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本迹関連の部屋

1美髯公:2009/07/18(土) 14:25:22
 「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も

こちらで、お願いいたします。

話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m

59taka:2009/11/24(火) 18:30:13
沖浦克治さん
理解できます。
「勝劣と、優劣はほとんど同じ意味」を、詳しくお願いします。

60沖浦克治:2009/11/24(火) 19:24:57
 勝とは、優れるの意味を含むでしょう。

 優とは、勝るの意味を含みますね。

 ですから、そんなに違いは無いと思うのです。

61沖浦克治:2009/11/24(火) 19:27:08
 takaさん、今からお題目の時間ですので、又後ほど。

62沖浦克治:2009/11/24(火) 21:06:12
 今度は、仏と衆生の本迹を考えます。
 個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間。
 娑婆世界は、この垂迹の人間が集まる世界ですね。
 そして当然自分が仏である事は忘れ去っています。
 だから不幸が起こります。
 救済のために仏が出現して法を説き広めます。
 この法を説く仏も、救われるべき衆生も、本地は全く同じ仏です。
 仏は自分が仏と悟っている、衆生は忘れていて迷いの状態。

 『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 この通りです。
 すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。
 仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
 救済する側の仏は迹。
 こうなります。
 現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
 法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。

63taka:2009/11/25(水) 15:19:32
沖浦克治 さんが言われているのは、「本迹一致説」ではないですよね?
「本門」と「迹門」には勝劣があります。これは間違いない。
「本地」と「垂迹」には勝劣はあるのでしょうか?
「本地・垂迹」は同一人ですよね?
同一人だから、勝劣はないと思われますがいかがでしょうか?
「発迹顕本」はどう解釈されますか?
すみません、何となく理解できてるようなのですが、「もやもや」しています

64沖浦克治:2009/11/25(水) 17:21:19
 takaさん

 少し難しく考えすぎでしょう。
 同一人物での勝劣は常にあります。
 今日は1時間唱題するぞ! 
 で30分で終われば負け。
 やれば勝ち。
 全てに勝劣はあります。
 発迹顕本は本地を顕すですが、本地が優れ、垂迹は劣るでいいんじゃないですか。

65taka:2009/11/26(木) 13:05:46
沖浦克治 さん  理解できました。 次の、
 「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
 救済する側の仏は迹。
 こうなります。
 現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
 法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」を、
詳しく、教えてください。

66taka:2009/11/26(木) 18:45:29
沖浦克治さん
 『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)(御書p567・4行)

通解; 総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。

講義; 一大聖教は「我身一人の日記文書」で生命のありようを説き明かしたものであり、この自己の本体を徹底的に悟りきわめたのが仏である。
このことは華厳経が説いている通りであるとされ、この自己の生命と宇宙万象との一致を明かした止観輔行伝弘決の文を挙げて、自身を知ることは宇宙万象をも知ることであると教えられるのである

「すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。」  解ります。

「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
 救済する側の仏は迹。」  ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?

 「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
 法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。

以上、私の拙い解釈をしてみました。よろしくご指導ください。

67沖浦克治:2009/11/26(木) 19:48:31
 takaさん

>仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
 救済する側の仏は迹。」  ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?

 即はイコールではありません。
 即は精進行であるお題目です。

 『昼夜常精進 為求仏道故
 此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。』
 (御義口伝巻下)

 衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです。
 人が人本来の能力を発揮するには、教育が必要でしょう。
 同じなんですよ。
 ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
 導かれる側が衆生。
 衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
 生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
 何のため。が本で目的なんですよ。
 
>「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
 法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。

 人は元々南無妙法蓮華経の当体ですね、ですので人法一箇です。
 本迹とは異なる観点です。

68大河:2009/11/27(金) 00:32:30
>>67

> ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
> 導かれる側が衆生。
> 衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
> 生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
> 何のため。が本で目的なんですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

国民(民衆)の幸福が本・国家(政治体制等)が迹

こういう指導は先生のスピーチにあります。

その例でいけば、

宗教組織(教団)のケースは

会員(信者)の幸福が本・教団組織は迹、・・は成立しますね。

>>生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。

教育とは生徒の「幸福」のためで(目的)、教師は「環境」の最たるものです。

69沖浦克治:2009/11/27(金) 07:36:22
 あのネ、大河さん、

 申し訳ないですが、邪魔なんですよ。

72taka:2009/11/27(金) 19:24:22
大河さん
私は、あなたに対して、特別な感情は、有りませんが、今、沖浦さんと、
真剣に、対話をしています。沖浦さんが邪魔だと仰るのですから、ご遠慮ください。
それから、自己紹介の件、私がうっかりしていました。美髯公さんとは、無二の親友なもので、
すみません。

73taka:2009/11/27(金) 23:06:27
沖浦克治さん
大聖人の仏法は、人法一箇ですね。釈迦仏法は、人法勝劣ですね。
大聖人の仏法は、但信力のみですね。釈迦仏法は、歴劫修行ですね。

「衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです」とは、
沖浦さんがの仏道修行の程度はよく分かりませんが、精進行だと私も思います。
精進行については、もう少し考えてみたいと思いますが。

「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」
私は入信以来疑ったことがありません。おかげで、何不自由のない生活をさせていただいております。
「無疑曰信」こそ成仏の要諦だと思うのです。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。「根本尊敬」の存在だと思っています。
つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。

私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。

「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」を、迹(手段)と言えるのは、御本仏以外にないと思います。
「創価学会」「三代の会長」を、迹と言えるのは三代の会長以外にないと思います。

私たちが言えるのは、友人と仏法対話をする時、その時は、友人は「本」で自分は「迹」と言えるのではないでしょうか。その時、友人が衆生で、自分が仏だとおもいます。

しつこいようですが、弟子の立場で、師匠が「迹」というのは、どうも不自然だし、あるべき姿ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

74沖浦克治:2009/11/28(土) 07:21:44
 takaさん、おはようございます
 
>「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。

 物凄く間違った考えですね。
 一見正論と間違う所が非常に危険です。
 紛然ですね。
 手段なんですよ。
 先生のご指導です。

 『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
 ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
 私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。 
 諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
 今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
 こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
 ですから独裁はありません。』(取意)

 本果妙が迹で、本因妙が本。
 こうなりますね、ですから弟子は本で師匠は迹になります。
 これと、根本尊敬とは別のお話です。
 いくら何方かを根本から尊敬し南無しても、主体は自分ですね。
 取って変わることも、変わってもらう事も出来ません。
 依正でわけるなら、正報が自分でその他は全て依報です。
 依報が主体になる事はありません。

 我思う故に我あり。

 シベン哲学の最高峰ですが、仏法はこの、思っている我を、我即如来。と説き明かします。
 思う自分がこの世になければ、一切は自分に取って存在しません。
 あくまでも、全ては自分が中心。が仏法です。
 良いことも、悪いことも、一切が自身の命の中から起きている。
 内道と言います。
 師匠に南無して根本尊敬だから、価値判断は一切お任せします。
 外道の見本です。
 弟子がね、勝手に一切を師匠に寄りかかって、広宣流布できますか?
 師匠は迷惑ですよ。
 何故そう言う発想になりませんか?
 
 『仏法者は、独立した自由人です。』(取意)

 こうあるべきなんですよ。
 
>「根本尊敬」の存在だと思っています。
 つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。

 『答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、』
 (本尊問答抄)

 本迹論じて生き残れないようなものは、拝んじゃいけませんよ。
 無疑曰信を勘違いされていますね。
 
 『疑って、疑って、疑いぬいて、それでも疑い切れなかったから信じる以外にない。
 無疑曰信とはそう言うことなんです。』(取意)

 池田先生です。
 信の入り口は常に疑いなのです。
 そして、信を深めるものも、やはり疑いです。
 動執生疑があらゆる信の入り口で、深めるきっかけです。
 私は、かって池田先生を疑いました。
 書物も、音源も全て捨てました。 
 でも、疑い切れずに帰ってきたんです。
 疑う以前の先生への気持ちと、現在。
 現在が何百倍も強いです。
 疑えない人に、真実の信はないでしょうね。

 『なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、』
 (開目抄下)

 いくらでも疑って見ろ!
 信じさせてやる!!

