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Web誌友会 板/2
5245
:
ビックリ
◆KfYRXK6jJk
:2015/03/12(木) 23:21:07 ID:p..UGkhA
コンビで出る=同時に出る=同一人物
5246
:
a hope
:2015/03/13(金) 07:47:17 ID:cEpBaIdo
>>5244
志恩さま
あたたかい励ましのお言葉をありがとうございます。
わたしはなにが本当の「生長の家の教え」なのか、なにが「真理」なのか知りたいだけなのですが、
自分ひとりで勉強していると、どうしても偏りがでてきてしまいます。
わたしはこの掲示板で、志恩さまはじめたくさんの「生長の家」の先輩方に
見守られながらお勉強できる幸せをいつも感じています。
そして、なによりも管理人のトキさまのご愛念に心より感謝しています。
5247
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/13(金) 22:03:59 ID:LUa.pzQ2
>>5246
いえいえ、いつも粘り強いご投稿に心から感謝申し上げています。
今後ともよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5248
:
a hope
:2015/03/16(月) 08:39:51 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p108 後から6行目〜
高津―― 猫が鼠を食わなければ何をたべて生きるのです。
谷口―― 猫と鼠は一緒に草原に寝転んで草を食って相戯れているような状態が「実相の世界」なのです。生命は互いに奪い合い食い合わなければ生長進化できないというのは実相を知らぬ「迷い」です。その「迷い」が客観化(かたちにか)されたのが、互に食い合う生命なのです。「迷い」がなくなれば「迷い」の具象化である現象生命の「食い合い」もなくなるのです。『生長の家』誌友には心一つで鼠と猫を調和させた実例がたくさんあります。
高津―― そんなことは信じられません。仮に猫が鼠を食わず、あらゆる動物が食い合いをしなくなっても、人間の痛みや苦しみはなくならない。たとえば地震とか津浪とかいう天変はなくなりはしない。そういう苦しみに出遭っても悩まないように悟らせるのが宗教家の役目です。
谷口―― わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。あなたのおっしゃる救いは、苦しみは苦しみのままで諦めてその苦しみから解脱する救いですが、わたしが説くのは現実の苦難そのものの諸共(もろとも)に救われるのです。悟りと同時に病気が治り、境遇も環境もよくなるのです。
高津―― たとい現実に地震も起らなくなるとしても、それは幾十億劫後の世界のことでしょう。それはありうるかもしれない、無いかもしれない。そういう世界を空想して現実の苦しみを救うことはできない。現実の苦しみを救うには、現実の苦しみに突き入って、苦しみは苦しみのままでそこに生命が生きているという真理を悟らせるようにするしか仕方ないでしょう。
谷口―― 地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するのです。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。・・・(略)
5249
:
a hope
:2015/03/16(月) 08:42:08 ID:cEpBaIdo
(
>>5248
a hope所感)
ここのところの高津氏と雅春先生のやり取りは、とても興味深いです。
現象世界に生きて、実際に病気になったり災害にあったりしているわたしたちは、
高津氏同様に雅春先生のこのご指導内容を、すんなりと受け入れることはむずかしいのかもしれません。
しかし、雅春先生は、
<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>
と、
つまり、人間の心が清まり「神の心」が顕れれば、地震や津波は起れなくなる。
たとえ、人類の心が清まらなくても、「一個人の心が清まれば、地震や津波はその人を害さなくなる」と、そう断言されています。
一方、現「生長の家」教団の総裁、雅宣先生は
<<生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。>>
>>4657
というとても自分勝手な、雅春先生とは全く正反対の「物質在り」の見解をされています。
ですから、雅宣先生率いる「現生長の家教団」は人間、一人一人の心を清める個人救済をおろそかにして、
ソーラーパネルだとか、電気自動車等という物質的解決方法にばかり走ってしまうのだと思われます。
それはまったく本来の「生長の家の教え」からかけ離れた運動だと感じています。
5250
:
神の子さん
:2015/03/16(月) 20:01:07 ID:???
<一人一人の心を清める個人救済をおろそかにして・・・・それはまったく本来の「生長の家の教え」からかけ離れた運動だと感じています。>
ということですのでa hopeさんにお聞きします
<つまり、人間の心が清まり「神の心」が顕れれば、地震や津波は起れなくなる。
たとえ、人類の心が清まらなくても、「一個人の心が清まれば、地震や津波はその人を害さなくなる」と、そう断言されています。>
どの程度の心になると『清まった心』といえて『神の心』が現れたと云えるのですか?
神の心の雅春先生が戦後執筆追放になったのはどうしてですか?GHQの支配下になど成るはずがないのではありませんか?
東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?
東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか?
5251
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/16(月) 20:11:19 ID:irEswSAY
>>5250
曳馬野様、ご投稿ありがとうございます。
web誌友会にご参加のおりは、ご投稿をお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5252
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/16(月) 20:24:48 ID:irEswSAY
>>5250
曳馬野様
横レス、失礼をします。
なかなか、面白い事を言われますね。
私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても
砂上の楼閣だという解釈をしています。生長の家の歴史を省みると、この個人救済
を軽視しての運動は行き詰まると私は感じています。それが違うというのなら、
曳馬野様が率先して見本を見せてください。他人様を批判する以上はそれなりの
覚悟はお持ちだと思います。よい見本を期待しています。
>>神の心の雅春先生が戦後執筆追放になったのはどうしてですか?
ところで、この人間の世界にいる限り、私たちは誰も現象の世界の法則から自由
になる事は難しいです。これは谷口雅春先生でも同じです。後年の信徒のなかには、
谷口雅春先生を異常に神格化し、抽象化する動きがあります。が、谷口雅春先生の
直弟子の方々はこういう事を嫌われました。
>>東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか?
これは「神 真理を告げ給ふ」は拝読するとわかりますが、霊的な観点から、戦争
や大災害が起きる意味が説明されています。ただ、魂の向上が目的ですから、こうい
う戦争や大災害という手段が必須ではないのは当然です。現に、生長の家の信徒は、
現在でも”世界平和の祈り”をしています。
5253
:
a hope
:2015/03/16(月) 22:37:05 ID:cEpBaIdo
トキさま
やはり
>>5250
の「神の子さん」は曳馬野さまなのですね。
わたしは、今後ハンドルネームが「神の子さん」からの質問には一切お答えするつもりはありません。
神の子さんはたくさんいらっしゃいますから、いちいち質問に答えているとこちらが混乱してしまいますからね。
まして、その「神の子さん」が曳馬野さまなのであれば、余計にお答えする必要はないと思っています。
トキさま、わたしの代わりにお答え下さりありがとうございます。
トキさまのご意見に賛同させていただきます。
5254
:
a hope
:2015/03/16(月) 23:38:40 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p112 5行目〜
谷口―― 『生命の實相』を読んでも心が真にそれに共鳴せず、実相を悟ることができない人は治らないのです。真理は種であるから、それを植えても生えない不毛の地や石地に播いては生えないけれども、それは真理という種がわるいのではない。十本の同じ種を植えて、半分も生えれば、その種は生える力がある、生えないのは土地が悪いのだと断定してもよいでしょう。
人間は心的存在ですから、酸素に水素を交えたら必ず水ができるというふうに、人間に「生命の実相」を混ぜたら必ず病気が治るというように一定の結果を生ずるわけにはゆかない。「生命の実相」を話せば話すほど、素直に受けないで、議論できるだけ反撥して来られるあなたのような人もある。だから「生命の実相」を受ける心の相異に従っていろいろの結果を生ずるのです。しかし、それを読んだ大多数の人々が病気から救われている事実を否定することはできません。
5255
:
a hope
:2015/03/16(月) 23:39:43 ID:cEpBaIdo
(
>>5254
a hope所感)
わたしは、「生長の家」の信徒であれば、聖典「生命の實相」に書かれてある真理には反発などせずに素直に受け入れるのが当然だと思うのです。
<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>
と聖典に書かれているのですから、わたしたち「生長の家」の信徒は、素直にそれを信じて、
一人一人が心を清める努力をすればいいのだと思います。
そうすることが「生長の家」を信仰するということなのではないでしょうか?
5256
:
神の子さん
:2015/03/16(月) 23:58:42 ID:???
>>私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても砂上の楼閣だという解釈をしています。
>>ところで、この人間の世界にいる限り、私たちは誰も現象の世界の法則から自由になる事は難しいです。これは谷口雅春先生でも同じです。
「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性をもちながらも神または仏そのものなる大自在の境地
…欲しいと思う事物はそこに現れ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境にに達するということであります。「頭注版一巻p23」
個人救済は言葉の響きはよろしいが、a hopeさんのような原理主義的な解釈を引用文にするのであれば、救われているはずの雅春先生は大自在境に達していなくては
ならない。然るに貴女は雅春先生でも自由になる事は難しいことであるという。「引用の真理」が正しいのか、はたまたあなたの言うことが正しいのですか?
雅春先生でさえ大自在境に達していないというのであれば、どこに個人救済などありますか?
「縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならない
のであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるように
しなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念の影なれども、同時に念はまた環境の陰であって、二つ向かい合わせた鏡の
ように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念は環境に征服せられるのであります。」
「頭注版一巻p37」
幼いたましいの唯物論を信じる中国のの人々は、自然破壊なんて何のそので真っ黒な煙をまき散らしています。日本人にして生命の実相を読んだにしてもろくすっぼ救わ
れない幼いたましいの人間が多いのであれば、自然破壊を防ぐことにより、過去の日本のように自然の中で自然とともに生きた故郷と云う言葉のイメージが生きている
世界を自然環境から取り戻すとは大事なことであると思います。
>>霊的な観点から、戦争や大災害が起きる意味が説明されています。ただ、魂の向上が目的ですから、こういう戦争や大災害という手段が必須ではないのは当然です。
「魂の向上が目的ですから」こういう言葉を言うから聞いているのです。心の清いものは災害に会うことはないというのが真理と云うから、災害に会った人は心が清く
ないのかと、あなた方は魂の進歩の為に災害に会ったと、腹の中では思うですかと。
5258
:
トンチンカン
:2015/03/17(火) 00:33:11 ID:r6TJQSCM
>>5257
削除ねがいます!!
5261
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/17(火) 10:29:29 ID:BpP5RmUI
これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。
この板は、誌友会のための板ですので、以後の議論は、別の場所でお願い
申し上げます。
a hope様、続けてください。
合掌 ありがとうございます
5262
:
神の子さん
:2015/03/17(火) 18:50:17 ID:???
>>なかなか、面白い事を言われますね。
>>これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。
面白いことをと揶揄しながら、雅春先生も自在境にはいない、と書き、反論されると「不用意なことを書いた」という。
不用意で書くかね、そんなことを。いつもそのように思っているから書くのじゃないかね。
5264
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/17(火) 21:31:12 ID:BpP5RmUI
曳馬野様
トンチンカン様
ご投稿、ありがとうございます。
たいへん恐縮ですが、誌友会と直接関係がない話題は、
できれば、他の板でお願いします。
勝手なお願いをして、すみません。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5267
:
神の子さん
:2015/03/18(水) 06:03:39 ID:???
5261 :トキ ◆AXzLMGIbhk :2015/03/17(火) 10:29:29 ID:BpP5RmUI
これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。 この板は、誌友会のための板ですので、以後の議論は、別の場所でお願い
申し上げます。 a hope様、続けてください。 合掌 ありがとうございます
5264 :トキ ◆AXzLMGIbhk :2015/03/17(火) 21:31:12 ID:BpP5RmUI
曳馬野様 トンチンカン様
ご投稿、ありがとうございます。たいへん恐縮ですが、誌友会と直接関係がない話題は、できれば、他の板でお願いします。勝手なお願いをして、すみません。
合掌 ありがとうございます 管理人敬白
***************************************************
このような寝言を言う暇に、ご自分のまいた種の刈り取りをしたらよいのでは。a hopeさんの誌友会版での発言が、東北大震災で苦しみにあえぐ人たちは
「こころの清くない人達だ」と云う意味の真理解釈をしたから、それに疑問を呈した。それに対しa hopeさんは答える義務はないと云い、あなたは「横レス失礼します」
と書いてある通り代理で答えたのです。その前文が「おもしろいことをいいますね」であり内容が「雅春先生も自在境にはいなかった」と述べた。
それに対し「個人救済こそ生長の家の基本」との分派、a hopeさん、トキ管理人に生命の実相より引用して生長の家の説く「救い」とは何かについて書いた。
それについて薔薇の花氏名の通りのトンチンカン氏ガトンチンカンな反応をしている。管理人になって寝言を言う前に、「トキ」と云う一人の人間が蒔いた種の後始末を
したらいかがですか。
「個人救済こそ生長の家の基本」「雅春先生も自在境にはいなかった」に対する私の反論に。是こそ誌友会版の趣旨にかなっものでしょう。
5268
:
a hope
:2015/03/18(水) 08:14:28 ID:cEpBaIdo
みなさま
上の神の子さんの
<<a hopeさんの誌友会版での発言が、東北大震災で苦しみにあえぐ人たちは
「こころの清くない人達だ」と云う意味の真理解釈をしたから、それに疑問を呈した。それに対しa hopeさんは答える義務はないと云い、>>
のご発言は事実ではありません。
曳馬野さまやさくらさまや初心者さまは他人の発言を正確に引用せず、
ご自分勝手に曲解して表現されます。
わたしは、聖典「生命の實相」のお言葉をそのまま引用して所感を述べているだけです。
嘘ばかりつく曳馬野さまのご投稿にはお返事をするつもりはありませんが、
>>5267
の投稿は事実でないので反論させていただきます。
5269
:
a hope
:2015/03/18(水) 08:44:41 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p124 8行目〜
自分は完全な生き方をしていない淋しさというものを紛らわせようとしているほかない努力が飲酒喫煙壁でありますから、酒煙草をというものを止めさせる方法はどうしたらいいかというと、良人が飲酒家(さけのみ)であるとすれば、「あなた酒やめなさい、酒やめなさい」と言うだけでは良心の咎めを増すだけでなんにもならないのです。・・・
5270
:
a hope
:2015/03/18(水) 08:48:54 ID:cEpBaIdo
(
>>5269
a hope所感)
わたしも独身時代にはお酒をたくさん飲みましたが、やはり淋しさを紛らわすためでした。
ですが、どんなに酔っ払ってその場の淋しさや不安を紛らわすことができても、しらふにもどれば、自己嫌悪感が増すだけでした。
<<本当にこのままで完全に生きている。誰からも咎められない、ごまかしていない、良心の囁きに背いていない、という自覚ができて魂が本当に内部から喜んでくれば、良心に咎められる淋しさの感じがなくなるから、頭脳ラジオ・セットを麻痺させる酒煙草の必要がなくなってくるのであります。>>
「良心」とは、「神の心」の顕れだと思います。
平気で嘘ばかりつく曳馬野さまには、良心の咎めはないのですか?
聖典「生命の實相」の真理を勉強する誌友会を妨害する曳馬野さまたちの目的が何なのか詮索するつもりはありませんが、
少なくともわたしは真面目に「真理」の勉強をしていますので、これ以上の妨害はご遠慮願います。
5271
:
a hope
:2015/03/18(水) 08:56:13 ID:cEpBaIdo
>>5269
訂正
飲酒喫煙壁→飲酒喫煙癖
5272
:
a hope
:2015/03/19(木) 09:51:32 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第16巻 p141〜の「第五章 国と家庭を良くする話」はとても示唆に富んだ内容です。
現在の「生長の家」は教団と本流復活に分かれて一方は家庭生活の方法を見直すことから環境保護する運動をしていますし、
一方は日本国実相顕現を目標に掲げた政治的運動をされているようです(間違いがあればご指摘ください)。
どちらの運動も「国や家庭を良くするため」の運動なのだと思うのですが、はたして、そういう外界に働きかけ、
外界から改造していこうとする運動は本当に雅春先生の御心にかなった本来の「生長の家」の運動なのでしょうか?
ここの章で、雅春先生は物質的援助をすることで貧しい家庭を救う運動をされている滝村さんという方と対談しながら、
とても重要なお話をされています。
その対話内容を少しずつ謹写していきたいと思います。
5273
:
a hope
:2015/03/19(木) 09:53:44 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p152 後から2行目〜
滝村―― 夫婦仲が悪くなるのは下層階級ではその貧困が非常に原因しているように思います。毎日生活問題で夫婦が罵り合っている。貧困さえ無くなれば夫婦仲がよくなると考えられる場合がたくさんあるようです。
谷口―― 滝村さんは貧民階級をよく研究していられるから貧民の夫婦喧嘩が目について、その原因が貧困だという結論を下されるのでありますが、貧民はそうして貧困を題材にして夫婦喧嘩をしますし、金持ちは金持ちで、その富貴を題材にして夫婦不仲になるようです。 ・・・(中略)・・・
どうしても人生の幸不幸というものは、心に帰すべきで、心を治さないで形だけ直しておくのでは、球根を保存しておいて芽をつむようなもので、また別の芽がでてくるのです。
5274
:
a hope
:2015/03/20(金) 09:35:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p155 後から4行目〜
谷口―― ・・・(略)・・・
それは貧民にも病人もある。滝村さんは貧民の方をよく眺めているから、貧民が病気になるのを、貧しいことが原因だと思われるかもしれないが、この辺の富豪地帯で金持ちばかりの家庭で病人が絶えないのを眺めていると、金があるのが原因で病気になっているものだとも思える。
実際金持ちくらい気の毒なものはいないとも言えます。金があるためにいろいろの財産上の争いや、男女間の争いが暗黙の間に起って、病気はともかく、そのために家庭地獄を現出しているのです。
滝村―― しかし、貧民の苦しみと富豪の苦しみとを比べれば、富豪は勝手に放肆(ほうし)な生活をして苦しんでいるので、止めようと思えばやめられる苦しみを、勝手にやっているのですが、貧民は他から圧迫されてやむをえず苦しんでいるので、その苦しみ方が非常にちがうと思います。
谷口―― そうでしょうか。それならあなたがその貧民という人を一人ずつ伴(つ)れて来て、過去の清潔や心の持ち方をいちいち吟味して御覧になれば、必ずや、その貧民は今の貧しい境遇位置を受けるに相応(ふさわ)しい点数の心の持ち方をしてきたに違いないことを認めうると思いますが。境遇を作るのは心であって外界の圧迫ではないということを。
滝村―― (苦笑して)はたしてそうでしょうか。
5275
:
a hope
:2015/03/20(金) 09:40:28 ID:cEpBaIdo
(
>>5274
a hope所感)
現在の日本では様々な医療制度や生活保護制度等が充実してきていますから、この対談が行われていた当時とは状況が随分変わってきていて、
貧民だから医者にかかれないということはほとんどないのではないでしょか?
