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優しい衛兵と冷たい王女のようです 番外編 『暁の綾蝶』
1
:
名も無きAAのようです
:2015/07/20(月) 13:06:18 ID:VABT4D4M0
2板より出張してきました。
番外編投下します。
2
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:09:40 ID:VABT4D4M0
血は鉄の味がするというのは妙な話だ、とクーは思った。
血液は体内を循環することでその生命を持続させる。無くなれば生物は死ぬ。あるいは
死んだら無くなってしまう。
生命と極めて強固に結びついているその液体が、口に含めると無機物の味わいになると
は、いったいどういう理屈なのだろう。
そもそも鉄を口に含む機械だってあまりないというのに。
クーは血を浴びている。
目の前で人が倒れた。顔の中央から血が吹き出している。
宙に弧を描くほどの勢いはすでに無く、口元や喉、肩や胸に真っ赤な襦袢をじわじわと
広げている。
見知った人物だ。
「ドクオ」
自分の声のか細さに、クーは驚いた。震えてしまっている。喉の襞が痙攣を起こし、徐
々に熱を帯びつつある。
泣こうとしている。そんな反応を、クーはほとんど経験したことがなかった。感情を表
に出すことへの抵抗が常にあったのだ。
クーは他人が怖かった。何をされるかわからないことをおそれたために、どんな出来事
に対しても冷静に対処することを信条とした。
そうして過ごしているうちに、顔の筋肉が堅くなった。咄嗟の出来事にもほとんど驚か
なくなり、状況を見渡せる目を獲得していた。
感情の作り方をすっかり忘れてしまったとばかり思っていた。
だけれども、クーは今泣いている。
倒れているのがドクオだからだろうか。確かに彼とは、ほかの人よりは話していた。
親しかった、といっても過言ではないだろう。
3
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:11:09 ID:VABT4D4M0
「ドクオ!」
考え事の最中で、口から言葉が飛び出した。
叫ぶつもりなどなかった。頭の中と身体が上手く連携できていないようだ。
気がついたら彼に駆け寄っていた。鉄のにおいが鼻を突く。膝を突いて彼を抱えれば、
服の裾が血で滲んだ。
ドクオの鼻は無くなっていた。削ぎ落とされたのだ。一際真っ赤なその傷跡に、不格好
な二つの穴が開いている。
呼びかけても、ドクオは反応してくれない。身体を揺らし、肩を叩き、顔を撫でても、
青白い細面がぴくりとも動かない。
彼はひたすら昏倒していた。
うなり声がした。
振り向けば、大柄な身体。人の身体によく似ていたが、四つん這いになっている。その
口は大きく裂けており、頭の上には一対の尖った耳がある。
4
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:12:10 ID:VABT4D4M0
彼らは魔人と呼ばれている。
人と同程度の頭脳を持ちながら、身体に獣の部位を宿した種族。頭に耳を生やすだけの
者もいれば、身体を自在に獣へと変貌させる者もいる。
300年に突然現れた彼らの出自には戒厳令がしかれており、いまをもってなお公には明
かされていない。
魔人は自分の前足に鼻を寄せてにおいをかいでいる。
爪の先が赤くなっている。先ほどドクオを襲った爪だ。
この魔人が飢えていたことをクーはよく知っていた。
村の羊が襲われる事件は数年前から話題になっており、ここ最近は特にその頻度が増え
ていた。
餌にありつけない魔人が森の中に潜んでいると、村の誰もが推測していた。
しかしその魔人をクーが介抱していたことについては、誰にも気づかれていなかった。
「君」
クーが呼びかけると、魔人はにおいを嗅ぐのをやめてクーと向き合った。白く濁りがち
な瞳を見据えながらクーは言う。
「彼を運ぶのを手伝ってくれ」
5
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:13:12 ID:VABT4D4M0
反発するようであれば刺し殺そう、と考えていた。
怒りがあった。それを怒りだと気づくまでに、鈍った内面では時間がかかりすぎてしま
ったが。
魔人は低く唸ると、ドクオのそばに近づいた。
長い爪がドクオに食い込みやしないかと、クーははらはらしながら見ていたが、杞憂だ
った。
魔人は意外なほどに繊細にドクオの背中を支えて立ち上がった。
