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( ゚д゚ )絵描きとヴィオラのようですミセ*゚ー゚)リ
82
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:11:30 ID:fCDwqofo0
ミセ* ― )リ「天才だの何だのと囃し立てた奴らは、私が病気になったって途端急に手の平返した。見向きもしなくなった奴ら、心配してる風を装って近づいてくる奴ら、昔からずっとうざったい記者ども……」
ミセ* ー )リ「…まぁ、天才の失墜ほど凡人たちが喜ぶ話はないものね」
吐き捨てるように笑う彼女に、僕はなんと言葉をかければよいのか分からなかった。
彼女も別に、気安い慰めの言葉なんて欲していないのだろう。
ゆっくりと弦とヴァイオリンを持った彼女は、慎重に大きなケースの中にそれらを仕舞った。
ミセ*゚ー゚)リ「今の生活は気楽。プレッシャーも、面倒な妬みや嫉みもない。変な記者たちからの追及もない」
ミセ*゚ー゚)リ「ヴァイオリンじゃなくてヴィオラを弾いても、なーんにも文句言われないしね」
パチンとケースが閉じられる音が鳴り、彼女は吹っ切れたような声を発した。
どういうことだろうかと首を傾げていると、彼女は僕の方を見て、少し照れくさそうに微笑んだ。
83
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:12:16 ID:fCDwqofo0
ミセ*゚ー゚)リ「……本当は、ヴィオラの方が好きなのよ。私」
ミセ* ー )リ「世間はやたらと私にヴァイオリンを期待するけどね。中にはヴァイオリンとヴィオラの何が違うんだーなんて、馬鹿なことを言う馬鹿もいるし」
ミセ*゚ー゚)リ「…アンタは、そうじゃないだけマシね。あくまで”マシ”程度だけど」
ハンカチを見つけて渡した時以来の、屈託のない、少女らしい笑みだった。
確かに、少し疑問に思ったことがあった。
旦那様も、使用人の皆も、お嬢様について話すとき、いつもヴァイオリンについては言及するのにヴィオラについては何も語らなかった。
何も言わないながら、一人で静かに納得する。
天才と謳われた彼女もまた、望まないものを抱えている人間だった。
望まれているものに縛られ、自身が望むものに蓋をする。
凡人の自分が同調する資格などない筈なのに、不思議な親近感があった。
84
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:14:07 ID:fCDwqofo0
ミセ*゚ー゚)リ「…ちょっと、何を黙りこくってるのよ」
形の良い眉が歪み、さっきまでは少しご機嫌そうだった目が僅かに鋭くなる。
「アンタの話も聞かせなさいよ」と続けられた言葉に、僕は残念ながら拒否権はないようだった。
といっても、僕はお嬢様と違って、特に面白みのある人間じゃない。
ごく普通の家庭に生まれ、何の才能も持たず、ただ流されてるように生きてこの地に辿り着いただけの凡人だ。
そんな自分が果たして彼女が満足するような話が出来るかと問われれば全く自信がない。
かといって、彼女からの申し出に「無理です」と答える勇気は更に無い。
( ゚д゚ ;)「僕はその、実家が花屋をやってて、昔から、そういう花とかを絵に描くのが好きで…」
ミセ*゚ー゚)リ「それはもう聞いたわ。他の話」
( ゚д゚ )「え、えっと…あ、今授業でやってる課題は、”ペンクロッキー”っていうやつなんです。クロッキーっていうのはスケッチよりもラフにさらっと描くみたいな感じで、僕の学科には本来ない授業なんですけど、これが結構楽しくて…」
ミセ*- -)リ「しょーもない。他」
なんとか捻り出した話題が、片っ端からバッサリと切られては捨てられる。
江戸時代の特権階級の武士ですらもう少し手心があると思うのだが、そんななけなしの慈悲を期待しても仕方ない。
寧ろ、そんな詰まらない人生を歩んできた自分が悪いとまで思うようになってきた。
僕はもう、お嬢様に相当毒されているのかもしれない。
85
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:14:46 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ ;)「はは…まぁ、詰まらない人間なのは自分でも分かってます。絵を描くのに必要な経験とか、引き出しとかも、足りなくて」
申し訳なく思いながら、「すいません」と謝罪の言葉を口にする。
昔からよく教授やクラスメイトにも言われた言葉。
「君の絵には面白みが足りない」、「なんだか、どれも同じようなものに見える」
耳が痛い、それでいて、残酷なくらいに正確な批評だった。
家や大学に置いてある、今まで自分が描いてきた絵を並べてみる度にそう思う。
似たようなモチーフ。構図。背景。使う手法。
ちょっと使う絵の具や筆、キャンバスを変えたところでは隠せないくらいの詰まらなさ。
変えようともがいたこともあった。いや、今ももがいている途中だ。
多種多様なバイトをしたこともある。自分とはまるで違う人と積極的に話に行ったこともある。学生証を利用して片っ端から色んな美術館に行ったこともある。
けれど、何をどうやっても、根本となる原因は掴めそうになかった。
86
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:16:12 ID:fCDwqofo0
ミセ*゚ー゚)リ「なら、音楽でもやれば」
( ゚д゚ )「へ?」
小学生の算数を尋ねられた時のような、そんな気安い声が前方から飛んできた。
お嬢様の顔には特筆するような感情は乗っていない。
あっさりとした、何の不純物もない、世間話の域をどうやったって出ないアドバイス。
ミセ*゚ー゚)リ「引き出しが足りないなら増やせばいいじゃない。何をうじうじ悩んでるの?」
ミセ*゚ー゚)リ「それこそ、音楽よ。有限の音階から広がる無限の世界…うん、そうよ。アンタも音楽やったら?ピアノとか」
「仕舞ったままのピアノがどっかにあるわよ」という言葉に、僕はただ数回瞬きをしただけだった。
そんな文房具みたいに気軽に貸すようなものではないと思うのだが。
( ゚д゚ )「……お嬢様が、教えてくれるんですか?」
ミセ*゚ぺ)リ「………はぁ?」
あまり見ないよう気を付けていたしかめっ面を見て、ようやく僕は自分の失言に気が付いた。
気を抜きすぎた。そう思ったところで時すでに遅し。
席を立ちテクテクとこちらに近付いてきたお嬢様は、その細い指を丸めたかと思えば、僕の額をピンと突いた。
87
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:18:15 ID:fCDwqofo0
ミセ#゚―゚)リ「調子に乗るんじゃないわよ、絵描きの癖に」
( -д゚ ;)「痛てて…す、すいません……」
上質なワンピースを揺らめかせながら、彼女は再び椅子へと戻る。
これくらいで済むのなら安い、いや、最早タダ同然だ。
額を手の平で押さえつつ、「失礼します」と言って部屋を出ようとする。
すると、振り返ろうとしたその途中で、「絵描き!」と声がかけられた。
なんだろうと思って、もう一度お嬢様の方に向き直る。
もう栞を渡すという仕事は済んだし、世間話にもある程度満足された様子だったのに。
お嬢様を見る。呼んだ彼女はこちらを見ずに横顔だけを向けたまま。
ゆっくりと、遠慮がちに彼女の薄い唇が動いたのが見えた。
ミセ* ー )リ「……ちょっとくらいなら、教えてあげてもいい、けど」
秋風に飛ばされた紅葉が舞うような、そんなささやかな声だった。
けれど、僕の耳にはちゃんと届いた。
ぷいとお嬢様の顔が完全にそっぽを向く。それを見て、僕の口角は自然と上がった。
88
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:19:17 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ )「……やっぱり、お嬢様は優しい人ですね」
ミセ;゚―゚)リ「…は、はぁ?何よ急に…世辞とかいいから、もう出てって…」
( ゚д゚ )「お世辞じゃありません。僕はずっと、本気でそう思ってます」
お嬢様の動きがピタっと止まる。
顔は未だ僕ではなく、窓の方に向いたまま。
けれど、耳はこちらに向いている。そう勝手に判断した僕は、そのまま勝手に話を続けた。
( ゚д゚ )「栞の時も、ハンカチの時も、お嬢様は花を見て、”綺麗だ”っておっしゃいましたよね」
「これは持論なんですけれど」と前置きをしてから、深く呼吸をする。
あまり人に話したことはない。けれど、ずっと昔から持っていた、僕が人と付き合う上での大きな指針。
( ゚д゚ )「花の美しさに気付けないような人は、他人の痛みにも気付けない人だと思うんです」
( ゚д゚ )「…うちが花屋だったから、そう思うだけかもしれないけど」
馬鹿馬鹿しいと一笑に付されるかもしれない。
けれど、どうしてもお嬢様には伝えておきたかった。
89
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:19:50 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ )「大人になって気付きました。世の中、道端に咲いている花を踏んでも顔色一つ変えない人ばかりだ。いや、中にはわざと踏んでいく人だっている」
( ゚д゚ )「けど、お嬢様は、凄く堂々と花を綺麗だって言いました。泥棒紛いのことをした、気に入らない筈の僕が持ってきた花も、誤魔化さずに褒めた」
( ゚д゚ )「そんな人が、優しくない訳がない。綺麗なものをちゃんと綺麗だって言える。花の美しさに、魅力に気付けて、それをきちんと言葉に出来る」
( ゚д゚ )「たった二十年と少ししか生きてないけど、そんな人は数えるほどしか出会ったことない。そして、そういう人たちは皆、強くて優しい人ばかりだった」
「だから」と、一旦言葉を切って再び酸素を深く取り込む。
一息で、早口で話し過ぎて舌が渇く。けれど、ちゃんと伝えたい事は、きちんとはっきり伝えたい。
90
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:20:55 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ )「だから、なんというか…お嬢様は、大丈夫です」
( ゚д゚ )「お嬢様はちゃんと、優しい人に違いありません」
少し驚いたように開かれた目と、ほんの一瞬だけ視線が合った気がした。
ミセ* ー )リ「……なによそれ、気持ち悪いこと言わないで」
ミセ* ー )リ「…やっぱり、ピアノ教えてあげないわ」
( ゚д゚ ;)「…え!?な、なんで急に!?」
ミセ# ー )リ「うっさいわね、絵描きの癖にいっちょ前なこと言うからよ」
( ゚д゚ ;)「さっきは教えてくれるって…」
ミセ* ー )リ「言ってないわよ。バーカ」
横顔どころか、完全に背を向けられてしまった。
「言った」「言ってない」という、いつの間にかすっかり既視感があるやりとりをしながら僕はじっと、自然と揺れるお嬢様の髪を見つめていた。
91
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:21:21 ID:fCDwqofo0
思わず指が伸びてしまいそうになるような、僕が普段使っている筆よりもサラサラとした緑の束。
窓から見える景色はすっかり青から赤へと変わり、部屋には茜を帯びた落ちかけの陽光が差し込んでいる。
部屋全体に、まるで紅葉が咲いたかのような暖かさが満ちている。
だから、だろうか。
お嬢様の頬が、ほんの少しだけ、赤らんでいるようにも見えた。
92
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:22:40 ID:fCDwqofo0
*
京都ほど四季の色を楽しめる街は、日本でもそう多くない。
すっかり銀世界と化した駅前の景色を見ながら、僕は嬉しい半分、困惑半分の息を吐いた。
ベンチに腰掛けながら空を見上げると、まだ12月になったばかりだというのに一瞬桜と見紛うような白い影がひらひらと降りてくるのが見える。
