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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

510やす:2010/11/04(木) 23:02:42
有時文庫
 近所に古くからあった古本屋さんの有時文庫の店舗が、ある日突然あとかたもなく消え去りました…。
 昨今の古書価暴落にあって、仕入本がお店中に積み上がり、終ひにはシャッター外に置き晒しになるやうになったのを見て傍目に心配してはをりましたが、もう一軒ある鯨書房と比べ、戦前資料への目配りやインターネットへの対応が遅れたのかもしれません。尤も近くに学校もあるのに、中高生が古本屋でもじもじするなんて姿も見られなくなりましたしね…。さきにレポートした新刊本屋の古本店進出と云ひ、諸行無常の世の中であります。

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511やす:2010/11/07(日) 22:07:11
曽根崎保太郎詩集『戦場通信』
 むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の『昭和詩大系』シリーズもあったが、戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁の)本を見つけるたび、一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。

 なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だったから、といふだけでは当たらない。詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬なカタカナ表記の殻を被った代物である。と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての事であり、内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ審判」に於いても、判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私には推察されるのである。

 この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふのは、復員後の詩人は、戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機会はなく、二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。

 同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へと旋回(後退?)していった彼と比べれば、若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構してみせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざるを得なかった詩人の宿命を思ふのである。

 私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と戦後の評価が反転するなど、戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」ではさらに、「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。

 さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へた。 公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (明日upします。)

【後日記 2010.11.14】
詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。

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512やす:2010/11/14(日) 22:30:29
腹有詩書氣自華
 わが書斎「黄巒書屋」へ詩集気狂ひに相応しい新しい額が到着。揮毫は明治官界の能筆家として名を馳せた金井金洞、後藤松陰に学を授かった人です。とまれ何とも嬉しい文句ではありませんか♪。
 もとは治平元年(1064年)蘇軾29歳の冬、地方官見習ひの任期が終はり汴京(べんけい:開封)に帰る途次、長安に立ち寄った時につくられたとされる「和董傳留別」といふ詩の一節で、不遇の旧友の奮起を願った送別の辞なんださうです。ですから「詩書」とはもちろん四書五経のことなんですが、近代詩集の書庫に掲げてもいい感じです(大ばか者です)。原詩を掲げます。


 和董傳留別    董伝の留別する(別れを告げる[詩])に和す

麤繒大布裹生涯,粗繒(そそう:荒絹)大布[粗末な成り]、生涯を裹(つつ)むも
腹有詩書氣自華。腹に詩書あれば気は自ら華やぐ
厭伴老儒烹瓠葉,老儒[老師]に伴ひ、瓠葉(こよう)を烹る[隠遁雌伏する:詩経]ことに厭(あ)き
強隨舉子踏槐花。強いて擧子[科挙の受験生]に随ひ、槐花を踏む[槐が咲く長安へ出て勉強した]
嚢空不辨尋春馬,嚢[財布]空しく、弁ぜず[(靴も買へなかった)虞玩之のやうに買へない]、春馬を尋ぬるも [孟郊のやうに「春風得意馬蹄疾:]とはゆかず、つまり落第して」
眼亂行看擇婿車。眼は乱して、行くゆく壻を擇ぶ車を看る[合格者の所へ婿入希望の車がおしかけるのを見る目は泳いだことだらう]
得意猶堪誇世俗,[しかし]意を得れば 猶ほ世俗に誇るに堪へん
詔黄新濕字如鴉。詔黄[黄麻紙に詔書を起草すること]新たに濕(うるほ)ひ、字は鴉の如き[黒々と立派]ならん

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513やす:2010/11/15(月) 13:03:00
daily-sumus
 リンク集に、博覧する好奇心を以て古本情報の日録を更新してをられる林哲夫様の著名なブログ「daily-sumus デイリー・スムース」を追加させて頂きました。江戸時代には抽き書きを以て随筆と呼ぶ慣はしがありましたが、「詩・書・画」の三絶ならぬ「古書・画・装釘」三絶に遊べる古本達人の浩瀚な読書録は、すなはち現代の随筆に相違ありません。ブログを通して感じられるのは、(夙に『ちくま』表紙のお仕事にて思ったことですが)、「本」が写真で撮られたり描かれたりすることによって、著者・装釘家の思惑を越へ、「その一冊が経てきた歴史」に敬意が払はれたオブジェに化してゆくといふ魔法、その過程と意味とをまざまざと目の当たりにしたといふことでした。

 このたびのきっかけとなりました蔵書画像の転載許可も有難く、伏して感謝申し上げます。

 ちなみに以下に拝借したのは、かつて紹介した「我が愛する版型詩集」のルーツであるらしい、フランスはラ・シレーヌ社刊行本の書影。「現代の芸術と批評叢書」はここからヒントを得たんですかね。何の本かわかりませんが検索したら似たやうな当時の書影がヒットしてきたので合せてupします。

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514やす:2010/11/19(金) 12:42:17
頼山陽の掛軸
 日本の漢詩のトップスターといへば御存知、山陽頼襄(のぼる)先生。村瀬藤城、太乙、細香、柳溪、松陰、百峰と、主だった美濃漢詩人たちの師でもあります。かつてはその書が頗る珍重され、掛軸一本で「家が一軒建つ」と云はれた時代もあったらしい。ですから当然にせものも多い、といふか多くが贋作だと聞きます。

 もっとも今となっては好事家の代替はりに伴ひ、価値は急落。頼山陽のみならず、日本書画界、特に「書」の値段は地に落ちてしまったといってもいいかもしれません。旧い母屋の取壊しに際して「ざくざく出てくる美術品」の暴落のさまは古本の比ではなく、しかも本とは異なり価値が分からぬまま「真贋いりみだれて」放出されるといふところが恐ろしい。そもそもなに書いてあるか読める人が居らん訳です。「代替はり」とは云ひましたが、それはつまり漢学の素養がある旧家の御隠居のたしなみが孫子(まごこ)に継承されてといふことではなく、二束三文で売り払はれたのちに、縁もゆかりもない私のやうな貧乏人のコレクションに収まるといふことであって、またその条件として、閉鎖的な骨董屋の顧客市場が、豊富にオークション出品されるインターネットの市場へとひらかれ、環境が整備されたことをも意味してゐます。鑑定の権威はオークション上に成立しません。だからこそ「蔵出しのうぶ物」を、己れの責任において落札するワクワク感があるといふこともできるのでせう。

 そんなこんなで夥しく出品されてゐる「頼山陽」でありますが、筆札を鑑定玩味する審美眼は勿論のこと、確(しか)とした印譜も資金も持ちあはせのない私のことですから、落ちたといへどそこそこには競り上がる代物を、画像で判断して買ひ取る勇気がない。テレビの鑑定番組を観てゐると、実に精巧な印刷ものもあるとのことであります。

 山陽の真蹟については、一昨年すでに「自筆の法帖」といふものを、牧百峰の跋文を信じて購入してゐます。ただ自分勝手に真蹟と思ってゐるだけで、肝心の落款がなかったため競争者も少なかったのでした。或ひはつまらぬ贋物をつかむよりはと、予めそれと銘打ってある素性の明らかな復刻ものを手に入れて喜んでゐた、のが去年の話。

 そんな私が今回色気を出してたうとう「掛軸」に手を出してしまひました。シミも折れもあったためか、敬遠して誰からも入札がなかったところを、「内容から判断して」思ひ切って初値で落札してしまったのですが、けだし贋物作者からすれば「内容から判断されるべく」本物らしく拵へるのは当たり前のことであり、詳しい印譜に照らせば真っ赤な贋作だったのかもしれません。

 で、昨晩届いたこの掛軸ですが、本人いたく喜んでをりますゆゑ、何卒冷水を浴びせるやうな証拠のコメントは御控へ頂きたく(笑)、興味のある方だけご覧ください。

515やす:2010/11/25(木) 22:46:21
「四季派学会会報」 / 「感泣亭秋報」
 國中治さまより「四季派学会会報(平成22年冬号)」をお送り頂きました。12pの会報ですが「立原道造特集」を設け、記念館閉館にともなふ残念さ、含むところも感じられる皆さんのコメントを興味深く拝読しました。
「収蔵者が代わるということは、展示場所や展示方法が変わるだけでなく、展示品そのものが替わるということだ。(國中治)」

 また小山正見さまよりは「感泣亭秋報」第5号の寄贈を忝くいたしました。先達てお送り頂いた小山正孝の稀覯詩集『愛しあふ男女』の非売復刻版(152部限定)に寄せて、感度不足の御礼しか申し上げられず気になってをりましたところ、今号巻頭には多くの犀利にして温かい書評がおさめてあるのを拝見し、あらためて勉強させられました。といふか、恋愛詩を勉強しないとわからないやうでは四季派失格であります。傘寿・卒寿を迎へられた先輩方がものされる強記溌溂の文章にも圧倒され、転載された吾が私信のぼんくら加減には、ため息をつくばかり。
 しかも今回『愛しあふ男女』の復刻記念一色の特集号となるかと思ひきや、前号に続く回想の寄稿をはじめ、あたらしく伝記的追跡の連載も二本並んで、今までで一番濃い内容になってゐるのではないでせうか。
 渡辺俊夫氏の「立原道造を偲ぶ会当時のこと(続)」のなかでは、詩人が鈴木亨氏と麦書房の堀内達夫氏とともに尽力したといふことが記され、一方「四季派学会会報」では錦織政晴氏の文章に、記念館の立ち上げについては逆に二者が杉浦明平氏とともに躊躇の側に立ってゐたことが指摘されてゐましたから、立原道造の顕彰をめぐって識者の立場が二様にあったことを初めて知ったのでした。
 後記の最後には、正見様による「小山譚水の「盆景」の、土の部分を(土壌学の権威となった)兄正忠が、空の部分を正孝が引き継いだと言えないこともない」 といふ評言が置かれてゐました。いみじき発想に感じ入ったことです。
 まだ全てに目を通してゐませんが、とりいそぎの御礼をここにても認めます。ありがたうございました。

 さて、四季派学会冬季大会のお知らせ、もしや流れてしまったのかとも危惧してをりましたが以下のとほり、今週末に行はれる由。先日96歳を迎へられた杉山平一先生御当人をお呼びしてのシンポジウム、楽しみです。

平成22年度四季派学会冬季大会
  日時平成22年11月27日(土)13:30
  大谷大学京都本部キャンパス1号館4階1405教室

【講 演】 「杉山平一 近代を現代に繋ぐ」  詩人 安水稔和氏

【シンポジウム 杉山平一を読む】
         司会 愛知大学短期大学部  安 智史氏
《基調報告》
「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握」 「PO」編集長 佐古祐二氏
「『ぜぴゅろす』と一篇の詩「桜」」 自在舎主宰  桜井節氏
「杉山平一の「詩的小説」を読む」 大谷大学 國中 治氏


「感泣亭秋報」(五) 目次 (2010年11月)

詩 愛しあふ男女 アルバム「愛しあふ男女」より 小山正孝2p

恋愛詩のパラドックス 小山正孝第三詩集『愛しあふ男女』を読む 高橋博夫4p
逃走の行方 詩集『愛しあふ男女』のために 渡邊啓史6p
光の輸もとどまつて 西垣脩(再録)18p
小山正孝の詩世界(4) 近藤晴彦22p

感泣亭通信【感泣亭秋報への返信】(到着順) 山崎剛太郎24p 神田重幸24p 木村和24p 中嶋康博25p 組橋俊郎25p 萩原康吉26p 布川鴇26p 岩田[日明]26p 馬場晴世27p 高橋博夫27p 高橋修28p

小山さんが貫いていたもの 伊勢山峻30p

回想の小山正孝
 関東短大時代の小山先生(続) 新井悌介32p
 小山さんの激怒 岩田[日明]33p

デッサン・感泣亭 宮崎豊35p


 黒一色の部屋の中では 大坂宏子36p
 「夕方の渋谷」オマージュ 森永かず子38p
 街 里中智沙40p

「立原道造を偲ぶ会」当時のこと(続) 渡邊俊夫42p
昭和二十年代の小山正孝(1) 小山−杉浦往復書簡から 若杉美智子48p
小山正孝伝記への試み(1) 出生から高校入学まで 南雲政之50p

感泣亭アーカイヴズ便り (小山正見)54p

516やす:2010/11/29(月) 22:12:58
四季派学会冬季大会 シンポジウム杉山平一を読む
 週末に開催された四季派学会冬季大会、詩人杉山平一の初のシンポジウムに、先生自らが同席されるといふことで、私も万障繰り合はせて推参しました。先生の謦咳に接して大満足のところ、國中治さん舟山逸子さんをはじめ諸先輩とも久闊を叙するを得、実に楽しく有意義な一日を過ごすことができました。
 シンポジウムでの発表は、身に引き寄せた親愛に溢るる読みを披露された桜井節氏の言葉に聞き入り、気鋭の國中教授からは研究の糸口となるやうなキーワードがいくつも提示され、杉山先生御本人を前にしての臆せぬ論旨には衆目の注視が集まりました。
 ただ少なかった参加者が、折角の機会に杉山先生の周りに集まらないのは、恐縮してゐるのか、私は最後にはちゃっかり隣に座り、後悔せぬやう発言までしましたけどね、学会だからでせうか。不思議でした。
 さうしてお持ちした『夜学生』にも署名を頂きました。思へば初めてお会ひした折にサインして頂いた本も『夜学生』でしたが、当時はカバー欠・線引きの並本。この度は失礼のない本で臨みましたが、先生「昭和」と書きさうになられてわたくし狼狽(笑)。これもまたよい記念となりました。講演ほか当日の様子はいづれ論集に収められることでせう。

 役員の皆様方にはお疲れ様でした。ありがたうございました。

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517やす:2010/11/29(月) 22:53:15
山陽、星巌両先生掃苔記
 さて当日は、朝一番の列車に駆け込み午前中に入洛、宿願だった梁川星巌先生夫妻を南禅寺天授庵に憑弔、点々とした住居跡をうろつき回り、四季派学会の散会の後は、古本先輩宅に一泊して、翌日曜日もふたたび長楽寺に頼山陽のお墓を訪ねて帰ってきました。山陽先生の塋域には頼三樹、牧百峰、藤井竹外、山田翠雨、児玉旗山といった錚々たる後進の墓碑もあり、また天授庵でも星巌先生の墓が簡単には分からず探し回ったお陰で、山中信天翁夫妻のお墓にばったり行きあたり吃驚したことです。といふか、そこら中が知らない「○○先生之墓」だらけなんですから(笑)。『漢文学者総覧』でも持ってゐれば、いくらでも時間つぶしができさうな感じです。最終回を迎へたドラマ「龍馬伝」の人気も重なったか、紅葉シーズンの東山は大変な賑はひだったのですが、維新の道筋に詩の灯火を掲げた文人達のお墓には訪れるひともなく、観光客とは無縁の閑散さが却ってよかったです。

 墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。山陽墓所はわかりやすいですが、星巌翁の奥津城に案内板はありません。新しい顕彰碑が据えられた横井小楠(沼山)の墓の隣にあります。

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518やす:2010/12/12(日) 06:27:53
『左川ちか全詩集』新版
 さて昨年『山中富美子詩集抄』を世に問うて詩壇の話題をさらった森開社から、今年『左川ちか全詩集』の新版が、実に27年ぶりに刊行されました。内容の充実を図る一方で、愛蔵に相応しい旧版に比して軽装とすることで価格を抑へ、また別種の意が注がれてゐるやうです。個人的には贅沢を極めた旧版が今回の改訂を以て無価値にならぬやうな、編集上の配慮を同時に感じることができた点が嬉しかったのですが、久しき絶版に対する愛好家の渇望を癒すべく、限定500冊は不取敢一般書店に並べられることはなく直接購読制で売り捌かれるといふことです。その一方で、図書館員の私としては今度こそ多くの基幹公共図書館には所蔵して頂きたいとも思ってをります。言はずもがなのことですが、この詩人こそ、本を案外買はない人種であるところの書き手としての詩人、特に現代の若い表現者に対して、今なほ古びぬ、スタイリッシュな訴求力をもって迎へられるものと信じるからであります。
 もとより彼女に限らず、モダニズム詩に限って「女流」などといふジャンルは不要でありませう。むしろ戦前の日本に於いては、少々乱暴な物言ひが許されるなら、「モダニズム」といふ概念自体が「ロマン派」と対峙したところの女性的概念のやうにも私は思ってゐます。その最良の感性といふのは、理論など持たぬ優れた若い女性たちの一握りによって、いつも軽々と表現されてきたのだと、そのやうに考へてゐるわけです。これはモダニズムを抒情の方便としか考へられぬ私ならではの偏見で、同様に外国では真逆のこと――「モダニズム」を男性的概念、「ロマン派」を女性的概念と思ひなして面白がってゐるのですが、果たしてそんな自分が彼女の詩をどこまで理解してゐるのか、といふより感じることができてゐるのか、といふ段になると、それは旧版全詩集に収められた「椎の木」追悼録で田中克己先生が書いてる以上に、性差にとらはれた、甚だ心許ない解釈に落ちることを白状せぬわけにはいかないのかもしれません。
 新版刊行に寄せた一言まで。詳しい書誌と購入方法はこちらの「螺旋の器」 ブログにて。

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519やす:2010/12/13(月) 09:36:50
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」
 林哲夫様より、この11月に終刊した文芸リトルマガジン「spin:スピン」1-8<2007.2-2010.11>を、なんと全8冊の揃ひで御恵投に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 各号に連載された「淀野隆三日記を読む」に早速目を通してをりますが、ひとへに林様の資料翻刻に係る労力が偲ばれます。自分もかつて師の創作日記に対し同じい暴露行為(?)に及んだことがあり、林様が47冊ものノートを前にした驚きと、これを活字に起こしつつ実感されたであらう、当にいま文学史的発見に唯ひとり立ち会ってゐるのだといふ感興が、びっしり埋まった誌面からは(自らの楽しかった苦労とともに)伝はってくるやうです。

 ノートの主である淀野隆三については、三好達治や梶井基次郎のパトロン的旧友、京都の商家のボンボンといふ認識しかなかったのですが、どうして、彼らと知り合ふ前の日記が赤裸々で面白い。生真面目な少年がたまさか出会ってしまった文学といふ魔性の人生指針。そのため理性と欲望は折り合ひがつかず、正義感と無力感だけがどんどんつのってゆく文学青年への転落過程が告白体で綴られてゐます。裕福で健康な少年が、花街が身近な環境で女中にかしづかれて育ったら、そりゃ純情であるだけ只では済みますまい。恵まれた者は恵まれた者なりに汚濁や坎穽に遭遇せざるを得ず、又ぬるま湯を自覚しながらそこから抜け出せぬ事情は、ひとり恋愛と性愛の二律背反にとどまらず、大正末期に興った左翼思想についても、(彼が生真面目なだけに)勝者階級に生まれた者として懊悩する己が姿をノートに叩きつけることになるのは、ある意味自然な成り行きだったかもしれません。

 そして「青空」同人からやがてプロレタリア文学〜日本浪曼派の人たちの名前まで入り混じってくる、後半に綴られた興味深い文壇模様。梶井基次郎や三好達治の才能をわがことのやうに喜ぶ友情をはじめ(彼は三好達治の結婚に際しても費用に至るまで細々と世話を焼いてゐます)、反対に林房雄、今東光、春山行夫、室生犀星、仲町貞子等には歯に衣着せぬ言及と、日記ならではの人物月旦は一番の読ませどころと云へるでせう。当サイト関連でいへば、

「人々は幸福を奪はれて行くその状態に於ける自身の悲しさを指して、そこに唯一のレアリテを見出してゐる様になった(コギトの連中)。何といふことか?」(vol.8:84p)

 と、自ら加担した左翼文壇の潰滅時にデビューしてきた後進世代のデスパレートな心情を評してゐる一節は嬉しかったです。けだし前述の田中克己日記『夜光雲』は重要な時期である昭和 7年前半の一冊を欠いてゐるのですが、この日記群にも、彼が左翼文芸に関った昭和5〜7年当時の日々の出来事を記した日記が(破棄されたのか書かなかったのか)存在しません。いったいに彼の私生活については、父祖との対決に係る記述が全冊にちりばめられてゐるのですが、――文科への進路、芸者との恋愛と、親不幸の度に激怒した父との間にはさらに壮絶な、非合法活動にまつはる骨肉の人情ドラマが繰り広げられてゐた筈です。しかし再び付けられるやうになった日記には、以前の悩み多き青年の面影はなく、思ひがけない逮捕によって晩節を汚すこととなった父との、負ひ目ある者同士の和解が、永訣が、この連載の最後を締めくくることになりました。それによりこの目玉企画に負はされた使命の一半が、不取敢果たされたと慶んでよいものなのかどうか。経済的理由で終刊することになった雑誌を前にして、思ひは複雑です。今後さらに翻刻が続けられるのか、また単行本化やネット公開も念頭にあるのか、遺族の意向もありませうが見守りたいと思ひます。



 まだ走り読みですが、ほかには「四季」「コギト」にも寄稿されたドイツ新即物主義文学の紹介者板倉鞆音を追跡した津田京一郎氏の研究(「板倉鞆音捜索」vol.2:27-43p)に注目しました。その昔、献呈した拙詩集に対し、視力の殆ど失はれたことを一言お詫びのやうに添へて返して下さった礼状を今も大切にしてをりますが、詩人の個人研究は嚆矢にして、抄出や参考文献に至るまでまことに貴重な資料と存じました。

