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解脱の悟りに続きはあるのでは?
72
:
慧空
:2015/02/16(月) 20:12:38
続きです。
>でも、身体の内側・チャクラも感じないのに、なんだかすっきり。クリアー。
はい、そのスッキリとしたクリアーな感じは、大悟特有のものです。
どうぞ、ご堪能ください。
数日か、二、三週間もすれば慣れてしまいますので、今だけの感覚です(笑)。
続きます。
73
:
慧空
:2015/02/16(月) 20:30:43
>で、今ある疑問は・・・どう生きたら良いの?です。
soraさんはいま、何か困ったことがお有りなのですか?
仕事や家庭のこととかで、困ったことになっていることがお有りなのでしょうか?
もし特に何も問題がないのでしたら、そのまま生きていかれたらいいんじゃないかと思いますよ。
何か困ったことや問題がおありの場合は、んーーん、そうですね、成るようになっていくのでしょうが(笑)。
悟りの道を歩まれる方には、日常をどう生きたらいいのかという問題に直面される方がおられるのだろうと思います。
私もまさにそうでした(正直なところ、いまでもまだ戸惑いながら生きている部分があります)。
私は自営業をやっていたのですが、明け渡しの後、仕事が殆ど手に着かなくなってしまい、
もう1年半ちかく、まったく仕事をしていませんから。(^o^)
まだ小さい子供が二人もいるのに。(^o^)
大悟を得られた方の場合、おそくらく多くの方は、自我がかなり薄くなっています。
自我が薄くなっているため、自我の判断で意志決定し、その決定したものを行動等を等して現実世界に反映していくという、
自我の力も弱くなっています。
なので、仮に自我がこうしようとか、こうするべきだと思ってそう行動しようとしても、
なかなか思うようには行動が進まないし、仮に行動が進んでいるように見えても、
結果がそれに付いて来ず、思ったのとまったく異なった結末に至るというようなことが増えてくるのです。
どういうことかと言いますと、その後の人生展開の主導権が、自我の意志決定から、残りカルマが起こす展開の方に、どーーんと移ってしまうのです。
人生はなかなか思うようには行かないものではありますが、大悟に至ると、さらにそうなってしまうのです。
soraさんも、だんだんとそういうことを実感されると思います。
そして、残りカルマが起こる展開の流れに身を任せるようになって行かれると思います。
そう成らざるを得ないのです。
取りあえず、こんな感じですが、気になられる点等がありましたら、遠慮なく仰ってくださいね。
74
:
sora
:2015/02/16(月) 21:07:01
慧空さん
ありがとうございます。
「愛」について理解しました。
ハートについても、安心しました。
でも
>残りカルマが起こる展開の流れに身を任せるようになって行かれると思います。
>そう成らざるを得ないのです。
は、いやです(笑)
私が凄く抵抗しています。凄いショックです。
自我を増やしたい気分です(笑)
全てをお任せしてここまで来ました。
これからも、そうなのですが・・・(笑)
んー、困った事は、感じてないので無いです。
生活出来てますから。
いままでも、いまここで、全てが満ち溢れていましたから・・・
永遠のいま、という感覚ですから、前よりいまパワフルに新鮮に感じているのかも知れません。
いままで、もう充分です。って思っていたのに・・・この感覚になりました。
楽しみをまた一つ頂いた感じです。
受け入れることにします(笑)
それに、いまですねー
瞬間瞬間、好きなことを選んで、いつの間にかやっている感覚です。
自分の都合の良いように自由です。
家庭は家族と距離がありますが、摩擦が有りません。それを受け入れています。
仕事もありますが、皆さん私にとても優しく笑顔が向かって来ます(笑)
それが・・・変わっちゃうんですかね(汗)
何でもOKのつもりでいきますね。
ワクワクドキドキの人生ってことで、笑って過す事にします♪
沢山ありがとうございました。
大悟や解脱の記事沢山書いて下さいね。
これからも参考にさせて頂きます。
あっ、難しいお話しは苦手です(笑)
今後もどうぞよろしくお願いします♪
75
:
慧空
:2015/02/16(月) 21:47:31
soraさん
>全てをお任せしてここまで来ました。
へーー、そうなのですか。
正直、そういう人が本当におられるとは思いませんでした。
私などは、ジタバタジタバタとする悪あがきの連続でした。(^o^)
しかも、そうやってお任せを徹されながら、内観もしておられたとは、恐れ入ります。
菩薩のような方ですね。
誉めすぎでしょうか。(^o^)
>瞬間瞬間、好きなことを選んで、いつの間にかやっている感覚です。
>自分の都合の良いように自由です。
これも凄いと思います。
羨ましいくらいです、ホントに。(^^)
おそらく、残りカルマが起こす展開と、soraさんの自我の意志の選択との整合性が高いのでしょうね。
そんな方がおられるんだと思って、ちょっと驚きました。
それで、何となく思ったのですが、
soraさんは、おそらくそのままで大丈夫ですよ。
そのまま生きて行かれるだけで、きっと、うまく導かれていかれるんだと思います。
いいですねえー。
素晴らしいです(*^_^*)
私の書く文章を読む必要なんかまったく無いですよ-。
気が向かれたときに、遊びにいらしてくださいな。
いやはや、soraさんのような方とやり取りができて、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたしまーーす(^^)/
76
:
めがね
:2015/02/16(月) 22:30:47
読んでいって感動しました(^^)
表現したくて書いちゃいました
ありがとうございます^_^
77
:
慧空
:2015/02/17(火) 07:54:36
めがねさん、
レス、ありがとうございます(^^)
78
:
sora
:2015/02/17(火) 10:03:22
慧空さん
こんにちは、また戻って来ましたー(何度もすみませーん♪)
もう一つお聞きしたいことが有ります。
お付き合い頂けますか。
私が、変化に最初に気が付いたことについてです。
変化がある2日前に、感情と意識を観察していました。
私の世界の感覚で、なおかつ説明が下手なので
きちっとお伝えできる自信がないのですが。。。
感情や意識は、エネルギーなのかなぁーと
そして、球体の中をただ、ただ漂っていて意味がないのかなぁー
エネルギーが一杯の時は、楽しくて
少ない時は、気分が沈みがち
球体の限られた中を、上下、左右に漂っている。。。
それだけのことで、それを楽しんでいるだけなんだなぁー
って、眺めてました。
そんな事考えてた2日後、球体から意識が出たんです。
その感覚が始まりです。
そしていま、無限の広がりの中を意識が漂っている感じです。
感情の浮き沈みも?で
感情をかすかに伝わって来てそれを感じて眺めている様です。
はっきりした何かは特に感じず、認識はしています。
ただ、流れているものを(少し楽しげに?)眺めているだけです。
自分の関わりのあるものは、なぜか普通に対応出来てます。
シンプルにすっきりと、です。
おわかりに成りますか?
どう感じますか?