それにしても滝村氏は雅春先生の「環境(境遇)は心の影」という話を聞いて苦笑されていますが、
ごく一般的な常識をもつ人間であればこの「生長の家の教え」はずいぶん常識外れに聞こえてしまうのでしょうね。
5276
:
a hope
:2015/03/20(金) 10:01:46 ID:cEpBaIdo
>>5274
訂正
過去の清潔→過去の生活
5277
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/20(金) 20:46:05 ID:6cceFPIw
>>5274
その通りですね。世間の人が聞くと、反発する人も多いかもしれません。
貧しさをバネに成功した人もいますが、最近は、貧しさ故の不幸ばかりが強調される
ので、それを言い訳にする人も多いのでしょう。
稲盛和夫先生のご著書を読むと、実家はものすごく貧乏で結核になり、前半生は
ものすごく不幸でしたが、生長の家に触れて人生が変わり、今日の成功者になられ
たとかかれていました。そうすると、貧乏なのも、結核になられたのも、それで
信仰に触れられたのですから、意味があったとも言えます。
どんな境涯でも、真理を学ぶ事の大事さを痛感するのみですね。
5278
:
答えてねトキさん
:2015/03/21(土) 01:11:03 ID:tPqHKCtk
>>私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても砂上の楼閣だという解釈をしています。
>>ところで、この人間の世界にいる限り、私たちは誰も現象の世界の法則から自由になる事は難しいです。これは谷口雅春先生でも同じです。
「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性をもちながらも神または仏そのものなる大自在の境地
…欲しいと思う事物はそこに現れ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境にに達するということであります。「頭注版一巻p23」
個人救済は言葉の響きはよろしいが、a hopeさんのような原理主義的な解釈を引用文にするのであれば、救われているはずの雅春先生は大自在境に達していなくては
ならない。然るに貴女は雅春先生でも自由になる事は難しいことであるという。「引用の真理」が正しいのか、はたまたあなたの言うことが正しいのですか?
雅春先生でさえ大自在境に達していないというのであれば、どこに個人救済などありますか?
「縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならない
のであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるように
しなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念の影なれども、同時に念はまた環境の陰であって、二つ向かい合わせた鏡の
ように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念は環境に征服せられるのであります。」
「頭注版一巻p37」
幼いたましいの唯物論を信じる中国のの人々は、自然破壊なんて何のそので真っ黒な煙をまき散らしています。日本人にして生命の実相を読んだにしてもろくすっぼ救わ
れない幼いたましいの人間が多いのであれば、自然破壊を防ぐことにより、過去の日本のように自然の中で自然とともに生きた故郷と云う言葉のイメージが生きている
世界を自然環境から取り戻すとは大事なことであると思います。
>>霊的な観点から、戦争や大災害が起きる意味が説明されています。ただ、魂の向上が目的ですから、こういう戦争や大災害という手段が必須ではないのは当然です。
「魂の向上が目的ですから」こういう言葉を言うから聞いているのです。心の清いものは災害に会うことはないというのが真理と云うから、災害に会った人は心が清く
ないのかと、あなた方は魂の進歩の為に災害に会ったと、腹の中では思うですかと。
5279
:
るん吉
:2015/03/21(土) 09:45:17 ID:p..UGkhA
環境は心の影 つうときね、悪い心の影、良い心の影。←(これが清い心の影か?)
というけど、悪い心というのは「清くない心。」つうよりどっちかいうと「物事を悪く考えてしまうネガティブな心」「くよくよする心」
のことじゃないですか?と言うことは、その反対に「清い心」っちゅうのは「物事をくよくよ考えないで、楽観的に考える心」「明るい心」
じゃない?
5286
:
神の子さん
:2015/03/21(土) 19:30:07 ID:tYFyomJk
「私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても砂上の楼閣だという解釈をしています。」とトキさんが云い、a hopeさんが同意したのです。
勿論a hopeさんは以前から「個人救済」止めて「環境問題に特化した点」が教団の最もおかしな点としています。
ですから「個人救済が基本」という「救い」の意味を問うているのです。
なぜこれが勉強の邪魔になるのですか?お二人の説が正しいのであれば『生命の実相』に書かれた引用文の意味はどう解釈したらよいのですか?
批判だ邪魔だとかいう前に答えるべきだと思いますが。
5287
:
神の子さん
:2015/03/21(土) 20:01:46 ID:tYFyomJk
「自分勝手に間違った前提を作り、」
どこがどう自分勝手の間違った前提なのですか?
5288
:
a hope
:2015/03/21(土) 20:22:18 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p157 後から7行目〜
滝村―― ふつうの常識では、病気になれば医者にかかれば治ると思われているのですが、そういう常識に捉われている貧民が病気になっても医者にかかることができないのは悲惨なのです。
谷口―― そういう場合、医者にかかる金を与えるのが救いになるのか、あるいは人間は医者にかからなくとも治りうる自然療能を備えているという真理を知らしてやるのが本当の救いになるかは考え物です。
医者にかかる金を与えればその時は仮に医療費にありついて救(たす)かるかもしれないが、その金がなくなれば、二度目はまた救からないが、真理を知って自然療能の尊さを知って救かったら永久に医療費が要らなくなるから、無限の医療費を貰ったということになるのです。だから「生長の家」の真理を知らしてやることは彼らに無限の医療費を供養することになるのです。
5289
:
a hope
:2015/03/21(土) 20:23:43 ID:cEpBaIdo
(
>>5288
a hope所感)
医者に医療費を払えない様な教養のない貧民に『「生長の家」の真理を知らせる』には、
具体的にはどうすればいいのでしょうか?
この後、滝村氏はさらに雅春先生にそのことについて質問しています。
続けて謹写していきます。
5290
:
a hope
:2015/03/21(土) 22:26:46 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p158 4行目〜
滝村―― ところが、「生長の家」の真理はなかなかむずかしい。教養のない貧民にそれをしらせてやることはとうてい不可能のことだと思います。
谷口―― 決してそれは不可能ではないのです。医者の薬が病気を治すということも、貧民がそれを研究して知っているのではないのです。ただ一般にそういうから、その宣伝に乗ってそう思っているだけです。そして金がなくて医者にかかれないことを不幸なんぞのように思って苦にやむのです。
わたしに言わせれば、 医薬費を出しうる富豪の方が、医者にいい加減にゴマ化されて、軽い病気でも重く言われたり、あるいは恐ろしい病名を宣言されるだけで恐怖心を唆(そそ)られたりして、かえって病気を重くしている例の方が多いと思うのです。
その点は貧民は、病気にかかっても医者にかかる金がないと背水の陣を布いてしまっているから、罹病率が非常に少なく、自然療能に頼るしか仕方がないから、自然療能が強くて病気がはやく癒えるのです。貧民は貧乏だから病気に罹ってかわいそうだとあなたは言われるが、わたしに言わせれば金持ちは医薬費があるから病気に罹りやすくてかわいそうだとも言えるのです。
薬そのものに癒す力がないということは医薬を十分研究している医者自身の方が知っているのです。普通の人は医学を研究したことがないから宣伝だけで雷同して薬の卓効(たっこう)を信じているのですが、そんなものではないのです。
先日も・・・(中略)・・・
要するに一般人が医者の薬を効くと思っているのは、一般人が深く医学を研究してみた上で信じているのではない。この実話でもわかるとおり、研究している医者自身はかえって薬効を深く信じないで、ただ宣伝にかかっている素人だけが、信じているのです。
なんでも大衆というものは、自分で研究もしてみないで宣伝のとおりに信ずるものですから、「生長の家」の真理でも、深くそれを読みこなして、本当に真理を摑むことは至難であるにしても、「人間の病気は薬よりも自然療能を喚起すれば治る」という結論だけを信じさせることは、社会の先達の位置にある知識階級が宣伝するだけでよいのです。宣伝すれば大衆は信じて幸福を得るのです。
ところが現在では、貧民は栄養不良で、過労で、生活環境が悪いから病気に罹る、そして病気に罹れば薬がないと治らないというような宣伝ばかりが多く行われているから、貧民を恐怖さし、貧民の頼りうる唯一の医者たる自然療能を鈍らし、どんな不遇にもズンズン伸びて行ける生活力の芽を刈りとってしまって、貧しい人をいやが上にも不幸に押し込んで陰惨な状態に陥れているのです。
5291
:
a hope
:2015/03/21(土) 22:30:25 ID:cEpBaIdo
(
>>5290
a hope所感)
わたしは、病気になれば医者にかかり薬をもらって服用していますし、家族もみなそうしています。
現代の日本では、ほとんどの人が医者にかかることが出来ると思うので、
この対談の当時の状況とはずいぶん変わってきてしまっていると思います。
しかし、医学の進展した現代であっても、不治の病は存在しますし、
いくら薬を服用しても全く効果のない場合もあると思います。
それになによりも、「真理」を知って一生医者にかからず健康でいられるのならば、
それほど幸せなことはありませんよね!