 私にはこのように読めます。

>私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。

 いいえ、論じない人は弟子の資格が無いと思います。 
 盲信は弟子の道じゃありません。

75taka:2009/11/29(日) 23:13:37
沖浦克治さん
 『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
 ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
 私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。 
 諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
 今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
 こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
 ですから独裁はありません。』(取意)・・・・・・・

この指導で私が感じることは、「本因・本果」と「本・迹」は別の観点で論じなければならないと思います。
「本因・本果」は、師弟、指導を教えられているように思います。
「本・迹」は、仏が、衆生に本地を悟らせるための方便と言えるのではないでしょうか。
つまり、仏が、衆生に、「迹」を通して「本」を教えている。あるいは、悟らせようとしている。そう思います。大聖人のご一生を、学ぶと、ありありと分かります。
池田先生も、然りです。

沖浦さんの「本迹論」の展開は、ほぼ、間違っていないと思います。
只、日蓮大聖人の仏法においては、弟子の立場からは「本迹」は必要ないのではないかと思います。だって、信じさえすれば、瞬時に、やすやすと仏になれるのですから。
例を挙げますと、沖浦さんが仰っている、「衆生が本、漫荼羅が迹」――これは、日蓮大聖人が、弟子のために、末代の幼稚の頸に、かけてくださったわけですが、弟子である私たちは、「日蓮大聖人の魂」であると拝すべきだと思います。

76taka:2009/11/29(日) 23:15:49
沖浦克治さん
私の信心は、“盲信”ではありません。
“盲信”では、40年以上信仰を貫くことはできません。
入信以来、勤行・唱題・20分の教学を欠かしたことはありません。、
(だからといって、御書講義がやすやすとできる能力があるわけではありませんが)
私の信仰は、日々の積み重ねで今日があると自負しています。
朝晩の勤行の際、池田先生の導師で、大聖人を仰ぎ、決意・報告等を行っています。だからでしょうか、何時間でも、心ゆくまで唱題をすることができます。
御書は、日蓮大聖人のお言葉として、お手紙として、自分の身に当てはめて、そのまま拝するようにしています。

私の人生は、沖浦さんに負けないくらい、波乱万丈でした。
大病(がん)で生死の境をさまよったり、経済的にどん底をはいずりまわったり、だけど一度も師匠を疑ったりしたことはありません。それはそれで、良い思い出になりました。

体験を言っていたらきりがありません。

77taka:2009/11/29(日) 23:16:50
沖浦克治さん
弟子は、師匠の言われたことを、一言一句もらさず、100%実現するのが使命です。
日興上人、戸田先生。池田先生のご一生を学べば解ります。
私が申し上げたいのは、「この人は私の師匠だ」と決めるのは「弟子」だということです。
だから、決める瞬間の条件としては、「師匠は絶対である」ということではないでしょうか。
「師匠のために、一生を懸けても悔いはない、命も惜しくない」
「師の理想を、命を懸けて実現させるのだ」
私は、身近な、池田先生の振る舞いから学びました。

翻って、師匠の立場から学ぶことはなにか。
師匠である日蓮大聖人のご一生は、一切衆生のため、弟子たちのため、古今東西の思想・哲学を、駆使して、命を懸けた戦いでした。それは、弟子たちに、「本地」を悟らせるためでありました。
池田先生も然りです。
つまり、「本迹」は、師匠の立場で、表現するものであると思います。

私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。

原田会長は仰いました。
「池田先生にまなび、池田先生のごとく」と。

78沖浦克治:2009/11/29(日) 23:41:48
>私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。

 では、対話を終了いたしましょう。
 もってのほかの方と対話をしても平行線です。
 貴方は貴方のお立場、私私のスタンス。
 それで良いと存じます。

79管理人:2009/11/30(月) 05:29:05
心の師となるとも心を師とせざれですね。

80沖浦克治:2009/11/30(月) 06:59:48
 管理人さん、おはようございます

 対話は大切です。
 ですが、自分が絶対だと思ったらもう対話ではありません。
 私は大聖人様とご本仏と信じ、池田先生を師匠と仰ぎます。
 ですが、それを他人に押し付ける事は絶対に致しません。

 私の生き様をみて、世間様は、創価学会も、大聖人様も、池田先生の事もご判断なされる。
 だから無様な人生だけは絶対に生きないぞ!

 このように、言い聞かせて生きております。
 もとより私は非常に軟弱で、臆病で、だらしの無い、ルーズな人間です。
 ですので、常に自分に言い聞かせないとあっと言う間に堕落致します。
 そう言う人間が、他人様に創価を開くには、人生で勝ち上がる以外に無いと思っております。
 本迹や因果、総別や本末などは、人生に勝手こそ生きる理屈でしょう。
 ところが今、ネット上げて大騒ぎしている。
 私はこの惑耳驚心が、非常に滑稽に感じます。
 功徳さえ受けているなら、笑いながら堂々と対話が可能なのです。
 ところが、ほとんどの人は、罵りしか返らない。
 功徳のない人生です。
 決めつけは、堕落の始まりですね。

81taka:2009/11/30(月) 09:14:56
沖浦克治さん
それでは、仕方ありません、またの日を楽しみにしています。
色々有難う御座いました。

82美髯公:2009/11/30(月) 12:50:56
 沖浦さん、taka さんお疲れ様でした。

結局の所、お2人の立ち位置の違い(「本迹」の捉え方)ですね。

それがお互い解かっただけでも収穫でしょ。

たった、一度の対話(テキストのみの)では、理解は出来ても納得までは

中々難しいですよね。リアルの対面対話でさへそうそう簡単には

いかないのですから

またの、お2人の対話期待しておりますm(__)m

83沖浦克治:2009/11/30(月) 13:34:04
 takaさん

 よろしければ私の掲示板で続きをやってもいいですし、貴方が、もってのほかと言うご意見を取り下げていただけるなら、対話を再開いたしますよ。
 いかがでしょうか?

 決め付けてしまうと対話にはならないと思うのです。

84taka:2009/11/30(月) 17:18:57
沖浦克治さん
あなたがいわれいる「本迹」は、「師」である立場(大聖人)においてはその通りだと思います。
それを、弟子の立場で、そのことを、「本迹」として、とらえたり、活用してはいけません。
あなたは、「本迹」を展開しすぎです。どこやらの、『ノラ』さんがいっている、ねつ造でも、ましてや、あなたは、『邪師』でもありません。
そのことだけは言っておきます。

85沖浦克治:2009/12/01(火) 09:01:11
 taka さん、おはようございます、そしてありがとうございました。
 
 最後にですが、池田先生が、かって、観心の本尊について述べられました。
 正確な音源が私の家にございます。
 来年、時期を見計らって、私のと頃で聞く会を致します。
 多くの方々にご確認をいただく予定です。
 
 『観心とは信心と訳します。
 我が心の仏界を観じる。
 私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
 そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
 こう読むんです。
 本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。 
 だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)

86taka:2009/12/01(火) 11:08:40
沖浦克治さん
しばらくご無沙汰します。
光線さんの好意で、「百六カ抄」を勉強しようと計画しております。
それが終わった時点で、また、考え指してください。

87沖浦克治:2009/12/02(水) 07:51:16
 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』
 (日女御前御返事)

 広宣流布の旗印だと仰せですよ。
 シンボルで道具ですね。
 書き顕されたご本人様が仰せです。
 これを素直に信受する。
 我見はいりません。
 そしてね、ご本尊様に関して先生のご指導です。

 『戒壇様って言ったって誰も拝まなければお力は出ません。
 ただの物です。
 物で出来ているんだから何時かはなくなっちゃいます。』(取意)

 『観心とは信心と訳します。
 我が心の仏界を観じる。
 私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
 そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
 こう読むんです。
 本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。
 だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)

 感情論でご本尊様論じても無意味です。
 先生のご指導です。

 『教学無き戦いは感情である。』(取意)

 感情で話す人は、教学無いのです。

 御本尊様は人のためにある。
 人が御本尊様のためにあるのではない。

 これだけキチンと弁えているなら、後は別にかまいません。
 私はね、御本尊様は虚空の宝塔を、大聖人様がお曼荼羅として書き顕されたと信じます。
 そして、その虚空の宝塔は私共の命をそのまま虚空に写したものです。
 これも先生のご指導にあります。
 そうすると、お曼荼羅の大元は私共の命ですね。
 極簡単な理屈です。

