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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

1煌月の鎮魂歌 prologue 1/2:2015/02/25(水) 09:03:07
PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

80煌月の鎮魂歌5 14/22:2015/07/19(日) 09:56:27
「アルカードから離れろ、この──雑種!」
 怒りのあまり、ラファエルは我を忘れて息を切らしていた。左右に控えていた
使用人が必死になって引き留めているが、そうしなければ今にも椅子から転げ落ち
そうになっている。
 足さえ動けば、と少年が焦げるほどに念じているのが脳味噌に突き刺さるほど
伝わってきて、ユリウスは笑った。足さえ動けば、この無礼な野良犬に当然の罰を
下してやるのに。そもそもこんな場所に、足を踏み入れさせることもしなかったのに。
アルカードに触れるなんて、そんな ──無礼な、汚らしい、そんなこと──
 ユリウスはそちらに牙をむいて笑うと、胸によりかからせたアルカードの顎を
つかんで上向かせた。氷蒼の瞳が驚いたように見開かれる。
「ユリウス? 何を──」
 有無を言わせず、ユリウスはその唇を塞いだ。
 腕の中でしなやかな身体が反射的に抗いかけたが、やがてだらりと力が抜けた。
抵抗しない甘く柔らかい舌を思う存分むさぼり、最後に濡れた唇に舌先を見せつける
ように走らせて、音を立てて離した。
「こいつは最高の牝だ。少なくとも、俺が見てきた中じゃな」
 呼吸も許されないほど手荒く口づけられたせいで息を乱しているアルカードを抱き、
朗らかにユリウスは宣言した。
「こいつを俺専用の牝犬にする。いつでもどこでも、俺の言うことならなんでも聞く
ペットだ。見た目もそう悪くない。まあ、しばらくは楽しめそうだ。味見もさせて
もらったしな。首輪と鎖は遠慮しといてやるよ。お上品なここじゃ、ちょいと場違い
だろうからな」
 車椅子の中でラファエルは身悶えしていた。
「アルカードを離せ、雑種! 出て行け、汚らわしい、こんな──」

81煌月の鎮魂歌5 15/22:2015/07/19(日) 09:57:01
「おいおい、お兄ちゃんにそんな言い方はないんじゃないか、兄弟」
 悲しげな顔をつくろい、ユリウスはラファエルに口をへの字に曲げてみせた。
「お前はずっとここで、この牝犬と遊んできたんだろうに。ちょっとくらい、
お兄ちゃんにわけてくれてもいいだろ?」
「アルカードをそんな風に言うな、犬はお前だ、雑種、野良犬!」
 本当に床に前のめりになりかけたラファエルを、使用人があわてて引っ張り上げる。
血の気をなくした顔の中で、ベルモンドの濃い青の瞳が憤怒のあまり鬼火のように
爛々と燃えていた。
「お前なんか兄じゃない、お前なんか認めない、兄弟だなんて、絶対に! 
アルカード、お願いだ、なんとか言ってよ」
 訴えるようにラファエルはアルカードに呼びかけた。
「こんな奴に好きなようにされるなんて許せない、あなたはベルモンドの宝なんだ、
ずっと僕たちを導いて輝いてきた至高の存在なんだ、なのに、こんな雑種の汚い手に
どうして捕まってるの、アルカード、お願いだからなんとか言ってよ、ねえ──」
 アルカードは聞いていたのかもしれないが、それに注意を払っているようすは
なかった。すでにあの澄んだ泉のような平静さを取り戻し、なめらかな白い顔で
じっとユリウスを見上げている。まだ濡れている唇が艶めいて光り、ユリウスは
もう一度ここで彼の服を引きはがして犯してやりたい衝動にかられた。青く澄んだ
瞳の奥に、わずかな金のきらめきが揺れる。
「……それがお前の条件か」
 ささやくように彼は言った。ブロンクスの地下室でと同じように。
 ユリウスの口の中が一気に干上がった。
「そうだ」
 口蓋に張りつく舌を動かしてやっと言った。周囲の喧噪も車椅子の少年も今はみな
遠かった。存在するのは自分と月、腕の中で長い銀髪を揺らし、遠い視線を送る白く
まばゆい月の顔だけだった。

82煌月の鎮魂歌5 16/22:2015/07/19(日) 09:57:36
「あんたを俺の物にする。それだけだ。ほかの条件は受けつけない」
「そうか」ユリウスの胸に手をつき、アルカードは視線を下げた。
「わかった」
「アルカード!」
「──ラファエル。そして皆」
 ユリウスに腰を抱かれたまま、アルカードは頭を上げて周囲を見渡した。
「私は、ユリウスの要求を了承する」
 室内の者がいっせいに息をのんだ。
「アルカード! いけない、そんなこと」
 ラファエルの声は今にも泣き出しそうな子供の金切り声だった。
「あなたがそんなことするなんていけない! そんなこと、あなたにさせられるわけ
ない、あなたがそんな奴に、そんな──」
「これは必要なことだ、ラファエル。皆も」
 人形のようにユリウスに抱かれながら、アルカードの言葉はなおも指導者の、王者
の気高い血を引く者のそれだった。
「われわれは魔王を封滅する。そのためには鞭の使い手が必要だ。そのためにはどの
ようなことであろうとせねばならない。彼の要求が私であるのならば、私がそれを
する。疑問の余地はない。鞭の使い手は存在しなければならない。彼が、その唯一
の者なのだ」
 視線をもどしてアルカードはひたとユリウスを見つめた。あまりにも深く強く遠い
まなざしにユリウスはめまいを感じた。それと同時に、自分がおそろしく間違った
選択をしてしまったような気がした。遠い昔に、街角で何一つ持たずに、母親の死体
を見下ろしていたときの空虚な感じ。
「私はお前のものだ」
 単なる事実を述べるように淡々とアルカードは言った。

83煌月の鎮魂歌5 17/22:2015/07/19(日) 09:58:15
「そしてお前には鞭の継承者としての教育を受けてもらう。ヴァンパイア・キラーの
使い手となるにはまず、人間の想像を超える相手に立ち向かうための手腕と、聖鞭
それ自身に認められるだけの精神が必要だ。私がそれを教える」
 これは違う、という言葉が喉元まであがってきたが、声に出すことはできなかった。
望んでいたのはこんなものではない。望んでいたのは、本当に欲しかったのは──
「魔王の城は魔物や悪魔の巣だ。そういったものへの対処法も学ばねばならない。
時間がない。お前は半年間ですべてを身につけ、その上で鞭に使い手として認めら
れねばならない」
 衆目の中で人形のように抱かれながら、アルカードは澄んだ泉のようだった。さざ
波一つ立たず、鏡のようになめらかな水面。ユリウスはいつかその氷青の瞳に映る
自分自身と目をあわせていることに気づき、ぎくりとして目をそらした。
「さっそく指図か」
 いつものような声が出せたのが不思議だった。口の中は砂漠を歩いていたように
乾ききっている。
「本当に俺がそんなことに我慢してつきあうと思うのか? 俺はあんたで遊びたい
だけで、ほかのことには興味なんかないかもしれないぜ」
 白い貝のような耳朶に囁き、腰から背を粘りつくようになで上げてやる。シャツの
裾から手を滑り込ませようとしたとき、初めてアルカードは身じろぎして抵抗する
素振りを見せた。
「ここでは──駄目だ」
「なに?」
「……あの子が見ている」
 ラファエル。
 少年は車椅子の上で石と化したようにかっと目を見開いていた。少女めいた甘さの
残る顔立ちは苦悶と焦燥にゆがんでいる。きっと俺を今すぐ殺したがっているだろうと
ユリウスは思い、心底愉快になった。

84煌月の鎮魂歌5 18/22:2015/07/19(日) 09:58:55
「ここじゃなければいいんだな?」
 素早く囁き、アルカードの手首をつかんで扉へ向かった。自分の中にうずくまる
正体のわからない逡巡から逃れたかった。いつの間にか背後にも回り込んでいた
人々が、悪臭を放つ獣にでも近づかれたようにいっせいに割れた。
「じゃあな」うなだれたまま後に従うアルカードをがっちりつかんで、ユリウスは
陽気に手を振ってみせた。
「まあ、せいぜい楽しませてもらうぜ、クズども。お前らが見下してる雑種の野良犬
にどんなことができるか、じっくりそこで見てな」
 最後の一言は奥で動かないラファエルに向かって投げつけられた。高らかにユリウス
は笑った。
 手の中のアルカードの手首は頼りないほどに細い。げらげら笑いながらユリウスは
アルカードを部屋から引きずり出した。黒い影のように立っていた家政婦の老女
ボウルガードが、何も見ていないかのようになめらかに頭を下げる。部屋から
噴き出してくる棘のような悪意と軽蔑と憎悪を快く感じながら、ユリウスは大股に
廊下を進み出した。


 世話係の手で部屋へ運ばれ、一人になるまでラファエルは泣かなかった。人前で
泣くというのは、誇り高いベルモンド家の当主としてあってはならないことだ。
「ご苦労」部屋着に着替えさせられ、ベッドの上に寝かされて羽布団をかけられて
から、尊大にラファエルは言った。
「時間になったら、ボウルガード夫人に食事を運ばせてくれ。今日は……食堂へ降りて
いかないから。少し疲れた。しばらく本を読むから、一人にしてくれ。用事があれば、
ベルを鳴らす」

85煌月の鎮魂歌5 19/22:2015/07/19(日) 09:59:31
 いかつい世話係の男は頭を下げ、顔をラファエルから隠すようにして出て行った。
そこに浮かんだ哀れみの表情を見られなくなかったのだろう。ラファエルはベッド
サイドに積み上げた本の一冊を手に取り、いいかげんに開いて読むふりをした。
 ドアがしまり、世話係の足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、少年は本を
投げ出し、枕の上にうつ伏した。
 枕に顔を押しつけて、声が漏れないように泣きじゃくる。足が動かなくなってから、
覚えたやり方だった。これまでにも深夜に、こっそり涙を流すことはあった。だが
今回は酷すぎた。あまりにも。
 アルカード。
 小さいころから、彼はラファエルにとって神のような存在だった。神以上だったかも
しれない。力を引き出す象徴として神のシンボルを利用するとはいえ、ラファエルは
真の信仰心を抱いたことなどなかった。そういった感情はすべて、五百年をこえて
老いることなく生きる、幻のような美貌の青年に捧げられていた。
 崇拝していた。アルカードは〈組織〉のために世界を飛び回ることが多く、ここに
戻ってくることはあまりなかったが、たまに戻ってきたときは全世界が光り輝くよう
だった。幼いラファエルの頭に手を乗せ、わずかに微笑するその顔ほど美しいものは
なかった。いつか彼の隣で鞭の使い手として、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
して魔王を封じる、それが自分の運命であり、使命だと信じていた。
 ある幸せな夏の日を思い出す。しばらく屋敷に帰ってきたアルカードが図書室にいる
と聞いて、取るものもとりあえずに飛んでいった。まだ十にもならないころだった。
アルカードは図書室のフランス窓のそばに腰を下ろし、何事か書類に目を通していた
が、おずおずと入っていったラファエルを微笑して迎えてくれた。
 大きくなったなと言ってくれた。アルカードはお世辞は言わない。彼は思ったとおり
のことを言う。誇らしかった。書類を仕上げるアルカードの足もとに座って仕事が
終わるのを待った。やがて仕上がったものを脇に置くと、勉強や修行の様子を尋ねて
くれた。懸命になって答えた。鞭の使い手として恥ずかしくないように。あなたの隣に
立つ者としてふさわしくなれるように。

86煌月の鎮魂歌5 20/22:2015/07/19(日) 10:00:16
 微笑しながら聞いていたアルカードは、それでもあまり根を詰めすぎるのはよくない
と諭して、蔵書の中では子供向きであると判断したらしい古い騎士物語を読んでくれ
た。彼自身がその物語の中から歩み出てきた者のようなのに。
 それ自体が音楽のような声が古雅な韻文を朗唱する。雄々しい騎士が数々の勲功を
あげ、竜を退治し、塔にとらわれた乙女を救い出す……それらはみないずれ、自分の
身に起こることの予言に感じられた。このたぐいなく美しい青年の隣で、伝説となる
べき戦いに身を投じるよう、運命づけられているのだと。歓喜に身が震えた。
 それなのに、あの野良犬が奪っていった。すべてを。
 兄だなどと呼びたくもない。考えるのもいやだ。あんな男の汚い手に、アルカードが
触れられると思っただけでも耐えられない。今はもういない父を呪った。なぜあんな
──もの──を生かしておいたのかと、胸ぐらをつかんでなじりたい気持ちだった。
 ぴくりとも動かない足など切り落としてしまいたい。どうしてこの足は動かないの
だろう。足さえ動けば、あの男が我が物顔にベルモンド家に踏み込んでくることは
なかった。聖鞭も、アルカードも、奪い去られることはなかった。腫れ物に触るように
接される日々はうんざりだ。誰もが自分はもうベルモンドとしては役立たずだと
知っていて、それでいて、必死にそう思っていることを隠そうとする。
 でもアルカードだけは離れてはいかないと、なぜか信じていた。それほどに、彼は
絶対の存在だった。
 なのにその彼さえも、あの男の薄汚い手にさらわれてしまった。
 守れなかった。ベルモンドの家長として、彼だけはどんなことがあっても守るべき
だった。守りたかった。
 ──守って、あげたかったのに。
 涙も声も白いリネンが吸い取っていく。力の入らない下半身を呪いながら、身を
よじって少年はむせび泣いた。握りしめた指がシーツに醜い皺を作っていく。カーテン
を締めきった部屋は薄暗い。
 家具の作る複雑な影の奥底で、何か小さなものが、ちらりと動いた。

87煌月の鎮魂歌5 21/22:2015/07/19(日) 10:00:51



「脱げ」
 屋敷から引きずり出して庭園の一隅までひっぱっていき、ユリウスは命じた。古い
屋敷の石壁に背を預けて、アルカードは動かなかった。
 じれて下の衣服だけをはぎ取り、壁にむかって手をつかせた。なめらかな臀が
あらわになる。ろくに慣らしもせずに突き入れると、白い背が一瞬弓のように反った。
喉の奥でかすかにうめき声をたてたようだったが、あまりに小さかったのでユリウス
の荒い息とベルトの音にかき消されてしまった。細い肩を砕かんばかりに掴んで、
ユリウスはきつく相手を壁に貼りつけた。
「あそこじゃ嫌だと言ったな。なら、ここでならいいだろう」
 激しく腰を使いながら、ユリウスは吐き捨てた。
「忘れるな。あんたは俺の牝犬になるんだ。そう言ったんだからな。俺がそう言えば
どこでも尻を差し出せ。ひざまずいてブツを嘗めろ。そういうことが大好きなん
だろう、え、この淫売、牝犬。何度もここに男をくわえ込んでるくせしやがって」
 ひときわ深く手荒く抉ると、シャツに包まれた肩がわずかにこわばった。
 蔦と苔におおわれた石壁に頬を押しつけ、強く目をつぶっている横顔からは、苦痛
に耐える以上のなんの表情も読みとれない。体だけが従順にユリウスに応え、熱く
狭く柔らかい肉で気の遠くなるほどの快楽をユリウスに返してくる。
 闇雲な怒りのままに、腰を動かしながら髪をつかんで顔を上げさせ、無理やり唇を
奪った。わずかな抵抗があったが、それも、すぐあきらめたように力が抜けた。その
無抵抗さがますます怒りを煽った。手を伸ばして、片手でへし折れそうな細い首を
つかむ。

88煌月の鎮魂歌5 22/22:2015/07/19(日) 10:01:21
 締めつけると、苦しげに身をよじり、むせた。
 開いた目がわずかに濡れていたが、涙ではなかった。瞳はあくまでも冷たく澄み渡
り、ユリウスの中に理由のわからない恐怖に似た何かをかきたてた。
 こいつは俺のものだ、とユリウスは繰り返した。
 俺のものだ。俺のものになった。俺だけの牝犬になることを承諾したんだ。
 なのに、なぜこれほど不安なのだ?
 さまざまなものが入り交じった感情が駆け抜け、ユリウスは呻いた。下腹部に疼いて
いた溶岩のようなものが一気に押し上げてきて、達した。
 脳天を雷に貫かれたような、目の前が白くなるほどの快楽だった。体内にぶちまけ
られたアルカードは小さく息を呑んで拳を握りしめたが、それ以外の反応は示さなか
った。溢れた精液が内股を汚して流れ落ちていく。
 俺の物だ。俺の物なんだ。
 手の届かない月。いや違う、そうじゃない、こいつはただの肉だ。俺をくわえこむ
牝犬だ。そら、こうして、俺のものをくわえ込んで喘いでいる。ああ、白い月の顔、
どんなに手を伸ばしても届かない、つかまえられない天空の月──
 二度三度と達しても、ユリウスに萎える気配はなかった。強姦は延々と続いた。
半身を血と精液で汚し、膝を震わせて壁にすがりながら、長く手酷い扱いの間、アル
カードは一言の声もあげなかった。悲鳴すら。

89煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:29:23
 Ⅱ   1999年 2月

           1

「触れ、だと?」
 ユリウスの声にはすでに危険なほどの怒気がこもっていた。
「そうだ」平然とアルカードは返した。
「どこでもいいから私に触ってみろ。指先をかすめるだけでいい」
「てめえ……俺をコケにしてんのか?」
 アルカードは平静な顔だった。冗談を言っている顔でもなかった。
 ベルモンド家の広大な敷地の一隅に設けられた訓練場は古く、広大で、石で張られた
床と壁はこれまで幾代ものベルモンド家の者の血と汗を吸い込んで黒光りしていた。壁
には鞭をはじめ剣や斧、短刀、鎖のついた鉄球、棍棒や杖、弓矢などあらゆる武器が
かけられ、そのどれもが使い込まれた道具の独特の精気を放っている。
 アルカードとユリウスはそこで向かい合って立っていた。両者とも武器は持ってい
ない。から手である。てっきり武器の訓練を始めるものだと思っていたユリウスは
不審に思い、そして、今は怒り狂っていた。
 アルカードは黒ずくめのスーツから妙に時代のかった、白い綿のシャツと膝丈の
スパッツに着替えていた。ぴったりした長い白靴下に、これまた博物館から持って
きたのかと思うような古風な短い革靴を履いている。シャツはひかえめに言っても
身体にあっておらず、もともと大きすぎるシャツを乱暴に着丈と袖丈だけひっつめた
ような妙なしろものだったが、アルカードはまったく気にしていないようだった。
だぶだぶのシャツにくるまれ、小さな短靴をはいたアルカードは、スーツ姿の時とは
うってかわってほんの少年のように、壊れやすくか細く見えた。
「俺がブロンクスで何をしてたか知ってんだろうが。その俺に、ガキの鬼ごっこを
やれってのか? ぶち殺すぞ、おい」
「それはまず、私に触れるようになってからやることだ」

90煌月の鎮魂歌6 1/29:2015/08/27(木) 00:30:10
 平然としたアルカードの返事に、一気に頭に血がのぼった。
「それじゃあお望み通り、そこに這いつくばらせてやるよ!」
 両足に力を込めて、ユリウスはまさに襲いかかる毒蛇の素早さでアルカードに突進
した。
 手は勢いよく空を切った。
 ユリウスはたたらを踏み、止まり、なんの手応えもなかった手を見下ろし、背後に
いるアルカードを呆然と振り返った。アルカードは何が起こったのかも知らぬ風で、
遠い目をどこかに向けている。
 ユリウスは唸り、わめき、猛然ともう一度つかみかかった。
 またもや空振り。そしてまた。三度。四度。
 よろめいて地面にぶつかり、ユリウスは唖然とアルカードを見上げた。
 彼は訓練開始からほとんど動いていない。立つ位置すら動かしていないのに、手は影
のようにそこを通り抜けてしまう。
「無駄な動きが多すぎる」
 四つんばいになったユリウスを見下ろして、あくまで淡々とアルカードは言った。
「勢いだけでとらえられるほど敵は甘くはない。相手の動きを予測し、必要最小限の
動きで正確に位置を定めるのだ。私に指一本ふれられないようでは、この先、魔物との
戦いはおぼつかない」
「この……」
 一気に跳ね起き、相手の腹にむかって突進したユリウスは、またも何もつかむことが
できずにバランスを崩して鼻から床に激突した。
「相手をよく見ろと言っているだろう」
 後ろからアルカードが言う。確かにそのどてっぱらにタックルする勢いで突っ込んだ
というのに、銀色の姿は幻のように通り過ぎて、前と変わらない位置に髪一本乱さず
立っている。
「力任せに動くだけでは無駄に体力を消耗するばかりだ。魔物との戦いは人間相手とは
わけが違う。素早く、正確に、相手の急所を一撃しなければそれはそのまま死につながる」

91煌月の鎮魂歌6 3/29:2015/08/27(木) 00:30:53
 ずきずき痛む鼻を押さえてユリウスはやっと起きあがった。鼻の頭を手ひどく擦り
むき、指の間からは血が垂れている。〈毒蛇〉が他人に血を流させられるなど言語道断
だ。ましてやスカったあげくの鼻血などと──
 野獣のような咆吼をあげてユリウスは突進した。両腕を振り回し、足を蹴り出し、
ブロンクスで身につけたなりふりかまわぬ喧嘩のあららゆる手を使ってゆらめく銀の
髪をつかまえようとする。
 そのたびにきらめきは影のようにすり抜け、何一つ動かず変わりもせずそこに立って
いる。ほんのすぐ指先にあるというのに、どうしてもその髪の先にすら触れることが
できない。まるで水に映った月をつかまえようとしているかのようだ。
 わめき声と罵りと荒い呼吸と派手な衝突音が二時間、三時間と続いた。
 身体じゅう擦り傷と埃と(自分の)血にまみれ、ついにユリウスは立ち上がる力も
なくしてその場に崩れ落ちた。動こうとして必死に唸るが、頭を持ち上げる力さえもう
どこにも残っていない。アルカードは訓練を始めたときとまったく変わらず、同じ場所
に静かに立っている。
「今日はここまでだ」
 起きあがろうと無様にもがいているユリウスを見下ろして、アルカードは穏やかに告げた。
「ボウルガード夫人が来る。彼女に着替えと昼食をさせてもらって、休憩のあとは東翼
の読書室に来い。午後からは魔物の種類とその対処法に関する座学を始める。まずは
魔物の名前を覚えるところからだ」 
 そのまましばらく──なんとも無様なことに──気が遠くなっていたらしい。我に
返るとアルカードの姿はなく、あの喪服めいた黒いドレスの老女、ボウルガード夫人が
古風な気付け薬の瓶の蓋をしめるところだった。鼻のまわりに強烈なアンモニアの刺す
ような臭いが漂っている。
「お立ちなさい」
 老女は仮面のような顔で告げた。

92煌月の鎮魂歌6 4/29:2015/08/27(木) 00:31:26
「アルカード様からのご命令です。離れの小食堂に昼食がご用意してごさざいます。
二時に迎えに参ります。そのあと、読書室へご案内します」
 ユリウスに言うことを聞かせられるものはほとんどいない。これまでいた少数の者は
いずれもユリウス自身の手で死んでいる。
 しかしこの鶏がらのような老女はいったいどういう手管を使ったのか、ふらふらの
ユリウスを起こし、浴室に放り込んで着替えさせ、食事をとらせ、時間通りに読書室に
送り込んだ。そこでは汗をかいた様子もないアルカードが、大きな分厚い樫材のテー
ブルの向こうで待っていた。
「来たか」
 ボウルガード夫人が一礼して下がると、アルカードは立ち上がり、テーブルを回って
ユリウスのそばに立った。白い指がそっと顎に触れ、魂までのぞき込むような瞳がまっ
すぐのぞき込んでくる。心臓が突き刺されたように震えた。
 だがそれも一瞬のことで、アルカードはつと視線をそらし、テーブルの向こうの椅子
にもどった。
「まずこちらの書物を暗記してもらう。本来なら一項目ずつ講義していきたいところ
だが、時間がない。暗記した上で、理解は訓練と実践の中でしてもらうしかない」
「おい、本気か?」
 ユリウスは思わず声を上げた。目の前に積み上げられた書物はどれも恐ろしく古く
分厚く、中にはばらばらになったページが紐で綴じられているだけの古文書とでも
呼ぶべきものもある。表紙に刻印されたかすれた金箔押しの表題は、古風すぎで判読
さえ困難だ。
「こいつをみんな暗記しろだって? 全部食っちまえと言われたほうがまだましだぜ」
「食べて覚えられるのなら、それでもいい」
 アルカードは動じなかった。
「ほとんどは羊皮紙だから動物性蛋白質ではある。しかし消化には悪いだろうし、効果
があるとは思えない。古英語や古典外国語の部分は私が書き直して現代英語の注を
入れておいた。読むのに支障はないはずだ。読み書きはいちおうできると聞いている。
質問は?」

