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本迹関連の部屋
1
:
美髯公
:2009/07/18(土) 14:25:22
「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も
こちらで、お願いいたします。
話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m
20
:
taka
:2009/11/11(水) 16:16:27
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門 の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?
21
:
美髯公
:2009/11/12(木) 15:35:28
おや、「幸」の常連のtakaさん?
おはつでんなァv(^^、こないな辺境な板まで巡回されておますのか?
今後とも、この板盛り上げてやってな。よろしゅうに
23
:
taka
:2009/11/12(木) 19:57:07
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門 の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?
24
:
美髯公
:2009/11/13(金) 12:34:26
>>22
おはつでおます。無名人はんm(__)m
チクッと、お尋ねいたしますが この
>>22
っちゅうのはミスリでっか?
それとも、ワザと、でしゃろか?ミスリなら管理人はんに削除要請を
出そうか思っとりますよってに。どないなんでしょ?
25
:
無名人
:2009/11/13(金) 17:52:11
ごめんなさい。ミスです。
26
:
taka
:2009/11/13(金) 17:58:07
美髯公さん
沖浦さんをここに呼んでくださいませんか。
27
:
美髯公
:2009/11/14(土) 11:04:10
というこで・・・・・と思ってたら、早ァ〜削除されとりますがなァ(^^;
手際よい処置、お手数かけよりましたm(__)m
>>26
おはようさんです、takaさんm(__)m
ヘッ!(゚o゚; なして、そうなりますねん(^^;ゞ
と言う、弄りは止めときまっさ(笑
一応、メ−ルは打っておきましたが、条件は「手隙な時」と
入れておりますよってに、焦らず気長に待ちまひょ。ねv(-_^
28
:
taka
:2009/11/14(土) 18:01:37
ありがとう
29
:
沖浦克治
:2009/11/15(日) 21:44:49
takaさん
やって来ましたよ。
本門と迹門は私は意識していませんね。
どっちが目的に適うか?
どっちが手段か?
こう言うたてわけが主ですね。
30
:
taka
:2009/11/16(月) 01:59:40
沖浦克治さん
私の拙い教学力での質問ですが。
目的が本、手段が迹。とのことですが、世界平和が本、広宣流布が迹でいいのでしょうか。
31
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 06:42:47
広宣流布は民衆救済が目的ですね。
世界平和はそのための必須条件です。
すると、広宣流布の中に含まれます。
ですので、広宣流布が本で世界平和が迹となります。
然しながらこれは立場と見かたで反対になりえます。
平和が欲しくて信心する国民が多数いれば、そこでは平和が本で広宣流布は迹になります。
法華経の本迹は絶対的な真理での優劣です。
多くの人はこの本迹に惑わされています。
真理は価値ではございません。
認識の対象です。
牧口先生は真理を価値から外されて、利益を入れられました。
どっちが利を生むか?
創価の価値観ですね。
すると、爾前経で救われる衆生がいるなら、その衆生はその教えが本です。
後の教えは全て迹です。
ニュートン力学より、相対性理論が真理として優れます。
然し私共の生活はニュートンで問題ありません。
ですので、相対性理論は真理として優れていても、一般化致しませんね。
同じ理屈です。
32
:
taka
:2009/11/16(月) 14:10:29
沖浦克治さん ありがとうございます。
広宣流布と世界平和の、本迹の関係理解できます。つまり、「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」という考え方がありますが、その考え方でいいのでしょうか?
それから「法華経の本迹は絶対的な真理の優劣です」と言われるのはどういう意味でしょうか?
是非教えてください。
33
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 17:25:00
taka さん
爾前経では、釈迦は弟子達に言うんです。
お前達とはこのインドではじめて会ったんだ。
そして今化導をしている。
それが、法華経迹門では、三千塵点劫と言う大昔に、お前達と私は一緒に修業したんだ。
その縁で自分はインドに生まれて仏になった。
そしてお前達を化導している。
と、過去世からの弟子達との関係を明かしました。
本門では、それを否定して、自分はインドに生まれる前から仏だったんだ。
五百塵点劫と言う物凄い昔に実は仏になった。
その後あらゆる娑婆世界で説法教化してきた。
その時お前達もズート教えて来たんだよ。
と、自分がインドで仏になったんではなくて、遥か以前から仏だったと明かすんです。
始成正覚を破るといいます。
始めてインドで正覚(正しい悟りで成仏を示します)を得た。と言う立場を破ったんです。
それまでは、インド応誕の釈尊と言って、インドで生まれてインドで修業をして、インドで仏になった釈迦。
ところが本門寿量品では、インドに生まれる遥か昔から仏だった。
すると、16歳で出家して、30歳で明の明星が光る瞬間悟りを開いて成仏したのは一体なんだろうy?
こうなりますね。
だって、インドに生まれる以前から仏だったんですから、30以前も当然仏じゃないですか。
でも、30歳以前と以後では全く違う立場なんです。
現実にはそうなんですよ。
以前は法は説けません。
以後は仏法を説きます。
この差は何か?
30歳で思い出したんです。
悟りは、俺は元々仏だったんだ。ですね。
すると、一切衆生も忘れているだけじゃないなのかな?
と言う可能性が出ます。
でも、釈迦はここまでなんです。
その後は大聖人様の法になります。
ここまでおわかりいただけましたでしょうか?
34
:
taka
:2009/11/16(月) 17:51:50
沖浦克治さん
解ります。何度も、教学試験で勉強してきました。
つまり、「如我等無異」をおっしゃりたいのですね?
35
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 21:51:31
takaさん、今晩は
如我等無異ですね。
元々人は仏様で大聖人様と何一つ変わりがないのです。
ですが、借りにこの世ではさまざまな姿と境涯を現じています。
こう言うと、元々仏なら、仏道修行はいらない。と、文句を言う人が必ずいます。
人は人として生まれますが、キチンと人間社会で育たないと人にはなりません。
同じくチンパンジーを人間と同じ環境で育てても、人にはなりません。
元が猿ですから。
人が成仏すると言うことは、元が仏だからです。
御書には、日蓮が弟子檀那等。と書かれてあります。
日蓮だけで言い場面でもしばしば出ますね。
仏様の慈悲、如我等無異が顕れたお言葉です。
36
:
taka
:2009/11/17(火) 11:05:32
沖浦克治さん
「人」と「仏」が、「如我等無異」であることを「本迹」で理解するのは、少し無理があるのでは?
私は、「人」と「仏」が、ともに「本地」は同じで、この地に「垂迹」したと解釈していますがいかがでしょうか?
37
:
沖浦克治
:2009/11/17(火) 17:17:00
takaさん
仏と衆生の本迹は一つではないのです。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
(御講聞書)
最初の御文は、人は迹で本は仏。
後のものは、反対ですね。
どうしてでしょうか?