まだ午後5時をまわったくらいだというのに、空は茜色一つ残さずすっかり暗い。
大学にいた午前中はもう少し雪の勢いが強かったのだが、どうやら僕が呑気に電車に揺られている間に随分と大人しくなってくれたようだった。
まぁ、雪が降ろうが嵐が来ようが、お嬢様に呼ばれた僕に「行かない」なんて選択肢は最初から綺麗さっぱりなくなってしまう訳だが。
つい先日、新しく貰ったばかりのコートに感謝しながら、ゆっくりと雪が積もる道を歩いていく。
お嬢様の通院に付き添った帰り道、京都駅直結のデパートにある服屋で、彼女から見繕われて買ったものだ。
「大丈夫です」と何度も断ったのだが、「いつもうっすい上着しか着ないヤツを見てると、こっちまで寒くなる」と口を尖らせたお嬢様と、「半年記念のボーナスと思ってくれ」という旦那様の好意を無碍にする訳にもいかず、受け取ったものだ。
ちなみに値段は知らない。少なくとも、僕が住んでいるアパートの家賃よりかは遥かに高いことだけは確かだろうが。
93
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:23:29 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ )「……あ、来た」
空いたスペースに置いていた絵を背負い、定刻から少し遅れて来たバスに乗り込む。
いつもと同じく乗客は僕だけ。すっかり顔なじみになった運転手の初老の男性と二言三言の挨拶を交わし、いつも座っている左奥の座席へと腰を落ち着かせた。
二人掛けの席は意外に広く、隣に荷物を下ろしてもなお身動ぎ出来る余裕のスペースがある。
暖房が効いたバスの中、僕は大学から持ってきた絵を隣に置いた。
彼女はどう思ってくれるだろうか。
漠然とした不安を感じながら、布で丁寧に包んだ絵の表面を撫でる。まだ制作途中だが、キリのいいところまでは描きあがったから、彼女に見せたいと思ったのだ。
描いている時は夢中だった。こんなに他のことを考えず、筆を走らせたのは一体いつぶりだろう。
大学の課題ではない。どこかのコンクールに送るための作品でもない。
ただ描きたくて描いた、僕が描きたいものを描いただけの絵。
絵がある程度まで終わったのは昨日の夜。今日、呼び出されたのはタイミングが良かった。
大学で友人たちと昼食を摂っている時、メッセージを受信して震えたスマホには、旦那様からの連絡が届いていた。
内容の旨は「何時でもいいから、今日、屋敷まで来て欲しい」とのこと。
今日は屋敷で働く曜日ではなかったが、どっちにしろ伺おうと思っていたのですぐに了承の返事を送った。
94
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:23:56 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ )(……返信ないの、珍しいな)
旦那様とのトーク画面を開く。
自分が昼頃に返した文字には既読がついているだけで、いつも送られてくる無駄に可愛いスタンプも何もない。
まぁ、普段からお忙しい身である。それでも時間を見つめては僕のような末端のバイトに過ぎない使用人から、大事な娘のお嬢様にまで顔を店に来てくれる。あれほど人の上に立つべき人も今日珍しい。
大学のスクールバスと同じくらいに揺れる車内で、ぼんやりと窓からの景色を見る。
僕がこの辺りに来るようになった頃より少し増えた街灯が、すっかり道を覆った雪を満遍なく照らしている。
そういえば、お嬢様と初めて会った日は、月が眩しい夜だったな。
なんだか郷愁感を感じた僕は、すこし上体を下げ、窓から空を見上げる。
上空は、僕がバスに乗り込んだ時よりも、少し曇っているように見えた。
95
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:27:02 ID:fCDwqofo0
*
屋敷につくと同時に、僕はなにか、言葉にし難い不安感に襲われた。
なにか、強烈な違和感があった。
いつも軽い足取りで超えている筈の正門が、羅生門のように荘厳に見える。
少し体調でも悪くなったのだろう。そう結論付けて正門をくぐり、屋敷の中へと足を進める。
だが、歩めば歩むほど、重力がどんどん増していくような感覚があった。
何かがおかしい。何かが変だ。なんというか、そう、まるで。
「この先へは行くな」と、誰かに耳元で囁かれているような。
96
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:28:25 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ ;)「……っ」
頭の中に浮かんだ根拠のない雑念を振り払い、玄関の扉に手をかける。
初めて来た時とはもう違う。僕はもう、ここで八か月も働いている歴とした従業員だ。
何も気おくれする理由はない。そもそも今日は、この屋敷の主に言われて来たのだ。
僕が引き返す必要はない。そもそも、ついさっきまで僕はここに来たくて仕方なかったんじゃないのか。
描いた絵を、お嬢様に見せたいと思って来たんじゃないのか。
自分で自分に鼓舞をし、伸縮しきった心臓を叩く。
扉を握る手に力を入れる。思いっきり、あの煌びやかなシャンデリアで照らされた空間へと飛び込むように足を踏み入れる。
僕が堂島家に遠慮する理由などない。お嬢様との関係だって、この四季を通してずっと良くなった。
僕はもう、お嬢様に嫌われてなどいないのだから。
いつからか、そう勘違いしてしまっていた。
97
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:29:17 ID:fCDwqofo0
( ∋ )「………来たか」
*(;‘‘)*
ミセ* ー )リ
ハハ; ロ -ロ)ハ
屋敷の大広間の中心に、見知った顔が揃い踏んでいた。
誰もかれもが、ひどく重い顔をしている。
いつも飄々としたヘリカルさんですら、随分と居たたまれないような表情。
だが、その中でも僕の目を引いたのはヘリカルさんでも、じっと下を向いたままのお嬢様でもない。
ハハ; ロ -ロ)ハ「………」
今年の春以来に会うハローさんが、この屋敷にいたからだ。
98
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:33:46 ID:fCDwqofo0
( ゚д゚ ;)「え、えっと……これは、何の集まりで…?」
(; ゚∋゚)「…とりあえず、座ってくれ。話はそれから……」
ミセ* ー )リ「話なんて要らないわ」
旦那様の言葉を遮ったのは、今日の気温よりもずっと冷たく、重苦しい言の葉だった。
( ゚д゚ ;)「お、お嬢様……?」
どこか既視感のある姿に焦りを感じて、僕は数歩ほど彼女に近付いていく。
だが、それを拒むかのように勢いよく立ち上がったお嬢様は、バッと何かをこちらに見せつけた。
99
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:34:35 ID:fCDwqofo0
紙の束だ。白黒の、まるで、新聞のように味気のない紙の集合体。
何か文字と写真が載っているようにも思えるが、ここからだとあまりよく見えない。
また少しだけ近づき、じっと目を細めてお嬢様が持つ紙を見る。
その内容に気付いた時、僕はさっと、全身の血が引いていくような感覚に襲われた。
『元天才ヴァイオリニスト』
『病に襲われた彼女の今』
『自然豊かな故郷で、現在は療養を――』
( д ;)「――っ!?」
それは記事だった。
書かれている文章を見る。どれもこれも、誰を示唆しているのかはすぐに分かる書き方と情報がつらつらと載っている。
僕がそれらをすぐに”事実”だと認識できたのは、とある理由があったからだ。
すぐにハローさんへと視線を向ける。
彼女は僕と目を合わせることなく、申し訳なさそうに俯いた。
100
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:35:17 ID:fCDwqofo0
ミセ* ー )リ「………アンタにしか話してないことも、書いてた」
震えた声が部屋に響く。
握られている記事にくしゃりと皺が寄る。
ミセ* ー )リ「アンタが」
ミセ* ー )リ「アンタがハローに、私のこと、話してた」
( д ;)「―――っ…!」
心臓がぎゅっと握られたような、全ての血が沸騰するような、そんな感覚だった。
頭が真っ白になる。
何を言えばいいのか、どう言えばいいのか。
何も思いつかない。今すぐここから逃げ出したいとまで思えるほどの、冷たい声。
101
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:35:50 ID:fCDwqofo0
ミセ* ー )リ「……お父様は、知ってたのね」
(; ゚∋゚)「………少しでも、お前に良い影響があればと…」
ミセ* ー )リ「知ってたのね」
旦那様は静かに、コクリと首を縦に振った。
ぐしゃりと、紙が握りつぶされる音がした。
お嬢様は全身を震わせ、ただじっと下を向いている。
( ゚д゚ ;)「……あ、あのっ……!!」
ミセ* ー )リ「ヴィオラ」
まるで意味のない言い訳は形になることなく、喉の奥へと逆流していく。
サラリと揺れる緑の前髪から、深い夜のような色をした双眸が覘く。
今まで彼女から感じたどの感情よりも強い”敵意”の色。
102
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:37:18 ID:fCDwqofo0
ミセ* ー )リ「初めて会った時、あの暗がり野中でも、アンタはすぐにヴィオラって言ったわね」
ミセ* ー )リ「……普通、音楽に詳しくないヤツなら、ヴァイオリンって間違える筈なのに」
言葉の形をした銃弾が、淡々と僕の心をえぐっていく。
美しかったあの夜の思い出に、ミシミシとヒビが入っていく。
ミセ* ー )リ「…面白かった?そんな単純なことにも気付かない世間知らずのバカ女、嗤えて」
そんなこと思ってない。貴女を嗤ったことなど、心の中ですら一度たりともない。
思いは言葉にならず、ただ口がパクパクと無様に動くだけ。
喉に溜まった熱が手放せない。何か言わなきゃいけないのに、言わなきゃいけない言葉が出ない。
ミセ* ー )リ「良いお小遣い稼ぎになった? ねぇ、こんな」
ミセ* ー )リ「こんな、こん、な………」
パンと、ひどく大きな破裂音が響いた。
綺麗に磨かれた床に、くしゃくしゃになった雑誌が転がる。
誰もそれに目をやろうとはせず、傍にいたヘリカルさんだけが心配そうに、雑誌を投げたお嬢様に慌てて近寄る。
すると、お嬢様は素早く腕を振ってヘリカルさんを拒絶した。
ポトリと、一粒の雫が床を濡らした。
103
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:38:17 ID:fCDwqofo0
ミセ#;―;)リ「二度と……!!二度とその顔見せんな!!」
ミセ#;―;)リ「嫌いだ…!!嫌いだ嫌いだ嫌いだ!!大嫌いだ!!」
ミセ#;―;)リ「うそ、つ、き……うそつき、嘘吐き!!!」
ミセ#;Д;)リ「嘘吐き!!!!!」
ポタポタと、数えきれないほどの涙が重力よりも早く落ちていく。
屋敷全体が震えるほどの怒号が、深い絶望に満ちた裂帛が、鼓膜と心臓を裂いていく。
謝らなければ。そう思って近づこうとした瞬間、お嬢様の体がゆっくりと前のめりになる。
ギリギリのところでヘリカルさんが、倒れそうになったお嬢様を支える。
それでも、お嬢様の激昂は止まらない。
綺麗だった声が、春の陽気みたいに明るかった声が、今全て、僕への怨嗟となって響いている。
104
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:39:30 ID:fCDwqofo0
お嬢様の声を聞いたのだろう。ドタドタと、他の部屋にいたらしき使用人たちが慌ててホールに入ってきた。
ヘリカルさんを始めとした使用人たちが、ゆっくりと、それでいて迅速にお嬢様を支えて移動する。
その間もずっとずっと、彼女は僕に向けて、泣きながら絶叫したままだった。
部屋からお嬢様の姿が消える。
