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疑問を解消したいスレッド
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「自分のわからない事をお伺いしたい、知りたい」
という趣旨のスレッドであります。
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菊川さんの事で恐縮なのですが、おにゆりさんのホームページで、菊さんの体験談を以前、読みました
(今年10月に楽天インフォシーク、ホームページサービスが終了したので、今「おにの隠れ部屋」は読めませんが)
その体験の中で、隣近所に嫌な人がいるので引っ越しした、と書いてありました。
その気持ちはわかります。私も同じ立場だとしたら一刻も早く、別の所に移って離れたいです。
鯖さんの、どこかの書き込みで「環境を変えていける」とありましたので、うーん、ケースバイケースなのかな?
と思いました。
変えられる環境とそうでない環境とがあるのでしょうか。
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>>2
ケースバイケースでしょうね。
もちろん、御本尊の絶大なパワーで、環境もひっくるめて全てに影響を及ぼす事ができますし、皆、少なからずそういう体験を持っているでしょう。
その一方で、「信心しているから、現実には何も対処しなくていいんだ」という極端な態度は誤りかと。
例えば、どんな病気も怖くない信心ですが、健康にも留意し、なにかあれば病院に行き、医者に見てもらうという態度が正しい。
近所のトラブルも、事と次第によっては警察に相談すべき事もあるし、引っ越したほうがいい場合もあるかもです。
とにかく、「信心しているから」と無策で、ヤセガマンをするような事はあってはならないです。
もし具体的な悩みがあれば、早急にしかるべき相談・対処をしてくださいね。
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小説・人間革命第2巻で、戸田先生一行が東北の地を訪れ、集まった村人の前で、お弟子さんが信心の体験談をする話で、こういうのがあります
「折伏して信心に反対した者は、みな死んでしまいました(趣意)」
学会を誹謗し、今だ学会にたいする中傷ビラをまく坊主の親玉、平成不況の元凶の法主が、なぜさっさと、くたばらないのでしょうか?
信心に反対する者は逆縁で救われる、という教学なのに、小説の中では死んだ、とされ
我欲に満ち溢れた救いようのない法主が、生きてる(かもしれない)のはどう考えてもおかしいです。
疑問を解消したいです、ご教示願えましたら幸甚です(_ _ペコリ)
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>>3
回答ありがとうございます、今のところ私は「住処」に関しての悩みはありません
(_ _ )
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>>4
大聖人が御書の随所で述べておられるように、法華経の行者を悪口罵詈する罪は計り知れない事は確かです。
その一方で、開目抄では「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし」とも明かされております。
積んだ罪業が、どのように今世で「精算」されていくかは、凡夫の目で現象のみを追っていってもわからないものがあるでしょう。
従い、おっしゃるように、学会を陥れた生臭坊主どもが、のうのうと今日も生きている事は、なんら不思議ではありません。
逆に、反逆したら即座に死ぬ、とか、今年中にこうなるぞ、と予言する事は、そのへんのオカルトと同じ次元に堕してしまいます。
もちろん、全てに意味があり、もっと後になって「なるほどこういう意味があったのか」と納得する事にはなるでしょう。
また、長い目で見れば、「法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」との御書の仰せの通りになっていく事は明白です。
こんなんでご理解いただけますでしょうか。
>>5
あ、そりゃ良かったです。具体的に悩んでいるのかと思いました(´∀` )
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>>6
なんと!
>開目抄では「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし」
なるほど!ありがとうございます(_ _ペコリ)
逆に言うと、救われる者は現罰が現れるというわけですね、ふむふむ
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>>4
>「折伏して信心に反対した者は、みな死んでしまいました(趣意)」
この箇所は、酒田たけ自身が信心をすること、に反対しつづけた人、がつぎつぎと
気の毒な死にかたををしていく、だと思うのですが
(自分が)信心することに反対する者が、小説の中では死んだ、かどうかは不明じゃないでしょうか
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>>8
>この箇所は、酒田たけ自身が信心をすること、に反対しつづけた人
ああ、そうでしたか、神戸虎キチさん、ご指摘ありがとうございます(_ _ペコリ)
記憶で書いたので間違えました。
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本が出てきました
孤児として育った酒田たけ、が入信して家中が猛反対し、反対しつづけた人が
1年間で8人死亡した、と
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>>10
なんか、知らない人が読むと八つ墓村のお話かと思うので、あまりそういう所だけクローズアップするのはよしましょう(笑)
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>>11
申し訳ありませんでした
>>10のレスを削除してください(_ _ペコリ)
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すいません
どなたかご助言よろしくお願いいたします。
報恩抄293ページの抄題の下の
日蓮之を『撰す』
は『せんす』と読むのでしょうか?それとも『せんしいだす』と読むのでしょうか?
※急ぎ質問ではありません
いつでも結構です。
よろしくお願いいたします。
m(__)m
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>>13
改めて聞かれると自信がないのですが、「せんす」でしょう。
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>>14
菊川さん
わざわざありがとうございます。
「せんす」了解しました^^/
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ふと?思ったんですが
なんで 税金って足りないんですか?
民主主義に なって何年たつんですか?
そのあいだの ムダ使いとか やってなければ
税金は 足りていたのでしょうか?
なんか 給料から、やたらと 引かれてる額が多くて
ふと思いました。
偉い人達の為に税金 払ってる感じがします。
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>>16
昔から、強者が弱者からうまい汁を吸い取る構図ですね。
〜〜様に「献上」とか言って、結局、タダで持ってかれるだけでしょ(笑)
持論で恐縮ですが、この構図は国家間でも起きていると思います。
その意味でも、我々も「うまい汁を吸う」側にいる場合があるかと。
たとえば、チョコレート。
カカオを子供が収穫してる場合がありますね。
学校にも行けず、無理やりタダ同然で働かされている子供の労苦を思うと、無邪気にチョコレートなんか食べてる場合じゃない、という気になります。
私、「勝ち組」というコトバはすごく薄気味悪いと思っています。
本来は、蓮さんのおっしゃるように、皆でムダを廃していけば、少ない税金で国家運営なんて簡単にできるはずでしょ。
それを、弱肉強食の仕組みをスンナリ肯定し、あわよくばその上位に収まってヨシとする態度。
世界が椅子取りゲームなら、あるイスに座ろうとする青年よりも、イスをつくろう、という青年を育てたいものです。
また、自分も生涯青年でありたいものです。
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>>17鯖さん。わかりやすい説明
ありがとう〜ございます。
鯖さんの持論で おっしゃると
今の政治的な 流れは
ババ抜き。と、言う事ですね?
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内容の本筋的なことじゃなくてちょっとした語句に引っ掛かってしまいました。(*_*)
どなたか教えて頂けないでしょうか?
御書306頁13行目に、
『・円澄(えんちょう)大師別当(べつとう)・』
と したためられてあるのですが、
(1)『円澄大師』と『別当大師』という別人のことなんでしょうか?
それとも
(2)『円澄大師』の『別当』という役職みたいなもののことなんでしょうか?
それとも
(3)『円澄大師』と『別当』が同一人物のまたの呼び名のことなんでしょうか?
もし別人なら、間(あいだ)に、
『・』(クロチョン)を入れてほしいです。…
個人的な些細な語句の引っ掛かりで申し訳ありません。
どなたか教えて頂けないでしょうか?
m(__)m
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仏教哲学大辞典(第三版)を確認しました。
まず、「円澄」はでてきますね。埼玉県埼玉郡出身。同郷出身ハゲワロタ__φ(・∀・;)
次に「別当」でひっかけます。出てくるのは3つ。
「別当」①高級寺院の事務総長 ②どっかの省庁長官
「別当御房」生没年不詳の大聖人の弟子。千葉県の清澄寺住職、あるいは義浄房のこと?
「別当御房御返事」上記弟子に対する寺院の所有権争いについてのご指南
さらに「大師」でひっかけます。出てくるのは2つ。
「大師講」①11月24日におこなわれる天台宗のサークル ②6月4日〜5日間ひらかれる伝教のサークル活動 ③弘法大師のサークル
「大師号」偉大なる師匠という意味の称号。死んだら国からもらえる。
大切な教学研鑽において、間違ったことをお伝えすると申し訳ないので、ぜひ信濃町の教学部にお電話し確認いただきたいのですが。
(まぁぶっちゃけ、わたしが仏罰こうむりたくないってだけなんですけどね!(・∀・;))
■仮説
1、もし円澄が「別当大師」と呼ばれていたならば、仏教哲学大辞典の項目で検索できるはず。
2、円澄は比叡山延暦寺の第二台座主をつとめていた。
3、円澄の項目に「俗性は壬生氏。諡号(しごう)は寂光大師」とある。大師号はすさまじいステータスな称号なので、ふつうは一個しかもらわないのではないか。
以上から類推するに。
「円澄という名で大師号を保持する比叡山延暦寺の事務総長(円澄大師別当)」という意味になるんじゃないかなと・・・。
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>>20
無明まよゐさん
さすが一級!ピカッ☆
激感謝です。
m(__)m
>「円澄という名で大師号を保持する比叡山延暦寺の事務総長(円澄大師別当)」
なるほど!!!^^/
ありがとうございます!
了解しました(^o^ゞ
今風に言えば
承知しました(・・)(笑)
あと仏罰の件は御足労を掛けてわずらわしたということで全部頂いときます
m(__)m(∵)
めっちゃ納得いきました。(感謝)
ありがとうございます!
\^^/
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>>19
> (1)『円澄大師』と『別当大師』という別人のことなんでしょうか?
だと思います。後者は、「光定」の事ではないかと思われます。
詳しくは、報恩抄の解説本等を参照してください(笑)
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>>22
鯖さん
ありがとうございます
^^☆(感謝)
(∵)えらいことになってしまいました……
970頁10行目に
『円澄寂光大師・別当光定(こうじょう)大師・』
って出てました。
ただ、邪宗の坊さんの名前関連のことで御足労かけてしまうとは、本当に申し訳ありませんでした。
深く御詫び致します
m(__)m
ただ、わざわざ引っ掛かってるのを取り除こうとしていただいた真心だけは一生涯消えない宝物にさせて頂きます。
無明まよゐさん
そして鯖さん
ありがとうございます!!☆
^^
m(__)m
ええ人ばっかりですな
甘えててすいません
……
また甘えるかもしれません
スッキリ以上の宝物ありがとうございます!
(感謝)
^^/
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とりあえず、自分の仏罰が回避できればそれでおkですよ。__φ(・∀・;)hahaha.....
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>>24
思い切って聖教新聞社に電話確認してみました∵
僕所持の御書は『昭和61年6月30日 167刷』版の御書で古い御書で
語句の間に『・』(クロチョン)が入っていない御書なんですが、
最新の御書には
『・』(クロチョン)が入っているとのことでした。∵
一応スッキリはしましたが、
再応、まよゐさんや鯖さんから頂いた真心は
僕的にはスッキリ以上の朽ちない宝物を頂いた想いで一杯です。
ちょっと忘れられない出来事になりました。(激感謝)
ありがとうございました!
(;_;)
^^☆
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>>25
いえいえ(笑)
御書に原文であたるのも見上げた根性ですが(笑)、講義本もあるので、座右に置きながら学ぶのも手かと。
なければ、古株の学会員のおたくにおじゃましたとき、ホコリをかぶっている講義本があれば借りてみればいかがでせう・・・(笑)
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>>26
はい。^^;(汗)
もし借りれたら誰か声かけてみます。
…!∵大白に出る予定とのことでしたので、それまで愚釈研鑽頑張ってみます。∵
(勿体無いこと言ってすいません^^;)
ありがとうございます!^^/
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はじめまして。
こちらでなら教えて頂けるかと…。
ご本尊には九界の衆生が左右に認められています…と教学の基礎と言う本(P166)に書かれていますが、伝教大師と天台大師の事なのでしょうか?
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>>28
まーさん
はじめまして^^
御書の1243ページ14行目に、
『一人ももれず』
としたためてありますので、
天台・伝教の二人だけじゃなく、十界の衆生全員をさしていると思います^^
その十界の衆生全員が本来持っている宝の名前がど真ん中にしたためられているんだと思います^^/
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>>28
ご質問は、ご本尊に認められている内容のうち、「九界の衆生が左右に認められています」
にあたるのは具体的に「伝教大師と天台大師」の事を指すのか?
という事と思いますが・・・
「富士宗学要集」の「御本尊七箇相承」には、「舎利弗は声聞界」「大梵天王は天界」「転輪聖王は人界等」「竜女竜王等は畜生界」「十羅刹女は餓鬼界」「提婆達多乃至天王如来は地獄界」
といった記述があるようです。
私も、御本尊の相貌に関して特段詳しいわけではありませんし、上記はさらっと調べただけですので、詳しくは、お近くの教学に詳しい人に聞くか、学会本部に電凸していただければ(笑)
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>>29
赤ポスさん
はじめまして。
有り難うございます(^-^)
御書を開いて読んでみました。
御書は昔の文体なので難しく(T_T)今年の目標だった御書拝読も最初の方で挫折しておりました。
しかし、はっきりと分からないながらも日蓮大聖人様の書いて下さっている御書を読むと、心に響いて喜びの泉のような感情が湧いて来ました。
赤ポスさん、ありがとう!
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>30
鯖さん
調べて下さり有り難うございます。
「富士宗学要集」!その様な素敵な物があるのですね(^◇^) 何でも調べられそうですね。
すごーい。
諸天がそれぞれ九界を担当されてる風な感じですね(^w^)
興味深いです。
学会本部に確認する発想がありませんでした。
緊張してしどろもどろになりそうです(笑)
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>>32
「富士宗学要集」は、古株の学会員宅の本棚に、ほこりをかぶっているのがあるはずです(笑)
学会本部で納得いかなかったら、聖教新聞社にTELしてみてください!