93煌月の鎮魂歌6 5/29:2015/08/27(木) 00:31:59
 とっさに返事ができないでいるうちに、アルカードが最初の書物の一冊をとり、明瞭
な発音で読み始めた。
 授業は午後いっぱい、日が沈むまで休憩なしで行われた。途中でボウルガード夫人が
何か軽食を運んできたようだが、ユリウスはそれどころではなかった。アルカードが
読み上げる、ホラー映画や三文小説でしか聞いたことのない──または、それですら
目にしたことのない、異様な名前の魔物どもについての記述を復唱し、続いて自分でも
読み、与えられた紙に書きつづる作業で死にそうだったのだ。
「発音と綴りが違う」
 ちょっとした間違いでもアルカードは見逃さなかった。ユリウスの手元から紙を取り
上げ、さらさらと綴りと発音の間違いを美しい筆跡で書き込んで押し戻す。
「魔物は多かれ少なかれその真の名と本質に縛られる。彼らの名は彼ら自身でもある。
名の発音を誤っただけでも致命的な危地に陥る場合がある。いかなる場合でも正しい
名前を、正しい発音で口にせねばならない。魔物狩人としての基本だ」
「やかましい、くそっ、俺を誰だと思ってる」
 ペン軸(また古風なことにインクにつけて使用する羽ペンだった)を折れんばかりに
握りしめながら、ユリウスは歯ぎしりした。
「名前がなんだ。危地がどうした。俺はブロンクスで成り上がってきた赤い毒蛇だぞ。
致命的なんて言葉は本当に死んでから言えばいい。こんなものいちいち覚えなくても、
奴らが襲いかかってくる前にまとめてぶっ倒してやりゃそれで解決だ。イタリアの
パスタ食いとチャイニーズのオカマどもをまとめて相手にしてた俺をなめるな。こんな
蟻の行列なんぞ、奴らに比べりゃ朝飯前だ、くそっ、畜生」
 そう口にしたとたん、ユリウスは妙な空気を感じてふと手をとめた。アルカードが
手を本にのばしかけたまま、まじまじとこちらを見ている。
 これまでとはまったく違った目つきだった。ただ透明で美しく、冷たく澄み渡って
いた氷の青の瞳に、なにか別の色が現れていた。
 五百年を閲したその目の奥に見えたものは、およそ言語を絶するなにかだった。
終わりのない苦痛と悲しみ、それらに属するあらゆる感情の流す血が、凝縮された
ナイフのようになってユリウスの胸を切り裂いた。目まぐるしく変わるその色はときに
追憶、悲傷、哀惜、孤独──それらがとれるもっとも痛々しい姿がそこにすべてあった。

94煌月の鎮魂歌6 6/29:2015/08/27(木) 00:32:32
 片手が痙攣するように胸元にあがりかけ、力なく垂れた。一瞬にして瞳の色は消え失せた。
「……次はこちらだ」
 アルカードは目を伏せ、別の古文書を取り上げた。
「城に出没する中でも特に強力な混沌の一族について記されている。ただ徘徊するだけ
の下級の魔物どもとはわけが違う地獄の貴族たちだ。これらについては特に注意が必要
だ。私の発音をよく聞いて真似をしろ。くれぐれも綴りを間違えるな、いいな」

               2

「ユリウス・ベルモンドって、あんた?」
 寝椅子の上で怠惰に身じろぎし、ユリウスはうっすらと目を開けた。
 ガラスの天井からふりそそぐ陽光がまぶしい。ベルモンド家の広いサンルームは、
もっぱら滞在客たちの休息とレクリエーションの場とされていた。
 ユリウスがやってきた時も、数人の男女がテーブルを囲んで談笑したり、窓辺に
寄って何か秘密めいた話にふけったりしていたが、ユリウスが姿を見せるが早いか
全員が溶けるようにどこかへ消えていき、あっという間に誰もいなくなった。
 いつものように、ユリウスは気にもしなかった。ああいう連中はいちいち気にする
ときりがない。手近にあった寝椅子に寝転がって、置きっぱなしになっていたワインを
瓶ごと失敬し、ちびちびやりながら昼寝をきめこんでいたのだ。
 だらりとクッションに寄りかかりながら目の前のものをじっくりと観察する。
 見事なアンティーク・ドールが動き出したような少女だった。
 せいぜい十一、二歳といったところか。ほんの小娘だ。白い肌は陶器のように
なめらかで健康的なミルク色、波打つ髪はふさふさとした金髪。猫のようなつり上がり
気味の緑の瞳が目を引く。つんと上を向いた鼻先がちょっと生意気そうだが、小さく
ふっくらとしたかわいい唇は、咲き初めたばかりの薔薇のつぼみを思わせる。

95煌月の鎮魂歌6 7/29:2015/08/27(木) 00:33:10
 ワインカラーのベルベットにふんだんにフリルとレースをあしらったドレス、数える
のがいやになるほどのボタンとリボンと何枚ものペティコート、ぴかぴかの赤い革の
ブーツ。手にはいっぱしの貴婦人らしく、日除けの役にはたちそうにないレースと絹の
きゃしゃなパラソル。
 肩からはドレスとお揃いのちっぽけなポシェット。こちらもふんだんなレースと
ビーズで飾られ、肩紐は金の鎖と赤い革が交互に編みあげられた凝った細工、細い手首
には青いサファイアの輝きを放つ、シンプルなブレスレットがきらめきを放つ。
 肩の上には見たことのないインコほどの大きさの赤い小鳥。火のひとひらが羽に
なったような真紅の胸をつくろい、足もとには、白に黒の縞のはいっためずらしい柄の
子猫が金色の目でこちらを見つめている。どれもこれもが凝っていて、うんざりする
ほど愛らしい。
「ちょっと。人が話してるのに、返事しなさいよ」
 反応するほどの相手ではないと判断して目を閉じかけたとたん、ぐいとパラソルで足
をつつかれた。
 さすがにむかっ腹をたてて身を起こす。少女は気後れした風もなくまじまじと
ユリウスを見つめ、「ふうん」と鼻を鳴らして肩をすくめた。
「まあ悪くはないわね。とりあえずはだけど。アルカードが直接教えてるってことは、
なんとかものになりそうな素質はあるってことだし。ベルモンドの力は確かにある
みたいだから、あとは努力と、十分な精神力がそろってるかどうかってとこかしら」
「ひっぱたかれたいのか、クソガキ」
 ユリウスはうなった。
 この一週間ほど、アルカードはベルモンド家を離れている。
 何か理解できない理由で、世界の別のところに行く用事ができたらしい。出発の前日
に淡々とそのことを告げてから、自分の留守の間も訓練は続くと付け加え、山のような
課題図書と古風な字体でつづられた手製の問題集を押してよこした。さらに帰ったら
きちんと課題をこなしたかどうか口頭試験をすると宣言した。ユリウスはたっぷりと
文句と悪罵を並べたが、もちろんアルカードは聞く耳を持たなかった。

96煌月の鎮魂歌6 8/29:2015/08/27(木) 00:33:44
 初日には指をかすめることすらできなかったユリウスだったが、この半月で、
ようやくアルカードの衣服の端をつかむことに成功するようになっていた。ほんの
一瞬、それも十数回に一度という程度だったが、進歩は進歩だ。
 アルカードはそれを認め、戻ってきたら鞭の扱い方を初歩から再訓練すると言って
いた。から手での体術訓練も変わらず続ける。服だけでなく、中身にも触れられるよう
にならなければ魔物との組み討ちはままならない、ときれいな顔で言われた時には殴り
倒したくなったが、どうせ殴りかかってもまた空振りして無様にひっくりかえるだけだ
ともう理解していたので、我慢した。ブロンクスの連中が聞いたらツイン・タワーと
マンハッタンがまるごと崩れ落ちてくるかと思うことだろう。
 アルカードの代わりには、魔術と錬金術と科学の合体の産物らしい、金色に輝く奇妙
な球形の物体が相手をした。蜂の羽音のようなかすかな作動音をたてながら目にも
とまらぬ速度でユリウスの周囲を飛び交い、隙をねらって電撃や衝撃波、小さな矢や
自在に形を変える水銀のような刃で攻撃してくる。ユリウスは与えられた木剣で延々と
そいつらを払いのけ、はじき飛ばし、たたき落とした。
 アルカードの幻のような動きに比べたら、そいつらは実に退屈なしろものだった。
胸にこもった苛立ちをぶつけるように力任せに木剣をぶつけるとそいつらはほんの
しばらく停止して床に転がり、すぐに息を吹き返して浮かび上がる。金色の表面には
傷一つつかず、その球面に反射した自分の引き延ばされた顔を見ると、さらに苛立ちが
つのった。
 アルカードのことを思うと、また腹の底で欲望がうずいた。
 はじめの一週間はさすがに疲れ果ててそれどころではなかった。だが、訓練に慣れ、
ユリウスの若さと旺盛な体力が徐々に目を覚ましはじめると、ユリウスはアルカードに
約束を実行するよう要求した。自分の牝犬たること。呼べばすぐ這いつくばる自分の
ペットたること。
 アルカードは来た。
 来ないのではないかと半ば疑っていたユリウスの部屋の扉が真夜中、そっと叩かれ、
そこに、月光の精のような玲瓏とした美貌があった。

97煌月の鎮魂歌6 9/29:2015/08/27(木) 00:34:18
 昼間はいくらつかもうとしても幻めいて指先から逃げていった身体は、あまりにも
簡単に腕の中に倒れ込んできた。乱暴に引き寄せられ、唇をふさがれても抵抗はなかっ
た。ベッドに突き倒され、脱げと命令されても、アルカードは従順にそれに従った。
 どんな恥ずかしい姿態、淫らな格好をさせられても、彼は黙って言われたとおりに
した。猥褻な言葉を言えといわれればそうした。屈辱的な姿勢で犯され、どんな娼婦
でも泣いて許しを請うか、生命の恐怖を感じて逃げ出すほどの残虐な責め苦を受けて
も、悲鳴一つもらさなかった。
 半ヴァンパイアの肉体はどんな人間よりも強靱でしなやかだ。酷い傷をきざんでも
すぐに癒え、爪や歯で引き裂かれた皮膚は見るまに跡形もなく塞がる。普通の人間なら
骨が折れるか関節が外れるほどの無理な姿勢をとらせても、かすかに苦痛に眉をひそ
めるだけで抵抗はない。
 だがおそらくその気になればどの瞬間にでも、アルカードはユリウスを殺せるのだ。
象牙細工のように繊細な指先には、ヴァンパイア王の超自然の力が秘められている。
おそらくユリウスの身体のどこにでも指を当て、軽く押しつけるだけで、ユリウスの
骨は枯れ木よりももろく砕けるだろう。それなのにアルカードは何一つ抵抗せず、
牝犬になると言った自分の言葉を、忠実に守り続けている。
 なぜかその事実が、ユリウスの怒りをかき立てた。アルカードが従順であればある
ほど、苛立ちは膨れ上がり、行為は苛烈さを増した。
 幼い頃に、ホームレスの暗い部屋で低い声で語られたある物語を思い出した。その
男は自分の息子を殺して神々の食卓に肉として供した罪のために、顎まで水につけら
れているというのに、喉が渇いて飲もうとすると、水はたちまち引いてしまうのだ。
どんなに欲しても一滴の水も口にはいることはなく、満々とたたえられた清らかな水を
目の前にしながら、永遠の渇きに苦しまねばならない。
 あれはただの古ぼけた淫売だ、と数え切れないほど自分に言い聞かせもした。どんな
に美しくとも清純そうに見えても、彼が五百年生きているヴァンパイアであり、過去の
いつかどこかで、誰か男に愛されたことがあるのは明白だ。

98煌月の鎮魂歌6 10/29:2015/08/27(木) 00:34:55
 何をしようがほとんど反応を見せないアルカードだが、身体に刻まれた悦びの記憶は
そう簡単に消えるものではないようだ。ことに、その男を今でも想っているのなら。
教え込まれた反応を、身体は従順に思い出す。たとえ快楽自体は呼び起こすことが
なくとも、受け入れる側にかかる負担を減らしたり、手荒く突き上げられている最中に
なんとか息を継ぐ仕草のそこここに、かつて愛され、おそらくはアルカードも愛した
のであろう相手の痕跡が感じられる。その痕跡の一つ一つが、棘のようにユリウスの
心をひっかいていつまでもじくじくと痛む傷を残す。
(くそ)
 話によれば、アルカードがいつ帰ってくるかはまだはっきりしないらしい。最終決戦
が迫っている今、一年や半年というほどではないだろうが、無機質な球体相手の訓練を
終え、自室で唸りながら書物を読んでアルカードの古風な書体の質問に対する答えを
暗記していると、どうしようもない焦燥感に下からあぶられているような心地になる。
 俺のものになると誓ったくせになぜここにいないのかとわめき散らしたくなる。紙
の上の流れるような書体からアルカードの涼しい声がはっきりと聞こえてきて、あの
なめらかな月光の髪に、指をすべらせたくて身体中が震える──
 ぐい、とまたパラソルでつつかれた。今度は腹を。思い切り。
「レディが話をしてるときは、ちゃんと座ってきくものよ」
 憤怒の表情で飛び起きたユリウスに、少女は小さな女王のようにつんと顎をあげた。
「もう一度きくけど、あなた、アルカードにひどいこと言ったそうね? 中身はだれも
教えてくれないんだけど。まあ細かいことはいいわ、でも、アルカードをいじめる人は
あたし、許さないわよ。あの子はあたしの、大事な弟分なんだから。いいこと?」
「……へえ、そうかよ」
 十歳そこらの小娘が、五百歳のヴァンパイアにむかって弟分とは大した言いぐさだ。
 相手をするのも馬鹿らしくなって、ユリウスはだらっと寝椅子の背にもたれ、
ポケットから煙草を取り出した。一本くわえてライターを手探りする。
 ポシュッと音がして目の前が明るくなり、すぐ消えた。

99煌月の鎮魂歌6 11/29:2015/08/27(木) 00:35:29
 ユリウスは唖然として口先からぱらぱらとこぼれ落ちる、煙草だったものの残骸を
見下ろした。少女の肩にとまっている赤い小鳥が、まだちらちらと火の名残がゆれる
嘴を閉じたところだった。
「バーディーは煙草が嫌いなの。あたしも」
 少女は冷たく言った。
「少なくとも、あたしのいるところでその臭いものを振り回すのはやめなさい。禁煙
するのがいちばんいいわ。いったいみんな、なんだってそんな臭い上に身体に悪いもの
を吸いたがるのか、理解できないけど」
「鳥が火を噴いた」
 やっとユリウスは言った。
 言ってしまってからなんて間抜けな台詞だと自分の唇を縫い合わせたくなったが、
少女は意に介していなかった。
「そうよ」
 小鳥の真紅の喉をくすぐってやりながら、何でもないように彼女は言った。
「バーディーはスザクですもの。火はこの子の身体そのものだわ。火を噴いたくらいで
何を驚くことがあるの」
「スザク……?」
「東洋の四聖獣のひとつですよ」
 新たな声がかかった。ユリウスはぎょっとして振り向いた。誰かが入ってきた気配
などまったくなかったのだ。
 閉めてあったドアはいつのまにか開いており、そこに、穏やかな笑みを浮かべた
東洋系の男と、後ろに、ティーワゴンを押したボウルガード夫人が付き従っていた。
 男は長身で若く、せいぜい二十歳半ばに見えたが、東洋人の年齢はよくわからない。
丸眼鏡をかけ、細い目が見えなくなるほどの微笑をうかべているが、かえってユリウス
は警戒心を抱いた。まっすぐな黒い長髪を後ろへ流し、スタンドカラーの白いシャツと
くたびれたジーンズ姿はまるで高校生だ。焼きたての菓子と紅茶の香りが漂ってくる。

100煌月の鎮魂歌6 12/29:2015/08/27(木) 00:36:05
「スザクは赤い鳥の姿の神で、南方を守護し、火を象します。北方のゲンブは蛇を従え
た黒い亀で、土を象徴します。東方のセイリュウは青い竜で水の守護、西方のビャッコ
は白い虎で風を司ります。西欧人には、あまりなじみのない概念かもしれませんね」
「誰だ、あんたは」
 ユリウスは身構えながらゆっくりと寝椅子から立ち上がった。たとえ眠っていても、
髪の毛一本落ちる気配でもすればたちまち目を覚ますのが毒蛇の性だ。それをこの男
は、少女に気を取られていたとはいえいつドアを開けて入ってきたのか、まったく
気取らせずにいつのまにか部屋にいた。
「ああ、申し遅れました。僕はハクバ・タカミツと申します。ハクバが姓、タカミツが
名です。日本人です。こちらをどうぞ」
 シャツの胸ポケットから取り出されたネームカードは厚みのある上質の紙で、雲の
ような銀色の筋と艶のある表面に、『白馬崇光』と漢字が並んでいる。日本語の読め
ないユリウスにはただの模様にしか見えない。
「どうぞスウコウ、とお呼びください。こちらの方々には、僕の名前はどうやら発音
しづらいようですから」
「こういう時はレディの紹介を先にするものよ、スーコゥ」
 脇に立ってとんとんと靴を鳴らしていた少女がとがった声をたてた。崇光は「おや、
これは失礼」とのんびりと言って一礼し、
「こちらは、イリーナ・ヴェルナンデス嬢。僕やあなたと同じく、七月の最終決戦に
備えて集められた戦士のひとりですよ。あなたはユリウス・ベルモンド、そうでしょ
う? ラファエルは気の毒なことをしました。あなたは彼の異母兄に当たられると
聞いていますが」
「よくしゃべる野郎だな」
 ユリウスは唸り、用心しながらまた腰を下ろした。ネームカードを投げ捨てようと
したが、「あ、そのまま」と止められた。
「それは護符の力もこめてありますから、そのまま身におつけください。このベルモン
ド家の屋敷内で何かあるとは思えませんが、万が一の時の保険になります。あなたまで
魔物に襲われては困る」

101煌月の鎮魂歌6 13/29:2015/08/27(木) 00:36:42
 ユリウスは眉をひそめ、漢字が書いてあるほかはなんの変哲もない紙切れに見えるカ
ードをにらみつけたが、肩をすくめてポケットに入れた。あとで部屋に戻ってから捨て
ればいいことだ。
「ボウルガード夫人、今日のお茶はなに?」
 ティーワゴンに駆け寄った少女が明るい声で尋ねている。暖かな陽光に金髪が揺れ、
そこにチイチイと赤い小鳥がまとわりついて、まったくあきれるほどにかわいらしい。
「ダージリンとウバ、セイロン、それにラプサン・スーチョンをご用意してございます」
「すてき。じゃあラプサン・スーチョンを、濃いめでね。スコーンにはスグリのジャム
を。スーコゥもそれでいい?」
「いやだといっても聞かないでしょう、あなたは」
 苦笑しながら崇光は窓際のテーブルに向かい、「どうぞ、こちらへ」とユリウスを
手招きした。
「われわれはいずれチームを組んで戦うことになる三人です。ひとつここで、親交を
深めておこうじゃありませんか。今日はアルカードがいなくて、お暇でいらっしゃる
でしょう。それになんといっても、ボウルガード夫人の淹れるお茶は最高ですよ」
 イリーナと紹介された少女は崇光が引いてやった椅子にちょんと腰掛け、レディ
らしくおすまし顔でレースの襞をととのえている。赤い小鳥はちょんちょんとテーブル
の上を跳ねて歩き、白い虎猫は椅子の足もとできちんと前足をそろえて上を見上げて
いる。桃色の舌でぺろりと舌なめずりした顔が、大きさに見合わずひどく獰猛そうに
見えた。
「いい子ね、ティガー。トトとニニーもいらっしゃい、いい匂いよ」
 ポシェットからのっそりと黒いものが首を出し、少女の手に支えられて、のそのそと
テーブルに這いだした。艶のある甲羅の、全身真っ黒な小さな亀だった。
 亀をおろした手首から、サファイアの細いブレスレットが流れるようにするりと
外れる。テーブルの上でそれは鎌首をもたげ、金色の稲妻のような目でユリウスを
見ると、シュッと音を立てて二股の舌を吐いた。

102煌月の鎮魂歌6 14/29:2015/08/27(木) 00:37:19
「彼女は当代最高の召還士なんですよ」
 呆然としているユリウスを、どうやったのか崇光はいつのまにかテーブルにつかせて
いた。前に紙のように薄い白磁のティーカップが置かれ、茶が注がれる。ユリウスが
知っているいわゆる『紅茶』とは、まるで違う色と香りがした。陽光のもとで金色の
輪がカップに広がる。
「四聖獣に愛された初代であるマリア・ラーネッドでも、聖獣の力を喚べるのはほんの
一瞬、それも時間をおいてでした。ましてや聖獣を常に実体化させてペット扱いできる
ほどの霊力など、前代未聞です。彼女、イリーナは、ラーネッドの血筋がヴェルナン
デスの血筋と合わされることによって生まれた、奇跡のような能力者なのですよ」
 お人形のような少女を、ユリウスはまじまじと見た。
 言われただけではとうてい信じがたいが、確かに先ほど、あの赤い小鳥が火を噴いて
一瞬で煙草を焼きつくすのを見た。見間違いとは思えない。小鳥が本当に火の化身と
いうスザクであるとしたら、ほかの三匹もまたやはり、ただの動物ではないのだろう。
「無駄話をしてるとお茶が冷めるわよ。はい、ティガー。あなたたちの分も、トト、
ニニー」
 ボウルガード夫人がボウルに入れたクリームを床の上に置いてやる。虎猫は待ってま
したとばかりに鼻先をつっこみ、威勢よく飲み始めた。
 指ぬきほどの小さなカップにも茶が注がれ、蛇と亀の前にも置かれた。蛇はさっそく
首を伸ばし、ちろちろと裂けた舌で茶を嘗めはじめたが、亀のほうはそれより銀器に
盛り上げられたスコーンとクッキーのほうが気になるようすで、皿のまわりを跳ね
回っている鳥と同じく、訴えるような目を主人に向けている。
「……で、あんたは?」
「はい?」
 いそいそとサンドウィッチを皿にとりわけている崇光に、ユリウスはうさんくさい目
をむけた。崇光は手を止めてきょとんとする。
「僕が、なんですか?」
「あんたはこのサーカスの中で、どんな役割をするのかってことだよ」
 とんとんとユリウスは真っ白なテーブルクロスを叩いた。

103煌月の鎮魂歌6 15/29:2015/08/27(木) 00:37:54
「俺は鞭を使って魔王を倒す。このお嬢ちゃんは聖獣だかなんだか知らんが、その
けだものどもで戦うんだろう……いてっ」
「けだものだなんて呼ばないでちょうだい。失礼ね」
 そしらぬ顔で言って、イリーナは品よくカップを口に運んだ。見かけより堅いブーツ
の先が、蹴飛ばしたユリウスの臑からすいと離れる。
「この子たちはバーディー、トト、ニニーにティガーよ。ちゃんと名前があるの。
あたしの大事なおともだちなんだから、ちゃんと名前で呼んでちょうだい」
「このクソガ……!」
 飛びあがりかけたユリウスに、いきなり冷たい風が吹きつけた。一瞬にしてエベレス
トの山頂に運ばれたような寒気。指がしびれて感覚がなくなる。見下ろすと、手の中の
カップの紅茶は凍りつき、指は紫色に革って白い霜で覆われていた。
 クリームをなめていた白い虎猫が顔を上げ、じっとこちらを見ている。
 金色にぎらつく双眸から、不可視の強烈な圧力が押し寄せてくるのがはっきりと
わかる。長い尾がゆっくりと左右に振られ、ユリウスの出方を伺ってでもいるよう
だった。
 鳥も、亀も、蛇も、スコーンのかけらやサンドイッチの端切れや茶のカップから
頭をもたげて、じっとユリウスを見ている。四組の視線はすさまじい重圧で、骨の
髄から少しずつユリウスを凍らせていくようだった。
「やめなさい、ティガー。カップをこわしちゃいけないわ」
 その一言で、寒気はみるみる去った。虎猫は横を向いてそしらぬ体でひげを洗い
始め、イリーナはすまし顔ですぐりのジャムを新しいスコーンにたっぷりと乗せた。
 鳥と亀と蛇も、またスコーンのかけらを転がしたりハムをつついたり茶に首を
つっこんだりと、それぞれにくつろぎ始める。霜は少しずつ溶けてしたたり落ち、
冷えた紅茶と、濡れて真っ赤になった手が残った。
「……まあ、そういうことで」
 崇光がため息をついて首を振った。

104煌月の鎮魂歌6 16/29:2015/08/27(木) 00:38:32
「彼女も大きな戦力です。あなたと、彼女と、アルカード。聖鞭〈ヴァンパイア・
ハンター〉は魔王討伐の要ですが、今回の最終復活では、鞭だけではとうてい追い
つかないほどの魔物や悪魔と戦うことになるでしょう。で、僕については、まあ、
その──」
「その?」
 冷え切った指を無意識に揉みながら、ユリウスはとがった目で東洋の青年を睨みつけた。
「──まあ、僕なりの役割があるということで」
 柔和に微笑んだが、ユリウスにはそれが内心を隠す仮面のようにしか見えなかった。
アジア人は年齢と同じように、内心までもあいまいな笑みにまぎらしてしまう。
「その、僕の家系は〈組織〉の中ではちょっと特別でして」
 ちょっと肩をすくめて、崇光は新しく注がれたカップを手に取った。
「ベルモンド家やヴェルナンデス家のような戦闘能力はありません。もともと、日本の
地に生まれた霊力というのはいささか特殊でしてね。祓い清め、なだめ封ずるという
のがミタマの基本なんです。日本の精神風土は、善や悪を西欧のように峻別しません。
善きも悪しきも、ひとつの存在の両面にすぎないという思想です。怒り狂い祟りをなす
アラミタマ、穏やかで人に恵みを与えるニギミタマが、同じひとつの存在の両面
であり、祓い清め、祈り鎮めることによって変化するとされているんです」
 いつのまにかユリウスの前にも、湯気を立てる新しいティーカップが置かれている。
冷たさにしびれた指が溶けるように暖まる。
 崇光のうまそうな顔につられるように啜ってみると、最高級の葉巻を精製して液化
したかのような、濃厚な香りが口から鼻腔いっぱいに広がった。驚いて口を離すと、
白馬のいたずらっぽい視線があった。
「いかがです? 煙草よりずっといいでしょう」
 肺癌の危険もありませんし、とつけ加えてまた一口崇光は茶を啜った。
「一九九九年七の月、皆既日食が起こります。これは単なる天体現象ではなく、闇の
世界、魔界と人間界の間のゲートの大規模な解放のために起こる現象です。この瞬間、
魔界はほんの一時ですが、人間界に大きく突出します。魔王ドラキュラはそれを機に、
一気に人間界を制圧し、すべてを闇の支配下に置くことを企んでいます」