悲痛な声が壁を震わせて、カタカタと空間そのものがまだ揺れている。
冬の夜のように静まり返った大広間の中、僕はただじっと、床におちた涙の痕を呆と見ていた。
お嬢様の後を追いかける訳でもなく。
部屋に残った人たちと、これからのことを話す訳でもなく。
( д )
ただじっと、僕がお嬢様にしでかしたことの痕を、つけた傷の大きさを見つめていた。
いつまでもいつまでも、ただ、見つめたままであった。
105
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 02:40:09 ID:fCDwqofo0
前半はここまでです。
期限までに後半も投下できるよう頑張ります。
106
:
名無しさん
:2024/04/29(月) 08:41:31 ID:.63SLJ8s0
乙
107
:
名無しさん
:2024/04/29(月) 18:54:43 ID:cXbGHC160
めっちゃ面白い
108
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:50:59 ID:fCDwqofo0
もう絶対間に合わんけど投下します。
得点が半分になる…計算がめんどくなる…主催様、ごめんよ…。
109
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:51:55 ID:fCDwqofo0
*
ハハ ロ -ロ)ハ『とある女の子の、身辺調査をして欲しいんデス』
去年の春。
教授に半ば無理やり連れていかれた部屋の中で、ハローさんから説明された仕事の内容は主に二つだった。
一つは、『堂島家という、大きな屋敷で使用人として働くこと』。
病が悪化した少女によって、辞める従業員が続出し、人手が足りなくなっている。
そこで、色んなバイトの経験がある自分に白羽の矢が立った。
二つ目は、『”堂島ミセリ”がどんな生活をしているのか、ハローさんに報告すること』。
とある天才ヴァイオリニストが治療困難な病に侵され、現在、実家である京都に帰っている。
彼女は大のメディア嫌いで、取材やインタビューにまったく応じてくれない。
そこで、使用人として働きつつ、彼女の様子を探って欲しいとのことだった。
110
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:52:24 ID:fCDwqofo0
前者はともかく、後者は正直やりたくなかった。
いくらお金に困っているとはいえ人のプライバシーを侵害するような行為は遠慮したい。
その旨を告げると、ハローさんは長い金の髪を揺らし、一回りも下であろう自分に深々と頭を下げてこう言った。
ハハ ロ -ロ)ハ『根掘り葉掘り聞くツモリはありませン。ざっくりでいい、どういう生活をしてるのか、リハビリは順調カ、音楽に触れる時間があるノカ』
ハハ ロ -ロ)ハ『そういうのでいいカラ、メールで箇条書きで欲しいんデス』
何故、たった一人の少女にそこまで固執するのか。
僕がそう尋ねると。彼女は顔を上げて、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
111
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:53:59 ID:fCDwqofo0
ハハ ロ -ロ)ハ『…天才ヴァイオリニストだの、現代のヴィルトゥオーゾだの、なんだの言われてますケドね』
ハハ ロ -ロ)ハ『彼女、ホントに好きなのはヴィオラナノ。あの子、高校まではずっとヴィオラで…私、あの子のヴィオラに恋して、記者になっタ』
ハハ# ロ -ロ)ハ『なのに皆、あの子のヴァイオリンにしかきょーみナイ。散々無理強いしてオイて、病気になったら途端に”終わった”だのなんだノ…』
ハハ ロ -ロ)ハ『…私、諦めたくないノ。”堂島ミセリ”はまだ死んでナイって言いたい。あの子のヴィオラ、また聴きたい』
そう言って、ハローさんはまた深々と頭を下げた。
ただの同情だと言われれば、正直否定できない。
けれど、あの時のハローさんの目には、噓偽りのない熱があったように見えた。
悪意のある理由じゃないのなら。本当に、日常の些細なことを報告するだけでいいのなら。
それなら大丈夫だ。犯罪じゃない。そもそも、半年くらい勤められればいい。
そんな軽い気持ちで始めたバイトだった。
そして。
112
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:56:22 ID:fCDwqofo0
ミセ#;―;)リ『二度と……!!二度とその顔見せんな!!』
ミセ#;―;)リ『嫌いだ…!!嫌いだ嫌いだ嫌いだ!!大嫌いだ!!』
ミセ#;―;)リ『うそ、つ、き……うそつき、嘘吐き!!!』
ミセ#;Д;)リ『嘘吐き!!!!!』
そんな花びらよりも軽い、浮ついた気持ちで。
僕はあの子を傷つけた。
113
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:58:20 ID:fCDwqofo0
(` ω ´)「――ミルナ……おい、ミルナ……!!」
( -д゚ )「ん……_」
猛烈な揺れを感じて目を覚ますと、そこは嫌というほどに見慣れた場所だった。
教室だ。枕にしていた腕から顔を上げると、目の前には心配そうにこちらを見つめるシャキンの姿があった。
(;`・ω・´)「大丈夫か?お前、この時間講義じゃなかったか?」
友人からの忠告を数秒遅れて理解した僕は、慌ててポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。
すでに、採っている講義が始まってから30分も経っている時間だった。
(`・ω・´)「今からでも行けよ。多分、ハインが席取ってくれてるだろうし…」
( -д- )「………いや、いい」
(`・ω・´)「は?」
( -д- )「…もう行っても意味ないだろ」
「あの授業、最初に出席とるし」と呟いて、僕は再び自分の腕に顔を埋める。
ここ最近、碌に眠れていない。そしてその原因は自分でも判然と分かっている。
この一ヶ月以上、ずっと同じ夢を見るのだ。
ヴィオラを持った少女が、泣きながら自分を責める夢を。
114
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/29(月) 23:59:49 ID:fCDwqofo0
既に年が明けて、今は一月の半ば。
冬休みもとっくに終わり、既に普通の授業期間に突入している。
だというのに、最近の僕は全く授業に身を入れることが出来ないでいた。
教養の講義は半分以上サボっている。
実技の授業で出た課題は、どれも途中提出どころかそもそも出してすらいない。
完成したらお嬢様に見せようと思っていた絵も、あの日から全く手を加えていない。
筆を全く握らない日々が一ヶ月以上続くことなど、僕の人生で初めてのことだった。
(`-ω-´)「…何があったんだ?って聞くの、もう何度目かな」
友人の言葉にも反応しないまま、僕は顔を上げずに寝た振りを続ける。
(`-ω-´)「相変わらず、変なところで頑固だよな」
(`・ω・´)「…それじゃ、俺も頑固になろう」
前の椅子が引かれる音がしたかと思えば、影が自分の頭上にかかる感触があった。
115
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:01:00 ID:fFFHkLRU0
(`・ω・´)「前にさ、俺がやらかして落ち込んでた時、お前、こうやってずーっと待って、話聞いてくれたことあったよな」
(`・ω・´)「ずっとリベンジしたかったんだ」
「ちょうど良かった」なんて言って、シャキンは俺の前の席に座り、黙り始めた。
覚えている。去年の夏頃、彼が当時付き合っていた恋人と別れ、傷心していた時の話だ。
どう説得しても話をしてくれず一人で塞ぎこんでいた彼に業を煮やした僕は、ただ黙って彼の近くに居続けるという、ほぼ嫌がらせに近い行為に及んだのだ。
今の今まで忘れていた。他の誰でもない、自分がやった行動だって言うのに。
( д )「………」
( д )「…三年になってから、始めたバイトなんだけどさ」
数十分ほどの沈黙が流れた結果、根が折れたのは自分の方だった。
顔を上げ、一切の事情を隠すことなく口にする。
教授たちから紹介されたバイトのこと。お嬢様のこと。彼女としたやりとり。仕事の内容。
そして、最終的に彼女を泣かせてしまったこと。
時間にして、一時間以上は話しただろうか。
ただ黙って、時々頷きながら話を聞いてくれていた友人は、話が終わって数秒後、少しだけ考える素振りを見せてこう言った。
116
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:01:42 ID:fFFHkLRU0
(`・ω・´)「うん。お前が悪いな。100パー」
何の飾り気のない言葉が容赦なく胸に突き刺さる。
僕の目を真直ぐ見つめながら、彼は腕を組み直して姿勢を正した。
(`・ω・´)「無難なのはもう、絶対に関わらないことだと思う」
(`-ω・´)「…正直、擁護できないレベルでひどい。お前がそんなことしたなんて今でも信じられないくらいにはな」
あまりの正論に、僕は声も出さないままただ頷くだけだった。
寧ろ、どこか安心した気持ちさえあった。
「二度と会わない方がいい」。それは、僕が自分で出した、お嬢様に対する最大の謝罪だと考えていたからだ。
信頼できる友人が自分と同じ結論を出した。その事実に、胸をなでおろしている卑怯者の自分がいる。
やはりそうすべきだ。僕は、絶対にしちゃいけないことをした。
117
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:02:32 ID:fFFHkLRU0
(`-ω-´)「………でも」
続くと思っていなかった友人の声に、僕は自然と首を向けた。
なにかを考えるように、シャキンはじっと斜め下の机を見つめている。
そして、言葉がまとまったのか、彼は射抜くような視線を真直ぐに僕に向けた。
(`・ω・´)「もし、どうしても、お前がその子と仲直りしたいんだったら、そうだな……」
彼はそこで一旦言葉を区切ってから、ほんの数秒だけ視線を宙に泳がせた。
(`・ω・´)「とにかく、全力で謝るしかない。それも直接。その子に一番伝わる、お前なりの方法で」
(`・ω・´)「それこそ、お前の人生全部捧げるくらいにな」
そう言うと彼はニヒルに笑って、「それが最低条件だ」と付け加えた。
118
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:03:35 ID:fFFHkLRU0
*
作業部屋を借りてから一時間。
僕はただ何もすることなく、白いキャンバスの前に座っていた。
「自分なりの方法」という、シャキンの言葉が頭の中をループする。
自分には、一体何があるのだろう。
お嬢様のように、優れた音楽の才能もない。何か得意なことがある訳でもない。
ただ呑気に絵を描いていただけの僕に、一体何が出来るのか。
自分の両手を見る。
何もない手。長年の創作活動ですっかり荒れてしまった、お世辞にも綺麗とは言えない手。
その瞬間だった。
なにか不意に、大切なものを掴みかけた感覚があった。
119
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:04:03 ID:fFFHkLRU0
部屋の壁にたてかけてあった布を取っ払う。
中から現れたのは、お嬢様に見せるつもりだった、描きかけの一枚の絵。
「人生全部」というシャキンの言葉が心臓を満たす。
そうだ。これだ。
もし僕がまだ何か出来るのだとしたら、これしかない。
だが、これでは足りない。
僕は描きかけの絵を倒し、部屋の片隅へと追いやる。
椅子に座り、久しぶりに愛用の筆を持つ。
まだ何も描かれていない白いキャンバスに向かって、僕は躊躇なく筆を走らせた。
120
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:04:52 ID:fFFHkLRU0
*
カーテンの隙間から差し込んでくる光のせいで、私は目が覚めてしまった。
