したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

哲学的・雑談的 3

72千手:2008/02/25(月) 23:59:19

http://25237720.at.webry.info/200802/article_6.html
補足あり

73千手:2008/02/28(木) 01:42:06
距離のパトス ニーチェ対デリダ

われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。

デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。

アブラハムの物語についてのデリダの(おそらく故意の)読み誤りもひとつ指摘しておく。
>アブラハムが「我ここに」と言い、息子の喉をかき切ろうと刀を振り上げると、神は言う。「その子に手を下すな。」…… (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫p.148)
 しかし言葉によってアブラハムの手をとどめるのは創世記では「神」ではなく、「天使」(angelus Domini)である。ここで「神」と「神の使い」との微小な差異をデリダは無視するのであるが、神の直接の言葉によって命じられた行為を、天使の言葉によって止めるのは、神に対する裏切りではないのか、という問題がここから起こって然るべきである。ちなみに別の箇所ではデリダも神と天使を区別している。

74千手:2008/02/28(木) 02:05:02

http://25237720.at.webry.info/200802/article_7.html
補足あり

75千手:2008/02/29(金) 03:10:29

次も書いてしまいました。不勉強を恥じるばかりです。これが因果というものか。
http://25237720.at.webry.info/200802/article_8.html
もう一歩だけ、ニーチェの距離のパトスについて書いて、このシリーズは終了します。
後日再開すると思いますが。

76<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

77千手★:2008/03/02(日) 03:41:21

迷惑サイトからの書き込みがあったので削除しました。
発信アドレスは以下でした。
NWTfb-04p2-194.ppp11.odn.ad.jp

78senju:2008/03/02(日) 04:00:02
>>75の内容を再録しておきます。
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
(承前)
デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「<u>隠れたことを</u>見ておられる」とする訳も誤りであろう)
> 神は私を見る、隠れたところで私の内の私を見る、だが私は神を見ない、神が私を見るのを私は見ない、神のほうは、私が背を向ける精神分析医とは違って、正面から私を見るというのに。神が私を見るのを私は見ないのだから、<u>私は神の声を聞くことができるだけであり</u>、またそうしなければならない。<em>だが多くの場合</em>、誰かが神を、聞くべきものとして私に与えてくれなければならない。<u>神が私に言うことを、私はある他者の声で語られて聞く。別の他者、つまり使者、天使</u>、預言者、メシア、知らせの配達人、知らせをもたらす人、福音伝道師、神と私の間で語る仲介者<u>などを通して聞くのだ</u>。神と私のあいだ、他者と私の間には、対面関係もなく、視線の交叉もない。神は私に視線を向けるが私は神を見ない。しかしそれにもかかわらず私を見るこの視線から、私の責任がはじまるのだ。
 (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫、p.186。一部改め。強調は引用者)

長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
 そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
 デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。

79毛蟹:2008/03/02(日) 09:33:30
僕が思うに一神教の神様は「掟の門前」の掟のようなものであり、もしこの神様(掟)が万物の創造者であるというなら、万物は人間の被造物だということになってしまう。

80毛蟹:2008/03/02(日) 10:28:11
某キリスト教系宗教団体のプロパガンダ紙に「科学の進歩は神の存在を揺ぎないものにする」というようなことが書かれていた。宇宙には秩序を持ったものしか存在しておらず、この秩序こそ神の徴なのだそうだ。ふむふむ。したがって極微の世界から宇宙まで、生物、無生物を問わず科学者は万物に神の痕跡を見出すべく日々精進しているとのことであった。

81毛蟹:2008/03/02(日) 18:59:26
>>73
>われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない

この文章の主語がなぜ「われわれ」という複数形になっているのか教えてください。

82千手:2008/03/04(火) 04:10:47
>>81
ニーチェを知り、かつ"Tout autre n'est pas tout autre"という主張を
デリダの"tout autre est tout autre"という定式に対抗させたいと思う者は
ぐらいのことです。
もっとくだけば、「絶対的な他者」という概念が空虚であると考え、そのことをどう表現できるかを考える者はと言い換えてもよいとおもいます。