105煌月の鎮魂歌6 17/29:2015/08/27(木) 00:39:03
「で、あんたはそいつにお祈りして、鎮まってもらうように説得する係だっていうのか」
「……いえ。残念ながら、そういうわけにはね」
 崇光は息をついた。
「魔王ドラキュラは混沌と闇そのものです。はじめは残っていた人間性も、滅びと復活
を繰り返すうちにすっかり摩滅して、今ではもはや人間への憎悪と破壊衝動しか残って
いません。説得も祈りも、するだけ無駄ですよ。僕にできるのはただ──封印です」
「封印?」
「皆既日食の、その黒い闇の太陽の中に、城ごと魔王を封じます」
 そう言われてももうひとつぴんとこない。これまでそういうオカルトじみたことには
縁のなかったユリウスだ。妙な顔をしているのに気づいたのか、崇光は苦笑して、
「どうやって、とか、なぜ太陽なのか、というのは、くだくだしい上にわかりにくい話
なのでやめておきましょう。とりあえず肝要なのは、僕は戦闘要員ではなく、あくまで
封印の術の遂行のために魔王の城の最深部まで同行すること、そのためにはあなたや
イリーナのような腕の立つ戦士が必要なこと、というわけです。ご満足いただけましたか?」
「アルカードは──」
 そう口にしたとき、崇光がぴくりと身を固くしたように見えたのはなぜだろう。
「あいつも同行するんだよな? 俺とこのお嬢ちゃんはわかったが、あいつはなんで
行くんだ。親父なんだろう? 魔王は」
 他人を思いやったことなど一度もないユリウスだが、あの銀色の青年が実の父親を
二度、この世からわが手で追い払わねばならなかったことを考えると、なぜかひどく
理不尽な気がした。
「親父を永遠にこの世から追っ払うことに荷担するってのに、あいつはそれでもいい
のか。聖鞭ってのはまだよくわからんが、魔王とやらを滅ぼすことができるのはその
鞭だけなんだろう。だったら今回も、鞭で魔王を滅ぼしちまえばそれですむ話じゃな
いのか。あいつは大事なベルモンドの宝だっていうじゃないか。行く必要がどこに
ある」
「……あの方は、人間の域をはるかに超越する戦士ですからね」

106煌月の鎮魂歌6 18/29:2015/08/27(木) 00:39:42
 崇光はすでに落ち着きを取り戻していた。しかし動揺の色は手にしたカップに浮かぶ
さざ波に残っており、ユリウスはそれを見逃さなかった。
「単純に、戦力は多い方がいいというだけのことですよ。あの方はこれまでに二度、
魔王ドラキュラを倒してこられた。一度は仲間と、もう一度は独力で。それだけの力を
お持ちの方に、戦列に加わっていただかない法はないでしょう」
 いちおう、話としてはわかる。だがどうしても、何か割り切れないものが残った。
 自分ならば顔を見たこともない父親の一人や二人、鼻で笑ってナイフを突き立てる
だろうが、アルカードの白くなめらかな両手が、父殺しの血に二度染まり、三度目にも
また染められようとしていると思うと、そんな痛ましいことがこの世にあっていいの
かという気がする。二度までも父親を殺すことになったアルカードに、三度目の父殺し
を強要しようというこの男に、無性に腹がたってきた。
「あいつが来る必要なんてない」
 ぶっきらぼうにユリウスは吐き捨てた。
「魔王は俺が倒す。吸血鬼殺しの聖鞭を使うのは俺なんだろう。それなら俺が魔王を
完全にぶち殺してしまえばいい。あいつは関係ない」
 イリーナが手を止め、カップの縁ごしに上目遣いに崇光を見た。
「この人、まだ聞いてないの? スーコゥ」
 崇光が少しあわてたように手真似をする。
「あー、イリーナ、その点についてはきっとアルカードがおいおい──」
「あのね、〈ヴァンパイア・ハンター〉の使い手として正式に選ばれるには、鞭その
ものに認められなければならないの」
 崇光の必死のジェスチャーにもかまわず、イリーナは先を続けた。
「ラファエルだってまだ鞭に認められるまでには行ってなかったのよ、だからあくまで
使い手候補というだけでしかなかったわ。あなただってそう。どんなに武勇に優れて
いても、強い力を持っていても、ベルモンドの血だけでは〈ヴァンパイア・キラー〉の
使い手ではない。あなたは戦いの技術を磨いた上で、鞭に宿るベルモンド家代々の
英霊に認められなければ、正式な使い手にはなれないの。そして正式な使い手以外の
手では、聖鞭は力を発揮しない。アルカードは言ってなかったの? あなたはまだ、
使い手『候補』の身なのよ、残念ながら」
 すまし顔でイリーナはさくりとクッキーをかじった。
 崇光は額に手を当てて天を仰いでいる。ユリウスはただ呆然として、小鳥にパンの
かけらをつつかせている少女の無邪気な横顔を眺めた。

107煌月の鎮魂歌6 19/29:2015/08/27(木) 00:40:19
             3

 アルカードが帰ってきたのはさらにその一週間後だった。
 半月の間、ユリウスはひたすら苛々して過ごした。苛立ちの正体が自分でもはっきり
つかめないのがまた苛立ちの種だった。表だっての意識では、自分が単に『候補』で
しかないことをアルカードが黙っていたことに腹を立てていたが、もっと深い部分
では、それだけではない何かがちくちくと胸を責め立ててやまなかった。
 鬱屈はひたすら訓練と課題を消化してやり過ごした。どうせ途中で放り出すと
ユリウスを冷眼視していた、屋敷に滞在する〈組織〉一同も目をむくほどの狂気じみた
熱心さだった。
 正確さを増した一撃で生命のない標的は次々とたたき落とされ、ほぼすべて破壊
されて交換しなければならない羽目になった。夜ともなれば深夜までデスクライトを
つけて、かび臭い書物と流れるようなアルカードの筆跡を交互に追った。
 酒と煙草はほとんど忘れられた。もともと酒は食事の時に添えられるグラス一杯の
ワインとブランデー程度に制限されていたが、煙草はイリーナに出会って以来、火を
つけようとしたとたんに指先で発火して灰と化すことが連続したあげく、指先にやけど
を負うこと数度に至ってあきらめた。どうやってかはわからないが、あの火の化身
であるむかつく鳥は、ユリウスが煙草を吸おうとするとどこにいようがすぐさま察知
して、強制的に禁煙させることにしたらしい。腹は立ったが、手の打ちようがない。
 あれ以来、白馬崇光とは会っていない。
 イリーナの発言でしばらく呆然としていたユリウスが気を取り直して質問を浴びせ
かけようとすると、「そういえばこの間、こんなことがありましてね」とまったく
関係のない話を明るい顔で始めた。
 あまりに白々しいやりくちに思わず椅子を蹴って胸ぐらを掴みそうになったが、
崇光の細い眼の奥の光がユリウスの手を止めさせた。
 その目は、笑っていなかった。

108煌月の鎮魂歌6 20/29:2015/08/27(木) 00:40:54
 ブロンクスの顔役と呼ばれる男たちの顔に何度も見たものに似ていたが、それより
はるかに得体の知れない何かを秘めていた。東洋人の表情はもともと読みにくい。
チャイニーズマフィアのボスたちの、慇懃で物静かな態度の裏に隠されたすさまじい
凶悪無慙をユリウスは骨の髄まで知り抜いている。
 この若い日本人はまだユリウスに対してこれといった悪意は抱いていないと思われ
るが、それでも、油断はできない。見かけはハイスクールの学生のようでも、魔王を
封印するために選ばれた稀代の術士なのだ。こちらの出方を見定めた上で、態度を
決めようとしているところかもしれない。それをイリーナにばらされるような具合に
なって、ごまかしにかかったというところだろう。
 イリーナとはその後も午後のサンルームで数度顔を合わせる機会があったが、そし
らぬ顔で、「どう、勉強はちゃんと進んでいるかしら?」と年上ぶった口調で訊かれた
だけだった。どうやらこの小娘は、アルカードを大きな弟扱いするのと同様、ユリウス
のことも弟分扱いすることに決めたらしい。けだものどもも知らん顔で、主人のまわり
で転がりまわって戯れている。
 ユリウスが無視して、長椅子の上で昼寝を決め込むポーズを取っていると、ティガー
と呼ばれている白黒の虎猫がひょいと腹の上に乗ってきて、同じように昼寝を始める
気配をみせた。
 むかっ腹をたてて払い落とそうとすると、猫は金色の目を光らせ、尖った爪をシャツ
に食い込ませて、獰猛そうな牙と桃色の舌を見せつけるように舌なめずりした。逆らえ
ば食い殺すという明確な意志に、あきらめて猫のベッドになるしかなかった。見かけ
よりぐっと重い猫が機嫌よくのどを鳴らして昼寝する下で、ユリウスは眠るどころでは
なく、イリーナがボウルガード夫人の給仕で、品よく午後のお茶をたしなむところを
見守るしかなかった。
 アルカードが帰ってきたと知らされたのもイリーナの口からだった。
 猫のベッド扱いされるのは癪だったが、あちこち行ってみても落ち着かず、
アルカードのいない読書室にひとり座っていても手持ちぶさたなばかりだ。かといって
自室にいても息苦しいだけなので、結局サンルームに足を向けることになるのだった
が、そこで、いつものように茶の給仕を待っていたイリーナが嬉しそうに言ったのだ。

109煌月の鎮魂歌6 21/29:2015/08/27(木) 00:41:27
「ついさっき、アルカードが帰ってきたわよ。玄関ホールで会ったわ。あなた、ちゃん
と課題を片づけたか確かめた方がいいわよ。彼、帰ったら試験をするって言ってたん
でしょう?」
 ユリウスがものすごい勢いで跳ね起きたので、ふっ飛ばされた虎猫がなりに合わない
怒りの咆吼を放った。イリーナはナプキンを片手に目を丸くしている。
「どこだ」
 テーブルまで数歩で歩みよってユリウスはイリーナの細い腕をつかんだ。四匹の聖獣
たちが肌を焼かんばかりの殺気を発しているが、今の彼にとってはそんなものは空中の
埃と同じことだった。
「あいつはどこにいる?」
「し、知らないわよ」
 さすがのイリーナが口ごもった。それから腹を立てたように早口で、
「玄関ホールではまだスーツのままだったから、着替えて一休みでもしてるんじゃない
の。本館のどこかでも探してみなさいよ。あ、言っておくけど、彼の部屋へ入ろう
なんて考えるんじゃないわよ。あそこは聖域で、彼以外の人間は誰も入れないん
だから──」
 それだけ聞けば十分だった。ユリウスは投げ出すようにイリーナを離すと、大股に
サンルームを出て本館へ向かった。後ろから猫の甲高い鳴き声と鳥の鼓膜を引き裂く
ような鳴き声に、ペットたちをなだめる少女のあわてたような言葉が重なって聞こえて
きた。

 ベルモンド家の屋敷は広い。中世から現代まで、長年の間〈組織〉の中枢として
増築と改築を繰り返してきた結果、城塞を思わせる石造りの屋敷の中は、古代式と
現代式、機能性と魔術的機能の複雑にまじりあった、迷路の様相を呈している。
 その中をユリウスはぐんぐん歩き抜けていった。普段ならば迷いかねないところ
だったが、今の彼には、たったひとつ闇に輝く月が、魔法のような磁力を発して
道しるべとなっていた。
 アルカード。

110煌月の鎮魂歌6 22/29:2015/08/27(木) 00:42:00
 本館はこれまでほとんど足を向けたことがなかった。初日に〈組織〉の一同と
ラファエル・ベルモンドに対面させられた時以来だ。それ以来一度も行ったことが
ないし、行く気にもならない。本館はベルモンド家直系の者とその従僕が行き来する
場だ。それだけでも敬遠する理由になるし、なにより、足を踏み入れて、あの車椅子
の子供に出くわしでもしたら、いらぬ騒ぎになるのはわかりきっている。
 だが今はそんなことは頭になかった。見えない糸がユリウスを引っ張っていた。
人間の狂気は月に影響されるという。なら人の姿をした月は、やはり人を狂わせるの
だろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、ユリウスは知らない廊下を、まるで
通い慣れた道のように次々と通り抜けた。
 銀のひらめきが見えた。
 角を曲がりかけて、ユリウスは打たれたように足を止めた。
 アルカードがいた。
 まだ旅装を解いておらず、ユリウスが最初に会ったときに来ていたのと同じ黒ずくめ
のスーツに身を包み、壁によりかかってぼんやりと視線を上に投げている。片手が
無意識のように、上着の下のシャツの胸もとをまさぐっていた。
 玲瓏たる横顔に、深い疲労の色が見えた。数日の旅行でたまるものではない。五百年
にわたる生と戦いが積み重ねてきた、凝り固まった澱のような疲れと悲哀の殻だ。
 アルカードはユリウスに気づいていないようだった。視線は向かい側の壁にずらりと
かかった肖像画の一枚に向けられている。長い廊下には壁を覆うほどに隙間なく肖像画
がかけ並べられていた。いちばん手前に見えている肖像の銘板を読んでみる。
『Michael Belmond』。
 知らない男の肖像を、さしたる感慨もなくユリウスは見上げた。どうやらこの廊下
には、代々のベルモンド家当主の肖像が掲げられているらしい。つまりこの男が
ユリウスの父というわけだ。なるほど。
「アルカード」
 声をかけたユリウスが驚いたほど、アルカードは身を震わせた。
 びくりと肩を跳ねさせ、何者かから身を守るように肩を抱いてこちらを見た。
 大きく見開かれた氷青の目に、めったに見たことのない怯えを見て取ったように
ユリウスは思った。

111煌月の鎮魂歌6 23/29:2015/08/27(木) 00:42:31
「帰ってきたんだな。こんなところで何をぼうっとしてる? あんたのことだから、
帰ったその足でまっすぐ俺のところへ来て、間違いなくあの本の山を片づけたかどうか
チェックにかかるもんだと思ってたぜ」
 アルカードが動けずにいるところなど見たことがなかったが、今がそうだった。突然
自動車のライトを浴びた猫のように、アルカードはすくみ上がっていた。完全にふいを
つかれ、どこか遠くにさまよっていた意識を無理やり引き戻されたことで、かすかに
口をひらいた驚愕の表情のまま、どこにも逃げられずに立ちすくんでいる。
 ユリウスが近づいて手首をひねりあげても、びくっと身をすくませただけだった。
これまでにも増して激しい苛立ちと、心臓を絞り上げられるような焦燥を感じた。
「どうした? 何をそんなにびくついてる? いつもみたいに張りつけたみたいな顔で
俺を無視しないのか? こんなに簡単に俺に捕まるなんざ、あんたらしくない」
 アルカードは捕まった子供のように弱々しくもがき、捕まれた手を離そうとして
いた。視線が助けを求めるように壁の肖像へ流れるのを追って、ユリウスは脳天に
雷が落ちたような衝撃を受けた。
 その画はかなり古いものだった。丁寧に修復され、埃を払われているが、年月を
重ねた色彩は褪色し、うす闇の中に浮かび上がっているような人物はわずかにくすんで
背景の闇色にとけ込んでいるかに思える。
 大柄な、壮年の男性だった。中世の郷士が着るような簡素だが合理的な衣装を身に
つけ、あせた色彩の中から、いまだ鮮やかなベルモンドの濃いブルーの瞳が射るように
こちらを見つめている。
 男性的なしっかりとした顔立ちで、鍛え上げられた体躯はまさに戦士というに
ふさわしい。開いたシャツの胸もとに横に流れる大きな傷跡が見え、左目を縦に
かすめるようにこれも傷跡が残っている。椅子にかけ、片手を肘掛けに置いているが、
ことあらばすぐに戦闘態勢に移れる猟犬の緊張感が画面に満ちていた。もう一方の手は
膝の上に置き、何かを握り込んでいるかのようなゆるい握り拳になっている。
 銘板にはこうあった。
『Ralph.C.Belmond』

112煌月の鎮魂歌6 24/29:2015/08/27(木) 00:43:03
「離せ!」
 アルカードが低い声で叫び、ようやく身をもぎ離した。
 つかまれた手首を押さえ、壁際にちぢこまった彼は、いつもの氷の無表情で淡々と
言葉を発する彼とはまるで別人だった。苦しげに胸を──違う、シャツの下の何かを
押さえ、色を失った唇を震わせている。
 わかった。理屈ではなく、ユリウスは悟った。
 読まされていた書物の中に、この男の名を何度も見ていた。なぜ気づかなかったの
だろう。アルカードと最初に出会い、ともに戦ったベルモンドの男。アルカードが
いまもベルモンド家に身を置き、彼らともに、彼らのために、働いている理由を
作った男。
 鋭いナイフのように言葉が口から飛び出た。
「こいつがあんたを抱いた男なんだな」
「やめろ──」
「こいつがあんたを仕込んだ。自分のものにして、毎晩さんざん可愛がって、あんたに
男の味を覚えさせたんだ」
「黙れ!」
 猛然とアルカードがつかみかかってきた。冷静さも何もない、ただの激情にかられた
子供の突進だった。
 ユリウスは簡単に身をかわし、細い手首をとらえてひねりあげた。そらした喉から
かすかな悲鳴があがるのを耳にし、暗い嗜虐の炎が燃え上がるのを感じた。
「半月も留守にして忘れちまったか? あんたは俺の牝犬なんだぜ。今はな」
 アルカードはかたく目をつぶって顔をそむけている。長い睫が震え、白い肌は血の気
をなくしてほとんど透き通りそうに青ざめていた。
「五百年も前の男がいまだに忘れられないってか? 大したもんだ、泣かせるよ。だが
こいつはとっくに土の下だ、骨だってもう残っちゃいねえ。そいつがわかってて、まだ
操立てか? こいつ以外の男じゃ、身体は開いても心は許しゃしないってか? よく
言うぜ、この淫売が」

113煌月の鎮魂歌6 25/29:2015/08/27(木) 00:43:36
「……やめてくれ」
 顔をそむけたまま、アルカードは呟いた。木の葉のこすれるようなかぼそい声だった。
「他でならいい──だが、ここでは……頼む──」
「そんな贅沢が言えると思ってんのか?」
 乱暴にユリウスはアルカードの腰を引き寄せた。
「忘れるな、あんたは俺に買われたんだ。あの、むかつく聖鞭とやらと引き替えにな。
しかも俺が、ちゃんとその鞭の使い手になるかどうかはまだわからないらしいじゃ
ねえか。鞭に認められなきゃ正式な使い手にはなれないんだって? じゃあ、俺がもし
鞭に認められなくて、使い手になれなかったら、あんたはどうする? 俺を放り出す
のか? 鞭を使えない男じゃあんたの役には立たないから? ふざけるなよ、牝犬」
「お前は──使い手になる──私が、そうする」
 もがきながらもアルカードは弱々しく反論した。
「でなければ、世界は終わる──〈ヴァンパイア・キラー〉を使う者がいなければ、
魔王の討伐は叶わない──お前が最後の希望なのだ、ユリウス・ベルモンド──お前が
鞭を使わなければ、世界は」
「世界なんぞ知ったこっちゃないと、前にあんたに言ったはずだよなあ、俺は」
 必死にそらそうとする顔をぐいとつかんで自分のほうへねじ向けさせ、ユリウスは
囁いた。
「俺が出した条件はたったひとつ、あんたが俺のものになること、それだけだ。なのに
他の男の、それも何百年も前に死んだ男の絵の前でぼうっとしてるのは気にくわない。
どうだ、ここで一発やらかしてやるか?」
 つかんだ肩がはっきりと恐怖にこわばったのを、戦慄とともにユリウスは酔いしれ
愉しんだ。
「やめてくれ、嫌だ、ここでは──ここでだけは……」
「相手はどうせ死人だ、気にすることがあるもんか。死んだ人間は生きた人間に文句を
つけられない、そいつが世の中の摂理ってもんだ。脱げよ、でなきゃ、無理にも脱がせ
てやるぜ。来いよ、ご主人様の命令だ」
「離せ……!」

114煌月の鎮魂歌6 26/29:2015/08/27(木) 00:44:10
 無理な姿勢から身体をひねったとたん、上着とシャツのボタンが弾けとんだ。前が
開いて白いなだらかな胸があらわになった。なめらかな素肌の上に、ごつい金色の、
ペンダントには多少大きすぎる何かが金の鎖でぶら下がっていた。
 ユリウスはそれが、ブロンクスのあの地下で一瞬目にしたものだと感じ取った。反射
的に手を伸ばして触れようとする。
『触るな!』
 その一喝は雷鳴のようにとどろき、ユリウスの頭上に墜ちてきた。
 人外の魔性の声、魔王の血を継ぐ闇の公子の声だった。一瞬あたりの景色がゆがみ、
ユリウスはふらついてあとずさりした。
 姿勢をくずして膝をついたまま、アルカードは肩で息をしている。
 端正な顔は怒りに凶暴にゆがみ、唇のはしから真珠のような牙が覗いている。氷青の
目はすでに人の色を失い、爛々と燃える暗黒の黄金に染まっていた。同じ人の形をして
いながら、それは『違う』者だった。
 半ヴァンパイア、魔王の血を引く者という真の意味を、ユリウスは眼前にしていた。
理屈ではなく、身体が動かなかった。黄金の双眸が傲然と人間を睨みすえている。
それは圧倒的な『上位者』の目、主人が家畜を見るのと同等、否、それ以下の力の差を
見せつけるものだった。
 おそらくそれほど長い間ではなかったのだろう。アルカードははっとしたように顔を
そむけ、同時にユリウスの呪縛もとけた。
 自分が呼吸を止めていたことに、ユリウスはようやく気づいた。全身が石になった
ように固まっている。長々と息を吐き、喉から飛び出しそうに早鐘を打つ心臓を
抑える。アルカードはこちらに背を向け、胸に下げたものを抱くようにして、身を
丸めて震えている。
「こっちを向け」
 からからの口を無理に動かして、ユリウスは命じた。
「俺に鞭を使わせたいなら、こちらを向け。顔を見せろ」
 アルカードはのろのろと従った。
 髪が乱れて額に散りかかり、青ざめた顔をヴェールのように覆っていた。眸にまだ
黄金の光は残っていたが、先ほどのすさまじい怒りの閃きはすでに失われていた。

115煌月の鎮魂歌6 27/29:2015/08/27(木) 00:44:46
「その胸に下げたものを渡せ」
「……それは」
「渡せ」
 かすかに唇を震わせたあと、アルカードはうつむき、ゆっくりと首から鎖をはずし
て、ユリウスの手のひらにそれを乗せた。
 ずしりと重い、大型の指輪だった。かなり古いものらしく傷だらけで、刻まれた紋章
も摩滅して薄くなっている。かろうじてそれがもともと、ベルモンド家の紋章の刻まれ
たものであることは読みとれた。
「こいつは俺がもらっておく」
 うなだれたアルカードにむかって、ユリウスは宣言した。
「俺のペットが俺以外の人間の首輪をつけているのは気にくわない。あんたは俺のもの
だ、それを忘れるな。あんたが俺のものでいる限り、俺は鞭を使う。少なくとも、
使い手として努力してやる。帰ったら試験をすると言ってたな。いいよ。やれよ。
俺がどこまでやれたか見せてやる」
 返事はなかった。うちひしがれた様子のアルカードに背を向けて、急ぎ足でユリウス
は歩き出した。ずらりと並んだベルモンド家歴代の肖像の目が、自分一人に集められて
いるように感じる。
 ラルフ・C・ベルモンドの肖像が、心に焦げるような痛みを焼きつけていた。
 アルカードがあの男に向けていた、五百年にわたる別離にも曇らされない、魂を
こめた思慕と愛情の視線が。


「アルカード」
 服を裂かれたまま、その場で立ち尽くしていたアルカードに声がかかった。
 のろのろと振り向く。丸い眼鏡の奥に沈痛な色をにじませた、白馬崇光がそこにいた。
「崇光……」

116煌月の鎮魂歌6 28/29:2015/08/27(木) 00:45:23



「本当に、あなたは彼が鞭に認められると思っているんですか?」
 口先では非難するような言葉をとりながら、崇光はつかつかとアルカードに近づき、
ちぎられたシャツの前をあわせて肌を隠してやった。アルカードは光のない目でされる
がまま立っている。
「彼は確かに優秀な戦士の素質を持っている。しかし、鞭に認められなければ使い手
にはなり得ないのですよ。あなたにこんなことをする人間を、鞭が認めるとは僕には
思えません」
「だが、認められなければ世界は滅ぶ」
 か細いが、断固とした言葉だった。
 崇光は膝をついてボタンを下まできちんと留め終え、立ち上がってアルカードに
相対した。表情の読めない丸眼鏡が、東洋人の青年の内心を完璧に隠していた。
 アルカードは小さく咳をして、いくらか声を強めた。
「彼は使い手になる。その力が彼にはあると私は信じている。信じなければこんなこと
はしていない。私がどれだけ長い間、たった一つの目的、ただ一日の決戦のために
生きてきたか、あなたは知っているだろう、崇光」
「知っているとも。その日を定めたのは僕なんだから」
 苦いものでも吐き捨てるように崇光は言った。
「そして魔王封印の方法も。ああ、そうとも、その点で僕はあの男と同罪なのかも
しれないな、少なくとも間接的には。選択の余地さえあれば、もっと別の道を考えて
いたとも。そうとも、ほかにもっと方法が──」
「時間がない」
 有無をいわせぬ調子でアルカードは遮った。
「そしてほかに方法などないのは、あなたが一番よく知っているはずだ、白馬崇光。
当代において最高の封印術士」
 崇光は心臓を突き刺されたような表情を一瞬うかべた。
「……心配しなくていい。私はすべてを受け入れている」