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>>31
まーさん
大聖人凄いですね^^
あと九界というのは、九番目という意味じゃなくて、
いろんな方々 という意味だと思います^^;
大白蓮華の12月号の先生の講義
「勝利の経典「御書」に学ぶ」
のなかに究極に物凄いことを講義されてますわ^^/
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>>32
はじめまして。無明まよゐと申します。
「○×県にある△□本部婦人部のヤマダハナコです。●●●●についてお分かりになる方におつなぎいただきたいのですが」
っていうと、「いつもお世話になってます」の応答とともに担当部署へつないでもらえるかと思います。
基本的に氏名と用件をちゃんと伝えられたらキチンとした対応してもらえるはずです。
電話代は自腹なんですから、ふつーにかけたらいいと思いますよ。
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>>35
無明まよゐさん
はじめまして(^-^)
わざわざご丁寧に、教えて下さって有難うございます。
学会本部やっぱり緊張しそうです(-.-;)
でも、電話じゃなくていつか行って思いっきり題目上げてきたいです!
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>>34
赤ポスさん
こんにちは。
12月の大白先生の講義 勝利の経典『御書』に学ぶですね。 開いて見てみました。自分で蛍光ペンを引いてちゃんと読んだ形跡がありました。
が、何だかすっかり目を通すまで忘れていました(-_-#)
駄目ですよねぇ、こんな事では。
私みたいな、ぼんくらは常に手元に置いて見れるようにしておかないとですね。
感動の先生のご講義 が勿体無い事です。
同じく12月号の『未来を創る』も感動して書き写しました。
学べば学ぶ程に、池田先生が大好きになりました。
昨日、3回目先生の夢を見ました(笑)
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>>37
まーさん
僕も蛍光ペンでライン引きすぎてマッキッキになって
どこがポイントかワケわからんようになることあります。(笑)^^;;
…まぁ全部大事なこと書いてくれてありますんけどね(笑)(省)^^
大きめのいいことが3回あるいうことですんかな…
僕も先生の夢見たいです^^
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先日、地区婦人部長が交代しました。
ご本人いわく、交代の二日前に連絡があったそうで、
本人はひどいショックを受けてご本尊様の前に座れなっかったそうです。
組織の人事でこれってあり?なのでしょうか。
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>>39
組織ですから、人事があれば、異動もあるでしょう。
特にショックを感じる必要もないと思いますがいかがでしょう?
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なるほど、そうですね。
ありがとうございます。
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>>41
解決ですか(笑)
地区婦人部長さんが意気込みを持っていた中で「解任」されたとすれば、何らかのわだかまりはある事でしょう。人間ですから(笑)
しかし、根本が「広宣流布」に根ざした意気込みであれば、どのような立場でもお役に立てるわけで、「ご本尊様の前に座れない」程のショックを受ける必要もなければ、落ち込むのは価値的ではありません。
逆にいえば、そういった傾向性に、異動の原因があった、という穿った見方もできるわけですが、もちろん、命斗さんの組織のことは知りませんので、変に勝手な想像をするのはよしときます。
いずれにせよ、皆が幸福になる為の学会組織ですから、賢く受けとめていきたいものですね!
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コメントありがとうございます。
今回の人事で後任の婦人部長(元圏女子部長)が30歳位若返ったのでちょっと意外でした。
まさしく青年学会ですね(若ぁ)
とにかく異体同心で団結して前進して行きまぁす!!!
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>>43
ご武運を!
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つまらないことですが、他宗を邪宗と呼ぶのはやめましょう(笑)
『外典の外道内典の小乗権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり』です。
己心の法を片端片端説いている故に、必ずしも邪宗、邪教ではありません。
謗法は、正法を誹謗中傷すること。四箇の格言も、謗法故であるからです。
「御本尊七箇相承」は、ほぼ偽書です。詳細はググってください(笑)
「富士宗学要集」は、今さら必要性を感じません。
どこぞでほこりにかぶっている以外は、手に入りませんし(笑)
それこそ、必要なものを個別に揃えた方が良いでしょう。
聖教文庫などに、日寛、日亨上人などの書籍はあります。
それ以上に、『日興上人全集』などを購入した方が、よほど価値的でしょう。
以上老婆心ながら(笑)
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>>45
> つまらないことですが、他宗を邪宗と呼ぶのはやめましょう(笑)
些細なことですが、
に訂正。
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>>45
では、威風堂々の歌詞も変えたほうがいいのでは?(笑)
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>>45邪宗を邪宗と言って何が悪い?
我々は、邪義を唱える輩を破折すろまで!
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すろまで→するまで
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河越さん。悪いこと、なにもないですよ。
だけど、いちいち「!」つけて反応することもないですよ。
鯖板は同志が言い争う板じゃないはずなんで、すこし落ち着いてくださいまし。
無明まよゐ拝
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そうですね。
是非、うちの板の雰囲気に慣れて頂ければ。
ご別懇におながいします(笑)
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>>50>>51承知致した。
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お久しぶりです。
皆さま、いつも様々なアドバイス、ありがとうございます。m−−m
質問なんですが、
どんな環境でもそれに負けない自分になる信心であると
地元の先輩に教えていただいたのですが
どうしても合わない環境、自分の限界を超えて努力しても現実には
それほど結果が出ない、変えられない、どうがんばっても
前向きにもなれないことがあると自分は思います。
ではだからといって自分が望むような環境を探せばいいのかというと
必ずそれが見つかるとも限らないし、環境なんていつ変わるのか分かりません。
じゃあがんばって前向きになり、環境を自分で変えよう、
大変な環境だけどそこで喜びを見つけよう、できないことは諦めようと、
それで本当に良いのか、自分の気持ちを押し殺すのだろうかとも
思います。単なる甘え、わがままかもしれませんが、
いつか良いことが起こると我慢を重ねて
心底良かったと思ったためしが私はありません。(ある程度は良い所がありましたが)
それとも人生はそれの繰り返しでだんだん今はつらくても環境に負けないスキル、自分になっていくのでしょうか。
世の中は確かに厳しいですが、私は家族か自分が発狂するかというところまで
行きかけましたが、それほど厳しすぎるのでは生きていけないと思います。
どんな環境でも乗り越えられる自分とはどういった人間でしょうか。
必ずしもすばらしい結果を出せるのではなく、結果は変えられないが、
前向きな自分、になれるということでしょうか。
よろしくご教授お願いします。
すいません、そのつもりはないのですが、学会を馬鹿にしているだとか
なめているだとか思われたら
申し訳ありません。
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>>53
瑛子さん、まじめな質問、ありがとうございます。
> どんな環境でもそれに負けない自分になる
なんてのは、ウソです。無理です。
酸素がない宇宙で、生きていける人間がいますか?いないでしょ(笑)
「いつか良いことが起こると我慢を重ね」ても、「心底良かった」なんて事になるわけがない。
人生はガマン大会ではありません。自我偈には「衆生所遊楽」と。本来、楽しむ為に生きているのです。
環境もひっくるめて、変えていくのがこの信心です。
当然ながら、自分を強くする事もできます。
生きていけない環境なら、変えることです。移動した方がいいとか、対象に影響を与えるとか、具体的な悩みによって対処策は違ってきますが、基本は「信心」です。
大聖人は、死刑になるという「環境」を、竜の口で見事に変えたでしょう。
四条金吾は、江馬氏からの処分という厳しい環境を乗り越え、逆に給与UPしましたね!
学会の諸先輩方も、沢山の体験を残している。皆、厳しい環境を「信心で」変えていますよね。
なぜ、信心で環境が変わるのか。それは「依正不二」だからです。
自分が「一念」を定めて宿命転換していけば、かならず環境も変わる。それが仏法の不思議さです。
具体的に「こうなりたい!」と定め、祈り行動してください。
必ずその通りに叶っていきますよ!
ただし、愚痴、不信、同志誹謗等、せっかくの福運を貯めるお風呂の「栓が抜けている」状態にはご注意下さい。
満々と福運の水をたたえたお風呂につかって、ゆったりと人生の醍醐味を味わえるよう、祈っております。
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鯖さん、ありとうございますm−−m
つい頭で考え込んでしまうようです。
たまに愚痴と不信になってしまうようです。。
必ずいつかそうしてみせるという主体性・・・一念が必要ですね。
それがなかったため、坂道を転がるようなことが続出しましたが、
今は驚くほど逆の心境です。
私を支えてくれたのが勤行なんて何年もしていなかった(最近はやっています
父達ですが、私はそれほど努力していないのに
娘の私も変わるのでしょうね。
不思議ですね。
私はこうやりたい!なりたい!と思ったことが
少しづつではあるんですが、叶えられる自分になってきているので、
無理せずのんびりぽちぽちやっていこうと思います。
ところでなぜタコなんでしょうか?
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>>55
> 少しづつではあるんですが、叶えられる自分になってきている
すごいです!
素晴らしい信心ですね。また、お父様に感謝ですね。
どうか、親孝行してあげてください。
別に、お金をかける必要もありません。男親なんてのは、娘が幸せそうな顔で、にこにこっと笑いかけてくれるだけで、何者にも代えがたい無上の喜びを得られるもんなんですよ(笑)
> ところでなぜタコなんでしょうか?
これには甚深の理由がありまして、厳密な論理性に則った、厳格な由来を語りだすと文庫本10冊分になってしまうので、また今度…
あ、嘘です(笑)
そもそも、この板をはじめる前から、BLOGをやっていたのですが、世界の諸問題を客観的に論じたいな、と思い、「すでに広宣流布を成し遂げ、平和である星から来た宇宙人なら、どう洞察するか」という視点を考えたのです。
だから、「火星人」となり、「タコ」となった。
そのキャラが、掲示板にも継承されたに過ぎません(笑)
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>>56
えっ?9本の足が「九界」を現し、それらが頭「仏界」に具足している姿と
ばかり思ってましたぜい(大嘘)。
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私はなぜゆえ貧乏なのでしょうか?
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>>58
> 私はなぜゆえ貧乏なのでしょうか?
たぶん、お金がないからでは?
祈れば出てきますよ。
100個の願いにはお金関係は入っていませんか?
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>>たぶん、お金がないからでは?
そのようです。
そうでした、お金関係の願いは最近真剣に祈っています。近々に叶うでしょうね。
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>>60
私の経験から言いますと、祈りは具体的である程、叶いやすいです。
お金であれば、いくらを、いつまでに、何の目的で欲しいのか。
「あ〜、貧乏いやだな〜」といった漠然とした祈りでは、なかなか難しいでしょう。
また、結構つまらない事に出費していたりしませんか?
「収入」がいくら増えても、「支出」がだらしなくては、いつまでたってもお金は流れていくだけです。
あえてせき止めるには、「使わない」事が大事。
貯蓄しよう、という意識よりも、ローコストな生活をめざしたほうがベターです。
貧乏は、必要なものが窮乏している状態。ローコストは、ムダなものを「必要としない」事で、本当に必要な事にお金を回すのですから、貧乏とは違うでしょ。
たとえば、たばこをやめる。
これは、健康にもなるし、節約にもなる。非常に価値的ですね!
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ありがとうございます、ローコスト生活をめざします!
最近、発心して唱題に挑戦しながらたばこを止めることができました(笑)
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ご本尊様の相貌?について教えてください。
中央に南妙法蓮華経と日蓮とあり、こちらから見て、その右側に多宝仏が、左側に釈迦仏がそれぞれ存在しています。
一方、四菩薩は上行菩薩が右側に存在しています。変な言い方ですが、上行菩薩は、四菩薩の間では上首上行と言われています。仏のほうは、よく釈迦多宝と言われています。
これがランキングであれば、釈迦仏と上行菩薩はこちらから見て、右なら右に、左なら左に同じ側に存在しているほうが自然な感じがします。
どうして左右に分かれているのでしょうか。ごく最近分かったもので気になって仕方がありません。
そんなことより完治を祈れ、と言われそうですが、教えてください。
-
ごめんなさい。「変な言い方」とは、「ランキング」という表現のことです。決して、「上首上行」を「変な」と言ったわけではありませんので、怒らないでください
。
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>>63
うーん…そんな事考えもしなかった(笑)
そもそもデザインをした方に聞いてみないと…
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>>63
小休止にカキコします。
8341ライオンさん初めまして。
仏界と菩薩界の違いではないでしょうか。
釈迦仏と多宝仏は仏界を表すので南無妙法蓮華経如来の、直接の脇士となる。
いかがでしょうか。
病の克服をお祈りします。
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>>67
それとも多宝仏と上行菩薩が右側(上座)にいるのはなぜか、という疑問でしょうか。
うむ、それはあいにく知りません。
推察すると、多宝仏は証明役の仏ですから、釈迦からみれば一応、先輩格、格上としての敬意を払った姿ではないかなと思います。
小休止し過ぎましたw
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遅まきながら、あけおめ・ことよろ
ところで本尊仕様の件ですが、あれは対面の儀式になっていて、
釈迦・多宝はこっちむき、上行以下はあっちむきです。
すなわち釈迦は多宝の右におるわけですよ。多宝は上座に釈尊を招きいれます。
古代インドでは君子東面で、陰陽によって右が左より上座。
一方日本なんかは君子南面で、左のほうがえらいわけなんですわ。
左大臣は右大臣よりえらいっしょ。いまのインドのことは知りませんが、
釈尊当時はそういうことらしいです。
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ちょと混同する書き方したかもしれないので、再度かきますと、
古代インドでは右が上座、日本なんかでは左が上座ということです。
御本尊はその古代インドの方式で表現された虚空会霊山会の儀式を借りて久遠永遠大宇宙の師弟不二という
生命本来の姿を書かれたものですから、右を上座として認められてます。
仏界がこっちむき、九界があっちむき。
仏界即九界九界即仏界の対面誓願の儀式になっています。
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>>68
ほえ〜〜
よく知ってますねぇ。
遅まきながら、追記人さんってナニモノ?