慧空さんの感情・意識はどんな状態か教えて頂けますか。
お願いします。
79
:
慧空
:2015/02/17(火) 11:27:39
soraさん
こんにちは
はい、お話し、私でよろしければ喜んでお相手させていただきます。
私が大悟を得る少し前のことを少しだけお話ししますと、
私の場合は、大悟が訪れる前には既に、自分自身も含めてすべては考えなんだということが附に落ちていたので、
soraさんのような球体とかエネルギー等のイメージはもう無かったのです。
そのときはもう既に起こってくる考えも少なくなっていたので、
内観をしていても、余り考えは起こってこず、時折、ぽわっ、ぽわっと起こってくるだけだったのです。
そして、そのぽわっ、ぽわっと起こってくる考えを観察しているとき、
その考えに意識を向けると、私という感覚や意識が欠落し、その考えそのものが私になっていることに気づき始めたのです。
大悟前は、そのような感覚は時々しか訪れなかったのですが、
どうやら、これは本当にそうらしい、つまり、考えそのものが私なんだということがうっすらと分かってきたのです。
そうしているうち、ある日、朝起きて気が付いたら、「観るもは観られるもの」になっていたのです。
そして、昨日までハートの中心にあった「私」という感覚もすっかり無くなっていたのです。
大悟後は、暫くの間は、四六時中「観るものは観られるもの」の状態になっていました。
例えば、目の前のパソコンに意識を向けるとパソコンが自分そのものになるし、
窓の外に目をやると、その風景が自分そのものなり、
また、自分の内面に起こってくる思考(考え)に意識を向けると、その考えそのものが自分になるという具合で、
内も外も、いたるところ、意識を向ければそれば自分そのものになってしまう状態でした。
それで、自分とは考えそのものであると同時に、それをつくりだすスポットライトのようなものだと思っていました。
そもそも自分という実体的なものは無くて、そうやって、次々と考え(認識)をつくりだしていく、
スポットライトのような意識の連鎖があるだけなんだということを理解したんです。
以上、私の大悟の前後の感じはこんな感じでした。
ちなみに、現在の私はまたかなり違った感覚です。
うまく表現できませんが、基本的に、自分のことも含めてすべてが他人ごとような感じで、
どうでもよくなっているのです。
私の周りで起こる出来事も、私自身に起こってくる感覚、感情、思考も、
すべて単なる現象が起こっているだけで、ただ起こってきて流れ去っていくだけのものだということが腹の底から附に落ちているんです。
何の執着も無いのです。
もちろん、子供に対するかわいいとか、大切だという感情や思考は起こってきますよ。
でもそれらの感情や思考はただ起こってきているものなのです。
そして、流れていくものなのです。
ですから、正直なところ、明日の自分が子供たちに対してそういう感情や思考を起こすのかは、
まったく分からないのです。
だって、ただ起こってくるものだから、どういう考えが起こってくるのか分かるはずがないのです。
いまは、このように、ただ起こってくる展開(流れ)に身を任せるようにして生きています。
>そしていま、無限の広がりの中を意識が漂っている感じです。
>感情の浮き沈みも?で
>感情をかすかに伝わって来てそれを感じて眺めている様です。
>はっきりした何かは特に感じず、認識はしています。
うまく言えませんが、まだ曖昧な感じがしますね。
徹底的にご自分に意識を向けられ、soraさんという存在とは何なのかを観察、追求して頂きたいと思います。
特に、五感と意(意識の意です)に対する認識から展開していく、考え(認識、そして感情や思考)の連鎖を注意深く観察してみて頂きたいと思います。
80
:
sora
:2015/02/17(火) 11:58:10
慧空さん
ありがとうございます。
はっきりしてますね。
感情はその時起こって来るもの。
そうですかー
今の状態をどう思われますか?
感覚では、そうなって行くのが悲しい気がするんです。
いままで、人に執着するのが欠点の様なとこが有りました。
理解はしています。
慧空さんの感覚も持ち合わせています。
そうなんだなぁーっていつも感じている自分がいままでいました。
半々なのでしょうかね。
「観るもは観られるもの」等の感覚も半年前からあります。
このまま、味わいながら慧空さんの感覚に移って行く気がします。
私はお任せにしてしまうのですが。。。
その変化を眺めながら楽しみたいです。
慧空さんにお尋ねすると、はっきりした答えを頂けてすっきりします。
ありがとうございました。
いま、また違った感覚の慧空さん
何が楽しいですか?
生きていたいですか?
とても変な質問になりますが・・・
私は、少し前から、いつ終わっても同じなのかなぁーって感覚が有ったものですから。
81
:
慧空
:2015/02/17(火) 13:22:42
soraさん
>感覚では、そうなって行くのが悲しい気がするんです。
soraさんの薄れゆく自我が織りなす景色をどうぞ味わって頂きたいと思います。
soraさんご自身の自我への哀愁と感謝、そういったものも味わって頂きたいと思います。
>何が楽しいですか?
>生きていたいですか?
正直なところ、楽しいことはもう殆ど無いのです。
悟り世界の構造(悟りの階梯)について調べることが楽しみのひとつだったのですが、
それももう分かってしまったので、無くなってしまいましたし。
あとは、こうして悟りの道を歩んでおられる方とお話しすることと、
日常の中で時々感じる些細な楽しみくらいです。
と言っても、正直なところ、それもどうでもいいと言えばどうでもいいことなので、
それほど楽しい訳ではないのです。
むしろ、生きていること、存在していることそのものによる、煩わしさ、しんどさの方が募ります。
正直なところ、息をするのさえ煩わしいと思うくらいです。
死や存在が消滅することに対する恐れは欠片も無いので、
いま直ぐにでもウエルカムなのですが、
どうも、残りカルマがそうはさせてくれなさそうです。
まさに、一切皆苦、です。
笑うしかないです(^o^)
82
:
sora
:2015/02/17(火) 14:15:16
慧空さん
慧空さんの一切皆苦・・・伝わって来てたような気がします。
私も、いつ終わりでもいいんです。生き続ける思いがありません。
自然の中にいるのが好きで、帰りたいと思っていました。
その時、「共に居る」と意識が響いて来ました。
自然の中に居ると落ち着きます。
いつも、新鮮な今にいると満ち足りています。
でも、この意識が変わって行く中・・・慧空さんを拝見して
どうなって行くのかなぁーって、それさえ意味を感じなくなるのかと。。。
でも、この部分は、このままでいて欲しいと願います。
そして、死を意識した人(ホスピス・老人ホームにいらっしゃる方)の傍にいて
寄り添っていたい、との思いが有ります。
出来ても良い、出来なくても良いと思いつつも
自我の思いからでしょうが・・・これもこのままであって欲しいと願います。
自我への感謝ですね。大切な事を教えて下さってありがとうございます。
内側から溢れるものが無くなって、全てがよりシーンとしています。
またおじゃまします。
ありがとうございました。
83
:
慧空
:2015/02/17(火) 16:22:55
soraさん
>そして、死を意識した人(ホスピス・老人ホームにいらっしゃる方)の傍にいて
>寄り添っていたい、との思いが有ります。
>出来ても良い、出来なくても良いと思いつつも
>自我の思いからでしょうが・・・これもこのままであって欲しいと願います。
soraさんはやっぱり、菩薩のような方ですね。
その願いが叶うといいですね。
私はどうも、そういう個性なのでしょうか、短気なところがあり、直ぐに投げやりな気持ちになってしまうところがあります。
私もできるだけ、自分の正直な気持ちを大切にながら、残りの人生を生きていきたいと思います。
soraさんのお話しさせて頂いて、そう思いました。
ありがとうございました。
84
:
sora
:2015/02/19(木) 08:01:21
慧空さん
おはようございます、またお邪魔します♪(^^)
慧空さんとお話をさせて頂いて、どうしても不思議な事がいくつか出て来ました。
体験のお話も読ませて頂きましたが、どうも解りません。
「苦しい」というところです。
私は、苦しくないから。。。
「いまここ」に意識があれば、苦など無いはずなのに・・・???です。
>感情や思考は起こってきますよ
っておっしゃってましたので
慧空さんの意識は「いまここ」にあるのではないかと思えるのに・・・
何故苦しみが存在できるのだろうか・・・???