内側の怒りがあっけなく鎮まるのをクーは感じた。
ドクオに申し訳ないとは思いつつも、仕方がなかった。クーの心は、自然や魔人と親し
む方に傾いていた。
昔から傾き続けている価値観は簡単には揺るがない。
丈の長い薬草で鼻の傷口を縛り付けたのち、村の外れの診療所を訪ねた。
力強く入り口を叩き、ドアが開くと察すると、すぐに植え込みへと隠れた。
眠そうに挨拶をした医者の、驚きの悲鳴が通りにこだまするのを聞いて、クーと魔人は
その場を後にした。
親友を傷つけてしまった自分に、もう戻る場所などない。
時は早朝。血のにおいにももう慣れた。道行くクーの傍らを、一頭の赤い蝶がひらりと
舞った。
6
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:14:36 ID:VABT4D4M0
何にも属さないという、軽やかすぎる状態に慣れるまでに、三日とかからなかった。
村人であることも、話し好きだが自分とは反りの合わない家族がいたことも、学び舎に
通っていたことも、遠い過去となって記憶の奥に沈んでしまった。
クーは森の中にいた。
カシやブナの木に見下ろされ、草花に見上げられながら、獣道をひたすら歩いた。遅い
か速いかと問われれば、遅く、それでいてふらふらと。
目指す場所は西北にあるエウロパの森だ。
北と西の隣国にも広がるその森は、かねてより魔人のすみかとして知れ渡っていた。
もっとも、その中を見たことがある者はほとんどいない。その実態は深い木々の奥底に
隠れてしまっている。
さらにいえば、エウロパの森を目指していたわけではなかった。行ったことのない土地
に期待を寄せすぎるほど弱り切ってはいなかった。
一番の目的は人のいる場所、かつて自分の暮らしていた村からできる限り離れることで
あり、森の中で自然に包まれていればその目的はもう達成されていた。
7
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:15:17 ID:VABT4D4M0
クーの歩みは遅々としていた。疲れたら木陰に座り、のどが渇いたら川の水を飲み、お
なかがすいたら果実を囓った。
それでも満たされなければ、魔人に頼んで野生の動物を仕留めてもらった。
弱っているとはいえ、彼には大きな鋭い爪があり、クーよりも遙かに狩猟の腕に長けて
いたし、人の身体も知っているためか肉の下処理にも慣れていた。
クーが休んでいるさなか、森の中をさんざん走って、ウサギやシカ、イノシシなどを捕
まえてきてくれた。
そのような場合はクーだって奮発し、川の水や山菜をふんだんに使って水炊きを作って
あげた。
とはいえ、狩りが常に好調とは限らない。時間がたつにつれて空振りも多くなった。
大量の血液や体液を浴びている上に、歩みも遅いものだから、野生の動物たちに恐れら
れる格好の的になっていた。
飢えは確実にクーと魔人の身体を蝕んだ。
動ける距離が短くなった。木々の隙間から見える池まで歩こうと決めていたのに半ばで
あきらめることもあった。
足がだんだん持ち上がらなくなり、息も続きにくくなった。
休みも増えていく。魔人はまだ体力があるため、餌をとってきてくれるが、それを満足
に食べる体力すら衰えつつあった。
肉だけでは足りなかった。果実で潤しても限界があった。クーの胃は穀物を欲した。米
でも麦でも粟でも稗でもかまわないから、腹を満たすものを食べたい。
クーの願いが実行に移されることはなかった。穀物は農業が育てるものであり、つまり
は社会の産物である。社会から隔絶された人間にそれを得る資格はない。
一度食べてしまえば二度とその味わいを忘れることはできないというのに。
8
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:16:09 ID:VABT4D4M0
「静かに」
魔人が鋭く口にした。
クーたちは、小さな湖畔に腰掛けようとしたところだった。
丈の長い水仙の花の陰に魔人が隠れ、クーもそれに倣って身を伏せた。
話し声がする。馬の足音もだ。はじめにかすかに聞こえていた音が、次第に大きくなっ
てくる。
やがてブナの隙間から姿が見えた。二頭の大きな馬と二人の手綱引き、そして大きな
籠。馬はおそらく魔人だろう。
籠の中には、人が十数名入っている。いくつかの頭からは獣の耳が生えていた。
「あれはいったいなんだ」
魔人が低い声で訊いてくる。
クーは言いよどんだ。が、魔人がまっすぐな視線で答えを要求してくるものだから、観
