視されているようには見えないので、
ミトラの線を保留。
元々、イナンナ派とミトラ派はフルリ人で同族。
天(そら、あめ、てん)の定義
空。ただし、空をより抽象的、哲学的、宗教的にとらえた語。
中国思想における天。この項目で記述。
日本の天。高天原を参照。例:天津神。
キリスト教の天。天 (キリスト教)を参照。
中国語では「天」、または「天神」とも書く、モンゴルのシャーマニズムのテングリ。
天はヌト、イナンナの子供、という信仰か?
個人的な味方ですが、
ホルス−ミトラのインダス−エジプト型シュメールは、
ホルス−ミトラであれば権力を握れる、という、
権威の形を作ってしまうので、あまり好きでないです。
ホルスの代弁者になれれば、
教会として、正しい存在になれてしまう。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002439M.png
訂正ついでに雑談を
訂正、個人的な味方→個人的な見方
「愛おしさで瞳は傷口と知る 魂の」
魂は天国や地獄などに送られる。
黄泉のような霊魂の住まう世界は、オシリスの世界。
魂信仰は、エジプトのオシリスが起源ではないか?
そこに善悪が絡むとキリスト教。
エジプトの末裔、平安時代は霊の飛び交う世界。
「モンゴル部族の伝来の宗教は素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズム」
もエジプトの流れ。
インダス−エジプト型で強烈なのは、太宰治の斜陽。
14年前に読んで、かず子に埋没(苦笑)
自分はインダス−エジプト型ではないんですけどね。
(無題)
・・久高島のイザイホー、宮古(大神島)のウヤガン、八重山のアカマタクルマタ。
・・沖縄の三つの秘祭
・・大神島・妹(ウタキ)、沖合いの八重干瀬・兄(ウタキ)ともいう。…一年のうち満月の大潮の頃に八重干瀬(ヤビシ)はサンゴ礁の島として海上に現れる。大陸の殷の末裔などがここに宝貝を採りに来ていたのではないか、と柳田は考える。兄・バアル、妹・アナトでバアルの再生譚と重ならないか。五穀や稲もこのときもたらされたか?
・・月、月読み、…憑き黄泉。
沈黙を舌で味わう芥子のように
>>・・大神島・妹(ウタキ)、沖合いの八重干瀬・兄(ウタキ)ともいう。
八重、などはシュメールを思わせる。
亡くなってしまった兄=夫の再生。フェニキア系統っぽい。
史記は兄=夫勢力が書いてるから、
項羽と一緒に虞は死んじゃってるけど、
アナト勢力は、死なずに子供を生んだ物語にした(苦笑)
>>五穀や稲
島の歴史の始まりの時代を特定できると面白い。
http://www.hana300.com/hinage.html
虞美人草
雛罌粟 (ひなげし)
罌粟(芥子:けし)科。
「罌粟」は「芥子」とも書く。
・別名??「虞美人草」(ぐびじんそう)
中国歴史上の絶世の美女である虞美人にたとえた。
★<古代中国のお話−「虞美人草」>
項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の
最期の戦いのとき、項羽は愛する虞妃(ぐき)と
ともに劉邦の大軍にまわりを包囲された。
項羽は別れの宴を開いてから最後の出撃をし、
虞妃も自刃して殉じたが、
彼女のあとにヒナゲシの美しい花が咲いた。
そのため人々はこの花を
「虞美人草(ぐびじんそう)」と呼んだ。
>>・・月、月読み、…憑き黄泉。
今、以下のサイトをちらっと見たのですが、
http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-04-20
鎖の先に燃える柘榴石(ガーネット)は、蒔絵の蘆雁(ろがん)を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。(夏目漱石『虞美人草』 八)
このように〈金時計〉=〈蛇〉というイメージが成立し、しかもこの時計は藤尾に取り憑いているのである。吉野裕子によると、蛇目(カカメ)から鏡(カガミ)がきており、御神体等の鏡は、蛇の目の象徴であると言う。(ちなみに、しめ縄は、絡み合った二匹の蛇である。)
すべてが美くしい。美くしいもののなかに横わる人の顔も美くしい。驕る眼は長(とこしな)えに閉じた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天女のごとく美くしい。
(夏目漱石『虞美人草』十九)」
と、蛇にとり天女に取り憑かれた天女の小説で、題名が「虞美人草」。
こういう象徴の思考自体、私は文学としては、本質から外れていると考えていて、
漱石では明暗が好きです。
美しく死ぬより、しぶとく生きのびて、読書しながら、
花の様にかわいい娘たちをかわいがる人生を私は取るあるよ!
オゴデイ、グユク、モンケは領土を広げるものの、内紛を抱える。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
オゴデイ、1229年 - 1241年、2代ハーン。
チンギス・ハーンの三男
チンギスの後を継ぎ、1234年までに金(女真、ツングース系)を完全に滅ぼした。
東欧の大半までを制圧したが、南宋(エフライム?)遠征は失敗。
広がりすぎた領土では駅伝を設けるものの、連絡が密にとれず、
晩年には、長男・グユクとバトゥの対立の内紛が決定的になる。
グユク、1246年 - 1248年
バトゥとの対立する姿をオゴデイに激怒され、
ヨーロッパ遠征から帰還させられるが、その途上でオゴデイが死去。
偶然、本国に近くにいたことと、生母・ドレゲネの政治工作により、ハーンに即位。
南宋、イラン諸地方、高麗に兵を送り、勢力の拡大に努めたが、
政敵であるバトゥ討伐のため、違う名目で兵を起こした時に急死。
バトゥによる暗殺という説は有力に思われる。
グユクの即位には、ドレゲネの工作によって、
トルイ家
チャガタイ家
ジョチ家
ルーム・セルジューク朝
ウラジーミル大公国
グルジア王国
アイユーブ朝
ローマ教皇インケンティウス4世の使節
カラキタイ朝
サルグル朝
アッバース朝
アラムート
からの使者が確認されており、個人的にその規模に驚く。
西方の各勢力については棚上げ。元、明、清の後に調べたい。
モンケ、1251年 - 1259年
トルイ家。若い頃に金(女真、ツングース系)を破っている。
グユクの即位に不満を持つジョチ家のバトゥと手を結んだ。
即位時、グユクの皇后、オゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑している。
南宋、イランを攻撃し、1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。
1258年、自ら南宋に侵略するが、
途上で軍陣内で流行した悪疫にかかって死去した。
これには、クビライ派による毒殺説も囁かれている。
シャーマン信仰に篤いモンゴル人である一方、
数ヶ国語に通じていたうえ、ユークリッド幾何学など東西の学術文化に通じる。
クビライの元でやや中国化。華南の貿易で財政的に潤うが、中央アジアで有力部族が離脱。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
クビライ、 1215年 - 1294年
兄に第4代ハーンとなったモンケ、
弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとハーン位を争ったアリクブケがいる。
1253年に大理国を降伏させた。
後方の遠地から軍を指揮し、高麗、南宋の侵略を狙うが、
クビライの力を恐れたとも言われるモンケはこの慎重策を好まず、
クビライをこの作戦の指揮者から外し、自ら南宋を狙った。
モンケの死去時、
三弟のフレグは遠く西アジアの征服をしていたので、後継者争いから脱落。
クビライと末弟のアリクブケが、それぞれハーンを名乗り、
モンゴル帝国は南北に分裂するが、
中国を押さえたクビライが経済的な優位に立ち、1264年、アリクブケを降伏させた。
1260年に即位すると、モンゴル王朝で初めての中国風の元号を立てた。
1262年には山東を支配する漢人軍閥の反乱に悩まされるが、
鎮圧をきっかけに華北の軍閥を解体し、土地の所有者を鮮明にした。
クビライとアリクブケの対立は、
中国にモンゴル帝国の中心を移そうとするクビライと、
モンゴル派のアリクブケの違いによる、という説明もなされるが、
クビライには遊牧民の特性が未だ強かった。
クビライはチベット仏教に近づき、チベット文字をもとに、
モンゴル語を表記するパスパ文字を制定した。
アリクブケの乱以来、
中央アジアのオゴデイ家、チャガタイ家が離脱し、モンゴル領地を霍乱した。
1276年に南宋を実質上滅亡させ、アラビア商人を登用し、
中国南部の貿易を手に入れたことで、財政的な潤いを得た。
高麗や、
1289年にはビルマのパガン王朝に傀儡政権を建て、
日本(マナセ?元寇)、
ベトナムの陳朝やチャンパ王国、
ジャワ島のマジャパヒト王国
を狙うが反発にあい、これは成功しなかった。
中央アジアではチャガタイ・オゴデイ家が離脱を続けていた。
晩年には後継者争いで、交易を担当したアフマドが失脚、
ウイグル人財政官僚サンガも1291年には失脚させられ、
財政難から3度目の日本への元寇を断念している。
後継者争いに勝利したチンキムの子、テムルが即位した。
テムルでオゴデイ家、チャガタイ家が降伏。カイシャンは財政に失敗。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
テムル、1265年 - 1307年
独立していたオゴデイ家のカイドゥに苦戦するが、
元の政権安定を見て、中央アジアの諸勢力が投降し始め、
追い込まれていくオゴデイ家とチャガタイ家は全力でテムルを侵攻するが、
カラコルムとタミールで元が勝利し、両家が降伏したことにより、
アリクブケの乱以来の分裂は、45年ぶりに平和統合した。
クビライから引き続き、ムスリムが財政を担当しているが、
華南−アラブの交易の規模が大きかったのだろう。
カイシャン、1281年 - 1311年
即位において内紛を経験した。
政権安定のためか賞与を連発し、積年の外征の軍事費も多く、財政難に陥る。
場当たりな経済政策が失敗し、漢民族などの不満が大きくなった。
1311年、即位から4年後に死去。
(無題)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
アユルバルワダ、1285年 - 1320年
有力な後継者候補であったため、テムルの皇后により河南に遠ざけられていた。
テムルの皇后は、テムルの死後、
コンギラト部のカイシャンとアユルバルワダではなく、
安西欧アナンダを即位させようとしたが、
コンギラト部がクーデターに成功したが、
兄のカイシャンが大軍を率いて南下してきたので、皇太子に甘んじる。
4年後にカイシャンが死去すると、アユルバルワダが即位した。
カイシャンの重心を追放し、コンギラト派で政権を固める。
財政の問題は先送りにしたが、
貞観政要をモンゴル語に訳し配布し、儒学を重視するなど、
漢文化を優遇したことから、中国の歴史書により高く評価される。
政権を動かしていたのは、母タギとその寵臣テムデルであり、
アユルバルワダには権力がなかった。
母タギには漢の勢力がついていたか?
(無題)
>>五穀や稲
島の歴史の始まりの時代を特定できると面白い。
・・オキナワでの古代の時間軸の設定はむずかしい。中城はナカグスクと呼ぶが中城湾はチュウジョウワンと呼ぶ。久高島とか大神島もクダカ、オオガミで音がヤマトっぽくはないか?大神島で神話として残っている話もどれほど昔なのか見当もつかない。・・西暦元年の頃には大神という呼び名はなかったのではないか。大主、ウフヌシとかはあったかも。…池間島でもっともおおきなウタキはたしか大主(ウフルズ)御嶽といった。
・・ウプピトゥはウプ・ピトゥで大人、巨人の意。プなどの破裂音は宮古の特徴ではないか。
*
・・農耕民であるカインがなぜ追われたのか。…農耕の原初の形である焼畑のようなものでも一定の土地から繰り返し一定の質の作物をとるには限界がある。焼畑は基本的に一回性だ。ギリシャはもともと農耕民の国だった。はげ山が多いのは土地を枯らす農耕をやっては次々に移動していったからだともいう。・・カインの主への奉げものが受け入れられなかった。土地の簒奪形式の構造的欠陥をバイブルは言おうとしているのではないか。…追放するがけして殺してはならない。カインを殺すものは7倍の罰を受けるであろう、というのは狡猾な知恵だ。
教は変な物飲まさせちゃったから、淡々と調べます。
>>・・オキナワでの古代の時間軸の設定はむずかしい。
湿気の多いところは物証が残らないか。
琉球語のシュメール語からの解釈は物になるかもしれないですね。
西澤徹彦の古代日本とヘブライ一掃政策はすべてが正しいとは思わないが、
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/mokuji.htm
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage10.htm
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage9.htm
鋭い指摘が多そうなので、もっと丁寧に内容を追わなくてはいけないと思いつつ、
手付かずなのですが、秋刀魚たむの沖縄海洋民族編とも関わりそう。
彼によると、ユダヤから4波の移住があったらしい。
どの遺跡が、どの型に入るか分類していくと、見通しがよくなりそうだ。
前2344年 ノアの洪水(エフ工)
前1347年 アマルナ革命
前1100年 シバの女王、ソロモン
前597年、バビロン捕囚から旧約誕生
前246年、ポエニ戦争
前3世紀から1世紀 月氏が中央アジア。
紀元後14年 (南解次次雄11年)倭人が、兵船百余艘をくり出して、
海辺の民家を略奪した。六部の強力で勇敢な軍隊を出して、防禦した。(新羅本紀)
57年 (光武帝2年)倭奴国が後漢に奉貢朝賀し、光武帝が印綬を賜う。(後漢書)
59年 (脱解尼師今3年)倭国と好誼を結んで、たがいに訪問し合った。(新羅本紀)
73年 (脱解尼師今17年)倭人が木出島を侵した。(脱解)王は、角干の羽烏(うう)を遣わして、防禦させた。戦いに敗れて羽烏は戦死した。(新羅本紀)
107年 (安帝元年)倭国王師升らが生口百六十人を献じ、請見を願う。(後漢書)
121年 (祇摩尼師今10年)倭人が東辺を侵した。(新羅本紀)
122年 (祇摩尼師今11年)大風が東方から吹き寄せて、木を折り、瓦を飛ばした。夕方になって収まった。都の人が、倭兵が大挙してやって来ると流言したので、(人々は)山や谷に争って逃げた。(祇摩)王は、伊?(いきん)の翌宗らに、これを諭させ止めさせた。(新羅本紀)
123年 (祇摩尼師今12年)倭国と講和した。(新羅本紀)
158年 (阿達羅尼師今5年)竹嶺(の路)を開いた。倭人が来訪した。(新羅本紀)
193年 (伐休尼師今10年)倭人が甚だしく飢えた。やって来て食物を求めた者は、
千余人であった。(新羅本紀)
〔199年 狭野尊(後の神武天皇)誕生(推定)〕
208年 (奈解尼師今13年)倭人が国境を侵犯した。伊伐サンの利音を派遣し、
軍隊を率いて、これを防がせた。
232年 (助賁尼師今3年)倭人が突然来襲し、金城を包囲した。(助賁)王は、自ら出撃して戦った。賊は敗れて逃走した。身軽な騎兵隊を派遣して、これを追撃させた。殺したり捕えたりした者は一千余名であった。
233年 (助賁尼師今4年5月条)倭兵が東辺に侵入した。
233年 (助賁尼師今4年7月条)伊?の于老が、倭人と沙道で戦った。風を利用して火を放ち、舟を焼いた。賊は水に飛び込んで、ことごとく死んだ。(新羅本紀)
これらの記述の後、三国史記では、倭人に関する記録が249年の条まで途絶えるのでありますが、それに入れ替わるかのように、「魏志」の中に倭人に関する記録が現れます。
238年(239年)景初2年(景初3年)倭の女王卑弥呼が魏に朝貢する。
240年 正始元年 魏の太守、倭国に詣る。倭王は答謝する。
243年 正始4年 倭王8人の遣使。掖邪拘ら印綬を受ける。(魏志倭人伝)
〔244年 磐余彦 日向から邪馬台国へ向けて東征開始(推定)〕
245年 正始6年 難升米に黄幢を賜う。
247年 正始8年 卑弥呼、狗奴国との交戦の状を説く。魏、檄をつくって告喩する。卑弥呼死。(魏志倭人伝)(6.15.)
孝元元年(287年)一月即位《儒礼王四年 夏四月に、倭人が一礼部を襲って民家に火をつけてこれを焼き払い、一千名の百姓をとりこにして逃げ去った。》
孝元三年(289年)《儒礼王六年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということをきいて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。》
孝元六年(292年)《儒礼王九年 夏六月に、倭兵が沙道城を攻め落したので、王は一吉? 大谷に命じて兵をひきいてこれを救わしめた。彼は王命を全うし、これを完全に恢復した。》
孝元八年(294年)《儒礼王十一年 夏(5〜6月)、倭兵が長峯城に攻めて来たが、勝てなかった。》(「新羅本紀」から)
孝元八年(294年)《孝元五十七年秋九月、孝元天皇が亡くなられた。冬十一月十二日、太子は(開化)天皇に即位された。》(「日本書紀」開化天皇の条から)
コンギラト派による漢化の実態は棚上げ。
訂正→今日は頭がぼおっとする薬物を食べ物に混ぜられたので、
シデバラ、1303年 - 1323年
アユルバルワダの子。
約束を破り、アユルバルワダの兄、カイシャンの子を押しのけて、
シデバラは即位したために、
反カイシャンのダギ、コンギラト派の重臣に取り囲まれていた。
シデバラもアユルバルワダ同様に、コンギラトの傀儡だったが、
1322年、ダギが没すると、実権を握り、逆にコンギラト派を弾圧し始めた。
翌年、コンギラト派により、シデバラは暗殺されるが、
コンギラト派は反撃により一掃された。
アユルバルワダ−シデバラ期の、
ダギ−コンギラト派による漢化政策は、
貞観政要、儒学が重視されたらしいが、
貞観政要は北イ系の太宗によるもの。
ダギの背後に北イがいたのか?
もしくは、創業−守成の件が、
拡張を続けたモンゴル帝国の方針変更にあったためか?
コンギラト派の勢力特定は未決にして、課題にしておく。
カイシャン、ムスリム、コンギラトの三つ巴の内戦により元は衰退。北元と明の時代に。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
イェスン・テムル、1323年 - 1328年
モンゴル高原に駐留し、帝位とは無縁だったが、
シデバラを暗殺したテクシと、
側近のダウラト・シャーが手を組み、擁立された。
即位後、コンギラト派の傀儡になることを恐れ、
テクシ−コンギラト派を一掃した。
政権を任されたダウラト・シャーはムスリム。
政権の要職も西アジア出身者で固められた。
1328年、イェスン・テムルが病死すると、遺児のアリギバを擁立したが、
カイシャン派のキプチャク軍閥、エル・テムルによる反乱により、
元は南北に分かれて内戦となったが、エル・テムルが勝利。
横入りでハーンに即位したコシラは即毒殺され、
エル・テムル派のトク・テムルが即位した。
トク・テムル、1328年 - 1332年
カイシャンの次男。
カイシャンはコンギラト派と対立していたので、
トク・テムルも海南島に流されていた。
イェスン・テムルのムスリム官僚、ダウラト・シャーと、
カイシャン派のエル・テムルの内戦において、
カイシャンの子、トク・テムルはエル・テムルに擁立された。
政権はエル・テムルが独裁していたが、
トク・テムルは朱子学を保護し、漢人の学者を優遇した。
イリンジバル、1326年 - 1332年
2ヶ月で暗殺。
トゴン・テムル、1333年 - 1370年
エル・テムルに代わる軍閥の実力者バヤンが専横。
バヤンを追放すると、反対派のトクトが専横。
このような権力闘争の繰り返しにより、元は衰退。
1351年に紅巾の乱が起こる。
1368年に朱元璋に敗れる。
1370年、トゴン・テムルが死去。
依然として元はモンゴル高原を中心に勢力を保って、
東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下においていたが、
明が新たに起こり、元は中華王朝でなくなったとする。
これ以降の元は、北元と呼ばれている。
(無題)
・・燕の明刀銭がオキナワ本島で2つ3つ発見されている。紀元前2〜3世紀のものだろう。燕はベニヤミン?刀銭はオオカミの牙?
・・ゴータマシッダルタは叡智の追求のあまり空腹で息絶え絶えになった。そのとき牛乳をあたえたものがいる。このうえもない味がしたそうだ。…体力もつけねばなるまい。
・・逃亡の族で過酷な自然状況がある。飢えてもオオカミのように生きる。…シャーマンはこの時生まれたのではないか。・・ベニヤミンは北方経由で精神を研ぎ澄ました。寒いなか集団が飢えてもシャーマンを指針とした。
・・オキナワのシャーマンは北方系の遺産ではないか?
*
・・NEWYORKTimesは登録しないと読めない^_^;
…なんとか読めるようにした。
実はオゴデイ、チャガタイ家がモンゴルの本流だったか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
オゴデイの晩年に、
グユクの生母、ナイマン部のドレネゲがムスリム官僚を登用し、
耶律楚材やチンカイを遠ざけた。
↓
ここでチンギスのシャーマニズム路線はほぼ終わる。
ドレネゲはオゴデイ家、チャガタイ家を説得し、グユクを擁立。
グユクと対立し暗殺したバトゥはコンギラト。
モンケもバトゥと手を組んでいる。
モンケ−クビライのコンギラトの線に対し、
クビライと対立して、モンゴル帝国を二分したアリクブケは、ドレネゲの線。
アリクブケ敗北後は、オゴデイ家のカイドゥが、ドレネゲの線を受け継ぐが、
南中華での貿易により財力を蓄えたテムルは強力だったのだろう、
カイドゥは敗北し、ドレネゲの線はコンギラトに破れる。
フビライの母はトルイだが、妻チャブイがコンギラト部。
チンキム−テムルの線と後継者争いをしたムスリム官僚、アフマドは、
チャブイの周囲の人間。
「クビライによって新設された財務部局の長官としてチャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、元とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。」
アフマドと対立した、チンキム−テムルの線もコンギラト。
チャブイ−ココジン−ダギの線でコンギラト派は財力を増やす。
フビライの次、テムルの晩年に、
非コンギラト派のブルガンが一時的に力を握るが、
コンギラト派のダギに敗れる。
テムル−ブルガンの敗北後、
カイシャン−トク・テムル(キプチャク)、対、アユルバルワダ(コンギラト)
の対立が始まる。
カイシャン勢力は一代で敗北。
アユルバルワダ−シデバラのコンギラト政権が誕生。
イェスン・テムルは秦定帝という元号に「秦」の文字を用いる。
側近のダウラト・シャーは、
コンギラトからの独立を図るシデバラを暗殺したコンギラトと手を組み、
イェスン・テムルを擁立するが、直後、コンギラト勢力を一掃。
側近を西アジア人で固めたが、一代でキプチャク勢力に敗れる。
トク・テムルはカイシャン系キプチャク勢力によって擁立された傀儡。
しかし朱子学が保護されている。
イリンジバル、トゴン・テムルも傀儡。
この流れをみると、コンギラト部は貞観政要と結びつき、
キプチャクは朱子学と組んだようだ。
オゴデイ・チャガデイ家はモンゴル・シャーマニズムか?
以前、推定したように太宗は北イ系で、
貞観政要とコンギラト部の特定は重要な課題。
キプチャクが組んだ朱子学は、
次の明を調べながら特定したいが、いわゆる儒教。
フビライのコンギラトによりモンゴル帝国は、半分中国化した、と言われているが、
フビライ以降のハーンが首飾りをつけて、チベット仏教を信仰していることからしても、
コンギラト路線が中華、と単純に考えられない。
少なくとも文化的には、コンギラトの貞観政要よりも、
キプチャクの朱子学の儒教は、本流でなくとも中華的。
また、オゴデイ・チャガデイ家は、文化的にみて普通に考えれば、
貞観のコンギラトよりも、モンゴル帝国の本流に見える。
この対立は、キプチャク=ハン国、イル=ハン国、
オゴタイ=ハン国。チャガタイ=ハン国について調べていけば、
より明確に特定できるだろうが、とりあえず棚上げしておく。情報求む。
首輪はチベット仏教を示すか?
http://rh1125.ld.infoseek.co.jp/profile.html
耳 首
チンギス・ハーン あり なし
オゴデイ あり?なし チンギスにより後継者指名。
耶律楚材とウイグル人チンカイ
晩年に、この二人とムスリム官僚が対立し、
ムスリム路線が勝利している。
晩年にバトゥとグユクの後継者争い。
グユク あり なし ナイマン部の母の工作により即位するが、
バトゥ、モンケに憎まれ、暗殺。
モンケ あり なし トルイ シャーマン信仰
コンギラトのバトゥと手を組み即位。
クビライ あり なし トルイ 漢化
チベット仏教が重視される。
儒教、科挙は重視されず。
ムスリム官僚登用により商業促進。
テムル あり あり オゴデイ家、チャガタイ家を制圧。ムスリム官僚。
コンギラト部の母ココジンが実権を握る。
ココジンの死後、非コンギラト部の妻、
ブルガンが力を握り、カイシャンとアユルバルワダを追放。
その後、ブルガンは逆にコンギラト派に処刑される。
カイシャン あり あり キプチャク。アユルバルワダを屈服させて即位。
アユルバルワダ 不明 あり コンギラト 貞観政要、儒学、科挙
シデバラ 不明 不明 コンギラト
イェスン・テムル 不明 不明 コンギラト→ムスリム官僚
トク・テムル あり あり カイシャン・キプチャク 朱子学
イリンジバル あり あり
トゴン・テムル 不明 不明
地図は以下のサイトから。
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/mongoria/mongoria_0.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002452M.png
このうえない味…
>>・・燕の明刀銭がオキナワ本島で2つ3つ発見されている。
紀元前2〜3世紀のものだろう。燕はベニヤミン?刀銭はオオカミの牙?
以下、適当な仮定。
春秋もまだよくわからない。
呂不いより前の秦−斉が理解しにくいのだが、
儒教がユダヤ教の流れとすると、
始皇帝が弾圧した儒教がユダヤということになってしまう。
始皇帝以前の秦−斉の線は、まだわからない。
しかし、始皇帝以降は完全に北イ系なので、
始皇帝に荊軻と言う刺客を放った燕 (春秋)は、
少なくとも反北イ勢力に見える。
http://www.rui.jp/message/02/68/12_b43c.html
朝鮮での鉄器使用は、半島北部に限り、前4〜3世紀から始まっている。鍬(スキ)・鎌・一字形鉄器・揺刀(トウトウ)・鎬(ツルハシ)などの農具、斧・やりがんなの工具、矛・鏃(ヤジリ)の武具などの鉄器類とともに、「燕」国の貨幣である明刀銭が伴出する。
だがこの鉄器文化は、半島中南部には容易に伝わらず、前2〜1世紀を通じて次第に普及していった。
朝鮮北部は高句麗がベニヤミンと推定したが、そこでも明刀銭が出るのか。
五胡の燕はマナセ族と考えるが、
春秋の燕−朝鮮北部−オキナワはベニヤミンで繋がるかもしれない。
面白い話を見つけたあるね。
燕にベニヤミンが入っているのはとても面白い。
春秋の燕に断絶がないなら、紀元前1100年から始まるらしい燕は、
陸路で入ってきた周の流れか?
殷は前1600年からか。
殷は適当にいって、ドラヴィダ系など、直線的に東に逃れたシュメール。
周は後の時代に儒教の理想とされていて、
儒教がユダヤのコーヘン(エフ工)の流れだとすれば、
周はパレスチナを経由したバール系か?
ベニヤミンもパレスチナを経由し、
周と一緒に中華に入り、燕→朝鮮北部→オキナワで繋がるとか。
史記、パレスチナを経由してないシュメール。
儒教、パレスチナを経由したコーヘンのバール。
景教、聖書を経由したマナセ・エフライム、始皇帝。
アルメニア仏教、聖書を経由したベニヤミンと仮定すると、
シャーマニズム−道教は、聖書を経由していないベニヤミンか?
列島のベニヤミンは、第一波は越からと思っていたけど、
オキナワと越など南方海洋の線はどうなのだろう?
列島には越人が多く入っていると考えるのだけど、
越が、紀元前600年頃 - 紀元前334年まで。
この越の時代は、もうシャーマニズムを経由していそう。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/05/post_fd48.html
◆オーストロネシア人の拡散史
?たぶん彼らの原郷は、東南アジアの島嶼部らしい。
?一部はインドシナ山岳回廊を北上して、四川盆地(巴蜀)へ入り、長江を沿下して拡散しました。
?別の一部は東シナ海を北上して、広州・福州・台湾・浙江へ広がり、また長江を遡上して拡散しました。
?浙江からなお海へ出た集団は、南韓・九州へ到達します。
*上の???集団が、いわゆる「倭族」。
?)沿海や低湿地に住み、潜水漁・貝拾いなど、魚貝食文化。
?)「舟の文化」を発達させた。特に?南洋集団はカヌーで長距離を航海した。
?)湿地の蛇・虫を避けるため、高床式住居。
?)蛇・鮫・大魚・ウツボらを〈水界の主〉として畏拝。またその害を避けるため文身(イレズミ)を施した。
?)タロイモ・ヤムイモなど根栽文化。イモ類はバラバラにして植えると殖えるため、これから「バラバラに切り刻まれて食べられる」イモ女神への崇拝が起こった。有名な〈マヨ娘〉の殺人儀礼。食人風習。日本神話のオホゲツヒメ。
?)のちにインドシナ〜華南の集団は稲を栽培。稲はきわめて生産性が高いため、これによって大人口が確保された。
↓
この入墨海洋民族は冥界シャーマニズムを経由しているのか、していないのか興味深い。
この民族は後のベニヤミンと同一だが、パレスチナを経由していない、第一波か?
稲はこの第一波で、マダガスカルにも繋がる海洋民族。
ちなみに、私はいかなる集団とも、永久に一切、関係ない。
ルールを守る者とはルールだけを共有する。ルールを守らない者はルールから追放。
ところで、この上もない味のする乳を飲んで読書生活とかいいなぁ。
地図は以下のサイトから。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/05/post_fd48.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002453.jpg
紅巾の乱は、漢人政権への意欲と救世主信仰の結びつきだが、寄せ集めなので政権はとれず。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
紅巾の乱、1351年-1366年
白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。
白蓮教は阿弥陀信仰の浄土教結社。
マニ教と弥勒信仰が習合したもの。
本来は仏教の一派だが世の混乱と共に次第に過激化し
「元王朝の打倒とユートピアの実現」を唱える反体制的な教団
1348年、方国珍が浙江、福建で海賊を行い、元の輸送船を襲い始めた。隋唐時代からこの地域は中国全土の経済を支える重要な地域であったためにここからの輸送が途絶える事は致命傷になり得た。政府は討伐軍を送ったが、元々草原の民族のモンゴルは海戦には弱く、討伐軍の司令官が捕虜になる惨敗となった。これにより元朝の衰退ぶりがあきらかとなり、反乱への気運が高まることになる。
紅巾軍は白蓮教団を母体としていたが、実態は盗賊や流民の寄せ集めであり、統率、規律も不十分で暴徒と化して都市や村を荒らしまわる部隊も多かった。また「漢民族の復興とユートピアの実現」を説いてはいたが、具体的な政策があったわけでもなく、漢人知識人層を失望させ彼らの協力を得られなかったことが、紅巾軍の衰退につながったと思われる。
↓
紅巾の乱は、モンゴル系の元王朝の失政への怒りが、救世主信仰に結びついたものだが、
寄せ集めだったために、政権を取れなかったようだ。
幀圷莪はh?ベニヤミン?