 衆生己心の妙法(南無妙法蓮華経)〜虚空の宝塔〜お曼荼羅。

 こう言う順番になります。
 御書と、池田先生のご指導で明白なんですよ。
 昨日の聖教新聞ご覧ですか?
 開目抄が載っています。

 大聖人は、万人に具わる衆生本有の仏性を南無妙法蓮華経となづけられ、唱題の実践によって、いかなる人であれ、胸中の仏の生命が涌現することを教えられた。

 この通りです。
 私共の命は南無妙法蓮華経。
 それを虚空の宝塔として釈迦が顕した。
 大聖人様は更に、ご本尊様として書き顕された。
 大元は私共の命です。
 これを忘れて仏法はないのですよ。
 更に、昨日の聖教新聞です。
 先生の北海道指導が載っています。

 広宣流布といっても、あくまでも大切なのは、一人一人が幸福になることだ。
 学会員の幸福を「豆腐」に例えるならば、広宣流布は「オから」で、つまり、その副産物で、自然のうちに成し遂げられるのだ。

 個人なんですよ。
 一人の人間が最も尊くて大切なんです。
 ここが全てです。
 組織やお曼荼羅至上主義は間違いなんですよ。

88<削除>:<削除>
<削除>

89管理人:2009/12/05(土) 19:45:21
>>88は掲示板趣旨に合わない為、削除いたしました。

90美髯公:2009/12/15(火) 10:41:16
 悲しいかな未だ「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」を理解出来得ず
『信じたくて、信じたくて、切なくも悲しいまでに「沖浦説」を信じたくて、
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」も強烈に支持していて、』と、
のたまう御仁が居るのは驚きである。
恐らくは、「本迹=優(勝)劣」と言う、宗教批判の原理である「五重の相対」の
呪縛から踏み出す事の出来得ないのであろうとは思うが無惨な事である。

この様に書けば、すぐさま「百六箇抄」を上げてくると思うが、
いかんせん、小生、この講義書を持ち合わせて居らねば反論の仕様も無し。
そして、この様な御仁の決まり文句は『「御本尊を迹」と思えば不敬に
つながる』とか、「強いて言えば『御本尊も本であり、衆生も本である』」と
愚劣と言う様な回答しか戻ってこない。

なぜ、「御本尊を迹」が不敬につながるのか、これは前述した理由によるものと
判断できる。
また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
これの答えは誰にも答えられない。
なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから

91とっくり:2009/12/15(火) 12:35:09
もー、分からんちん(  ̄Д ̄)σ)* ̄- ̄)

92美髯公:2009/12/15(火) 13:12:52
 他掲示板でも「本迹」について、問題提起したことがありますが、
結局の所、「本迹」が、よく解かっておられないようでしたね。
俗に言う公式見解から一歩も出られることは無かったですね。
曰く、「迹は本に対する影である」とか「本=天月、迹=池月」であるとか。
「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う」が理解出来なかった様ですね。
その御仁曰く、「不変真如の理が迹(影)であるはずがない」といわれました。
自称、「教授」ですよ(笑 
そして、思ったとおり「百六箇抄」を引っ張ってきましたね。
今、お相手は一服しておりますが(^^;

 大聖人仏法における「本迹」って何なんでしょうね?
法華経二十八品の立て分け?天月と池月の関係?本体と影の関係?
じゃぁ無いでしょうね、それらは皆、釈迦仏法の範疇だと思います。
結局のところ、「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智」ではないかと
思います。そして、基本差別無しの「而二不二」の関係と思います。
ここが解からねば「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は理解しがたいでしょうね。

93とっくり:2009/12/15(火) 14:35:22
南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等

うん。

で、何で本迹入れんの?

入れなあきまへんの?(* ̄∇ ̄*)。

ついでに、HN何てよむの?

自己紹介、後で入れるね(* ̄∇ ̄*)。

94美髯公:2009/12/15(火) 15:18:07
 なァ〜してェ〜、入れちゃァ〜あきまへんかァ〜?
入れてもよろしゅゥおまっしゃろに(笑

「美髯公」=「びぜんこう」で、おまっせェ〜v(^^

95とっくり:2009/12/15(火) 17:43:35
ある人によると、本迹を入れないと、正宗であり、眺め人らしいのだが、入れないといかんの?

96美髯公:2009/12/15(火) 20:08:05
 そないな事、その御仁に聞いておくれ、わては、知らん。

わてが、書いてるンは「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」が、

間違いであると言う御仁向けやして。

それに、あんさん、そない手ェ広げてよろしゅゥおまンのか?

他板で、なんや「五百塵点劫」が、どうたらこうたらとやっておられたと

思いますが、もう片付きはったんか?

97taka:2009/12/16(水) 08:15:18
とっくりさん、美髯公さん
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。
結論として、沖浦さんの「本迹」は展開のしすぎです。
私は、こう思いますがいかがでしょうか。

98美髯公:2009/12/16(水) 10:23:11
 おはようさんです、takaさんm(__)m

 >「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
 >「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
 
はい、その通りだと思いますね。

 >大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
 >ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
 >だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。

この部分に、ついては異論がありますが止めておきます。

沖浦氏との話し合いされてる時感じたのですが、この部分に関しては多分に、takaさんの感情的なものを

感じた故。

 >「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。

まァ、「弟子」は除いても、日常的な信心姿勢だと思います。と、言うよりそれより他無いでしょうね(^^;

ですので、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、あくまで教学の見地からであり、

実際の信心姿勢は、「本迹不二」であり「境智冥合」なのです。

所謂、とっくりさんの言われる、「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」の姿に

他ならないのです。

99とっくり:2009/12/16(水) 18:38:27
>>96
うん!?

ああ、あれね。

なんかレスの進行ハンパ無く早いから、どっか行っちゃった。(((^^;)
別にいいよ。どのみち話の論点ズレてるし。

100沖浦克治:2009/12/16(水) 22:45:37
 ご本尊様にお題目を唱え、仏道修行をして、人間革命と言う功徳を受けた私や貴方に姿が本。

 教学の捉え方の差で目くじら立てて難癖言う人は罰の人生で迹。

101とっくり:2009/12/16(水) 23:55:32
>>100
アハハ!!

完全に“勝劣”で捉えてんじゃん(ノ∇≦*)。

必死のフォロー台無し。

102沖浦克治:2009/12/17(木) 07:27:52
 本迹が勝劣の時も当然ありますよ。

 とっくりさん、少し御書と先生のご指導およみなさいね。
 月があって、水に映っている。
 月本体は本ですね。
 池の物は迹。
 池の月は潮の干潮は起こせません。
 実態がないですからね。
 ですから、生命の進化には役立ちません。
 劣るのです。
 でもね、俳句を詠む人には役に立ちます。
 この場合、池の月が本物より優れているのではないのですよ。
 認識の対象としての池に映った月なんです。

 竿先に かかれとばかり 池の月

 今私が詠みました。
 俳句には役に立ちますね。
 ご理解できましたか?

103美髯公:2009/12/17(木) 12:41:44
「随縁不変」で捉える「本迹」には「優(勝)劣」は、ありまへんけど

「価値」で捉える「本迹」には、当ッたり前に「優(勝)劣」は、ありまっせェ〜

良き例が「新・人間革命 第八巻 宝剣の章12」にありますよって、御一読の事を。

結構、各掲示板で引用されていたのとちゃうかな?

