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悟り全般に関すること
623
:
慧空
:2015/03/17(火) 07:34:51
avadhutaさん
大丈夫ですよ。
そうですね、私は余り2chは行かないのですが、面白そうだと思っています。
続かないでやめる人が多いのは、自覚や悟りに限ったことではないですよ。
そもそもがそういうものなんだと思っています。
私は、何かを極める道と、悟りの道は同じようなところがあるんだと思っています。
極める対象が、何かという違いがあるだけで。
私はなぜか、たまたま悟りを極めたということなんだと思います。
ただ、何かを極める道と悟りを極める道は、決定的に違う点が一つあるんです。
何かを極める道には終わりが無いですが、悟りの道は終わりがあるんです。
否応なくそれ以上進めないし、どうしようもなくなるポイントがあるんです。
これは、とても良いことだと思っています。
なぜなら、そのポイントに到達したとき、何とも言えない到達感が得られますから。
624
:
悟らせ屋
:2015/03/17(火) 22:37:46
悟りとは何かあれこれ語っている人は、悟っていません。by明神
625
:
avadhuta
:2015/03/17(火) 23:22:33
>>623
ありがとうございます。
それなりの素養と集中力がないと自覚を続けていくのは難しそうですね。
一部の人たちは自覚で簡単に悟れる、みたいなこと言ってますが
キャンドルライトで印可を貰った人の中にも、ホントにこの人悟ってんのかな、
という人もチラホラいますし、よくわかりませんね。
とにかく、誰でも自覚ができるとは限らない、
こういうやり方が合わない人もいる、ということでしょう。
あと、624の悟らせ屋さん、騙りなのかもしれませんが、
あなたも悟りについて思わせぶりにあれこれ語ってますよね。
626
:
慧空
:2015/03/18(水) 07:05:52
avadhutaさん
>キャンドルライトで印可を貰った人の中にも、ホントにこの人悟ってんのかな、
>という人もチラホラいますし、よくわかりませんね。
それはその通りなのですが、avadhutaさんは内部事情をよくご存知なのですね。
>とにかく、誰でも自覚ができるとは限らない、
>こういうやり方が合わない人もいる、ということでしょう。
これもその通りだと思いますよ。
誰でも悟れるというのもウソです。
624の悟らせ屋さんは、おそらくSTさんですよ。(^^)
627
:
竹槍
:2015/03/22(日) 08:49:26
悟りの件についてですが、いろんなブログを読むと
やはり、方法論がないと言っている人が多いですね。
波動共鳴法というのが、効率的に悟りに導ける方法だと主張する人もいます。
とはいえ、あくまで誰かの力を借りなければならないようですが・・・。
628
:
慧空
:2015/03/22(日) 08:59:43
竹槍さん
方法論は昔からあるんですよ。
例えば、ビパッサナです。
波動共鳴は、準備ができている人にはそういう方法もあるようですが、
準備が出来てない人には殆ど使えないだろうと思います。
囚われを手放すのは、本人にしか出来ないのです。
629
:
修
:2015/04/17(金) 09:08:33
波動共鳴はラーマクリシュナのように祈りに身を委ねることですか?
630
:
慧空
:2015/04/17(金) 23:34:10
修さん
ラーマクリシュナがどういう感じだったのかは知らないのです。
それと、上で波動共鳴についてしったかぶりして言及していますが、
実はそれについてもよくは知らないのです。
ただ何となくですが、悟った人には、うまく表現できませんが何か特有の雰囲気というか、
エネルギーというか波動というか、そういう何かがあるように思います。
それは、その人の近くに居るととてもよく感じますし、おそらく、ネットを通じたやり取りや、
書籍の文章からでも何らかの形で伝わるように思います。
それで、そのようなエネルギーに触れたとき、その影響により、これまた表現するのは難しいですが、
共鳴するような感じで、意識の状態等が微妙に変わってしまうんです。
例えば、マスターゲートさんの近くにいると、思考が抑制され、頭がボワーンとなったり、
人によってはとても眠くなったりするようです(私の場合は、思考が抑制され、頭ばボワーンとなってました、笑)。
そのような影響や意識の変化は、悟りを誘発しやすくする可能性があるのだろうと思っています。
631
:
修
:2015/04/22(水) 23:12:10
わざわざお返事ありがとうございます。講演会楽しみです。
632
:
慧空
:2015/04/23(木) 09:33:19
えっ、修さん私の講話セッションに参加してくださるんですか?^^
ありがとうございます^^
633
:
孤独な羊
:2015/04/23(木) 16:11:22
初めまして、掲示板参加の皆様。
僕は生きる意味を見失った孤独な羊と名乗らせていただきます。
生きる意味を見出すために、もし問題なければ、こちらでお知恵を拝借できますでしょうか?
よろしく、お願い致します
いま僕が生きるために取り組んでる中で、以下の二つの内観後の自前の考えに戸惑っております。
・目標も目的もなく全てが正しくなるとき、生きるために頼れるものは信仰しか残らないと考えること。
・正しくあろうとする中で、正しくあろうことは維持出来ないと考えること。
これは補足ですが、悟りという真の信仰は、すべてを天に委ねてしまうことにあると考えてきました。
真の信仰は、求めるものが自由に求めるのであり、信仰を広げる行為さえも正しいとは言えなくなるものだとの考えに至っています。
おそらく悟りの境地は、情愛に流されることもないものです。
僕には罪をつくらずに生きる方法など、この世には残されていないとしか考えられません。
真の悟りは、こうした中の何が間違えていて、どのように生きる方法にあるものか、わからなくなりました。
ご意見を賜れれば大変に幸甚でございます。
お力添えいただけますよう、重ねて、よろしくお願い申し上げます。
634
:
孤独な羊
:2015/04/23(木) 19:05:35
次に思うことがあり、補足させて貰いに来ました。
独自に考えてきた悟りには情愛に流される考えはありませんが、悟りは善であり、善としては残ると考えております。
いま八方塞がったような僕にあるのですが『人助けする努力を死ぬ気で行うこと』これを死期が来るまで只管目指すというだけ
でいいのかもしれないとの考えは浮かぶことがあります。しかし、それにも縁はつくられれませんし才能やknowhowもなくて満足できるものにはなりえないのです。因果関係と理由は勿論ありますが、何れ現実に、人助けする余裕なんか、あらゆる面で全くない立場です。これでは悟りからは離れてしまいますでしょう。
授かってる命に生きる理由がないとするのも、根本を覆す論理にあると考えます。
それでも生きる理由は、考えられません。
こんな僕に、なにか知恵を授かれますでしょうか?
よろしくお願い致します。
635
:
慧空
:2015/04/23(木) 19:24:21
孤独な羊さんへ
孤独な羊さんは、とても純粋な方なんだと思います。
その純粋な眼差しで、多くのことがらを斬り捨て、そして自分自身も切り捨ててしまおうとしておられるように見えます。
また、その純粋さで、自分自身をがんじがらめに縛り付け、身動きが取れなくなってしまっているようにも見えます。
さぞ大変でしょうし、苦しんでおられることだろうと思います。
そのようなあなたに、どういう言葉をお伝えすればいいのか、ちょっと躊躇しております。
しかし、私はどこまでも覚めた目で自分のことを見続けた自覚の道を進んだものですので、
その観点からお伝えした方がいいように思います。
という訳で、孤独な羊さんの文章を読ませて頂いて思ったことを少し書かせていただきます。
続きます。
636
:
慧空
:2015/04/23(木) 19:34:32
孤独な羊さんへ、続きです。
まどろっこしいのは苦手なので、端的に結論から申し上げますと、
そもそものところ、もとから、生きる意味なんてものは無いのです。
意味が無いと生きていけませか?
意味が無いと生きていけないと言って死を選ぶ人もいるのかもしれません。
そういう人は、さっさと死んだらいいです。
いま直ぐ、死ねと言いたいくらいです。(^o^)
でも現実には、そう簡単に死ねるものではありません。
「簡単には死ねない」、この事実を受け止めざるをないのです。
死ねないのなら、死がやってくるまでは生きるしかないということになります。
死にたい、死にたいと思っていても、生きていくしかないのです。
生きていくしかないことが本当に分かったのなら、腹を括って、生きよう、
生きることに取り組んでみようとなるはずです。
そしたら、どう生きようかというふうに考え方がガラッと変わってきます。
まずは、このあたりを、自分の内面を見つめながら、しっかりと確かめてみて頂きたいと思います。
それでも死にたくなるようなら、死んでしまってください。(^o^)
637
:
慧空
:2015/04/23(木) 19:43:33
孤独な羊さんへ、さらに続きです。
孤独な羊さんは、その純粋さゆえに、清らかさ、正しさ、善、慈愛等の考えに囚われておられるようです。
おそらく、孤独な羊さんは明晰な方なのではないかと思います。
その明晰な眼差しで、清らかさや正しさ等の考えについて、それが本当に真理なのか、絶対的なものなのか、
しっかりと追求してみてください。
また、悟りについてもそれが善なものであるかのような考えに囚われておられるようですが、
それについても、本当にそうなのか、追求してみていただきたいと思います。
その明晰さをもってすれば、善悪等の概念について、そこに何の絶対性はなく、私たちが勝手に考えている相対的な概念であり、
幻想であるということが分かられるはずだと思います。
もう一踏ん張りです。
頑張って、その明晰な眼差しで、妄想や幻想の霧を吹き払ってください。
638
:
慧空
:2015/04/23(木) 19:58:27
孤独な羊さんへ、さらに続きです。
孤独な羊さんは、信仰心を持っておられるのでしょうか?
何か特定の神を信じておられるのでしょうか?
もし本当に信じておられるのでしたら、私の言葉は孤独な羊さんの心には届かないのかもしれません。
しかし、乗りかかった舟ですから、さらに続けますね。
神を含めて、何か絶対的な存在があるかのように思い込んでいる方がおられますが、
それは幻想なのです。
この現実世界(物質世界)が幻想であるのと同じように、神もまた幻想なのです。
すべては、「私」という自我の認識であり、考えなのです。
そして、その「私」もまた、考えであり、幻なのです。
どういう仕組みで、このような世界(幻想)が繰り広げられているかは分かりませんが、
考えが考えを呼ぶとでもいいましょうか、私を含むこの世界は、連鎖的に連なる考え(幻)の連鎖なのです。
すべてが幻であり、絶対的なものなどどこにも無いのです。
絶対的なものがないというのに、何を信じるというのでしょう。
そもそものところ、信じられるものなど何もないのです。
真実も無いのですが、敢えて真実というなら、信じられるもの、頼れるものはどこにもない、これが唯一の真実です。
それを知るようになると、空しくなる方がおられるのかもしれません。
空しくて生きていけないと言うのなら、死んだらいいです。
死ねる人は死んだらいい。
でも、多くの人は、そう簡単には死ねないのです。
どんなに空しくても、死ねないのです。
生きていくしかないのです。
生きていくことに向き合うしかないのです。
639
:
慧空
:2015/04/23(木) 20:04:34
孤独な羊さんへ、もう一言です。
苦しいでしょうが、
その苦しみから逃げないで頂きたいと思います。
逃げずに、苦しんでいる自分、もがいている自分としっかりと向き合ってください。
徹底的に向き合っているうちに、おそらく、何かそれなりの手応えが得られるはずだと思います。
そこで何が得られるかは、人それぞれだと思います。
ある人は残りの人生を生きていく上での生きるヒントかもしれません。
ある人は、悟りや悟りのヒントかもしれません。
逃げずに、徹底的に向き合って頂きたいと思います。
さらに、疑問な気になられることがおありでしたら、お書き下さい。
私の考えでよろしければ、乗りかかった舟ですから、また書かせていただきます。
640
:
孤独な羊
:2015/04/24(金) 15:22:22
慧空様
ご指摘されるような信心があります。完全な無という考え方は、僕には無理です。
ですので、今後の質問は控えさせていただくことに致しました。
ご親切にご意見を頂けたことの感謝は忘れません。
本当に、ありがとうございました。
孤独な羊
641
:
孤独な羊
:2015/04/24(金) 19:53:34
愛しき慧空様
前文を投稿させていただいた後、何か後ろ髪をひかれる感じが残りましたもので、もう少し参加させていただけますでしょうか。
ご多忙でなければ差支えなければ、お付き合いくださいますと嬉しいです。
例えば
Iamnot慧空
慧空は悟れていない
と書きますと、慧空様は、どのように動かれますか?
ここで感情的に否定されるようでしたら悟れていないだろうと憶測できてしまうのですが、覚者たる立場の人とは、どういう理由で、どのように振舞われるのかということは気になってきてしまいました。
642
:
慧空
:2015/04/24(金) 20:09:20
孤独な羊さん
>Iamnot慧空
>慧空は悟れていない
私はそういう言葉を投げかけられても、特になにも思わないのです。
最終的な悟りを得る前なら、何らかの反応があったのかもしれません。
でもいまは、自分でも不思議なほど何も起こらないのです。
それと、正直なところ、私は最終的な悟りに至ったと、これまでの流れからいまでも一応はそう言っていますが、
正直なところ、自分のいまの意識の状態がどういうものなのか、本当に最終的なものなのか、よく分からないのです。(^o^)
ですから、「慧空は悟れてない」と言われると、そうかもしれないなあ、という感じも無いこともないのです。
何しろ、よく分からないのですから。(^o^)
また、こんなことも言えます。
自分の悟りがどうなのかも含めて、すべてがどうでもよくなってしまっているところがあるんです。
これ以上、追求するつもりもないし、どうでもいいんです。
ただなんとなく、もうこれ以上追求しようにも、無理だろうなあ、誰がやっても無理だろうなあ、という漠然とした、確信のようなものはあるんです。
なぜなら、もう一切の取っかかりが有りませんから、取っかかりがないので、どうしようもないのです。
こんな感じです。
643
:
慧空
:2015/04/24(金) 20:12:50
あのう、「慧空様」ではなく、「慧空さん」でお願いします。
様は嫌なのです。
644
:
孤独な羊
:2015/04/25(土) 01:02:15
慧空さん
わかりました。自由な心を手に入れられた。ご苦労から解放されているのですね。
お幸せということで何よりです。
人生を苦と捉える今の僕とは立場も考えも違いますので、慧空さんに理屈並べるのは諦めることにしました。
なにかお礼の言葉も綴りたい気分ですが、余計な言葉になると思いますので慎みます。
ありがとうございました。
645
:
慧空
:2015/04/25(土) 06:33:48
孤独な羊さん
「人生を苦と捉える」と仰るその観点は、本質(と言ってもこれも考えですが)を捉えておられるかもしれません。
私にはもう囚われがありませんから、多くの方がその囚われにより経験される苦しみはもうありません。
しかし、私(慧空)は、存在そのものが苦であることを知っていますし、
現に、いまのその苦と共に存在を続けています。
「一切皆苦」、存在そのものが苦である、逃げ場は何処にも無い、それが私の最終的な悟りであったと言ってもいいくらいです。
それに気がついたとき、延々と衝動的に苦から逃れよう、苦を何とかしようと衝動的に逃げ回り、彷徨っていた自らの姿に気づくことができました。
そして、それに気づいたとき、苦から逃れようとする衝動が嘘だったかのようにピタリと止まりました。
孤独な羊さんに、何か伝わればと思います。
孤独な羊さんは、澄んだ瞳を持っておられるんだと思います。
その瞳でよく観て頂きたいと思います。
646
:
孤独な羊
:2015/04/25(土) 11:10:19
ありがとうございます。色々と伝わってます。
ですか歯痒いのは、そもそも10割体験+αで漸く至れるような悟りの境地を言葉で表現するのは無理があることです。
そもそも個人の人生経験なんて小数点以下の割合の境遇でしか体験してないものですから。
常に新たな体験が待ち伏せしてる意識で接していきませんと、どうしても不十分にはなりやすくて致し方ありません。
というわけで僕には断片的にしか捉えきれない慧空さんの境地を、どのように捉えるのかという問題もあり難しさを感じたりしています。
僕が悟りについて真摯に語り合おうとすれば、こういった前置きだけで話が終わってしまうかもしれません。
笑いたくなるほど無能不器用で申し訳ない限りですが、少し意見させてもらいたいことがあります。
よろしくお願い致します。
647
:
孤独な羊
:2015/04/25(土) 11:13:56
死を決意したとき、刹那的に感じ取れる安堵感というようなものがありますよね?
諦めの境地といいますか?慧空さんの話には苦との向き合い方について、それに似た印象と同時に、実際は違ったことを伝えてくれてるという印象も受けています。
未熟な僕では中々話が進められないのですけど、現実を幻想と表現する様は空の感覚を仰っているはずです。
「一切皆苦」は仏教用語ですから、慧空さんも信仰があるのではないでしょうか?
僕は、悟りと言う仏教思想に大まかに3通りの経典が残されてきたと見ています。
般若心経と阿弥陀経と法華経です。
これに楯と鉾と叡智が分散しているイメージを持っています。
文献を細かく調べ上げてもないので生意気ですが、集約した道を示すような経典が何かありましたでしょうか?
ご存知でしたら改めてご意見を伺いたいです。
648
:
慧空
:2015/04/25(土) 13:29:19
孤独な羊さん
輪廻があるのかどうかは私にはよく分からないのですが、
あると考えた方が筋が通りやすく、理解もしやすいことがらが多いです。
その観点からすると、現世の体験にどれ程の比重があるのかという点
につきましては、孤独な羊さんが仰るように、その比重は小数点以下なのかもしれません。
しかし、いまそんなことを言ったところでどうしようもないんです。
大切なのは、いま自分がどうしたいのか、なのです。
終わってしまった過去や過去世のことを考えても仕方がないんです。
この人生で、悔いが残らないよう、やれるだけのことはやるしかないんです。
続きます。
649
:
慧空
:2015/04/25(土) 13:47:08
>死を決意したとき、刹那的に感じ取れる安堵感というようなものがありますよね?
私は、二十歳前のころ、試しに首に包丁を当ててみたことは2回ほどありますが、
試しにやってやろうとしてみたという程度、死の決意はありませんでした。
ですから、私は死を決意したことはありませんので、それについてはよく分かりません。
ですが、そこで孤独な羊さんが仰ろうとしていることは、何となく分かります。
確かに、死の決意には、諦めや降参、そして安堵感や恍惚感(至福感)の色合いがあるのだろうと思います。
そして、それは悟りで言うところの、明け渡しにも通じる部分があるのだろうと思います。
おそらく、そうやって死を決意した瞬間やその直ぐ後に、明け渡しの悟りが起こることもあるのだろうと思います。
しかし、厳しい言い方をしますと、そのような死を求めることは、一部の例外を除いて逃げなんです。
逃げからは、悟りの道には入れないのです。
仮に入っても、一歩踏み込んだところで止まってしまいます。
なぜなら、逃げているということは、恐れ(執着、これをカルマと言ってもいいです)が未だたくさん残っているということですから。
逃げや降参、諦めでは、ダメなんです。
受け入れていく、もっと言えば逃げずに取り苦で行くという前向きな姿勢じゃないとダメなんです。
そのような姿勢でないと、恐れ(執着、カルマ)が残ってしまうのです。
もちろん、恐れも執着もカルマも、伝えるためや、理解のための方便として言っているだけです。
そのよな実体的なものがある訳ではありません。
ですから私は、逃げるな、向き合え、取り組めと言っております。
受け入れろとも言いますが、あくまでもそういう前向きなスタンスから言っています。
続きます。
650
:
慧空
:2015/04/25(土) 13:56:13
すべて考えであり、幻であるというのは、仰る通り、「空」のことを言っています。
この空も、すべては苦であるという「一切皆苦」も、仰る通り、仏教用語です。
でも、私は仏教徒ではありませんし、経典類も殆ど読んだことがありません。
「空」や「一切皆苦」は、便利な言葉なので、使わせてもらっているだけです。
ですから、私は仏に対する信仰心は全くありません。
仏教のことをよく知らない私がこんなことを言うと反発する方がおられるでしょうが、
そもそものところ、仏教は無神論です。
少なくとも初期のころは、信仰なんてものは入ってなかったのです。
初期仏教の特性をある程度残している上座部の系列では、信仰の色合いはかなり薄いはずです。
続きます。
651
:
慧空
:2015/04/25(土) 14:08:10
という訳でして、私は経典類は殆ど知らないのです。
ですから、私に経典類のことを聞かれてもお答えできません。
経典類を読まれるより、自分の内面を見つめて頂きたいと思います。
外に求めず、自らを拠り所としなさい、というあの言葉は、あれはまさしく釈迦の言葉だろうと思います。
経典なんかに頼らないください。
経典を読めば悟れるのでしょうか?
それに、経典に書いてあることが正しいという保証がどこにあるのでしょうか。
(現在の経典には正確に伝わっている釈迦の言葉は殆ど残ってないそうですよ、ホントに、笑)
取りあえずは、これでお返事とさせていただきますが、
気になられることがありましたら、遠慮なくお書きください。
652
:
孤独な羊
:2015/04/25(土) 17:54:38
いつもながらご丁寧で、大変ありがとうございました。
論点は沢山ありますが、先ず合点いきませでしたことは、636で仰っていただいた内容です。
関して今回の649の内容でつながり安心させていただいております。
しかしながら636で言われていた>いま直ぐ、死ねと言いたいくらいです。(^o^)等については、あまりというか納得は出来ない言葉なのですが・・
少し飛躍します。現実の自殺率の高さは御承知の通りで、僕の関わった自死被害は率的に統計より高い発生率にありました。
周囲だけで6人の被害です。
共通して言えるのはいずれの6名ともに穏やかで人に好かれる傾向にある人情味溢れる人達だったことです。
勿論、あくまでも僕の周辺ではそのようにあったということです。
そしてそれを運命的な問題として片付けてしまうのではなく、何かできないかと考えることに宿命的な意味を持っているように感じさせられています。
決して囚われるという意味ではありません。
こうしたことに憤慨して努める姿勢等は見失ってはならないと痛感しています。またそれが苦に向き合う正しい姿勢ではないかと考えたりしています。
いまの時代は多くの人が感ずかれるような、新しい時代は到来していると感じています。
慧空さんにとっては、一見どうでもいいことと言われる話かもしれません。
ですが、自覚を浸透させるために活動されている慧空さんですなので、そこでまた質問なのです。
自覚とは、人に積極的に関わる必要もなくなる自覚にありますか?(つまり自分を変えるという価値観には、相手に対して働き掛ける必要があ
りません。相手に対して働き掛けるよりも自らが動くわけですが、なぜ人に説こうとするのか?確か善なんてないようなこと仰っていましたが、そこに善があるからとは回答されないでしょうか?)