>四六時中「観るものは観られるもの」の状態
この状態の時も、意識は「いまここ」にあるはず
なのに何故苦しみが存在できるのか不思議です。
私は、一瞥があった後から、内側からの意識で、静寂にいる様にといわれ続けました。
それで、静寂から世界を見ていました。そこには苦は存在できません。
愛溢れる世界です。
スピ関係で、いまここが全てだという事を知りました。(静寂と近い状態だと思います)
いまここには、全てあり満ち足りている事を知りました。
思考が、過去や未来に移行した時のみ、苦などの感情が表れると思っています。
大悟の3ヶ月前から、深い静寂の中にいる様になりました。
その時から内側を探ると自分が消滅していました。
本来の自分だけでした。
まだ、スペースはちゃんとあり、愛と感謝と至福が溢れていました。
大悟で内側のスペース部分が自分そして世界を包んでしまいました。
深い静寂の位置から、空・真我に移行しただけで
やはり、私の中には苦は存在しません。
疑問です(^^;・・・何故?
それから、カルマについてです。
2012年11月からマントラ瞑想「フルフィルメント瞑想」を毎日2回続けています。
この瞑想は、カルマをお掃除してくれる瞑想です。
自分自身の気が付かないカルマや、DNAに組み込まれたカルマ
祖先から受け継がれたカルマもお掃除してくれるといわれています。
創始者はボブ・フィックス氏です。
それで、私は随分と楽ちんなのです。
参考までに、伝授を受けた教師のページを張り付けておきますね。
http://www.imacocojuku.com/index.html
以上です。
気になる事を書き込ませて頂きました。
不適切でしたら削除をお願い致します。
85
:
慧空
:2015/02/19(木) 08:21:07
soraさん
今回の書き込みで、soraさんの囚われを沢山見つけることができました。
要するに、まだ言葉(概念)多いのです。
列挙しますと、
「いまここ」、「静寂」、「愛」、「感謝」、「至福」など
です。
それらは、すべて囚われであり、幻想なのです。
どうしてそのような幻想を掴むのかということです。
なぜ掴むのか!
苦しいからなのです。
私という存在の本質にある苦から逃れようと、掴んでいるのです。
確かに、それらの概念にしがみついていれば、表面的には、苦しさを麻痺させることができるでしょう。
でも、個人の自由ですから、soraさんがそれで納得できるのであれば、それでいいんですよ。
しかし、断じて申し上げると、それは解脱ではないのです。
解脱の悟りを得ると、「いまここ」、「静寂」、「愛」、「感謝」等の言葉は出なくなります。
それらの言葉を喋ったとしても、方便として喋っているだけで、そこに重心はないのです。
どこにも、重心を置かないのが解脱の悟りです。
苦と共に浮き草のように漂う感じです。
カルマの浄化についても、それは幻想です。
表面的に誤魔化しているだけです。
そこに、soraさんの甘えと依存心があります。
すみません、厳しいことを言ってしまいました。
どうか、甘えや依存心を排し、
一切皆苦、ここに向き合って頂きたいと思います。
86
:
慧空
:2015/02/19(木) 11:46:45
soraさん
少し補足しますね。
>>四六時中「観るものは観られるもの」の状態
>この状態の時も、意識は「いまここ」にあるはず
>なのに何故苦しみが存在できるのか不思議です。
仰る通り、「観るものは観られるもの」の意識状態は、
soraさんが仰る「いまここ」か、それに近い意識状態なのだと思います。
確かに、そこでは苦しさはありません。
ただ観てるだけなので。
しかし、その意識状態は、囚われにより、自我が都合よくつくり出している意識状態なのです。
私がそう言っても、なかなかご理解頂けないでしょうね。
それを理解するヒントは、やはり、苦しみに気づくことなんです。
苦しいから、その意識状態を意図的にあるいは無意識に選択しているんです。
その意識状態を掴んでいるんです。
その意識状態に入り浸っていると、酔っ払ってしまって、
最後はその意識状態を自分が選択していることなど、分からなくなってしまいます。
そうなると、そのまま御陀仏です。
まあ、それでいいと思う人はそれでもいいのでしょうが。
私は、それじゃあイヤだったのです。
私は、「いまここ」等の意識状態が表面的なつくりものであることが分かってしまったのです。
それが分かったから、苦しみの中、さらに先を進んでいくことができました。
どこまでも、苦しみを手掛かりに進めということです。
87
:
まお
:2015/03/29(日) 00:17:51
>>1
さんこんばんは。
1 : 名無しさん 2014/10/21(火) 10:02:13
解脱の悟りが本当に最後なのか?
それを越えた方がいれば、説いていただきたい。
とのことですが、ありますよ。
一切皆苦も超える悟りがありますし、そうすると生活に戸惑うなどもなくなります。
誰がどれだけ悟っているかという区別する思考もなくなります。
88
:
ケン
:2015/04/17(金) 12:59:10
まおさんそれは何ですか?
89
:
21さい
:2015/05/26(火) 17:43:41
大悟の意識状態で街を歩いている人に意識を向けたらその人として歩く体感があるのですか?
その人として自分の意思で歩けるのですか?