38
:
taka
:2009/11/17(火) 23:56:01
沖浦克治さん
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』 (百六箇抄)
下種…下種仏法
寂照…悟りの境地
実事…真実
体用…体は法の本体、実相。用は、体にそなわる働き。
無上…最高・最上
生仏一如…「生」は迷いの衆生、「仏」は悟りを得た仏陀の事、「一如」は全く等しく差別がないこと。
事…事相・事法のこと。理に対する語。
本覚…本仏の正覚
通解;下種仏法における真実無上の悟りの本迹は、事の上での生仏一如であるという悟りである。それは「本地は仏」であり、「垂迹は人」である。
『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
(御講聞書)
本末究竟等のこと。相・性・体は凡夫の姿であるが、南無妙法蓮華経の実践により、用である、力・作・因・縁・果は仏になる。
すみません、日ごろ馴染のない御書なので、かなり、己義を交えてしまいました。教えてください。
39
:
無名人
:2009/11/18(水) 11:54:55
沖浦克治さん
最初の御文は、人は迹で本は仏。
後のものは、反対ですね。
どうしてでしょうか?・・・・・・・
「私の己義」をあえて言わせてもらえば、この2文に矛盾はないと思います。
「法性の淵底・玄宗の極地」が地涌の菩薩の住所であり、目指すは、「九識心王真如の都「です。
御本仏日蓮大聖人が凡夫の姿でこの娑婆世界にお生まれになり(本迹)、我々弟子とともに目的地まで進んでいく(本末)。
だけれど、勿体ないことですけれども、この世に、「仏・菩薩」が存在しなければ、「悩める衆生」は、成仏しない、又「悩める衆生」がいなければ、「仏」の存在意義がない。まさしく、「仏の使命は、衆生救済にある」と。沖浦さんは、仰りたいのだと思うのですが、いかがでしょうか?
私も、そう考えます。
40
:
沖浦克治
:2009/11/18(水) 23:05:16
人と生まれるのは仮の姿で、本地は仏だ。
こう、考えると人が迹仏が本。
ですね。
然しながら、仏は人の幸福のために法とを説きに出現する。
この捉え方では人が本、仏が迹です。
捉える側のスタンスの相違です。
ですから、どっちでも正解でしょう。
要するに、
一切衆生の本地は仏で、あらゆる仏達はそれを気付かせる為に出現し法を説く。
これをキチンと理解すればいいのだ思います。
41
:
taka
:2009/11/19(木) 21:23:18
沖浦克治さん
ここまでは、分かったような気がします。
ここでは、「仏」と「人」の二つに分けての本迹ですが、「仏」にも、優劣といいますか、上下はないのでしょうか?
もちろん、「人」にもですが?
42
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 07:15:54
あると思いますよ。
あくまでも現象面ですが。
どの仏も全て南無妙法蓮華経如来ですね、本地は。
私共も同じです。
本地は差別が全くありません。
然し現実社会では差別があるでしょう。
お金持ちだったり、貧乏だったり。
持てる人持てない人。
天才と鈍才。
一杯あります。
でも、これは世間と言う所での仮の姿ですね。
経文にはとあります。
方便で死ぬ、ですから生きるのも方便です。
生死不二が仏法ですから。
ですので、この世の姿は全て方便です。
生きても方便死んでも方便。
本地は南無妙法蓮華経如来。
この世の姿がそのそれぞれの命の垂迹。
優劣も上下もあっていいんじゃないでしょうか?
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
この御文をお互いに思索致しませんか?
43
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 07:17:35
抜けていました。
経文にはとあります。〜経文には方便現涅槃とあります。
44
:
taka
:2009/11/20(金) 19:36:05
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
久遠自受用報身の本迹…本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮=日蓮大聖人
男は本女は迹知り難き勝劣なり…勝劣などあってはならない
能く能く伝流口決す可き者なり…伝えていきなさい。
通解;我々大聖人門下は、男女の差別、勝劣は一切ないということを、伝えていきなさい。(迷約)
申し訳ありません。「百六箇抄」に関しては、全然参考書もなければ、先生の指導も私の周りには見当たりません。ゆえに沖浦さんとの対話が成り立たないのではないかと思われます。よろしく御賢察ください。
45
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 22:44:37
この御文は、男が本で女が迹だと言われているのではないでしょうか?
然しながら、勝劣は知りがたい。
若しくは非常に知る事が困難だ。と、仰せでないかとおもうのです。
同じく男女の立場の同位性を説かれた御文があります。
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、』
(諸法実相抄)
ここでは男女差別を否定なされておられますね。
すると本迹が勝劣とイコールでないと考えられませんか?
46
:
taka
:2009/11/21(土) 10:34:07
沖浦克治さん
「男が本で女が迹」が解りません。詳しく教えてください。
47
:
大河
:2009/11/21(土) 14:07:59
横レス失礼します。
>>46
takaさん
昔、大白蓮華に「百六箇抄講義」が掲載されていたことを、某板、某HN氏の書き込みで
読みました。さて、本になっているのでしょうか?
本があるといいですね。
池田先生の御義口伝講義に少しだけ記載されています。
takaさんは、ホームにしている掲示板上で御義口伝講義を所持と書かれておりましたね。
ですから、詳細に書く必要はありませんので、該当箇所だけ書きます。
「また、これは甚深の法門になるが、日蓮大聖人も、釈尊も男であり、天台、伝教も男である。創価学会会長も男であり、経文の「福徳智慧」の定義に照らしても、
又「百六箇抄」の「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり」との御相伝を拝しても
それは当然の道理である。」
尚、場所は、「普門品五箇の大事・第四・二求両願の事」
多少ご参考にしていただければ幸いです。
48
:
taka
:2009/11/21(土) 17:05:45
大河さん ありがとう
49
:
taka
:2009/11/21(土) 22:04:45
沖浦克治さん
大河さんのアドバイスで、今勉強中。
「勝劣」でないことは、分かりますが。「本迹」が理解できそうで頭の中で整理できません。
50
:
taka
:2009/11/22(日) 18:23:52
沖浦克治さん
分かったような気がします。間違いを、恐れずに申しますと、”男””女”を固定的に考えるから分からないのであって、”男的個性(性質、役目)”女的個性(性質、役目)”と解釈すれば、「本迹」が理解できるのですが、いかがでしょうか。
51
:
大河
:2009/11/22(日) 19:33:14
>>50
>男的個性(性質、役目)”女的個性(性質、役目)
先生の著書で読んだ記憶があります(これは確実で出典は出せます)
永遠の生命のうえで、来世に「男」に生まれるも、「女」に生まれるのも
あり得る、どちらの可能性もある、と、書いてありました。
何かヒントがありそうですね。
ただ、私は、「本迹」は勝劣であることを、疑いません。
男は本、女は迹、これについて
今、100パーセント解らなくても、必ず理解できる時が来ると
信じていますので。
でも、研鑽、探求することは素晴らしいと思います。
52
:
沖浦克治
:2009/11/22(日) 20:18:36
男か女かは命の本質ではありませんね。
今の世で男でも、次はわかりません。
ですので、その差別は方便ですね。
ですから、本迹と勝劣、共にこの世の方便です。
男が優れ、女が劣る。
これは仏法ではないでしょうね。
53
:
大河
:2009/11/23(月) 09:27:53
takaさん
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
については、「勇気・前進♪♪今日より明日へ」掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/study/9219/
鬼さんが、「解からない事聞きましょう」スレッドで、今夜にも書いて下さるらしいです。
注目ですね。
それから、「幸の架け橋」掲示板の「麦の信行学」スレッドでも、白麦さんが
ご自分の「考察」形式で、書いています。なかなか、内容が濃く、読み応えが
あり、今回の「命題」も、早くも取り上げています。
参考になると思います。
それからですね、昨年来、沖浦氏の「己義」が問題になったのは
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」を、執拗に主張し、今でも主張していますが
これは明確に「邪義」であることは、多くの人が破折し尽くし、その頂点は
http://www2.ezbbs.net/33/amagian/