僕には、この辺りが何となく辻褄が合わいにくくなるのです。
あと気になった言葉は「明け渡しの悟り」という言葉が気になっています。
それがあるとすれば、僕には、それが訪れてしまっている可能性も否めません。
それと仏教が無神論か否か正式なことは知りませんけど、阿弥陀経というのは無神論ではないと考えています。
経典につきましては、僕の方が慧空さんより詳しくないかと。
慧空さんが仰るように、無神論有神論輪廻転生に関して考えることは、生きることの最終的な意味をなさないと思っています。
653
:
慧空
:2015/04/25(土) 21:22:21
孤独な羊さん
孤独な羊さんは、真摯な方ですね。
またちゃんとしておられる。
私の方がよっぽどちゃらんぽらんで、いい加減です。申し訳ないくらいです。
私は結構いいかげんなところがあるのと、短気でめんどくさがりなんです。
いい加減でめんどくさがりが、どうしてこんなことをやているのかと思われるかもしれませんが、
自分でもよく分からないのです。
本当は、最初に自殺についてもう少し言わせていただきたいことがあったのですが、
展開的に、どうして私がこういうことをやっているのかを先に書きたいと思います。
私には、良い悪い等の通常の価値基準はありませんから、良いことをやりたいとか、
それをやることで周りから評価されたいとか、そういう考えはもうないんです。
自分でもどうしてやっているのかはよく分からないところもあるのです。
一つの答えとしては、単純にやりたいからやっているという感じが近いと思います。
あるいは、他の答えとしては、身体がそのように動くからやっているという感じも少し近いです。
私の場合、仮にやりたいと思っても、どういう訳か身体が動かないことが多いのです。
例えば、仕事をすることや、みなさんが普通にやっていることについて、
私はもう身体が動かずにやれなくなっていることが結構多いです。
でも、悟りを伝えることに関しては、まだ結構熱心にやれてしまうのです。
これは自分でもとても不思議なことだと思っています。
孤独な羊さんは、悟りや、悟りを伝えることは、良いこと、つまり善だとお考えなのかもしれません。
しかし、その考えには根拠がありません。
何度も申し上げているように、善悪等の基準は、普遍的なものではなく、
私たちエゴを持った存在たちが、勝手につくりあげ、思い込みにすぎません。
善悪の基準として何か普遍的なものがあるのか、
また、あれは善でこれは悪だと、だれが判断し、そう考えているのか、
しっかりと考えてみて頂きたいと思います。
続きます。
654
:
慧空
:2015/04/25(土) 21:34:30
次に、自殺に関連したことをもう少し書きます。
私は短気だし、口も悪いので、直ぐに「死ね!」と言ってしまいます。(^_^;)
普段の生活でも、しょっちゅう言っています。(^_^;)
これは死ぬまで直らないかもしれません。
本当は、死んでほしくなんかありません。
自殺なんかもっての他です。
生きてほしいんです。
生きること、存在することに、向き合ってほしいと思っています。
でも、余りにも逃げ腰の人が多いし、言っても分からないし、
もう勝手にしろ、と思ってしまい、死ね等と言ってしまいます。
輪廻があるのかどうかは分かりませんが、仮にあるとして、
自殺では、何も解決しないのです。
自殺は究極の逃げです。
何も解決しませんから、また同じことの繰り返しです。
解決していくためには、逃げるのではなく、腹を括って、受けて立っていくしかないんです。
何を受けて立つのかと言うと、それは、苦難やそれに伴う恐れや苦しみ、
そして存在の根本にうごめいている根本の苦です。
それらを解決していくためには、逃げていてはダメなんです。
覚悟を決めて、受けて立っていくしかないんです。
端的に言うと、あらゆる苦難や恐れ、苦しみに対して、それを本当に受けて立つ覚悟ができたなら、
おそらく、その人のカルマは急速に解消していき、自ずと最終的な悟りに至るのだろうと思います。
これは、私(慧空)の歩んだ道でもあります。
655
:
慧空
:2015/04/25(土) 21:48:30
孤独な羊さんが、明け渡しを経験しておられる可能性はあるのだろうと思います。
判別は簡単ではなく、また確かなものではないのですが、もし気になられるのでしたら、
いくつかの質問にお答え頂ければ、ある程度のことは判別可能ですよ。
但し、明け渡しは小悟ですから、まだまだ先がありますので、それを得たからどうこうなるというものではありません。
囚われないで、先を進んで頂きたいと思っています。
輪廻と無神論有神論の点についてですが。
輪廻については、それがあるのかないのかを考えても実りは薄い場合が多いだろうと思います。
しかし、神や仏等の絶対的な存在があるのかないのかについては、徹底的に考え、追求されるといいと思います。
これについては、突き詰めればそれなりの結論が出ますから。
神の存在性について追求する際、哲学や論理学等の合理的(客観的)な考え方は、実はとても有効です。
合理的な思考力、洞察力は、悟りを深めていくときの智慧に意外なほど繋がっています。
深い悟りで得られる智慧は、究極的な合理性を有する直感的な視線なのです。
取りあえず、これにてお答えとさせていただきます。
また何か気になられることがありましたら、遠慮なくお書きください。
656
:
孤独な羊
:2015/04/26(日) 15:09:33
慧空さんご自身の意思とは関係なく体が勝手に動くような感覚にあり、「やりたいからやっているという感じが近い」と思われてるそうですが、ここに「やりたい」という欲望が残っていると仰っていますよね。
この欲望が何ものであるかは解明不能または不明ということでよろしいでしょうか?
前文でお訊ねしたかったことですが、ここから覗かせるのが善ではないでしょうか?といった質問のつもりでした。申し訳ありません。
ですから関しては意見はないかと思いますけど、もし何かわかることがあれば教えていただきたく思っています。
それから自死の件ですが、究極の逃げとして片付けられる問題ではないと思うのです。
仮定の話はお好きではなさそうですけど、僕のコミュニケーション能力が乏しいためタラレバ論で書かせてください。
例えばですが独房のような場所で自由意思が奪われたうえ、飲み食い、トイレ、病原菌から、あらゆる手段で拷問にあわせられる環境を想定していただけますか。そこに「死にたくなったら自由に銃を取って構わない」と天使のような声で銃を申しつけられ渡されます。ここで死に至るまで一切の泣き言を言わず銃に手を掛けず、無間地獄のような拷問に耐え続ける自信があるでしょうか?覚者は相当のことが出来なければならないというような話に近いように感じ取れました。僕には無理なことです。
否定的な意見ばかりですが悪意はありません。うまく伝えることもできませんけど、お許しください。
それと、いつも労ってくださるのですが、余計な気遣いは僕もないほうがいいです。
自分でそう思われるような節も配慮もできてませんし、感じてないことですから。ただ今回も嫌われなくてよかったなという安心感はちゃっかり受け取ってましたけど。
僕は上手く表現できず労い文も書きませんが、慧空さんの寄り添ってくださる寛容さにはいつも感服しているんです。
多忙な時や気が向かないときは、返信なしでもスルーでも全然大丈夫ですから。
今後は気遣いなしで、お願い致します。
僕の質問も、これで最後になるかもしれません。
ありがとうございました。
657
:
慧空
:2015/04/26(日) 16:41:22
孤独な羊さん
私はもう、善人でも悪人でもないんです。
確かに見かけは、悪人よりも善人の方の分類に属するんだと思います。
しかし、私がやっている行為がたまたま善行と呼べる部類の行動に属しているだけなんです。
私は、勝手に身体が動いてしまうようなところがありますから、身体の動きに任せていれば、
悪行だってやります。
現に、私はカッとなったら、息子の頭を足で蹴飛ばしたりもしています。(^o^)
ひょっとすると、人を殺してしまうようなこともあるのかもしれません。
そのときは、そうなるだけです。
善悪は典型的な囚われの一つなのですが、この囚われが残っているうちは、
まだ強い二元の囚われの中にどっぷりと浸かっています。
小悟を過ぎ大悟まで至るようになると、人によっては、善悪を含む二元の迷いから、
それなりの割合で抜け出していきます。
善悪を語っているうちには、まだまだなのです。
何か善悪の絶対的な基準があるのかについて、よく考えてみて頂きたいと思います。
続きます。
658
:
慧空
:2015/04/26(日) 16:53:54
仮定の話は、私は嫌いです。
たらればの考えは、いくらやっても殆ど意味がありません。
ですから、牢獄中での極限状態についても、実際にそれをリアルタイムで体験しているのでなければ、考えても無意味です。
泣き言はいくら言ってもいいんですよ。
私自身も泣き言や、悪態はいろいろ言ったりやったりしてきました。(^o^)
苦しいときは、ジタバタともがき苦しむものです。
それはそれでいいんです。
ジタバタと悪あがきをしながらも、どこかでその困難な状況や苦しみに向き合っていればいいんです。
そして、何らかの納得が得られるまで、逃げ出さ出したり、放り出したりしなければいいんです。
逃げ出したり、放り出したりすると、多くの場合、また同じようなことの繰り返しになります。
しかし、多くの人はそれが出来ないんです。
みんな逃げ腰で、表面的な判断で、楽な方、楽な方への安易に行動します。
それではダメなんです。
取りあえず、これでお答えとさせていただきます。
気が向かれたら、いつでも書き込みしてください。
大歓迎です。
659
:
st
:2015/05/03(日) 18:22:45
ああ、慧空
私はあなたをとんでもないカルト野郎だと思う。
あなたは自身が陥った欠落を言葉巧みに教えているに過ぎない。
あなたは涅槃に入るが、代償が大きすぎる。
あなたはトラップにかかっていると思う。自覚ワーク?そんな
ブラックなものに囚われているあんたはやはり新興宗教者だ。
660
:
st
:2015/05/03(日) 18:26:38
それに、あなたが私と名指ししたコメは名無し以外
すべて私のコメントではない。
あなたは何も見えていないんですよ。節穴です。
あなた涅槃に入る。それだけが真実です。
661
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:29:48
stさん、こんにちは。
こりゃまた言いたい放題ですねぇ。(^o^)
まあ、ブラックだろうが、新興宗教だろうが、
なんと言われようといいんですが。(^o^)
特にお返しする言葉はありません。
どうぞお好きなように仰ってくださいな。
662
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:32:10
>それに、あなたが私と名指ししたコメは名無し以外
>すべて私のコメントではない。
そうだったのですか。
それは大変失礼いたしました。
すみませんでした。
仰る通り、私の目は節穴です。
663
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:35:44
>あなた涅槃に入る。それだけが真実です。
う〜〜ん、これについてはどうかと思いますよ。
涅槃がどういうものなのかよく分かりませんし、
これが真実だと言えるものもないですから。
664
:
st
:2015/05/03(日) 18:38:17
教祖になろうとするな。
あんたの教えは穴だらけだ。
言いたいことはそれだけ。
後は自覚して自身で考えろ。
あと、コメ読んでると子供への虐待癖があるな?
それだけは絶対やめろ。
665
:
st
:2015/05/03(日) 18:41:12
あなたが思っている涅槃に入るんですよ。
他のものが入る涅槃ではない。
666
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:45:09
>教祖になろうとするな。
私が教祖になろうしているように見えますか?
そう見えると言われたら、返事のしようがないですが。(^o^)
>あんたの教えは穴だらけだ。
stさんにはそう見えるのですね。
>あと、コメ読んでると子供への虐待癖があるな?
それだけは絶対やめろ。
どういう行為を虐待というかは主観によるところでしょうね。
それに、仮にそれが虐待だとしても、どうしてやめろ必要があるのですか?
私の行為を虐待として捉え、そして絶対やめろと仰る、その考えは誰の考えですか?
667
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:47:19
>>665
私にはもう、これが涅槃だというような考えがないんです。
涅槃がどういうものか、少し分かったような気になっていた時期も確かにありましたが、
いまはもう本当に分からなくなっているんです。
668
:
st
:2015/05/03(日) 18:50:46
そう、あなたが言う二元論だ。子供を虐待するのは間違っている。
ごく当たり前の捕われだ。
あなたは大悟に至ったいう感慨で、子供を行楽に連れて行くこともやめ、頭を
衝動に忠実に蹴り倒す。
これが虐待でなければなんなのだ?
669
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:57:37
>あなたは大悟に至ったいう感慨で、子供を行楽に連れて行くこともやめ、頭を
衝動に忠実に蹴り倒す。
ちょっと偏った思い込みをされているようです。
頭を蹴っ飛ばしたりもしますが、子供の遊びにつきあったりもしていて、
ある程度はいろいろやってるんですよ。
いまさっきだって、子供を回転寿司に連れてってきましたし。
670
:
st
:2015/05/03(日) 19:02:18
あとは私とあなたのやりとりを他者がどう思うかに任せます。
埒が明かない。
671
:
慧空
:2015/05/03(日) 19:16:05
>埒が明かない。
はい、まさにそうですね。
ただちょっと、このやり取りを読まれる方に対して少し補足しますね。
そもそものところ、やっちゃいけないことや、こうあるべき等の否定的または制限的な縛りはないんです。
そういう否定的な考えや制限的な考えが、私たちを縛っている囚われなんです。
やりたいように、思うように行動すればいいんです。
しかし、多くの方はそれができない。
これがダメ、あれがダメ、こうあるべき、これが真実であれは誤りだ、などと自分や周りを縛り付け、
窮屈に生きています。
そういうことなんです。
672
:
st
:2015/05/03(日) 19:20:39
それが屁理屈とういう。
だからあなたはあなただけの涅槃に入る。
他のものと違う絶対的な消滅。
私があなたに見た「涅槃」そのものです。
他のものが入る涅槃と違う。
673
:
慧空
:2015/05/03(日) 19:32:43
>それが屁理屈とういう。
多くの方はそう思うでしょうね。(^o^)
屁理屈にしか聞こえないんです。
私としては、本当のことを言っているのに。(^o^)
でも、それでいいんです。
普通の人は、常識や分別を大切にして生きたらいいんです。
私はある意味、既に人間ではありません。
人間には常識的な分別があります(どうやら神と呼ばれる存在にもそれはあるようです)。
しかし、私にはもうそれが無い。
674
:
ケロケロ菩薩
:2015/05/14(木) 12:41:21
慧空殿、解っていながらすぐ議論に付き合うんだから〜(^.^)
Stさんも苦しいんでしょうね、何かに投影しないと身が持ちませんよね。私も投影しまくりの悪役作りまくりです。
偉そうなこと申しましたm(__)m
((笑))
675
:
慧空
:2015/05/14(木) 13:33:11
ケロケロ菩薩さん、こんにちは。
私の場合、ヒマなのもありまして、
どんな舟でも来た舟には取りあえず乗っかるようにしてます。(^o^)
私はどんな舟でも、振り落とされたり、悪酔いしたりしませんから。(^o^)
676
:
名無しさん
:2015/06/07(日) 05:54:04
>ただ、何かを極める道と悟りを極める道は、決定的に違う点が一つあるんです。
>何かを極める道には終わりが無いですが、悟りの道は終わりがあるんです。
これはよくわからない。この部分がかなり特殊ですね。たとえばエベレストの頂点
に立つことみたいな意味ですかね。それ以上高いところはないですから、そこで
終わりですね。でもそれは人が歩いて登れる一番高いところを目指しているから
それが終わりだということであって、目標を設定してそこに到達したというだけですね。
別の目標はいくらでも立てられる。だから終わりなんてない。
つまり悟りという目標を立てたら最後、その目標に到達したら目標を立てること
すら終わりになってしまう。
「人(目標を立てる)として終わる」ということですよね。
おいおい、ちょっと待て!! 苦しみは解決したいんだが、苦しむ人そのものは
残しておかないとヤバいよね。それは解決ではなくて切除だよ。それは困る。
677
:
慧空
:2015/06/07(日) 07:30:45
>>676
>おいおい、ちょっと待て!! 苦しみは解決したいんだが、苦しむ人そのものは
残しておかないとヤバいよね。それは解決ではなくて切除だよ。それは困る。
大丈夫ですよ。
苦しむ人は最後まで決してなくなりません。
最後の最後まで否でも堪能できますよ。(^o^)
678
:
思路
:2015/06/07(日) 09:06:56
それを聞いて安心しました。 で苦しみの何が解決したの? つまり
苦しみがよりリアルになるので、いままでぼやーっと苦しんでいたのが、チクチク
と激しく苦しむようになるとかですか?
ある種の苦しみは消えてしまうけども、別の根源的苦しみはより強度を増して
くる。自分なんかは鈍感で能天気なので、もしかしてたぶんありえないとは思う
けれども、もしかして悟りを開いたら今より100倍苦しくなるかもしれないね。
苦しくはなるけど面白くなるみたいな感じですかね。たとえばマラソンが楽しい
みたいな感覚と同じとか。
679
:
慧空
:2015/06/07(日) 09:59:56
思路さん
苦しみについては、私のブログの次の記事をお読みください。
それで、何か気になられることがあれば、またご質問ください。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/789f46846244da521004dea8949513b1
ちなみに、悟りを深めるにつれ、楽しさや楽しみを追求することは減っていきますよ。
楽しいというより、つまらないという感覚の方が勝っていきます。
なぜなら、どうしようもなく飽きてしまって、飽き飽きしているからこそ、最終的な悟りに到達するという側面がありますから。
680
:
思路
:2015/06/07(日) 10:38:58
そうなんですか? 自由になるので天真爛漫で愉快になるんじゃないのですか?
解放というのはそういう風になるのだと思っていました。だから芸術性とかが
豊かになる。和尚とか下手だけど面白い絵をかいてましたよね。
681
:
慧空
:2015/06/07(日) 11:47:24
自由、天真爛漫、愉快は小悟階層の典型的な特徴です。
浅い悟りです。
ラジニーシさんも小悟の方です。
682
:
思路
:2015/06/07(日) 19:10:25
ということは小悟の方が絶対に面白いですね。なるべく小悟レベルにとどまろうとは思わなかった
のですか? それとも必然的に大悟がやってくるのでしょうか?
683
:
慧空
:2015/06/07(日) 19:59:42
どの悟り階層がいいかは、人それぞれだと思います。
私は中途半端は嫌いなので、徹底的にやりました。
そうしたら、いつの間にか悟りの道がそこで行き止まりになっていました。
悟りが必然かどうかは、人それぞれだと思います。
私の場合は、運命的なものも感じたりしてはいますが、本当のところはどうなのかはよく分かりません。
684
:
思路
:2015/06/08(月) 06:56:39
大悟というのは脳の破壊と関係あるのではないでしょうか? こういうたとえが正しいか
どうか解りませんが、苦しみというのはある臓器に関係しているのだと思います。その臓器を
苦しい臓とよぶとすると、苦しい臓はそれほど重要な役割をしているわけではないので
盲腸と同じように切除しても殆ど問題ない。その切除方法が瞑想なのではないでしょうか?
メスを使わないので切除というのは想像しにくい人もいるかもしれませんが、使わない
臓器は簡単に消滅していきます。寝たままだと1週間もすれば筋肉が衰えて立ち上がること
すらできなくなります。苦しい臓に関わる思考を止めると、苦しい臓は萎えてしまう。
あとはハレ晴れの世界になります。
ただそれをさらに徹底的にやってしまうと、ハレハレも通り越して、物静かになってしまう。
義母が脳梗塞で倒れました。以前は普通の物静かな人でしたが、脳梗塞以後は凄く陽気に
なりました。半身不随ですし、痴呆も少し入っていますが、陽気なので皆から喜ばれています。
入院期間が終わって、施設に移らなければならないのですが、面接も一発で受かりました。
ボケていても陽気で面白いので、施設も大喜びです。梗塞ももう少し当たり所が悪いというか
場所が違うと、喧しく説教を始めるタイプもいるらしいです。院長が往診に来ても説教をする。
こういうのになると、施設も嫌がって引き取り手が少なくなります。
685
:
思路
:2015/06/08(月) 07:14:23
脳梗塞で悟る例としては、脳科学者のジルボルトテイラーが有名ですね。
彼女の場合は左脳をやられて天国を垣間見たようです。左脳がやられると
陽気になり、右脳をやられると論理的で口うるさくなるようです。右脳をやられた
大学教授の話も聞いていたので、義母が倒れた時は直ぐにそのことが頭に浮かびました。
義母の場合は左脳ではなくて右脳でした。
「ヤバイ。左脳だったらなー」と思ったのですが、右脳がいかれても陽気になるケースは
あるようです。脳は不思議ですね。
クリシュナムルティなんかも壊れ方が独特で、彼の場合は脳腫瘍で脳梗塞とは違いましたが
非常に面白いですね。クリシュナムルティは大好きです。
686
:
慧空
:2015/06/08(月) 09:03:59
>大悟というのは脳の破壊と関係あるのではないでしょうか?
思路さんは、私という意識と身体の関係について、思い込みや誤解があるようです。
私という意識は、脳や身体の機能の上に成り立っているとお考えなのかもしれませんが、
そう結論されるのは早計かもしれません。
私にはもう、こうだとか、これに間違い無い等の確信や断言はないのでハッキリとしたことは申し上げられませんが、
おそらく、意識と肉体との関係は逆なのです。
肉体の上に意識が成り立っているのではなく、意識が、あたかも肉体が実体としてあるかのような認識を起こしているのです。
ですから、脳の働きと悟りとは、そりゃあ、何らの関係はあるでしょうが、
その関係は本質的なものではありません。
むしろ、どうでもいいことです。
本質的なことは、私という意識そのものや、その動きの中にすべて含まれています。
それと、大悟(見るものは見られるもの)と最終的な悟り(解脱)との関係について、少しコメントしますね。
大悟と最終的な悟りとの間には、まだ大きなギャップがあります。
クリシュナムルティは、見るものは見られるものを知っている大悟者のようですが(私は彼のことは殆ど知りません)、
最終的な悟りに至った方ではありません。
687
:
思路
:2015/06/08(月) 10:10:35
>思路さんは、私という意識と身体の関係について、思い込みや誤解があるようです。
>私という意識は、脳や身体の機能の上に成り立っているとお考えなのかもしれませんが、
>そう結論されるのは早計かもしれません。
>肉体の上に意識が成り立っているのではなく、意識が、あたかも肉体が実体としてあるか
>のような認識を起こしているのです。
そうですね。厳密なところはともかくとして、たとえば肉体的な修行を通じて意識が変わる
とか、意識の修行を通じて肉体が変わるとかというようなことは多く体験されているのでは
ないでしょうか?
肉体と意識には密接な関係があって、一方から一方へ作用を及ぼすことができます。
だからどちらがより本質的かというと、その人の性質によるように思います。
自覚はマハルシの「私はだれか」と同じ手法ではないでしょうか? この系統が好きな
人とボディーワーク系がよく合う人と別れるような気がします。
分け方としては、ハート派と頭脳派とボティ派のような分け方もあるかもしれないですね。
自分はホディ派ですかねー。痛い目にあって初めて解る。W
688
:
慧空
:2015/06/08(月) 10:21:30
> 分け方としては、ハート派と頭脳派とボティ派のような分け方もあるかもしれないですね。
自分はホディ派ですかねー。痛い目にあって初めて解る。W
確かに、浅い悟り階層ではそのように複数のルートがあり得るのかもしれません。
ですが、ボディーワークを使って至れるのは、小悟が限界です。
なぜなら、小悟階層に至ると、ある意味、肉体の死を超越してしまいますから、
肉体から意識への影響が基本的に切れてしまうのです。
また、ハートのワークを使って至れるのは、大悟が限界です。
なぜなら、大悟に至るとハートそのものが消失しますから、
そもそものところ、ハートは使いようが無いのです。
689
:
慧空
:2015/06/08(月) 10:33:07
肉体と小悟(明け渡し)との関係について少し補足しますね。
明け渡しとは受け入れですが、その受け入れによりどういう囚われを手放したか等により、
明け渡しの内容や深さにはいろいろ違いがあります。
しかし、典型的な明け渡しには、肉体の死の受け入れも含まれています。
ですから、典型的な明け渡しを経験して小悟に至ると、肉体や肉体の死に対する恐れや囚われが
かなりの割合で消失してしまうのです。
もちろんそれでも、肉体を維持するための最小限のものは残ることが多いですが。
そういう訳で、小悟階層に至ると、私という意識が、肉体やエネルギーのことに対して、
本質的な影響を受けるようなことは無くなってしまうのです。
690
:
思路
:2015/06/08(月) 10:53:10
>肉体から意識への影響が基本的に切れてしまうのです。
>また、ハートのワークを使って至れるのは、大悟が限界です。
>なぜなら、大悟に至るとハートそのものが消失しますから、
>そもそものところ、ハートは使いようが無いのです。
なるほど。解るような気がします。
しかしハートが無くなるのですか? でも慧空さんは随分優しい感じがしますが
それはハートとは違うのですか?