「日常誰もが使うごくありふれた言葉でありながら、かように組み合わされみると、所謂写生でも写実でもなくなってしまっている…(中略)…この西洋史の不思議な描写力(奇蹟)の日本語における再現を徹頭徹尾追求すること、翻訳者の任務はこれ以外にないと考えている。」(vol.2:40p)



 そのほか雑誌詳細は「daily-sumus」ブログにてご確認ください。
 ありがたうございました。

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520:2010/12/17(金) 09:50:43
山陽、星巌両先生掃苔記
『墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。』

世の中には、同じ事を考えて実行する人がいるのだと、嬉しくなりました。
林哲夫・由美子ご夫妻と昵懇にさせて頂いてます。

http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/

521やす:2010/12/17(金) 17:14:17
(無題)
 柳居子さま、はじめまして。
 実は山陽翁のお墓へは翌日に思ひ立ち、下調べなしに行ったものですから、牧百峰・藤井竹外先生らが眠っていらっしゃるとは知らず、一束の花を使ひまはして(汗)お祈りさせて頂いた次第です。
 林様の博覧ブログとはちがって極めて守備範囲の狭い偏屈者のサイトですが、今後とも御贔屓に頂けましたら幸甚に存じます。よろしくお願ひ申し上げます。

522やす:2010/12/30(木) 13:13:47
今年の収穫から。
兼子蘭子『躑躅の丘の少女』平成22年 (堀辰雄に師事した閨秀作家の遺稿集。新刊)
『山中富美子詩集抄』平成21年 (新刊。また同刊行所より『新版左川ちか全詩集』平成22年。)
高島高『北方の詩』昭和13年 (ボン書店末期の刊行書。)
小林正純『温室』昭和16年 (『田舎の食卓』とはほぼ同装釘。)
頼山陽『山陽詩鈔』天保4年 (やうやく購入?)
大沼枕山『詠物詩』天保11年 (処女詩集の再刷、嘉永二年玉山堂梓行。奥付なく見返しに表示の『附 梅癡道人』一冊を欠けるか?)
宵島俊吉『惑星』大正10年 (ひととなりが伝説だった若き日の勝承夫の行跡を示した一冊。)
宮澤賢治『春と修羅』大正10年 (田村書店に格安本をお世話頂きました。)
谷崎昭男編『私の保田與重郎』平成22年 (回想文の集成。新刊)
山崎闇斎『再遊紀行』万治2年 (蔵書最古記録更新。)
村瀬藤城 "岐阜稲葉山" 掛軸 (これは郷土の御宝でせう。)
西川満『媽祖祭』昭和10年 (装釘狂詩人の精華。)
『青騎士 No.3』大正11年 (名古屋モダニズム黎明期の稀覯雑誌。)
良寛禅師座像 昭和2年 桝澤清作、相馬御風箱書 (オークションで思はぬ僥倖。)
曽根崎保太郎『戰場通信』昭和15年 (戦争文学とモダニズムとの実験的融合。)
小山正孝『愛しあふ男女』復刻版 平成22年 (原本は戦後を代表する稀覯詩集。)
金井金洞 "腹有詩書気自華" 額  (今は和室に掲げゐたり。)
頼山陽 "莫咲先生不解曲" 掛軸 (破格で入手できた真蹟。と思ひこんでゐる。)
小野湖山『湖山樓詩鈔』嘉永3年 (初版らしい。)
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」 (いづれ単行本になる予定も。)
河崎敬軒『驥虻日記』文政3年 (『菅茶山』を読んでたときに手に入れてゐたら…。)

読んでない本が多く著者に申し訳ない。といふか、味読できるやうに早くなりたいといふのが本音ですね。
一番嬉しかったのは勿論『春と修羅』と、それから本ではないですが良寛禅師座像でした。

みなさま良いお年を。

523やす:2011/01/01(土) 16:33:39
年頭感懐
 古来五十ともなれば「知命」、「人間五十年」、また「年、五十にして四十九年の非を知る」
などと色々に申す由。けだしこしかた半百年、我とわが身の周りに突きつけられし無常のさま
に、ただ驚き悲しみ恐れ居れり。あるひは「四十五十にして聞ゆる無きは是また畏るるに足らざ
るのみ」とも申すとか。畏るるに足らざる者には、天命も下したまはざらん、されど人として、
思ひやり、肚をつくり、ユーモアを解す、この他に知るべき事の何かはあらん、などとひとりご
ちて、ささやかなる新年の祝杯を引けり。             先師生誕百年の元日に

ことしもよろしくお願ひ申し上げます。

524やす:2011/01/04(火) 23:27:15
はつはるに白兔の伝記ひもとけり
 年末年始もボソボソ読んできた梁川星巌翁の伝記ですが、やうやく前編を読了しました。特に翁の最晩年となる安政五年の事跡については、それまでの文人墨客の交遊関係を綴る伝記とは大きく様変はりし、明治まで秘匿されてゐた遺稿『籲天集』から尊王攘夷に彩られた慷慨詩編が紹介される辺りから、一介の宗匠詩人の生涯は、政治の裏舞台を暗躍する熱血に彩られ、変貌して参ります。これを裏付ける資料も、詩集以外から採られたものにかなりのページが割かれてゐて、生き残った志士の回想や書翰(特に佐久間象山と吉田松陰からの手紙が長い)、および事件処理のために残された供述調書(申口書)ほか、一様ではありません。東西日本を遍歴して名声の頂点に上り詰めた老詩人が、やがて「悪謀の問屋」「今度の張本第一なる者」と目されるまでに至った経緯は、その後の結果が分かってゐるだけに痛ましく危なっかしく映ります。その動機も社会転覆を謀るといふより純粋な詩人的熱情のなせる「諫言」が主目的なのですから、弾圧に当たった幕府側にしても、例へば寛典派で星巌にはかつて添削も請うたこともある間部松堂との会見が入京前にもし大津で実現して居たら、大獄の処断はこんなにも陰惨になっただらうかと思ってしまひます。

 心が痛むシーン(もはやシーンと申していいでせう)といふのは幾つもあるのですが、ひとつは志士でなく学者だった人々の動向でした。京摂一番の儒者と星巌に信頼されながら、大獄前に謹慎これ努めて極刑を免れた春日潜庵、彼が星巌へ当てた苦衷を滲ませた挨拶の書簡や、「反逆の四天王」の一人だった池内陶所が、かつて『酔古堂剣掃』を共に編纂した同志、頼三樹三郎の手跡をお白州で証したといふ供述記録。なかなか苦いものがあります。一方、学者とちがって詩人とは云へば、三樹三郎にしても星巌にしても(結局は助からないのですが)どこか楽天的で抜けてゐるやうに映る。三樹三郎は吉田松陰同様の図抜けた詩人ぶりで、育ちの良さや支援者の多さにも拘らず、科せられた罪の重さが大獄の陰惨さを象徴するものとなってゐますが、大獄直前に病没した星巌翁は、吉田松陰の内命を帯びて間部侯襲撃に上京した久坂玄瑞を百方諭止したといふ条りなど、実に歴史の危機一髪を物語るやうな(これは著者である伊藤信氏の手柄ともいふべき、関係者から得た証言らしいのですが)、世故に通じた重々しい判断をなしてゐる。ところが間部閣老には談判すれば真情が通ずるだらうと詩を二十五篇も作って、実はカードはそれだけだったり、見舞客にコレラの出所と噂された鱧を食ったことを注意されると「旨かりしなり、なかなかコロリには非ず」なんて気丈に話してて翌日死んぢゃふなんてところは、どうなんでせう。さうして三日後に明治維新の遠因となる捕縛が始まるわけです。

 安政の大獄といふのは、幕末ドラマファンにとっては、(志士たちの最初期の面目について興味深い報告に富んではゐても)あくまでもドラマの前史といふ位置づけなのでありませう。しかし物語がここで終焉する私にとっては、出てくる名前名前を片端から検索しながら、大獄に遭った人、免れた人、そして大獄を科した人、彼らが辿ったその後の運命について、ネット上で閲覧を繰り返しながら、あれこれと道草の思ひを馳せる処なのでありました。さうしてこれが戦前の著作であることを同時に考へたのでした。この本は、幕末の反体制思想が成就した結果の世界から、その黎明期の功労者にして最初の犠牲者となった郷土の偉人梁川星巌の功績を顕彰しようといふ結構を有してゐます。しかし今の日本には「帝の国」といふ世界観は喪はれ、尊王攘夷のスローガンなども、時代遅れの国粋主義としか捉へられなくなってしまひました。仕方のないことですが、実はこれらふたつの評価の向ふに、詩人が生きた時代の真実があったんだらう、さう思ったのは、頼山陽の時代を再評価した中村真一郎や富士川英郎の詩史観の延長上に、発せられるべき真っ当なリクエスト(要求)として、非常な新鮮を以て私に訴へかけてきた星巌翁の生きざまによるところでした。本書を資料にものを書かうとする現代の作家達を、時に辟易させる大正時代の伊藤先生の口吻ですが、鴎外の史伝『北條霞亭』と同様、むしろここは著者の最も個人的な思ひ入れを大胆に付して「星巌生涯の末一年」とでもして章をあらためて書いたら、もう少し星巌翁本人に近づき得たのではなからうか、さう思ったことであります。

 星巌翁の最期にまつはる証言から以降は、詩壇の後輩達による弔詩の数々、大獄事件の後始末を受けて、歴史の表舞台から退いていった寡婦紅蘭女史の面目を示した回想やその後の世過ぎに筆は移ってゆきます。有名な紅蘭未亡人と暗殺前の佐久間象山とのやりとりなども収められてゐます。面白かったのは紅蘭が出獄に際して占ったところ

「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終(つひ)には吉。」

といふ卦が出て、これがどうやらおおきにウケたといふ条り、まねかざるの客といふのはもちろん取調官のことかもしれませんが、出迎へにやってきてくれた鳩居堂主人ほか、気の置けない支援者弟子達のことと解すると、旦那に劣らず磊落な女将さんの人柄が伝はってくるやうであります。

 この年末年始の閑暇を以てゆったり読書ができたことをあらためて感謝します。私からこの伝記に新たに付け加へ得る報告としては、昨年書きましたが、生前に企図された最後の詞華集『近世名家詩鈔』巻頭にあった翁の名が、大獄の諱忌を以て一旦削られたといふ小事件、そしてこれも昨年展墓して発見したことですが、星巌夫妻の墓の高さが、実は建てられてから途中で女史の方だけ低く変へられてゐたといふ、なんだか可笑しいやうな事実についての報告、不日まとめて読書ノートの連載にも付したいと思ってをります。

525やす:2011/01/09(日) 18:47:50
墓参記
 先週の後半1/5〜1/7は新潟県に出張。昨年家宝となるやうな有難い銅像を得た機縁もあり、その日の仕事を終へて宿に帰る途中、長岡郊外の隆泉寺まで初めての良寛禅師の展墓を敢行しました。「敢行」に相応しく(?)底冷えのする曇天の下、当日1月6日は禅師の祥月命日だったのですが、夕刻の境内周辺に観光客らしき人影は皆無、供花もたった二束といふ実(まこと)にさみしい命日に立ち会ってしまひました。町ぐるみの法要が半年遅れで行はれる由ですが、しんみりした憑弔は、しかし星巌翁の時と同じく却って心に期するところ深くして帰ってくることができたやうに思ってをります。
 さうして出張の帰途にはもう一基、今度は東京で途中下車して田中克己先生の霊前に一週間早い墓参り。こちらは「生誕100年」の御挨拶です。

 数珠を持参しては何かと余禄に与った出張に「感謝」の週末でした。

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526やす:2011/01/10(月) 23:45:45
収穫報告ほか
 さて週末土曜日は神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。
まづは大沼枕山門下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。

 山を出ることを勧む人に答ふ

風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。
山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。
葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。
鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。

 昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限定300部の稀覯本ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並べて写真を撮らせて頂くことを忘れたのが残念でした。)
 おなじく格安で購入した『新領土詩集』もモダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジーの一冊。『四季詩集』『コギト詩集』『歴程詩集』『培養土(麺麭詩集)』とともに昭和16年に刊行されてゐます。今回「耳付き詩集」と共にわが書棚で「揃ひ踏み」を果たしましたが、ネット上ではカバー付き刊本であることが却って祟ってをり、やっぱり稀覯本らしくもなく複数冊が稀覯本価格でヒットします。

 かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に催された大学図書館研修会で広報担当者が宣伝してゐたことを繰り返しますが、今年は国立国会図書館「近代デジタルライブラリー(ネット上の公開資料)」の進捗状況に目が離せません。「現在は主に大正期と昭和前期刊行図書の拡充を行っております。」とのことですが、デジタル化のネックとなってゐるのは主に「序文跋文の執筆者に関する著作権」といふことです。これについてどうチェックが進んでゆくのか、そんなもの削ってでも所謂「幻の稀覯本」と呼ばれてきた本は先行ネット公開して欲しいところですが、「提供された情報により収録可能」ともなるやうですから、或は私達が著作権に関する情報を積極的に寄せ、本来著者の意思(遺志)を非営利に表明してゐる詩集分野でのデジタル化とデジタル公開をどんどん求めていったらいいのかもしれません。さすればテキスト封印を盾とした一部の古書価格は瓦解しませう。原質としての詩集の価値がネット公開によって(増すことはあれ)減ずることはなく、あらためて内容と装釘に即した価格が付け直されて、書物愛好者の間に行はれることになる筈です。また漢詩集の場合はすでに「江戸期以前の和漢書約7万冊」が平成23年3月までにデジタル化が完了してしまふ予定らしく、こちらはいつネット公開が開始されるのか、(さきの近代ものについても、デジタル化=即ネット公開といふことではないらしいのですが)待ち遠しいところです。拙サイト上の公開コンテンツも、その有用性や進め方について今後再吟味が迫られることになるかもしれません。

 さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎様から送られた『菱』172号。追って御紹介したいと思ひます。

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527やす:2011/01/12(水) 09:54:01
『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回
 手皮小四郎様より『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。

 最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』の掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。

わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひたすために……野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いたneptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。
「椎の木」2年11号1934.11

 彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびます。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられます。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞれの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝記資料は確保できませんからね。

 今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へらてゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」されなかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。
 昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であったこと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子にはなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかった筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなかの配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。
 その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

528やす:2011/01/20(木) 22:45:08
山田鼎石の墓
 昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。

 岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうです。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どうなってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったのでありました。

 星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。

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529やす:2011/01/21(金) 05:57:32
『桃の会だより』三号
 折りしも山川京子様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。

 巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足すことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。

 徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常にふたがる思ひです。

ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

530史恵:2011/01/25(火) 22:52:18
(無題)
突然の訪問失礼いたします。

私は北海道在住で、こちらのホームページを見つけて、管理人さんにお聞きできればと思い投稿させていただきました。


私の亡くなった祖父は荒谷七生といい、生前ぽつぽつと詩や郷土史研究をしていたようですが、私自身は祖父の本を見たことがありません。


唯一伯父(祖父からみると息子)が自費出版した方言集のみ、祖父の死後読みました。


詩を書いていたのは古い話しですし、それこそ自費出版ぐらいしかできなかったのかも知れませんが、ネットで祖父の名を探してみました。


それでこのホームページに祖父の名と作品集の文字を見つけた次第です。


この目録にあるものは入手可能なのでしょうか。それとも、どこかの蔵書になっているなら、直接そこに連絡を取ってみようかとも考えています。


祖父の長女は私の母で、ぜひ手に取ってみせてあげたいと思っています。


祖母も同時期に亡くなり、祖父の作品を知る機会もなく手元にはもうないので、ぜひ一度読んでみたいのです。



唐突で本当に申し訳ありません。何か情報がいただければと思い書きました。

531やす:2011/01/26(水) 00:00:13
レファレンスありがたうございます。
 はじめまして。レファレンスありがたうございます。
 本来メールで頂けるとよかったのですが、アドレスがわかりませんのでこの場で回答させて頂きます。

 拙サイトに情報を掲げてゐる阿祖父様の詩集『おのが軍書』『小さな教室』『雪國天女』は現在国会図書館に所蔵がございます。マイクロフィルム化されてゐるので東京まで出向いていっても現物は見せてもらへませんが、郵送でコピーをとることができます。
http://opac.ndl.go.jp/index.html (一般資料の検索/申込みボタン)

 個人で利用者登録するのが面倒な場合は、お近くの公共図書館経由で郵送して貰ったらよろしいでせう。料金は一枚35円+送料梱包料が掛ります。留意しなければならないのは著作権者継承者(伯父様)の承認があることをカウンターを通じてうまく伝へないと著作権法の制限によって、コピーは半分しかとれないといふことです。直接伯父様から依頼される形にするのがよいでせうが、くれぐれも注意して下さい。
 『小さな教室』と『雪國天女』は道立図書館にも所蔵があるやうですが、『雪國天女』はネット上の古書店(日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/public/book/detailsearch.do )に現在3冊在庫がありますから、値付け直されないうちに一番安い一冊を購入し、『小さな教室』は『おのが軍書』と一緒にコピーを申しこんだらよいのではないでせうか。
http://www.kosho.or.jp/public/book/detail.do?tourokubi=B3CFFCF1CC0FBAE3260EFB6E68DA8AF9D2CB0F60AA7D1CD3&amp;seq=1889&amp;sc=5CF60044E458CF87C036DA8DE735CD16

 以上、生もの情報を含みますので取り急ぎ回答申し上げます。幸運をお祈り申し上げます。
 ありがたうございました。

532史恵:2011/01/26(水) 19:32:17
(無題)
こんばんは。
情報ありがとうございます!


すぐにお返事いただき、大変感激しています。祖父死後13年、急に思い出したのは何故なのか自分でも不思議です。


自費出版をしてくれた伯父も4年前に亡くなっており、手に入ったらお仏壇の祖父母と伯父に報告したいなと思っています。


また進展ありましたら、管理人さんに報告させてくださいね。本当にありがとうございます。

533やす:2011/01/27(木) 12:10:12
(無題)
本の外装と奥付の画像などメール添付で送って頂けましたら「詩集目録」に掲げさせて頂きます。ことにも処女詩集は地方の私家版出版の珍しい本だと思ひます。
レファレンスありがたうございました。

534やす:2011/02/01(火) 10:13:29
「朔」170号
 圓子哲雄様より「朔」170号の御寄贈に与りました。まことにありがたうございました。
 堀多恵子氏・三浦哲郎氏の追悼文は、いづれも真情のこもったものながら、山崎剛太郎氏がこれまでの長い思ひ出から、己が師の未亡人に対する尊敬に慊らぬ懐かしさを綴られた一文、堀門下唯一の生き証人であることにあらためて感慨を深くするものです。
 それから私は作品をひとつも読んだことが無いのですが、圓子様が旧くは高校時代のクラスメートだった三浦哲郎氏に寄せられた回想は印象深く、ハンサム・利発・力持ちで人気者だった“華ある”三浦氏から、地味だが鉄棒の国体選手にも選ばれた圓子さんが内心「男」としてライバルと目されてゐたらしいエピソードや、そののち20年もしてから奇しくも両者共通の師であることが判った詩人村次郎氏を挟んで、当事者にしか窺ひ知れぬ曰く言ひ難き三者の心持と事情を語った条りは実に興味深く、殊にも文壇に出た三浦氏から、
「製作しても発表しない生き方だと言いながら、遠くから現代文壇を批評するのは間違えている。沈黙を守るべきだ。矛盾している。」
 と村氏へ言ひ放ったといふ指摘は、もはや「師」に対する物言ひといふより凌駕しつつある「先輩」に正対しての堂々たる批判には違ひなく、手痛い指弾を受けた師の反応を敢へて包み隠さず書き留められた圓子様の、弟子を自任し続けた生き方と並べて同時に感じ入ったことでした。
 他にも天野忠の詩業を概括した小笠原眞氏の評論、小山常子氏の回想を興味深く拝読しました。一体に抒情詩人といふものは最初の詩集で全てが決まってしまふものですけれど、壮年以降に一皮向けた花を咲かせる苦味の利いた詩人の系譜が示されることに、今日的な意義を感じます。

 ならびに今回は、圓子哲雄様の短編小説集『遠い音』の御寄贈にも与りました。小説を読みつけない私の語るところではございませんが、あらがじめ刊行を前提とのことなれば、遠い日のスーベニールの再録ではなく、戦争を題材にしてゐるのですし、もっと手を入れて、詩人の手になる後日の問題作・奇書とも名づくべき「一冊の本」として趣向をこらされたらといふ気も致しました。皆様の意見はどうでありませう。

 ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

535やす:2011/02/07(月) 23:15:05
新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』
 長らくオークション上に晒されてゐた『五つの言葉』 (昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。

 さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。
古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むなしく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。

 けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品でしたが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。

536やす:2011/02/16(水) 20:49:17
文字化け
外部の方より、サイトのあちこちが文字化けで見られない旨、指摘を受けました。
詳しい人に尋ねましたところ、Windowsをアップデートした際に起きるらしく、私のWebページの作り方にも原因があるやうですが、次回のアップデートで「回復する予定」だといふことです。ご迷惑をおかけします。2011.02.22更新情報

