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覚支相応における止住・死没の条件について
1
:
サトミ
:2013/10/07(月) 16:51:22 ID:???
和井恵さん、ご無沙汰しています。お体の具合は如何でしょうか。さて、今回は、面白い経典は発見したので、ご報告かたがた、解説をお願いしたくスレッドをおこしました。
かつて、もう20年以上前ですが、某教団の月刊機関誌に、南伝大蔵経の特集があり、毎月楽しみにしていました。中でも、『覚支相応』(ボッジャンガ・サンユッタ)の特集で、各覚支につき、「無量である」と覚知し、「善く正しく勉励された」と覚知し、「止住する」と覚知し、「この縁あることからわたしにとって死滅する」と覚知する 云々というような内容がありました。これについての続き、詳しい解説を念願していましたが、やっと最近それを見つけました。日本でテーラヴァーダ仏教を実践されてらっしゃる「アラナ精舎」というところのHPの現代語訳パーリ経典の中で、小部経典翻訳blogのページから、パティサンビターマッガ(小部経典15.3)の、〔1462〕〜〔1467〕です。止住の条件として、八つの行相、すなわち、①生起なきに〔心を〕傾注したことから、②生起に〔心を〕契沖しなかったことから、③転起されたものではないものに〔心を」傾注したことから、④転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、⑥形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、⑦止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、⑧諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、止住し、①〜⑧の逆条件が縁となって死滅する、と解説されていました。ここ1年半くらい、和井さんのブログを愛読していますが、自分には直感的に役に立つ内容に感じます。まさに、アートとサイエンスの極致のような、正確無比にして、その解説の存在そのものに無量の慈愛を感じるのは私だけでしょうか。見つけて1週間になりますが、まだ内容についての把握に自信がないので、ブログの方でも構いませんから、解説をお願い申し上げます。(サトミ)
2
:
和井 恵
:2013/10/09(水) 22:21:16 ID:/qZ2M5.2
この、小部経典の「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」は、取扱い注意が必要な経典だと考えています。
古来より、パーリ正典(経蔵)として扱われていた経典は、長部・中部・相応部・増支部の四部経典でした。
五世紀前半に、さらに五番目の小部経典(15編)を加えたのは、スリランカの上座部大寺派の僧侶ブッダゴーサでした。
※現存する上座部仏教は、すべて、この上座部大寺派の流れを汲んでいます。
ブッダゴーサは、「清浄道論」という、上座部仏教の修行体系の基礎となる教典を表わしましたが、
この「清浄道論」を書き上げるうえで、その論拠として採用したものが、
14.ニッデーサ(義釈)と 15.パティサンビダーマッガ(無礙解道)であったと指摘されています。
( 参考文献、「上座仏教の思想形成 ── ブッダからブッダゴーサへ ── 」馬場紀寿・著/春秋社 )
小部経典には、スッタニパータやダンマパダなどの貴重な経典が集められているのですが、それだけではなく、
ブッダゴーサは、自分の著作(「清浄道論」)に都合の良いものも「正典」として組み込ませているのです。
パティサンビダーマッガ(無礙解道)は、尊者サーリプッタが表わしたものであると言われていますが、
私は大分以前に、サトミさんが紹介されている「アラナ精舎」のHPで同じように見つけて、大雑把に目を通しましたが、
「経典」というよりは「解説書」つまり「アビダルマ」に近く、書いた人も、尊者サーリプッタだとは思えませんでした。
ですから私は、この経典は、参考にできる部分もあるでしょうが、書いてあることを、鵜呑みにするのは危険だと判断しています。
── と、前置きを済ませたうえで、
ご質問のあった「七覚支」の各支の止住の条件として挙げられている「八つの行相」についての考えを書かせて頂きます。
> ①生起なきに〔心を〕傾注したことから、
> ②生起に〔心を〕契沖しなかったことから、
> ③転起されたものではないものに〔心を」傾注したことから、
> ④転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、
> ⑥形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、