あ、変な意味じゃなく、畏敬の意味での質問ですからね(笑)
-
(^^;)<ケシタ
-
>>71
詳細なご返答、ありがとうございます。
ただ、詳細すぎて「個人を特定しやすい情報」がいくつかあったので、独断と偏見で削除・編集し、以下に再掲いたしますね。
> ナニモノって曲者じゃあないよw ごく普通のアメリカの会員だけど。
> こっち(アメリカ)では1995年の3月から本尊取り替えが始まりましたが、ちょうどその一年前くらいから、
> いろいろ本尊のこととかはっきり知りたいと思ったもので、
> SGI図書館に毎日のように図書閲覧にいっていました。
> そこにあった本はほぼ一回通りは読み終えましたが、その読んだ本のなかに上記の件はあったとおもいます。
> 戸田先生なんかも若干の説明を質問会あたりでしていますし、六巻抄あたりにもあったと思う。
> その図書閲覧してた1994年中、一か月に一回、ボストンのある職員さんと、
> 互いの思索を交換する機会もあったので、わからないところとか、いろいろ聞いていました。
-
手間をおかけして、すまねえ m(_ _)m
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>>68
それほど深く複雑な意義があったのですね、驚きました。
脇士についてですが、飛躍かもしれませんが、学会役職で言えば副役職に当たるのでは、と考えたことがありますが、どうなんでしょう。
これほどすごい人が副役職で脇を固めてるということは、中心者は大した人材なのだろう。
或いは、そうした主要幹部でその組織を護り、広布を進める核としての姿を表している。
ちょっと深読みでしょうか。
-
まあそれでいいとも思いますよ。
多宝塔というのは生命体のことで、それの本有の姿を表現してあるのが御本尊です。
生命体というのは個々人の生命もさしますし、家族家庭、会社、地域社会、国家、世界・・・というような、組織体のことも
生命体とみなします。と、いうか、仏法では生命体と見ます。
当然創価学会も一生命体とみるわけだし、各地域、地区、なんかも生命体とみます。
生命体ですからそれぞれ一念三千の当体です。個人も一念三千体、家庭も国家も、全部一念三千の生命体です。
生命体を表現したのが多宝塔で、そのヌシが多寶如來です。そのヌシの多寶如來が成仏の法を携えた釈尊を上座にむかえるわけです。
生命体が個人の場合はわかりやすいですが、組織構造体の場合、中心者がいなければ、一念三千体になるわけがありません。
一念であって、、二念三念・・とはいいませんから。 そしてその生命体(組織体)の構成要員は、ことごとく必要不可欠の存在になるわけです。
あたかも心臓や肝臓のない肉体、細胞や血液のない肉体がありえないように。
御本尊というのは、先にもかきましたが、生命体の本有の状態を認められたものです。
すなわち、個々人にも、家庭にも、会社にも、地域社会にも、国家、世界にも、本有の状態があるというわけなんですよ。
したがいまして、成仏という言葉を先生が、人間革命という言葉に翻訳されましたが、
当然のことながら、家庭にも会社にも国家にも、人間革命という状態が存在するということです。
このあたりから思索を進めていけばいいのではないかなと思います。
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>>75
追記人さん、自分と異なる視点、はるかに広大な視点をご教示、ありがとうございます。
一切を包含し、生かし、輝かせゆく。
諸法は実相であり、題目の光明に照らされて本有の尊形となるのですね。
人間革命とは一次元から言えば、久遠の自分に帰る、思い出すということ。
すなわち何物にも縛られず障りが無い、ありのままで自在の清浄な生命ですね。
自分とかけ離れた、或いは人間とかけ離れた、何か特別な存在になる訳ではない。
ありのままの自分が、真剣に仏法を行じ抜いた時に、仏に等しい智慧と力が湧き上がるのである、と先生は仰ってます。
便乗質問スミマセンでした。
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ご本尊様のこと
凄く勉強になりました、今まで聞いたことも勉強したこともなかったので改めて勉強したいのですが、文献を教えてください。
何が書かれているのかわかりません(汗)
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>>77
おすすめの本は沢山ありますよ!
ちなみに…
教学は何級で、これまで、教学関連の本はどういったものを読まれましたか?
>何が書かれているのかわかりません(汗)
具体的に、どういった部分が難しかったでしょうか?
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お騒がせしてすみません、教学は2004年に初級試験に合格しています。教学関連の本は読んでいない事がわかりました。読んだのは折伏経典くらいです。
何が書かれているのかわかりませんというか>>63 :8341ライオンさんの質問の内容すら高度すぎてわかりません(冷汗)
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>>79
なるほどですね…
そしたら、「法華経」の知識から攻めてはいかがでしょう?
まずは、池田名誉会長の「法華経方便品・寿量品講義」を読んでみて下さい。
勤行で読誦する方便品・寿量品に関しては、毎日読むものですから、興味あるでしょ?
そして、「法華経の智慧」。ちょっと長いですが、対話形式で内容もそんなに難しくないですから、スラスラ読めるでしょう。
また、同時並行でもいいですが、「日女御前御返事(本尊相貌抄)」という御書が、御本尊の相貌について書かれております。
あと、仏教哲学大辞典はお持ちですか?
わからない用語や人物等、出てきたら引きまくるのにかなり便利です!
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ありがとうございます、早速、読みまくります。
仏教哲学大辞典も手に入れます。
学会活動の中では勉強できないこともこちらの板で知識を吸収できるので楽しくなります。
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>>81
共に学びましょう!
> 学会活動の中では勉強できないこともこちらの板で知識を吸収できるので楽しくなります。
ありがとうございます!
でも、結局この板の参加者も普通の学会員なわけで…(違う人もいるかも知れませんが)、要は、組織にしても掲示板にしても、「縁」だなぁ、って思いますよ(笑)
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御本尊は御本尊指示書の通りにするなら
書道家が書いても彫刻家が彫ってもいいような気がするのですが
どんなもんでしょうか
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>>83
私個人の考えとしては、同感です。
たとえば、火星で入信し、遠方すぎてどうしてもご本尊が得られない事情があったとします。
この場合、自分で心を込めて作成する、という事でも仕方ないのかな、と。
ただ、安易にぽんぽん作る、という事態を招いてはいけないので、慎重にすべきかと思います。
一方、どこぞの法主が言うように、法主しか書いてはいけない、開眼しないと効力がない、という事は、大聖人もおっしゃっていませんし、「ご本尊利用」でしょうね。
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>>84
まさか同感していただけるとは思いませんでした^^
出来上がりをチェックする検査官がいた方がいいですね
私も開眼には胡散臭さを感じております
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>>85
仏法は、宇宙根源の「法」ですから、要件を満たせば誰がやってもインプットとアウトプットの関係は同じなのかな、と思います。
化学実験なんかも、誰がやっても同じ結果になる。
同じ性能の車なら、誰が作っても同じ走りをするでしょう。
もちろん、人情というものはありますから、「花和尚の書いたご本尊だと、なんだかいやだ」という場合には、ご本尊をお取替えするのがよいのでしょうね(笑)
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>>86
なるほどです
ということは、絵画なら本物と贋作が存在しますが
御本尊は、要件を満たしているなら
そもそも本物かニセ物かを議論するのはピントがずれている、ということでしょうね
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>>83
対話は進んでいるようですが、ちょっと一言します。
御本尊は書かない方が身のためです。
書写する資格では極悪法主、邪法主などに、資格が無いのは当然ですが、その意味では真に広布にまい進する学会員が、法主より何万倍も資格があると思います。
でも、会員や書道家、彫刻家が書いたとしたら罰が出ます。
自らしっかり信心を奮い起こして、学会から授与して頂くのが、唯一正しいあり方です。
安易に考えて自分で御本尊を書いたりすると、不敬に当たります。
なぜなら獅子奮迅之力で、日蓮が魂を墨に染め流してしたためた御本尊だからです。
不敬というのは本当に恐ろしいです。
御本尊を不敬にした人が、特に粗末にした人が、悲惨な末路や死に方をした例を、いくつも見聞きしています。
ちょっとネットに公開するのは憚れますので、メール等ではお教えしますが、御本尊不敬の末路の例は、学会員であれば身近で見たり、指導されたりはあるでしょう。
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>>87
おっしゃる通りだと思います。
ところで、「一般的な」絵画の価値についても、私は懐疑的です。
もし、その絵画自身がもつ美しさのみを追求するのであれば、誰か書いたかはあまり関係ないのではないでしょうか。
絵画にとって「誰が書いたか」が大事なのは、それを、「金額的価値」で測りたいから、といえば乱暴に過ぎますかね(笑)
絵画の値段と、そのものが持つ本当の美しさとは、実際、あまり連動しないのでは、と思います。
逆に、「これは、あの有名な人が書いたんだ!」という感動は、ときに、「自分の目で価値を見出す」力を曇らせるのでは、と思いますね(笑)
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>>80
>仏教哲学大辞典
僕小辞典は所持してますねんけど仏教哲学大辞典は持ってないので、最近やっぱり欲しいなぁと思うようになりました。
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>>88
私個人の考えとしては、レオさんにも同感です。
表面的に反対の方向に論じているだけであって、とくに、レオさんが私と反対の意見だとは思いませんが(笑)
> ちょっとネットに公開するのは憚れますので、メール等ではお教えしますが
むむ…
その話、是非お聞きしたいですね。
是非メールでお教え頂ければ幸甚です。
アドレスは、「4649server」@マーク、gmailドットコムです。
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>>89
絵とかは、誰かが綺麗やなぁとか面白いなぁとかいろんなことを感じ取ってキャンバスに表現する世界やったのが、なんとも言えない美しさがあるなぁとか、これがかの有名な絵かとか、なんか癒されるなぁとか、清々しいなぁとか、力強いなぁとか、その絵を描く人の世界やったのが、その絵とその絵を見る人の世界という新たな世界が広がって、自由やとあえて断らなくても、勝手に自由に広がっていってるってなんか面白いなぁと思います。^^
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>>88
レオさん
不敬は恐ろしいですね。
うちの親父が破って灰皿で燃やすという不敬をしましたが、まぁ悲惨のオンパレードでしたわ。最終的に自宅御本尊に1週間程勤行唱題小さな声であげて病院で死んで成仏の相を隣組近所の人に見せつけ(笑)て逝きましたけど、両極端勉強になりました。また親父に誇りを持っています。^^/(感謝)
親父の例は特異な例ですけど、
当然僕は不敬は恐ろしいことになるとだけ同意させて頂きます。
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>>88
運用規則と性能
自分で御本尊を書いたりするのは、尊厳を軽んじる行為に該当する、といった感じでしょうか
なので運用規則として「学会から授与して頂くのが、唯一正しいあり方」とする、と
運用の決め事に関して異存はありません
性能面ではどうなのでしょうか
書写する資格のある法主と、資格が無い極悪法主が書写したもので
どちらも要件を満たしているのなら同じ性能であるような気がしているのです
違いは、利用者によって出る、そんな気がするのですが
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>>89
絵画の価値
絵画自身がもつ美しさとそれに感動する感性に誰か書いたかは関係ないと思いますね
言いたかったのは、本物の御本尊を書写したものでも本物の御本尊は存在すると思うのですが
絵画の場合は本物を模倣しても、それを本物だと主張すれば贋作になってしまう
という事を言いたかった次第です
-
功徳を讃歎するとともに、罰の恐ろしさを知ることも大事ですね。
不敬と言えば、同志誹謗も一段と罪業が深いので、気をつけねばならないですね。
>>93
赤ポスさん、両極端の姿を示して身をもって教えてくれたお父さんに、感謝と誇りを持っておられるのですね。
仏教哲学大辞典はあったほうがいいですよ、本当に重宝します。
>>91
鯖さん、先ほど、メール送りましたので、ご覧になってください。
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あと、宗教の根幹に関わっているところを
無碍に扱われてる感があれば、気持ちのいいものではないでしょう
私の不徳のかぎりです
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>>97
いえいえ、悪意ではなく真摯な思いからの発言と感じますので、気にする必要はないです。
ところで虎キチさんは、御本尊に関しては今、ご安置はされていますか?
それとも、過去に受持していたのですか。
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>>94
虎キチさん
今年初からみですな(笑)^^
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。(って今頃ぉ(笑)∵)
シモ星野さんと固き握手超感動!^^/
と阪神ネタは追い追い交わすということで^^(笑)
御本尊の化儀面は時代時代で変わり、化法面は不変いうことですんかな。
ニュアンス違って申し訳無いんですが、
無始無終円の命のお札(さつ)を頂いて、…以前まよゐさんがどこかのスレで十如是のいろんな境涯の姿感じかた振舞いを言われていたのが面白いなぁと勉強になりました。
こんな凄い命のお札(さつ)は皆に行き渡らせよう!という人と、はたまた、いいのを手にした(笑)独り占めしよう(笑)という人や、学問材料的に見る人や、芸術的に感じる人や、薬的に処方しようとする人や、いろいろやと思います。
なので、やっぱり虎キチさんおっしゃる人の問題に重点がありますんやろね。^^
あと、又、ニュアンスちょっと違うかもしれませんけど、発信者が伝言して、いろんな人を中継ぎにして、中継ぎの人がわかってなかっても、「なんかこれこれこんなこと伝えてほしいとのことですわ」っていうのを聞いて、そのあとの人が、「あーハイハイ。わっかりました。ハイハイ。OK了解。了解。」って発信者とあとの人とが繋がってて、中継ぎの人がわからないまま(笑)っていうことも、日常的にありえるような風景(笑)やと思います。
その場合、発信者と、間飛ばして、あとの人とは『同じことしよう』という目的観が一緒なんやと思います。
^^
脱線話になってすいません。
またシーズン賑わいはじめたらそちらでもよろしくお願いいたします。^^/
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>>94
> 性能面ではどうなのでしょうか
厳密に性能について論ずるのであれば、「同じ」ではないかと。
当然、「安易に作る」という行為が持つ危険性もあるので、実際には私もやりません(笑)
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>>95
> 絵画の場合は本物を模倣しても、それを本物だと主張すれば贋作になってしまう
なるほどです。
「作者」が大事な世界ですからね(笑)
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>>96
はいはい〜受け取りました!