「百六箇抄」からの解説だったような。

104とっくり:2009/12/17(木) 13:55:02
>>103

宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)

105美髯公:2009/12/17(木) 14:27:58
 >宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)

でっかァ〜(^^;ゞ ヒッ!ヒッ!ヒツ! そォらァ〜失礼しましたm(__)m

106沖浦克治:2009/12/17(木) 14:38:17
 とっくりさん

 場所知ってても、眺めていたらわかりませんよ。
 キチンと読んで思索しないと。

 学生が勉強する時は本、遊んでいると迹。
 確かそうあったでしょう。
 でもね、人としての勝劣は同じ人間ですから勉強する時が優れ、遊ぶ時が劣るとは限りません。
 無論見方によるとそう言う場合もあります。
 いけないのはね、先生のご指導や御書を、教条的に読みとることです。
 そこには思索が入る余裕がありません。
 思索が無ければ人としての向上は起こりません。

 人間は葦である。
 然し、人間は考える葦である。

107大河:2009/12/25(金) 18:05:36
>90  こんなレスがあったのね。

>また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
>これの答えは誰にも答えられない。
>なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから

>>「御本尊も本であり、衆生も本である」

生死一大事血脈抄

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり

文底から読むと(日蓮大聖人の立場から)

久遠実成の釈尊・・・・・・・・・・日蓮大聖人
皆成仏道の法華経・・・・・・・・・御本尊
我等衆生・・・・・・・・・・・・・私たち

三つ全く差別無しと解りて・・・・「信」の一字で「差別」無し、

この三つ、すべて「南無妙法蓮華経」

御本尊は、人法一箇であるから、

「日蓮大聖人も南無妙法蓮華経、御本尊も南無妙法蓮華経、私たちも「信」を条件に
南無妙法蓮華経、本来「差別無し」ということ。

南無妙法蓮華経こそ「本」という意味で表現したのであろう。

だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。
「差別無し」であるから「勝劣」は無い。
そして、「本・迹」の「立て分け」は、「同一事象」で立て分けるのであるから
曼荼羅と衆生を、「立て分ける」こと自体が、おかしい。

108大河:2009/12/25(金) 18:10:19
>>107の続き

>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから

御本尊の相貌の「本・迹」は、以下の通り、「相貌」ですからね、念のために、

本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。(先生の御書の世界より)

「御本尊」そのものは「本」である。どこまでいっても、御本尊は「本」以外に無い。
文底独一本門の「本」である。

御本尊を「本」として、あらゆる宗教、そして日蓮仏法以外の仏教経典は、全て「迹」となる。
当然、釈尊の法華経28品全体も、大聖人の文底独一本門からみれば「迹」となる。

釈尊の法華経28品だけであれば、前半14品が「迹門」後半14品が「本門」となる。

私たちの「本・迹」は、

地涌の菩薩として、広宣流布への実践がある時(状態)は「本」
地涌の菩薩の使命を忘れ、怠けている時(状態)は「迹」
これは、地涌の菩薩という「事象」での「本・迹」の立て分けである。

学生が、その本分である勉学に励んでいる状態は「本」
学生が、その本分である勉学を怠けている状態は「迹」
これは「学生」という「事象」での「本・迹」の立て分けである。

起きていて、生命活動をしている状態は「本」
眠っていて、生命活動が停止している状態は「迹」
これは「生命活動」という「事象」の「本・迹」の立て分けである。
(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)

以上でわかるように、「同一事象」での「立て分け」である。

曼荼羅本尊と、私たちは、「本・迹」に立て分ける必要は無い。

繰り返すが「信の一字」を、条件に「差別無し」である。勝劣関係は無い。
又、同一事象としても「くくれない」

必要が無いからこそ、学会出版物にも
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、間違いですなどの記載も、当然無い。
まさか、このようなことを言いだす会員が出現することを想定していない。
いや、正確に言えば、「あらぬこと」を言いだす会員が出現することは想定して
いるだろうが、あらかじめ、書いておくのは不自然だ。

109沖浦克治:2009/12/26(土) 07:10:21
 愚か者の戯言・・・・

>だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。

 『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』
 (百六箇抄)

 所詮、ネットの虚言屋の戯言・・・・・・・・

110美髯公:2009/12/26(土) 11:07:41
 あははは (^0^ ♪ エンドレステ−プでおますなァ〜(爆

 御書を引っ張って来ても、自身の思いと違う事の書かれた御書は無視か(^^; 、まァ、それも宜しゅゥおまっしゃろ(笑

他板で、面白いものを見つけたよってに貼り付けておきまっさ
 =================================
428 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 22:48:05 ID:g4YvIW0E0
 >>329

 >是法住法位 世間相常住

 >信心即生活

 >御本尊を根本にして(信心)即(実践行動)(境智冥合)
 >御本尊の力を引き出し自身に仏の生命力を湧かせ生活に
 >反映させる。

『大御本尊それ自体は「是法住法位」お姿であり、不変真如の理であるそれを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、
現実に、智慧となり、大生命力となって、湧現してくるとき、「世間相常住」と読むのである。

 この経文の左に「是の法住すれば」と読むべきことを示されているが、これは「是の法」それ自体が、御本尊であり、
御本尊が根底になることを、強く、説かれようとされたからにほかならない
          (中略)
 御本尊を根本としたとき、われらの生命には、英知が光り輝いてくる。
一切を開き、一切を作りゆくと当体は、はかならぬ、汝自身である。その自身の当体に、偉大なる智慧の湧現があるとき、
必ずや常住不変の、前進の人生を歩んでいけることを強く訴えたいのである』

ここでは、「迹門」を「不変真如の理」として「本門」を「隋縁真如の智」とされている

429 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 23:08:11 ID:g4YvIW0E0
 先の先生の講義を持って考えうれば「人が本・曼荼羅の御本尊は迹」これは間違いではないという事もいえるのである。
なお、この時の「本迹」は「優(勝)劣」ではなく「本迹不二」と了解すべきと思う。

根拠としては、「南無妙法蓮華経」の項で
 『隋縁真如の智を離れて、不変真如の理があるのでもなく不変真如の理がなくて、隋縁真如の智があるというものではない。
一切万物の事象ことごとく、隋縁不変をともに備えているものなのである。
この隋縁不変がともに存在しているのが、生命の実相であり本質であり、妙法の実体なのである。』

 ======================================================
以上

111美髯公:2009/12/26(土) 11:26:34
 まァ、くどく言えば

 >本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。

は、漫荼羅御本尊様をもって「我らの生命」を顕しているという事でんな。

総じて言えば、信心していようがいまいが「我らの生命」と言うのは南無妙法蓮華経と言う事でっせ、お忘れなきようにな。v(^^
別して言えば、信心している「我らの生命」がそう。

で、もう一重立ち入って言えば、「総じて」が「我らの生命」、「別して」が「大聖人様の生命」。

112大河:2009/12/26(土) 20:01:55
>>108

>(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)

これは「取り消し」

仏道修行できて、仏界の生命を事実として涌現できる人間の一念が
その他の生物、環境等に、依正不二で影響を及ぼす故。

113沖浦克治:2009/12/26(土) 21:30:26
 貴方自身の存在を、ネットから取り消しなさい。

 偽配達員へ。

114美髯公:2010/06/03(木) 14:21:05
  某掲示板で、「一大秘法」云々が話題になっております。 (^^;
 
 ①片や「一大秘法は戒壇大御本尊」。ちなみに「三大秘法の御本尊」は、どうも日蓮正宗さんが護持しているのに限る御真筆の御本尊らしい。
 御形木も「三大秘法の御本尊」の内なンかなぁ〜?

 ちなみに、なぜかと言うと「身延所持の御真筆御本尊も、三大秘法の御本尊なら身延にも『本門の戒壇』があるのか?」と
 問うっておったから。
 結局、彼の仁の見ているのは形なンよな。『日蓮と同意』と言う五文字が抜けていれば「本門の本尊」安置の「戒壇堂」であろうと
 「本門の戒壇」とは謂わんし、また「本門の本尊」でも無かろうに (^^;

 ②片や「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」。では具体的に謂わばと言えば上記の人と同じ
 「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」となる。

 結局、相手に反論したいがために表現を変えているだけの事なのね。

 「一大秘法」・・・・結句、解釈の仕方、此れに尽きる。なぜなら、大聖人様は、明確にお示しになっておられないから。 v(^^
 「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」、唱えれば「題目」、視覚に訴えれば「御本尊」、理を思わば「我が当体・生命」
 現実を考えれば、「題目」っしょうね v(^^ 小難しい理屈並べず単純に考えれば、そうなりますわな。

 「御本尊」安置だけでは、成仏得度は無理でっしゃろな、絶対に「題目」がいりまっしゃろ?「題目」が不要っちゅうのは聞いた事が、ありまへん。
 「題目」のみでは、どうか?可能でっしゃろ?御在世当時、皆が皆、大聖人様にお目通り出来てた訳では、無いのと違うかな?
 それに、「発迹顕本」前では、誰も成仏出来てないっちゅう事になりますしな (^^;

