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民明書房〜FF編

1 ( ・ ω ・ ) </b><font color=#FF0000>(VhaLdA5Y)</font><b>:2004/03/14(日) 09:34 ID:XZINyPx6
おまいらがしってる民明書房を語れ。
参考文献
http://www.is.osaka-kyoiku.ac.jp/~a9608m/minmei.html
http://yokohama.cool.ne.jp/nikutaijin/minmei.html
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kemorin/minmei/minmei.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown/9445/o1.html

93(・ω・):2004/03/31(水) 08:07 ID:EqDwdmfw
今からここは三国志スレに変貌します
馬鹿どもせいぜい言い合ってろ
ついでに証拠の動画か写真のせてね

94(・ω・):2004/03/31(水) 08:50 ID:TsNTDxjQ
三国志ヲタクはほとんど荒らしだな1000までその勢いで荒らしていってね

95(・ω・):2004/03/31(水) 09:31 ID:cPQ8GXb.
流れをぶった切ってみんとす。

壁砂数虎威杭(へきさすとらいく)

 古代において剣は権力の証として一般人は持つことが許されなかった時代。
兵士たちは槌を振るい。幾多の戦場を駆け回っていた。
しかし。バランスの悪い槌は大変扱い難く。振るっては構えなおし、また振るうという闘い方しか出来なかった。
 そんな時。夜の見回りを行っていた兵士の一人が、無数の虎が壁に激突し、穴を開けている場面を目撃した。
俊敏な動きの出来ない虎が連続で突撃する様を見て、その兵士はそれを戦場で活かせないかと考えた結果。
複数の人間が単一目標に向かって、順番に槌を振るう技が編み出された。
そして、絶大な威力を持ったその波状攻撃は、壁をも打ち砕いた虎達に習って「壁砂数虎威杭」と呼ばれることとなった。
 今日に伝わるヘキサストライクは、槌を片手棍へと帰ることで一人でも行えるように改良を加えられたものであるが、
その起源に関しては伝えられず。今ではそれを知る者は極一部の者達だけだという・・・

民明書房刊「失われた世界 -武術篇-」より抜粋

96(・ω・):2004/03/31(水) 11:28 ID:bMhr66oU
>>90
うん。うざいです。
自分だけ言いたいことを言って、「これで終わり、FA」とか
いう人はもっとうざいです。

97(・ω・):2004/03/31(水) 12:59 ID:4AwE6YLA
破輪凄辣手(ぱわーすらっしゅ)

古代中国で剣と言えば、青龍刀のような片手で扱う曲刀が有名であるが、
両手で扱う大剣を扱う武術も盛んであったことは意外と知られていない。

唐の時代の達人、呉 黎孟(ご・れいもう)は、ある日、自らの突き技を強化する為にある修行法を考案した。
両手首に20kgもの重りを装着し、木の枝からぶら下げた輪の中心を両の手で正確に突く。
この修行法によって身につけた呉 黎孟の突き技は、最終的には突きの衝撃波で鉄の輪を破壊するまでに至ったことから「破輪凄辣手」と名付けられた。

中国では広大な大地での騎馬戦闘が主流である為、その後、両手剣を扱う武術は殆ど失われてしまったが、その技術は西洋に渡りいっそう花開いた。
15世紀頃より西洋で幅広く使われ始めた両手剣「クレイモア」は、呉 黎孟の名前をもじったものと言われている。

現代人が筋力増強の時に手首に付ける重りを「パワーバンド」「パワーリスト」等と呼ぶのも、上記の修行法影響を色濃く残していると言えよう。
        民明書房館「剣術今昔-チャンバラから殺陣まで-」より抜粋

98(・ω・):2004/03/31(水) 14:27 ID:3O48vUnY
ずっと民明書房があると思っていて、
いつか見つけたら買うぞと思っていたら・・・

甲冑軍隊アリの話で
「不破武流昆虫記」(ふわぶる昆虫記・・・漢字忘れた)
が出てきて幻想を崩されたのは俺だけ?(´・ω・`)

99キモい三国志オタクどもが氏んでくれることを祈りつつネタ投下:2004/03/31(水) 15:54 ID:bHzGzPGs
田中丈夫

時は幕末、とある村に田中弘ノ介という下級郷士いた。
剣の腕は三流以下、頭も悪く不細工で、努力もせず草双紙(当時のマンガ)を一日中読みふけるという体たらくであった。
草双紙に頭をやられた弘ノ介は突如として立ち上がりこう叫んだという。
「俺は勇者だ!俺が弱いのは勇者の剣が無いからだ!」
草双紙に描かれていた見慣れぬ西洋の長剣を見た弘ノ介はそれを勇者の剣と勘違いしてしまったのだ。
方々手を尽くして苦霊茂悪と呼ばれる剣(今で言うクレイモアだと考えられる)を手に入れた田中は意気揚々と村の道場主に勝負を挑んだ。
案の定勝てるはずもなく折角手に入れた苦霊茂悪を一刀のもとに叩き切られてしまう。
西洋の剣なるものは質が悪く切れ味など皆無であったのだが弘ノ介はそのことにすら気付かず再び勘違いをしてしまう。
「勇者たる者、自分で作り上げてこそ勇者の剣だ!」
そういった弘ノ介は村の鍛冶屋の寝込みを襲って殺し(正面からでは返り討ちだっただろう)そこで勇者の剣を作り出した。
当時弘ノ介が読んでいたとされる草双紙は「部龍背龍苦」だとされており、その草双紙には人が持ち上げることすら出来るはずもない巨大な剣が描かれている。
通説では当時、日本刀の圧倒的な切れ味と頑強さに恐れをなした西洋人達を皮肉った作品であると言われているこの草双紙を本気にした弘ノ介はまさにその通りの剣を作ってしまったのだ。
もちろんそれは人の持ち上げられるような物ではなかった・・・がなんと弘ノ介はそれを振り回し操って見せた。
なんとそれは中身が空洞になっているハリボテであったのだ。
村人達はそのことに気付かず弘ノ介を恐れるようになった。
調子に乗った弘ノ介は尊皇攘夷を俺が導いてやると脱藩し京に上って天誅を働くようになった。
そしてとうとう犯行現場を取り囲まれてしまった。
弘ノ介はここぞとばかりに勇者の剣を見せつけ、我こそは勇者ぞと名乗りをあげた。
それを見た捕り手たちは腰が引けていたが、そこに駆けつけたのが新撰組三番隊組頭の斉藤一であった。
斉藤は一瞬でそれがハリボテであることを見抜き、勇者の剣ごと弘ノ介の右手を切り落としてしまった。
「張子(はりこ)で勇者とは笑わせる、張子丈夫なぞ斬っても手柄にもならん」と嘲笑された弘ノ介は尻をまくって逃げ出した。
このことがおきてから竹光を差している者や腕の無い傾き者たちを田中丈夫、張子丈夫と呼ぶようになったと言う。
今でも自信だけは過剰にあり、腕の伴わない者を勇者と呼ぶのもこの名残だと言われている。
この時右腕を切り落とされ、剣を振れなくなった弘ノ介は実は生き延びていて子孫にいつか彼岸を達成せよと言い聞かせたとも言われている。
もしかすると今でも田中の血を引く者は物理的に不可能な勇者の剣を振り回すことを夢見ているのかもしれない。

       民明書房刊「世界珍人変人伝」より抜粋

100(・ω・):2004/03/31(水) 15:59 ID:bHzGzPGs
/pet かえれ >>96 三国志

101(・ω・):2004/03/31(水) 16:35 ID:4AwE6YLA
施苦熱湯(しぐねっと)

南朝時代、拳法を教える寺では、食料になる山菜等を山に採集しに出かける修行僧に熱湯をかけて送り出すという習慣があった。
この熱湯が完全に乾くまでに寺に戻れない物は未熟者とされ、乾くまでにより遠く、より多くの採集物を集めて来ることが誉れとされていた。
また、一部の地域では、ごく至近距離に同じような修行寺が乱立していた為、修行僧にかける施苦熱湯に、染料を用いてそれぞれの寺で固有の色をつけ、修行僧からしたたる施苦熱湯どれだけの広範囲に広がるか、を競っていた事もあるという。

現在、町の出口でガードが冒険者にかける「シグネット」は、この施苦熱湯が起源であることは言うまでもない。
        民明書房刊「Do 湯 love me?」より抜粋

102(・ω・):2004/03/31(水) 18:14 ID:bMhr66oU
>>100
うはw三国志ファンだと思われたw。
ちなみに三国志のことなんてさっぱり知らない。
言いたかったのは、だらだらくだらんレスが続いてて嫌気がさしていたこと。
で、さらにスルーすることもできずに(これ俺もだね。ごめん)言いたいことを
言っておきながらこの話題は終わりとか言う人がうざいっていったの。
終わりとか言う前にレスをするなって意味で。
ただし、これに関してはオレモナーなので消えます。