もう一度眠りにつこうと目を瞑るも、既に十分すぎる睡眠をとった身体は全く休もうとしてくれない。
仕方なく上体を起こして、ベッドの上の時計を見る。
短針は数字の4を指している。カーテンから漏れる日光から、午前ではなく午後の方だろう。
ミセ* ― )リ(……今、何日だっけ)
つい最近三月になったことは知っているが、そこから何日経ったのかいまいち把握できていない。
カーテンを開き、窓から見える庭を見る。
奥の方には、父が子どもの頃からあるらしい、大きな桜の木にちらほらと蕾が付いているのが見えた。
121
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:05:31 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ(………)
嫌なことを思い出して、カーテンを閉める。
もう振り返りもしたくない、とある嘘吐きの絵描き。
彼と初めて出会ったのも、三月だった。
あの絵描きを追い出して、もう三か月が経過していた。
冬はすっかり終わり、雪は解け、道の端々でカラフルな花が咲き始めている。
平和な陽気が包む中、私はずっとこの暗い部屋に引きこもり続けていた。
ヴィオラどころか、そもそも楽器にすら触れていない。
目が覚める度に、手先の感覚がゆっくりとだが着実に失われていくのが分かる。
年明けに行った病院で主治医から言われた未来が、ゆっくりと近づいているのを嫌でも理解してしまう。
起きていると、自分の未来がどんどん狭まっている気がした仕方がなかった。
物を落とす回数が劇的に増えた。
ただ屋敷の中を歩いているだけですぐに息切れするようになった。
ある時は、指を切って血が出ているのに全く気が付かない日もあった。
122
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:06:44 ID:fFFHkLRU0
私は、部屋からほとんど出なくなった。
外に出た方が良いと宣う使用人たちにも当たり続けた結果、今やヘリカルだけが一日に一度声をかけてくる程度。
楽器も弾かない。部屋からも出ない。
ゆっくりと指が動かなくなっていくのを見ながら、ただただ部屋で腐るだけの毎日。
ふと、読もうとした本が手から落ちた。
右手をぎゅっと握りしめ、感覚が回復するまでじっと待つ。
ようやく右手の指先が動くようになってから、私は床に転がった本を拾おうとした。
ミセ*゚ー゚)リ「……あ」
ふと、キラキラと輝く青色の光が目についた。
それは、本にずっと挟んだままだった栞。
あの絵描きから貰った、青いビオラの栞だった。
123
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:07:51 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「………」
心から嫌いだった、と言えば嘘になる。
少なくとも、姉から貰ったハンカチを拾ってくれたあの夏の日から、ヘリカルほどではないものの、あの使用人のことは気に入っていた。
何を言っても困ったようにヘラヘラと笑う顔。庭の整備をしている時の表情。
花について語っているときの真剣な眦。
最初は、少し便利程度の認識だった。いくら当たっても怒らないし、仕事は割と早くて丁寧だし、早く辞めるだろうと思っていたら中々に根性がある男。
初めの頃は気に食わなかったあの大きな瞳も、無駄に高い身長も、気が付けばそこまで気にならなくなっていた。
もう一つ大きなきっかけは、この栞をくれた日だろうか。
話の流れで軽く頼んだだけの栞。それをアイツは、ほんの数日で用意してきた。
それに対して「ヴァイオリンを弾いてやる」と言ったら、アイツは「ヴィオラが良い」と言って跳ねのけたのだ。
…正直、嬉しかった。
ヴァイオリンではなく、私のヴィオラを選んでくれたことが。
どいつもこいつも、私に望むのはヴァイオリンだった。ひとたび公の前でヴィオラを持てば、途端に心無い言葉を浴びせられた。
だから私はヴィオラを辞めた。病気が発覚した時は絶望したが、気ままに実家でヴィオラを弾ける生活は中々に心地が良かった。
そんな中、久しぶりに正面から私のヴィオラを認めてくれたのは、アイツだけだった。
124
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:08:43 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「………嘘吐き」
栞を手に取り、自然と非難の言葉が口から漏れた。
アイツは嘘吐きだった。ずっと嘘を吐いていた。
アイツが私に近付いたのは、ハローに情報を流すためだった。
ミセ* ー )リ「……もう、要らない」
栞を握る手に力を入れる。
これも、私に取り入るための策だった。
そんなもの、もう律儀に持っておく必要はない。
きっと、全部嘘だった。
ハンカチを拾ってくれたのも、花の説明をしてくれたのも、栞をくれたのも。
机の上に置いてあったハサミを手に取り、栞にあてがう。
あとは、ほんの少し右手に力を入れるだけ。
125
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:10:02 ID:fFFHkLRU0
( д )『僕は、貴女の演奏が聴けるのなら、ヴィオラが良い』
頭の中で、一輪の蒼花が揺れた。
同時に右手から力が抜け、持っていたハサミは重力に従って床へと落ちて行った。
右手に触れる。まだ、指先には感覚がある。
栞を握る。とても片手間に作られたとは思えないほどに、精巧な作り。
本当に、全部嘘だったのだろうか。
アイツは本当に、金のために、私を利用していただけなのだろうか。
ヴィオラが聴きたいと言った言葉すらも、嘘だったのだろうか。
下らない考えだ。
弱っているから、こんな甘えた考えが浮かぶのだ。
窓を開ける。手に持って栞を、外に向かって放り投げる。
腕が勢いよく空中を切る。
けれどどうしても、どうやっても、手のひらから栞は離れてくれなかった。
126
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:10:55 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「……なんで」
ミセ*;―;)リ「なんで、こんなのも、捨てれないの…」
捨てる筈だった栞をぎゅっと握りしめたまま、その場にゆっくりと蹲る。
慣れ親しんだベランダの先、うちが誇る自慢の庭。
その隅で、春風に揺れるビオラが見えた。
127
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:13:23 ID:fFFHkLRU0
*
*(;‘‘)*「――おじょう、お嬢様!!起きてらっしゃいますか!?」
随分と慌ただしいヘリカルの声に、私は読んでいた本を置いて立ち上がった。
彼女がこんなにも大声を出すなど滅多にない。
それほどの何かがあったのだろうか。彼女から伝播した焦りを感じながら部屋のドアを開く。
その次の瞬間、彼女の小さな手で私の体を引っ張り出した。
ミセ;゚―゚)リ「えっ!?な、なによ!?」
ヘリカルに引っ張られるまま屋敷の中を進んでいく。
一階の大広間。その先にある玄関へと続く扉の前に。
( ゚д゚ ;)「……あ」
ミセ; ー )リ「――っ!」
何度も夢に見た。
一番会いたくない顔がそこにあった。
128
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:14:29 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ ;)「お、お久しぶりで――」
ミセ; ー )リ「………」
視界の中心に彼を捉えた瞬間、私は無意識に背を向けていた。
隣のヘリカルの制止も無視してさっきまで歩いた道を引き返す。
自室の部屋に戻って鍵をかけた瞬間、体からわっと全身の力が抜ける。
ドアの前でへたりこんで数分、壁越しにヘリカルの声が聞こえてきた。
*(;‘‘)*「お、お嬢様?ミルナくんが……」
ミセ# ー )リ「帰らせて」
*(;‘‘)*「……え?」
自分の喉から出たとは思えないほどに低く、冷たい声。
胸の奥から込み上げてくるマグマを吐き出すように、私はドアを力強く叩いた。
129
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:15:16 ID:fFFHkLRU0
ミセ# ー )リ「――帰らせて!!さっさと!!早く!!」
ミセ# Д )リ「二度とっ…!!二度と入れないで!!雨が降ろうが、雪がふろうが、絶対に!!!」
喉にヒビが入るほどに叫び、何度も何度も壁を殴る。
許せなかった。アイツの顔を見た途端に、胸にどす黒いものが湧いて出てくるような感覚があった。
今すぐにでも消えて欲しい。お願いだからもう、私に関わらないで欲しい。
今までの人生でも嫌な奴は沢山いた。
あからさまに胡麻をすってくる奴。変な妬みをぶつけてくる奴。気持ち悪いくらいに近寄ってくる奴。
そんな奴らにすら抱いたことのない憎悪が腹の底でたぎっている。
叫び疲れ、だらりと体重を壁にかける。
ふと自分の手を見た。二十年以上、ただ只管に、音楽のためだけに磨いてきた手。
いつの間にか、普通の女の子みたいに細くなった手に感覚はない。
あれだけ壁を力強く殴っていたのに、色んなところに青痣が出来ているのに、痛くもなんともない。
130
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:15:44 ID:fFFHkLRU0
ミセ# ー )リ「………」
ミセ* ー )リ…二度と来るな、嘘吐き……」
誰に向けた訳でもない呪いが、自分しかいない部屋に零れて転がる。
力の限り叫んだ喉よりも、傷だらけになってしまった手よりも。
触れられてすらいない胸の奥の方が、何故だかチクリと痛かった。
131
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:16:46 ID:fFFHkLRU0
*
あの日から、絵描きと数か月ぶりに一瞬だけ顔を合わせた日から、もう三週間以上が経過していた。
その間、私自身は一度も彼と目を合わせていない。
けれど、その存在だけは毎日認識していた。その理由は。
( д )
絵描きは毎日、屋敷の正門前まで来ているからだ。
132
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:17:45 ID:fFFHkLRU0
ミセ*゚ー゚)リ(……今日もいる)
一階の窓から一瞬だけ外にいる絵描きを見た後、すぐに離れて自室へと戻る。
ここ最近毎日だ。
絵描きはいつも朝早くに屋敷を訪れて、深夜頃に帰っていくというよく分からない行動をずっとしていた。
…いや、”よく分からない”は適切な表現じゃない。
私の頭の奥で本当は、彼の行動原理を理解していた。
ミセ* ー )リ(知ったことか)
ほんの僅かに湧き上がる想いを、圧倒的な憎悪が塗りつぶす。
毎日毎日懲りずに正門前で待つ彼を、どうしてもまだ、許す気持ちが起きなかった。
133
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:19:28 ID:fFFHkLRU0
ある日は、朝から雨が降っていた。
京都は気温の変化が激しい土地だ。雨で地表は濡れ、三月とは思えないほどに気温は下がり、霧が出てきた日でも絵描きはじっと地蔵のように固まったまま、屋敷の前から深夜まで動かなかった。
ある日は、電車が動かなかった。
朝のテレビのニュースで見慣れた鉄道会社が一日だけストップするという日があった。
絵描きが使っていると言ったところだ。なら、今日は来ないに違いない。
アイツにとっても良い口実だろう。もしかしたら今日からもう来なくなる可能性すらある。
そんな期待は、昼に何気なく覗いた窓からの景色によって容易く砕かれた。
彼はいた。こんな辺鄙な所まで、重い荷物を持って徒歩で来て、そしてただじっと待っていた。
ミセ*゚ー゚)リ「………」
一階の奥、使用人たちですら滅多に使わない倉庫にある小さな窓。
そこからのみ、正門前の様子がインターホンのカメラを使わずに伺うことが出来る。
