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自覚スレ

143:2018/11/02(金) 03:08:32
(続きです)


>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。

これは私が解説した通りで、「見る」意志行為は出来なくなり、
意志の関与しない「見える」しかできなくなった事を表したいわけです。


>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。


他の人から見たら、この方の前にはしっかりと景色も物体もあるのに、
この方自身は何も無いと表現するわけです。

普通の人が見たら「目の前に物があるのに、何も無いって、
あなた頭が変なんじゃないですか、ロバーツさん」と言う状況です。

この方は目をつむっているわけでも何でもありません。

このパラドキシカルが、慧解脱(悟り)の特徴です。

知覚は在るが、認識できる知覚対象が無いと言う、
悟りの完成形の内容がここに表されています。

>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。

心が沈黙しているのに会話ができる、パラドキシカルです。

他の人から見たら行為をしているのに、行為していないと表現したり、
このような世界です。

私の場合はアストラル体の動きを殺す事が目的の一つでしたので、
慧解脱のパラドキシカルれが到来しなければ、
身動きもままならないで、
永遠にスローモーションでもがく事になっていました。

>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。

心が沈黙での会話は慣れれば快適です。

>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。

この虚無は、前にもお話しした認識機能を駆使しての
知覚対象追求ベクトルの状態としての無(虚無)ではなく、
我も無我も無い無我同様に、我も無我も虚無も実在も、
認識できる知覚対象が一切無いとする虚無です。

認識機能を有したまま知覚対象を追求する、
知覚対象追求ベクトルに対して、
認識機能が無くなって知覚対象を追求以前になってしまった者。

私も達成したての頃は随分とこれが珍しかったのですが、
慣れとは恐ろしいもので今では当たり前です。


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