103100:2004/03/31(水) 18:40 ID:bHzGzPGs
>>102
そうでしたか、スマソ
ネタに感想言う程度ならいいと思うし反応無いとネタ作ってる人もつまらんとは思う
けど自分じゃネタも書かずサルベージもせず偉そうに批評するだけの香具師は本気でウザい
あくまで民明書房だしねw

>>101
なんと大変な修行かww

104(・ω・):2004/03/31(水) 19:12 ID:EqDwdmfw
棍振苦闘(コンフリクト)

はるか昔、モンゴル帝国において、皇帝フビライ=ハンが自国の武力を見せつけるために広く行った武闘大会が棍振苦闘である。
この競技を考え出した者はタ=ナーカという騎馬民族出身の宰相であった。
棍振苦闘は二人の闘技者にはめた首輪を鎖でつなぎ、手に持った棍棒でどちらかが絶命するまで殴りあうという凄惨なものであった。
しかし、毎月開催されたこの大会は全ての村から必ず一人ずつ闘技者を出さねばならず、断った村は大変な重税を課せられるという暴挙も行われた。
数年間続いたこの恐ろしい大会だがその凄惨さから帝国の信頼を著しく失墜する結果となり、これを考えた宰相タ=ナーカは自ら考案した棍振苦闘によって嬲り殺されるはめになる。
棍振苦闘はマルコ=ポーロによってヨーロッパに伝えられ、現在でも衝突を意味する言葉として残っている。
またマルコ=ポーロの東方見聞録にこの大会が記されていないのは、彼自身がモンゴル帝国の名誉のために削除したからだとも言われている。
当時、民衆はこう言ってタ=ナーカを揶揄したと言われている。
「愚か者は人を首輪でつなぐ、愚か過ぎれば自らを首輪でつなぐ」
これは愚か者は先も考えずに暴挙を重ねるという見本である。しかし愚か者はいつの時代にもいるものである。
愚か者はこの事例を戒めとして受け取ることが出来るのだろうか。

        民明書房刊「世界に名を残す非道な権力者達」より抜粋

105(・ω・):2004/03/31(水) 19:24 ID:5o3dtMCg
>>104
Gj(・∀・)イイ!!

106(・ω・):2004/03/31(水) 19:44 ID:4AwE6YLA
罵煮酒(ばにしゅ)

罵煮酒とは、奈良時代の高名な僧、鵜須(うす)上人が編み出した悪霊退散法である。
これは、清めた神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、
凄惨な修行を乗り越えて初めて体得できる。

この技の修行は、まず、毎日熱湯を口に含む事から始まる。
日に日に湯の温度を上げてゆき、最終的にはぐつぐつに煮え立った熱湯を口に含めるまでにならなければならない。
この技の極意は口に含んだ神酒の温度にあり、生半可な修行では温度が足りず、相手に満足なダメージを与えられないのだ。
長い歴史の中では、この技を体得した僧に「鵜須」の名を与えていた時代もあったようだ。
また、これの応用として、酒の噴射で相手の目を閉じさせる噴螺酒(ふらっしゅ)という技も編み出されている。

ちなみに、「煮え湯を飲まされる」ということわざは、
当時、罪を犯した人は出家させられ、寺でこの修行を強いられたことからきている。

        民明書房刊「神業研究-神の手を借りた男達-」より抜粋

107(・ω・):2004/03/31(水) 19:49 ID:4AwE6YLA
× これは、清めた神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、
○ これは、清めたのち鍋で煮た熱い神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、

仕事中にコソコソ書いてコッソリうpしてたから、他にもミスいぱい(;´Д`)

108(・ω・):2004/03/31(水) 19:52 ID:S8/Ot76M
ミスもスルーできるほどにハゲワラwwwww
ちゃんと神聖魔法だな!!!wwww

109 ( ・ ω ・ ):2004/03/31(水) 20:16 ID:Wz3XT2qM
細かいミスあってもそこが民明書房っぽくてイイw

110(・ω・):2004/03/31(水) 22:03 ID:PHKGD1M.
ぐつぐつと煮るとアルコールが飛んで酒じゃなくなると言ってみるテスツ


でも、>>106GJ

111(・ω・):2004/04/01(木) 18:22 ID:Jea.1l5Y
魚喰(うぉーくらい)

これは、戦国時代のとある漁村に端を発する。
当時、日本の漁村には、「魚喰らい」という風習が存在した。
毎年、村一番の大食漢が選ばれ、村人が集まる中で大量の魚を食べ尽くし、その年の大漁を願うのだ。
代表が、出された魚を食べ尽くすと、その年の大漁が約束されると言われている。
そうなると集まった村人全体が高揚し、よりいっそう仕事に力が入るようになるのだ。
この風習が元で、いつしか周囲を鼓舞させる行為を「魚を喰らう」と言うようになり、
時代と共に言葉が受け継がれて現在の形となったようだ。

魚喰らいの際、代表は魚を大量に食すことにより腹部が著しく膨張する為、
あらかじめ着衣の腹部をはだけておくことが多かった。
現在これを使用する者の装備品に腹部が露出している物が多いのは、
この風習が起源であることを裏付ける大きな証拠と言えるだろう。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

112(・ω・):2004/04/01(木) 19:06 ID:Jea.1l5Y
大祭(たいさい)

ここで言う大祭とは、実在する祭りのことを示す言葉ではない。
6世紀頃の日本の豪族、舌等罵(したらば)という人物が好んで使用したとされる、
人間の心理を上手く利用した戦法である。
これについての文献は存在せず、口伝によるエピソードがいくつか残るのみだが、
その中でも比較的有名なのが、「峠の大祭」だろう。
当時は、日本に仏教が伝来してもの凄い速度で広まっていた時期であり、
舌等罵の治める地域のそばにも阿柯摩(あかま)寺という国分寺が出来、多くの門徒が集まっていた。
ここの寺とはとかく争いが絶えず、舌等罵も苦々しく思っていたが、
国分寺である寺を表立って廃してしまっては朝廷への心証も悪い。
そこで、舌等罵はある一手を投じた。
「北の峠で大祭があり、離触酒(りふれしゅ)という、飲むと仏に近づける酒が振る舞われるそうだ」
舌等罵は、この噂を周辺各地に流布して回った。
この噂を完全に真に受けた阿柯摩寺の門徒達は、我先に峠に押し寄せ、そこで各々争って自滅したと言われる。
また、生きて戻った者も多くを語ろうとせず、周りの者の嘲笑を受け各地に散っていった。
この峠が、今では旅行通の間で隠れた観光名所にもなっている乱愚門徒(らんぐもんと)峠と言われているが、
有効な文献が残らない現在にあっては、その真偽は定かではない。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

113(・ω・):2004/04/01(木) 23:10 ID:Y0r67/4c
折角職人降臨してるのに下がりすぎage

114(・ω・):2004/04/01(木) 23:41 ID:jbFsaTDU
峠の大祭ハゲワラ 腹痛いw

リクエストしていいかな?
オニオンマラソン・ミスリルマラソン・キュスマラソン・分解祭り・銀髪祭りあたりキボンヌ

115(・ω・):2004/04/02(金) 01:18 ID:7wStTV6w
文化異奉

15世紀末の中国では、仏教・儒教・イスラム教・ヒンズー教
など、さまざまな宗教が存在したが、それぞれの宗教は
互いを認めず、婚姻はもとより、食料や衣服などの経済的
関係も存在せず、たとえ目の前で人が倒れたとしても、それが
異宗教の者であれば、医者を呼ぶことすらしないのが当然であった。
哲学者にして無神論者であった発智は、中国全体の発展のため
には経済的交流が不可欠であると考え、各地の村を訪ね歩き、
たとえ経済的交流を行なったとしても、それは各宗教の教えに
反するものではないと説いて回った。
これにより、村々での交流が急激に活発化し、特に鍛冶や織物などの
第二次産業を担っていた者は、手に入りにくかった材料が安く仕入れ
られるようになり、高値で売れたことから「発智のおかげで儲かった」と
喜んだという。
しかし、急激な経済の変化を危険視した政府により、発智は
歴史の闇に消え、村々の交流も、発智がいなくなると同時期に
一気に廃れていった。
後の歴史家は、互いの宗教を重んじながら、盛んに交流が
行なわれた発智の活動を「文化異奉」と名付け、以後、
経済活動が急激に活発になるごとに、この名はしばしば
登場することになる。