117煌月の鎮魂歌6 29/29:2015/08/27(木) 00:45:56
 アルカードはふらりと足を踏み出し、思いがけずしっかりした仕草で崇光の肩に
触れた。「指輪のことなら、もういい。あれはすでに私の持つべきものではなくなって
いた。この計画が動き出したときから、もう」
 動作も口調も落ち着いていたが、狂おしい色にきらめく瞳がすべてを裏切っていた。
「闇の血脈は断たれなくてはならない。今度こそ、完全に。地上に一滴すら残さず、
すべてを、闇のむこうに還さねばならないのだ」
 崇光がなにも言わず見つめ返すと、アルカードは耐えかねたように顔をそむけ、
「では」と低く呟いて、崇光をそっと押しのけ、ふらりと歩き出した。しおれた髪も
落ちた肩も、数歩離れたときにはもういつものすらりと背筋を伸ばした、沈着な
半吸血鬼のものに戻っていた。
 アルカードが廊下を曲がり、見えなくなるまで黙って見送っていてから、耐えかねた
ように崇光は向き直り、壁の肖像を見上げた。
「ラルフ・C・ベルモンド」
 痛みをこらえる者の、しぼりだすような声で彼は言った。歳月をへた肖像は壁の上に
静止し、その青い瞳は静かに前を見つめていた。
「なぜあんたはここにいない。なぜ彼のそばにいてやらないんだ。彼を本当の意味で
守れるのはあんただけなのに。どうしてそんなところで、黙って見ているんだ。
どうして──」
 言葉が続かず、しばらくはげしい呼吸をして、崇光は思いきり肖像の横に拳を
打ちつけた。
 鈍い音がして、額が少し揺れた。それだけだった。
 画の中の五百年前のベルモンドの男はただ黙し、描かれた瞳で、永遠の彼方を
見つめている。

118煌月の鎮魂歌7 1/17:2015/11/12(木) 20:42:34
 Ⅲ  1999年 三月

           1

 夢だと、最初からわかっていた。
 それでも醒めることはできなかった。今となっては自分の足で立ち、走れるのはただ
夢の中でだけなのだ。
 少年は薔薇の茂みにしゃがんでこっそり首を伸ばしている幼い自分をどこか遠いもの
のように感じていた。それでいて、感覚はしっかりとあの時のままの記憶を保っていた。
 晴れた五月の午後、薔薇のつぼみはふくらみ、あたりには眠くなるような蜂の羽音と
鳥の声がこだましていた。むせかえるような薔薇の香りと湿った土のにおいがあたりを
包む。
 初夏の風はあたたかく、やわらかい指先のように頬をなでていく。むき出しの膝小僧
に小石が食い込んでいたが、そんなささいな痛みは意識から吹き飛んでしまうほどに、
六歳の少年は目の前の幻のような光景に魂を奪われていた。
 そのひとは、蔓薔薇の絡む古い塔の石壁にもたれて座り、手ずれのした古い書物に目
を通していた。
 まるで伝説の中から抜け出てきたかのような姿だった。古風な形のだぶだぶのシャツ
にスパッツ、中世風の白い長靴下に、こびとが縫ったような小さな革の靴。手も足も
すらりと長く形よく、ただそこに腰を下ろしているだけなのに、その無造作な姿勢が
いつまでも見ほれていたくなるほどに優美だ。細い指がゆっくりと次の頁をめくる。
 風にふかれる長い髪は霞のようにきらめく月の銀色。顎の細い小さな白い顔は夜空の
月そのもの、なめらかに傷一つなく輝き、伏せられた青氷色の瞳は長い睫の下に優しげ
に煙っている。何事か考え込むように唇をひきしめ、わずかに眉根をよせている。塔に
からんだ蔓薔薇の白い小さな花がのぞき込むように後ろで揺れ、信じがたいほどのこの
麗人を、小さな妖精たちがそろって取り囲むように見えた。

119煌月の鎮魂歌7 2/17:2015/11/12(木) 20:43:10
『そこの、子供』
 どれほど時がたったのかよくわからない。そのひとが本を閉じ、静かな声で呼んだ
とき、彼は子兎のように飛び上がって逃げ出すところだった。
『こちらへおいで。お前はベルモンドの者だな。ミカエルの息子がもう大きくなったと
聞いている。怖がる必要はない。こちらへ来なさい』
 少年はおそるおそる薔薇の茂みを這い出た。
 父から、近づいてはならないと厳しく言い渡されている屋敷の一角に、午後のちょっ
とした冒険のつもりで潜り込んだのだった。将来、自分が継ぐはずのこのベルモンド家
の屋敷を知っておくのは次期当主としての勤めだと、幼い心にいいわけを作って、ふさ
がれている小径をくぐったのだ。
 幼少の頃から才に恵まれ、すでに多少の封印や障壁は解除することができた。父ミカ
エルしか通ることを許されていない小径、いつ見ても色とりどりに咲き誇る薔薇が、
美しい衛兵のようにふさいでいる不思議な路のむこうに何があるのか、ほんのちょっと
のぞき見るつもりだったのだ。
 ごそごそと這いだしてそばへ行くと、そのひとは、もじもじと立ち尽くす小さな子供
を冬の晴れ間の色をした蒼氷色の瞳で見上げた。軽く指先を顎にあて、顔を上げさせ
る。見つめられると、体の中を風が吹き抜けていくようだった。ふわふわと、その場
から浮き上がってしまいそうになる。少年はぎゅっと両手を握りあわせた。
『名前は』
 ──ラファエル・ベルモンドです。
『いくつだ』
 ──六歳です。来月で七歳になります。
 そう答える自分の声が別人のもののようだった。美しいひとは、七歳、と小さく呟
いて、視線をそらせた。見えない糸にからめ取られたようだった身体が、ふいにゆる
んだ。少年はほっと息をついた。美しいひとは何か考えるように、脇においた本に手を
すべらせた。

120煌月の鎮魂歌7 3/17:2015/11/12(木) 20:43:40
『もう七年もたつのか。ついこのあいだ生まれたと聞いたばかりのような気がするの
に。──早いな。人の世の時間は』
 そう呟いた声がひどく寂しげに聞こえて、少年はいそいで言葉を継ごうとし、言う
べきことが何も見つからないのに気づいた。
 美しいひとは目をあげて、ほほえんだ。小さな唇がかすかにほころんだだけの、
ほとんどそれとはわからないほどの微笑だったが、それは雷のように少年の小さい
心臓を貫いた。
『怪我をしている』
 つと指が上がり、頬骨の上をたどった。冷たい、なめらかな指先だった。少年は
あわてて頬をこすった。わずかな血と、泥がついてきた。茂みをくぐる間に、どこかで
ひっかけたに違いない。
 ──平気です、こんなの。なんでもないです。
 それよりも、たった今頬をかすめていった指の感触がうずいた。陶器の人形のようで
ありながら、活きたしなやかさと優しさのこもった指先。
『それでも毒がはいるといけない。そこにいなさい。薬をとってこよう』
 美しいひとはするりと立ち上がると、本を片手にゆっくりと歩いて、塔の後ろに
隠れてしまった。少年はぼんやりとその場で風に吹かれていた。たった今、目の前に
いたきらめく幻影が現実だったとはいまだに信じられず、きっとこのまま、日が暮れる
までひとり自分は幻を待ち続けてここに立ち続けるのだとなかば以上信じていた。
 しかしそうはならず、再びあらわれた美しいひとは本のかわりに小さな素焼きの壷と
水の入った桶に布を持ってきた。彼は少年を座らせ(その時になってようやく少年は、
この美しいひとが男性であることに気がついた)頬のかすり傷を丁寧に洗って、塗り薬
をつけてくれた。ついでに小石が食い込んでできた膝小僧の傷も同様に。
 薬はさわやかな薬草の香りがし、水はあくまでも澄んで冷たかった。なにもかもが
魔法のようだった。魔法や魔術には幼いころから慣れ、ある程度の訓練もすでに修めて
いたが、この薔薇に囲まれた庭と古い塔、そして月の顔と髪の麗人は、魔法以上の
なにものかだった。ただそこにいるだけで心をゆさぶり、少年の心を息苦しいような
ときめきで満たすなにか。

121煌月の鎮魂歌7 4/17:2015/11/12(木) 20:44:51
『さあ、これでいい』
 壷の蓋をしながらそのひとは言った。
『今日はもう帰りなさい。じきに日が暮れる。そのうち、ミカエルが正式に私を紹介
してくれるだろう。その時を楽しみにしていよう。また会おう、ベルモンドの子供』
 催眠術にかけられたように少年はあとずさり、くるりと向きを変えた。
 目の前に、それまではなかったはずの石の小径が開けていた。それが、障壁の隙間を
むりやりくぐり抜けた自分の通ってきた路ではなく、許された者だけが通る路、父と、
おそらくこの塔に身を置くあの麗人のみが通ることを認められた場所だと悟り、うずく
ような痛みが胸にわきあがってきた。それが嫉妬だということを、この時はまだ知ら
なかった。
 小径を通って戻ると、父がそこにいた。少年が障壁を抜けたことを知っているよう
だった。叱られ、罰されることを覚悟して前に進んだ少年に、父は、なぜか痛みを
こらえるような沈痛な目で答えた。
『彼に会ってきたのか』
 深くよく響く父の声は、どこか沈痛だった。黙って少年がうなずくと、『そうか』と
呟き、ゆっくりと後ろを向いて屋敷の方へ戻っていった。少年は拍子抜けした気分で
あわててあとを追った。
『父上』
 大股で歩く父の隣で息を切らしながら少年は言った。
『あのひとは誰なのですか。どうしてあそこにいるのですか。なぜ、ベルモンドの名を
知っているのですか』
 返事はなかった。あのひとが言ったとおり、いつのまにか日が暮れかけていた。あの
魔法にかかった場所では時間の流れが違うとでもいうように、明るい空は急速に
たそがれに染まり、星が空の高みに輝きだしていた。燃えつきかけた太陽がわずかな
残照を木々の梢に散らしている。

122煌月の鎮魂歌7 5/17:2015/11/12(木) 20:45:23
『父上!』
『──ベルモンドの者は、必ず一度は彼に恋をする』
 歩きながら、独り言のように父は言った。自分に言われているのかと少年は疑ったが、
父の深くくぼんだ目は自分ではない、どこでもない、はるか遠くを見つめていた。
『かなうことのない恋だ。だがともに戦うことはできる。彼の身を守り、いつの日か
来る魔王の再臨の日に彼の隣に立つこと、それがベルモンドの者の負った役割であり、
祝福であり、──呪いだ。先祖のベルモンドたちはみなその日だけを待って魔物を狩り、
彼ともに戦った。魔王の封印。私の代にはかなわなかった、だが、お前は──』
 その先は続かなかった。少年は跳ねるように歩きながら、父のいつも厳しくひきしめ
られている口がだらりと開いているのを見た。何かを奪われたものの顔をしていた──
あるいは、あらかじめ奪われていたことを、たった今思い知らされたものの顔を。
 ふいに気づいたように父は息子を見下ろし、さっと目をそらした。少年はそこに暗い
色を見た。ひどく暗いものを。厳しく笑顔をめったに見せない父の、はじめて活きた顔
を見た気がした。それは気分のよいものではなかった。夜気の中でぶるっと身を震わせ
るとともに、少年は、幼い心に奇妙な勝利感がわきあがるのを感じた。
(あのひとは、僕のものだ)
 幼い心に眠る、将来の男の声が呟いた。
(あの美しいひとは、いつかきっと、僕のものになるんだ)


 一月後の七歳の誕生日に、少年はあらためて彼に正式な紹介を受けた。塔の麗人。
ベルモンド家の宝。
 薔薇と塔にかくまわれて五百年を生き続けてきた、闇の貴公子。
 それまでは誰になにを訊いても答えてもらえなかった。父は巧妙に息子の視線を避け、
学問と訓練にのみ没頭させるように仕向けていた。毎夜の眠りの中で少年はあの出会い
を繰り返し、現実には交わすことのできなかった会話をあれこれと交わし、その微笑み
を浴びるように受け取った。夢の中で麗人はいよいよ美しく、魔法めいて、神よりも
天使よりもすばらしく輝きわたっていた。

123煌月の鎮魂歌7 6/17:2015/11/12(木) 20:46:01
 だが七歳の誕生日、黒ずくめの装束をまとい、緋裏の黒いマントをひるがえしながら
ゆっくりと歩いてきたそのひとを見たとき、少年は自らのどんな夢想も、現実には
とうてい及んでいなかったことを知った。
 やわらかくなびく銀髪をかきあげて、自分に向いた月の白い顔があのかすかな微笑を
浮かべたとき、あらゆる世界が少年のまわりで消え去った。
『また会ったな。ベルモンドの子供』
 極上のベルベットのような低い、やわらかな声が耳をそっと撫でた。
『私は、アルカード。人には、そう呼ばれている』
 ふわりと身をかがめて、子供の低い視線にあわせる。薔薇と、そして何か金属的な──
血、の匂いが漂い、くらくらと目が回った。どこまでも深く澄んだ蒼氷色の瞳が、
文字通り少年の魂を射抜いた。
 息が止まるような思いだった。ひょっとしたら、その場で倒れて死んでいたかもしれ
ない。それほどまでにきらめくその目の一瞥は強烈だった。彫像めいた手のひらが
そっと頬を包み、やさしくさすった時、ほとんどその場に卒倒してしまいそうだった。
『だからお前も、そう呼ぶがいい。私はベルモンドに従い、ベルモンドとともに、闇と
魔王の真なる打倒を目指すもの。いずれお前も、私の隣に立つようになる。ミカエルの
ように』
 黙して立つ父にも彼は目をやった。
 そのとたん、少年ははげしく胸を焦がす痛みを感じた。この麗人の瞳に見つめられる
のが、自分でないことに理不尽な怒りを抱いた。
 父はうなずき、笑みを返したが、その微笑がかすかにこわばっていることを少年は
見逃さなかった。自分の感じている痛みを、父もまた感じていることを、本能的に少年
は感じ取った。
 アルカードはなめらかに立ち上がり、緋裏のマントをさらさらと鳴らした。美しい剣
の柄が、細い腰に装飾品のようにきらめいていた。

124煌月の鎮魂歌7 7/17:2015/11/12(木) 20:46:51
『魔王の再臨は近いと告げられている。ミカエル、あるいはお前の代の間に、最後の
決戦がやってくるだろう。その日のために腕を磨くのだ、ラファエル・ベルモンド。
ベルモンドの血を継ぐもの。〈ヴァンパイア・キラー〉の使い手。魔王ドラキュラの
復活を最後のものとできるかどうかは、お前たちの肩にかかっているのだから』
 霞のようにたなびく銀髪を後ろにひいて、アルカードは背を向けた。
 細いブーツがゆっくりと床を踏み、いつの間にか、音もなく彼は姿を消していた。
誕生を祝うために集まっていた一族がいっせいに息をつき、生き返ったようにしゃべり
出すのを夢のつづきのように少年は聞いた。ある意味ではまだ、彼もまだ夢にたゆたっ
ていた。彼の香りが、薔薇とかすかな血の香りが、まだ身辺に絡みついて愛撫している──


 ラファエルは嫌々ながら目をあけた。
 朝の灰色の光がとじたカーテンのあいだから剣のようにななめに落ちて床を切り
取っている。起きなくちゃ、とぼんやり思い、無意識に布団をはいで身を起こそうと
して、びくっとした。
 いつもここだ。いつもここで、現実を思い知らされる。
 かたわらのナイトテーブルに手をやるより早く扉が開いて、ボウルガード夫人が
入ってきた。後ろに屈強な男の看護人を二人連れている。夫人は言葉少なにおはよう
ございます、と腰を折ると、流れるようないつもの手つきでラファエルの夜着を脱が
せ、昼間の服を着せつけはじめた。
 ラファエルは屈辱とあきらめの入り交じった気持ちでそれを受け入れた。受け入れる
ことを覚えなくてはならなかった。人の手を借りて着替えをしなければならないのは
二歳の時以来だ。よちよち歩きを卒業するとラファエルは断固として世話役の女中の
手を拒否し、自分で服を着替えるようになった。物心ついて以来、母とはほぼ会うこと
がなく、ほとんど想像上の存在であり、対して父は、頭上にそびえる巨大な山脈だった。
いつかその山脈を越えてゆかねばならないことを運命として悟っていた少年は、一刻も
早く大人にならねばならないことをすでに知っていたのだ。

125煌月の鎮魂歌7 8/17:2015/11/12(木) 20:47:26
 なのに、このざまだ。背中を看護人に支えられながら、ベッドの縁から垂れ下がる
力ない足にズボンと靴下をはかせるボウルガード夫人の動きに苦い思いをかみしめる。
どんなにラファエルが願おうとも、力のかぎりを尽くそうとも、腰から下の肉体は粘土
でできた人形のようにだらりと垂れ下がったままでいる。
 魔物に襲撃された夜の記憶は断片としてしか残っていない。死ぬところだった、という
話だ。ひらめくように浮かび上がるのは、巨大な魔物の黒い影、真紅に燃える血走った
双眸とかっと開いた口、爪、よだれの滴る牙、地獄の底から吹きつけてくるような臭気。
鞭を握った自分の手。
 最後に自分の両足で地面を踏みしめた、その感覚。
 日常生活ができる程度の回復ならできる、と告げられた。〈組織〉に属する治療術者
たちの力を結集すれば、傷ついた神経をなだめ、常人と同じ生活ができる程度には足を
動かせるようになる。あるいは魔術と錬金術の粋を尽くして、新たな人工の下肢に
とりかえることも。
 しかしラファエルはすべてを頑として拒否した。それでは意味がないのだ。ただ常人
と同じように、普通に暮らせる、ただそれだけでは。あの〈鞭〉が使えないなら。聖鞭
〈ヴァンパイア・キラー〉が使えないのなら、どんなことにも意味などない。
 聖鞭は強靱で瑕疵のない肉体と精神を持ち主に求める。あの鞭の強力な力の前では、
回復術や錬金術によるごまかしなど、なんの意味もない。
 服を着せられ、用意された車椅子にそっと降ろされる。ボウルガード夫人が膝掛けを
広げ、萎えた両足を丁寧に隠してくれることにわずかな安心感を覚えた。同時に、あの
魔物の襲撃以来、心に巣くって消えない虚無感がまたじわりと胸を噛んだ。

126煌月の鎮魂歌7 9/17:2015/11/12(木) 20:48:02
            2

「獣の臭いがするわ」
 ふいにイリーナが言った。
 それまで自分も小鳥のように肩にとまったバーディーとにぎやかにおしゃべりして
いたのが一変して、何か見えないものに対して身構えたかのようだった。緑色の妖精の
瞳が爛々と燃えている。
「あんたのけだものどもの臭いじゃないのか……てっ」
 またブーツですねを蹴り飛ばされ、ユリウスは罵り言葉を飲み込んだ。
 ここ数週間で、たとえ蹴飛ばされようがどうしようが、この少女の前で少女があるまじ
きことと考える何かを口にするが早いか、もう一度蹴飛ばされるか、四匹のけだものども
に殺気の渦で応じられるかのどちらかだと否応なく学習させられていたのである。
「確かですか、イリーナ」
 紅茶茶碗をおいて、崇光は真面目な顔になっている。
「このベルモンドの屋敷の中で、そんなものの気配のかけらでも感じられるとは思えませ
んが」
「闇の者だっていうのか?」
 すねをさすりながらユリウスはぶつくさ言った。だいたいなぜ自分がこの午後のお茶
の席に座らせられているのかわけがわからない。
 午後のサンルームには陽光が満ち、温室咲きの花と観葉植物か目に快い彩りを添えて
いる。お茶のテーブルについた三人と給仕のボウルガード夫人以外人影はなく、滞在客
は彼らが入ってきた時点で静かに退出するか、用事を思いだしたような顔をしてどこか
へ行ってしまった。

127煌月の鎮魂歌7 10/17:2015/11/12(木) 20:48:38
 自分だけでなく、崇光やイリーナも、ある意味で忌避されていることをここにいる数
ヶ月でユリウスは感じ取っていた。強力すぎる力の持ち主もまた、常人たちの中に
あっては異端者なのだ。このベルモンド本家に足を踏み入れられるほどの人間はみな
多かれ少なかれ超常の力を持つものではあったが、彼らでさえ、崇光とイリーナの
高すぎる能力には畏怖、あるいは恐怖の念すら抱いているらしい。
 今日は新月だということで訓練は休み。アルカードは一日自室にこもり、降りて
こない。半吸血鬼の彼は月の周期によってある程度の影響を受けるため、新月の日は
活動せずに眠って肉体の回復を待つのだという話だった。あの幻のような動きのどこに
衰えや不調があるのかよくわからないが、体内を流れる半分の吸血鬼の血が、昼間活動
することによってある程度の負担をかけるものであるらしい。新月の夜は特にそれが
顕著になるため、一晩休んで気力の回復を待つのだと説明を受けた。
 納得がいかない。
 確かにアルカードも活きているのである以上、疲労も休息も必要であるのはわかるが、
いつも大理石の彫像のように静かに、冷たく美しく佇んでいるくせに、新月だからと
姿を隠してしまうのは理不尽だ。それでは本当に月の化身のようではないか、と腹立ち
まぎれに考え、ぎょっとした。
 俺はなにを考えてる。あのむかつく訓練と頭がぼうっとするまで知識をたたきこまれ
る授業が一日休みになったんだ、喜べばいいだろうが。
 まあ、夜にあの身体を弄ぶ気晴らしが取り上げられるのは気にくわないが、それも
一晩のことだ。明日になればまた、あの牝犬は俺のところへやってきて這いつくばら
ざるを得ない──
 ティガーが鋭い声で鳴いて、ユリウスの考えを破った。白い虎猫のはかりしれぬ力の
こもる金色の目は、ユリウスの悶々とした気持ちを見透かすかのようにまたたきもしない。

128煌月の鎮魂歌7 11/17:2015/11/12(木) 20:49:23
「ティガー、おすわり」
 イリーナはうわのそらで呟き、しばらく遠くの音に耳をすますかのように空に視線を
据えて眉をひそめていたが、やがて小さく舌を鳴らして、「だめね」と言った。
「ほんの一瞬、確かに、あいつらのくさい臭いがしたんだけど。もうどこかへ消えて
しまったわ。考えてみれば、ベルモンドの結界を破れる魔物なんて、魔王ドラキュラ
そのものでもなければそうそういないはずなんだけど、でも間違いなくあれは闇の
感覚だった」
「あとで結界を確かめに回ってみますよ」
 とにかくお茶のお代わりを、と崇光はかたわらに控えたボウルガード夫人に手を
あげる。夫人は一礼して進み出、イリーナの前の茶碗をあけて熱いお茶をあらためて
注ぎなおした。同席者の崇光とユリウスの前にも同様に新たな茶の一杯が置かれる。
「滞在しているほかの家系の方々にもお伝えしておきますかね。魔王の復活が近く
なって、闇の勢力が思ったより活性化しているのかもしれない。最終復活に向けて、
どんな事態が起こっても不思議じゃないですし。備えを固めておいて悪いことはない
でしょう」
「あいつが怪我をしたのはここでじゃないのか?」
 ユリウスはかぐわしい紅茶を一口すすった。悔しいが、禁煙を余儀なくされてから、
この呪文のような名前の中国茶の中毒のようになっている。液体化した煙のような
複雑な香りと風味のお茶は、気がつけば、朝晩の食卓にかかせない飲み物になって
しまっていた。
「ラファエルが魔物に襲われたのはここではありませんよ。彼が魔物を狩りに出た先に、
罠が仕掛けられていたんです」
 崇光が静かに言った。
「本来なら〈ヴァンパイア・ハンター〉の持ち主である彼の父君──ミカエル・ベル
モンドが赴くべき任務でしたが、ミカエルはそのときすでに亡くなっていましたから。
まだ正式な使い手ではなくとも、自分が行くとラファエルは言い張ったんです。アルカ
ードは反対しましたが……」

129煌月の鎮魂歌7 12/17:2015/11/12(木) 20:49:58
 困惑したように崇光は言葉を濁した。
 言われなくともユリウスにはわかった。あの少年はアルカードに止められればそれだけ
強く、自分はもう大人であると、聖鞭の使い手として彼に、アルカードにふさわしい者で
あることを見せようと、意固地になったに違いない。アルカードの助力も断ったろう。
自分が護ると心に決めた相手に護られるほど、少年の誇りを傷つけるものはないだろう。
「そういえば、ラファエルはどうしているの? もうこのごろずっと、あの子の姿を見て
いないわ」
 イリーナが心配そうな声を出した。この少女にかかっては自分以外のほとんどすべての
人間が『あの子』扱いになる。
「ラファエル様は健康に暮らしておいでです」
 なめらかな手つきでポットに湯を注ぎ足しながらボウルガード夫人が答えた。
 下半身が動かないことを健康だと言えるものならな、とユリウスは考え、哀れみととも
に義弟に対して意地の悪い複雑な喜びを覚えた。
「食事もきちんととっておられますし、リハビリテーションも受けておられます。毎日
のお勉強も欠かしておられませんから、いずれまた、ベルモンド家の支柱として立派に
お立ちになられます」
「ずいぶん確信のありそうな言い方だな」
 皮肉な口調になるのを抑えられなかった。ユリウス自身、自分がベルモンドの家長に
なるなどという気はかけらもなく、今回のことが終わればさっさと古巣のブロンクスへ
──(アルカードの姿が幻のように胸に浮かび、心臓がずきりと痛んだ)──戻る気で
いたが、この老夫人が今は車椅子に乗った無力な子供でしかないラファエルに、
そこまで忠誠を捧げているのは意外だった。
「ボウルガード夫人はずっとベルモンド家の家令として使えてきた家系の裔ですから。
ああ、ありがとう、夫人」
 なだめるように崇光が言い、サンドイッチを皿に取り分ける老夫人に日本人らしく
几帳面に礼を言った。