以前、どこかで「生長の家の教え」にハマるのは、インテリが多い、と聞いたことがあります。
>>5277
でトキさまご紹介の稲盛和夫氏もしかりですね!
わたしは自分にインテリジェンスがあるとは思っていませんが、勉強することは大好きですので、
「生命の實相」のような霊的波動の高い内容の本を読破していくことに魂の悦びを感じます。
「生命の實相」は拝読するだけで、魂を向上させ、「真理」を悟ることが出来る「聖典」なのですから、
「生長の家」にご縁のあったわたしたちにとっては「必読の書」ですよね!
5292
:
a hope
:2015/03/21(土) 23:14:42 ID:cEpBaIdo
>>5279
るん吉さま
>>5248
で、雅春先生が、
<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するのです。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。
地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>
と「真理」をご説明くださっていて、その文中に「心が清まる」という表現があるのですが、
どなたかが、そのことを大きく曲解されて、
<<東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?
東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか? >>
と的外れな質問されているようですが、
わたしは、世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。
ここで雅春先生がおっしゃっている「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。
だから、真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。
また、どんな人間でも「実相の心(神の心)」の周りを包むツミ(迷い)を取されば、
そのままの清まった「神の心」が顕われて、悟ることができるのだとも思います。
そして、本来「悪い心」などない、「清くない心」などもない、
『わたしは「神の子」うれしい たのしい ありがたい』というのが、
「生長の家」の実相独在の真理なのだとわたしは信じています。
5293
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 05:49:08 ID:8wK9.k12
>>5248
で、雅春先生が、
<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するので
す。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人を
その天災は害することはできない。>>
と「真理」をご説明くださっていて、その文中に「心が清まる」という表現があるのですが、どなたかが、そのことを大きく曲解されて、
<<東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達
ですか? >>と的外れな質問されているようですが、わたしは、世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。
**これこそ『実相』を観念で捉えている観念論です。「われわれの心が清まれば起こらなくなるのです」「清まれば」と書かれているのです。
変化していく心を問題にされています。「世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。」この言葉は『実相』の概念に自己満足
している姿です。
ここで雅春先生がおっしゃっている「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。
だから、真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。
**「地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するの
です」ここに「地上全体の【生物の心】が清まらなくてはならない」と書かれています。地上全体の【人間の心】が清まらなくてはならないと書か
れてはいない。動物が、植物が悟りますか?「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。とのa hopeさんの意見は
「生物の心」と書かれていることを見落とした自己解釈です。
「真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。」これも同じで、
「「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性をもちながらも神または仏そのもの
なる大自在の境地…欲しいと思う事物はそこに現れ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境にに達するということであります。」
「頭注版一巻p23」
に反する発言です。現象だから悟れば気に掛からなくなるなんてことは言っていない。「心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することは
できない。」との言葉にも反します。
「地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから」からこそ動物を殺して食べるのはやめよう、安いからと外材の輸入をすることで、穀物を生産
する場の確保のためとして材木の伐採をすることは止めよう、との今の教えがあるものと考えます。生命の実相か忘れましたが、屠殺の時に牛が涙を
流す場面が書かれ、食肉の為に動物を殺すことの罪悪について書かれたところがあります。杉檜の植林によってどんぐりの木椎の木などの雑木と呼ば
れる木々の伐採により、山の動物の食物を奪う結果を造り今里に猪、鹿の出現を見ています。昔はまがった松を上手に利用し棟木にしました。
人間の欲のための植林をしながら、今は外材に押され、林業の跡継ぎも減っている有様です。間伐さえままならない所もあります。
食事から食肉文化が無くならない限り「地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから」という『生命の実相』の言葉は成就しないのです。
この言葉の成就を目指して教団は進んでいると考えます。
「そして、本来「悪い心」などない、「清くない心」などもない、 『わたしは「神の子」うれしい たのしい ありがたい』というのが、
「生長の家」の実相独在の真理なのだとわたしは信じています。」なんて浮かれながら肉食をするのですか?a hopeさん
5294
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 06:09:51 ID:8wK9.k12
簡単に言えば食肉にされる動物の嘆きの声、樹木の伐採による食物の減少による動物の嘆きの声、人間の欲望による開発のため伐採される樹林の嘆き、
これらが無くならない限り、「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」の言葉が実現することはない。
そのための運動がなぜ『生命の実相』に反する事なのですか?ノーミートなんてと云うあなた方こそ『生命の実相』に反することをしているのです。
5296
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 09:29:38 ID:8wK9.k12
>>5295
深海魚さん わたしはトキさんのように卑怯ではありませんので、縹さんと同じく普通に返事しますね
棚口雅敏さんは聖使命会員なんですか?そして世界の平和を願っているのですか?
であれば遺憾と申すべきですね、そうでなければ何の問題もありません。
あくまで、生長の家を信じるという人間に対していっているのですから。
こういった掲示板なりブログなりで生長の家の真理の能書きを言う人に対してのものですので、只静かに自分は信じているという立場の人が
どんな行動をしてもそれは構いません。
5299
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 11:58:26 ID:8wK9.k12
<雅敏さんは、聖使命会員であるかどうかは、知りません。しかし、そんじょそこらの一般人でもありません。雅宣総裁のたいせつなご長男さんです。>
親鸞聖人も息子の善鸞がよからぬ教えを説いたことで勘当しています。よく兄弟がどうのこうのと云われますが、秩序を破ることをしているのではありませんか?
真理をないがしろにするもの、秩序を破るものには義絶は仕方ありません。息子ではありますが大切なと云うことはないでしょう。
<で、彼は、「世界平和」を、願っている人か、願っていない人か、どういう精神のお方か、神の子さんには、おわかりでは ないのですか?>
知る由もありません。
<雅敏さんも、ここをご覧になっておられるとおもいますが>
こんな想像での発言では以下の発言には意味がありません。
<全世界の人が、肉食をやめないかぎり、世界が清まらないという新宗教みたいな考え方は、極極狭い範囲の人間たちしか共感できないマスロビィクス的な考え方で、こんなことを
いってはわるいですけれど、そのような考え方を強要される教えでは、いづれ、近い将来、限界がくると思えております。 >
「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」は『生命の実相』に書かれていることで地震津波等の大規模災害の起きる原因であると神が書かせ雅春先生が筆を執ったという
聖典に書かれていることです。
私の解釈が違うというのなら、まずあなたがトキさん、a hopeさんに代わりに解釈してください。聖典の解釈の相違を論じることが誌友会の邪魔をすることとは考えません。
5300
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 12:10:27 ID:8wK9.k12
<問題にされてる文は、どうでもいいようなはしっこの部分であると感じております。>
生命の実相の一言一句神の言葉であると評価した人もいましたが、貴女にはどうでもいいような端っこの部分が説かれているというのですね。
<「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。>とかって解釈したことも書きましたが、貴女も同じように取捨選択しながら生命の実相を読むのですね。
そしてこれはどうでもよい文章と判断しながら生命の実相を読むと云われるのですね。
5303
:
神の子さん
:2015/03/22(日) 13:26:04 ID:8wK9.k12
>>「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」は『生命の実相』に書かれていることで
地震津波等の大規模災害の起きる原因であると神が書かせ雅春先生が筆を執ったという聖典に書かれていることです。<<
この文についてを、
神の子さんは、「全世界の人が、肉食をやめることが、心を清めることだ」と、捉えるのでしたら、それは、どう考えましても、全世界の人が,肉を食べなくなることなどは、
不可能なことですから、永遠に、地震津波等の大規模災害の起きるということになります。
○だからあなたの解釈を聞いています。いつの日か地震津波が無くなると書かれている、そのためには「地上全体の生物の心」が清まらなくてはならないと書かれている。
「地上全体の生物の心」とはどんなものですか、あなたの解釈を教えてください。
「心を清める」につきましては、人間というものは、現象世界では、知らず知らずのうちに、神様から授かったままの、生まれたままの、そのままの良い心(無私、利他的な心など)
だけでなく、この世に生きて行くうちに悪い心(猜疑心、恨み、嫉妬、悪意、利己心、欲深い心など)で、曇って、心が塞がっているものですから、それを、「生命の實相」や、
聖典などを読み、神想観、浄心行、愛行したりして自分の心を顧みる….ということをして、生長の家では、「心を清めて」心をさっぱりさせて生きて行くというときに、昔は,
「心を清める」というふうに言っていました。
○これも「地上全体の生物の心」がどんな意味か分からなければ分かりませんね。わたしは文字どうりすべての生命あるものととらえますが、貴女は人間だけを指しているというのですか?