念して息を吐いた。
「三角貿易だよ」
9
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:18:14 ID:VABT4D4M0
クーは手近にあった木の枝を拾うと、足下の地面に大きめの三角形を描いた。
西の端を指しながら「テーベ」と言い、北の端を指しながら「マルティア」と添える。
そのあとは、学び舎での地政学の授業で習った内容を噛んで含めるように伝えた。
クーたちが今いる場所は、ラスティアの北西であり、西の隣国テーベと北の隣国マルティアに挟まれている。
二つの国は魔人の扱いで両極端だった。すなわち、魔人を使役することを是とするか、否とするか。
否とするテーベ国は工業立身国である。魔人の力に頼らないという国の方針のため、人間たちの作る製品で日常の些事をまかなおうとする技術が発達した。
工業を維持するためには資源が必要となり、それは国内にある山脈からまかなうことができた。
が、工業の発展に伴い資源需要も増しつつあり、今では他国の資源もある程度は確保せざるを得ない状況となっている。
しかし、得た資源を元に作った製品をそのまま輸入元の国に還元することはできない。魔人を使役できる他国では工業製品に価値がないからだ。
そのため、テーベは工業製品を一端中継地で別の製品へと変換する必要があった。
10
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:20:33 ID:VABT4D4M0
ラスティアの北西においては、工芸が鍵となっていた。
中継地はスィオネという街だ。
盆地に広がるこの中核都市は、魔人がくるより遙か昔から、織物、ガラス、鋳型といった工芸品製造業で栄えており、魔人が来てからもその担い手は人間のままだった。
魔人がいかに力強く、実直で、超能力にも似た不思議な力を持っていようとも、工芸職人たちの持つ技術を真似ることはできなかった。
魔人を必要としないスィオネの工芸業が欲したのは絹を作るための生糸や鋳型の原料となる鉄鉱等であり、その生成にはテーベ由来の工業製品が必要だった
。このため、マルティアから送られてくる資源で作られたテーベの工業製品は、その需要を維持できた。
三角貿易を成立させるためには、あとの一辺、スィオネの街とマルティアとの間の貿易関係が必要となる。
ここで中核をなしたのは、ほかならぬ魔人だった。
「テーベの国策で、魔人がよく国外退去を命じられている。住む場所を追われた彼らの多くは隣国のラスティアに流れてくる。
一方マルティアは魔人の活用が盛んな国で、フリーの魔人はいれば居るほど助かる。
そこに目を付けたスィオネの街の商人は魔人たち何人か集めて一括りに氏、労働力に換算して価値を付け、商品として市場に売り出しているんだ」
三角形の残りの一端をつつきながら、クーは説明を終えた。
11
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:21:18 ID:VABT4D4M0
じっと地面を見つめていた魔人が、口を開けてため息をついた。
人型であっても、顔は獣。その口は常人より大きく開く。生ぬるい吐息がクーの肌を覆った。
「奴隷、ということか」
クーは小さく息をのみ、身を強ばらせた。魔人の目に不穏な煌めきのあったのを見逃してはいなかった。
「待って」
クーは木の枝を置いた。
「魔人が人間に使役されるのはどこの国でも同じだ。奴隷に見えるだろうけど、マルティアでの生活が格別悪いとの話も聞かない。
それならば、今更目くじらを立てることもないだろう」
12
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:22:09 ID:VABT4D4M0
「それでも私は、それが気にくわないんだ」
魔人は強めに言い放った。
「私たちは生まれたときから人間に使役されるように言い伝えられている。それは何故なのか、知っている人はほとんどいない。
少なくとも私が生まれた集落では一人としてまともに答えてくれる大人は居なかった。
どうしてそんなルールがある。いったい誰が決めたんだ。どうして俺たちは、人間の言うことに逆らえないんだ」
問いかけはクーに向けられたというよりも、独り言に近かった。たまりにたまった感情の澱が口汚い言葉となって宙に浮く。
クーは魔人の横顔を見つめていた。
目線は合わない。彼は遠くを向いてしまっている。
先ほどの商人たちが歩き、過ぎ去ってしまった方向へ。
13