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>>98
レオさん、昨日は私が発端を作っておきながら、先に終えてしまいすみません
私は現在も過去からも非会員のままです
他人のをお預かりしたこともありません
ただ山本伸一のファンです
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>>99
赤ポスさん今年もよろしくお願いします
下柳良かったですね^^
御本尊の化儀・化法とは、これまた難しかったですが
化儀とは運用規則のようなもので、化法とは指示書のようなものでしょうか
命のお札をどう使用するかは、使用者にかかってくるということでしょうかね
発信者の伝言があとの人に伝わったということは、中継ぎの人はわかってなかっても
伝言書だけは紛失されずにメッセンジャーボーイの役割だけは果たしたんでしょうね
他スレで釈迦在世から800年の時を経て法華経が誕生した、とありましたけど
発信者が13世紀に登場して、間飛ばして800年の時を経て、
発信者と『同じことしよう』というあとの人とは21世紀の人じゃないですか
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>>100
もう印刷があるので
今後は書写する人がいなくてもいいのかもしれませんね
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>>105
そうですね。
どこの印刷屋で、どうやって印刷・表具をやっているか興味ある所ですが(笑)
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>>104
虎キチさん
さすが!(驚)∵
恐れ入ります。
恐ろしいまでに意味汲み取ってくれはりますね^^;
ありがとうございます。^^(感謝)
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>>103
虎キチさん、未入会ながら山本伸一のファンだったり、すっかり学会員の中に溶け込んでいるところを見ると、まったく不思議であり違和感が無いです。
きっと虎キチさんも、学会、先生との過去世からの宿縁が深いのでしょうね。
>>106
鯖さん、メール返信ありがとうございました。
再返信が少し遅れてますが、もう少し待ってください。
私個人は、恐れ多い言い方ですが御本尊の「製造」には、余り興味は無いです。
譬えがかけ離れますが、お金で言うと、紙幣を印刷してる日銀の造幣局には興味は無くても、紙幣そのものや買えるもの、月々の収支には関心が大です。
ちなみに今、決算時期でして、昨年から複式簿記に切り替え、かつ電子会計にも移行したので、四苦八苦しております。
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>>108
私ももちろん、御本尊の「製造」には興味はありませんし、やるつもりもありません(笑)
逆に、「法主の特権」のように振る舞い、ご本尊を利用して自分の「食い扶持」にしよう、という行為へのアンチテーゼとして、理論上の可能性を論じたまでです。
ああ、日本は決算ですね(笑)
複式簿記は、コツというか慣れが必要ですからね。最初は面倒でしょう。
お察しします(笑)
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鯖さん、 >>80 での推薦本の提示、ありがとう。
御本尊の製造ですかいww まあこういう時代になって、はっきりいうと、いろいろわかるようになるスピードが速いというか、
ある意味ありがたいなとかって思うこともありますね。
宗門と別れなければ、御本尊に関する事なので化法だと広く思い込まれていたものが、実は化儀の範疇であったなどとは、
だれも当時わからなかったんじゃあないでしょうか。
僕も昔、「700年前に現在の印刷技術があったとすれば、大聖人はどうされたと思いますか?」などと質問してたことがありますね。
ほかにも、デジタル御本尊などという発想をもったときに、いま言われているところの御不敬という現象はおこりえなくなるのではあるまいか?とか、なにも2Dだけではなく3D御本尊というものがあってもいいんじゃないのかな?とか、、、、
良いか悪いかは別として、こういう発想ができるようになったのも、ある意味では、宗門とさようならができたからですね。
日寛上人が、「観心の本尊の、『の』 の字を形見と思へ」 と言われたことがあります。
これはこの御本尊様は、決して教相の本尊ではなく、己が観心していくところの本尊なのだと強調されているところですが、
これが、なぜ「形見と思へ」というほど重要なことなのか、昔はよくわかりませんでした。
我々がいただいている御本尊を教相の本尊としてとらえた場合に、いろいろ陥る錯覚というか誤解がうまれてくるわけなんですよ。
ですが、世にでている各種各宗派の本尊というのは、おおむね教相の本尊なので、我々はそういう発想に慣れていて、
この観心の本尊を教相の本尊として考えてしまう癖がある。
これに関する詳細はそれぞれ個々の思索にまかせますが、これを打開できる時代がついに来たということなんじゃあないかなと思えてなりません。
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ところでさ、鯖さんだったら理解っていうか、思うところあるはずじゃないかなと予想するんですが、
各国SGIがね、いつになったら会長制に移行できるのか?って思いません?
これね、僕は大分前から思ってるんですよ。
日本が元祖にして本家であることは当然なんですけども、そろそろこういう発想が巷からおこってきてもいいんじゃないかなと。
経済的な要素は重大ですけど、そろそろ各国ひとりだちしないとだめっしょw
それと創価大学ですが、ヨーロッパにもどうですか?w
それともパリ創価学園というところからでも始めます?w
そういう方向をヨーロッパSGIとか創価大学が、考えていないわけがないと思ってるんだけどw
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あと、もう一つ 知りたいとおもってるんですが、
大分前 北○さんがヨーロッパ担当でしたが、今は、どなたなんですか?
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>>110
確かに、宗門と別れた(というかあっちが勝手に切ってくれたわけですが)のって、本当にご仏智としか言いようがないですね(笑)
デジタル御本尊…たしかに、考えてしまいますね。
キャッシュから消去したら、御不敬であるとか(笑)
> これが、なぜ「形見と思へ」というほど重要なことなのか
実は私もいまだによくわかりません…
教相の本尊・観心の本尊について、もっとしっかり学ばねば、と思います。
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>>109
ひと休み中に書き込みます。
極悪法・邪法主が御本尊書写を特権・専権であるかのように、信徒支配・金もうけの手段にしていることへの反論との主旨、理解しました。
その上で、法主の極悪を糾弾することが、間違っても御本尊軽視の言論に堕すことがあってはなりません。
法主糾弾と御本尊を軽く扱わないことの2つは、明確に立て分けるべきです。
某御仁などは、この重大な過ちの言説により、大きなひんしゅくを買ったのはご存じの通りです。
この意味で、不敬の恐ろしさの事例を、前にいったん引っ込めたものを、投稿したいと思います。
もしや聞いたことがある方は、確認の意味で。
【事例1】
御本尊のしわが目立つので、良かれと思って、御本尊にアイロンをかけた年かさの婦人部。
→ アイロンをかけると、御本尊から青い炎のようなものが出て(見えて)、恐ろしくなって止めたが直後にくも膜下出血になってしまい、間もなく帰らぬ人に。
【事例2】
小さな女の子が、親が居ない時に寂しさもあってか遊びのつもりで、御本尊をハサミで切り絵のように切り刻んだ。
→ 間もなくその少女は行方不明になり、バラバラ死体となって発見された。
誘拐事件に巻き込まれ、猟奇殺人の標的となったと考えられる。
【事例3】
私の身内が折伏した友人で、御本尊をお返しした年配の婦人がいます。
→ 重度の糖尿病でインスリン注射を毎日打たないと生きられない体になってます。
呼吸器系の疾患もあり、そちらも治療を受けています。その他にも、色々なことが起きていることを聞いたのですが、記憶が薄れて忘れました。
末法の功徳が顕益よりも冥益であるように、罰も現罰よりも冥罰の方が何重も恐ろしい。
御書に、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、はじめは事なきようにて、ついには滅びざるは候わず」
(1190ページ)
とある通りです。
したがって不敬にしたとして万が一、その時は何事も起きなかったようであっても、時とともに重大な罰が現れる場合もあるのです。
<鯖さんへ>
上の1と2の事例は伝聞であり作り話でないかとのご指摘でしたが、どちらなのかは真偽未決です。
少なくとも私は、信心でとらえていきたいと思ってます。
ここに載せた意をくみ取って頂ければ幸いなのですが、もし問題あれば、削除でもかまいません。
-
>>110
「の」の一字については私もそう習いました、懐かしいです。
観心の本尊とは、観心は己心の十界を観ることであり、十界互具して自他の仏界を開き顕わすことですね。
解りやすく一面から言えば、自分も地域や国土等の依報も、より良く変わっていくことです。
国土であれば戦争や悲惨を無くす。
個人であれば、強き自己を確立しつつ悩める友を励まし救って、大目的へと糾合していく。
絶望の無明の闇を払う「希望の宗教」、そしていかなる困難な現実も根底から改善しゆく「変革の宗教」が、観心の本尊とも言えましょう。
-
>>114
うーん…
事例1や2は、デマのように思います…
よく、バルサンを焚いたらどうとか、お風呂でやけどしたとか、稲川淳二ばりの話を聞きますが、私は信じません(笑)
以前話題になった「怪文書」と同じで、「話」自体がショッキングだとか、センセーショナルだとか、いわゆる「拡散力」を持っている場合、一旦疑う事、ソースをチェックしてみる等、いわゆる情報リテラシーの「ファイヤーウォール」が必要ではないかと思っています。
そうでなければ、学会は怪文書やデマがまかりとおる世界である、という事を世間に公言しているのと同じでしょう。
結局、「法を下げる」結果となってしまうと思うのですがいかががでしょうか。
また、ご本尊の不敬については、「心こそ大切」ではないでしょうか。
ご本尊を大切にするのはもちろんですが、あまり、曼荼羅そのものを物質的に神格化し、「呪い」的なオカルト話を強調しないほうが良いのでは、と思います。
たとえば、形あるものはいつかは滅びるわけで、ご本尊も、いつかはお取替えをしなきゃいけない時も来る。
その取り替える行為自体、「ご本尊を捨てる」行為ではないでしょうか。
また、火事などで避難しなくてはならない場合、人命を粗末にしてまでご本尊をとりに火中に入る、という発想を生み出しかねないでしょう。
人間は生きていれば、必ず虫や微生物など、多くの生き物を殺してしまう。
しかし、釈尊は「殺す心を殺す」との絶妙な解答を示した。
物質的な「破壊」に悪が潜むのではなく、その「心」に原因があるととらえていく事が大事であると、私は考えます。
むしろ、「手はくださない」としても、心が離れてしまうとか、同志を誹謗するとか、そちらのほうが、恐ろしいと思います。
まぁ、罰論で脅すのも、なんだか時代遅れのような気もしますし…(笑)
と、つらつらと愚論を書きなぐってしまいましたが、…いかががでしょうか?
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こちらへの無断投稿は、これで2回目となります。
読み終えましたら、私のIDでは書き込みできないようにしてくださいませ。といいつつ、できれば例外的処置を望みます(^^;
( この板は、病人は参加できないのですよね〜 当方病人です 元長三郎さんなら、私の変人ぶりがわかるでしょう )
御本尊様を造る(?)とき、入魂の儀式(魂を入れる)があると、聞いたことがあります。
御本尊様は、信徒がお借りするものです。
よごれたりしたら、最後は交換し、そのよごれたほうは、魂を抜き取る儀式をおこなうのだそうです。
そののち、まとめて燃やすんだそうです。
失礼しました。
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>>117
本来は処分対象ですが、今日は機嫌がいいので、例外的に参加を認めましょう(笑)
今後は、ちゃんと自己紹介から入って下さいね。
「入魂の儀式」にしても、「魂を抜き取る儀式」にしても、誰が、どんな権限で、大聖人のいかなる教えに基づいて行なっているのか、明らかにする必要があるでしょうね。
これまで、そういった部分を「坊主の専売」として許してきたから、坊主がつけ上がるスキを与えたのではないでしょうか。
> 御本尊様は、信徒がお借りするものです。
という貸与形式にしても、実質は「誰にいつ貸したか」なんて管理はしてないでしょう…
-
>>116
仰ること1つ1つごもっともと思います。
劇薬ほど使用方法を細心に守らねばなりません。
その上で申します。
時と場合によっては、御本尊の(罰であっても)その力を、これでもか―! と示す時が必要な時もあると思うのです。
私がこれらの話しを聞いたタイミングは、1つは折伏が実る直前でした。
2つめは、自分にとっては、それまでの人生最大のピンチの難が起きた時で、ふっと気弱になり信心が揺らいでいた時でした。
時と場合によっては、良い意味での威【おど】しが必要な時もあります。
私の場合は、これらのことを聞いた時に、おかしな邪念を斬ることができたと、振り返って思います。
-
>>119
自己を鍛える事ができる人は、路傍の石に刻まれた模様でさえも、何かの意味を見出して成長の礎にできる事でしょう。
ただし、その石が、誰にでも同じ意味を持つかといえば、疑問が残ります。
私は、話の真実性に「責任を持つ人」が不在であるオカルト話については、先に述べた弊害から、その効用よりも「副作用」を心配すべき、というのが持論です。
数年前に流行った怪文書にしても、「結局は、ご本尊はすごい、という事が書いてある。それで発心した人もいるんだからいいじゃないか」といった言論も聞かれましたが、それを許してしまえば、「学会は嘘を流してもよい、という世界なんだ」と言っているのと同じになってしまいます。
-
(つづき)
大聖人は、「何れの月何れの日何れの夜の何れの時」と御書にあるように、真実を追究され、デマ・ウソを糾弾されました。
また、「世間の失一分もなし」とおっしゃっていますように、あれだけの迫害を受けながら、ご自身は清浄な行動を貫かれた。
その流れを汲む我々が、たとえ信仰の根幹である曼荼羅を大事にする為とはいえ、オカルトちっくな怪談話を利用しなければ主張できない、という事であれば、大聖人は嘆かれるのではないでしょうか。
ご本尊を大切にすべき、同志を大切にすべきとの論を張るならば、もっと違うアプローチがあるのではないかと思いますよ。
-
>>121
なるほどその通りですね。
因果応報の事例だと思ってました。
オカルトや怪文書のつもりは微塵も無かったのですが、人によってそう捉える可能性もあるのですね。
日時や場所の記録は大事ですが、聞いた体験全てでそうした記録が調査・保持できている訳ではないので、どうなんでしょうね。
しかし、そもそも不敬の事例を大きく書くような、話の流れではなかったですね。
もっと違うアプローチがあるはずとの指摘ももっともです。
今後は気を付けます。
-
>>122
> オカルトや怪文書のつもりは微塵も無かった
そこが、デマや怪文書の「拡散力」なんだと思いますよ(笑)
「セミナー資料」と書いてあって、それらしい教授名とか何とか書いてあるから、コピーして配りたくなる。
題名に「これは捏造された情報であり、怪文書です」なんて書いてあれば、速攻捨てられますからね(笑)
それを伝える人も、悪意のない場合がほとんどでしょう。
「いい情報だわ!みんなに知らせなくっちゃ」「これは、あの悩んでいるA君にコピーしてあげよう!」と、学会員は善意で動く。
しかし、善意で行った事がすべて善行かといえば、その保証はないわけで(笑)
>聞いた体験全てでそうした記録が調査・保持できている訳ではないので、どうなんでしょうね。
私は、体験談には文責をしっかり書くべきだと思っております。
それが広まってしまうと、いまは個人情報がどうのこうの、とうるさいので問題になる可能性も否定できませんが…
> しかし、そもそも不敬の事例を大きく書くような、話の流れではなかったですね。
いやいや、お互い、思ったことを忌憚なく言い合えるのは、幸せな事だと思っております。
きっかけを作って下さって感謝してます。
また、これまでの流れも、私の信条を述べただけで、レオさんを責めているわけではありませんので、もし嫌味に聞こえた節があれば、深く謝罪します。
-
先ほどのお話も、冷静に検討してみると、真実性は非常に疑わしいと思いますよ。
【事例1】
・御本尊のしわが目立つ
ご本尊は掛軸の形ですので、普通にご安置して、しわがとれる事はあっても、しわが付くことなど、まずないでしょう。
しわの付いたご本尊を見たことある人、いますか?