民明書房刊 「中国の経済活動における有名人百人」より抜粋

116(・ω・):2004/04/02(金) 15:32 ID:aPsFkqZU
「これより、罵須闘苦(ばすとぅーく)名物、鬼怨馬螺走(おにおんまらそん)を執り行う!」
「鬼怨馬螺走?なんじゃぁ、そりゃぁ。」
「なんだかまた悪い予感がするのぅ」


鬼怨馬螺走(おにおんまらそん)

その起源は古く、春秋戦国時代の中国にまで遡る。
斉の猛将、馬羅尊(まらそん)は、罪人たちによくこの競技をさせ、
見事完遂した者は精鋭として軍に引き入れたと言われる。
参加者は、悪似怨(おにおん)と呼ばれる、悪魔の姿を模した鉄の塊を全身に無数に装着させられ、街に放たれる。
それらは全て別の鍵がかけられており、参加者は、街の各地に居る鍵を持った人物を捜して回り、一つづつ解除していかなければならない。
制限時間は正午から日没までと定められていたが、並の人間では悪似怨の重みに耐えきれず、競技の途中で力尽きる者が殆どだったようだ。

この競技は、平安初期に日本にも伝わったが、その際、悪似怨は日本でポピュラーだった鬼の姿に変えられ、鬼怨と名を変えた。
この競技はその残酷さからいつしか行われなくなったが、当時の子供達がその競技を模して遊んだ「鬼ごっこ」は現在も形を変えて子供達の間で息づいている。

余談ではあるが、現在行われている「マラソン」の起源について、
当時馬羅尊が戦勝を伝える為に戦場から斉まで駆けた逸話が起源だ、という学者が近年増えていて、物議を醸し出している。

117(・ω・):2004/04/02(金) 15:34 ID:aPsFkqZU
        民明書房刊「スポーツ起源異聞」より抜粋


付け忘れた・・orz

118(・ω・):2004/04/02(金) 16:35 ID:em6wgMF6
作法我(さぽわれ)

茶道千家の始祖であり、茶聖と呼ばれる千利休には、
一般にはあまり知られない逸話が数多く残っている。

早くから茶の湯に親しみ、わび茶を習得した千利休は、
その茶の道で織田信長に取り入り、彼の死後豊臣秀吉についた。
天下一の茶匠として、北野の大茶会を取り仕切るなど活躍した。
茶会を取りまとめるにあたって、「利休思重流(りきゅうしえる)」という名の
回覧版のようなもの用い、思重流(思いを重ねた紙の集まり)を配って
茶道を求めるものに対して様々な情報を与えた。
これが現在のリンクシェルの元になったのは余りにも有名な話である。

利休はある日、豊臣秀吉に誘われ狩りに出かけた。
利休は茶道に関しては天下一品であったが、狩りに関しては全くの素人であった。
それどころか、弓矢はお金がかかるので、全く買い揃えていなかった。
怒った秀吉は、
「天下人たるもの狩人くらい本職の半分ほどは出来なくとは困る」
と利休を叱り付けたが利休は、
「作法、我にあり」
とだけ言い放ち、その場を立ち去った。
小田原の役後に秀吉の怒りをかい、自刃する引き金となった事件であった。

利休を惜しんだ当時の人は、
「本職を極めていれば、他の職業は半人前以下でも構わない」という意味で、
作法我(サポワレ)という言葉を使うようになった。

現在ではどちらかというと否定的な意味合いで使われる「サポワレ」も、
昔は茶聖を敬った非常に名誉な単語であった。

民明書房刊 「千利休が与える日本語」より抜粋

119(・ω・):2004/04/02(金) 19:51 ID:aPsFkqZU
>>114
オニオン以後他のも色々考えてみたけど、思い浮かばなかった(´・ω・`)

120(・ω・):2004/04/02(金) 22:27 ID:7wStTV6w
蓮家衣


現代では、複数の武芸者が協力することを連携と呼ぶが、その語源が
遠く9世紀初頭の中国にあることはあまり知られていない事実である。

当時、中国武術は体術、棒術、剣術、槍術などが競いあい、また、
それぞれの武術においても、新しい流派が次々と興されていた。
弓術の一派であった蓮家では、弓術において中国一の座を得んがために、
修行として槍術などの他の武芸者を相手に鍛錬を積むことを考えた。
しかし、蓮家が提示した報酬を目当てに集った武芸者の力量はまちまちで、
ほとんど素人同然の者までいたために、蓮家の者は彼らを3人ずつの
チームに分けてリーグ戦を行わせ、優秀な者だけを選び出し、各流派ごとに
数人ずつ採用した。
前任の者が辞めるごとに募集が行われたが、武芸者たちは、選抜が常に
チーム戦であることに目をつけ、個人の力量に加えて、チーム戦で的確な
判断のできることが、蓮家に採用される条件であるとの認識が広まって
いったのである。
蓮家に採用された者は、みな蓮色の闘着を支給されたため、この闘着を
指して蓮家衣と呼び、これを着ている者はチーム戦に優れた者であるとされ
たが、蓮家衣を着た者の中には、実際に各武術の互いの長所を生かす戦法を
考案した者もおり、そのうちいくつかの戦法は、今なお現代に受け継がれている。
有名な戦法としては、剣術を使う者が相手の注意を引き付け、体術を使う者が
拳打で打ち倒したり、槍術で相手の体勢を崩してから短刀でとどめを刺す
などがある。それぞれ華 宮捏、王 居功の考案とされる。
また、蓮家衣を着た武術家の中でも、剣術の麗 狭慈、斧使いの経 鉄嵐、
体術の流 葦羅の3人は特に洗練されたチームワークを誇ったことから、
麗経流三蓮家衣と呼ばれ、他の武術家から恐れられたという。

余談だが、蓮家のチーム戦で敗れた者は、髪を短く刈られ、髪が再び生え
揃うまで募集に参加する資格なしとされた。現代において、連携に協力しない
ことを単発(短髪)というのは、これが元であることは言うまでもない。

民明書房刊『武術と集団戦闘の奇妙な関係 - 中国編 -』より

121(・ω・):2004/04/02(金) 23:19 ID:aPsFkqZU
苦堕夫(くぅだふ)

クゥダフとは、現在亀の姿をした獣人の事を指すが、これにも実は語源が存在する。
古代中国において、秦の始皇帝の時代、捕らえた政治犯への刑に、辺道(べどう)という物があった。
受刑者の背中に、重さ100kgもの鉄で出来た亀の甲羅を背負わせ、死ぬまで鉱山で労働を強いたのだ。
受刑者は一生甲羅を外すことは許されず、重みで次第に腰が曲がっていったと言われる。人々はこの刑を受けた物達を、憐れみを込めて「苦堕夫」と呼んでいた。

現在ヴァナ・ディールに生きるクゥダフ達は、この刑を受けた苦堕夫達のなれの果てなのかも知れない。
        民明書房刊「世界処刑図鑑」より抜粋

122(・ω・):2004/04/03(土) 00:08 ID:G3o1vfIY
GJだらけだなw 職人マンセー

1つだけお願いするなら、当て字にはカッコ書きで読み方つけてくれるとうれすぃ。
苦堕夫(くぅだふ)みたいに。蓮家衣がれんけいってのは1行目で分かったけど、
ときどき最後まで分からないことがorz

123(・ω・):2004/04/03(土) 07:50 ID:9T8uqBSs
>>115の読み方解らねーw

124(・ω・):2004/04/03(土) 08:09 ID:EUhGUCz.
>>123
(ぶんかいまつり)じゃないかな?