天城五兵衛氏の、統一された論文です。
一読の価値あります。
54
:
taka
:2009/11/23(月) 12:36:39
沖浦克治さん、大河さん
私は、「勝劣」と「優劣」を混同していたように思われます。
男女の「本迹」に勝劣はあるけれども、男女の「優劣」はない。
いかがでしょうか。
55
:
大河
:2009/11/23(月) 15:49:23
>>54
takaさん
唯一の手掛かりは、先日紹介しました「御義口伝講義・普門品五箇の大事・第四二求両願の事」だけです。
あらためて熟読してみました。そして整理してみました。takaさんは所持されているので
簡略化しておきます。
「求女とは世間の果報」・・・・女の子を産みたいというのは「世間の果報」を求める心である
世間の果報とは、女性は現在自分が置かれている立場での、安穏な幸せを求める。
保守であり、消極性であり、受け身である。(多くの女性は当てはまりますね)
求男とは出世の果報・・・・経文に「福徳智慧」とあるごとく、男は、智慧と福運を
もって未来を切り開いていく逞しい力が無くてはいけない。
出世とは、自分一個でなく、対社会であり、狭い枠を打ち破って前進していく
積極性と考えられる。
「求女の徳」・・・現世安穏、現実生活の幸福
「求男の徳」・・・後生善処、すなわち福運と智慧をもって、いかなる事態をも
悠々と乗り越えていく力、永遠の幸福境涯、
この「求男の徳」は、創価学会の女性会員も、当たり前のこととして確信を掴んでいますよね。勿論、男性会員も当然ですが。
でも、日蓮仏法を知らない、男性は「求男の徳」は、ありませんね、一般的には。
もちろん、日蓮仏法を知らなくても、「求男の徳」を有している立派な方は、
たくさんおりまして、特に先生と対話をされている世界の識者(男女共)などは
仏法を知らずとも、自然に価値観を同じくしています。
「求男の徳」と「求女の徳」との対比であれば、「勝劣」は認められそうですね。
何故ならば、この仏法を創価学会の中で学び、多くの女性が確かなる価値観「求男の徳」
を得ているわけです。それまでは、低い劣った価値観(思想)で生きていたわけですから。
大聖人の仏法が、法門上、最高だからであって、
「久遠自受用報身の本迹」と、ありますね、このへんは、ポイントかなと思いますが
今は確かなことは書けませんが。
「求男の徳」という点では、既に、創価学会員の男女では男女差は無く、むしろあるとすれば
「個人差」ですね。
56
:
沖浦克治
:2009/11/23(月) 20:13:00
勝劣と、優劣はほとんど同じ意味じゃないでしょうか。
takaさん
57
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 08:29:30
本迹を整理しておきましょうね。
先ず、ここにAさんと言う衆生がおられる。
この人は、仮の姿で人間で凡夫なんです。
では、この世で悩み苦しみながら生きているこのAさんの、本当の姿、本地って言うのは一体なんだろう?
ソクラテスの言う、汝自身を知れ。
の、汝自身が本地ですね。
池田先生が、今月号の大白蓮華御義口伝講義で明快にお答えです。
『汝自身とは、一念三千の当体、尊極無上の仏の生命なのです』
はっきりしているでしょう。
Aさんの本地は久遠元初からの仏です。
御書にもあります。
『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
(御義口伝巻下)
書いてありますよ、これを信受するだけでいいんです。
これも、先生のご講義に書かれてあります。
ところが、これを信受されると困る人がいます。
僧侶と言う職種の人ですね。
いいや、これは大聖人様だけなんだ。
他の人間は違う。
そうして置かないと、自分達の優位性は崩れます。
日蓮正宗と言うところがそれで、寛師と言う人が始めた邪義です。
ところが、御書にはそうは書かれていません。
『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
(御講聞書)
この通りですね。
先生がそう仰せで、御書にもその様に書かれてある。
信受すればいいのです。
そうすると、Aさんは垂迹で人なんですよね、現世では、
本地とは本の事で、仏。
迹は垂迹で、人。
御書にもそう書かれています。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
大聖人様の文底下種から見れば、衆生と仏が一如(不二)の立場では、人としての姿が垂迹で、久遠からの仏である事が本地で本。
このように仰せです。
59
:
taka
:2009/11/24(火) 18:30:13
沖浦克治さん
理解できます。
「勝劣と、優劣はほとんど同じ意味」を、詳しくお願いします。
60
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 19:24:57
勝とは、優れるの意味を含むでしょう。
優とは、勝るの意味を含みますね。
ですから、そんなに違いは無いと思うのです。
61
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 19:27:08
takaさん、今からお題目の時間ですので、又後ほど。
62
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 21:06:12
今度は、仏と衆生の本迹を考えます。
個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間。
娑婆世界は、この垂迹の人間が集まる世界ですね。
そして当然自分が仏である事は忘れ去っています。
だから不幸が起こります。
救済のために仏が出現して法を説き広めます。
この法を説く仏も、救われるべき衆生も、本地は全く同じ仏です。
仏は自分が仏と悟っている、衆生は忘れていて迷いの状態。
『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
この通りです。
すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。
仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。
こうなります。
現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。
63
:
taka
:2009/11/25(水) 15:19:32
沖浦克治 さんが言われているのは、「本迹一致説」ではないですよね?
「本門」と「迹門」には勝劣があります。これは間違いない。
「本地」と「垂迹」には勝劣はあるのでしょうか?
「本地・垂迹」は同一人ですよね?
同一人だから、勝劣はないと思われますがいかがでしょうか?
「発迹顕本」はどう解釈されますか?
すみません、何となく理解できてるようなのですが、「もやもや」しています
64
:
沖浦克治
:2009/11/25(水) 17:21:19
takaさん
少し難しく考えすぎでしょう。
同一人物での勝劣は常にあります。
今日は1時間唱題するぞ!
で30分で終われば負け。
やれば勝ち。
全てに勝劣はあります。
発迹顕本は本地を顕すですが、本地が優れ、垂迹は劣るでいいんじゃないですか。
65
:
taka
:2009/11/26(木) 13:05:46
沖浦克治 さん 理解できました。 次の、
「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。
こうなります。
現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」を、
詳しく、教えてください。
66
:
taka
:2009/11/26(木) 18:45:29
沖浦克治さん
『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)(御書p567・4行)
通解; 総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。
講義; 一大聖教は「我身一人の日記文書」で生命のありようを説き明かしたものであり、この自己の本体を徹底的に悟りきわめたのが仏である。
このことは華厳経が説いている通りであるとされ、この自己の生命と宇宙万象との一致を明かした止観輔行伝弘決の文を挙げて、自身を知ることは宇宙万象をも知ることであると教えられるのである
「すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。」 解ります。
「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。」 ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?
「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。
以上、私の拙い解釈をしてみました。よろしくご指導ください。
67
:
沖浦克治
:2009/11/26(木) 19:48:31
takaさん
>仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。」 ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?