537やす:2011/02/21(月) 23:27:46
田辺如亭宛神田柳溪書簡
出品者がそれと知らずに「村瀬藤城の手紙ではないか」と出してゐたオークション、寝過してうっかり入札の機会を逸しました。なんたる不覚、幸ひ画像は不完全ながら全文公開されてゐましたので、読めるものなら読んでみたい文献であります。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000695.jpg

538やす:2011/02/28(月) 12:34:39
Twitter
細かい更新記録はTwitterでつぶやくことにしました。
よろしくお願ひ申し上げます。

539二宮佳景:2011/03/09(水) 02:51:11
広告をお許しください
鼎書房より、4月上旬刊行の予定です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000697.jpg

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540やす:2011/03/13(日) 02:37:07
(無題)
二宮佳景様、広告ありがたうございます。
六草いちか様、舟山逸子様、御著ならびに雑誌をお送り頂きながら、昨日来のニュースの大きさに心奪はれ、手につきません。
八戸の圓子哲雄様ほか、被災地区の皆様の御無事を心よりお祈り申し上げます。

541やす:2011/03/25(金) 09:37:55
<<このたびの大震災について>>
 2万人を超える犠牲者はもとより、20兆円に上るとも謂はれる復興資金、原子力発電所の是非、全国の海岸線の防潮や避難所の移動、さらに根本的には「日本の田舎をどうするつもりなのか」「電力浪費社会を今後も続けてゆくつもりなのか」といった問題を、このたび起こった大震災は私達につきつけてゐます。

 「何でも忘れやすい日本人」ですが、世界を取り巻く現在の日本の政治・経済状況でこれらの問題に向き合へば、おそらく忘れたくとも逃れられないことがこのさき分かってくると思ひます。さうして歴史的な危機・転換点は、政治・経済の上だけでなく、文化においても現れてくるのではないでせうか。

 このたびは世を挙げての節電の呼び掛けも、電車や病院をまきこんだ計画停電を避けることができませんでした。原発の是非は措くにせよ、不要不急の電力を規制して停電を回避できないでゐるのは政治家の怠慢であり、その関係業界の利権に屈服の様は正しく「政権の内部被爆」と呼ぶべき醜態です。これを正直に伝へることのできないマスコミにも同様の「そら恐ろしさ」を感じてゐます。しかし突き詰めていけば「日本の田舎は再生されなくてはならない」「電力浪費社会から脱却しなければならない」といった、人としての生き方の問題である訳ですから、これを正してゆくことができるのは、やはりマスコミの一翼を担ふ芸術、文学の分野であるとも信じてをります。

 「自粛」ではなく「意識改革」。今後、震災をきっかけに、「お金があるなら何をやっても自由」といふ、戦後民主主義が担保してきた日本人の思考が、一人ひとりの自覚において根本的に改まることを切に望みます。

 被災者の皆様に慎んでお見舞ひを申し上げます。



 文学の掲示板ですが、今回の大震災は、詩文学に多大な影響を与へた「明治維新」「大東亜戦争」同様、日本の在り方を見つめ直す「国難」であるとの思ひから、サイトのスタンスを示させて頂きました。政治的なレスは不要です。

542やす:2011/04/04(月) 19:27:00
新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』
 森鴎外の短編小説『舞姫』(1980初出)の題材については、若き日の文豪のベルリン留学中の恋愛に係り、ヒロイン「エリス」の実像が小説を地で行く噂話として度々取り沙汰され、諸説は紛々、1981年に発見された乗船名簿からたうとう「エリーゼ・ヴーゲルト」といふ本名までは明らかにされたのですが、その人物像については、鴎外の没後になってから、妹小金井喜美子による「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けてゐる、哀れな女」であったといふ証言、また子どもたちからは、体裁を重んずる家族からの伝聞や、古傷をいたはるやうな父のさびしげな横顔が、思ひ出として報告されてゐるばかり。鴎外自身はこの顛末について一切を語らず、そして彼女からの手紙など一切を焼いて死んでしまったために、最も身近な関係者であった妹からの、最初にして止めを刺すやうな「烙印」が定説としてそのまま今日に至ってゐる、といった状態だったやうです。

 このたびの新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の意義は、もはや証言からは得られなくなった100年以上過去の外国人の人物像を、学術論文顔負けの実証資料により浮かび上がらせながら、同時にそれが退屈なものにならぬやう、現地の地理・文化史を織り交ぜたスリリングな「探索読み物」にまとめ得たところにある、といってよいでせう。綿密なフィールドワークと軽快なフットワークを可能とさせたのは、もちろん著者がベルリン在住のジャーナリストであったから、には違ひないのですが「今にも切れてしまいそうで、けれども時おり美しく銀色に光って見える」まるで蜘蛛の糸のやうな手掛かりに縋った探索行は、資料のしらみつぶしに読者を付き合はせるといふ感じは無く、まるで知恵の輪が偶然解かれるときのやうに、徒労に終ったどん詰まりの先「本当に諦めようとしたところで何かが見つかり、また先に続く」謎の扉の連続のやうなフィールドワークとして再体験されます。歴史に完全に埋もれやうとしてゐる一女性の正体に肉薄しようとする意味では、も少し豊富な材料があったらいづれ小さな一史伝と成り得たかもしれません。といふのも、これを彼女に書かしめたのは、学術的好奇心といったものではさらさらなく、晩年の鴎外が前時代の書誌学者に感じたと同様、自らの一寸した特殊な境涯が縁となって知ることを得た、時代を異とする市井の一人物へのそこはかとない人間的な共感の故であるからです。

 そもそも小説に描かれた内容を実人生に擬へ混同すること自体、非学術的といっていいでせう。しかしあのやうな人倫破綻の告白がどうして書かれるに至ったかといふ疑問には、出発したばかりの作家生命を賭した生活の真実が隠されてゐるに違ひない、さう直覚した著者によって、封印された悲劇の鎮魂が、記録を抹殺された女性の側から、資料の積み重ねによって図られることとなり──これが小金井喜美子と同じ日本人女性の手でなされやうとするところにも意味はあるのではないでせうか。学術的な論文ではなく、また空想がかった小説でもなく、世界都市ベルリンの世紀末からユダヤ人迫害に至るまでの文化史を、当地に実感される空気とともに織り交ぜて楽しむドキュメンタリーとして、普段の仕事と変りない視線から語られるレポートの手際は見事としか言ひやうがありません。ために、先行論文は虚心坦懐に吟味され、敬意が払はれ、また臆するところなく間違ひも指摘される。耳遠い文語体を口語体に直す配慮も親切の限り。さうして読み進んでゆくうち、読者は「鴎外の親戚でもエリーゼの知り合いでもない私(著者)が、ベルリン在住の地の利を活かして」行なった調査の結果、その「どれが欠けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかった」舞姫の秘密に、最後の最後、共に立ち会ふことになるのです。

 奇跡的な発見の結果は、著者に当時の日本の文学者や高足のだれひとりとして予想できなかった、ペンネーム「鴎外」やその子どもたちの名付けの謎解きにも、蓋然性ある推理で挑戦させます。またそんな奇跡にこの度はどこかで私も関ってゐるらしく(笑)、ぜひ皆さまにも読んで頂きたく、御寄贈の御礼かたがた茲に一筆広告申し述べます次第です。

 六草いちか様、本当にありがたうございました。御出版を心よりお慶び申し上げます。

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http://

543二宮佳景:2011/04/13(水) 02:48:25
淺野晃詩文集
遂に刊行されました! 装丁がなかなか素敵ですね。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000701.jpg

544やす:2011/04/14(木) 00:30:24
(無題)
承前

 また山川京子様よりは『桃の会だより』4号を拝受しました。冒頭このたびの大地震について、感懐が述べられてをります。
 礼状にも認めたのですが、私はこの度の震災における天皇陛下の新聞記事が、まるで普段の皇室ニュースのやうに小さかったことに少なからずショックを受けてゐます。新聞各社は、甚大な被害はあれ、この震災のことをやはり一災害としか認識していないのではないか、でなければ、かくまで軽く日本国の象徴を扱ふやうになったか、といふ慨嘆です。
 天皇陛下のビデオメッセージを唯一表紙に掲げた新聞がありましたが、後日の避難所御訪問の記事が、他社よりも小さく縮こまってをりました。すなはち第一面報道にクレームをつけた国民が少なからずゐたか、もしくは他紙を意識して社内で「自己批判」した結果でありませう。「国難」はすでに国民の意識の上で進行中の出来事であることなのかもしれません。

 さて「共産主義」と「大東亜戦時体制」といふ共同体参画運動の陣頭に立ち、20世紀最大の「国難」に立ち向かはんとするも悉く挫折し、自己反省と斃れた同志への鎮魂の思ひを詩に託し、長い戦後の余生を市井に隠れて送った評論家・詩人、浅野晃。その詩文集がたうとう刊行されたとのこと。二宮様、画像の御紹介をありがたうございます。

545やす:2011/04/14(木) 00:33:05
『菱』173号 『椎の木』の内部事情
 「モダニズム詩人 荘原照子 聞書」連載中の手皮小四郎様より、『菱』173号を御寄贈頂きました。ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

 稀覯詩誌『椎の木』については、昭和7年に再刊されモダニズム色に染められた「第3次」以降の復刻版がなく、閲覧したことも殆どないのですが、「山村酉之助VS乾直恵・高祖保」といふ、若手編集方に確執があったなど、斯様な内部事情が語られたものに接するのは初めてだっただけに、大いに昂奮しました。

「山村酉之助というギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子が大阪に居て、これが第三次『椎の木』の編集者になった。費用の問題で・・・。ブルジョワだったから。それで百田さんの編集の助手みたいなことをしていた高祖(保)さんが、半分は面白くなくなって、まあ『苑』を自分がやり出したわけだな。
『椎の木』のアンソロジーに『苑』というのがあった。この『苑』を、私達(『椎の木』から出た者)に呉れて、椎の木社から出してくれた。百田さんは度量が広くて、偉い!」

「春山行夫あたりが行動主義を唱えだした。これに山村酉之助など『椎の木』の人たちが引っ張られていった。春山の人民戦線にだ。江間(章子)さんもそうだった。それに対して高祖さんが、詩の純粋性、純粋性と言い出して、ぼくたちは絶対に人民戦線に引っ張られないようにしようと言った。あの時は、すさまじかった。」

 『椎の木』から分裂してできた月刊『苑』や「春山行夫の人民戦線」など、手皮さんが訂正される通り、たしかに思ひ違ひがあるものの、これまで誰も残してこなかった当時の雑誌をめぐる「気分」について、問へば問ふだけどれだけでも口をついて出てきさうな彼女の証言が、実に貴重で興味深い、といふか「面白い」のです。これは偏へにインタビュアーとの信頼関係に拠るところが大きいのでせう。荘原照子はこの昭和10年当時、永瀬清子といふ、抒情詩人としてまた生活人としても中庸の王道を歩いてゐたライバルをネタに、自身の「極端に走りやすい」「分裂製の強度な」性格を自嘲気味に分析してみせるエッセイを書いてゐたらしいのですが、自分とは対極の詩人を引き合ひにして、ことさら「病苦・孤棲・貧困」の境涯を際立たせようとしてゐるのを、また手皮さんが見逃さない。「およそ自分の思い描く自己像ほど虚像に過ぎないものはない」とバッサリ。恣意に流れがちな老詩人の回想の裏に、身を飾る韜晦を嗅ぎ分け、同時に、またさうであるより他なかった事情をも察して代弁してをられます。後半の、漢詩からの影響をもとに展開される詩の分析でも、詩を生活の中に捕らへるのではなく、自身が詩と化す自虐的ナルシズムの夢想に囚われてゐる詩人の発想を指摘してをられますが、鋭いと思ひます。この漢詩からの影響についてですが、儒者の家系に育ったとは云へ、私は彼女がむしろその束縛から脱却せんとモダニズムに新機軸を啓いたとばかり思ってゐましたから、当時のエッセイにそこまで漢詩に寄せる親愛を綴ってゐたことは初耳でした。詩の冒頭に杜甫の詩句が懸ってゐれば、モダニズム常套のお飾りにしか思ってゐなかったのでありました。『椎の木』の現物に当たってみたいところですね。

 かうして今回の連載では、聞き書きと雑誌現物との両面から、いよいよ詩人として全盛期を迎へる荘原照子をめぐる詩壇状況といったものについて考察されてゐるのですが、『椎の木』周辺のマイナーポエット達への伏線に注目です。今回私が気になったのは「ブルジョワの息子」山村酉之助。彼は大阪人なので、素封家の彼が主宰した『文章法』といふ『椎の木』衛星雑誌には、当時モダニズム手法で頭角を現してゐた同世代の田中克己も寄稿してゐます。(といふか御祝儀の意味でせうが、創刊号(昭和9年2月)には乾直恵も高祖保も書いてゐるんですよね。) そして、その縁もあってか、山村酉之助は暫くの間、集中的に「コギト」に詩を寄せるやうになります。手皮さんが解説された彼らの「行動主義(能動主義)」が、本場フランス仕立てのものとならなかったのは、左翼潰滅後で時が遅すぎたことがあったでせうが、スノビッシュな詩風と共同体参画への意志にどれだけの必然性といふか、実存的な拠り所があったのか、一寸みえないところもある。発表誌の強烈な個性に引きずられ、また離れて行ったのではないか、そんな風にも考へたりしました。同様に「草食男子」だった立原道造が、血気を奮って日本浪曼派に親炙し、離れててゆくのも、けだし当時の若者を駆りたててゐた一般の心情・気分だったのでありませう。荘原照子が山村酉之助のことをボンボン呼ばはりするのは、詩そのものに対する評価とともに、詩友高柳奈美がのちに乾直恵の奥さんになったこと、そして「コギト」への寄稿が「日本浪曼派の一味」とも観ぜられて、すこぶる印象がよくないからでありませう。

 次号はいよいよ『マルスの薔薇』について言及されます。さきの掲示板で触れたやうに、詩誌『マダムブランシュ』における匿名子の激辛批評が、秋朱之介の筆になるものであるかのやうな記述が、同誌面の自己弁明記事にみられるのですが、『マルスの薔薇』を編集した稀代の装釘家、秋朱之介に関する彼女の回想は如何なるものなのでありませう。そして彼女が強烈に意識してゐたといふライバル江間章子も、一旦は北園克衛に兄事するものの離れてゆくのですが、北園克衛の一派についても尋ねてをれば、先日の「四季」に対するのと同様、きっと興味深いモダニズム当事者による印象・感想が聞かれたことでせう。楽しみです。

546やす:2011/04/16(土) 01:03:08
『淺野晃詩文集』 【第一報】
 今晩『淺野晃詩文集』を拝掌。刊行経緯を知って吃驚、お慶びとお見舞ひと交々お伝へ申すべくも、まずは巻頭写真16p本文703pといふ浩瀚な陣容、限定300部で6300円(税込)といふ破格の赤字出版について、その完成を緊急報知いたします。
 『淺野晃全詩集』をお持ちの方はもとより、日本浪曼派の研究者・愛読者は急ぎお求めください。感想紹介は追って上したいと存じます。
 中村一仁様、長らくの編集お疲れ様でした。被災の後始末に忙殺の最中、貴重な一冊を私にまでお恵み頂き感謝に堪へません。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

『淺野晃詩文集』2011.3.30鼎書房刊 6300円(税込) ISBN:9784907846794

547やす:2011/04/27(水) 00:12:45
山下肇 / 『木版彫刻師 伊上凡骨』
 池内規行様より「北方人」第15号の御恵投に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 池内様が私淑される山岸外史。その周辺人物として今回回顧されるのは、戦後東大教授となった山下肇氏です。池内様の訪問記や「外史忌」におけるスピーチなど、良い感じで読んでゐたのですが、終盤に至り「わだつみ会」の内紛をめぐっての書きづらい事情を、是々非々として裁断し書き留められてゐたのには吃驚しました。いったいどういふ事情なのか、ネット上で関係記事を読むことを得、改竄された岩波文庫版『きけわだつみのこえ』を原姿に戻さうとした「わだつみ会」役員が、「事務局」によって排除されたといふ騒動の一件を知りました。その状況に立会ひながら、事情が「全部分かっているのに事務局には無力」といふ格好を装ひ、なほ理事長の座を墨守されたといふ山下氏の情けない俗物ぶりについては、池内様がこの一文を「知性と詩心と卑俗」といふタイトルにし、

太宰治に学んだはずの含羞の念はどこへ消えてしまったのだろう。人一倍知性に優れ、詩心に恵まれた先生の晩年に想いを致すとき、一種痛ましさを感じずにはいられない。

 と惜しみ嘆いて締め括られた通りです。前半で語られてゐる池内様とのやりとり、そのなかで明らかにされた高橋弥一氏との心温まる交流とは、如何にしてもつながりません。まことに「不思議であり残念でならない」ことですが、それが人間といふものなのでせうか。晩節を汚した人物に対する回想と評価の難しさを思ひ、また「東大名誉教授」や「岩波教養主義」の権威を後ろ楯に、戦没学徒の遺稿をイデオロギーの具に供せしめた「わだつみ会」事務局の変質にも憤りを感じました。
 山下氏が戦後山岸外史を訪ふことがなくなったのは、もちろん「君子危きに近寄らず」との打算が働いたからでありませう。しかし、それは「結婚式に呼ばなくてよかった」といふ酒席における無頼派らしい狼藉ぶりを恐れて、なんて次元の話ではなく、職場内での昇進にも影響を与へかねない「縁を切るべき日本浪曼派の人物」もしくは「戦後は反対に共産党に入党した、激しすぎる節操の持ち主」として敬遠されたのではなかったでせうか。
 若き日の山下氏のかけがへのない親友であり、ともに山岸外史に兄事して通ひつめたといふ今井喜久郎・小坂松彦両氏の戦死を、山岸外史の評価を訂正できる貴重な証言者を失ったと惜しまれる池内様のお気持ちは察するに余りあります。同時に彼らの痛ましい戦死については、『きけわだつみのこえ』の生みの親でもある山下氏御自身こそ、衷情は深刻なのに違ひない訳でありますから、「不正を見て見ぬふりをすること」こそ最も恥づべきナチズムの罪だったと反省するドイツの戦後と深く関ってきた筈の氏にして、この不甲斐なさは一転、一層のさびしさに思はれることです。やがて共産党からも破門されたサムライの先輩は「わだつみ会」の顛末を泉下からどのやうに眺めてゐたことでありませう・・・。


 あらためてここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。


 池内様よりは、合せて同人のお仲間である盛厚三様の新著『木版彫刻師 伊上凡骨』(2011徳島県立文学書道館刊)を同封お贈り頂きました。「いがみぼんこつ」・・・未知の人ながら一度聞いたら忘れられない名前は、また一度会ったら忘れられない人物でもあったやうです。洋装本の装丁に関はり、当時の芸術家たちから最も信任の厚かった木版職人であった彼は、明治気質の職人らしい、裏方としての気骨を「凡骨」と自任したものか、名付け親の与謝野寛夫妻や岸田劉生、吉川英治らと親交を深めながら、誰彼に愛される奇人ぶりを示したと伝へられてゐます。業績とともにエピソードも満載の一冊。重ねて御礼を申し上げます。巻末の「伊上凡骨版画一覧」リストから、家蔵本では『私は見た』といふ千家元麿の詩集がみつかりましたが、似た感じの装釘で、中川一政の処女詩集『見なれざる人』にも「彫刀 伊上凡骨」のクレジットがあるのをみつけました。写真印刷版が確立するまで、江戸和本文化の伝統が最後に燃焼した痕跡とでも謂ふべき「洋装本の木版表紙」の風合に、しげしげと眺めいってゐるところです。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000705.jpg

548やす:2011/05/12(木) 03:06:28
「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」
? 岐阜の大牧冨士夫様より『遊民』3号御寄贈に与りました。左翼文芸史の回想を連載されてゐるのですが、今回は「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」。未知の人ですが、詩人西澤隆二の元妻といふことで、佐多稲子への問ひ合はせの手紙を始め、新資料公開の意義は深からんことを思ひ御紹介します。

 福井県丸岡町一本田にある中野重治の生家跡は見学した事もあり、あらためて彼の友人に「ひろし・ぬやま」といふ風変りな名の詩人や、妹に中野鈴子といふ詩人があったことなど思ひ出しましたが、定職のない夫隆二を支へるために働きに出た銀座のバーで、ミイラ取りがミイラになったのか、生活が荒れてゆく同志である妻の様子を、見るに見かねたのでせう、彼らの師であった佐藤春夫が仲裁に乗り込んできたといふ一件。その後いくばくもなく短い夫婦生活は清算されたと云ひます。御存知のやうに「門弟三千人」を誇った佐藤春夫は日本浪漫派筋の弟子も多数擁する文壇の大御所で、離婚後の彼女はその許に通ったといふことですから、如何にも懐が深いといふべきか。むしろ佐多稲子の回想小説で、親しかった気持ちが「しゅんと音をたてて消える」と書かれたのも仕方なく、旧と同志だった誰彼が、彼女の存在を(西澤氏の再婚にも憚ってのことでせう)「なかったこと」にしたがってゐる事情など、イデオロギーによる政治闘争の裏側で、時代に翻弄され捨てられていった一女性の不幸が、聞き出せば聞き出すだけまざまざと浮き彫りにされてくるやうで、戦時中、同郷の中野鈴子に宛てた、詩のやうな彼女の手紙は痛ましい限りです。その一節。

 スズコサン、ワタシタチハ昔ノユメヲモッテイル。ソノユメカライロイロシカヘシヲウケ、コウシテイキテイル。ヒトクチニイヘバ、ワタシタチハウマレソコナツタノデハアルマイカ。ワタシタチハ、アマリクライクルシミニアヒ、ホントニアタマヲワルクシスギルトイフコトガアルノダ。

 これら故意にたどたどしい言葉に滲んでゐるのは、もはや「転向」と呼びたい程の挫折感でありませう。社会の理不尽を具さにクルシミ、ルサンチマンを掻き立て共に見た革命のユメ。しかし直面した現実からイロイロシカヘシヲウケ、ウマレソコナッタノデハアルマイカと、一種因業にも観ずる自責の念は、「正義」に盲ひた自分の姿を戯画化するに至ります。戦後、元夫の幸せさうな再婚を横目で睨みながら、同じく中野鈴子宛ての手紙より。

 私はふとってゐる、おまけに綿入れの重ね着ときている。山が歩いてゐるやうだ。田舎の町の角の店屋のガラス戸に映る大きな大きな女、おおそれは何と私であった!