83千手:2008/03/04(火) 04:22:04
『死を与える』(ちくま学芸文庫版)はデリダがマタイ伝6-6として引く
"il voit dans le secret"
を一貫して「神は隠れたことを見たまい」と訳すのだが、一体どうすればこんな訳が可能なのか?
誤訳を執拗に押しつけている、としか見えないのだが。

84毛蟹:2008/03/04(火) 11:01:16
>82
ご返答ありがとうございます。
「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。

85千手:2008/03/04(火) 19:04:21
>>80
その神様は奇跡は起せないわけですね。

86毛蟹:2008/03/04(火) 20:39:23
>>85
よくは知らないけどオフ中らしく、デーモンという名で休暇を楽しんでおられるとか。

87千手:2008/03/04(火) 23:35:13
>>82
デリダの天才、それは次のような神概念の提出にあります。
「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることが出来るという可能性に付けられた名である」
(『死を与える』p.220)

言い換えると、「鉾走」ができることの根拠の名ですね。
これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

88千手:2008/03/04(火) 23:37:52
>>86
神様もうかうかしているとアホな天使が勝手に奇跡を起こしてしまいますよ。

89千手:2008/03/05(水) 12:16:23
>>87
原典を紹介しておきます。
Dieu est le nom de la possibilit&eacute; pour moi de garder un secret qui est visible &agrave; l'int&eacute;rieur mais non &agrave; l'ext&eacute;rieur. ("Donner la mort" p.147)
デリダの『死を与える』の中で最も重要な言葉だと思います。

90千手:2008/03/05(水) 12:25:13
>>84
>「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。
ほんとうに含まれていないんでしょうか?

91毛蟹:2008/03/05(水) 18:50:52
>>90
僕は千手さんの語り口や身振りが嫌いではありません。しかしそれは自分が望んであなたのテキストを読む時に限られます。掲示板は本ではありません。僕は何ら予告もなく唐突に議論の中に己が組み込まれるのを善しとしません。

何を語るかよりもどのような語り口で語るのかについて人はあまりにも無頓着です。もちろん自戒を込めて。

92毛蟹:2008/03/05(水) 19:12:08
>>87
>これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

>今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

この語り口は心地良いです。>90と91は無視して続けてください。オーディエンスは酷薄なものです。
僕はデリダの「掟の門前」で一神教の神さまの正体を見せてもらった気がしています。その先をどうぞ。

93千手:2008/03/06(木) 00:35:31
>>89
しかしここで「秘密が守られる」(garder un secret)とすると、あの"tout autre"(述語の方の)が復活してしまう。生きてしまう。
デリダの勝ちなのだろうか?
いや、これも距離(Distanz)の一つの形か?
ニーチェが考えるような超人は千の隔たり、万の隔たりをこともなくわがものとする浪費家だ。何一つ秘密にする、隠す、ということがないが、その存在(本質)自体が秘密でありつづけてしまうのだ。
「秘密を守る」ということ自体せせこましいことだ、とニーチェならデリダと、そしてアブラハムに言うことだろう。
小人にとっては「すべての他者はまったき他者だ」。
同じく、小人にとって「神はまったき他者だ」。
デリダ君、これでよろしいか?

94千手:2008/03/06(木) 00:40:07
>>93
「ペルセポリス演舞場」を併設しよう、かな。

95毛蟹:2008/03/06(木) 00:40:49
>>90
僕は、神様が直接語ったか、天使が語ったか、そんな議論に組したくない。
神様なんて人間の作ったものじゃないか。

96毛蟹:2008/03/06(木) 00:54:41
>>93
それで結構。「神はまったき他者」です。

97千手:2008/03/06(木) 00:59:24
すべての力は隔たり(Distanz)をもって関係し合う。 

(ニーチェ・ドゥルーズ)

98千手:2008/03/06(木) 01:11:38
>>97
それゆえ、"tout autre n'est pas tout autre"である。

99千手:2008/03/06(木) 01:50:58
>>87,>>89,>>93,>>97,>>98
マイ・ブログに収録
http://25237720.at.webry.info/200803/article_1.html