いつの間にか、私は一日に数分だけ、そこに行くことが日課になっていた。
134
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:21:10 ID:fFFHkLRU0
『課題とか、作品作りとか、バイトとか、やらなきゃいけないことがあるんじゃないの』
『金欠って言ってたのに、こんな所に毎日来てていいの』
『前から偶に疲れたような顔してたけど、ちゃんと休んでるの』
『朝から晩までそこにいて、しんどくないの』
ミセ* ー )リ「………うるさい…」
沸騰した泡のように湧いてくる感情に必死に蓋をする。
胸のざわつきがひどくうるさくて、私は窓から離れて倉庫を出た。
私には関係ない。あんなやつのことなんて、どうでもいい。
アイツはずっと私を騙してた。私のことを勝手に記者に話して、それでお金を貰ってたやつなんだ。
嘘吐きのことなんて気遣う必要ない。私はもう、あんなヤツどうでもいい。
そもそも、別に気に入ってなんかいなかった。
ちょっとハンカチを見つけてもらったくらいで。ちょっと綺麗な花の栞を貰ったくらいで。
毎日、ちょっとでも話かけてくれるのが楽しいなんて思ったことない。
何を言っても私から離れないのが面白いなんて感じたこともない。
ちょっとヴィオラを褒めてくれたくらいで、嬉しいなんて思ったことない、のに。
135
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:21:50 ID:fFFHkLRU0
子どもをあやすみたいに、必死に自分に向けて言い聞かせる。
「どうでもいい」なんて言い訳染みた言葉で脳を満たす。
だって、そうじゃないといけないのだ。私は、アイツを許しちゃいけないのだ。
私は傷付いた。アイツは嘘をついてた。それは事実だ。
結局、いつもこうだ。
ほんの少し心を開いてみれば、失望して、傷付いて、一人になっての繰り返し。
あの大学で、下卑た顔でヴァイオリンを聴きにくる奴らを見て、私は懲りた筈だったのに。
自室に戻り、読みかけの本を開く。
物語に耽ようとするも、話が全く頭に入ってこない。これではただ眼球が文字を追っているだけだ。
数ヶ月前から楽しみにしていた、大好きな話の続きだった筈なのに。
最初のページに戻る。ヒロインの独白から始まる文章をもう一度読む。
あれだけ共感できた気持ちが、何故だか今は少しも分からない。
何度読み返しても、ヒロインの感情が全く心に入ってこなかった。
136
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:23:22 ID:fFFHkLRU0
*
窓を猛烈に叩く音がした。
ちらりとカーテンを開けて外の様子を見る。
だが、いつもならここから見える筈の広大な庭が、今は槍のような雨に防がれて花一つ見えやしなかった。
「春嵐」という言葉がある。
言葉の通り、春に吹く強烈な風を伴った嵐のことだ。
三月から五月頃まで、北から入り込む冬の冷たい空気と南から入り込む初夏の暖かな空気がぶつかり、急速に発達した低気圧が凄まじい暴風を生み出す自然現象。
特に、京都はそれが顕著だ。
ただでさえ夏は暑く、冬は寒いという土地であるから、その春嵐の勢いは他の都道府県のそれを大きく凌駕する。
そこに激しい雨も加わって、もはや外はとても春とは思えないほどに惨憺たる様子だった。
137
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:24:11 ID:fFFHkLRU0
テレビでは、ひっきりなしに「外に出ないでください」と叫ぶレポーターが映っている。
下のテロップでは避難勧告が出ている町の一覧がずらりと並んでいる。その中には、私が知っている市や町の名前もちらほらあった。
この様子では、流石に今日は来ない、いやそもそもどうやったって来れないだろう。
テレビを消し、ストーカーのように来る絵描きのことを想起する。
電車やバスですら飛びそうなこの嵐の中、こんな辺鄙な所にある屋敷まで徒歩で来れる人間などいてたまるものか。
これを機に、二度と来なくなるといいのだが。
そう思うと同時に胸が少し痛んだ気がしたが、私は気付かないフリをした。
*(‘‘)*「ではお嬢様、自室にお戻りください。私たちはもう一度屋敷内の点検をしますので」
いつもと変わらない様子で、ヘリカルはちゃきちゃきと屋敷の窓を締めたりと台風対策をしていた。
こういう時も冷静でいてくれる有能な人物が一人でもいるのは有り難いことである。
138
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:25:41 ID:fFFHkLRU0
ミセ*゚ー゚)リ(………あ、窓)
ふと、頭のなかに倉庫の窓のことが浮かんだ。
最近よく使っている、正門前が見れる倉庫の奥の窓。
気が付けば、私は自室へと戻らず倉庫へと歩き出していた。
あんな所に行く必要はない。仮にあそこの窓が開いてたとしても、屋敷に多大なダメージが加わることはまずない。
確認する意味も価値もない。いや、でも、念のため、一応。
矛盾する考えが脳内で衝突を繰り返しながら、私は勢いよく倉庫の扉を開ける。
分厚い雲によって日も入らず、暗い倉庫内。
僅かな光だけを頼りに中をゆっくり進み、窓へと歩く。
窓は閉じられていた。
流石はヘリカルだ。隅の隅まで管理が行き届いている。
ただでさえ最近は人手が少ない中、本当によくやってくれる子だ。
これで一安心だ。あとは自室に戻って、ゆっくりと本でも読んで過ごせばいい。
明日の朝にはこの嵐も止んでいることだろう。
そう思い、なんとなく窓をちらりと見た瞬間。
ほんの一瞬だけ風が止み、雨が止まり、窓の奥にある外の景色が見えた。
正門の前。木々が強風によって揺れる、その隙間。
139
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:26:05 ID:fFFHkLRU0
( д )
居る筈のない影が、見えた。
140
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:28:17 ID:fFFHkLRU0
ミセ; ー )リ「―――っ!?」
弾かれたように屋敷を出て、私は玄関へと駆けだした。
途中ですれ違った使用人たちの制止の声を振り切り、私は無我夢中で厳重に閉ざされた玄関の施錠を開けていく。
玄関を開く。同時に、吹き飛びそうなくらいの風と雨が全身を襲った。
必死に堪え、ゆっくりと足を進める。
まだほんの数秒しか経っていないのに、湖に落ちたかのように一瞬で体がずぶ濡れだ
そんなことも一切厭わず、私は外へと駆けだした。
ミセ; Д )リ「―――絵描き!!!」
雨にも風にも負けないくらいの大声で必死に叫ぶ。
靴も履いてない状態でグズグズになった地面を遮二無二駆ける。
喉に振動はある。私は今、確かに叫んでいる。
なのに、自分で自分の声が聞こえない。それほどに猛烈な強風だ。
それでも尚、諦めずに私は進む。
後ろからヘリカルの声が聞こえたような気がしたが、気に留めることなく懸命に正門へと向かう。
いつもならほんの数十秒で辿り着ける筈の門が、まるで遥か彼方にあるような心地だった。
141
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:29:01 ID:fFFHkLRU0
ミセ; ー )リ「絵描き……絵描き!ねぇ、聞こえてる!?ねぇ!!」
ギシギシと激しい金属音を立てながら揺れる正門を開き、その傍らに立っていた絵描きにようやく手が届く。
彼は背中に何か大きな四角い荷物を持ったまま、石像のように動かず固まっていた。
肩に手を置き、全力で声をかける。
この嵐のせいで、こんなに近くに居るのに声が届かないのか。
いくら何でもおかしい。そんな刹那の違和感を覚えた次の瞬間、絵描きはゆっくりと私に凭れるように倒れ込んだ。
ミセ; ー )リ「ちょっ…!?ちょっと、絵描き!?ねぇ、嘘でしょ…!?」
( д )「……………」
ミセ; ー )リ「起きて…!!ねぇ、起きてよ!!笑えないわよそんな冗談…!!ねぇってば!!」
肩を揺らし声をかけるも、彼は指一本動く気配が感じられない。
後ろからヘリカルを始めとした使用人たちが駆けてくる。
彼らはぐったりとした絵描きを見てほんの一瞬固まったが、すぐさま私の代わりに彼を担いだ。
142
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:29:43 ID:fFFHkLRU0
*(;‘‘)*「ミ、ミルナ君…!?お、お嬢様も大丈夫ですか!?早く屋敷に…!」
ミセ; ー )リ「私はいい!!それより…それより、絵描きを!!早く!!急いで!!」
ミセ; Д )リ「タオルとか、お湯とか…何でもいいから、体を温めるもの用意して!!早く!!」
ヘリカルから差し出された手を拒み、とにかく彼を何とかすることだけを考える。
屋敷に戻りながら、使用人たちに担がれた絵描きの横顔が見える。
彼はとても生者とは思えないくらいに、青く冷たい顔色をしていた。
143
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:30:30 ID:fFFHkLRU0
*
( -д゚ )「ん……?」
目が覚めると、暖かく、絢爛な部屋の中にいた。
雲の上にいるのかと思うくらいに柔らかくてふわふわとしたベッドの上。
上体を起こし、深呼吸を一つ。
頭にかかっていた霧が、ゆっくりと新しい風に吹かれて消えていく。
( -д゚ )(……さっきまで、確か、待ってて…)
落ち着いて、思い出せるだけの記憶を復元していく。
そうだ。僕は確か、堂島家の正門前でいつものように立っていた。
144
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:30:58 ID:fFFHkLRU0
朝起きると、ニュースで予期されていた以上の大嵐が来ていた。
いつも使う電車は当然のように運休。バスの方も検索してみたが、もちろん動いていなかった。
それでも、行かなければいけないと思った。
持ち出した傘は外出後数秒で手を離れ、それでも土地勘だけを頼りにここまで進んだ。
嵐に揺れる正門の前で、いつものようにお嬢様を待った。
自分なりの謝罪をするために。
意識どころか体そのものが吹き飛ばされそうになる中、僕は朦朧とする中で、ひどく安心するような声が聞こえたような気がした。
すると、ずっと張っていた気が緩んで、一気に体から力が抜けて――。
記憶のゆっくりと辿っていると、遠慮がちなノックが扉から響き、ドアが開いた。
そこから現れたのは、この一ヶ月、ずっと会いたいと思っていた少女だった。
145
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:33:59 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「………」
( ゚д゚ ;)「…お、お嬢様……」
目は合わない。
あの冬の夜と同じ暗さが彼女の表情に残ったまま。
それでも、こうしてまた会えたことに、僕はどこか嬉しさを感じていた。
( ゚д゚ ;)「え、えっと…その、お久しぶりで…」
ミセ* ー )リ「何しに来たの」
さっきまで自分の身体を襲っていた豪雨の同じくらいに冷え切った声。
その声に、僕は自分が如何に浮かれていたかということを自覚する。
甘えてはならない。緩んではならない。
僕は紛れもなく、彼女を傷つけた加害者なのだから。
146
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:34:44 ID:fFFHkLRU0
( -д- ;)「……謝りに、来ました」
お嬢様の顔を正面から見つめながら、続けてはっきりと「申し訳ありませんでした」と口にする。
彼女は僕の言葉を聞いても、一切こちらを見ようとはしないどころか、ドアに凭れかかったまま腕を組んで動かない。
沈黙が流れる。その間ずっと、僕はただ黙ってお嬢様を見つめていた。
ミセ* ー )リ「……動けるようになったら、荷物をまとめて帰りなさい」
先に沈黙を破ったのは、お嬢様の方だった。
彼女はそう言った後、振り返ってドアに手をかける。