 田舎の町の一本の本通り、本通りのつき当りは山脈だ。私はそこをのっしのっしと歩く、昨日はこの本通りに雪が降った。山脈がはげたお白粉程に雪を着た。

 私はその本通りを歩く、あなたへ手紙を出しに、その手紙にはる切手を買ひに。

 彼女が如何なる晩年を過ごしたものか分かりません。丁度『淺野晃詩文集』を読んでゐるところでしたから、私は淺野晃の最初の妻であった伊藤千代子のことを思はずには居られませんでした。彼の場合は反対に、思想の憑物が落ちたのが夫の方で、若妻は夫の変心を理解できぬまま、痛ましい錯乱のうちに肺炎で亡くなってゐます。前回掲示板でとりあげた「わだつみ会」と同様、挫折を知らず死んだ女性闘士の一途さを、小林多喜二のそれとならべて「反天皇制」の殉教者として祀り上げんとする政治活動が今も盛んだと聞きます。今回の大牧様はむしろ左翼の立場から、この「生没年不詳」の一女性のことを「忘れてはならない」人物として、文学史の闇から救はうとされてをり、探索動機にある温かな人間観が、私のやうな者が読んでも同感を覚える所以なんだらうと思はれました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『遊民』3号 遊民社発行 \500? 連絡先:三島寛様rokumon@silver.plala.or.jp

549二宮佳景:2011/05/14(土) 13:05:11
伊藤千代子の栄光と悲惨
 夫である淺野晃の解党の主張に衝撃を受け、一時は統合失調の症例を呈し、最後は松沢病院で肺炎で亡くなった伊藤千代子。ネットで調べれば、ある特定の政党やその同調者同伴者が彼女を持ち上げているのが分かる。若くして死んだことは気の毒という他ないが、実は彼女は、とても幸福だったのではないか。
 まず、89歳の長寿を全うした淺野と異なり、長生きせずに済んだからだ。千代子があの三・一五事件の後も生きていたら、彼女に転向は無縁だったろうか。佐多稲子が戦争中、戦地に慰問に出かけたように、千代子も転向して国策に協力するような事態もあり得たのではないか。そう思うと、あの時死んで、千代子は幸せだったのだと思う。
 また、戦後の日本共産党の歴史を見ずに済んだのも幸福なことだったと思う。今でこそ徳田球一らの「所感派」は党史の上で分派ということになっているが、千代子は長生きしていたら「国際派」に属しただろうか。それとも「所感派」に属して北京からの指令に従って武装闘争路線の片棒をかついだであろうか。
 その後も共産党は多くの文学者や文化人を除名処分にしているが、千代子は例えば蔵原惟人のように、最後まで党に忠誠を誓っただろうか。獄中の千代子について証言を残した女活動家たちの何人かも、結局は党から切られる形になった。佐多稲子にもその思いを禁じえないが、死んだ千代子への追憶が誠実であればあるほど、「家」であったはずの共産党から除名された彼女たちの悲劇が一層痛ましく感じられてならない。
 小林多喜二や宮本百合子のように、どんな拙劣なものでも小説や評論を千代子が書き残していたら、それは「研究」の対象になりえただろう。しかし、夫の母親あてに書かれた書簡、あるいはそこに記された心情の美しさとやらを称えることが果たして「研究」と呼ぶに値するものなのかどうか。門脇松次郎や遠藤未満、紀藤義一や小池豊子、さらには楠野四夫といった淺野晃を直接知る、「苫小牧文化協会」の系譜に連なる人物が相次いで鬼籍に入る中で、伊藤千代子の名前を出したいがために淺野を語るような人物が大きな顔をし出すのは、時間の経過の中でやむを得ないのかもしれない。しかしその楠野さんが名誉会長を務めた苫小牧郷土文化研究会が刊行する『郷土の研究』第9号を見て瞠目せざるを得なかった。というのは、楠野さんの追悼特集を組んでいるのはいいが、御息女の口からあり得ない発言があったからだ。札幌の御息女に電話で確認したら、「父の個人的なおつきあいを私は知らない。それはインタビュアーの人が書き足したこと。申し訳ないことをしました」とのこと。やっぱり! 何より、あの伊藤千代子の書簡発見で一部の連中が盛り上がるのを、楠野さんが苦々しい思いで見つめていたのを、直接知っている。あの時、入谷寿一が編集した『苫小牧市民文芸』の千代子特集にも、楠野さんは沈黙を守った。あちこちの団体などから寄稿や証言を求められたものの、一切拒絶されたのだった。
 「伊藤千代子研究における歴史修正主義」になるか「『郷土の研究』における歴史修正主義」になるかは、まだ分からないが、そんなタイトルで文章を書いてみようと考えている。苫小牧市立中央図書館の、淺野晃に関する展示コーナーに千代子の肖像写真や書簡が陳列されるのも時間の問題だ。しかし、伊藤千代子は苫小牧と直接、何か関係があったのだろうか? 何もない。ただ地元の党員や活動家が騒いでいるだけの話で、公開された書簡が注目されたのも公開当初だけで、その後は他の資料同様、開示請求は激減したという。
 末筆ながら、中嶋さんのますますの御活躍と御健筆をお祈りいたします。

550やす:2011/05/15(日) 00:31:53
伊藤千代子について
 二宮様、あらためてはじめまして。雑誌『昧爽』での御文章をいつも拝見してをりました。伊藤千代子については、二宮様と全く同じ理由から、私は「とても幸福」ではなく、当たり前のことですがやはりとても不幸だったと思ってをります。さうでないと、淺野晃もまた転向などせずに死んでゐれば幸福だったなんて云ふ人が現れてこないとも限りませんから(笑)。

 「とても幸福」といふのは、むしろ千代子の悲劇を主義主張であげつらふ方々の、事情と思惑に於いて、さうなのでありませうが、とても残酷な幸福です。立原道造や中原中也も戦争を知らずに死んでいったから幸福だったといふ人がをります。彼らの親友ならばさう言ってもいい。反対に彼らを歴史的人物としてみることのできる人ならさう言ってもいい。しかし私の立場は、この世代の人たちとは、先師との縁を以て地続きにゐたい(まだぎりぎり許されるのではないか)といふ感覚で接してゐますので、さうは言へません。やっぱり「淺野晃の妻」ならば、生きて居れば必ず転向したと思ふし、死因が肺炎といふのは雨中に立ちつくしでもしたのでせうが、未だ夫の変心を理解できなかったとはいへ、「兄さん」を恨んで死んでいったとはどうしても思はれない。二人を引き離して考へるのは、死に別れた夫婦に対して失礼な話で、だからこそミネ夫人は『幻想詩集』に激怒したんだらうと思ってゐます。(二宮様が記述された後半部の詳しい事情は、『昧爽』14号の「淺野晃ノート番外編」における中村一仁様の収めやうのない怒りを御参照のほど)

 けだし若き日に生涯の傷となった唯一人の女性を心に刻んでゐる文学者は多いですね。森鴎外はもとより、川端康成、伊東静雄、三好達治…。伊藤千代子との関係については、日夏耿之介の死別した前妻と並び、文壇でもタブーに類することだったのでせうか、今回『淺野晃詩文集』に収録された未発表原稿「千代の死」には、多くの注目が集まるものと思はれますが、合せて「水野成夫のこと」に描かれてゐる、昭和3年3月15日に始まった一斉検束の様子なども、なるべく多くの人に読んでもらひたいと思ったことです。

 連休中は私事にかまけて何も書けませんでした。中村一仁様が『昧爽』に連載された「淺野晃ノート」に出てくる人達の名が、この本を読んだ後では親しみをもって理解できるやうになりました。公私ともに多事忙殺中ですがいづれ拙い書評を掲げたく、このたび思はぬ震災被害に遭はれた中村様へも何卒よろしくお伝へ頂けましたら嬉しく存じます。

 コメントありがたうございました。

551:2011/05/24(火) 03:09:04
伊藤千代子と浅野晃
 歌人の伊藤千代子と詩人で歌人の評論家である浅野晃夫婦のことが問題になったのは、浅野晃書簡の公開による。伊藤千代子が不幸だったとか、いや本当は幸せだったのではないかとか、憶測、類推の類が巷に蔓延しておりますが、あまり意味のない素人の感情論に過ぎませんね。
興味のあるのは、事実と真実の狭間です。
 共産党員として病死した千代子、共産党を離党して監獄から出た転びバテレンのごとき浅野晃。こうなれば、党員にとっては、千代子は聖女にしておきたい存在でしょうし、浅野晃は若い妻の千代子を見捨てた男という図式になるのは当然でしょう。浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人らは浅野晃擁護に回っていたりと、事実や真実を超えてひそひそ、侃侃諤諤というのも、文壇スキャンダルめいていて悲しいことに見えるものです。
 ですが、形の上では、思想に殉じた千代子はジャンヌ・ダルクで、浅野晃は日和見主義者で若い妻を見捨てた事実には違いないことです。だからと言って、浅野晃が良いか悪いかは別のことですが。そこで2首。

 獄死せし伊藤千代子を見棄てたる浅野晃の佇ちし野に立つ
 したたかに生きよと励む歌人の絶えしは寂し窓外の雨
 

552二宮佳景:2011/05/24(火) 21:17:40
事実や真実(藁)
「歌人の伊藤千代子」。千代子の作品あるいは歌集をあげてみてください。
「浅野晃書簡の公開」。夫婦のことが問題になったのは千代子が浅野の母ミネに書き送った書簡が公開されたからでは?
「共産党を離党して」。浅野や水野成夫らは離党ではなく、田中清玄に除名されたのでは?
「若い妻を見捨てた」。見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意したのだ。
「事実や真実」。これも見る側によって、大きく変わってきますね。ただし生前の伊藤千代子が苫小牧とは何も無関係だったことは事実です。
「浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人は浅野擁護に回っていたり」。これは初耳ですな。檜葉某なる女流歌人が浅野の文化活動への協力は偽装だったなどとトンデモな主張を、自身の成田れん子論で展開しておりますが。これも様々な「事実」から自ずと否定される謬見です。
「素人の感情論」。ならば貴殿は「玄人」なのか? そして「玄人」になる資格や秘訣は何か? そして自身の主張は「感情論」ではないとでも?

 誤解を避けずにいえば、浅野晃の転向は正しかったし、死んだ最初の妻を「偲ぶ」という形で自身の詩作の題材に利用した姿勢はまさしく「牡の文学者」「強者の文学者」のそれであって、称賛に値する。『幻想詩集』は千代子がらみで論じられることがほとんどだが、浅野の詩作の流れの中では、浅野の宮澤賢治受容の到達点とみることができる。

553二宮佳景:2011/05/24(火) 21:27:17
お詫びと訂正
×浅野の母ミネ
○浅野の母ステ

「ミネ」は浅野の妻の名前でした。感情的になって筆がすべりました。お詫びして訂正いたします。

554やす:2011/05/24(火) 22:03:56
(無題)
人の一生はまことに割り切れないことばかりです。
割り切れないことを、知らずに死んだ方が幸せなのか、
その矛盾を背負い込んで、はからずも生き残った方が幸せなのか、仰言るやうに意味のないことではあります。
ただ幸・不幸を越えて、伊藤千代子より淺野晃の方が桁違ひに「重い人生」を送ったとは、云へるでせう。

思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、淺野晃を「千代子を見棄てた」と切って捨てて論じることのできる人は、
偉いものです。例へば思想なんて高級なことは抜きにしても、奥さんと死別したら、大切な思ひ出を胸に、一生独身を貫き通すことができる人でせう。
節を曲げない人生を送ることのできるひとは、勿論その方がいい。業が深い人生を、好んで選ぶ必要などないです。

ただ二宮様が仰言って下さったやうに「見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意した」といふことだけは、おさへておかなくてはならないでせう。

淺野晃といふ文人の遍歴は、日本の近代史の業の深さをそのまま身に帯びてをり、(詩集の御返事しか頂いたことはないのですが)、私は尊敬に値する方であると思ってゐます。
同じく思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、今の日本で、彼のやうな生涯を送った先人を、切って捨てて論じることのできる人は、
情けないと思ひます。自分が与り知らぬ日本の過去について、自分達とは何の関係もない世界として清算したつもりでゐるんでせう。

『詩文集』の書評は書きかけのまま。出張から先ほど帰ってきました。申し訳ないです。
早くupしないといかんですね。根保孝栄石塚邦男さま、二宮様、コメントありがたうございました。

555二宮佳景:2011/05/24(火) 22:56:13
中嶋様へ
 こちらは感情的に書きこんでしまいましたが、中嶋さんは大人ですね。心に余裕があるというか。見習わないといけないと反省しております。
 このコメントも含めて、掲示板を汚すものと判断されたら、小生の書き込みはすべて削除してください。ただ、伊藤千代子について論じるなら、彼女がその若い命を捧げた党が、当時コミンテルンの支配下にあった事実や、当時のソ連でスターリンが何をして居たのかなども、当然視野に入れないといけないですね。千代子を持ち上げる人間からは、そのあたりのことは何も聞こえてきません。
 先日みずす書房から出た『スペイン内戦』(アントニー・ビーヴァー著)で、フランコらの反乱軍と対立した共和国側がソ連一辺倒で、スターリン式の残虐な粛清を導入していたことなどが明らかにされていました。王様の首をはねたことを称えるフランスかぶれや、レーニンやスターリンが大好きなソ連びいきが多い日本の知識人があまり書いてくれないことを、たくさん教えられた気がしました。国際旅団がどうの知識人の連帯がどうのは、もうたくさんですね。
 ソ連が消滅したこと、ベルリンの壁が崩壊したこと、中国共産党の本質が天安門事件やチベット弾圧で明白になつたことなどを、決して直視しようとしない人間が苫小牧にはいるのですよ。本当に驚くべきことです。もっとも、老い先短い人間に、今さらその青春や人生を否定するようなことを言うのは、いささか酷なことなのかも、という気持ちも少しだけあります。
 しかしそんな人間の主張に学ぶところは何もありません。「こうはなりたくない」というのは「学ぶ」ということではないですから。

556二宮佳景:2011/05/25(水) 00:51:13
またまたお詫びと訂正
×みずす書房
○みすず書房

掲示板汚し、何度も申し訳ありません。お詫びして訂正します。

557:2011/05/25(水) 04:49:27
伊藤千代子と浅野晃
 浅野晃が戦後、苫小牧市勇払に在住していたことがある。浅野は浪漫派の文芸評論家として有名で、また歌人・詩人としても一家をなした文化人ながら、戦前共産党に入党していたことから投獄され、獄中を体験したが、共産党の党籍を離れた事によって釈放された体験を持つ。
 戦後、そうした経歴から占領軍によって職を追われて山陽国策パルプゆかりの水野成夫の紹介で勇払工場の社宅に数年居住していたことから、北海道は浅野晃ゆかりの地となって、研究者に注目されている地である。私は、東京の学生時代、浅野晃の歌会の末席に二度ほど顔を出した事があって、彼の存在そのものに関心がある。現在、私は「北海道アララギ」の会員で、旭川の「ときわ短歌」の会員になっているのも、浅野晃の足跡を引き摺っていたゆえかもしれない。
 しかし、浅野晃の最初の妻伊藤千代子に関しては、千代子の哀れが際立って、浅野晃には何としても同情できないのである。それは浅野晃が悪いのではなく時代が悪かったゆえの悲劇なのだが、それにしても浅野晃の立場は、若い妻の千代子が思想の純潔を守ったのに対して、思想的に裏切った男という立場は拭い切れないように映るのである。時代の悲劇であるにしても、浅野晃の姿は、獄中の千代子の心中にどのように映っただろうかと思うとき、千代子への哀れの思いが際立ってくるのである。

558:2011/05/25(水) 05:41:47
再び浅野晃について
 浅野晃は、文学者としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。
 ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってますが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。
 浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。
 それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いしてるでしょし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。

559やす:2011/05/25(水) 07:32:18
浅野晃について について
「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節してきた日和見男」

「怪物」…室生犀星とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。
似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。
変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大事ですよ。
だから「日和見男」ではないんです。

さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。
そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。
伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します(むしろ反対に教示した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。)

もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、
さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。

「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」

そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。

560やす:2011/05/25(水) 07:39:00
(無題)
二宮様
「自分の投稿の編集・削除」といふボタンを捺せば、投稿したブラウザで訂正ができます。(過去ログに収める際に訂正しておきます。)
よろしくお願ひを申し上げます。

561:2011/05/25(水) 20:10:04
浅野晃の虚像と実像
 浅野晃が晩年、北海道苫小牧市に数度きてますが、そのうち三度、新聞記者として彼に会って取材した体験が私にはあります。
 私が東京の学生時代、先生の歌会に二度ほど出たことがあります、と言いますと、浅野晃はじっと私の顔をのぞき見るように見ました。私は当時、深川の心行寺という浄土宗の寺に寄宿して神田御茶ノ水の大学に通ってました。その寺では幼稚園を経営してまして、そこの先生をしておられたO子さんが浅野先生の短歌の会の会員でした。浅野先生は僕のふるさと苫小牧市に数年居住していたことをO子さんに話しますと、歌会に出てみないかと誘われまして、それで、のこのこついて行ったというわけでした。昭和37年の春だったと思います。
 当時、小説、現代詩、評論をやっていた私でしたが、短歌、俳句にはさほど関心がなく、現代詩も神田の伝説の喫茶「らんぼう」に出入りする「荒地派」の詩人たちを信奉して、鮎川信夫とかの姿を見たいばかりに出入りして教えを請う立場だったで、読んではいましたが、浅野晃の詩作品には関心がありませんでした。
 それで、浅野晃の歌会には二度出席しただけでしたから、浅野晃と伊藤千代子のことは、当時知りませんでしたし、浅野晃の存在そのものにも、さほどの興味はありませんでした。
 しかし、浅野晃は、私の故郷の苫小牧市のお弟子さんたちが、神様のように慕っている存在であることは知ってましたので、そういう男かと短歌の世界の師弟関係の深い絆を感心して見ていたものです。
 私が新聞記者として浅野晃と再会したわけですが、そうした経緯から再会もさしたる感興をおぼえなかったものです。
 浅野晃とは十数年ぶりの再会でしたが、白髪の柔和で上品な80近い学者タイプのプのお年寄りで、初めて東京の歌会で会った印象とは違ったものでした。彼の詩は比較的好きですが、現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。
 そんなわけで、浅野晃の教え子ではない私は、浅野晃に傾倒する詩人、歌人とは一線を分けている立場ですから、客観的に非情に語ることができるのでしょう。浅野晃信奉者には大変悪いのですが、以上のようなかかわりから、私は、浅野晃を突き放して見ることができるのですが。また、共産党員でもありませんので伊藤千代子を冷静に見ることができるのです。 

562二宮佳景:2011/05/25(水) 22:07:09
生きている本人を直接知っていること
 詩人を歴史上の人物として知っている、あるいは文献や関係者の証言のみでしか詩人を知ることができない私からすれば、直接詩人を見た根保氏はある意味でうらやましいが、ある意味で「その程度の経験か」と冷めた思いも禁じえない。
 ところで、伊藤千代子が「伝説の歌人」? たしかに女学校時代に短歌の一つくらい詠んでいるのかもしれないが、彼女が再評価されるような歌を残していたというのは、本当なのか? 土屋文明が千代子について詠んでいるのは知っているが。穂別の成田れん子の間違いではないのか?