100千手:2008/03/06(木) 02:47:50
>>96
毛蟹さん

>>87
の引用でデリダが提出しているのは外部に存在している神ではなく、内面性においてのみ問題になる神です。
きわめて短い引用で誤解させてしまっているかもしれません。
できれば『死を与える』のご一読を。

101毛蟹:2008/03/06(木) 13:40:40
>>100
僕はもっぱら痰つぼとか便器として神様を重宝しています。

102千手:2008/03/06(木) 17:28:21
>>101
そう言われると、毛蟹さんのために「ニーチェ対デリダ」をもう一節書かなければならないかもしれない。
デリダはなぜ「秘密」を必須の要件とするのか。語れば伝達される何事かが存在するのでなければ、「秘密を守る」ことに何の意味もありますまい。
「秘密を守る」ということがデリダにとって何か意味をもつのか?
語れば伝達される何事かが存在する場面で、デリダは「私が秘密を守ることの可能性」を考えているのか?
それとも創世記のアブラハムとマタイ伝6-6を出発点にもってきたために取っている論述の形にすぎないのか?
ここでも「距離のパトス」を語るニーチェが勝利しているようにみえます。
距離のパトスは秘密ではない。ただそれは語れない。肯定するかどうか。
そこに最大の重さが掛かっている。
デリダもそのことを言いたいのではないのか?
つまり、神とは(距離のパトスの)肯定を可能にするものの名のことであると。

103毛蟹:2008/03/06(木) 19:31:50
>>102
便器のほうが実用的。

104毛蟹:2008/03/06(木) 20:01:34
神様では尻も拭けない。脱糞後にその不在に気付く時、カミの有り難味を痛感する。

105毛蟹:2008/03/06(木) 20:30:09
神を語る資格のあるものは、自分以外の全ての人間から絞り尽くした血よりも自分の血の一滴のほうがはるかに価値があると思う人間か、その逆の人間だけです。

106千手:2008/03/06(木) 21:12:11
くわばらくわばら。

107千手:2008/03/07(金) 00:07:49
>>102
http://25237720.at.webry.info/200803/article_2.html
に再録。

108衒学者:2008/03/07(金) 22:02:58
デリダ言うところの「秘密」とはおそらく概念のことではなく、
選択しうる行動の一つのことを言っているだけなのではないでしょうか。
「隔たりを埋めようとするときの自己」は既に「他者と隔たっていたときの自己」とは違うから、
(隔たりを埋められるところの他者も同様でしょう)
「他者」または「自己」という概念を「使う」とき、それらは定義として「隔たった二つの現存在」となっていなければならないのでしょう。

千手さんが言う他者がまったく他者でない可能性もあるという話は、
前述のように『概念を「使う」とき』、その行動の一部分にミスがある可能性を指摘しているということなのでしょう。
ですがそれは、概念としての「他者」が世界内から完全に消えることを意味しません。なぜなら、
現存在は時間の中で常に存在的にも存在論的にも変化しており、あらゆる「他者」に接近していって隔たりが消えたとしても、
新たな「質の差異」を持つ他者は生まれてくるからです。
更に言えば、「質の差異」を理解することが完全な「他者」理解というわけでもないでしょう。


また、デリダが「他者」の定義にさかのぼり、
「他者」が「まったくの他者」であることを強調したのには、
新たな他者理解の地平を作り出すためのスタートとなる基準地点にまで戻る必要があったからではないでしょうか。
もちろん、数量的理解も質的理解もそういった理解の中の一部でしかないでしょう。
そして結局、どのような他者理解を行うにせよ、それらの議論はすべて政治的、経済的な問題なのです。
またそのような状況では、「他者」や「自己」といった言葉が本来の定義から離れ、サブリミナル効果的なキャッチフレーズとして、
いい様に利用されかねない危険があるわけです。
デリダはそのような状況で、「倫理」を再構築してみせることで(時にはそのスタート地点となる極論的定義に戻るとしても)
「倫理」が忘却されることを防ぎます。また、再構築された「倫理」を現実に積極的に適用することで、
「倫理」のその本来の機能に即した更新を目指します。
ですから、「他者」を理解するという行為が、良い意味でも悪い意味でも「数量的」になりうる事の確認自体は
一つの確認としてむしろ有用だということなのです。
そして前述のように、「他者」は二通りの意味(時間に即した変化、誤認識の解消)で変わりうります。
もちろん変わらない場合というのは、ニーチェ言うところの「距離のパトス」が存在する場合でしょう。
よって、「他者」はまったき「他者」であると言い放つことは、
論理的にも倫理的にも間違ったことではないでしょう。
誰かを名指しにして、「彼はまったくの他者だ」と言うのとは状況が違いますからね。