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:23:10 ID:VABT4D4M0
その魔人に名前は無かった。
生まれ落ちたときから集落を離れ、一人で生きてきたらしい。
耳の形や大きな口、尖った牙は狼によく似ていた。そのために、クーは彼のことをオオカミと呼ぶことにした。
出会ったのは、村の外れにあった崖の下だ。オオカミの足は真っ赤に染まっていた。
猟師に見つかって散弾銃を撃ち込まれ、逃げているうちに崖から転落した。
それが、彼が後に話してくれた経緯だった。
オオカミを見たクーはすぐに彼に駆け寄り、肩を支えて河原まで運んだ。
傷口を濯ぎ、乾いたタオルで拭き、傷口に効く軟膏を塗った。痛みに暴れそうになるオオカミを宥めもした。
「なぜ私を助けた」
歩けるようにまで回復したオオカミに、そう尋ねられた。
何故助けたのか自分でもわからないでいた。傷ついたオオカミを見たときに、ただできるだけのことをしてあげたいと思った。
でもそれだけで理由というのはあまりにさみしい。わざわざ口に出すのも気恥ずかしい。
クーは曖昧に笑い、それきりにした。
14
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:24:10 ID:VABT4D4M0
オオカミの介抱は毎日夜に行われ、次第にかける時間を延ばしていった。
会う時間が宵の時刻から黄昏時へと早くなり、分かれる時間が夜中から夜明けへと遅くなった。学び舎にも通っていないため、家にいる間はほとんど寝て過ごした。
人と関わろうとしなさすぎて、家族にも半ば見捨てられていたクーだから、そんな生活が可能だった。
オオカミはクーによく話してくれた。
自分の境遇のこと、魔人のこと、人間のこと、森のこと、世界のこと。
孤独な身の上であるからか、彼の思考は誰によることもないもので、クーの興味を引きつけた。
あるいは、孤独であるということに共感を抱いていたのかもしれない。
オオカミを介抱することに、クーは熱中した。傷が癒えたら、今度は飢えをしのぐ方法を探すのを手伝った。
手頃な牧場を教えてあげて、羊を襲う手助けをした。最初のうちは少なかったが、オオカミが復調するにつれてその数が増えていった。
15
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:25:09 ID:VABT4D4M0
クーはうれしかった。動くオオカミを見ていると、達成感が湧きあがった。
自分に何かできると気づく。その感情はとても熱く、甘美でさえあった。
そんな折りに、ドクオがオオカミに襲われた。
クーは傷ついたドクオを残し、オオカミと連れだって放浪する道を選んだ。
何も考えていなかった、といえば嘘になる。
怖かったのだ。
ドクオを襲った原因に自分が関係していると、ドクオに知られれば、忌避されるだろう。
ほかの人と同じように、彼が自分を奇異の目で見てくるであろう。そのことがとてつもなく恐ろしかった。
恐ろしいものを見るくらいならば、逃げてしまった方がいい。
16
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:26:12 ID:VABT4D4M0
村を離れてすでに十数キロは歩いた。人里離れた森の中、歩みは遅いが、クーの気分は軽い。
村のことやドクオのことを思い返せば絶対に重くなってしまうから、なるべく思い出さないように心配りしている。
オオカミも優しくしてくれる。
介抱されたことに恩義を感じているのだろうか。言葉は少ないが、魚や獣を捕らえては、処理をしてクーにわけてくれている。
クーもまたそれを静かに受け取り、粛々と食べた。
お腹が膨れるほどの量ではない。食欲はつねに胃の中でもだえている。しかし何かを食べてさえいれば、動くことはできる。
村というコミュニティを離れてみて、そんな単純なことに気づいた。
一人じゃとても気づけなかっただろう。
だからクーは、オオカミと一緒に歩いている時間を満喫していた。
自分はオオカミを支えてあげている。オオカミもまたクーを支えてくれている。
そんな役割分担が確固としてある今は、生きてきた中で一番充足しているとさえ思っていた。
たとえ二人の間に、ほとんど会話がなかったとしても、大した問題とは思わなかった。
17
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:27:09 ID:VABT4D4M0
オオカミは憤っていた。