563二宮佳景:2011/05/25(水) 22:25:48
やす様の指摘について
「もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません」

 これから浅野晃について語られる時は、こういう意見がどんどん出てもらいたいものです。
 このやす様の指摘、かなり重要です。勇払時代から最晩年の作品に至るまで、そういう印象はやはりぬぐいがたいです。おおらかと言えば聞こえはいいが、かなづかいの当否も含めて、詰めの甘さが残る。ただ、小高根二郎の詩誌『果樹園』に断片が発表された長篇詩「天と海」は、その推敲が功を奏した傑作です。詩誌に発表された一つひとつの断片も捨てがたいのですが、それらをあの七十二章にまとめあげた浅野の力量は、やはりたいしたものです。
 『幻想詩集』の冒頭を飾る「帰つてきた死者」も、『果樹園』に発表された時は舞台が駅のプラットフォームで、深夜の空港ではなかった。詩集収録にあたり大幅に加筆、改稿したことが歴然としています。ソ連による大韓航空機撃墜事件を題材にした「海馬島近海」などは、さらにもう一冊詩集が彼によってまとめられていたなら、どのような形で収録されたろうかと考えるのは、それこそ愛読者の妄想の類ですね。
 転向後の、特に戦後の浅野が批判した「ソ連」や「共産主義」は、セリーヌの「ユダヤ人」同様、字面そのものだけでとらえるべきではなく、人間存在の愚劣や残虐性の象徴でもあり、その告発の底辺にあったのは、彼のヒューマニズムではなかったかと最近は強くそう思っています。

564:2011/05/25(水) 23:32:36
伊藤千代子の短歌
 成田れん子の作品よりも、伊藤千代子の短歌の方が上等ですね。伊藤千代子の作品については、まともな研究がなされていず、これからのことです。
 伊藤千代子が浮上したのは、浅野晃研究の過程でのことですし、共産党の党籍のまま病死した悲劇がクローズアップしたことによるので、浅野晃研究が進まず、千代子ゆかりの諏訪市で大々的に宣伝されなければ、彼女は今も無名のままであったでしょう。
 一方、浅野晃は文学史的に足跡を残した文芸評論家でありますが、それ以上の存在ではないと、私は思います。短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。
 浅野晃の短歌、詩を好きな人は素人だけです。まともに短歌、詩を書いている者はだれひとり評価はしないでしょう。ですが、文芸評論の仕事は、文学史上評価されて良いと思いますよ。
 浅野晃について騒いでいる人たちは、仏教大学で彼の講義を受講した生徒か、短歌のお弟子さんだけでしょう。浅野晃の詩は、詩の本質を理解してない素人好みですから、人気があるだけのことです。
 しかし、文学についての指導者としては、浅野晃は卓越したもので、また容貌、雰囲気も女性を惑わす不思議な魅力のあった人物でしたから、その面からも怪物といわれるゆえんです。
 彼が怪物といわれたのは、いくどか文学者として死に体になりながら、不死鳥のごとく時代の最先端に踊り出たしたたかさによってです。つまり、彼の政治感覚めいた日和見主義が、リバイバルにつながるのですが、そういうところに長けた文学者と見るか、彼の人格のなせる業と見るかは、異論のあるところでしょう。
 一口に言えば、浅野晃は偉大な文壇の政治家であったということです。政治家であったが、政治屋でなかったのは、浅野晃信奉者には、せめてもの慰めでありましょう。浅野晃との関係を言えば、私も弟子の末席を汚す立場ですが、彼の数々の変節は、政治的なものよりも文壇での去就の有り方にあるのです。良く言えば柔軟な思慮を持った正直な男であったとも言えます。つまり「過ちを正すにはばかることなかれ」という思想で一貫しておりました。彼の怪物ぶりは、日本文壇史を詳細にたどれば、その姿が浮き彫りにされるでしょう。
 

565二宮佳景:2011/05/25(水) 23:41:31
お世話になりました
やす様

 お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。
 一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。
 後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。

566やす:2011/05/26(木) 02:46:08
(無題)
「短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。」

短歌のことは私も詳しくないので分からないのですが、詩の手法の水準とかレベルって何でせう。少なくとも詩の評価とは関係ないですよね。
そんな視点で抒情詩が評価できるかのやうに「平凡」と並列させたりすると、評価者のレベルの方が知れてしまひます。

むしろ私は、同人誌の高齢化が身を以て表現してゐる通り、すでに戦後現代詩の方こそ近代口語抒情詩よりも古臭くなっちゃったんぢゃないかと心配してゐる「素人好み」の人間です。
その原因は、進歩史観でもって戦前を切り捨て、安易に民主主義日本の歩みに詩の歩みを擬してきたからだと、
それゆゑ「古典への仲間入りができない」といふ決定的なツケを、今になって被ってゐるからだと考へてをります。

本当の文学は時代の流れに対する抵抗からしか生まれません。その流れに抗することが出来なかった時代、流れよりも過激に流れることで己の純粋を主張した日本浪曼派の人達は、
結局、敗戦に至って、そのツケを戦争遂行者とともに、追放といふ形で支払はなくてはなりませんでした。
しかし戦後現代詩の人達が、何の転向も表明しないまま、先輩から取り上げ掌握してきたジャーナリズム上で「素人好み」に受ける伝統詩にすりよった言説をし始め、
巧く変節し日和見し果(おお)せて死んでいったことについては、何のツケも払ってゐません。どころか、
今や日本のお年寄り全体が、戦前の教養や道徳を馬鹿にすることをジャーナリズムから徹底的に教へられた「元紅衛兵」のやうな人達世代の塊です。
彼らが私達世代を飛び越して、孫世代に一体何を伝へ得て死ぬるのか、コスモポリタニズムがグローバリズムの破綻によってなし崩しの無効になりつつある今日、気になって仕方がありません。

私は、近代口語抒情詩人たちの遺産を、謂はば祖父世代からの遺言のやうに受け継ぎ、祖述してゆきたいと考へてをります。
「現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。」
この前半のお言葉は、まさに当時、自分の詩集が石塚様世代の前衛の先輩から賜った評言と同じなのです(笑)。
つまり、昭和60年代当時としても、新人のくせにすでに古い筈の感性で後ろから何刺して来たんだ、という印象だったのでありませうね。

明日は家の所用で代休をとったので夜更かししてゐます。明後日には(途中でもいいので)書評upしたいです。

二宮様、またいつでもコメント頂きたく、皆さまにも宜しく御鳳声下さいませ。

567:2011/05/26(木) 18:17:56
評価基準は
 「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方とは、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。
 私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひとりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではないと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたからね。
 新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あなたもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬できない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つでした。

568やす:2011/05/26(木) 21:44:21
(無題)
石塚様
私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任される石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。
弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云ってきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、私は思ひます。
それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したのなら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。
今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。

569:2011/05/26(木) 22:38:19
浅野晃の虚像と実像2
 郷土文研の門脇松次郎さんとは若い頃から「居酒屋鍋万」で酒を酌み交わした先輩でしたし、成田れん子の遺作保存に力のあった紀藤義一さんは共に同人誌を出した仲ですし、楠野さんは私が新聞記者時代、図書館長でしたし、楠野さんの娘さんは、新聞社時代、私の部下でしたので、苫小牧の浅野晃関係者は、私とは極めて近い方ばかりです。しかし、浅野晃は一流だが超一流でないと思っておりました私は、浅野信奉者の輪の中には決して一度も入ったことはありませんでした。
 若い頃から「神様は造ってはならない」というのが、私の信念でしたから、浅野晃を神様のように祀って語る皆さんの立場を理解できない私であったのです。
 文芸評論を軸に学生時代から新聞に寄稿、書いていた私にとっては、浅野晃は一研究材料の文学者に過ぎないという認識しかありません。信奉しすぎたり、憎み過ぎたりすると、客観的視界が曇る怖れがあることを知っていたからでした。
 この場でも、主義主張にこだわった発言や、必要以上のアンチ共産党の発言など枝葉末節の議論が目立ち、ことの本質からずれた意見交換になっていることを危惧するものです。
 歌人で共産党の苫小牧市の市議であった畠山さんとも新聞記者の昔からの付き合いで良く知ってますが、彼はことさら共産党の立場で伊藤千代子を弁護しているわけではなく、一研究者として伊藤千代子の書簡を公けにすることに努力しただけのことですし、元北大演習林長の石城さんは、偶然諏訪市出身であるところから、伊藤千代子像をゆかりの諏訪市に建立することに尽力することになっただけの話で、概要の流れを検証すると、共産党がことさら伊藤千代子を持ち上げ、浅野晃を裏切り者としているわけでもないのです。
 新聞社で客観報道を心がけていた私にとっては、以上のような色合いで見て取れる浅野晃・伊藤千代子問題なのです。伊藤千代子が共産党にとってはジャンヌ・ダルクなのは、政治的視野から言えることですが、文学関係者の浅野研究には何の意味合いもない枝葉末節の週刊誌のスキャンダルめいたことで、問題にすべき事ではありません。
 浅野晃が楠野氏に秘密に託した書簡は、自分の死後、真実が明らかになることを望んでいたからで、浅野晃が伊藤千代子を愛しく思っていることを、家族に知れては問題になると先を読んでのことであったでしょう。そうでなければ、書簡は自分で償却処分していただろうと思います。 

570やす:2011/05/26(木) 23:36:23
(無題)
神様でなくとも師と呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。

普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、
ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、
中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。
ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。

571二宮佳景:2011/05/27(金) 00:28:20
駄文を読まされて、いらいらするわ
 やす様。宣言を破棄して、最後にこれだけ書きこむよ。
 根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。
それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初
の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と
いうコウモリの優越感が透けて見える。
 改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので
あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み
を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、
必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、
歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連
の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、
浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。
 根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫
や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強
く思う。
 それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え
ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から
感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ
らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧
力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を
「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。
 それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の
教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。
 門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き
たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無
駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ
んでした。

572:2011/05/27(金) 01:53:37
師と弟子
 文学の先輩や師とは宗教における教祖ではないです。弟子と言えども自分の意見は持つべしです。浅野晃先生とは言わずに、浅野晃と私が書くのは、彼の文学的足跡すべてを許容しているわけではないからです。浅野晃は、その点では自由主義者でした。そして平等主義者でした。自分の文学観に反する弟子も受け入れたおおらかな教育者でした。それが彼の魅力であり、また弱点でもあったでしょう。かれ自身、右翼から左翼、そしてまた、左翼から右翼へと変節しましたが、それは教条主義者ではなく、原理主義者ではなく、自由主義者であったからです。彼は純粋の学問的共産主義は89歳の亡くなるまで認めていましたが、一党独裁の政治的な変形共産主義には断固として反対しております。個人のの自由を認めた上での経済的、政治的共産主義を念頭にしていたのですが、当時の日本共産党はかれの理想に反したものに映っていたのでしょう。中国やソ連の一党独裁の共産主義には最後まで批判的でしたし、彼の平等主義、自由主義的体質では当然であったでしょう。日本の歴史的民族性に想いを寄せた彼が、日本民族の象徴としての天皇制を熱烈に容認して右翼と言われたのも、彼が日本人の資質を愛したからで、それは彼の古典への想いから醸成されたものであったでしょう。
 私は浅野晃という文学者を時代に翻弄された悲劇の文学者であったと思いますが、右左ブレた生涯は決して誉められたものではなく、もっと周囲を納得させる処世があったのではないかと思うだけで、偉大な一流文学者であったと思います。ただし、文学史的に見れば、超一流でなかったのは衆目の認めるところで、それを私も宜うということであります。
 日本人の多くは、議論に慣れていません。自説に固執して、異説を忌避する単純な原理主義者が多数を占めているのは悲しい事です。議論は新しい見方を獲得するための道筋であり方法であることの意味を、確認して謙虚に議論しようではありませんか。私の意見に反論があるなら、私を説得する論理を展開していただきたいと思います。
 物事は良いか悪いか、気に入るか気に入らないかで判断するのではなく、私たちは論議するとき、真摯に異説に耳を傾ける許容範囲の広い心を互いに持って論議をすることではないでしょうか。論議によって新しい視野を獲得できれば私は幸せです。この場でも大いに論議し勉強したいものです。
 私も自説を主張します。皆さんも自説を主張していただきたい。歩み寄れるところ、歩み寄れないところを検証して、浅野晃像を追究したいものです。

573やす:2011/05/27(金) 11:59:06
(無題)
お説は尤もの事ながら、この掲示板は自説を主張して議論する処といふより、同好の人たちが寄合するところなのです。さう管理人たる私が決めてをります。もしどうしても「淺野晃は私の師だが超一流じゃなかった」といふことを「弟子」として云ひたくて仕方が無いのでしたら、御自身のブログを立ち上げて開陳されては如何でせうか。

本当に石塚様が弟子ならば、ここは「よその家」なのですから、
「間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」といふマーク・トウェインの言葉や
「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」といふ論語の言葉を思ひ出して頂きたいものです。

石塚様はたしかに淺野晃を得難い先輩と仰ぐ後輩の一人かもしれませんが(私もさうです)、先師に対して限界を言ひ渡すやうな評に対して「ね、さうでせう?先生の限界ですよね。」なんて同じく本人を前に言ひ渡せるほど親しい間柄ではなかったのでしたら、いくら相手がおおらかな教育者であっても「弟子」を名乗るのは、やはり僭越ごとに感じます。

途中経過ながら書評(といふより思ふところ?)をBook Reviewにupします。
しばらくは手を入れて更新するかもしれません。よろしくお願ひ申し上げます。

574:2011/05/27(金) 15:44:46
浅野晃さんの著書
読んでみます。浅野研究のさらなる発展を期待します。以上、もうコメントすることはないでしょう。私は、「月刊文学街」で同人雑誌評を毎月担当してますので、機会がありましたら、浅野晃さんの関連にふれたいと思います。お騒がせしました。皆さまのご健筆お祈りいたします。

575二宮佳景:2011/06/04(土) 15:25:22
増子氏の書評
いい書評だと思う。

http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk110522-3.html

576やす:2011/06/08(水) 20:00:12
大垣漢詩壇の機関誌
 『淺野晃詩文集』雑誌に載った書評なども載り次第、紹介したいですね。

 さて、久しぶりに古書目録からよい買ひ物をしました。
 小原鉄心の衣鉢を継ぎ、野村藤陰を擁して戸田葆逸(葆堂)が大垣で編集してゐた漢詩雑誌の合冊です。

『鷃笑新誌』 1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 16.9×11.0cm 各号9-11丁 各号定価5銭 鷃笑社(大垣郭町1番地)刊行

鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介
各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社

 「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってる謂で、毎度儒学者の謙遜です。
 どこの図書館にも揃ひの所蔵はないやうですが、明治16年26号までが確認されてゐるやうです。該書は刊行元で余部を合冊したものでせうか、きれいな製本です。毎号巻頭を先師鉄心の詩文が飾り、招待寄稿者のほか、杉山千和、溪毛芥、江馬金粟ほかの面々。

 いづれ全文画像をupしますのでお楽しみに。

『鷃笑新誌』の引

故鉄心小原先生、往年吟壇に旗を竪(た)つ。嘗て一社を結び、号して「鷃笑」と曰く。
一時の文客靡然として之に従ふ。盛んなりと謂ふべし。既にして世故変遷し風流地を掃ふ。
先生また尋(つ)いで世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。
吾が社友、葆逸戸田詞兄は先生の侄孫、而して少時その社盟に預かる者なり。
一日、余に謂ひて曰く、
「方今、奎運(文運)旺盛にして文教大いに興る。吾が大垣の若(ごと)きは、嘗て文雅を以て著称せらるも、乃今、寥々として此の如きは、吾、常に此に於いて慨き有り。
因って一社を設け、以て故鉄心の蹤を継がんと欲す、如何。」と。
余、曰く、「善きかな。」是に於いて檄を移(とば)して同志を誘ふ。応ずる者は殆ど二十名。
乃ち相ひ約して曰く、
「毎月一会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒、無量にして乱に及ばず、分韻、詩を賦すも、金谷の罰は設けず。ただ其れ適(ゆ)く所のみ」と。而して社名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。
是れ即ち旧盟を継ぐの意を表すなり。そもそも鉄心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て補佐の重きに任ず。為に士民の瞻仰する所、退食の暇には鵬翼を枉げ鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はざるなり。
今、我輩、固(もと)より先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鶯鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。
然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存するは、果たして如何なるかな。
一月に詩文若干を得、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。
同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要(もと)めん。
                     藤陰野村煥識

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577やす:2011/07/02(土) 17:00:33
加藤千晴の絶筆 ほか
○ 加藤千晴詩集刊行会の齋藤智さまより『加藤千晴詩集』に漏れた最晩年の詩篇一編、挟み込む用に印刷された一葉をお贈り頂いた。池内規行氏が所蔵の雑誌より発見の由、刊行会への連絡で実に公刊後7年を経ての補遺となった。単なる拾遺詩篇でなく絶筆とみられることから特別に印刷・頒布に至ったものにて、茲に掲げる。




 静かなこころ   加藤千晴

?

静かなこころ

なやみかなしみも

底に沈んで

何も思わない

何も夢みない

ただ憧れる

ただ祈願する

この静かなこころ

?

生きる日の

なやみかなしみの

嵐のなかに

かくも静かなひととき

これは神のたまもの

時間空間のまんなかに

ひとり在る

この静かなこころ

?

ああ このひととき

生きている 生きている

ただ安らかに

ただ充ちたりて

静かなこころよ

われに在れ われに在れ

生きる日の

この神のたまもの

         (1949.12.20)

?

○ 梅雨の合間の一日、岐阜市立歴史博物館へ江戸後期岐阜詩壇の山田鼎石、金龍道人の墨蹟などを撮影に(市内円徳寺所蔵委託資料)。合せて館蔵の藤城、星巌ほかの掛軸もカメラに収めて帰る。成果の公開は順次追って【古典郷土詩の窓】にて。

○ 図書館のあつまり(6/28)で講師に招いた松岡正剛さんに名刺交換を強ふ。「千夜千冊」に『淺野晃詩文集』どうでせう、と喉元まで出て果たせず(悔)。

○  近況:職場人事ほか身辺くさぐさの変更の予感。古書的話題では、地元山県市大桑出身の武藤和夫第二詩集『高らかに祖國を歌はん』や、美濃国不破故関銘の拓本掛軸を入手。さらに長年の探求本の抽選結果など、目下何事に於いても息をつめて推移を見守る毎日です。

578やす:2011/07/16(土) 21:19:35
(無題)
○山川京子様より『桃の会だより』5号、手皮小四郎様より『菱』174号(今回は連載休筆)を御寄贈頂きました。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

○今月の『日本古書通信』984号に、地元岐阜市太郎丸の詩人、深尾贇之丞の遺稿詩集『天の鍵』についての紹介記事「犬も歩けば近代文学資料探索 19 曾根博義氏」あり。
 拙サイトも紹介に与りました。

○近況:「長年の探求本」『木葉童子詩経』(丸栄古書即売会)の抽選は外れ。代りに有料会員を辞めたオークションにて頭山満翁の共箱付掛軸を落札。
 翁の筆札は全くの自己流である由、吾もまた平仄無き悪詩をものして一粲を博さんと。

  頭山満翁少壮日   頭山満翁、少壮の日

 天与兼備知仁勇  天与の兼備「知・仁・勇」
 加之皆称以乱暴  しかのみならず皆称するに「乱暴」を以てす
 乱義逆転青雲日  「乱」の義は逆転す、青雲の日
 女傑善教人参畑  女傑善く教ふ、人参畑

○近況2:この3連休は今日月曜と仕事で潰れ、明日また家族の世話に費ゆべし。一句。

 ひとりごつ吾れをみつむる母と犬

579やす:2011/07/19(火) 23:38:05
『主人は留守、しかし・・・』
詩人小山正孝夫人である常子氏による新刊随筆集『主人は留守、しかし・・・』の御寄贈に与りました。
この一、二年、同人誌「朔」誌上において掲載されてきたものを中心に、このたび御家族の手で一冊にまとめられる事になったものです。
わが感想は、別に印刷に付せられる予定にて『只今執筆中、しかし・・・』 幸せな結婚について思ひを致すことが今の私には難しく(苦笑)、あらためて「愛の詩人」のアウトラインを描くべく、唸ってをります。
とりいそぎ刊行のお報せ一報まで。 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

随筆集『主人は留守、しかし・・・』  小山常子著 のんびる編集部 2011年7月刊? 180p ; 18.8cm, 1200円

 問合せは「感泣亭―詩人小山正孝の世界」サイトまで。

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580やす:2011/07/26(火) 23:17:53
『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』
 先日入手した武藤和夫の詩集、「ヒットラー・ ユーゲント歓迎の歌」を収めた『高らかに祖國を歌はん』に続いて、同じく地元詩人の雄、佐藤一英による訳詩集『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』の特装版を入手。珍しい文献なので早速画像をupしました。が、何でせう。何かしら考へろとの因縁ですかね。ノルウェーで信じられないやうな悲惨な右派テロが起きました。

 「多文化共生」といふ理念は、「よそ様」と「身内」とを峻別して、身内に厳しくあるところに本来意義があると思ふのですが(さう考へる処がすでに我が倫理的思考の限界ですが)、節度を抜きにかざされる「文化摩擦に耐える逞しさが必要」なんていふ強者の正義は、こんな犯人にとっては尚のこと、自国文化に同化しない「よそ者」に寛容すぎる売国的な偽善にしか映らなかったのでありませう。わが国ではそれが「自虐史観」と絡めてこれまで論じられてきましたし、隣国でもそんな摩擦は許し難い侵略と同義なのであるらしい。地球の中での「多文化共生」問題も解決できてゐないのに、一国内に「多文化共生」を積極的に抱へ込まうとするのは、いくら世界一成熟した民主主義国家とは云へ、コスモポリタリズムによせる過信はなかったかと、拙速を心配するところです。
 ナチス党の台頭と独裁も、けだし当時の最も民主的な憲法下で、ユダヤ人が目の敵にされ、多数決によって熱狂的に迎へられたことを考へると、今回のやうな典型的な右派テロも、あながち遠い時代のこと遠い国での出来事とばかり言ってはをられぬ気もします。


書影は『ナチス詩集』1941神保光太郎訳、『ナチスドイツ青年詩集』1942佐藤一英訳、『民族の花環』1943笹澤美明訳

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http://

581:2011/08/06(土) 07:48:21
お尋ね
(初投稿となります。この場でいいのかわからずに投稿しております)
お尋ねします。
掲載の「四季」目次にて昭和17年第65号にて「私はふと涙ぐんだ」伊東静雄となっておりますが、復刻版の該当号には伊東秋雄とあります。ほかの資料からも伊東静雄の作品として確認できませんでした。
(もう一件)
同じく「四季」目次で昭和11年6月第18号でリルケの「純白な幸福」を詩作品に分類されてます。同号「後記」にはリルケの短篇として紹介しております。
 以上二点についてお伺いいします。
当サイトいろいろと参考にさせていただいております。感謝!