109Verschwender★:2008/03/08(土) 03:21:49
>>108
Who ? are you?
「眩学者」を名乗っていることはわかりますが。
確か、新しく登場する時は、自己紹介をしてもらうことになっていたと思います。
ともあれまずは自己紹介をお願いします。

110千手:2008/03/08(土) 03:35:03
>>108
まったく何も理解できません。
眩学者ならまだいいのかもしれませんが、雑学者はお断りです。
雑学者ではないことを示す何らかの明晰な語りをして下さい。つまり、明確に依拠するテキスト(デリダのどのテキストのどの文か)を示した上で何かを言って下さい。
客人は歓迎だし、何かを明確に教えてもらえるなら有り難いことですが、とりあえず>>108は何を言っているかよくわかりません。返答不能です。悪しからず。

111千手:2008/03/08(土) 03:43:27
>>108
>千手さんが言う他者がまったく他者でない可能性もあるという話は

私が"tout autre n'est pas tout autre"と言うとき、私は(まったき他者としての)神は存在しないと言っているのです。
そしてまた(まったき他者としての)他人も存在しないと言っているのです。

わたしがまだ誤解の余地の多い語りをしていることも、まだ的確にニーチェの「距離(のパトス)」を説明していないことも承知していますが。

112千手:2008/03/08(土) 04:11:55
>>108
ニーチェは貴族的社会について
"eine Geselschaft, welche an eine lange Leiter der Rangordnung und Werthverschiedenheit von Mensch und Mensch glaubt"(JGB 257)
と説明しています。人と人との隔たり、差異を、"Leiter"(梯子)と言い表わしていることにわたしは注目しています。
何段も何段もあるけど、そしてそれぞれの段の中での物事の感じ方は他の段それとまるっきり違っているのでしょうが、そかしそれにしてもそれらの段は、ひとつの尺度の中に置かれるのです。
眩学者さんはこれについてどう考えるのでしょう?

113千手:2008/03/08(土) 04:30:45
>>108
もう一つたずねておきましょう。>>108で語られていることは、デリダが『死を与える』で問題にしていることと何の関係もないように見えるのですが
一体デリダの『死を与える』のどの主張とどう関係しているとお考えなのでしょうか? お答え下さい。
>>110と同じ疑問になってしまったようですが)

114毛蟹:2008/03/08(土) 09:45:14
>>109〜113
くわばらくわばら。

115Pentatonics:2008/03/09(日) 09:18:31
一部で勘違いされている方があるようですので、
野暮を承知で確認しておきます。
108の衒学者さんは、私ではありません。

116<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

117千手★:2008/03/11(火) 23:31:11
>>116
迷惑投稿があったので削除しました。

投稿日時:2008/03/11(火) 07:38:37
ホスト名:ntt5-ppp8.west.sannet.ne.jp
IPアドレス:211.133.160.39

118毛蟹:2008/03/13(木) 22:04:05
廃墟でたばこを一服。ふぅー

119千手:2008/03/24(月) 21:51:20
>>105
>神を語る資格のあるものは、自分以外の全ての人間から絞り尽くした血よりも自分の血の一滴のほうがはるかに価値があると思う人間か、その逆の人間だけです。

「神を語る資格のあるもの」を云々する資格を毛蟹さんはどこから手に入れたのですか?