たしかに思い当たることはいろいろあります。宗教の入り口は愛だとか慈悲だとか
甘い蜜がたんと積まれていますが、いざ中に入るといろいろきわどいこと
を突き付けられます。
「成長したくないのですか?あなたは本当にそれでいいのですか?」
みたいな感じで無理難題が山と積まれます。あの甘い香りはどこに行ったのだ?
これはキリスト教でも仏教でも新興宗教でもカルト宗教でも同じで、うだうだ
言いながら入信はしないで、周辺をうろついている時が一番楽しい。W
ちやほやされて、親切にされる。一旦入信しようものなら、ボロボロに使い倒される。
まあそれが修行だから仕方ない。W
691
:
慧空
:2015/06/08(月) 11:15:48
私にはもうハートはありません。
私のことを優しいと言ってくださる方がおられるのは確かですが、
私は優しくはありません。
優しそうに見えるこきもありますが、人でなしのように見えるときもあります。
私はそのときどきによって、くるくると変わります。
ところで、思路さんは、何を求めておられるのですか?
思路さんの一番大切なことや、一番大切にしたいと思うことは何ですか?
ご自分の内面をしっかりと見つめられて、ご自分の本心と向き合ってみてください。
自分が何を求めているのか。
一番大切と思うことは何なのか。
まずはそれをしっかりと捉えて頂きたいと思います。
そして、それが分かったら、そのことに全力を尽くして頂きたいと思います。
時間は貴重です。
692
:
思路
:2015/06/08(月) 12:42:15
残虐にもなるのでしょうか?
あなたがというよりも、イエスやブッダ、そしてその精神を引き継いだもの達も
同様でしょうか?
693
:
思路
:2015/06/08(月) 12:55:44
>ところで、思路さんは、何を求めておられるのですか?
>思路さんの一番大切なことや、一番大切にしたいと思うことは何ですか?
何が大切かは一概にいえないです。一番優先順位が高いことを今やっているのだと
思います。
風呂に入る時は、とりあえずそれが今の最優先事項なのでしょう。
「そんなことをしている場合じゃないだろ」と言われれば仕方なしに1か月くらいは
風呂なしでも我慢しますが、でもどこかでやっぱり風呂に入ります。
694
:
思路
:2015/06/08(月) 13:23:38
>一番大切と思うことは何なのか。
>まずはそれをしっかりと捉えて頂きたいと思います。
何が一番大切なのでしょうか?
悟りですか?
よくわからないのですが、悟りも面白そうです。ですがピアノレッスンや筋トレと
同じようなものだろうとおもっています。自分の場合悟りも筋トレもうまく行きません。
かなりお金をかけてトライしてますが、グワーーーンと成功した実感がありません。
ちょっと前進したかなくらいです。そんなに目標は高くなくて小悟ていどで十分です。
坐禅の接心に参加して三昧がわかるようになったときは
「ス、凄い。これで悟れる!!!」と思ったものですが、そこから先が全くダメです。
三昧ってわかりますか? すこし坐禅をしていると気持ちよくなります。
慣れてくると別に坐禅をしなくてもその状態に入れます。変性意識状態っていうんですかね。
一年くらいやってもダメなので「これは違うな」と解りました。
695
:
慧空
:2015/06/08(月) 14:52:20
>残虐にもなるのでしょうか?
そうですね、残虐に見えるようなことも、私は平気でやることもあると思います。
いまのところは、息子の頭を足で蹴るくらいのところで収まっていて、かわいいものですが。(^o^)
>あなたがというよりも、イエスやブッダ、そしてその精神を引き継いだもの達も
同様でしょうか?
イエスやブッダなど他の人のことは知りません。
ですが、最終的な悟りを得た人なら、何の拘りもありませんから、
それこそ何をするか分からないところはあると思います。
>何が大切かは一概にいえないです。一番優先順位が高いことを今やっているのだと
思います。
はい、それは一つの正解です。
696
:
慧空
:2015/06/08(月) 14:57:07
>何が一番大切なのでしょうか?
>悟りですか?
それは、思路さんご自身のことですから、私に聞かれても分かるはずがありません。
ご自分の本心を見つめてください。
三昧は何となく分かります。
経験はしたことは無いと思いますが。
座禅をやられるのでしたら、ぜひ私のブログに書いてあります、自覚をやってみてください。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/b46f53e9aba8cee84f1abc9507a3ecbb
697
:
思路
:2015/06/08(月) 15:49:48
>それこそ何をするか分からないところはあると思います。
残虐なことも違法なこともするということでしょうか?
なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?
オーム真理教の暴走はなぜ起こったのでしょう? 宗教の暴走自体はよくあることで
数々の教団がたくさん事件を起こしています。そんなに珍しいとではないとおもいま
すし、オームの場合もそれらの一つに過ぎませんが、やはり死人が多かったので結果的
には非常に大きな影響を与えた事件になりました。
悟りを開くということは危険なことなのでしょうね。
その意味では堕落したと言われる葬式仏教の坊主の方が害がなくて安全ではありますね。
たとえば共産主義などはある意味非常に理想的で人間的美しさに溢れていて、殆ど聖なる
システムと言っていいくらい完璧に見えますが、実態は全く逆で残酷で出鱈目ですね。
きれいごとを並べても全く機能していない。
聖なるシステムは大いに悪用される可能性が高い。坊主を見るとその実腐ったのが多い。
これは一般的感覚ではないでしょうか?
698
:
思路
:2015/06/08(月) 15:53:44
>座禅をやられるのでしたら、ぜひ私のブログに書いてあります、自覚をやってみてください。
ザッと読んだだけですが、よくまとまっていていい方法ですね。
699
:
慧空
:2015/06/08(月) 16:13:22
>残虐なことも違法なこともするということでしょうか?
>なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?
ですから、最終的な悟りに至るということは、そういうことなのです。
残悪を含めた一切の囚われが無くなりますから。
良い悪いの判断は、その基準を誰がそう決めてやっていることなのでしょう?
「私」という自我が、自己の握り締めた固定観念や社会通念等の囚われに基づいて、
やっていることなのです。
善悪等の判断は、すべて妄想なのです。
善悪なんてものは本来無いんです。
ただこと(現象)が起こっているだけです。
それを、私という自我が各自好き勝手な判断基準で、善悪等に色分けしてるだけなんです。
オームは、単なる盲信による暴走です。
悟りとは何の関係もありません。
浅原を含め、あの組織の中で、何らかの悟りを得ている人はいなかったのだろうと思います。
社会現象は、物語のようにそれなりの仕組みや、起承転結等のストーリー性もあって面白いですね。
700
:
思路
:2015/06/08(月) 19:27:13
素粒子のレベルまで覚醒すれば、残虐もへったくれもないでしょう。そこには人間は
存在しない。しかし人間といういわば妄想レベルでの話です。覚者と言えども人間です。
それもまた妄想の塊です。
「それもまた過ぎ去る」という言葉をご存じでしょうか?
言い換えれば
「それもまた妄想」なのです。
そして過ぎ去るものや妄想の始まるところとして「今」があります。
自覚とは今を捉えることでしょう。それは根源的「今」だし、同時に根源的な
「私」のことです。
しかし根源的私とは素粒子の集合体でしょうか? そうではなく人です。これは
前提です。
インドの聖者などは、言葉に窮して「私は既に死んでいる」などというものがいます。
しかしそれは違う。勝手に死んでもらっては困ります。W
701
:
慧空
:2015/06/08(月) 19:38:36
>自覚とは今を捉えることでしょう。それは根源的「今」だし、同時に根源的な
「私」のことです。
自覚とは、第一にまずは、「私」に意識を向けることです。
第二に、「私」を捉え、「私」に起きてくる考えを捉えることです。
>しかし根源的私とは素粒子の集合体でしょうか? そうではなく人です。これは
前提です。
「私」とは、考えです。
人と言うと、それにはさまざまな規定や固定概念等の囚われがまとまりついています。
「私」は、人などという狭い概念や存在ではありません。
「私」は、考えそのものであり、意識そのものです。
そして、幻です。
702
:
名無しさん
:2015/06/09(火) 06:15:58
「考え」は人ではない。それは当然「私」ではない。
狭くても窮屈でも人であることの制約を外してはいけないでしょう。それを外すなら
人以上ではなくて人以下です。
もしそれを完全聖者と呼ぶなら、完全聖者の内で考えだけが単独で暴走する。
それは完全聖者にとっては暴走ではなくて正常です。人には意味が
解らないので暴走に見えるだけです。人は人を前提にしています。
完全聖者も人の延長にあるもの、つまり並みの人以上の偉大な人だと思っています。
だから意味が分からない。
オームは単なる盲信による暴走でしょうか? そうではなくて完全聖者の計画的
行動です。信者がそれに従っただけです。
宗教学者の島田裕巳にしろ中沢新一にしろ一級の知識人ですが麻原を高くかっていた
節があります。麻原は悟りを開いていたと思います。悟りは善悪とか知性とは関係
ありません。麻原は聖人特有のオーラを持っていたのでしょう。
そうでなければ島田や中沢が簡単に認めたりはしない筈です。
オーラや超能力は聖人の証拠にはならないということです。悟りも同様です。
完全聖者は完全化することで人を逸脱したキチガイなのです。
703
:
慧空
:2015/06/09(火) 07:03:13
麻原やオームのことはどうでもいいです。
私には興味がありません。
>完全聖者は完全化することで人を逸脱したキチガイなのです。
これは当たっているところがあると思います。
私はもう人ではありませんから。(^o^)
704
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 18:23:55
ご無沙汰してます。以前書き込みした孤独な羊です。
その後の経過で善悪について及んだ考えがあります。まず善悪の有無で言えば、勿論あるわけです。
善悪基準がないなんて野性的本能で生きる動物と何ら変わらないじゃないですか。
悟ったような人なら必ず善を身につけます。
なぜなら善を行うことが最上の快楽であることを理解するからなのです。
実行を伴う環境にないから苦しいのではないでしょうか。
705
:
慧空
:2015/06/09(火) 18:45:05
孤独な羊さん、こんにちは。
ではそう仰るなら、ちょっと追求させていただきますよ。
「善悪の基準はある」と仰るその根拠をここに示して、あるいは述べて頂きたいです。
善悪の概念が、私という自我が考えている考え(幻)でないという根拠をここに示してください。
あなたが、これは確かな根拠だ、証拠だと思われることをここに示してください。
お話しはそれからお伺いいたしましょう。
706
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 19:24:01
根拠は良心です。
707
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:36:04
良心は根拠になりませんよ。
言葉を言い換えているだけに近いです。
まあいいでしょう。
では、さらに追求させていただきます。
良心が絶対的なものとして「ある」という根拠を示してください。
708
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 19:40:47
良心があるかないかですか?それは自分でしかわからないのではないでしょうか?
人を殺して平気というのであれば邪心ですよ。人を殺して罪悪感があれば、それが良心の働きではないでしょうか。
709
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:49:25
>良心があるかないかですか?それは自分でしかわからないのではないでしょうか?
それはその通りです。
良心という囚われの集合体がある人にとっては、確かになんらかのそのような葛藤なり、感触があるでしょう。
私も以前はありました。
いまは無いです。
私は、もし仮に人を殺してしまったとしても平気でしょうね。
間違い無いと思います。
それを邪心と呼ぶ人はいるでしょう。
それはその人に、これは邪心だという囚われがあるということです。
私にはそんな囚われも無いですから、例え人を殺しても何ともないです。
へっちゃらです。(^o^)
710
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:50:22
そうだ、まだ私の追求は終わってませんよ。
善悪の基準や、良心が、絶対的なものとしてあるという根拠を示してくださいな。
711
:
慧空
:2015/06/09(火) 20:03:24
やり方を変えて、私の方から少し攻め込んでみましょうかね。
善悪の基準や、良心について、これらは何か普遍的な基準やものがあるというより、
人によってかなりまちまちで、もの凄い場合だと、人によっては真逆になっているようなことがありませんか?
例えば、Aさんの良いと思ってCさんにしたことも、Bさんから見たら本心からあれは悪いことだと思ってしまうケースがあると思うのです。
これは善悪に限らず、私たちの周りにあるあらゆる基準や社会通念について言えることです。
人によりバラバラで、もの凄いケースだと、真逆の判断を下すことがあります。
善悪や良心なんて、そんなあやふやなものだということです。
そうやって、善悪や良心について追求していくと、私という自我が好き勝手に考えている考えであり、囚われに過ぎないということが分かってきます。
これは、本当です。
712
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 20:28:23
そうですね。だから私達は翻弄されてしまうのでしょう。。邪心によって。
宗教で扱われる道理は、、良心から生じています。
現代人は型から習おうとして木を見て森を見れなくなっているのではないでしょうか。
苦しみ体験と自省を繰り返すことによって漸く目覚める理解のできることなのかもです。
そのために生きていると言って過言ではないかと思いますね。
713
:
慧空
:2015/06/09(火) 20:36:10
>そうですね。だから私達は翻弄されてしまうのでしょう。。邪心によって。
良心、邪心を羊さんがどのように考えておられるのか分かりかねますが、
正反対のものとして捉えておられるのなら、自分に都合のいい方、つまり良心の方だけ取り上げようとしてもダメですよ。
良心があれば、必ず対になって邪心もあります。
良心的に見える人の内面には、必ず邪心が秘められています。
必ずです。
邪心だけが、人を翻弄するのではないんです。
良心も、ベクトルの向きが違うだけ、同じように人を翻弄してるんです。
714
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 20:40:58
そうすると仏陀の悟りなどもないことになります。宗教もですよね?
戒律がありますから。戒律は何を意味するかに還りませんか?
私は今日はこれで、失礼いたします。
715
:
慧空
:2015/06/09(火) 21:59:20
>そうすると仏陀の悟りなどもないことになります。宗教もですよね?
そうです。
無いと言えば、すべては考えであり、妄想ですから、無いですね。
>戒律がありますから。戒律は何を意味するかに還りませんか?
戒律がなぜつくられたのかは、私には分かりません。
おそらく、何か縛りが無いと生きられない幼い人たちがいたのでしょう。
716
:
慧空
:2015/06/09(火) 22:31:16
上の
>>713
の中の文章について、少し補足というか、修正しますね。
>良心的に見える人の内面には、必ず邪心が秘められています。
これはちょっと的確性に欠けます。
より的確には、良心に対する執着があり、自分は良心に従って生きている、
あるいは、良心的な人間だと思っている人の内面には、必ずその同じ分量と強さの邪心が秘められている、ということです。
717
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 23:23:22
ちょっと寄らせてもらいました。対話を続ける前に質問です。
人を殺して平気なら生きてて楽しくもない。
自分が、それでいいというなら、それでいいじゃないですか。
何を求めてるのですか?
だから、あなたは自分に嘘をついているのです。
そして、そんなことばかり口にしていると善人でありたい人は誰も関わらなくなりますよ。
たとえば私は盲目なスティービーワンダーの描くような世界観が好きなんです。
人を殺して平気という言葉を改めない限り、もう関わらないでしょう。
わかりますか?
自覚もなく人に危害を加えても平気というのであれば専門家に掛かってください。
718
:
思路
:2015/06/10(水) 05:06:11
>それはその人に、これは邪心だという囚われがあるということです。
>私にはそんな囚われも無いですから、例え人を殺しても何ともないです。
>へっちゃらです。(^o^)
それは囚われがないということではなくて、人として破綻しているのです。
破綻の原因は悟りです。悟りが特別なものという思い込みがあるから破綻
に気が付かない。
コカインを飲んで作った音楽には、彼らにしかわからない強い共感があります。
仏典も同じで、多くは普通の人には意味不明なゴミのような文章なのに悟りを
得た人にとっては彼等にしかわからない共感があります。いわばラリッた文章
なのです。殆どはゴミですが、中には普通の人にも響くものがあります。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジはラリッていても宗教的天才
なので美しい言葉で世界を語ることができる。
悟りは切除です。金玉を切るのと同じで不具者になることです。ブラブラして
いたものを切ったらスッキリする部分もあるけど、大抵は副作用が生じます。
電子レンジのだす電波に反応したり、自然におこる電界現象にも反応してエネルギー
を感じたりします。だから地震の予知ができたりする。そういう便利な部分もある。
719
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 05:13:24
慧空さん、おはようございます。
前文ではあなた様の掲示板を来訪しているにも関わらず、無礼な言い方の内容に仕上がってしまいました。
大変に申し訳ありませんでした。
ご縁が許されましたら、また楽しく語り合うことができればと思っています。
720
:
思路
:2015/06/10(水) 05:31:32
悟りは「ラリッている」状態ということは理解しておかなくてはなりません。
仏教では修行で悟りを得た後10年間は表に出さない。ラリッた状態を調整するためです。
この間仏典の勉強を詰め込んで、自在に説教をできる話術の達人になります。同時に
精神的には普通に戻るのです。嘗てはこういうことが行われていた。
悟りを開いただけで自在に説教できる話術の達人になろうとしても無理です。これは
また別の技術です。
悟りを開くと、非常に敏感になります。ですから、僅かな表情などから人が思っている
ことや生い立ちなどが理解できるようになる。なので話術を身につければよいアドバイザー
になる可能性もあります。また逆にその能力を利用して高額なセミナーをしたりと
お金儲けに走る人もいます。
いづれにせよ、次は利用技術を身に着ける修行が必要になります。
721
:
慧空
:2015/06/10(水) 06:49:11
孤独な羊さん、思路さん
善悪は妄想だというこの私の言葉は、普通の人には届きません。
それでいいんです。
普通の人は、それぞれが考える善悪の範疇で、まだまだ精一杯生きる必要があります。
私は、普通の人に向けて語っている訳ではありません。
善悪の妄想から覚め始めた人に向けてだけ、語っています。
もっと言えば、解脱に向けて歩み始めた人に向けてだけ語っています。
ですから、私の言葉に違和感や嫌悪感を感じる人がいて当然だし、
批判や攻撃を受けることがあっても、当然だと思っています。
私や私の言動に対し、何を言って頂いても結構です。
私は何とも思わないです。
722
:
思路
:2015/06/10(水) 07:46:09
病院に行くと「胃を半分きった」とか「俺は腎臓と肺の半分を取った」とか病気自慢
に花が咲きます。大手術はカッコイイのです。小悟とか大悟はそれと同じです。
大悟はカッコイイ。しかし損傷が大きくイカレかたも半端でないの苦しいはずです。
折角大手術をしたのだからそれを有効に使った方がいい。
有効にということは不用意な発言は控えた方がいいということです。聖者には
それなりの需要がある。
ラマナなどもしつこい質問にまれにはブチ切れていました。ですが聖者としての役割を
チャンとこなしました。和尚やクリシュナムルティは脇が甘くてスキャンダルが
表に出てしまいました。そうなると格がワンランク下がります。
723
:
慧空
:2015/06/10(水) 08:06:50
>不用意な発言は控えた方がいいということです
何のために?
何を狙ってわざわざそういうことをする必要がると言うのですか?
私はこうやって、ここで好き勝手に語っているだけで十分です。
自分でも意外なほど、伝わるべき人にはちゃんと伝わっています。
また、私は口も悪いですが、素行もそれほど良くはありません。
息子の頭を平気で蹴り飛ばすくらいですから。(^o^)
私は、わざわざ私のところにやってくる人に対しても、「あっちへ行け、もう来るな」とか、
「お前はどうしようもないから、そのまま死ね」なども平気で言います。
私は、それでいいのだと思っています。
むしろ、それくらいでちょうどいいのです。
依存は排し、また準備の不十分な人を遠ざけるには、それくらいでちょうどいいんです。(^o^)
724
:
思路
:2015/06/10(水) 09:43:28
>何のために?
>何を狙ってわざわざそういうことをする必要がると言うのですか?
いまのあなたには解らないでしょうが、病的な状態だからだということです。
>自分でも意外なほど、伝わるべき人にはちゃんと伝わっています。
そうやって集まってくるのは雑魚だけです。あなたの師をどうおもいますか?
集まっているのは雑魚でしょ。
言葉や姿勢をただせば、それなりのレベルの取り巻きが集まります。聖者は不具者です。
サポーターつまり檀家や取り巻きが必要なのです。その時初めて悟りが生きてきます。
725
:
たこりん
:2015/06/10(水) 09:54:01
慧空さんはある意味正常だと思います。
世の中綺麗事に酔いしれている人多いです。
自分の気持ちにフタしてる人多い。
悟り関係のことはよく分かりませんが、善悪なんて人が勝手に作ったものである事は、なんとなくみんな気付いていると思われます。
726
:
思路
:2015/06/10(水) 10:19:36
>あるいは、良心的な人間だと思っている人の内面には、必ずその同じ分量と強さの邪心が秘められている、ということです。
底抜けに明るい天真爛漫さというのに出会ったことはないですか?
邪心など無縁の天使のように無垢の人もいます。
727
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:22:04
思路さん
病的で大いに結構です。
不具者、いいですねぇ〜。
病的、上等、キチガイ、大いに結構です。(^o^)
雑魚ねぇ・・・、あなたの目にはそう見えるのですね。
そう見えるのならしょうがないですねぇ。
私としても言うことないです。
雑魚で結構です。(^o^)
私は誰の世話にもなりたくありません。
社会の中で生きていけないのなら、社会を捨てるだけですし、
自分の力で生きていけなくなったら、死んでいくだけです。
728
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:24:53
>底抜けに明るい天真爛漫さというのに出会ったことはないですか?