> ⑦止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、
> ⑧諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、
>
> 止住し、①〜⑧の逆条件が縁となって死滅する、と解説されていました。
私には、これらの条件が、何故「各覚支」の止住(そこに留まって住する)の条件になるのか解りません。
何故ならば、上記の条件は、「明解脱(慧解脱)」でなく、「心解脱」の条件のように見えるからです。
①と②、③と④、⑤と⑥、⑦と⑧は、それぞれ「逆相(対立相)」として語られています。
そして、1.「生起の無い」・2.「転起されたものではないもの」・
3.「形相ならざるもの(無相)」・4.「止滅〔の入定〕(諸々の形成〔作用〕の無い)」というこれらの「相」は、
例えば「小空経」の「無相心三昧」や、三解脱門(三三昧)と呼ばれる「空・無相・無願」と関係があるように見えるのです。
※ちなみに、「空三昧・無相三昧・無願三昧」をアビダルマなどでは三解脱門と呼んでいるようですが、
これらは実は、同じものを便宜的に、三つの側面から表わしただけのもので、個別にあるわけではありません。
上記の1.〜4.の「四つの相」に心を傾注するということは、要するに、
『 生じたもの 』 でなく 『 成ったもの 』 でなく
『 作り為されたもの 』 でなく『 形成されたもの ( 有為 ) 』 でない もの
に心を向けて、それに集中するということです。
そしてこれは、「小空経」の「非想非非想処」から離脱して「無相心三昧」に入定するときの手法と、同じなのですが、
中途半端なのですね、この説明だけでは。
── つまり、次の説明が抜けているのです。
かれは このように 知る。
( すなわち ) この 無相心三昧 は 作られたもの であり 思念 されたもの である。
何であれ 作られたもの であり 思念されたもの は、無常 であり 滅する性質 の もの である と 知る。
かれは、このように 知って、このように 見て、
欲の煩悩 から 心が 解脱し、生存の煩悩 から 心が 解脱し、無明の煩悩 から 心が 解脱する。
〈 つづく 〉
3
:
和井 恵
:2013/10/09(水) 22:22:49 ID:/qZ2M5.2
〈 つづき 〉
要するに、
『 生じたもの 』 でなく 『 成ったもの 』 でなく『 作り為されたもの 』 でなく『 形成されたもの ( 有為 ) 』 でない もの
というこれは、「否定」と「肯定」が、それぞれ互いに「対立する相手(対立概念)」に依存して成立しているもので、
「『 生じたもの 』 でない」と言いながらも、それは依然として、「生じたもの」の範疇のままなのです。
※これは、比丘たちよ、( もし、誰かが )
「 私は、色 を 離れ 受 を 離れ、想 を 離れ、行 を 離れて、それらとは まったく別 ( 無関係 ) な、
更なる、識 ( 識別・六識 ) の 来往 ( 行き来 ) ・ 死生 ( 生滅 や 再生 ) ・ 長益 ( 生育 ) ・ 広大 ( 増大 ) を 説明してみせよう 」
と 言ったとしても、そのような 言説 は、此処 ( 根拠となる 道理 や 依処となる 足場 ) が、 何処 にも 存在していない のである。
という経典での説明する「意図」なのです。
ですから、
かれは このように 知る。
( すなわち ) この 無相心三昧 は 作られたもの であり 思念 されたもの である。
何であれ 作られたもの であり 思念されたもの は、無常 であり 滅する性質 の もの である と 知る。
というプロセスを経ないと、
本当の「無相」「無願」「空」(という表現をあえてしますが、これは言葉だけのものにしか過ぎません)には至れません。
ですから、この「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」の説明は、参考にはならないと私は判断しています。
参考になりそうな経典を挙げるとすれば、次の経典など…
比丘たちよ、また私は、明解脱に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。
何を明解脱の食とするのか?
(それは)七覚支であると説く。
比丘たちよ、また私は、七覚支に食があり、食あらずということはないと説く。
何を七覚支の食とするのか?
四念処であると説く。
比丘たちよ、また私は、四念処に食があり、食あらずということはないと説く。
何を四念処の食とするのか?
三(身口意)善行(妙行)であると説く。
比丘たちよ、また私は、三善行に食があり、食あらずということはないと説く。
何を三善行の食とするのか?