120毛蟹:2008/03/24(月) 23:43:49
>>119
資格など要りません。そんなライセンスがここ(ペルセポリス)で必要なのですか。

121千手:2008/03/25(火) 01:21:17
>>120
とすると神を語るにも「資格」は要らないわけですね。
とすれば>>105の言明は>>120と矛盾することになりませんか?

122毛蟹:2008/03/25(火) 10:27:52
>>121
レス105を投稿した3月6日の毛蟹はかつて経験したことのないサイテーの精神状態に見舞われ嘔吐していました。吐いてから19日も経った干からびたゲロ(レス105)のチェックをしていただけるのであれば「資格」などという不用意な言葉が混じらぬような体裁のよいゲロを吐く訓練をしておけばよかったと反省しております。

123千手:2008/03/25(火) 21:57:05
>>122
健康回復を祈ります。

124千手:2008/03/26(水) 08:18:36
このところ「薬物ギョーザ事件」への対応から始まって、
「チベット騒乱」、「米ロ2+2会談」、「台湾総統選挙」とアジアニュースから目が離せないでいましたが
結局はよく分からない。〔「米」vs「中+ロ」〕体制から〔「米+ロ」vs「中」〕体制へ移行してゆくきっかけができてきたようには見えるが
内実がどこまで進んでいるのかはわからない。ロシアが手の内を見せていないのでどこも動けないように見える。
昨日は久しぶりに読むべきニュースがなかった。

125千手:2008/03/26(水) 08:44:02
またもう一つ感じたのは「米+中」によって世界の覇権を維持してゆこうとする動きがあるのかもしれない、ということだ。
やはり台湾からは目が離せない。

126千手:2008/03/26(水) 09:07:49
チベットがらみの人権問題、情報鎖国問題に関連して、独米と英仏の間にはだいぶ温度差があるように見える。
米国が中国寄りの姿勢を示していればどこでも独立運動の気勢はそがれる。
なかで鮮明だったのはチベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官がいたのが写真つきで暴かれたことだ。

127千手:2008/03/27(木) 20:07:38
>>126
>チベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官

上記の話は、情報ソースが少なすぎるので、真偽については現時点では「可疑」としておきます。

128千手:2008/03/27(木) 22:28:23
もっとか確実で重大な問題点は、あの劉荻ら30人の中国知識人の声明の5番指摘していることだ。
つまりラサで騒乱が発生した当日、チベット当局が、「これがダライ集団が計画的に引き起こした事件であるとする十分な証拠をもっている」
と説明したことだ。
 チベット当局は、予め知りながら、有効な措置を取らずに騒乱を発生させたか、あるいは当局自体がこの騒乱を扇動し、発生させたか、どちらかになる、ということだ。

129千手:2008/03/30(日) 15:39:20
「神は人間がつくった」という主張は不毛だ。
「誰が、何を、何のために(=何を狙って)神と名づけたのか」と問わなければならない。
これが多元論的な神の問い方だ。

130千手:2008/03/30(日) 15:44:00
「誰が」というのは「どういうタイプの人間が」、ということだ。

この問い方を学べ。
われわれにそんな暇な時間があるわけじゃない。

131千手:2008/03/30(日) 15:47:48
たとえば姑息な人間は「神」をどのように利用しようとするか。

132千手:2008/03/30(日) 15:53:33
弱い人間はどのような「神」をどのように役立てようとするか。

「神は人間が作ったものだ」と言って満足していると、「神問題」のおぞましい全領域をそのまま手つかずに取り逃がしてしまうだろう。

133毛蟹:2008/03/30(日) 21:02:32
掲示板に投稿された文章を僕に語る主体が投稿者なのか僕なのか、僕には判別できません。おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。それは僕の限界でもあるだろうし、そればかりでもないだろうとも思います。内田樹さんの言う「うなぎ@村上春樹」に語らせることができなければこういう場で発言してはダメなんだと思いました。そうゆう理由で退場です。

134毛蟹:2008/03/30(日) 21:21:41
>>133
>おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。

