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哲学・宗教質問箱
285
:
Sekko
:2008/01/20(日) 07:30:23
大切なこと
ここはカテキストさんのサイトでもなく、司祭さんや牧師さんや神学者のサイトでもないので、今大羊さんの関わっている信仰共同体で、何がどういう基準なのかは分かりませんし、私が答えることもできません。
ここで是非お勧めしたいのは、マルシェル・ゴーシェの本なのですが、今アマゾンで検索したら、何と、翻訳が1冊しか出てないようなのです。それも私のお勧めの本ではありませんでした・・・その本を読んでくださると話は早いのですが・・・私の今執筆中の本には解説するつもりなので、もう少し待ってください・・・
ここで大切なとこを押さえときますと、キリスト教というのは、やはり、イエスという人の思想に共感、というところから生まれた宗教ではないんですよ。
当時、思想や生き様に共感した人たちは、死に方にはがっかりしたんです。
その中からキリスト教がキリスト教として成立したのは、やはりイエスが復活したことと、それから彼を神と同格の「主」とみなしたところにあるわけです。
それに比べたら、処女懐胎とか奇跡とかは枝葉です。
で、三位一体で、神が受肉して人になって云々のディスクールですが、これは検証するとか証明できるような問題ではないわけですが、「これを受け入れた世界には何が起こったか」が興味深いところです。
それまでも、人間のいるところ、神とか聖なるものとかの感覚やそれを扱うシステムはどこにでもあったわけですが、そのほとんどは、「聖なるもの」が社会か自然かのどちらかに癒着していたんです。そのどちらにおいても、聖なるものと個々の人間の関係は、個人が聖なるものに従属するものでした。供物を捧げるとか人身御供とか・・・それが龍神さまの怒りを鎮めるためであれ、共同体の秩序のためであれ。あるいは、個人がその個人性を消して聖なるものにフージョンするとかいうイメージでした。
ところが、キリスト教は、神が先に自分の子=分身を人間に贈り捧げたということになり、神と人間の間の相互の「行き来」の関係性が生まれました。
そこで、神は、自然とか社会とよりも、人間と癒着しちゃったわけです。
それでキリスト教には、人間が神を通さなくても自然や社会を組織できるという予知が生まれたので、自然の研究とか管理の発想が生まれ、政教分離の発想も登場してきました。
もちろん、最初は、これでは当時のローマ帝国の秩序には合うはずもなく、壊滅しようと図られたのですが、信者は増えるばかりで、結局コンスタンティヌス帝は、この宗教を利用することにしました。それから1500年以上も、世俗の権威と宗教の権威が住み分けながら拮抗して並び立つ体制ができたんですね。
その中で、宗教の権威=教会も社会に干渉しようとしてきましたし、自然観にも干渉しようとしてきました。
教会は長いことこの癖がついてるので、いまだに世俗を従属させようとする部分もあります。
でも、こういう聖俗の権威同士の葛藤や煩悩にも関わらず、キリスト教は、「神が人間になった」という、そもそもの出発点はなぜか捨てなかったんです。まあ、捨てたらそれはもうキリスト教ではなくなるのですが。
それで、その細々とだけど強靭に受け入れられ手来た信仰のおかげで、自然の驚異もある程度コントロールでき、個人が共同体のいいなりにならずにある程度の自由を生きることのできる「近代文明」や「近代社会」が、キリスト教ヨーロッパに生まれたわけです。
私たちはその恩恵を受けています。
基本的人権とか、民主主義とか、信教の自由とかでさえ、キリスト教の持っていた、この「聖なるもの」と人間の主従関係をとっぱらった「開かれた相互関係」によって少しずつ可能になった成果なんです。
成果、それは弱者にとっての成果ですね。昔ながらの共同体でもその強い側にいる人はいいでしょう。でも、「賤民」に生まれちゃうとか、障害を持って生まれちゃうとか、時には単に女に生まれちゃうとか言うだけで、尊厳や権利を奪われる時代や場所はいくらでもあったわけです。
私たちは、今、アニミズムや汎神論的な世界の方が地球に優しいとか、村落共同体のほうが情があったとか言いがちですが、その中で、弱い者が搾取されたり犠牲に供されることは当然のようにあったわけで、たとえ環境に優しくて共同体のためになっても、私は自分が「龍神の生贄」に捧げられたりするのは嫌です。
こういう経過を鑑みるに、この時代のこの世界に生きることのできた私のような弱者にとっては、イエスという人の生と死が発展的に解消してキリスト教というものになってくれて、それが自由・平等・友愛とかいう近代ユニヴァーサル理念を生んでくれてよかった、よかった、って思うんですよ。
そして、歴史上の具体的なキリスト教権威者がどんな愚行をしたところで、元のイエスの生き方や思想にはすでにそういうユニヴァーサリズムが確かにありました。
だから、イエスのメッセージはそれ自体としても価値を持ち続けているし、その彼の生と死と復活を信仰告白としたキリスト教については、メッセージの内容より、それが開き、導き、可能にした関係性の方が大切だと私には思えるんです。
だから、進化論だめだとか神仏を拝むなとかは「よけいな枝葉」で、「イエスは神が人間の姿になったというのが大事」というのは、根幹ですね。
牧師さんのいうとおり、人間が蛆虫の姿になったとしたら、人間と蛆虫の関係だってラディカルに変わるでしょうね。その時点で、蛆虫は、忌むべき下等な存在ではなくなりますもの。
三位一体を分けの分からないこじつけと見るか、いろんなことの出発点になったキリスト教マジックと見るか、いろいろ考えてみてください。
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