エフ垢は符殻鉦がいあるね。
iいところに裏な泣を?い討い襦
參和、ウィキペディアからi?暴
幀圷莪、1328定!1398定
山个砲茲襪板袴Hは瑤琳个馬蛭砲?薐爐び颪鯤擇?辰独冑錣
◎
祇縮、ベニヤミンとのがりを幣すか?
幀圷莪は川鋲から仝岱れた爺和を嵶めるのは圭である。そのためには揖じ酎竃附の?遒燐翹討鬚垢譴仭爾ぁ垢煩圓錣譴拭?海賻埆丘贅?阿緑咾?遒鰔瞰Rしたものが謹くなる。
|狼渚の匯塗として紿巒でけ?靴討い森?單dのもとに附を誘じたが、
1355定の甑徨が棒瘁、を簾Г沓\っ函りもあるらしい?、
廉狼渚を∋?林待により篤り、臭掴を匯。
この余嶄に易縮とを俳り、剃に舒縮としてRするようになった。
1368定屎埖、壓の掴奨で幀圷莪は軸了し、苧を秀忽した。
臭掴は叟により嶄忽で恷もかな仇囃だった。
圷が坪で樋悶晒しているのをて、臼轡を佩い、
圷はモンゴルへ碍曜し臼圷に。
その瘁、火る歔Δ腓椶靴討い?■隠械牽慶蠅砲榔鋭?琳?Δ腓椶掘
臼圷もほぼ腓気擦拭
嶄忽匯瘁は、嶷屓貨、寄斌繁をRしたが、
牝參栖の臭掴叟でう歔Δ料Δ鯱?い世里世蹐Α
そして猟忖のと柵ばれる寄Rを佩った。高やなどの忖を聞っただけで咲冷吸が劣筆Hであった並をあてこすったと冱われ△気譟∈蚓箋曚?匝\まがいのことをしていたので義の忖と揖咄の祇の忖を聞った宀がそれだけで△気譴拭
◎
して嶄忽雰をていると、
縮のRは、臼イ、掴ユの褒圭を澣く、Oめて爾しい屓貨。
汝奮兄麼だったことが繁議な喪吉湖だったためという苧がなされるが、
それにしても、それまでにない愾Δ牧える。
親い鈴y叟業を和げたが、これにより苧の郊雰の吭が詰和したらしい。
斬郊やの薦を?ぐ屓貨も竃している。
析いて瘁宀を伉塘した咲冷吸は、
1380定からそれまでの孔骸を賠し兵め、
3嵐繁を埆える繁が△気譴拭
1398定の棒肇まで、泳は賠をけたらしい。
咲冷吸は嶷麼と酎怛麼を児として忽を恬ったが、
喟S吸に畠て哈っくり卦され、その瘁の苧は咲冷吸の圭と
喟S吸の圭のでeれ咾?造砲覆襦
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-72.html
匯藍劾で、遍脅を嶄忽掴何にしたのは、苧がはじめてです。
苧のr旗は、圷旗にないがしろになっていた蚕y議嶄忽議嵌會を指甠靴茲Δ箸いσ瞰Rが?輝あったみたいです。戦遮崙もその匯つですが、さらに、幀圷莪は〆鎗〇というものを下している。これは、隈舵というよりは、祇綪僚命?任垢諭SHには丐佩しろ、朕貧の宀を恊彰しろ、翫の嶼は嶼措くしろ、というような斐縮議な祇綪鯀?弔覆蕕戮燭發里任后?海譴髻?造忘了悗?紂?寮枠砲燭舛法△澆鵑覆稜阿杯iませた。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu17.html
晩云からは片隨鳥軒繍怎旋困諒衡澆?瓦董?娜捷??鉾涼?垢襦△箸いπ里肺Q叟を佩わせました。困蓮¬貉覆?い襪里鉾娜捷??砲覆辰討靴泙辰燭里任后
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http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji13.htm
怎旋はタリですから融慂のベニヤミンとなります。
蒋の囮の肝に寇嶷された幽のですが、怎旋箆もっています。幽は、パウロなのでベニヤミンです。勣するに、蒋ののイエスの宮徨Qいだから幽のなのです々
仝じゃ、怎旋箆は、兆念と幽ので融慂のベニヤミンを飽颪靴討い燭鵑澄
仝エフライムの冷の狼にして、苧の狼というものがあります々
仝苧ですか´?々
仝枠伏、もしかして、それミンとんでベニヤミンを峺す´々憂が磯佚磯夘で基えた。
仝憂ちゃん、それならが輝て廼まりますか々
仝箭えば、澱??鍛?∧翆?J苧に為gの苧藍´々憂はoく方えた。
仝書のはタリの狼ですよね、融慂の´々と暴。
仝おそらくはね。それで、隔苧垪の臼劾は高苧爺司です々
仝やはり、苧がダブルで鞠?靴泙垢諭?
仝臼劾の冷繍怎旋恊箆の徨?よしあきら?は、帽襖?しば?社が恃でした々
仝帽襖の剃み襖帽はペルシャだ´々と憂。
仝枠伏、採か融慂とペルシャが栽して、掴ユダ箸忘謬?靴討い觚个犬任垢茲幽`々
◎
苧と怎旋困箸僚子廖?秬?呂話?鉾娜捷??鉾涼?気譴討い襦
これはベニヤミンのがりなのか?
http://www3.tky.3web.ne.jp/~riverf/china/essei/min.htm
?定鈍噴匯r。幀圷莪は冱に冱う、
仝諳爺凋を鞭くること眉噴匯定、裡Cをn]し伉を勝くし、晩?を輩めて機らず、
酎に吩あれかしと潜む々
??と。
泳が羽埴でなかったことを幣す匯冱である。どころか、この冱宥り酎にとっ
て幀圷莪はまさしく畔埴であった。圷劾挑豚の詞痴から繁?を照った哂俛であるだ
けでなく、屓を個醐し、邦旋垢並をX潜しI伏薦を互め、隈翌な飽崙を電茅
して偏?侶僂販閂Yの送宥に薦を勝くした、まさしく匯弊の兆埴であった。これ
が、幀圷莪の謹嶷繁鯉議なの咫?を嚥える匯咀である。匯圭では畔埴。匯圭では
吹倉なる屎宀。
朱元璋は漢?ベニヤミン?
エフライム工房の射程が長いあるね。
朱元璋は乱から起こり、江南を制圧し首都を置いた後、
元を北元に追いやり、さらにほぼ壊滅させた。
白連教はこの途中で弾圧している。
仏教、宦官、大商人、旧勢力などを激しく弾圧。
ついでに後継者を心配し、5万人以上を粛清。
農本主義をとったが、唐宋以来、増大する江南商人の力を削いだのだろう。
日本の足利義満を、天皇を差し置き、日本国王に任命し、
貿易をしているが、エフライム工房によると、足利氏はベニヤミン。
明もベニヤミンか?
明は朱子学を国学としているが、繋がりを追いたい。
残酷な粛清の一方、漢民族復興主義からの善政を行なう、
一般庶民には良い人だったらしい。
永楽帝の出生疑惑の真偽はどうなの?
ちょっと草臥れたので、ウィキから殆ど引用して、今日は終わり。
永楽帝にも出生疑惑があるようなんだけど、
勢力特定はゆっくりやります。
以下、ウィキペディアから抜粋
建文帝、1398年 - 1402年
燕王朱棣(のちの永楽帝)北方のモンゴルに対する備えとして王となっていたが、
建文帝に恐れられ、粛清を狙われる。
1399年、朱棣は北平(現在の北京)において挙兵。
南京の建文帝軍は破れ、朱棣は南京において永楽帝として即位。
1421年には北平へ遷都。
永楽帝、1402年 - 1424年
洪武帝が行った恐怖政治を永楽帝は少し方向を変えて行った。
永楽帝の時代に明の皇帝独裁体制が固まり、以後政治を壟断する寵臣は
出るものの皇帝が代わると没落し処断されるのが常になった。
外征を控え、元末の混乱以来の中国の疲弊を癒そうとした洪武帝の遺産を永楽帝は外征につぎ込んだ。洪武帝が望んだのは農本主義の民族国家であったと思われるが永楽帝は全てその反対を行った。
永楽帝は世界帝国を目指し、積極的に外征を行った。当時北元はタタール部とオイラト部に分裂して度々明との国境を越えて侵入した。これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、異例の親征を5度に渡って行いモンゴル族を追い返した。また南の安南にも遠征し、ここを直轄領とした。
更に永楽帝は世界中の国が明の権威を認めることを欲し、鄭和を長とする大船団を南海に派遣した。大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した。
洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝と言ってもいい。しかし洪武帝の宦官を重要な地位につけてはならぬという遺訓を無視したことは鄭和に限っては成功であったろうが、後代に宦官悪がはびこる要因を作った。
なお、永楽帝が宦官を重用したのは、靖難の変の際、建文帝の朝廷で低い地位に置かれていた宦官を味方につけ情報提供をさせていたからともいわれる。
生母の問題について
永楽帝の母親についてだが、実際は高麗人の碽妃だったと考えられている。しかし、永楽帝自身は生母の身分が低いことを卑しみ、靖難の変の頃から洪武帝の皇后であった馬氏が母親であると主張し始めた。
なお、モンゴル側の史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母は大元ウルスのトゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されているが、中国側でも同様の俗説が広まっている。
また、その俗説の中において永楽帝の父親とされるトゴン・テムルもコシラの実子ではないと言われており、民間では南宋最後の皇帝恭帝の遺児であるという俗説があり、その俗説との関連性を指摘する研究者も存在する。
画像は永楽帝が改築した紫禁城。紫禁城にも狛犬みたいのがいる。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002457.jpg
(無題)
>・・紅巾の乱、1351年-1366年
白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。
白蓮教は阿弥陀信仰の浄土教結社。
マニ教と弥勒信仰が習合したもの。
>・・1350年(天平5年)、英祖王統に代わって王統を樹立した察度は、浦添謝名の奥間大親と羽衣(飛衣)伝説上の天女との子であった。その家は貧しく、乞食扱いにまでされたが、強い意志をもって、当時富強をほこっていた勝連按司の娘をめとり、夫婦の協力によって家運をおこし、将来沖縄の支配者となる基盤を築いていった。
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/satudo.html
・・ああ、羽衣伝説の察度の母親は白蓮教徒ではなかったか。白蓮教はミトラと理解する。察度は鉄の農具を普及させたといわれる。父の奥間大親がベニヤミン?…ツバルカインの流れ?
太公望のかわいこたむ釣り
>>察度
同じ時代か。面白いあるね。
同時代に白蓮教がベニヤミンの理論だったか?
沖縄はベニヤミンの痕跡多いあるね。
http://www.h3.dion.ne.jp/~vincent/person/person03.html
アダムとエバの神に対するそむきにより、彼らはエデンの園から追放された。その子カインとアベルは、人類の二代目ということになるが、両者の間に神への供え物に関して分裂が生じ、その結果、自分の供え物が神に受け入れられなかったカインは弟アベルを憎み、彼を野につれ出して殺害した。
↓
ツバルカインという言葉を知らぬが、カイン?
カインはセト?アベルがホルス?
羽衣伝説は、ヒクソス側からの物語かな?
天女に好かれぬ男が衣服を隠して、天へ帰れなくなって、
仕方なく男と結婚する、のは、天照に嫌われたヨセフに似る。
その子供がエフライム・マナセとか。
かわいこたむが釣れなくて、衣服を隠しても、逃げられたエフライムの父。
永楽帝は反儒教勢力。北イ、コンギラトの関与もありうる。
「永楽の時、史に曲筆多し、今いづくにか其実を知るを得ん。」幸田露伴
出生疑惑がウィキペディアに載っていたので、
永楽帝についてちらっとみていたら、
不審点が幾つかできました。
まず、唐の太宗とフビライを尊敬していること。
この二人は北イとコンギラト部の後押しを受けた皇帝。
次に、フビライの建てた街を首都にしていること。
コンギラトの生まれではないか、と疑われるべき理由もある。
南の儒教、朱子学勢力と対立し、宦官(北イも混じる?)を登用した。
儒教は洪武帝のベニヤミン路線を後押しする河南の勢力。
洪武帝は足利を「不征の国」の項目に加えていたらしいが、
それは足利がベニヤミンだからだろう。
義満の死後、足利氏は朝貢を取りやめ、永楽帝が足利の侵略を考えたのは、
永楽帝で勢力が入れ替わっているからではなかろうか?
義満が「日本国王臣源」に封じられるのは1401年。
永楽帝の即位は1402年。
永楽帝の前から足利と明は交流を持ち始めているが、
倭寇、吉野朝廷、大内氏と明の関係もあり、
各勢力の関係を、細かく調べなくては判断できない。
私は棚上げする。
永楽帝の簒奪は、
洪武帝の儒教勢力と全く折り合わない勢力によるクーデターと推定。
適当に言うが、紫禁城は「紫を禁じる」でフェニキアと対立か?
http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/edomin.cgi/kihu/_tVYjwQv.html
清朝は明朝皇帝の代表として永楽帝を選び、
贔屓の親である龍を台石に使ったのです。
永楽帝の陵墓にはそもそも亀趺はありませんでした。
http://tanakanews.com/c0502china.htm
冊封体制は、明の時代になって復活し、永楽帝の時代に拡大された。朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)など古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ、冊封国となった。(足利義満が冊封を受けたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれている)
鄭和の大航海は、この冊封体制をさらに世界に広げるためのものだった。財宝を船に積んで東南アジア、南アジア、中近東からアフリカまでの国々に配って回ったのである。これは元の時代のように中国を貿易帝国として復活させる試みだったと思われるが、これは宮廷内の色目人の宦官たちの勢力を拡大するためでもあったようだ。
当時の明朝の宮廷では、後宮で皇帝一族の身の回りの世話をすることを通じて皇帝の意思決定に影響を与えていた宦官たちと、皇帝に伝統的な政治哲学である儒教の教えをアドバイスする「儒家」たちとが勢力争いを展開していた。当時の中国では、支配者は儒教に沿って国を統治するのが良いとされていた。
宦官が海外貿易を通じて自分たちの勢力への富の蓄積をはかろうとしたのに対し、儒家は「海外貿易の拡大は国家財政の浪費になる」として反対した。イラン・トルコなどシルクロードの外国系の人々が多かった宦官は外交重視、中国の伝統を重んじた儒家は内政重視で対立したのである。
この宮廷内の対立は、鄭和に大航海を実行させた永楽帝が1424年に亡くなり、息子の洪煕帝や孫の宣徳帝の時代なって、儒家の勢力が強くなり、外交より内政を重視する政策がとられたことで決着がついた。宦官たちは何回か抵抗を試み、鄭和が世界中から集めた品々や地図などの情報を根拠に、外交や貿易を重視した方が良いと皇帝に進言した。
これに対抗するため、儒家勢力は1433年に鄭和の最後(7回目)の大航海が終わった後、大航海の記録や文物を保管してあった宮廷の保管庫に放火するという謀略を行い、鄭和が集めた情報を焼失させた。こうした経緯があるため、鄭和の大航海の全容は分からなくなった。
http://mick.pos.to/china/human/m101.html
…ただ、彼がこれだけ外征に心を向けていたのは、彼自身が軍事的に優れていたこともあろうが、簒奪したということを、庶民の目を外に向けさせる意図もあったのではないかと思う。
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/theb01/01345.htm
即位後、永楽帝は建文帝に仕えていた官僚たちを信頼せず、子飼いの宦官たちを重用し、帝位簒奪の事実を隠蔽するため、史書を改竄して建文帝の存在を歴史から抹殺し、錦衣衛(キンイエイ)や東廠(トウショウ)によるスパイ網を組織して恐怖政治を行う。また簒奪によって世論の風当たりの強い江南を嫌い、元々の本拠地・北平に遷都。「北京」と改称し、紫禁城を建設した。
彼は唐の太宗に傾倒していたと伝えられるが、
フビライ・ハーンをも理想としていたようである。
足利義満を「日本国王」として冊封している。
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/s02/2503.htm
建文帝の政権は文治主義的で多くの儒学者を抱えており、建文帝の死に殉じた者も居れば生きて政権批判をした者も居た。方孝ジュという学者は「燕賊簒位」を叫び目の前で873人の親類縁者が殺害されても翻意する事なく処刑されて逆に永楽帝は評判を落としてしまったという。
永楽帝の政治には鄭和をはじめとする多くの宦官の活躍が目立つ。これは科挙資格に囚われることなく実力のある腹心を動かそうという永楽帝の実力主義によるものであった。だが彼のような統率力を持たなかった後の皇帝たちの治世下では宦官の専横を招くこととなり、やがてそれによる政治的混乱は緩やかな滅亡を呼んだのであった。
http://history.dot.thebbs.jp/1078592995.html
鄭和の遠征も甥「建文帝」捜索の一面もあったとか
なお、日本とも勘合貿易を開始したのは永楽帝の代です。
しかし足利義満の後を継いだ息子義持が一方的に貿易を停止したため、
一時は日本遠征を企てたらしいです。洪武帝の遺帖が無かったら元寇の再来になっていたかも
(のち足利義教──明では宣宗宣徳帝の代に勘合貿易は復活しています)。
彼は元のフビライを尊敬していたとか。
http://www.arachina.com/city/beijing/history.html
大都(偉大な都のための中国)が出現した。1267年に建てられ、
成吉思汗の孫、忽必烈汗「フビライハン」の支配下となった。
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai19-Chugokukara.html
明の永楽帝は、明王朝で最高の繁栄をもたらした皇帝である。足利幕府の三代将軍義満は、この永楽帝に朝貢の使者を送った。そして、「日本国王」の称号をもらうことになる。日本から派遣された朝貢使者は、「倭の五王」以来900年ぶりの朝貢であった。
(注意)1402年に義満は、明の三代皇帝・永楽帝から「日本国王」の称号をもらうが、この年に永楽帝は帝位についた。
記録によれば、永楽帝はこの朝貢を非常に喜んだと言われている。永楽帝は、日本がどのような国を聞いていた。それは、実際より大きく、中国に対抗する国と聞かされていた。その日本からの朝貢である。就任したばかりの永楽帝の威光を示す絶好の材料であった。
しかし、足利義満は6年後の1408年、51才で急死してしまう。そして、その子、四代将軍・足利義持は、明への朝貢を取りやめる事にした。このとき、義持は、朝貢を止めると言うことが何を意味するかを考えなかった。
永楽帝は、日本が朝貢しないことに激怒し日本遠征の計画を立てた。しかし、明の始祖・朱元璋(洪武帝)の遺言に「不征の国」というのがあった。そこには明が攻めてはいけない国々が書かれてあった。この中に日本があった。
朱元璋が、なぜ日本を「不征の国」としたかは判らないが、これにより、永楽帝は日本遠征を諦めることになる。当時の明の国力からすれば、目的の成否は別にしても、日本遠征は可能であった。しかし、永楽帝とそのブレインは遠征を見合わせたのである。
ツバルカイン
・・GEN04:11??今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
GEN04:12??土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
GEN04:13??カインは主に言った。 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
GEN04:14??今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
GEN04:15??主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
GEN04:16??カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
GEN04:17??カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。
GEN04:18??エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。
GEN04:19??レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。
GEN04:20??アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。
GEN04:21??その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。
GEN04:22??ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。
・・
GEN04:24??カインのための復讐が七倍なら レメクのためには七十七倍。」
・・トバル・カインはカインより7代目の末裔。エノク6代目の孫でもある。
*
>・・列島のベニヤミンは、第一波は越からと思っていたけど、
オキナワと越など南方海洋の線はどうなのだろう?
列島には越人が多く入っていると考えるのだけど、
越が、紀元前600年頃 - 紀元前334年まで。
この越の時代は、もうシャーマニズムを経由していそう。
・・閩越(ビンエツ)というのは沖縄渡来人の主流だったと思う。燕の明刀銭は2つ3つだからベニヤミンはマイナーだったかも。・・道教の流れは江南、河南へ向かって2通り考えられるが、調べてみたい。
http://www3.ezbbs.net/35/hiroshiagena/
・・「加計呂麻の山の神」は示唆深い。
洪熙帝は洪武帝より。宣徳帝から宦官より。英宗は宦官より。景泰帝は洪武帝より。再び英宗は宦官より。
ツバルカイン情報、多謝。
あでやかを増してくる微細な秋たむのかわいげ、歴史で釣る兮。
私は詩人ではないので引用。
http://www16.ocn.ne.jp/~juntaro/text/critique/kouza/k05m_yosioka.html
吉岡実
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
洪熙帝、1424年 - 1425年
永楽帝の第一子
永楽帝が死ぬと、靖難の変の際に建文帝の側についた臣下の家族達を赦免した。
南京に遷都する事を考えたが、一年で死去したために実現せず。
永楽帝の拡張政策と反対に、洪武帝の路線への回帰を目指した。
宣徳帝、1425年 - 1435年
即位直後に漢王朱高煦の反乱を鎮圧。
楊栄、楊士奇、楊溥の三楊と呼ばれる部下を使った。
宦官の権限を拡大し、鄭和による南方航海を再開している。
英宗、1435年 - 1449年
九歳で皇帝になり、初期は三楊の、
成人してからは宦官王振の専横を許す。
明の弱体化を見てオイラトが侵入。
土木の変での、意味不明な作戦による敗北で、
王振はオイラトに討たれ、
英宗がオイラトの捕虜になってしまう。
オイラトからしても貿易問題の戦争であったため、
英宗は厚遇された。
景泰帝、1449年 - 1457年
まず土木の変の最大の責任者である
王振の一族を皆殺しにし、財産を没収した。
オイラトの北京包囲に良く耐え、和議が成立。
英宗も送還されてきたが、景泰帝はこれを軟禁し、上皇とした。
1457年前後、皇太子が死んでしまい、
景泰帝が気落ちしたところを、英宗の勢力がクーデター起こし、
英宗が即位した。
英宗、1457年 - 1464年
皇帝に返り咲いた英宗は景泰帝擁立の責任者と言う事で于謙を誅殺した。
成化帝は宦官より。弘治帝は洪武帝より。正徳帝、嘉靖帝は宦官より。隆慶帝の時代に名臣が出るが、宦官は除けず。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
成化帝、1464年 - 1487年
英宗の長子
道教、仏教にのめり込む。
宦官の特殊警察と妻の万貴妃が権力を握る。
弘治帝、1487年 - 1505年
明中興の祖
専売法の見直し、宦官・道士・僧の綱紀粛正、
北に対する防衛体制の強化。
正徳帝、1505年 - 1521年
ラマ教に凝り、歌舞音曲、お経、女色に耽る。
政治は宦官の劉瑾が取り仕切り、賄賂が横行した。
劉瑾は簒奪を試み、正徳帝は遊びで大軍を連れまわし、
税が重くなり、乱が多発した。
嘉靖帝、1521年 - 1566年
系譜から明中興の祖、弘治帝を消してしまう。
政治は省みず、道教の祭文が上手いだけの臣下を取り立てた。
タタール、倭寇が勃発している。
隆慶帝、1566年 - 1572年
道教好きの嘉靖帝の時勢に、
陽明学派の徐階、清廉潔白な海瑞などの名臣が登用されていて、
不老長寿の術を語る道士を一掃。倭寇、タタールも懐柔した。
さらに宦官を叩こうとしたが、隆慶帝には既に宦官の側近がいて実行できず。
徐階はこれにやる気を失い、引退した。
斬郊と郡歔Δ??δ擇法??舁?
がっくり、??zみの喘吭したら畠何?えたった。
gにまとめて、
斬郊と郡塗の歔φ?い琳弌
砦櫃離魅襯魯舛?Δ鬚弔韻那畚陲鯑陲海垢里汎出个靴董
屓への郡岱から川徭弊が臼奨を鯛とし、苧は舁?
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/index_2.htm
仝埆?びんゑつ、ミンヲチ?々
埆の厰瑤蓮▲?颯弔?薀鬟帖▲鬟舛悗卑したようです。 ?ミン?はミ?鉾?敷?です。
眉u、時u、眉挫などミの原く仇兆は、このに喇栖するのかもしれません。
これはミヅ?邦?のミ、カミ?舞?のミ、恊各のミ?囮?でもあるようです。
悶を吭龍するミ?附?にも匯崑しますから、晩云繁は敷附を隔っていることになります。
參和、輝。
埆繁も秘朝してるから、オストロネシア怛に除いのかも。
埆が歪藍劾の挑听とかいうもかけたことある。
ビン埆には?繁も秘ってるらしいから、草白、湘巒にがる?
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/index.htm
◎
このV弥彰嫗さんのサイトは、
孅俛のサイトと揖じくらい措いサイト。
rが竃栖たらもう匯指、朕を宥してみたい。
このあたり、猟僥宀が弖うにはかすぎるなので、
そのうち拍たむにゆっくり盾してもらうある。
それぞれのかわいこたむの措さをSしむ連iきr。
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これはミヅ?邦?のミ、カミ?舞?のミ、恊各のミ?囮?でもあるようです。
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埆が歪藍劾の挑听とかいうもかけたことある。
ビン埆には?繁も秘ってるらしいから、草白、湘巒にがる?
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/index.htm
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このV弥彰嫗さんのサイトは、
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このあたり、猟僥宀が弖うにはかすぎるなので、
そのうち拍たむにゆっくり盾してもらうある。
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宦官の横行と平行し、後金のヌルハチ台頭。反乱により明滅亡。
がっくり、書き込みの用意したら全部消えたった。
ビン越関係は文字化けする。
簡単にまとめて、
宦官と反対派の勢力争いの中、
満州のヌルハチが力をつけて後金を起こすのと平行して、
悪政への反乱から李自世が北京を落とし、明は滅亡。
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/index_2.htm
「ビン越(びんえつ、ミンヲチ)」
越の呉音は、オエツからヲツ、ヲチへと転訛したようです。 ビン(ミン)はミ(巳=蛇)です。
三島、箕島、三好などミの付く地名は、このビンに由来するのかもしれません。
これはミヅ(水)のミ、カミ(神)のミ、尊称のミ(御)でもあるようです。
体を意味するミ(身)にも一致しますから、
日本人は蛇身を持っていることになります。
以下、適当。
越人も入墨してるから、オーストロネシア語族に近いのかも。
越が夏王朝の末裔とかいう話も見かけたことある。
ビン越には隼人も入ってるらしいから、琉球、九州に繋がる?
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/index.htm
↓
この塚田敬章さんのサイトは、
飛鳥昭雄のサイトと同じくらい良いサイト。
時間が出来たらもう一回、目を通してみたい。
このあたり、文学者が追うには細かすぎる課題なので、
そのうち秋たむにゆっくり解説してもらうある。
それぞれのかわいこたむの良さを楽しむ息抜き時間。
三国志演義と重ねられた明の漢勢力。西欧が亜細亜に植民。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
元末からの騒乱により華北は一面荒野が広がるほどの荒廃。
その一方で江南地帯は強い経済力を有していた。
農民出身の洪武帝は江南商人を警戒して、大商人の抑圧政策を取っていた。
農本主義的な朱子学の振興もその一環。
↓
明の漢人勢力は朱子学、陽明学など、儒教よりでこれがベニヤミンか?
商業規模の拡大と、北イ勢力の浸透への反発が強くでた、
洪武帝の系統の明の漢人政策。
倭寇などと、漢系ベニヤミンの関係も興味深い。
民間における小説の分野では数々の名作が誕生した。
『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』はこの時期に完成したとされる。
↓
三国志演技の蜀漢復興の姿が、
明の漢復興の姿に重ねられて読まれていたという話も見かけた。
滅亡しかかった明を支えて後金を撃退し続けた名将、
袁崇煥が諸葛孔明になぞらえられたのも、そのせいだろう。
明末清初には、
ユークリッド幾何学、グレゴリウス暦が紹介されている。
「1582年にイエズス会員マテオ・リッチらによってキリスト教カトリックの布教が行われている。明政府はキリスト教には余り興味を示さなかったようだが、宣教師たちのもたらした様々な西洋科学・思想に大いに興味を引かれた」。
この時代には中国・日本・朝鮮・南海に渡る交易網が成立し、
銀を共通の通貨として様々な人種の商人たちが活躍した。
↓
交易の拡大が西洋にまで繋がった。
というか、今地図をみたら、スペイン・ポルトガル・オランダによる、
アジア進出と同時代ですね。
それで明に西欧知識が流入しているわけか。
地図は以下のサイトから。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/map.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/map/03/FarEast_17c01.JPG
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002467M.jpg
大人の歴史研究=エフライム工房
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ヌルハチ
中国後金の創始者。清の初代皇帝。
女真族はツングース・シュメール。
祖父の頃から明と友好的だったヌルハチは、
勢いを増す女真を制御するために、明に後押しされて、
1589年、女真5部の大勢力となり、
この頃からこのツングース・シュメール民族は満州を自称した。
豊臣秀吉の対応に明が忙殺されている間に、
女真の敵対勢力を滅ぼす。
その後、やっと明はヌルハチを警戒し始め、
敵対勢力の海西女真を後押ししてヌルハチに対抗した。
1616年、ヌルハチはハーンに即位。後金を起こし、
満州文字を定め、八旗制を創始した。
1618年、明とのサルフの戦いに勝利。
後ろ盾を失った海西女真を吸収した。
その後も、明に侵入し続けるが、
1621年、名将袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。この時にヌルハチは傷を負い、これが元で死去した。
愛新覚羅のアイシンとは、満州語で金を意味する。満州族は自分達の先祖の栄光である金から金姓を名乗っていたと思われる。(学説によると満州民族は、金姓を名乗ることが多かった)
↓
平御幸によると、金はソロモン神殿に繋がるし、
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku9.htm
「「…実は、韓の本質はコーヘンなのです」
「コーヘンって、アロン直系の祭司ですよね。でも、どうしてですか?」
「突厥の可汗、韓国の韓、人名の勝、韓国人名の金(コン)、地名の加賀、
これらは全てコーヘンの異体なのです」
「えー、勝海舟の勝や加賀藩の加賀もコーヘン!」
私と瞳は歴史の裏を垣間見て背筋が寒くなった。」
↓
満州の金姓もコーヘンなのだろうか?