上の説明では本を読み神想観し浄心行し愛行をして心を浄めるという。動物植物鉱物には心は無いのですか?
人間は、この世に魂の修行にきているので、おのおのが出会う体験には、魂の進化のために無駄はない、!ということが さまざまな例で、教えられていると思います。
○人間は女の子宮から生まれたことは一度もないとか言いませんか?人間はこの世に生まれ修行しているのですか?
前にも聞きましたが、人間は何時低級霊になり高級霊になった暁に人間はどうなりますか?
私の解釈では地上天国は来ないと云うことですね、ではどうしたら地上天国は来ると教えられていますか?地震津波が無くなるにはどうしたらいいと書かれていますか?
5307
:
a hope
:2015/03/22(日) 20:11:38 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p160 9行目〜
滝村―― 薬剤の功罪いかんの問題は別として病気に罹れば医者にかかるという通念がまだ現在は一般人にあります以上、貧乏のために医者にかけず子供を失い、あるいは親を亡くしたという場合、その貧困が遺族に与えた悲しみは最大の打撃になると思います。
医者にかけても駄目な病人だったとは思いながらも、医者に一度でも見てもらっておけばよかったという嘆きがおこるのは普通で、まだ「生長の家」の真理を知らない人にとっては、医者にかかることの方が不幸に思われ、不幸にして医者にかかりえないことを、みずから幸福であると悟っている人はまったくなく、この点当事者にとっては貧しく医者にかかりえないことを不幸と感ずるほかはないのであります。
谷口―― そこで、あなたのような貧民愛の深い人が出現して街頭に立ってでも、医薬なくともたいていの病気の治りうる理由、人間は環境に支配せられるものではなくて、自覚さえ強まれば勇気さえ出せば健康上にも社会上にも頭をあげうるゆえんを宣伝して下さる必要があると思うのです。不撓(ふとう)の意気と不屈の努力さえあれば、現在でも貧賤から起って、少なくとも貧賤の階級を脱して中産階級程度に昇りうる機会はたくさんあるのです。可憐な婦女子でもそれができないことではない。一例をあげれば、
・・・(略)・・・
逆境は必ずしも人間を不幸にしない。人間を不幸にするのは、環境に甘える心だということがわかるのです。
滝村―― しかし外から改造して住みよい世界を造ってゆけば、内から浄まるよりも早く浄まるのではありますまいか。
谷口―― 早いかもしれない。しかし、どういうふうに改造するかの構図を作るのは人間の心だから心がよくならないでいて、形の構図を立派につくることはできない。まず、心をよくしなければならない。そして内部の力を発現させて徐々に人生にその影を刻んでゆく。この方がよいのではありますまいか。
とにかく、外から物質の豊富さと安易とを与えることによって人間は幸福になると考えている点において、そういう考え方は人間の生命の自主的な創造力を否認して、人間を一個の木偶人形(でくにんぎょう)にしてしまっている点において賛成できないのです。
滝村―― わたしは今気がつきましたが、形の世界が現実界(うつしよ)【念の影の世界】であるとしますと、今まで外から浄める方が早く浄まるのじゃないかと考えていたのが誤りであると気がつきました。
牛乳瓶は外から見てきたなく見えていても、それは内側に牛乳のカスがついているからであるとしますと、外から洗う方が手っ取り早いと思っていくら外から磨いても美しくなりっこはない。形をいくら変革しても、それを運用する人間の心が浄まらなければ別な点において新しい組織の運用に欠陥を生ずる!
わかりました。わたしは社会をよくする道は、ただ『生命の実相』の真理を宣伝しさえすればよいのだということがわかりました。この考えは急にわたしの頭に閃いて来て、今までわたしの心の中を占領していた疑問がスッカリ溶けてしまいました。
5308
:
a hope
:2015/03/22(日) 20:15:19 ID:cEpBaIdo
(
>>5307
a hope所感)
この第五章では、滝村氏が雅春先生と対談することで、徐々に真理に目覚めていく様子がうかがえます。
滝村氏は貧民を救うのは、外からの物質的援助をするなどして社会改造をするしかないと考えていたようですが、
結局は、社会を本当に良くするためには、人々の心を変えなければならないことに気がつかれます。
そして、
<<形をいくら変革しても、それを運用する人間の心が浄まらなければ別な点において新しい組織の運用に欠陥を生ずる!>>
とおっしゃっています。
ここに、『人間の心が浄まる』という表現がでてきました。
そしてさらに、
<<わたしは社会をよくする道は、ただ『生命の実相』の真理を宣伝しさえすればよいのだということがわかりました。>>
と断言されています。
それは、言いかえれば、
「この社会をよくするためには、人間の心を浄める(清める)ことが必要で、それには、人々に「生命の実相」の真理を伝道し悟らせればいいのである」
となりますよね?
少なくともわたしの信じる「生長の家」の第一の使命とは、そういうことです。
このことから考えると、残念ながら、聖典「生命の實相」を失い、「生命の実相」の真理の伝道に積極的ではなく、
環境保護という外の世界の改造ばかりにご熱心な現教団は、どう考えても「社会をよくすることはできない」という結論に達してしまうのですが・・・。
みなさんはそうは思われませんか?
5309
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/03/24(火) 20:47:37 ID:TsXze1oc
少し観点が違いますが、青少年練成会などで、どうしようもない不良だった子供が
更生して立派な人になったり、大人の練成でも倒産寸前の会社が再建されたり、たく
さんの人が救われました。個人が救われたのですが、それが社会という観点から見た
ら、世の中がよくなったとも言えます。人間の心が変わるというのは、それだけの
偉業だと思います。
その意味で、個人の救済から始める事が、結果として、社会のため、国家のため、
世界のためになるのかもしれないと感じています。
5310
:
a hope
:2015/03/24(火) 21:54:51 ID:cEpBaIdo
>>5309
トキさま
トキさまのご意見に心より賛同させていただきます。
わたしも個人の心を救済してこそ、社会がよくなるのだと感じています
「日本国の実相顕現」も「世界平和」も個々の魂が浄められてこそ達成できるのだと思っています。
5311
:
a hope
:2015/03/24(火) 23:02:14 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p164〜
谷口―― 牛乳の瓶の穢(よご)れは内側に牛乳のカスが付いているから外からいくら洗ってもそれはとれない――それはあなたのおっしゃるとおりです。現代人の経済観念は、物質は「蓄(た)めて置かねばたりなくなる」という、物質有限観という人間の「迷いの滓(かす)」が牛乳瓶の内側に蓄(たま)っているから、外側から見ればそれが搾取でもなんでもして蓄めて置かねば損だというふうにあらわれているのですが、それは心の牛乳瓶の内側に「欲ばる心」という「迷い」のカスが溜まっているからであります。
人類に欲ばり根性がなくなり、報酬がなくとも励みが出て、働いて進歩しうるように人類の多数がなってくれば、人間は金の必要がなくなる。すると金で追い廻して人間を使おうとしても無駄のことであるから、そんな馬鹿なことをする人間も無くなるのです。金に追い廻される人間、金に縛られる人間があるからこそ金で人間を追い廻したり金で縛ろうとする人間も出てくるのです。
みんな自分の心が環境に現れるのです。みんな欲ばって、人よりは余計月給を貰おう、人を押し倒して人よりは余計地位が上がろうなど考えているから、みずから長時間勤務という制度を作りあげてしまって、我と我手で自分を縛り苦しめることになったのです。人を押し倒して自分が上にあがろうなどと思っているから、月給は余計貰っても、無理をして、人間らしい家庭の楽しみも味わえず、苦しんで、自分の欲ばり根性は棚に上げて、雇い主を怨んだりすることになるのです。怨むならば自分の心ばかりです。
自分の心が変われば、そのような外界が変わってくるか、それとも自分というものとその環境というものとが調和しなくなりますから、その人は自然にそういう環境を出てもっと自由な勤務につくことができるようになるのです。そして、その環境、状態が自身の心に相応するような代わりの人間がその環境に這入って来て、そこでまたその人が、心相応に鍛えられることになるのです。何事も無駄はないのです。心相応の人が心相応の世界で鍛えられるようになっているのがこの世界であります。
滝村―― なるほど、大変よくわからせていただきました。
5312
:
a hope
:2015/03/24(火) 23:07:17 ID:cEpBaIdo
(
>>5311
a hope所感)
この滝村氏の「牛乳瓶の内側にたまったカス」の例えは具体的でわかりやすかったです。
結局、人間も同じなんですね。
どんなに外見を磨いて綺麗にみせているつもりでも、その心は見抜かれてしまう。
だからこそわたしたちは、正しい信仰をして心を浄めていくんですね!
