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覚支相応における止住・死没の条件について

5サトミ:2013/10/10(木) 16:57:43 ID:???
引用のブログは、頻繁に目を通していたつもりだったのですが、テーラヴァーダの方はあまり参考にならないと思い、読み飛ばしていて無礙解道の引用を見ていませんでした。
参考にならない理由もよくわかりました。やはり、和井さんにおききしてよかったです。
せっかく七覚支の話題だったので、もう一つ。昨年、たまたまネットでヒットした論文です。『ニカーヤにおける修行道の相互関係 ―四念処と七覚支および八聖道との比較研究』(インド哲学仏教学研究 5、1988.3)ターナヴット― ビック (東大大学院博士課程)という論文の中で、以下の引用がありました。
 ・・・七覚支が螺旋的に修習されるものであることを次の経典は示している。『相応部経典』「大篇」第二「覚支相応」、第六「覚支総摂品」、第五二「理趣」において、釈尊は次のように説いている。
    比丘たちよ、如何なる方法があってその方法によって七覚支が十四となるのか。
    比丘たちよ、内法の念も念覚支であり、外法の念も念覚支である。念覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、内法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支であり、外法において慧をもって考察し、伺察し、思量するに至ることも択法覚支である。択法覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、身の精進も精進覚支であり、心の精進も精進覚支である。精進覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、有尋有伺の喜も喜覚支であり、無尋無伺の喜も喜覚支である。喜覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、身の軽安も軽安覚支であり、心の軽安も軽安覚支である。軽安覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、有尋有伺の定も定覚支であり、無尋無伺の定も定覚支である。定覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、内法の捨も捨覚支であり、外法に捨も捨覚支である。捨覚支とはこの説に依る。故にこの方法によって二となる。
    比丘たちよ、このような方法があり、この方法によって七覚支は十四となる。(SN5、p.110,l.29-p.111,l.33)
この経典では、七覚支の各支が二種に分けられている。これは、七覚支と四禅との関係及び七覚支の修習の在り方を知るために役に立つ。(中略)軽安は禅支の中に含まれないが、『相応部経典』「六処篇」第二 受相応、第二 独坐品、第十一 独坐 に次のような文が見られる。
    比丘よ、これらの六つの軽安である。
    初禅に入定する者には言葉が軽安となり、
    第二禅に入定する者には尋伺が軽安となり、
    第三禅に入定する者には喜が軽安となり、
    第四禅に入定する者には入出息が軽安となり、
    滅尽定に入定する者には想と受が軽安となり、
    漏尽の比丘には貪が軽安となり、瞋が軽安となり、癡が軽安となる。(SN 4、p.217、l.26−p.218、l.5)
これは軽安覚支の場合にも適用できるのではないだろうか。・・・・・・

 引用長くなりました。原典にあたってないので、よくわかりませんが、このあたりは大丈夫でしょうか。11ページにわたるかなり長い論文からの抜粋ですので、機会があればブログの方で構いませんから解説いただければ幸いです、(サトミ)


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