115美髯公:2010/06/04(金) 13:19:07
 録内・録外御書・・・知った時は、「録内」の方が信憑性が高く「録外」は信憑性に難ありと思っていたが、「録内」にも偽書ありと言う話も有り
 少し調べてみると信憑性は同等、ただ纏められた時期が違うだけだった。知らないと言う事は怖いのォ〜 (^0^ ♪

   『所詮三周の声聞法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、

    末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若 し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは

    我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。

     今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房
    
    此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず

    我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて 南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、
    
    経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝 塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ』

            阿仏房御書(宝塔御書)    /或文永九年三月十三日

 
   『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、

    是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、

    曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』

            日女御前御返事(御本尊相貌抄) /建治三年八月

  上記、二編ともに「録外」に、収められております。真筆無し、写本無し。俗に言う「真偽未決」と言われるものではなかろうかと思います。
 あやふやな情報で書いております。申し訳無し m(__)m 新情報を存知よりの方、お教えて下さればと思います。

  で、σ(^^ ぁ、何がしたいンだったけ (^^;ゞ ポリポリ ワスレテマッタ

116美髯公:2010/06/05(土) 13:32:12
  もう一つ、抜けておりました (^^; ポリポリ

  『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、

   譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し

   口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、』

  『されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐一切衆生皆成仏道の妙法と云うは

   是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。』

          法華初心成仏抄 /建治三年

  この、御書探すのに往生しましたでェ〜 (^^; 「篭の中の鳥」で御書検索(満月城岡山)掛けてもヒットせぇへんし、
  「篭の鳥」や「篭」でも、ヒットせぇへんかった (;_; シクシク なんのこたぁ〜ない!「かご」の漢字が違ってまってた (^0^;

  「籠」で検索掛けてりゃヒットせぇへんわな (^0^; ♪ 「満月城岡山」で使ぉ〜とんは、「篭」の「かご」やさかい (笑 。
  ただし、御書全集や編年体御書で使われとる「かご」は、この「籠」ね。 v(-_^
  転記ミスか、御書全集でも、古い版かは知れまへンなァ。ちなみに、σ(^^ ン所のは、昭和52年度の版やし。

  で、本題。この御書は元々「無年月日」だそうです。よって、少し調べると「弘安元年」と表記している所もありますよってに
  「弘安元年」は、間違いと思い込まないよう気ぃ〜つけなはれ。

117美髯公:2010/06/14(月) 16:11:09
   阿仏房御書 / 或文永九年三月十三日・日女御前御返事(御本尊相貌抄) / 建治三年八月・ 法華初心成仏抄 / 建治三年

   一応、御本尊に関連した御書三篇、いずれも出世の本懐とされる「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」の造立もしくは図顕前に当たります。
なぜ、「造立もしくは図顕」かと言うと、人によって違うから (^0^ ♪
普通は「造立」なのですが、最近では「戒壇御本尊は紙幅であったが、有師以降に後世のため楠板に模刻した」と言う人もおられるよってにな。

  「弘安二年十月十二日」以前ではあるが、佐渡以降でおます。と言う事は「発迹顕本」された後でんな。おまけに、既に身延に入られておられるし
  そして、当然に御本尊は御図顕され、下付され始めておられますなぁ。そういった時期の三篇の御書、「戒壇御本尊」が「一大秘法」、
  「一閻浮提総与」であり余の御本尊は分身散体等と言った発想に結びつくものがおませんなァ〜・・・・

  では、「御本尊」っちゅうのは、何か?!法華経の行者の一身の当体って謂われておられますな。「一身の当体」っちゅうても、姿・形じゃおまへん。
  「我が己心」が、大聖人様が「御本尊」を語られる上での共通項目となっておられますな。
  「漫荼羅御本尊」とは、大聖人様の法魂であり、御内証であると同時に、我らの法魂であり、内証であると言う事でおます v(^^

  だから、「漫荼羅御本尊」否定は、自身の「己心の釈尊」、「己心の諸菩薩」を否定する事になるから、あかんのですわ。早い話、自身の生命の否定ですわな。
  と言って、絶対に「漫荼羅御本尊」を拝さなければならないのかと言うと、そうでもありまへんのや。「拝さなくてもいい」と言う事と「否定」は別問題や。
  この辺、解かっとのんか、解かってへんか知らへんけど「拝さなくてもいい」=「否定」と考えとる輩が多いで困ったもんだわ (^^; (笑

118備前 ◆TtzwqSGci2:2010/09/24(金) 12:43:20
  うっす!久しぶり v(^^ 美髯公!なんぞかんぞと続いているようだね (笑

  あまり、活況で無いから議論ネタ(此処でなるかな?)を落として行くね (笑
  おまえさん好みのネタだと思うが違ってたらメンゴな! (^0^; ♪
 
 =====================================

 140 :大河:2010/09/24(金) 10:26:49 ID:U0lvXrxU0
 再掲載

 133 名前:大河 投稿日: 2010/09/24(金) 07:47:15 ID:U0lvXrxU0
  ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1217901876/187
 > 御書を読めば、物体であるお漫荼羅が、
 >一大秘法や出世の本懐になれない事が直ぐ理解可能です。

 一大秘法すなわち本門の本尊の「定義」
 日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法である
 南無妙法蓮華経・・・・・・・& それを図顕した曼荼羅本尊

 久遠元初の法
 板曼荼羅でなく「久遠元初の法」・・・分身散体の義
 全く池田先生のご指導の通り、

 >それでは世界広布が不可能だからです。

 分身散体の義により、日寛上人書写の御本尊が
 世界広布している事実がある。

 =====================================

  まっ、気が向いたら考察の一つでも書き込んでいてくれ (爆

119美髯公:2010/11/28(日) 16:58:40

   立宗の日にちなみまして考えますことは " 日蓮大聖人は、いったい何をこの世にお弘(ひろ)めになろうとされたのか " という一点であります。
   それは、端的に申し上げれば「本尊」であります。「根本として尊敬すべきもの」としての「本尊」であります。
    人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがまければ、枝葉末節の迷いもおのずから消えていくものである。故に、いちばん大事な根本の
   ところのものを、一切衆生に与え、弘められたのであります。

    では、その「本尊」の内容とは何か。それに関しては、御書のなかにおいて“ 自分は幼少の時に、清澄寺で虚空菩薩に対して、日本第一の智者に
   なしたまえと祈って、大智慧をたまわった ”という意味のことを述べておられますが、晩年において、その具体的内容を第二祖日興上人に示して
   おられます。

    すなわち「御本尊七箇の相承」のなかに「明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を持って以って本尊とす可きと・
   虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言わく汝等が身を以って本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり
   日蓮が影・今の大曼荼羅なり 」というのが、それであります。

    これにつきまして、あえて誤解をおそれずに申し上げれば「 汝等が身を以って本尊と為す可し 」とある通り「 人間の生命をもって本尊とせよ 」
   とのことでありまして「 一切の根元は“ 生命 ”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“ 人間生命 ”
   そのもである 」という哲理であり、思想なわけであります。

120美髯公:2010/11/29(月) 19:59:39

    では、そう断言できる道理の根拠は何か。それは同じく同抄のなかに、このように申されております。
   「師の曰はく法界の五大は一身の五大なり」。そして、また「法界即日蓮、日蓮即法界なり、等位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・
   因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞いなり」云々と。

    すなわち、日蓮大聖人が仰せられるのには「宇宙法界の全要素」と「日蓮という一個の生命体の全要素」とは、全く同じものである。
   日蓮の振る舞いというものは、人工的な作為を越えたところの、自然の奥深い因果に基づいた「心法妙」の振る舞いなのであり、それ故に、
   この生命を「本尊」として大切にできるのである。という意味のことを、述べておられるのであります。

    私どもは、このご教示において「生命の尊厳」の原点を見いだし、改めて“人間とは何か”ということを問い直し、この二十世紀において、
   新しき人間の復権を目指して、斬新(ざんしん)なる庶民と地域の文化諸活動を、展開しているわけであります。きょうのこの「文化祭」も、
   その一つの昇華であります。