130煌月の鎮魂歌7 13/17:2015/11/12(木) 20:50:34
「代々長子の男性がエルンストという名で家令を勤めてきたのですが、その名を継いだ
兄上が亡くなられましてね。戦争で未亡人になっていた彼女が呼び戻されて、こちらの
家政を見るようになったというわけです」
「はん。俺と似たような身の上ってわけか」
 鼻を鳴らしてユリウスは椅子にそっくりかえった。
 とたん、射るような眼孔に射すくめられて、反射的に身を堅くした。茶器を手にした
ままの無表情な老夫人が、灰色の目を矢のように鋭くこちらに向けている。
「わたくしは自らの血筋に誇りを持っております」
 細いが、その声は激しかった。お前などといっしょにするなという絶対の拒絶を、
ユリウスは感じ取った。この屋敷に来てからずっと感じていたものが、一瞬にして
人の形をとり、目の前に立っているようだった。
「兄が死んだことは悲しいことです。けれども、わたくしの務めははるか五百年、
いいえそれよりも前から、我が家に引き継がれてきた名誉ある任務。ベルモンド家に
お仕えすることがわたくしの運命であり、生命です。ご本家からお呼びをいただいた
ことを光栄に思いこそすれ、拒否するなどとはみじんも考えたことはございません」
「そうかよ。お偉いこったな、ばあさん」
 一瞬であれ鶏がらのような老婆に気圧されたことを隠すように、ユリウスは身を
乗り出して熱い茶をがぶりと飲んだ。のどを焼くその熱ささえ、老婆から突きつけ
られた拒絶と挑戦の証に思えた。
「それじゃあんたはあいかわらずラファエル坊やに仕える身で、俺はあくまで鞭を
使うために引っ張ってこられた道具扱いでしかないってことだ。思い出させてくれて
ありがとうよ。安心しな、俺は坊やに対してどうこうしようなんて思っちゃいないし、
こんなお堅いお屋敷に一生縛りつけられるのもまっぴらなんでね。仕事が終わりゃ
即座にこんな家おん出て、なつかしのニューヨークへまっすぐ帰ってやるよ。こんな
古くさいかちんこちんの家の主なんざ、あの車椅子坊やを座らせときゃたくさんだ」
「ラファエル様を愚弄することは許しません」

131煌月の鎮魂歌7 14/17:2015/11/12(木) 20:51:05
 老婆の目がぐっと細まった。ティーワゴンの取っ手に置かれたしわだらけの手に
わずかに力がこもったことをユリウスの慣れた目は見て取った。それがちぢかんだ
老婆とは思えない殺気のこもったものであることに内心ひそかな驚愕と興味を感じた。
「どうした。気に障ったなら勘弁しろよな。俺は知っての通り育ちが悪くてね、思った
ことがすぐ口に出ちまうんだよ。ひょっとしたら失礼な口をきいちまったかも
しれないが、あの車椅子坊やを悪く言う気はないんだ、ほんとだぜ。なんたって
わが尊敬すべき浮気な親父殿の息子同士なんだ。おふくろは違ってたって俺たちゃ
兄弟だ、かわいいちびの弟くんの悪口を言うほど俺も堕ちちゃいないさ」
「……貴方がミカエル様の血を継いでいるなどと」
 ほとんど喉の奥でささやいたようなものだったが、ユリウスには聞こえた。老婆の
灰色の目に瞋恚の炎が燃えているのを心地よくユリウスは見た。これでなくっちゃな、
とぞくぞくと背筋を駆け上がる興奮を感じながらひとり呟く。お上品なお茶会なんざ
飽き飽きだ。真綿にくるまれた中の棘をぼんやり感じて暮らすより、むき出しの嫌悪
と怒りをつきつけられたほうがよっぽどいい。そのほうがずっとすっきりする。まさか
相手がしわだらけの老婆とは思ってもいなかったが。
「アルカード様のお言葉でなければ、誰が貴方のことなど……」
「はいはいはい、落ち着いた落ち着いた」
 ふいに崇光が音高く手を打ち合わせた。鐘を打ち合わせたように高くよく響く神官の
拍手の音に、この場に覆いかぶさっていた重苦しい雰囲気は一気に吹き散らされるよう
に霧散した。
「せっかくのお茶が冷めてしまいますよ、ボウルガード夫人。君もいちいち無粋なこと
を言うのはおやめなさい、ユリウス、悪い癖ですよ。ここにいるわれわれは、夫人も
含めてみんな魔王封印のために一丸となるべき仲間なんです。血筋がどうこうなんて、
今さらここで話すことでもないでしょう。ごらんなさい、イリーナがびっくりしている
じゃありませんか」

132煌月の鎮魂歌7 15/17:2015/11/12(木) 20:51:50
 イリーナはびっくりしているというよりは、この少女にふさわしく機嫌を悪くして
いるように見えた。白い虎猫のティガーをぎゅっと抱きしめ、まるい頬をむっと
膨らませている。頭の上では小鳥のバーディーがにらみを利かせ、手首からは青い
小蛇のニニーが鎌首をもたげ、ポシェットからは亀のトトが頭を出している。臨戦態勢
である。
「うるさくする人は嫌いよ」むっつりとイリーナは言った。「そこのケーキをもう
ひとつちょうだい、ボウルガード夫人」
 夫人は一礼してそれに従った。粛々と。なめらかな両手の動きには少しの乱れもなく、
さっきの激情のかけらも感じられなかった。ユリウスは苦々しい思いで舌打ちし、茶を
押しやって、もはや居心地がいいとはいえなくなった茶席を立とうとした。
「アルカード」
 崇光の驚いた声がユリウスの動きを止めた。
 席を立とうとするユリウスを止めようと手をあげかけていた彼は、そのままの姿勢で
サンルームの扉に目を向け、眼鏡の奥の目をまたたいた。
「どうしたんです? 今夜は新月ですよ。あなたは部屋から出てくることはないと
思っていましたよ」
「……闇が接近している」
 アルカードは普段着ではなく、中世の絵画に出てくるような豪華な貴公子の衣装を
まとっていた。たっぷりと襞をとったシャツに絹のウェストコート、金刺繍の縁取りと
真珠のカフスのついた長い上着。襟元には燃える血色のルビー。なびくマントの裏地は
鮮血の紅で、鈍い金色の籠手のついた長剣が腰に見えている。青ざめた顔はいつもより
もっと血の気がなく、いささか死人めいて見えた。
「これまでになく近い。新月に乗じて結界を破るつもりかもしれない。その前に始末
する。崇光、イリーナ、援護を頼みたい。そしてユリウス」

133煌月の鎮魂歌7 16/17:2015/11/12(木) 20:52:33
 氷の蒼の視線がまっすぐにユリウスの心臓に射込まれた。
「お前には訓練の一環として同行してもらう。実地訓練だ。まだ聖鞭に触れさせること
はできないが、鞭を使った闇の者との戦闘がどんなものか、その身で味わってみるのが
いいだろう。ただし気を抜けば死ぬ。そのことを忘れるな」
「お待ちなさい、アルカード。危険です」
 焦ったように崇光が立ち上がり、一瞬ユリウスに目を走らせて口を結ぶと、思い切った
ように、
「今夜はあなたの力が弱められる夜だ。あなたが出向かずとも、僕とイリーナがなんとか
します。それにユリウスはまだ実戦に出すべきではない。彼が──その、死にはしない
までも傷ついて、最終決戦の時に動けなくなっていたらどうします。もう彼の代わりは
いないのですよ」
「だからこそ、私が行く」
 黒い微風のように歩み寄ってきて、アルカードはマントの中から一巻きの鞭を取り出
した。ユリウスがブロンクスで使っていたものではないが、ずっと細身で、それでいて、
身を休めている怜悧な猟犬のような、抑制された獰猛さを感じさせる品だった。
「彼の不足は私が補う。初めての実戦が最終決戦というのでは本末転倒だ。訓練にも座学
にも限界はある。実戦が彼にとってはもっと有効な授業となるだろう。ついてくるか?」
「……なめんじゃねえぞ、おい」
 氷蒼の瞳の奥にきらめく金色の光をユリウスは見た。一瞬頭に霞がかかったように
くらりとしたが、歯を食いしばり、差し出された鞭をむしりとった。なめした革が
慣れた蛇のように指に吸いついた。
「他人に守られるような俺じゃねえよ。上等だ。退屈なお勉強よりゃ、確かに俺にゃ
こっちがお似合いだ。あんたは後ろでだまって見てりゃいい。闇の者だかなんだか知ら
ねえが、ブロンクスの毒蛇にどんなことができるか、しっかり見届けるがいいや」
「つまり、さっき感じたいやな臭いは本物だったってことね」

134煌月の鎮魂歌7 17/17:2015/11/12(木) 20:53:24
 イリーナは椅子から飛び降り、スカートをなおして髪を撫でつけた。四匹の霊獣たち
はどことなく落ち着かない様子で唸り、はばたき、シューと舌を鳴らし、ポシェットの
中でもぞもぞ動いている。
「そこのがさつな坊やは論外だけど、でもアルカード、本当に大丈夫? なんならあたし
たちがこの子の面倒も見るわよ。ティガーたちは気に入らないみたいだけど、でもあたし
が頼めば、絶対にちゃんと傷をつけないようにしてくれるわ」
「気遣いはありがたいが、イリーナ、私は心配ない」
 いつもより色が薄く感じられる唇をかすかに笑みの形にし、アルカードは小さな女王
に軽く一礼した。絵の中の貴公子のような衣装の彼がすると、それはいっそうみごと
だった。
「これまでにも新月に戦わなければならないことなど何度もあった。忘れないでほしい、
私は五百年もの間、彼らと戦い続けているのだ。相手は新月であろうと満月であろうと
加減などしない。それでもこうして私は存在している。あまり過保護にされても困る」
「どうかしら。だってあなた、いつだって無理ばかりするんだもの。他人に隠して」
 イリーナは口をとがらせ、まあいいわ、とため息をついた。
「あたしとスーコゥががんばって、この坊やを怪我させないようにすればすむことです
ものね。みんな、聞こえた? 今回はお遊びはなしよ。初心者さんを連れていくん
だから、ちゃんと守ってあげて、痛い目にあわないようにしてあげてね」
 バーディーが高い声で鳴いてはばたき、ティガーが低く唸った。ニニーとトトも
それぞれのやりかたで(不承不承ながら)応じたらしく、四組の視線が自分に突き刺さる
のをユリウスは感じた。小さな女主人に迷惑をかけたら許さない、と雄弁に語るまなざし
に、ユリウスは身震いし、そのことに腹を立てて唾を吐いた。

135煌月の鎮魂歌8 1/29:2016/01/16(土) 18:31:42
 自動車はずいぶん長い間森の中を走り続けるように思えた。
「おい、いったいどこまで行くつもりなんだ? この森はどこまで広がっているんだ」
 しだいに焦れてきたユリウスがとうとう苛々と膝をゆすった。
 ベルモンド家へ連れてこられたときよりいくぶん小さく簡素だが、それでもかなり
高級な大型のロールス・ロイスは、木々の中をぬって走るアスファルトの灰色の上を
灰色の幽霊のように音もなくすべっていく。
「この森自体が結界の一部なのですよ」
 ハンドルを握っている崇光がいった。危なげのない手つきでギアチェンジし、大きく
曲がったヘアピンカーブを抜ける。
「特定の場所へ向かうには、一定の経路を通らないと永久にたどり着けません。たとえ
ほんの一メートル先にあるだけのように見える場所でも、正しい順路を辿らなければ
永遠の迷路に迷い込むだけです。この道路も地脈にそって築かれた結界の描線です。
僕たちはとても危うい蜘蛛の糸のような道を進んでいるんです」
「蜘蛛でもなんでもいい。ちゃんと相手のいるところへつくんならな」
 フロントシートに座らされ、生まれてこのかた着けたことのないシートベルトなどと
いうもので押さえつけられたユリウスは組んだ足をいらいらと揺すった。シートベルト
など当然のように無視して乗り込んだとたん、イリーナがいつもの小女王ぶりを発揮
してむりやり着けさせたのである。
 彼の長い足でもじゅうぶん余裕のある広いシートに、また妙にいらつく。これも
きちんとシートベルトを着けている崇光はちらりと目をやり、肩をすくめて同情する
ような仕草をしてみせた。ユリウスはあからさまに舌打ちして顔をそむけた。
 腰のベルトの下にそっと手をすべらせる。屋敷へ来てから与えられた黒い革のロング
コートの下に、新しいホルダー付きの革ベルトが増え、そこに、使い慣らされてしな
やかになった長鞭が、眠る蛇のように渦を巻いて束ねられていた。
 ブロンクスで使っていたものとは違うが、この数ヶ月、訓練で使用しつづけたおかげ
で手にはすっかり馴染んでいる。以前使っていたものよりも、むしろ使いやすいくらい
だ。油を擦り込まれ、激しい訓練で早くも擦り切れた握りを何度か取り替えたにも
関わらず、艶々と鈍く光る鞭の身を指でたどると、女の身体をなぞるような愉悦が指を
疼かせる。

136煌月の鎮魂歌8 2/29:2016/01/16(土) 18:32:30
「むずかるのやめなさい、ユリウス」
 リアシートからイリーナが偉そうに言った。がう、とティガーが声をそろえる。
「この森を本当に正しく移動できるのはスーコゥだけよ。あたしやアルカードでも抜け
られないことはないだろうけど、ずいぶん手間がかかるでしょうね。ましてや、あなた
みたいな素人じゃ、一生迷い続けても外へ出るどころか、もといた場所から半歩と進め
やしないわ。黙ってスーコゥにまかせてなさい。到着してからが、あなたの出番よ」
「素人呼ばわりかよ。くそガキが」
「その通りでしょうに」
 女主人に憎まれ口を叩かれて、四匹のペットがざわりと波立つ。手真似で彼らを抑え
て、イリーナは小さくため息をついた。幾重ものフリルとレースの重なるパニエが波の
ようにシートに広がる。
「忘れてるといけないから念を押しておくけど、あなたはまだテスト中の身なんですか
らね。聖鞭ヴァンパイア・キラーの正当な使い手になるには鞭に認められなければなら
ない、これはそのための試験のひとつなの。あなたはまだ正式に認められた戦士じゃ
ない」
「だが、そうなってもらわねば困る」
 アルカードが呟いた。黄金の柄の剣を穿き、中世風の豪奢な貴公子の装いのアルカー
ドは、レースやリボンに飾られたドレス姿のイリーナと並んでリアシートに座っている
と、そこだけが別の時代、別の世界に切り取られているようで、妙な非現実感があった。
 この黒ずくめの、ある意味時代錯誤な衣装も一種の魔法的な力を持ち、新月で力の減退
しているアルカードを守るものだと聴かされた。闇の力、闇の衣服。彼がこの世に表れ、
はじめて魔王ドラキュラを打倒したときにも、この衣装をまとっていたという。闇から
織られ、闇からとりだされた衣装は、夜そのもののように煌びやかに、月の貴公子を
包んでいる。

137煌月の鎮魂歌8 3/29:2016/01/16(土) 18:33:08
「何度も言ったが、魔王の真なる封印には聖鞭ヴァンパイア・キラーとその使い手の
存在が不可欠だ。われわれにとって、おまえは欠けさせることのできないピースなのだ。
おまえには試練を乗り越え、必ず聖鞭の正式な使い手として覚醒してもらわねばなら
ない。世界の安寧と、人類の存続のために」
「ピース、か」
 苦々しく呟き、ユリウスは暮れはじめた窓外に目をやった。魔王の封印という一枚の
絵図、それを組み上げるための一片。それ以上のものではない自分。腹の底が熱く煮え
立ち、指が鉤爪のように丸まって鞭をつかみしめた。一瞬、ここでその鞭を抜き放ち、
澄ましかえったアルカードの白い頬に背に力いっぱい振り下ろしてやりたい欲望にふる
えた。
 崇光が低く口笛を吹いた。
 ロールスロイスはほとんど衝撃を感じさせることなく停止した。
 あたりはいつのまにか夕暮れの薄闇に沈み、崇光はライトをつけていた。路肩によせて
停車した崇光はエンジンをかけたまま車を降り、ヘッドライトの照らし出す茂みの中を
数歩進んだ。
 つられるように、ユリウスは目をこらした。
 崇光は低い灌木のあいだを分けて歩いていく。かきわける手間もなく、彼の前で道は
勝手に開いていくようだった。車から数メートル離れた木立の中に、人間の幼児ほどの
高さの自然石が石碑のように立っている。ごつごつした表面に、黒と朱でなにごとかを
書きつけた札が一枚、貼られていた。崇光はそれに手をかけるといったん息を吐き、
鋭い気合いとともに一息に剥がしとった。
 どこか、ひどく遠くもすぐそばのようにも思える場所で、ごおっと地鳴りがした。
空気が震え、肌に触れる夜気の冷たさが微妙に変化したのをユリウスは感じ取った。
夜闇が濃くなり、また薄くなった。青みを帯びた霧がどこからともなく流れてきた。
「降りてください」
 いささか疲れたように崇光が言って、数歩石碑からさがった。

138煌月の鎮魂歌8 4/29:2016/01/16(土) 18:33:42
「ここからは歩きです。結界の外への道を開きました。僕たちが出たあとはすぐに閉じ
ます。急いで。一秒ごとに危険が倍加すると思ってください。早く」
 彼らしくもない、せっぱ詰まった口調だった。イリーナがドアを開けてぴょんと飛び
出し、アルカードが流れるようにあとに従った。ドアを蹴飛ばしてやりたかったが、
ユリウスも渋々と二人に続いた。
 三人が車を降り、道の先に集合すると、崇光はいま剥がした札をかかげ、手を離した。
札は見えない腕に奪い取られるように宙に舞い上がり、再びまた石碑の上に貼りついて、
瞬きのあいだ青い光を放って燃えた。石碑全体に青い稲妻が走り、またどこかで地響きが
低く腹をゆすった。
「ここからは敵地だ」
 アルカードが静かに言った。静まりかえった闇の奥に、その声はどこまでも深く反響
していくようだった。
「いつどこから闇の者が襲ってくるかわからない。用意をしておけ、ユリウス。崇光が
先に立つ。そのあとにおまえ、そしてイリーナ、しんがりは、私だ」

             3

 確かに空気が違っていた。冷たく心地よかった夜風はなにか腥いものを秘め、薄気味
悪く肌をなでていく。
 進むほどに、いよいよ闇は濃くなっていった。単なる夜ではない、月のない夜である
ことはわかっていたが、星さえ見えないとはどういうことだ。新月ならばあふだん月に
消されて見えないはずのもっと暗い星々もそらにきらめくはずだ、なのに、どこまでも
濃くねっとりとした糖蜜めいた暗黒が、周囲をどろりと取り巻いている。
 足首を擦っていく芝草の葉がいやに冷たく、まるで死んだ女の指にそっとさすられて
いるようで、ユリウスは思わず顔をしかめた。
 とたんに地面に顔を出していた石につまづき、悪態をついた。

139煌月の鎮魂歌8 5/29:2016/01/16(土) 18:34:17
「屋敷に帰ったら、石鹸で口を洗ってあげるわ」
 後ろから厳しい姉めいてイリーナが脅した。
「そういうことを言うのは、レディの前ではマナー違反よ」
「やかましい、くそチビが」少しでもぐらついたことが無様に感じられてたまらず、
ユリウスは乱暴に言い返した。「こんな真っ暗な中で、どうやって歩けっていうんだよ」
「闇の中を歩くのは狩人の基本能力よ。あなた、まだそんなこともできないの?」
「あまりいじめるのはおやめなさい、イリーナ。ほら、これを」
 先導の崇光が苦笑混じりに言い、手探りで何かを渡してきた。
 反射的に受け取ると、冷たいガラスのようななめらかな表面が心地よかった。指先
ほどの大きさの透明な玉、おそらくは水晶製で、しずく型の細い端を軽く横に曲げた
ような、奇妙な形をしている。一見頭のようにも見える太い部分に目のようにも思える
穴があり、赤と白の紐が複雑な結び方で結びつけられていた。
「夜明珠です。持っていれば、いくらかは闇も見通せるはずですよ」
 ユリウスは口をとがらせて押し戻そうとしたが、結局ひとつ舌打ちして、レザー
パンツのポケットに滑りこませた。
 確かに、それを指先に感じた瞬間から、一気に感覚が冴えた。どろりとした泥のよう
にしか感じられなかった濃い闇がわずかに色を薄くし、濃すぎるサングラスをかけた
ように曇ってはいるが、ものの形は見て取れるようになった。輪郭すらわからなかった
周囲の木々や地面の凹凸もある程度見えるし、前後を進む崇光やイリーナ、そしてアル
カードのなめらかな歩みも感じ取れる。
 視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚、それらほかの五感も冴えわたった。遠くで不吉に
ざわめく木々の音が聞こえ、何者かがきしらせる歯の音が肌に振動として感じる。
イリーナの言っていた「けものの臭い」をはっきりと感じる。病んだ犬の群を檻に閉じ
こめたまま腐らせておいたような強烈な獣臭と腐臭を煮詰めたような、なにか。
 崇光は迷いのない足取りで先へ歩いていく。

140煌月の鎮魂歌86/29:2016/01/16(土) 18:35:00
 進めば進むほど、ユリウスは肌に迫る異質な何かが、すぐそばで熱い息を吐いている
のを感じることができた。耳の後ろで腐肉の臭いを漂わせる何者かが、脅すように口を
開いて息を吹きかけ、またどこかへ漂っていく、だが、振り向いてもどこにもいない。
ただ血腥い気配と、毒に満ちた呼気が漂っているだけだ。
 ユリウスは意地のように視線を前に固定し、崇光の背中だけを追った。それ以外の
ものに目を向ければ、相手の思うつぼなのだということが本能的にわかっていた。
「まあ、素質はあるわね」イリーナが考え深げに呟いた。「それとも、本能的に生き延
びる方法を知ってるってだけかしら」
「うるせえぞ、ガキ」ユリウスは唸ったが、あまり注意は払っていなかった。彼の注意
は、刻々と周囲に集ってくる悪意と殺意の集積物のほうに集中していた。
 ブロンクスでのしあがった数年間、敵に取り囲まれたことは幾度となくあった。だが、
これほどひしひしと巨大で危険な何かに包囲されていると感じたことはなかった。しょ
せん相手は武装した人間程度であり、どれだけ凶暴で悪辣であろうと、それは人間の
尺度で測れる程度でしかない。
 いま周りを囲んでいるのは確かに地獄から這い出てきた何か、人間の意図を超越する
悪意と狂気、〈毒蛇〉、〈悪魔〉とみずから呼ばれたユリウスでさえ、確かにこいつら
は闇からやってきた怪物なのだと、有無をいわさず信じさせるなにかがあった。
「──来た」
 それまで口をつぐんでいたアルカードがふいに言った。
「崇光、結界を。イリーナ、ユリウス、構えろ」


 いきなりほとばしった閃光はまばゆく、ユリウスは目を突き刺されたように感じて
思わず目を覆った。
「バカ、しっかり見なさい! 目の前よ!」
 イリーナの高い声が頭上を越えていく。

141煌月の鎮魂歌8 7/29:2016/01/16(土) 18:35:35
 まばたきをし、くらんだ目を無理に開くと、光は地面に手のひらを叩きつけた姿勢の
まま動かない崇光を中心に、波紋を描いてあたり一帯に広がり、木立の一角を完全に
包み込んでいた。
 ぐにゃぐにゃと木の枝が変形し、幹がきしんでいっせいにこちらに身を傾けてきた。
木肌に裂け目が走り、鮮血のような赤い樹液があふれ出して、油の焼けるような音を
立てて地面を焼いた。節目や樹皮の影に見えていたものが凝集し、逆三日月型につりあが
った巨大な口と、それと向かい合うようにいやらしい笑いを浮かべた両眼に変わった。
「バーディー──スザク!」
 イリーナが叫んだ。
 高く掲げた手から赤い小鳥が飛び立ち、みるみるうちに翼を広げて、燃え輝く炎の
巨鳥の姿を現した。長い尾羽根も翼も胴体も優美な首も飾り羽根のある頭部も、みな
ゆらめく炎で形作られ、その中に黄金の神獣の双眸がひときわ鮮烈に燃えている。
 スザクは金の鐘のような声で高く一声あげると、どっと炎を噴出した。嘴から、など
というかわいらしいものではない、渦巻く全身の炎をそのまま豪炎の滝と変えて周囲の
怪植物どもにぶつけたのだ。
 怪樹どもが断末魔の声をあげて炎に飲み込まれていく。身悶えしながら焼かれていく
その姿からは、木ではなく、確かに肉の焦げる臭いがした。
「ユリウス!」
 まだようやく鞭を手にしたばかりだったユリウスは、魅せられたように見つめていた
怪樹の焼ける姿からはっと意識を引き戻した。眼前に、髑髏の模様を浮かばせた巨大な
翅がばたついた。なにも考えずに鞭を横なぎにすると、一閃でそいつは切り裂かれ、
赤ん坊の泣くような声をあげて落ちた。地面に落ちて暴れ回っているのは、両手を
広げたほどよりもなお大きい、翅に人間の髑髏の文様をはっきりと浮かばせた
妖蛾だった。
「触れるな!」
 嫌悪のあまり足をあげて踏みつぶそうとしたユリウスを、アルカードが鋭い声で
止める。