ツングース・シュメール系
粛慎(蝦夷と同じ)、挹婁→勿吉→靺鞨→女真(金)
→渤海(名目上はイナンナ系高句麗の後継)
このツングース・シュメールはコーヘン。
金の子牛から、バールなのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/efraym/m/200610
ハンガリーのハンには、ユダヤ教の祭司であるコーヘンという意味がある
そもそも、何故に大韓民国なのか?古代には何故三韓時代があったのか?この韓という文字が理解されない事には、韓国は永久に理解できないのです。
では、その謎に満ちた韓という文字は何を指すのか?それは、驚くなかれコーヘンなのです。ヤコブの子供の中で、ユダヤ教の祭司としてイスラエル12部族の外に置かれるレビ族、その中でも極めつけの良血がコーヘンなのです。
↓
北イスラエルのバール信仰がコーヘンで満州や蝦夷にも繋がるのか?
このイナンナ(モーセ)、バール(アロン)と、
ヨセフの系統の関わりが、私にはまだ判別できていないのだが、
満州はハーンを名乗る、ミトラ−バール路線のコーヘンという仮定をしておく。
イナンナ系は聖母=天女信仰で、突厥とモンゴルの対立と平行。
インダス(アロン)−エジプト(イナンナ)という仮定をしておく。
フルリ人で元同族。
http://blog.livedoor.jp/osouji60/?blog_id=1526704
ウラルトゥ美術は中国まで達していた旨述べ、パジリク古墳にもアッシリア・ウラルトゥ美術の影響があるようで、同古墳からは秦または中国製青銅鏡が伴出し、東西の接点となった旨を指摘する識者(たしか「榎一雄著作集」)もいる。鹿島昇さんはウラルトゥが東行して伯族になった旨述べたと記憶する
↓
ウラルトゥ=フルリで、伯族、百越、百済などとの繋がりは、
ぜひ追うと面白そう。
清の名君ぞろいが事実だとしたら凄い。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ホンタイジ、1626年 - 1643年
李氏朝鮮、モンゴルのチャハール部が明と同盟を結び、
後金に敵対するようになり、
出荷する事の出来ない朝鮮人参や貂の毛皮などが山積みになったので、
1627年に遠征で朝鮮を屈服させ、
1635年にはチャハール部を組み入れ、元の玉璽を得る。
これを期にホンタイジは皇帝を名乗り、清を起こした。
1637年、明との繋がりを重視する李氏朝鮮を遠征、清の冊封国とした。
東北部を完全に掌握したホンタイジは明の領内への侵攻を目指すが、
山海関の守りは硬く、果たせぬままに1643年に急死した。
順治帝、1643年 - 1661年
ホンタイジの死後、6歳のフリン(アイシンギョロ・フリン=順治帝)
が皇帝となった。
翌年、李自成が明を滅ぼす。
この混乱をみて、清は北京を目指すが、
李自成軍は官職を決めるなど悠長であり、
この2勢力の戦いは清の勝利に終わり、華北を制圧した。
1650年、有力者の摂政、ドルゴンが死ぬと、
13歳になっていた順治帝は、
宦官を抑え、税金逃れの僧、道士を還俗させ、官僚の合理化を進めた。
漢文化に心酔していた順治帝は漢文化を積極的に取り入れたが、
清朝で、宦官が横行することはなかった。
1661年、24歳で死んだとされているが、出家して生きていたとの説、噂あり。
康熙帝、1661年 - 1722年
八歳で即位する。
重臣のオーバイが専横を振るうようになったが、15歳の時に粛清した。
1673年、南方の三藩の乱により、一時は長江以南をすべて奪われるが、
1681年に、三藩を、1683年には三藩に加勢した台湾を制圧し、
完全に中国を統一した。
1670年代、ジュンガル部とハルハの対立において、ハルハを保護。
以後、ハルハを旗下におく。
1720年前後、チベットの内紛にも介入して、ジュンガル部と争っている。
内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に一日で使った費用で一年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を一万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、一方では減税を度々行って、財政は富み、人口は急増した。
文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』、『佩文韻府』などを編纂させ、また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われている。康熙帝の時から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめる。明史の編纂にも力を入れて大部分を完成させる。
↓
宦官の横行する諸王朝と比べても、朱子学への傾倒は、漢的に見える。
中国歴代最高の名君とされる。
↓
このような良い評価は虚飾が多いが、
康熙帝に北イの姿は、今のところ私には見つけられない。
側近にいたイエズス会宣教師など、
もっと追わなければならないだろうが、
とりあえず、さらっと清の通史を見てから考えたい。
乾隆帝で清は乱れ、白蓮教、天理教の反乱が起きる。
清は現代にも繋がるが、よくわからないので、
とりあえずさらっと通史をみたい。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
雍正帝、1722年 - 1735年
皇位継承の暗闘を経験した。
密勅立太子法(太子密建)を始める。
毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で朱砒(皇帝自身による朱い墨による諾否、その他の書き込み)を書き込み、一日の睡眠時間は四時間に満たなかったという。前記の密偵もただ監視をするだけではなく、地方官に業績の優れた者がいたらこれを褒賞した。
質素・倹約
また、民衆の手本として自ら倹約に努め、書き物をする時に重要な物でなければ紙を裏返して使い、政治の最高機関である軍機処の建物もみすぼらしいバラックのような建物であった。さらに、地方官が手紙を皇帝に送るときに綾絹を用いると、なぜこんな無駄なことをするのかと言い、紙を使わせた。
文字の獄
父康熙帝も行った文人弾圧を雍正帝も強く行い、何冊もの本が禁書となった。
チベットを分割した。
過労死した。
乾隆帝、1735年 - 1795年
ジュンガル、金川、グルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に
1回ずつ計十回の遠征を十全武功と言って誇った。
イエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入った
↓
明末からの中国でのイエズス会の活動など、
いろいろ重要な課題が多いが、棚上げ。
嘉慶帝、1796年 - 1820年
即位して数年は、退位した乾隆帝が実権を握っていたが、
耄碌した乾隆帝は、規律を緩め、奸臣を近づけていたが、
乾隆帝の死後、嘉慶帝は奸臣を除いた。
乾隆帝の治世に世の中が乱れていたのに加えて、
中国では100年間で、人口が2億人から4億人に急増していたが、
農地はさほど増えていなかったため、白連教、天理教の反乱が勃発した。
ベトナムと海賊の繋がりによる反乱もなんとか乗り切るが、
満州族の軍事力の低下が発覚。
反乱を鎮圧した漢人は、
後の曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、
満州人政権を脅かした。
フランス、イギリスが迫り、阿片の密輸入が増えていて、
アヘン戦争による清の弱体化、
漢人軍閥による清の滅亡は、この時代から始まる。
アヘン戦争により、中華本格的に没落。
清はよくわからないので、
とりあえずさらっと通史をみたい。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
道光帝、1820年-1850年
阿片が蔓延。取り締まったがイギリスとの戦争に突入。
アヘン戦争に敗北。
↓
最初はイギリス、次にフランス、アメリカと不平等条約を結ばされる。
咸豊帝、1850年 - 1861年
1851年、キリスト教の太平天国の乱。
1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、
キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられた。
この時にロシアも条約を結ばせた。
1860年、この条約にも満足しなかった英仏連合軍は更に清軍を挑発する事で戦火を開き、北京にまで攻め上った。咸豊帝は粛順の言を容れ、北京を恭親王に任せて熱河へ撤退した。恭親王は英仏連合軍がやってくるとどこかに隠れてしまった。皇帝のいなくなった北京で英仏は円明園の略奪を行い、財宝の無くなった円明園に放火して証拠を隠滅した。
その後に恭親王を通じて北京条約を結んだ。この条約により天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせられた。
北京条約締結の翌年に咸豊帝は死去した。
20世紀は難しい。
20世紀は現在の前の100年間で、理解が難しいので、
とりあえずさらっと通史をみたい。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
同治帝、1861年 - 1875年
西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せ、漢族軍隊により捻軍の乱を終結させた。この時期に僅かながら清の国勢は復活し、同治中興と呼ばれる事もある。
1874年、西郷従道率いる日本軍が台湾(台湾出兵)を占拠した。
光緒帝、1875年 - 1908年
西太后が力を握る。
1876年に琉球失陥、1885年の清仏戦争によりベトナムへの影響力を失い、
そして1894年に日清戦争が勃発し朝鮮への影響力を失った。
清の国勢回復を強く望む変法運動は、
西太后が袁世凱らの武力を用いて光緒帝を監禁し、
変法派達を処刑したことで頓挫。
1899年には義和団の乱が勃発し、西太后がこれを助力した事で
清の植民地化はいっそう進み、清は滅亡へと転がり落ちていく。
愛新覚羅溥儀、1908年 - 1912年
最後の皇帝。
清朝崩壊後に旧日本軍の支援を受け満州国の執政、
満州国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。
1911年の辛亥革命により、
袁世凱を大総統とする共和制の中華民国が設立されたために翌年退位する。
満州国建国
1931年9月18日に中国大陸に展開する日本陸軍によって満州事変が発生し、全満州地域を関東軍が占領したが、満州に対して関東軍は永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した傀儡政権の樹立を目論み、その後特務機関長であった土肥原賢二大佐が満州民族である溥儀の説得にかかった。
清朝の復興を条件に満州国皇帝への即位を同意した溥儀は、天津の自宅を出て11月13日に営口に到着、旅順の関東軍の元にとどまった。その後、1932年2月18日に、後に満州国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が、蒋介石率いる中国国民党政府からの分離独立を宣言し、『大同』元年(1932年)3月1日に満州国が建国された。
溥儀が満州国皇帝に就任した4年後の1937年には、盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築する。
事実上日本及び関東軍の傀儡であった。
1941年12月7日の大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、
日本がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と交戦状態に入る
中国共産党内部の権力闘争に端を発する「プロレタリア文化大革命」
の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、1967年に死去した。
20世紀は重要課題。
20世紀は政治的な勢力が現在に直結することもあり、
文学者の私には研究が難しいのですが、
エフライム工房や、
ヘブライの館2
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/_floorA6F_he.html
を参考に調べていきます。
地図はヘブライの館2から。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/_floorA6F_he.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002473.jpg
アテルイ、モレの碑
・・余談だが、京の清水寺の桜はよく咲くだろう。坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイ、モレを供養している。…得がたい恋の祈願で訪れるものが多いという。
・・山科にある醍醐寺の桜も相当なものらしい。秀吉の桜見は名高い。…ゴータマが長者の娘からもらった牛乳は醍醐味だった。…真言立川流の文観もこの醍醐寺にいたらしい。
http://www.kiyomizudera.or.jp/aterui-more.html
*
>セト
・・神話によると太陽神ラーとヌート(w:Nuit)の間に生まれた、オシリス、イシス、ネフティスに続く4番目の子。王権獲得のため、ヌート(母親)の産道を通らず、子宮を破って生まれ出てきたがオシリスより先に生まれる事ができなかったとされる。しかし、実際の父はラーではなくゲブ(w:Seb)であるとの説がある。また姉ネフティスを妻としたが、その息子アヌビスは兄オシリスとネフティスの不義の子であった。
・・すさまじい セト。
明治維新は南朝(ヨセフ)+プロテスタントの革命?
本当は近現代については、
もっと古代史から色々な地方を丁寧に追ってから書いたほうが良さそうなのですが、
私が大っぴらに歴史について書ける機会も逃げ切り後はなさそうなので、
本当にまだ荷が重いのですが、近現代亜細亜について調べます。
ただこの時代は、思いっきり間違うかもしれない。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
とりあえず明治革命から太平洋戦争までの、
日本の各政権の勢力特定をしたい。
孝明天皇、1831年−1867年
孝明天皇は保守的な人物で倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった
岩倉具視などからその存在を疎まれ暗殺されたのだという。毒殺説と刺殺説が有る。
幕府の存在に深く理解を示していた孝明天皇の崩御は、
禁門の変で鳴りを潜めた勤王倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招いた。
平安京最後の天皇なので、エルサラーム、ユダヤ派か?
明治天皇、1852年-1912年
大政奉還、王政復古、戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1392415
後小松天皇(北朝)や後亀山天皇(南朝)と言われても、そんなもの知らんわい、という人は、とりあえず南北朝 天皇家系図をどうぞ。
この南北朝の戦いは、結局は「北朝」の勝ちとなって、足利幕府へとつながっていく
↓
足利はエフ工によりベニヤミンと推定。
『日本書紀』に匹敵するような大編纂となった『大日本史』では、「南朝こそ正統なり、北朝に肩入れした足利氏は逆賊なり!」と主張しており、明治維新前の尊王論(=「幕府よりも天皇が大事」論)をおおいに盛り上げた。
「明治天皇=大室寅之祐」説を主張する、鹿島昇『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』によると、吉田松陰や藤田東湖も「南朝尊王論」を主張していたという。
↓
明治天皇は南朝系。
将軍家茂は、慶応2年(1866年)の6月25日に急死。20才。
孝明天皇は、慶応2年(1866年)の12月25日に急死。36才。
この2つの急死はあまりにも怪しい。「明治天皇=大室寅之祐」説では、さらに半年後に孝明天皇の皇太子(睦仁親王)も暗殺され、明治維新では、南朝の大室寅之祐が(替え玉として)即位した、というシナリオである。
↓
この辺りはネットでも広まっている話。
◆ウィキペディア:天皇の一覧 (抜粋・一部短縮編集)
明治以前の歴代天皇(帝)は、現在とはいくらかちがっていた。明治時代に歴代天皇の変更が行われた。これらの変更については、水戸藩による『大日本史』・水戸学および尊王論の影響によるものとされている。
明治以前は神功皇后を15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外された。
壬申の乱で敗死した大友皇子は、即位が確認されたとされ、明治3年に「弘文」天皇した。現在では非即位説が有力。
47代「淡路廃帝」に対して明治3年に「淳仁」と追号した。
承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、明治3年に「仲恭」と追号した。
明治44年に明治天皇の命令で、南朝2代を正統な天皇と認め、従来の96〜100代の天皇を北朝として正統から外した。
*義良親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後村上」天皇とした。
*熙成親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後亀山」天皇とした。
大正15年に大正天皇(実質は摂政の裕仁皇太子=昭和天皇)の命令で、南朝を正統とした後も即位の是非で意見が別れていた寛成親王を、即位が確認されたとして「長慶」天皇とした。
「南朝正統」による歴史の書き換えを画策したとはいえ、北朝派の勢力はたくさんおり、歴史を一気に抹消するのは不可能だ。
◆ウィキペディア:皇国史観
南北朝正閏論
1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
◆ソース同上
当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと機を一つにする。
↓
原始社会→倭人は邪魔。
以下のサイトで、
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/503.html
明治天皇 坂本竜馬 勝海舟 伊藤博文 西郷隆盛 大熊重信
高杉晋作 桂小五郎 大久保利通が一緒に写っている画像が観られる。
革命勢力には長崎のグラバーがついていた、という話もみるし、
その薩長勢力と明治天皇が一緒にいる、というのも面白い話だ。
○○によると、
明治維新はフランス革命から続く、プロテスタント革命。
戊辰戦争で江戸、奥羽越、蝦夷共和国を打倒し、明治政府が日本を統一。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
戊辰戦争、1868年 - 1869年
明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した戦争。
新政府軍は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、
軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。
この時期のフランスはナポレオン3世による第二帝政。
共和制と対立するナポレオン政府は、ベニヤミン?
ブルボン朝、フランス革命、ナポレオンの勢力特定など、
まだ私はできてないが、
プロテスタント革命政府と対立するフランス政権が江戸幕府と組んでいた。
明治維新はフランス革命の流れなら、平行した勢力関係。
古代史から推定しているように北陸、東北は、
アテルイ以降も基本的に越人、アイヌ人の気風で、
奥羽越列藩同盟として北イ系明治政府と戦争したのもそのためか?
白石列藩会議から参加した14藩
仙台藩
米沢藩
二本松藩
湯長谷藩
棚倉藩
亀田藩
相馬中村藩
山形藩
福島藩
上山藩
一関藩
矢島藩
盛岡藩
三春藩
新たに奥羽同盟に参加した11藩
久保田藩(秋田藩)
弘前藩
守山藩
新庄藩
八戸藩
平藩
松前藩
本荘藩
泉藩
下手渡藩
天童藩
奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
長岡藩
新発田藩
村上藩
村松藩
三根山藩
黒川藩
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku5.html
奥羽越列藩同盟(以下、単に「同盟」と略)。この北陸以北の諸藩による軍事同盟は単なる軍事同盟とは言えない側面がありました。その最大の理由は、「国家元首」の存在でした。この同盟は何と孝明天皇の御舎弟・輪王寺宮法親王(りんおうじのみや-ほっしんのう,後の北白川宮能久(よしひさ)親王 写真)を「東武皇帝」として擁立、「公儀所」(政府)を白石に、「軍事局」(大本営)を福島に設置し、列強諸外国に対して「独立宣言」をしました。これは、「明治天皇」を擁す薩長の維新政府に対する、北陸以北諸藩による事実上の「北日本連邦」の成立を意味しました。
明治天皇(大室寅之祐)と東武皇帝(輪王寺宮法親王)。「南朝」の血を引く「明治天皇」(前回のコラムを参照)を擁す維新政府、「北朝」(足利朝)の血を引く東武皇帝を擁す同盟。これは正に南北朝のリターンマッチと言えないでしょうか?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/rep_ezo.html
明治元(慶応4 1868)年8月19日夜、突如、江戸湾(現・東京湾)を8隻の黒船(軍艦)が、北へ向けて出航していきました。彼らは旧幕府海軍副総裁(海軍次官)・榎本武揚(えのもと-たけあき)に率いられた旧幕府艦隊でした。彼らは維新政府に反発し、旧幕府艦隊と言う軍事力を使って、新天地を目指したのです。そして、その新天地とは蝦夷地(えぞち)−北海道だったのです。
12月15日、彼らは箱館(現・函館)一帯を占領、蝦夷地の領有を宣言します。いわゆる世に「蝦夷共和国」(以下、「共和国」と略)とか「北海道共和国」と呼ばれる事になる榎本政権が樹立されたのです。彼らは日本で最初の「選挙」を実施しました。この「選挙」で榎本武揚を、蝦夷島総裁(共和国大統領)に選出、諸閣僚をも選任しました。
蝦夷共和国政府首脳
┌海軍奉行 荒井郁之助
├陸軍奉行 大鳥圭介───陸軍奉行並 土方歳三
├会計奉行 榎本対馬・川村録四郎
総裁 榎本武揚┬副総裁 松平太郎┼開拓奉行 沢太郎左衛門
│ ├松前奉行 人見勝太郎
│ ├江差奉行 松岡四郎次郎─江差奉行並 小杉雅之進
│ └箱館奉行 永井玄蕃───箱館奉行並 中島三郎助
└フランス士官隊 ブリュネ 以下十名
そして何よりも重要な事は、列強諸外国から、
"Authorities Defact"(事実上の政権)
として、維新政府と共に日本列島に存在する「もう一つの政治実体」(政権)として承認された事でした。この位置づけが何を意味するのかと言いますと、現代に例えれば、「中国」(大陸)に対する「台湾」の様なものです。
箱館戦争の終結であると同時に、戊辰戦争の終結でもあり、
日本が維新政府によって「統一」された瞬間でもありました。
画像は、戊辰戦争中の薩摩藩の藩士。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002476.jpg
明治以降の天皇
竹下義朗のサイトも飛鳥昭雄のサイトと同じくらい良いサイト。
良く勉強している学者さんたちとは、茶のみ雑談が面白そうだ。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
旧幕府軍の処分については新政府内においても厳罰論と寛典論に分かれ、列藩同盟の中心であった会津藩と庄内藩では対照的な処分が行われた。厳罰論が多かった長州派が担当した会津藩の処分は苛烈を極めた。転封先となった斗南は風雪厳しい不毛の土地であり、移住した旧藩士と家族からは飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。このことと戊辰戦争に至る経緯を併せて、現在でも会津地方の人々には長州藩に対するわだかまりの念があると言われる。
↓
既に見たように、青森の紋章は卍でミトラ教。
「最後に、長文ですので、心してお読み下さい。又、以下の文章は、私の筆によるものではありませんので、ご質問には一切お答え致しかねますし、ご批判の類に対しても一切の責を負いかねます事を予め表明させて頂きます。
竹下義朗」
とのことですが、私もこの情報について一切の責任を負いません。
以下のサイトから抜粋。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4-1.html
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)
◆山口県田布施町の大室さん
そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。
大室寅之祐の子が昭和天皇であっても大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。
(大室近祐による。高松宮発言:昭和58年)
Q.僕は愛子の実の母は橋本厚子説を取るがどうして先生は橋本和子と言えるのかその根拠を教えて頂きたい。
A.極めて信頼の置ける医療関係者筋から「愛子内親王の実母は●●●和子氏」との情報が多数(100件以上)寄せられております。
案外、誰でも天皇になれるんだよね。ただし、5〜6代くらいかかる。
3代で総理、5代で天皇と言う訳。
ステップ1.
1代目
市議会議員から県会議員。国会議員(参議院議員)から衆議院議員(小選挙区)
当選1〜2回位で死亡。息子に地盤を譲る。 (昔なら男爵から子爵になった所で死去)
(若しくは薩摩藩家老調所(1万石)に当たる。おゆらに当たる。作蔵さん、スヘさんに当たる。若しくは大室ヨネ、橋本卯太郎に当たる。田中角栄位か?)
ステップ2.
2代目
衆議院議員の地盤を父から譲り受け当選10回位迄か??
当選3回で政務次官から当選5回で大臣当選8回で大蔵大臣、当選10回で派閥の長、若しくは都知事か衆議院議長。あと一歩で総理大臣になれる所で死去。息子に地盤を譲る
(昔なら子爵→伯爵→侯爵(公爵にはなれず) 徳川御三家位? 国持ち大名位か? 島津久光、若しくは大室庄吉、若しくは橋本龍伍に当たる。 田中真紀子位か安倍晋太郎位か? 石原都知事もこの辺りか?)
ステップ3.
3代目
父の地盤を引き継いで総理大臣迄上り詰める。(昔なら侯爵から公爵へ)
ここ迄3代100年かかる。
(権力が最大ピーク頂点迄行き着く。徳川将軍位か? 島津忠義、大室儀作、橋本龍太郎に当たる。田中雄一郎位か? 安倍晋三位?)
ステップ4.
4代目
朝香宮・東久邇宮・竹田宮・北白川宮等の皇室よりかなり遠い旧宮11家に相当。
(島津忠義の息子朝香宮、大室近祐に当たる。橋本龍太郎の息子位か?)
ステップ5.
5代目
三笠宮・高松宮・秩父宮等の直宮家に相当。
(朝香宮と九条節子の間の三笠宮タカヒトに相当。大室近祐の息子、徳川恒孝に相当。橋龍の孫位)
ステップ6.
6代目
(上がり)天皇
(此処迄150〜160年位かかる。但し、4代〜6代迄は権力が弱まり象徴化する。明仁天皇、徳川恒孝の息子広飲み屋、橋龍の曾孫辺りか?)
広飲み屋は近祐の息子徳川恒孝の長男で岸信介が養子にした。(昭和34年)勿論、昭和天皇も御了承済み。宮内庁の下の人間には昭和天皇の成子と東久邇宮盛厚の間の子が広飲み屋と言う事にして納得させたとの事。宮内庁でも下の人間は大正天皇が徳大寺の子で昭和天皇も毛利元徳8男西園寺八郎の子と言う事になっているが、これも嘘で宮内庁上層部及び田布施 柳井関係者(大和町民も)及び佐藤栄作、高松宮の情報から大正天皇は寅之祐の子で昭和天皇・秩父宮・高松宮全員、明治天皇の子で父が大酒飲みだったので全員子種無く子が出来無かったと言う。
一部紹介します
「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1 にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本竜太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本竜太郎の長男橋本竜の次男を雅子様、広飲み屋の間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。
じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。
TBSの報道番組で産婦人科医が出て来て、「妊娠8週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!!
一説には、橋本龍太郎の長男、龍の次男を雅子様、広飲み屋の間の子と言う事にして、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!!
当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、???
小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!!
橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。
案外 >>1 問題タブーも未だに引き擦っているんじゃない!!!
大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?
>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、広飲み屋以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)
徳川家康 毛利元就
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興正寺(大谷) 興正寺(大谷)
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└─┬───────┘
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「G」作蔵=基子(スヘ)=大室弥兵衛=ハナ
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┌──────────┼────────────┐
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寅吉(寅之祐=明治天皇) 庄吉 「G」X平
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┌───┼───┐ ├─────┬──────┐
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昭和天皇 秩父宮 高松宮 儀作 音吉 ヨネ
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├─────┐ |
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近祐 勝 和田恵三郎
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┌─────┬─────┤ | |
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照明 恒孝 弘樹 憲之 迪子
(母松平サト子)(母同左)(母後妻静江) |
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└─────┬────────────┘
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広飲み屋
〔愛新覚羅家〕
康煕帝玄?
|
抬親王允祥
:
(4代略)
:
抬親王載垣(1861年死去)
|
溥椿(1892年死去)
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毓援(1910年死去)
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恒杰(1933年死去)
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啓葆(1955年死去)
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華齢─┬─橋本龍太郎
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和子(敬宮愛子内親王の実母)
北朝三笠宮(朝香宮)天皇家
お由羅の方
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島津久光(父調所)
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忠義
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┌───────┴───┐ 中川宮朝彦
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朝香宮鳩彦─┬─貞明皇后 偵子─┬─久邇宮邦彦
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三笠宮崇仁──┬──香淳皇后
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今上天皇
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┌────┴────┐
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秋篠宮(母美智子) 紀宮(母妾)
先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。
(続き)
一度目は広飲み屋が結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫を養子にしようとして失敗。(長男龍の長男か?)この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を広飲み屋と結婚させたかったが、その野望は失敗した。(広飲み屋も寛子もお互い反対したから)
二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の次男(2000年8月生まれ)を広飲み屋の養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。
三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。
北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。
一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。
佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2〜3年後か?に最終決着が付く筈だ。
西南戦争で武士没落。長州が力を握る。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
西南戦争、1877年
近代化を進める中央政府は明治9年(1876年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、明治9年(1876年)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で前原一誠による「萩の乱」が起こった。鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。
私学校(しがっこう)とは、明治初期に鹿児島県に存在した学校。
戊辰戦争後、薩摩士族の鬱積を晴らす目的で、鹿児島県に設置された学校で、その費用は私学校とは裏腹に、県の予算より支出された。
教務は主に漢文の素読と軍事教練にあった。無論入学できるのは士族に限られた。
同校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった。同校は同戦争後廃止され、現在では門と壁のみが史跡として残されている。
明治9年(1876年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする
長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。
1月29日、政府は鹿児島県にある武器・弾薬を大阪へ移すために、赤龍丸への搬出を秘密裏に行った。鹿児島の火薬庫にあった火薬・弾丸・武器・製造機械類は旧薩摩藩時代に藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えていた私学校徒は、この秘密裏の搬出に怒り、夜、草牟田火薬庫を襲って、弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。この報を聞いた西郷は「ちょしもたー」(しまった)と言葉を発したと言う。
警視庁帰藩組の西郷暗殺計画を聞いた篠原国幹・淵辺群平・池上四郎・
河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、
かくして四弟小兵衛と辺見から西郷暗殺計画と弾薬掠奪事件を聞いた西郷は、これに対処するために鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼった。
私学校党は2月3日、中原尚雄ら60余名を一斉に捕縛し、以後、苛烈な取調べがおこなわれた。その最中の2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。
鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保も関与していたと考えるに至った。
薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。
西南戦争による官軍死者は6,403人、薩軍死者は6,765人に及んだ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002478.jpg
西南戦争後、武力から憲法での闘いを目指し、自由民権運動。政府の言論弾圧と不況により、運動が激化。秩父事件もその一つ。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
薩摩・長州両藩出身者が群を抜いて大規模な閥族を形成した。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、実質的に山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。
藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため当時から批判的に取り扱われてきた。護憲運動では「閥族打破」が合言葉とされた。
武力を用いる士族反乱の動きは西南戦争(1877年)で終わる。
1878年に愛国社が再興し、1880年の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。
国会期成同盟では、自ら憲法を作ろうと翌1881年までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、植木枝盛、交詢社(慶応義塾関係者のクラブ)らによる憲法私案が作られた。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は讒謗律、新聞紙条例の公布(1875年)、集会条例(1880年)など言論弾圧の法令で対抗した。
政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。これによって国会開設のスケジュールが具体的になった。実は、政府は10年もたてばこの運動もおさまるだろうと思っていたという。
国会開設を前に準備政党化した自由党に対し、松方デフレ等で困窮した農民たちは不満をつのらせ、激化事件を起こすようになる。
秩父事件、1884年10月31日 - 11月9日
埼玉県秩父郡の農民が増税の圧政の中で政府に対して起こした、
激化した自由民権運動の1つである。
埼玉県秩父地方では昔から養蚕が盛んであったが松方財政で生糸の価格が暴落した。秩父地方の産業は生糸の生産に偏り過ぎており、養蚕農家は毎年生糸の売上金をあてにして金を借り、食料の米麦を外部から購入していた為、生糸市場の暴落と増税が重なるとたちまち困窮し、全国の各地同様その窮状に付け込んだ私立銀行や高利貸などが彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。
当時、明治政府は、政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動を力でねじふせる政策を強化していた。民権派の側はそれに対応して、真に善美なる国会を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなしとして各地で対立が起きていた。
1881年(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件、1883年(明治16年)の高田事件は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして地域の民権家・民権運動を根こそぎ刈り取ろうとしたもので、政府転覆計画は具現化をみるに至らなかったが、1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に重圧に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、9月の加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の志士が挙兵し、警官隊と衝突していた。
とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃であったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流をはかり同志的結合を強め、自由民権運動の裾野は大きく拡大していった。
自由民権思想に接していた秩父の自由党員らが中心となり増税や借金苦を喘ぐ農民とともに困民党を組織し、1884年(明治17)年8月に2度の山林集会を開催。
10月31日に決起集会、11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸しや役所の書類を破棄した。一部は、執行部の意にそぐわず武力や焼き討ちを行った者もいた。しかし電信によりいち早く決起とその規模を知った政府は一部鉄道を利用し警察隊・憲兵隊・鎮台兵を送り、まず郡境を抑えたため、11月4日に、秩父困民党執行部は事実上崩壊、制圧された。一部急進派は長野県北相木村の菊池貫平を指導者とし、さらに農民を駆り出して信州(長野県)に進出したが、11月9日佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。主立った者は各地で次々と捕縛された。
事件後、約4000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。
日清戦争前後に、台湾、沖縄、李氏朝鮮が、清から明治の勢力範囲に移った?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
1889年の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890年第1回総選挙が行われ、
帝国議会が開かれた。
衆議院と貴族院の二院制。
「貴族院」は貴族院令の規定により、以下の議員から構成された。
皇族議員
華族議員
公爵議員・侯爵議員
伯爵議員・子爵議員・男爵議員
勅任議員
勅選議員:国家に勲労あり又は学識ある者の中から、内閣の輔弼により天皇が任命。
保守的な構成であることから当初から貴族院は衆議院の政党勢力と対抗することを意図して作られたことが伺われる。戦前においても、婦人参政権・労働組合容認・帝国大学増設といった進歩的法案はすでに議論され、実際に衆議院では可決されたものの、貴族院では否決の憂き目に会っている。大正デモクラシーの時代に貴族院に対する改革・廃止論議が起こり、加藤高明内閣は若干の改正を行ったが、貴族院の基本的権限には手をつけられなかった。
超然主義
帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った
立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張である。
だが、実際に帝国議会開かれると、
「民党」と称された民権派の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。
1894年、琉球を処分し同化政策をとり沖縄県を設置。
これをめぐって朝鮮と琉球の属国を維持したい清と対立し、
明治27年(1894年)に日清戦争が勃発する。
この時点において明治にはイギリスがついている。
清は光緒帝。実権は西太后が握っていた。
この頃の清に後ろ盾がいたのかどうかは、まだ私は知らない。
勝利した日本は、
清は遼東半島・台湾・澎湖島を日本にゆずりわたす。
清は賠償金2億両を金で支払う。
という下関条約を結び、
このほかにもイギリスが清に要求して、
まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、
イギリスの立場を日本が代弁していた様子があるが、
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求し、日本はこれを受け入れるが、以後、ロシアを仮想敵国とする。
1894年の時点で日本は、第2次伊藤内閣、
松方正義と交互に内閣を起こしている。
日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上らに反論し、積極的に開戦を主張。
正作の妻・繁子は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の長女なので、
松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。
↓
「三菱こそフリーメーソンの牙城だ!」という論文によると、
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/481.html
「「死の商人」グラバ−はイギリスの大商社ジャ−ディン・マセソンの長崎代理人だ
った。グラバ−はイギリスのフリーメーソンであった。グラバ−と弥太郎の関係は深い。」
フリーメーソン、プロテスタント革命は明治維新に直結するようだが、
日清、日露戦争時の日本の背後にはイギリスがいたようで、
三菱は創立時からイギリス−フリーメーソンと結ぶが、松方もその流れか?