おそらくそのどちらの声でも投稿者の言いたいことは僕には伝わらないでしょう。に訂正します。

135千手:2008/03/31(月) 06:22:21
>>133

>>129はすでに毛蟹さんにターゲットしていません。
もちろん発言の元は毛蟹さんの発言にありますが。
うなぎではありませんがわたしも逃げてゆくのです。
多元論こそ最も強力な無神論であること、このことを示したいということです。

136千手:2008/03/31(月) 06:42:13
デリダの「神とは……の名だ」という結論的表現は、
デリダがこのニーチェ的な多元論の方法に従って論を組み立てていっていることを示しています。
わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです。
わたしにとってこの議論の中で本当のうなぎはデリダです。
このうなぎとりに役立たない議論にはあまり関心をもちません。それを無礼に感じるかもしれませんが。
『死を与える』のデリダうなぎに釘を打てたか?
打てたつもりでいます。
次ぎは「Donner le temps」のうなぎに釘を打ちたいと思っています。

137千手:2008/03/31(月) 06:51:44
>わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです

これ(「秘密」を必要とした論の展開)は狂暴な民主主義時代におけるうなぎの生息方法、生存戦略には違いありません。

138千手:2008/03/31(月) 07:02:07
>>133
>こういう場

あなたは逃げるも加わるも自由です。
ここは演舞場です。

139千手:2008/04/01(火) 00:25:20
>>126,>>127
一応ソースを紹介しておきます。
http://en.epochtimes.com/news/8-3-29/67906.html
修正済み写真の方をどういう機関が出したのか、それがもっとわかればいいのですが。

140千手:2008/04/09(水) 12:41:40
あの小泉義之さんのブログを発見。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/
けれど期限つきで、もう終了してしまったようです。
ものすごい勉強家!!

141E嬢:2008/04/09(水) 16:25:02
>>140

面白いので、サクサク読んでしまいました。
今度は、ジックリ読んでみようと思います。

142千手:2008/04/17(木) 20:54:08
Ein Buch f&uuml;r Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)

ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証の正しさを理解してもらうためにはところどころドイツ語の理解を必要とする、といったところだ。この授業を機会に、手塚富雄訳(中公クラシックスw17)を手に入れたので、叩き台にするものが増えた。しかし日本語訳の出発点にするのは、今回も同じく氷上英廣訳、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』である。まずは「序説」を最後までやりたいと思っているが、いろいろな都合でどうなるかわからない。先のシリーズでは授業では説明したが、説明がかなりやっかいなところは幾つか飛ばした。今回はそういうところを補えればいいのだが。その余裕があるかどうかは、まあ、やってみなければわからないことだ。まずは4月15日の授業で考えた、巻頭の、"Also sprach Zarahtustra."というタイトルの下につけられた"Ein Buch f&uuml;r Alle und Keinen"という添辞について述べてみよう。

 その添辞というか、「副題」というよりはコメントに近いと思われるその言葉は、次のように訳されている。

1.「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」 氷上英廣訳、岩波文庫。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」 吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
3.「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」 手塚富雄訳、中公クラシックス

