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「俳句ダービー」?

158:2006/11/18(土) 03:58:29
清、日本、西欧列強。鎖国と開化に絡んで権力争い。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見

太祖・李成桂は仏門に帰依。

高麗(ベニ系?)の仏教か?

第3代太宗は厳しい廃仏運動。儒教に変わる。

やはり太宗で、高麗(ベニ)から大きく勢力が変わったようだ。

第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、
仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。
ただし、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。

世宗の最初の4年間は上王となった太宗が軍事権などを握り事実上政治を掌握していた。
太宗が1422年亡くなると、世宗の親政が始まる事になる。
ハングルの制定、議政府署事制など、世宗後期の政策が、
反両班的なものだった可能性を仮定しておく。
それで高麗の仏教に近づいたか?
3%の両班以外は、高麗人だった。
その後、一時を除き、李氏朝鮮での廃仏政策は完成する。

粛宗以降を簡略に追う。

日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張しているため争点となっている。

この後は、官僚の派閥争いとそれを抑える動きを基本に、
新たに流入してきたカトリックへの対応が党争の焦点となり、
1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄)が起き、攻西派が優勢になる。

1802年、金祖淳の娘が王妃になり、14歳の純祖が親政を始めると、
金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を取り仕切り、士林派による政治は終焉を迎えた。
官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの
横行が頻繁に起こるようになり、農民反乱が頻発するようになる。

安東金氏が力を握った時代に、
1845年にはイギリスの軍艦が済州島の海域に侵入。
1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧による抗議など、
西洋列強の干渉が始まる。

高宗の治世、興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、
有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による
農地の平等分与などを目指したが、
鎖国攘夷政策でフランス、アメリカ、カトリックと対立し艦隊と闘うなど、
経済的に困窮し、そこへ改革に不満を持つ両班の閔氏により失脚させられた。

大院君が失脚すると、閔妃は開国政策をとり、日本と江華島条約を締結する。
当時の朝鮮は、日米和親条約締結時の日本同様、万国公法や近代的国際関係に疎くこの条規が不平等条約だと理解していなかった。この条約の締結によって、李氏朝鮮は開国し、海禁政策(鎖国)は事実上終了した。引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。

開化政策に不満を持つ大院君などの勢力と、近代化に置き去りにされた従来の軍隊が、
1882年、閔妃暗殺をもくろんだが、閔氏清の袁世凱の力を借り返り討ちにした。
閔氏は大院君を3年間、清に幽閉し、親清政策への方向転換した。

日本の有力者と関係を深めていた、朝鮮の開化近代化派は、
閔氏の親清政策を不満に思い、金玉均は高宗を説得し、クーデター決行。
日本の協力のもと、閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。

しかし、わずか3日で開化派政権と日本軍は、袁世凱清軍の攻撃に敗退。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉は失望し、脱亜論を発表。
この後、1885年、天津条約で日清は、朝鮮における軍事顧問、駐留軍を、
双方取りやめ、朝鮮に派兵する場合の事前忠告義務を取り決めた。
その時点では双方が戦いを避けたわけだが、10年後、日清戦争が始まる。




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