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「俳句ダービー」?

159:2006/11/18(土) 04:45:22
日清戦争後、親露化した閔氏を、大院君と日本が暗殺。高宗は露大使館へ逃げ込む。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見

閔氏の政策への不満から、
1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。
1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。

驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請した。侵攻の機会を狙っていた清国は、
直ちに軍の派遣を決めた。それを見て、日本政府も軍の派遣を決定する。
閔氏は両国に撤退を要求したが、日本は1894年、清に宣戦布告した。

1873年、西郷隆盛を中心とする征韓論が退けられ、
大久保が実権を握る。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/gulfw-32.html
西郷隆盛は、明治維新政府を飛び出す前に同郷の仲間だった大久保利通に酒を注がれ、
「三井の番頭さん、ごっつあんでごわす」と皮肉たっぷりな挨拶を返したという。

この情報が正しければ、大久保路線は三井=マナセの線。
対する西郷も明治の中枢にはいたのでエフライムなのだろうか?

エフライム工房で「九州はアフリカに見立てられた」と述べられていたが、
長州の明治維新=プロテスタント革命に加担した薩摩は、
南アフリカ共和国に当たるのだろうか?

ともあれ、どちらにしても大久保らも朝鮮半島での武力行使を狙っているので、
西郷がエフライムかベニヤミンか、まだ未決。
1875年に大久保路線の日本は朝鮮を挑発。
1876年に日朝修好条規で朝鮮を開国させている。

その後、開化派は日本と、守旧派は清と組む対立の図式ができる。
2度の日清と朝鮮の二派の戦いと、天津条約を経て、
1885年、甲午農民戦争から日清戦争へ。

日本が有利なところで下関条約。
遼東半島の利権を巡って、ドイツ・フランス・ロシアの干渉により、
日本は遼東半島を清に返還している。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

日清戦争後、日清戦争の勝者である日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は力を失っていく。そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進めていき、7月6日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功する。

この親ロシアの動きが警戒され、1895年閔妃は暗殺された。
興宣大院君が日本の三浦梧楼が実行したのだろう。
自分の后がが暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、
1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。

この先、朝鮮半島を巡って、ロシアと日本が対立し日露戦争に繋がる。




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