ちなみに、イラクとアメリカを中心とする有志連合の戦争が継続しているが、
一体何の戦争だったのか?
イラクがシュメールの地だったから、という可能性もあるが、
http://ch05028.kitaguni.tv/e41355.html
フクダの実弟が三菱商事勤務。首相補佐官のオカモトは三菱マテリアルの役員。
そして、イシバは軍需産業ナンバー1三菱重工株を1万625株所有しているのだ!防衛長長官が軍需産業の株を保有しているというのはインサイダー取引ではないだろうか?
↓
アメリカ−イギリス−イタリア−日本−韓国という、
マナセ−エフライム、
平行してフリーメーソン、プロテスタントと推定される勢力が、
イラク戦争の主勢力であるのは偶然だろうか?
イラクで大規模を発注された日本企業は三菱で、
明治以来のイギリス−三菱の線が、
現在、イラク戦争に踏み切った勢力とも平行しているように見える。
伊藤(薩長)−大隈(非薩長富裕層)−板垣(非武力反薩長)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
第1次伊藤内閣 1885年‐1888年
黒田内閣 1888年‐1889年
第1次山縣内閣 1889年‐1891年
第1次松方内閣??1891年‐1892年
第2次伊藤内閣 1892年- 1896年
第2次松方内閣??1896年- 1898年
第3次伊藤内閣 1898年- 1898年
この時点で伊藤と松方の内閣に違いがあるのかどうか、
私にはまだわからない。
第1次大隈内閣、1898年
衆議院の憲政党による、日本史上初の政党内閣。
憲政党は、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が、
藩閥政府に反対するために合同してできたものだが、
内部において自由派と進歩派の対立が絶えなかった。
自由党
フランス流急進主義の影響が強く、一院制、主権在民などを主張した。自由民権運動の担い手として全国に組織を広げるも、自由党急進派は貧農とむすびついて(激派)、様々な事件を起こす。明治15年(1882年)の福島事件、加波山事件や秩父事件が有名。
執行部は地方の急進派を押さえきれず解散した。
明治23年(1890年)、大井憲太郎らが第1回衆議院議員総選挙にそなえて自由党を創設。
(1891年)に星亨が板垣退助を総裁に迎えた。
進歩党の大隈重信は、
明治維新に加担し伊藤博文にも近かったが、
明治十四年の政変、1881年、
自由民権運動を巡る政府内の対立から、伊藤博文により政府から追放された。
ただし、立憲改進党1882年〜1896年、(初代総理(党首)は大隈重信)が、
「地方都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制などの穏健な立憲政治を目標に掲げた」
ように、進歩党も、
薩長の藩閥政治には対立するものの、裕福層の政党であったか?
板垣退助も討幕運動に参加しているが、
1873年に征韓論を主張するが破れて、西郷隆盛とともに下野しており、
薩摩の非武力派(武力派は1877年、西南戦争で挫折)、反長州の中心に見える。
薩長出身で権力を持ちつつも、
大隈重信より秩父事件などの大衆に近い存在と仮定しておく。
憲政党は、反薩長として連合したが、
富裕層と大衆の利益が反するために、
自由党と進歩党は内紛を起こしたのだろう。
文部大臣であった尾崎行雄が
「日本は共和政治となる気遣いはないが、仮に日本に共和政治があると仮定すれば、
おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」と発言した。
この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を
批判したものだったが、「不敬の言」として、
隈板内閣を嫌う、宮内省、枢密院、貴族院、伊藤博文が批判。
尾崎は辞任に追い込まれ、後任をめぐって旧進歩党、自由党が対立。
そのまま憲政党は分裂した。
山縣有朋−桂内閣(日露戦争)と三菱は近いか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
第2次山縣内閣 1898年- 1900年
第4次伊藤内閣 1900年- 1901年
第1次桂内閣 1901年- 1906年 桂の背後には山縣有朋
第1次西園寺内閣1906年- 1908年 西園寺の背後には伊藤博文
第2次桂内閣 1908年- 1911年
第2次西園寺内閣1911年- 1912年
第3次桂内閣 1912年- 1913年
隈板内閣の崩壊後1898年から1913年までは、
山県有朋−伊藤博文の長州閥で安定。
この長州政権安定期に1904年、日露戦争に勝利している。
1902年に日英同盟と言われているが、
明治維新から長州とイギリスは近く、
ロシアの南下に、イギリスが日本の背後にまわり対抗した、
という図式と仮定しておく。
山縣有朋ら対露主戦派と、伊藤博文の戦争回避派との論争は、
共に長州であるが、桂−西園寺にどのような違いがあるのかは棚上げ。
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/estate/1092880101/
1 :名無し不動さん :04/08/19 10:48 ID:LBK0SI2+
南青山7丁目(常陸宮邸の道路はさんで東隣)で三菱地所・住友商事他
が196戸のマンション建築中。
青山ブランドでは、青山PT、青山ザタワーに続き久々の大規模だけど、
ちと駅から遠い(11分)。
興味あるんだけど、どう思います?
4 :名無し不動さん :04/08/19 17:06 ID:LBK0SI2+
三菱の岩崎家のお屋敷跡で、2年前まで旭硝子の社宅だったらしい。
近くにはコンビにすらなく不思議な雰囲気の場所だ。
420 :名無し不動さん :2005/10/25(火) 23:33:04 ID:???
今上天皇陛下や、陛下等皇族方の家庭教師ヴァイニング夫人、
貴族院議長・学習院長を歴任した摂家筆頭近衛家当主篤麿公爵、
その子息で3度に亘り内閣総理大臣の要職を務めた近衛文麿、
近衛家と縁深い肥後細川家歴代当主や細川護煕内閣総理大臣、
旧華族の家柄である相馬家や、尾張徳川家等の名門家歴代当主、
歴代の内閣総理大臣である山縣有朋、石橋湛山、中曽根康弘、
同じく歴代内閣総理大臣の一人である田中角栄と、その長女で
ある田中真紀子元外務大臣、その夫である田中直紀参議院議員、
厚生大臣であった橋本龍伍と、その子息で内閣総理大臣を務めた
橋本龍太郎、その弟で記者から高知県知事に転じた橋本大二郎、
名門宮家たる旧伏見宮家、常陸宮妃華子様や秋篠宮妃紀子様、
世界のホンダ創業者本田宗一郎や、某大手薬品会社経営者一族、
赤坂に所在する某米系一流投資銀行在日代表や債券市場本部長、
日本橋に所在する某米系一流投資銀行資本市場本部長、等々の
古今東西の各界要人が、これ迄も、そしてこれからも、由緒格式
歴史伝統の糸を紡ぐが如く永遠の時の流れの中、連綿と永きに
亘り住まわり続ける、そんな都内屈指の名門高級住宅地とは、
いったい何処でしょうか?
噂では、近々紀宮様も近隣にお引越しされるようなのですが。
422 :名無し不動さん :2005/10/26(水) 07:08:09 ID:???
確かに 黒い固まりだね
首都高や六本木通りのすぐ傍というのもイタイ
↓
六本木ヒルズ
麻布日ヶ窪(現在の六本木六丁目)には江戸時代に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷がおかれた。
↓
六本木は長州と近く、三菱が絡み、山縣有朋の名も見える。
対露主戦派の山縣には三菱−イギリスの線を仮定しておく。
一方の伊藤博文の戦争回避派を追ってみたい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002482.png
三井−伊藤−西園寺−藤原氏−マナセ
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
1900年、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって、
立憲政友会を創設。
板垣退助は立憲政友会の設立と共に政界を隠退しているので、
政的であるはずの伊藤と組んだ自由党は、板垣から離れたと仮定しておく。
井上馨は、三井財閥の最高顧問にもなって“三井の大番頭”ともいわれたが、
大隈重信、伊藤博文と近く、
三菱に対する、三井の線があるのだろうか?
以下、三菱こそフリーメーソンの牙城だ!から、
三井に関する情報を抜粋。
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/481.html
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/482.html
財閥と政治家との結び付きと言えば、三井と政友会、三菱と憲政会・民政党、住友と西
園寺公望の関係などが有名である。しかし前にも述べたように、4代目小弥太の数少ない
友人の高橋是賢の父親が、政友会総裁高橋是清であったのである。このことからも、歴史
の通説といわれているものがいかに当てにならないか、良く分かる。
池田は三井財閥を代表する銀行家だが、池田の娘が何と三菱の岩崎家に嫁いでいるのだ。
三井の池田、三井の池田と騒がれながら、三菱の岩崎家に娘を
嫁がせているのだ。池田成彬は三菱財閥が三井に送り込んだエ−ジェントだったのである
。その目的は、徳川幕府の御用商人を勤めた「世界最古の財閥」といわれた三井財閥を内
部から破壊して乗っ取ることであったと考えられる。
三井合名理事長の団琢磨暗殺も、軍部、右翼、マスコミ、世論の財閥非難の声
を沈静化させるための生贄殺人であったと考えられる。あるいは、右翼の仕業に見せかけ
て邪魔者を葬ってしまおうという策略であったのかも知れない。団琢磨暗殺には、どうも
某財閥の影がちらつくのである。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
三井家は、三井財閥の財閥家族。
宇多源氏(近江源氏)佐々木氏出身である三井高久の流れを汲むとされる。
↓
この源氏はマナセ族だろうか?
三井家発祥の地である伊勢松坂は御三家紀州藩の領地であった為、
江戸時代を通じて紀州徳川家とは強いつながりがあった。
伊皿子家高長は北家10代目高棟の三女と結婚し2男3女をもうけた。
三女の夫はトヨタ自動車元社長の豊田章一郎である。
室町家高大の実父高従は徳大寺実則の娘を妻に迎えている。
徳大寺は西園寺公望、15代目住友吉左衛門友純の兄である。
↓
西園寺公望
西園寺は自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。
↓
藤原氏はエフライム工房によるとマナセ系。
三井と西園寺の繋がりはマナセでも繋がる。
1903年 立憲政友会の総裁となる。
↓
伊藤博文−西園寺−三井−マナセ族の線を仮定しておく。
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/481.html
この三井と三菱のダンピング競争は、出来レ−スだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。
三井(マナセ)と三菱(エフライム?)には血縁関係もあり、
明治維新後、この両者と政府が組んで、他の勢力の財閥を潰したようだ。
西園寺の弟は住友家の入り婿になっており、
西園寺−三井
+
西園寺の弟−住友
↓
三井住友銀行の合併とも平行する。
伊藤派と山縣派による、対露政策の違いは、
三井(マナセ)、三菱(エフライム?)によるものだが、
この両者は共に明治維新の長州閥の中枢であり、
最終的には対立しないので、
西園寺(伊藤)の立憲政友会による、反対していた日露戦争への支持、
「1904年、日露戦争では桂内閣(山縣有朋、三菱)を支持した」
も、同族内での方針の違いを、妥協したためと理解できる。
政友会−鳩山一郎−民主党?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
立憲政友会
初代 - 伊藤博文(1900年 - 1903年)
2代 - 西園寺公望(1903年 - 1913年)
3代 - 原敬(1914年 - 1921年)
4代 - 高橋是清(1921年 - 1925年)
5代 - 田中義一(1925年 - 1928年)
6代 - 犬養毅(1928年 - 1932年)
7代 - 鈴木喜三郎(1932年 - 1937年)
の流れは三井ー藤原氏−マナセ族の線と仮定しておく。
ちなみに日本自由党 (1945-1948)は、
旧立憲政友会(正統派)系の鳩山一郎が結成。
下の画像は系譜で見る近現代史、というサイトから。
http://episode.kingendaikeizu.net/3.htm
政友会−マナセ−鳩山一郎の線は、
鳩山由紀夫にも繋がるのだろうか?
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/481.html
「鳩山一郎。1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号)、元首相、昭和29
年、青年運動の『友愛同志会』(現薫子夫人会長。ク−デンホ−フ・カ−レルギ−伯が名
誉会長)を結成。『友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている』が鳩山氏の口
グセだったという。ちなみに、“パン・ヨ−ロッパ主義者”でEC創設者の一人、カ−レ
ルギ−伯はオ−ストリアのメ−ソンといわれている」(『フリーメーソンの秘密』より)
鳩山由紀夫は、民主党代表、新党さきがけ代表幹事を歴任。
2006年3月31日、前原誠司民主党代表辞任に伴う代表選で小沢一郎が当選すると、
幹事長に留任した。
↓
日本の二つの大政党の一つ、民主党はマナセ系で、
対する自由民主党はエフライムという可能性もあるので追ってみたい。
自由民主党総裁の安倍晋三には親族に、
岸信介、佐藤栄作がいるので、戦前の彼らを追ってみる。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002484.png
安倍晋三−岸信介−佐藤栄作−松岡洋右の線はまだわからない。棚上げ
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
岸信介
東条内閣に、商工大臣として入閣。
鮎川義介との関係も見えるが、
彼は日産コンツェルン(日立)の創始者。
この繋がりも追っていきたい。
(対するトヨタ自動車元社長の豊田章一郎は三井に近く、
伊藤−西園寺−立憲政友会の線を可能性として仮定しておく。)
この東条、岸、鮎川がどのような勢力と繋がるか、まだわからないので棚上げ。
日露戦争に遡りつつ、考えていく。
画像は以下のサイトから。
http://episode.kingendaikeizu.net/7.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002485.png
大正デモクラシー=三井派。軍部はそれに不満で満州事変。この軍部の勢力は?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
第1次山本内閣 1913年- 1914年 立憲政友会
第2次大隈内閣 1914年- 1916年
寺内内閣 1916年- 1918年 桂内閣時、陸軍大臣として日露戦争に勝利。三菱系?
原内閣 1918年- 1921年 立憲政友会。三井系?大正天皇と仲が良い。
高橋内閣 1921年- 1922年 立憲政友会
加藤友三郎内閣 1922年- 1923年 立憲政友会
第2次山本内閣 1923年- 1924年 立憲政友会
清浦内閣 1924年- 1924年 貴族院。大正デモクラシー運動により5ヶ月で総辞職
加藤高明内閣 1924年- 1926年 憲政会・立憲政友会・革新倶楽部による護憲三派連立
(加藤内閣は、共産党対策から治安維持法を成立させている。護憲とはいえ、三井勢力)
第1次若槻内閣 1926年- 1927年 憲政会。枢密院に嫌われる。
田中義一内閣 1927年- 1929年 立憲政友会
濱口内閣 1929年- 1931年 立憲民政党(元の憲政会)
第2次若槻内閣 1931年- 1931年 立憲民政党
(関東軍により満州事変が起こる。
「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、
後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。」
犬養内閣 1931年- 1932年 立憲政友会
犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求は拒否し、
中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとしたが、
軍部派の横槍で座礁。
五・一五事件で犬養は暗殺され、この事件により日本の政党政治は衰退した。
齋藤内閣 1932年- 1934年 「挙国一致内閣」
抵抗しつつ、軍国主義化の流れを止めることはできなかった。
1936年、二・二六事件で暗殺される。
東条と近衛の線はまだ理解しきれない。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
岡田内閣 1934年- 1936年 1936年の二・二六事件で襲撃を受ける。政治力は弱い。
廣田内閣 1936年- 1937年 斎藤−岡田の流れだが、軍部に対抗できず。
11月には日独防共協定を締結。このヒトラーと日本の繋がりの意味が、
まだ私にはわからない。軍部と三井のどちらとヒトラーは手を組んだのか、棚上げの課題。
廣田は、戦時中は東条内閣と対立。
林内閣 1937年- 1937年 圧力に弱い「ロボット首相」
第1次近衞内閣 1937年- 1939年 軍部を抑えようとはしている?
平沼内閣 1939年 第1次近衛内閣の後継内閣。
阿部内閣 1939年- 1940年 大戦への不介入方針を掲げたが、陸軍の反対で辞任
米内内閣 1940年 陸軍に嫌われ、半年で辞職。
第2次近衞内閣 1940年- 1941年 外交策に強硬論を唱え、閣内から浮き上がっていた
存在の松岡洋右外相を切り捨てるために、一度総辞職の形式を取った。
第3次近衞内閣 1941年 東條英機の強硬論に押し流される形で辞職。
東條内閣 1941年- 1944年 強硬論
安倍晋三−岸信介−佐藤栄作−松岡洋右の線は、
この東条内閣に繋がるようです。
岸信介は東条内閣の商工大臣。
松岡洋右は近衛内閣で、強硬論を唱えて浮いた軍部派。
岸信介は、満州国時代には、関東軍参謀長であった東条英機や、
日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。
この軍部−東条−岸−安部の線や、三菱との関わりについては、
まだわからないので、時間があれば追ってみたい。
岸信介−統一協会/勝共連合−朝鮮チッソ−水俣病
以下、主に阿修羅というサイトから引用。
http://d.hatena.ne.jp/asyura0302/20061009
統一協会/勝共連合と、関係が最も深いのは、岸信介・中曾根・安倍のラインだ。
http://www.asyura2.com/0601/hihyo3/msg/326.html
ただ総理在任中、岸氏はCIAから工作資金などを送り、日本における左翼勢力分断に協力したとか。もしかして、そういうことから彼は不起訴となり復権できたのではと噂される。
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/360.html
…日本が米英に敗戦すると、戦争指導者として東条英機(本籍岩手県)らは処刑されたが、奇妙にも、その片腕であった岸信介は放免されました。米国は、日本を「反共の砦」とするためには、旧体制の軸であった長州閥を利用すべきだと策したのです。
はたして岸信介は戦後に首相となり、日米安保体制を固めました。そして実弟・佐藤栄作とともに「自民党」天下を築き上げます。今の自民また民主右派の政治家はほとんどこの系列から出ています。(ちなみに共産党の宮本顕治も長州人…それも岸・佐藤と同郷、田布施の出身です)
岸の娘婿が安部晋太郎(これも長州)で、その子が次期首相を噂される安部晋三(つまり岸の孫)です。
長州暗流は過去の話でなく、今も生きているのです。
http://www.asyura2.com/0601/senkyo26/msg/184.html
岸信介が満州国国務院実業部総務司長に就任した1936年に、軍馬や家畜に対する細菌兵器を開発し、人体実験も行っていた軍獣防疫廠*5が満州に設立されました。軍獣防疫廠は731部隊の研究実験を基礎にし創設された機関で、生物兵器としての炭疽菌、鼻疽菌、牛疫ウィルス、その他の流行性獣疫菌の大量培養製造をおこなっていたのです。
http://www.asyura2.com/0502/war69/msg/856.html
戦後、統一協会と文鮮明を賞賛した岸信介は、
満州国商工次官として朝鮮窒素の利権を拡大した人物だった。
この日本窒素肥料は経営権は野口に持たされ、出資は三菱合資会社の岩崎久弥、という会社であった。役員にも、三菱の豊川良平や各務幸一郎、桐島像一などが就いた。
http://www.asyura2.com/0311/nihon10/msg/1309.html
岸信介。彼がそもそも朝鮮チッソに利権を与えた男ですが、もちろん彼は後に戦犯として巣鴨の刑務所に入りました。そのときに一緒に戦犯として入ったのが満州重工業総裁の鮎川義介、それから久原房之介、彼は現在の原子炉メーカー・日立製作所を創業した人物です。
水俣病のチッソ、その最大の工場が朝鮮チッソだったという史実です。
三菱による戦前の拡張政策促進と東条の繋がり。
下で、三菱こそフリーメーソンの牙城だ!から再度引用するが、
軍部の拡張路線には実は三菱がいたのではないか?という論。
そうすると東条など強硬派と三菱が繋がり、
山縣−三菱と伊藤−三井の勢力争いとして、
明治維新以降、太平洋戦争までを理解できるのではないだろうか?
既に見たように三井は藤原氏で、マナセ族の可能性があり、
三菱にも東条−岸に繋がる自由民主党からエフライムの可能性が、
可能性としては仮定できる。
自由民主党のシンボルマーク「太陽を仰ぐ二人の子ども」は、
太陽=天照から生まれたマナセとエフライムを指す可能性も、ありえる。
戦前の三井と三菱、マナセとエフライムの対立が、
どこまで本気のものなのか、仕組まれたものなのか、
まだ私にはわからない。
http://www.asyura2.com/0306/dispute11/msg/603.html
第16代 渋沢敬三(昭和19年3月18日〜昭和20年10月9日)
渋沢敬三は、財界の指導者・渋沢栄一の孫である。戦後は大蔵大臣になっている。渋沢
敬三の妻登喜子は岩崎弥太郎の孫である。三井の渋沢と三菱の岩崎は一族を成していたの
である。
以上、日銀創設時から太平洋戦争直後に到る歴代日銀総裁の経歴を調べてきた。その過
程で判明したことは、歴代日銀総裁の背後に常に三菱財閥の影がちらついていたことだ。
三菱財閥本体からも3人続けて日銀総裁を出している。結論としては、日本銀行は日本の
銀行ではなく、三菱の銀行であったことになる。三菱財閥が日銀をコントロ−ルして行っ
たのは、日本を太平洋戦争へと導くことであった。そのために恐慌を引き起こしてインフ
レ政策を誘導し軍事費を増大させた。三菱財閥は軍部、右翼の怨嗟の的になったが、三井
財閥の影に隠れて、目立たないようにうまく立ち回った。
では三菱財閥が太平洋戦争を演出した理由は、金儲けにあったのであろうか。勿論、そ
れも理由の一つではあるが、もっと重要なことは、三菱は一部外国勢力の手先となって暗
躍したという事実にある。
満州事変を追う。
今しばらく三菱や満州事変前後を追う予定。
西欧の大航海時代の躍進の原因も追いたいのだが、
もう少し明治以降の三菱−三井を追ってみたい。
ちなみに私は、会社も作りませんし、よって一人も社員など雇いません。
学校も教団も作りません。
お金を払うのは、かわいこちゃんたちくらいですね。
私は私。結婚もしないし、家族もいない。
人との付き合いは、茶飲み話か、
趣味で面白そうな人との息抜きくらい。
茶飲み話や趣味の交流には、永久に一銭も金は払いませんけどね。
自分との繋がりを捏造する寄生虫の可能性は刈り取っておくあるよ。
下に系図を貼りますけれど、
私の「人気(笑)」に、私との血縁や付き合いを振りかざして、
群れる人間など、私は絶対に残したくないのです。
私は永久に孤独なのです。
画像は以下のサイトから。
http://episode.kingendaikeizu.net/11.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002490.png
ルールを何としても守れあるよ。
歴史を見ていると、寄生勢力の暗躍ばかり。
私に関しては、何としても寄生を防がなくてはね。これ重要あるよ。
ちょっとややこしい書き方をしたのですが、
私が、下に貼り付けた系図と関係ある、
という書き込みではなくて、
系図の一例として貼っただけですよ(苦笑)
今日は激しい話題だったが、
そろそろ集団ストーカーから逃げ切りで、
文学書とかわいこちゃんたち生活かにゃ?
勾踐、犬、ヤオ
>●越
「史記〜越王句践世家」越王句践については、その先祖は、禹の苗裔で、夏后帝少康の庶子である。会稽に封ぜられて、禹の霊を謹んで祭祀さいししつづけた。
※ 越人:華南の海岸地帯(浙江省、福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて)の原住民。夏王の後裔と自称。竜を崇拝し、入墨をし、米・魚を常食とする海洋民族。
…で、倭人=越人というのだろう。
>・・そして、「瑤(エウ)族」と表記される苗系民族、狗トーテムのヤオ族がいます。つまり、越王勾踐の子孫は、犬を祭るヤオ族という民族でした。
勾踐(こうせん)の勾は狗(こう)に同じ、小さな犬を意味しています。勾踐は犬の王位につく、犬の先頭という意味を含むのでしょう。
…勾は勾玉につながる。犬の系のことか?瑤というのもどこかにあった?
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/minzu/27/27.htm
>・・「玄中記曰く。昔、高辛氏(=帝嚳)の時、犬戎が乱を起こした。帝は、これを討伐した者には美女を妻として与え、三百戸の長に封ずると言った。槃瓠という名の帝の犬は、逃れて、三ヶ月後に犬戎を殺し、その首を持ってきた。
帝は娘をこれの妻とし、会稽東南海中の土地、三百里を得て封じた。男を生めば狗となし、女を生めば美人とする。封じて狗氏国と為した。(太平御覧)」
これは、現在も福建省(古代の越地)に居住している槃瓠の子孫、ショオ(シェー)族の祖先伝承を採り挙げたものと思われます。魏、蜀、呉の三国時代は山越と呼ばれており、しばしば呉と戦っています。魏が卑弥呼に破格の待遇を授けたのも、このこと(山越と同族)が加味されているかもしれません。
ショオ族という呼称は近年のもので、自称はサンハ(山客)といいます。古代のヤオ族の一支と扱って問題なく、日本に移住したのは、現在、中国内陸西南部に居住するヤオ族ではなくこちらです。
…「会稽東南海中の土地」・・これが沖縄?サンカは最初に沖縄にはいった?
天武−新羅−唐の太宗、桓武−渤海
>秋たむ
面白そうな話題だと思うある。
僕たむは今月は、20世紀亜細亜を調べるある。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
新羅、4世紀半ば - 935年
首都は金城、現在の慶尚北道慶州市
もともと中国の史書によると韓とは遼東半島南部にあった倭人が移り住んだ朝鮮半島の地域を指しており、新羅は倭人国ではないため末裔国家としての韓国という名称はふさわしくないという意見もある。
↓
エフライム工房の言うように、「韓」はコーヘンで、
倭人とは繋がるが、マナセの新羅とは繋がらないだろう。
上代
新羅の歴史の中で、武烈王(金春秋)の即位(654年)までを上代と分類する。
↓
始皇帝の秦の末裔、前趙などマナセ族が新羅に集結し、
白村江で百済、倭を滅ぼすまでが上代なのだろう。
528年に仏教を公認
↓
この仏教は北魏様式なのだろう。
北魏 386年 - 534年が華北を統一し新羅と結ぶ。
東晋以降の南朝と百済、倭人にも繋がりがあるのだろう。
北魏が滅びた後は、
北斉(550年 - 577年)−新羅
陳 (557年 - 589年)−百済
の繋がりで争い?、
(新羅は北斉、陳の双方に朝貢しているらしいのでよくわからない)
560年代に百済−倭連合を叩き、加羅を征服。
隋唐にも冊封を受け、
643年、唐に救援を求めているが、
この時の唐は北イ系の太宗(626年 - 649年)。
「同時に中国の律令制度を取り入れる改革を始めた。
これ以後、中国文化が急速に新羅に流入する。」
↓
これは、北イ系、太宗の唐文化と新羅の繋がり。
唐(武則天−ミトラ)と組んで、
660年に百済(ベニ)を滅ぼし、
663年に白村江の闘いで倭(ベニ)を叩き、
668年に高句麗(ベニ)を滅亡させた。
↓
これはベニ対北イ−ミトラ連合の闘いだろう。
高句麗滅亡後に起こった渤海(蝦夷、女真と同族)が、
現在の北朝鮮に繋がる。
高句麗(ベニ)→渤海(ミトラ)
領土問題で新羅と唐は対立するが、
732年、唐と渤海の争いで、唐に加担したことにより、緊張緩和。
この時の唐は玄宗で、
玄宗が宦官に取り付かれ始めるのが、
恐らく開元18年前後で、731年前後。
玄宗が太宗以来の、北イ系の宦官に取り付かれるとほぼ同時期に、
唐と新羅が緊張緩和し始めているのは、共に北イ勢力だから。
唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の名前もまた、
全て漢族風に変わっている。
↓
唐の北イ勢力と新羅はほぼ同じものとして、考えてもよい。
帝国電網省によると、
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/hakusuki.html
↓
白村江の後、倭国は唐−新羅連合により進駐を受け滅亡。
このサイトによると「『法隆寺のものさしは中国南朝尺』川端俊一郎著」
だそうで、北九州王朝−百済−中国南朝の繋がりと、法隆寺移築説がより濃厚に。
倭王(筑紫君薩夜麻)は663年に敗れてから、
671年まで8年間、唐に抑留されていた。
↓
倭は滅亡し、唐人が2000人進駐した王朝が、日本。
ウィキに戻るが、
天武天皇(新羅王族説あり)、673-686は、
676年、新羅と国交を深め、唐との国交を断絶した。
↓
唐はアッバース朝に敗れた後、衰退し、763年には吐蕃に長安を落とされているので、
唐の弱体化を計算に入れたのか?