商品として売られる同胞を見たときからだ。獲物を捕まえるときの動きが乱暴になり、夜寝る前に遠吠えをあげるようにもなった。
彼が落ち着きを無くしているのは明らかだった。
「大丈夫か」
一度だけ訊いた。
それがよくなかった。
オオカミはクーに唸り、睨みつけ、そしてまた押し黙った。
その日の夜はひたすら狩りを続けて帰ってこなかったので、クーは果実だけを食べてすごすはめになった。
オオカミはクーに心を開いているわけではない、とクーは痛感した。
そう感じると、自分が人間であることが悔しかった。
せめて魔人であればもっとオオカミのことがわかったかもしれないのに。
18
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:28:08 ID:VABT4D4M0
クーはオオカミをそっとしておくことにした。
それでいて、生活を支えることはおろそかにしなかった。
食材を調理し、寝床を整え、傷ついたオオカミの身体を洗った。
勘を頼りにマッサージをしてあげたら思いの外上手く言ったらしく、その最中はオオカミだって黙っていてくれた。
言葉などいらないのだ。
余計な心配もしなくていい。
生きている彼が気持ちよく過ごせているのであればそれだけで自分は充足できる。
少なくとも、村にいて一人黙り、何にも気力が湧かなかった頃よりずっといい。
これらのことをクーは自分に言い聞かせた。
一人の夜、獣除けの炎のゆらめきを見つめながら、何度も何度も。
何度でも。
19
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:29:10 ID:VABT4D4M0
叫び声がクーの耳に届いた。
一人、二人、三人以上。聞き取れないほどの折り重なりが、クーに鳥肌を立たせた。
声の方向におおよそのあたりをつけ、焚き火を消して駆けつけた。
時間はかかった。夜の森では月明かりしか頼りにできず、低木や根っこに足を取られもした。
それでも押し進み、空が青じみてくるころに、開けた場所で血のにおいを嗅いだ。
人がたくさん倒れていた。
先日見かけた商人と同じような風体をしている。身体の周りの草原が黒ずんで見えてるのはおそらく血で汚れているからだ。
夜営のためのテントは支えを欠いて不格好にくずおれている。中にはもう誰もいない。
歩き回って確認していたら、足下に気配を感じた。商人の一人が息を吹き返し、微かな呻きを漏らしていた。
「何があった」
明け方の空では相手の顔もよくは判別できない。だから質問するのも厭わなかった。
漏れる吐息に阻まれながら、商人の声はクーに届いた。
20
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:30:10 ID:VABT4D4M0
「オオカミが」
それだけわかれば、想像が正しいことを悟るのには十分だった。
草原を見渡して手がかりを探そうとした。
何でも良いから手がかりが欲しかった。草が折れている場所はないか。血で染まったところはないか。
「オオカミさん」としか呼べないことが、ひどく頼りなく悲しく思えた。
そのとき、獣の声が耳をつんざいた。人間の声とは明らかに違う濁りを帯びた叫びだ。クーは弾けるように森の中を駆けだした。
日はすでに昇った。空の色は群青から青に代わり、木々の色は緑へと回帰しつつある。
世界に色が戻る中、クーは腕を振るって、草木を踏みしめ、よろめきながらもひたすら走り続けた。
もう一度、小さめの叫び声がしたとき、木々の隙間から人影が見えた。
21
:
◆MgfCBKfMmo
:2015/07/20(月) 13:31:10 ID:VABT4D4M0
「待って!」
躍り出た場所は岩場だった。前のめりに倒れそうになるのをこらえ、諸手をあげて相手を見据えた。
二人いた。一人はオオカミで、岩に背をもたれて座り込んでいる。
もう一人は知らない男。クーと同じくらいの歳の若者で、右手には剣。その切っ先は血を浴びていた。
ひるんだクーは一瞬固まったが、オオカミがうめく声をきき、呪縛が解けたように彼の元へとかけつけた。
「オオカミさん」
胸から脇腹にかけて深い傷がある。流れ続けている血はまだまだ止まりそうに見えない。
オオカミは音を発していた。答えようとしているのだろう。しかしどの音も文字を刻むことはない。
呼吸をするのも辛そうで、震える吐息がクーの耳にかかる。今まで受けてきたどれよりも熱く、弱々しい吐息だった。
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