125115-120:2004/04/03(土) 08:45 ID:xPpw/S/k
すまん。分からんかったか…。
それぞれ元は

文化異奉(分解祭り)
発智(パッチ)

華 宮捏(=核熱)
王 居功(=湾曲)
剣術の麗 狭慈(=サベッジ)
斧使いの経 鉄嵐(=スチールサイクロン)
体術の流 葦羅(=阿修羅)
麗経流三蓮家衣(レベル3連携)


文中に経 鉄嵐(スチールサイクロン)なんて書くと変だから
こういう場合はあとで意味書いたほうがいいか。

126(・ω・):2004/04/03(土) 12:01 ID:B89aVo0g
>>125
LV3連携、ヤンキー用語みたいでワロタ

127(・ω・):2004/04/04(日) 02:51 ID:6EjDt4i6
蔵雲怒主都来苦(ぐらうんどすとらいく)

時代すら定かでないほど昔の話、当時の都は長安であったとされる。
その頃、大陸に名を轟かせていた人物が放浪の大軍師「蔵雲」である。
彼が軍を指示すれば敗北はなく、内政に勤めれば国は豊かに栄え、その知は唯一底を知らずと言われるほどであった。
その頃、都の長安はひどい様相であった。なぜなら二人の大臣による内部争いにより都長安は二つに裂かれ、お互いを殺しあうという凄惨なものであった。
長安の東を支配しする大臣「乃当(ないとう)」、長安の西を支配する大臣「庵哭(あんこく)」。
二人の大臣は民衆を省みず私利私欲のために搾取することを厭わない悪漢であり、互いに宰相の座を巡って争乱を起こしたのである。
主都の凄惨な状況を耳にした蔵雲は長安を訪れ、欲に溺れた大臣を怒り、民の嘆きに苦しんだという。
一計を案じた蔵雲は、二人の大臣にそれぞれ力をかした。
乃当には最高の防御力を誇る守りの陣形を、庵哭には最高の攻撃力を誇る攻めの陣形をそれぞれ教示した。
二人の大臣は愚かにも意気揚々とその陣形を実践した。
最高の守りの陣形を取った軍と最高の攻めの陣形を取った軍とがぶつかり、その戦いは凄惨を極めたという。
生き残った兵はほとんどおらず、軍属とされるほとんどの者がこの戦いで死に絶えたという。
全ての兵を失った乃当と庵哭はなぜこうなったのかわからず蔵雲に問いただした。
蔵雲は笑ってこう答えたという。
「私が乃当に教えた陣形は確かに最高の防御力を有する、庵哭に教えた陣形は確かに最高の攻撃力を有する。こうなったのは最高の攻撃力と最高の防御力がぶつかったならお互い消耗しあって何も残らないという当然のことに気付かなかったあなたがたの愚かさに原因があるのだ」
この事件は蔵雲怒主都来苦と呼ばれ、この逸話が形を変えたものが「矛盾」であるというのはあまりにも有名である。
また、この時に全てを失った二人の大臣は蔵雲に救いを求め、蔵雲は二人にそれぞれ宝珠「紅零紅零」を与えたという。
紅零紅零は多くの伝説に名を残す、望みを叶える代わりに知性を失い妖怪化していくという禁断の宝珠である。
乃当と庵哭は我負けじと多くのものを宝珠に要求し、全ての知性を失ったというが定かではない。
一説では乃当と庵哭の血を継ぐものが今でも紅零紅零に迷流という儀式を行い続けているとも言われる。
過ぎた欲望は憎しみと嫌悪を呼び、最後には己が身を滅ぼすという戒めの昔話である。

        民明書房刊「世界昔話全集」より抜粋

128(・ω・):2004/04/04(日) 02:55 ID:6EjDt4i6
>>54氏、紅零紅零が気に入っちゃったので流用させていただきました。
失礼でなければ御容赦くださいませm(_ _)m

12954:2004/04/04(日) 04:04 ID:839L/LYk
GJです(゚∀゚)b
どうぞどうぞ使ってやってくださいな

130(・ω・):2004/04/05(月) 11:49 ID:ispFM1Bc
このスレの「余りにも有名な話である」っていうのが、
ボブ&マイクスレの「〜のKingに違いない」
に通じるものがあっていつもワロテしまう。

131(・ω・):2004/04/05(月) 15:06 ID:huj9Za0E
魂喰餌守闘(こんくえすと)

これは、言うなれば超巨大バトルロイヤルである。
中国宋代、常に領土問題で争いの絶えない2国が存在し、時の皇帝明帝は困り果てていた。
そこで、当時の文官、田中(でんちゅう)が提案したのがこの方策である。
両国の土地を区分けし、それぞれに離証(りーじょん)と呼ばれる旗を立て、両国の兵に奪い合わせたのだ。
そして、各都市は、離証を保持している方の支配とさせた。
離証の集計は一週間毎に行われ、これならば土地争いで無用な戦争をすまい、という田中の思惑であったが、
結局は常時戦争をしているのと変わらない。それ以上に戦火が広範囲に広がってしまい、民への被害も大きい、という辺りが田中の想定外の出来事であったと言える。
結果、両国の状況は悪化し、田中は斬首とされた。
その後、疲弊した両国が和解となったのは皮肉な話である。
一つの事を長く続ける気力、という意味で「根気」という言葉があるが、
これは、魂喰餌守闘が終演を迎えるにあたって、両国の兵が発した「無魂気」(魂喰餌守闘をする気が起きない)が日本に伝わり、「魂気がない」という言葉から発展したというのは、余りにも有名な話である。

132(・ω・):2004/04/05(月) 18:18 ID:78yl55W6
梅派・梅徒(ばいぱ・ばいと)

中国が清の時代、清朝政府による大規模な異教徒狩りが行われた。
当時、景教と呼ばれていたキリスト教や、地方の新興宗教など、
かなりの被害者が出たと言われている。

その中でもやや特殊なのが、現在の福建省付近に存在した、
「梅教(ばいきょう)」である。梅教のルーツは盗賊団であるとされているが
真偽は不明である。
一説によると、盗賊団が金貨などを盗み、
「ウマー」と連呼していたので「ウマー>ウメー>梅」と推移して梅教になったとされる。

梅教の信徒は梅派もしくは梅徒と呼ばれ、
略奪や逃走、失踪などを繰り返していたため、かなり評判が悪かった。
梅派・梅徒は正面からの正々堂々とした攻撃を好まず、
背後から襲うなどの奇襲を好み、なおかつそれを他教徒のせいにするなどして、
人民に多大な損害を与えていた。
また梅派・梅徒に命を狙われた要人も多く、
突雀天(とつじゃくてん:当時の警察最高責任者)の「屯坊(とんぼう)」が
この時期に梅教徒に襲われて命を落としたと伝えられている。
(⇒椀局(わんきょく)事変参照)


清朝は、これに関してお触れを出し、人民に警戒を求めた。
これにより、ほぼ真後ろ以外の場所からの襲撃に関しては、
他教徒のせいにするなどの芸当が出来なくなった。
(1851年12月16日 ヨコダマ・ハンの令)

現在では、短剣を操る一部の冒険者たちの間で、
「バイパー・バイト」という戦闘技術の名称になっているが、
専門家たちの間では「梅教に無関係では?」との声もあがっている。

   民明書房刊「中国史における異教徒」より抜粋

133↑を書いた人:2004/04/06(火) 14:34 ID:tOX5VtqE
うはwwwwスレストwwwwwwwwwww

o-rz

134(・ω・):2004/04/06(火) 18:36 ID:Gg8mPHuY
今日はちょっと忙しくて・・(´・ω・`)

135(・ω・):2004/04/06(火) 22:17 ID:9dVWgE9c
ネタ模索ちう(´・ω・`)

136(・ω・):2004/04/06(火) 23:43 ID:dmdiSW/U
>>133
ううん。うまく書いてるな〜って感心したよ。
ただ悲しいかな、このスレ自体が廃れてるからねw

137(・ω・):2004/04/07(水) 02:54 ID:cj7I/JOY
むしろこの板というよりこのFF11がもう廃れt・・・・orz

138(・ω・):2004/04/07(水) 16:36 ID:J9aCU99o
>>116 の富樫と虎丸のつかみに正統派の風を感じたwww
リダ「次の対決方法は膿取蛙州狩りとする!代表者中央へ!!」
餡黒「の〜とりあす?明日まで能でも踊るんかのぅ?」
内藤「なんだか分からんが今度こそ俺の出番じゃぁ!」
垢魔「何だって・・・まさか膿取蛙州狩りが行われるとは・・・」
餡黒「知っているのか?垢魔!?」
垢魔「あぁ聞いたことがある・・・」

膿取蛙州【のうとりあ・す】

時は春秋戦国時代、越の国(現在の浙江省)では古くより、
呉との戦闘や武術の鍛錬中での破傷風による死者が後を絶たなかった。
しかし現地の人達の間ではまだ抗生物質も無い紀元前4世紀頃に、
揚子江の三角州に三日に一匹だけ現れる蛙の変異体より、
破傷風の特効薬が取れる事を経験より周知されていた。
破傷風にかかった人はこの三角州に駆けつけ、必死にその蛙の変異体を
捜し求めたという事からこの蛙を「膿取蛙」と名づけられ、
その生息地域である三角州を「膿取蛙州」と呼ばれた。
これを知った時の越王句践はその必死さを見て、兵士の鍛錬に応用した。
それが「膿取蛙州狩」である。なんと錆びた剣で兵士二人の足に傷をつけて、
膿取蛙を探し競わせるという恐ろしいものだった。
この鍛錬法で強靭さと任務遂行の苛烈さを知った越軍は見事呉を討つ事になる。
以後この競技はあまりもの凄惨さにより越王無彊により廃止されたが、
廃止以降緊張感を失い弱った兵は楚に滅ぼされる事になる結果となった。

なお、この膿取蛙を取り合って越と呉の兵士が同じ膿取蛙州で
張り合った事から「呉越同州」という故事成語が生まれ、長い歴史の中で
「呉越同舟」と言葉を変えた事は広く世に知られている。

民明書房刊「戦争と医学の奇妙な共生」より抜粋

139(・ω・):2004/04/07(水) 17:53 ID:DEZYY056
>138
GJ!