5313
:
コヨーテ
:2015/03/25(水) 09:08:44 ID:NBWk5vHk
>>5311
>>5312
、修養みたいな感、うけますよね。修養では、無理ですね。
5314
:
a hope
:2015/03/26(木) 06:46:48 ID:cEpBaIdo
>>5313
コヨーテさま
コメントありがとうございます。
ですが、大変申し訳ないのですがよく意味が通じません。
もう少し、詳しくご説明くださるとうれしいです。
5317
:
応援
:2015/03/29(日) 16:06:44 ID:ibklqf52
A hopeさま
y欲張り根性がなくなり、、、、
そういうところが、修養っぽくおもえるということではないでしょうか、
5318
:
神の子さん
:2015/03/29(日) 16:33:43 ID:???
古桶の底をぶち抜くことを修業と云うのであれば
溜まった水を浄めることを修業と云うのであれば
吾が心と云う古桶をそのままにして修行と云うのであれば
5319
:
a hope
:2015/03/29(日) 23:09:35 ID:cEpBaIdo
みなさま こんばんは
コヨーテさんのコメントの内容がわたしにはよく理解できなかったのですが、
>>5317
の応援さんのコメントを拝見して、コヨーテさんが言わんとしたことがなんとなくわかったようなきがします。
つまり、修養には「欲ばり根性のような汚い心を半ば強制的に外からの訓練によって叩き直す」ようなイメージがあるので、
それが、牛乳瓶の外側だけを磨いて綺麗にしていることのイメージと重なり、
そして、そのような修養的なやり方では、本当に心を浄めることは無理だとおっしゃりたかったのでしょうか?
そうだとすると、コヨーテさんのおっしゃることは、その通りだと思います。
心を浄め、真理を悟るためにはどんなに辛い修行をしても駄目だということは、
すでに釈迦やキリスト、そして谷口雅春先生が証明してくださっていますものね。
わたしは自分の心がどれだけ浄まったかは、
どれだけ自分の置かれた環境に「感謝」できたかでわかるのではではないかと感じています。
実は、わたしはここのところいろいろとありまして、なかなかゆっくりパソコンに向かう心の余裕がありませんでした。
家族が具合がわるくなったり、仕事で失敗したり、子供が問題行動を起こしたり・・・ちょっと気づかれすることが重なり、
精神的に追い込まれ、実際、一晩眠れないくらい心が動揺した夜もありました。
ですが、どんな困難があっても、どんなに苦しんでも、
「その困難や苦しみは自分が生長できる大きなチャンスだからありがたいんだ」って思うようにしました。
そしたら、本当に次の日朝の神想観で瞼の裏に素晴らしい光が見えて、すがすがしい気持ちになることができて、
それから、すべてが好転していきました。
そういう意味で、自分から辛い修行を求めなくても、今現在の自分の置かれた状況に感謝できるようになるのが、
それが一番の修養になるのではないかと感じています。
5320
:
a hope
:2015/04/01(水) 07:44:54 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます。
4月に入りましたので、第33回 web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
住吉大神様 住吉大神様 谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5321
:
a hope
:2015/04/01(水) 07:46:43 ID:brQxC10.
つづきまして、聖経「続 真理の吟唱」より、謹写させていただきます。
「神の聖愛と叡智を受けて益々向上する祈り」
われ今、宇宙の大神の神前に坐して真心を献(ささ)げて感謝し奉る。
永劫の過去より久遠の未来に到るまでに常に我と倶(とも)にいまして、我を導き護り給うその海よりも深く、山よりも高き御恩に対し感謝し奉る。
われ大神の神子(みこ)として地上に誕生してより以来、常に神は我を護り、教え、導き、必要に応じて、魂の向上に、精神の発達に、肉体の健康増進に最適なる糧を、色々の経験を通じて恰度(ちょうど)適当に与え給うのである。
神はまことにわが生命(いのち)の父であり、また母であり給う。
わが魂を養うために何を今、その時、その場に与えるが最もよきかを知り給うのである。
必ずしも〝甘い〝 経験ばかりが魂の栄養にはならないということを知り給うのである。
時には厳しい環境が私にとって魂及び精神並びに肉体の鍛錬のために必要なることを知り給うのである。
これは神の〝父〝 としての峻厳なる叡智的愛なのである。
もし峻厳なる神の父性的愛がなかりせば、私の魂も精神も肉体も、常に温かな潤いの中のみに育てられて、例えば〝もやし〝 の中で育った荳の蔓(つる)の如く、ウドの軟弱にして、すぐ腐ってしまう茎の如く、まことに脆い軟弱なものになっていたに相違ないのである。
わが今日、いかなる困難にも毅然として耐えることが出来、如何なる複雑錯綜せる事態に面しても、周章(しゅうしょう)狼狽(ろうばい)することなく、神の叡智につながる心の導管(どうかん)を開いて導きを受け、快刀乱麻(かいとうらんま)に截(た)つが如くに自由自在に事を処理し行くことが出来る力は、まことにも父としての神の峻厳なる愛と智との巧みなる配剤によって養われたのである。
今、私はこの事を顧みて、大神に無限の感謝を献(ささ)げ奉る。
困難や苦痛や、時には悲哀さえも私たちはそれをみずから体験することによって、困難に面して将(まさ)に崩折(くずお)れんとする人の心境を知ることが出来、それらの人々の心に真に同情し、彼らに自己同一し、彼等を真に愛することが出来るのである。
愛は神の母性的顕現として来たるのである。
峻厳なる神の父性的顕現の奥に、その深奥(しんおう)の幽(ゆう)なるところに、神の母性的愛はましまして、吾らが困難に躓き倒れ、苦痛に将に悶絶せんとする時に、隠れたるわが意識の奥にて吾らを支え給うのである。
困難に耐える力を鼓舞(こぶ)し、悲しみの奥に聖地があることを、それとなくわが意識の奥底から囁きかけて下さり、再び立ちあがる力を育み下さるのが、神の母性的愛なのである。
かくて冷厳なる法則としての神の父性的顕現と、天人の羽衣の如く柔らかく、春の霞の如く温かく、見えざる慈手(じしゅ)をもて、吾らを抱きあげ給うところの神の母性的顕現と、この両者の調和せる導きと、み護りと、叡智と聖愛とがあったればこそ、私の今日の愛と智慧とを備えた生活があるのである。
吾らの父にして母にまします神に無限の感謝を献(ささ)げます。
ありがとうございます。
5322
:
a hope
:2015/04/01(水) 07:49:00 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第33回 web誌友会 案内
期間 4月1日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第17巻 宗教生活篇
内容 第1章〜第4章
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
この17巻の宗教生活篇には、第1章と第2章に講演会での講演内容、
第3章と第4章に座談会での座談内容が収録されています。
真理は個人の生活に生きてこそ本物だと思います。
自分が光れば周りも明るくなりますものね。
これからも聖典「生命の實相」の真理を学んで、人類を光明化していきましょう!
5323
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/04/01(水) 22:15:53 ID:/cKczFlM
a hope様、ありがとうございます。
今月もよろしくお願いします。
皆様もどんどんご参加をお願いします。
合掌 ありがとうございます
5324
:
a hope
:2015/04/03(金) 21:22:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第17巻 p1
はしがき
〝生命の實相哲学〝 の説く中心真理はなんであるかというと、現象界は唯心所現であるから、心に従って自由自在に貧でも富でも病でも健康でも不幸でも現すことができるということである。
これを〝横の真理〝 という。
それからこの哲学の〝縦の真理〝 は、人間は本来、神の最高の自己顕現であり、如来であり、無限の生命、無限の知恵、無限の愛、その他すべての善徳に充ち満ちた久遠不滅の存在である――これがわれわれの実相であるということである。
この〝縦の真理〝 と〝横の真理〝 とを縦横に駆使して人生を支配しうる生活が本当の宗教生活であるのである。
宗教というものを死後の生活のためのものだと考えるのはまちがいである。
宗教は生命の不滅を教えるものであるから、死後にも生命が存続する限りにおいて死後の救いをも説くけれども、今生きている生命の救いが成就しないような宗教で、死後も存続する生活の救いが成就することは不可能であるのである。
生長の家の教えがすぐれているのは、宗教的真理を実生活に応用して、その真理を悟れる人々の身辺に、今ここに、天国浄土が実現するからである。
今ここに天国浄土を実現する道は仏教でもキリスト教でも説かれているが、それがたいてい忘れられているのである。
本書の一五一頁に小木虎次郎博士とわたしとの問答がある。
「趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が僧堂にいると弟子が道を聴きに入ってきた。趙州和尚は〝何を担いで来たか。その担いでいるものを放して来い〝 としかりつけたという話がある。〝無だ、無だ〝 と言って〝無〝 を担いでいる人がある。無というもの〝 だと思うから〝無〝 を担ぎたくなる。〝無〝 とは〝なんにも無いことじゃ〝 とわかったらもう担がなくなる。〝裸になってすべてを捨ててこい〝 と言ったら、着物を脱いで来ることだと思って身体(からだ)を真っ裸にして出て来るようなことでは、〝まだ何か股間に提(ひっさ)げて来ているぞ〝 と言われてまごつくようなことになる」と小木博士が言っている。
この何ものをも摑まなくなり、露堂々と生命の実相の完全さが露呈するようになったとき、その人の生命は自由自在となって病気も貧乏も家庭苦もいっさいの生活上の問題が解決するのである。
宗教生活はいっさいの否定をとおして、〝無〝 さえも否定しきって、その奥にある生命の実相の大自在を発揮する生活である。
死んでから宗教の救いがはじまるのではなく、生きている今本当の宗教生活があるのである。
キリストも「死にたる者に死にたる者を葬らせよ」と教えている。
読者が本書を読むことを契機として真に大自在の生活に到達せられんことを希望してやまない。
因みに本書の対話の中に出て来る人名はことごとく実在の人であって、石川芳次郎氏はそのころ京都電燈の社長であり、ただ今は京福電鉄の会長をしている。
小木虎次郎は石川氏の岳父であって明治初年の〝博士〝 の稀有なころの工学博士である。
岡善吉氏はそのころ京都ガスの支配人であったが、今は大阪ガスの重役をしておられる。
そのほか本書に出てくる人は、いずれも懐かしい人たちばかりである。
『生命の實相』の頭注版がでるに方(あた)って更(あらた)めて芳名を掲げて敬意を表する。
昭和三十八年七月十日
著者しるす
5325
:
a hope
:2015/04/03(金) 21:25:21 ID:cEpBaIdo
(
>>5324
a hope所感)
聖典「生命の實相」はどの巻も『はしがき』が素晴らしいのでわたしは読み飛ばすことができません。
「縦の真理」―― 人間神の子 (唯神実相)
「横の真理」―― 唯心所現
このふたつの真理が〝生命の實相哲学〝 の説く中心真理であり、
<<この〝縦の真理〝 と〝横の真理〝 とを縦横に駆使して人生を支配しうる生活が本当の宗教生活であるのである。>>
と、述べられています。
人生を支配するには、どちらの真理もおろそかにできないというわけですね!