まずい。咄嗟にそう思った。
せっかく、久しぶりに会えたのに。ようやく、またこうして屋敷に入って、彼女の顔が見れたのに。
こんなチャンスはもう二度と、一生来ない。
この機を逃せばもう、お嬢様と話せる日はない。
足りない知恵を寄せ集め、お世辞にも良いと言えない頭を捻る。
すると、お嬢様の言葉に出た”荷物”という言葉に光明が見えた。
( ゚д゚ ;)「に、荷物!」
ミセ* ー )リ「……?」
( ゚д゚ ;)「あ、あの…僕が持ってたあの、四角くて大きな荷物、ありませんでしたか」
僕の言葉にお嬢様はピタリと止まり、ドアから手を離す。
そしてゆっくりと部屋の隅を指差した。
彼女が指し示した先には、何重にも防水仕様の白い布で覆われた、僕の荷物が壁に立てかけられていた。
147
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:35:32 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ ;)「あ……!!」
慌ててベッドから飛び起き、荷物へと駆け寄る。
布に触れる。これ自体はひどく湿気っているが、おそらく中身の損傷はさほどない筈だ。
ミセ;゚―゚)リ「ちょ、ちょっと…!急に動いちゃ…!」
お嬢様の声がそこで止まる。
振り向くと、彼女はまるで何かしてはいけない失言をしたかのように、口元を抑えて気まずそうに立っていた。
ミセ; ー )リ「……なんでもない。こっち見ないで」
ミセ* ー )リ「元気そうならいいわ。じゃあ、さっさとこっから出ていって――」
( ゚д゚ )「お嬢様」
布に手をかけ、彼女を呼ぶ。
染みついた嵐の水分が手に滲み、ひどく不快な冷たさが指に纏わりついた。
148
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:36:31 ID:fFFHkLRU0
( д )「……本当に、申し訳ありませんでした」
( д )「僕は…僕は貴女に、本当に酷いことをした」
ミセ* ー )リ「……」
彼女からの返答はない。当然だ。
本当なら、僕の声も姿も、存在さえ認識したくない筈だ。
もしも僕が被害者の立場だったらもう、何があっても関わりたくないと思う。
それだけ僕は彼女の酷いことをした。償っても償いきれないほどに。
ミセ* ー )リ「……そういうの、いいから」
ミセ* ー )リ「もう、さっさと出て行ってよ」
震える声が鼓膜を揺らす。
言葉の端々にまで宿った”拒絶”の意思。
それを聞いてなお、僕は構わず話を続けようと口を開く。
149
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:37:49 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ ;)「謝ろうと思ったんです」
( ゚д゚ ;)「凄く…本当に自分勝手だけど、とにかく、貴女に謝りたかった」
口にした内容のひどさに改めて自分で驚く。
勝手な都合で、人を傷つけて、挙句の果てには相手の迷惑になると分かっていながら毎日のように押しかけて。
最終的に嵐で倒れて、介抱までしてもらって、それ以上まだ迷惑をかけるのか。
( д ;)「でも…どう謝ればいいのか分からなかった。僕は、何にもない人間だから」
( д ;)「言葉なんかじゃ絶対足りない。けれど、僕が貴女にあげられるものなんて、何一つない。あったとしてもそれは、貴女からすれば何の価値もないものばかりだ」
冷静な自分が心臓に杭を指すような感覚がある。
それでも、どうしても、僕は見せたいものがあった。
どうしても、伝えたいことがあるのだ。
150
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:38:33 ID:fFFHkLRU0
( д )「ずっと、ずっと考えてたんです。あの冬の日から、年が明けて、春になっても、ずっと」
( д )「貴女に何をあげられるかって考えてた。何をどうしたら謝れるかって、ただそれだけを考えてた」
( ゚д゚ )「……その答えが、”これ”でした」
布を持つ手に力を込める。
雪が解け、花が咲いて、桜が咲き始めた今の今まで、只管に手を動かして用意していた僕の”答え”。
出来上がった時に思った。結局、これは只の自己満足なんじゃないかと。
けれど、僕が辿り着いた答えを唯一形にする方法は、僕にとってこれしかなかった。
幾重にも重なる布を丁寧に解く。
少しずつ、その厚みはなくなっていき、中のものの影が濃くなっていく。
( ゚д゚ )「…我儘だって分かってるけど、でも、本当に、謝りたかった」
( ゚д゚ )「言葉じゃ、足りない。僕の何をあげたって、許してもらえないかもしれない。そもそも、何て言って謝ればいいのかすらも、これだけ経って分からなかった」
「だから」と小さく呟いて、最後の布を勢いよく捲る。
天井の瀟洒な明かりが、中から現れた”それ”を眩く照らした。
151
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:39:22 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ )「………だから」
( ゚д゚ )「…だから、描きました。僕が一番、描きたいと思ったものを」
( ゚д゚ )「僕が、心から願っているものを」
それは、一枚の絵だった。
お嬢様や僕はおろか、この部屋にあるどんな家具よりも大きなキャンバス。
その中心、カラフルな花々を背景に、一人の少女の後ろ姿が描かれている。
そして、その手には茶色の光沢を放つ、高級感のある弦楽器が握られていた。
上の部分からは薄桃色の花びらが。地面の部分には、青や赤、黄色といった四季折々の花が咲いている。
その真ん中、こちらに背を向けて、ゆったりとヴィオラを弾いている少女。
灯りとして描かれているのは、右上にある満月のみ。
深い夜の海を描いたようなバックに、たった一つの月だけが、少女とヴィオラ、そして季節外れの花を照らしている。
それは、あの春の夜を描いた絵であった。
152
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:40:49 ID:fFFHkLRU0
ミセ*゚ー゚)リ「………!」
お嬢様は何も言わず、ただ目を見開いて僕の描いた絵を見つめていた。
強がるような手の力みは消え、震えていた肩を心無しか収まったように見える。
彼女はただじっと、信じられないものを見るみたいに固まったまま動かない。
( ゚д゚ )「――最初は、お金目的でした。僕は自分に言い訳をしながら、貴女のプライベートを人に漏らした」
絵を見つめたままのお嬢様に話しかける。
あの冬の日までかけていた言葉とは違う。正真正銘の本音。
ずっと隠していた、ずっと僕が彼女にしていた、酷いこと。
153
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:42:15 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ )「…でも、貴女の音楽を聴いて、仕事なんて関係なく、貴女のことを知りたいと思うようになった」
( ゚д゚ )「貴女のヴィオラが、今まで出会った何よりも綺麗に思えた。僕は…何を犠牲にしても、どうなっても、貴女のヴィオラを描きたくなった」
( ゚д゚ )「信じて貰えないだろうけど、ヴィオラを聴きたいって言葉は、本当に、少しも嘘じゃない」
震える声を隠すように、深く頭を下げた。
( д )「…二度と話しかけるなというなら、絶対に、貴女の前では口を開きません」
( д )「でも、せめて、貴女のヴィオラを聴けるくらいの距離に、僕を居させてくれませんか」
( д )「僕は、ぼくは――」
お嬢様のために何が出来るか、ただそれだけを考えていた。
貴女以外はどうでもよかった。本当に、彼女のことだけを想っていた。
言葉では足りない。けれど、僕が彼女に渡せるものなんて何もない。
そんな僕が必死に考えて、考えて、考え抜いた末に出した結論。
154
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:43:55 ID:fFFHkLRU0
( д )「――僕は」
( ゚д゚ )「僕は、僕の人生全部で、貴女を描きたい」
それが、これだった。
幼いころ、僕はずっと自分の好きなものだけを描いていた。
それがいつの間にか、描きたくないものばかりを描くようになった。
花を描いた。町を描いた。どうでもいい人を描いた。興味のない果物を描いた。知らない建物を描いた。
その全部を、僕の人生の軌跡を全て燃やしたっていいくらいに。
それほどに僕は、ヴィオラを弾くお嬢様の姿に憧れた。
あの夜の少女に、僕は何より美しい月明かりを見たのだ。
自分の人生そのものをインクにして、たった一人の少女だけを描く。
それが、僕の出した結論だった。
155
:
名無しさん
:2024/04/30(火) 00:46:47 ID:fFFHkLRU0
ふと、春花のような香りが鼻腔を擽った。
顔を上げる。すぐ目の前に、お嬢様の顔があった。
彼女の手がこちらに伸びる。細くてしなやかで、なのにどこか力強さを感じる、アザレアを思わせる程に美しい指。
それが、僕の額を強く弾いた。
鋭い、けれど何だか懐かしい痛み。
僕は額を抑えようともせず、じっとお嬢様を見つめる。
彼女はじっと下を向いたまま、どこか遠慮がちに、僕の服の袖をちょんと摘まんだ。
ミセ* ー )リ「………凄く、傷付いた」
手の震えが服を伝っている。
一度も聞いたことのない弱々しい声。
そうだ。この子だ。僕が酷いことをしてしまったのは、この子に対してだ。
僕は、こんな普通の女の子を傷つけたのだ。
156
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:49:49 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「でも、嘘吐いてたのは、私もだった」
全く意図していなかった言葉に驚き、下を向く。
身長差で、お嬢様の顔は見れない。
ミセ* ー )リ「私も……私も、アンタにいっぱい嘘吐いた。言ったことを言ってないとか、他にも、たくさん酷いことも、言った」
ミセ* ー )リ「………ごめん、なさい」
彼女の顔が、ぽすんと僕の胸に埋まる。
サラリとした髪の感触が少しくすぐったく感じた。
ミセ* ー )リ「私のこと、描いてもいい。これからも傍に居ていいから、許すから。ヴィオラ、聴かせてあげるから」
ミセ* ー )リ「もう、裏切らないで。私も」
ミセ* ー )リ「――私も、もう嘘、つかない」
続けられた「ごめんね」という言葉と共に、お嬢様の顔がゆっくりと僕に向く。
涙で濡れた瞳と長い睫毛。二度目の、彼女の泣いた顔。
随分と久しぶりな、ずっと焦がれていた表情が、そこにあった。
157
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:50:42 ID:fFFHkLRU0
( д )「……ごめんなさい。誓います、お嬢様」
( ゚д゚ )「絶対に、もう、裏切りません」
ゆっくりと、怖がらせないようにそっとお嬢様の小さな体を抱きしめる。
自分より二回り以上も小さい、少し力を入れれば容易く折れてしまいそうな、華奢な体。
ヴィオラは、ヴァイオリンよりも少し大きい楽器だ。
ただ支えるだけでも相当な力が必要で、更に美しい音色を奏でるには、それ以上の体幹と絶妙な筋肉が必要になる。
そんなヴィオラをこんな花のような体で、あれだけ自由に弾いていたのか。
漫然とした動きで腕をほどき、顔を見合わせる。
瞳はまだ濡れたままだが、そこから新たに雫が流れる様子はない。
ふと、静かになったと思って、窓の方を見る。
いつの間にか、あれだけ五月蠅かった嵐は収まっていたようだった。
158
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:52:48 ID:fFFHkLRU0
ミセ* ー )リ「……そういえば、さ」
急に顔を赤らめて、お嬢様が僕の腕から離れる。