140(・ω・):2004/04/07(水) 17:59 ID:/N8JgQyk
垢魔は禿ヒュムだな
間違いない

141(・ω・):2004/04/08(木) 11:50 ID:0T4IIGvE
>>138
>>116 のつかみは、田沢と松尾だろ?

142(・ω・):2004/04/08(木) 16:19 ID:B45pO9u2
>>141
角刈りメガネと禿サザエのキャラだね。

143(・ω・):2004/04/08(木) 16:29 ID:iNHAKlLA
確かに>>116のつかみは、序盤の頃の塾内での田沢と松尾のやり取りをイメージして書きますた。
でも>>138の、武闘会の時風のつかみもイイ!
絵が頭に浮かぶwww


唖蹄風握刀(あーてぃふぁくと)

より優れた武具を求めるのは武人の性であることは、今も昔も変わらない。
それゆえ、いつの時代にも優れた職人は存在した。
中でも、前漢時代の中国にいたといわれる唖蹄(あてい)は、未だに武具職人の神として奉られている。
唖蹄は、今で言う所のオーダーメイドの形を取っており、注文者の気質や体格に合わせてベストな武器を作ることで有名であった。
そして、その武器は所持者の手によく馴染み、握りやすく、振りやすいことから、唖蹄風握刀(あていふうあくとう)と呼ばれて重宝されていた。
また、刀に限らず、注文者によっては棍棒や斧等、種類は多岐にわたっていたようだ。
その後、唖蹄の武器に惚れ込んだ南蛮の武将、彫倶経津(ぼるぐへるつ)が唖蹄に弟子入りし、
唖蹄風握刀に合わせた優秀な防具を開発するまでに至った、という話が、現在も有名な逸話として残っている。

144(・ω・):2004/04/08(木) 19:06 ID:wsaUQc6o
>>143
おい、出典が書いてないぞ( ゚Д゚)

145(・ω・):2004/04/08(木) 22:49 ID:iNHAKlLA
>>144
しまったぁ!!またやってもうたorz


民明書房刊「世界の兵器いま・むかし」より抜粋

146(・ω・):2004/04/09(金) 02:25 ID:A/aAfhlY
>>145
イ㌔
江田島編集長に殺されんなヨww

147(・ω・):2004/04/09(金) 15:23 ID:TmqCxW1g
詩宮菜 【しぐ・な】

その起源は唐の末期にまで遡る。時は大順元年、長きに渡った平和に溺れ
人々は雅を追い求めていた。特に遥か東の国、日本より採れる
季節毎に移り変わる色とりどりの希少な草花を詩人が集う宮殿に飾っており、
その植物は詩人達より「詩宮菜」と呼ばれ雅の象徴になった。
希少であるその植物故に、その価値は高騰の一途を辿り、
詩宮菜を追い求め唐の商人は僧の姿を装い、遣唐使として日本に押し寄せた。

彼等は詩宮菜と思われる草花のある地域に現れ、詩宮菜を片っ端から
刈り取る為、現地農民とのトラブルが絶えなかった。
当時の都では彼等を「耶宮奴(やぐうど)」と称し、詩宮菜の流出を禁制とした。
当時の都のお触れにはこう記されている。

『耶宮奴稀に詩宮菜を持つ故、発見次第其れを討ち奪うべし』

このお触れにより、農民による耶宮奴の乱獲が行われた。
事件はその翌年に発生する。耶宮奴と間違えられ、本物の遣唐使の僧が
農民に殺される事件が発生した。
その翌年、時の権力者、菅原道真により遣唐使の廃止が行われた。
表向きは唐の衰退・渡航の危険となっているが、この事件による
証拠を闇に葬る事が原因であることはいうまでもない。

民明書房刊 「花に魅せられし者」 より抜粋

148(・ω・):2004/04/09(金) 20:53 ID:A/aAfhlY
越愚藩闘(えっぐはんと)

江戸時代、脱藩をすることは重大な罪であった。
しかし不逞なる武士達の脱藩は減ることが無かった。
そんな脱藩の罪を犯した者達を裁いた罪が越愚藩闘である。
それを取り仕切っていたのは鳥居党(とりいとう)という公家達であった。
脱藩浪士たち全員を逃げ場の無い闘技場につめこみ、殺し合いをさせるのだ。
そして最後に生き残ったものには褒美として免罪が言い渡されるというものであった。
しかしその褒美というのは真っ赤な嘘であり、「免罪の有効期間は越愚藩闘開催中のみである」と言われ
勝ち残った者も再び脱藩浪士として牢に逆戻りであった。
これは餌を目の前にぶらさげて互いに殺し合わせ、誰一人救われることの無い恐ろしいものなのである。
多くの浪士たちがその実情に絶望し、牢の中で「鳥居党・・・鳥居党・・・」と呟きながら死んでいったという。
越愚藩闘、鳥居党・・・その名を忘れることなかれ。

          民明書房刊 「歴史に残る残虐非道」 より抜粋

149(・ω・):2004/04/10(土) 01:06 ID:DateOy1Y
トリートトリート
うはwwwwおkwwww

150(・ω・):2004/04/10(土) 15:36 ID:ioFbc.eA
不恋道(ふれんど)

陀簿意をこの目で見て思った。人の性とはいつの時代でも罪深き物である。
時螺安登が蛮族を横目に派を競っていた時代、ある女が人の男に恋をした。
しかし、膨大な魔力を持つ時螺安登人にとって只の蛮族の男など塵芥以下の存在でしか無い。
仲間は男と逢引を繰り返す女を鈴庫貝にて悪し様に罵り、隔離部屋と呼ばれる示威得無の領域に監禁した。
男はそれを知り時螺安登人に挑んだが、当然あっさりと捕らわれてしまう。
時螺安登人は言った。

  『ここに誓え、不恋道を貫くと。そうすればお主は生かして返してやろう』

男は圧倒的な力に恐れをなし、そして人の世界へと無事帰っていった。
不恋道とは愛さず、恋せず、衆道窟ですら利用できぬという強力な呪いである。

余談ではあるが、冒険者達が打簿意にて利用する修道窟はその名残の一つであり、
奥修道にある見渡す限りの乱獲場にその名残を留めている。
話が逸れた。冒険者達の間で不恋道登録が流行しているが、これは元は非常に強
力な呪いであり、当然告白に対し「不恋道からはじめましょう」などということは
きっぱりと断る以上に非道である事はあえて記すまでも無い。

民明書房刊「時螺安登風説〜遺跡を行く」より抜粋

151(・ω・):2004/04/10(土) 20:26 ID:Dky73PGQ
 トリート!! トリート!!
     人
    ( ゚ω゚)      .▼
    (━ヽ━ゝ━━●
    > >       ▲

152(・ω・):2004/04/11(日) 01:30 ID:36KEZtLM
リメンバートリート

153(・ω・):2004/04/11(日) 20:46 ID:YPcIMMGQ
うむ、だまされまいぞ!。
職人さんGJ!