天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。
↓
光仁天皇、770-781
の時に「天武天皇の皇統は完全に絶えた」ことに平行するのだろう。
桓武天皇、781-806 は、百済王族の末裔でありベニヤミン。
794年に平安京(エルサラーム)をおいたが、
桓武は聖書を経由して、北イと半ば手を組んだ南ユダ、と仮定しておく。
この背後の藤原氏などの動きの意味は、私にはまだわからないが、
孝明までつながる天皇。
渤海(ミトラ系)と聖書経由後の南ユダ天皇が780年以降、手を組んで、
北イの新羅と緊張した関係になった。
満州シュメール対決。金(女真ミトラ)、対、遼(契丹ベニヤミン)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
朝鮮
高句麗、紀元前37年ころ - 668年 ベニヤミン
新羅、 - 935年 北イ
高麗、918年 - 1392年 ベニ?渤海遺民を吸収する。契丹と対立。
渤海、698年 - 926年 朝鮮の北。高句麗の遺民という名目。ミトラ?
満州
金、1115年 - 1234年 女真、ミトラ
遼、916年 - 1125年 ベニ。渤海(ミトラ)を滅ぼす。契丹人。梅鉢。
桓武と渤海が組んだ780年、
新羅では、武烈王の王統が絶え、継承争いが激しくなると同時に、
新羅王族のみが上位官僚を占め、衰退していく。
892年、朝鮮後三国時代
新羅・後百済(農民出身)・後高句麗(新羅王族)の三国が鼎立する。
後高句麗の部下だった地方豪族、王建が、
918年、高麗建国。
935年に新羅を併合、936年に後百済を滅ぼしている。
エフライム工房より概観を引用。
http://blog.goo.ne.jp/efraym/m/200603
しかし問題は、百済を滅ぼした新羅が、935年には高麗に滅ぼされているという事にあります。高麗は高句麗と似ていますが、高句麗も百済と共に滅びているので別の国です。要するに、新羅の滅亡を以て、万葉時代に存在した朝鮮半島の三国は全て滅亡した事になるのです。
その後、高麗は契丹に滅ぼされた渤海を吸収しますが、今度は契丹の侵攻に曝され、契丹の属国となります。その後、女真が台頭して金を建国し高麗は支配されます。万葉時代から僅か四百年で、北方民族にメチャメチャ支配されているのです。女真は1019年に日本へ侵攻した国と考えられているので、その勢いが分かると思います。そして、モンゴル民族である元の支配に及び、元寇の時に高麗は徴用されているのです。
さて、もうお分かりですが、女真が建国した金が韓国の金氏姓のルーツです。さらに、中国が明の時代になると、朝鮮半島の元も明によって追放され、高麗は明の支配下に入ります。そして、14世紀末にクーデターによって李氏朝鮮が立てられ、金の高麗は滅びてしまいます。こうして、金と李という現在でも主流の姓が半島に広まります。金が新羅時代の姓であるとするのは無理があるのです。元の支配に反抗した高麗の人は、済州島にまで追われて滅ぼされています。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji12.htm
狛犬とは高麗狗で、ベニヤミンの狼そのもの
高句麗(ベニ)→渤海(ミトラ)→金(女真ミトラ)→清の初期→満州国か?
蝦夷と同族で、朝鮮でなく、中華の東北部。
地理的には、春秋時代の燕に重なる。
金(ミトラ)では渤海(ミトラ)の遺民が厚遇されている。
ただし、清と満州国には、他の勢力の暗躍があるかもしれない。棚上げ。
高麗は、新羅→後三国時代を経て、朝鮮半島を統一。
高麗は狛犬、という視点から、ベニヤミンと適当に仮定しておく。
朝鮮半島は、
新羅(北イ)→後三国時代(乱立)→高麗(ベニヤミン?)で、
高麗は渤海の遺民を吸収。ベニを基本にミトラも入るか?
朝鮮より北部の地では、
高句麗(ベニ)→渤海(ミトラ?)→高麗(ベニ)か?
契丹の太祖、耶律阿保機
「伝説によれば母が夢により受胎」
↓
契丹=遼をベニヤミンと仮定。
金の太祖、阿骨打
黒水靺鞨の流れ。
「阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺の偉丈夫で、
寛大で厳格かつ寡黙な男で、女真族の理想的な君主であったという。」
↓
これは聖母でなく、ミトラ系に見える。
金=女真はやはりミトラと仮定。
遼(ベニ)と金(ミトラ)の満州シュメール対決。
渤海は、桓武以降のベニ日本と親交が厚く、
「菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われた」
↓
道真は北九州王朝に繋がる勢力で渤海と繋がる。
新羅と対立。
「渤海文化は唐の影響が非常に強いが、高句麗文化の継承もされており、
二つの文化から独自の文化を作り出している。」
↓
渤海はベニ+ミトラ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002494.png
(満州)遼→金→モンゴル→北元。(朝鮮)新羅→高麗→元に服属→独立するが李氏のクーデター
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
金(ミトラ)、1115年 - 1234年
遼(ベニ)・北宋(基本的に北イ?)を滅ぼし、西夏(北イの傍流)を服属させ、
中国南半の南宋(基本的に北イ?)と対峙したが、
モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。
大ハーンに即位したチンギス・ハーン(ミトラ)は南の西夏(北イ傍流)に親征し、
これを服属させた。さらに、オイラト、トメト、カルルク、西遼(ベニ)などの
周辺諸国に次々に遠征軍を送って南シベリア、中央アジアまで勢力を広げた。
1211年からは金(ミトラ)に遠征して中国の東北地区(満州)と華北を席捲し、
金は河南のみを支配する小国に転落した。
↓
金(女真ミトラ)はチンギス(モンゴルミトラ)に叩かれ、
元(コンギラトなど?)によって滅亡する。
遼(ベニ)は、金(ミトラ)と北宋(北イ?)の連合軍によって滅亡。
西遼(カラ=キタイ)を起こし、天山ウイグル王国(ミトラ)を征服するが、
チンギスにより圧迫され、
亡命してきたモンゴル・ナイマン部にクーデターを起こされ、滅亡。
初期チンギスと争ったモンゴル・ナイマン部は、
ネストリウス派を受け入れているので、北イ系の可能性がある。
高麗(ベニ?)は、満州の遼(ベニ)、次いで金(ミトラ)の満州との関係で、
満州が強い時は服従、弱い時は独立していたが、
チンギス路線を継承する、オゴデイ−チンカイ−耶律楚材により、
1231年から侵入され、1232年から3年間徹底抗戦。
1259年には太子を人質に出した。
反乱しつつも鎮圧され、
1274年、1281年、クビライの日本侵攻時は前線基地として使用され、
その後、忠烈王1274年〜1308年がクビライの娘と結婚して以来、
元に忠誠を誓う忠烈王は臣下に嫌われ廃位され、元の力により復位するなど、
高麗は元の衛星国になる。
紅巾の乱により元が衰退すると、恭愍王は元と断交、独立したが、
1350年頃から活発化した前期倭寇や紅巾族侵入により衰退した。
↓
前期倭寇は白蓮教と関係ありか?
1368年に明が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、
1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。
この後、1388年クーデターにより高麗は滅び、李氏朝鮮へ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002495.png
唐の太宗、明の永楽帝、李氏の太宗は似てるが、勢力的な繋がりはどうなのだろう?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
李氏朝鮮、1392年 - 1910年
李成桂、1393年 - 1398年
「李成桂は、元の国策によって、今の朝鮮東北部に移住した
高麗人の末裔ともいわれている。」
↓
高麗ならベニだが、どうなのだろう?未決。
「高祖父にあたる李安社は、元の地方官としてこの地域に入り、
次第に勢力基盤を築きあげていった。」
「この一帯は、女直(後の女真)との国境付近にあたり、現住の女直人と植民した
高麗人が混在しており、元は、女直を優遇する政策をとったため、
李成桂の父である李子春はこの状況が面白くなく、反元の立場を取る。」
↓
女真と高麗の対立においては、高麗を好んだらしい。
朱元璋の台頭により弱体化する元を見て、高麗は独立を目論み、
李成桂の父は、高麗の命により、朝鮮東北部の守備将としての任務につき、
1360年、父の死後、李成桂がその守備の任務を継ぎ、
その後30年近くの間、朝鮮半島に入り込んだ紅巾軍や倭寇、
元軍などと転戦を繰り返していた。
高麗朝廷は、北元と明のどちらにつくかで二分していたが、
反元の立場だった李成桂は、クーデターを起こし、権力を掌握。親明路線を取る。
1392年高麗王を退位させ、1393年に李氏朝鮮を建国する。
1393年:明より国号変更の要請を受けたが、逆に和寧と朝鮮の国号を提示し、どちらの国号かふさわしいかを明皇帝に問う。結果、権知朝鮮国事に冊封されることによって国号が朝鮮と決まる。
↓
この時点の明は朱元璋1368年 - 1398年、漢人派。
ソウルに遷都した後、1398年から息子たちが権力争いを開始。
嫌気のさした李成桂は退位。
その後も続く権力争いを、芳遠が制し、太宗として即位し、
1401年、明国により正式に朝鮮王として認められる。
↓
この時点で明は靖難の変1399年7月−1402年。
李氏の太宗は、どちらの明に使いを出しているか、まず興味深いところ。
太宗 (朝鮮王)、李芳遠、1400年 - 1418年
明の永楽帝に対して「朝鮮国王の冊封」を行なって対明関係を良好にした。
↓
明の永楽帝は、唐の太宗とフビライを尊敬しており、
北イ、コンギラトの可能性が消せない人と既に推定した。
簒奪した永楽帝と関係が深い李芳遠も、権力争いで帝位についており、
勢力的に北イ系ではないか?という可能性を挙げておく。
http://www.meigaku.ac.jp/~misato/test/B006.html
しかし、日明関係の場合、明皇帝と室町将軍との間に一本のパイプでつながっていたのに対し、日朝関係は、朝鮮国王―室町将軍、朝鮮国王―諸大名、朝鮮国王―諸豪族・諸商人というように多元的に結ばれており、その舞台まわしの役を果たしたのが対馬の宗氏であった。特に日朝貿易や倭寇の禁止に積極的で朝鮮側から高い評価を受けたのが宗貞茂で、1418年4月、彼の死去の報が朝鮮に達すると、朝鮮国王は弔慰使を派遣して厚くとむらった。そして、彼の死によって倭寇の活動が活発となると、翌年6月、朝鮮軍は倭寇の本拠地とみなした対馬を襲撃した。
↓
宗貞茂と李氏は仲が良さげだ。
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse419.html
1404年: 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
↓
まだ李氏はよくわからない。
http://www.geocities.jp/paraguaysaga/kankoku-003.html
「唐の太宗、李氏朝鮮の太宗とも長期王朝の基盤を築いた偉大な人物ですが、創始者の父を押しのけ、兄弟を殺して政権を簒奪した点は同じです。李氏朝鮮の時代は唐の時代から700年以上も経過しており、当然芳遠も周囲の人も李世民の故事を知っていたでしょうし、当然誰もが両者を比較したと思います。従いまして、芳遠は邪魔な兄弟を殺害した後、直ぐに王位には就かず、一度同じ母から生まれた兄を傀儡に王位に就け、ほとぼりが冷めてから自身は三代目の王となります。唐の太宗をかなり意識して行動したのでしょう。
韓国で発行している高校歴史の教科書を見ますと次の世宗には大きなページを割いていますが、この太宗の記述は多くはありません。また兄弟を殺して王にのし上がった史実には全く触れられていません。」
http://travel2.innolife.net/travel_cafe/view.php?bbs=fu_best&id=9
「太宗台」には大宗李芳遠(イ・バンウォン)と彼の師匠である
元天錫(ウォン・チョンソク)のある逸話が流れており
http://homepage.mac.com/penguin99/penguin/words/words.html
何とか争い収まった後の三代定宗李芳遠が田舎に引っ込んだ父親を連れ戻そうと(国璽を持っていってしまったせいもあろうとものの本には書いてある)使いを出したが、父親はあるまいことかその使いを殺したり牢につないだりしてしまうので、ソウルには誰も戻ってこない。
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=76
昌徳宮(史跡地122号)は朝鮮王朝第3代の太宗王が1405年に着工し、 1412年完工し、 第7代の世祖王が1463年に増築して秘苑を追加しましたが1592年日本侵略時にすべて燃やされてしまいました。 その後再び建て られましたが数回焼失や再建築を繰り替えし ました。朝鮮王朝の13人の王達が景福宮 より長い間総270年ぐらいそこに住みました。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/06/0606j0802-00001.htm
しかし、李成桂の第5子・李芳遠(後の第3代王太宗)が放った刺客・趙英珪の手によって、李成桂の病気見舞いの帰り、善竹橋で惨殺された。鄭夢周は、儒学の大家であり、朱子学によって後進の指導に努めたので成均館の総長であり、碩学である李穡によって「東方理学の祖」と評された。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/25/20060825000018.html
1401年に太宗(2代王/在位1400〜1418年)が明から授かった「朝鮮国王之印」
http://www.world-reader.ne.jp/renasci/history/okazaki-050408.html
明の永楽帝はチベット仏教を信仰し、多くの寺を建てて寄進をしている。
モンゴル人の妻の影響であろう。
しかし基本的に漢民族国家としては儒教を治世の中心に置いていたので、他の
皇帝はチベット仏教を信仰することはなかった。
↓
永楽帝は少し変わっている。チベット仏教は元を思わせる。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1128668139/l50
632 :世界@名無史さん :2006/11/06(月) 13:24:25 0
明の永楽帝は、後宮に多くの女を囲う事に並々ならぬ熱意を持っていた。
特に朝鮮に対してはたびたび美女の献上を求めており、李王朝はそのたびに屈辱に打ちひしがれていた。
永楽六年などは、婚姻の禁止令まで出して美女を集めたものの、明の宦官の意に副わず
再選考する始末。そうしてようやく決まり、明に向かう日には二度と会えぬ別れを悲しみ、
街道はアイゴの声で満ちたという。
↓
これは、李氏朝鮮が、永楽帝に服属していることを示さないか?
簒奪した永楽帝が、李氏太宗の権力奪取を後押ししていた、
という可能性を挙げておく。
まだ確証はないので、ゆっくり調べていく。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002496M.jpg
ハングルは反階級。李氏での儒教は両班の思想か?
李氏朝鮮についても殆ど何も知らないが、
現代の韓国の上層部が好んでいそうなので、
(日本のテレビは、電通を通じて韓国上層部とも関係があるが、)
(李氏朝鮮のドラマが盛んなためそうという、適当な感想。)
調べなくてはいけないと思ったのだが、不慣れなので間違いも多いかもしれない。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
世宗、1418年 - 1450年
儒者重視。ハングルの元になる文字制定。
「わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合ってないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予(世宗)はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。 」
世宗(在位1418年〜1450年)は固有の文字であるハングルの創製を積極的に推し進めたが、その事業は当初から事大主義的な保守派から猛烈な反発を受けた。1444年に集賢殿副提学だった崔万理らはハングル創製に反対する上疏文を提出し「自古九州之内、風土雖異、未有因方言而別爲文字者。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、名有其字、是皆夷狄事耳、無足道者。(昔から諸地域は風土が異なるが、方言に基づいて文字を作った例はない。モンゴル・西夏・女真・日本・チベットなどは文字を持つが、これらはみな未開人のなすことであり、言うに足るものではない。)」と述べている。世宗はこのような反対派を押し切り、集賢殿内の新進の学者らに命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布することとなった。
当時の支配者層である両班における公的な書記手段は漢文であり、中人・下級官吏の書記手段は吏読であった。従って、ハングルがこれらの階層において正規の書記手段として受け入れられることはなく、その結果ハングルは大体において民衆の書記手段として広まることになる。とはいえ、実際には民衆のみならず、両班階層の私信や宮中の女子間の公文書などにもハングルが盛んに用いられ、その使用はかなり広範囲に及んでいた。
↓
事大主義−大きい者に付けばよいという考え。
ハングル使用決定の1444年当時の明は、
英宗−宦官の時代だったので、事大主義者は適当に言って、
李氏太宗に続く北イよりか?
両班はこの事大主義者と同じと考えられる。
朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。儒教を信奉し、自ら顔を洗うことすら卑しい賤民の行為として忌み嫌った。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のような労働を忌み嫌う精神構造の事を両班精神、両班意識などと呼んだりする。
↓
李氏朝鮮において儒教は貴族の思想なのか?
李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%。
http://www2.ttcn.ne.jp/~kobuta/bunnka/k2.htm
1446年に世宗(せいそう 注1)は、ハングル文字を考案し『訓民正音(くんみんせい
おん)』を公布する。朝鮮人の発音を正確に書き表すことができる文字だったが、結局1
9世紀末まで利用されず、漢字の方がより格調の高い文字として使われていた。
もともと、漢字が難しいので、誰でも書ける文字として考案されたものなのだが、ハン
グル・漢字混用は長いあいだ、おこなわれなかったのである。ところが、民族主義の高
まりとともに植民地から解放されると、逆に、北朝鮮、韓国は相次いで漢字を廃止してし
まう。
↓
世宗によるハングルは、反両班なのか?
世宗の画像の帽子の形が気になるのだが、
あれは動物なのか?
やや、アメン・ラー(北イ)の帽子に似ているので、少し気になるが、
詳しい方、情報求む。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002497M.jpg
10000ウォン紙幣には世宗と慶会樓
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
http://japanese.tour2korea.com/03Sightseeing/TravelSpot/travelspot_read.asp?oid=386&konum=1&kosm=m3_7
↓
このサイトによると、 [10000ウォン紙幣]の表は世宗。
裏は慶会樓(キョンヒル)。
景福宮にある慶会楼は、韓国の楼閣の中でも最高の規模を誇るもの。
世宗大王の父である太宗(在 位1400-1418)が以前からあった楼閣を大きく造り替えたもの
慶会楼に架けられた大・中・小3つの橋は、身分によって渡る橋が決められていた
↓
現代韓国の自己同一性には、李氏朝鮮のしかも太宗−世宗が強く影響している。
http://www.konest.com/data/spot_mise_detail.html?no=265
慶会樓
ここで、派手な遊興が開かれ、毎日酒におぼれ政治をおろそかにし、国を乱した王が、臣下から追放されたこともあった。王や高位についた者たちが、快楽を追求する場所だったのだ。
↓
この建物を一番高値の札に使っている辺り、
現代韓国の中枢が李氏朝鮮の両班、
しかも太宗に近い勢力という可能性が浮かぶ。
王様=李氏のために白丁が上手い飯を作る感動ドラマは、
悲惨な階級制度という歴史から考えて不謹慎と、個人的には思う(苦笑)。
景福宮
李氏朝鮮の王宮。
光化門を正門にし、勤政殿を正殿にし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の伝統にかなったものである。
↓
紫禁城は永楽帝(北イ系?)の宮殿であり、
ここからも李氏朝鮮と永楽帝の繋がりの可能性を考えてしまう。
可能性ばかりでまだ、決定的な情報はないのだが、
景福宮は素人目にちらっとみて、あまり見かけない様式で、
どの地方と近いのか情報があると考えが進みそう。
画像は以下のサイトから。
http://www.konest.com/data/spot_event_detail.html?no=718
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002498M.jpg
清のホンタイジに破れて屈辱的な和議を結ぶ。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
世祖、1455年- 1468年
世宗の次男。1455年には端宗から強制的に王位を剥奪。
反対勢力をことごとく粛清し、議政府署事制を廃して
再び六曹直啓制を復活、王権を自らの元に集約する。
↓
世宗の逆。これが何を意味するかはまだわからない。
成宗、1469年 - 1494年
士林派(中小地主両班、新勢力)を積極的に登用。
燕山君、1494年- 1506年
二度にわたって士林派に対する粛清。
悪政が続いたらしく、クーデターにより失脚。
中宗、1506年- 1544年
士林派を登用するが、大土地所有者との利益対立のためか、
途中で士林派は粛清される。
宣祖、1567年−1608年
1592年からは日本の豊臣秀吉から侵攻を受け、
一時は首都の漢城府(現在のソウル)から追われるが、
明の援軍により秀吉軍を撃退。
1607年、江戸とは国交を回復。
当時の明は神宗が堕落し、宦官が跋扈していた。
光海君、1608年−1623年
1575年に士林派は西人と東人に分かれ、
1591年には東人が北人と南人に分裂。
北人も大北と小北に分裂していた。
光海君は大北派を支持し、西人派を弾圧したが、
1623年、勢いを盛り返した西人派により失脚させられた。
仁祖、1623年- 1649年
西人派政権は国際情勢に暗く、滅亡寸前の明よりの姿勢を鮮明にしたため、
後金のホンタイジに平壌を占領されてたが、
明と争う後金は朝鮮との和平を望み、この和議は李氏に受け入れられた。
秀吉の侵略時、援軍を送った明を裏切ることが儒学的に許せなかったための、
親明的な立場らしい。
国号を清にしたホンタイジが君臣の関係を結ぶよう迫ると、
長専町でイでは和戦双方の議論が起こり、結局、主戦論が勝った。
丙子胡乱というこの戦いは清が勝利。
和議では、明との断交、清の冊封を受け、王子を人質として清へ差し出すことなどが取り決められた。これにより、李氏朝鮮は事実上清の属国となり、清の冊封体制に組み込まれた。なお、清と李氏朝鮮との宗属関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。
後の康熙帝は、朝鮮王の明への忠誠を賞賛している、
とはいえ、清軍は50万の朝鮮人捕虜を引き連れて満州に帰還しており、
この戦争によって朝鮮が受けた損害は計り知れない。
清、日本、西欧列強。鎖国と開化に絡んで権力争い。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
太祖・李成桂は仏門に帰依。
↓
高麗(ベニ系?)の仏教か?
第3代太宗は厳しい廃仏運動。儒教に変わる。
↓
やはり太宗で、高麗(ベニ)から大きく勢力が変わったようだ。
第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、
仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。
ただし、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。
↓
世宗の最初の4年間は上王となった太宗が軍事権などを握り事実上政治を掌握していた。
太宗が1422年亡くなると、世宗の親政が始まる事になる。
ハングルの制定、議政府署事制など、世宗後期の政策が、
反両班的なものだった可能性を仮定しておく。
それで高麗の仏教に近づいたか?
3%の両班以外は、高麗人だった。
その後、一時を除き、李氏朝鮮での廃仏政策は完成する。
粛宗以降を簡略に追う。
日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張しているため争点となっている。
この後は、官僚の派閥争いとそれを抑える動きを基本に、
新たに流入してきたカトリックへの対応が党争の焦点となり、
1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄)が起き、攻西派が優勢になる。
1802年、金祖淳の娘が王妃になり、14歳の純祖が親政を始めると、
金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を取り仕切り、士林派による政治は終焉を迎えた。
官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの
横行が頻繁に起こるようになり、農民反乱が頻発するようになる。
安東金氏が力を握った時代に、
1845年にはイギリスの軍艦が済州島の海域に侵入。
1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧による抗議など、
西洋列強の干渉が始まる。
高宗の治世、興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、
有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による
農地の平等分与などを目指したが、
鎖国攘夷政策でフランス、アメリカ、カトリックと対立し艦隊と闘うなど、
経済的に困窮し、そこへ改革に不満を持つ両班の閔氏により失脚させられた。
大院君が失脚すると、閔妃は開国政策をとり、日本と江華島条約を締結する。
当時の朝鮮は、日米和親条約締結時の日本同様、万国公法や近代的国際関係に疎くこの条規が不平等条約だと理解していなかった。この条約の締結によって、李氏朝鮮は開国し、海禁政策(鎖国)は事実上終了した。引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。
開化政策に不満を持つ大院君などの勢力と、近代化に置き去りにされた従来の軍隊が、
1882年、閔妃暗殺をもくろんだが、閔氏清の袁世凱の力を借り返り討ちにした。
閔氏は大院君を3年間、清に幽閉し、親清政策への方向転換した。
日本の有力者と関係を深めていた、朝鮮の開化近代化派は、
閔氏の親清政策を不満に思い、金玉均は高宗を説得し、クーデター決行。
日本の協力のもと、閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。
しかし、わずか3日で開化派政権と日本軍は、袁世凱清軍の攻撃に敗退。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉は失望し、脱亜論を発表。
この後、1885年、天津条約で日清は、朝鮮における軍事顧問、駐留軍を、
双方取りやめ、朝鮮に派兵する場合の事前忠告義務を取り決めた。
その時点では双方が戦いを避けたわけだが、10年後、日清戦争が始まる。
日清戦争後、親露化した閔氏を、大院君と日本が暗殺。高宗は露大使館へ逃げ込む。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
閔氏の政策への不満から、
1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。
1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。
驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請した。侵攻の機会を狙っていた清国は、
直ちに軍の派遣を決めた。それを見て、日本政府も軍の派遣を決定する。
閔氏は両国に撤退を要求したが、日本は1894年、清に宣戦布告した。
1873年、西郷隆盛を中心とする征韓論が退けられ、
大久保が実権を握る。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/gulfw-32.html
西郷隆盛は、明治維新政府を飛び出す前に同郷の仲間だった大久保利通に酒を注がれ、
「三井の番頭さん、ごっつあんでごわす」と皮肉たっぷりな挨拶を返したという。
↓
この情報が正しければ、大久保路線は三井=マナセの線。
対する西郷も明治の中枢にはいたのでエフライムなのだろうか?
エフライム工房で「九州はアフリカに見立てられた」と述べられていたが、
長州の明治維新=プロテスタント革命に加担した薩摩は、
南アフリカ共和国に当たるのだろうか?
ともあれ、どちらにしても大久保らも朝鮮半島での武力行使を狙っているので、
西郷がエフライムかベニヤミンか、まだ未決。
1875年に大久保路線の日本は朝鮮を挑発。
1876年に日朝修好条規で朝鮮を開国させている。
その後、開化派は日本と、守旧派は清と組む対立の図式ができる。
2度の日清と朝鮮の二派の戦いと、天津条約を経て、
1885年、甲午農民戦争から日清戦争へ。
日本が有利なところで下関条約。
遼東半島の利権を巡って、ドイツ・フランス・ロシアの干渉により、
日本は遼東半島を清に返還している。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。
日清戦争後、日清戦争の勝者である日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は力を失っていく。そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進めていき、7月6日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功する。
この親ロシアの動きが警戒され、1895年閔妃は暗殺された。
興宣大院君が日本の三浦梧楼が実行したのだろう。
自分の后がが暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、
1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。
この先、朝鮮半島を巡って、ロシアと日本が対立し日露戦争に繋がる。
ロマノフ王朝は農耕スキタイによる教会正当化宗教?敵の敵は味方で、高橋是清(マナセ)がシフ(ベニヤミン)から金を借りた?
以下、ウィキペディア+ヘブライの館2から抜粋+私見
http://inri.client.jp/hexagon/floorAXF/axf1410.html
「革命前に、ロシア人の連中は、東洋のちっぽけな島国に、
ご自慢の「バルチック艦隊」を壊滅させられて、
ざまーみろ、ロシア帝国!って感じでしたな。」
↓
日露の時点でロシアはロマノフ王朝。
「おや?
もしかして、あなたは、かの有名な
ユダヤ人金融業者のヤコブ・シフさんじゃありませんか?
「全米ユダヤ人協会」会長の……」
↓
モルガンと対立した財閥クーン・ローブの銀行家で、
フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭、代々ラビの家系。
ロシアの伝統的な反ユダヤ主義を嫌い、
日露戦争に際しては2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、
帝政ロシアを崩壊に導いた。
ラビということは、ロシア革命の担い手はベニヤミンか?
スパルタク・モスクワ1922年創立だし、ベニヤミン・ソビエト。
「わたくし日本から来た高橋是清と申します。
ヤコブ・シフさん! 「日露戦争」の時は、
財政難に苦しむわが日本政府の発行した国債を
一手に引き受けて、まことにありがとうございました。」
↓
高橋是清は立憲政友会でマナセ系のはずなのだが、
対ロシア帝国でベニヤミンと利害が合ったということか?
ロマノフ王朝はまだ特定できていない。
「革命を起こしたユダヤ人たちは、ロシアの頭脳を流出させ、
ロシアの文化・宗教を徹底的に破壊しました。
ロシアの古い伝統、習慣、文化をもっている農民たちの
「農業システム」はすべて破壊され、文化人も、優秀な実業家も、
伝統的な農民もロシアからいなくなってしまいました。
「ロシア正教」もほとんど壊滅の状態にまで弾圧されました。
「ロシア正教」はロシア人にとって
最も神聖な宗教でした。少なくとも1000年の歴史をもっており、
ロシア人に大きな精神的影響を与え続けてきました。
しかし革命後、ユダヤ人は「ロシア正教会」の
90%を破壊してしまったのです。
共産主義にとって“宗教はアヘン”でした。
アルメニア教会の寺院も数多く破壊されました。
しかし、シナゴーグ(ユダヤ教会)だけは無傷でした。」
↓
ロシア正教は東方正教会。
「一つの聖にして『公なる』(カトリケー)使徒の教会」で、
教会派の一派。
「東方正教会では、マリヤ(東方正教会での表記)は「至潔」なるものとして崇敬されるが、マリヤもまた陥罪(原罪の東方正教会用語)を免れず、神の母(テオトコス)となることを承認したときに初めて潔められたと考える。」
↓
あまり聖母的ではないので、ベニヤミンではないようだ。
かといって景教と違い、聖母の子はイエス・キリストと考えるようだ。
「カトリックの採用する教皇首位権や教皇不可謬説はこれを認めない。」
↓
ローマほど教会を絶対視もせず、マナセ色も強くない。
「決定的分裂年代は、1204年の第四回十字軍に求められるべきである、とするのが現代の専門家の間の有力説であり、これまでの教科書的世界史理解の見直しが必要であろう。」
+
「東ローマ帝国の祭政一致体制を指して「皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)」と呼ばれることがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり」
↓
東方正教会がよくわからないのだが、
勢力的にローマ教皇(マナセ)の絶対的な権限を認めるわけにはいかなかった、
東ローマ、ビザンチン帝国の立場が、教義に現れているように見える。
「正教会にとっては、ローマカトリック教会も、地方教会のひとつに他ならない。」
だから、マナセでない教会型のキリスト教か?