また、アイロンをかけるにしても、その温度で即座に「青い炎」などが出るわけがない(笑)
更に、婦人はよかれと思ってアイロンをかけたわけで、その心は、大切にしよう、きれいにしよう、という気持ちであったはずです。
過失ではありますが、特に大きな「不敬」ではないでしょう。
本当にご本尊に行った物理的な事が、即座に自分にはねかえってくるならば、ご不敬を行った人は「全員〜日以内に死ぬ」といった事にならざるを得ない。
しかし、私の友人の父親など、ご本尊を破ったことがあるのですが、いまだにピンピンしてますよ(笑)
【事例2】
小さな女の子とはいえ、親が大事にしているものぐらいわかるでしょう。
わからないような年齢の子を、ひとりで留守番させる事もおかしい。
(ハサミが使えるのなら、幼稚園ぐらいでしょうか。であれば、毎朝、毎晩、親が拝んでいるものを切り刻むなど、ありえないかと)
もちろん、子供ですから、かなり突飛な行動に出ることもあるでしょうが(笑)
でも、百歩ゆずって、その子の過失で、切ってしまったにしても、ご本尊からの罰が「死刑」であるなら、なんと無慈悲な仏ではないですか。
その流れでいけば、釈尊に、たべられもしない餅を供養した子供は、「飢餓の刑」か「腹痛の刑」で即死となるでしょう(笑)
いずれの話も、過失であってもご本尊を不敬すると、ひどいめに遭う、という警鐘の意味でのつくり話かと思います。
先に述べたように、不敬は不敬でも、「ご本尊不信」「邪見」「法華経の行者を誹謗」といった罪のほうが重いのではないでしょうか。
以前、私に信心の事でひどく中傷した知り合いが数人いますが、いずれも例外なく、かなりひどい目に遭っている(笑)
まぁ、そういった話をことさらにネット上で披露する趣味もないので、詳細は語りませんが(爆)
-
1つは25年以上前、当時支部長の母親に当たる、多宝会で指導員の方に直接聞いたものです。
もう1つは20年位前に、青年部時代、圏幹部までやった近しい人に、これも直接聞いたものです。
したがって怪しい文書の類で私が読んだものではありません。
実際の話しか嘘かは、私には正直、解らないのです。
近しい人はそういうことを話したことさえ、忘れていたようでした。
古過ぎて、前時代のものであるのは確かかもしれません。
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>>125
出所の不確定な情報が、文書であれば「怪文書」、口頭であれば「怪情報」に過ぎないかと。
逆にいえば、25年以上も前に聞いたことでも、鮮明に記憶している、という事自体が、私に「その情報、ちょっと待った!」と訴えかけています(笑)
先に述べたように、人の心にのこり、人口に膾炙しやすい「話の作り」となっているものほど、疑うべきと思っております。
また、そういった話が「古いネタしかない」というのも、一考すべきかと。
本当に、曼荼羅への物理的な破壊が常に瞠目すべき事件を引き起こすなら、もっと頻繁にそういった話が出まわる事でしょう。
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>>126
鯖さんが仰るように本当にあった事か、作り話かは、検証の余地があるかもしれません。
ご指摘の「話の作り」や「古いネタしかない」のが疑わしいというのも、有りそうな気もします。
改めて思うのは、
御本尊をお護りし大事にすれば自分が護られます。
反対に、御本尊を粗末にすれば自分が粗末な扱いを受けます。
そして師弟の精神を現実に体現し弘める人を、馬鹿にし誹謗することも重大な不敬に通じるものです。
法と人では法が師となりますが、誹謗の罪業では法より人に対する罪の方が重いと考えられます。
それは法を弘め、如来の事を現実に行じているのは、人であるからです。
法を謗るよりも人を謗る方が、悪業が重いというのは、御書に何カ所も出てきますね。
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>>127
> 法を謗るよりも人を謗る方が、悪業が重い
開目抄の「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」
とのご金言を思い出しました。
また、当掲示板のルールにもありますように、「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」と。
思えば、ご本尊への不敬は、その根底に、それを持つ学会員を「困らせてやろう」という恨みがある場合がほとんどでしょう。
そういった「身口意の三業」に、厳然とした現証が現れる、という見方もできるかも知れません。
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そのての話は、昔、結構聞きましたねえ。
あれでしょ、なんだっけ、バルサン炊いて出かけて、かえってきたら、近所のおばちゃんに呼び止められて、
「あんたんち、法事でもあったの? お坊さんがたくさんさっき出て行ったわよ」と言われ、
いそいで家の中に入って御本尊をみたら、真っ白になっていた、、、、、 とかっていうやつ。
当時は、バルサンの余韻で目がやられてそうみえただけだろっておもったけども、まあ、、そういう指導をされたことはありましたw
そういう系の話は結構昔からあるようで、戸田先生も質問会で、それに関するコメントをしていますね。
ぜひ、それを読んでみてください。
最近というか、数年前に、「お題目は7.5ヘルツ」っていうのがありましたね。
僕、これをアメリカの草創からの大幹部に直接ききました。 その大幹部も、信じ切ってそう解説していましたね。
なるほど、題目は周波数でも5字7字なのか・・・・すげえもんだな、と 皆思ったもんです。
このお話、世界的に一瞬広宣流布したんですよ。 で、これを聞いた若手学生部のひとりが、
「人間が直接きける音の周波数は16ヘルツから20kヘルツのはずなんですが・・・」と向こう場面から物言いをつけましてね、
この指導、まがいものということで世界的に修正するメールが幹部間で飛び交うという話になりました。
なかなか懐かしい話だなと思う人もけっこういるのでは?w
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うわ、お坊さんたち逃げ出しちゃったんですね
バルサンがよっぽど煙たかったんでしょうね
私も小さい頃、母からタンスの一番上の引き出しを指さされ
「ここに、お化け閉じ込めとうからな、開けたら出てくるで」
言われて怖くて引き出しをさわろうともしませんでしたね
「マッチさわったら、夜怖い夢見てうなされるで」も信じてました
小学校1年のとき給食を食べてから帰るんですが、土曜日は給食がないんです
土曜日の学校帰りにそのままともだちのうちによったら
ともだちがチキンラーメンを作るためにマッチをすろうとするんですよ
当時は自動点火じゃなかったんですわ
ともだちに怖い夢見させたらあかん思うんで必死で止めました
「ほな、ぼく昼たべられへんやんか」いうて泣き出しました
ともだちは、おかあさんからキチンとマッチの使い方や火事の恐ろしさを教えてもらってました
おかあさんの前でちゃんとガス台に火をつける練習したそうです
ともだちに悪いことしましたね
こっちも、そりゃぁ母から言われたことなんで本気で信じてましたわ
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>>129
うわー、そのバルサンの話、世界中に流布してますね(笑)
「7.5ヘルツ」の怪文書に関しては、当時私もかなり格闘しまして、いまだに私の青〜い文章が残っております。
tp://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20031129/p1
いや〜〜、懐かしい(笑)
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>>130
台所だけに、「キチンと」マッチを使わないけまへんなぁ(笑)
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バルサンの話聞いた事あります。真剣にお詫びの題目唱えたら、御文字が戻ってきた40
年位前の話、私が入信して数年後の聞きかじりです。
オヤジの後輩が仏哲大の誤りについて本部に問い合わせしたら、判らなかった情けない
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どこに書き込んだらいいのか不明でしたので、こちらにて質問させていただきます。
gメールでは、自動転送が可能だそうですが〜、昨日鯖さんにメールを送りました。
>☆管理人「鯖」のメールアドレスは、「4649server」@マーク、ドメインはgmailドットコムです。
これは、現在使用されておられますか?(^^;
まさかとは思うのですが、自動で、どこか他に転送されているということは、ありませんか(^^;
確認です。
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>>134
メール受け取りましたよ〜!
今、ちょっと多忙なのであとで落ち着いて返事かきますね。
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>>68
ご教示、ありがとうございます。
昔、初座が終わると諸天善神が後ろに来て、一緒に勤行するということを聞いた覚えがあります。きっと、それを表しているんでしょうか。何となくおそれおおい感じがします。
お返事が遅くなりましたが、本日退院したばかりなので、ご免なさい。
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>>69
すみません。これを読まずに>>136で変なことを言ってしまいました。凄い意味があったのですね。
病気を契機に、改めてご本尊を拝してみて考えもせず、質問してしまいました。
勤行の姿勢を改めて反省します。
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>>135
>メール受け取りましたよ〜!
了解しました!そうと分かれば問題ないです。
(たまたま、「登録完了」というヘンな所からメールが来ましてw パニクりました、それだけです、スイマセン)
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台湾SGI 凄い歴史刻んでますんね(超凄)
台湾SGI 理事長の
「林」という字と
「金偏に縦棒二本」という字で
なんと読めばいいんでしょうか?