何かを誤魔化すみたいに口を開いた彼女は、しばらく目を泳がせた後、テーブルの上に置いてあった本を手に取る。
そこから取り出されたのは、以前自分が彼女に渡した蒼花の栞だった。
ミセ* ー )リ「これのお礼、してなかった」
ミセ*゚ー゚)リ「本当はね、ずっと何かしたかったんだ」
栞を丁寧に両手で持った彼女が、「何かないか」と目で訴えかけてくる。
一度は無礼にも断った、お嬢様からの返礼。
あの時とは違う。許されて早々、僕は図々しくも一つの願望を口にすることにした。
( ゚д゚ )「……出会った日の夜、覚えてますか」
ミセ*゚ー゚)リ「…微塵も忘れたことないよ」
お嬢様は笑って壁にかけられたままの僕の絵をちらりと見る。
春の満月の夜。桜の花びらが舞う中で、ヴィオラを奏でていた少女と、迷い込んだ絵描きの話。
( ゚д゚ )「…今年はもう、ちょっと、無理そうだけど」
窓から見える庭の景色。
その奥。僕らが初めて出会った桜の木。
先ほどまで轟々に吹いていた風のせいで、きっと昨日まで咲き乱れていた筈の桜は見事に散ってしまっていた。
だから。
159
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:53:46 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ )「また来年に桜が咲いたら…あそこで、ヴィオラを聴かせてくれませんか」
( ゚д゚ )「――今度は、堂々と、最前席で」
お願いというには烏滸がましい、図々しいにも程がある”わがまま”。
僕のような只の美大生が、一介の使用人が、加害者が、本来なら億の金を積んだとしても得られないようなコンサートのプラチナチケット。
僕の要望を聞いたお嬢様はほんの少しだけ驚いたように目を開き、その後すぐ、にっこりと微笑んで頷いた。
――あぁ、そんな綺麗な顔をするのか。
僕はもう、世界で一番綺麗なものを見たと思っていた。
あの春の夜に見た景色より、綺麗なものは他にないと。
けれど、違った。やっぱり僕は浅慮な人間だった。
どちらともなく笑い合う。今までの空白を埋めるみたいに、どうでもいい話が始まって、談笑が部屋を満たしていく。
楽し気な話し声が、僕の鼓動を上手く隠している。
160
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:54:42 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ *)
ミセ*^ワ^)リ
ヴァイオリンも、ピアノも、ヴィオラすらも鳴っていない。
天才と謳われた少女の手には、楽器ではなく、一枚の青い栞が握られているばかり。
きっと、彼女のファンが見たらがっかりするかもしれない。
ここに音楽畑の人間がいたら、普通の少女のように笑う彼女に、落胆するかもしれない。
それでも、僕にとっては、ヴィオラを奏でている彼女よりも。ヴァイオリンを持っている彼女よりも。
ただ普通に笑っているだけのお嬢様が、どんな花より可愛く見えた。
161
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:57:10 ID:fFFHkLRU0
*
京都の北側に、「糺の森」と呼ばれる緑豊かな原生林がある。
森と言っても、決して人里離れた山の奥なんて場所ではない。そこは、極めて一般的な民家が立ち並ぶ住宅街の中だ。
そんな所にこれほどの自然林が存在しているエリアなど、おそらく日本全国を巡ってもここぐらいのものだろう。
午前特有の澄んだ日光を感じながら、僕はゆっくりと車椅子を押している。
白いワンピースを大きな帽子を被って座っているのは勿論、正真正銘の令嬢だ。
( ゚д゚ )「良い天気で良かったですね。お嬢様」
ミセ*゚ー゚)リ「そうね……ねぇミルナ、このちょっとガタガタするのなんとかならない?」
( ゚д゚ ;)「ご容赦ください。あともう少しですから」
可愛らしく頬を膨らませるお嬢様をなだめながら、僕らはゆっくりと木々の下を歩く。
緑々しい葉の隙間から零れた陽光が白砂を照らすその様は、まさに自然が生み出したイルミネーションのように眩い。
少し息を吸い込めば、夏と秋が入り混じったような、豊かかつ爽やかな空気が肺を満たしていった。
162
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 00:58:22 ID:fFFHkLRU0
周りを見れば確かに人こそ多いが、その広大な道に人込みのような窮屈感はない。
カメラを持った男性や、仲睦まじげに歩く老夫婦。ジョギング中の男性。犬と散歩中の婦人。
賑やかでありながらどこかゆったりとした静寂感が、その互いの雰囲気を壊すことなく両立していた。
季節は九月の終わり頃。今日は、下鴨神社へ参拝に来ていた。
ちょうど日曜日で大学もない。それでいて、屋敷の人でもこの半年ほどで増えたから、取り急ぎ必要な業務もない。
暇を持て余していたところ、お嬢様から「暇なら何処か連れて行ってくれないか」と頼まれ、僕が選んだ行先がここであった。
特に目的もないから、道の途中にあった小さな屋台でベビーカステラを買ったり、写真を撮ったりしてゆっくりと進む。
神社の本殿でのお参りを済ませ、少し休もうと僕は近くにあったちょうどいい石の台座に腰掛ける。
隣を見ると、お嬢様はどこか遠くを見るような目で、鬱蒼とした社叢林を見つめていた。
昨日の雨の日とは違い、暖かな気温にほっと胸を撫で下ろす。
所々に小さな水溜まりが見えるものの、車椅子を押しながら歩くのには支障がない程度なのは本当に幸運だった。
163
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:00:05 ID:fFFHkLRU0
二ヶ月ほど前の夏頃。
とうとう、お嬢様は歩けなくなった。
完全に歩けなくなった訳ではない
だが、少なくとも外出をするには車椅子が必須となった。
彼女はよく笑うようになった。
使用人に当たることもなくなり、旦那様やヘリカルさんは「昔に戻った」と涙ながらに喜んでいた。
けれども、彼女の体を蝕む病は確実に、ゆっくりと進行していた。
ミセ*゚ー゚)リ「あ!ねぇねぇミルナ、あれって何の花かしら?」
お嬢様の無邪気な声にはっと意識を戻す。
彼女が指を差した方向には、気品あふれる紫を纏った萩の花が咲いていた。
すっかり暑さを失った涼風を浴びつつ、座ったままなんでもないことを話す。
先日描いた絵のこと。夏休み終わりの授業がしんどいこと。
僕のなんでもない話に、お嬢様はきちんと耳を傾けて、時折花が咲いたような笑みを見せる。
その様子は、とても病に冒された少女とは思えないほどに華やかだ。
164
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:01:12 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ )「――手術を、受けられると聞きました」
談笑していた空気が一瞬張り詰める。
さっきまで笑っていたお嬢様の顔から表情がさっと消えた。
自分でも、あまり触れたくない話題だ。
だが向き合わなくてはいけない。
いくら気丈に見えても、どれだけ天才と謳われていたとしても。
僕はもう、彼女が普通の女の子であることを知っているから。
病に侵され死を待つ日々の怖さは、誰よりも理解できるつもりだから。
ミセ* ー )リ「……お父様ったら、ホントお喋りね」
呆れたようなため息が秋風に乗って飛んでいく。
上空から降り注ぐ明澄な木漏れ日が白い服に反射して、どこか神々しさすら感じられる。
こうして見ると、とても病人とは思えない美しさがあった。
165
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:02:25 ID:fFFHkLRU0
ミセ*゚ー゚)リ「年明けくらいかな。手術、決まった」
彼女は眼前で揺れる花を見つめながら、ぽつぽつと語り始めた。
東京で、最新鋭の手術を受けられることになったこと。
けれど、確実に成功する保障はないこと。
仮に無事に終わったとしても長いリハビリが必要で、絶対にまた音楽が出来るようになるとは限らないこと。
僕は何も口を挟まず、ただ黙って彼女の話を聞いていた。
理解できなかった訳じゃない。彼女の手術に賛成していた訳でもない。
ただ、彼女の手がほんの僅かだが震えていることに、気が付いたからだった。
( ゚д゚ )「――怖い、ですか?」
説明が終わり、僕の口から出た疑問は単純な疑問だった。
僕と彼女の間に交わした、一つの約束。
“嘘を吐かない”。あの春嵐の日に誓った密約。
お嬢様は僕の言葉に少し怯んだ様子を見せた後、黙ったままコクリと頷いた。
166
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:03:30 ID:fFFHkLRU0
座って話をする僕らの前を、まばらな人影たちが駆けていく。
なんでもないことのように足を動かし、自然に歩いていく人たち。
彼らや僕が何の気なしにしていることは、今や、お嬢様にとってはヴィオラの演奏よりも難しいことだ。
僕はじっと視界の奥の欅を見つめながら、ただ、お嬢様の手術のことについて考えていた。
受ける他はない。そんなことは分かっている。
このままいけば手足どころか、彼女は呼吸すらままならなくなる。
手術を受けないということは、それは確実に死を迎えてしまうということ。
お嬢様の選択なら何でも尊重する僕だったが、どうしてもそれだけは受け入れられない。
だが、気軽に手術を受けてくれなどとは口を裂けても言えなかった。
もう二度と彼女を傷つけるようなことはしたくない。かと言って、気安い慰めの言葉など何の薬にもならない。
熟考の果て、僕が口にした結論は、ひどく陳腐なものであった。
167
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:04:11 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ )「…”なんでもお願いを聞く”というのは、どうでしょうか」
一体何を言っているのだろうか、自分は。
後悔してももう遅い。既にお嬢様は、目を丸くしたままこちらの方を向いている。
どうにか林道を駆ける風に紛れて聞こえてないかとも期待したが、しっかりと彼女の耳に届いてしまったようだった。
少し前から考えていたことであった。
お嬢様は来年の春にヴィオラを聴かせてくれることを約束してくれたが、自分が彼女にあげたものと言えば、ほんの数枚の絵くらいのもの。
今年の夏は色々と描いたが、所詮は一介の美大生の絵だ。しかも、そのどれもが大して変わり映えのない、一人の少女をモチーフにした絵。
とてもつり合いが取れているとは言えないことに、僕はずっと負い目を感じていた。
168
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:06:22 ID:fFFHkLRU0
お嬢様の目が少し泳ぐ。
「何か、自分に頼みたいことがあるのだろうか」と思うと、彼女は少し遠慮がちに上目遣いでこちらを見た。
ミセ*゚ー゚)リ「………1個だけ?」
シャボン玉みたいに、今にも消えそうな弱々しい確認の言葉。
それが普段のお嬢様からあまりにかけ離れた声色だったから、僕は慌てて首を横に振った。
( ゚д゚ ;)「い、いや…じゃ、じゃあ2個でも大丈夫ですよ!」
ミセ* ー )リ「………そっか。それだけか…やっぱり、まだ、怖いなぁ…」
( ゚д゚ ;)「〜〜っ、さ、3個!なら、3個までなら何でもやりますから!」
ミセ* ∀ )リ「言質取った」
は、と思うと同時に、彼女はいたずらっ子のようにべーと舌を出す。
こちらからはずっと死角だった、彼女の右手。
その手には、一体いつ用意したのか、お嬢様のスマホが握られている。
そして、こちらに見せられたその液晶には、明らかに何かしらの音声を録音中の画面が映し出されていた。
169
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:08:27 ID:fFFHkLRU0
ミセ*^ワ^)リ「3つかぁ〜!そっかぁ、じゃあ、何してもらおっかな〜!」