    以上のように申し上げますと、一つの疑問がでてくるかもしれません。それは「原理上は確かにそうであろうが、現実問題として見るならば、
   同じ“ 一個の生命体 ”tぴっても、日蓮大聖人は悟っておられる。我々は毎日迷っている。したがって、両者の間には、埋め尽くせない、
   越えがたい断層が存在しているのではないか」ということであります。

121美髯公:2010/11/30(火) 20:00:20

    だが、この疑問に対しては、日寛上人が「寿量品談義」のなかにおいて、まことに鮮やかに解答を与えられているのであります。
   すなわち「仏界を成ずることは因行による、因行を励むことは信心による、信心を進むことは法を聞くによるなり。聞かずんば信心生ぜず、
   信心生ぜずば修行を怠る。修行を怠れば未来何なる処に生るべしや。仍て歩を運んで聴聞肝要なり。聞く裏に信心を生ず、其の間が仏なり。
   一念信心を生ずれば一念の仏、二念信心生ずれば二念の即仏乃至一時信心生ずれば一時の仏なり、一日信心を生ずれば一日の仏なり乃至云云。
   信心生ずること必ず聞くに由るなり、縦ひ信心を生ぜざる裏ありとも、聞きさへすれば功徳無量なり」と。

    先ほどの疑問は、この日寛上人のお話によってお考えいただければ、道理のうえからお分かりいただけると、思うのでございます。
   つまり、大聖人も私ども凡夫という両者の断層には "法を聞くこと" "信心という橋をかけること" によって、立派に往来できると、日寛上人は
   教えておられるのであります。

    「一念信心を生ずれば一念の仏」であるならば、願わくば、一生信心を貫いて、生涯の仏たらんことを願い切って、
   "この世を生きることそれ自体が、楽しくて楽しくてたまらない" というような遊楽の人生を、生き切ってまいりたいと思いますけれども、
   いかがでしょうか。

122美髯公:2010/12/08(水) 12:50:03
  上記、三投稿はワテが最初かと思っとりましたんやけど先に書いてた人が居りましたわ (笑
  eco氏主催の「五座三座」っちゅう掲示板でおます。したが、皆さん情報がが早いわ〜 (^^;
  単に、ワテが遅いだけでっか?しっかし、どっから引っ張って来るんでしょうかね〜?ワテはそっちの情報源の方が知りとぉおます (笑

 ======================================================================
  なら、敢えて書きましょうか?
  人本仏釈論を最初に唱えたのは皮肉にも かの池田先生ですよ。

  証拠(1)http://smw69.exblog.jp/6586612/
  証拠(2)http://smw69.exblog.jp/6586591/

  これは新人間革命にも書かれていた内容でした
  それを拡大解釈してしまった結果が沖浦氏の「人本仏釈」なんですけれど
 ======================================================================

  あのぉ〜 細かい事かも知れへんけど、字ぃ〜が違うんでっけども・・・・・(^^;ゞ
  「人本仏釈」やのぉ〜てぇ〜 「人本仏迹」やなんだけどもぉ〜・・・・・
  それに、此処では「人本仏釈」ではなく「衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹」の方だと思いよりまっけどなぁ〜

123美髯公:2010/12/10(金) 13:05:54
  で、書き忘れたもんで、一点。
  「それを拡大解釈してしまった結果」ではありまへんでぇ、素直に読んでみなはれ。
  「衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹」と言う結果になりまっせ。

  ただ、「漫荼羅御本尊を迹門不変真如の理」と明言されたりした時、「本門随縁真如の智」は何かと言う事に関しては明言されておりまへん、
  逆もまたしかなりえおます。
  明言すれば、色々差し障りが出てきますよってに、後は各人察せよとの姿勢でおますわな。

125首都高バトル01:2011/10/23(日) 22:39:19
ご無沙汰してます。
この考え、どう思われます?

十界互具について
十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界より顕れ、対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。

十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。

働きを捉えることで、十界互具がどういうものか、見えてくる。

妙法蓮華経は、即これ十界互具である。

126首都高バトル01:2011/10/23(日) 22:40:52
認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。

十界互具についてこういう捉え方をする内容があるかを
あちこち見たのですがなかったものですから、お尋ねしました。

127美髯公:2011/10/25(火) 21:40:47
 おばんです!初めまして、首都高バトル01 はん。

 正直、言わはっとる事が、よォ〜理解出来てへんのんやけど・・・・一つ (^^;

 > 生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。

 【それぞれの境涯に応じて】とありますが【十界】そのものが【境涯】と違いますやろか?

128首都高バトル01:2011/10/25(火) 23:53:52
どうもです。
そうですね。
それぞれの十界の境涯に応じて、十如是が役割、働きを行う。

129首都高バトル01:2011/10/26(水) 00:46:30
これは、わかります?
・十如是(正確な言葉が見当たらないのですが、、、所、つまり依報の)を持って十界が顕現する。(言い換えれば依報を持って十界が顕現する)または、まわりの妙法蓮華経の姿を持って十界が顕現する。

・十界(それぞれの境涯が対処しようとする命)を持って十如是が顕現する。

いつも私が使っている例で、考えてみてください。

「 蛇に、にらまれた蛙 」
蛙は、瞬間的に依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、この場合は蛇ですが、
蛇の持つ特性と蛇がこれから蛙に向かって行おうとする一連の行動を見ます。
これが依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、十如是です。
蛙は未来に起こる一連の現象を見ます。(自分が食べられる姿を)
瞬間に心が出てきます。(恐怖の、、、この場合地獄界でしょうか?)
*十如是を持って十界が顕現する。

*十界を持って十如是が顕現する。
蛇と蛙の例で、これは想像してみてください。
蛙が何も出来ない場合は、身動きできず、地獄即地獄。
蛇は、空腹なら地獄即餓鬼。

十界互具が見えてきているように思うのですが、いかがでしょうか?

130美髯公:2011/10/26(水) 20:35:30
 おばんです、首都高バトル01 はん

 十如是が依報でっか?なら十界が正報? (^^;
 なァ〜んか、十界と十如是の関係の考え方が違うように思いまっけど (^^;
 極端な言い方を許して貰えば、十如是っちゅうのは、十界の付録みたいなもんでしゃっろう?
 所謂、本誌 (十界) があるよってに、付録 (十如是) があるみたいに。

 また、十界は項目で、十如是は、それの解説という事もいえるのと違いまっか?
 十界 (境涯) が決まる事によって、その境涯に応じた働き (十如是) が、あるのであって、
 働き (十如是) によって境涯 (十界) が決まるっちゅう様なことは、無いと思いまんけど・・・

131首都高バトル01:2011/10/27(木) 00:07:43
依報に存在する妙法蓮華経(十如是)の姿を五陰で認識し、それを持って境涯に応じた十界が顕現する。

心如工画師を思い出して下さい。

九界即仏界、仏界即九界は、真の十界互具の在り方。

これを言っておかないと単なる華厳の説明に終わってしまいますので。

言っていること、御理解していただけますでしょうか。

132首都高バトル01:2011/10/27(木) 00:22:30
斧さんところの創価王道で、
十界互具と十如是の説明をされ、十界互具は十界と十界に所と能の違いがあると言われおり、そこで終わっております。

その続きを説明しています。

133首都高バトル01:2011/10/27(木) 01:25:04
立て続けですみません。

御文に、
「釈尊五百塵点こうの当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」御書P513.
*本は、本地久遠元初。 *理は、難思境智の妙法。

この本理が本地難思の境智の妙法、即.事の一念三千であると言うこと。

134首都高バトル01:2011/10/28(金) 18:39:57
十如是を持って十界が顕現するを否定すると、
南無妙法蓮華経、御本尊を持って仏界が湧現することを否定することになります。
御本尊に(題目を唱えることに)より、自受用身できなくなります。

話は変わりますが、(というより変わっているようで続いています。)(体と用が倶体倶用であること、そして迹本不定へ。)

御義口伝、冒頭の帰命について、
なぜ色心が出てくるか、わかります?