>邪心など無縁の天使のように無垢の人もいます。
あなたは余り賢くないですね。
どこに目を付けているのですか。
本当に無垢で天真爛漫なら、そりゃあ、善悪も無いですし、良心なんて欠片もないですよ。
その人の振る舞いは、相当めちゃくちゃなものになるでしょうね。(^o^)
あなたは、自分の都合のいいところしか目に入っていないのです。
729
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:28:56
たこりんさん
たこりんさんは、私の言っていることがそれなりにお分かになるようですね。
>悟り関係のことはよく分かりませんが、善悪なんて人が勝手に作ったものである事は、なんとなくみんな気付いていると思われます。
善悪の囚われは、そんなに甘いものではないですよ。
良心の呵責は、本人の気が付かない心の奥深くで起こっていることもあります。
730
:
名無しさん
:2015/06/10(水) 12:51:15
悟りは善意識の結集なのです
必ず殺してはならない殺させてはならないものです
そこを勘違いされては邪心にやられてしまう
また歩みを始めることになるのです
731
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 12:53:09
最初から悟りを開きたくて開く人は殆どいない
だからお釈迦様は最初から志があり最初から輝く良心のある特別な人物だった
732
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 12:56:28
どんな痛みにも耐え切れる人などいないのです
だから悟れるのでしょう
733
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 13:03:21
早い段階で信仰と戒律に落ち着く人ほど優位であることは確かと思います。
良心(真実)の理解に対する差異によって行動が生じるため善悪基準がないと仰る方がでてくるのではないでしょうか。
734
:
慧空
:2015/06/10(水) 13:11:26
ダメだこりゃ〜(^o^)
>悟りは善意識の結集
ため息が出ます。
あなたは悟りや、悟った人に対して、とてつもない妄想をつくっておられるようです。
過去から現在まで、修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか、ということも、
あなたに語っても意味はないようですね。
この掲示板はお好きなように何を書いて頂いても結構ですから、
どうぞお好きなことを思う存分書かれたらいいです。
735
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 14:56:19
わかりました。出直し致します。
ありがとうございました。
736
:
慧空
:2015/06/10(水) 15:38:32
孤独な羊さん、自覚をやってみてください。
あなたにとって大切なことは、あなたのまわりにすべて揃っているはずです。
自覚を共として、日常を生きて頂きたいと思います。
737
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:19:34
慧空さん、そうですか。では是非お尋ねしたい。
>修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか
如何なお考えで、根拠はどこにあるでしょうか?
738
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:30:36
体調不良で時間がありますので、先に自論を展開しておきます。
確かに偏った信仰に執着してしまっても理解したとは限らないでしょう。
私が先に言った信仰のメリットは何処にあるかについてですが、処罰といいますか苦が起きたとき対する反省の度合いが小さくて済むこと、猶予と機会が許されるメリットが少なくてもあるものとして考えています。
ですが逸早く言葉の真意を理解できれば、苦の経験による障害は最小化することができる。
その最善の道が信仰の教えの中にあるとした理由からです。
739
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:33:39
すいません、少し文章が変です。猶予と機会が許されるメリットなどと書いてますが、説明しにくいのもあるので此処は無視で結構です。
740
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:37:13
>修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか
私の考える最大の理由については、今日のブログ記事に書いた通りです。
多くの人の場合、その人にとって最も大切なことは日常の中にあるからです。
だから、日常を離れたところで悟りの成就は難しいのです。
もう一つの大きな理由は、依存です。
典型的なものは、その修行組織の教えやマスターに対する依存や、組織そのものに対する依存です。
依存は、悟りの成就にとってとても大きな障害となります。
741
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:38:51
ですから、何かを信仰する等の心持ちでは、悟りの成就にはほど遠いのです。
信仰するとは、何かを信じることであり、依存することに他なりません。
742
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:49:07
なぜ、戒律があるのかわからないと仰ってましたね。
解釈は沢山あるはずですが、知りませんので自説です。
例えば良心(真実)に従って生きれば、本人にとって最善の人生になることは恐らく間違いないことと思うのですが。一般的には。
現実は周囲との比較により決定した心に従った選択を行う生き方が一般的となる見方でいます。
良心(真実)の理解度で行動に差異が生じて、そうした環境に適応していくと善悪基準がないとかという話がでてくるのが最近の傾向ではないかと考えられるのです。
でも良心を理解していないとき、良心を無視すれば結果的に過ちを犯したりすることになるのです。自説は。
過ちを犯した後に処罰(苦)を受けれたとき、過ちに気付ければ自省へ至ることができます。
この処罰(苦)を受けない条件にあると邪心を恐れなくなり、甘い囁きのある楽な方向へ誘導されていくのが人類の性というか特徴としてます。
過去に処罰(苦)経験があり且つ自省に至る人の何割かは知りませんが、再発を恐れたり理解を求めて信仰へ導かれるのです。
処罰(苦)経験を受けないですむ手段を取り続けるため、宗教等の戒律に従った生き方を目指す場合があるわけです。
これが戒律の制定ではないでしょうか。
とか考えることで整合性を見出してます。
743
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:53:52
戒律についてせっかく解説いただきましたが、
私は戒律に対してまったく興味がありません。
すみません。
744
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:57:09
そうでしたか、わかりました。
ブログ拝見させてもらいます。
745
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 18:04:57
今日のブログ記事は拝見させてもらいました。私も大筋は変わりません。
そうですね精一杯が正しいですが、何を精一杯やるかという話の違いですかね?
いまのところは。
ありがとうございました。
746
:
名無しさん
:2015/06/10(水) 23:05:15
あー!はがゆい!!…!!
羊さん!!
違うんだってばー!!!
今の自分の殻に気付きそれが破らないと
747
:
はがゆいのよ〜その良心〜♪
:2015/06/10(水) 23:10:24
あー!はがゆい!!…!!
羊さん!!
違うんだってばー!!!
今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
…って感じ〜♪
748
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 00:42:26
はがゆいのさん、多数派意見が勝っても、それが必ず正しいとはかぎりませんよ。
留まれば苦しいのは承知ですし、易々とわかってもらえるとも思ってません。
自論を書き出させていただいたまでです。
この世界が無秩序だったら、どうなると思います?散々の結末を迎えて漸く秩序が形成されますね。
それ同様では結果的にダメなんだということです。世の矛盾はロジックで、すべて結ばれる。完璧なものです。
すべて平等で完璧に出来ているには出来ているのですが、好き放題すればよいということでもない。
この辺りが知れ渡ってしまえば人生の意味もなくなります。
正直言うと、私もこれ以上は理論に関わりたくない。そう思っています。
ただ理論は完成してるのですよ。耳に届かないだけで。
命の尊さだけは最低限学んでください。
自省に当たって、いい例がふと浮かんでしまいましたので一つだけ記させてください。
愛する人と死別の時、悲しみに焦点があたってばかりになりぎみですが、真意は残された人の学びのために旅立つケースは少なくないかと思います。
皆さんは御存じでしょうが、死別を悲しみとしてしか捉えられないために弔いの機会が多く与えられてしまいました。
自省ができなかったためです。一期一会の心境で接することができなかったことは大きく影響していました。
くれぐれも、そのようなことで悔やむことがないようにお気を付け下さい。
だらだらと綴りましたので出来栄えはわかりませんが、私は はがゆいのよさん の言われる「破るから」の意味は承知しています。お言葉に甘えて、この投稿で意見を終了の予定です。
では、またの縁がありましたら、軽いフィーリングで皆様と接することができるのを楽しみに、お別れしましょう。
あー!はがゆい!!…!!あー!はがゆい!!…!!:はがゆいのよ〜その。。(^○^) 南無 。。。
ありがとうございました。
749
:
思路
:2015/06/11(木) 04:04:41
悟りっていうのは、執着はかなりなくなる。だから殺人くらいじゃ心は痛まない。
でも執着が全部なくなるわけじゃない。
なぜならプライドが傷つくような場合はカチンとくる。高名な聖者でもブチ切れることは
よくある。並みの聖者なら石ころに躓いても怒り出すことはある。
それに執着がなくなっても幸福なわけじゃない。執着がなくなると喜びもなくなる。
無邪気さや天真爛漫さもなくなる。
>あなたは余り賢くないですね。
>どこに目を付けているのですか。
>本当に無垢で天真爛漫なら、そりゃあ、善悪も無いですし、良心なんて欠片もないですよ。
>その人の振る舞いは、相当めちゃくちゃなものになるでしょうね。(^o^)
>あなたは、自分の都合のいいところしか目に入っていないのです。
天真爛漫さが解るような人は頭が悪くて、行動は滅茶苦茶で不快なものに感じる。という
ことらしい。
悟りたいと思うのはなぜなのだろう? 何が魅了するんだろうね。
750
:
思路
:2015/06/11(木) 04:41:46
「偽物の悟りと本物の悟りがあって、本物の悟りは凄いのだ。」
「そいつの悟りは偽物だ」「そいつの悟りは低級だ」
そういう意見もあるが、本当にそうだろうか?
ラマナ > クリシュナムルティ > 和尚 > 彗空 > 麻原
みたいな序列を考えるのだろうか?
いや大悟者ということだから
ラマナ = 彗空 >クリシュナムルティ > 和尚 > 麻原
ということだろうか?
なにが序列を決定しているのだろう。
麻原ってのは悟りが何をいみするかを理解するうえでは検証しておく必要があると思う。
「彼は悟っていない」というのはたやすい。それに関わりたくないというのも解る。
しかし、事件以前にはマスメディアも宗教学者も高名な聖者ですらも彼をそこそこの
宗教者と認めていたのだ。
一流のメディアですら彼を大々的に取り上げていた。
それに彼はまだ生きている。詐病といわれているが裁判官の前でマスターベーションを
したり、ウンコをしたり、まさに何でもありだ。枠なんて何もない。
>今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
麻原は殻がない見本だと思うがどうだろう?
751
:
思路
:2015/06/11(木) 04:55:12
>今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
>…って感じ〜♪
最初は「こいつらキチガイ?」と思っていても関わって馴染んでくると、何でもかんでも
腑に落ちるようになる。
層化でもヤマギシでもエホバでも天理でもオームでも同じ。ある程度馴染んでくると
不思議な共感が生まれる。悪口を言うやつは許せない…って感じ〜♪
752
:
名無しさん
:2015/06/11(木) 06:26:22
羊さん…私は朝原嫌いですしすいくうさんの言う全てに共感してませんわ
日常は良心に従って生活してます
自覚が進めば腑に落ちるのはそうですがね…だから何?って感じ〜♪
よい1日を♪
753
:
慧空
:2015/06/11(木) 07:01:36
>>750
>なにが序列を決定しているのだろう。
序列というといやらしい感じが出ますね。
序列というよりも段階というか、階層があるんですよ。
階層を決定するのは、私という自我が握り締めた囚われの量です。
非常にシンプルです。
囚われの量が少なくなるほど、悟りの階層が進みます。
でも、こんな説明をしてもご理解いただけないでしょうが、一応やってみました。
麻原に囚われ(枠)が無いというのは、大きな誤解です。
いまは、単なる狂人になっている可能性もありますが、あの一連の事件を起こしたときは、囚われの中にいたんです。
それはとても明らかことなのですが、どうして明らかか分かりますか?
彼が社会やその仕組みに対して積極的に関与しようとしたからです。
つまり彼には、社会をどうこうしようとする強い意図があった訳です。
その意図の根もとには、さまざまな二元の囚われがあるはずです。
分かりますか?
すべては考えであり、幻だという理解があれば、社会をどうこうしようなんて意図が出てくるはずがないのです。
すべては考えであるという理解に至らずとも、すべてはニュートラルであるという理解がある場合でも、
社会をどうこうしようなどと意図は出て来ないのです。
だって、社会は常にニュートラルであり、ある意味常に完璧な訳ですから。
分かりますか?
754
:
思路
:2015/06/11(木) 09:22:58
麻原は捕まってパトカーに乗せられたとき、ウンコを巻き散らかして抵抗したらしい。
そんなことができる人は悟りを開いた人でも少ないと思う。
さすがに最終解脱者だと思う。囚われがない。
修行によって殻を破った。最終解脱した。
ところが、そこで別の囚われができたんだよね。政治的欲望とかだね。
そもそも「殻を破りたい」「解脱したい」と思う人は「殻を作りやすい」体質のひとだよ。
蟻んこはほっておいたらドンドン巣をつくる。それと同じで殻を作りやすい人は
こまめにブログを書き進めるし、ほっておいてら殻をドンドン作り上げる。だから
常に殻を脱出するとか破るとか解脱とかを意識していないといけない。
でももともと殻を作らないタイプの人もいる。法律をまもらないのはへっちゃら。
ポリの金玉を蹴り上げて豚箱に入れられて初めて、「殻って大事だなー」「法律
をまもるって大事だなー」と反省する。
そういう人は殻を作る練習をしないといけない。
755
:
思路
:2015/06/11(木) 09:24:58
セミナーなどで洗脳にかかった人は自分の立ち位置がよくわからない。
それは「見えなくなる」からではなくて「よく見えすぎる」ことによります。
悟りは集中により視野を狭めて解像度を上げる方法なので、よく見えるようになるけど
視野が非常に狭くなります。
顕微鏡の解像度をドンドンあげていくようなものだから、ある段階からは全く別のもの
が見えます。違った景色に遭遇するので
「これは悟りだ」「これが本質だ」
と勘違いします。ですがそれは単に景色が変わるだけです。
求道者や研究者は集中力はあるけれども狭視野な人が多い。
洗脳を解くには相対化が必要と言われます。いろんな宗教を渡り歩くと
どれもこれも矛盾が見えてきて、洗脳されているのが解るようになります。
これは瞑想などの手法とは逆で集中ではなくて俯瞰です。俯瞰力があると
洗脳にはかかりにくい。悟りの見え方とは違う見え方になります。
756
:
思路
:2015/06/11(木) 09:36:45
>日常は良心に従って生活してます
良心は悟りをみつめてもわからない。
でも猫をみるとよくわかります。子猫がなぜ可愛いか?
いたづらをするし世話がやけますが、無邪気さがなんとも可愛い。
つまり人には無邪気さとか喜びが必要なのです。なので多少のいたづらは
目をつぶります。
1)可愛い、無邪気だ、愛すべきだ
2)目をつぶる、許す、大目に見る
こういうのが矛盾なく共存するのです。
同じ構図が良心にもあります。
つまりそんなに突き詰めて、「良心てなんだ」「お前はクジラをくっても
良心があるのか?」
と闇雲に責めるものでもない。まあそこそこ、ぼちぼちって感じでいい。
そういうところは良心的に考える。
757
:
慧空
:2015/06/11(木) 09:52:33
>麻原は捕まってパトカーに乗せられたとき、ウンコを巻き散らかして抵抗したらしい。
>そんなことができる人は悟りを開いた人でも少ないと思う。
>さすがに最終解脱者だと思う。囚われがない。
こりゃあ、どうにもならんわ。(^o^)
この場所は自由に使って頂いて結構ですから、存分にお書きください。
758
:
慧空
:2015/06/11(木) 09:59:57
私の勘違いなのだろうとは思うのですが、
ひょっとして、あなた、多重人格症ですか?
前々からなんかそういう雰囲気を感じるんですよねー。
多重人格症の人とまだ直接会ったことがないので、よく分からないところが多いのですが。
759
:
思路
:2015/06/11(木) 10:13:57
俳優です。
760
:
慧空
:2015/06/11(木) 10:23:25
>俳優です。
ウケました。(^o^)
お返事ありがとうございました。
761
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 19:03:13
こんばんは
多少の理解を示していただけそうな気配に誘われて再訪問しちゃいましたwww
真実がある限り嫌いといいながら嫌いでもないですからw
真実探求が生きる目的にある限り、人には真実の探求をやめることなどできないのです
楽しい楽しいみたいな快楽的な話なんて、結局まやかしになるなんてわかりきったことなんですよ
この機会なので断っておきますが有言実行でないと、信用できないという洗脳学に陥っていませんか?
囚われがないと言いながら、ついつい心理を利用したマニュアルに従った頭が働いている
そういうのも洗脳ではないでしょうかね
ここでの私の行動を正当化すればですね、みなさま他人と関わらない意識だと自認されてるわけです
場に応じた私は平気で有言不行も行わせてもらいますよという因果です
去るときも挨拶もしませんので、ご理解ください
これで最後になるかもしれませんし、わかりませんw
それにしてもウンコを巻き散らかして抵抗するとは、如何に野生化が浸透しているかを象徴するような話です
動物や昆虫、自然界の生き物が法則に従って取る手段ですから
762
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 19:12:20
みなさん人生は知れば知るほど険しい世界ですよね
それで知らぬが仏とかあるがままとか知らない方がいいこともあるとかなる
求めれば与えられるみたいな話もあります
山頂に近づくほど道が険しくなるのは自然の道理だからでしょうか?
人生は挫折を繰り返しながら進む道が必ず用意されるわけです
最終解脱として楽して生きれる道理なんてないと思います
763
:
慧空
:2015/06/11(木) 19:35:33
羊さん
ところであなたは、何を求めておられるのですか?
何をどうしたいと思っておられるのですか?
また、どうしてここに来られるのですか?
764
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 19:46:53
私が求めるのは幸せです
戻ったのは因果があるからです
765
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 19:48:02
理解が近づくにつれ、人が黙道?へ辿りつくのはなぜでしょうか
そして黙道を辿る理由に二つの相対的な理由があるのだと思いますよ
学ばなくてすむ道も学ぶ道にも終わりなんかありませんよ
結果的に笑顔に少しでも多く出会いのであれば、良識により常識を築くほかないのではでしょうか
サイコパスになってしまったら、良識がなければ笑えません
サイコパス対策は良識で保護するしかないのです
因果は結局一般人に還元される
だから良識が必要となり、良識によりサイコパスをつくりあげない環境を構築するのが人類にとって幸せで楽な道なのです
我々日本人は多くを欲しがらず、原始的な生き方ほど精神性を見出せる機会が多くなります
それは事実ではないでしょうか
無の境地にも切っても切り離せない道理があるわけです
この辺りまでは書き出したい欲求はありました
766
:
慧空
:2015/06/11(木) 23:10:05
羊さん
余り書いても仕方がないと思って書かないようにしている部分なのですが、
少し書いてみますね。
羊さんの良心等に対する理解は、確かに当たっている部分はあるんです。
解脱の悟りかそれに近いくらいのかなり深い悟りに到達した観点からすると、
一切は考えであり幻であるということが腑に落ちますので、良心も囚われであり、
幻であるということになります。
この部分は、羊さんは良心はあると仰るでしょうが、そうではないんです。
そのまで到達しないと分からないのです。
悟りを知らない普通の人や、浅い悟りに留まっている人にとっては、
良心はしっかりとあるものなのです。
良心に反することをすると、呵責が生じ、苦しみが生じます。
まさに、あるのです。
ただし、普遍的な良心というものがあるのかというと、それはどうやら違うようです。
多くの人に共通する部分はあるでしょうが、何割かの部分は人によって大きく異なっています。
良心が無いという人は、自我の発達が未熟な人を除いていません。
みんな何らかの良心を持って生きており、良心に反することをすると、例え本人の表層意識でそれに気づかなくても、
意識の深い部分では、しっかりと呵責や苦しみが起こっています。
どこから話をすればいいのか、ちょっと考えますね。
良心の話は根が深いので、話し出すと切りがなくなります。
続きます。
767
:
慧空
:2015/06/11(木) 23:19:59
良心の話をする前に、輪廻転生とカルマの関係について少し話しておく必要があります。
どうして、輪廻転生が生じるのか。
それは、何か考え(囚われ)を掴み続けているので、その掴んだ考えがカルマ(種)となって、
私という意識の連鎖を延々と発生させているからなのです。
この掴んだ考え(囚われ)の内容として、輪廻転生を主導する大きな要素になっているのが、
「悔い」なのです。
輪廻転生を生じさせているカルマ(囚われ)のうちの最も大きな要素は、「悔い」なんです。
悔いには、様々なものがその対象となります。
人生でやり残したと思うことも悔いになります。
選択を間違ったと思うことも悔いになります。
良心の呵責は、そのような悔いの一例なのです。
つまり、良心という囚われがある人が、良心に反することをすると、
良心の呵責が悔いとして生じ、それが輪廻転生を生じさせる大きな要素(カルマ)となるという訳です。
続きます。
768
:
慧空
:2015/06/11(木) 23:22:47
ですから、良心や善悪という囚われが無くなってしまった人、
つまりそれなりの深い悟りに至った人の場合は、良心という囚われが無いですから、
何をやろうと、良心にいう考えとの関連においては、輪廻転生を発生させるようなカルマを生じさせないという訳です。
さあ、次に何をどう説明しようかなと。
続きます。
769
:
慧空
:2015/06/11(木) 23:34:07
次は、悟りの道を歩むときの、良心や善悪との対峙の仕方について書きますね。
良心(囚われですが)がある人にとって、自分の良心はとても大切なものな訳です。
これは、良心がある人なら誰しもそうであり、とってもとっても大切なものな訳です。
良心はとっても大切なものである訳ですから、その人なりに可能な限り精一杯大切にする必要がある訳です。
大切に精一杯向きあう行程が延々と続く訳です。
もしかしたら、何回も何回も生まれ代わりながら、その行程が続きます。
そして、そうやって精一杯向き合い尽くしたとき、何らかの形で良心という囚われを手放すときが来ます。
それが、良心を手放し、深い悟りに至るときです。
どういう形で良心の手放しが生じるのかは、人それぞれだと思います。
続きます。
770
:
慧空
:2015/06/11(木) 23:36:01
さらに何か書こうとしたのですが、
大体のことはもう書いてしまったようですね。
取りあえずは、この程度で止めておきます。
771
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 01:15:50
なるほどです。丁寧に聞かせていただいて感謝しています。
ただ、きりがありませんので^^;
また様子見て、気が向いたらお尋ねします。
772
:
思路
:2015/06/12(金) 04:06:43
1)普遍的良心はない。 良心は囚われである。
2)普遍的悟りはない。 悟りは囚われである。
1は仮定です。しかし1が正しいなら2は正しい。
単純明快です。
良心ってなんですか? 良心というのは喜びと関係しています。
相手が喜ぶことをしてあげる人は良心的です。相手の喜びがわからないと良心的では
無いのです。
犬は尻尾を振って喜びます。そこで猫がしっぽを振っているので喜んでいるかという
と実は違う。猫がしっぽを振る時はイライラしているときです。
猫は気難しいのでよく観察してあげないと良心的対応はできないのです。
自分を観察しても良心は解りません。猫を観察することで初めて良心がわかります。
隣人を観察してこそ良心が解るようになります。悟りからは良心は解りません。
773
:
思路
:2015/06/12(金) 04:07:27
深い悟りと浅い悟り、どっちが悟っているのでしょうか?
深い方がいいに決まってる。深い方が偉いに決まってる。本当にそうでしょうか?
たとえば非常に清廉潔癖な裁判官がいます。どんな罪も見過ごさない。厳密に
法を適用します。盗んだらその手を切り落とす。よこしまな想像をしたらその頭を
切り落とす。こんな裁判官では困ります。そこそこええ加減でないと命がいくつあっても
たりない。
ブッダもええ加減だったので修行仲間からは非難されました。
「おまえはええ加減過ぎる。もっとまじめに修行しろ」と。
そこでブッダは答えます。
「やり過ぎは禁物です。中庸が肝腎です。」
774
:
慧空
:2015/06/12(金) 07:03:43
>そこでブッダは答えます。
>「やり過ぎは禁物です。中庸が肝腎です。」
それがどうかしましたか?
お釈迦さんが何を言おうが、私には知ったこっちゃありません。
それに、そのお釈迦さんの言葉ですが、彼が本当にそのようなことを言ったと思いますか?