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の防護であると説く。
比丘たちよ、また私は、六根の防護に食があり、食あらずということはないと説く。
何を六根の防護の食とするのか?
正念正知であると説く。
比丘たちよ、また私は、正念正知に食があり、食あらずということはないと説く。
何を正念正知の食とするのか?
如理作意であると説く。
比丘たちよ、また私は、如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。
何を如理作意の食とするのか?
信あることと説く。
比丘たちよ、また私は、信あることに食があり、食あらずということはないと説く。
何を信の食とするのか?
正法を聞くことであると説く。
比丘たちよ、また私は、正法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。
何を正法を聞くことの食とするのか?
善人(正しい指導者)に親しむことであると説く。
比丘たちよ、このように
善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、
正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、
信あることを成就するなら如理作意を成就し、
如理作意を成就するなら正念正知を成就し、
正念正知を成就するなら六根の防護を具し、
六根の防護を成就するなら三善行を成就し、
三善行を成就するなら四念処を成就し、
四念処を成就するなら七覚支を成就し、
七覚支を成就するなら明解脱を成就する。
このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。
これが、七覚支を成就するプロセスを示しているのです。
いずれ詳しい説明は、gooブログの中でする予定です。
4
:
和井 恵
:2013/10/10(木) 14:16:36 ID:/qZ2M5.2
「ニッデーサ(義釈)」と「パティサンビダーマッガ(無礙解道)」については、
以下の過去記事の中ほどで、ある程度説明していますので、参考にしてみてください。
→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/0937569e33b9c86986cc943709dec32e
5
:
サトミ
:2013/10/10(木) 16:57:43 ID:???
引用のブログは、頻繁に目を通していたつもりだったのですが、テーラヴァーダの方はあまり参考にならないと思い、読み飛ばしていて無礙解道の引用を見ていませんでした。
参考にならない理由もよくわかりました。やはり、和井さんにおききしてよかったです。
せっかく七覚支の話題だったので、もう一つ。昨年、たまたまネットでヒットした論文です。『ニカーヤにおける修行道の相互関係 ―四念処と七覚支および八聖道との比較研究』(インド哲学仏教学研究 5、1988.3)ターナヴット― ビック (東大大学院博士課程)という論文の中で、以下の引用がありました。
・・・七覚支が螺旋的に修習されるものであることを次の経典は示している。『相応部経典』「大篇」第二「覚支相応」、第六「覚支総摂品」、第五二「理趣」において、釈尊は次のように説いている。
比丘たちよ、如何なる方法があってその方法によって七覚支が十四となるのか。
比丘たちよ、内法の念も念覚支であり、外法の念も念覚支である。念覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、内法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支であり、外法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支である。択法覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、身の精進も精進覚支であり、心の精進も精進覚支である。精進覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、有尋有伺の喜も喜覚支であり、無尋無伺の喜も喜覚支である。喜覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、身の軽安も軽安覚支であり、心の軽安も軽安覚支である。軽安覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、有尋有伺の定も定覚支であり、無尋無伺の定も定覚支である。定覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、内法の捨も捨覚支であり、外法に捨も捨覚支である。捨覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
比丘たちよ、このような方法があり、この方法によって七覚支は十四となる。(SN5、p.110,l.29-p.111,l.33)
この経典では、七覚支の各支が二種に分けられている。これは、七覚支と四禅との関係及び七覚支の修習の在り方を知るために役に立つ。(中略)軽安は禅支の中に含まれないが、『相応部経典』「六処篇」第二 受相応、第二 独坐品、第十一 独坐 に次のような文が見られる。
比丘よ、これらの六つの軽安である。
初禅に入定する者には言葉が軽安となり、
第二禅に入定する者には尋伺が軽安となり、
第三禅に入定する者には喜が軽安となり、
第四禅に入定する者には入出息が軽安となり、
滅尽定に入定する者には想と受が軽安となり、
漏尽の比丘には貪が軽安となり、瞋が軽安となり、癡が軽安となる。(SN 4、p.217、l.26−p.218、l.5)
これは軽安覚支の場合にも適用できるのではないだろうか。・・・・・・
引用長くなりました。原典にあたってないので、よくわかりませんが、このあたりは大丈夫でしょうか。11ページにわたるかなり長い論文からの抜粋ですので、機会があればブログの方で構いませんから解説いただければ幸いです、(サトミ)
6
:
サトミ
:2013/10/10(木) 17:16:50 ID:???
