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自覚スレ

138:2018/11/01(木) 03:54:33
質問が来てました。

実は悟りを得るには、最低限の知識以外は障害となるもので、
最近ぼちぼち精神世界知識というものを、
たまに吸収して読書などしているところでした。

今よんでいる書籍でアーチャン・チャー、私の眼で見て、本物の阿羅漢です。

古来から言われている表現で、名称と形態(色)、ナーマとルーパと言います。

名称と言う表現が、識別作用、私の言葉で認識機能の変容、
慧解脱を指します。

釈迦の経典は私の師ですので、引用させていただきますが。

次は有学と無学の説明で、慧解脱で初めて無学(阿羅漢)となります。

阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」

私が説明してきた2方向からの名と色(身)のベクトルでの訓練は、
古来から存在しています。

名を解脱する者、名を越える慧解脱と説明がありますが、
識別作用すなわち認識機能の変容を指します。

>これは視覚だけがそこにあり、それを観る者はいない状態のことを仰っているのでしょうか?
>(正確には、他の五感も起こりますが、その所有者がいない状態のことです)
>そして、これが慧解脱の最終地点という認識でよろしいでしょうか。

そうです。

今までの私の説明にありましたが、
「意志」の関与がなくなる事が大きな特徴の一つです。

そうすると、説明しました通りで「見えている」と言う意志の
関与しない事となり、EO氏の言う不可知、つまり知る(認識する)以前で、
自己も含めて認識対象が全て無くななり名を解脱した者、慧解脱となります。

アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。


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