この色心が、「 不変.随縁 」とは何かを指す、解くヒントです。
これがなんであるかわかると、本迹一致(本迹不二と言う言葉はありません。)ではなく、本と迹が不定(迹本不定)であることがわかってきます。(また説明します。)

前回の「十如是を持って十界は顕現する」は、
創価の出版物、書籍からの引用です。

その内容は、また書きますのでよろしくです。

135首都高バトル01:2011/10/28(金) 18:56:53
また
諸法実相抄の
「実相は南無妙法蓮華経の異名なり」の実相もこの不変真如にあたります。
またあとに出てくる本有は、随縁真如にあたります。

取り急ぎですみません。
続きは、またということで。 よろしくです。

136首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:42:42
・サイコロを転がすと毎回、目が数が違う(同じ数の時もある。)。(サイコロが止まった瞬間や、止まった時)

・生命は、たえず変化している。いま見た瞬間が次には、変わっている。転がしたサイコロのように定まらない。
そしてグ〜ルグル回っている。グ〜ルグルと。

・色心で見てみます。
生命は永遠不変であり、人間の生命は、肉体を構築し、肉体(妙法蓮華経の姿)に属します。
仏界は、心に属し、本門に有ります。また縁に随がい(御本尊、題目)、現れます。
生命も仏界も差別がなく、絶対であります。

その生命と心、仏界と肉体をグ〜ルグルまわり、一定にとどまらず、変化します。

・永遠不変の生命から縁に随がい心(十界、仏界)が現れ、その心が肉体を動かします。

・サイコロの目、数のようにある時は、永遠不変の生命のまま(ボ〜としているのかどうなのか?心が現れていない状態)。
またある時の一点をみると、心が肉体を動かしている状態。つまり不定。

生命とは、迹門不変真如。 仏界とは、本門随縁真如。
人が生きている限りたえず変化し、一定でない。

・依正で見てみます。
御本尊は、非情に属し、体は永遠不変の生命の冥伏した妙法蓮華経の姿というより、体は永遠不変の生命を保ち(冥伏し)ながら、仏界の生命が全面に出たまま、(ヒーローズのヒロ.ナカムラが時間を止めたそのままの状態)止まっている状態。

・とても失礼で申し訳ないのですが、
サイコロをふってみます。
御本尊は、不変真如から随縁真如、出現停止状態。我々は、その都度変わる、変化する。

・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。
随縁不変・一念寂照の御本尊。

・迹と本は定まらない。・・・迹本不定。

参考・・・御書P.708
御義口伝の冒頭の帰命についての所、参考にして下さい。

また御書P.239
有情.非情の所、参考にして下さい。

137首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:52:04
訂正
×出現停止状態
○出現して、停止状態

138首都高バトル01:2012/01/04(水) 23:16:18
2012年も 宜しくお願いします。

十如是を持って十界が顕現する。は、

以下の内容の中に書かれています。
(赤鬼さんの教学.十章抄でもその内容は見れます。)

「 十如是とは、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。

[ つまり諸法は必ず相、性、体…
如是本末究竟等の十の範疇をもって顕現する
ということが真実の相であると説いたのである。]

諸法とは森羅万象であるが、十界に収まる、とすると、
諸法実相十如是とは、地獄界、餓鬼界…仏界のどの界も、
平等に[ 十如是をもって顕現する ]ということであり、
十界が、現象として顕現した面では相互に差異があっても、
顕現する仕方、形式の面においては平等であるという真理が
ここに明たかにされたことになるのである。

その結果、[ 二乗も含めて一切衆生が、
仏と同じく十如是の法則に基づいて顕現している ]ことであって
成仏の可能性をもっていることが明らかになったのである。

このことによってまた、これまでの三乗を開いて一仏乗を明こすことが
仏の本意であるという開三顕一の法門がほぼ明かされたことになった。

ここから“略開三の十如実相”といわれているのである。

ちなみに、「広開三顕一」は、方便品の一大事因縁・開示悟入の説法が
それにあたる。

そこでは、はっきりと、釈尊が自らの出世の目的は衆生をして
仏の知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏知見の道に
入らしめるところにあることが宣言されたのである。

さて、十界の一切衆生が仏知見すなわち仏界を具えているということは
十界がそれぞれに十界を具えているということである。

ここから十界互具・百界千如の法理を天台大師は立てたのである。」

139eco ◆Smw69BiSBo:2012/06/09(土) 08:18:41
お初なのですが なんか風の便りで呼ばれてしまったので・・・・・

>>122
ブログで引用した「金沢講演」の資料は、昭和50年頃に発刊された小冊子のもので
その冊子自体 絶版になっているので もしかしたら「全集」の何処かにあるかもしれません。
掲載した理由は、御本尊のことで、2ちゃんでも あれこれともめていた時期だったので 当時、「参考」という形で掲載しました。


>>人本仏迹
「字」のことは無視してください(涙)・・・・

>>衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹
それを聞いて「自分が御本尊だ 俺が基準」と解釈して勘違いしてしまったのが・・・・(お察しください。)
ただし、彼には過去「金本位」と「通貨管理制度」の違いを比喩にして説明したことがありましたが
それがちょっと理解ができなかったようです。
ちなみに人本仏迹は牧口先生が用いた「価値論」で簡単に破釈ができてしまう 単純なものです。


もっとも・・・・ その背景には「記憶の干渉」や「伝言ゲーム」や「思い込み」等々 
心理的な要素の観点から さまざま角度でプロセス等がよみとれますが
いずれにしても 指導者の言は、無謬性などの働きにより 一種の権力にも陥りやすく
結果的には さまざまな人に「影響を及ぼす」ので 
だから人間革命の11巻では「トップに立つ人の言葉は重い」・・・と記したんじゃないでしょうか?池田先生?
・・・と「嫌味」も記しておきます。 あの対告は 自分に降りかかる事を考えず小泉(隆)さんに言い聞かせていたけれど
今でも ここ 最近の「新人間革命」や「指導」など読んでいても、結局は「他人事」の感覚でしか物事を書いていない。
そして「自分が一身になって・・・」と たとえ小説では綺麗ごとを並べて言い張っても 
現実問題 それらの責任はとっていないし 勘違いによる暴走の結果に対しては
フォローもできずに止める事ができていないし 結果的には無責任のまま・・・・・・

140見習い:2012/06/12(火) 19:26:21
 いらっしゃいませ、eco様 m(__)m
 管理人代理をやらせて貰っております、見習いと言います。
 久々のお客様、嬉しく思います。

 早速の書き込み有難く存じ上げますが、当掲示板には一応【自己紹介】と言うスレッドを設けておりますので
 そちらの方に書き込みいただいて後、本迹関連の部屋、口舌の輩の部屋、管理人室への書き込みをお願い致します m(__)m

145沖浦克治:2016/01/28(木) 06:58:59
 極めて基本的な大聖人仏法の道理を書いておきます。

 日蓮正宗と言う宗派は。戒壇本尊原理主義です。
 それはご勝手にどうぞ。

 ですが、アホなことを言い過ぎると愚かを晒しますので注意しましょうね。
 例えば、

 戒壇本尊にお目通りできななら、成仏は叶わない。

 こういう事は御書に欠片もございません。
 御書には明記されてあります。

 『第六此人不久当詣道場の事
 御義口伝に云く此人とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり、』
 (御義口伝巻下)

 これだけ具体的に書かれてあって、未だに、

 戒壇本尊にお目通りが〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

 ダメだ!!
 こりゃ〜〜!!

146沖浦克治:2016/05/22(日) 21:01:02
今晩は、皆様方。

 今朝仏間で唱題中悟りました。

 御本尊を拝むことは、大聖人個人を拝むのではない。

 一切衆生を拝む行為!!

 ご本尊の位置づけが凄くすっきり致しました。
 嬉しいです。

 創価学会に入会した時、御本尊は大聖人そのものだと教えられて来ました。

 寛師の六大秘法を創価学会も採用していたからです。

 その後、自分で御本尊は大聖人ではないと悟りました。
 然しながら常に位置づけに疑問がありました。
 御本尊は衆生己心の妙法を写し取ったものです。
 でもやはり曖昧さが常に残っていました。
 
 今朝突然唱題中に悟りました。

 御本尊を拝むことは、一切衆生に合掌礼拝の行をしていることなんだ。

 凄くすっきりしましたよ。

147沖浦克治:2016/05/25(水) 17:16:31
 よく思います。
 
 人生の幸不幸、成功不成功って何なんだろう??
 