引用論文は、1988.3ではなく、1998.3のようでした。申し訳ありません。(サトミ)
7
:
サトミ
:2013/10/11(金) 17:01:39 ID:???
ついでに、もう一つだけコメント下さい。和井さんの影響で、原始仏典を読む重要性をあらためて認識し、今年になってから、仏典(哲学之道)の無料サイトから、長部33経(34?)、中部152経のうち131経、相応部40経をざっと目を通してみました。「空」と訳されている箇所だけは、少ししっくりこないところが多かったのですが、それ以外は、おおむね読みやすくわかりやすかったです。特に、相応部は、蘊相応80章、因縁相応50章など充実している印象でした。増支部に相当するのがないのが残念ですが。訳文は、和井さんが引用されているものの方がよいと個人的には思うので、参考程度にしています。そこで、質問ですが、最近の『時』さんのやりとりでも「帝釈所問経」(サッカパンハ・スッタンタ)の話題がでてきましたが、こういうサイトで気軽に読んでも大丈夫でしょうか。何か特に注意すべき点は、ないでしょうか。四念処・七覚支・四禅を修習するのに、本当に役立つのか、否か、という点についてお聞きしたいです。なにしろこのサイト、200経以上の仏典がありますので、個別にコメントはかなり困難かと思いますが、ブログの方で、何かの機会があればおいおいコメントしていただければ幸いです。(サトミ)
8
:
和井 恵
:2013/10/12(土) 01:15:20 ID:/qZ2M5.2
> こういうサイトで気軽に読んでも大丈夫でしょうか。
残念ながら、このサイト〈仏典(哲学之道)〉はお勧めできません。
その理由は、例えば、同じ「念処経」を比較して頂ければ解り易いと思います。
★「哲学之道」 →
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/nenjokyou1.htm
「比丘衆よ、涅槃に至る、一乗の道がある。
その道は、四つの念じる処、四念処観である。
そして、この四つの念処とは、如何なるものか。
第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。」
★「@和井恵流」→
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html
「比丘たちよ、この道は、諸々の生けるものたち(有情)が浄化され、
愁いと悲しみを越えて、正理を証得し、涅槃を目の当たりに見るための一本道なのだ。
すなわち、それが四念処なのである。
── 四とは何か?
比丘たちよ、ここに比丘は、
身において身を観続け、熱心に、
正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
諸々の受において受を観続け、熱心に、
正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
心において心を観続け、熱心に、
正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
諸々の法において法を観続け、熱心に、
正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
「哲学之道」の訳文は、原典を省略したり、内容を勝手に書き換えたりしているのです。
第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。
このような内容は、原典のどこにも書かれてはいませんし、後世に創られた、勝手な「解釈」なのです。
次にまた、比丘たちよ、
どのようにして比丘は、諸々の受において受を観続けて住むのか?