教義を決定できる中心がないので、それぞれの地方の権力が教会として教義を語る。
ロシア正教は、形式としてはローマ型、その担い手は農耕スキタイと仮定しておく。
東のモンゴルは、ハーン=ミトラであり、
西のロシアでは、教会=神の代理で、
どちらも自己勢力を正当付けることでは同じに見える。
そのロシア帝国が、ハザール汗国をウクライナに抱え、
地理的にユダヤ人と競り合っていた。
そのロシア帝国と対立した日本(エフライム・マナセ)が、
「敵の敵は味方」で、南ユダ、ベニヤミンのヤコブ・シフから金を借りられた。
20世紀がよくわからないのは金融のせいだろうか?
以下、ウィキペディア+ヘブライの館2から抜粋+私見
http://inri.client.jp/hexagon/floorAXF/axf1410.html
アメリカは「ソ連の助産婦」といわれているからね。
アメリカのユダヤ人社会は、ロシアのユダヤ人革命家たちに、
多額の援助を与えていたのは事実だよ。
例えば、「全米ユダヤ人協会」会長のヤコブ・シフ(クーン・ローブ商会)は、
トロツキーらを通じて当時の金で1200万ドルという巨費を出している。
(トロツキーは、2番目の妻が「クーン・ローブ商会」と親類関係にあった)。
↓
現在のクーン・ローブ・リーマンはわからないが、
100年前のクーン・ローブ商会はベニヤミンとの関わりが濃厚なようだ。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kyousanntouennjyo1.htm
外交問題評議会(CFR)の創設議員には、次の様な名前が並んでいる。
ヤコブ・シッフ
パウル・ワールブルク
ウィリアム・ハリマン・・・後に駐ソ大使や国務次官を務める
ネルソン・アルドリッチ……連邦準備制度の創設に関与
J・P・モルガン
J・D・ロックフェラー
斯うして眺めて来ると、外交問題評議会(CFR)や其の背後に横たわる<円卓>と云う秘密仲間(サークル)に連なる者達が、パリ講話会議を牛耳り、米国の金融・外交を支配し、更にロシア革命を支えていた事が仄見えてくる。
↓
ヤコブ・シフと北イに見える人たちが共にソビエト建国を許可したというのも、
わかりにくくて、ヘブライの館2でさえ、
「大東亜戦争はそんな単純な戦争ではないと思う。
どのくらい「複雑な背景」を持っていたかを
微力ながらも、解き明かしていきたいと思う」
と述べている、
その「複雑な背景」が分からないので、この辺り、多々間違うかもしれないが、
少しずつ20世紀の複雑怪奇を調べてみたい。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kyousanntouennjyo.htm
仮に世界革命の結果、現在より中央集権的な権力が樹立されたとしても、共産主義
と国際金融資本の利害は何等矛盾しない。国際金融資本は、中央集権的な政府と取引
するのを好む事はあっても、自由主義経済と地方分権的政府を望む事は決してない。
何故なら、これらは権力と共に富をも分散してしまうからだ・・・彼等一握りの銀行
家とその黒幕は、ボルチェビキでも、共産主義者でも、社会主義者でもなく、民主主
義者でも、アメリカ人(自由主義者)でさえもない。彼等は只ひたすら市場を求め、
より大きな国際市場を望み、世界の市場を排他的に独占する事を最終目標としている
人々なのである。(アントニー・サートン)
http://www.gameou.com/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_roschaild.htm
高橋是清は日露戦争の外債を「クーン・ローブ商会」のヤコブ・シフに引き受けてもらって以来、シフとは家族ぐるみのつきあいだった。ドイツのユダヤ系財閥で、アンチ・ロスチャイルドのワーバーグ家が、ヤコブ・シフと親しかった。高橋是清も当然ワーバーグ家と親しかった。ワーバーグも日露戦争の日本の外債を引き受けてくれている。三井財閥もワーバーグ財閥と親しくしている。
そして金融界では、《独ワーバーグ=米クーン・ローブ連合》を米ロックフェラー財閥が支援し、これと相対立するのが、《米モルガン=英ロスチャイルド連合》であった。ウォール・ストリートの対立では、《独ワーバーグ(ユダヤ)=米クーン・ローブ(ユダヤ)》 対 《米モルガン(クリスチャン)》の図式であったが、この背後に、《米ロックフェラー(クリスチャン)》 対 《英ロスチャイルド(ユダヤ)〉の英米財閥対立があったのである。
↓
この辺り、関係がよくわからないので、
金融の関係も分類していきます。
ヘブライの館2から
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe600.html
単にある財閥がユダヤ系だから、即「シオニスト」(イスラエル至上主義者)とは限らないし、ある財閥がキリスト教系だから、「アンチ・シオニスト」で「アンチ・ロスチャイルド」と決まったわけではない。ここのところがわからないと、重要なポイントを見誤ることになる。
英米の金融業界では、およそ1880年代から第一次大戦にかけて、下のような対立が存在していた。
画像も同サイトから。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe600.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002503.png
露土戦争に勝利したが、ベル条でバルカン半島獲得ならず。露は不凍港を極東に求めた。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
露土戦争、1877年 - 1878年
1876年前後から、反オスマン帝国に対するスラブ系の反乱が起こっていたが鎮圧される。
国際会議も物別れに終わり、ロシアはバルカン半島への介入を決めるが、
背後には不凍港を獲得するための南下政策という意図もあった。
1877年、バルカン半島とアナトリア半島東部を戦場に、戦争開始。
1878年、ロシアが勝利し、サン・ステファノ条約が結ばれ、
セルビア、モンテネグロ、ルーマニア公国がオスマン帝国から独立し、
ロシアの影響を強く受ける「大ブルガリア公国」の成立が定められた。
しかしロシアの勢力拡大を嫌う欧州各国はビスマルク主催のベルリン会議で、
サン・ステファノ条約を修正した。
ベルリン条約では、
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立は認められる。
しかし広大な大ブルガリア公国は三分割。
マケドニアはオスマン帝国に返還。
バルカン以北はブルガリア自治公国。(オスマンに納税。)
バルカン以南はオスマンの自治州、
東ルメリ自治州となった。(キリスト教徒の総督をスルタンが任命。)
露土戦争時、ロシアはオーストリアと密約を交わしていて、
オーストリアの中立と引き換えに、ボスニアとヘルツェゴヴィナを、
オーストリア・ハンガリー帝国が占領する、という密約が実現した。
アナトリア東部は返還されることも決められた。
1874年からの徴兵制により、軍事的な勝利は収めたものの、
ベルリン会議での戦果の否定は、アレクサンドル2世への不満に繋がった。
ロシアはバルカン半島への南下を断念、
不凍港獲得の矛先を極東に向けることになり、
日露戦争の原因の一つとなる。
地図は以下のサイトから。
緑はスラブ語系。黄色は非スラブ語系。オレンジはイスラム系語。
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/russian-a01.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002504.png
日露戦後、極東での利害対立がなくなり、露英日の極東権益協定へ。米はそこから締め出され、親中、対日に繋がるか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
日露戦争、1904年- 1905
日清戦争で勝利したものの下関条約で遼東半島を断念した日本、
露土戦争で勝利したもののベル条約でバルカン半島を断念した露。
ロシアは日本が手放した遼東半島を1898年に租借し、旅順艦隊を配置した。
これによりロシアと日本は極東においてぶつかる。
1900年、露は清の義和団事件の鎮圧をきっかけに満州を占領。
対して露の南下を嫌う日英米が抗議、しかし露は撤退しなかった。
露の南下を恐れる英は、1902年日英同盟(実質、明治維新から)を組み、
極東で日本を後押しした。
朝鮮半島を防衛の拠点と考える日本と、
朝鮮半島の利権を捨てるわけにはいかない露の交渉は決裂。
1904年戦争に入った。
日英同盟により露艦隊はスエズ運河を支配する英の通行許可を得られず、
南アフリカ周りで迂回したことで、日本は時間的な余裕を得た。
露仏同盟を結び資本を提供していた仏は露を支援。
米は両者の仲介を果たし中国利権を得ようとしていた。
↓
露仏同盟の実態は後に追いたい。大きな手がかりになりそうだ。
1905年、ポーツマス条約
戦闘を優勢に進めつつも余力のない日本は、
米に仲介を頼み、強気な露に譲歩しつつ、戦争賠償金を放棄して、
講和にこぎつけた。
日本は満州南部の鉄道、領地の租借権、
大韓帝国に対する排他的指導権を獲得した。
その後、1907年から1916年まで4次の日露協約により、
互いの権益を認めた。
秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。
↓
日露戦争後は、モンゴル、満州、朝鮮を巡って、
日露はむしろ手を組んでいたようだ。
露は極東での南下政策を断念。
再び汎スラブ主義を唱え、バルカン半島を狙うが、
汎ゲルマン主義のドイツ、
同じくバルカン半島を狙うオーストリアとの対立を招き、
第一次世界大戦の引き金となった。
また、露帝国の敗北は、露内でのユダヤ勢力を活動を活発化させ、
ロシア革命の一因にもなった。
この戦争をきっかけに日露、英露関係が改善。
(極東での利害対立がなくなったため。)
既に締結されていた英仏協商と会わせて、
勢力が一変した。
戦前
英(日)
露仏
独墺伊
戦後
英仏露(日)の三国協商。
独墺伊の三国同盟。
こうしてイギリスとドイツは互いを仮想敵国として、
第一次世界大戦に突入していく。
なお、アメリカは、ポーツマス条約を仲介したものの、
日英露の権益協定により極東利権から締め出されたことが、
第二次世界大戦に繋がる日米対立の原因、という説もある。
満州は清朝の領土だったが、有効な対策をとれず。
地図は以下のサイトから。
シベリア鉄道も通り、極東での露の活動も強大だったようだ。
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro1.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002505.jpg
ビスマルク辞任後、独露関係悪化。孤立していた仏と露の同盟に繋がり、後に対独性格が強まる。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ビスマルク、1862年 - 1890年
プロイセン王国の首相兼外相。
イタリア、ロシア、オーストリアと接近し、
同盟関係を背景に1864年にデンマークに勝利。
デンマークより奪った領土を巡っての、
1866年、普墺戦争にもモルトケの準備により勝利。
ドイツ連邦の主導権はオーストリアからプロイセンに移る。
ドイツの諸勢力分裂状態については、まだよくわからない。
棚上げするが、1867年、ドイツの主導権を握ったプロイセンは、
北ドイツ連邦を纏め上げ、スペイン王位継承問題に乗じ、
ナポレオン3世を戦争に引き込み、普仏戦争に勝利。
対仏戦争によりバイエルンなど南部ドイツ勢力にも、
北ドイツとの連帯感を持たせることに成功。
1871年、プロイセン王は、ドイツ皇帝になる。
パリまで攻略し、仏を叩きのめしたビスマルクは、
仏の復讐を抑えようとして、仏の孤立を外交の課題とする。
1873年には仏の孤立を目的として、
ドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟。
(バルカン半島を巡る、汎スラヴ主義と汎ゲルマン主義の対立により、)
(足並みは揃わなかった。)
1882年には、オーストリア、イタリアとの三国同盟。
これは第一次世界大戦にも繋がる同盟。
(ただしイタリアは半ば三国協商にも通じていた。)
しかし1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、
ヴィルヘルム2世の治世が訪れるが、
方針が折り合わず、ビスマルクを解任してしまう。
フランスの孤立を狙いロシアを重視していた外交方針が変更され、
独露の同盟は更新されないことになり、
ビスマルク外交により孤立していた仏と露の利益が合致。
1894年に露仏同盟が締結された。
とはいえ当初は、露仏と三国同盟は激しい敵対関係ではなく、
むしろ、
仏とは、アフリカで、
露とは、中央アジア、イランで利権争いの相手であった、
イギリスの対処が大きな問題だった。
しかし、ヴィルヘルム2世の単純な拡張政策は、
イギリス、露西亜と対立。
後に英と露仏の関係も改善し、
露仏同盟は対独同盟という性格を強めていく。
1891年より建設されたシベリア鉄道は、
この露仏同盟時の資本によるところが大きい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002506.png
1879年以降の仏は、フランス革命に繋がる勢力か?反ビスマルク。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
普仏戦争中の1870年、ナポレオン3世は捕虜となった。
パリでは蜂起が発生し、臨時政府が成立。
ドイツに対して、
アルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めたが、
パリを占領された上、弱腰な新政府の対応にパリ市民は激怒、
一時、パリ・コミューンを成立させて政府と対立していた。
この政府には王政復古派もいるようなので、
勢力特定がしにくいのだが、
ロマノフ王朝と同盟を組んでいたのは、
フランス第三共和制。
ナポレオン3世が江戸を支援していたので、
ナポ3−江戸期−ソビエトがベニヤミンか?
対して、ロマノフは農耕スキタイ教会。
第三共和性は、ビスマルク外交に苦しめられていた。
http://www.geocities.jp/bourgognissimo/Bourgogne/1ARTL/BR_007_3.htm
フランスのシンボルである国歌も、三色旗も、マリアンヌも、フランス革命の遺物です。
+
「政教分離が進むなど自由主義的諸改革が進展する一方、共和政の象徴としてマリアンヌ像が公舎に描かれるなど、国民の間に共和政の理念を普及させる試みも推進された。」
↓
第三共和制はプロテスタントか?
この時期にフランス植民地主義はアルジェリアからアフリカ各地やインドシナにまで拡大した。
ドレフュス事件、1894年
普仏戦争に敗れ、鉄と石炭の豊富なアルザス・ロレーヌ地方を失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に直面した。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロートシルト(ロスチャイルド)系などのユダヤ系金融資本が、国民の零細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資を行った。しかし、1882年の金融恐慌で、多くの投資銀行が破産に追いやられた。貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。
反ユダヤの機運が高まるまま、冤罪事件が起こり、
証拠不十分のままユダヤ人ドレフュスには有罪の判決を下された。
続きはまた。
ロスチャイルドは南ユダ系、西欧王室、カトリックとも仲良し。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
3B政策
ビスマルク路線から変更して、
ヴィルヘルム2世によって主導された、ベルリン・ビザンティウム・バグダードを
鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略。
3C政策
19世紀後半から20世紀前半においてイギリスが推進した世界政策で、
エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタ
を結ぶ統治政策をいう。
ドイツのとった3B政策と衝突し、第一次世界大戦を引き起こすことになった。
ロスチャイルド家
日本が日露戦争を行う際、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフが支援を申し出たため、外債募集に成功した。シフの働きはロンドンのロスチャイルド家の意向を受けてのものであった。その一方では、ロシアの石油開発にも巨額の投資を行っていたが、ロシア革命が起こると撤退を余儀なくされた。
以下、ヘブライの館2から抜粋+私見
http://inri.client.jp/hexagon/floorA2F/a2f1401.html
ロスチャイルド1世は、ユダヤ教のラビとして教育され、
「宮廷のユダヤ人(ホフ・ユーデン)」の一人となった。
1862年には、ロスチャイルド家を訪問したナポレオン3世と金融提携をし、
↓
ナポレオン3世は江戸を支援。ここからも、
ロス−ナポ3−江戸の南ユダ系の線が見える。
1870年にはバチカン融資を開始し、
ロスチャイルド家がカトリック教を金融支配するという事態になった。
↓
プロテスタント革命に対しては、カトリックと組んだか?
1875年にはロスチャイルド資本の融資によってイギリス政府がスエズ運河会社最大の株主となり、ロスチャイルド家はイギリス政府&ヨーロッパ王室との癒着を更に深めていった。
↓
イギリス政府の独立外交は、ロスチャイルドの意向が大きかったのだろう。
イギリスは名誉革命以降、プロテスタント系と考えていたが、
どこかで、西欧王族−カトリック−南ユダ連合に変わったか?
情報求む。
南アフリカもロスチャイルド。
薩摩は南ユダ系か?
パリサイ派のユダヤ商人は当時のソロモン第二神殿をマーケット広場として利用し
↓
やはりロスは南ユダ、聖母信仰か?
ハプスブルク時代に金融力によって宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)となり、
本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得たロスチャイルド
●プロイセンの宰相ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世の経済顧問であった宮廷銀行家ゲルソン・フォン・ブライヒレーダーは、普仏戦争(1870〜71)に勝ったドイツが、フランスから取るべき賠償金の額を決定した人物であった。
ロシアを含む全ヨーロッパ諸国の王侯、貴族の多数がロスチャイルド家の融資を受けている
↓
欧州王族は皆、ユダヤ資本と関係を持っていたようだ。
●デパートの経営などは、ヒトラーが政権を握る1933年まで、
全ドイツの80%がユダヤ人の所有・独占であった。
↓
イギリスとドイツは第一次世界大戦の主役だが、
その双方がユダヤ資本の強い影響を受けていたわけか。
高橋是清に融資したのは、
ロンドン政府の意向を受けたのだろうか?
オランダ・ナッサウ家とイングランド王女のプロテスタント政略結婚で、カトリック・ルイ14世を撃退。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ウィリアム3世、1650年- 1702年
ウィレム1世の曾孫。オラニエ=ナッサウ家。
よってプロテスタント。
ネーデルラント継承戦争
フランス王国とオランダによって行なわれた戦争。
カトリック=フランス
プロテスタント=オランダとイギリスは英蘭戦争で仲が悪かった。
オランダがフランスに落とされると、
プロテスタントの危機に繋がるため、
険悪な英蘭関係を修復すべく、
1677年、メアリー2世 (イングランド女王、プロテスタント)と、
ウィリアム3世が政略結婚。
英蘭関係が縮まったことにより、
フランスによるオランダ奪取は失敗に終わった。
その後もルイ14世に対抗するため、
1686年、アウグスブルク同盟を締結。
神聖ローマ皇帝、バイエルン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、
ファルツ伯、スペイン、スウェーデン、ネーデルラント連邦共和国などが参加した。
1688年ルイ14世がドイツ(神聖ローマ帝国)のファルツ伯領に侵攻したことによってアウグスブルク同盟戦争となり、名誉革命により1689年にウィリアム3世が即位するとイギリスも参戦した。
地図は以下のサイトから。名誉革命以前の英蘭戦争
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Dutch.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002509M.png
ブルボン・ハプスブルク・ナッサウ家の勢力争い。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ルイ14世、1643年-1715年
ブルボン朝
フランスのプロテスタントを弾圧。
ナントの勅令(プロにも信仰の自由を認めた)を廃止。
カトリック中心の国家に寄り戻す。
ナッサウ家との戦争。1667年、1672年-1678年
アウグスブルク同盟との戦争。1688年-1697年
スペイン継承戦争。1702年-1713年
と覇権主義から対外戦争を続ける。
この途中、名誉革命でイギリスはナッサウ家に変更。
ジェームス2世はブルボン朝に亡命している。
スペイン継承戦争、1701年 - 1714年
スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世には子がなかった。
カルロス2世の姉はルイ14世との間に子を作っており、後継候補とされた。
一方、フランス・スペインの合併には反対が多く、
オーストリア・ハプスブルク家のカール大公も候補者になっていた。
各国の思惑が交錯する中、カルロス2世は1700年に突然死去。
ルイ14世の画策でブルボン家のフィリップが即位したため、
フランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、イギリス、オランダが、
フランス・スペインと戦争を開始した。
スペイン国内では、カタルーニャとバレンシアが、オーストリア後継者を支持。
ブルボン後継勢力に反旗を翻し、イギリスがこれを支援。
フランスも戦闘に破れるが、戦線は膠着。
1711年、カール大公がオーストリアで即位すると、
イギリスは、スペイン・オーストリアのハプスブルク大勢力の出現を嫌い、
1712年、イギリスとフランスは和平交渉を始め、
1713年、ユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。
この条約でスペインは多大な領地を割譲したが、
代償としてブルボンによるスペイン王即位が承認された。
これにより、バレンシア、カタルーニャは反フランス同盟から見捨てられ、
フランス・スペインに蹂躙された。
地図は以下のサイトから。アウグスブルク同盟戦争。
http://www.rootsweb.com/~wggerman/map/grandalliance.htm
沖縄知事選
・・「普天間海外移設のみ」というのが、どうも…
*
>・・それから数百年後、平良のすみや里の夫婦の娘が聟を取る以前に妊娠してしまいます。驚いた父母が娘に問うと、毎夜清らかな若者がきて夢心地になっているだけだと語ります。不審に思っ た父母は、とても長い糸をつけた針を若者の髪に刺すよう に指示し、翌朝糸をたどって行くと、漲水御嶽の洞窟に、首に針を刺した大蛇に出会います 。
http://www.okinawainfo.net/miyako/harimizu.html
・・宮古、漲水御嶽。
・・三輪のお話そっくりじゃ"^_^" ただ真似しただけとも思えるがこちらがオリジナルかもしれない。蛇トーテムの渡来人なら越人の話かも。・・
陸の孤島で蛇プレイ
>秋たむ
南方の諸族も細かく追うと面白そう。
返事しないのは、文学者が追うには細かすぎるし、
大まかな枠組みを追っているので、自分で調べる気はしないけど、
細かい研究は、見てるのは楽しいし、参考にしてるから。
いろいろな尺度での研究は必要あると思う。
各自、自分の興味を追ううちに、結果的に研究が交差して、
触発される時に、こいつはやるな、と思う。
僕も今は余裕がないあるのよ。
かわいがるのは逃げ切ってからあるね。
蛇プレイも考えておくあるよ。
>>大蛇、処女妊娠
沖縄は本当にベニの痕跡が多いあるね。
明の洪武帝が白蓮教を叩いたのは、
白蓮教(ミトラ)とベニが微妙に対立するからか?
ロムルス(マリアの子)はシルウィウス、エトルリアとも近い。ユリウス氏は、反シルウィウス、反マリアの中心ではないか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ローマ帝国、紀元前27年−1453年(東ローマ帝国滅亡)
シルクロードの西の起点であり、中国の文献では大秦の名で呼ばれていた。
元老院派によりカエサルが暗殺された後、その養子オクタウィアヌスは、第2次三頭政治を経て、紀元前27年、元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け、最初の「皇帝」となった。これより後を帝政ローマという。
↓
このカエサル−オクタウィアヌス勢力はどの勢力なのか、興味深い。
情報求む。
ガイウス・ユリウス・カエサル、紀元前100年- 紀元前44年
“カエサル”の名は、後年君主を指す名詞となった。
古代ローマの古くからの名門貴族であるユリウス氏族に属する
カエサル家の子としてローマに生まれる。
http://www.littera.waseda.ac.jp/faculty/tokuyam/03clas18.html
シルウィウス
:この作品ではアエネアス晩年の子で,母はラウィニア.彼の子孫がアルバ・ロンガの王家となるとされており,その場合,クレウサとの子ユルス(イウルス)・アスカニウスの位置付けは微妙だが,後でカエサル家が属する氏族ユリウス氏はユルスの子孫とされるので,ローマ人の祖先の一人と考えられていたのは間違いがない.通常は,ユルスがアエネアスの建国したラウィニウムから分かれてアルバ・ロンガを建国し,その(アエネアスから数えると)十六代目の王が後出のヌミトルで,その娘レア・シルウィアと軍神マルスの間の生まれたのがロムルスとレムスの双子とされる.通常の伝承ではシルウィウスはアスカニウスの子とされるが,リウィウスの歴史では『アルバ』を建国したアスカニウスもアエネアスとラウィニアの子とされており,伝承が多様であるということだろう.
トロイア戦争でヒクソスに敗れたトロイア勢力のアイネイアスは、
クレタ島−カルタゴを経て新たなトロイアを築くべき土地、
ラティウムに上陸した。
現地の王の娘、ラウィニアと妻とし、
トゥルヌス、エトルリア勢力を退け、
ラウィニアとの都市、ラウィニウムを築いた。
アエネアスの子、アスカニウスは、
血の繋がりないラウィニアの都市、ラウィニウムを離れて、
アルバ・ロンガを建設したが、
アスカニウスの後の王位は、
アエネアスとラウィニアの息子、シルウィウスが継ぎ、
以後、アルバの王家は「シルウィウス」を名乗った。
12代目のシルウィウス王、プロカの死後、
プロカの弟のアムリウスが、プロカの息子、ヌミトルと争い、
王位を簒奪。
この過程が、エジプトのモーセなどと似ていて、
巫女(南ユダ系)のレア・シルウィア(シルウィウスの流れを示す名か?)が、
が処女懐妊(イナンナ系)して生まれた双子、ロムルスとレムスが、
簒奪者アムリウスを打倒し、
前753年、ロムルスによってローマ市が創建される。
前717年、ロムルスは暗殺されるが、
娘を略奪されたサビニ人によるか?アルバ・ロンガ勢力によるか?
ともかく、その時、
ユリウス氏族の祖先ともいわれるプロクルス・ユリウスが、
「誠実でロムルスの友人でもあったというプロクルスは市民達の前で誓いを立て、自分は死んだロムルスに出会ったと語った。ロムルスは生前よりも大きく輝いた姿で現れ、自らがクィリヌスという神になったことを語り天上へと上っていったという。」
↓
この役割は、後の教会を思わせる。穿った書き方をするが、
正統のロムルス(イエス)は神になった。
この後は、正統のロムルス(イエス)を祭り、
非正統勢力の元老院(ローマ皇帝と教会)が政権を担おう。
こういう思考を、ローマで最初に担ったのが、ユリウス・プロクルスか?
「プルタルコスによると市民によって王に選出されたヌマを説得するためにプロクルスはウェレススと共にクレスへ向かったという。プロクルスはローマ人の中で王に相応しい者とみなされており、ウェレススも同様にローマのサビニ人の中では王に相応しい者とみなされていたという。しかしヌマはこの説得を一度は断り、その後父や親戚の説得を受け王位につくことを承諾した。」
↓
プロクルスは、シルウィウスでない王を最初に立てた勢力の中心。
ロムルス シルウィウス
ヌマ サビニ人(やはりロムルス暗殺はサビニ人によるか?)
トゥッルス・ホスティリウス ヌマと同勢力か?
アンクス・マルキウス ヌマと同勢力か?
タルクィニウス・プリスクス エトルリア、アンクスの息子に暗殺される。
セルウィウス・トゥッリウス エトルリア、プリスクス
タルクィニウス・スペルブス エトルリア
この後、エトルリア化を嫌った勢力により革命?が起きて、
王制ローマ終焉、共和制ローマが始まるわけだが、
エトルリア王の名が「セルウィウス」。
これはエトルリア王こそがロムルスに繋がる「シルウィウス王」であり、
ヌマ(サビニ人)の勢力は、シルウィウス(マリアの子)と対立した、
ヌマからの3代の王。
その中心にいたのが、ユリウス・プロクルス。
ローマ初代皇帝、アウグストゥス時代から、ライン川、ドナウ川が、ロマンス語(フランス)とゲルマン語(ドイツ)の境界線
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
共和政ローマの初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、
エトルリア王を追放した、非シルウィウス系の有力者。
ブルートゥス家として、後にカエサルを暗殺した、
マルクス・ユニウス・ブルートゥス
デキムス・ユニウス・ブルートゥス
に繋がるのなら、
ユニウス氏族は、非シルウィウス派としてエトルリア王を追い出した後、
カエサルなどのユリウス派などと、共和制ローマで勢力争いをして、
それが三頭政治に繋がったか?
共和制ローマでの勢力争いは、
ユリウス−カエサル−オクタウィアヌスの線が勝利し、
帝政ローマに繋がり、この線は、
ロムルス(イエス)を神にして(暗殺して)権力を奪った、
ユリウス・プロクルスの流れである、という可能性がある。
アウグストゥス、紀元前62年- 紀元14年
カエサルの養子。初代ローマ皇帝。
トイトブルクの戦い、西暦9年
ゲルマン諸部族がローマ帝国軍を壊滅させた戦いである。
この戦いに敗北したローマ帝国は、ライン川を国境線として、
それ以上の領土の拡大を断念した。
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/DAAD75-77.htm
ローマ人は、ほぼライン川から東をゲルマニアとよんでいた。ゲルマン人とローマ人との最初の衝突は前2世紀末におき、キンブリ族とテウトニ族がガリアに侵入したが、マリウスのひきいるローマ軍に敗退した。このころまでには、ライン川からエルベ川にいたる地域の大部分が、スエビ族やケルスキ族などのゲルマン人によって占領されていた。前9年にローマ軍は、ライン川の東の領域を征服しようとしたが、後9年のトイトブルクの戦でケルスキ族の首長アルミニウスに大敗した。
地図は以下のサイトから。ライン川。
http://homepage3.nifty.com/yuutoflw/memotravelsHPN/Rhein/rhine1.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002514M.jpg
ネロのキリスト教迫害は、当時のローマでは異常ではないらしいが、元老院が「国家の敵」宣告。6月6日に自殺。666話。匂う。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ティベリウス、紀元前42年- 37年
アウグストゥスの養子。
ゲルマニアに対しては、ライン川、ドナウ川に防衛線を確立。
パルティアに対しては、アルメニアに梃入れし当方を安定させた。
カプリ島に隠遁して元老院を通過しない政治を行なったため、
評判は良くない。
重用されたセイヤヌスはユニウス派?エトルリア派?詳しく追わない。棚上げ。
カリグラ、37年 - 41年
ティベリウスは恐怖政治と共に緊縮財政を行なっていたが、
元老院派のカリグラは、ばら撒き財政、減税、剣闘士試合の復活など、
市民や元老院に阿ったが、やがて財政が破綻し、
人心が離れ近衛軍団に暗殺され、叔父が後を継いだ。
クラウディウス、紀元前10- 54年
近衛軍団に担がれる形で皇帝に就任した。
以降、軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となり、
元老院の力が弱くなった。
先代のカリグラが崩壊させた財政を立て直し、
ブリタニア南部を制圧。
ローマを世界帝国にし、官僚制を発達させ、
元老院の力を削ぐが、妻の小アグリッピナに暗殺される。
ネロ、37年- 68年
小アグリッピナの子。
初期は名君とされたが、
55年のブリタンニクス、59年に実母小アグリッピナ、
62年に妻オクタウィア、65年にセネカを殺害。
加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害し、
後世に暴君とされた。
キリスト教を迫害したため、現在でも評価は低いが、
当時はローマ伝統の多神教と対立するキリスト教を嫌うものも多く、
ネロがキリスト教とその信徒を、
「人類全体に対する罪」とした事については、
タキトゥスを始めとする歴史家も、ネロに近い見解をとった。
この時代のキリスト教は興味深い課題だが、
棚上げしておく。
初代、アウグストゥスからネロまでの5人の皇帝を、
ユリウス・クラウディウス家と呼ぶ。
ネロが元老院によって「国家の敵」とされ自殺したことで、
カエサルの流れ、
ユリウス家−クラディウス家は約100年の歴史に幕を閉じた。
史記の呂后が、バビロン捕囚までのパレスチナの聖母マリアの姿という噂
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ガルバ、在位は68年から69年。
カエサル家との親戚関係や婚戚関係がない。
若い頃から頭角を現していたが、
69年、ネロ失脚の混乱期に皇帝宣言。
元老院はネロを捨て、ガルバを皇帝として認めた。
しかし上ゲルマニア、下ゲルマニアがガルパを皇帝として認めず、
ガルパは自らの支持基盤の脆さを自覚。
ガルパのかつての支持者、オトがガルパとその子を殺害し、帝位についた。
オト、69年の3ヶ月のみ
エトルリア系。ネロの親友。
ガルパの親戚だったが、自分を後継にしなかったことを恨み、
ガルパとその子を殺害。
帝位についたが、
ゲルマニアで反乱を起こした将軍ウィテリウスはこれを認めず、
軍を挙げてローマに迫り、オト軍を破り、帝位についた。
ウィテリウス、69年の約一年
カリグラ・クラウディウス・ネロの好意を得て出世し、
ゲルマニアに派遣された。
ゲルマニアとガルパは仲が悪く、
そこへ派遣されたウィテリウスが、ガルパに対抗する皇帝に擁立された。
オト軍を破り、元老院は帝位を承認したが、
ウィテリウスはカエサルの称号を入れなかった。
(彼はゲルマニアとネロ派と近かったので、反教会的な思考だったのか?)