142煌月の鎮魂歌8 8/29:2016/01/16(土) 18:36:09
「触れてはいけない。そいつの毒は強烈だ。靴ごしに触れただけでも、今のおまえでは
身体の自由を奪われる」
 言いざま、目にもとまらぬ剣さばきで蛾を切り裂く。巨蛾はあっという間に塵と化し、
地面と同化して見えなくなった。
「アルカード──」
「毒消しを」
 断る間もなく、コートの内側にいくつものアンプルが押し込まれた。
「聖別された水が入っている。もし少しでも違和感を感じたらそれを飲め。おまえはまだ
魔界の毒に対する耐性が育ちきっていない。即死しないのはさすがにベルモンドの血
だが、動きが鈍れば奴らはその隙を逃さない。群が来る」
 声をかける間もなく、アルカードはマントを翻して崇光のほうへ駆け去っていった。
光の輪の中心でじっと動かない崇光の上に覆いかぶさろうとする妖蛾どもを右へ左へと
切り払い、次々と塵に変えていく。
 見ほれている暇はなかった。粉っぽい蛾の毒の鱗粉が霧のようにあたりに立ちこめ、
いまわしい翅のさらさら鳴る音が波のように押し寄せてきた。闇の中でも燐光を放つ
髑髏模様が歯をむき出して嘲笑している。
「クソッタレ!」
 声を限りにユリウスはわめくと、なにも考えずに渡されたアンプルの一本を口で
ちぎって吐きとばし、中身を口に放り込んだ。塩の味と、それとは別に強烈なウォッカ
を水銀で味つけしたような、強烈な刺激がのどを下っていった。そのとたんに、一気に
世界がクリアになった。
 すでに自分が毒の影響を受けかけていたことにその瞬間気づいた。周囲の音のボリュ
ームが最大限に高まり、焼ける怪樹のわめき声が鼓膜を突き刺し、蛾の腥い体液と鼻を
刺す鱗粉の刺激と炭になった肉が蠢きのたうちながらじゅうじゅう焦げていくその痙攣
が見える。

143煌月の鎮魂歌8 9/29:2016/01/16(土) 18:36:45
 もう一度大声で冒涜的な言葉をわめき、ユリウスは腕をふるった。鞭はまっしぐらに
蛾の群れをつらぬいていき、そこから大きく円を描いてぐるりと全体を包み込むと、
手首のひとひねりでぎゅっと収縮した。輪の中に囲い込まれた怪虫どもは一匹残らず
鞭の輪に締め上げられ、赤ん坊の泣くような声を上げて消失した。わずかな灰がはら
はらと草の上に散った。
「次がくるわよ」
 いつのまにかイリーナがそばにきていた。豪華なドレスの少女は爛々と目を輝かせ、
優美だがきわめて冷徹な殺戮者の顔を見せている。彼女もまた兵器として育てられた
少女なのだとユリウスはふいに気づいた──注意深く混ぜ合わせられた血の果てに、
戦いというたったひとつの目的のために生み出され、育てられてきた娘。真珠のような
白い歯をむきだした金髪の魔女に、ユリウスは突然自分でも思っていなかったほどの
親近感を覚え、あわてて打ち消した。
「トト──ゲンブ!」
 イリーナのポシェットからのっそり首を伸ばした黒い亀は、重さなど持っていないか
のようにふわりと浮き出ると、みるみるうちに空へ上り、巨大に、もっと巨大になった。
 またたきのうちに、森の上に、アメリカ軍が隠していたUFOの母艦と言われれば
信じるようなどでかい楕円形のものが浮かんでいた。
 どこかで見たような気がしてユリウスは首をひねったが、気づいて笑い出しそうに
なった。ジャパンで作られた古い映画だ。暇な午後にバカ笑いしながら見た。亀が巨大
な怪獣になって、襲ってきた別の不細工な怪獣と大戦闘をやらかす。まるでマンガだ、
そうじゃないか?
 だが目の前で起こっているのは映画でもなければマンガでもない。巨大な黒い聖獣は
空中で重々しく四肢を動かすと、象の何百倍あるかわからない脚を四本いっしょに振り
下ろした。ばきばきと地面が隆起し、焼き払われたあとに生えてきた新しい怪樹の腕が
押し寄せてきた岩と土に飲み込まれるように消えた。さらに上空を飛び回っている炎の
聖獣がまんべんなく炎を吐き散らし、まだぴくついているものを容赦なく灰に変えて
いく。

144煌月の鎮魂歌8 10/29:2016/01/16(土) 18:37:23
 耳の後ろに痛みにも似た本能の警告を感じた。とっさにユリウスはイリーナを抱き
抱え、横っ飛びに飛びすさりざま横ざまに鞭をふるった。
 たった今、少女とユリウスが立っていた場所を、紫色がかった肉の鞭が猛烈な勢いで
すぎていった。狙いをはずしたそいつは大きく弧を描いて向きを変え、真っ正面から
ユリウスに向かってきた。血走った眼球がひとつ、肉の先端にぎょろりと開いてまとも
にユリウスを見た。
 自分が何か叫んでいるのはわかったが、かまっている暇はなかった。逆方向に飛んだ
鞭を引き戻し、迎え撃つにはほんのコンマ秒の隙しかない。
 後ろにはイリーナがいる。喉も裂けんばかりに叫びながら、ユリウスはほとんどなに
も考えずに鞭の柄を引き、柄の反対側の先端を、ほとんど鼻のくっつきそうな距離の
相手の目玉につきたてた。
 顎の数ミリ先でガチンという鋼鉄の罠のかみ合うような音がした。目玉のすぐ下に、
ビラニアの歯を最悪に凶暴にしたような巨大な口が開いていた。目玉の真ん中に鞭の柄
を突き立てられながら、そいつはなおもユリウスの喉を食い破ろうとガチガチと開閉を
繰り返した。
 破れた目玉が酸のような臭いの漿液を垂れ流している。紫色の肉の胴体がうねり、
こちらに向かってくるのに先手を打って、ユリウスは指先で鞭にひねりをくれた。はね
戻ってきた鞭はきりきりと肉の筒のような胴体に巻きつき、次の瞬間、スライスされた
ソーセージのようにばらばらに寸断された。ばらばらと落ちた肉塊はシュウシュウと
湯気を上げ、周囲の草を毒で枯らしながらしぼんでいった。
「おい、くそガキ、無事か」
「それがレディに対して言う言葉?」
 間髪入れずイリーナは言い返してきたが、息が切れている。いかに天才児といえど、
少女の体力で四聖獣のうち二匹までもフルパワーで解放するのはさすがに負担が重い
らしい。ふっくらした頬が青ざめ、きっと噛んだ唇に血の気がない。細い肩が小さく
上下している。

145煌月の鎮魂歌8 11/29:2016/01/16(土) 18:38:45
「それより、あれはただの一部よ。本体がやってくる。用意はいい?」
「ああ、いくらでも俺がぶっとばしてやるからガキはすっこんでろ」
 イリーナは射殺すような目つきでユリウスをにらんだが、憎まれ口を返す余裕はない
と判断したらしく、前を向いた。「バーディー! トト!」と声を上げ、上空にいる
聖獣二匹を呼び戻す。真紅の小鳥と黒い小さな亀がふっと表れ、少女の肩とポシェット
に収まって、それぞれの言葉でうるさくさえずった。おそらく無理をするなというよう
な意味らしかったが、イリーナはそちらを見もしなかった。
「ニニー──セイリュウ! ティガー──ビャッコ!」
 手首からするりとサファイア色のブレスレットがほどけ、宙に舞った。脚もとで獰猛
な威嚇の声を放っていた白い虎猫が宙をひと跳びし、くるりと一転したかと思うと、
地響きをたてて着地した。
 焼き払われて開いた空き地いっぱいになるほどの白い虎の巨体が、地面に脚の形の
四つの深い亀裂を作った。ユリウスの腕より太い尾がうねり、白銀の体毛が逆立つ。
輝く体毛の下の筋肉は鋼鉄のようだった。聖獣ビャッコは女主人のほうを振り返り、
たいていの人間ならその場で心停止してもおかしくない形相で、すさまじく咆吼した。
 遠くのほうでメリメリと樹が折れる音がする。何者かが森の木を雑草でも分ける
ように踏み分け、こちらへ向かいつつあるのだ。
 ふたたび目がかすみ始めているのに気づいてまた聖水を口にする。魔界の瘴気を吸う
だけでも普通の人間にとっては致命的らしい。この中でそれをまだ必要としているのは
自分だけらしい事実に苛立った。ほんの少女のイリーナさえなんの補助もなくこの場に
立っているのに、自分だけがまだ脆弱な人間の弱みから脱しきれないままなのだ。四聖
獣の護り、ヴァンパイアの血、封術師としての腕──彼らはすでに戦士として完成されて
いる。自分はどうなのだ?
(聖鞭──〈ヴァンパイア・キラー〉があれば、俺も彼らと同じ地点に立てるのか?)
 暗い空が白くなるほどの稲妻が走った。暗黒の空に、自ら放つ冴えた青い光に包まれた
長大な身体がゆったりと舞っている。

146煌月の鎮魂歌8 12/29:2016/01/16(土) 18:39:25
 東洋の竜──西洋のドラゴンとは違う、それ自体が神である一族だ。長い髭と鹿のそれ
に似た角、黄金と青にきらめく鱗、短い前脚には真珠のように光る宝珠をつかみ、慈愛と
も諦観ともつかぬ金色の目で下界を見下ろしている。
「セイリュウ!」
 イリーナの声とともに、あたりが目もくらむほどの光と轟音に包まれた。
 しばらくはなにも見えず、聞こえなかった。くらんだ目がもどってみると、ゲンブと
スザクに焼き払われた残骸がすべて取り払われ、開いた空間のむこうに、白い人影のよう
なものがぼんやり浮かんでいるのが見えた。
『生意気なお嬢ちゃんだこと』
 毒のきいた蜜のような声が風にのって運ばれてきた。
『目上の者を出迎えるときは、それなりの礼儀を払うものよ』
「あんたなんかに払う礼儀なんてないわ、闇の者」
 イリーナの消耗が激しい。なんとか自分で立とうとしているが、脚を震わせて大きく
肩で息をしている。どうやら今の一撃は相手そのものを狙ったらしいが、すべてそら
されたというわけか。
「どうやってここに入ってきたわけ? 誰もあんたなんか招待してやしないわよ。いずれ
魔王といっしょに滅ぼされるのに、ずいぶんお急ぎね」
『あら、人間と遊ぶのはいつでも大好きよ』
 女は──少なくともその姿をした部分は──毒々しい色に塗られた長い爪を唇にあてて
妖艶に笑った。
『そちらが新しいベルモンドの男? そう。いくら潰しても次から次へと湧いてくる
のね。虫けらだけのことはある』
 ユリウスはイリーナを強引にコートの内側に押し込み、後ろに下がって鞭を握り
しめた。なぎ倒された樹木の中をゆっくりと進んでくるのは、まさに悪夢の生き物
だった。

147煌月の鎮魂歌8 13/29:2016/01/16(土) 18:39:58
 本体は腐った沼の緑色をしたカメレオンと、ヤモリのあいのこのような生き物だった。
ぬめぬめした粘液を垂らす皮膚と堅い緑色の鱗がでたらめに入り交じり、見ていると目
が回るような極彩色の巨大な目玉が左右別々にきょろきょろと動く。吸盤のある脚は
全部で六本あり、先細りの長い尾は先のほうになって黒光りする甲殻に代わり、鋭く
曲がった毒針がついていた。不吉なタールのような液体が、すでに滴を作っている。
弓なりになったとげだらけの背中には、あの毒蛾どものものをそのまま人間代に拡大
したかのような、蛾の翅が一対突っ立っている。いまわしい髑髏の模様が青い妖光を
放って、せせら笑いを浮かべていた。
 だがさらにおぞましいのは、その舌だった。いや舌、と呼ぶべきなのだろうか。
カメレオンの長い舌の先端は、中ほどで立ち上がって、肉感的な半裸の女の姿になって
いた。女は睫をそよがせ、指をのばしてユリウスにむかってちょっちょっと舌を鳴らして
みせた。これまで感じたこともないほど強烈な嫌悪に襲われて、ユリウスは顔を
そむけた。どんなに唾棄すべき最低の娼婦でも、ここまでユリウスの吐き気を催させた
者はなかった。
 女は美しかったが、それは地獄の美だった。汚らわしい快楽と魂をもてあそぶ堕地獄
のためのものだった。豊かにもりあがった白い乳房に海草のような濡れた黒い髪が
ぬめぬめとまとわりつき、秘密めいた下腹に、裸よりももっと扇情的な透ける黄金の
飾りを巻いているだけのほとんど裸体。そして豊かなふくらはぎから下は化け物
カメレオンの紫色がかったべとべとの肉にとけ込み、見えなくなっている。
『陛下のご復活は近い』
 女──の形をしたもの──は言って、唇をなめた。唇もまた濡れて、たった今血を
舐めたばかりのように毒々しく赤い。
『われらはその露払いとしておまえたちのような虫けらを排除する義務を負っているの。
闇の王国の臣民にして魔王の眷属として。でもそれ以前におまえたちは目障りだわ。人間
などというものはもともと家畜として地上を這い回る猿のくせに増えすぎた。おまえたち
は増長しすぎたのよ。誰かがそれを思い知らせるべきときだわ』

148煌月の鎮魂歌8 14/29:2016/01/16(土) 18:40:37
「その声は、ムタルマ女伯爵か」
 低い声がして、身構えるユリウスのそばをゆらりと黒いマントが揺れて過ぎた。
なびく銀髪をあとにひいて、剣の柄に手を置いたアルカードがゆっくりと前に進み出る。
瞳はいまだにさえざえとした蒼色を保ち、ユリウスにはそれがまだアルカードが戦う意志
を表に出していないせいか、それとも新月のために魔力を解放するのを邪魔されているた
めか、判断できなかった。
『ああ、公子様、いと貴なる闇のお世継ぎ様』
 ムタルマ女伯爵と呼ばれた魔物はあえぐように言い、懇願のしぐさで白い両腕を前に
差しだした。黒い瞳が情欲めいたものでぬれぬれと光っている。ユリウスはぎょっとして
アルカードの優美な後ろ姿を見つめた。
 公子? 魔王の世継ぎ?
 ドラキュラの、魔王の息子ということか──こいつが?
『なぜそんなところにいらっしゃるのです? なぜ人間などといっしょに? あなた様
こそわたくしどもの先頭に立って、お父君の復活に力を尽くすべきお方ではありません
か。どうぞ剣などお納めになって、父君のもとにお戻りください。いまわたくしが、
あなた様にたかるこの不快な虫けらどもを駆除してごらんにいれますから、どうぞ、
あるべき地位にお戻りになって。闇の臣民たちはみな、この数百年のあいだずっと、
あなた様のお帰りをお待ち申し上げているのでございますよ』
「私に帰るところなどない」
 短く言い切って、アルカードはすらりと剣を引き抜いた。細い刀身が闇の中でそれ自体
白い光を放つように輝線を描く。
「私の望みは魔王ドラキュラの完全なる覆滅、それだけだ。あの男は地上にあっては
ならぬ者だ。私はただそれだけのために存在し、ここに立つ。闇の呼び声に耳など
貸さぬ」
『やはり応じてはいただけぬのですね、高貴なるお方』

149煌月の鎮魂歌8 15/29:2016/01/16(土) 18:41:30
 求愛をすげなく退けられた乙女のように、ムタルマ女伯爵は悲しげにうつむいた。
細い両手がゆたかな乳房の上で重ねられて震えている。意を決したようにさっと上げた
顔で、蛾の複眼と化した両眼がカットされた巨大なダイヤモンドのようなきらめきを
放った。
『それでは、やはり──そのお命から卑しい人間の血を抜き取り、本来の闇の生命に
目覚めていただくしかなさそうですわね!』
 ユリウスはほとんど本能に突き動かされるように鞭をとばした。鋼鉄を打ったような
手応えがあり、一瞬のうちに頭上数センチのところに迫っていた黒光りするサソリの
尾が、からめとられてはね飛ばされた。鉛色の毒液があらぬ方向へとび、どこかで
じゅっと焼ける音がした。生臭い悪臭に、苦い酸の突き刺すような臭いが入り込んで
きた。
 巨大な六本脚の爬虫類の舌先で、昆虫の目をした女がのけぞって狂笑を放っている。
頭を低くして身構えていたビャッコが、咆吼とともにつっこんでいった。かっと開いた
顎が爬虫類の垂れ下がった喉袋に食らいつき、噛みちぎろうと頭を振る。肉がちぎれ、
ぼたぼたと緑色の血液めいたものが草地を汚して、女と爬虫類の口から同時に、聴くに
耐えない苦悶と怒りの声があがった。
 口をあけた傷口めがけて、ユリウスの鞭が槍のようにつきささる。扱う者が使えば
刃物よりも強力な武器になる鞭は、鼻をさす煙をあげながら緑の血を垂らす傷口を
さらに大きく裂き、そのまま下から打ちあげるように、六本の前脚の一本をなかばから
切りとばした。
 女の口からなにか理解できない叫び声がもれ、両腕がさっと開いた。爬虫類の背中の
翅が大きく広がり、燃える髑髏紋が生き物のようにかっと骨ばかりの顎を開いたかと
思うと、そこからあの巨大な毒蛾の群れが風に跳ばされる吹雪のように吐き出された。
 アルカードの剣が一閃する。ユリウスとイリーナにかぶさろうとした蛾の一団が、
瞬時に塵となって散った。
 青白い稲妻が入り乱れ、青銅の鐘を鳴らすにも似た声が上空から響く。ユリウスは
全身に電光をからみつかせながら、目を怒らせ威嚇するように地上を見据えるセイリュウ
を見た。

150煌月の鎮魂歌8 16/29:2016/01/16(土) 18:42:04
『美しきお方、尊きお世継ぎ様、これほどまでにお慕い申し上げておりますのに』
 重なり合ってざわつく毒蛾の向こうから、女の怨ずるような声が聞こえる。
『あなた様ほど麗しく高貴なるお方は、魔王そのお方を除いて誰ひとりいはしない──
それなのになぜ、闇の愛をしりぞけ、あなた様を慕う民をお打ち据えになるのです?』
 アルカードはもう応えなかった。蛾を切り払った剣をそのまま舞わせ、あたりに塵と
なった蛾の死骸を散らして突進すると、裸形の女の前に立ち、目にも留まらぬ手さばき
でその乳房の真ん中を貫き、首をはねた。黒髪を散らした頭部はごとりと重い音をたてて
転がり落ち、わずかな緑色の血が糸を引いた。
『ああ、愛しいお方』
 地面に落ちた頭が哀れな声で嘆いた。
『これがあなた様をお慕いする女にお与えになる口づけですの?』
「アルカード、離れて!」
 イリーナの悲鳴のような警告より早く、アルカードは大きく飛び離れて剣をたてて
身を守った。打ち下ろしたユリウスの鞭が鉄枷のようにアルカードをとらえようとした
首なしの女の両腕を寸断し、胴体を大きく切り裂いた。ざらついた、錆びたおびただしい
釘を一斉にこすりあわせるような苦鳴とも怨唆ともつかぬ声が、地の底から響いてきた。
『無礼な虫けらども』
 すでに女のものではないその声は地獄の憤怒を煮えたぎらせていた。
『高貴なお方に与えられる傷ならばまだしも、このわたくし、闇の宮廷にて讃えられる
女伯爵ムタルマに、卑しい猿の分際で刃向かうか。この傷の礼、どれほどにして与えて
くれるか見るがいい』
 ユリウスの目の前で寸断された女体はぐにゃぐにゃと輪郭を崩し、紫色の肉となって
爬虫類の舌と一体化した。目まぐるしく色を変えるカメレオンの巨大な目は狂ったように
蠢き、ひび割れた喇叭のような声をとどろかせた。うねうねとのたくる舌の先がぶくりと
膨れ、人間に似た頭の形を作りだした。まるい頭に蛾の触覚と複眼、ずらりと牙の並んだ
巨大な口をもつ、女とも昆虫ともつかぬ頭部。

151煌月の鎮魂歌8 17/29:2016/01/16(土) 18:42:37
『この姿を見せたからには、貴様たち、生かしては返さぬ』
 火を吐くように言い捨てると、メキメキと樹木がきしんだ。
 中途で断たれていた前脚から緑の粘液がしたたり、すみやかに新しい脚を作り上げた。
ずしんと地面を踏みならした怪物は、その巨体から考えれば驚異的な早さで木々の間を
すべり抜け、ユリウスたちに這い寄った。押し分けられた樹木が葦のように左右に倒れ、
根こぎにされた株が土をまき散らして次々とはね飛ぶ。鼓膜に釘をつきたてるような狂笑
を放ちながら、昆虫の目をした女の頭がぐるりと回転した。爬虫類の背で髑髏蛾の翅が
逆立ち、震え、文様の髑髏が歯を鳴らして地獄の門を開こうとする。
「禁!」
 澄み渡った声がして、二条の光が翅めがけてとんだ。
 今にも開こうとしていた髑髏のあぎとは白い光を放つ二枚の長方形の符によって閉じ
られ、それ自体苦しみもがくかのように悶えたかと思うと、吐き出してきた毒蛾どもと
同じく塵になって四散した。
「遅れて申し訳ありません。結界を安定させるのに手間取りました」
 白馬崇光が青白い顔をして立っていた。髪は乱れ、血の気のない唇を強く引き締めて
いるが、胸の前にトランプのカードのように何枚も広げた呪符は小揺るぎもしない。
「まさかこれほどの大物が侵入しているとはね。屋敷に帰ったら、それこそ結界班を
総動員して全結界の再チェックと強化をしなければ」
 翅を失った爬虫類が咆吼し、女の頭部が異界の言語であろう耳障りな言葉で狂ったよう
に叫んだ。両方の鼓膜に錆びた釘をつっこまれたようだ。ユリウスは目の前に黒い点が
飛び交うのをこらえて、聖水のアンプルを口に含んで飲み下した。これで三本。
 あと四本。
 地獄のトカゲが身をうねらせて突進する。ユリウスは身をひねり、頭部をねらうと
見せかけて皮のたるんだ腹部を狙って鞭をとばした。剃刀のような鞭先が正確に急所を
直撃し、怪物はその場で立ち止まって頭を振り立てて足踏みした。地面が揺れる。まるで
地震のような揺れにふらついたとたん、「トト!」と叫ぶイリーナの声がした。

152煌月の鎮魂歌8 18/29:2016/01/16(土) 18:43:11
 たちまち地震は静まり、代わりに獣の眼前に轟音をたてて岩と土の衝立がせり上がる。
ポシェットから首を出している黒い亀を片手で押さえて、イリーナは肩で息をしていた。
「イリーナ、無理をしてはいけません。あなたは体力が──」
「ここでこいつを止められなかったら体力なんて意味ないわ。バーディー! ニニー! 
ティガー!」
 肩をつかもうとした崇光を乱暴に振り払い、かすれた声をイリーナは振り絞った。岩を
踏み砕き、土を突き崩して怪物の醜怪な頭が迫ってくる。
 無我夢中でユリウスは動いた。頭上で竜がとどろく雷鳴とともに稲妻を降らせ、白い
巨虎が爪と牙をむき出しにして隣を走る。
 闇を裂いて烈しい炎が筋を引き、目まぐるしく色を変えるカメレオンの片目を
焦がした。電光のまといついたユリウスの鞭がその傷をえぐり、虎の牙と爪が生き物で
あれば脳髄に達するほどに深々と突き刺さる。
 黒いマントが翻り、月光の髪が頭上をこえていった。片目を潰されてもがく怪物の鱗
におおわれた首に剣がひらめき、直線を描いた。前進しようとする怪物の身体が一瞬
ずるりとずれ、醜怪な頭部とのたうつ紫の舌が地面に転がり落ちた。
『お恨みいたしますわ、公子様──』
 ひくつく舌の先で女の頭が嘲笑のようにささやいたかと思うと、いきなり舌だけが蛇
のように伸び上がった。
 溶けて消えていくトカゲの頭をあとに残して襲いかかる。ゆく先はアルカードだった。
蛾の女の頭は多面体のガラスめいた複眼に情欲の緋色を走らせ、牙だらけの口を悪夢の
ような微笑にゆがめていた。
 アルカードは真っ向からひと太刀で真二つに切り払ったが、切られて左右に分かれた
怪物は、そのまま二つのまったく同じ頭になり、あっという間にアルカードの全身を
からめとった。
「アルカード!」イリーナが悲鳴をあげ、崇光が低い罵りめいた言葉を呟く。アルカード
はもがいたが紫色の肉の蛇はゆるまず、剣をにぎった腕は身体の横に縛りつけられて
動かせない。じりじりと脚が地面を離れ、アルカードの身体は宙に浮いた。