即はイコールではありません。
即は精進行であるお題目です。
『昼夜常精進 為求仏道故
此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。』
(御義口伝巻下)
衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです。
人が人本来の能力を発揮するには、教育が必要でしょう。
同じなんですよ。
ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
導かれる側が衆生。
衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
何のため。が本で目的なんですよ。
>「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。
人は元々南無妙法蓮華経の当体ですね、ですので人法一箇です。
本迹とは異なる観点です。
68
:
大河
:2009/11/27(金) 00:32:30
>>67
> ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
> 導かれる側が衆生。
> 衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
> 生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
> 何のため。が本で目的なんですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国民(民衆)の幸福が本・国家(政治体制等)が迹
こういう指導は先生のスピーチにあります。
その例でいけば、
宗教組織(教団)のケースは
会員(信者)の幸福が本・教団組織は迹、・・は成立しますね。
>>生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
教育とは生徒の「幸福」のためで(目的)、教師は「環境」の最たるものです。
69
:
沖浦克治
:2009/11/27(金) 07:36:22
あのネ、大河さん、
申し訳ないですが、邪魔なんですよ。
72
:
taka
:2009/11/27(金) 19:24:22
大河さん
私は、あなたに対して、特別な感情は、有りませんが、今、沖浦さんと、
真剣に、対話をしています。沖浦さんが邪魔だと仰るのですから、ご遠慮ください。
それから、自己紹介の件、私がうっかりしていました。美髯公さんとは、無二の親友なもので、
すみません。
73
:
taka
:2009/11/27(金) 23:06:27
沖浦克治さん
大聖人の仏法は、人法一箇ですね。釈迦仏法は、人法勝劣ですね。
大聖人の仏法は、但信力のみですね。釈迦仏法は、歴劫修行ですね。
「衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです」とは、
沖浦さんがの仏道修行の程度はよく分かりませんが、精進行だと私も思います。
精進行については、もう少し考えてみたいと思いますが。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」
私は入信以来疑ったことがありません。おかげで、何不自由のない生活をさせていただいております。
「無疑曰信」こそ成仏の要諦だと思うのです。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。「根本尊敬」の存在だと思っています。
つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。
私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」を、迹(手段)と言えるのは、御本仏以外にないと思います。
「創価学会」「三代の会長」を、迹と言えるのは三代の会長以外にないと思います。
私たちが言えるのは、友人と仏法対話をする時、その時は、友人は「本」で自分は「迹」と言えるのではないでしょうか。その時、友人が衆生で、自分が仏だとおもいます。
しつこいようですが、弟子の立場で、師匠が「迹」というのは、どうも不自然だし、あるべき姿ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
74
:
沖浦克治
:2009/11/28(土) 07:21:44
takaさん、おはようございます
>「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。
物凄く間違った考えですね。
一見正論と間違う所が非常に危険です。
紛然ですね。
手段なんですよ。
先生のご指導です。
『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。
諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
ですから独裁はありません。』(取意)
本果妙が迹で、本因妙が本。
こうなりますね、ですから弟子は本で師匠は迹になります。
これと、根本尊敬とは別のお話です。
いくら何方かを根本から尊敬し南無しても、主体は自分ですね。
取って変わることも、変わってもらう事も出来ません。
依正でわけるなら、正報が自分でその他は全て依報です。
依報が主体になる事はありません。
我思う故に我あり。
シベン哲学の最高峰ですが、仏法はこの、思っている我を、我即如来。と説き明かします。
思う自分がこの世になければ、一切は自分に取って存在しません。
あくまでも、全ては自分が中心。が仏法です。
良いことも、悪いことも、一切が自身の命の中から起きている。
内道と言います。
師匠に南無して根本尊敬だから、価値判断は一切お任せします。
外道の見本です。
弟子がね、勝手に一切を師匠に寄りかかって、広宣流布できますか?
師匠は迷惑ですよ。
何故そう言う発想になりませんか?
『仏法者は、独立した自由人です。』(取意)
こうあるべきなんですよ。
>「根本尊敬」の存在だと思っています。
つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。
『答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、』
(本尊問答抄)
本迹論じて生き残れないようなものは、拝んじゃいけませんよ。
無疑曰信を勘違いされていますね。
『疑って、疑って、疑いぬいて、それでも疑い切れなかったから信じる以外にない。
無疑曰信とはそう言うことなんです。』(取意)
池田先生です。
信の入り口は常に疑いなのです。
そして、信を深めるものも、やはり疑いです。
動執生疑があらゆる信の入り口で、深めるきっかけです。
私は、かって池田先生を疑いました。
書物も、音源も全て捨てました。
でも、疑い切れずに帰ってきたんです。
疑う以前の先生への気持ちと、現在。
現在が何百倍も強いです。
疑えない人に、真実の信はないでしょうね。
『なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、』
(開目抄下)
いくらでも疑って見ろ!
信じさせてやる!!
私にはこのように読めます。
>私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。
いいえ、論じない人は弟子の資格が無いと思います。
盲信は弟子の道じゃありません。
75
:
taka
:2009/11/29(日) 23:13:37
沖浦克治さん
『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。
諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
ですから独裁はありません。』(取意)・・・・・・・
この指導で私が感じることは、「本因・本果」と「本・迹」は別の観点で論じなければならないと思います。
「本因・本果」は、師弟、指導を教えられているように思います。
「本・迹」は、仏が、衆生に本地を悟らせるための方便と言えるのではないでしょうか。
つまり、仏が、衆生に、「迹」を通して「本」を教えている。あるいは、悟らせようとしている。そう思います。大聖人のご一生を、学ぶと、ありありと分かります。
池田先生も、然りです。
沖浦さんの「本迹論」の展開は、ほぼ、間違っていないと思います。
只、日蓮大聖人の仏法においては、弟子の立場からは「本迹」は必要ないのではないかと思います。だって、信じさえすれば、瞬時に、やすやすと仏になれるのですから。
例を挙げますと、沖浦さんが仰っている、「衆生が本、漫荼羅が迹」――これは、日蓮大聖人が、弟子のために、末代の幼稚の頸に、かけてくださったわけですが、弟子である私たちは、「日蓮大聖人の魂」であると拝すべきだと思います。
76
:
taka
:2009/11/29(日) 23:15:49
沖浦克治さん
私の信心は、“盲信”ではありません。
“盲信”では、40年以上信仰を貫くことはできません。
入信以来、勤行・唱題・20分の教学を欠かしたことはありません。、
(だからといって、御書講義がやすやすとできる能力があるわけではありませんが)
私の信仰は、日々の積み重ねで今日があると自負しています。
朝晩の勤行の際、池田先生の導師で、大聖人を仰ぎ、決意・報告等を行っています。だからでしょうか、何時間でも、心ゆくまで唱題をすることができます。
御書は、日蓮大聖人のお言葉として、お手紙として、自分の身に当てはめて、そのまま拝するようにしています。
私の人生は、沖浦さんに負けないくらい、波乱万丈でした。
大病(がん)で生死の境をさまよったり、経済的にどん底をはいずりまわったり、だけど一度も師匠を疑ったりしたことはありません。それはそれで、良い思い出になりました。
体験を言っていたらきりがありません。
77
:
taka
:2009/11/29(日) 23:16:50
沖浦克治さん
弟子は、師匠の言われたことを、一言一句もらさず、100%実現するのが使命です。
日興上人、戸田先生。池田先生のご一生を学べば解ります。
私が申し上げたいのは、「この人は私の師匠だ」と決めるのは「弟子」だということです。
だから、決める瞬間の条件としては、「師匠は絶対である」ということではないでしょうか。
「師匠のために、一生を懸けても悔いはない、命も惜しくない」
「師の理想を、命を懸けて実現させるのだ」
私は、身近な、池田先生の振る舞いから学びました。
翻って、師匠の立場から学ぶことはなにか。
師匠である日蓮大聖人のご一生は、一切衆生のため、弟子たちのため、古今東西の思想・哲学を、駆使して、命を懸けた戦いでした。それは、弟子たちに、「本地」を悟らせるためでありました。
池田先生も然りです。
つまり、「本迹」は、師匠の立場で、表現するものであると思います。
私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。
原田会長は仰いました。
「池田先生にまなび、池田先生のごとく」と。
78
:
沖浦克治
:2009/11/29(日) 23:41:48
>私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。
では、対話を終了いたしましょう。
もってのほかの方と対話をしても平行線です。
貴方は貴方のお立場、私私のスタンス。
それで良いと存じます。
79
:
管理人
:2009/11/30(月) 05:29:05
心の師となるとも心を師とせざれですね。
80
:
沖浦克治
:2009/11/30(月) 06:59:48
管理人さん、おはようございます
対話は大切です。
ですが、自分が絶対だと思ったらもう対話ではありません。
私は大聖人様とご本仏と信じ、池田先生を師匠と仰ぎます。
ですが、それを他人に押し付ける事は絶対に致しません。
私の生き様をみて、世間様は、創価学会も、大聖人様も、池田先生の事もご判断なされる。
だから無様な人生だけは絶対に生きないぞ!