三者三様の訳、と言えるかもしれない。けれど一番分かりやすいのは氷上氏の訳だ。読者に向かって、ちょっと高踏的に、お前たちのだれでも文章は読めるだろうが、内容は誰にも分からないだろう。そんな本だ、と構えているところを見せているのだ、というわけである。なるほど確かにわかりそうな気がする。しかし、もしこの本は「だれに読めない」本だと宣言するのであれば、何でそんな本を公にするのであろうか? 
 実際わたしには、この問いを問うだけで、ニーチェがこの言葉にこめたものにまっすぐにたどりつくことができるように思う。だがしばらく寄り道をしよう。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」の吉沢訳であるが、これはドイツ語の文字どおりの逐語訳に近い。それだけに訳者がそこにどういうメッセージを読み取っているのか示してもらいたいところだが、吉沢訳んぼ巻末につけられた豊富な注にも、この「添辞」の解釈は見当たらない。となると、訳者がどう解釈したかわkらないままである。しかしこの短い訳文からも、わたしなら決してそうは訳さないところが見出せる。それは「ための、そして」の間の「、」だ。後で述べるが、わたしはこの「、」が誤りだと思うのである。
3.の手塚訳は、まるで正岡子規の『歌よみに与える書』を思い出させる。おそらく訳者の念頭に浮かんでいたものに違いない。しかしこの「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」は何か滑稽である。「万人に与える書」の方はお前らみんなこれを読んで勉強しておけ、というような高慢な姿勢として理解できるのであるが、しかしその同じ高慢な調子で「何人にも与えぬ書」とやられると、それなら自分の部屋に積んでおいてベッド代わりにするか、あるいは寒いときには薪にでもされたらよいでしょう、と言いたい気になる。つまり、この後半は「お願いだからもらっておくれ」と言いたいのに、言えないで、さびしくしている自尊心のお高い男のセリフにしかみえないのである。それにそもそもどうして「与える」などという訳語が出てくるのだろうか? "f&uuml;r"に与えるという上から下への視線を読み取るのは誤りである。"f&uuml;r"は、「〜向きの」、あるいは、「〜のための」というぐらいの意味である。誰に、あるいは何にフィットするか、というようなことである。その後に"gegeben"(与えた)が省略されているのだ、と言い張る人がいるかもしれないが、それなら"f&uuml;r"ではなく、"Alle""Keinen"も3格にして語るはずだ。手塚訳は、一応日本語にはなっているが、一貫した解釈ができているとは言い難い訳だ。

143千手:2008/04/17(木) 20:55:01
(つづき)
 今やわたしの解釈を示さなければならない。わたしの解釈は氷上訳をさらに進めることによって導かれてくるものだが、それは、「この書を読むことによって、この書にふさわしい人が生まれてくる」ということを願って付けられた添辞だろう、ということだ。とすると読者はどこにいるのだろうか。まさにこの"und"(「と」、英語の"and"に相当)のところにである。ひとは、読者は、この「万人」("Alle")と「無人」("Keinen")の丁度中間にあり、同時に「万人」であり「無人」であるのである。ひとは生成の中に置かれる。
 この拙論の読者はジル・ドゥルーズが純粋な生成を性格づけるために語る「同時に二方向」("deux sens &agrave; la fois")という定式を思い出すかもしれない。ニーチェの"f&uuml;r Alle und Keinen"という定式をきちんと考えようとすれば、ひとはこのドゥルーズの定式に達するのである(だから"und"を「、」で区切る訳は誤りなのだ)。
 ニーチェの「添辞(副題)」を訳してみよう、「万人であり同時に何者でもない者のための書」。「生成する者のための書」と訳してもいいかもしれない。こう訳せば立派な副題である。『ツァラトゥストラ』を読む人は、この「生成する者のための書」という副題の主旨を最後まで忘れないでほしい。

144<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

145<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

146千手:2008/05/23(金) 20:04:45
>>144,>>145
ブログに掲載したので削除しました

147千手:2008/05/24(土) 12:24:54
>グルジア領内にありながらグルジアの統治が及ばない「国内国」が南オセチアとアブハジア。
このふたつの「地域」にロシア軍が駐留しており、これら「未承認国家」を「国家」クラスに格上げして、「正式の外交関係を結ぶ」とした大統領命令に、プーチンがサインしたのは4月16日だった。
> 後継メドベージェフ政権になってロシアの領土的野心は、さらに露骨になった。
 「南オセチア」を「北オセチア」と合邦(合併)させて、その新国家の独立を直ちに承認し、続けて「ロシア連邦」に加盟させる。
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第2196号より)

こういうニュースを聞くと、プーチンと戦ってみたいという気になる。中国を敵国に想定する北野幸伯さんの見方ではこれからはまずいと思う。

148千手:2008/06/19(木) 23:33:26
イランが欧州金融セクターから資産を引き揚げはじめているという(RPE No.523)。
資産凍結を予期してのことだろう。
近々イラン攻撃が始まるか?
北朝鮮のテロ支援国家指定解除と連動してのことだろう。
ペルセポリスが灰になるか?