彼はそんなことは言ってないかもしれない。
文献に残っていることなど、どこまで信用できるのか怪しいものです。
775
:
名無しさん
:2015/06/12(金) 10:44:59
悟り中毒というのか、なんというか・・・。
自覚系の人達もそうですが、ノンデュアリティ(アドヴァイタ)の人達から感じられる共通の違和感、息苦しさ、
これはやはり「神の不在」によるものなんでしょう。
自覚に興味はありましたが、私はACIMに専念したいと思います。
776
:
思路
:2015/06/12(金) 11:01:42
演劇のトレーニングに野口体操というのがあります。これをパクって名前を変えて
ゆる体操というが少し前に流行りました。
自覚というのはラマナのパクリですが、それをすこし解りやすくダイジェスト化
しています。
効果が同じならオリジナルがどれでも関係ない。こっちの方が解りやすいと
安易な方へ流れてしまいがちですが、実際にはオリジナルの方が何倍も力強い。
パクさん、リさんはパクリはへっちゃら。その国ではパクリは日常茶飯事です。町には
パクッたものが堂々と溢れています。質は悪いが安いので輸入して販売しようとすると
犯罪になります。大手100均ショップは工業所有権裁判でてんてこ舞い。
パクッた癖に「これは俺のウリジナルだ。お前のは程度が低い」と喚きたてる。
民度の低さはさておいて、そいつらの片棒を担ぐなんてのは、知らないで麻薬の
運び屋をやっているようなものです。
某大手出版社は、麻原を担ぎ上げて大々的に空中浮遊の写真をばらまいて
小銭を稼いでいましたが、事件発覚で手痛い損害を被りました。
777
:
思路
:2015/06/12(金) 11:20:40
ACIM、立派なテキストがあるからと言って、中身が立派かどうか?
最近ローザンヌのバレエコンクールをみましたが、ここ10年で随分レベルが上がっている。
特にコンテンポラリー部門がレベルアップしています。のびのび自由で大胆です。
嘗て見たときは「ウワッ、臭さー。まるで宝塚」と思ったものです。
10年経つとかなり磨きがかかります。
いかがわしい悟りビジネスで、「臭っさー」と即判別できたものでものでも10年持ちこたえ
ると、外見からは解り難い。いかがわしいなりに技術力がアップします。手口が巧妙なので
ちょっとやそっとでは尻尾を出しません。
だから騙されて当然です。騙されても財布の紐だけしっかりと閉めていれば、そんなに
害にはなりません。
修行には戒律が必要です。戒律を守ることで修行がはかどります。
1)修行に使うお金は、月に500円まで。
2)腹八分目で野菜を中心においしく食べる。
3)月に8日は休む。
戒律を決めたら、命がけでそれを守り抜きます。
778
:
思路
:2015/06/12(金) 11:37:04
ところで台本を読む場合にはストーリをイメージするというのが非常に大事です。
しかし簡単にはイメージが湧かない時があります。そういう時はしつこくしつこく
読みます。そうすると作者の意図が段々と解るようになります。イメージもドンドン
湧きあがり動きもついてきて役の人物が憑依します。
聖書を読むというのは台本の読み方に似ています。サラッと読むとほとんど何も
降りてこない。1ページを何時間もかけて繰り返し繰り返し読んでいるとついには
神が下りてくる。神の臨在。これは至福の時です。
これには二つの秘密があります。憑依と神への委ねです。憑依とは他人に
心を乗っ取らせることです。これを繰り返していると段々と自我が薄れてきます。
それにつれて拘りや執着がなくなり自己コントロールが自由にできるようになります。
俳優の場合は憑依というレベルにならないと演じることができませんが、自我を無くす
修行というのであれば、小説を読んで感情移入するだけでもずいぶん効果があります。
文章的には稚拙な仏典や聖書を読んでもイメージが湧かないはずです。日本には第一級
の小説があふれています。それを読めば自然に作中人物に引き込まれます。これは
自我を無くす最良のトレーニングになります。しかも面白い。
779
:
名無しさん
:2015/06/12(金) 12:51:33
思路さん、ACIMに何か問題があるとお思いですか?
具体的にご指摘頂けるとありがたいです。
780
:
慧空
:2015/06/12(金) 13:14:21
>「神の不在」
はい、ここには神はおりませんし。
そんなものは、不要です。
もし出て来たら、たたき落として、踏みつぶしてやります。(^o^)
ちょっと言い過ぎですね。
話だけはちゃんと話をあげるつもりです。(^o^)
781
:
慧空
:2015/06/12(金) 13:15:23
話だけはちゃんと話をあげるつもりです。→訂正 話だけはちゃんと聞いてあげるつもりです。(^o^)
782
:
名無しさん
:2015/06/12(金) 14:05:01
慧空さん
ACIMでいう神は、この世界の創造には一切関与していないので、
叩き落としたり、踏み潰すことは不可能でしょうね。
783
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 14:43:44
慧空さん、こんにちは
興味が抑えきれず来てしまいました^^意識に浸透してない経験の不足を自認させられます
本題ですが、その悟りが何にも動揺することなく平穏であり続けられるものなら、それを否定するつもりはありません
でも自身の嗜好が意識にあり続ける限り、そんな域には到達できないはずです
その点で、本当は言われなくても自己矛盾を感じていますよね?
そうでなければ嗜好や喜怒哀楽の苦から逃れる安楽にあって、どうして嗜好や喜怒哀楽に動いて意味があるのでしょうか?
784
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 14:51:55
世にある意識レベルでの信仰の自由(生きる道の選択)は、例え法で規制しようと何があろうとも個人レベルで選択する権利を侵す手段はありません
普遍の原理原則なのです
ここに囚われ続けていれば、そこに安楽はありえませんよね?
785
:
思路
:2015/06/12(金) 14:52:39
>779
奇跡って書いてあるので「胡散くせー。ボッタくりのセミナーか」と思いましたが、
そうでもないのかな?
ぱらぱらとみただけですが、おもしろそ。面白いかも。と思いました。
思路から孔門十哲の子路を思い浮かべた人は良識豊かな人です。思路障害を思い浮かべた
人は心理学好きです。「おもろ」と読んだ人は解脱の人です。
あなたには印可を差し上げます。発行手数料500円
宗教ごっこは気楽にやるべきです。和尚(ラジネシ)は側近に
「やれやれ、聖人のふりをするのはつかれるわい」と漏らしたそうです。
最近は暴露本も含めて和尚の本が全くでまわってない。以前は図書館にもたくさんあった。
本やにもズラッと並べてありましたが、最近は全くない。
和尚は宗教ゴッコで楽しんだ第一級の人ですね。色々と悪さをして問題も引き起こしました
が、インド的明るさと無邪気さがあった。
これに比べて統一教会は残酷でジメジメして気持ち悪い。いまも残党が名前を変えて
暗躍しています。 スティーブンハッサンのマインドコントロールの恐怖というのを読むと
手口の全貌がわかります。
印可だとか、ツボだとか、払子だとか、秘密のマントラだとか、お守りだとか
どうせ役にもたたんものばかりですが500円以内ならいいんではないでしょうか?
786
:
思路
:2015/06/12(金) 15:29:23
どこが苦しいの?
1)セックス
2)ハート
3)頭
1)が難しい。2とか3とか答える人でも実は1だったりする。
ブッダも大変だったんだよ。弟子が女をつれこんだり、猿と交尾したり、弟子どうしで
交わったりとそのたびに戒律を厳しくして、
「違反したら、やめてもらうからね」
と破門した。
我が家もこれで一大事。
猫が発情しました。夜中に「ぐぎゃーーーーーーー」と鳴きはじめる。赤ん坊をあやすように
抱っこしてお守りすること1週間。やっとおさまりました。もうくたくた。
787
:
思路
:2015/06/12(金) 15:30:11
猫ですが、一時的に預かるだけのつもりが、持ち主が取りに来ない。もう我が家の住人に
なっています。動物を家の中で飼うなんて冗談じゃない。でも保険所にもっていけば
殺処分されるから、それは抵抗がある。
もし私が最終解脱していれば、即時に破門で保険所行きです。破門されなくてよかったね。
猫は全然いうことを聞かない。高いところに座ってこちらを見下ろします。気が向いたら
餌をねだります。しかも7のペットフッドと高価なカツオしか食いません。
これは突然我が家に神が降りてきたのと同じです。招き猫ですから貧乏神じゃないだろう
とは思っています。
ブッダでも救いようがなくて破門したのですから、この苦しみは解決不可能。諦めてください。
788
:
慧空
:2015/06/12(金) 15:42:51
>>782
そうなんですか、そりゃあ残念ですね。
私は一度でいいから、話しがしてみたいと思って、
神だけでなくサタンもさんざん呼んでるのですが、ちっとも来やしません。
789
:
慧空
:2015/06/12(金) 15:51:52
羊さん
>でも自身の嗜好が意識にあり続ける限り、そんな域には到達できないはずです
嗜好は最後まで残ります。
薄くなることはあっても、決して無くなるものではありません。
悟り切ってしまうと平穏は平穏ですが、私という存在そのものが苦である訳ですから、
基本的に常に苦しい訳なんですよ。
基本的に苦しいのだけど、時々、その苦を忘れるという感じです。
最終的な悟りとは、私という存在そのものである苦にどっぷりと浸りきってしまう訳なのです。
すると、その苦は根本的な苦であるので、どんな苦が起ころうと、苦のレベルは同じな訳です。
どんな苦も耐えられるという訳です。
だって、常に根本の苦に浸りきっている訳ですから。(^o^)
最終的な悟りは、一切皆苦、つまりすべてが苦であるという理解が伴っていますから、
何をどう選択しようと、どれも同じような苦である訳です。
そうすると、何かをどうこうしようとする衝動が停止してしまう訳なんです。
外側で起こってくることはもちろん、自分の内面で起こってくる感情や思考も、
いわば、垂れ流しな訳です。(^o^)
私はそのような垂れ流しそのものになってしまっているんです。(^o^)
790
:
慧空
:2015/06/12(金) 16:04:34
羊さん
>普遍の原理原則なのです
だから、普遍の原理原則なんて無いんですよ。
どうしてもそう仰りたいのなら、それが妄想でなくて、絶対そうだという証拠をここに提示してくださいな。
この現実世界や、目の前のパソコンについて、それが本当に実体としてそこにあるということが証明不可能であるように、
この世界に、絶対とか、普遍とか、そういうものは無いんです。
すべて、あなたの妄想です。
>ここに囚われ続けていれば、そこに安楽はありえませんよね?
ですから、安楽というのも、幻想な訳です。
しかも、安楽は非常に不安的なものです。
苦の方がよほど安定しやすいものです。
みな、そもそもどこにも無い安息や幸福を求めることで彷徨い迷います。
それはどうしてなのか、苦しいからなのです。
つまり、幸福よりも、苦の方がより一次的な要素であるのです。
しかしまあ、いくらここで、私がそんなことを言っても、伝われないのかもしれないのですがねー。
でもなぜか、私はここで延々と苦を説いてる訳です。
791
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:07:38
一切皆苦^^ですね
実践としまして、苦との対峙姿勢が問われるわけですから
関わるなと言って済んでしまえばいいのですが、現実は役目を持たされてしまっている
余計なものを、できるだけ減らしていくとなると、やはり戒律を守りながら真意を理解することに尽きるのだと思います
792
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:17:20
私の言った「信仰の自由(意識レベル道の選択)」普遍の原理原則が、どこにあるかについてご質問ですね?
人生を選択する意識が自分の働きでないとすると、それは洗脳されてる状態と同じではないでしょうか。
恐らく洗脳なら洗脳で解けますね
この段階だと無に戻らないと駄目かもしれません
まあ、そんな気がしてますね
793
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:19:17
ごめんなさい、質問の意図から少し外れました。
洗脳状態も含めて、普遍の原理原則ということです。
794
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:27:47
この世が幻想といわれるは、現実が幻想と捉えるべきではないでしょう
取る行動や取れる行動が幻想的という意味ではないでしょうか?
ようするに目覚めてないという意味合いが濃いように思います
795
:
慧空
:2015/06/12(金) 16:29:26
>人生を選択する意識が自分の働きでない
ああなるほど、そこについて言っておられたのですか。
それなら、私もある程度は分かりますよ。
だって、自分の手を動かしているのは、私自身であり、私の自我の意志ですから。
ただ、それを原理というと、大げさすぎて、囚われとなりかねません。
自分が自分の手を動かしている、その感覚は普通の当たりませのものです。
例えば、自分が自分の手を絶対に自分の意志で動かしていると言えるのかというと、
それは、私には分からないと言います。
だって、自分の意志で自分の手を動かしているように思うし、そういう感覚はあるけど、
それが自分の妄想でないと言える証拠がどこにもないからです。
分かりますか?
この世界のことがらは、何一つ、確証が得られるものは無いんです。
それは、つまり、夕べ夢の中で見た景色や、いま頭の中で浮かんでいる妄想と、
目の前の現実や、自分が自分の手を動かしている感覚とが、すべて、根拠の無いという点で同等であるということです。
796
:
慧空
:2015/06/12(金) 16:30:48
>目覚めてない
もうええわ。
もう知らん。
勝手にせえ。(^o^)
797
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:32:40
苦から読み取る要素が省みることになると前進があるわけですよね
だから仏教なんかでは感謝ができるという理屈でしょう
違います?
798
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 16:35:47
分かりますか?ついていけます大丈夫です^^
797の続きですが、省みた結果が良心に結びつく、そして感謝に至る道というのが通例と思います。
799
:
慧空
:2015/06/12(金) 16:35:59
根本の苦に気づく方法は、徹底的に自分に意識を向けて、自分を見る手法しかありません。
頭でいくら考えても、無理です。
羊さんも、自覚をやってみてくださいな。
800
:
慧空
:2015/06/12(金) 16:37:21
>感謝に至る道
そこは、小悟階層の浅いところです。
私はそこについて言っているのではありません。
801
:
名無しさん
:2015/06/12(金) 17:19:32
>>785
思路さん、承知しました。
奇跡にしろ神にしろ、俗な意味での定義付けとはかけ離れていると思います。
慧空さんの云われる一切皆苦は、あくまで本当は存在していないこの世界という枠組みの中の話なんでしょうかね。
その外(そと)というか、それはいくら概念をはずしていっても、
そこに至るはずもなく、幻影の中の事象、つまり、神とは無関係ということで・・・。
ニルヴァーナの「その先」があったからブッダももう一度戻って来ざるを得なかったんでしょうね。
802
:
思路
:2015/06/12(金) 18:08:34
幸せってのはなーに?
幸せ要件の一つに充実感があると思う。毎日が充実していたら幸せ。
だから実りのある仕事をすることだよね。そうすると充実感がある。
朝1時間走る。すると気分爽快で充実感がある。
充実感というのは体感だから、体を動かして何かをすると即感じることができる。
人の為に役に立つことをしているとやはり充実感が生まれる。これは幸せになる。
まして一言感謝されると最高に幸せになる。
褒められると最高に気持ちがいい。
不幸ってのは逆ですね。貶される。よかれと思ってやったのに感謝されない。内容を批判される。
馬鹿にされる。
>しかも、安楽は非常に不安的なものです。
>苦の方がよほど安定しやすいものです。
不幸の真っただ中にあっても、一人だけ賛成してくれる。理解を示してくれる。そういう人が
いると、不幸はかなりというか殆ど軽減されます。そういう仏様みたいな人が一人くらいは
どこにでもいますから、馬鹿をやっていても総じて不幸というよりは幸福になる確率の方が
遥かに高い。
なので幸福になるってのはそんなに難しくない。人は簡単に幸福になれる。
簡単なことをさも難しいことのように見せかけて高く売り込む。これが悟りビジネスの手口です。
さくらを準備してちょっとおだてて「幸福の絶頂」みたいにして、
「あなたはあんなに悩んでいたのに、いまはこんなに幸福でしょ。
我々のメッソードは素晴らしいのです。だからぜひ幸せを広めてください。
つきましては免許として100万円いただきます。」
あれれ、みたいな感じで、少し違和感があるんですが、そこは幸福の絶頂なのでへっちゃらですね。
803
:
思路
:2015/06/12(金) 18:16:35
一切皆苦
一切皆楽
どっちですか? 人はほっといてもだいたい幸せです。
私も時には不幸になりますが、ちょっとおだてられるとすぐに幸福になります。
804
:
慧空
:2015/06/12(金) 18:22:19
思路さん、私の言うことなど聞く気なんてないでしょうに。(^o^)
さあ、どっちなんでしょうね。
思路さんは、どっちだと思われますか?
805
:
思路
:2015/06/12(金) 18:45:30
彗空さん。
うつくしい女性に股間を触られるといまでも勃起するでしょ。心も同じです。触りどころ
があってそこを触られると制御不能で幸せになります。有頂天てんてんです。
これはいかんともしがたい。人間の性です。そこをくすぐられると誰であろうと例外なし
に幸福になるようになっています。
806
:
慧空
:2015/06/12(金) 19:13:10
>うつくしい女性に股間を触られるといまでも勃起するでしょ。心も同じです。触りどころ
があってそこを触られると制御不能で幸せになります。
確かにそういう面はあるかもしません。
しかし、そのような心の動きも煩わしいものなのですよ。
どんな心の動きでも、反応や動きそのものが煩わしい。
この感覚は、お分かりいだけないでしょうね。
807
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 22:31:39
時間が空きましたけど、慧空さん
”人を殺してもへっちゃら”発言のこと、これが気になって仕方がない
その悟りとサイコパス的な自由意識とで何か違います?
808
:
孤独な羊
:2015/06/12(金) 22:47:29
小悟とか大悟とか概念は解りかねますけど、私の言ったことが小悟とすると、その小悟は簡単に終わったりしないのです
人間は、いと小さき者なのだと同時に理解しますよね
ここで傲慢になれますか?
なぜ小悟から大悟へなるかというと、歯車としてある自分を理解するところから始まるのでしょう
私に言わせれば傲慢的な意識こそ、浅くて罪作りな小悟になりますけどぉ
809
:
慧空
:2015/06/12(金) 23:04:09
羊さん
>その悟りとサイコパス的な自由意識とで何か違います?
私の悟りは、根っ子のところから本当に何の囚われも無いんです。
ですから、私が例えどんなめちゃくちゃな行動をしようとも、反省もなければ、悔いや後悔も残りません。
まさにへっちゃらな訳です。
サイコパス的な自由意識というものがどういうものなのか、分かりなねるというか、
なんとなくしか分からないのですが、一応書いてみますね。
サイコパス的な自由意識というものはどうやらあるようです。
例えば、ちょっと前にあった土浦の連続殺人事件
(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%B5%A6%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)
の犯人は、確か、自分は神とか、あるいは、神をも超えた存在だなどといい、
人を殺しても何も問題無い、もっと殺したかったなどと言っていたようですね。
あの犯人は、おそらく、そういう異常な自由意識の持ち主なのだろうと思います。
端的に言えば、やはり、彼らの意識は障害か又は病的な欠陥がある訳なのです。
自我意識のとても表層的な部分が過剰に拡大してしまったような状態なのだろうと思います。
表層部分が優位になってますので、とても衝動的かつ感情的に行動する訳です。
しかし、彼らの本心は別なのです。
過剰に拡大した表層部分の活動(衝動)があまりに激しいので、その奥にある本心が完全に隠れてしまっていて、
本人もそれに気づけないし、まったく自覚も無い状態なのです。
つまり、凶悪な彼らにも、その本心には、しっかりと本人が握り締めた囚われである良心がある訳なのです。
だから、凶悪犯罪を犯した彼らには、例えその自覚はなくても、心の奥底の本心では、
とても激しい良心の呵責やそれによる苦しみが起こっているのです。
これに対し、私(慧空)には、本心から(根っ子から)、良心も含めた囚われがありませんから、
例えどんなめちゃくちゃな行動をしても、サイコパスの人たちのように、本心との乖離や相反が起こらないのです。
ここが違うところです。
810
:
慧空
:2015/06/12(金) 23:09:38
>私に言わせれば傲慢的な意識こそ、浅くて罪作りな小悟になりますけどぉ
ですから、その「傲慢的な」というその判断こそが、囚われなんですよ。
誰が、「これは放漫的だ」と考えているのですか?
あなたでしょ?
あなたが好き勝手に、これは放漫だと考えてるだけなんじゃないですか。
私は、そこに気づいてくださいと言っているんです。
今晩はもう寝ます。
また明日です。(^^)/
811
:
名無しさん
:2015/06/12(金) 23:52:12
マスターゲート氏がホンモノかどうかは別として、
慧空さんは彼と袂を分かつのが早すぎたんじゃないんでしょうかね?
だから本来だったら師が修正してくれるはずの、
躓きのポイントみたいなものに引っかかっておかしな方向に行ってしまった、
失礼な言い方で申し訳ありませんが。
ただ自覚に関するブログを書かれているもう一人の方も、
なんか妙なんですよね、自覚ということそのものの持つ限界というか
欠陥のようなものがあるのかもしれないですね。
まあ、とにかく、キャンドルライト101の系譜に連なる人たちとは
当面は距離を置いたほうがよさそうです。
812
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 00:58:12
真実を言葉にすれば反感をかい理解されないことが、たくさんありますよ
なぜなら真実を追求することが人生に他ならないからといえるのではないでしょうか
それ故の一切苦であり、楽から真実を探ることは大変に難しいことだと教わりました
ありがとうございました
おやすみなさい
813
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 01:01:13
キャッシュ読み込みで更新されてなくて・・ ^^;
おやすみなさい
814
:
慧空
:2015/06/13(土) 06:07:04
>>811
何をどう思うと、どうしようと、あなたの勝手です。
ご自由にどうぞ。(^^)/
815
:
慧空
:2015/06/13(土) 06:10:58
羊さん
>なぜなら真実を追求することが人生に他ならないからといえるのではないでしょうか
人生をどう捉えるかは、人それぞれでしょうね。
真実についてもそうです。
私なんかは、真実などどこにも無いと思っていますし。(^o^)
>楽から真実を探ることは大変に難しいことだと教わりました
どの程度それを理解されているのかは分かりかねますが、
まさにその通りなのです。
816
:
思路
:2015/06/13(土) 10:12:05
>それ故の一切苦であり、楽から真実を探ることは大変に難しいことだと教わりました
言葉だけからは解り難い。しかし食事をともにするとか日常をともにするとよくわかる。
聖者とともにツレションをしたことがある。
もちろん普段親しいわけではない。偶然便器が隣になっただけだ。こちらとしては少し
居心地悪い。緊張する。
しかし、あろうことか、その方は小便をしながらこちらに何の遠慮もなしに
ぷーぷーと大きな屁をする。唖然とする自分に向かって、ちんちんをブルブル振りながら
2,3のつまらない世間話をして出て行った。
その話を友達にしたら、
「そんなの非常識。呆れる」ということだった。
ちなみに自分の場合もうっかりプーとやることはよくある。多少なりとも聖者の素質が
あるのかもしれない。
817
:
思路
:2015/06/13(土) 10:12:59
ある犯罪心理学者の見積もりではサイコパスはニューヨークで10万人くらい、北米では
200万人くらいいるらしい。
ニューヨーク850万人の10万人ということは、85人に一人の割合だから、小学校の2クラス
に一人くらいだろうか? 確かにそんなのは学年に一人や二人はいると思い当たる。
職業的には経営者、弁護士、外科医など結構ハイレベルな職業に偏りがある。小学校の同級
でそんな職業に就いたのは5人もいない。ということはかなりの確率でハイレベルの職業には
サイコパスがいるということになる。
ちなみに多い職業の10位以内に聖職者も入っている。
818
:
思路
:2015/06/13(土) 10:17:33
>マスターゲート氏がホンモノかどうかは別として、
>慧空さんは彼と袂を分かつのが早すぎたんじゃないんでしょうかね?