154(・ω・):2004/04/18(日) 17:33 ID:RXatyMVk
age

155(・ω・):2004/04/19(月) 05:09 ID:wQ.asLDw
こんなスレがあったとは職人様GJ

コッファー乱獲とかオズ乱獲なんかもキボンヌ

156(・ω・):2004/04/19(月) 22:01 ID:iamUj2gc
AFもうあったのね・・・(´・ω・`)
重複するけど勘弁してください(´・ω・`)


亜定不悪党(あていふあくとう)

時を遡ること千七百余年、古代中国の晋の時代。
荊州小頭(今の湖北省小頭)に亜定という若者がいた。
亜定はとても親孝行な若者で、病気の母親への献身ぶりは近所でも評判であった。
その評判は王の耳にも入り、なにか褒美を取らせようとした。
そこで王はある催し物に、亜定を招待した。
その催し物は、小頭の城に隠された宝箱に天下一品の武具を入れ、それを
見つけた者に与えるというものであった。
*当時はこの催し物は「蘭香宮(らんかく)と呼ばれ、王侯貴族の遊び
として広まっていた。宮中に蘭を飾って行ったのが由来である。

亜定は城へ入り、やっとの思いで宝箱を見つける。
だが開けようとした刹那、すごい速さで駆けてきた盗賊に、宝箱の中身を
奪われてしまったのだ。
盗賊の姿は忽然と消え、亜定は駆けつけた衛兵に捕らわれてしまう。
そして蘭香宮に紛れた賊と勘違いした衛兵に、亜定はその場で切り殺されて
しまったのだ。
王は嘆き悲しみ、せめてもの償いとして亜定の墓を立て、「亜定不悪党
(亜定は悪党ではない)」の文字とともに、天下一品の武具が添えられた。
このことから、天下一品の武具のことを「亜定不悪党」というようになった。

現在でも廃墟と化した小頭城には、未だ見ぬ財宝を求めて盗賊が集まる。
その盗賊が皆、口を揃えて、
「亜定不悪党?シラネwww」
というのは、今も城をさ迷う亜定の怨霊を怖がってはいないという、
彼らの強がりなのはあまり知られていない。


民明書房刊「小頭の歴史」より抜粋

157(・ω・):2004/04/27(火) 14:49 ID:h6mSjNPU
良スレage

158(・ω・):2004/04/27(火) 18:22 ID:JZEadnnI
馬栗鼠蛇(ばりすた)

遙か昔の中国に三つの国が領土を取り合っていた。
北の国を支配する讃怒李亜(さんどりあ)南の国を支配する罵須闘苦(ばすとぅーく)
そして東の国を支配する雨韻堕守(うぃんだす)である。
彼らは毎日のように領地を奪い合い、日々多くの命が失われていった。
しかし、この事態を重くみた讃怒李亜の皇子 斗李怨(とりおん)が一つの提案をした。
「人ではなく、動物で争わせ、生き残った国に領地を広げる権利を与えよう。」
少々変わった提案であったがお互い長き戦いにより国民に恨まれている身でもあったため、
三国は早速この提案を取り入れたみた。

三国の中央に位置する中立国 寿乃(じゅの)の協力により
箆流努(へらるど)という名審判を貸し出しでもらい競技は始まった。
しかし、使用する動物を決めていなかったので三国は全く異なる動物を連れてきた。
讃怒李亜は身の締まった首の長い大きな馬を
罵須闘苦はとてつもなく大きく岩のような肌をした大蛇を
雨韻堕守は小さな栗鼠を用意した。
観戦に来ていた讃怒李亜と罵須闘苦の皇子は雨韻堕守の栗鼠をみて、
「このような小柄な小動物を闘いの場にだすなど、笑止!」
と憤慨したと言われている。
しかし結果は意外にも雨韻堕守が勝利した。なんと栗鼠の歯に猛毒を仕込んでおいたのだ。
この結果をみて二人の皇子は、
「栗鼠の歯に猛毒を仕込むなど、誠に卑怯也!」
と再び激怒し、結果、これを機会に人間同士の最終戦争へ発展してという皮肉な話であった。
だが、競技を観戦していた国民の一部が「頭を使えば栗鼠が馬や大蛇を倒すことが出来る。」
と関心を示し、彼らはこの競技を「馬栗鼠蛇」と称し、
娯楽として異種の動物を闘わせる競技が流行ったと言われ、
それがいつしか人間に変わり違う職業同士、
様々な組み合わせでチームを組んで闘う「バリスタ」となったと言われている。

なお、「窮鼠猫を噛む」ということわざはこれから来ているということは、
言うまでもない。

民明書房刊「コンフリクトルールブック〜競技の歴史〜」より抜粋

159せっかくなので作ってみた:2004/04/28(水) 04:24 ID:JyzuCpTA
辞書代わりに。

>>2   【便足羅死徒】(ぺんたすらすと)
>>5   【差別事無礼怒】(さべっじぶれいど)
>>9   【体練歩】(てれぽ)
>>11  【耶偶人】(やぐうと)
>>17  【沙武李我】(さぶりが)
>>27  【樽手有】(たるたる)
>>28  【儀呂椿】(ぎろちん)
>>29  【斧逸神具】(ふぃっしんぐ)
>>30  【出路遠】(でじょん)
>>36-37 【毛有】(けある)
>>45  【不破嵐楠】(ふわらん・くす)
>>50  【鎖歩丈夫】(さぽじょぶ)
>>54  【罪道】(ざいど)
>>84  【事得無】(じーえむ)
>>95  【壁砂数虎威杭】(へきさすとらいく)
>>97  【破輪凄辣手】(ぱわーすらっしゅ)
>>99  【田中丈夫】(たなかじょうぶ)※ごめ、読み方これでいい?
>>101 【施苦熱湯】(しぐねっと)
>>104 【棍振苦闘】(こんふりくと)
>>106 【罵煮酒】(ばにしゅ)
>>111 【魚喰】(うぉーくらい)
>>112 【大祭】(たいさい)
>>115 【文化異奉】(ぶんかいほう)
>>116 【鬼怨馬螺走】(おにおんまらそん)
>>118 【作法我】(さぽわれ)
>>120 【蓮家衣】(れんけい)
>>121 【苦堕夫】(くぅだふ)
>>127 【蔵雲怒主都来苦】(ぐらうんどすとらいく)
>>131 【魂喰餌守闘】(こんくえすと)
>>132 【梅派・梅徒】(ばいぱ・ばいと)
>>138 【膿取蛙州】(のうとりあ・す)
>>143 【唖蹄風握刀】(あーてぃふぁくと)
>>147 【詩宮菜】(しぐ・な)
>>148 【越愚藩闘】(えっぐはんと)
>>150 【不恋道】(ふれんど)
>>156 【亜定不悪党】(あていふあくとう)
>>158 【馬栗鼠蛇】(ばりすた)

160(・ω・):2004/04/28(水) 15:10 ID:/U/GYuso
>>159
激しくGJ!!!
ということでageとく

161(・ω・):2004/04/28(水) 15:31 ID:.jhaATxM
>159 GJ!!

【文化異奉】は(ぶんかいまつり)と読むのだとおもいますなのです。

162(・ω・):2004/04/28(水) 16:19 ID:uHE4UgJM
やっぱり大祭が一番ワロエルなー

そんな漏れも2つほど作品を投稿していたり・・・

163(・ω・):2004/04/28(水) 16:57 ID:cLppdP/U
麺侘(めんた)

■名詞■(古文)
指導者と同義。アドバイザー。
由来は古代中国における麺侘制度。
中華麺職人暦30年以上、総打ち麺180㌔を超える職人に、
国家が「麺侘」の称号を名乗らせることを許可し、
麺侘の称号を持った職人は公に弟子を募集することが可能となった。
麺侘は「麺と仏陀」の造語とされ、古代の文献では麺陀となっているものもある。
麺侘は店の看板に麺の一文字を架けることを許され、
簡略化されてアルファベットのMのような文字になった地方もある。
基本的には麺の道を極めんとする弟子に指導する立場の人間であったが、
完全にボランティアであり、麺侘も日によっては麺の字を掲げたり取り下げたりと
臨機応変に過ごしていた。特に、外国人の往来によって、
指導が面倒になり、麺の字を引っ込めたと書かれた文献が多い。
また、事得無(>>84参照)の代わりに人民同士の争いごとを
取り収めるよう、国家からそれとなく指導があったともされるが、
逆に人民の反発をかったのか、麺侘が事得無の代わりに活躍したとされる
文献は見つかっていない。

民明書房刊「広義苑」より抜粋

164(・ω・):2004/04/29(木) 09:27 ID:d5qIitrc
どれもすばらしい(´∀`)

離触酒は理触酒の方が
神に近づける気はする赤なワシ。

故事の理触酒回しもお願いしますw

165159:2004/04/29(木) 17:35 ID:PfCntF56
>>161
○| ̄|_
そうだ、ぶんかいまつりだ…正直すまんかった…
指摘サンクス。

166(・ω・):2004/04/30(金) 14:50 ID:AO3YqJCo
理触酒 (りふれしゅ)

仏教は、6世紀頃日本に伝来されたと言われるが、その中にも数々の流派があった。
中でも異彩を放っていたのが、頼尼摩堵(らいにまーど)という僧が祖といわれる阿柯摩(あかま)派である。
大祭(>>112)の項で少し触れたが、この流派には、独特の醸造法で作られた理触酒(りふれしゅ)と呼ばれる神酒があり、
それを持つ者はより仏に近い存在として崇められていた。
この理触酒を持つ為には過酷な修行を積む必要があったが、
取得した後も、得られる名声と共に更なる修行を必要とした点が、阿柯摩派を、数ある流派の中で異彩を放つ流派として有名にさせた。
その修行の中でも特に有名なのが「理触酒回し」と呼ばれるものである。
理触酒を習得するに至った高僧は、阿柯摩派の理触酒の力を広く伝える義務を背負い、
出会う僧達には必ず理触酒を振る舞わないといけないしきたりがあった。
現在、この理触酒の原料や醸造法については一切の文献が残っておらず、謎に包まれているが、
「理触酒回し」の修行中の高僧は、須く疲労し、やつれていったと言われている。