90
:
21さい
:2015/05/26(火) 18:37:00
solaさんやブログの過去記事におられたヒロキさんは瞑想で大悟された?方でとても穏やかで聡明な雰囲気ですね。
書き込みを読み、今どうされているか気になります。瞑想にもすごく興味があるのでいつかまた二人の文章が読めたらいいなと思っています。
91
:
21さい
:2015/05/26(火) 18:37:58
表記soraさんでした。すみませんm(._.)m
92
:
21さい
:2015/05/26(火) 20:00:17
自分は神様や考えの外の世界のことを知りたい、助けを求めている思いがありハートのワークに罪悪感や恐怖感、解脱に対する疑問感、不安感などを感じてしまっているところです。なるようになればいいと感じています。
93
:
21さい
:2015/05/26(火) 20:12:00
それでいてあと少しで全ては観念、考えであるんだという理解にも近づいている感触もあるのですが‥ 助けを求める事自体 全てが考えの理解が有れば無くなりますし
連投申し訳ありませんでした。
94
:
慧空
:2015/05/26(火) 22:04:48
21さいさん、こんばんは
>大悟の意識状態で街を歩いている人に意識を向けたらその人として歩く体感があるのですか?
その人として自分の意思で歩けるのですか?
そんなことはありません。
「見るものは見られるもの」の意識状態で、ある対象に意識を向けると、その対象だけが存在していて、
他の一切は、自分も含めて欠落しているような意識感覚になるんです。
それだけです。
助けを求める気持ちは分からなくは無いです。
私も以前は少しはありました。
でも、自分のことは自分で助けるしかないんです。
それが本当に分かるようになっていきます。
自覚を続けて頂きたいと思います。
神のことを考えているのは、誰ですか?
連投、全然大丈夫ですよ。
95
:
21さい
:2015/05/26(火) 22:43:10
こんばんわです。
気になるのですが対象物は意思で動かせないのに自分の身体は動かせるのでしょうか? 意識が未来方向へスポットライトのように移り続けるのはわかるんですが自分が他人になり動けないのに主体と客体との統合といわれると大袈裟かな?と思ってしまいます。ブログ過去記事の夢で他人の身体で意識が開いた話のように身体も動かせるのが主体と客体の統合というイメージです。自分の意識がそうならなければわからない理解なんでしょうね。
お答えありがとうございます。 依存心なども理解が進むにつれ自然に手放せるのはわかっているので大丈夫です。
96
:
21さい
:2015/05/26(火) 22:44:36
一行目の気になるのですがの後に何故が抜けていました。
97
:
慧空
:2015/05/27(水) 06:14:41
21さいさん
>気になるのですが対象物は意思で動かせないのに自分の身体は動かせるのでしょうか? 意識が未来方向へスポットライトのように移り続けるのはわかるんですが自分が他人になり動けないのに主体と客体との統合といわれると大袈裟かな?と思ってしまいます。
何らかの意志が発動しているときは、私という個(自我)に強くスポットが当たっている状態であり、対象には意識のスポットは当たらないのです。
意志や感情、多くの感覚的な要素も、そして思考が極端に抑制された状態にならないと、
「見るものは見られるもの」の意識状態にはならないんです。
ですから、「見るものは見られるもの」になっているときには、意識が目の前の人に向けられたときも、
その目の前の存在をどうにかしようという意図も起きようはずがないんです。
98
:
慧空
:2015/05/27(水) 06:23:49
少し補足というか、言い換えますね。
何かをこうしようとかいう意志が発動しているときは、意識のスポットが私に当たっているいる状態というよりも(この表現だと観照に近い感じですから)、
意識が、私という自我の感覚(表層的な意識要素です)と一体化している、あるいは同化している状態と言った方がいいと思います。
99
:
21さい
:2015/05/27(水) 14:02:58
なんとなくわかりました。ありがとうございます。
100
:
あなわ
:2015/11/19(木) 13:26:41
慧空さん
解脱と悟りについてコメントありがとうございました。
ところで、soraさんとの対話をみながら思ったのですが、例えば、苦がない世界にいるsoraさん
と苦はあるという慧空さんのやり取りが、印象的でした。
例えば、これも同じような質問になりますが、苦があるならば、解脱した(慧空さんの状態)人と、そうでない普通の人との違いは何なのでしょう。
この状況、状態が苦しいなどは状況によりけりでしょうが、、
101
:
慧空
:2015/11/19(木) 13:42:28
あなわさん、こんにちは。
苦が無いはずはないんです。
苦が無いと言っている人も、本当に四六時中、苦無しで過ごしているはずはないんです。
少なくとも、時折は苦を感じているはずなんです。
だって、空腹は苦だし、おしっこしたくなっても苦だし、眠くなっても、
何処かがかゆくなっても、苦だし、
苦はそこら中にありますから。
苦を受けずに存在を続けるなんてことは、無理なことなんです。
少し分かりやすい言葉で言えば、起こってくる現象に対する認識も含めた反応そのものが苦なのです。
そして、その認識や反応が私という自我の正体なんです。
>例えば、これも同じような質問になりますが、苦があるならば、解脱した(慧空さんの状態)人と、そうでない普通の人との違いは何なのでしょう。
このご質問には一昨日くらいにお答えしたはずです。
102
:
あなわ
:2015/11/19(木) 14:32:38
慧空さん
ありがとうございます。
>このご質問には一昨日くらいにお答えしたはずです。
すいません。
つまり方便として、言葉を使って説明すると、苦しいは苦しいばかりで瞬間に完全消滅している。
痛いは痛いばかり、苦しいは苦しいばかりで瞬間に瞬間に発生し瞬間に消えていて囚われることがない、ありのままの姿。。といった感じでしょうか。。
つまり苦は苦であり苦ではない。それそのものが完全現生し、完結していて全く囚われる事がない。みたいな。。感じですか。
普通の人は2人づれなので、苦と苦から逃れようとする自我←例えばです。に囚われ苦みも倍増しそうなところですが、それがない、、と言う認識で良いでしょうか。
103
:
慧空
:2015/11/19(木) 18:37:17
あなわさん
ブログに書いた次の記事をお読みください。
しかし、このようなことは最終的な悟りに至ってから分かることですから、
いま、あれこれと考えても無駄ですよ。
三つの苦
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/789f46846244da521004dea8949513b1
104
:
あなわ
:2015/11/19(木) 18:57:21
すい空さん
すいません
ちょっとわかりません^^;
つまりすい空さんは、今も上記3つの苦にて苦しんでいるという事でしょうか。
上記1、2、3全ての3つの苦にて、すい空さんは苦しんでおられるのですか?