このように、言い聞かせて生きております。
もとより私は非常に軟弱で、臆病で、だらしの無い、ルーズな人間です。
ですので、常に自分に言い聞かせないとあっと言う間に堕落致します。
そう言う人間が、他人様に創価を開くには、人生で勝ち上がる以外に無いと思っております。
本迹や因果、総別や本末などは、人生に勝手こそ生きる理屈でしょう。
ところが今、ネット上げて大騒ぎしている。
私はこの惑耳驚心が、非常に滑稽に感じます。
功徳さえ受けているなら、笑いながら堂々と対話が可能なのです。
ところが、ほとんどの人は、罵りしか返らない。
功徳のない人生です。
決めつけは、堕落の始まりですね。
81
:
taka
:2009/11/30(月) 09:14:56
沖浦克治さん
それでは、仕方ありません、またの日を楽しみにしています。
色々有難う御座いました。
82
:
美髯公
:2009/11/30(月) 12:50:56
沖浦さん、taka さんお疲れ様でした。
結局の所、お2人の立ち位置の違い(「本迹」の捉え方)ですね。
それがお互い解かっただけでも収穫でしょ。
たった、一度の対話(テキストのみの)では、理解は出来ても納得までは
中々難しいですよね。リアルの対面対話でさへそうそう簡単には
いかないのですから
またの、お2人の対話期待しておりますm(__)m
83
:
沖浦克治
:2009/11/30(月) 13:34:04
takaさん
よろしければ私の掲示板で続きをやってもいいですし、貴方が、もってのほかと言うご意見を取り下げていただけるなら、対話を再開いたしますよ。
いかがでしょうか?
決め付けてしまうと対話にはならないと思うのです。
84
:
taka
:2009/11/30(月) 17:18:57
沖浦克治さん
あなたがいわれいる「本迹」は、「師」である立場(大聖人)においてはその通りだと思います。
それを、弟子の立場で、そのことを、「本迹」として、とらえたり、活用してはいけません。
あなたは、「本迹」を展開しすぎです。どこやらの、『ノラ』さんがいっている、ねつ造でも、ましてや、あなたは、『邪師』でもありません。
そのことだけは言っておきます。
85
:
沖浦克治
:2009/12/01(火) 09:01:11
taka さん、おはようございます、そしてありがとうございました。
最後にですが、池田先生が、かって、観心の本尊について述べられました。
正確な音源が私の家にございます。
来年、時期を見計らって、私のと頃で聞く会を致します。
多くの方々にご確認をいただく予定です。
『観心とは信心と訳します。
我が心の仏界を観じる。
私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。
だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)
86
:
taka
:2009/12/01(火) 11:08:40
沖浦克治さん
しばらくご無沙汰します。
光線さんの好意で、「百六カ抄」を勉強しようと計画しております。
それが終わった時点で、また、考え指してください。
87
:
沖浦克治
:2009/12/02(水) 07:51:16
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』
(日女御前御返事)
広宣流布の旗印だと仰せですよ。
シンボルで道具ですね。
書き顕されたご本人様が仰せです。
これを素直に信受する。
我見はいりません。
そしてね、ご本尊様に関して先生のご指導です。
『戒壇様って言ったって誰も拝まなければお力は出ません。
ただの物です。
物で出来ているんだから何時かはなくなっちゃいます。』(取意)
『観心とは信心と訳します。
我が心の仏界を観じる。
私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。
だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)
感情論でご本尊様論じても無意味です。
先生のご指導です。
『教学無き戦いは感情である。』(取意)
感情で話す人は、教学無いのです。
御本尊様は人のためにある。
人が御本尊様のためにあるのではない。
これだけキチンと弁えているなら、後は別にかまいません。
私はね、御本尊様は虚空の宝塔を、大聖人様がお曼荼羅として書き顕されたと信じます。
そして、その虚空の宝塔は私共の命をそのまま虚空に写したものです。
これも先生のご指導にあります。
そうすると、お曼荼羅の大元は私共の命ですね。
極簡単な理屈です。
衆生己心の妙法(南無妙法蓮華経)〜虚空の宝塔〜お曼荼羅。
こう言う順番になります。
御書と、池田先生のご指導で明白なんですよ。
昨日の聖教新聞ご覧ですか?
