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自覚スレ
141
:
武
:2018/11/02(金) 02:39:20
慧空さん
>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
>現象を区別することはない。
このことの説明として語っています。
「現象を区別」は原始経典用語で「識別作用」、
私の言葉で認識機能のことを指します。
「究極的」の表現は慧解脱のことを指しています。
身で体現する者、
身証者(定で涅槃に飛び込んだ経験のある人)にしてみれば、
究極的という表現は、悟りを達成していないので、
時解脱涅槃がそれと思うしかありませんが、この場合は違います。
アーチャン・チャーはサマタ瞑想を、補助的手段としか考えていません。
アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>サマーディはヴィパッサナーの土台としてのみ用いられる。
>ゆえに、そんなに強いサマーディは必要ないのじゃ。
>心を直接観察することが、智慧である。おまえさんが心を観察し、
>それを理解するとき、経典を読む事や、
>サマーディ(定)の力の限界を知るだろう。
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
不可知、
すなわち我も無我もその他「一切の」知覚対象がありません
と言う意味です。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
私は今回は稀にしか見ない身証者の方がおられたので、
その先の情報提供にここを訪れました。
悟りに向かうベクトルは「自覚」では無く「自滅」ですが、
その前段として「自覚」は有効な特徴の教えだと思います。
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