105
:
慧空
:2015/11/19(木) 20:13:59
あなわさん
上記の三つの苦のうちで、最も大きな苦は二つ目の苦です。
つまり、囚われに基づいて生じる苦です。
普通の人が感じる苦は、一つ目の苦と二つ目の苦ですが、
主に苦しむのは二つ目の苦です。
最終的な悟りに至った人は、二つ目の苦は感じないのです。
しかし、一つ目の苦と三つ目の苦は相変わらず感じるのです。
106
:
あなわ
:2015/11/19(木) 20:49:52
すい空さん
ありがとうございます。
それならわかります。2もあるなら結局は変わりませんし。私はすい空さんのページにて、苦に感謝するようになりました。
なぜなら苦は我の場所を教えてくれますから。
すいません質問ばかりで^^;
どうしても疑問に思うのですが、例えば、すい空さん、解脱したら何か救われるのでしょうか。
仏陀は苦からの解放、多くの人々を救う為に大慈悲心を起こし、仏法を広め、それは多くの人々が救われたと思います。
ただ、すい空さんの解脱の話を読むと、(一応全て目を通しましたが)解脱しても苦しんでばかりだとか、出来れば早く死にたい、仕事する気がなくなった等の文章を見かけると、解脱そのものに意味があるのか?というのが正直な感想です。
失礼かもしれませんが、すい空さんの体感している解脱は人を苦から救うのでしょうか。
あるいは釈尊の解脱とすい空さんの解脱は同じ解脱なのですか?
もし同じだとすれば、すい空さんは釈尊と同じように大衆を救う為に広めるべき境地だと思い、同等の価値があると思いますか?
そこらへんが、正直わかりませんでした。
なぜなら一切皆苦で、結論は出来れば死にたい、
あるいは生が煩わしい。とあれば誰しも解脱に対して?となるように思うのです。。
すいません失礼でしたら。ただ、道を歩む以上
疑団は全てぶつけます。なんせ私は解脱しか関心ない変人ですから^^;
107
:
慧空
:2015/11/19(木) 22:11:31
あなわさん
釈迦の悟りや釈迦の話した内容については、残念ながら、正確に現代まで伝わっているものは殆ど残ってないのだろうと思っています。
その理由は簡単でして、異なる悟り階層の話しがあまりにもごちゃ混ぜで入り過ぎてるからです。
おそらく、後世の小悟者や悟りを全くしならない者たちが、文献を好き勝手に書き替えていったのだろうと思います。
そんな訳で、経典類は出鱈目だらけになっています。
ですから、釈迦がどのような心境で伝道を行ったのかなんて、現代の我々が分かるはずがないのです。
そして、もう一つ大きな不確定要素があります。
それは、釈迦の悟りに関してです。
釈迦は本当に最終的な悟りに到達していたのか、ということです。
これに対して、私はちょっと怪しい部分があると思っています。
これについても理由は簡単でして、現代に伝わっているとされる釈迦の殆どの言葉に、
二元性に関する考えの偏り、つまり囚われの雰囲気がにじみ出ているからです。
例えば、どうやら釈迦は善を説いたようなのです。
果たして解脱者が善を説くだろうか?
また、救済についてですが、
最終的な悟りは、そもそも救済など何処にも無いということを悟る訳です。
どこかに救いがあるという思い込みや、救いを求める衝動が迷いや苦しみを生む訳です。
私から言わせれば、救済なんて、ちゃんちゃらおかしい訳です。
むしろ、もっと苦しめと言ってやりたいくらいです。
もっと苦しむように、奈落に突き落としてやってもいいくらいです。(^o^)
では、私(慧空)はブログやこの掲示板で何をやっているのかと思われるかも知れません。
囚われに気づく手助けをしているんです。
究極的には、一切が苦であり、苦から逃げ惑っている自分自身の姿に気づく手助けをしてるんです。
これを救済と言うのかどうかは分かりませんが、私はそれをやっているんです。
すみませんが、あなわさんのご質問には、お答えを控えさせて頂くかもしれません。
大変失礼ですが、ご質問が堂々巡りな感じなのと、うわ滑っている感じでして、
いくらお答えしても切りがないと思いますので。
108
:
あなわ
:2015/11/19(木) 22:52:38
すい空さん
ご回答ありがとうございます。
すいません、なんでも書いてください等のことわりがありましたので、遠慮なく書かせて頂いた次第です。ただし、多くの苦しむ法の人間は多く、迷い苦しんでおります。
従って、私は解脱していると仰り、法を説いているのならば発言には責任をもたれて頂きたいと思いますし、それがすい空さんのカルマ?かもしれませんよ。
しかし、すい空さんに対しての質問は実はすでに終わりました。だいたい私の疑団は溶けましたし、人の信じているものは尊重すべきものなので、その解脱はそれはそういう悟りもあるのだろうと、私自身納得がいきました。ですのでご安心ください。ありがとうございました。
私自身が色々とお話をみていて思うのは、悟りにはおそらく人それぞれの世界における納得、理解といったそれぞれの理解した宇宙における悟りがあるように思います。つまり大衆的な、全ての万物に共通する悟りとはないのかもしれません。
ただし、ある一定の共通した悟りの感覚、つまり真我覚醒における悟りは、どうやら世界共通なのでそこまでは全ての人にあてはまり、人々を苦から救う力はあるように思います。
問題はそこからです。一般的な悟りに関しては私はわかりません。ただ、人それぞれの思考形態には無限の連鎖があり、坐禅にてなんども陥し入れたられた私の経験からいえば、例えば、「一切皆苦で全てが苦であり、最終的に消えない私が苦である」という囚われをすい空さんは掴んでらっしゃいます。その無限の連鎖の終息が悟りと私は思いますので、あくまですい空さんの悟り、、という事ではないかな。。
例えば、思考とは面白いもので、まさに自分が腑に落ちることに安住するという無限のワナがあります。禅にていく数千もの過ちを犯してもまた同じ事の繰り返しにすら、気付きもしない。ココが面白い苦悩とは思います。
109
:
あなわ
:2015/11/19(木) 23:28:00
もう一つ、では私自身の不思議な体験を書いておきます。こういった話ならばすい空さんも、ウェルカムしれませんね(^^)
私は悟りを開いてはおりませんが、光と闇の体験をしました。多くの覚者にとって参考になるかもしれませんし、そうでないかもしれませんが、何かしら意義はあるかもしれません。
最初に光ですが、それはまさに多くの覚者たちが仰る、愛と至福の境地でした。私が感じた至福はあまりに大きすぎて理解不能な至福感でした。それは宇宙の無限の空間にある愛が、一気に私の体に収まったと言えば伝わるのか、とにかく無限の愛と見返りを求めない愛です。その時、見る対象を石壁に向ければ壁になるといういわゆる、一体感の感覚です。まさに宇宙風呂です。これは覚者がいう真我なのかわかりませんが、光としておきます。
その真逆が闇なんです。これは語りたくないのでやめておきます。おそらくこの世界でこれ以上の苦はないだろうと断言出来る苦の境地でした。
さて、これは幻かもしれません。あるいは存在する世界かもしれません。しかしこの苦の体験はEOと呼ばれる覚者が体験したのではないかと思いました。あの体験が全てだと思ったらこの世界に希望を見出せるわけがありません。