お名前の読み方わかりません
m(__)m
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ひさびさです。こんにちは or こんばんは
>>139 件ですが、英語表記では Lin Zhao とナッテます。
リン ズァオ、と読むんじゃあないかなあとおもいましたが、知り合いの中国人に北京語で発音してみろとためしにやらせてみたら、
リン ツァオのように聞こえました。 ちなみに広東語ではどうなるんだ?ときいたら、リン ジウってきこえたような気がしました。
自分の耳に絶対の自信があるわけでもないですが、ご参考まで。
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>>140
追記人さん
わざわざ調べて頂いてありがとうございます。m(__)m(感謝)
そして発音して頂いた知り合いの中国人の方ありがとうございます。m(__)m(謝謝)
>Lin Zhao
>リン ズァオ
>リン ツァオ
>リン ジウ
凄いイッパイあってややこしいですね(笑)^^;
先日台湾SGI の50周年記念の大会の記事を聖教新聞で目にして、凄いなぁと思いながら読んでましてんけど、ほかの色々な読みにくい漢字にはほとんど ふりがな表記のルビふってくれてますねんけど、ことごとく理事長さんの名前のところだけ ふりがな表記なし でしたので、「なんでかなぁ」 とか、「こんな字読める人日本人でいてるのかなぁ(笑)」とか思ってました^^;
持ち合わせの国語辞典で調べたら載ってませんでした。聖教新聞社に電話してみたら、時間外なので記事のお問い合わせはこちらまで という番号教えて頂きましたが、そちらにかけたらベルだけなり続ける状態で、どなたも電話に出られませんでした。…
追記人さんありがとうございます。^^
これから台湾の理事長さんの名前の表記読むときは、
「えーと、リン…ズァオ…ツァオ…ジウ…さんて方がハーモニカの文化運動を足掛かりにして信頼復興うんぬんされた」と読ませて頂きます。^^/
台湾SGI 50周年 万歳
\(^o^)/
追記人さんありがとうございました(謝謝)
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>>141
政府から組織の解散を命ぜられて27年間 無組織
ならば文化活動を通して人間主義の精神を次代に伝えていこう、とハーモニカ隊を結成した当時の台北の支部長の朱さん
「ところで、今、支部長の朱さんは何歳なのかい」
「確か、間もなく四十歳になると思います」
「そうか。勝負は七十代、八十代だよ。こんなことが何十年も続くわけがない。
(中略)この試練に打ち勝てば、台湾の創価学会は大発展するぞ。
二十一世紀にはきっと“黄金の時代”になる」(新・人間革命第7巻「操舵」の章)
朱さんは台湾SGIの名誉理事長として御健在で黄金の50周年を迎えた
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>>142
朱さんリンさん麗しいですね。∵
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6月21日の「寸鉄」欄に
>震災後、科学者への信頼下落-白書。教訓生かせ。「人間の為」の視座忘れず
とありました。
「人間の為」の科学 というのは、何回か聞いたことのある言葉なのですが、
具体的にはどういう意味なのかよくわかりません。というか考えてみてもなんだかわかりません
なにか参考となる資料がありましたらご教示ください。
また、『「人間の為」の科学』について
私はこう思う!というような事があれば書き込みをお願いします
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本来、科学の発展は人間の生活向上に寄与するものでしょうが、科学技術が戦争に使われたり、、必ずしも科学の発展イコール幸福とはいえない面があるかと。
もちろん、科学者だけが悪いのではなく、為政者、また民衆自身の賢さにもかかっているのだと思います。
たとえば、原発事故にしても、もし政治家・科学者・関連企業が真に「エゴ」ではなく「人間の為」という視点で行動してきたなら、安全対策をもっと厳重にするとか、ああいう場所には作らないとか、対策がなされていたかと。
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>>144-145
千都さん
参考資料は
人間革命第7巻『原点』の章のなかで戸田先生が法華経講義最中に『生命哲学』について語られてる場面と、同じ章の青年部第1回総会の最後に『学会の根本の問題』と前置きされ、やっぱり『生命哲学』について語られてる場面のなかでも『科学』について触れられているところがあります。
鯖さんは要点を汲み取られて話されてるので凄いなぁと思いました。
人間を幸福にするにはどうしたらよいかということを探究するときに、イッパイ何々学って誕生してきたんやと思います。
幸福の出所はやっぱり人間の中にあるんだと思います。^^
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「今の学者で、科学ですべてが解決すると思っている人には、さっぱり仏法がわからないのです。困ったものです。日本の国は、徳川幕府崩壊いらい約八十年、科学にかけては非常に遅れていたために、もう一生懸命に科学、科学で進んできたのです。世界全体もそうですが、それで科学万能ということになって、この大事な東洋の哲学、われわれの生命哲学を忘れてしまった。
(略A)」
「われわれの幸福というものは、ほんとうの生命の哲学がはっきりしてこそ、はじめて得られるのです。その哲学の実践的な略図が御本尊である。ゆえに、御本尊と境智冥合するときに、ほんとうの幸福境涯が涌現するのであります。それを忘れて、ただ科学だ、学問だなんて言っているのは『一切声聞。辟支仏。所不能知』にあたるわけです。結局、これらの人は、科学や学問を本尊としているわけです。だから、いつもなにかしら不幸を感じていることになる。(略B)」(聖教文庫版ではp.102-104)
「科学と真の宗教は、けっして相反するものではない。人間を幸福にするにはどうしたらよいかーーそれを探求した生命哲学の最高峰の大定理が、ここにあるのです。(略C)
根本の哲学は生命哲学です。私たちは、これらより一歩上の大哲学によって、世界を指導するのです。われわれの哲学は、共産主義や資本主義と相並ぶ同格の哲学ではありません。これら一切の科学を指導する、最高にして、しかも未来の哲学であります。したがって諸君は、すでにして世界の指導者なのであります。(後略)」(聖教文庫版ではp.128)
ですね、ありがとうございます。ちなみに略した部分は
略A : 科学の発展は幸福をもたらすというが、もたらしているのは利便にすぎない
略B : 二乗は信心のすばらしさをなかなか理解しない
略C : その本源の集約こそ御本尊である。御本尊によらずして幸福は無い。/イデオロギーは人を政治経済の次元から幸福にしようとするが、部分観にしかすぎない
と読みました。例によって荒い引用ですので、みなさんなるべく原文にあたってください。
疑問が解消したかというとそうでもないので、またあとで。
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すみません。誤植が4箇所ありました。本文のみ掲載しなおします。
「今の学者で、科学ですべてが解決すると思っている人には、さっぱり仏法がわからないのです。困ったものです。日本の国は、徳川幕府崩壊いらい約八十年、科学にかけては非常に遅れていたために、もう一所懸命に科学、科学で進んできたのです。世界全体もそうですが、それで科学万能ということになって、この大事な東洋の哲学、われわれの生命哲学を忘れてしまった。
(略A)」(聖教文庫版ではp.102)
「われわれの幸福というものは、ほんとうの生命の哲学がはっきりしてこそ、はじめて得られるのです。その哲学の実践的な縮図が御本尊である。ゆえに、御本尊と境智冥合するときに、ほんとうの幸福境涯が涌現するのであります。それを忘れて、ただ科学だ、学問だなんて言っているのは『一切声聞。辟支仏。所不能知』にあたるわけです。結局、これらの人は、科学や学問を本尊としているわけです。だから、いつもなにかしら不幸を感じていることになる。(略B)」(聖教文庫版ではp.104)
「科学と真の宗教は、けっして相反するものではない。人間を幸福にするには、どうしたらよいかーーそれを探求した生命哲学の最高峰の大定理が、ここにあるのです。(略C)
根本の哲学は生命哲学です。私たちは、これらより一歩上の大哲学によって、世界を指導するのです。われわれの哲学は、共産主義や資本主義と相並ぶ同格の哲学ではありません。これら世界の一切の科学を指導する、最高にして、しかも未来の哲学であります。したがって諸君は、すでにして世界的指導者なのであります。(後略)」(聖教文庫版ではp.128)
あと、ルビは省略しました。
また、略Cの中に”」”、地の文2行、”「”を含みます。つまり1つの台詞に見えますが実際は2つの台詞です。
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>>147
科学がもたらしているのは「利便にすぎない」。
との言葉で、幸不幸は「心」で感じる分野ですから、「科学」や「政治」の面からのアプローチは、必要条件ではあっても十分条件ではない、という図式が思い浮かびました(笑)
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現今、地球が住劫の時代なので色々なアプローチで励まし合ったり団結しあったりの余地がありますけど、一個の地球も一個の太陽も一個の月もそれぞれの星々一個一個も皆 寿命があるので、地球の壊劫の時代になったらもっと切羽詰まった(笑)問題になってきますね(笑)^^
やっぱり地球の住劫の時代の今のうちに三世の生命観、無始無終の仏法で説かれる生命観を実感して、不滅の境涯に感謝して、今ある事柄に当たっていきたいです。^^
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>>147
話しずれ込んですいません。m(__)m
千都さんの
>疑問 解消 そうでもない またあとで
というのがメッチャ気になりますので進行続けてください。m(__)m^^∵
すいません∵
-
総論として、いかなる学問も結局のところ人間の幸福を目的とする--という事に異論はありません。
鯖さん、赤ボスさんの指摘された>>147-148の引用部では、「科学」がどこまでを含むのかはいまひとつ不明確です。1,2番目では特に工学にフォーカスされているようですし、3つ目の文の「略C」部分では資本主義か共産主義かという問題が論じられているわけで、いわゆる「人文科学(って、今でも言うのかな?)」までを含むようにも見えます。
この発言には、おそらくは冷戦時代であるということも影響しているのでしょうし、またいわゆる「ビッグサイエンス」の時代であったことも影響しているのでしょう。
つまり、いまだ原理も定かでない現象を戦争のために科学者、工学者、技術者を総動員して国家プロジェクトで兵器に仕上げるというイメージです。
恐ろしい動画を発見しました。
tp://www.youtube.com/watch?v=hh89h8FxNhQ (よくわからないけど、リンク先をみると権利者がうpしてる?)
この金属の球体がどうなったかというと
tp://www.youtube.com/watch?v=ufR8FXMGCak (広報フィルムだし60年以上たってるのでおk)
くわしくは
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%A2
上の動画の事故をタンクの中でやってしまったのがJCO事故です。何十年か経つうちに(実験系)科学者の蛮勇や倫理の問題から、技術者の手順指示や現場作業者の作業安全の問題になってるわけです。
さて、私が疑問に思っている分野は、狭義の科学、というか総合大学のキャンパスで「科学者のバカヤロー」と言えば必ず振り向くだろう人の専門であるところの、自然科学のことです。
今でも防衛庁の研究施設で基礎研究にいそしむ(狭義の)科学者がいるのかどうかは知りませんが、ES細胞をあつかう生物学者など、その倫理を厳しく問われる科学者もいらっしゃるだろうし、もうすこし卑近な例で言うと家電業界の研究室でマイナスイオンの研究をしている研究者は良心痛まねえの?とは思います。
ただ、自然科学とは 原則として自然がいかにあるかを問う哲学のはずです。
俺は調べる、だから応用は別の人が考えてくれよ! という分野です。実験系の巨大施設であるカミオカンデも、なんの実利も生んでいない…かどうかはわかりませんが、少なくともそれが目的ではないはずです。
何を知るべきか?という問い、そして得た知識に「人間のため」を性急に問うべきでしょうか?
曾谷入道殿御返事に「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり(p.1025)」とあるように、問題設定自体に探求者自身の、そしておそらくはそのパトロンである市民の境涯が反映されるだろう事はうたがいありません。ただ、だとしてもそのことが問われるのは研究者の生涯をかけての物になるのではないでしょうか。今日から「さあ!人間の為に!!」と決意して結果がすぐ見えてくるものなのかなあ。
私がなぜ自然科学者のことを考えたのか、なにを念頭においているかというのは、また次回にさせてください。
>>150
赤ボスさん
tp://www.youtube.com/watch?v=voW0RiNTbGI (1951年だしセフセフ)
うーん
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>>152
千都さん ありがとうございます。m(__)m記号イッパイ@@;でえらいことになってますんで、ちゃんと152を読んで千都さんの言おうとされてることを、全部理解できないかも知れませんけども、ある程度は把握してから返事させて頂きますわ。
すいません。∵;;
ご了承下さい。
ちゃんと記号を読んで努力してみます。少し2〜3日時間下さい。m(__)m(謝)
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>>152
マイナスイオンの例でふと思ったのですが、「それを言っちゃあおしめぇよ」と言われるかもしれない方向性であえて言いますと…
科学の定義云々にかかわらず、畢竟、いかなる科学に従事している人も、その研究が人類にもたらす影響や、その正邪を性格に把握している人はまずいないのでは、とおもいます。というか、このカオスな現実世界で、人知では無理というものでしょう。
ともあれ、「盗人にも三分の理」なんて言いますが、それがいかに怪しい「トンデモ科学」であっても、良心の呵責などを感じる人のほうが少数派のように感じます。
人は、職業であれなんであれ、何かに従事している時にはそれなりの「正論」を持っているものかな、と。
私なんかも、「世のため人のため」なんて言いながら仕事していますが、すべての事業が世の中に常にプラスである、という命題に自信を持てるほどではありません。
自分ができもしないでこのような事を言うと笑われますが、グローバルな「慈悲」を体現した哲学を持つ人材が、多く輩出されることが、平和への鍵なのかな、とつくづく思いました。
-
目が冴えて眠れないので
>>153
赤ボスさん
すみません。「AだけどB」タイプの言い訳がましい文が延々続く文章で
自分が読んでも読みにくいと感じます
リライトしますのでお待ちください
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>>154
> 科学の定義云々にかかわらず、畢竟、いかなる科学に従事している人も、その研究が人類にもたらす影響や、その正邪を性格に把握している人はまずいないのでは、とおもいます。というか、このカオスな現実世界で、人知では無理というものでしょう。
科学自体は無記。
二乗がはまるのが、この無記の範疇。
真実の探求が目的であり、それがどういう効果をもたらすかというのは、二の次。
アインシュタインが後で後悔したのは、有名な話。
知らない人のために。
無記:仏教用語。以下二つの意味がある。
・実際に自分が体験できないこと・認識できないこと等に関しては、判断を保留する・あるいは判断を下さない。(これが大元の意味)
・善でも悪でもない。
ここでの意味は、2番目。
わかりやすい例を。
科学的な見方をすれば、刃物。
人間を救うために使えば、メス。
人間を殺すために使えば、ドス。
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>>152
千都さんへ
ものすごくいろんな勉強できました。
ありがとうございます。(感謝)
どうにかこうにか難儀して動画ちゃんと見ることできましたわ(笑)良かった(笑)^^
ただ動画内容はめちゃめちゃ重たい恐ろしいテーマを扱った記録フィルムのようなドキュメンタリータッチな映画のワンシーンでしたな∵
そして千都さんの本題に入って、
自然科学についてのことと。
僕は自然科学自体に興味あるというよりは、千都さんの抱いている疑問の内容のほうに興味があります。^^
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>>155
千都さん
了解しました。^^
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>>156
おお〜!そんな便利な概念があったんだ!
教えてくれてありがとうございます!
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>>159
・・・鯖氏なら知っていると思ったのだが。
ちなみに、仏教での釈尊の無記という態度(>>156の最初の方の意味)の価値を端的に示すのが、有名な毒矢の例え。
(皆さん知っていると思うので、内容は省略。)
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>>160
いやー、不勉強なものでお恥ずかしい(^^;)
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>>160
八甲田山Zさん
僕も無記ってはじめて知りました。大変勉強になります∵
僕はやっぱり千都さんの引っ掛かりの内容が気になります∵
(BGM♪は井上陽水の『傘がない』が流れている状態です)^^
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千都さん
すいません
こちらから質問させていただいてもよろしいでしょうか?