開目抄が載っています。
大聖人は、万人に具わる衆生本有の仏性を南無妙法蓮華経となづけられ、唱題の実践によって、いかなる人であれ、胸中の仏の生命が涌現することを教えられた。
この通りです。
私共の命は南無妙法蓮華経。
それを虚空の宝塔として釈迦が顕した。
大聖人様は更に、ご本尊様として書き顕された。
大元は私共の命です。
これを忘れて仏法はないのですよ。
更に、昨日の聖教新聞です。
先生の北海道指導が載っています。
広宣流布といっても、あくまでも大切なのは、一人一人が幸福になることだ。
学会員の幸福を「豆腐」に例えるならば、広宣流布は「オから」で、つまり、その副産物で、自然のうちに成し遂げられるのだ。
個人なんですよ。
一人の人間が最も尊くて大切なんです。
ここが全てです。
組織やお曼荼羅至上主義は間違いなんですよ。
88
:
<削除>
:<削除>
<削除>
89
:
管理人
:2009/12/05(土) 19:45:21
>>88
は掲示板趣旨に合わない為、削除いたしました。
90
:
美髯公
:2009/12/15(火) 10:41:16
悲しいかな未だ「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」を理解出来得ず
『信じたくて、信じたくて、切なくも悲しいまでに「沖浦説」を信じたくて、
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」も強烈に支持していて、』と、
のたまう御仁が居るのは驚きである。
恐らくは、「本迹=優(勝)劣」と言う、宗教批判の原理である「五重の相対」の
呪縛から踏み出す事の出来得ないのであろうとは思うが無惨な事である。
この様に書けば、すぐさま「百六箇抄」を上げてくると思うが、
いかんせん、小生、この講義書を持ち合わせて居らねば反論の仕様も無し。
そして、この様な御仁の決まり文句は『「御本尊を迹」と思えば不敬に
つながる』とか、「強いて言えば『御本尊も本であり、衆生も本である』」と
愚劣と言う様な回答しか戻ってこない。
なぜ、「御本尊を迹」が不敬につながるのか、これは前述した理由によるものと
判断できる。
また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
これの答えは誰にも答えられない。
なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
91
:
とっくり
:2009/12/15(火) 12:35:09
もー、分からんちん(  ̄Д ̄)σ)* ̄- ̄)
92
:
美髯公
:2009/12/15(火) 13:12:52
他掲示板でも「本迹」について、問題提起したことがありますが、
結局の所、「本迹」が、よく解かっておられないようでしたね。
俗に言う公式見解から一歩も出られることは無かったですね。
曰く、「迹は本に対する影である」とか「本=天月、迹=池月」であるとか。
「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う」が理解出来なかった様ですね。
その御仁曰く、「不変真如の理が迹(影)であるはずがない」といわれました。
自称、「教授」ですよ(笑
そして、思ったとおり「百六箇抄」を引っ張ってきましたね。
今、お相手は一服しておりますが(^^;
大聖人仏法における「本迹」って何なんでしょうね?
法華経二十八品の立て分け?天月と池月の関係?本体と影の関係?
じゃぁ無いでしょうね、それらは皆、釈迦仏法の範疇だと思います。
結局のところ、「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智」ではないかと
思います。そして、基本差別無しの「而二不二」の関係と思います。
ここが解からねば「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は理解しがたいでしょうね。
93
:
とっくり
:2009/12/15(火) 14:35:22
南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等
うん。
で、何で本迹入れんの?
入れなあきまへんの?(* ̄∇ ̄*)。
ついでに、HN何てよむの?
自己紹介、後で入れるね(* ̄∇ ̄*)。
94
:
美髯公
:2009/12/15(火) 15:18:07
なァ〜してェ〜、入れちゃァ〜あきまへんかァ〜?
入れてもよろしゅゥおまっしゃろに(笑
「美髯公」=「びぜんこう」で、おまっせェ〜v(^^
95
:
とっくり
:2009/12/15(火) 17:43:35
ある人によると、本迹を入れないと、正宗であり、眺め人らしいのだが、入れないといかんの?
96
:
美髯公
:2009/12/15(火) 20:08:05
そないな事、その御仁に聞いておくれ、わては、知らん。
わてが、書いてるンは「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」が、
間違いであると言う御仁向けやして。
それに、あんさん、そない手ェ広げてよろしゅゥおまンのか?
他板で、なんや「五百塵点劫」が、どうたらこうたらとやっておられたと
思いますが、もう片付きはったんか?
97
:
taka
:2009/12/16(水) 08:15:18
とっくりさん、美髯公さん
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。
結論として、沖浦さんの「本迹」は展開のしすぎです。
私は、こう思いますがいかがでしょうか。
98
:
美髯公
:2009/12/16(水) 10:23:11
おはようさんです、takaさんm(__)m
>「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
>「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
はい、その通りだと思いますね。
>大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
>ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
>だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。
この部分に、ついては異論がありますが止めておきます。
沖浦氏との話し合いされてる時感じたのですが、この部分に関しては多分に、takaさんの感情的なものを
感じた故。
>「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。
まァ、「弟子」は除いても、日常的な信心姿勢だと思います。と、言うよりそれより他無いでしょうね(^^;
ですので、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、あくまで教学の見地からであり、
実際の信心姿勢は、「本迹不二」であり「境智冥合」なのです。
所謂、とっくりさんの言われる、「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」の姿に
他ならないのです。
99
:
とっくり
:2009/12/16(水) 18:38:27
>>96
うん!?
ああ、あれね。
なんかレスの進行ハンパ無く早いから、どっか行っちゃった。(((^^;)
別にいいよ。どのみち話の論点ズレてるし。
100
:
沖浦克治
:2009/12/16(水) 22:45:37
ご本尊様にお題目を唱え、仏道修行をして、人間革命と言う功徳を受けた私や貴方に姿が本。
教学の捉え方の差で目くじら立てて難癖言う人は罰の人生で迹。
101
:
とっくり
:2009/12/16(水) 23:55:32
>>100
アハハ!!
完全に“勝劣”で捉えてんじゃん(ノ∇≦*)。
必死のフォロー台無し。
102
:
沖浦克治
:2009/12/17(木) 07:27:52
本迹が勝劣の時も当然ありますよ。
とっくりさん、少し御書と先生のご指導およみなさいね。
月があって、水に映っている。
月本体は本ですね。
池の物は迹。
池の月は潮の干潮は起こせません。
実態がないですからね。
ですから、生命の進化には役立ちません。
劣るのです。
でもね、俳句を詠む人には役に立ちます。
この場合、池の月が本物より優れているのではないのですよ。
認識の対象としての池に映った月なんです。
竿先に かかれとばかり 池の月
今私が詠みました。
俳句には役に立ちますね。
ご理解できましたか?
103
:
美髯公
:2009/12/17(木) 12:41:44
「随縁不変」で捉える「本迹」には「優(勝)劣」は、ありまへんけど
「価値」で捉える「本迹」には、当ッたり前に「優(勝)劣」は、ありまっせェ〜
良き例が「新・人間革命 第八巻 宝剣の章12」にありますよって、御一読の事を。
結構、各掲示板で引用されていたのとちゃうかな?