これは私の推測ですが、(妄想です^ ^)宇宙は隠と陽があると言いますがコレかもしれません。
例えば、確かにすい空さんの仰るように、愛と至福の世界ばかりに依る覚者は、良くないかもしれませんが、これはつまり同時に苦ばかりに依るのも、どうかなあと私は思うのです。
ですから釈尊は中道を選択したと考えれば納得はいきます。ただしこれは私の宇宙ですが(^^)こう考えると面白いですね^o^
110
:
あなわ
:2015/11/20(金) 00:37:38
追記
例えば、全てが幻であるなら、同等の法が成り立つと私は思います。
一切皆苦なので全てが苦であり、私も苦である
この真理は正しいと思います。しかしそうするとこう言い換えることも可能なはずです。
一切皆楽なので全てが楽であり、私も楽である。
全ては愛と言い換えますし、悪ともいえます。
全てが光とも闇とも言えます。
つまり、苦が絶対の真理となれば、それは一方に依っていますので、それなら真我覚醒の愛や至福が絶対の真理と言っているのと変わらない道理になるというのが私の見解です。
なぜなら全てが幻なのですから(そうでないなら違うでしょうが)
ですので釈尊の中道というのも、なかなか面白い道理だと私は思います。
111
:
慧空
:2015/11/20(金) 04:28:48
中道について、おそらくですが、釈迦は中道なんて説いてないと思いますよ。
なぜなら、中道はまだ二元の囚われの範疇なのです。
なぜなら、「中道」という考えがあり、それを言うということはそれが良い考えているからであり、
つまり、まだ良い悪いの囚われがあるということです。
それと、もう一つ、指摘させて頂きますと。
私が言っている一切皆苦の苦は、二元的な世界観の範疇の外にあるんです。
ですから、一切皆楽は、あり得ないのです。
連鎖的に起こってくる意識の展開そのものが苦であると言っているのですから。
しかし、私がいくらこの苦について説明しても、簡単にはお分かりにはなれないと思います。
この苦に関する話が分かるようになるには、相当に囚われが薄くなる必要がありますから。
112
:
あなわ
:2015/11/20(金) 05:43:04
すい空さんが正しいと思うのなら、それがすい空さんの正法と思います。
113
:
慧空
:2015/11/20(金) 06:34:26
これが正しいなんて考えは、とっくにもうありませんよ。(^o^)
正しいことも、確かなことも、何処にも無いんですが、
お分かりにならないでしょうねぇ。(^o^)
114
:
あなわ
:2015/11/20(金) 06:56:45
わかりませんよ。すい空さん。
釈尊より解脱した人は、すい空さんくらいしか
いないでしょう。
ただ、何か突っ込んで欲しそうなので、突っ込んでおきます。
まず、「私」を認めている時点で、よくわかりません。今、この瞬間、、でさえ10000の1秒意識しただけで、今、この瞬間ではなくなります。
今、すら一瞬たりとも認めてはならないのが法です。
苦はあって楽はない、それは二元の外の話とのことは頷けます。なぜならすい空さんは「私」を認識してしまってますから。それは苦はあるでしょうね。
115
:
あなわ
:2015/11/20(金) 07:03:02
でもそれはすい空さんの望み所ではないですか?
苦が好きなんですから(笑)
きりがないので、このくらいにしておきます。
116
:
慧空
:2015/11/20(金) 07:04:10
あなわさん、おはようございます。
囚われを含む考えには、どうやら深さがあるんです。
その中で、「私」と「苦」は最も深い考えなんです。
しかし、私も苦も考えであり、幻である点では他の考えと同じなんです。
117
:
慧空
:2015/11/20(金) 07:04:51
切りが無い、仰る通り。(^o^)
118
:
佐藤
:2015/11/20(金) 07:27:24
>苦が好きなんですから(笑)
好きな人なんていないと思いますよ。
でも仕方ない 諦めてくださいという事ではないでしょうか?
119
:
佐藤
:2015/11/20(金) 07:35:07
釈迦の善というのは社会で快適に生きるためのツールなだけだと思ってます。
それよりは縁起や四諦などの考え方の方がここでは参考になると思います。
120
:
佐藤
:2015/11/20(金) 07:44:18
意識の動き見るのであれば、闇に落ちる事を繰り返すのも一つの手だと思います。
121
:
あなわ
:2015/11/20(金) 19:01:06
何故釈迦は経典を残さなかったか、
各々皆さん、そこらへんを考えてみるべきと
思いますよ。
122
:
あなわ
:2015/11/20(金) 20:11:47
それから釈迦が実際、3000回以上も転生しているなら、すい空さんや、他の覚者が体感している悟りはすでに何百回と体験している可能性がありますよ(^^) 宇宙とは不思議ですね。いったい宇宙の果ては何処なんでしょう。では、この宇宙は有限なのか無限なのか。限りあるのかないのか。
実に不思議です。わかりませんね^o^
123
:
佐藤
:2015/11/20(金) 20:43:24
>釈迦が実際、3000回以上も転生しているなら、すい空さんや、他の覚者が体感している悟りはすでに何百回と体験している可能性がありますよ
残念ながら、そういう側面はあるかもしれません。
受け入れ準備okじゃないと、
何を言っても無駄な面があるなと思います。
124
:
佐藤
:2015/11/20(金) 20:46:24
>何故釈迦は経典を残さなかったか、
各々皆さん、そこらへんを考えてみるべきと
思いますよ。
経典云々は、どうでも良い事かと思いますよ。
善であっても縁起であっても苦諦であっても参考になれば使えば良いし、ご自身で検証すれば良い事なだけかと思います。
125
:
あなわ
:2015/11/20(金) 22:47:54
佐藤さん
例えば、こういう仮説はどうでしょう。
人は自分が信じている宇宙を選択する事が出来る。つまりこの世界、及び宇宙には正しい事もなければ間違ったこともない。信じて、そうだと思った宇宙が真理現生する。
つまり、これで解決した。もうこの宇宙に必要はないと、悟れはそうなる。それはそれで完結。しかしこの宇宙は永遠だから魂は無限に広がり続けるんだ、成長するんだと思えば無限の旅路にでることになる。みたいな。
つまり答えはないから釈尊が経典を残さなかったなら理解できます。ただし、多くの苦しみを救う段階までの最低限の法だけ示したのならば、釈迦は苦の本質を理解していたのではないか。
つまり苦は何も生み出さない。なにもない。存在すら意味もない。無だけならば良いでしょう。
しかしその空間には全てが否定されるのです。
私はなにも魅力に感じませんでした。自我があればそれは絶望の境地となります。私が体験した苦とはそういった完全否定の世界でした。
宇宙は単に無意味であり続けるのか。
それとも愛ある至福の境地であるべきでしょうか。それとも、苦も至福もどちらにも拠らない
中道であるべきでしょうか。
それは自分自身で選択し現生していきれるなら
面白いとは思いませんか?