153煌月の鎮魂歌8 19/29:2016/01/16(土) 18:43:44
 ユリウスはがむしゃらに鞭を打ち振るったが、魔界の生命力を結集した肉の蛇はびく
ともしなかった。女怪の頭は二つの驕笑をあわせて、アルカードの頬にすり寄る。
『これほどお慕いしておりますのに、なんとつれないお方でしょう』
『ああでも、やはりお愛しい。美しいお方、尊い魔王のお世継ぎ』
『憎いのはその人間の血、汚らわしくも温かい、甘美な血』
『さあ、その血を流し出し、わたくしと愛の抱擁を』
『麗しき、闇の若君よ──』
 女の口が開き、さらに開いた。おぞましい大アナコンダの口のように顎骨がはずれ、
膜が広がってずらりと並んだ牙が見えた。
 そこから濃い血色をした蛭のようなものがのたくり出てきた。懸命に顔をそむけ、
身をもぎはなそうとするアルカードの白い首筋にいやらしい蛭が迫っていく。蛭の先端
には円形の口が開き、口しかなかった。ある朱の吸血鰻のように円形にずらりと並んだ
棘が蠢き、獲物の肌を裂いて流れ出る血を吸い尽くそうとしている。
「アルカード!」
 イリーナが笛のような悲鳴をあげている。それとも怒号なのだろうか。目のはしに
ちらりと見えた少女の顔は涙にぬれて蒼白だった。天上からひらめく青い稲妻が幾条も
地面を打ち、炎の筋が乱れ飛ぶ。巨虎が牙をむきだして飛びかかり、のたくりながら
這いずってきた頭のない爬虫類の身体にはじき返される。首をなくしても身体は身体
のみの生命を保っているかのように動き続け、盛り上がる岩を踏みつぶし、稲妻に
巻かれても耐え、炎に鱗を焦がされても止まろうとしない。
「禁! 正! 抑! 停! ……」
 崇光が続けざまに札を放つが、やはり封術師である彼の術では怪物の進行を止める
ことしかできない。ユリウスはちぎれるように痛む筋肉にかまわず打撃をとばしたが、
それもまた、爬虫類の身体にはばまれてアルカードには届かない。
 おぞましい蛭の口がアルカードの喉に触れる。
 ユリウスは自分が何か叫んだと思った。

154煌月の鎮魂歌8 20/29:2016/01/16(土) 18:44:36
 思っただけで、声にはなっていなかったかもしれない。一瞬あたりの音が消え、稲光
や炎のすさまじい乱舞も消え、手の中にある鞭の感触だけが鋭利な剃刀のように感じ
られた。
 そしてアルカード。
 けがらわしい女妖に抱きすくめられてがっくりと仰のいた、アルカードの白い横顔。
 懐に固いものがある。聖水の入ったアンプル。
 ほとんどなにも考えず、ユリウスは残った四本のアンプルをまとめてつかみ出し、
力をこめた。ガラスのアンプルは拳の中で砕け、破片が深々と手のひらに食い込む。
血と聖水の混じったうす赤い液体が流れ、たらたらと鞭の柄に、身に滴った。
 急速に世界に音が戻ってきた。ようやくユリウスは自分の発している咆吼を聴くこと
ができた。嵐のように打つ心臓も、ぎりぎりときしむ骨も筋肉も、すべてが限界まで
引き絞られる。
 聖水とベルモンドの血に濡れた鞭が、聖者の大剣のようにまっすぐに振りおろされた。
 首のないカメレオンの身体はあっさりと二つに裂けた。蠍の尾がひきつり、割れた切断
面にぞっとするような内臓と漿液のつまった袋が見えたが、それもたちまち塵となり、
あっけなく崩れて形をなくしていく。
 妖女の顔が引きつった。アルカードの喉にへばりつきかけていた蛭めいた舌は垂れ下
がり、死んだ蚯蚓のように垂れ下がった。おぞましい抱擁がとけ、アルカードは地面に
転がって倒れた。
『おのれ……ベルモンドの男……またしても──』
 しゃべった妖女の口から、ちぎれて落ちた蛭の舌が灰になって散った。
『呪わしきはベルモンド……だが魔王様のご復活は必ず……必ず──』
 ひとつの頭が内破するように潰れ、もう一つもあとを追った。腐った肉の悪臭が瞬間
あたりに漂い、夜風に吹き散らされた。わずかに紫色の塵が執念のようにアルカードに
まつわりつこうとしたが、すぐにそれも崇光の鋭い気合いひとつに吹き払われた。
 ユリウスは凝固したように立ちつくしていた。たった今、全身を駆け抜けた蒼白い炎、
これまで経験したどのようなエクスタシーよりも強烈なパワーの渦に文字通り金縛りに
なっていた。

155煌月の鎮魂歌8 21/29:2016/01/16(土) 18:45:17
 それはユリウスの精神と肉体を内面から焼き尽くし、何かまったく新しいものに生まれ
変わらせたかのようだった。まったく新しくなった視覚で、ユリウスは周囲を見回した。
 闇が透明なガラスのようだった。それまで沼の底も同じだった闇は清澄に澄みわたり、
あらゆるものがはっきりと感じられた。視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚が、これまでの
レベルではなく強烈に冴え返っていた。傷ついた手から血がこぼれ、熱湯に漬けたような
痛みが肘のあたりまで上ってきていたが、夜という言葉、闇というものに抱いていたもの
が一気に塗り替えられた衝撃に、海を初めて見た少年のようにユリウスは新たな闇の世界
に吸い込まれるように見入った。
「アルカード!」
 イリーナがわっと泣き出した。ユリウスは殴られたようにふらついて我に返り、
アルカードを振り向いた。
 金の籠柄の細剣が草の上に転がっている。うつ伏せになったアルカードはぴくりとも
せず、こちらになかば向いた顔はぞっとするほど色がなかった。
 年相応の、身も世もない泣き方で泣きじゃくりながら、イリーナが動かないアルカード
に駆け寄る。竜も白い虎も消え、サファイア色の光がまっしぐらに降りてきて、少女の
手首に巻きついた。白い虎猫と赤い小鳥が、あわてたように鳴き騒ぎながら少女の周囲を
飛び回っている。
「アルカード、しっかりして、アルカード!」
 銀髪の青年にすがりついているのはいつもの女王然とした態度などかなぐり捨てた、
幼いひとりの少女だった。青ざめた顔をのけぞらせているアルカードのマントを握り
しめて、懸命に息を計ろうとしている。
 ユリウスはよろめくように近づいた。急ぎ足に寄ってきた崇光がかたわらに膝を
ついて、傷の様子を調べている。抱き起こすと、むきだしになった喉に、円形に針を
刺したようにぷつぷつと穴があいて血がにじみ出していた。あの妖女に吸いつかれ
かけたあとだろう。
「泣かないで、イリーナ、心配ありませんから」

156煌月の鎮魂歌8 22/29:2016/01/16(土) 18:45:58
 しゃくりあげる少女の背中をさすりながら、なだめるように崇光が言い聞かせていた。
「毒は残っていないようですし、ただ気を失っているだけです。やはり新月にアルカード
を戦わせるべきではありませんでしたね。どうやら相手は、魔王復活の前にあわよくば
彼を我々から奪い取るつもりだったらしい。確かにそれをやられれば致命的だ」
「なにやってるの、ユリウス、早くこっちへ来て!」
 泣いていたイリーナがきっと顔を上げ、ユリウスのコートの袖を乱暴につかんで
ひっぱった。たたらを踏んでユリウスは膝をついた。まだ先ほどの力の噴出にくらくら
して頭がうまく働かない。
 地面に寝かされたアルカードの顔はいつもにも増して白い。妖女のいまわしい口づけ
の痕から細く血が流れている。
「アルカードに血をあげて、早く! 新月で彼は弱ってる、でもベルモンドの血なら、
誰よりも強力なベルモンドの血なら──」
「待ちなさい、イリーナ!」
 かがみ込んでいた崇光がはっとしたように手を伸ばした。
 だがすでにユリウスは、涙声のイリーナに引っぱられる形でアルカードの唇の上に
手を差しだしていた。
 アンプルの破片がいくつも食い込んだ手のひらから、血が筋をひいて流れ落ちる。
 濃い真紅の血がひとすじ、色を失ったアルカードの唇に流れこんだ。
 アルカードは意識のないままかすかに唇を動かし、血を含んだ。流れる鮮血が、
アルカードと自分を真紅の糸のようにつないだ。
 唇がわずかに動いた。
 アルカードはばね仕掛けのように跳ね上がった。
 突き出された腕が避ける間もなくまともにユリウスの胸にぶつかった。ユリウスは
たわいなく後ろに倒れた。尻をついたまま、ユリウスはくらむ視界にアルカードを
とらえた。
 こわばった頬が震えていた。かすかに血の残った唇がわななき、たった一つの言葉
を呟いた。

157煌月の鎮魂歌8 23/29:2016/01/16(土) 18:46:57
「嫌だ」
 見開いたままの瞳からつっと涙がこぼれた。赤い涙、血の涙だった。
 ユリウスはそれを、たった今自分が口に垂らし入れた血そのものと感じた。ユリウスの
血を体内にとどめておくことが耐えられないとでもいうように、涙は白い頬を伝って
地面に滴った。
「嫌だ」
 もう一度呟くと、アルカードは力なく目を閉じ、かたわらの崇光の腕にぐったりと寄り
かかった。
「ど、どうしたの、アルカード」
 予想外の反応に、イリーナが泣きやんでおろおろとスカートを揉み絞っている。
「あたし、あたし何か悪いことしたの、何かいけないこと──」
「いえ、大丈夫ですよ、イリーナ。あなたは悪くない」
 ため息まじりに崇光は言い、意識のないアルカードの目尻をぬぐって赤い涙を拭くと、
唇を開かせて、その上に指を持っていった。
 親指と人差し指を絞るようにあわせると、その間から一滴の血が絞り出され、アルカー
ドの唇に消えた。アルカードは苦しげに眉根をよせて頭を振ったが、やがて、小さく喉を
鳴らして血を飲み込んだ。
「これでしばらくは大丈夫でしょう」
 アルカードを人形のように抱え上げて崇光は立ち上がった。
「本家に式を飛ばしました。まもなく迎えが来るはずです。戻ったらすぐに、本格的な
処置をしなければ。あなたもですよ、ユリウス」
 見返った目にはどんな表情も読みとれなかった。
「その手はかなりひどい。瘴気の毒がまだ残っているかもしれません。浄化と治癒の処置
を、できるだけ早く。僕たちは、あなたまでも失うわけにはいかないのですから」
「──あいつは誰だ」
 まだ呆然としたまま、ユリウスは呟いた。
 真紅の血の糸がアルカードと彼をつないだ瞬間、心にひらめいた映像があった。

158煌月の鎮魂歌8 24/29:2016/01/16(土) 18:47:31
 一本の蝋燭に照らされた、石造りの部屋。昔風のベッド。乱れたシーツと、その上に
横たわって目を閉じる、日に灼けた肌のたくましい男。
 男らしく整った顔は静かで、誰かをたって今まで抱いていたかのように右腕を広げ、
濃い褐色の髪は奔放に乱れている。閉じた左目の上には縦に長く傷跡が走っている。何か
楽しい夢でも見ているのか、厚めの唇が幸福そうに微笑んでいる。筋肉の張った首筋に
二つの小さな針で刺したような傷があり、うっすらと血がにじんでいる。
 そしてそのかたわらに、アルカードがいる。
 黒衣のマントを後ろに引いて、何かに祈るようにひざまずき、シーツの上に両手を
組んで、食い入るように男を見つめている。きつく組み合わされた手の中に、何か光る
ものがある。金鎖のついた、ごつい印章指輪。明らかに、彼の細い指には大きすぎる、
金の指輪。
 赤い涙がすべり落ちてシーツに染みを作る。散ったばかりの赤い薔薇の花びらのように。
 声もたてずにアルカードは泣いている。眠る男を起こすことを恐れるように、ひっそり
と、音もなく。内心に荒れ狂う苦痛も悲嘆も孤独も、その身を千にも引き裂かれるほうが
はるかにましであろう、悲しみのすべてを飲み込んで。
 ほんの瞬きの半分ほどの幻視だったにもかかわらず、ユリウスにはそれが過去に現実に
あったことだとわかっていた。誰だ、と口にはしたものの、その男が誰なのかもすでに
理解していた。
「あいつは──俺、は……」
「あなたには関わりのないことです」
 崇光の声は変わらず平坦だった。
「さあ、早く。イリーナももう限界に近い。早く屋敷に戻らなければ、ここで第二陣に
でも襲われたら、抵抗もできないまま潰されますよ」

159煌月の鎮魂歌8 25/29:2016/01/16(土) 18:48:07
              4

 十分とたたずに迎えがきた。車を先導していた金色に光る紙人形をとらえてふところに
しまうと、崇光はユリウスたちをせきたてて車に乗せた。来るときあれだけ走ったのに
迎えが来るのは十分とはわけがわからなかったが、おそらくこれも崇光の言う『経路』
のひとつなのだろう。
 座席に収まるとイリーナはすぐに眠ってしまった。人事不省の深い眠りで、四匹の
おともも少女に身をすり寄せて眠り込んでいる。さすがにこの戦いは幼い少女には酷
だったようだ。
 ユリウスの手足も鉛を詰めたように重い。ともすれば降りてこようとする瞼と必死に
戦いながら、それでもユリウスはリアシートに寝かされて崇光の処置を受けている
アルカードから目を離さなかった。
 崇光もまた疲労の色が濃く、目の下にくっきりと隈を浮かせていたが、アルカードの
上を動く手は遅滞なかった。小さく呪を呟きながら指をそろえて印を切り、人型に切った
紙で魔物に受けた傷をたどる。いつもなら目に留まるほどの時間もあけずにふさがって
しまう程度の傷はいつまでもじくじくと血をにじませていたが、やがて人形が黒ずんだ
血の色に変わり、車がベルモンド家の車止めに停車するころには、ようやく小さな赤い
痕が残るばかりになっていた。夜はすでに開けかけており、わずかな暁光が屋敷の石造り
の屋根にさしそめていた。
「治療者と、念のために祓魔術の処置を」
 まだ意識のないアルカードを座席から抱き下ろし、運転手に命じてイリーナもつづけて
降ろさせながら、崇光はそれだけ言った。
「アルカードは僕がこのまま診ます。イリーナは部屋へ運んで、眠らせてやって
ください。ユリウス、君はその手の治療を。かなり深く切っているはずだ。瘴気の
毒の対策も受けておきなさい」
 言い争うにはユリウスは疲れすぎていた。アルカードは透き通りそうに白い顔のまま、
どこか苦しげに眉をよせて崇光の胸に頭をもたせている。手がふいに、思い出したように
うずき始めた。

160煌月の鎮魂歌8 26/29:2016/01/16(土) 18:48:43
 無表情な医師と、続いてやってきた顔も知らない能力者の処置を受ける間、ユリウスは
彼にしてはありえないほど静かだった。だが心の中では嵐が吹き荒れていた。処置が
終わって解放され、自室のベッドに身を投げ出したとたん、脳裏にあの蝋燭に照らされた
部屋の光景がぐるぐるとめぐり始めた。
 自分が眠っているのか起きているのかわからなかった。悪夢のような迷宮を、ユリウス
はどこまでもさまよった。何度もあの光景が、古風なベッドに眠る男とそのそばに身を
寄せるアルカードが、その目から流れ落ちる血の涙が、あらわれてユリウスを苦しめた。
 どれほどそこに近づこうとしても、いくらあがいても、小さなその光はますます遠く、
いつまでも手の届かない場所にあって、ユリウスの侵入を拒否していた。
 いや、拒否ならばまだよかった。最初から彼らにとって、ユリウスなど存在しても
いなかった。彼らはただ彼らだけの小さな世界に住んでおり、それ以外の人間など
はじめから居はしないのだ。
 そこはあまりにも完璧で、完璧すぎたが故に壊されたのだ。エデンの園がいつまでも
楽園ではいられなかったように、最高位の天使と讃えられたルシフェルが天から墜ちて
悪魔と呼ばれたように、完璧にすぎるものはいつか崩れ去ることによってその完璧さを
完成させるのだ。
 自分がアルカードにした仕打ちも現れたが、それは影よりも薄く、すぐに雪の一片の
ように溶けて消え去っていった。どんなに惨い仕打ちも、淫らな言葉も、屈辱も苦痛も、
すべてあの美しい月にとっては別世界の出来事にすぎなかった。彼が住んでいた、そして
今も住んでいるのはあの男と二人だけの世界、蝋燭に照らされた小さな箱庭の中。
 たとえユリウスがあの胸を裂き、ナイフで心臓をえぐり出したとしても、淡々と彼は
それを受け入れただろう。彼の心臓はそこにはないのだから。アルカードの心臓はいま
もあの男のそばにあって、終わりのない苦痛と悲傷に血の涙を流しつづけているのだ。
 ラルフ・C・ベルモンド。
 最初にアルカードと出会い、その身と魂に深い絆と消えない傷を刻み込んだ男。

161煌月の鎮魂歌8 27/29:2016/01/16(土) 18:49:18
 なかば夢見、なかば目覚めながら、ユリウスはベッドの上でのたうち、呪いの言葉を
吐いた。目覚めたばかりのベルモンド家の力が体の中で言うことをきかない獣のように
暴れ回っていた。あの男の中にも宿り、血を通じて連綿とユリウスまで受け継がれて
きた、退魔の力が。
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
 幾度かそんな言葉を吐いた。どんな時だったかもう覚えていない。裸体に剥かれた
アルカードを、かんしゃくを起こした子供のようにもみくちゃにして犯しながら叫んだ
気がする。
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に
流れてるベルモンドの血だけなんだ、この雌犬が』
 その通りであることを、まざまざと目の前につきつけられた思いだった。アルカード
が取り乱したのはたった一度だけ、あの指輪を、あの男の形見であるあの印章指輪を
奪われた時だけだった。今となってはその理由もわかる。彼にとってはあれは、心臓
の一部をむしりとられるに等しい行為だったのだ。なぜ彼が黙って指輪を手放したのか
信じられない。取り戻そうとすらしないことも。ちぎりとられた傷口は、見えない血の
涙を流していまこの時も泣き続けているのだろうに。
 ──汗まみれになり、胸を大きく上下させながらユリウスは天井を見上げて横たわって
いた。
 いつのまにかまた日が暮れていた。窓の鎧戸はおろされて、ベッドサイドのランプだけ
がぼんやりと灯っていた。
 シーツは汗で冷たく、力に煽られた身体は炙るように熱い。ランプの橙色の光があの
静かな小さい世界を照らす蝋燭を思い起こさせ、目を腕で覆って顔をそむけた。
 手に巻いた包帯が自然にほどけて落ちた。傷はきれいに癒え、何のあとも残っていない。
 喉がひりついた。枕もとに用意されていた水差しの中身をひと息に飲み干し、溺れる
もののようにあえいだ。一日以上なにも口にしていないはずだったが、空腹は感じ
なかった。体内を荒れ狂うベルモンドの血、あの男から受け継いだ呪わしい力が、飢え
を感じなくさせていた。

162煌月の鎮魂歌8 28/29:2016/01/16(土) 18:49:54
 くしゃくしゃになったシーツを押しやり、身を起こす。サイドテーブルの引き出しを
あけて、中をさぐった。鎖のついた重い金属に指が触れる。つまんで、引き出した。
すり減って傷だらけの古びた金の指輪が、なにかの死骸のように重く手の上に転がった。
 橙色のランプの光がその表面に揺れた。一瞬、頭の奥でこぼれる赤い涙と眠る男の姿
がフラッシュした。衝動的に立ち上がり、窓を開けると、外の真っ暗な夜に向かって、
指輪を投げつけようとした。
 だが、できなかった。片手を振りあげた姿勢のままユリウスはしばらく硬直し、身を
震わせていたが、やがて疲れ果ててベッドに崩れるように腰を落とした。開いた窓から
夜の風と気配が流れ込んでくる。
「……嫌だ」
 ユリウスは呟いた。それはアルカードが彼に向かって呟いたものと同じだった。嫌だ。
嫌。絶対的な拒否の言葉。いまだかつてアルカードが口にしたことのなかった言葉。
「嫌だ。放してなんてやるもんか。絶対に放しゃしない。あいつは俺のものだ。俺の
ものなんだ。何百年も前に死んだ男のものなんかじゃない。あいつは俺のだ。俺の、
ものなんだ……」
 握りしめた拳に力をこめる。赤い髪が垂れ、血の出るほどに唇をかみしめるユリウス
の若い顔を隠した。わななく手の中で、金の古い指輪が人肌に温められ、ゆっくりと
ぬくもっていった。

163煌月の鎮魂歌8 29/29:2016/01/16(土) 18:50:52



 ──森の奥で、小さく蠢くものがあった。
 芝草の影から、それはほとんど闇にとけ込む昏い色の翅で舞い上がった。小指の爪を
あわせたほどの、小さな小さな黒い蝶。
 蝶はよろめくように木々のあいだを抜け、ときおり地面に落ちそうになりながらも、
まっしぐらにある場所をめがけた。
 ベルモンド家の屋敷は、静かな夜の中に堅固な城として建っている。蝶は風にまぎれる
ようにその中へと吸い込まれていった。
 人目に止まらぬ影をくぐり、闇を抜け、明かりの届かぬ片隅を抜けて、蝶はついに
ひとりの婦人にたどりついた。旧式な形に結い上げた白髪の髷の中に吸い込まれる
ように潜り込む。
「……そう」
 やがて、婦人は独り言のように言った。
「あの男はベルモンドの力に目覚めたの。なんとおぞましい。計画を進めなくては
ならないわ。ラファエル様のために。ラファエル様のために」
 彼女は立ち上がり、軽く髪を直すと、黒いドレスの裾を鳴らしながら茶器を片づけ
始めた。そばのベッドに眠る金髪の少年をちらりと見やる。車椅子は隅に片づけられ、
大きな枕の上には眠りに落ちる直前まで読んでいた、騎士物語の書物が開いたままになっていた。
 茶色く灼けたページには、薔薇の絡む塔に閉じこめられた乙女と、そこへ向かって
馬を走らせる、凛々しい騎士の木版画があった。
 ボウルガード夫人は書物を取り上げ、書棚の所定の位置にきちんと片づけた。
 少年の寝息を確かめ、肩にかかった毛布をかけ直す。灰色の目は常と変わらず、沈着に
澄み切り、ほぼなんの感情も浮かべてはいなかった。

164煌月の鎮魂歌9 1/22:2016/06/18(土) 06:00:09
 Ⅳ  1999年 五月

            1

 ユリウスはゆっくりと階段を下りていった。
 先に立っている崇光のひょろりとした背中が一定のリズムで左右に傾く。地下へと
下ってゆく螺旋階段は際限もなく感じられ、足の下に長年の行き来によって踏みけず
られた段はわずかに中央部がくぼんでいる。壁のところどころには弱々しいライトが
灯っていたが、おそらくは、それらは以前は古めかしい松明にすぎなかったのだろう。
湿った冷たい石壁にはいまも積み重ねられた月日の垢のように黒く煤がこびりつき、
文明などというよわよわしい代物が投げるうすっぺらな光を嘲笑するかに思える。
 ベルモンド家の最奥、多くの守護者と使用人たち、そして誰よりも、家長である
ラファエル少年に守られた聖所。
 自らをベルモンド家の人間とは考えたくないユリウスではあったが、そこへ足を踏み
入れるための資格、ヴァンパイア・ハンターとしてのベルモンド家の血をその身に継い
でいることは、どれほどラファエルが怒ろうと否定しようのない事実だった。
「だめだ」
 少年は言い張った。興奮するあまり血の気のない頬はほてり、車椅子にかけられた膝
掛けがずり落ちそうになっている。
「アルカードがあんなに傷ついたのはお前のせいなんだ。お前みたいな素人を連れて
いったから、あんなに彼が傷つかなければならなかった。彼に会う資格なんてお前には
ない。僕はお前をベルモンドだなんて認めない。聖所の扉はお前のためになんか開か
ないぞ、ならず者め。とっとと出て行って、自分に似合ったネズミ穴に帰ってしまえ」

165煌月の鎮魂歌9 2/22:2016/06/18(土) 06:01:26
 地下へと続く両開きの大扉の前に、異母兄弟はまるで不倶戴天の敵のように向かい
合っていた。少なくとも、ラファエルの方はそうだった。少年はいま、半吸血鬼の公子
が地下のもっとも魔力の強い場所で眠りについていることについての全責任を、ユリウス
にかぶせるつもりでいるようだった。この少年にとってかの銀髪の麗人以上に大切な人間
などこの世に存在しないのであり、それに対して、突然現れた異腹の兄──兄とは断固と
して認める気がなくとも──は、あくまで自分から聖鞭と、何よりも公子を奪い、蹂躙
した許すべからざる敵にほかならなかった。
「帰ってもいいが、それじゃあんたたちが困るんじゃないのかい」
 自分でも思っていなかったほどおだやかな声が出た。ラファエルは言葉につまり、のど
の奥で唸ってますます頬に血の色を上らせた。そばに控えたボウルガード夫人が身を屈め
て膝掛けをとりあげ、丁寧な手つきで幼い主人の膝にかけなおした。
「俺だってここに喜んで連れてこられたわけじゃないのを忘れるなよ。俺がいなくなった
ら例の鞭を使う人間がいなくなる、そうだろう? だったらあんたがいくら吠えたところ
で俺の要求は通さざるを得ないわけさ。それに俺はなにも悪いことをしようとしてるん
じゃない。あんたが言うように、アルカードが傷ついたのが俺の責任だっていうのなら、
見舞いのひとつもしに行くのが筋ってもんだろう。これでも心配してるんだぜ、なんたっ
て、あいつは俺の可愛い雌犬だからな」
 最後の一言は残酷な意図を持ってつけ加えられた。その意図は当たった。少年は真っ赤
になり、それから紙のように蒼白になった。
「お前が」
 怒りのあまり、少年の両手は車椅子の肘掛けの上で筋張った骨の形をくっきり浮かせて
震えていた。
「お前が、お前なんかが、そんな口を、彼に──」
「ラファエル」
 落ち着いた声が割って入ったのはその時だった。白馬崇光が、誰にも気づかれないうち
に影のように滑り込んできていたのだった。
「彼を聖所へ連れて行きます」