「百六箇抄」からの解説だったような。
104
:
とっくり
:2009/12/17(木) 13:55:02
>>103
宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)
105
:
美髯公
:2009/12/17(木) 14:27:58
>宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)
でっかァ〜(^^;ゞ ヒッ!ヒッ!ヒツ! そォらァ〜失礼しましたm(__)m
106
:
沖浦克治
:2009/12/17(木) 14:38:17
とっくりさん
場所知ってても、眺めていたらわかりませんよ。
キチンと読んで思索しないと。
学生が勉強する時は本、遊んでいると迹。
確かそうあったでしょう。
でもね、人としての勝劣は同じ人間ですから勉強する時が優れ、遊ぶ時が劣るとは限りません。
無論見方によるとそう言う場合もあります。
いけないのはね、先生のご指導や御書を、教条的に読みとることです。
そこには思索が入る余裕がありません。
思索が無ければ人としての向上は起こりません。
人間は葦である。
然し、人間は考える葦である。
107
:
大河
:2009/12/25(金) 18:05:36
>90 こんなレスがあったのね。
>また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
>これの答えは誰にも答えられない。
>なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
>>「御本尊も本であり、衆生も本である」
生死一大事血脈抄
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
文底から読むと(日蓮大聖人の立場から)
久遠実成の釈尊・・・・・・・・・・日蓮大聖人
皆成仏道の法華経・・・・・・・・・御本尊
我等衆生・・・・・・・・・・・・・私たち
三つ全く差別無しと解りて・・・・「信」の一字で「差別」無し、
この三つ、すべて「南無妙法蓮華経」
御本尊は、人法一箇であるから、
「日蓮大聖人も南無妙法蓮華経、御本尊も南無妙法蓮華経、私たちも「信」を条件に
南無妙法蓮華経、本来「差別無し」ということ。
南無妙法蓮華経こそ「本」という意味で表現したのであろう。
だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。
「差別無し」であるから「勝劣」は無い。
そして、「本・迹」の「立て分け」は、「同一事象」で立て分けるのであるから
曼荼羅と衆生を、「立て分ける」こと自体が、おかしい。
108
:
大河
:2009/12/25(金) 18:10:19
>>107
の続き
>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
御本尊の相貌の「本・迹」は、以下の通り、「相貌」ですからね、念のために、
本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。(先生の御書の世界より)
「御本尊」そのものは「本」である。どこまでいっても、御本尊は「本」以外に無い。
文底独一本門の「本」である。
御本尊を「本」として、あらゆる宗教、そして日蓮仏法以外の仏教経典は、全て「迹」となる。
当然、釈尊の法華経28品全体も、大聖人の文底独一本門からみれば「迹」となる。
釈尊の法華経28品だけであれば、前半14品が「迹門」後半14品が「本門」となる。
私たちの「本・迹」は、
地涌の菩薩として、広宣流布への実践がある時(状態)は「本」
地涌の菩薩の使命を忘れ、怠けている時(状態)は「迹」
これは、地涌の菩薩という「事象」での「本・迹」の立て分けである。
学生が、その本分である勉学に励んでいる状態は「本」
学生が、その本分である勉学を怠けている状態は「迹」
これは「学生」という「事象」での「本・迹」の立て分けである。
起きていて、生命活動をしている状態は「本」
眠っていて、生命活動が停止している状態は「迹」
これは「生命活動」という「事象」の「本・迹」の立て分けである。
(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)
以上でわかるように、「同一事象」での「立て分け」である。
曼荼羅本尊と、私たちは、「本・迹」に立て分ける必要は無い。
繰り返すが「信の一字」を、条件に「差別無し」である。勝劣関係は無い。
又、同一事象としても「くくれない」
必要が無いからこそ、学会出版物にも
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、間違いですなどの記載も、当然無い。
まさか、このようなことを言いだす会員が出現することを想定していない。
いや、正確に言えば、「あらぬこと」を言いだす会員が出現することは想定して
いるだろうが、あらかじめ、書いておくのは不自然だ。
109
:
沖浦克治
:2009/12/26(土) 07:10:21
愚か者の戯言・・・・
>だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。
『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』
(百六箇抄)
所詮、ネットの虚言屋の戯言・・・・・・・・
110
:
美髯公
:2009/12/26(土) 11:07:41
あははは (^0^ ♪ エンドレステ−プでおますなァ〜(爆
御書を引っ張って来ても、自身の思いと違う事の書かれた御書は無視か(^^; 、まァ、それも宜しゅゥおまっしゃろ(笑
他板で、面白いものを見つけたよってに貼り付けておきまっさ
=================================
428 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 22:48:05 ID:g4YvIW0E0
>>329
>是法住法位 世間相常住
>信心即生活
>御本尊を根本にして(信心)即(実践行動)(境智冥合)
>御本尊の力を引き出し自身に仏の生命力を湧かせ生活に
>反映させる。
『大御本尊それ自体は「是法住法位」お姿であり、不変真如の理であるそれを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、
現実に、智慧となり、大生命力となって、湧現してくるとき、「世間相常住」と読むのである。
この経文の左に「是の法住すれば」と読むべきことを示されているが、これは「是の法」それ自体が、御本尊であり、
御本尊が根底になることを、強く、説かれようとされたからにほかならない
(中略)
御本尊を根本としたとき、われらの生命には、英知が光り輝いてくる。
一切を開き、一切を作りゆくと当体は、はかならぬ、汝自身である。その自身の当体に、偉大なる智慧の湧現があるとき、
必ずや常住不変の、前進の人生を歩んでいけることを強く訴えたいのである』
ここでは、「迹門」を「不変真如の理」として「本門」を「隋縁真如の智」とされている
429 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 23:08:11 ID:g4YvIW0E0
先の先生の講義を持って考えうれば「人が本・曼荼羅の御本尊は迹」これは間違いではないという事もいえるのである。
なお、この時の「本迹」は「優(勝)劣」ではなく「本迹不二」と了解すべきと思う。
根拠としては、「南無妙法蓮華経」の項で
『隋縁真如の智を離れて、不変真如の理があるのでもなく不変真如の理がなくて、隋縁真如の智があるというものではない。
一切万物の事象ことごとく、隋縁不変をともに備えているものなのである。
この隋縁不変がともに存在しているのが、生命の実相であり本質であり、妙法の実体なのである。』
======================================================
以上
111
:
美髯公
:2009/12/26(土) 11:26:34
まァ、くどく言えば
>本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。
は、漫荼羅御本尊様をもって「我らの生命」を顕しているという事でんな。
総じて言えば、信心していようがいまいが「我らの生命」と言うのは南無妙法蓮華経と言う事でっせ、お忘れなきようにな。v(^^
別して言えば、信心している「我らの生命」がそう。
で、もう一重立ち入って言えば、「総じて」が「我らの生命」、「別して」が「大聖人様の生命」。
112
:
大河
:2009/12/26(土) 20:01:55
>>108
>(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)
これは「取り消し」
仏道修行できて、仏界の生命を事実として涌現できる人間の一念が
その他の生物、環境等に、依正不二で影響を及ぼす故。
113
:
沖浦克治
:2009/12/26(土) 21:30:26
貴方自身の存在を、ネットから取り消しなさい。
偽配達員へ。
114
:
美髯公
:2010/06/03(木) 14:21:05
某掲示板で、「一大秘法」云々が話題になっております。 (^^;
①片や「一大秘法は戒壇大御本尊」。ちなみに「三大秘法の御本尊」は、どうも日蓮正宗さんが護持しているのに限る御真筆の御本尊らしい。
御形木も「三大秘法の御本尊」の内なンかなぁ〜?
ちなみに、なぜかと言うと「身延所持の御真筆御本尊も、三大秘法の御本尊なら身延にも『本門の戒壇』があるのか?」と
問うっておったから。
結局、彼の仁の見ているのは形なンよな。『日蓮と同意』と言う五文字が抜けていれば「本門の本尊」安置の「戒壇堂」であろうと
「本門の戒壇」とは謂わんし、また「本門の本尊」でも無かろうに (^^;
②片や「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」。では具体的に謂わばと言えば上記の人と同じ
「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」となる。
結局、相手に反論したいがために表現を変えているだけの事なのね。
「一大秘法」・・・・結句、解釈の仕方、此れに尽きる。なぜなら、大聖人様は、明確にお示しになっておられないから。 v(^^
「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」、唱えれば「題目」、視覚に訴えれば「御本尊」、理を思わば「我が当体・生命」
現実を考えれば、「題目」っしょうね v(^^ 小難しい理屈並べず単純に考えれば、そうなりますわな。
「御本尊」安置だけでは、成仏得度は無理でっしゃろな、絶対に「題目」がいりまっしゃろ?「題目」が不要っちゅうのは聞いた事が、ありまへん。
「題目」のみでは、どうか?可能でっしゃろ?御在世当時、皆が皆、大聖人様にお目通り出来てた訳では、無いのと違うかな?