126
:
名無しさん
:2015/11/21(土) 00:02:05
あなわさんのお話はスピリチュアルをうたってる方がたと同じく感じます。
愛だ!至福だ!宇宙は完璧‼とか
陰陽も
ヒーラーさんが「この世は幻だからどうせなら楽しい方がいい」と言われてたのを思い出しました。
そこを選択されていられるなら解脱しなくていいですよね??
どっぷり至福に神秘体験に浸ってればよろしいじゃないですか♪
それとも一切皆楽が悟りの執着…終着点ならスピリチュアルをうたってる先生方は解脱してるのでしょうかね??
127
:
アナハセ
:2015/11/21(土) 10:02:50
肉体に存在している限り、そもそも解脱はあり得ないのでは?
苦の拘束から離れられませんから
128
:
あなわ
:2015/11/21(土) 14:58:09
名無しさん
わかりません。あくまでわたしの想像ですから^^;
解脱に対しても、仏法の解脱とすい空さんの解脱は違うように思います。
私が思う仏法の解脱は、最終的に残ると仰る「私」をも手放す事ですから。私を認識して認めている時点ですでに二人ずれですし、苦が消えるわけがないというのが私の見解です。
129
:
名無しさん
:2015/11/25(水) 08:40:12
仏教の解脱とどう違うんですか?
130
:
あなわ
:2015/11/27(金) 17:37:08
名無しさん
すい空さんは、「私」を認め認識してます。
少なくともはっきり言えるのは、仏法は私も今
も楽も法も、何も認識などしないという事です。
光も、闇もです。
例えば、禅定に入ると非常に、楽になり幸福感に包まれます。それは囚われから解放され今の縁に近づいているからですが、楽だ幸福だ‼︎などその状態を認識して味わい始めると、この楽な「今」は霞のごとく消えていきます。私という自我も同じで認めれば純一の世界から分離して拘りとなり囚われます。
ただ、すい空さんの、二元の外の私というのがよくわかりません。感覚の奥深い所なのでしょうが、それこそすい空さんの解脱なのだという認識です。
すい空さんが、あげている3つの苦の内、1と3
が残るとの事ですが、是非3を手放してみて、その心境を聞いてみたいです(1は肉体がある以上当然と残りますが、悟ると囚われがないので、苦も楽もただ通り過ぎて去るのみと思います)ただ一つ可能性として言えるのは、すい空さんの捉えている二元の外の私とは、通常自我と呼ばれる私と、真我と言われる私の2パターンが考えられますがいずれにしろ、仏法ではどちらも相手にしないとは思います。おそらくは、たぶん。。^^;
131
:
名無しさん
:2015/11/27(金) 21:44:41
あなわさんもまだ迷いの中ということですね(^-^)
132
:
なう
:2015/11/29(日) 18:04:18
解脱に私の認識はありません
133
:
大空
:2015/11/30(月) 08:48:51
喜びや歓喜はまだ第一禅定の段階です。自覚は先にサマタ力を修業で強めないと、なかなか進まないのでは?
134
:
あなわ
:2015/12/06(日) 00:47:29
幸せに生きたければ、幸せにいきる選択をすれば良いと思いますし、苦しんで生きたければ、解脱してもなお苦を握りしめて生きればよいかと思います。それは個人の自由でしょうが、私は遠慮しときます(^^)
135
:
あなわ
:2015/12/06(日) 00:54:43
それから私は、苦の本質は私ではなく私を認識する私は、あくまで苦のきっかけに過ぎず、単なる自我です。その本質は単に宇宙の陰陽の底にある隠に過ぎないと思います。
136
:
あなわ
:2015/12/06(日) 01:17:22
釈尊は苦の本質を理解していたと思います。
この本質を理解しているからこそ、苦からの解放を広めたのではないでしょうか。陰陽の宇宙は天国と地獄の階層と思います。私は誰しもが地獄に堕ちて欲しくないと願ってます。皆が天国にて苦のない幸せな世界に行って欲しいですし、苦しむ人々を救いたいと思います。それが誰であっても、全ての人々全部です。皆が幸せになって欲しい。ただそれだけを願っています。
137
:
大空
:2015/12/06(日) 09:05:10
同感、苦とは単に思いどおりにならないことですよね。
苦をもたの
138
:
大空
:2015/12/06(日) 09:07:44
苦をも楽しみに変えることができるのがブッタ。
139
:
名無しさん
:2015/12/08(火) 21:50:22
あなわさんの天国地獄論よりすいくうさんの無明の話の方が個人的には理解できます〜
以上!
140
:
なう
:2015/12/11(金) 08:55:26
人が天使に生まれ変わるってあるんですか?
141
:
あなわ
:2015/12/11(金) 15:03:24
天使がいるかどうかは、どうなんですかね^^;
自分は経験した事から推測出来る範囲は、信じる傾向にあります。
まず、光、無条件の愛、至福、無限の愛の体験。これはそういう全てを肯定する波動の階層があり、たまたま波長が合ったんだと推測してます。当時、呼吸法を色々試しながら散歩してました。その時の体験です。これを光、陽、神、と定義するとします。
その絶対至福の真逆が、私が定義付けする闇という体験です。その空間では全てが否定されました。これは寝ている時でしたが、とにかく凄まじい苦でしたので、闇、悪、隠と定義付けしました。これも無意識のうちたまたま波長があっただと推測。私が苦など何の意味もないと言い切るのはこの経験からです。それは虚無以上に無意味と断言できます。
この光と闇の体験を、極論で分別すると陰陽の宇宙があり、それは双方に無限大に開かれており、それがあまりに両極端な至福と苦でしたので、ならばその間にそれぞれのレベルの階層、光から闇までの波動の世界が縦にあるのかなあ〜と推測しました。その陰陽の無限ともよべる階層をひっくるめて宇宙は一つなのかもしれないなと。わかりませんが。
ただ、この幸福も苦も、肉体があるから感じたような気がします。肉体がなければ幸不幸も感じないのか、感じるのかは、わかりません。たぶん感じないのではないか。
ただし、人間は光、至福の体験は耐えられますが、苦の境地には耐えられないと断言できます。
そうすると、人間という存在はそもそもが光に部類する存在なのかもなと思いました。逆に闇に属するダークマターみたいな存在も宇宙にはあったりして。
ちなみに光そのものの時は、一切闇を感じないはずです。なぜなら上記の定義で言えば波動階層そのものが違うからです。その逆もしかり。
これが今の僕の体験から推測したまあ、想像宇宙ですが多分、そんな一括りにできるものではないでしょう。光と闇について誰か知ってれば、教えて欲しいです。
142
:
なう
:2015/12/12(土) 07:54:37
ありがとうございます。天使って光の玉だと思いますが?
143
:
あなわ
:2015/12/12(土) 09:38:59
なうさん
ところで天使とはなんですか?
どんな光の玉なんですか?