何が本物かなんてことは安易には言えない。早すぎたのか、遅すぎたのかそれも
解らない。
こういう時は確率を使ってみる。
A:韓国から歴史を通じて一度でも覚醒した人は出ているのか? 0%
B:私は悟ったという人の悟りの真実度 0.1%
C:確度 =AxB =0%
819
:
思路
:2015/06/13(土) 12:42:05
>私なんかは、真実などどこにも無いと思っていますし。(^o^)
真実などどこにもない。それをいうならまさに「悟りなどどこにもない」ということだ。
真実などどこにもない。あるのは景色だ。眼を見開いて眼前に広がる鮮やかな景色をみる。
それは真実への遭遇というよりはリアリティ(迫真性)だ。
昨日窓辺に座っていた猫。今日悟りを開いてみる同じ猫はまるで輝きが違う。
覚醒とは自己がまるごと抜け落ちることであり、崩壊である。崩壊の過程で断片化した
自己が狂気と化す。「崩壊」を防ぐべく矮小化した自己は必至に自己に固執する。
「私は偉大だ。」
820
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 16:11:53
真実があるかないか、変な話です
論点も違うのでしょうが・・
真実ない派は生かされる謙虚な気持ちが持てなくて、真実があると思えないというとこでしょうかね
理解できないものだからないとする逃避手段であって、理解できないからこそあることが立証できるわけです
生きてる理由がないなら、あなたは一体なにをしてる?ってことになる
真実がないとする思考については、そのようにしか理解できませんでしょう
わからないことがわかるということは、それは真実です
真実がないとする真実は具体的にどういう見解であって、ならば生きてる理由は何なのか聞いてみたいのですが
どなたかご存知でしょうか?
821
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 17:16:46
どのようにして生まれてきて、どのようにして生きていてということまで語れなければ、真実がないとの立証ができないのです
わからないことに対しては常に真実がついてまわるということです
822
:
佐藤
:2015/06/13(土) 17:28:56
止まらない感じで、かなり忙しそうですね
823
:
慧空
:2015/06/13(土) 18:28:53
>>819
>真実などどこにもない。それをいうならまさに「悟りなどどこにもない」ということだ。
はい、その通りですよ。
すべて考えであり、幻だと、いつも言ってるでしょ。
注意すべきは、この「すべては考え」というのも、もちろん考えである訳なんです。
つまり、「すべては考え」という言葉は、それも考えだと知りつつ、敢えて絞り出している精一杯の言葉なんです。
824
:
慧空
:2015/06/13(土) 18:30:55
ああ、佐藤さん、こんちは。
特に忙しくはないですよ。
もともとヒマで困っているところなので、ちょうどいい感じです。
気が向かないときは、スルーですし、気楽なものです。
佐藤さんも一緒にやりませんか?
825
:
慧空
:2015/06/13(土) 18:36:03
羊さん
>わからないことに対しては常に真実がついてまわるということです
何を仰ってるのかさっぱり分かりません。
論理構成もおかしいですよ。
論理展開に飛躍もありますし。
真実がどこにも無いということは、悟り以前の話しです。
論理学的な追求で結論が出ます。
正確には、真実であると立証できることがらはどこにも存在しないということは、
論理学的な追求から容易に結論を下せます。
826
:
思路
:2015/06/13(土) 18:46:47
1+2=3
827
:
思路
:2015/06/13(土) 19:00:12
抽象概念が理解できないと真理は見えない。真理ってのは抽象概念だから。
突然「自己喪失」がおこって、抽象概念が理解できなくなると、その瞬間にリアリティ
を感じるだけになる。
それは完全なる今だし、今しかない。時間という抽象概念は理解できなくなる。
だから左脳のある部分にドリルで穴をあけるとそういう状態になるはず。
828
:
慧空
:2015/06/13(土) 19:33:32
思路さん
簡単な話しです。
例えば、目の前にリンゴがあったとします。
そのリンゴが本当にそこにあるのかどうかは分からない訳なんです。
「ある」ということを立証することができないのです。
あるという証拠がどこにもないのです。
真理もリンゴと同じです。
仮に真理っぽいものがあるように見えたとしても、それがあるとは立証できないのです。
829
:
佐藤
:2015/06/13(土) 19:50:52
>ああ、佐藤さん、こんちは。
特に忙しくはないですよ。
思路さん、羊さんに向けた言葉でした。
大変そうに動き回ってるなあと思いまして。
830
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 19:55:44
共通概念としてリンゴであるものがあるわけです
そういう五感を備えていますよね
この共通概念として実在する五感が幻想的だとか幻想と表現することは可能なのでしょう
仰ってることは確かに同じリンゴに対して異なる図を個別で描いている可能性は否定できません
ですが共通概念における差異の一致は証明できています
共通概念における差異の部分について確証が得られる事実があるわけですから、それを証明すれば真実の立証ということになりますか?
831
:
慧空
:2015/06/13(土) 19:57:02
>思路さん、羊さんに向けた言葉でした。
>大変そうに動き回ってるなあと思いまして。
なるほど、了解です。
832
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 19:59:50
点としての実在は証明できるが、線とした証明ができない
この線のことを真実だと申し上げるわけですな
833
:
慧空
:2015/06/13(土) 20:00:11
>共通概念における差異の部分について確証が得られる事実があるわけですから、それを証明すれば真実の立証ということになりますか?
どこに確証があるのですか?(^o^)
とても簡単なことなのですが、実は難しいことなのですね。
だとすると、優秀な論議学者は意外なほど悟りに近いのかもしれないなぁ。(^o^)
ご縁があれば、それなりの論理学者と話しがしてみたいもんだなぁ。
834
:
慧空
:2015/06/13(土) 20:04:29
>点としての実在は証明できるが、線とした証明ができない
>この線のことを真実だと申し上げるわけですな
???
線だけでなく、点も含めて、一切のことがらに実在性は無いといった方がいいのでしょうね。
だって、実在なんて証明不可能ですし、根拠もどこにも無い訳ですから。
実に簡単なことなのですがねぇ。
835
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 20:17:17
共通概念にある差異が正確か否かは、確証が持てますよ
それさえ疑うというのであれば、もはや話も終わりでしょう
たとえば、ものをたべるという行為を意識しながら、それを存在していない真実と信じるなら、その世界で生きるしかありませんのでしょ
それは私や一般の人が生きる世界とは異なる世界です
私は、そこに興味も抱かないし関心もない
なので議論しても、食い違うわけです
孤独なのは私より、そちらかもしれませんね
836
:
孤独な羊
:2015/06/13(土) 20:23:16
孤独な世界で生きるなら、人と関わる必要があるのですか?
そこに関心があり喜ぶ人間にはよくても、そうでない人間には交流できませんよ
お別れかな?
837
:
慧空
:2015/06/13(土) 20:28:37
>共通概念にある差異が正確か否かは、確証が持てますよ
>それさえ疑うというのであれば、もはや話も終わりでしょう
ですから、囚われを持っている人と、囚われを持っていない人との間で、そもそも話しが噛み合うはずがないのです。
それを承知の上で、私はこうして、囚われを手放すことを説き続けている訳です。
話しが噛み合わないなんて、当たり前です。(^o^)
838
:
名無しさん
:2015/06/13(土) 21:08:02
十分囚われているように見えますけどね、傍から見てると。
もう一人の自覚を広めようとされている悟らせ屋さんもあなたに対してはかなり辛辣なご意見をお持ちのようですが、
第三者から見ると、お二方とも「囚われを手放すことを説き続けることへの囚われ」をお持ちでいらっしゃいますね。
悟らせ屋さんは文章にいつも読者への恫喝が含まれている分、いっそう深刻ではあるのですが。
839
:
慧空
:2015/06/13(土) 21:23:39
明人さんに対する批判は、書きたければここに好きなだけ書いてくださいな。
しかし、私はその相手はしません。
>「囚われを手放すことを説き続けることへの囚われ」
あなたは、それなりの分析力を持っておられるようですね。
あなたが私を批判したり、攻撃できる明確なポイントは、ここしかないのです。
ここしかない。
どうしてそこしか批判ポイントが無いのか、
また、本当に他の部分にはひ批判ポイントは無いのか、
もう一度、徹底的に分析されるといいと思います。
840
:
慧空
:2015/06/13(土) 21:34:00
補足です。
いきなり急にやってみてくださいと言っても難しいでしょうが、
自分の内面を観察されて、感情や思考がどういうプロセスで発生しているのかをよくよく観察されるといいと思いますよ。
そうると直ぐにでなくとも、いずれ、囚われに気づいてそれを手放してくださいと言っている理由が分かるはずです。
841
:
思路
:2015/06/14(日) 05:05:02
>どうしてそこしか批判ポイントが無いのか、
要は煽いでるのに「どうして飛翔できないの?」ってこと
たとえば山下清は幼くして悟りを開いて、あちこち損傷はあったけれども切り絵の
世界で飛翔してみせた。それがすごいのよ。
サバンの子供達は、他がだめになるぶん一点に能力が集中してその部分については驚異的
な能力を発揮する。
あなたは彼等とは比較にならないほどゴッソリと脳みそを削った、つまり自我を全部
取り除いたわけで、無茶苦茶軽量化できたはずです。そんなに軽量化できてなほなぜ飛翔
しないの?ってこと。
和尚は飛翔してみせた。ラマナも飛翔してみせた。クリシュナムルティも飛翔して見せた。
であなたはどうなの?ってことじゃないかな。
羊君たちがいっているのは「飛んでみせて」みたいなこと。
前も言ったけど、後天的に脳みそを削ったような場合にはそれは無理なのだよ。10年間の
修行が必要。悟りを開いた人は自ら隠遁して、、、とかあるけど、そうではなくて世間には
出せなかった。寺で匿って10年間ちゃんと指導したり面倒みたりする人がいた。そういう
悟りシステムがあって初めて開花したのよ。
素質は十分、あとは修行。それを一人でやるのはなかなか大変だろうなと思う。でも不可能
じゃない。
842
:
慧空
:2015/06/14(日) 07:57:18
飛翔については、多くの場合、自我(エゴ)がそれをやっています。
飛翔したいという欲がそれを実現させてます。
現に、歴史を見ても、よく飛んだ聖者は殆どの方がまだ厚い自我を残した小悟の方です。
大悟まで到達した方は殆どいない。
クリシュナムルティは大悟者かもしれないが、彼は愛や幸福を掴んだままであり、それを手放せなかった。
それ故、彼は大悟者でありながら、あたかも小悟者のような雰囲気をまとった。
また、こんな側面もあります。
悟りが浅いほど、自分の都合のいい善だの愛だの幸福だのの二元の囚われを多く握っていて、その意識も民衆に近いのです。
だから、民衆にも広く受け入れられ、持ち上げられる。
覚者の側にも飛びたいという欲がありますから、その欲と合致し、聖者へと飛翔します。
これが聖者が生まれる典型的なメカニズムです。
843
:
思路
:2015/06/14(日) 09:13:10
聖者のメカニズム 悟りの階梯
1)小悟 (変人)
2)大悟 (パア)
3)最終解脱(クルクルパー)
4)安静 6か月
5)訓練1 3年
6)訓練2 3年
7)訓練3 3年 (正常)
7つの階梯を経て、正常に戻る。安静期間を含めてリハビリ期間の方が長い。
ただ歩留りがあって、インドなどでは非常に歩留りが悪い。兎に角キチガイを量産して
そのうちほんのわずかが聖人になる。のこりは最終解脱者(クルクルパー)のまま
サドーとしてうろついている。
844
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 09:56:11
それほど確信されるなら完全無欠な無のような大悟もあるかな?とも思えてきました
だとすれば涅槃に起てば終わり
魂の終焉を迎えられる予定だったりするかもですね
少なくとも私は、まったく望みません
しかし慧空さん、一切苦と言ってました
完全無欠な無のような大悟にある状態なら、そんな表現をします?
苦という状態を感じながら、囚われがないのに苦のために生きてますかね
とても理解できませんけど
845
:
慧空
:2015/06/14(日) 10:22:22
思路さん
訓練ってなんですか、それ。(^o^)
何をどう訓練しろと仰るのか。(^o^)
訓練とは、まだ何かをどうにかする必要があるという囚われが残っていますよ。
訓練なんてあり得ないのです。
まあ、こんなこといくら口で言っても伝わるはずはないのですがね。(^o^)
羊さん
>完全無欠な無のような大悟にある状態なら、そんな表現をします?
その「完全無欠の無のような大悟」という考えが、あなたが勝手につくっている妄想なんすってば。(^o^)
私が言っているのは根本の苦ですから、この苦は簡単には感じられないんですよ。
殆どの囚われを落としてしまわないと、感じられないんです。
理解できないで当然です。
846
:
名無しさん
:2015/06/14(日) 10:46:36
で、その根本の苦というのか存在の苦というのか、どうでもいいんですが、
慧空さんはどうしたいのですか? それを大勢の人にわかってもらいたい?
他者にもそういう状況になってほしいわけですか?
マスターゲートは言うに及ばず、仏陀もキリストもシャンカラもラマナ・マハルシも
ニサルガダッタ・マハラジもクリシュナムルティも自分は凌駕して、
ついに究極の境地に到達したのだ、ということを訴えたいのでしょうか?
それを我々が認めれば気が済むのですか?
847
:
慧空
:2015/06/14(日) 10:56:17
>慧空さんはどうしたいのですか?
自分の囚われに気づいてくださいと言いたいだけなんです。
囚われに気づくのは、自分自身に意識を向けることが有効ですよと言いたいだけなんです。
それだけです。
私が他の覚者を否定するのは、彼らがまだ多くの囚われを持っている方だからです。
そこじゃないですよと言っているだけです。
私は持ち上げられるつもりもないですし、持ち上げられるのは大嫌いです。
認められたくもないです。
本当に私のことを分かってくれる人がいるなら、その人は私のことを決して持ち上げたりしません。
848
:
慧空
:2015/06/14(日) 11:07:03
どうしたいのかについてですが、
上で書いたように、悟りについては、こうやってここで好き勝手に悟りのヒントを伝えているだけで満足なんです。
スカイプで話しをしたり、小さな講話会を開いたりもしますが、小さな活動でいいんです。
小さな活動でいいと言うのは、持ち上げられるのが嫌いなのもありますが、
私の伝えたいことは、小さな集まりの方が伝わりやすいということが第一にあります。
それに、私の言うことが分かるようになる人は、おそらく、極めて少数の方だけなんだろうとも思っています。
ですから、その少数の方だけに伝わればそれで十分なんです。
悟りに関して私のやりたいことは、そんな感じです。
しかし、私には悟りに関することよりももっとやりたいことがあります。
それは、区切りのいいところまではできれば、家族(特に障害を持った長男)に寄り添っていたいと思っています。
その区切りがどこなのか、長男が二十歳になるころなのかどうなのか、よく分かりませんが、
そう思っています。
私が敢えて社会の中で生きようとしているのは、あるいは大げさに言えばまだ命を繋いでいるのは、
家族(特に長男)に対する愛着心です。
849
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 11:44:28
慧空さん
悟りのヒントを伝えてる満足とか愛とか、だから、そうなるじゃないですか
それらを善といい良心の働きからなるものでしょう
素直に認めたらいいのに^^;
我を張るのはやめて楽にいきましょうよ
それで気楽になれて気持ちいい
850
:
慧空
:2015/06/14(日) 12:05:22
>悟りのヒントを伝えてる満足とか愛とか、だから、そうなるじゃないですか
>それらを善といい良心の働きからなるものでしょう
ダメだこりゃ。(^o^)
ため息出てきた。
私はやりたいことをやっているだけなんです。
ただそれだけなんです。
だから、息子の頭も平気で蹴っ飛ばします。
愚か者にも容赦は無いです。
今すぐ死ね、と思っています。
やりたいことをやっているだけなのですが、
どういう訳か、私の場合、いまのところ、世間的に無難な行動で収まっています。
むしろ、周りの人は、私のことをいい人だと思ってくれます。
有り難いような迷惑なような微妙な感じですが、そういうことです。
私の場合は、どういう訳か、私が好き勝手にやる言動と、世間的な良識との整合性がいいのです。
これは、私の残りカルマの特性がたまたまそうだったのだろうと思っています。
たまさまの結果です。
経典類の記載は余り当てにはならないので、そのつもりで聞いて頂きたいのですが(私もそうしてます)、
お釈迦さんのもとにいは阿羅漢には、結構いろんなタイプの人がいたようです。
普通の世間感覚からすると、こんなタチの悪い人が阿羅漢なんて信じられんというような人もいたそうです。
また、そのようなタチの悪い阿羅漢には、何の因果か、夜道で暴漢に襲われて殴り殺された人もいたそうです。
私はこの話しは、話し半分で聴きながらも、あり得ることだと思っています。
沢山の阿羅漢がいたら、そのの中には希ではあるでしょうが、人を殺す阿羅漢もいるのではないかと思っています。
なぜなら、阿羅漢の中には、ほぼ100%衝動のまま生きているものがいるだろうと思うからです。
腹の底からイラっとくれば、そのまま相手を殺してしまうことは十分にあるのだろうと思っています。
阿羅漢なんて、そういう類の人たちなのです。
851
:
名無しさん
:2015/06/14(日) 13:13:45
慧空さん
なるほど、わかりました。
ちょっと言葉が過ぎました、失礼をお許してください。
結局、悟りと言っても百人百様でしかないのかもしれません。
同時代人だったニサルガダッタとクリシュナムルティが
お互いを覚醒者とは認めなかった、というエピソードもあるようです。
それとまったく余計なお世話なんですが、
やっぱりブログをまとめて本を出されたほうがいいですよ。
ナチュラルスピリット社だったら間違いなく本にしてくれると思いますし、
ナチュスピ社のほうで講話会等も企画してくれますよ。
それで仮に大勢の人たちが集まったとしても、本当に伝わるのはごく少数の人たちですよ。
その人たちに伝わればいいんでしょうし、
残りの人たちは慧空さんの収入面を支えてくれる人たちと割り切ってしまえばいいんじゃないですか?
その人たちも好きでお話を聞きに来たりセッション受けたりしてるわけですしね。
慧空さんの生活面をサポートすることで間接的ながらその人たちのためにもなるんですよ。
852
:
慧空
:2015/06/14(日) 14:02:18
私には、悟りのヒントを伝えたいという欲求がありますから、
その欲求と関連してそれなりの注目を集めたいという欲求もあります。
しかしその一方で、注目を集めたくないという欲求もあります。
また、私は自分で言うのもなんですが、意外に賢いところがあるようで、
注目を集めるとろくなことがないということも知っています。
それに、私の伝えようとすることは、余り大きな声で言うようなものではありません。
控えめに言う程度でいいんです。
何しろ、私は愛も良心も否定し、神さえもたたき落として踏みつけろと言う訳ですから。
本は出さない方がいいのかもしれないと思っています。
その代わりに、できればそのうち、PDFにまとめて、誰でもダウンロードできるよう、
何処かにアップしようと思っています(ブログにはそのリンクを貼り付けて)。
853
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 15:08:20
>今すぐ死ね、と思っています
これ私に対して思ってるわけですか?
私は殺されるのは御免です。私のやりたいことは、そこにありませんから。
迷惑なら迷惑だと言ってくれればひきます。
854
:
慧空
:2015/06/14(日) 15:29:51
>これ私に対して思ってるわけですか?
そんなはずないじゃないですか。
私の殺気や殺意を感じますか?(^o^)
誰かに対して死ねと思うことは確かにありますが、羊さんに対してはそう思ったことはないですよ。
むしろ、どことなく親近感を感じてるくらいですよ。
それにこの掲示板やブログのコメント欄は、最初っからいろんな人が来ることが前提になってますから、
そう簡単に切れたりしません。
こうしたやり取りができること自体、ヒマをもてあましている私には有り難いことだと思っています。
855
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 15:34:59
ああ、よかった
安心しましたけど、慧空さんの気に触れたら覚悟しなければいけない?
ここに来るのも命がけなら、嫌ですね
856
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 15:36:40
それとも何でも命がけでないとダメですか?
857
:
慧空
:2015/06/14(日) 15:45:26
>安心しましたけど、慧空さんの気に触れたら覚悟しなければいけない?
スピや心霊系の方々は、人の念や悪霊等を恐がりすぎです。
念や悪霊などに、恐れるほどの力はありませんよ。
恐れるから、影響を受けているような気になってしまうし、その影響を自らがつくり出してしまうんです。
へっちゃらだと思えば、へっちゃらなんです。
私なんか、飛んでくる念があるのなら、来てみろといつも待っているし、
悪霊の類がいるのなら、ちょっと顔を見せてみろと思っているのですが、
一向に来やしません。(^o^)
858
:
慧空
:2015/06/14(日) 15:46:35
但し、私はサタンに対してもそうですが、神に対しても強い破壊衝動がありますので、
彼らがやってきたら、彼らに対し、何をするか分からないかもしれません。(^o^)
859
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 18:38:04
しかしジャイアン風な悟りですね
慧空さんも長男が成人するまでは生きると宣言しましたよ
私だって他の人だって、それぞれ理由があって殺されたらたまりません
死期を選べるとは考えませんが、リスクは避けなければ命が幾ついることだか(^^;
悟りの段階には、人同士がかかわると様々なリスクがあるので黙るという手段もあるわけでしょうけど
ところで、彼らって誰のことでしょうか?
差支えなければ
860
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 18:39:16
彼ら、わかりました
すみません
読みが浅くて
861
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 18:43:16
だから建前ばかりの世界で暮らしづらくなる
慧空さんも人の笑顔にであえるほど嬉しいですよね
862
:
慧空
:2015/06/14(日) 18:49:20
>しかしジャイアン風な悟りですね
はい、無敵ですから。(^o^)
私は喋りたいタイプなので、どうしても黙るのは苦手です。
たぶん、黙るタイプの方は悟りを説いたりしない人が多いのだろうと思いますよ。
>慧空さんも人の笑顔にであえるほど嬉しいですよね
それはそうですが、それでさえもどこか煩わしいのです。
困ったものです。
863
:
慧空
:2015/06/14(日) 18:50:41
ちなみに、無敵という意味は、殺されないという意味ではありませんよ。
殺されても、何があってもへっちゃらという意味です。(^o^)
864
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 21:20:13
返信速いですね。まあ、なんとなくわかりそうな感じはあります。
でも、それ楽しいですかぁ?
865
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 21:32:03
なるほど、それだけ充実してるってことですか
なら羨ましい環境ですね
本当にそうなら、理屈じゃ無理と思いますよ
経験者しか、わからないのでしょうね
私の許可がおりるのは現世では無理そうだな
身と口と心とバランスが悪すぎる
学ぶことばっかりです
(^^)
866
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 21:50:53
ちなみにですが自論での無敵になる条件は、まず良心の理解により従った動作が完璧にこなせること
次に生かされる理由を把握することで寛容であり、動じることがない
方法論としては、これしかないと考えてますけどね
867
:
慧空
:2015/06/14(日) 22:20:03
>なるほど、それだけ充実してるってことですか
>なら羨ましい環境ですね
決してうらやましがられるような環境でもコンディションでもないですよ。
それほど楽しくもないです。
お相手頂いててこんなことを言うのは心苦しいのですが、
私にとっていろんなことは時間つぶしのような感じになってきているところがあります。
つまり、お迎えがまだ来ないので、それまでのヒマ潰しという感じです。(^o^)
>私の許可がおりるのは現世では無理そうだな
>身と口と心とバランスが悪すぎる
だから、それも羊さんの妄想だって言ってるでしょ。
誰がそう考えているのですか?