ウェスパシアヌス軍に破れ、殺される。
ガルパからウェスパシアヌスまでの一年と少しを、
「4皇帝内乱の年」というが、
ガルパ−オトは反ネロ派。
はネロと親しいゲルマニア派。
地図は以下のサイトから。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002516.jpg
ネロ−ウェスパシアヌス−ドミティアヌスのユダヤ攻略。この宗教対立の背景はまだ理解しきれない。
失礼、下の書き込みの地図は以下のサイトから。
http://park1.aeonnet.ne.jp/~memoria/lingua/provincia.html
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ウェスパシアヌス、69年 - 79年
4皇帝内乱の時代(68年6月〜69年12月)に終止符を打ち、
自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。
ネロの命令により、66年よりユダヤ戦争を担当。
当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しにつのっていった。
ヴェスパシアヌスがエルサレムの反乱を鎮圧している中、
思いがけずネロが自殺に追い込まれ、
ヴェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、
ローマへ向かい、ユダヤ戦線は膠着状態に陥った。
70年に皇帝になったヴェスパシアヌスは、
子のティトゥスをエルサレム攻略に向かわせ、
エルサレムは陥落し、74年に、
マサダ要塞でユダヤ人が集団自決したことで、ユダヤ戦争は終結した。
ネロの評判が悪いことには、エルサレム攻略も絡むか?
この後のユダヤ人の動きが興味深い課題だ。
ティトゥス、79年 - 81年
ウェスパシアヌスの長男
70年にエルサレム攻略の司令官となり、イエルサレムを占領し、
マサダの要塞を除き、ユダヤ人の反乱を平定する(ユダヤ戦争)。
ドミティアヌス、在位81年−96年。
ティトゥスの弟。
ネロ、カラカラと彼は、元老院により記録抹殺の刑を受けた皇帝。
ユダヤ人やキリスト教徒を迫害したことでも知られる。
治世の末期は暴虐をもって伝えられる。元老院議員や騎士階級のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、元老院の決議をしばしば無効にした。
96年に元老院議員らや元側近によって暗殺された。
元老院やユダヤ人に敵対的な行動をとったために、
極めて低い評価をされたようだ。
オリンピア競技を模し、
ここで4年ごとに陸上競技や戦車競争などからなる競技大会を催した。
↓
オリンピックは歴史的にはネロ−ドミティアヌスの線なのか?
エルサレムを攻略したローマ皇帝がゼウス信仰ということは、マナセ−エフライムか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ネルウァ、96年 - 98年
エトルリアの生まれ。
五賢帝の最初の一人。
トラヤヌス、98年 - 117年
対ゲルマン人の最前線である属州ゲルマニアの総督を務めていた。
ドナウ川を越えてダキア(現ルーマニア)を征服し、一時アルメニアやメソポタミア地方も版図におさめるなど、トラヤヌスの治世中にローマ帝国の領土は最大に達した。
先代のネルウァと同様に元老院との協調につとめた。
元老院から「至高の皇帝 (Optimus Princeps)」 の称号が贈られた。
ハドリアヌス、117年 - 138年
内政・軍事を充実させたものの、元老院の評価は芳しくなかった。
バル・コクバの乱、第二次ユダヤ戦争が起きている。
第一次ユダヤ戦争の後もユダヤ人たちの反ローマ感情は高まっていた。
115年にはユダヤ本国だけでなく、ディアスポラのユダヤ人たちも
含めて各地で同時多発暴動を起こしている。
そのころ、シメオン・バル・コシェバという男が自分こそはユダヤ民族を救う救世主(メシア)であるといい始めた。これに対して当時のユダヤ教の精神的指導者ラビ・アキバ・ベン・ヨセフが支持を表明したことから人々の期待が一気に高まる。当時のユダヤ教思想の中に救世主待望論が持たれ続けていたのである。
ハドリアヌス帝は130年、エルサレムに足を伸ばし、
エルサレムを「アエリア・カピトリアナ」という名前に変え、
神殿跡地にユピテル神殿=ゼウス!を建てようとしたので、
ユダヤ人の怒りが爆発した。
↓
反ユダヤ的なネロ以来の皇帝は、ゼウス信仰だとしたら、
ヒクソス、マナセ−エフライムの線か!?
当初、この反乱計画はスムーズに進行し、各地でローマ軍の守備隊を打ち破り、ユダヤの支配権をとりもどすことに成功した。2年半にわたって、バル・コクバは政治的指導者の座におさまり、ラビ・アキバが宗教的指導者となるユダヤ的支配構造が確立されたが、
135年に鎮圧された。
ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。神殿の跡地にはユピテル神殿とハドリアヌスの像がたてられた。これは偶像を禁ずるユダヤ人がもっとも厭うたことであった。
さらにエルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったものである。現代まで続くパレスティナの名前はここに由来している。
↓
ネロ−ウェスパシアヌス−ドミティアヌス−ハドリアヌスの線は、
マナセ−エフライムのアッカドのエンリルや、
ギリシア・ヒクソスから続くゼウス信仰か?
対してローマ元老院−エルサレムが聖母、呂后派か?
秋葉…
ローマ帝国の多神教はゼウス=ヒクソス信仰。対立する一神教は聖母イナンナ派。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
アントニヌス・ピウス、138年-161年
先帝ハドリアヌスの政策を継承し、その治世は平穏であった。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス、161年 - 180年
アントニヌス・ピウスの養子で、中国の史書『後漢書』の
「安敦」の記述はアウレリウス帝を指す。
哲人皇帝とも呼ばれ、ストア派後期の代表的人物に数えられるが、その思想は後期ストア派に顕著な折衷主義でもある。ストア派の克己主義に立ち、キリスト教を迷信として退けた。
多神教の礼拝を拒んだキリスト教徒を帝国の安定を危うくするとして迫害した。
ストア派はヘレニズム時代に成立した哲学。
ストイック(stoic)という言葉が示すように禁欲的な思想と態度によって広く知られている。とくに古代ローマの共和制末期からキリスト教を認める前までの帝政期における影響は非常に大きい。
アテナイでゼノンによって開かれたギリシャ哲学の一派。
↓
アテナイはマナセ=民主化の都市だが、
(大正デモクラシーの三井、立憲政友会もマナセで、)
(デモクラシー=民主主義=アテナイ発祥=マナセ。)
ストア派はマナセを示すか?
ストイックはキリスト教と対立か?
つまり、ローマ皇帝の多神教=ヒクソスギリシアのゼウス信仰で、
対立する一神教は、聖母呂后の勢力なのか。
勢力的には、後のフランス革命が明治維新に対応していることからして、
ローマにも、桓武−孝明の聖母イナンナ派の時代があるのかもしれない。
ストイックの語源はアテナイ、ヒクソスか。
ただ言葉の意味とは逆に、マナセ−エフライムが、
禁欲的、民主主義的には見えませんが、
語源的にはアテナイ発祥か。言葉の起源にも気をつけないと。
パレスチナがエルサレムに対立するペリシテ人から来てるとか、
この辺りは現代、世界的に強大な力を持っているので勉強になりますね。
個人的には、この2項対立の枠組みとは無縁でいたい。
マルクス・アウレリウス−コンモドゥス−セプティミウスのヒクソス線。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
コンモドゥス、180年 - 192年
マルクス・アウレリウスの子。
ローマ帝国史上最悪の皇帝のひとりとして言及され、
「暴虐帝」とも呼ばれる。
彼の死後、元老院は記録抹殺刑を宣告したが、のちに皇帝
セプティミウス・セウェルスが、アウレリウス家の好意を得ようとして
この刑の適応を免除し、コンモドゥスの記録は回復され、
またコンモドゥスは神として祀られた。
ギリシア神話の英雄ヘラクレスに扮して、
1万2千人の剣闘士を殺害したという。
ペルティナクス、191-193
コンモドゥス帝の悪政を正そうとしたが、
厳格かつ急激な改革だったため、
不満を持った親衛隊により暗殺された。
ディディウス・ユリアヌス、193年
ローマ皇帝の地位をかけた「公開競売」を競り落として即位。
その帝位就任の経緯からローマ市民からは尊敬されず、
属州からの反乱の火の手が挙がり、
ライン川とドナウ川軍団の支持を得たセプティミウス・セウェルスが、
ローマに進軍をはじめた。
反乱軍に寝返った元老院はディディウス・ユリアヌスを処刑することを可決した。
セプティミウス・セウェルス、193年 - 211年
コンモドゥス帝謀殺以来の内乱状態 を終わらせ秩序を回復した。
パルティアの侵入を撃退。
「暴虐帝」コンモドゥス帝の名誉を回復しているので、
ギリシア−ヒクソスの可能性がある。
カラカラ、211年 - 217年
セプティミウス・セウェルスの長男。
共同皇帝として帝位に付いた弟のゲタを殺害。
これを揶揄したアレクサンドリアの市民を2万人虐殺している。
パルティア遠征中にマクリヌスに暗殺された。
ローマ市民権を拡大していて興味深いが、この課題は棚上げ。
マルクス・アウレリウス−コンモドゥス−セプティミウス・セウェルスは、
ギリシアヒクソス系の一つの線と仮定しておく。
ヘラガバルスによりミトラ教がローマに侵入。ユダヤかパルティアの後押しか?無敵の太陽=ミトラ="another Jesus
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
マクリヌス、217年- 218年
北アフリカ、ヌミディアの属州出身。
カラカラを217年戦地で謀殺し、皇帝の地位についた。
パルティアへの弱腰外交により求心力を失ったところに、
カラカラの孫が反乱を起こし、逃避先の小アジアで殺される。
ヘラガバルス、218年-222年
カラカラ帝の親戚。
ヘリオガバルスの名はシリアのエメサ(現在のホムス)
で崇拝された太陽神の名、ヘラガバルスはそのラテン語化に由来する。
神智学会で、この皇帝の情報が詳しいので引用。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_as_Sabia.html
ヘリオガバルスは、ギリシア語で太陽神を意味するヘーリオス
*Heliosとアザゼルの別名ガド・バアル*Gad Baalの合成語
これには、もう一つの説があって、それによれば、ヘリオガバルスは、シリア語で山を意味するエルジャバルel-Jabalとギリシア語で太陽神を意味するヘーリオスHeliosの合成語で、ヘーリオス・アル・ジャバルHelios el-Jabalが音訛したものである。
一見すると二つの説があるように見えるが、ガド・バアルは山の神(山羊神・牧神パン)でもあるので、実はどちらも同じこと、つまりヘーリオス(太陽神ミトラ)とアザゼルの一体化を意味している。
ヘリオガバルスはタントラの教義を未熟なかたちで実践したので、性的放縦に陥った。ミトラの秘儀に由来するスーフィズムは、甘美な陶酔を特徴とするので、陶酔型スーフィズムと今日では呼ばれている。
背景
当時のシリアはミトラ教の地であった。エメサに駐留していたローマ軍の将兵の多くはミトラ教徒であり、この太陽神をミトラのことだと思っていた。この将兵たちの支持を基盤にして、少年皇帝はヘリオガバルスを名乗った(バートン『古代占星術』p205)。
成果
ヘリオガバルスは、シリアの町エメサにあった太陽神の御神体である黒い聖石を首都ローマ市にもちこんだ。ヘリオガバルスの意図は、太陽神を帝国の最高神とし、その宗教をローマ帝国の唯一の公式宗教にすることであった。ヘリオガバルスは、この太陽神*をソル・インウィクトゥスSol Invictus、すなわち《無敵の太陽》と呼んだ。ヘリオガバルスの治世はわずか四年と短かったが、太陽神崇拝を帝国に確立することができた。
少年皇帝誕生をきっかけに、ガド・バアル(アザゼル)とミトラの一体化が急速に進んだ。ミトラ教も大きく成長した。アーリマン伝承とアザゼル伝承が結びついたのも、この頃であろう。この一体化は、ローマ帝国領内の西方ミトラ教が崩壊した時、西洋世界からは失われたが、シリア・クルディスタンで存続し、現在は「孔雀の天使*」の教義として知られている。
死後の歴史
ヘリオガバルスの死後、聖石はエメサにもどされた。半世紀後、ヘリオガバルスに触発されたマルクス=アウレリウス帝(在位270-275)は、無敵の太陽神Deus Sol Invictusを帝国の最高神と定めた。この時期は、ササン朝および、クルディスタン(ローマ帝国とササン朝の緩衝地帯)でミトラ教が大きく勢力を伸ばした時期であり、ローマ帝国領内においては、これに呼応するかのようにカルデア神学(新プラトン神智学)の援護でミトラ教の地歩が固まっていった時期*に該当する。西暦304年には、ディオクレチアヌス帝(在位284-305)が正式に《無敵の太陽》という称号がミトラだけをさす称号であり、《無敵の太陽ミトラ》Sol Invictus Mithrasこそが帝国の保護者であると定めた。こうして、ローマ帝国におけるミトラ崇拝が確立され、380年にキリスト教が国教化されるまで、約七十六年間ローマ帝国の国教となった。529年には、カルデア神学の中枢アテネの学院が閉鎖を命じられるという事件が起きた。
**アザゼル 'Azazel。ミトラの第一の天使。山羊座、山羊神である牧神パンに関係する。
バアル Baal(Bel)。ユダヤ教においては、バアルとエルElが習合した神をヤーウェYHVHと呼んで至高神としている。
↓
新プラトン神智学との関わりはまだわからないが、
ヘラガバルス、218年-222年の時に、パルティア遠征と絡んで、
ローマにミトラ教が流入したようだ。
ユダヤ教のヤーウェが、バアルらしいが、
秋たむの言うように、フェニキア地帯で、
インダスーエジプト型の神が習合しているらしく、理解しにくいが、
どうやらこのミトラは、バール派で、
ヒクソス系ではないように、今のところ見える。
http://www.city.togane.chiba.jp/bunka/17.html
日本神話によれば、八坂神社の祭神素戔鳴尊は、
牛に乗り天界より出雲国に降り、其の地で農耕に牛を使役して、
大いに治績を挙げたという。
↓
スサノオ=神農=バール=アザゼル=バアル=ヤーウェ
という繋がりが見えるが、
フェニキア地帯においては、バールと伏儀が習合しているように見える。
ヘラガバルスには、離散したユダヤ勢力の後押し、
もしくは、同じフルリ系のパルティア勢力の後押しがあったか?
画像は以下のサイトから、無敵の太陽=ミトラ。
http://www.toolong.com/sol.htm
The official recognition of sun worship in the Roman Empire began during the time of Aurelian when he instituted the cult of "Sol invictus".
The cult of Sol Invictus and that of Mithra are virtually the same.??Mithra - Another Jesus
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002521M.png
ゴルディアヌスはカルタゴ−フェニキア−ヘラガバルスに繋がる。ヌミディアは対立勢力。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
アレクサンデル・セウェルス、222年 - 235年
祖母ユリア・メサの力によって、222年に従兄弟にあたる
先帝ヘラガバルスの暗殺後に14歳で帝位につく。
蛮族ゲルマン人対策で弱腰の対応を重ねたことが兵士らの不満を招き、母のマメアとともに殺害された。ローマはセウェルス朝から軍人皇帝時代となる。
マクシミヌス・トラクス、235年から238年
トラクスは「トラキア人」の意。
おそらくローマ皇帝となった最初の蛮族(非ローマ人)出身者であり、
また皇帝就任を宣言しながらローマに足を踏み入れたことのない最初の人物である。
235年、アレクサンデル・セウェルスを殺害すると、親衛隊による皇帝宣言を受けた。
動揺した元老院はこれを認めた。
貴族階級、アレクサンデル・セウェルスの支持者を排除し、
キリスト教徒を弾圧した。
アレクサンデル・セウェルスがキリスト教に対して比較的寛容な政策を取った
↓
祖母ユリア・メサ−ヘラガバルス−アレクサンデル・セウェルスは親族だが、
この勢力がミトラ教(another Jesus)を取り入れていることと、
キリスト教に比較的寛容だったことは、平行していて納得できる。
それに対してトラキア人?、マクシミヌス・トラクスは、
キリスト教に厳しいが、その背後勢力はまだわからない。
ゴルディアヌス1世、238年
アナトリアのフリュギア属州の出身だと推測されるローマ元老院議員。
ヘラガバルスが皇帝のとき補充執政官となった。
マクシミヌス・トラクスの簒奪?は民衆の支持を得ず、
広範に広がった不満は238年アフリカ属州での叛乱にまで高まり、
アフリカ総督だったゴルディアヌス1世は皇帝に擁立された。
高齢だったために息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝とした。
数日後、ゴルディアヌスはカルタゴに入場し、民衆と指導層に歓呼を持って迎えられた。
元老院はゴルディアヌスを新しい皇帝と認め、
ほとんどの属州はゴルディアヌスの側についた。
しかしヌミディアの総督カペリアヌスはマクシミヌス・トラクスの支持者であり、
数軍団を率いてアフリカ属州に侵攻した。
ゴルディアヌスは戦闘に破れ、息子ゴルディアヌス2世は戦場で殺された。
息子の死を聞いたゴルディアヌスは自殺した。二人の治世は36日で終わった。
↓
カルタゴはフェニキアにも繋がり、ヘラガバルス−ミトラ−イナンナに近く、
ヌミディアは、少なくともミトラから遠いようだ。
プピエヌスとバルビヌス、238年
アフリカでゴルディアヌス父子が敗北した後、
元老院はマクシミヌスへの抵抗を継続することを決め、
二人は共同皇帝に選出された。
パルティアの兵士がマクシミヌス・トラクスを殺害し、
プピエヌスに投降してきたため、ローマに帰るが、
バルビヌスとプピエヌスの仲は良好とはいえず、
二人はゲルマン人とパルティア人への遠征を計画したが、口論が絶えなかったので、
親衛隊が二人を殺害した。
ゴルディアヌス3世、238年 - 244年
ゴルディアヌス3世は若年だったため、実際の政治はその周囲の貴族たちが行い、
元老院を通じてローマの国事を支配していた。
嫁の父、ティメシウスが事実上のローマ帝国の支配者となった。
ゲルマン人とササン朝の2代目、シャープール1世の侵入に苦しむ。
レセナの戦い(243年)でササン朝に勝利するが、ティメシウスが戦死。
ゴルディアヌス3世も翌244年、ササン朝との戦いで戦死するが、
親衛隊長フィリップス・アラブスが殺したとも言われている。
フィリップスはゴルディアス3世の後を継いで、皇帝となった。
フィリップス・アラブス、244年 - 249年
フィリップスの若い頃の生活と政治的経歴はあまり知られていない。
ゴルディアヌス3世が、ペルシャ戦役中に殺害されると、軍中で皇帝宣言を行った。
軍隊を率いてローマへ帰り、元老院に皇帝として認められる。
おそらくゴルディアヌス3世の死に関与していたと思われる。
デキウスからガリエヌスは、エトルリア−軍−ヒクソス連合の皇帝か?ローマ弱体化が激しい。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
適当な東西対照の仮定
ユリア・メサ−持統天皇
ヘラガバルス−文武天皇
ミトラ信仰 −伊勢信仰
フィリップス・アラブス
治世を通じてローマの国家宗教を続けた→ヒクソス
軍隊の不満によりデキウスが249年、
軍隊によって皇帝と宣言され、
フィリップス軍と対決、デキウスが勝利し、
フィリップスは殺された。
デキウス、249年 - 251年
ローマの古代の宗教を復興しようとし、
キリスト教徒に組織的な弾圧を加えた。
↓
ヒクソス
251年、ゴート族によって殺害された。
ゴートはゲルマンの一派。アーリアだが、
イラン−アーリアの匈奴、ミトラ系遊牧民か?
アーリアがフルリとインドバラモンのどちらに近いかは、
課題。棚上げ。
トレボニアヌス・ガルス、251年-253年
ゴート人からドナウ川をよく防ぎ、軍人として声望を得た。
ローマはホスティリアヌスを皇帝と認めたが、
軍隊はガルスを擁立。
ホスティリアヌスが疫病で死亡したため、即位した。
サーサーン朝の2代目、シャープール1世によるシリアの侵略や、
ゴート人の来襲に悩まされた。
ゴートを撃退したアエミリアヌスが軍の支持を集めるようになり即位。
ガルスはアエミリアヌス軍に破れ殺害された。
アエミリアヌスは元老院から皇帝として認められ、3ヵ月統治したが、
ライン川河畔の地方)総督ウァレリアヌスがイタリアに進軍してきた
251年9月、自分の軍隊によって暗殺された。
↓
この辺りの軍による皇帝擁立は、安定していない。
ウァレリアヌス、253年 - 260年
シャープール1世との戦争により、捕らえられ敵国で生涯を終える。
敵国に捕らえられたローマ皇帝は3人しかおらず、
この時代のローマ帝国の危機の深刻さを物語っているといえる。
ガリエヌス、 260年−268年
父である皇帝ウァレリアヌスが260年にペルシアに捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、ガリア帝国が出現してしまう。
パルミラはローマの同盟国になったが、
統治者オデナトゥスが暗殺され女王が即位すると、
公然とローマに反旗を翻した。
こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラによる帝国三分割を許してしまう。
クラウディウス・ゴティクスらのクーデターにより殺害された。
デキウス・トレボニアヌス・ウァレリアヌス・ガリエヌスは、みなエトルリアの血を引いており、その事による結び付きがあったという説がある。
↓
デキウスがキリスト教徒に組織的な弾圧を加えているので、
この時代、エトルリアは軍隊と組んで、
イナンナ、ミトラと対立したようだが、
ヒクソスと組んだのだろうか?課題、棚上げ。
ガリエヌスはギリシア哲学にも関心を抱き、
↓
ヒクソスとの繋がりか?
哲学者プロティノスとも交流があった。
プロティノスは新プラトン主義の創始者。
プロティノスと同時代のグノーシス主義にも影響を及ぼしたが、プロティノス自身は「神が人間の方へ降りてくることはない」として(グノーシス主義を含む)キリスト教を批判していたという。
↓
新プラトン主義自体にヒクソス的な動機はないと、
ちらっとウィキペディアを見た限りでは、私は考えるが、
プロティノスがキリスト教を批判していることから、
ガリエヌス−プロティノスの繋がりはヒクソスの線だと仮定できる。
地図は以下のサイトから。
ローマ弱体期のガリア、パルミラ勃興期。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/modern/europe270.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002523.jpg
ガリア帝国は、ケルト、ゲルマン、ヒスパニア・フェニキアによる、反ローマ勢力。パルミラはペトラから繋がる南ユダ勢力か?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ガリア帝国
260年から273年に存在した短命の独立王国である。
ガリア帝国の成立は、ローマ精神=ヒクソスと対立する、
現地の自立的な力によるらしい。
ガリア−ケルト
流入したフランク人−ゲルマン人もガリア化している。
ブリタンニア−ケルト
ユリウス・カエサル、カリグラが遠征。
ローマ人の撤退以後、ブリタンニアではゲルマン人の国家が形成されるまで、ケルト人が主体となり、アーサー王を始めとした伝承の時代を迎えることになる。
ヒスパニア
イベリア半島に位置し、現在のスペインとポルトガルや、
アンドラ・ジブラルタルの領域とほぼ重なる。
フェニキア語で「隠れた土地」や「ウサギの土地」を意味することばであるとされている。
↓
イベリアはかつてカルタゴだったのでフェニキア色も強い。
先住民族はイベリア人とされているが、ケルト人やフェニキア人・ギリシア人
なども入植している。カルタゴ支配(植民地)を経た後に古代ローマの支配下に入る。
パルミラ
紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。しかし、2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。270年ごろに君臨したゼノビア女王時代には、エジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝のアウレリアヌスは、パルミラの独立を恐れ攻撃を開始。272年に、パルミラは陥落し廃墟と化した。
↓
ペトラが南ユダの都市であり、
シリアはササン朝とローマの中間。
エルサレムを落とされた南ユダ系勢力が、
パルミラに繋がったか?
地図を見ると、
フランス =ガリア、ケルト+ゲルマン
ヒスパニア=イタリア・ポルトガル、フェニキア
ブリタニア=ケルト+ゲルマン
ゲルマニア=ゲルマン
イタリア =ヒクソスと南ユダが半々
と、
現代の西欧の国家と対応していて、理解が深まります。
このローマ帝国のカエサルの流れ(マナセ)以外は、
基本的にフェニキア・ケルト・ゲルマンですね。
地図は以下のサイトから。
http://jp.encarta.msn.com/media_461527135_761568934_-1_1/content.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002524M.png
(無題)
・・「県外移設」→「国外移設」(「海外移設」とわたしは聞いた)。ことばの選び方で腐心してるのはよくわかる。でも同じことではないかな。出口なしということでは。
*
・・あふぅさん。OK(^_^)v らくらく逃げ切りだよ〜
軍人皇帝の時代(3世紀の危機)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
クラウディウス・ゴティクス、268年-270年
ゴート族に対して、久々の圧倒的な勝利を重ねた。
皇帝ガリエヌスを殺して帝位を簒奪したものの、
その治世は比較的流血の少ないものであった。
ガリアの取り組みにとりかかる。
キリスト教殉教者ウァレンティアヌス(聖ヴァレンタイン)
を269年2月14日に処刑した。
↓
ヒクソス
アウレリアヌス、270年 - 275年
軍人。ローマ人の魂をもった皇帝と讃えられる。
↓
ヒクソス。
パルミュラ王国、ガリア帝国を降伏させた。
秘書エロスの謀略により暗殺された。
タキトゥス、275年 - 276年
高齢のために一年もせず死去。
プロブス、276年 - 282年
軍人としての能力は高くローマ帝国への蛮族の侵入はほとんど撃破したが、
一般兵士に暗殺された。
マルクス・アウレリウス・カルス、282年- 283年
砂漠において落雷を受け死亡。
ヌメリアヌス
カルスの子、カルスの死後、引き返す途中で謀殺される。
カリヌス
カルスの子。
人望がなくクーデターにより暗殺された。
ディオクレティアヌス、284年 - 305年
広大なローマを東西に分ける。
官僚制を整備し、専制君主制で、
一時的にローマに安定をもたらした。
官僚と軍隊を分けて、属州軍隊の自立を抑えた。
官僚制の維持と軍事費でこれ以降のローマ帝国は、
慢性的な財政難に陥る。
弱体化するローマ帝国を統一するため、
ディオクレティアヌスは自らの皇帝権力を宗教により神聖化させようとした。ペルシア風の拝跪礼の導入や、伝統宗教の再興を図ったことがその例である。
これらの政策は皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒との対立を招き、彼らの弾圧が行われたとされる。
↓
ヒクソス系か?
桓武−コンスタンティヌス1世。ヒクソスと妥協した南ユダか?
もう一がんばりで地獄からも逃げ切り。
秋刀魚ダービーでも予想を越えた底力で、後方から一気に先頭へ。
逃げ切れば蛇プ…
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
コンスタンティヌス1世、306年 - 337年
キリスト教を公認。
混乱していた東西ローマを統一。
330年には帝国東方の交易都市であるギリシャ人の植民都市ビュザンティオン
(現在のイスタンブル)に新首都コンスタンティノポリスを建設した。
コンスタンティヌス自身は、ブリタニア出身のキリスト教徒ヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。
東ローマ帝国はコンスタンティヌスのしいた専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌスを「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる。
↓
この皇帝は重要ですね。
東ローマ帝国はその起源からキリスト教勢力の影響が強いか?
現代のスラブなどの東方正教会勢力にも繋がるので興味深い。
東西対照では桓武天皇に当たるのか?
南ユダ系の皇帝。平安京(コンスタンティノポリス)。
桓武と言えば、桓武平氏。
平(たいら)は皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ。
そういえば、エフライム工房が刺激的な話題を出してますね。
http://blog.goo.ne.jp/efraym/
トリコロールは北イスラエル系。正しくは、「青のヨセフ・白のマナセ・赤のエフライム」という『創世記』の最後を飾る親子が北イスラエル系のシンボル・カラーなのです。対して、南ユダ系は白がシンボル(まだ研究段階)。黄色は祭司のレビ族ですが、コーヘンと言うべきかもしれません。
↓
ベニヤミンと一括りにしていますが、
南ユダ系ももう少し細かく分類したほうがいいのですかね。
南ユダの各氏族に違いがあるのかどうかまだ知らないのです。
この辺りよくわからないのですが、ラビはレビ族あるか?