582やす:2011/08/06(土) 10:58:58
御礼
目次リストの誤記の御指摘を忝く、早速週明けにも訂正したいと存じます。
また何かございましたら(多々あると思ひます)よろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。

583:2011/08/22(月) 08:51:32
字化け
(二度目の投稿)
今朝訪問いたしましたところ
字化けを起こしております。
よろしくお願いします。
(こんな指摘ばかりになり申し訳ありません)

584やす:2011/08/22(月) 12:48:28
文字化けの件
方々から指摘されます文字化けの件、御迷惑をお掛けして申し訳ございません。
私方にても、internet explorer の更新を行ふなかで文字化けが起こり、困ってをりましたが、また更新を行ってゐるうちに直りました。
使用のhtml作成アプリケーションで余分な記述が入るらしく、ホームページビルダーで保存しなおせば直る、といふものでもないらしい。技術に不如意でお恥ずかしく、お詫び申し上げるばかりです。
ブラウザが mozilla firefox だと起こらないやうです。
根本的な解決になりませんがよろしくお願ひ申し上げます。

585:2011/08/25(木) 00:22:49
(無題)
例えば http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/shiki/sikilist1942.htm だと、
html先頭のheadタグ内
「meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=UNIXJIS"」
と書かれている部分の「charset=UNIXJIS」というのはダメです。
このページの文字コードはJISのようなので「charset=iso-2022-jp」と書いてください。

しかし他のページを見るとShift_JISのページもあるようです。
その場合は「charset=Shift_JIS」です。

586やす:2011/08/25(木) 21:06:21
文字化け直りましたでせうか。
も様、御教示ありがたうございました。

587やす:2011/08/31(水) 17:31:56
残暑見舞
 大震災以来、憂きことばかり続きます。過激化する環境は自然ばかりでなく、原発災害および外圧に対する人的なミスリードにおいても私たちの生活を脅かしてをり、「国難」といふ言葉が少しずつ息苦しく実感されるところとなってきました。

 本八月晦日は田中克己先生の生誕百年。不肖の弟子にも多少の感慨あって然るべきところですが、目下、私生活においても意気消沈の最中、気の効いたことひとつ云へず、看書もままならず、朝夕の習ひとなった諷経に己が無力感を重ね合せてをります。

 残暑見舞ひ申し上げます。

588やす:2011/09/18(日) 22:33:41
淺野晃文学散歩
 先週、北海道に一泊。所用を終へた翌日、苫小牧市立図書館を訪ね、所蔵する淺野晃の資料群を拝見し、その足で勇払に建つ詩碑も見てきました。
資料群には淺野晃の著作ほか来簡集がファイルされてあり、時間さへ許せば一通一通ゆっくり拝見したかったところ。詩碑は、今は日本製紙工場入口の緑地内に、盟友南喜一の石碑と一緒に移されてゐました。

われらはみな
愛した
責務と
永訣の時を

 後ろに、建立当時存命だった全ての日本浪曼派関係者、発起人・賛同者の名を連ねたプレートが埋められてゐて、この北限の地で出遇った田中克己先生をはじめとする懐かしい名前の数々を、指に押さへて確かめる感触は格別でした。

 苫小牧市立図書館の大泉博嗣様、また周旋頂いた中村一仁様にここにても深謝申し上げます。ありがたうございました。

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589やす:2011/10/13(木) 18:34:04
杉山平一詩集『希望』
杉山平一先生より新刊詩集『希望』の御寄贈に与りました。刊行のお慶びと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「季」誌上ですでに拝見し、見覚えある詩篇はなつかしく、ことに拙掲示板(2007年 7月18日)でも紹介した「わからない 100p」といふ詩の思ひ出が深かったのですが、今回まとめて拝見することで、あらたに「顔 14p」「ポケット 16p」「真相 22p」「反射 24p」「一軒家 26p」「天女 34p」「不合格 44p」「待つ 48p」「ぬくみ 67p」「処方 71p」「答え 88p」「うしろ髪 106p」「忘れもの 108p」などの名篇を記し得、これらを近什に有する杉山先生九十七年の詩業に対し、真に瞠目の念を禁じ得ぬところ。編集工房ノアの再びの詩集刊行のオファーも宜也哉と肯はれたことです。


「ポケット」      杉山平一

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横丁の路地裏

そこへ手を突込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの         16p



「天女」

その日 ぼんやり
広場を横切っていた

そのとき とつぜん
ドサッと女の子が落ちてきた
すべり台から

女の子は恥しそうに私を見上げ
微笑んでみせた

きょうは何かよいことが
ありそうだ         34p



「ぬくみ」

冷たい言葉を投げて
席を立った 男の
椅子に ぬくみがしがみついていた 67p



「わからない」

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につゝかゝりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでゝ
よしよしといゝました

犬の名はジョンといゝます  100p


前にも申し上げたことかもしれませんが、「杉山詩」にみられる、裏側からの考察・逆転の発想。その基底に横たはってゐるのが、攻撃的なあてこすり(批判精神)でなく、防御姿勢をくずさぬヒューマニズムであること。――それがまた裏側からの考察・逆転の発想であり、且つ、手法は明快な機知を旨としつつ、その思惑はいつも明快ならざる人生の「何故」に鍾まる。――「杉山詩」に接する毎に心に残るのは、つつましさや諦念といった、ロマン派が去った後のビーダーマイヤー風の表情、微苦笑しながら決意する市井の一員のそれであります。それは戦争が始まる前から詩人の本然としてさうだった。さらにそんな「分かった風の評言」こそ詩人が警戒した褒め殺しであってみれば、詩編の最後には、ときに心憎いサゲの代りに個人的な意思が「強いつぶやき」として故意に付されてゐるのを看ることもある。――それが、機知に自らいい気にならぬため、新品をちょいと汚して用ゐる、詩人一流の「含羞」の為せる仕業ではないのか、さう勘ぐったりすることもありました。もちろんそんなところが、詩人杉山平一がモダニズムを発祥とする戦後現代詩詩人ではなく、恐竜の尻尾を隠し持つ「四季派」現役の最後の御一人者として、日本の抒情詩人の正統に位置づけられる所以なのだと私は信じてをり、史観を同じくする若い読者の一人でも増へてくれることを庶幾して、このホームページ上で四季・コギト派の顕彰を続けてゐる訳ですが、今回新著に冠せられた『希望』といふ表題詩編の、まるで震災に対する祈念であるかのやうないみじき結構も、そのまま抒情詩人たちの評価がくぐってきた長いトンネルの歴史のやうに私には思はれ、感慨ふかく拝読したのでした。


「希望」       杉山平一

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればいいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな          12p

今回の詩集のあとがきには、ふしぎなことに「四季」のことも、師である三好達治のことも触れられてゐません。ただ布野謙爾といふ、戦争前夜に夭折したマイナーポエット、高校時代に仰いだ先輩を先行詩人としてただ一人、名指しして挙げられたのを、私は杉山平一を詩壇の耆宿としてしか認識してゐない今の詩人達に対する不意打ち的な自己紹介として、カバーを剥した時に現れる本冊の意匠とともに大変面白く感じ、彼が自分の処女作に先だちまず世に送り出したといふその遺稿詩集を読んでみたいといふ、ささやかな「希望」が起りました。これを著作権終了資料であることをよいことに誰でも読めるやう本文画像を公開させて頂きました。


「昨日「椎の木」が来た。左川ちか、江間章子の次の方へ載せられて、いささか恐縮した。すこし本格的に頑張らぬと恥しい。」(1934.6.5)

「朝、百田宗治氏より来信あり。主として“椎の木”経営についてのことであった。新しくアンデパンダン制にしたものの集まった作品のレベルが余りに低く、遂に十名位を編集委員とし、委員中心の純粋詩誌にするとのことであった。小生もその一員に推されたが、拠出金が余りにその額が大なので、これを何とか緩和して貰へないかといふやうな意味の便りを出した。」(1934.8.20)

「ボン書店より、レスプリ・ヌボウの同人になってくれと言ってきた。」(1934.8.30)
「春琴抄に対する保田與重郎氏の評論は面白く読んだ。」(1934.9.3)


詩も良いですが、こんな具合に「椎の木」に限らず、モダニズム・四季派・日本浪曼派など当年の抒情詩壇との接点が綴られる日記と書簡に興味津々、まだ途中ですが付箋をつけながら看入ってゐます。

それから杉山先生を奉戴する同人詩誌「季」95号も合せて拝受しました。矢野さん舟山さんなど長年の仲間のなかでも、杉本深由紀といふひとが杉山平一の真正の後継者として、二番煎じではなく歴史を捨象した女性ならではの感性を以て精進を積んでをられることは特筆に値します。散文で我を主張してゐるのをみたことがないのも奇特のことに感じてゐます。合せて御紹介。


「サヨナラ。」   杉本深由紀

やっと書いた サヨナラを
みつめていたら
目の中で 水中花のようにゆれた

そのうち
 ひらひら
  ひらひら

便箋から浮かび上がってきたので
息を止めて その下に書いた
ちいさな ちいさなマルひとつ

石みたいに 重たい             「季」95号 2011.9

ここにても御礼を重ねます。ありがたうございました。

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590やす:2011/10/14(金) 11:14:33
荘原照子聞書:秋朱之介、『マルスの薔薇』を編む
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』175号をお送り頂きました。早速披けば前号休載だった荘原照子の聞書き伝記の再開に抃舞――連載15回目にして、たうとう『マルスの薔薇』の刊行時(昭和11年)にたどりついたのです。?

彼女の処女作品集にして唯一の単行本『マルスの薔薇』は、前半に表題の中編小説を据え、後半に詩10篇を収めた詩文集で、稀覯本の多いモダニズム文献の中でも人気の高い一冊であります。表題作である“ろまん「マルスの薔薇」”が、フィクションといふより作者の伝記的事実をそのままなぞってゐるらしいことは、ために彼女の勘当が家族会議で諮られた事実からも窺はれ、手皮様も独自に裏付けをとりつつ、これまでも度々考証の手掛かりとして引用してこられました。謂はば印刷に付された「吐露エピソード」の宝庫なのですが、これが発表を前提に書かれたのは確かながら、どうやら進んで刊行された素性のものではない、刊行後に著作者をめぐって物議をかもした本なのです。今回はあらためて最初から筋道を追ってプロット全体の解説が試みられ、次いでその物議について考察が加へられてをります。


伝記的事実――子ども時代に強烈な印象を詩人に与へたと思しき、個々の出来事や登場人物の造形に妙なリアリティが感じられることは、初めての小説にして天稟煥発と云ってはそれまでですが、父親の酔態描写などなるほど勘当の発議もありなんと思はされます。ラブレターは実際に投函された写しが使はれたでのでせうが、客間に現れる山師の女怪に至っては「水色地に華麗な紅薔薇の花模様の着物、紫無地の羽織をつけ、深紅に近いゑび色の袴」といふ、さながら宮崎アニメに出くる魔法使ひといったいでたち(笑)、実際に見聞した人物であったのかどうか。露悪的といふより頽唐的な描写は、自身に関しても、素裸にされガラス箱に閉じ込められるといふ、嗜虐的なトラウマを白状(夢想?)してみせるのですが、これなど真偽の程はともかく、文学が不良青少年のたしなみだった当時、田舎の未婚の箱入り娘が初めて書いた小説で披露できる表現でないことだけは、確かでありませう。後生可畏と家族一同が息をのんだことは想像に難くありません。


手皮様は、この風変りな教養小説(?)の魅力が「数学的構成による姿態」といふ著者の抱負にではなく、あくまでも「小説の面目は、詩人の書いた小説であり、イメージの表出の鮮度にあった」ことを指摘し、伝記的事実が与へたリアリティであるとは語ってはをられません。しかしもうひとつの物議、この意匠抜群の一冊の編者であった、ロマン派気質たっぷりの出版仕掛人・秋朱之介に対して、著者が思ひ出を振り返るたびに激怒してゐた事実について語ります。一篇の作品が一冊の本に凝る時に、共有すべき責任が放擲された事。この本の、断りなく著者の与り知らぬところで刊行された「サプライズ」が、意図に反して全く逆効果に終った理由。つまり物議はむら気な編者による「校正の杜撰さ」に対して起ったのですが――それも取り返しのつかない誤植として、主人公タカナの恋人の年齢「廾五(25歳)」を一本棒を間違へて青年から「卅五(35歳)」のオジサンにしてしまった、その一事に極まったのだらう、と推察された条り、これはまことに炯眼と思ひました。若き日の失恋を弔ふべく心血を注いだ“ろまん”に対するこの上もない冒瀆。もっともこの「恋人25才説」は、本人に直接確かめることのなかった仮説ではありますが、しかし罵倒の歇むことのなかった詩人と永らく対峙された手皮様だからこそ、後年フィールドワークの結果くだし得た断案は「聞書きに残されなかった不可触の真実」のひとつではなかったのか。私もさう思はずにゐられないのです。醜聞の曝露など、そもそも発表されることを覚悟の上で書いた原稿であってみれば、それが勝手に刊行されたからといって何の怒る理由には当りませんから。


さらに私が思ったのは、「数学的構成による姿態」といふのも、緻密に筋を組み上げていったといふより、当時の自分の心情に忠実なところを、思ひ出と書簡を縦横に利用しながら、詩を書くやうに書き進めてゆくことで、モダニズム特有のコラージュ発想が散文にあっては奇しくも場面の切替りの妙として作用したのではなかったか、といふこと。いきなり書いた長い小説が、破綻を免れ詩的香気豊かな佳編に結実したのは、もしかしたら「詩人の自伝」に許された一回限りの僥倖・ビギナーズラックではなかったらうか、といふことでした。実際、かうした小説は以後も書かれたのでありませうか。これについてはやがて「著作目録」の後半とともに明らかにされませう。


とまれ意味不明の飛躍が当たり前のモダニズム詩文学に於いて、誤植の具体的な証言が本人より得られてゐるのは貴重であり、味読の上で見過ごせない「理性」→「野生」など、早速公開中の画像を訂正することにしました。いつか活字になることがあったら、定本は本文の方を「廿五歳」と記してあげてほしいところです。


舞台はこのさきモダニズム受難の時代に入ってゆきます。いづれ彼女の詩壇退場劇については、聞書きにより明らかになった顛末も描かれることになるのでせう。今わたしが一番たのしみにしてゐる連載なので、手皮様には貴重な当時のモダニズム詩人達との交友記録を、出来うる限り多く、長く綴って頂けたらとねがってをります。


御健筆をお祈りするとともにここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『菱』175号 2011.9.1詩誌「菱」の会発行 \500 問合先:0857-23-3486小寺様方

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591やす:2011/10/17(月) 12:37:51
『布野謙爾遺稿集』
 このお休みを、杉山平一先生の編集に係る『布野謙爾遺稿集』の、特に日記と手紙を抜き書きしながら読んでをりました。恰度、手皮小四郎様の前回の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書(「菱」173号)」で、当時の「椎の木」に惹起した内紛と分裂について記されてゐるのですが、この遺稿集に収められた日記・書簡を読むと、当時の彼は荘原照子とは反対に、大阪に拠点が移った第四年次の「椎の木」に残り、編集を受け継いだ山村酉之助(荘原照子曰く「ギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子」)の人柄についても信を寄せてゐたことがわかります。

□「いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養)やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18 草光まつの宛)

 しかしこのさき名跡「椎の木」と、あたらしく分かれ別冊誌の名を継いだ「苑」は、同じく季刊を継いで月刊となった「四季」のやうには長命を保つことができず、ある種共倒れの感を呈して廃刊に至ります。それはモダニズムの裾野が囲い込まれてゆく時代状況にあって、中途半端なモダニズムが新領土に淘汰凝縮されていったこと、そしてこの分裂劇以降「新進詩人の育成」について、自身のモダニズム転向を封印(?)してしまった宗匠の百田宗次が興味を失ひ、放擲してしまったといふ事情にあったもののやうです。
 「椎の木」の同人達、とりわけ布野謙爾と姻戚関係にあったと思しき景山節二については、なぜ先輩と袂を分かって「苑」の方へ参加したのか。生前の詩人と面識のあったといふ手皮様も、今回景山家に叔父がゐた事実には驚かれたとのこと。今後、言及が俟たれます。また私も高松章、宍道達といったマイナーポエトの詩集との出会ひを私かに喜んでゐたところ、こんなところでその名に出喰はすとは思ひませんでした。全集類における日記や書信、そして序・跋において明らかにされる交友関係といふのはとりわけ詩人に於いて頻繁で、興味の尽きないところです。さうして布野謙爾が杉山平一を通じて「四季」「日本浪曼派」などモダニズムから意味の回復への接近してゆく過程といふのは、謂はば結核にむしばまれた彼の衰弱過程に沿ってゐるやうです。

□「四季の会に 出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。」(1936.7.20 杉山平一宛)

 健康さへ許せばおそらく内地での就学とともに、中央詩人達との通行、また発表の機会も拡がってゐたことでせう。ファッショを厭ひ、朝鮮の現状に心を痛め、杉山平一の詩に萌芽するヒューマニズムを賞してゐた彼にあって、「お金持で教養のある人はプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しい」と観念した精神が、先鋭化に伴ふ手段としての詩に傾斜していったモダニズムに対して、どのやうな回答を実作において示し得ただらうか。さう残念に思はれてなりません。

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592やす:2011/10/17(月) 23:40:45
『桃の会だより』 / 『保田與重郎を知る』
 山川京子様より『桃の会だより』6号をお送り頂きました。ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 例によって短歌に評など下せぬ自分ですが、文章はいつも楽しく拝見、今回は野田安平氏による棟方志功を語る短文あり、詩人山川弘至『国風の守護』と京子氏『愛恋譜』の二冊を「装釘がとりもった比翼」と表現されたのを、いみじき言葉に受けとめました。「志功装」といふだけで、著者間の教養にも何某かの共通理解が保証されたもののやうに感じてしまふのは、もちろん雄渾な筆さばきの為せる力技でせうが、画伯が『改版日本の橋』を代表とする日本浪曼派関連の印刷物の装釘を戦争中に一手に引き受けたことが、戦後は仇となり、版画家として「世界のムナカタ」に功成り名を遂げた後も、造本家としては色眼鏡でみられること多々あったに相違ないと推察します。尤も画伯自身が彼らとの交友を革めなかったことが、日本浪曼派の為にはきっと得がたい恩となり、また時を経た今となっては、再評価の成った保田與重郎とともに、節操の輝きをお互ひに永久のものにしようとしてゐる。これは有難いことであり、棟方志功と日本浪曼派といふのが、そもそもさうした連理の関係にあるやうです。
 四季派における深沢紅子と日本浪曼派における棟方志功は、伝統を現代のなかに活かさうと目論んだ昭和十年代の抒情を、本の型に凝らせることに成功した装釘家として双璧と呼ばれませう。著者においても彼等の装釘を戴くことが時代の勲章だったといふことを、野田さんの御文章からもあらためて感じました。
 またさういふ気圏の中で起きた詩人山川弘至と京子様との物語は、古代を現ずる一種の神話として語り継がれる運命にあり、郡上の山の奥に安置せられた「本尊」である詩人と、その「語り部」である京子様の、一対一に向き合はれた絶対の関係は、京子様の人徳と雑誌継続の意志により、今では野田氏を始めとする『桃』会員のみなさんとの関係に、うたの道としてひとしく受け継がれてゐる。――編集に当たられてゐる鷲野氏といひ、野田氏といひ、まことに心強いことに存じます。末尾に鷲野氏が抄出された石田圭介氏の代表作は、奥美濃の八月、蝉しぐれの中の静寂を写して実に愛誦に堪ふべきものと感じ入りました。

御歌碑をめぐりて咲けるおそなつの花うつくしく山深きいろ


 またこのたび『保田與重郎を知る』(前田英樹著 新学社2010.11)といふ、生誕百年を記念して昨年刊行された本のあることを知り早速註文、遅まきながら手にとったところです。冒頭まえがきでは――、これまで「文芸評論家」としてしか肩書がなかった保田與重郎について、日本古来の精神を「文章といふ肉体のなかに発光してくる取り換えのきかない意味」のなかで再体験すること、その大切さを一番に語り継がうとした「思想家」として、また歴史的にはその最後の祖述者となった「文人」としてみつめなほし「簡潔に素描」することが目的であると、述べられてゐます。生誕百年の感慨を新たにせずに居られません。「ですます」調だからといって何が入門書であるものでせう、ゆっくり本文を味読すべく(まだDVD観てない♪)、合せて茲に御報告まで申し上げます。