羊さん自身は、どうしたいと思っているのですか?
自分はどうしたいのか、ここが最も本質的なところです。
後のことはどうでもいいんです。
本心にさえ従っていれば、決して悔いも無いし、後悔もありません。
868
:
慧空
:2015/06/14(日) 22:21:09
>ちなみにですが自論での無敵になる条件は、まず良心の理解により従った動作が完璧にこなせること
>次に生かされる理由を把握することで寛容であり、動じることがない
これも羊さんの妄想ですね。
そんなことより、羊さん自身がどうしたいのかを見つめてください。
869
:
孤独な羊
:2015/06/14(日) 22:23:02
そうですか、妄想ですかね?
また機会がありましたら、お相手してください
ありがとうございました
870
:
思路
:2015/06/15(月) 04:38:20
>何をどう訓練しろと仰るのか。(^o^)
>訓練とは、まだ何かをどうにかする必要があるという囚われが残っていますよ。
純粋意識の体験は論理的には表現できない。だからたとえば芸術家のような特別の
表現力が必要なの。山下清が切り絵で世界を表現したように、表現方法を持たなければ
単なる馬鹿でしかない。
愛は妄想だし共感は妄想だが、共感がなくてはコミニケーションは成り立たない。
なぜ妄想なくしてコミニケーションが成り立つと考えるの?
判断とは真実の選択だろ。真実がないのになぜ判断できる?
「あいつは小物だ。あいつは小悟だ。」こういうのは判断だろ。
こんな簡単なことが分からないほど論理的には破たんしてるんだよ。
「それは妄想だ。それは殻だから捨てろ」こういう言う乱暴な言葉でも悟りに導くことは
できる。悟りは単に破壊するだけだから、手荒なことをしても到達はできる。
そして「それ」を体験する。まばゆいばかりの神々しい世界。
でも「それ」を表現するのにまたもや「それは妄想だ。囚われてます」と到達した時と
同じような言葉を繰り返しても絶対に表現できない。
871
:
慧空
:2015/06/15(月) 05:56:41
>純粋意識の体験は論理的には表現できない。
思路さんは、純粋意識の体験をご存知なのですか?
仮にそれをご存知だとしても、その純粋意識とやらも、考えであり、妄想なのですけどね。
純粋意識の体験よりももっと先の行程があるんです。
>「あいつは小物だ。あいつは小悟だ。」こういうのは判断だろ。
もちろん、私の判断ですよ。
それがどうかしましたか?
>そして「それ」を体験する。まばゆいばかりの神々しい世界。
思路さんは、「それ」に囚われてしまっているようですね。
人それぞれですから、お好きなようにどうぞ。
872
:
名無しさん
:2015/06/15(月) 06:09:06
一切は考えであり、幻です。
一切のものは、あるような無いような微妙なものです。
しかし、何かを指して「ある」と思っている人にとっては、それは「ある」のです。
「ある」という考えを握り締めている訳です。
そういう人には、それを考えだと気づき、手放す行程があります。
この現実世界をあると思っている人は、現実世界が考えであるということに気づく行程があり、
「それ」や「純粋意識」をあると思っている人は、それが考えであるということに気づく行程があります。
そのように、自分が何かこれは絶対だと思っていることがあれば、必ずそれが考えだと気づく行程がある訳なんです。
873
:
慧空
:2015/06/15(月) 06:42:04
あれ、どうして名前が消えたのだろう。
上の名無しは、慧空です。
874
:
思路
:2015/06/15(月) 07:18:44
悟りが困難なのは断食と同じでリハビリの方。
断食で体を痛めつけて正しく回復すると以前よりも健康体になることがある。
断食は想像するほど難しくない。食を絶つことの恐怖さえ克服すれば食欲はなくなり全く
苦しくもなんともない。ところが回復過程で失敗する。猛烈な食欲に襲われて
食いすぎてしまう。
もともと若く美しい体を持ったもの達が、何を勘違いしたのか断食に取りつかれて体を
損なっていく。
875
:
思路
:2015/06/15(月) 07:29:44
頂点を極めたアスリートでも、そこでガッタッと壊れてしまう人もいるし、解説員など
チャンとした道へ進んでいく人もいる。
彼らも脳みそも体も削って頂点を目指す。だから終わった時には身も心もガタガタ。
そこから着地していく。
為末とか見ると非常にいい着地をしていると思う。
概ね登山は下山が難しい。失敗はエベレストのグリーンブーツのように道標となる。
麻原は下山の道標。
876
:
思路
:2015/06/15(月) 08:49:36
枝豆はある程度育ったところで上部をバッサリ切り取ると行き場を失った栄養は
大量の実をつける。
この刈取りこそ悟りの手法だ。
脳の切除という欠点は最大の利点になりうる。
なぜ脳を損傷してまで悟りを求めるのかというとそこに尽きる。
悟りは刈り取った状態に過ぎない。実がなるにはしばしの時間がかかる。
877
:
慧空
:2015/06/15(月) 09:32:54
同じようなやり取りの繰り返しですが、
私はこれしか能がないのでやりますね。
>チャンとした道へ進んでいく人もいる
>実がなるにはしばしの時間がかかる
チャンとしてるか、してないか。
実がなったか、なってないか。
どちらも二元の囚われです。
誰がそう判断しているのですか?
どういう基準でそう判断し、区別しているのですか?
その基準や判断にどのような根拠があるのでしょうか?
878
:
慧空
:2015/06/15(月) 09:34:12
思路さんも、こんなところで私の相手なんかしてないで、
ご自分にとって何が一番大切なのかを見つめてください。
そして、その大切なことに取り組んでください。
879
:
慧空
:2015/06/15(月) 09:38:42
思路さん、ひょっとすると、ご自分には実がなっていないとご自分を責めてさげすんだりしておられませんか?
自分では気が付かないうちに、自分をさげすんでる可能性があります。
二元の囚われを持っている方は、必ずと言っていいほど、
自分と他者を比較し、優越感を持ったり、劣等感を持ったりしています。
自分をさげすんでないか、確認してみてください。
自分を認めて受け入れて頂きたいと思います。
880
:
孤独な羊
:2015/06/15(月) 12:06:59
おはようございま〜す(*^_^*)
思路さん、私は、あなた様の話がよくわかります。たぶん。
大悟といいますか最終的な解脱は、山頂(涅槃<小悟>)まで登り、再び人里へ戻った場所で得られる境地にある。
涅槃で培った囚われのない自意識を集団意識の中で生かせるとき、漸く大悟(最終的な解脱)を得たといえる。
それが出来なければ、再び涅槃へ行って、また戻る。繰り返しです。
集団意識の規律に頑なに従わない姿勢なら、仙人のような山籠もり(現代だと引篭もり)して生きるようなのが障りがないかもし
れませんね。
881
:
慧空
:2015/06/15(月) 12:48:12
>おはようございま〜す(*^_^*)
なんかしらじらしいなぁ〜
ウソくさいな〜
882
:
孤独な羊
:2015/06/15(月) 16:29:40
慧空さん、別の切り口で苦との対峙方法から展開していきますと、結局のところ苦の解消方法としては単純な話で二種類しかないわけです、
一つが苦を苦としない方法、もう一方は苦を生じさせない方法です
苦を生みだすか生みださないかの違いですね
道理として適うのが後者しかない見解が私にはあるのですよ
883
:
孤独な羊
:2015/06/15(月) 16:31:43
もう少し噛み砕くと、罪悪感からは逃れきれないという見解です
884
:
慧空
:2015/06/15(月) 16:59:55
>苦の解消方法
ですから、苦を解消しようとするから迷いが続くのですってば。
苦はあたり前のようにいつも普通にあるでしょ、ということを私は繰り返し言っているんです。
885
:
慧空
:2015/06/15(月) 17:10:00
>罪悪感からは逃れきれない
罪悪感は、善悪の囚われにより誘発されるものですから、
これについては、その囚われを手放すと無くなりますよ。
現に、私がそうです。
886
:
孤独な羊
:2015/06/15(月) 18:31:07
う〜んとですね、自説は以下みたいな感じです。
人を成長させるのが苦であるので、一切皆苦。そして苦は精神的な意味で罪悪感と言える。
罪悪感(良心の働き)を憶えなければ反省(改心)出来ないので、ついつい知らぬ間に業は膨らんでいくのです。
そこに俗に言われ悪い業に対しては苦として還る業の法則が活かされてるのでしょう。
業の法則は、人生の道理に適うので信頼できます。
業の法則により応じた苦が、罪悪感(反省の動機)が得られるまで還ってくる理屈です。
で良心は個別に段階的にあるので、常識的な枠とか比較してるようでは浅はかということになりますね。
信じるか信じないかはアナタ次第。
887
:
慧空
:2015/06/15(月) 18:36:05
ダメだこりゃ(^o^)
話しにならん。
888
:
慧空
:2015/06/15(月) 19:36:25
羊さんは、頭でいろいろ考えすぎなんです。
頭で理解しようとしても無理なんです。
考えれば考えるほど、意識が外向きになり、外側を彷徨います。
そうやって延々と思考をめぐらせるのではなく、
一度立ち止まって、その思考をめぐらせている自分自身に意識を向けて頂きたいと思います。
889
:
孤独な羊
:2015/06/15(月) 20:38:37
いやいや頭で理解するように業が働いたからです
私は、しぶといほうでしたよ
思考なんて無縁だったんです
対極的な歩みの中で、このようになってるだけです
いいですよ、別に
わかってもらえなくて、そういうものですから
890
:
思路
:2015/06/15(月) 21:34:26
生身の人間である以上は罪悪感からは逃れられない。
たとえば、あなたの頭を叩いたら痛いでしょ。そうすると罪悪感が発生する。何故かというと
ミラーニューロンが働いて、他人の頭をたたくと同じように痛いだろうと反応する。これが
罪悪感になる。
手に電極を付けて残酷な映像を見せてその反応をみるというような心理学的実験をやって
みればすぐわかる。
891
:
思路
:2015/06/15(月) 21:40:51
瞑想の実践を積んだ高僧での実験もあるから、「絶対に俺は大丈夫」と思うのは
錯覚。
俺は悟りを開いたので錯覚しないと思うのは錯覚。
実験シートでテストすれば普通にバリバリに錯覚するとおもうよ。人間だもの。
892
:
慧空
:2015/06/15(月) 21:50:27
>瞑想の実践を積んだ高僧
だから、そういうのが一番怪しいと言ってるでしょに。
どこの高僧だか知りませんが、その坊さんはおそらく大悟(見るものは見られるもの)にも到達してないでしょう。
893
:
孤独な羊
:2015/06/16(火) 14:10:57
「苦しみを楽しみへ変えられる」
そういう悟りへ到達できてなければ、大悟とは言えないはずです
集大成の大悟だというのであれば、人生は充実して輝かしいものでなければ本物ではないでしょう
なので慧空さんも大悟とか最終解脱のような境地にはないと思うんです
きっと信じられませんよね?
894
:
孤独な羊
:2015/06/16(火) 14:23:51
題材は揃ってる
けど甘んじて到達できない
慧空さん、どのくらい苦しんで悲しんできました
これ結構、重要じゃないですか
どん底に行くのは嫌なものですが、地獄の底から湧く意識は悟りには大切です
ただ地獄に呑まれたら悟りどころか悪魔になってしまう
そういう危うさについて、ないかお考えありますか?
895
:
孤独な羊
:2015/06/16(火) 16:48:02
魂と心が統一されなければ、体もついていかない
充実感なんか得られるわけないのですよ
あなたの人生が充実して輝かしいものであれば、私は地に頭を擦りつけても教えを授かります
896
:
慧空
:2015/06/16(火) 18:33:21
>集大成の大悟だというのであれば、人生は充実して輝かしいものでなければ本物ではないでしょう
そういうのが思い込みであり、囚われだと私は言っているですよ。
さすがに同じやり取りの繰り返しばかり、嫌になってきました。
897
:
孤独な羊
:2015/06/16(火) 21:43:42
慧空さん、やっぱりそうなりますよねぇ〜
感謝してます
898
:
思路
:2015/06/17(水) 05:01:03
>さすがに同じやり取りの繰り返しばかり、嫌になってきました。
「それは囚われだ」「それは小悟だ。まだ先がある」を封印したらやり取りは
変わると思うよ。凡人にとっては大悟とかあんまり関係ないんだよな。
最初だけは
「ホッーーー。大悟ですか。凄いですね」
「ホッーーー。肝臓を全部切っちゃったんですか? 凄いですね。!!!」
って思うよ。でもそれは最初だけだろ。同じことを繰り返していたら「ふーん」
としか言いようがなくなる。
要は大悟を興味深く語れるかどうかだよ。別にそれが小悟でも歯痛でもいいんじゃない?
じゃあさー。ゾーンってどうよ。ゾーンとかフローを体験したことある?
大悟するとゾーンだらけというかいつもゾーン状態? てことはないよな。
899
:
思路
:2015/06/17(水) 05:38:12
>私のクラウンチャクラも、今日はねじれるような感じで激しく反応しています。
気が感じれると、気のコントロールができる。
猫とかネズミを気合で落とすのはかなり難しいらしいが、鶏はわりと簡単にできる
らしい。中村天風は鶏を気合で静めて、メガネをかける芸をよくやっていたらしい。
900
:
慧空
:2015/06/17(水) 06:18:00
だから言ってるじゃないですか。
悟りの道を進むということは、囚われに気づいてそれを手放していくことだって。
最後まで、それだけなんです。
だからそれしかいいようがないのです。
大悟も解脱も、そんなに魅力的なものではなく、いいものでもありません。
わざわざそれを目指すようなものでもないです。
しかしいずれ、どうしようもなく強い衝動が起こってくる。
その衝動が大悟や解脱に連れていってくれます。
衝動は舟です。
舟無しには、どうにもならないところです。
気をコントロールしたい人はやったらいいですが、
いくらやっても切りがないです。
猫を落として何になるというのでしょう。
そういうことです。
901
:
思路
:2015/06/17(水) 07:33:44
それじゃあ、同じことの繰り返しで嫌になるのも仕方ない。
902
:
思路
:2015/06/17(水) 07:36:13
>猫を落として何になるというのでしょう。
それが面白いのなんのって。W
兎に角一度やってみてください。体験しないとわからない。
903
:
思路
:2015/06/17(水) 07:38:26
特殊な気のコントロールだろうけど野生のライオンとかワニを瞬時に手なずける
ような人もいる。
動物園に行ってゴリラに手話の指導をしてみるとかどう? そういう芸ができると
直ぐに人気者になる。
なにか得意な部分はあるとおもうけど、やはり練習しないとだめだな。
ヤラセで空中浮遊をして見せたり、マジックで手から粉だしたりするよりは遥かにまし。
904
:
思路
:2015/06/17(水) 07:43:56
俺は俳優だからわかるけど、あいつら大悟とか言ってるけどサクラ使って
ヤラセをやってるだけ。W
バイトだから細部は言えないが、飛んで見せたり、苦しんで見せたり。W
そんなんで客寄せしてもそのうちボロがでる。
暗示にかかりやすい人って絶対にいるから、あとはそういう人を使って広める。
俳優にバイト料はらうより安上がりだからね。
905
:
名無しさん
:2015/06/17(水) 19:58:20
一なるもの、という考え方はべつに独創的じゃないわ。
でも、それなら自分は何と一つなのか、と問いかける人はあまりいない。
問いかけた人も、大部分は神という答えを出すのだけれど、
そこで「この宇宙は聖なるものによっていまあるかたちで創られた」
と想定してしまう。
この想定は間違っているし、そう考えてしまうと、
ブッダのように心を完成させた賢者でさえ、
恒久的な意味で神に到達できなくなります。
そう、二元性の波動をつくり出す心とは一つになれるでしょう。
その心はすべての次元を超越した無という場にあっては、
完全に時空とかたちのシステムの外にある。
これが非二元性の論理的で妥当な帰結なのだけれど、
それでもまだ神ではない。
それどころか行き止まりの袋小路よ。
あるいは始まりの終わりと言うほうがあたっているかな。
仏教は世界で最も心理学的に洗練された宗教だけれど、
それゆえに神という問題を扱えない。
だから、あなたがたがブッダと呼ぶ身体のなかにブッダがあったとき、
彼は神の問題を取り上げなかった。
わたしたちが非二元論と純粋な非二元論を区別する理由もそこにあるの。
ブッダが「わたしは悟った」と言ったのは、
自分は幻影に参加しているのではなく、
自分がすべての幻影をつくり出していると気づいた、
という意味だったのよ。
でも、そこからもう一歩進んで、すべての幻影をつくり出している心が
それ自身と完全に対立して神の側につかなければ。
もちろんブッダは優れた段階に到達した人だからそこに気づいて、
すぐにJ(イエス・キリスト)と同じ悟りに進んだわ。
でも、それは世界に知られていない生涯での出来事。
『神の使者』(ゲイリー・R・レナード 河出書房新社)より
906
:
慧空
:2015/06/17(水) 21:48:45
どうも疲れてて、思路さんと名無しさんのコメントにレスを書く元気がありません。
907
:
思路
:2015/06/18(木) 02:22:28
おつかれさん。
エネルギーを感じて、地震が起こりそうなときは騒いでください。高台へ避難します。
908
:
思路
:2015/06/18(木) 02:58:07
>905
ハイレベルな考察だというのは解るが意味は今一つ解らん。
>そこで「この宇宙は聖なるものによっていまあるかたちで創られた」と想定する
これがなぜ間違いなのかその理由がいまいち理解できん。
「神ではない一なるもの」=非二元論
「神」 =純粋な非二元論
で更にその先へいくと
>それ自身と完全に対立して神の側につかなければ。
純粋な非2元論は2元論に行きつくのか?
「神」 =純粋な非二元論 --->「神、自分」
909
:
孤独な羊
:2015/06/18(木) 16:00:55
二元論で一般的な見解をすると生が物質的に恵まれているため、死には物質的な恵みがない
地球が観測されることにより生じる不自由であるなら、死後には観測されないままに生じる自由がある
善悪がない無だという人達は、こういう世界に行くかもしれない
そして無も天国も地獄も、きっとありますよ
実体二元論は正しく、一元論も正しい
でも一元論に生きる見解なんて、すべての消滅のような話だろうし程遠過ぎるのじゃないですかね
910
:
思路
:2015/06/18(木) 18:00:36
3回読んだら概ね意味が分かった。
>そして無も天国も地獄も、きっとありますよ
>実体二元論は正しく、一元論も正しい
まさにそうなんだよな。無難で正しい結論。
でもそういう事を考えている今、緊迫感というか切実感のようなものがあるのだろうか?
無い。全然ない。極論すると単なる言葉遊びになる。ところが死(涅槃)は確実にやってくる。
思考の軽さ、軽薄さと現実的な死の重みがバランスしない。死が重いということすら
実感がない。だから思考は正しいが軽いのだと思う。ピッチャーでいうと澤村みたいに
「速いのに玉が軽い」みたいな感じだな。
上村直巳はなぜ危険を冒して山に登るのかと聴かれて、死と隣り合わせた時に生きている
ことを実感するというような意味のことを言っていた。 日本は安全で平和だから言葉の
世界だけになっている。やはり言葉の世界だけではリアリティが生まれない。
大悟しても大悟遊びの大悟。迫真の大悟じゃない。安全で平凡な大悟なんだよな。実際には
もっとリアリティがあるはずなんだよな。
911
:
名無しさん
:2015/06/18(木) 18:20:40
完全に対立して…という日本語訳に問題があるのかもしれませんが、
ACIMは「今我々が認識していると思っている世界は本当は存在していない」という立場なので、
心が世界という幻影を想像した、というその心そのものも幻影なんだという…。
なので『神の使者』の上記抜粋部分でのパーサという登場人物の女性の言葉、
「行き止まりの袋小路」というのが自覚系の人たちの陥ってる状況を表してるんじゃないかなと。
この世界は幻想でそれはわたしが創り出している、そこで終わってしまえば、
確かに一切皆苦でしかなくなるでしょうね。
でもそれはあくまで卵の殻の内側での話でしかないかもしれない。
卵の殻は卵それ自体によってどうやったら割ることができますか?
有精卵なら、雛が孵って内側からくちばしで突くことで殻は割れますが、
我々が閉じ込められている、この牢獄世界の殻、牢獄の鉄格子はそういうわけにはいきません。
どれだけ自覚を繰り返して概念から離れてみても、それは所詮牢獄の鉄格子の内側のお話ではないですか?
普通の人は自分が牢獄の中の囚人だとは思っていません。
牢獄の中であるにも関わらず、努力と運次第では自分の夢を実現し人生を謳歌できると思い込んでいる。
しかし、ここが牢獄に過ぎないことを「悟った」人にとってはまさに一切皆苦でしょう。
もしも「悟った後も」牢獄の中で人生を送るつもりなら。
まあ、私は悟ってるどころかただの出来損ないのでくの坊ですから何も偉そうなことは言えませんが。
912
:
孤独な羊
:2015/06/18(木) 18:21:20
孤独を悟った沈黙の世界で出会うとき、互いを理解し合える
至福に包まれる
まさに真に望むところは、そこなんだという気がします
913
:
思路
:2015/06/18(木) 19:16:17
>912
実際にはそうはならない。駄弁をろうして、喧嘩して、笑って、、、、そうして理解が
生まれる。駄弁は沈黙の構成要素。
猫は家の中では餌を与える人を理解しているが、いったん外に出ると、それが誰なのか
さっぱりわからないらしい。近づくと怖がって逃げていく。
猫の世界は家(住処)とリンクしている。一旦住居を離れるとリセットされるようだ。
人の脳はもっと広い住処を住処としている。しかしここを離れるとリセットされる。
人の存在とは住処のことであり、駄弁とけんかと笑いの喧騒がその構成要素なのだ。
だから天国に行ってもそこからやり直し。という気がする。W
914
:
慧空
:2015/06/18(木) 19:40:38
>>911
あれ、ACIMの人。
あなた、ここはやっぱりダメだと言って去っていかれたんじゃないのですか?^^
それとも、ACIMの人は複数来られてるのかな?^^
ともあれ、ACIMの人とは本質的なギャップがありますので、いくらこられてもあなたがたには得られるものはないですよ。
また、あなたがたがここで何を仰ろうと、私がそれに影響を受けることもありませんし。
どうでやり取りが噛み合わないのなら、何か別の世間ばなしでもやりますか?
ところで、ACIMって、何かそういう組織があるのですか?
だとしたら、メンバーはどのくらいの数なんですか?
また、そこで悟っていると言われている人はどのくらいの数いるのですか?