さっきまでのか弱い様子が、まるで陽炎みたいにはらりと消える。
お嬢様は屋台で綿菓子を買ってもらった子どものようにウキウキとした様子で、満面の笑みを浮かべていた。
やられた。そう思っても後の祭り。
お嬢様は少しだけ何かを考える素振りをした後、勢いよくこちらに指を一本立ててみせた。
ミセ*゚ー゚)リ「じゃあ、一つ目。アンタ、今年で卒業よね?」
( ゚д゚ ;)「は、はい…順調にいけば……」
ミセ*゚ー゚)リ「なら決まり」
今年の春、あっという間に僕は四年生へと進級していた。
今のところ何とか卒業に必要な単位は取れている。
まだ分からないが、このまま何事もなく授業を受け、最後の卒業制作さえ終わらせれば僕も晴れて卒業だ。
170
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:13:56 ID:fFFHkLRU0
ミセ*゚ー゚)リ「卒業制作、あるでしょう?」
( ゚д゚ )「は、はい…」
ミセ*゚ー゚)リ「それで、最優秀賞取りなさい。一番上のヤツ」
( ゚д゚ ;)「………へ!?」
ミセ*゚ー゚)リ「何よ。だって、どうせアンタが描くのって私でしょ?」
ミセ*^ー^)リ「私を描くなら、それくらい取って当然よね」
“いくら何でもそれは”と言いかけて、僕は寸での所で自分の口を抑えた。
『嘘をつかない』。僕がお嬢様に誓った、法律よりも憲法よりも、何よりも遵守すると決めたルール。
僕はもう、「何でもお願いをきく」とハッキリ口にしてしまったのだ。
171
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:15:17 ID:fFFHkLRU0
( ゚д゚ ;)「……が、頑張ります…」
ミセ# ー )リ「”頑張る”だぁ?」
( ゚д゚ ;)「と、取ります!絶対!」
ミセ*゚ー゚)リ「よろしい。じゃ、2個目はね…」
後悔に苛まれながら、二つ目の願いを待つ。
次はどんな無理難題が来るのだろう。いや、迂闊なことを言った自分が悪いのだが。
ミセ*゚ー゚)リ「私が手術で東京に行くまでの間、極力うちに来なさい」
ミセ* ー )リ「……ほら、最近、人増えたでしょ。教育係、ヘリカルだけじゃ足りないのよ」
身構えた全身から力がスッと抜けていく。
二つ目の願いは、特にどうということもない内容に聞こえた。
( ゚д゚ ;)「は、はい…それは全然…」
元より、出来るだけ屋敷に向かうつもりではあった。
今年の春から他のバイトは綺麗さっぱり辞めたし、旦那様から支払われる給金のお陰で金銭面の問題はある程度解消。何なら少しの余裕まである。
僕の了承の言葉を聞いたお嬢様は、満足気に「よろしい」と呟いた。
172
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:17:12 ID:fFFHkLRU0
ミセ; ― )リ「三つ目は……そう、ね…」
途端にお嬢様の端切れが悪くなる。
どうしたのだろう。まさか、一つ目のお願い以上のトンデモ内容を言うつもりだろうか。
最後の願いが何なのか。僕は少しの恐怖を感じながら彼女の二の句を待つ。
しばらくソワソワとしていた彼女は、少し僕から視線を外しつつこう言った。
ミセ* ー )リ「………私」
ミセ* ー )リ「”お嬢様”って名前じゃ、ないん、だけど」
いまいち、要領を得ない発言に首を傾げた。
( ゚д゚ )「えっはい、存じてますけど」
僕の返事に、お嬢様は少し不機嫌になったような気がした。心なしか、舌打ちをしたような気さえする。
とはいえ、どう返すのが正解だったのかも分からない。
お嬢様という呼び名は、もうかれこれ一年以上続けているが、別にお嬢様の名前を忘れた訳ではない。
まさか、そこまで耄碌したと思われているのか。一応、お嬢様よりも二つほど年下ではあるのだが。
発言の意図を汲み取ろうと頭を回す。
だが結論が出る前に、お嬢様は傍らの萩の花を見ながら呟いた。
173
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:18:31 ID:fFFHkLRU0
ミセ; ー )リ「………その、手術が終わって、帰って、きたら」
ミセ; ー )リ「”ミセリ”って……私のこと、名前で、呼びなさい」
( ゚д゚ )「………はぁ」
思わず気の抜けた相槌が口から漏れる。
その瞬間、お嬢様はまだ少し季節外れの紅葉みたいに頬を赤らめ、慌てた様子でこちらを向いた。
ミセ;゚―゚)リ「ア、アレよ!?アンタ、他の使用人とかのことは名前で呼ぶ癖に、私のことは、呼ばないじゃない!?」
ミセ;゚―゚)リ「そーゆうのが、その、不公平というか、ちょっと今時じゃないというか……」
ミセ;゚―゚)リ「そ、そそ、そーいうアレよ!別に、何かその、他意とかないから!!変な勘繰りしやんといてよ!!」
お召しになっている白いワンピースのせいで、より一層、赤くなったお嬢様の頬を映える。
その慌てた様子と、きっと無意識に出たのであろう関西弁が可愛くて、僕は何だか笑ってしまった。
174
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:19:14 ID:fFFHkLRU0
ミセ#゚ー゚)リ「な、なに笑ってんの!?」
( ゚д゚ ;)「…あ、い、いえ。何でも――」
三( -д- ;)「………うわっ!?」ビチャ
お嬢様を笑った僕に罰を与えるかのように、何か冷たいものが顔にかかる。
頬を拭うと、手には少し泥が混じった水が付着していた。
目の前の足元を見て、僕は遅れて理解する。
さっき通った自転車が、勢いよくあの水溜まりの上を走り、そのせいで飛沫が僕にまで飛んできたのだろう。
ミセ* ー )リ「……ふ、ふふっ…!」
何かを押し殺すような声が聞こえて隣を見る。
ほんの一瞬で形勢逆転。今度は僕がお嬢様に笑われる番だった。
175
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:21:06 ID:fFFHkLRU0
ミセ*^ー^)リ「あーおっかしい…天罰よ、バーカ」
( -д- ;)「…すいませんでした……」
ミセ*゚ー゚)リ「素直でよろしい。……はい、コレ、使って」
一頻り笑った後、お嬢様は僕に何かを差し出してくる。
彼女の手に握られていたのは、以前、自分がお嬢様に渡した青色のハンカチだった。
( ゚д゚ ;)「えっ…!い、いや、コレは…!」
ミセ*゚ー゚)リ「いーの、さっさと使いなさい。それとも汚れたまま私の車椅子押す気?」
取り下げられる様子のないハンカチをおずおずと受け取り、ささっと顔についた泥を拭く。
「洗って返します」と伝えるとお嬢様は首を横に振ったが、流石に汚れたものをそのまま彼女に渡す訳にはいかない。
176
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:21:58 ID:fFFHkLRU0
( -д- )「……約束します」
ハンカチを丁寧に鞄にしまい、改めてお嬢様の方に向き直った。
( ゚д゚ )「卒業制作、凄いものを描きます。誰よりも、どんな人のものより凄い絵を」
( ゚д゚ )「約束通り、僕の人生全部で、貴女を描きます」
須臾にも満たないほんの刹那、お嬢様は吃驚したような顔を見せる。
そして、数回の瞬きの後、向日葵が咲いたような笑顔を見せた。
二人並んで肩を寄せ合ったまま、秋風に撫でられて軽く目を閉じる。
「楽しみにしてる」というお嬢様の柔らかな声が、岩に染み入る雨のようにじわりと胸に広がった。
177
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:22:53 ID:fFFHkLRU0
*
一ヶ月ぶりの京都の空気は、やけに澄んでいるような気がした。
冬になり、気温が低いからだろうか。それとも、数日前までいた東京よりも近くに自然が多いからだろうか。
休日ということもあって、昼過ぎの京都駅は地元の人や観光で来た外国人たちでごった返していた。
だが、いつもならストレスと苛つきを感じていたが、不思議と今日は何も思わない。寧ろ、清々した清涼感さえ覚えるほどだ。
それは、久方ぶりの地元だからか、それとも、久々に誰の力も借りず、外を自分の足で歩いているからだろうか。
若しくは、ずっと会いたかった人に、今日やっと会えるからだろうか。
178
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:23:21 ID:fFFHkLRU0
駅を出て、少し歩いたところにあったカフェに入る。
中は外と違って、ポカポカとした暖かさで満たされていた。
注文後、すぐに来たカプチーノをゆっくりと飲みつつ、人を待つ。
以前、京都駅近くの芸大に遊びに行った帰り道、偶然入ったのもここだった。
スマホを開く。
なんてことのない会話の応酬が繰り広げられているトーク画面。
その相手方から来た、一番最新のメッセージ。
「午後3時前頃には着きます」
カフェの壁にかけられた時計も、スマホも、どちらもまだ午後2時にすらなっていない。
少し早く来すぎたかもしれない。
どこか浮かれている自分に少し恥ずかしくなりながら、私はじっと窓から見える往来に目をやった。
179
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:25:50 ID:fFFHkLRU0
彼が来たら、まず何の話をしようか。どんな顔をして、何て言おうか。
そんなことを考えながら私はちびちびとカプチーノを口に含む。
そういえば、彼の実家は花屋だったと言っていたが、それは何処にあるのだろう。
そこでふと私は、ミルナは一体どこの出身なのか知らないことに気が付いた。
彼が標準語以外を話しているところを聞いたことがないから、もしかしたら、関東の出身なのだろうか。
それならばいっそ道案内だのなんだのと理由をつけて、彼も東京に連れていけば良かったかもしれない。
なんて考えがほんの一瞬、頭の中をちらっと過った。
180
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:27:49 ID:fFFHkLRU0
年が明けてすぐ、私は京都を離れて東京へと向かった。
およそ二年ぶりの日本の首都は、正直、さほど魅力的でも何でもなかった。
昔からコンクールなどで東京に行くことは多かったが、あの街が好きだと思ったことは一度もない。
結論から言うと、手術は無事に終わった。
お父様が見つけてくれた、凄腕の医者。
私ですら気遅れするほどに無愛想でどこか機械的な男性だった。
しかし、腕は確かだった。いや、そんな表現では足りないほどに優秀だった。
入院の説明と手術の腕、何よりその後のリハビリを含めた諸々のケア。
そのどれもが、私の音楽家としての今後のキャリアを踏まえた上で、完璧に調整されていた。
今まで私が不安に思っていたことや、苦しんでいた闘病の日々は夢かなにかだったのだろうか。
そう錯覚しかけるほどの腕だった。全く、世の中にはとんでもない人間がいるものだ。
ミセ*゚ー゚)リ(普通に歩いている私見たら、ビックリするかな、アイツ)
あと一時間ほどで来るであろうミルナは、一体どんな顔をしてくれるだろう。
ふと、カップの中のカプチーノを見つめる。
揺れる淡い水面には、口角が上がっている私の表情がじんわりと映っていた。
181
:
◆gMoTB8ciTo
:2024/04/30(火) 01:29:10 ID:fFFHkLRU0
カップを置き、窓ガラスに映った自分を見ながら思考に耽る。
結局、私はアイツのことを、どう思っているのだろう。
最初は嫌いだった。というか、あの頃はどいつもこいつもが嫌いだった。
無暗に話しかけてくる姿がうざったかった。
歯の浮くような誉め言葉が耳に障った。
姉から貰った大事なハンカチを見つけて貰って、少しはマシなヤツだと思った。
ヴィオラを褒めてくれたことだって、悔しいけど、ちょっと嬉しかった。
一度は、裏切られた。
病を告げられた時より、ヴィオラを落としてしまった時より、ずっとずっと辛かった。
許したくなくて、栞だって何度も捨てようとした。
けれど、しつこく正門前に立つ彼の横顔を見る度に、本当の本当は安心していた。
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