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593二宮佳景:2011/10/25(火) 01:37:03
『不二』九・十月合併号
 野乃宮紀子氏による書評「『淺野晃詩文集』に寄せて」を収録してをります。淺野と縁浅からぬ『不二』に書評が発表されたことに、深い感慨を覚えます。
 野乃宮氏は淺野晃の薫陶を受けた方で、芹沢光治良の研究家です。

594やす:2011/10/27(木) 22:21:31
(無題)
二宮様

 『不二』は昔の歌誌のやうに思ってゐましたが『桃』『風日』同様、現役雑誌なのですね。一番書いて頂きたい方の評言に、編者の中村さんも人心地ついたのではないでせうか。喜びも一入のことと拝察。読んでみたいです。


 また、圓子哲雄様より「朔」172号の御寄贈に与りました。地震の心労により刊行が遅延せられたことに自責の必要はございませんし、ただ震災が詩人達の胸に深く蔵され、滓が沈み、抒情詩として上澄みが掬ひ取れるやうになるまでには、今しばらく時間がかかるのでは。東北・東日本の同人が多く、皆様方からは今後、満を持しての投稿が寄せられることでありませう。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

595やす:2011/10/27(木) 22:46:56
『保田與重郎を知る』
 先日刊行を知って遅まきながらamazonに註文したうっかり者です。帯に「入門の決定版」と謳ってありますが、これまでいろんな評論家によって明らかにされてきた「隠遁詩人の系譜」や「米づくり」など、キーワードを態よくまとめて解説してゐる本ではありませんでした。誰しもなかなかうまく言葉にはできなかった読後感の正体を、易しく語ることは、「ですます」調の語り口とは次元のちがふ話で、そらすことなく得心ゆく説明をするのは決して「易しいこと」ではない――「入門の決定版」なのはその通りですが、初学者のための一冊といふより、核心を突いた一冊、否、私自身が初学者であることを思ひ知らされた一冊でありました。といふのも、このサイトでは嘗て、保田與重郎の文体と「自然」とが、人に及ぼす形而上的な感興を一にする不思議について、訳わからぬまま極めて稚拙な感想を上してゐたからです。

 出版元の創業精神を思へば、この本が所謂国文学の専門家ではなく、思想家と剣術家、謂はば文武両道をよくする教育家の手で、祖述者の姿勢に貫かれて書かれてゐることに、深い意義を感じたことでした。


「この人くらい、この名が完全に、異様に不似合いなところまで昇りつめた「文芸評論家」はいないでしょう。」4p


「すでにこの少年は、学校の勉強とはかけ離れた本格の教養を身につけてしまっていた。この読書法は、後の文芸評論家、保田與重郎の文学界における孤独というものを約束しているようにも思われます。」16p


「(柳宗悦や折口信夫)らの学問は、始めから政府や大学からのお墨付きをもらえる公の方法を注意深く拒むものでした。」22p


「たとえ、そこに暴言に近いものがあったにせよ、何もかもが覚悟の上、というふてぶてしさに文は溢れていました。」26p


「彼の文章は、主語、述語といった統語要素の首尾一貫した構成で成っているのではありません。言葉は言葉を粘りのある糸のように吐きだして、うねるようにその文脈を引き延ばし、変化させてゆきます。このような在り方は、古代日本人が、大陸から文字というものを移植して以来、長い訓練の歴史を通して作り上げていった和文の本質です。保田は、そうした和文の本質を、日本語による近代散文のなかにはっきり生み出そうとしているのでしょう。その文章のどこか捉えどころのない進み具合は、まさにここで保田が描き出そうとしている日本の橋と、またその機能と、たとえようもなく一致しているではありませんか。」36p


「(系譜の樹立)それは「樹立」であって、追跡や調査では決してありません。保田の文業がこの「系譜」を「樹立」するとは「系譜」の全体が、彼自身の文体によってまるごと再創造されることを意味し、また「系譜」の尖端にみずからの文業がはっきりと据えられることを意味するのです。」71p

 など、各所で繰り出される言葉が実に気持ちよく胸に落ち、また原発事故やTPP問題の前に刊行された本であるにも拘らず、抄出される文章には、つひ日本の行末を重ねてしまひ、粛然たる思ひを致さずには居られなかったです。


「(ガンジーの無抵抗主義は)日本の自由主義者のやうに、戦争は嫌ひだ、自衛権の一切は振るへない、しかし生活は近代生活を続けたいといった、甘い考へ方ではありません。その考へ方は非道徳的であって、決して無抵抗主義ではありません。(昭和25年『絶対平和論』)」142p


「我々は百年前、黒艦と大砲の脅迫下で、鎖国を守るべきだと主張した国論の真意を、今日、高く大きい声として、再び世界の人道に呼びかけるべきである。鎖国を主張した日本のその日の立場には一種の惰性的な安逸感を保持しようといふ消極退嬰のものをふくんでゐたかもしれない。今日はしからずして、人道の根拠として世界に叫ばねばならない。この思想を我々は国民の内的生命に於いて確認するからである。(昭和59年『日本史新論』)」147p



 さて付属のDVDですが、こちらは大和の風俗と米作りに絞って、思想の紹介に重きが置かれてをり、映像が美しかったです。人となりが窺はれるエピソードを、インタビューや(もしあれば)録音資料など雑へてもっと多く紹介し、人物伝としても充実させることができたら、このままテレビの深夜枠の特番ででも流してもらひたい感じです。実は初めての紹介映像といふことで、私はもっと手前味噌の出来栄えを予想してゐたのですが、帰農した菅原文太が東北人である自らを「まつろはぬ民」として一言くさびを差しつつ自嘲してみせるコメントがあったり、谷崎昭男氏、前田英樹氏のインタビューならびに特典映像での身余堂未カット映像集にはただもう興味津津、見入ってしまったことです。

 ひとこと宣伝まで。

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596やす:2011/11/05(土) 15:49:40
雑感
 大牧冨士夫様より『遊民』4号落掌。小野十三郎の思ひ出を興味深く拝読しました。戦後の一時期、わが師田中克己とは帝塚山学院で同僚だった時期がありますが、戦時下を凌いだ大物左翼詩人であり、戦後詩壇で反抒情気運を扇動する一世代上の彼と先生とは、おなじく同僚でも『大阪文学』と『四季』の同人であった杉山平一先生を年少の詩友にもつことで、直接の接触の機会をお互ひが避け合ったもののやうに、私は感じてゐます。少なくとも帝塚山時代のお話を伺ふたびにその名は出るものの、田中先生は憎しみも親愛も示しにはなりませんでした。

 その世代――近代の節目を飾った明治末年〜大正初年生まれの人達による精神的所産が、詩の分野に限らずおそらく日本の知識人が示した最後の高みであったらうことは、これから迎へる百年で、嫌といふほど私達子孫は思ひ知らされることになりませう。

 このたびの雑誌では、左翼陣営にある同人の方々の筆鋒が、定番の戦前軍国主義の批判から、下って此度の大震災、ことにも原発問題に向けられてをります。次代を担ふ孫たちの命を守る、そのために食生活を守る、当たり前の話ですが、しかしそれは同時に食をとりまく環境と文化を守ることでもあって、この危機に対しては、今や右も左もないのでは、と私などは思ひます。旧世代の左翼陣営にとっても、守らなくてはならない食生活のアイデンティティに、必ず日本文化の連続性がくっついてくるがどうする、といふ、今までの批判者一辺倒からの転身が迫られてゐるやうに感じるのです。

 たとへば「非国民」なんてのはまことに聞き捨てならぬレッテル言葉ですが、軍国主義を想起するより、もはや豊かさ(物欲)の奴隷になり下がってゐる私たちを打つ「警策の言葉」として、その語気を以て投げつけるに相応しい現実の数々に、いま正に私たちは直面してゐるのではないか――そんな気がしてなりません。はしなくも原発事故や口蹄疫・鳥インフルエンザによって明らかになったのは、これまで浪費文化が隠し続けてきた恥部なのであって、このたびのTPP問題をめぐっても、私はそんな視点から賛成派の人々が示す損得勘定を注視してゐます。さきのレビューに上した『保田與重郎を知る』で何度も語られてゐたのは、米作りを基本とする日本の国体でした。天皇制を解体するのにTPPは決定的な政策である筈ですが、生活防衛を盾に共産党が右派政党と同じく反対に回ってゐることに、私は勝概を禁じえないのです。同人のみなさんが地域の先達に仰ぐ一人には、杉浦明平がある由。彼が生涯を通じて憎悪した同時代文学者こそ保田與重郎でありました。両者の和解はないまま、憎悪も祈念も、ともに将来の記録文化事業のなかで懐旧されるだけの時代がやってくるかもしれない・・・そんな未来の日本への分岐点に立たされてゐるやうな、不穏な空気が社会にたちこめて参りました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

597やす:2011/11/05(土) 15:52:07
近況
 前の投稿に対する政治的レスは不要です。

 また、10月20日に加藤千晴の『詩集宣告』の画像をupしましたが、30日の山形新聞朝刊にて、詩人の紹介記事(「やまがた再発見」高沢マキ氏)が大きく一面で掲載せられた由、酒田市の齋藤智様より現物とともにお知らせ頂きました。ありがたうございました。

 風邪が治らず、明日の杉山平一先生を囲む会には出られさうもありません。お知らせ頂きました矢野敏行様には、面目なく、残念でたまりません。

598二宮佳景:2011/11/05(土) 20:26:05
淺野晃についての番組
 先月、苫小牧ケーブルテレビで淺野晃についての番組(「刻の旅〜ANOHI」 苫小牧人物伝・浅野晃)が放映されました。このほど、それを収録したDVDを観る機会に恵まれました。20分の短い番組でしたが、生前の淺野晃を知る平井義氏(元国策パルプ工業勇払工場総務課長)の回想が番組に説得力をつけていました。水野成夫や南喜一の写真が出てくれば、もっと良かったと思いました。しかし、全体として、淺野について何も知らない視聴者には実にいい入門篇というべき放送内容で、制作者に敬意を払いたいと思った次第です。
 平井氏が取材に際して、『淺野晃詩文集』を手に姿を見せたのに、思わずニヤリとしてしまいました。また、館長や司書こそ姿を見せませんでしたが、苫小牧市立中央図書館の手厚いサポートを、番組から強く感じました。地域の図書館のあるべき姿を、改めて強く思ったことでした。

599やす:2011/11/06(日) 00:43:10
詩人の声
二宮さま

 淺野晃の番組、よい出来であった由、なによりです。しかし保田與重郎のDVDといひ、あってもよい筈の肉声や映像が出て来ないのも、謦咳に接し得なかった私達後学には歯痒く思はれるところです。かく云ふ私も、田中先生との対談を録音しておけば面白かったんですが、一度要請したら峻拒されました(笑)。今では小さなチップで何でも盗撮盗聴できてしまふ時代ですから、却って恐いですが。

 先日CDではじめて北原白秋や萩原朔太郎の肉声を聞きました(ここから試聴できます)。戦後の音源集はすでに知ってゐましたが(『昭和の巨星 肉声の記録 : 昭和35年ー39年の映像資料 ; 文学者編』)、まさか昭和初期に録音された詩人達の声がこんな高音質で残ってゐたなんて、初耳にして一体これまでどこにお蔵入りされてゐたものやら、懐かしさに絶句されたであらう、今はこの世に無い諸先輩方の生前に企画されるべき貴重な貴重な音源集でした。

『コロムビア創立100周年記念企画 文化を聴く 』

600やす:2011/11/08(火) 23:55:37
掘出しもの二題
 掘出しものが二つ到着。

 一つは苦労して掘り出したといふより、誰でも目につくやうな露天掘りの目録から逸早く注文できた僥倖に過ぎないが、なにしろ揃ひを断念した筈の『柳湾漁礁』の初集である。二集、三集と一冊づつ手に入れてきたが、ハイブロウな古書通にとって今や館柳湾は柏木如亭に次ぐ大人気の漢詩人。入れ本で揃ったこの嬉しさは、山本書店版の『立原道造全集』特製版のとき以来かもしれない(笑)。

 しかもやはり「掘り出しもの」には違ひないことが分かって、吃驚してゐる。といふのも、買った所や値段・汚れ具合から、初(うぶ)ものであるとは思ったが、奥付や見返し印刷がなく、おまけに巻頭にあるべき日野資愛卿の序文さへ無かったことである。普段、古本を買って落丁に遭へばガッカリ肩を落とすところだが、こと和本に限ってはさうとばかりは云へない。つまりこの本、市販される前に頒布された初刷版かもしれないのである。贔屓目で見れば二三集とはサイズ・色も違ふし、本文紙も厚い。因みに太平文庫復刻版に於る序文を記せば
1. 日野資愛、2.呉竹沙の絵・永根鉉、3.大窪詩仏、4.葛西因是、5.亀田鵬齋、6.北條霞亭、7.松崎慊堂、8. 菊池五山の順だが、この本では
1. 松崎慊堂、2. 北條霞亭、3. 菊池五山、4. 大窪詩仏、5. 葛西因是、6. 亀田鵬齋、7. 呉竹沙の絵・永根鉉となってゐる。序文の順序を製本時にしくじるのはよくあることだし、角裂れがないので入れ替への可能性も残るものの、一応参考までに記しおく。本文に異同はないやうである。

 もう一つの掘出しも漢詩で、こちらは掛軸。昨日ツィッターでつぶやいたが、わが所蔵する筆跡の最古記録を更新したことである。明和5年(1768)といふから今から250年前、尾藩督学だった岡田新川といふ儒者の書で、こちらへの注文は或ひは私だけだったかもしれない。当時32才、発足したばかりの名古屋の藩校明倫堂の公務忙殺の合間、近くに住みながら疎遠中の詩盟に向かって、菊でも眺めながら陶淵明みたいに新酒で一杯やろみゃーかと呼びかけた詩。今夏購入した晩年の詩集には収められてゐなかったが、その友人の名はあった。そこで序でのことながら夥しく現れる人名をタイトルごと抜き書きして添へてみた。なかには美濃の人もあるやうで、何かの覚えになればといふ魂胆。実は我ながらをかしいが、調べもので検索してゐると屡々自分のサイトにヒットして自らに教へを乞うてゐるやうな体たらくなのである。

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601やす:2011/12/04(日) 20:52:29
『和本のすすめ』岩波新書
 新書を読む人に気忙しい人が多いためか、冒頭早々「江戸観の変遷」「江戸に即した江戸理解を」といふ核心的結論が掲げられてゐるのですが、ここを読んで何も感じないやうなら、その後に続く文章はもとより、和本といふ気軽に手にすることのできる自国の文化遺産には無縁の人なのでせう。抑もそんな御仁はこんな名前の本を手にとる訳もないか(笑)。

 しかしながら、かつて岩波文庫に『伊東静雄詩集』が迎へ入れられた際、少なからず感動を覚えた者として、再び感慨に堪へないのは、近代進歩主義もしくは西洋教養主義に対する痛烈な反省を迫った本書の内容が、その牙城であった岩波新書自身の一冊として刊行されたことであります。何度も書かれてゐるのが享保の出版条例のことで、それが言論統制といふより出版上の営業権利を保障するものであったこと。江戸時代の封建制度における庶民の自由と権利が、為政者の成熟した倫理感のもとで十全に確保されてゐたことを、その後の出版隆盛に鑑み「事実として肯定」してゐる点ですが、ここに至って五度目の「江戸観の変遷」、すなはち五度目の自国文化に対する反省を迎へた日本の学芸界が、左傾した思想偏重主義から本当に脱却しつつあるのだな、といふ「事実としての肯定」を、私は岩波新書といふ象徴的な「物」に即してまざまざと見せつけられた観がしてなりませんでした。尤も岩波書店の販促誌「図書」に連載の文章ですから、新書にまとられたのは当然なんですが、本書に説かれてゐる「物」としての和本の大切さといふのも、今様に実感するなら、つまりさういふことなのであります。

 論旨たる「和本リテラシー」については前半三章に集中して説かれてゐます。分かり易く書かれた和本学概論としては、「誠心堂書店」主人橋口侯之介氏による『和本入門』(平凡社 2007, 2011平凡社ライブラリー)と双璧をなしませうが、研究者としての興味はやはりサブカルチャーに傾くもののやうで、漢詩好きとしては後半は流し読み。謹恪な行文は和文脈に親しい著者にして、気合や皮肉の入る処で長くなる様子が、管見では一寸三好達治の息遣ひに通ずる面白さがあるものに感じました。

 電車の中で、新書や文庫、たまに洋書のペーパーバックなんぞを披いてゐる人も見かけることはあるのですが、ついぞ和綴本の字面を追ってる人を見たことがありません。外出時に携帯したいのは、手にささへかねるやうな一冊の和本。そんな老人になるべく、最近は毎朝トイレで『集字墨場必携』の字面と睨めっこしてをります。

中野三敏著『和本のすすめ』2011.10 岩波新書 新赤版 1336 \903

602やす:2011/12/30(金) 21:55:06
「感泣亭秋報」第6号
 小山正見様より年刊雑誌「感泣亭秋報」第6号を拝受。手違ひあってクリスマスプレゼントとなりました。今年の「感泣亭秋報」は小山正孝夫人、常子氏の新刊エッセイ『主人は留守、しかし…』の出版記念号となってゐるのですが、夫妻の最大の理解者であった坂口昌明氏が9月に逝去。来春には竣工するといふ、物理的顕彰空間となる「スペース感泣亭(仮称)」の構想にも氏は大きく関ってゐた筈であり、今後の感泣亭運営に於けるこのスペース(空席)の喪失感は計り知れぬものがあります。ここにても御冥福をお祈り申し上げます。

 かくいふ私も今回原稿依頼を受けたのは、一度坂口さんからは忌憚ない御意見を賜りたかったから。この機に(書き手でもあった)自分の中の四季派理解について、なるべく分かり易く述べてみよう、と総括を試みたつもりでした。しかし批正を乞ふことも叶はずなり、また自分自身を見透かすやうな文章を書いてしまひ、今後「四季派とは何ぞや」なる設問に対して、なんだかこれ以上書くことがなくなってしまったやうな気もしてゐます。

 ただ雑誌の内容は、晦渋な恋愛詩を書き続けた詩人である夫について、みずみずしい感性で自ら思ひ当たる夫婦関係の節々を回顧した著者の文才に焦点が集まり、これに大いに掻きまはされた執筆陣が一様に踏みこんだ感想と考察をものしてゐます。「第2特集」――麥書房社主堀内達夫氏に関する文章とともに、年刊雑誌に相応しい充実した内容となったことはお慶び申し上げる次第。ネット上では話題に上ることの少ない個人研究誌ですが(サイト上でも未だ今号の紹介はされてゐませんね)、詩人と親和性ある気圏に対象を広げてゆきたいと抱負を語られた感泣亭アーカイヴズの主宰者、御子息正見氏の今後の舵取りは、坂口氏の後ろ盾を失ひ前途多難ではありませうが、雑誌「感泣亭秋報」が四季派研究家・愛好家の欠くべからざる必須文献として、この平成も20年代に入った現代、毎年刊行され続けてゐる意義といふのはまことに大きい。今回は刷り上がりを3冊頂いたうち2冊を差し上げてしまったので、拙文については許可を得て【四 季派の外縁を散歩する??第17回】にて公 開させて頂きました。
「感泣亭秋報 六」 2011.11.13 感泣亭アーカイヴズ発行 21cm, 68p  連絡先は感泣亭サイトまで。

【目次】

【詩】 誰が一番好きかと聞かれたら 小山正孝 2p

恋愛詩人が作る物語と現実――小山常子『主人は留守、しかし…』を読んで 國中 治 4p
正孝氏への「返歌」 里中智沙 12p
最良にして稀有の伴侶――小山常子著『主人は留守、しかし…』 高橋博夫 14p
詩人再考――小山常子氏の新刊に寄せて 中嶋康博 16p
常子夫人と小山正孝氏 大坂宏子 23p
小山常子様の出版を祝して 圓子哲雄 27p
坂口さんが発見した『津軽』――坂口昌明さんを悼む―― 竹森茂裕 30p
小山正孝の詩世界5『散ル木ノ葉』 近藤晴彦 32p

【感泣亭通信】??松木文子 瀧本寛子 高橋 修 永島靖戸 山田雅彦 絲 りつ 國中 治 石黒英一 神田重幸 相馬明文 佐藤 實 中嶋康博 西垣志げ子 荒井悌介 小栗 浩 西村啓治 馬場晴世 高木瑞穂 益子 昇 安利麻 愼 木村 和

【詩】テイク番号 森永かず子 50p
   あなたの羨望が 大坂宏子 52p
   明日 里中智沙 54p


立原道造を偲ぶ会と堀内達夫さん 益子 昇 56p
堀内達夫さんのこと 藤田晴央 58p
昭和二十年代の小山正孝2――小山−杉浦往復書簡から―― 若杉美智子 61p
小山正孝伝記への試み2――前回の修正と初恋の話―― 南雲政之 63p

感泣亭アーカイヴズ便り (編集部) 67p

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603やす:2011/12/31(土) 01:21:09
よいお年を。
 さきの投稿で、四季派について何だかこれ以上書くことがなくなってしまった、なんて記しましたが、これは詩集コレクション構築に対する執心が低下したからかもしれません。もちろんモチベーションの低減には理由があって、