166煌月の鎮魂歌9 3/22:2016/06/18(土) 06:02:03
「崇光!」
 ラファエルは叫んだ。
「僕は許さないぞ、そんなことは断じて」
「彼がこの扉をくぐる資格を有していることは確かです」
 周囲でどちらの味方にもつけず、おろおろしていた使用人たちの腕をするりとくぐり抜
けて、崇光はユリウスの隣に立った。
「彼に、ベルモンド家にとってアルカードがどのような存在であるか、知らせておくのも
この際必要なことでしょう。累代のベルモンドたちが彼をどのような思いで見守ってきた
のか、彼に負わされた運命がどれほど重いものか、ベルモンド家の者として、彼とともに
魔王を封印し、すべての運命から彼を解放することがどれほど大切なことか」
 ユリウスはじろりと頭一つ低い日本人青年を見下ろした。
 長髪を後ろでひとつにまとめ、丸い眼鏡をかけた青年神官の表情は、いつも通り読みづ
らかった。暗い照明がレンズに反射し、その奥の目の色をさらに読みづらくしていた。
「それに、忘れないでください、ラファエル。彼が言ったとおり、彼以外に〈ヴァンパイ
ア・キラー〉の使い手たる人間はいないのです。あなたにとってはどうしようもなく辛い
事実でしょうが、認めるほかありません。そして今のところ彼は、それなりの実力をもっ
ていることを証している」
 眼鏡がわずかに傾き、切れ長の目が一瞬するどい一瞥をユリウスに投げた。ユリウスが
負けずににらみ返すと、青年は何事もなかったようにまたラファエルの方をむいた。
「先日の敵の侵入は、僕にも予想外でした。あれほどの高位の妖魔が襲撃してくること
も。素質の足りないものであれば、あの夜に一瞬にして死んでいておかしくないのです。
しかし彼は生き延び、怪我もなく、この場に自分の足で立っている」
「アルカードを犠牲にしてだ」
 叫ぶようにラファエルは言った。
「そいつをかばったために、アルカードはまだ眠り続けて目覚めないんじゃないか。もう
あそこに入ってから十日近くたつのに、そいつが無能だから、だから」

167煌月の鎮魂歌9 4/22:2016/06/18(土) 06:02:37
「あなたがそう思いたいのと、現実とは同じではないのですよ、ラファエル」
 なだめるように崇光は言った。
「現実の彼は無能にはほど遠い。僕はこの目でそれを確認しました。アルカードもそうと
認めたからこそ、彼を鞭の保持者候補として選定しているのです。彼を見つけ、使い手と
して連れてきたのは他ならぬアルカードであることを忘れないでください。彼は単に
ベルモンドの血が入っているからというだけの理由で、余所で好き勝手に生きていた
ギャングのボスをここに引っ張り込んでくるような考えなしではありません」
 あるいは崇光はユリウスをも怒らせるつもりだったのかもしれないが、そのような
言われ方はこの屋敷に連れてこられてから、ユリウスにとっては聞き飽きすぎてそよ風
ほどの効果ももたらさなかった。
「それで、結局どうなんだ?」
 わざとらしくあくびをかみ殺して、ユリウスは腕を組んで退屈そうなポーズをとって
みせた。
「いつまでもここのドアマットの上でキャンキャン吠えあってなけりゃいけないのか? 
面会謝絶ってならそう看板を出しといてもらいたいもんだ。それだって、まともな病院
なら身内の人間くらいは入れてくれそうなもんだが。ま、あんたたちとしちゃ俺のこと
なんぞ身内と認めたかないのは承知してるがね、こっちはこっちで、権利ってやつがある
なら最大限使わしてもらう主義なんだよ。ひょっとして、ここで鞭の腕前を披露して、
その大仰な扉をぶち破ってみせなきゃいけないのかね?」
「そんなことをしてみろ、僕がこの手で──」
「もうおやめなさい、ラファエル」
 静かな、だが有無をいわさぬ口調で崇光がさえぎった。

168煌月の鎮魂歌9 5/22:2016/06/18(土) 06:03:10
「彼は資格を有しています。であれば、いかにあなたがベルモンド家の当主であろうと、
この場では鞭の使い手の──鞭に認められるまではあくまで候補であるとはいえ──彼の
意向が優先されます。ボウルガード夫人」
 ボウルガード夫人は黙って一礼し、抗議するラファエルの車椅子を押して、扉の脇へと
退かせた。使用人一同も、ざわざわと押し合いながらいっしょになって後ろへ下がる。
「やめろ! 行かせないぞ、僕は──」
 車椅子から落ちそうなほど身悶えし、ままにならない体を必死によじりながら、ラファ
エルは悲鳴のような声をあげて金髪を振り立てた。
「貴様、アルカードにこの上何かしてみろ、僕は、僕がきっと」
「彼はアルカードになにもしませんよ、ラファエル。そうですね? ユリウス」
 またちらりと向けられた一瞥には、底知れない冷たい光と力が宿っていた。ユリウスは
ただ肩をすくめるだけにとどめた。
「また僕が同行するかぎり、そんなことは誰にもできませんし、させはしません。聞き
わけなさい、ラファエル。あなたはそんな愚かな人ではなかったはずですよ」
 ラファエルは頭が膝につくほど身を折り曲げ、低い呻き声を漏らした。
 かすかにきらめいたのはこぼれ落ちた涙の粒のようだった。ボウルガード夫人は脇の
使用人から受け取った上着をラファエルの背中に着せかけ、少年の震える細い身体が
すっかり覆われるようにきちんと整えた。
 もうそれ以上頓着することはせず、崇光はユリウスの先に立って、鉄と青銅で護られた
大扉の前に進んだ。
「ではユリウス、これからあなたをベルモンド家のもっとも聖なる場所に案内します。
ここはベルモンドの血を継ぐ者、及び、彼らによって特別に許可された人間しか出入り
を許されない至聖所です。僕でさえ、先代当主によって許可されていなければ、ここには
一歩も足を踏み入れることができなかった。この扉をくぐるというのがどういうことか、
よく考えて前に進みなさい、いいですね」

169煌月の鎮魂歌9 6/22:2016/06/18(土) 06:03:46
「ごちゃごちゃ言わずにとっとと開けろ」
 それだけ、ユリウスは答えた。
 崇光はしばらく扉に手をかけたまま、量るように赤毛の青年の横顔を眺めていたが、
やがて扉に向き直り、巨大な取っ手に手をかけて、引いた。
 非力そうなひょろりとした青年の手にもかかわらず、扉は動いた。地面の底からわき
あがってくるような軋みが、何者か地中深くに封じ込められたものの苦悶の声のように
とどろいた。緑青をふいた青銅の縁取りのむこうに、かすかな橙色の光に明るんだ、
うす闇が覗いた。
 声を殺してラファエルがすすり泣いていた。人ひとり通れるだけ開かれた扉の隙間を
崇光がくぐり抜け、続いてユリウスも歩を進めた。
 しめって冷たい地下の空気が頬をなでた。背後で扉がかすかな地響きと共に閉ざされ
た。ユリウスが立っているのは、どこまでも続くかに思われる、地下への螺旋階段の
頂点の小さな踊り場、その縁だった。

            2

 階段がついに尽きた。
 降りてゆく間、崇光は一言も口をきかず、振り返ろうともしなかった。ユリウスも
あえて話しかける必要は感じなかった。二人分の足音が気の遠くなるほどの長い縦穴に
反響しては消えていった。しんしんと二人はそれぞれ頭の中に唯一のものを思い描きつつ
進んだ。
 最底部はまた小さな踊り場になり、構えが上ほど仰々しくはない、両開きの質素な扉が
あった。見たところ、扉は扉だけでその場に自立しており、背後には壁もなければ部屋が
あるようにも見受けられない。ユリウスは答えを急かすように崇光を睨んだ。崇光は
あわてずさわがず、手をあげて扉の表面に手をあて、なんらかの言葉を二つ三つ呟いた。
 扉は開いた。というよりも、その場で霧のように薄れ、かわりに、扉に刻み込まれて
いた蔓模様がふいに生気を取り戻し、ほどけて、一気に空間全体に広がったように思えた。

170煌月の鎮魂歌97/22:2016/06/18(土) 06:04:20
 崇光は猫のようにそっと中に踏み入っていった。
 ユリウスも黙ってあとにつづいた。自然に足音をひそめる形になった。
 それを必要とさせる厳粛な静謐さがそこには満ちていた。これまで降りてきた長い長い
螺旋階段とは違い、ここには電気のライトなどという無粋なものは置かれていない。
かわりに輝いているのは、花だった。
 いちめんの薔薇の花。床を覆い、壁に交差し、天井からカーテンのように垂れている
エメラルドのような緑の枝とみずみずしい葉の間に、まばゆいほどに純白の大小さま
ざまな薔薇の花が咲き誇っている。
 ふっくらした花びらは露をたたえ、葉もしっとりとした霧にぬれていた。日光もなけ
れば通風も十分でないはずのこの深い地下の一室で、どうやってこのようなおびたたし
い薔薇が生気をたもっているのか、ユリウスには見当もつかなかった。
 足の下は石や人工の床ではなく、青々とした若草と、細い茎をからみあわせた小さな
野薔薇の茂みだった。
 そこここに、季節にはまだ少し早いクローバーの小さなまるい花が内気な乙女のよう
に揺れている。全体は月光めいた青い光に満ち、胸が痛むほどの静けさだった。
 その中央に、アルカードがいた。
 眠っていた。大きな天蓋つきの寝台に寝かされていたが、この寝台もまた、周囲の薔薇
にまつわりつかれ、まるで薔薇そのものでできているかのように輝いていた。
 天蓋からは細い薔薇の花綱が垂れ、あらゆるところから伸び上がった大輪の白薔薇が、
主人を気遣う子猫のように寝台の主のまわりを取り囲んでいる。露をおびた蔓と葉が
シーツの代わりに身体をそっと包み、眠る彼の組み合わせた手の上に、重なるように
かぶさっていた。

171煌月の鎮魂歌98/22:2016/06/18(土) 06:04:52
 白い顔はぴくりとも動かず、大理石でできた彫像のように完璧で冷たく、なめらかな
肌は死人よりもさらに蒼白だった。
 銀髪は滝のように流れて寝台の縁を越え、薔薇の蔓に支えられるようにして床へと
広がっている。長いまつげが疵ひとつない頬に透明な青い影を落とし、薄い唇は軽く
結ばれて蒼白の固さにのまれている。人間であるにはあまりに美しい顔は、超自然の
眠りにのまれることでさらに人間らしさを消し、遠い異教の神が魔法の眠りの中にいる
かのような近づきがたさを感じさせる。
 閉ざされたまぶたややわらかい巻き毛に宿るのは、薔薇の花びらよりもまだ繊細な、
あわく透き通る影だった。大小さまざまな薔薇の萼が眠れる主人を気遣う侍女のように
あたりに集い、侵入者たちを非難するかのように、いっせいに音のないさざめきを発した。
「おい……大丈夫なのか?」
 ようやく、ユリウスは言った。声を出すのにはそうとうに思い切る必要があった。それ
ほどこの静寂は聖なる威厳と緊張感に満ちていた。
 崇光は厳しい顔をしたまま返事をしなかった。ユリウスが同じ質問をもう一度繰り返し
てようやく、彼のほうをむいた。
「問題はありませんよ。一応はね」
 ひっかかる言い方をしやがって、とユリウスは思ったが、口には出さなかった。
「ここはベルモンド家の地所でももっとも強力な大地の力の集まる場所です。過去のベル
モンドたちはここに彼の故郷──ヴァラキアの土を埋め込み、その上で、さらに力の流れ
がこの一点に集約するように、何代もかけてここを築き上げたのです。彼がひどく傷つい
たとき、それに見合った治療の力を受けられるように。何百年もの戦いのうちには、アル
カードとて深く傷つくことがなかったとはいえない。彼の超人的な能力とはいえ、限界は
やはりあるのです。とはいえ」

172煌月の鎮魂歌9 9/22:2016/06/18(土) 06:05:27
 崇光はふと言葉を切って、ユリウスをじっと見つめた。
「今回のニュイ女伯爵とかいう妖魔相手でしたが──正直、アルカードがこれほど疲弊す
るような相手ではなかったと、僕は見ています。幼いイリーナが体力を消耗するのは必然
ですが、歴戦の戦士であるアルカードが、ここに入らなければならないほど力を弱められ
るのは、異常事態と言わねばなりません」
「だから、俺のせいなんだろ」
 不機嫌にユリウスは吐き捨てた。聞くところによるとイリーナは日課のお茶会をまだ休
んではいるが、ここ数日でベッドに起きあがって、あの女王めいた物腰で尊大にスコーン
とジャムにダージリンのポットを命じる程度には回復しているそうだ。また茶会への呼び
出しがかかるのも遠いことではなかろうと考えると憂鬱になる。
「ド素人の俺がついてったおかげで足を引っ張られて、こいつが重傷を負った。もう聞き
飽きてるよ。だからって、俺にどうしろっていうんだ」
「ラファエルはそう思いたがっているようですが、僕は賛成しません」
 そっけなく崇光は言い返し、眠るアルカードにゆっくりと歩み寄った。薔薇たちは不服
そうにざわめいたが、主治医としての彼が近寄ることは了解しているらしく、左右にわか
れて道をあけた。崇光は手を伸ばし、アルカードの動かない頬に慎重に指をふれた。
「あなたどころか、まったく戦力にならない一般人を抱えて戦う経験も、彼はいくつも
している。彼が五百年生き、その間ずっと闇の勢力と戦い続けていたことを忘れないで
ください。魔王その人とでさえ、二回までも相対して、一時の封印には成功している
のですよ」
 ユリウスは唇をかんだ。崇光は続けて、

173煌月の鎮魂歌9 10/22:2016/06/18(土) 06:05:58
「彼はもっとひどい傷やダメージからも回復してきましたし、これほど長い間ここで
眠り続けるほどの重傷ではないはずです。少なくとも記録に従えばそのはずだし、僕の
看立てでもそうだ。彼はとうに目覚めていておかしくはないし、そもそも、ここに入って
眠らねばならないような重大なダメージをうけたのは、これまでの歴史でも片手で足りる
ほどしかない。それもほんの一、二時間から半日というところで、こんなに長く眠り続け
ているというのは、明らかに異常です」
「じゃあ、いったいなんだっていうんだ」
「あなたは彼に血を与えましたね」
 断定するように崇光は言った。
 ユリウスは身がこわばるのを感じた。
 いくつもの言葉が喉に押し寄せたが、すべては舌の上で氷に変わった。
 あの一瞬の記憶が脳裏にまたたいた。泣き叫ぶイリーナと、指先から流れ落ちる血。
アルカードの唇に流れ込む真紅の滴。記憶の中で、粘る飴のように、落ちていく血は
とても遅く見えた。
 そしてその後に閃いた、遠い過去の光景──
「何をしたかが理解できているようでよかったですよ」
 ユリウスの沈黙を正確に読みとり、冷然と崇光は言った。
「ベルモンドの血は力に満ちている。アルカードとベルモンド家の関係を本当の意味では
知らないイリーナが、弱った彼にもっとも力あふれる血を与えようと判断したのは間違っ
てはいない。まああなたも、知らなかったのだから無理はありませんがね。見たのでしょ
う?」
 何を指しているかは言われるまでもなかった。ユリウスは声も出ないまま、わずかに頭
を動かした。

174煌月の鎮魂歌9 11/22:2016/06/18(土) 06:06:35
「これまでベルモンドの者が彼に血を与えたことがなかったとは言いません」
 と崇光は続けた。
「しかし、その場合、彼は何重にも用心し、けっして直接血を飲むことはなかったし、前
もってしっかりと精神を鎧って、記憶が呼び起こされることのないよう封じていました。
彼にとってあれはもっとも触れたくない、誰にも触れてもらいたくない秘密なのです。僕
がそれを知っているのは、ある事情から彼が話してくれたからにすぎない。その時で
さえ、彼の苦悩と悲しみは言葉につくせないほどのものでした。それを、ひどく弱って
いる時に直接あなたの血を口にしたことで、あまりにも生々しく、突然に呼び起こされて
しまったのです。彼の受けたショックがどれほどのものだったか、あなたに想像できますか」
 黙ってユリウスは唇をかんだ。しばらく返事を待つように口を閉ざしていてから、崇光
はまた続けた。
「ベルモンドの者は生涯に一度は彼に恋をする──そう言われています」
 ユリウスはびくりと目を上げた。とたんにこちらを見据える崇光の鋭い眼光に射抜かれ、
反射的に目をそらした。青年神官の眼鏡の奥の瞳は、いつもの穏やかさを脱ぎ捨てて、刃
のような悽愴な光をたたえていた。
「でも、彼がここに身を置くようになって四百年近く、だれ一人としてそれをかなえた者
はいない。なぜかわかりますか」
 問われているのではなかった。その答えはすでにユリウスの中にあった。ただ言葉に
されるのを拒んでいるだけだった。言葉にされ、口にされてしまえば、それは認めざる
を得ない真実となってしまう。ユリウスは力なく頭を振り、聞くまいと顔をそむけた。
「彼はただ一人のベルモンドを愛している。今も。そしてこれからも。
 ──そしてそれは、あなたではない」

175煌月の鎮魂歌9 12/22:2016/06/18(土) 06:07:41
 むなしく声は耳につきささった。
 自然に顎に力がこもり、口の中に血の味が広がった。鉄錆の味はいつもと違ってひどく
苦く、酸のように舌を灼いた。
「彼と最初に出会い、愛し合ったただ一人のベルモンド。ラルフ・C・ベルモンド。彼
だけが、アルカードにとって唯一であり絶対なのです。
 ほかのすべてのベルモンドはただ、彼の血を継ぐ者というだけにすぎない。もちろん
ひとりひとりを愛していなかったわけではないでしょう。しかし、最初の一人のように
彼を愛し、愛された人間はいない。誰も」
 かたくなにユリウスは顔をそむけていた。噛み破った唇から血が流れているのをわずか
に意識した。血の味がめまいを引き起こす。血。指先から流れてアルカードの唇に落ちた
血。
 その血を含んだとたん、彼は跳ね起きて呪うようにユリウスを見た。いや、ユリウスを
ではない、今も彼を苦しめてやまない、運命と離別の夜を見た。そしてただ一言、拒否の
言葉を口にした。『いやだ』。血の涙だけがあの夜と同じく、赤い筋をひいて頬に流れた
……
「あなたは彼から指輪を奪いましたね。金の、古い指輪を」
 冷然と崇光は言った。
「あなたが彼をどのように扱っているかは知っています。彼が選んだことですから、僕は
それに関してどうこう言うつもりはありません。
 しかし、あなたがその指輪を奪ったことが彼にとってどんな意味を持つかは知っておき
なさい。あれは彼にとっては生命と同じ、彼を愛し、愛された相手が遺したただ一つの
形見です。あれだけが、彼にとって唯一、自らの生を認めてくれるよすがなのです。
それを、あなたは奪った」

176煌月の鎮魂歌9 13/22:2016/06/18(土) 06:08:23
「あいつは俺のものだ」
 ようやく、ユリウスは言った。自分の耳にもその声は聞こえづらく軋み、かすれて苦し
げだった。
「あいつが俺に言ったんだ、俺のものになると。俺の言うことはなんでもきくと。俺のも
のに、俺の……」
「あなたがベルモンドの血を継ぐ者でなければ、彼はあなたなど見もしなかったでしょうね」
 容赦なく崇光は言った。
 ユリウスの全身がむち打たれたように震えた。
「そしてあなたが唯一残った聖鞭の使い手でなければ、彼は、けっしてあなたに屈服する
ことなどしなかった」
「俺は──」
「これだけは理解しておくことです、ユリウス・ベルモンド」
 畳みかけるように崇光は続けた。
「アルカードが見ているのはあなたではない。彼が見つめ、愛するのは今も昔もただ一人、
ラルフ・C・ベルモンドと、彼の遺した血のみです。あなたが彼にしているような仕打ち
が許されるのはひとえに、あなたの体内に流れる血と、聖鞭の使い手の資格によってであ
ることを知りなさい。
 あなたはけっしてあなたとして彼の目に映ることはないし、本当の意味で愛されること
もない。彼が愛しているのは過去も現在もただ一人、それ以外の人間は、彼にとって一瞬
で過ぎ去る夢のようなものにすぎない。それがいかに愛すべき夢であっても、──憎むべ
き夢であっても」

177煌月の鎮魂歌9 14/22:2016/06/18(土) 06:09:00
 崇光ははじめて視線をそらし、眠るアルカードの顔に目を落とした。すでに死せる者を
見るかのように痛ましげな、悲傷に満ちた色が頬のあたりをよぎった。手を伸ばしてそっ
とシーツにあふれる銀髪をさする。白い薔薇たちが見下ろすように揺れる。
「彼にとってはすべてが夢なのです。闇の公子として生まれ、父殺しの宿命を負って五百
年。彼はずっと、醒めない悪夢の中で生きてきた。その中で、ただ一つの愛の記憶だけが、
彼にとっての生命なのです。あなたが奪った指輪は、その生命そのものにほかならない」
「あれは返さない」
 からからの舌を動かして、ユリウスはやっと言った。
「俺は……あれは、俺のものだ。俺のものだ。俺の……ものなんだ」
「なら、そう思っていなさい。どちらにせよ、事実は変わらない」
 ふいに崇光はすべてに興味をなくしたようだった。どうでもよさそうにそう吐き捨て、
ユリウスに背を向けてアルカードにかがみ込んだ。薔薇の侍女たちが音もなくさざめき、
白いボンネットのような頭を傾けて主治医のまわりに輪を作った。
「彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド」
 眠るアルカードに医師の慣れた手つきで触れながら、そっけなく彼は告げた。
「僕が言っておきたかったのはそれだけです。あなたが理解しようとしまいと、どうでも
いいことだ。あなたの中の血、その血が与えている鞭の保持者としての資格。アルカード
が見ているのはそれだけです。あなたではない。けっして」
 それ以上口を開かず、崇光はアルカードの上にかがみ込んだまま、何か複雑な図形を宙
に指で描きはじめた。指の動きにつれて、淡く輝く線が空中に魔法陣のような立体図形を
組み上げていく。

178煌月の鎮魂歌9 15/22:2016/06/18(土) 06:09:37
 アルカードは薔薇に覆われたベッドの上で、死病におかされた子供のように身じろぎも
せず、あふれる銀髪と薔薇の花弁に埋もれて目を閉じていた。うす青い瞼にまたたく図形
の光がちらちらと揺れる。
 ユリウスは踵を返し、その場を逃げ出した。



 何者かに追われるように足をもつらせ、数度は躓き、何度かは膝が崩れて倒れそうにな
った。
 気がつくと自室にいてベッドに腰を下ろし、呆然と壁を見つめていた。
 夜半で、なかば開いた窓からは初夏の涼しい夜気が流れ込み、カーテンにじゃれる月光
が床にも、足首にもまつわりついている。どれほど激しい鍛錬をしても堪えたこともなか
ったのに、まだ膝が震え、足に力が入らなかった。押しつけられるように胸が痛む。喉が
締めつけられ、息がつまる。無理に呼吸をしようとすると、空気が大きな固まりになって
肺につかえた。なんとか息を吸おうとあがいても、身体が石になったように重く、がくが
く震えて言うことをきかない。
 組み合わせた両手で何か堅いものをきつく包み込んでいることにようやく気づいた。意
のままにならない手を苦労してほどいてみると、古い、すり減った金の指輪が、鈍い光沢
をおびてそこにあった。
 シャツは丸めて投げ捨てられ、ブーツは横倒しになって壁の近くに転がっていた。意識
しないうちに背中が丸まり、両足をきつく胸に引き寄せていた。ベッドから腰が滑り落ち、
床についた。ユリウスは床にうずくまり、両膝をかかえてかたく身体を丸めた。赤い髪が
裸の肩にこぼれて、顔をかくした。

179煌月の鎮魂歌9 16/22:2016/06/18(土) 06:20:12
「俺のものだ」
 誰にともなくユリウスは呟いた。
「俺のものだ──俺のものだ──俺の、ものだ──俺の」
 だがその声はひどくかすれ、自分のの耳にすらうつろに響いた。
 今背を預けている同じベッドで、あの白い肢体を何度蹂躙したことか。抵抗一つしない
身体を思うがままに痛めつけ、恥知らずな姿勢をとらせて、最下級の娼婦に等しい扱いを
した。命じるままに鎖につながれ、雌犬の姿勢で自分を受け入れる彼に嘲弄の言葉を投げ
つけもした。
 だがその心を折ったと感じたことは一度もなかった。いつでも次の朝になれば、何事も
なかった顔をしてアルカードは白い月のように現れた。どんなに手を伸ばしても届かない
天上の月。いっときこの手につかんでも、たちまち指のあいだから滑りおちていってしま
う。
 ゆれるカーテンのむこうから欠けた月が覗いている。新月からしだいに満ちていく月は、
いまだ過程の途中にあって細っている。弱く頼りない光だが、訓練によって慣らした目に
は、そのわずかな光も明るく感じる。

 足首にまつわっていた微かな月光が肩に触れ、髪にまつわる。その冷たい感触を、ユリ
ウスは知っていた。あの細い指先。絹よりまだ柔らかくなめらかな、透き通るあの肌。
すくい上げれば滝のように流れる、銀色の髪。強引なくちづけにもあらがわず、わななき
ながら開かれる仄赤い唇。


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