この17巻なのですが、わたしの頭注版にはまったく赤線が引かれていませんでした。
ということは、わたしはまだこの巻は未読だったわけです(;´∀`)
どんな内容なんでしょうか、ワクワクしています。
みなさんもぜひ一緒に拝読してみてくださいね!
5328
:
神の子さん
:2015/04/04(土) 08:54:01 ID:???
a hopeさま
でも、やっぱりこっちだよね。「縦の真理、人間神の子」
根本真理だから。
横の真理ぽっちは案外誰でも知ってたりするけど、(#^.^#)
5329
:
神の子さん
:2015/04/04(土) 09:16:30 ID:p..UGkhA
上はるん吉でした
5330
:
神の子さん
:2015/04/04(土) 12:21:43 ID:RwGVxWiM
51 :神の子さん :2015/04/04(土) 08:57:25 ID:p..UGkhA教区板に続き、
独占板 ( *´艸`)
5331
:
神の子さん
:2015/04/04(土) 14:00:03 ID:UgE//uj6
>>5319
や
5332
:
るん吉
:2015/04/04(土) 15:05:00 ID:???
a hopeさま
>>自分が大きく成長できるチャンス。
>>自分から辛い修行を求めなくても、今現在の自分の置かれた状況に
>>感謝できるようになるのが、・・・
読ませて頂きました。けど、自分は応援さんのいうよのがちと分かるかなぁ。ですね。
感謝も難しい時はあるし、それを自力で感謝やったら、現象の心でやるわけやから
これも、修養ですよね。
私はa hope様みたいに人間出来てないから、難しいかな。
5333
:
a hope
:2015/04/05(日) 10:09:48 ID:cEpBaIdo
>>るん吉さま
わたしはここでは偉そうなことを言っていますが、現実には全然大した人間ではありません(;・∀・)
日々、偽我(ウソの自分)との戦いです。
現象のわたしには欲ばり根性もしっかりありますし、見栄をはりたい時もありますし、
相手を傷つける言葉を発してしまったり、態度をとってしまったりして、
落ち込むこともよくあります。
でも、以前よりはそういう自分にこだわらなくなりました。
それは、そんな自分は真我(本当の自分)ではないんだとわかっているからだと思います。
例えば、子供が悪さをして暴れている時など、頭から叱らないで静かにさとすように、
「こんな悪さをする○○君は、本当の○○君じゃないんだよ。それはウソの○○君だね。
お母さんは本当の○○君を信じているよ。」
と言ってあげると、必ず静かになって悪さをやめてくれます。
「実相を見る(信じる)」とはそういうことなのではないかと思います。
『感謝』に関しては、わたしもるん吉さまのおっしゃる通りだと思います。
「感謝しなくては・・・」という気持ちでするのであれば、
それは「現象の心」で無理やりすることになってしまいますものね。
わたしは「感謝の気持ち」とは実相の〝気づき〝 であり『悟り』なのではないかと感じています。
だから、『感謝』は内から湧き上がってくるものでなければ本物ではないと思います。
わたしはそこのところがわかったときに「大調和の神示」の内容がよく理解できました。
そして、本当の「和解」とは「感謝し合うこと」であり、
それができたとき、現象世界に「生長の家」が復活するのだと信じています。
5334
:
a hope
:2015/04/05(日) 10:11:57 ID:cEpBaIdo
「大調和の神示」
汝ら天地一切のものと和解せよ 天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である
天地一切のものが汝の味方となるとき 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ
汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ
われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき 先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である 神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ
天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である
本当の和解は互いに怺え合ったり 我慢し合ったりするのでは得られぬ
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ 感謝し合ったとき本当の和解が成立する
神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ
天地万物との和解が成立せねば 神は助けとうても 争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ
皇恩に感謝せよ 汝の父母に感謝せよ 汝の夫又は妻に感謝せよ 汝の子に感謝せよ 汝の召使に感謝せよ
一切の人々に感謝せよ 天地の万物に感謝せよ その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見 わが救を受けるであろう
われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる
われは此処に見よ 彼処に見よと言うが如くにはいないのである
だからわれは霊媒には憑らぬ神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ
われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ
われは愛であるから 汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる
(昭和六年九月二十七日夜神示)
「大調和の神示」 転載元
http://www.na.rim.or.jp/~hfg01061/public_html/16-9-27.htm
感謝 合掌
5335
:
a hope
:2015/04/08(水) 09:24:55 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第17巻 p44 5行目〜
病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。
何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。
派生したものならば、その流れて行く方向がちがうかもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って互に争わなければならぬかもしれぬ。
けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いをする必要がない。
お前の宗教をやめて「生長の家」へ入れとは言わない。
また言う必要がない。
すべての宗門もそれで宜しい。
しかしもっと奥へ這入れ、その堂奥(どうおう)に「生長の家」があるということを説くのであります。
キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。
しかし宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。
宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業視され、老人の玩弄物視されてしまうのであります。
ところが宗教が実生活にまで生きてきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。
実生活の指導原理となるばかりでなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。
実際宗教の目的は、「神の子」の生活を人生に実現するためであって、これこそ「生長の家」がこの世に出現した使命であります。
5336
:
a hope
:2015/04/08(水) 09:26:31 ID:cEpBaIdo
(
>>5335
a hope所感)
この第1章「生活に生きる宗教」は、昭和9年11月10日に東京都有楽町報知講堂で行われた、
「人類光明化運動講演会」での谷口雅春先生の講演内容です。
その講演では、雅春先生の話を聞いたり、「生命の實相」を拝読したりすることにより心が整い、
病気が治ってしまったという『唯心所現』の実例が次々に紹介されています。
しかし上のわたしの謹写部分にですが、「生長の家」は決して『唯心所現』(横の真理)だけを説く宗教ではないと述べられています。
つまり、人々に唯心所現の真理(横の真理)を悟らせて実生活に生かすことで、「人間神の子」(縦の真理)を人生に実現させること、
それが「生長の家」がこの世に出現した使命であるとおっしゃっています。
>>5328
でるん吉さまもコメントをくださっていますが、
この「人間神の子」の『縦の真理』が「生長の家」の根本真理にあるからこそ、「生長の家」は一切宗教の神髄だといえるのですね!
「生長の家」って本当にすばらしい!!