その後、世代交代により体制が変わり、上層部は門徒獲得の為、理触酒の技術を簡単に取得させるようにした。
その結果、修行不足の者も簡単に理触酒を取得するようになり、中には「理触酒回し」の修行を怠る者も頻発するようになってしまい、
阿柯摩派は世間から冷たい目を向けられることも多くなって、次第に廃れていったと言われている。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

167164:2004/04/30(金) 15:13 ID:e1s0XfRM
キター(・∀・)ー!
次第に廃れていったのかw
イイ(´∀`)

168(・ω・):2004/04/30(金) 15:28 ID:AO3YqJCo
乱平次(らんぺーじ)

江戸時代中期、飢饉により各地で一揆が多発していた。
中でも政府を最も苦しめた山陰地方での一揆は、公式文献からは抹消されているが、各地の伝承として根強く残っている。
その中心的人物は、木こりの平次と呼ばれる人物で、片手で伐採用の斧を振り回して暴れ回ったと言われている。
職業柄、膂力に優れていた平次は、政府の兵を一度に5人づつ斬り倒し、その姿は鬼神の如く、彼が陣頭に立つと、「乱平次が来た!」と政府軍を震え上がらせたそうだ。
彼はたちまち各地の農民達のヒーローとなり、農家の若者達は、戦いで身につけたその斧の技を彼に習いに通った。

その後、国が富むに従い農民一揆も収まり、平次はその強さを買われ、街の護衛役を経た後江戸に渡り、
その活躍は密かに伝えられ、大幅に脚色されて後の「銭形平次」のモデルになったといわれる。

また、英単語の「Rampage(ランページ:暴れる)」という単語は、一揆の際政府軍が彼を形容して発した「乱平次」という言葉が語源であるという説が有力である。

        民明書房刊「歴史の影に隠れた英雄達」より抜粋

169(・ω・):2004/04/30(金) 17:24 ID:AO3YqJCo
烈怒蝋蛇簾(れっどろーたす)

烈怒蝋蛇簾とは、古代中国において秘剣中の秘剣と呼ばれた凄まじい奥義である。
この技を極めんとする者は、まず、100kgもの鉄の棒をを自在に振り回せるほどの腕力を必要とした。
その修行を乗り越えた者の剣の振りは、剣に塗った蝋を空気との摩擦で気化させるほどの鋭さを持ち、それが発火することにより、炎を纏う剣技が放たれるのだ。

ただ、この奥義には大きな難点があった。
剣には予め蝋を塗布しておかねばならず、また、一度使用すると、剣に塗布した蝋が全て気化して燃えてしまい、再び使用することが困難になるのだ。
これを解消する為、ある者は剣の鞘の内側に蝋を塗り、中には鞘を蝋そのもので作る者も居た。
しかし、この方法では鞘に収めた時にしか蝋を付けることが出来ない為、多くの者は、掌皮(ていぴ)と呼ばれる物を使用した。
これは、豚の皮に蝋を染み込ませた手袋状の物で、これを掌に装着し、戦闘中、敵の虚をついて己の剣に蝋を塗布していた。
掌皮の蝋が剣に充分塗布できた時点で「掌皮完了!」のかけ声と共に技を放っていたそうだ。

        民明書房刊「炎を纏う武人達」より抜粋

170(・ω・):2004/04/30(金) 21:34 ID:pkaRoVyU
汁溝湖(しるどぶ・れいく)

「汁溝」、中国有数の硫黄の産地であり古代中国、戦国時代の末期秦に滅ぼされた韓の王族に連なる人々が逃げ込んだ地
彼らは秦の追求から逃れるため自分たちの集落の周りに人工の湖「汁溝湖」を作り侵入者を防いだと言われている
硫黄の産地だったため土壌は酸性を示しており湖も徐々に酸性に傾いていき盾をも溶かす汁溝湖と言われたのは
マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも記されてるほどである

中世イギリスはバラ戦争の時代、ランカスター家の将軍が「東方見聞録」の汁溝湖の記述を読み
自分の戦斧術も盾をも破壊するようにとの願いを込めて「シルドブ・レイク」と名づけたのが始まりとされている


     民明書房刊「3歳児からの戦争史、欧州編2巻」より抜粋

171(・ω・):2004/05/01(土) 00:14 ID:Lobu.hFY
個人的には
>>106 【罵煮酒】(ばにしゅ)
が好き(´ー`)

172(・ω・):2004/05/01(土) 00:54 ID:H/0xYmRk
age

173既にその名前は使われています:2004/05/01(土) 01:17 ID:QdX/YCGE
なにこのスレ
なんでみんな中国起源になってるの?w

174(・ω・):2004/05/01(土) 03:34 ID:1Pmj1xCQ
>>173

よく見る!! 日本起源もそれなりにあるっす!

175(・ω・):2004/05/01(土) 05:29 ID:a3/mi/n6
児裸道(ジラート)

長い伝統と歴史を受け継ぐべき拳法家を選ぶ為の通過儀礼として
中国史上において公然と行われていた育児方が、その発祥とされている。
生まれてから1年目の子供を墜火出州区(ついかでしゅうく)と呼ばれる
常に火が噴出し溶岩が降り注ぐ区画に裸のまま追放し、そこから這い出た者だけを
生き残る強さがある者と認め、迎え入れたという過酷なものであった。
むろんほとんどの子供がその区画から出る事は出来ず、命を落としたとされているが
その子供たちがそれでも我が家に、家族の元へ帰ろうと這いずった後が
長い歴史とともに消える事のない「道」として
今でも墜火出州区に残っていると噂されている・・・・。

その道を「訴路(ソロ)」とも呼び、同じような悲しい歴史を繰り返さぬようにと
「人は一人(訴路)では生きていけない」という意味も含めて
戒めのため仕様されているのはいうまでもない。


また、現在においてあらゆる歴史書に登場する「タナカ」と呼ばれる人物がいる。
何千年も続く組織の総称なのか、一子相伝に受け継がれている家名なのか・・・
歴史学者の中でも議論が尽きない命題として有名ではあるが
その人物の残した「児裸道(ジラート)を増やしたので訴路(ソロ)は回避した」は
「子供を放置(児裸道)する時いくつもの区画に分けて実地すれば
同じ所を子供が這いずった跡(訴路)は出来ないだろうからやってもかまわない」とした
愚かな歴史を繰り返す発言として、あまりに有名なのは周知の事実である。

民明書房刊『世界の残酷な育児方・驚きの育児方』より

176(・ω・):2004/05/01(土) 21:29 ID:8ItkTjwg
age

177(・ω・):2004/05/01(土) 22:02 ID:jQaRHXqQ
臥璃寸(ガリスン)

最近になって、正倉院の天井裏に隠されている書物が発見された。
そこには、奈良時代以前の日本武人が必ず受けなければならなかった
集団研修のことが記されているそうだ。

内容のうち、現在まで解読できている部分を記す。
古来、弱者である悶須侘阿(もんすたあ)を野良徒党6人によって
集団虐殺する現象が各地で頻発し、日本全土が恐慌状態に陥っていた。
この窮状に、時の大和朝廷は臥璃寸(ガリスン)という研修を設け、この研修を
一定の規程を超えなければ武人として認められず、さらに晒し処分される旨を
広く伝えた。この結果、野良徒党はこれまでの弱い者苛め的な戦闘から
集団戦闘への対応を余儀なくされると共に、悶須侘阿達自らも集団対決の機会を
提供され、お互いの切磋琢磨への道を拓いたと記されている。

この書物はまだ発見されたばかりで解読が進んでいないが、先に発見された
遠征軍に関する書物と非常に似通った部分がある、とされている。
だが、あくまで遠征軍が攻撃研修であるのに対し、臥璃寸は防衛研修である点に
世間の注目は集まっており、日本史学会全体で解読作業に取り組んでいるところである。

民明書房刊『日本男児の隠された真実』より

178(・ω・):2004/05/02(日) 07:04 ID:cawbMmPg
魅素裸(ミスラ)