 長いこと生きてきて悟ったことがあります。
 それは、
 
 少し満足できる人生を望むなら味方を作れば良い。
 
 最高の人生を歩みたいなら、憎まれることを恐れない勇気を持つ。
 
 気付くのに長いことかかりましたが、今は全く生き様に迷いがございません。

148備前 ◆TtzwqSGci2:2016/05/26(木) 00:42:13
 こんばんは、沖浦さん

 >>146

 > 創価学会に入会した時、御本尊は大聖人そのものだと教えられて来ました。

 そうですね、人法一箇の故と教えられましたね。

 しかし、生命論から見るとおかしな話ですよね

 万歩譲って、大聖人ご存命中なら通用したでしょうがねェ〜

149沖浦克治:2016/05/28(土) 07:04:04
 備前さん、おはようございます。

 御書には大聖人本仏論はありません。
 最初のお人だと明記されてあります。

 捻じ曲げたのが寛師。

 習いそこないですね。

150沖浦克治:2016/05/28(土) 07:06:22
オバマ大統領が広島で語られました。

 核兵器のない世界を作ろう。
 自分が生きている間に無理だとしても必ず作らねばならない。

 1957年9月8日の戸田先生の原水爆禁止宣言から59年・・・

 https://www.youtube.com/watch?v=au0rr5zPixE

 世界の指導者がこういう講演をするところまでやってきました。
 牧口先生、戸田先生がご存命であられたならば、どれほどかお喜びになられたでしょう。

 SGIと池田先生の不惜身命の戦いが時を呼び寄せたと信じる一人でございます。

151沖浦克治:2016/05/28(土) 10:15:46
戸田先生は池田先生に、

 自分が亡き後7年間で300万所帯達成。

 を御遺命なさいました。

 200万所帯と最初に言われ、直ぐ、

 『いや300万所帯だ。
 大作やれるか?
 急がねばならんのだ。』(趣意)

 と言われた意味が、このオバマさんの演説でよく理解できました。
 あの300万所帯の達成に人類の滅亡がかかっていたのです。

152沖浦克治:2016/05/31(火) 05:57:24
フェイスブックに今書きました。

 嫌われれる勇気、という本が出ているようです。
 
 もう、30年以上前の事です。
 演出家と二人で苦労して舞台をやっていました。
 その時演出家が聞きました。
 
 沖浦、お前どういう生き様したい。
 
 お答え致しました。
 
 舐められて可愛がってもらうより、恐れられて嫌われたい。
 
 二人で大笑いしました。
 今そういう人生です。 
 でもね、10年間悪口言い続けられたお方は信頼できます
 
 悪口は下から上に向かう傾向が強いのです。
 10年間悪口雑言の嵐の人は、誰も交代できない能力を持っておられます。
 火事場の消防自動車です 
 少々の事では存在を否定できません。
 
 『鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、』
 (日蓮聖人ご遺文)
 
 こういう人に私はなりたい・・・・・

153沖浦克治:2016/06/17(金) 04:35:38
 おはようございます。
 
 出発の朝となりました。
 7時12分のバスで新宿から成田。
 
 19日が本番。
 練習で何千回してきたことを大会でやるだけです。

 『勝ち負けは
    人の生命の
       常なれど
     最後の勝をば
        仏にぞ祈らむ 』
 
 戸田先生のお言葉を胸に秘め、戦って参ります。

154沖浦克治:2016/06/27(月) 07:58:47
 選挙で民進党へ入れた事を書きました。

 早速問題だとしてクジラさんの板で騒ぐ人がいます。
 以前、
 
 戒壇本尊本懐の邪義たること。
 興師の唯受一人を否定。
 曼荼羅は道具。

 だと書いた時も、同様の反応が激しく起こりました。

 真面目な創価学会員はそういう反応を致しません。
 反創価の人は反応します。
 何故か?

 困るからです。
 以前法華講の方々は、

 創価学会は破門であるから戒壇本尊からの功徳がない。
 唯受一人を嫡々一人として受け継ぐ猊下のご威光も及ばない。

 これが武器でした。
 私は根底から否定したのです。

 そんなの要らね〜〜。

 困ったでしょうね。
 ですので、あちらこちらで創価学会員に成りすまして私を激しく攻撃なさいました。
 次に法華講員の方々の攻撃は、

 創価学会員は聖教新聞を沢山とらされ、広布部員は何十万円と強制され、選挙になると全員が休む間もなく駆り出され、民音のチケットも無理やり押し付けられている。
 それで生活も苦しくてゆとりも全くない。

 こういうものでした。
 ですので私は、

 私は聖教新聞は家族で一部、推進はやらない、選挙活動は全くしなくて広布部員は一人一口、民音などは行ったことがない。
 創価学会関係でかかる費用は、交通費まで含め全部合わせても、年間に家族で4万円ほどしか使わない。

 と、事実をキチンと提示致しました。
 これは彼らは困ったでしょうね〜!

 これで法華講さん達の武器はもぎ取られてしまいました。
 その上、法華講さん達と仲良くなって一緒に写真を撮ってネットでドンドンアップ致しました。

 その効果も少々あって、最近は法華講さん方はめっきり弱くなってしまっています。

 クジラさんの所へ書いた人はその名残の方ですね。
 進歩のない人です。

155沖浦克治:2016/06/29(水) 15:14:25
下種仏法の血脈についてです。

 先ず、高僧から高僧へと伝授される血脈という思想は大聖人仏法にはございません。
 御書には明確に書かれてあります。

 『夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、』
 (生死一大事血脈抄)

 血脈とは南無妙法蓮華経そのものです。
 そして、

 『総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、』
 (生死一大事血脈抄)

 私どもが南無妙法蓮華経と唱える所がそのまま生死一大事の血脈です。
 何故ならば、一切衆生の命はすべて南無妙法蓮華経だからです。

 人が思考を重ね思索をし、突き詰めて行くと、最後は南無妙法蓮華経を悟ります。
 私どもの命はそういうふうに出来ています。
 ですので、

  何方か特別な一人が常に師匠の悟りを相伝して伝え広める。

 こういう思想は大聖人仏法にはございません。
 釈迦にもありません。

 釈迦は、舎利弗も須梨槃特も平等に教えております。
 特別な英才に後世の広布を託す、という方式は仏法にはございません。

 『所謂地獄の一人餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば一切衆生皆仏になるべきことはり顕る、譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し、』
 (法蓮抄)

 一切衆生を仏にするためには、あらゆる階層の一人を仏にすることが肝心だ。

 この観点は、一切衆生を平等に扱うことが基本です。

 『一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 この通りです。
 ですので、興師に限らず何方か特別な人が大聖人の後をついで法を伝えるという思想は初めからありません。

 最初から下種仏法の血脈は断絶することがありません。
 衆生が一人でも生きている限り、その方の命には下種仏法の血脈である南無妙法蓮華経が息づいております。

156沖浦克治:2016/07/21(木) 08:06:13
 今時こんなことやってるようじゃね〜〜

 http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20150522-001.html

157沖浦克治:2016/08/06(土) 07:07:02
71回目の広島原爆の日。

 謹んで犠牲になられた方々の追悼を致します。

 南無妙法蓮華経・・・・

158沖浦克治:2017/01/05(木) 04:56:14
 創価学会仏、と私どもが未来の経典に書かれる。

 創価学会は公式に見解を出しました。
 ここで考えられることは、その時点では創価学会は存在を止めていると云う事です。

 運転手と云う職業がありますが、近い将来自動運転技術が円熟し普及するなら無くなります。
 自動車運転教習所も消滅致します。

 太陽光発電が進化し、蓄電池も桁違いに良くなり、インホイールモーターなどの先進技術が当然になると、ガソリンスタンドは要りません。

 以前、大きな企業には電話交換手が普通にいましたが、今はそう云う職業がありません。

 日蓮思想が世界の思想の根底に座る日は、創価学会が不要になる日です。

 既に創価学会は指導主義を止め、励まし主義になっています。
 それでないなら存在できないからです。

 近い将来、アメリカ市民が教会へ行くような信仰のやり方が、創価の信心の主流になるでしょう。

 宗教活動と日常生活の境が無くなるのです。
 当然、選挙戦を組織でやることも無くなります。

 良い悪いではなく、時代の要請です。

 私は創価学会員としての最後の世代の闘いを経験致しました。
 福運があったと感謝しております。


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