1.探求書の最高峰であった宮澤賢治の詩集を、古書店の御厚意で手に入れたこと。
2.反対に、(資金・地の利はともかく)、私の了見が狭い所為でこの数年間次々に知友と専門店のコネクションを失ったこと。
3.国会図書館やgoogle booksで実現しはじめた著作権切れ書籍の公開事業により、これまで拙サイト上で公開してきた原資料画像に「賞味期限」が設けられる見通しがついたこと。
4.そして最後に(これが一番の理由ですが)、興味分野に「郷土漢詩」が加はったことでいろんな「防衛機制」がされるやうになったこと。つまり近代詩の詩集が買へなかったら漢詩集を買ふ、或ひは漢詩が素養として強いる道徳によって執心をクールダウンできるやうになったといふことが挙げられると思ひます。勿論わが年齢もありませう。

 幻の詩集とよばれた稀覯本も早晩パソコン上で読めるやうになり、所在情報の詳細が明らかになれば、原物を借りる方策も立ち、購入に際しては価格の比較だけでなく在庫のだぶつき具合も確認できるやうになる。こんな具合に敷居が下がったのはすべてインターネットの恩恵ですが、さらに個人的な状況として、まだ味読されてゐない多くの本が、書棚から恨めしげに私を見下ろしてゐるのにそろそろ耐へられなくなってきた、といふ事もあります(笑)。なるほど難しい研究書を読み返すことがなくなり、この年末に段ボール5箱ほどを“断捨離”した私は、もはや四季派愛好家として薹が立ったと云へるかもしれません。床の間に安置した良寛禅師坐像に向かひ、「修証義」の諷経を日課とすること一年。そのうち野狐禅の説く「コレクター修養講義」が始まりさうです(笑)。

 冗談はさて措き、そのほかのニュースおよび、本年の収穫を御報告。


 「日本古書通信」12月号の巻頭記事にありました、地方図書館の和本群が財政上の理由で博物館に移管されるといふ話。確かに江戸時代の刊本をコピーにかけることを古文書同様に禁ずる学芸員と、読まれることを願って世に送り出された著作物について可能な限り利用促進を図らうとする司書とでは、和本に対する立ち位置が全く違ひます。殊にも私のやうな人間は、原資料を実際に手にとることこそ、著者と著者の生きた時代に直接つながるための唯一の儀式であると実感してきた人間なので(ネット上で行ってゐるのはあくまでも代償行為と興趣喚起です)、地元博物館へ調査に行った際にも同種の不満を感じたことですが、死蔵されんとする和本資料の悲運を思っては同情を禁じ得ません。


 高木斐瑳雄が社長を務めてゐた実家、伊勢久の社史『伊勢久二百五十年』を寄贈頂きました。地元陶磁器産業の歴史資料としても貴重であり、図書館へ寄贈させて頂きましたが、詩人に至るまでの歴代社長の経歴紹介ページについては、許可を得て転載公開してをります。御覧下さい。
 思へば大震災の当日あの時間に何をしてゐたのかといふと、私は図書館まで御足労下さった社長さんと高木斐瑳雄のことをお話ししてゐたんですね。その一年が暮れてゆかうとしてをります。まことに公私ともに厳しい運命が啓かれんとする一年でした。 どなた様もよいお年をお迎へ下さいませ。


2011年の収穫より (収集順)

安西冬衞詩集『渇ける神』
松浦悦郎遺稿集『五つの言葉』
『淺野晃詩文集』中村一仁編 新刊
大垣鷃笑社編『鷃笑新誌』1-11合冊
頭山満翁 掛軸
澤田眉山詩集『三堂集』
大沼枕山詩集『枕山詩鈔』初刷
岡田新川詩集『鬯園詩草』
杉山平一詩集『希望』新刊
前田英樹著『保田與重郎を知る』新刊
加藤千晴詩集『宣告』
館柳湾詩集『柳湾漁唱 初集』初刷

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604やす:2012/01/10(火) 00:25:23
謹賀新年
この正月は逼塞せる毎日。頭の回らぬ時には小難しい本に齧りつくより、香華灯明に向かって一炷の間、お経を唱へるに如かずと、または正月らしく「百人一首」のくづし字の読み当てなどして過ごしをりました。国情・公私生活ともに一陽来復を祈念。今年もよろしくお願ひを申し上げます。

大晦日に中村一仁様よりおたより拝承。お心遣ひをありがたうございました。 画像 full size

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605やす:2012/01/15(日) 20:03:12
先師廿年忌
田中克己(たなかかつみ)1911-1992 詩人、東洋史学者。「四季」「コギト」編輯同人。


【田中克己先生との写真】1989.02.24
先生と一緒に撮った写真はこれ一枚しかない。長男御夫婦と同居するべく自宅を改築することになり、同じ町内の二階家を借りて移られると、半年ほど蔵書を段ボールに詰めたまま奥様と二人で生活してをられた。処女詩集をお持ちしたのも思へばこの家である。先生は着た切り雀で入歯を外し風采上がらず、私も柄にもない赤い色を着てパーマなんかあててゐる。蜜柑箱をバックに甚だ体裁の悪い一葉であるが、この日来訪された久米健寿氏(平田内蔵吉研究者)がカメラをお持ちだったお陰で、悠紀子夫人とも三人同席の写真が遺されることとなった。思ひ出深いわが宝物である。

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606やす:2012/01/23(月) 10:13:46
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第16回 『日本詩壇』の頃
 手皮小四郎様より『菱』176号を御寄贈頂いた。荘原照子の聞書きは、今回と次回にかけて戦前におけるモダニズム受難の時代が対象となる予定である。詩人に於いて因をなした『日本詩壇』といふ詩誌が、そもそも荘原照子といふ詩人を迎へるだけの器が無かったことは、『椎の木』なき後ここへ身を投じた彼女自身すでに承知のことではなかったか、とも思ったものである。
 といふのは、詩壇の公器的存在『文藝汎論』からのオファーはともかく、彼女がハイブロウなモダニズム詩誌であった『新領土』もしくは『VOU』、あるひは『四季』のやうな知的なエコールの香り立つ在京雑誌にどうして参加しなかった(または呼ばれなかった)のか。才気煥発にして気丈な一方、プライド高く臆病な性格が、羸弱な彼女をして近所の雑誌の門を敲くことを躊躇はせたのではなかったか。横浜に住みながら大阪のアンデパンダン的性格の強い『日本詩壇』に拠り、さらに「秘密出版みたいなあっちこっち」の地方詩誌にこそこそ寄稿してゐた事情が気になる。つまり官憲にチェックされ、監視されるまでに至った経緯にこそ、彼女の詩人としての自恃をみるべきではないのか。手皮さんの丹念な発表誌探索から、私はそのやうな詩人の業を感じるのだった。
 もちろん「神戸詩人事件」と同様、それは当局による過剰な猜疑心による民心介入であったが、しかし詩人としての彼女の存在が、在京の詩誌編集者にはどう映ってゐたのか、そして彼女自身、ルサンチマンを溜めこんだ時代の病変の深刻さを、芸術至上主義の立場から甘く見てゐた節がありはしなかったか。
 以前拙ブログで紹介した兼子蘭子も、仲間内の雑談を通報され、憲兵に引っ張られ一時収監されてゐる。当時散文で自分の意見を書かうとする程の女性は「報国もの」が依頼される程度にすでに社会的に著名か裕福でなくては、詩だらうがエッセイだらうが、内容に拘らず、書かずもがなのことを書く生意気な女として、(官憲といふより)国民全員によって監視・制裁の対象にあったこと。女監視員から「毒殺」されぬやう唆されて町から退避する(追ひ出される)までに、裏目裏目の結果を出してきた背景には、たとい政治的信念の持主でなくとも、手法として韜晦を事とするモダニズム詩が因縁をつけられることが十分に予想されながら、発表誌の質を落としてもそれを書き続けなくては居られなかった詩人自身のルサンチマンを当然みるべきであらうと思ふ。彼女の詩風はこれまでの経歴の中で幾度も変遷してゐるが、すべて自身の生活上の必然と詩史的状況が結びついてをり、しかし今度ばかりは他のモダニズム詩人のやうに外的必然(戦争詩)とは縁を切り、筆を折った。それが不遇なりにも、彼女が無名詩人の側にあった幸ひと同時に、クリスチャンとしての節操を完うする幸せを体現するものであったことは、彼女のために一筆すべきであらうと思ふ。

 ここから以降、発表文献が途絶える時代は、まさに聞き書きをされた手皮さんにしか書くことができぬ(尤もすでにこれまでもさうでしたが)独壇場であり、資料云々よりも、詩人を料理する手皮さんならではの運筆に期待したいところ。たのしみです。

 新潟出張で一週間留守にし、紹介が遅れました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

607やす:2012/01/25(水) 09:00:48
『山川弘至書簡集 新版』
 さて新潟出張からの帰途、東京で途中下車して神保町にて一泊。翌朝、靖国神社に参拝してきました。今年は「山本五十六」の映画を観たこともあり、出張がてら長岡では山本五十六記念館や長岡高校記念資料館などを訪ね、余勢をかっての、でもないですが、実はわたくし、これまで戦争詩について考へたり書いたりしてきたものの(さうして八年間も東京に居ったにも拘らず)靖国神社に足を運んだことがなかったので、意を決して向かったのでありました(恥)。遊就館も初めて見学し、戦歿将兵の遺品遺書に圧倒され、遺影が四方の壁を埋め尽くしてゐるフロアでは、名簿を繰って故郷の詩人山川弘至(やまかわひろし)を、硫黄島で有名な栗林中将の遺影の隣に探し当てて、喜んでゐたのでした。

 ところがです。その晩、東京から帰ってきたら郵便が届いてをり、中から出てきたのは一冊の本。ひもとけば吃驚『山川弘至書簡集』。唇を引きしめて正面を見据える詩人の尊顔と再び対することとなった御縁に、茫然となった次第。

 それは詩人を精神的支柱に据えて活動を続けてゐる和歌結社「桃の会」が最初に刊行した書目で、久しく絶版になったまま一番復刊が希望されてゐた本であり、同装丁でその後、遺稿歌集『山川の音』・遺稿詩集『こだま』・『山川弘至遺文集』の三冊が出版されてゐますが、なんといっても詩人が戦争終結の4日前に戦死したことを踏まへ、未亡人となるべき山川京子氏へ書き綴られたこの本におけるドキュメントには胸にこみ上げるものを覚えずにはゐられず、跋文にも記されてゐますが、『書簡集』一冊が、まるまる相聞と述志の二色に染め抜かれた一篇の長編詩であることについて、いみじき思ひを新たにしたのです。

 ドイツロマン派に詩人の告白・手紙が重要な位置を占めるのと同様、日本浪曼派にこの一冊を持ったことを、はたして文学史上の「幸ひ」とすべきなのか。かくも気高き精神に貫かれた恋文が、青年詩人ならではの全人的なロマン派精神開陳の所産であるのは理解できるとして、しかし優しさと正しさはもとより、憤りや焦り、さらには気負ひすらも読む者の心を痛ましく打つ、その「理由」を思っては今に至っても粛然とならざるを得ず、これを一人でも多くの若い人に読んでもらひたいとの思ひを、戦争を知らぬ世代の私も同じくするのであります。何故ならこの、遺書になるかもしれぬ覚悟を以て書き継がれた、これらの手紙の束から受けた感動を「傑作」と呼ぶことを厳しく躊躇はせる歴史の端っこに、私たちが今もって生きてゐるといふこと、その再確認は全ての日本人の責務と考へるからであります。

 今回は上記の偶然も手伝って少々興奮気味の紹介ですが、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『山川弘至書簡集 新版』 2011年,山川弘至記念館刊, 355p,17.5cm並製カバー
希望者は「桃の会」まで送料込1300円を送金のこと。振替口座00150-1-82826


付記:
新旧『書簡集』を閲してみましたが、新たに一通が追加された以外は、内容に差障る訂正はありません。追加一通は拙サイト上で紹介させて頂きますので、すでに旧版をお持ちの方には、新版の購入をお勧めするとともに、旧版にも添付して頂ければと思ひます。

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608やす:2012/02/07(火) 22:40:19
蔵書印
 職場の大学に、中国美術学院より半期毎に招聘される書道の先生がみえるのだが、このたび帰国される韓天雍先生から素晴らしい贈物を頂いた。「蔵書印」である。掛軸の解読に度々お世話になってをりながら、更なる御高誼を賜っては申し訳ない限り。ここにても厚く御礼を申し上げる次第です。先生ありがたうございました。
 さて斯様なものにこれまで意識の無かった素人が、どんな本に捺してやらうと色々考へをめぐらしてゐるのである。掲示板の向ふからは「やめろ」といふ悲鳴の如きものも聞こえる気がするのですが(笑)、国家的損失となるやうな貴重書(そこまで云ふか)には「今のところ」捺すつもりがありません、ので御安心を。
 といふことで何となく先師の名の隣に捺してみた。(『東洋思想叢書 李太白』昭和19年)
 満悦の様子を御想像下さい(なぜこんな位置に。やっぱり悲鳴か?)。

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609やす:2012/02/12(日) 18:18:18
詩集『生れた家』
 極美の「笛を吹く人」が、片々たる「昔の歌」を、造りが壊れた「田舎の食卓」で披露する。――これがあこがれてゐた「生れた家」だ。「晩夏」の夢の続きを見るがよいと…。 といふことで(笑)、半ばは手にすることを諦めてゐた稀覯本の一冊、木下夕爾の第二詩集『生れた家』(昭和15年刊)が抽選の結果、我が家に到着した。古書展には果たして何人の希望者があったらうか。幸運と、売って下さった古本屋さんにあらためて感謝申し上げます。

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 戦前に処女詩集を刊行して、一旦名声を確立したのちに、さらにそれらを上回る境地を拓いて戦後大成した抒情詩人は、と問はれれば、私はまず木下夕爾、そして蔵原伸二郎ふたりの名を以て指を屈することにしてゐる。もっとも蔵原伸二郎は、淺野晃や伊福部隆彦らと同様、大東亜戦争に惨敗して落魄の果てに詩人として“目明き”となった別格であり、老残の境地であることを考へるなら、木下夕爾は当時まだ三十の若者だったにも拘らず、戦後現代詩の外連味(けれんみ)を帯びることなく、青春のアンニュイを誠実に歌ひ続けた詩人であり、中央詩壇からは距って、生前に再びその名がのぼることはなかった。彼の詩を読み詩を書きたくなった私のやうな後学にとっては、それがまことに口惜しくも、またこよなく尊い師表とも映ったものである。

 続いて指を屈すべき詩人の一人、杉山平一が百歳を前にして今なほ新刊詩集を世に問ふ現役であることを考へると、木下夕爾はたった6日しか誕生日が違はないにも拘らず、半分の五十年を一期として病に仆れてをり、不運は際だって見える。もちろん、更にそのまた半分の二十五歳で死んでしまった立原道造も、彼らと同じ大正三年生まれであってみれば、半世紀の生涯を「早世」と呼ぶことは憚られもするのだが、立原道造がその人なりの完全燃焼を感じさせ、大戦勃発前に散ったのに比して、立原の死後活躍を始めた木下夕爾は、戦中戦後の苦難の時代を聊かも抒情の節を枉げることがなかった。さうして詩の中に人生の完熟を手にしつつあった詩人であり、さてこれからどのやうに枯れてゆくのかを見届けたかった、否、ただ、もっと長生きして頂いて謦咳に接することができたら、拙詩集にもきっと一言なりの叱咤激励を頂けたんぢゃないだらうかと、さう勝手に思ひ込んでゐた最上壇の詩人なのであった。今おなじく五十歳を迎へ、変らぬ気持ちで恥ずかしげもなく書くことができる自分がをかしい程である。

 雑誌「四季」の同人であった同世代の杉山平一や大木実が、しばしばエコールとしての「四季派詩人」の端っこに位置する特殊性を以て外部から称揚せられてきたのとは異なり、彼は戦前の「四季」には一度きり寄稿しただけだったにも拘らず、むしろ「四季派」と呼ばれる抒情精神の本道を歩んだ人物であった。立原道造なきあとの、抒情詩人列伝中、最後に現れた真の実力者として、第四次の「四季」復刊(昭和42年)に際しても、もしそれがあと数年早かったなら、丸山薫をして必ずや三顧之礼を執って迎へられたに違ひない、といふのがわが詩人に対する偽らざる見解である。余談ながら“列伝”のしんがりには、別に、水や風の如き味はひのする「郷土詩」を書いた詩人、北園克衛、八十島・一瀬の両「稔」たちも挙げておきたい。(一瀬翁の決定版詩集『故園小景詩鈔』については特に広報したく特記します。)

 とまれ堀辰雄の周りに集まった雑誌「四季」の後輩人脈にあって、多くの若者達が大日本帝国の崩壊に伴ひ、却って「四季派」と呼ばれる気圏(危険)から遠ざからなくては己の詩のレーゾンデートルを保つことができなかった事情については、さきに第二世代である詩人小山正孝を引き合いに出してささやかなノートを試みてみたので、御覧頂ければ幸ひである。

 木下夕爾は、詩的出発を「若草」投稿欄の堀口大学選に負ってゐる。上京時には持ち前の気後れが祟って師の門を敲けなかったとのことだが、また強面の三好達治が門番を務める「四季」誌上の「燈火言」に投稿することも、敷居が高く耐へ難かったやうだ。いったいに当時は、大正時代の口語詩の黎明期に一斉にデビューした先輩詩人達が、一人一冊主宰誌をもち「お山の大将」を決め込むことが謂はば詩壇のステータスになってゐた時代である。彼は早稲田から転学した先の関係からだらう、名古屋の詩人梶浦正之を頼って「詩文学研究」といふ詩誌に身を投じたのであった。そして「鳶が鷹を産んだ」といったら語弊があるけれども、そこから世に送り出した処女詩集『田舎の食卓』が、文藝汎論賞を受賞する。昭和14年10月の出版であり、3月に死んだ立原道造には寄贈されなかった。(もっとも含羞と自負ゆゑに、それ以前にも「四季」の誰とも交通はなかったやうであるが。)

 さうして以後、家業(薬局)のために東京で文学修行する夢を断ち、不本意ながら地方に逼塞させられた彼は、ために戦災に遭ふことなく、また羸弱ゆゑに、銃をとることもなく戦争をやり過ごすことができた。前半生の道行きは、まこと「人間万事塞翁馬」を思はせるものがある。そして戦後にせよ、「四季」にコミットしてゐなかったからこそ、却って正統派の抒情詩人であり続けることができたのだとも云へ、果たして身に覚えのない「四季派」の名を以て指さされることに当惑することともなったのである。謂はば彼は、「四季派」といふ言葉が固有の誌名から解き放たれ、(「日本浪曼派」同様、)成心を以て一種のエコールとして敷衍認識(指弾)される際にも、最もわかりやすい指標となったのであった。

 しかし同時に、宮澤賢治や立原道造をはじめ多くの一流近代詩人が志向した仮構の原風景が、憧憬的な北方的なそれであったのに対して、彼が詩情を仮託したふるさとが、瀬戸内の温順な気候のもとで優しい諦念が低徊する、非北方的な色合ひの強いものであったこと、これなどは不運であるよりか、むしろ東日本に傾きがちだった日本の抒情風土の地勢上の平衡を中心に戻すにあたって、微力ながら寄与したのではないか、さう肯定的に考へられもするのである。これは日本にあって経験された昭和初期モダニズムの下、京都・大阪・神戸の都市生活者詩人たちによっては、未だ充分には為し遂げられることのなかった宿題であったといっていい。これが、木下夕爾や渡辺修三ら、「四季」同人以外の、モダニズムの洗礼を受けた、都落ちした田舎住みの抒情詩人達によって、エキゾチズムから一切借りものをせずになされたといふところに、特筆に値するものがある。私はひとり勝手にさう思ってゐる。

 江戸時代の漢詩においては文化的に顕著だった、京都・長崎を磁力源とする西日本方向への憧憬が、明治新体詩が興って失はれて以来、形を変じてふたたび詩の現場で、自らの故郷の自然に対してはたらき、読者を惹きつけるやうになったことを、東海地方在住の自分は特段の感慨をもって歓迎する。「日本の口語伝統抒情詩史上に起こった最後のエポック」と、さうまで云ったら大袈裟にすぎるか(笑)。まあ、それくらゐ木下夕爾の、詩と、仄聞される人となりが私は好きなのである。

 以上、詩人をめぐっての印象を『生れた家』落掌の喜びを利用して一筆してみた。「生家訪問記」の隣に供へておきたい。

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 追伸1:この稀覯本を手にした感謝の念を表すべく(?)、代りに、没後新編された児童詩集『ひばりのす』を図書館に寄贈した。世知辛い改革で疲弊しきった教育現場にすすんで身を置かうとしてゐる学生に、ぜひ読んでほしいと思ってゐます。

 追伸2:また日本中の図書館に所蔵のない彼の第4詩集『晩夏』(和装限定75部)の、書影と奥付の画像をサイト上に公開したいので、どなたか奇特な所蔵者がみえたら送って下さらないだらうか。と、やはりこの機会に呼びかけてみることにします。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000774.jpg


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