5337
:
a hope
:2015/04/10(金) 10:29:21 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第17巻 p56 後から4行目〜
今までの宗教に属する人や道徳家が善くなろうと思っても善くなれないのは「頼みにならぬ我」――本来悪いわれ――本来無いわれ―― ウソのわれで善くなろうと思うからなのだ。
なぜいつまでもそんな「ニセ物の我」で善くなろうと思いつつ善くなれないといってそんなことに引っかかっているのだ。
今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。
それは前の場合には、酒を飲みたい心、――ウソの心で酒を飲むまいと工夫していたからそれが止められなかったのです。
「酒を飲みたい心」で酒を飲むまいと工夫したとてそれは無駄な努力にすぎないのです。
そんな悪い心は無いと知って、実相の心、阿弥陀仏の心、無限に善い心、久遠のキリストの心ばかりが実在であり、それが「本物の自分の心」だと知ったとき、ひとりでに内在の善が顕われてきて、善きことばかりができるようになるのです。
「生長の家」の説くところは、自分を悪いくだらないものであると大きくいったんその悪さを認めてから捨てるというような迂回的な捨て方をするのではない。
闇をいったんあると認めてその闇を握って摑んで捨てようと思っても、闇というものは消えるものではない。
闇というものを消す方法は、闇がアルとかナイとかいうことなしに頓着しないで闇の反対――「光」をだせば、闇は消えてしまうのです。
光さえ出せば幾億万年以来からの濃い闇でも電燈一個ともせば消えてしまうのです。
だから闇のことは頓着する必要はちっともないのです。
「悪い自分」のことは頓着する必要がない。
ただ本当の自分の「光」さえだせばよいのです。
本来「天照大御神」と同体の自分のみを認めればよいのです。
本来「尽十方無礙光如来と同体の自分」というもののみを認めればよいのです。
「久遠のキリストと同体の自分」のみを認めればよいのです。
そうしたら光が出ればすべての闇が消えてしまうように、悪い自分というものは本来無いから消えてしまうのです。
だから苦労して止(や)めようとしても止まなかった飲酒癖などが自然になんの苦しみもなく止まるのは、自分のうちに宿る仏性が出て来るからです。
自分の中に宿るキリストが出て来るからです。・・・
5338
:
a hope
:2015/04/10(金) 10:32:59 ID:cEpBaIdo
(
>>5337
a hope所感)
ここに、「生長の家の教え」が、「修養」とか「自制」とかいうような方法で
『悪い自分(偽我・本来無い自分)に働きかけて善くしていこうという教えではない』、
ということがはっきりと述べられています。
<<今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。>>
わたしたち「生長の家」を信仰する者は、人間の悪や罪を認める必要はまったくなく、
だだ、神想観をして、『生命の實相』を拝読することで、自然に「実相の心」(本当の自分)が顕われてすべてが順調に流れ出すというわけですね!
5339
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/04/10(金) 19:49:24 ID:4juByk5Y
生命の実相第17巻 44ページより謹写
病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。派生したものならば、その流れて行く方向がちがうもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って争わなければならぬかもしれぬ。
けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いを
する必要がない。お前の宗教を止めて「生長の家」へ入れとは言わない。また言う必要
がない。すべての宗門もそれで宜しい。しかし、もっと奥は這入れ、その堂奥に「生長の家」
があると説くのであります。
キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。
しかし、宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。
(つづく)
5340
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/04/10(金) 20:03:14 ID:4juByk5Y
宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業
視され、老人の玩物視されてしまうのであります。ところが宗教が実生活にまで生き
てきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。実生活の指導原理
となるばかりではなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。
<以上で、謹写を終えます>
私が感じた部分は以上の部分であります。
亡くなられた藤原敏之先生は、生長の家宇治別格本山の長期練成が終わる時のご講話
で、「みなさんは、今日で宇治の練成会は最終日を迎えますが、ここで学んだことを
帰ってから実践することが大事なんですよ。」と言われていたのを思い出します。
聖典に書かれていることを生活に実践し、よりよい生活を送る。
その悦びがあって、はじめて他人様にお伝えしようという原動力になるのであります。
生活に活かす、という信仰は、簡単なようですが、たいへんな部分はあります。
が、そこからしか、本当の向上はないと感じております。
合掌 ありがとうございます
5341
:
a hope
:2015/04/12(日) 23:26:23 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第17巻 p60 後から2行目
神さまは決してイエス・キリストを磔刑(はりつけ)にされはしなかったのです。
またキリスト自身も磔刑に処せられて血を流したこともなかったのです。
ではなぜキリストは磔刑になって実際われわれの眼に磔刑になったのごとく顕われ給うたのでしょうか。
それは神の怒りをなだめんがためではない。
至仁至愛(しじんしあい)なる神は決して未だかつて怒り給うたことはないのです。
だから神の怒りをなだめる必要などは露さらないのです。
ではなんのために神はキリストを遣わし給うて磔刑にかかって苦しむ有様を現じ給うたのでありましょうか。
それは実に人類の罪の意識をなだめんがためなのであります。
「罪」というものを神は造り給わないのでありますから、罪はこの世に実在しない、実在しないはずの罪がどうして消えないかというと、人類自身の念が、罪がある、罪が重いと思ってそれに執着しているからなのです、「罪はない」と知って念を罪から解放しましたらなら、地球の引力がなくなったらいっさいの雲霧が飛び散ってしまうように、「本来無い罪」は自然に消え去ってしまうのであります。
だといって、「罪は無い」と教えてやっても、「罪はアル」と思っている人々には、なかなか「オオそうか」と罪念が消えてしまわない。
そういう人の罪の観念を消し去るためには、罪を贖(あがな)うためには罪の値を支払うためには、自分自身何か罪つぐないの苦しみをするか、誰かが代わりに苦しんで「オイお前の罪の代価はワシが代わりに払ってやったよ」と言ってくれる人がなくてはならない。
イエスが神から遣わされて十字架にかかって苦しまれたのは人類に対して「オイお前の罪の代価はワシが代わりに支払ってやったよ」と言って、われわれの罪の意識をなだめる役目で出現されたのであります。
決して神の怒りをなだめるためではなかったのです。
神は決して怒り給うような神ではないのです。
「オオ君が僕の代わりに借金を支払ってくれたのかありがとう」――人類はこう言って罪の重荷がおりたと思ってラクになり、ヤレヤレと思う。
これで、人類から罪の念が解放される。
罪本来無く、ただ罪の念で繋ぎ止めておいたために今まで消えなかった罪ですから、もうこれで罪は消えてしまったのです。
イエス・キリストはこういうように人類の罪の意識をなだめて人類から罪を解放し、人類をラクにしてあげようと思って、本来苦しまず、本来金剛不壊で傷つかない「久遠の実在」であるにもかかわらず、磔刑にかかって傷ついた姿であらわれたのであります。
だから、キリストの十字架の目的からいってもキリストでさえ苦しみ給うたのであるから自分も苦しまねばならないなんて考えているのはまちがいなのであります。
キリストの十字架は人間が楽になるように出現したのです。
宝蔵菩薩の四十八願は人間が楽になるように、極楽になるように出現したのです。
宗教というものは、こういうように人間が楽になるように、極楽になるように出現したのでありまして、今までの宗教には難行道という易行道(いぎょう)とがあると言われていますが、真宗などは易行であって、ただ南無阿弥陀仏と言うだけで救われるのでありますが、「生長の家」は易行よりもまだやさしいのです。
それは容易(やさ)しいだけではない。
楽な行である。
楽行道だと言っているのであります。
もう時間も予定の十時を十分過ぎましたから今日の講演はこれで終ることに致します。
第1章 終わり
5342
:
a hope
:2015/04/12(日) 23:27:37 ID:cEpBaIdo
(
>>5341
a hope所感)
あくまでも、磔行(はりつけ)になったのは肉体キリストの現象の姿であって、
実相のキリストは久遠の実在で、磔行(はりつけ)にもなっていないし、血も流していないのですね。
わたしたち人間の実相もみなキリストと同じ久遠の実在なのですから、悟ってみれば、
どんな苦難に見舞われようとも苦しむこともなく傷つくこともないのだと思います。
そして、「病なし 迷いなし 罪なし」 の「実相独在」の真理を悟るためにわたしたち「生長の家」の信徒がすべきことは、
神想観と聖典「生命の實相」の拝読なのですから、それは本当に「楽行道」ですよね!
5343
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/04/13(月) 20:18:29 ID:SxM22Y9g
>>5342
おっしゃる通りですね!
生長の家の聖典を拝読すると、いろいろ良い事が書いて有ります。
例えば、生命の実相の第7巻の「朝の時間を活かせ」などは有名です。
ただ、そういう部分は、倫理とか道徳というところでも説かれてい
ます。信仰が倫理や道徳とどこが違うか、というと、神様の説かれた
真理から出発するところにあります。生長の家の信徒だと、人間=神の子
の真理から始まるかと感じます。
タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。そのために必要なのは、日常生活
の中で、誰でも始められるものですから、本当に「楽行道」ですね。
5344
:
a hope
:2015/04/14(火) 09:38:18 ID:cEpBaIdo
>>5343
トキさま
わたしの所感にご賛同くださりありがとうございます。
<<タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。>>
わたしも、トキさまのおっしゃるようになってこそ、神の子の実相が顕現したといえると思うのです。
現教団の雅宣先生や純子先生のご指導は、
『人間は「神の子」だから「神の子らしく」肉食を減らし、地球にやさしく暮らしましょう!』
みたいな、ご指導になってしまっていて、そのような指導方法では、神の子の実相は顕現しないと感じています。
今現在、生長の家の信徒の為すべきことは、
雅春先生の遺された「聖典の拝読」と「神想観の実修」それが最優先だと思います。
それに、それは、誰をも幸せにする「楽行道」なのですから・・・
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