それに、「発迹顕本」前では、誰も成仏出来てないっちゅう事になりますしな (^^;
115
:
美髯公
:2010/06/04(金) 13:19:07
録内・録外御書・・・知った時は、「録内」の方が信憑性が高く「録外」は信憑性に難ありと思っていたが、「録内」にも偽書ありと言う話も有り
少し調べてみると信憑性は同等、ただ纏められた時期が違うだけだった。知らないと言う事は怖いのォ〜 (^0^ ♪
『所詮三周の声聞法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、
末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若 し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは
我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房
此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず
我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて 南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、
経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝 塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ』
阿仏房御書(宝塔御書) /或文永九年三月十三日
『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
日女御前御返事(御本尊相貌抄) /建治三年八月
上記、二編ともに「録外」に、収められております。真筆無し、写本無し。俗に言う「真偽未決」と言われるものではなかろうかと思います。
あやふやな情報で書いております。申し訳無し m(__)m 新情報を存知よりの方、お教えて下さればと思います。
で、σ(^^ ぁ、何がしたいンだったけ (^^;ゞ ポリポリ ワスレテマッタ
116
:
美髯公
:2010/06/05(土) 13:32:12
もう一つ、抜けておりました (^^; ポリポリ
『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、
譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、』
『されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐一切衆生皆成仏道の妙法と云うは
是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。』
法華初心成仏抄 /建治三年
この、御書探すのに往生しましたでェ〜 (^^; 「篭の中の鳥」で御書検索(満月城岡山)掛けてもヒットせぇへんし、
「篭の鳥」や「篭」でも、ヒットせぇへんかった (;_; シクシク なんのこたぁ〜ない!「かご」の漢字が違ってまってた (^0^;
「籠」で検索掛けてりゃヒットせぇへんわな (^0^; ♪ 「満月城岡山」で使ぉ〜とんは、「篭」の「かご」やさかい (笑 。
ただし、御書全集や編年体御書で使われとる「かご」は、この「籠」ね。 v(-_^
転記ミスか、御書全集でも、古い版かは知れまへンなァ。ちなみに、σ(^^ ン所のは、昭和52年度の版やし。
で、本題。この御書は元々「無年月日」だそうです。よって、少し調べると「弘安元年」と表記している所もありますよってに
「弘安元年」は、間違いと思い込まないよう気ぃ〜つけなはれ。
117
:
美髯公
:2010/06/14(月) 16:11:09
阿仏房御書 / 或文永九年三月十三日・日女御前御返事(御本尊相貌抄) / 建治三年八月・ 法華初心成仏抄 / 建治三年
一応、御本尊に関連した御書三篇、いずれも出世の本懐とされる「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」の造立もしくは図顕前に当たります。
なぜ、「造立もしくは図顕」かと言うと、人によって違うから (^0^ ♪
普通は「造立」なのですが、最近では「戒壇御本尊は紙幅であったが、有師以降に後世のため楠板に模刻した」と言う人もおられるよってにな。
「弘安二年十月十二日」以前ではあるが、佐渡以降でおます。と言う事は「発迹顕本」された後でんな。おまけに、既に身延に入られておられるし
そして、当然に御本尊は御図顕され、下付され始めておられますなぁ。そういった時期の三篇の御書、「戒壇御本尊」が「一大秘法」、
「一閻浮提総与」であり余の御本尊は分身散体等と言った発想に結びつくものがおませんなァ〜・・・・
では、「御本尊」っちゅうのは、何か?!法華経の行者の一身の当体って謂われておられますな。「一身の当体」っちゅうても、姿・形じゃおまへん。
「我が己心」が、大聖人様が「御本尊」を語られる上での共通項目となっておられますな。
「漫荼羅御本尊」とは、大聖人様の法魂であり、御内証であると同時に、我らの法魂であり、内証であると言う事でおます v(^^
だから、「漫荼羅御本尊」否定は、自身の「己心の釈尊」、「己心の諸菩薩」を否定する事になるから、あかんのですわ。早い話、自身の生命の否定ですわな。
と言って、絶対に「漫荼羅御本尊」を拝さなければならないのかと言うと、そうでもありまへんのや。「拝さなくてもいい」と言う事と「否定」は別問題や。
この辺、解かっとのんか、解かってへんか知らへんけど「拝さなくてもいい」=「否定」と考えとる輩が多いで困ったもんだわ (^^; (笑
118
:
備前
◆TtzwqSGci2
:2010/09/24(金) 12:43:20
うっす!久しぶり v(^^ 美髯公!なんぞかんぞと続いているようだね (笑
あまり、活況で無いから議論ネタ(此処でなるかな?)を落として行くね (笑
おまえさん好みのネタだと思うが違ってたらメンゴな! (^0^; ♪
=====================================
140 :大河:2010/09/24(金) 10:26:49 ID:U0lvXrxU0
再掲載
133 名前:大河 投稿日: 2010/09/24(金) 07:47:15 ID:U0lvXrxU0
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1217901876/187
> 御書を読めば、物体であるお漫荼羅が、
>一大秘法や出世の本懐になれない事が直ぐ理解可能です。
一大秘法すなわち本門の本尊の「定義」
日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法である
南無妙法蓮華経・・・・・・・& それを図顕した曼荼羅本尊
久遠元初の法
板曼荼羅でなく「久遠元初の法」・・・分身散体の義
全く池田先生のご指導の通り、
>それでは世界広布が不可能だからです。
分身散体の義により、日寛上人書写の御本尊が
世界広布している事実がある。
=====================================
まっ、気が向いたら考察の一つでも書き込んでいてくれ (爆
119
:
美髯公
:2010/11/28(日) 16:58:40
立宗の日にちなみまして考えますことは " 日蓮大聖人は、いったい何をこの世にお弘(ひろ)めになろうとされたのか " という一点であります。
それは、端的に申し上げれば「本尊」であります。「根本として尊敬すべきもの」としての「本尊」であります。
人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがまければ、枝葉末節の迷いもおのずから消えていくものである。故に、いちばん大事な根本の
ところのものを、一切衆生に与え、弘められたのであります。
では、その「本尊」の内容とは何か。それに関しては、御書のなかにおいて“ 自分は幼少の時に、清澄寺で虚空菩薩に対して、日本第一の智者に
なしたまえと祈って、大智慧をたまわった ”という意味のことを述べておられますが、晩年において、その具体的内容を第二祖日興上人に示して
おられます。
すなわち「御本尊七箇の相承」のなかに「明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を持って以って本尊とす可きと・
虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言わく汝等が身を以って本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり
日蓮が影・今の大曼荼羅なり 」というのが、それであります。
これにつきまして、あえて誤解をおそれずに申し上げれば「 汝等が身を以って本尊と為す可し 」とある通り「 人間の生命をもって本尊とせよ 」
とのことでありまして「 一切の根元は“ 生命 ”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“ 人間生命 ”
そのもである 」という哲理であり、思想なわけであります。
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