日本に伝わる民間伝承の多くに「猫又(ネコマタ)」という
古猫が人に化けて惑わす物の怪が存在する。
猫又の種類は様々だが、最近になって東北地方から北海道にかけて
猫又の亜種の伝承が記された古い文献が遠野のある民家で発見された。
東洋民族大学民族学部・洋蘭黄蘭博士に寄れば、魅素裸族とよばれる
尻尾と猫の耳を生やした官能的な美女の姿をした猫又が登場するという。

生息地は文献の中では火座霧と呼ばれる村などだが、中には北海道の妖怪コロボックルと共存していた一族もいる。
魅素裸の多くは種族名の通り、裸に近い格好を好み、人間の男性を惑わして虜にするなどした。
虜になった人間は、性行為の虚をついて食べられたり、虜のまま奴隷にされたという。
行商を営む者も多くおり、客寄せの為に裸に近い格好で品を並べて売っていた。
その殆どが非常に高額で、よく色香に惑わされた者が値を見ず品を購入して後悔するという話が文献に見られる。
この商方が魅素裸の元となったと思われる。

中でも文献の中に頻繁に出てくる名前を持った魅素裸がいる。

七菜 魅御
徒党を組んで貧困問わず泥棒に入り、なぜか数珠をコレクションしていた。
また洞窟に住んで人を惑わしては追いはぎ行為を行っていたと言う話もある。
遠野地方の中には、間の抜けた子猫の鳴き声が聞こえたら厳重に戸締まりをするという風習が今も残っているが、
これは七菜がやってくるという合図から来ているらしい。

著 猛威
人を惑わす術に長け、魅了した者を外敵と戦わせては身を守っていたという。
著が口伝で残した秘薬は服用した者を魅了する効果があり、これは桃太郎の吉備団子のルーツと言われている。

瀬美 裸雛
厳格な性格であったが、弓の扱いに優れており、時折狩人や武術者にその技術を授けていたという。
狩猟を生業にする者のなかには、瀬美を神仏と同等に扱い祀っている一族も存在する。

また洋蘭博士は魅素裸は実在した可能性があるとも言っている。
それは遠野の伝承にある、女性が幼い時にかかったという寄生虫病である。
今までは回虫などが原因となる病気と言われていたが、
奇妙なことにこの寄生虫病は寄生虫が尻尾のように垂れ下がっていたというのだ。
この正体不明の寄生虫に蝕まれると身体が発育して運動能力は劇的に上昇するが、
逆に知能が低下して簡単な計算も出来なくなり、さらには羞恥心がなくなっている為に
裸、若しくはそれに近い格好でうろつくため、不憫に思った村人が隔離村を作っていた。
やがて理性を完全になくした患者は猿になったということだ。

民明書房刊『世界男子の趣味4 ネコミミ娘のルーツ』より

179(・ω・):2004/05/04(火) 13:40 ID:b4YIfIbY
あげ

180(・ω・):2004/05/09(日) 02:56 ID:BK5ELo1c
保守上げ

181(・ω・):2004/05/09(日) 10:55 ID:qwWUMaYE
職人さん、アストラルリングキボンヌ

182(・ω・):2004/05/09(日) 13:11 ID:d3FpkZac
せんせー、提案です。
古代中国起源の時は音読みに統一した方がそれっぽくなると思います。

183(・ω・):2004/05/09(日) 13:15 ID:tLJP9LBk
>>182
もともとの男塾ですら統一されてなかったのに?w

184(・ω・):2004/05/09(日) 13:52 ID:wF8Z6Qo.
民明書房にケチつけるDQNがいますねwwww

男塾を1巻から読み直して来いとt(ry
こういう香具師が「呉竜府」とかみて
「ゴルフの起源はイギリスですよwwww」
とか言っちゃうんだろうな

185(・ω・):2004/05/10(月) 10:12 ID:VI8PpKH6
ネタにマジレスイクナイ

186(・ω・):2004/05/10(月) 13:14 ID:zgIymHAA
唖吸頭螺留輪具(あすとらるりんぐ)

戦闘の勝敗を決めるのはまず第一に武の力であり、それを扱う知の力である。
武力だけでも、知力だけでも敵に勝つことは難しい。
それ故古来より、知謀に長けた者は一軍に匹敵すると重用され、知の力を売り物にする者達は、さらにその力を磨くべく努力を惜しまなかった。

数々の戦略・戦術を実行するにおいて必要なのは、知識、知恵も勿論の事、それを状況に応じて臨機応変に実行し続ける為の人並み外れた精神力も必要である。
その為、乱世の続いた古代中国においては、医学の神髄とも呼べる装備品が存在している。
唖吸頭螺留輪具(あすとらるりんぐ)と呼ばれたその装備品は、内側に突起のついた輪状の鉄で出来ており、装着することによって経絡(ツボ)を刺激し、精神力を増強するという物であった。
古くは漢の高祖、劉邦に仕えた張子房、また、有名な所では三国時代の軍師、諸葛孔明なども使用していたと言われる。
これの難点はその重量にあり、全ての経絡をカバーしようと思うと、全身に鉄の塊を纏った状態になる。
このため、上記の者達は武官以上に体を鍛えてはいたが、数十キロとも言われる鉄の重量のせいで体力を著しく奪われ、周りの目にはひ弱に写っていたようだ。

        民明書房刊「炎を纏う武人達」より抜粋

187(・ω・):2004/05/10(月) 16:20 ID:yRVqzaho
明日輪 【あすりん】

江戸後期、激しくなる貧富の差に比例して金持ちからのみ金品を強奪する
義賊と呼ばれる盗賊が増えていく中、その損害に業を煮やした庄屋による
一計が用いられた。
それは西洋では一般化している磁気による血行促進を行う指輪を
安く大量に仕入れ、それをとても高価なものとして庶民に噂させ、
他の銘武具などと同じ蔵に1日1個ずつ入れておくというものであった。
義賊達は銘武具には目もくれずその指輪だけを競い合うように奪い
その事だけに満足したのである。

この指輪は入れた翌日には盗まれる事から「明日盗らる輪具(あすとらるりんぐ)」
と呼ばれ、略して「明日輪(あすりん)」と呼ばれた。
本来庶民に愛される義賊だが、盗んだ義賊はそれを競り市に出す際、
高額を付ける為、あまり庶民の支持は得られなかったという文献が残っている。

ちなみに現代社会において身体能力を競う者達を「アスリート」と呼ぶのは
庄屋が明日輪を奪い合う為に身体能力を高めた義賊達を
「明日輪取る者」と呼称した事が語源である事はいうまでも無い。

民明書房刊 『歴史上の怪盗に学ぶスポーツ医学』 より一部抜粋

188(・ω・):2004/05/10(月) 17:38 ID:zgIymHAA
>187
そっちの方が断然いい
やっぱ慌てて書くもんじゃないなぁ

189(・ω・):2004/05/11(火) 15:02 ID:xvSpc6ng
>>188
そんなことないヨ 感謝!

190(・ω・):2004/05/18(火) 17:57 ID:WZ3kB4u2
リクエストある?

191(・ω・):2004/05/18(火) 18:09 ID:mI.TLt/c
>>190
クロスカウンターorクロカンでひとつ

192(・ω・):2004/05/18(火) 20:44 ID:seYhWAoI
【黒簾缶打】(クロスカウンター)

古代中国の吉林省には飛院(ふぇいん)と呼ばれる法寺が存在し、
代々寺僧に受け継がれた武道が存在した。
その武道の特徴は相手の攻撃に対して、避けると同時に攻撃を仕掛ける事により
その効果を倍増させるという理念に基づいたものだった。
理念は至極単純だが実践するのは非常に困難を極めるこの武道の修練に関して
様々な器具が用いられた事が文献により判明している。

代表的なものの最たるは、黒い簾(すだれ)で外光を遮断した暗闇の中に設置された
缶の中に入り、外部から打撃を加え、その発生を予測するというものだった。
暗闇と打撃の恐怖と衝撃により、幾多の武僧が命を落としたとされる。
この修練により培われた能力を、その器具の形状より、
「黒簾缶打(くろすカウンター)」と呼び、それを極めた者には高い位と名誉が与えられた。

(最後のお約束は下の3つからすきなのを選んでくれ)

====
現代社会において人気のスポーツ「ボクシング」において、相手の打撃に対して
避けつつ攻撃を加える事を「クロスカウンター」と呼ぶが、この技の語源が
「黒簾缶打」であることは言うまでも無い。

民明書房刊 『100分の1秒にかけた漢達』 より一部抜粋

====
ちなみに団塊世代の児童の遊戯「缶蹴り」が、「黒簾缶打」の修行中の僧に
蹴撃を加える事に由来する事は言うまでも無い。

民明書房刊 『団塊世代の生命力の根源』 より一部抜粋


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