楽を感受すれば〈 私は楽を感受する 〉と知る。
苦を感受すれば〈 私は苦を感受する 〉と知る。
不苦不楽を感受すれば〈 私は不苦不楽を感受する 〉と知る。
欲(五妙欲・五感)に関わる楽を感受すれば〈 私は欲に関わる楽を感受する 〉と知る。
無欲に関わる楽を感受すれば〈 私は無欲に関わる楽を感受する 〉と知る。
欲に関わる苦を感受すれば〈 私は欲に関わる苦を感受する 〉と知る。
無欲に関わる苦を感受すれば〈 私は無欲に関わる苦を感受する 〉と知る。
欲に関わる不苦不楽を感受すれば〈 私は欲に関わる不苦不楽を感受する 〉と知る。
無欲に関わる不苦不楽を感受すれば〈 私は無欲に関わる不苦不楽を感受する 〉と知る。
このように、内(自分)の諸々の受において、受を観続けて住む。
あるいは、外(他人)の諸々の受において、受を観続けて住む。
あるいは、内と外の諸々の受において、受を観続けて住む。
また、諸々の受において生起の法を観続けて住む。
あるいは、諸々の受において滅尽の法を観続けて住む。
あるいは、諸々の受において生起と滅尽の法を観続けて住む。
そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
〈 感受はこのようなものである 〉という念が現前する。
彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。
このように、また比丘たちよ、比丘は、諸々の受において受を観続けて住むのだ。
上記は「受」に関する記述ですが、どこにも「受に対して、不快であると念じること。」など示されていません。
四念処の身・受・心・法に、不浄・苦・無常・無我を当てはめて、パターン化して説明するようになったのは、
アビダルマ以降の解釈書などの影響によるもので、このような説明は、ミスリード(誤謬へと導く要因)になってしまうのです。
9
:
和井 恵
:2013/10/12(土) 02:10:03 ID:/qZ2M5.2
つまり、原典に書かれていないものを書き加えたり、
書いてあるものを省略してしまうと、原典の意味(意義)が失われてしまうのです。
私は、パーリ語などを直接翻訳することは出来ませんから
(一応、パーリ仏教辞典 →
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-11290-8/
は購入して持ってはいますが)
原始仏典@和井恵流の場合は、複数(なるべく多く)の翻訳書を何度も読み比べて、
そこから、余計な付加や省略をしないように気を付けながら、解り易い文章表現を考えて、書き直していくことをしています。
これは、著作権の問題が有るので、部分的な引用程度ならばともかく、全部まる写しでは不味いだろうと考えたからです。
単純に、出版されている経典・訳文を、そのまま写せるのならば、とてもスピーディ(簡単)で楽なんですけどね…
※ブログ記事の場合も、( )に訳者や出版社が書かれている場合は、そのままの引用で、
それらが無い場合は、@和井恵流に、複数の訳文から手直したものを使っているのです。
原始仏典・和訳&解説 @ 和井恵流 は、現在ストップしていますか、少しづつ書き加えていった方が良さそうですね…
10
:
サトミ
:2013/10/18(金) 16:51:19 ID:???
やはり、相当なてまひまかけて原始仏典をアップしてらっしゃたんですね。言葉に精密で曖昧さの全くないといわれる釈尊の言説に対して、省略や意訳・超訳に気づかずに鵜呑みにするのは、やはり危険なことだと思いました。
昨年の@和井恵ブログで人気の高かった、「バーヒヤの経」(正田大観・訳)2012.6.18 連載・その3 「苦滅のメカニズム」と無我の関係より 〜においても、その前ふり・後日譚も含めて読まないと、そのあとの「ウダーナヴァルガ」26章 安らぎ17(中村元・訳)が何を言わんとしているのかよくわからない、という状況になるのも不思議ではありません。
11
:
サトミ
:2013/10/18(金) 17:23:37 ID:???
Wikiの原始仏典・和訳&解説@和井恵流の中では、中部2経・一切煩悩経、中部10経・念処経、中部20経・考相経、増支部7集5・大供犠品46、増支部8集7・地震品63とっていただいてて・略説などをよく読んでいます。あと、これは、リクエストですが、
中部62経「大ラーフラ教誡経(入出息念の修行法)」、中部118経「治意経(出入息観)」の経典部分だけでも早めに掲載されると便利です。いつも、過去ブログ、2010.12.16.7時6分「メールを頂いた人への返信です。」その3などで、読んでいます。解説は、過去ログ参照とかでもよいと思うのですが。
PCと違って、スマホはとても便利で、どちらにも簡単にアクセスできますが、経典だけでもまとまっていると助かります。おそらく、他の方々も同感ではないかと思い、僭越ながら、和井さんの読者を代表して、お願いしておきます。12/16のブログは、第四禅の呼吸停止にまで触れていますが、何か理由があってあえてまだ本編ではとりあげていないのでしょうか?