144
:
あなわ
:2015/12/13(日) 19:32:28
ちなみに、現実的視点からの解脱を語ってみます。
現実、死後やカルマ、輪廻転生などは仏法的視点からみるとこれまた、どうでも良い事。
なぜなら現実人間として、人として生まれ生きているわけですから、今現在を最高に生きることが人としての生であり人生と言えるでしょう。それ以外ないはずです。
その中で苦とは私の考えでは、苦しむだけか虚無への消滅か?それしか意味をなさないと思います。そこで自我とは苦の元ですが、私は自我とは苦のキッカケに過ぎないと思ってます。自我による苦など絶対苦からすると、たいしたものでもありません。
魂の成長的視点からみると苦とはそれを乗り越えてこそ意味をなすものです。ただ苦しむだけでは全く魂は成長なんかしませんし、むしろ捻くれたり、悪に向かうだけです。
従って仏法はその苦からの解放(乗り越え成長する)なので、人生として生きるという絶対的現実、視点からみると、多くの大衆を救うありがたい法であると言えます。釈尊の説く仏法はこの人間社会に生きる人類に対する大慈悲心以外ない。その根源は、苦のキッカケに過ぎない自我なので、全て手放して、今をも認めない今を生き、悟りをも只管にして只管で破り、純然たる今に目覚める法を説いた訳だと思います。
つまり、解脱して残るのは純粋たる今であり、私という認識ではないはずです。何か認めて立ててまで認識するなど魔境にしか過ぎないのが仏法のはずです。
つまり仏法の解脱は、人間を苦の輪廻から解脱させるからこそ解脱と言うのでしょう。たぶん。
釈尊はその法を示したのだと思います。
145
:
あなわ
:2015/12/13(日) 22:47:43
つまり「私」と言うイタチが自分のシッポに噛みつくとします(認識)。シッポも私なので痛い(苦)噛み付くのを辞めない限り、痛い(苦)が消えないでグルグル永遠に回っているようなものです。仏法はそんな事はしないとは思います。。
146
:
あなわ
:2015/12/17(木) 01:11:40
大応国師いわく、仏祖際断して吹毛常に磨し、機輪転ずる所虚空牙を噛む。
つまり悟り尽くし、捨て尽くして、なお、磨くものも無い世界を磨いている。これが仏法です。
147
:
アナハセ
:2015/12/17(木) 08:59:51
私という認識は、解脱するとなくなるんですか?
148
:
あなわ
:2015/12/18(金) 00:35:36
さあ、それはアナハセさんが悟ればわかる事でしょう。私は悟ってないのでわかりません。
ただ、経験、体験から推測しているのみです。
例えば、覚者がこの瞬間は永遠だというのもわかります。今、瞬間しかないとそう感じるものです。
少なくとも、釈尊を低いものとしてすい空さんが語ってましたので、祖師仏法の気持ちをくんで、また法に迷う行者の為に、仏法との違いを明確にしておきたかっただけです。
釈尊から2500年、祖師は命懸けでこの仏法を伝来していました。その努力の歴史は壮絶たるもので、さらに2500年に渡って純化され今に至るわけです。悟りなど当たり前で、解脱するまで祖師は祖師をして生死を問わず法を伝来してきたと思います。すい空さんの悟りは何年か知りません。
私は宇宙には正しきも誤りもないと思いますので、それは関係ありませんが、すい空さんの解脱と仏法の解脱は違うとだけは明記しておきたかった。単にそれだけですよ(^^)
149
:
あなわ
:2015/12/18(金) 08:55:08
仏法の解脱では、多分ですが、なーんも無い
心境じゃないかな。
150
:
ナウ
:2015/12/24(木) 08:45:30
縁起と苦がやはり関係のないことがよくわかりました。
麒麟さんありがとうございます。
151
:
名無しさん
:2016/01/27(水) 17:12:54
あなわさん仏教では悟りにレベルがあるが、解脱にはレベルがありませんよね?
152
:
あなわ
:2016/01/29(金) 00:02:14
名無しさん
わかりません。悟ってもいないので^^;
ただ、仏法的には解脱の先はないと思います。
しかし宇宙的には広がりに限界はないとみてます。
限りなく肯定する空間が陽。
限りなく否定する空間が隠。
この両極端の神を体験して、確信をもって断言できるのは全ての存在する生命は、無償の愛に生かされているという事です。どんな悪をふりかざす人間ですら、骨の髄まで愛し尽くされているというのが真理です。
これがなければ生命は存在できません。存在とは愛の証明なんです。
そして陽は脳内に囚われがない時に作用します。愛、至福。
隠は囚われがある時に作用します。悪、苦。
人間レベルの苦などサッサと脱してしまうのが賢いといえます。これは神が人間という生命に与えた課題かもしれませんね。多分そんなつくりになってます。
従ってその法を示したのが釈尊です。
釈尊が一本の華を手にとり、かざした。
迦葉のみが、それを見て破顔微笑した。
全てを捨て尽くして、悟り尽くしたものだけがわかる端的な真理です。しかし大衆の前でオヤジギャグばりに真理を示したのでちょっとウケたんでしょう(笑)釈尊はユーモラスな人物であったと推察できます。
153
:
大空
:2016/02/01(月) 23:04:31
あなわさんは、なぜ覚醒が生じないんですかね?
154
:
あなわ
:2016/02/02(火) 01:14:14
大空さん
そりゃ 私が覚醒に値しない小物だからでしょう。
155
:
あなわ
:2016/02/02(火) 09:43:08
もう一つ理由をあげるとしたら、至高体験や今に覚醒していたのは10年程昔でした。
当時は極限の苦しみがしばしば現れるような精神状態でしたから。覚醒と苦に関連性があるのは否めません。
今は単なる怠け者になっちゃった(笑)
156
:
名無しさん
:2016/04/10(日) 17:50:27
『神の使者』という本を読み直していたら、
やはり解脱の悟りの次というのか、
正確には次じゃなくて一気に飛躍する(させられる)段階、
それがあるんだってことが書かれている。
トゥリーヤ(第4の意識)までは連続しているから、
自覚のようなやり方で「到達」することができる、
だけど、トゥリーヤーティタ(第5の意識)は、
もはや「状態」ではなく、意図して「到達」できないと。
だからブッダはもう一度人生をやり直すことになったと。
157
:
名無しさん
:2016/04/11(月) 01:22:30
「悟り」は宗教ですかね?
私は違うと思います
雑念である「悟り」に注意を向けてる状態から抜けて、本来の自己(悟り)の状態に入ってくるのです
158
:
名無しさん
:2016/04/11(月) 16:39:14
今すぐヤレる出会い系ランキング
http://bit.ly/1OgYRt7
159
:
名無しさん
:2016/09/19(月) 13:24:48
解脱の先って?
それに関連する興味深いサイトを見つけた。
http://breath-awake.com
160
:
名無しさん
:2017/01/31(火) 16:36:43
これはどうかな? 悟りや解脱をPCで説明してる
http://ssovretawssov.web.fc2.com/sub20.html
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