915
:
思路
:2015/06/18(木) 19:45:13
>しかし、ここが牢獄に過ぎないことを「悟った」人にとってはまさに一切皆苦でしょう。
>もしも「悟った後も」牢獄の中で人生を送るつもりなら。
リアルに牢獄に入ると、食事の時間とか僅かの運動の時間とかが本当に待ち遠しい。しかしそれでも
そこに慣れてしまう。
刑期を終えてシャバに出た時は、それはそれは筆舌に尽くしがたいほどの解放感を味わう。
「これで何でもできる。自由を得たのだ」と。しかしそれも一週間もすると慣れてしまう。
この世の牢獄から解放されたとしても、すぐに慣れる。
どこまで行ってもリセットされる。
悟ってもリセット。
916
:
名無しさん
:2015/06/18(木) 20:30:45
>>914
もしご不快かつご迷惑なようでしたら以降の書き込みはやめてもいいのですが、
あなたは誰がどんなことを書き込んでも構わないとお書きになっていませんでしたか?
私の勘違いでしたかね?
ACIMというのは書名の略で、あなたの出身母体であるキャンドルライト101のような疑似宗教組織ではありませんよ。
ACIMは完全な独習用プログラムであり、組織化し得ないのです。
そして別に私はACIMの実践者というわけでもありません。
思い当たる節があったので、あの本のあの箇所をここに転載したのみです。
私自身は、あなたはあの本に書かれている、袋小路にはまり込んでいる状態だと思います。
しかし別にあなたに何か影響を与えたいなどという大それたことは考えていませんし、
私がそんなことをする必要性などまったくありません。
一言で悟りだとか覚醒だとか言っても(特にそれが自己申告のものであればあるほど)、
実にいびつなサンプルがネツト上にはたくさん転がっているのだな、
というのが今の私の正直な気持ちです。
しかし、もしあなたが本当に悟りの本当の最終地点にいるのなら、
仏陀もキリストもシャンカラもラマナ・マハルシも、
すべてあなたは超えてしまった人類の歴史始まって以来の大覚醒者なのでしょうね。
素晴らしいことだと思います。
917
:
孤独な羊
:2015/06/18(木) 20:51:14
囚われを失くした悟りの先に、たぶん沈黙によって示される道はありますよ
それを理解したら沈黙するでしょうけどw
恐らく0=+1-1という図式程度までしか多くは語られません
0から1を生じさせる理解などできないからなのでしょう
名無しさん>もしも「悟った後も」牢獄の中で人生を送るつもりなら。
思路さん> 悟ってもリセット。
ともに、言い回しが違っても同じ意味ですね。
918
:
慧空
:2015/06/18(木) 22:34:12
>>916
お返事ありがとうございます。
そうです、この掲示板は何を書いて頂いても大丈夫です。
それはそうなんです。
ACIMについて説明頂き、ありがとうございました。
なるほど、何か組織があるという訳ではないんですね。
>私自身は、あなたはあの本に書かれている、袋小路にはまり込んでいる状態だと思います。
そう思われる方は多いだろうと思いますし、無理もないとも思っています。
それに、そうではないんだと口で説明しても、なかなか分かってもられるとも思えませんし。
悟りに関する立場の異なるもの同士の対話は、基本的に困難なものなのだろうと思っています。
>一言で悟りだとか覚醒だとか言っても(特にそれが自己申告のものであればあるほど)、
>実にいびつなサンプルがネツト上にはたくさん転がっているのだな、
この点についても、多くの方にはそう見えるのだろうと思います。
しかし、実はそうでもなくて、悟りには階梯がありますので、その階梯の段階ごとに、
その各段階にいる人の話す内容は、共通性があり、簡単に類型化(判別)もできるんです。
と言っても、これが分かるようになるには、最後まで到達するしかないのですが。
>仏陀もキリストもシャンカラもラマナ・マハルシも
イエスさんは、いろいろ影響が出るとやっかいなので、具体的な言及は控えたいと思いますが、
お釈迦さんは、最終的な悟りに至った方なのかもしれないと思っています。
919
:
孤独な羊
:2015/06/19(金) 17:37:12
悟りを無の意識におく人は、ありのままの自分の姿を現世に映し出すことができる
幾ら善悪に囚われない自由な身になったといっても、取る行動には善や悪の要素があって感情は消滅しないでしょう
もし感情もないというなら、喜怒哀楽も痛みも感じないことになり、そんなバナナことはありえないのです
先へ行くには、ありのままの自分が、善なのか悪なのか見極める必要があると思うのだけども
いってること変ですかな?
※掲示板のヘンな使い方をしてますwご免なさい。ありがとう。
920
:
孤独な羊
:2015/06/19(金) 17:47:52
善も悪も秩序もない
でも釈尊は中道を説き
戒律を制定した
悟りを無とする人が
どうして悟りへ導くのであろうか
どうして態々、自由に好き勝手な無秩序の中に生きることを伝えるのか
そして、それでも生きている原動力は何なのか
なにもわかってないか
ぜんぶわかっているのか
摩訶不思議におもう
921
:
佐藤
:2015/06/19(金) 18:41:16
多分、そういう事どうでも良くなると思いますよ。
考え続けても良いですけど。。
922
:
慧空
:2015/06/19(金) 18:42:10
>いってること変ですかな?
いえ、変でないですよ。
それにもし変でも、別にいいじゃないですか。
思ったことを何でも書いてくださいな。
>でも釈尊は中道を説き
>戒律を制定した
釈迦は対機説法を基本としたようですので、相手によって話す内容をかなり変えていたようです。
釈迦が本当に中道を説いたかどうかは、私は怪しい部分もあると思っていますが、
もし説いたとしたら、それは最終的な悟りへのアプローチとしではなく、悟りの行程の中間段階かその付近に
いる人に向けた説法だったのだろうと思っています。
戒律は、何かの縛りがないと修行すらもおぼつかない人のために設けられたものだろうと思います。
>なにもわかってないか
>ぜんぶわかっているのか
>摩訶不思議におもう
これについては、何も分かっていないという方が近いのだろうと思いますよ。
私は釈迦ではないので、よくは分かりませんが。
923
:
慧空
:2015/06/19(金) 18:43:09
ああ、佐藤さん、こんちは。(^^)/
924
:
佐藤
:2015/06/19(金) 18:55:39
でも 真剣に考える事は、素晴らしいというか 羨ましくもあります。
925
:
佐藤
:2015/06/19(金) 18:57:34
こんばんわ 初の第2スレになりそうですね^_^
みなさま、どこいっちゃったかな。。
926
:
慧空
:2015/06/19(金) 19:03:07
そうですね、950を超えて来たタイミングで第2スレを立てようと思っています。
927
:
孤独な羊
:2015/06/19(金) 20:04:43
確かに釈尊の教えは、宗派を越えて散りばめられてるように感じています
で、その説法は見事に繋がるようですね
本当に知ったかぶりで恐縮なんですが、空とか無を結びにしてしまうと起承転結が失われてしまいます
個人的には920で書いた答えも、きちんと釈尊の教えの中には散りばめられてると信じています
経験しないとわからない愚者なので、要所要所しか知らず詳しくは触れられませんけどね・・
928
:
名無しさん
:2015/06/20(土) 13:20:05
ホンモノの白は多少くすんで見える
真っ白には別の色素が紛れ込んでいる
929
:
名無しさん
:2015/06/20(土) 13:22:59
私は悟った、なんてことがあるのですか?
悟りを体験した私が残ってるじゃん
930
:
めがね
:2015/06/20(土) 15:24:26
悟ったとは、思考と感情は幻だと気付く事で
私が無くなることではないですよ。
思考と感情に翻弄させている方々と比べれば悟ったとゆう
違いはあります。
931
:
めがね
:2015/06/20(土) 15:29:28
しかし、思考と感情に翻弄されているのに
されていないと思っているのも普通の方々なので
悟りの話は届かないことが多いでしょうね。
932
:
思路
:2015/06/20(土) 18:38:56
文章を書いているときは翻弄されなくても、実際の会話では翻弄されるでしょ。
思考のスピードや展開の仕方が違うのでそれに付いていけない。訓練すると
ちょとやそっとでは翻弄されなくなるけども、それでもよりパワーの強い音に晒され
ればそれに引きずられる。腕を取られてブンブン振り回されたら、なすがままになる。
それと同じで、思考も感情も物理現象だからよりパワーの強いものに出会えば
翻弄される。
リズムを感じて歌を歌っているときに紛らわしいテンポの歌が聞こえて来たら
それにつられて歌えなくなる。思考もそれと同じで、紛らわしい思考で混乱させられる
と簡単に翻弄される。それが洗脳の手口。
どんなに訓練を積んだ人(たとえば悟った人)でも、脳内の一部に
ピンポイントで磁場を与えて思考を混乱させれば、簡単に混乱する。
それは単純に目隠ししたら見えないのと同じです。悟りにはなにも特殊なことはない。
普通の知覚と同じです。
933
:
思路
:2015/06/20(土) 18:54:21
相対する思考や感情に翻弄されないためには、よりすばやく思考するか、より鈍感になる
かのどちらかです。
ある意味徹底的に鈍感になるのが悟り。そもそもそういう思考回路を潰してしまえば
翻弄する要因に反応しなくなる。
悟り(破壊)によって知恵が生まれてくるのは、余剰が生まれてくるからです。
本来は翻弄に備えていた控えの脳が余ってくる。そこで思考力に余力が生まれる。
だから元々知的レベルが低くて脳を十分に使い切っていない人が悟っても、知恵は
生まれてこない。控えの脳が余って余裕ができても、そこはもともと使っていない
から知恵にはならない。
934
:
めがね
:2015/06/20(土) 19:07:59
思路さん
面白いですね♪
おっしゃりたいことは良くわかります。
私の場合は車の運転の時などイライラの感情が出ることが多く
色んなパターンで出てきてましたし、自覚して外していくのですが
深くまで取れていないと感情には捕らわれない(と思っていた)のですが
体が避けたくないとゆう反応をしていたり(攻撃したい)
と今は車でイライラすることはほぼないですが、悟りの段階を超えると
大きく感覚が変化して行きます。
また、例えば私が相手を怒らせると2〜3秒ほど重たい負のエネルギーの様なものを
感じますよ、この事は思路さんがおっしゃるように混乱と言ってもいいと思います。
935
:
めがね
:2015/06/20(土) 19:17:35
思考と感情が流れてくるのですが
以前は自分で考えていることで私自身だと思っちゃっていました
なので翻弄されてしまうのですが
思考と感情は幻だと気付きだし、自覚を続けるとどんどん思考や感情が流れてこなくなりますよ
936
:
めがね
:2015/06/20(土) 19:27:41
なので、スピードは関係が無くなります。
937
:
思路
:2015/06/20(土) 20:16:45
たぶんそういう方法で一つづつ外していけば、ある時点で雪崩的に外れる。
そういう臨界ポイントのようなところが段階を踏んで何か所かあるんでしょう。
それが小悟だとか大悟だとか言われている。
イライラだとかは自然界で生き残るためには戦闘態勢に入るための必要な機能な
わけだが、近代化した社会で暮らす場合には無くしてもそれほど問題ない。
>なので、スピードは関係が無くなります。
思考と感情は幻ではなくて、思考と感情です。幻という比喩は感情コントロール
目的の場合には適切だけれど万能ではない。
感情コントロールに成功すると無駄な思考や感情は生まれなくなる。しかし
思考や感情は無駄なものばかりじゃない。
判断が高速化すると、即座に解るということが起こるけれども、判断内容が
複雑化してくればやはりスピードが関係してくる。
100個の条件を判断して決定するには時間がかかるのが容易に解ります。
938
:
思路
:2015/06/20(土) 20:23:45
修行をつめば無用な感情や思考には翻弄されなくなる。しかしまさに有用な
無視できない思考には簡単に翻弄される。
939
:
思路
:2015/06/20(土) 20:36:05
>悟りを体験した私が残ってるじゃん
悟りは「万能な何か」、「究極の何か」ではなくて、「苦悩の解決」これが一つの目標?
しかし苦悩を本当に知ってる人がどれだけいるのだろう。苦悩に出会うためによほど
努力した人か、運命的に苦悩に出会った人だけだろう。凡人は本当の苦悩なんてしらない。
そんなものを知る必要もないではないか?
「苦悩を完全に解決した。決着した」というような人はそもそも苦悩に出会っていない
のではないだろうか?
ちょっとした腹痛ていどで、ありふれた苦痛に過ぎない。そんなものは簡単に解決できる。
それを悟りと勘違いしている可能性が高い。W
940
:
めがね
:2015/06/20(土) 21:09:45
>>感情コントロールに成功すると無駄な思考や感情は生まれなくなる。しかし
思考や感情は無駄なものばかりじゃない。
たしかに無駄なものばかりではないですよね
それを選択できます。
感情もなくならないものがあります。ここは何処から何処と上手にいえませんが
とらわれる時間は短くなりますよ。
941
:
孤独な羊
:2015/06/21(日) 00:26:50
翻弄から逃れるため、あるいは話なんか通じない縁を通じて・・
悟りが近づいているなら、黙々と静かな道を歩みだす
騒々しい人達が仏陀のように悟ってるなんて到底信じ難いことでありまして
更に、批判や中傷誹謗に喰いついてくるものなら、そんなの疑う余地なく悟ってるわけがない
人間は、悟りたくて悟りたくないw
現代人が悟るには、可也の地獄の火が不可欠なほど難しくなっているからでしょう
悟りには、それほどの厳しい何かがある
現代人が認めたくないだけ
942
:
孤独な羊
:2015/06/21(日) 00:28:16
見事な道理で疑問なんかないのが悟りだという気がします
悟りがシンプルで論理的に語られないのは、語る必要がない理由によるもの
ただ、それだけが語られない理由でしょう
943
:
思路
:2015/06/21(日) 06:45:45
我々は身体に宿っており、身体に束縛されている。身体には自然的身体と
社会的身体がある。自然的身体の苦痛の解決は医学による。痛みを治癒し他に方法が
なければ切除する。最終的には死によって解決する。
社会的身体の苦痛を解決する試みが悟りだ。苦悩を見つめ理解することで取り除く、他に
方法がなければ隠遁する。社会的身体は不可視であり不死、不壊である。したがって
苦悩の最終的解決方法はない。
自然的身体にあっては快感が一つの機能であるように苦痛は必然的機能だ。
同様に社会的身体にあって苦悩は祝祭が一つの機能であるように必然的機能なのだ。
944
:
めがね
:2015/06/21(日) 10:17:47
私は初めから悟りたかったわけではなかったんです。
ただなんで生きてるんだろうと病んでいた時期がありまして
幸せて何だろうと考え続け、おっ!非日常なことをすると幸せの感情が来るぞと気付き
それを色々やってみました。そしてその非日常を普通の日常にしてみると
あれだけ幸せを感じた事なのにどんどん幸せを感じなくなってもうやりたくなくなってしまいました。
私はこんな幸せを追っていたんだとハッと気づいたんです。
その頃自転車通勤をしていてすれ違う人たちが避けようとしないことに
イライラする日々を過ごしていました3年ほど前だとおもいます。
ほぼ毎日ライラして仕事場につき、掃除をしながらも感情に捕らわれたまま
イライラしていました。そんな日が何日か続きつづきそのうちに自転車に乗った他の人を
攻撃する気持ちよりもこんなにくだらないことでイライラして仕事に支障がでたりで
バカらしいと視点が変わったんです。その次の日から何故か他の自転車を前もって避けている自分に気付いたんです。
それも感情に捕らわれず、負けた(笑)とも思わづです。
私は何をしたんだろうとどうして感情に捕らわれなくなったのか
解らなかったんです。だけれども感情は自分じゃないと気付いた時でした。
生きることに飽きてきた私にワクワクする人間の感情の仕組みに少し気付いた瞬間でした
結果として悟りになっていくのですが
人生を楽しむ方法はいろいろあると思いますので悟りがすごいと言っているわけではなくて
普通のことにワクワクできなくなって捕らわれの感情を外すのが苦しいのに
ワクワクして楽しくてやめられなくなったのが始まりです。
いわば趣味になったと言えると思います。
945
:
めがね
:2015/06/21(日) 10:42:00
全ての人とは言いませんが
結果的に楽しむことに飽きて幸せを感じることが少なくなっていくと
沢山ある苦しいことだけが残って苦しみあがき
悟りとゆう方向へ進むんだとおもいます。
946
:
めがね
:2015/06/21(日) 11:06:57
同じ事で腹が立ったり、モヤモヤしたり、同じ事を考え続けたり
やめたくても辞めれなかったり、これらの苦しいと感じる事に
翻弄されてしまうのが嫌で外してしていった「結果」、
感情に捕らわれなくなったり、その時間が短くなったりとなっただけなので
苦しいが1番の目的で結果が感情の2番なんです。
2番を求めているわけではないとゆうと伝わるでしょうか?!
947
:
思路
:2015/06/21(日) 14:59:28
そうだと思いますよ。悟りの抽象的な側面はそんなに関心を引く問題じゃなくて、むしろ
普段生きていくうえで生かせる悟りの方がいい。「外す」ということであれば、それが外れた
時の感動の方が面白い。そういう事をやってるうちにある時とてつもない境地に入ったり
する。それがまた面白い。
卑近の出来事を丁寧に見つめなおすということはブッダの教えにも近いと思う。
ブッダやその周辺で起こった奇跡、つまり他を寄せ付けない圧倒的美しさは、気の遠くなる
ような高みではあるけれども、それが一歩一歩の歩みで我々にも可能だということを教えた
に過ぎない。
それは決して万能の神になることではない。
最終解脱者だとかいったところで何の芸も根拠もしめせなければ面白くもなんともない。
948
:
梵々
:2015/06/21(日) 15:25:04
>最終解脱者だとかいったところで何の芸も根拠もしめせなければ面白くもなんともない。
意識レベルが違うのだよ。
地べたでグダグダ人のことを言う人と はるか高い位置で見下ろしている人では。
あなたの放った矢は 決して慧空さんにダーメージを与えられませぬ。
その矢はやがて地べたに落ちてくる。かすりもせずに
949
:
めがね
:2015/06/21(日) 16:26:49
思路さん
>>悟りの抽象的な側面はそんなに関心を引く問題じゃなくて、むしろ
普段生きていくうえで生かせる悟りの方がいい。「外す」ということであれば、それが外れた
時の感動の方が面白い。そういう事をやってるうちにある時とてつもない境地に入ったり
する。それがまた面白い。
そうなんです、そんな仕組みを楽しんでるんです。
伝わったようで良かった(^^)昨日今日とお付き合いいただきありがとうございました!
950
:
思路
:2015/06/21(日) 22:08:18
少しづつ外していくことで悟りに近づくように、少しづつ加えていくことで人格が形成
されます。しかし誤まった教育、特にそれが人生の初期段階から行われた場合は致命的
な精神的奇形を生み出します。「反日」という教育は有機水銀のように作用して単に反日
を刷り込むだけに留まらない精神的奇形を生み出しています。それが最も顕著に表れるのが
宗教界ではないでしょうか?
通常は犯罪者は顔を見れば解ります。その国をリードするような知識人も顔を見れば
解ります。しかしかの国ではその直感が働かない。優秀な大学を卒業した温厚そうな知識人
でありながら、統一教会をはじめとする中小様々な愚劣なカルト集団を形成しています。
951
:
孤独な羊
:2015/06/22(月) 06:02:36
なるほどです
何処にいて、何をしていても楽しむ智恵がある
それが悟りであるということでしょう
めがねさんと思路さんは、悟りの次のステップに進まれてるような感じですね
私の場合、命の危うい状況がある
真に悟ってしまえば、どうにかなることは理解できます
それでも、これを手放すところから入るというのは、手順的には中々厄介なことですよ
952
:
思路
:2015/06/22(月) 13:30:27
天才脳は大抵は自閉症の傾向があります。悟りは人為的に天才脳を作り出す方法です。
そのことによって発現する天才に目を向けると同時に欠落にも目を向ける方がいい。
いいことばかりじゃないということです。
逆も真であって命の危うさは必ずしも悪いことばかりじゃない。
953
:
思路
:2015/06/22(月) 13:31:23
純粋培養をすると人格が変になります。中高一貫校のように整った環境でスクスクと
育つと賢い子が多いけれども、なにか馬力に欠ける。公立中を出て高校から入ってきた子
は勉強は遅れているけど馬力がある。そういう子がグングン伸びて大学受験になると
いいところに入っていく。
純粋培養は効果的のようで実は単調になる。
単調という点では椅子に座って白壁をずっと見ていると、1週間くらいで脳機能が
落ちてきます。おなじようなことを瞑想修行ではやることがあります。
1か月もそんな修行をすると脳が変化してまともな会話すらできなくなることが
あります。修行を終えてしばらくするともとにもどりますが、明らかに脳機能が
低下するのが解ります。
たとえば足が弱って病院でテレビばかり見ているとボケます。テレビから情報が
入ってきているようでも、匂いや風のそよぎのような情報はありません。白壁を眺めて
いるほど極端でなくても、情報量は圧倒的に少なくなるのでボケてきます。
パソコンでも同じです。小さな窓に過ぎません。真の意味で情報装置ではないのです。
聖なる書が本当に聖なる書かというと、そうでもないのです。これもまた白壁です。
小さな窓が開いているだけです。づっと白壁を見ていればボケます。
954
:
孤独な羊
:2015/06/22(月) 14:38:22
思路さんは、色々ご存知だなぁ
純粋気質というものか、わかりませんけど、私の社会観は子供のころから基本的なところで変わりません
生活に困るような家庭環境でもなかったので、右左見て無難かなと思える場所に生きてきたつもりだったんですけど
見事に失敗しましたよw
開き直りや楽天家は後に弊害あっても、その時は幸せですから、甘えて溺れました
皮肉なもので成人してから、そういう気質が持て囃される時代になりつつありますけど、まだまだでしょうね
結局、楽に生きることを前提にするならマイノリティーよりもマジョリティーが大切で、幾ら悟ろうとマジョリティーは強力です
現代の悟りは、仙人のような暮らしと信仰の依存くらいでしか適し難いかもしれません
末法思想とは見事な予測です
955
:
思路
:2015/06/22(月) 20:04:57
悟りでは「捨てる、外す」がキーワードになる。確かに拘りを外した時の解放感と
いうのはなんともいえない。しかし解放感は長続きしない。持続性があまりない。
これに比べて情熱とか充実感とか達成感からくるものはおよそ習慣化しない。なので
長続きする。たとえば来年カナダを旅行を計画してそのために英語を勉強しようと
決めたら毎日の勉強が楽しくなる。これがもし社会の役に立つような崇高な目的の
ためであれば充実感はさらに何倍も強い。これは「捨てる、外す」じゃなくて
積み重ねだ。一歩一歩の努力の積み重ねが充実感をもたらす。これが本当の意味での
楽しさだ。
悟りの解放感、快楽は一時的なものだ。天国は垣間見るものであって永続しない。
楽天的幸せも悟りと同じで、永続しない。情熱こそが永続的楽しさを生み出す。
956
:
孤独な羊
:2015/06/23(火) 13:02:35
思路さん、全くその通りと思います
思路さんにとって、崇高な目的とは何でしょうか?
是非、お聞きしたい
957
:
慧空
:2015/06/23(火) 20:39:54
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このスレッドは打ち止めです。
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958
:
名無しさん
:2015/08/15(土) 06:56:33
アファメーション
https://youtu.be/5Xx4y6oIv6c
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