また、2010.12.27。14時26分には、「七覚支」と「四念処」とを組み合わせて修習する、という話が出ていますが、四神足については今後も公開予定なし、とのことなので、たまに触れられている記述が気になります。(サトミ)
12
:
サトミ
:2013/10/25(金) 10:21:25 ID:???
@ 和井恵流ブログ;2012.11.17 「連載・真理の流れを解明する その10.失われてしまった、四禅定に至る修行法とは?その3 を読み返してみました。この回には、大念処経の法念処・四諦の苦集諦:60種類の渇愛の生じ、とどまる場所を示した重要な経典が掲載されています。ブログ掲載の仏典は、片山一良先生の訳ですが、例の「哲学の道」の訳は、この部分が半分の30になっていて、しかも六処と六境の区別もなく、全然わからないものになっていました。次の回の2012.12.8 真理の流れ その11にも
和井さんが詳しく解説していただいていますが、ここのポイントは、感官の防護・四正勤・十二縁起にかかわる実に釈尊のメソッドの核心部分ともいえそうですので、実に大変残念な訳になっていると思いました。和井さんがおすすめできない部分が多すぎですね。(サトミ)
13
:
和井 恵
:2013/10/27(日) 21:53:00 ID:/qZ2M5.2
> これは、リクエストですが、中部62経「大ラーフラ教誡経(入出息念の修行法)」、
> 中部118経「治意経(出入息観)」の経典部分だけでも早めに掲載されると便利です。
了解しました。
とりあえず、この二つの経典は、後で差し替えるという前提で、それまで一時的に、
片山一良先生の訳文を、そのまま、掲載させて頂くことで、早めに作業を進めることにしましょう。
> 12/16のブログは、第四禅の呼吸停止にまで触れていますが、
これは、中部62経「大ラーフラ教誡経」の最後で、釈尊が、アーナンダ長老にそのことを示していた … という指摘ですね。
> 「七覚支」と「四念処」とを組み合わせて修習する、という話が出ていますが、
これは、中部118経「出入息念経」の中で、かなり詳しく説明されています。
> 四神足については
これは、中部119経「身至念経」の中に、そのヒントとなる説明がされています。
四神足の修行は、要するに、第四禅定まで至ることの出来る修行者が、
そこからさらに、三明智(六神通)を得るために実践する修行なのです。
ついでに、この経典も、三番目にピックアップすることにしましょう。
> この回には、大念処経の法念処・四諦の苦集諦:60種類の渇愛の生じ、とどまる場所を示した重要な経典が掲載されています。
> ( 中 略 )
> ここのポイントは、感官の防護・四正勤・十二縁起にかかわる実に釈尊のメソッドの核心部分ともいえそうですので、
その通りです。
そして、もうすぐブログ記事の方で( その7、か、8くらいから … かな )、これらについて詳しく説明する予定なのです。
14
:
和井 恵
:2013/10/28(月) 02:58:42 ID:/qZ2M5.2
中部62経「大ラーフラ教誡経」、とりあえずUPしました。
単純に写すだけだと、なんて楽なんでしょうね ……
明日から、11回目の抗癌剤治療で、短期の入院をする予定ですが、
多分、来週中には、118経と119経のUPも出来るだろうと考えています。
15
:
サトミ
:2013/10/28(月) 08:18:35 ID:???
体調悪い中、早速アップしていただき、まことにありがとうございました。やはり、仏典は、なるべく最初から最後まで通して読むとわかりやすいと思いました。なぜなら、大ラーフラ教誡経が、最終段階の修行者 ; おそらくは第四禅入定まじかと思われる、少なくとも初心者に説かれたものではない、ことが、容易に想像できたからです。今後ともよろしくお願いいたします。(サトミ)
16
:
和井 恵
:2013/11/02(土) 22:13:38 ID:/qZ2M5.2
中部118経「出入息念経」、UPしました。
先の、中部62経「大ラーフラ教誡経」と合わせて読むと、面白い発見があると思いますよ。
次は、長部21経「帝釈天問経」の部分訳、その後で、中部119経という順にUPします。
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