桓武の時に伊勢神宮の祭り方が呉に近く様式に、
がらっと変わっていると見た記憶があるのですが、
百済の血を示すことからも、元倭人とも繋がりがある勢力か?
ただし、坂上田村麻呂に蝦夷を討伐させてもいる。
倭人から見れば、北イスラエルに近く、
北イスラエルから見れば、南ユダ的な桓武、ビザンツ帝国。
キリスト教は南ユダから発生しているけど、
桓武がアテルイを討伐する、裏切ったベニヤミンであるように、
キリスト教もローマ=エフライム・マナセとかなり妥協した宗教と考えています。
桓武−孝明、
コンスタンティヌス1世−ルイ16世
はヒクソスと妥協したイナンナ派と仮定しておく。
南ユダのキリスト教派と、ヒクソスは、坊ちゃんイエスの擁立で手を組んだか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
325年 - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。
アリウス派
アレキサンドリアの司祭、アレイオス(アリウス、250年頃 - 336年頃)の教説を信奉する古代キリスト教の一派である。 正統信仰の三位一体説ではない説を唱えたため、異端とされた。
三位一体
カトリック・東方正教会・プロテスタント等のキリスト教主流派の中心的な教義の1つ。
4世紀に確立された。
「父なる神」
「ロゴス (λογος) である子なるイエス・キリスト」
「使徒などに下された聖霊」の3つ
三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一である。
これは西方神学における三位一体理解の基礎となる。
上記のように現キリスト教の主流派は三位一体を教義としている。しかしこの教義はキリスト教の教義が確立するなかで形成されたものであり、最初期から明確に教義として保持されていたものではない。
第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)
キリスト教が広がる過程で、教理解釈のさまざまな異論が生まれていった。4世紀初め頃、アレイオスによって説かれた「御子は御父と同一の実体ではなく (έτεροούσιος) 神性を持たない」と考えるアリウス派が、当時は神学において首位を担っていたアレクサンドリア学派と激しく対立した。教理の混乱に収拾がつかず社会問題にまで発展したため、ローマ帝国皇帝は公会議を召集、325年第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)において、アレクサンドレイア教会の助祭アタナシウスらの論駁により、アリウス派側が異端として敗北した。アタナシウスはさらに書簡などの中で、聖霊が御父と同一の実体 (同本質: όμοούσιος) とすることを説いた。後、彼はアレクサンドリア教会の総大主教に叙階され、三位一体の教理の創始者の第一人者となった。
↓
アリウス派が異端として排除されたのは、
「御子は御父と同一の実体ではなく (έτεροούσιος) 神性を持たない」
伏儀を重視して、イエスを認めなかったからか?
イエスは十字架(伏儀)に、引っ掛けられている坊ちゃんだから、
こういう考えも普通に起こると思うのですが、
母マリアとしては子イエスを偉くしたいし、
ヒクソスとしては、伏儀よりも、無害なイエスを好むので、
ベニヤミン−ヒクソス連合のキリスト教カトリックが作られた。
アリウス派は、ゲルマン人のヴァンダル王国・東ゴート王国などでは強い勢力を持ち、
これらの諸王国では正統とされたアタナシウス派が迫害されるほどであった。
↓
ゲルマンはインダス・イランに近く、ミトラ教と近く、
ミトラ=伏儀なので、イエスを重視しないアリウス派を受容。
精霊は、真理や根本的に良い力そのもの、として理解しておく。
フィリオクェ問題
第1回コンスタンティノポリス公会議で定められた、
ニカイア・コンスタンティノポリス信条の原文では、
「聖霊は父なる神から発する」としていた。
ローマ・カトリック側がそのラテン語訳に9世紀になって一方的に「子からも(発する)(Filioque フィリオクェ)」と付け加え、これを正文であると主張したためにコンスタンティノポリス教会側が反発した。
↓
「キリスト教の神学上最大の論争のひとつ」は、
父(伏儀)が偉くて、ミトラ−東方正教会ではまだ、
精霊は伏儀から発するものとされていたが、
ローマ・カトリック(これはヒクソスか?ベニヤミンか?未決)が、
子供(イエス)からも精霊が発することに変更したこと。
↓
伏儀だけが偉いか?坊ちゃんのイエスも偉いことにするか?という対立。
ローマ・カトリック教会と東方正教会の分離、
いわゆる大シスマ(東西分裂)の主要なきっかけとなった。
↓
東方正教会は民族的にもミトラ教に近いキリスト教で、伏儀重視。
現在でも東方正教会では、
「聖霊は父からのみ発出し、子を通して派遣される」としている。
ここに教会と皇帝がどのように絡むかは、ゆっくり調べたい。
エルサレム神殿の再建は、南ユダの聖母派が、キリスト教派と元来の聖母派に分裂したことを示すか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
コンスタンティウス2世、337年 - 361年
コンスタンティヌス1世の子。
337年に父親が死亡するとガルス、ユリアヌスだけを残して皇族を虐殺。
↓
この背景はわからない。棚上げ。
ユリアヌス、:(副帝)355年 - 361年11月3日、(正帝) - 363年6月26日)
コンスタンティヌス1世の甥。幼少時、猜疑心の強い皇帝コンスタンティウス2世により家族を全員殺された。ユリアヌスとその兄ガルスは見逃されたがイオニアへ幽閉され、事実上軟禁されたまま養育された。軟禁生活の中、彼が唯一自由に行えたのはギリシア哲学を学ぶことだけであった。この頃に多神教に触れて育ったことや、帝国の一神教化への危機感などから、キリスト教に反感を抱くようになった。
↓
ギリシア哲学−ヒクソス
ユリアヌスはコンスタンティヌス1世以来優遇され、当時帝国で一大勢力となりつつあったキリスト教に抗した。キリスト教徒に与えられていた特権を廃止し、代わりに伝統的多神教(ローマ神教など)を保護することでその復興を目指したのである。
また、ユダヤ教の勢力強化のためにエルサレム神殿の再建も許可した。
↓
極めて興味深い。
キリスト教はユダヤ教から発生したものの、ヒクソスと妥協した宗教。
ヒクソスと妥協しない聖母派がエルサレム派(レビ族か?)という仮定。
西欧で勢力を拡大したユダヤ、ロスチャイルドなどは、
ユダヤ派キリスト教徒ではないか?
聖母派もキリスト教の誕生時に、
妥協を受け入れた一派と、元々の聖母信仰派に分かれたのかもしれません。
彼の死後、キリスト教に不利な法案はすべて廃止された。
テオドシウス以降、ローマは東西に分割。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ヨウィアヌス、363年-364年
ササン朝と屈辱的和議(アルメニア、メソポタミアのティグリス川以東の放棄)
を結び撤退する。
ウァレンティニアヌス1世、364年 - 375年
「背教者」ユリアヌスの時代に提起された神学上の諸問題を解決した。
また、アリウス派の追放を再確認した。
↓
ヒクソスか、南ユダか理解しにくいキリスト教派。
フン族(匈奴)に追われたゴート(ゲルマン人)が、
避難場所を求めて帝国内に侵入し、
ドナウ川でゴート人を阻止しようとしたがローマ帝国は敗北した。
テオドシウス、379年 - 395年
東西ローマを統一した最後の皇帝。
キリスト教を推し、異教を厳しく弾圧した。
死に際して西ローマ帝国、東ローマ帝国に分割し、
二人の息子を帝位につけた。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002530.jpg
西ゴート、ヴァンダル族も大まかに言えば、フルリ系に見える。
まずは西ローマから追います。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ホノリウス、395年−423年
属州ブリタニアを維持できずに放棄し、ガリアにはゲルマン人が侵入。
そして410年、イタリアへ西ゴート王国のアラリック1世が侵攻してくる。
西ゴート王国、415年-711年
現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配した、
ゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、
ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。
第三回トレド公会議にてアリウス派からカトリックに改宗。
711年にイスラーム王朝のウマイヤ朝がイベリア半島に上陸、
最後の王であるロドリーゴ(ロデリック)が戦死して滅亡した。
↓
イベリア半島は、
フェニキア→ゲルマン→ローマカトリック→イスラムと移行。
民族的にはフェニキア。
ゲルマン・キリスト教、イスラムを経由している。
410年、ローマ市は西ゴート軍に占領されて略奪されてしまった。
ウァレンティニアヌス3世、424年 - 455年
西ローマ帝国の解体が際立っている。
439年にはアフリカ州がヴァンダル族によって征服される。
ヴァンダル族
ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた東ゲルマン人の一部族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。
彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。
アリウス主義なのでミトラ系か?
アンダルシアの夏はヴァンダルなわけか。
477年、ゲイセリックが死去するとその息子フネリックが王となった。
彼の治世には、ミトラ教とカトリック教会への迫害があったことで有名である。
ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、
カトリック教徒を迫害した。
↓
カルタゴはフェニキアを思わせるが、アリウス主義はミトラ系と考える。
ヴァンダル族はキリスト教化していないフェニキアの流れか?
ゲルマン−フン−フェニキア−ケルト人の区別は、
ちらっと見た限りではわかりにくいのですが、
フルリ人と近いか、もしくは混ざっているのではないか?
内部の細かい対立は私は追わないが、情報求む。
ローマ帝国は、446年にはブリタンニアを最終的に放棄、
イスパニアとガリアの大部分を失い、蛮族の割拠に任せた。
↓
これらの戦いは、
西ローマ帝国のヒクソス系キリスト教徒と、
大まかに見てフルリ系のベニ・ミトラ民族の戦いと仮定する。
画像は500年頃の西ゴート王国の領域
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002531.jpg
ヴァンダル、西ゴートの侵入により、西ローマ帝国滅亡。鎌倉幕府はアリウス派ゲルマン人に近い可能性。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ヴァンダル族の王、ガイセリック、389年頃 ? 477年
北アフリカにヴァンダル王国を築き、ローマ帝国の主に西部を攻めた。
ヴァンダル王国はシチリア島、サルディニア島、コルシカ島を服従させた。
455年西ローマ皇帝ウァレンティアヌス3世が殺害されると、ガイセリックは442年にウァレンティアヌスと結んだ平和条約を破棄し、イタリアへ上陸、ローマへ侵攻した。ローマ教皇レオ1世は使者を送って、ガイセリックに虐殺や市の破壊をしないように求めた。ガイセリックがこの申し出に合意したため、ローマの城門は、ヴァンダル族の軍隊を迎えるために開かれた。このときガイセリックに率いられたヴァンダル族がローマを略奪し、ヴァンダルの名はヨーロッパ諸国では現在も「略奪者」「文化の破壊者」の意味で用いられる。インターネットで荒らし行為を vandalism と呼び、荒らし行為を行う人を vandal (ヴァンダル人)と呼ぶのもその一端である。
↓
「荒れる原因の大半は、掲示板に一日中張り付いて」
荒らし=ヴァンダル人による西ローマ帝国への侵入が語源あるか。
荒のほうは外れだったあるが、ロ…は渋そう。
人物鑑定は難しいあるね。
474年、ガイセリックは東ローマ帝国との和平に応じた。
410年に、紀元前4世紀のガリア人の侵入以来、初めてローマが掠奪される。西ローマ帝国において、簒奪者たちによって一貫して引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなり、5世紀になると蛮族が帝位簒奪者に成り果てた。
ネポス、473年 - 475年
東ローマ帝国から承認された最後の西ローマ帝国皇帝。
ヴァンダルの王ガイセリックとの交渉ははかどらず、ヴァンダルはイタリアの海域で海賊行為を続けた。ガイセリックは東ローマ帝国と平和協定を結んだばかりだったので、ネポスと新たに譲歩する必要を認めていなかったのである。
ネポスは、あらゆる点において、西ローマ帝国の名君の一人であったのだが、
東ローマ帝国と通じているというので元老院に人気がなく、忌み嫌われていた。
ロムルス・アウグストゥルス、475年-476年
ゲルマン人の将軍オドアケルによって退位に追い込まれた。
西ローマ帝国終わり。
この西ゴートやヴァンダルは、東西対照で何に当たるのだろう?
鎌倉幕府か?
平氏・源氏が、エフライム・マナセ勢力を基本とする、
という平説に基本的には同意する。
ただ西欧を見て考えたのだが、
アリウス派ゲルマン人など名目上のキリスト教徒、実質フルリ系が、
東にもいるのではないか?
平清盛一族を中心とする平家政権がエフライム・マナセなどヒクソスで、
鎌倉源氏は平安時代を終わらせたアリウス派ゲルマンに当たると仮定しておく。
フビライがコンギラトなどヒクソス系、と仮定したが、
そのフビライが攻略を目指しているから、
鎌倉幕府はヒクソスと対立する勢力、という考え。
アリウス派は一応、キリスト教徒なので、
幕府が天皇を廃位しないこととも矛盾しない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002532.png
西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸勢力の争いへ。武家優位の時代。
ここから東ローマ帝国を追う。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
アルカディウス、 377年−408年
395年、テオドシウス1世は長男のアルカディウスに帝国の東半分、
次男のホノリウスに帝国の西半分を継がせた。
政治に全く関心を示さなかった。
レオ1世、457年−474年
帝国のゲルマン人軍事長官であったアスパルに擁立された。
このような即位の経緯から、治世前期のレオ1世はアスパルとその息子・アルダブリウスの傀儡にすぎなかった。しかし471年、イサウリア人のタラシコデッサ後のゼノン)の力を借りてアスパル父子を打倒し、皇帝としての地位を確固たるものとしたのである。
ゼノン、474年-491年
ゲルマン人のアスパル父子を倒した功績で、
レオ1世の娘を娶り、子のレオ2世を後見、レオ2世が夭折したため自ら即位した。
彼は民衆の信望も薄く、その治世は人気取りのためのばら撒き財政などに終始した。
彼の時代に西ローマ帝国は滅亡し、西ローマを滅ぼしたオドアケルから
西ローマ皇帝の位を返上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた
全ローマ帝国の皇帝となった。
↓
ローマ分割から、西ローマ滅亡までの約100年間、
東ローマに目立った記述がウィキにはないので、
この時代、ローマの力は東西とも弱く、
ゲルマン・ヴァンダルなどが主役だったのではないか?
それは戦国期に天皇が飾りになり、武家が政治を取り仕切ることに対応する。
アナスタシウス1世、491年−518年
アナスタシウス1世は敬虔なキリスト教徒であったが、単性論寄りであったためにカトリック教会と対立するなど、宗教政策においては苦難を極めた。
単性説は、イエス・キリストには神性のみが存在するという思想。
もともと単性説はネストリウス派の思想に対抗する形で、
エジプトを中心に盛んになった。
現代も続く単性論教会としてあげられるのはシリア正教会、
エジプトのコプト正教会、エチオピア正教会などである。
↓
単性論は、子供を生むことに決めた初期イナンナ派に近いと仮定。
ネストリウス派はマナセ・エフライムをイナンナの子としたい派閥であり、
それと対立する単性論は、伏儀重視のミトラ教や史記とは違って、
イナンナ−子のホルス、イエスという形を重視するが、
断じてヨセフなど夫ではない、夫は伏儀、という思想。
東ローマ帝国で、単性論をとる皇帝が現れるのは、
東ローマが比較的にミトラ勢力に近いから。
ユスティヌス1世
ササン朝ペルシア帝国の侵攻に遭うなど、その治世は多難を極めた。
先帝時代に悪化したカトリック教会との関係修復に尽力した。
地図は以下のサイトから。西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパ。
http://dj.st44.arena.ne.jp/xwin2/mainhtml/others/xwin2_german.html
「西ローマ帝国領内に居住地を得ていたゲルマン各民族は名実共に独立を達成し、互いに相争いながら領土拡張戦争を繰り広げていき、途中、東ローマ帝国やイスラム帝国を交えた後、生き残ったのは大陸になかったアングロ・サクソン系(これも第二次民族移動となるデーン人やノルマン人に滅ぼされる)と、西欧に覇を唱えたフランク王国だけという、まさに弱肉強食の世界がそこにあったのです。
さて、この激しい時代の各王国の国王一覧を掲げます。下マップは、おおよそ西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパの地図です。だいぶ、現在と趣を異にしますが、現在のオランダ・ベルギーあたりにあったフランク王国が、クローヴィス1世という王を得てローマ将軍だったシャグリウスを倒して、南方に領土を拡張したことを契機として、東はアラマニを征服、さらに西ゴート王国からアキタニア地方(南フランス)を征服し、死の直前には即位時の3倍以上の領土としたことが、フランク王国の基礎となったのは間違いないでしょう。
ヴァンダル王国 ブルグント王国
西ゴート王国 東ゴート王国
スエヴィ王国 ランゴバルト王国
フランク王国 ケント王国
エセックス王国 ????ウェセックス王国
マーシア王国 イーストアングリア王国
サセックス王国 ノーサンブリア王国 」
↓
西ローマ帝国滅亡後、西欧はゲルマン、アングロサクソンの争いになるようだ。
この一々の勢力を調べると、現在の西欧にも繋がる各地域が理解できそうですが、
細かいので棚上げ。
勝ち残るフランク王国を調べます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002533.png
西欧貴族の線
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
フランク王国
5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。
フランク王国の系譜はシカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。
メロヴィング朝、481年 - 751年
ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族が築いたフランク王国における
最初の王朝である。
クロヴィス1世、481年 - 511年
メロヴィング朝フランク王国の初代国王。
496年アラマン人との戦いの後、王妃クロティルダの薦めでカトリックに改宗した。 ローマ人との接触の長いフランクの王であったクロヴィスはローマの異教を信仰していたものだが、この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。西ゴート族やヴァンダル族はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派はアリウス派であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったから、クロヴィスのカトリック改宗は支配下のローマ系市民との絆を強化するものであった。
↓
西欧を制するメロヴィング朝の初代がゲルマンでありながら、
アリウス派を捨て、カトリックに改宗したことは極めて重要。
ヒクソス勢力は、ここに落ち着いたのではないか?
以下のサイトから引用。
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/492.html
>ブッシュ大統領の有力対抗馬は民主党のジョン・ケリー上院議員ですが、
>お互いに名門イェール大学の同窓生。しかも二人は秘密結社「スカル・ア
>ンド・ボーンズ」に入会していたのです。この「スカル・アンド・ボーン
>ズ」は19世紀にイェール大学にできました。徹底した白人至上主義エリ
>ート集団とされる、フリーメーソン仕込みの秘密結社で、米国社会には強
>力な影響力があるといわれています。『石の扉』 P.276
父ブッシュ大統領とバーバラ・ピアス・ブッシュ夫人はどちらも、フランクリン・ピアスと同じく、イギリスのピアス家の出身である。
アメリカ移住の前に、ピアス(Pierce)はもともとパーシー(Percy)と名乗っていた。
パーシー家と言えば、政治に対して強大な権力と影響力を持っていたイギリスの大貴族の一つである。
カルヴァン派プロテスタントのジェームズ王とその家族を殺害し、親カトリック政権を樹立するために、貴族院を火薬で爆破するテロ事件Gun Powder Plot (1605)を首謀したが、事前に発覚し、逮捕されそうになったため、急遽名前を変えてアメリカに渡ったのである。
ブッシュ大統領の親戚として有名なのは、イギリス及びアメリカのグロヴズナー家と、オハイオ州のタフト家である。
面白いことに、http://msn.ancestry.com/landing/strange/bush4/tree.htm によると、ジョージ・W・ブッシュの11代前の先祖はマーガレット・リード(1672年没)であり、ジョン・ケリーの9代前の先祖はエリザベス・リード(1672年没)であるということです。この2人はエドモンド・リード(1623年没)とエリザベス・クック(1637年没)の間に生まれた姉妹……ということです。
つまり、ブッシュとケリー、どちらも約400年前のリード家が祖先になる。興味深いことですね。
以下、○○さまのサイトから引用。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yokoyama/frm6A.html
シオン修道会が公言する組織の目的はメロヴィング王朝とその家系をフランスの王位だけでなく、他のヨーロッパの王位にも復活させることであると言われております。
1796年、ナポレオンは革命政府を率いる3人の「指導者」のうちの一人といわれております。
もう一人の「指導者」シエイエスはピション神父によって行われたある家系調査のことを知っていました。
シエイエスはナポレオンにジョセフィーヌ・ボーアルネと結婚し、そして前の結婚でできた2人の子供を養子にするよう促しました。
なぜなら彼女はメロヴィング家の血を引き、子供たちには太古の王の血が流れているといわれているからでございます。
ナポレオンの形式は「フランスの皇帝」ではなく「フランク人の皇帝」としてのものでございました。
↓
まだ理解できていないのですが、
メロヴィング朝から現代にも繋がっているらしい、
西欧貴族の流れを明確にすることは、重要な課題でしょう。
カトリック、プロテスタントなど、
このあたりの絡みがまだ理解できないのです。
逃げ切りまで、少しずつ調べてみます。
以下のサイトの+ Royal Line +を理解できるか?
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/king_top.htm
棚上げしてるハプスブルク、ブルボン、ナッサウ家の時代まで、
調べるの大変そう(苦笑)
フランクの基本情報収集
フランクについては不勉強なので、
しばらくまとめずに情報収集します。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
クロヴィス1世は、
晩年にはフランク人の自らと同じ小王クラスの名門家系の出身者を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺してしまった。それにより、メロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。
神話と伝承
メロヴィング朝の始祖は、ギリシャ神話の神ポセイドンの子孫である云々。
メロヴィング朝の始祖は、トロイの王族の血を引く云々。
メロヴィング朝の始祖は、ナザレのイエスとマグダラのマリアの子の血を引く云々。
カール・マルテル、686年? 741年
メロヴィング朝においては、徐々に宮宰を務めるカロリング家が台頭していき、8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。
カロリング朝
当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、ローマ教皇の支持にも助けられて、カロリング朝フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したことは、ローマ教皇領の起源となった。
カペー朝、987年 - 1328年
ブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。
カロリング朝が断絶した後、フランス公兼パリ伯で、ロベール家の出身者であるユーグ・カペーが国王として推挙され、フランス王として即位することとなった。
この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、
アルビジョワ十字軍が組織された。
このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、第7回十字軍・第8回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。
14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。
フィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。
フィリップ4世はテンプル騎士団の資産に目をつけ、
異端の濡れ衣を着せてこれを解散させ資産を奪った。
その後、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。
なお、フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続くことになる。)
ヴェルダン条約によりフランク王国が分裂し、ドイツ、フランス、イタリアの原型が形成された。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
シャルル2世、843年 - 877年
西フランク王国(カロリング朝)の初代国王
ヴェルダン条約
843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めたもの条約。
ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)で定められた国境この条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国が誕生し、それぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が形成された。
↓
現在のドイツ、フランス、イタリアに繋がる重要なフランク王国。
カルロマン、879-884
王国はノルマン人の侵入などにより悲惨な状態だった。
また、封建制の領主に対する嫌悪から彼の権力は極めて限定されたものだった。
ウード、888年 - 898年
ノルマン人(ヴァイキング)と闘う。
シャルル3世、893年 - 923年
ノルマンディー公国を認め、ノルマン人と和睦。
ルイ4世、936 - 954
939年には神聖ローマ皇帝オットー1世とロレーヌをめぐって争ったが、結局ルイ4世はオットー1世の妹ゲルベルガと結婚した。
ルイ5世、986 - 987
カロリング朝は断絶し、国王選挙によって新たにユーグ・カペーが国王に選出され、
カペー朝が創始されることとなった。
地図は以下のサイトから。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu18.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002536.png
フランク王国+キリスト教+ローマ教皇→十字軍。ユダヤ、イスラムなど非ヒクソス系を攻撃か?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ユーグ・カペー、カペー朝初代のフランス王。
カロリング家との王位継承闘争に勝利し、生存中に子のロベールを王位継承者に選ばせ、
事実上カペー家世襲の端を開いた。
ロベール2世
カペー家による王位世襲を諸侯に確認させた。
フィリップ1世、1060年 - 1108年
第1回十字軍、1096年-1099年
ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地
エルサレムの回復のために始められた軍事行動。
十字軍運動を理解するためには、まず中世初期の西欧の状況を理解する必要がある。カロリング朝の分裂後、ヴァイキングとマジャル人がキリスト教化されたことで西ヨーロッパのローマ・カトリック教圏はようやくの安定をみた。ところが争いがなくなると今度は戦闘によって生計を立てていた人々が手持ち無沙汰になり、お互いに私闘を繰り返したり、農民の生活を脅かすようになった。
やがてこのエネルギーが非キリスト教徒に向けられることになる。スペインで行われていたレコンキスタはその代表的な動きである。
1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かい、イスラム教徒の猛威に脅かされていたビザンティン帝国(東ローマ帝国)への支援を訴えた。ビザンティン帝国救援という呼びかけ自体は西欧の人々を動かすことはなかったが、11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々ははるか東方へ目を向けるようになった。
このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らず西欧諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。それは数百年来、鬱屈していた軍事的エネルギーが宗教的情熱と結びついて燃え上がった瞬間であった。
反ユダヤ主義との結びつき
十字軍運動の盛り上がりは反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちはライン川周辺のヴォルムスやマインツでユダヤ人の虐殺を行った。
十字軍運動に参加した人々の中のあるものは言葉たくみに、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。聴衆にとって「戦う」というのは相手を死に至らしめることと同義であった。キリスト教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。
城内に入った軍勢はエルサレム市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方典礼のキリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口をふさぎ火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡(現在のアル・アクサモスク)に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害している。著者不明の十字軍の従軍記「ゲスタ・フランコルム」によると虐殺の結果、「血がひざの高さに達するほどになった」と書いているが、さすがにこれは誇張であろう。 虐殺に伴ってイスラム教徒、ユダヤ教徒、東方正教徒の女性に対する大強姦と財宝の略奪も行われた。狂信的なキリスト教徒である十字軍兵士達は歓喜すら覚えつつこれらの蛮行を行った。
↓
実は正統ユダヤ人というのは、
ゼウスに屈服しなかった聖母信仰者なのかもしれず、
ユダヤ人、イスラム教徒、さらに東方正教会までが殺されているのは、
ヒクソス+妥協した南ユダのカトリック、と、
フルリ系の対決の図式か?
このあたり、ローマ教皇についてなど、もっと詳しく事情を追っていきたいが、
フランク王国は複雑で骨が折れそうだ。
画像は以下のサイトから。第三回十字軍。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_37_40.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002537.jpg
アルビジョア十字軍、異端キリスト教徒を攻略。第4回十字軍、東方正教会を攻略。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
フィリップ2世、1180年 - 1223年
アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ皇帝領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王と呼ばれた。
もともとカトリック教会の聖職者の堕落に反対する民衆運動として生まれたカタリ派は南フランスと北イタリア一帯で活発となり、南フランスでは都市アルビの名前からアルビ派とよばれていた。
アルビジョア十字軍、1209年 - 1229年
南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。
独自の文化を誇った南フランスは、20年に渡る戦乱により荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を受けることになる。また、アルビジョア十字軍後に異端審問制度が確立した。
異端審問
ペドロ・ベルゲーテ. 異端審問を取り仕切る聖ドミニコ1229年から異端審問が始まった。アルビ派と認定されれば火刑となり、遺体が掘り出されて火刑とされることもあった。アルビ派であることを放棄すれば命は助かったが、当時の人間にとって信仰はしばしば命より重要であり拒否する者も多かった。当然不満は高まり、アルビ派は砦にこもり反抗する者が相次いだ。1240年にはレイモン・ロジェが、1242年トウールズ伯レイモン7世がアラゴンやイングランドの支援を受け蜂起したが、いずれも鎮圧され、1244年までに反乱はほとんど終結した。異端審問はこの後も続き、スペインの異端審問や魔女狩りなどにつながっていく。
第4回十字軍、1202年〜1204年
結果的にキリスト教国のビザンティン帝国(東ローマ帝国)を攻略した。
ビザンティン帝国の国民や東方正教会の人々はカトリック側の動きに対して深い不信感を抱くようになった。この後に何度か試みられた性急な東西教会再統一の動きは、国民や聖職者の反対によってことごとく頓挫し現在に至っている。カトリックには、このことの原因を、フィリオクェ問題などの教義の違いではなく、第4回十字軍などの政治的な原因に帰す論調がある。
↓
十字軍は東方正教会(どちらかと言えばフルリよりのキリスト教)も攻撃しており、
ヒクソス的と考えられないか?
以下、ヘブライの館2から引用。
十字軍の暗黒史
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_ha/a6fha100.html
フランク王国(のちのフランス)の年代記者であるラウールは、第1回十字軍遠征の様子を、次のように記している。
「マアッラ(地中海に近い今日のシリア領)で、我らが同志たちは、大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった。」
「フランク王国に通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。ヨーロッパの人間たちは、勇気と、戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性で優れているのと同様である。」
一方、第1回十字軍遠征に従軍したフランスのある聖職者は、次のように記している。
「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長いあいだ冒涜をほしいままにしていたアラブの人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう“神の裁き”は正しく、賞賛すべきである。」
●また、それより前、第1回十字軍が誕生したばかりの1096年に、早くもラインラントでユダヤ人迫害が起こっている。ひどい暴力行為を行なったのはドイツ人集団だった。ドイツにおいて生まれた十字軍参加者は、その装備や資金ともに、遠路聖地へ向かうには全くもって不充分であった。そこで彼らは東方へ赴く前に、ライン河沿いの町にある豊かなユダヤ人コミュニティー(ゲマインデ)を次々と襲い、略奪と殺戮を重ね、異教徒征伐をすると同時に、資金、物資の調達をしたのである。
●このユダヤ人迫害が単に通りすがりの爆発的なものではなく、はっきりと意図的に行なわれたものであることは、次のことからわかる。つまり、十字軍兵士は元来東方へ向かうべくライン河に沿って東南の方向、すなわち河の上流へ向かって進むべきところ、逆に北の方向、ライン河の下流へ向かって進撃しながらユダヤ人コミュニティーを襲撃しているのである。
その最初の犠牲となったのが、ライン中流域の町シュパイエル(1096年5月3日)であり、次いで北方、下流へ向かってヴォルムス(同年5月18日と25日)、マインツ(同年5月28日)、ケルン(同年7月8日)、ノイス(同年7月14日、ジュッセルドルフに隣接した町)などの順で、略奪と殺戮が行なわれている。
その際、即刻洗礼を受けてキリスト教へ改宗しないユダヤ人は、女、子供の見さかいなく虐殺されたり、焼かれたりした。ユダヤ人たちはドイツ皇帝や司教の保護の名のもとに抵抗を試みたが、多勢に無勢でなすすべもなく、多くのユダヤ人は自分の家に火を放ち、財産もろとも焼身自殺をしたのだ。
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