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すみません。随分時間があいてしまいました。
いちおう、話がこんがらからないための分野わけの話を書いておきます。
・小中学校の理科は高校では生物、物理、化学などに続きます。
もっと勉強したい人は理学部に進みますが、この分野を「自然科学」といいます。
・中学校の技術科は工業高校に続きます。
もっと勉強したい人は工学部に進みます(職業高校から進学が大変なのって、おかしいですよね)が、
この分野を「工学」といいます。
・哲学、心理学などを「人文科学」ということがあります。
「社会科学」というのもあります。こんがらがるのでこの言葉は注意が必要です。
このへんの分野わけはよくわからないのでwikipediaの該当ページをごらんください。
・「科学技術」というと、普通は「自然科学」と「工学」のことです。
・単に「科学」というと、まず「自然科学」は含みます。
「科学」を「自然科学」の略だと思っている人や
「科学技術」の略だと思っている人がいてややこしいのです。
ですから「工学」を含むかどうかは文章を書いた人や文の内容によります。
「科学」とはと言ったとき「人文科学」や「社会科学」は、含まない場合が多いと思います。
>>147-148の戸田先生の指導の中では、「科学」という言葉は確実に工学を含むように思います。それどころか学問全般の話をされているところも多いのではないかと思います。
自然科学は、世界のつくりがどうなっているのか知ることが目的で、工学は何かを作って社会の利便を高めることが目的なのではないかと思います。そして宗教は幸福が目的です。
「すごく不便だから不幸」「○○が便利なら死なずに済むのに」という境涯は多くの人が経験していると思います。
この境涯は不便の原因が解消されれば幸福感を感じることができます。
かといって、この原因と結果をひっくり返して「便利でさえあれば(だれでもor必ず)幸福」というわけではないことは、これまた言うまでも無いでしょう。
20世紀は、自然科学と工学の発展が互いに互いを牽引し、巨大なエネルギーをたやすく使えるようになったことで社会全体に大きな利便をもたらしてきました。
-
さてここまでは一般論です。
すこし挑発的に(?)書きます。
自然科学が知識の問題ならば、「人間の為の(自然)科学」とは「人間の為の図書館」みたいなものでしょう。
単に市民講座すればいいんじゃね?それで責任果たしたといえるんじゃね?
それだって教育のプロである高校教師あたりにやってもらえばいいんじゃね?こんなふうに
tp://www.youtube.com/watch?v=uOLpnE4IHz0
直径数センチです
tp://www.youtube.com/watch?v=_14nbgdu6ps
でかい。宇宙からたくさん飛んできます
tp://www.youtube.com/watch?v=MWm-wo7DoKw
実用にもなるかもしれません
すくなくとも原発事故に対して(自然)科学者に文句いうのって、りんご畑を歩いていたらりんごが落ちてきて頭にぶつかって痛かったぞってニュートンに文句言うのと同じじゃね?
だいたい日本の原子力って自然科学者追い出して成立してるわけで、俺はしらねえぞって言っても無責任じゃないんじゃね?
tp://rara840.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-2540.html
>>163
赤ボスさん
すれ違ってしまいました。すみませんでした。
どうぞ
-
>>164-165
千都さん
長文書き込みありがとうございます。
要するに、6月21日の聖教新聞の寸鉄に書いてある
「震災後、科学者への信頼
下落──白書。教訓生かせ。『人間の為』の視座忘れず」
って書いてあるけど、
「科学者は何も悪くない。非難することは筋違いだ」
という意味合いのことを千都さんは仰っているんでしょうか?
-
千都さん
意思の疎通はかれなくて申し訳ない限りです。
m(__)m(謝)
僕がこの三行の寸鉄を読んで正直に思ったことは、
当日はここの三行のところを読みとばしてましたわ。すいません。
改めて読んでみて思った浅い読み方で申し訳ないですけど、
「科学者への信頼」って記されてますけど、「震災後」って先に記されてるので、
-
>>167
書いてる最中に送信ボタンを押してしまいました。m(__)m
ごめんなさい。間違いです。
赤ポス(謝)
-
千都さん
すいません。
僕がこの三行読んで思うことは、
科学者への信頼って記されてますけど震災後って記されてるので
「あぁ原発関連に対しての記事やな∵」
と思いました。
その信頼下落って記されてるので
「政府とか東電とか原発のなんとか委員会のことの対応の仕方の悪さのことなんやろな∵」
と思いました。
そして白書って記されてるので、
「あぁなんかそうゆう調査か検討した報告書みたいなものになんか載ってんねんな∵」
と思いました。
そして、教訓生かせ。って記されてるので、
「うんまたいつ災害起こるかわかれへんから、同じ対応の過ち繰り返さないようにしてほしいゆうことやねんな∵」
と思いました。
そして、『人間の為』の視座忘れず って記されてるので、
「人命第一、安全第一ゆうことで取り組んでいってほしいということやねんな∵」
と思いました。
僕は何故かこの寸鉄の三行には引っ掛かりを感じずに、浅い大雑把な理解で
「うんうん∵」
とうなずいてましたわ(笑)
まぁ浅い無茶苦茶な僕なりの受けとめ方してました。
なので、
『人間の為』の視座
って
「生命の尊厳や安全が第一いうことやねんな∵」
とうなずいてましたわ。
僕なんか騙されてますんかな(笑)^^
(なんでやねん)
-
ええと、(^_^;)
とにかくまず赤ボスさんの>>166にレスします。
的確な要約なのですが、私の考えている事と違うように思えるのは、私が書きたいことを書けていなかった駄文の証拠です(恥)
なので補足します。
(自然)科学者は「知る」事が仕事なのですから、その仕事の社会に対する還元というのは「知ってもらう」ことでしょう
自らの社会的責任を果たそうとするなら、それは社会教育ではないでしょうか。
放射線とはなにか?なんで原子力発電所から放射性物質がでてるのか?という基礎知識の共有です。
そういう活動をしようとしている人たちもいるけれど、困ったことにそれは科学者が適任なわけでもなく、下手をするともっとも苦手な事だったりします
tp://togetter.com/li/194145
怒っていたり心にキズを負ったり利害がからんだり政治的思惑のある人相手に語る訓練をしている人たちではないわけです
高校教師なりサイエンスライターなりはもうすこしはコミュニケーションは得意なはずだけど、じゃあお呼びでないなら科学者はどうすれば?
教える仕事のプロなのにその技能を活かすことが適任でない、逆に政府や東電の意思を代弁しているように思われさえするという大矛盾
ということです
そういえば、ある芸術家(美大の先生)も「今は芸術にできることなどない!ボランティアに行け!」みたいなことを去年の夏か秋頃に仰ってました。
心に触れる事のプロでさえそうなのか、と思います
-
上の
>そういえば、ある芸術家(美大の先生)も
以降を撤回します
この方の去年の五月までの発言をたどってみたのですが
該当発言にたどりつけませんでした
どうやら記憶違いだったようです
-
>>170
千都さん
了解しました。^^
>社会教育
そうですね。僕もそう思いますわ。^^
科学者のかたが各学校を回ってそこの学校の先生が生徒役になって授業受けるようにしたらよろしいんな。
あといろんなとこへセミナーで回るとか。
子供とか女性に受け入れられたら一気に火がついて弘まる可能性があるので心ある良識豊かな魅力的な科学者の出現に期待(笑)ですな。
あと放射能関連やったら素人判断ではかなり難しいので、安全地帯と危険地帯の間のグレーゾーンに科学者のかたに積極的に入っていただいて、安全地帯の確認をどんどんやっていただいてどんどん判断していただいて現場教育をやっていくというやり方もありますね。^^
昔、中学校時代に漢字の覚えかたで「専『門』家には『口』だすな。訪『問』したら『口』を聞け。」(笑)ってあったのをふと思い出しましたけど、今はどんどん交流していただいて現場で住民の方々と科学者の方々と「どっちも『口』を聞け」(笑)状態になればいいですね。^^
しょうむないことゆうてすいません。^^;
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なんという不覚!
長文レスを書いたのにNGワードで(?)撥ねられてしまいました orz
また書きます
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今日のところは、すこしだけ。
赤ボスさんにレスするかわりに、ちょっと散文
tp://www.sham.jp/studio/product/06falsie/cd.shtml (音声が出ますので注意)
今の時代にはこっちが必要なのかなとおもっていたけど
tp://jamberry.at.webry.info/201207/article_377.html
むしろこっちかもしれません
笑いの破壊力って大きいですからね
上のURLは初心者には難しいです
「何千年もの積み重ねも (略) 1度や2度の実験でくつがえせる」のが科学だって私も信じてましたし
「理屈じゃ解けない不安な気持ちに 白黒つけてTrueと言」うのがなんでいけないのか、
わかっていなかったのですから
恥ずかしいかぎりです
ところで「妄想」ってNGワードだったりしますか?
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割り込んで、質問します。
ご本尊様にあげる「水」については、一日の終わりに捨てるものですか。又は飲む?頂く?ものでしょうか。
というのは、前所属の地区婦人部長の聞いたところ、埃が入っているから捨てる、ということでした。
妻の姉は、「ほっすい」だから飲むものだ、ということです。病気なのだから飲んだほうがよい、ということです。
病気だから云々は別にして、どちらの考え方がよりよいものなのでしょうか。
私は、「ほっすい」なるものが大切なものならば、組織で徹底されているはずのものでしょうが、皆さんは、どうしていますか。
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失礼します。千都です。
以下は「お華水を飲むとよいか」という質問への戸田先生の指導です。
お華水というのは大石寺で御本尊への給仕に使用されている泉というか井戸(?)の水のことです
>お華水を飲ませれば病気はなおると、私は一ぺんも教えた覚えはありません。
>水を飲ませてなおすというのは、仏立宗や霊友会の教えで、創価学会の教えにはありません。それは、邪宗から転向してきたものがいい始めたものであります。
(略)
>お華水によってなおったのは、偶然か、それとも信心の一念が水を通じてなおったものと思います。
tp://situmon30.blog122.fc2.com/blog-entry-16.html
お水の意義について、wikipediaを引いてみます
>インドでは古く、来客に対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に供養されるようになったものである。
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BC%E4%BC%BD
なんと、ご本尊様が飲まれる水では無かった!?
また、お水にシキミの葉をさしたりしますが
>単なる水ではなく、樒という照葉樹の一枝を刺すことによって水が香水となることを、鑑真によって伝えられた
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B0%B4_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
う〜ん。飲むものではないような
他宗ではどうでしょう。キリスト教の聖水は飲んだりもするようですが
>信徒の信仰との協同によって実現するものである。従って聖水の恩寵がもたらされるのは信徒が聖水の恩寵を心から信じ、かつ神の意思と信徒の意思が一致した場合のみであるとされる。
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%B0%B4
飲むクリスチャンにとっても、信心が無ければダメということのようです
昔、「僧俗和合」だったころに化儀について書かれた本を読んだこともあるのですが、晩の勤行の前に下げる事しか書いてなかったように思います。
私の考えを述べます。
ありがたいから飲もうという気持ちなら、飲むことを止める理由はないと思います。
私のウチでも飲んでいた事があります。ただし、シキミの葉っぱが入ったものや夏場で器を洗うとヌルヌルする状態ならば飲む事はお勧めしません。衛生上の理由です。
>花や葉、実、さらに根から茎にいたる全てが毒。
tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%BF
また、8341ライオン さんは免疫力が減退されていることと思います。その辺も考慮されるべきかと思います。
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千都さん ありがとうございました。
大変詳しく、丁寧に教えていただきました。良く分かりました。
ありがとうございました。
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私も、衛生上の理由から、一日常温に置かれていた水をそのまま飲むべきではないと思いますね。
御書にも、「供養した水を飲むと病気が治る」なんて教えは見たことがないです(笑)
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法華経展に行ってきました
「冬は必ず春となる」婦人への手紙の実寸大コピーがありました
手紙といっても大きな巻物みたいな感じですね
これが残っているということは、婦人はきっと春を迎えたのでしょう
お手紙を宝物とし病弱だった女の子にも何度も読んであげ
女の子もその子孫も家宝として大切に受け継いだからきれいに残ったのでしょうかね
逆に大切にされなかったため残らなかった手紙もあることでしょう
立正安国論も日蓮撰筆実寸大コピーとありました
連れて行ってくれた友人いわく「御真筆は2つ残ってるんやで」
「なんで2つも残ってるん?」「さあ」とのこと
ひとつは北条一族が保管していたのでしょうか
それとも時頼に処分されてもいいように予備を幾つか書いておいたのでしょうか
あるいは後世に残すため後年に再び執筆したのでしょうか
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虎キチさま
>「御真筆は2つ残ってるんやで」
そうですか。
控えとして、いくつか書かれていてもおかしくないと感じます。
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>>179
日蓮は、立正安国論を、「提出しておしまい」ではなく、晩年にも弟子に講義していた、と聞いております。
もちろん、論文を後世に残すという事もあったのかと思いますが、むしろ「後継者」を育成する事に主眼があったのでは。
そういった意味では、「授業の為のテキスト」という位置づけも可能ですし、真筆が複数残っているという事も頷けるのかと思います。
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>>181
そうでしょうね。同意!^^
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きひろさん、鯖さん ありがとうございます
「後継者」を育成するためですか、なるほどです
でも、よく残りましたよね
あんなに難が多くては大事な物だからといって
肌身離さず持ち歩くわけにもいかなかったでしょうし
「二十一世紀に伝える『あの一冊』」で立正安国論が2位になってますが
二十一世紀に伝えるために残されていたとしたら凄いことですね
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>>183
たぶん、二十一世紀だけではなく、三十一世紀、四十一世紀…と伝えていく事を想定していたのだと思います(笑)
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お久しぶりです。その後、皆様お変わりはないでしょうか?
い、いつの間に『創価の森のゴーヤカーテン』に…。
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「怨嫉」についての疑問
少人数の会合でのこと 副本部長(婦人)が、「Iさん(壮年)(副本部長が訪問した婦人の兄)に、『怨嫉をしたほうが100%悪い。』と言うべきことは言い切った。」と言いました。(このIさんは、妹さん(少々鬱気味)が、この副本部長から言いたいことを言われ、怨嫉しているが、怨嫉させた側は責任が無いのか?といったらしい。)
十四誹謗の説明では、「折伏行に精進する人を軽んじたり憎んだりすることは謗法であり、同志の怨嫉があれば功徳を受けられない理由がここにある。」として、確かに「怨嫉をしたほうが100%悪い」とも受け取れるような解説ですが、それはそれとして、怨嫉させた方も何らかの形で、好ましくない出来事が出てもいいのかな?と思いますがいかがですか。その方がバランスが取れているのではないでしょうか。
また、自分に懐いてくる者にはやさしく懇切丁寧に接するのに対して、自分の指示、指導について、意見や(うっかりすると)疑問を述べる人に対しては厳しく対応したり、無視する幹部((女性に多いか?)気持は何となくわかりますが)(この副本部長)がこのような発言をすると、「怨嫉をしたほうが100%悪い」ことが事実なのか?と疑問を感じますがいかがでしょうか。皆さんの考えを教えてください。
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以下引用です
"信心している人に対して、どうしても好きになれないと思うのは、謗法にならないでしょうか"と質問した女子部員に、池田会長は――。
「なりません。嫌いな人は嫌い、合わない人は合わない、それは人間の自然です。そのことによって妙法や広布の組織そのものを誹謗するならともかく、そうでない限り、謗法ではありません。当然の人間性です。
『仏法の世界』は、本当の『人間性の世界』なのです。あなたが人間らしく、さらに人間らしく、生き抜いてゆけば良いのです」と励ました。
(企画 本門の陣列は立つ!8 大白蓮華 2012年12月号25ページより)
以上です
「好きになれない」と「怨嫉」はどこが違うのか、いまひとつはっきりしないのですがご参考までに。
鬱だと「がんばろう!」と言われると「がんばれない私はどうしようもない。死にたい」と思ってしまい
「無理をしないで。すこし休んだら」でも「がんばって休もう!規則正しくしなくては」とちっとも休まらない
普通の指導激励は大抵逆効果なんですが、そのことを理解されている人はどの程度いるのか、少々心もとなく思います
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会合に参加しないと後悔するのですか?
例えば日曜日、朝から題目を二時間あげ午後選挙活動をして、夜ゆっくりと休もうと思っていたら、日程表を見たら四者全員参加の地区部長地区婦人部長会が入っていました。こう言うときに疲れてるから休んだり、友人との遊びだから休んだりすると、後悔したり、罰が当たったり、良い事なかったりするのでしょうか?
また、会合に参加しないと、いけないのでしょうか?
家で、題目をあげ、新聞を読み、友人に語る。だけでは、信行学にはならないのでしょうか?会合が多すぎて、自分の時間や余暇も取れません。本部幹部会も、はっきり言って新聞に掲載されるのだから、わざわざ行く必要もないと思います。
今年の大白蓮華(何月号かは忘れました)に、自分が出るべき会合に参加しないと、後悔する、自分の人生をも左右してしまう。みたいな内容の事が書いてありました。 それからは、会合に参加したくなくて参加しなかった時や、友人との遊びで参加しなかった時などに、あっ!後悔するんだろうな、とか思ってしまいます。また、仕事が残業になってしまった時など、あっ!会合に参加しなくちゃ!後悔するとか罰当たるとか、思ってしまいます。
自分では、会合は、はっきり言って、そんなに頻繁には行く必要がないと思っています。
幸せになるためにやってきたのに、会合ばかり、会合にこんなに参加するためにやってきたのではないのに…と思ってしまいます。 皆さんはどう思いますか?会合ばかりで幸せでしょうか?意見ください。
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<188
こう言うときに疲れてるから休んだり、友人との遊びだから休んだりすると、後悔したり、罰が当たったり、良い事なかったりするのでしょうか?
私は、月3回の壮年部の唱題会(選挙期間中は一時休止)と座談会、本部幹部会のビデオ?くらいしか会合が無いので、出来るだけ参加させてもらっています。少ないですからね。
確か、人間革命の初めの2〜3巻でしょうか、山本青年が、男子部の会合(班長会だったでしょうか)を休んで映画鑑賞をしていた場面がありました。その当時、非常に勤務が大変で、疲れきっていて映画を完全には見ることができなくて自然に寝てしまった、とあったような気がします。映画を見た理由として、会合をサボったのではなく、休息を取ったのだ、ということだったと記憶しています。
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ああレスつけてもいいのか
>>188 先に自己紹介スレに書いてね
と鯖さんの代わりに
>>188-189
私の青年部時代には
「会合自体に功徳なんてないよ。そんな事も知らなかったのか?」
と言ってくれる先輩が(会合でも、活動中やプライベートでも)複数いましたが
今はいないのかなあ
これ、ちとトリッキーな言い回しだと思うのです
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>>189で8341ライオンさんが指摘されている『人間革命』の描写は
4巻「波紋」の章です
聖教文庫版ではp.165〜166ページ
眠いので引用はまた明日にさせてください
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秋雨の日は、早くも暮れてきた。伸一は雨にうたれながら、武蔵野の雑木林のなかを抜け、駅へと急いだ。昼から降りだした雨は、あちこちに水溜(みずた)まりをつくっている。伸一は黄昏(たそがれ)の路上で、しばしば水溜まりに足を踏みこんでしまった。駅のプラットホームにたどり着いた時には、ぐっしょり濡(ぬ)れてしまった靴(くつ)のなかの不快さに、思わず舌打ちした。二か月ほどまえに買った中古品の靴は、もう水が滲(にじ)みだしてしまったのである。至急、修繕しなければならぬ、と思ったりした。
山本伸一が銀座にでた時には、すっかり夜になっていた。雨の銀座は人通りもまばらであった。彼は、下請(したう)けの製版屋に立ち寄り、ある画家の凸版を二枚受け取ると、そのまま新橋のほうへ歩きだした。靴のなかの不快さは耐えがたかった。彼は、ぶるっと身震(みぶる)いした。また微熱が出てきたらしい。橋のたもとまで来た時、右手の川面(かわも)がひどく明るく光っていた。映画館の電飾が、水面に光を落としていたのだった。
彼は、川岸の映画館に、吸いこまれるようにはいった。暗い座席に腰を下ろすと、彼はスクリーンを見るより、まず靴をぬいだ。靴下をとって、それを絞(しぼ)ると、饐(す)えた臭いが、鼻をついた。
スクリーンには、アメリカの若い青年男女が踊っている。そこへ、ヨーロッパの戦場から帰った男が出てきた。この男は、戦傷のために記憶喪失症になっている。彼は、昔の恋人に会っても、それが解らない。病室が出た。……山本伸一は、うとうとと眠ってしまったらしい。目が覚めた時、映画の筋は解らなくなっていた。
館内には、すでに空席が多くなっている。伸一は、ふと今夜の座談会を欠席してしまった事を思いうかべた。水の滲(し)みこむ靴が悪いのだ、と自己弁護したものの、それはまた自己嫌悪(けんお)でもあった。朝のショックが、また甦(よみがえ)ったのであろう。こういう日こそ、座談会で闘うべきなのだと、痛切にわが心を責めたりした。
伸一は、座談会を忘れていたのではなかった。朝からの激動に、いささか疲れたわが心を、ひとり静かに慰めたかったのである。その時、目の前に映画館があったのだ。
『人間革命』4巻「波紋」の章より。聖教文庫版ではp.165〜166ページ
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>>192池田先生は会合を心で思っていたじゃないですか?わたくしの場合、会合そのものがなくなり、自分だけで、信行学をしていきたいのです。信→自分の家にある御本尊様に祈る。学→聖教新聞、大百蓮華、公明新聞、創価新報、SGIグラフ、潮、第三文明、人間革命を読んで勉強をする。行→選挙支援などをする。 会合が必要ないと思うんです。会合に参加するくらいなら、友人にあったり、遊びや仕事をするべきです。会合は必要ないと言っているのです。と言いながら、今日も会合いきますけどね…
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>>186
> 「怨嫉」についての疑問
ライオンさん、重要な問題提起、ありがとうございます。
当然ながら、御書もあるように法華経の行者を憎む事は、信心をしていてもその功徳が消えてしまい、かえって罰を受ける、とありますね。
では、おっしゃるように「怨嫉をしたほうが100%悪いのか」…怨嫉をさせた側にも責任の一旦はないのか、との事ですが、基本的には「責任はない」と考えます。
たとえば、大聖人が正しい法を広めたからこそ、悪口罵詈が起こり、怨嫉されました。
御本仏を怨嫉する罪は、計り知れないものと推察しますが、ではその責任の一旦は、正しい法を広めた大聖人にもあるのでしょうか?
・よく舗装された道でころんだ人は、道を作った人を訴えられるのか
・金持ちの家に泥棒が入った場合、金持ちには責任はないのか
といったこともあわせて考えれば、基本路線は明らかなような気がします。
ただ、「基本」であって、例外もあると思いますが…
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>>193
非常に共感できます。
結構、私の考えに近いです。
まぁ、ちょっと違う所もありますが(笑)
とはいえ、当板のルールを無視して書き込むのは言語道断です。
まずはルールを順守し、また他の参加者に対し誠意ある対応をお願いします。
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学会における「会合」とは、お互いを切磋琢磨したり情報交換したり、また同志との親睦をはかる意味合いなど、色々あるかと。
ただし「会合さえ出て入ればいいか」というとそうでもないと思うし、全く会合がなくなれば、事務連絡もメールだけとか味気ないものになってしまうかと。
会社における「会議」と同じで、効率を重んじ、必要最低限にすべきだと思いますよ。
会社も会議ばかりで営業しない所は、つぶれるでしょ(笑)
まぁ、地域によって様々な事情があるでしょうから、出たくない人はでなければいいし、楽しい人は、出ればいい(笑)
行かないとバチがあたるよ、などと人を脅して参加率を上げるような功名心に食われた「信心利用」の幹部がいたとすれば、叩きだすべきでしょう(笑)
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難しいところですね。
会合等に出席しないと、学会運営の流れがわからなくなるし
出席しても、業務連絡と数の報告
楽しくないけど、これも修行と割り切るしかないかもしれませんね。
日本社会は、自分の意見を言えば、我が強いと解釈されて、嫌われます。
幹部の話をありがたく聞いていれば、よろしいかと思います。
幹部も、人の子ですからね。
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>>190にすこし補足しておきます。
「会合自体に功徳なんてないよ。(ry」と言われた/指導を受けた人のうち、
それなら会合に出席になくてもいいんだ。いいこと聞いちゃった。と
会合に出なくなった人は私の知る限りではいませんし、私もそうは思いませんでした
また、いくつも会合がバッティングして、どの会合に行くべきか悩むのが当たり前の時代でしたので
今ではこんな言い方は恐らくはしないでしょうね
怨嫉については、
問題を「指導する側は、指導される側になんの責任も負わないのか」と書きなおしちゃダメですか?
この問いにYESなら、どんな思いつきでええかげんな指導をしてもいいことになっちゃうし
訓練と称して後輩を子分のようにこき使ってもいいことになるんじゃね
また、この問いにNoであったとしても、心がささくれるような指導や
信心することが苦痛に思えるような先輩幹部の話(が仮にあったとして)を
最初から聞かなかったことにしたら罰があたるのかな?
否だと思うけど
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久し振りに書込みます。
男子部時代戦いが佳境に入ると、部長宅で連日の毎日闘争。
それが数年続き、振り返って数えたら、200回以上参加してました。
そのことを部長に言ったら「会合に参加することが目的でないよ」
との返答でした。
その当時はその言葉に正直ガックリきました。
考えてみれば、参加する方も大変だったけれど、毎回会場を提供し拠点闘争を主催していた部長の方が、泣きたいくらいだったかもしれなかったのでは、と思いました。
信心数十年ともなると、参加した会合を合計したら凄い回数になるでしょう。
1カ月15回×12カ月×30年=5,400回
という試算もできます。
とにかく男子部時代は1カ月15回では、とてもですが納まらないほど多かったでしょう。
善知識の集いに参加することが、信心の持続には不可欠です。
ですがさすがに5,000回、10,000回ともなると嫌になることも、時にはあっても自然でしょう。
その上で視点を変えると、それだけいつも会場を提供してくれてるメンバーや、会館の運営者・役員等、何よりもそれらの中心者である先生に感謝の念がつくづく湧いてきますね。
会合に出られる、という一見当たり前のことが、どれだけ陰の人々と思いに支えられているか。
そこに思いを凝らすと、「なぜこんなに会合が多いの?」との倦怠感も吹き飛んでしまいます。
会合革命、会合を価値的に、終了時間厳守、については再三にわたって注意が載りますね。
それだけ戦いが苛烈になってくると、忘れがちになるからでしょうね。
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>>198
命を出させてやれ。
怒らせればこっちのものだ。
などと、あおり立てる意地悪な幹部がいたとすれば、その幹部自身がやがて行き詰りますね。
こういう極論すると、異体同心を破ることにもつながることを行なう幹部は、外見は幹部であっても正体は魔に食い破られてるのかもしれません。
「毒鼓の縁」という法理がありますが、これはあくまで根底に相手に内在する仏性を礼拝する一念があっての「毒鼓の縁」ですから。
-
>>186
過去の指導より抜粋。
怨嫉されやすく悩んでいます。
怨嫉をすると、功徳を止めてしまうのみならず、罰をうけますから最も注意しなければなりません。
ここで怨嫉するほうは当然悪いのですが、怨嫉されるほうも、よくよく反省する必要があります。
自分では怨嫉されていると思っても、じつは怨嫉をさせている場合があるからです。
…略…
ですから、そうさせてしまう原因が、自分のほうにないか、特に幹部は謙虚につねに反省する必要があります。
…略…
そして、もし「態度が横柄だから嫌いだ」と思われているのでしたなら、大変申しわけないことをした。
嫌いだと思われていたら気の毒だ、好きになってもらうように努力しようと決意して、笑顔で謙虚に接していけば、必ず相手も変わるものです。
冷たいといわれたら、温かくしてあげよう。威張っているといわれたら、やさしくしよう、会員のための幹部なのだ、嫌わせては申しわけがない。
このように自分自身にいいきかせて努力するところに、自分自身の人間革命も前進もあるのだと思います。
次になぜ怨嫉されているのか、まったく見当がつかない、なにか誤解されているように思えてならない場合には、素直に会って話し合ってみることも必要です。
…後略
(出典:私の個人指導 辻武寿 聖教新聞社)
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