149千手:2008/06/20(金) 00:17:13
バクダッド次はテヘランを滅ぼすと
ペルセポリスの破壊者の裔

150<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

151<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

152千手:2008/07/23(水) 06:22:38

美留軒のはなし、修正のため削除しました。修正したものは、
http://25237720.at.webry.info/200807/article_3.html
をお読み下さい。

153千手:2008/08/02(土) 14:32:43
ブログに書いたものを再録しておきます。
http://25237720.at.webry.info/200808/article_1.html

神の定義2

先にわたしの「神の定義」の試みを示した。フランス語で。まずそれを日本語にして示しておこう。

神とは、わたしが、内面的に感知されるものである距離のパトスを肯定することを可能にするものの名前である。
  ---中路正恒---

ちなみにフランス語の方は以下である。
Dieu est le nom de la possibilit&eacute; pour moi d'affirmer le pathos de la distanz qui est sensible &agrave; l'int&eacute;rieur.
--- Masatsune Nakaji ---

 このように定義される神であれば、それをニーチェが否定することはありえない。逆である。全力を挙げて肯定するであろう。距離パトスの肯定以外に、永遠回帰の思想が教えることはないのだから。

 デリダが『死を与える』の中で提示している神の定義との対比は後に行なう。まずとりあえずは本ブログの「ニーチェ対デリダ」を参照していただきたい。

154毛蟹:2008/08/03(日) 11:05:44
>>153
他者のブログをペルセポリスで引用するなら、それを考察の対象としなければならないと思います。
ペルセポリスを運営者の個人的な目的に奉仕させようとするなら誰もエントリーしなくなるのは当然です。

155毛蟹:2008/08/03(日) 11:10:51
ブログとペルセポリスの二股は自演になるということです。

156千手:2008/08/05(火) 08:50:22
>>154
ご意見ありがとう。

この掲示板の主旨は「板情報」に書かれている通りです。

>ペルセポリス (高速度ゼミナール)
> 議論を戦わせ、思考を鍛えてゆきましょう。ここからのヒントでものを書いた方はその明示とご連絡を。(代表中路正恒 責任管理)

157千手:2008/08/05(火) 09:06:27
>>156

"le nom de la possibilit&eacute;"
a.「可能性の名前」(ブログ・現)
b.「可能にするものの名前」(ペルセポリス・哲学153)
この二つは当初は訳し方の違いと思っていたのですが、展開すれば別のことになるかもしれません。
ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。
議論がなければ打ち捨てるのも当然です。
ブログの方は修正が容易だという利点があります。必要な修正は随時行なっています。

158千手:2008/08/05(火) 09:17:28
墓参り(松山)と出雲大社の本殿特別拝観に行ってきました。

159毛蟹:2008/08/05(火) 12:24:20
>>157
>ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。

著作権?他者の著作物を掲示板に引用すると著作権上の問題が生じる恐れがあると?
もしそのような問題が実際に発生する確率が1パーセントでもあるとしたら、僕はペルセポリスの運営者に迷惑が掛からぬようにまず自分のブログを立ち上げ、そこに引用したいテキストを収めてから引っ張りださなくてはいけませんね。でもそれは滑稽なことですね。

ペルセポリスで論考を試し、ブログで著作権を確定する。正直に言ってセコイ印象を免れないと思います。とんだ誤解だということであればブログとペルセポリスの関係について納得のゆく説明をお願いします。

160千手:2008/08/05(火) 15:17:57
ペルセポリスは誰もが議論を研くために使ったらいい。
参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。
毛蟹さんもまずそれを自分でやってごらんなさい。

161千手:2008/08/05(火) 15:18:59
著作権はペルセポリスに発表した時点で生じます。誤解ないように。

162毛蟹:2008/08/05(火) 20:52:16
>>161
ゴッホの絵の贋作を描いて「私のオリジナルだ」というバカはいません。著作権なんてそんなもんですよ。それを必要とする人間が考え出したものです。

163毛蟹:2008/08/05(火) 21:39:50
>>160
>参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。

千手さんと同じようにやったらどうなるか、皆さんよくわかっているんじゃないでしょうか。

164千手:2008/08/06(水) 11:08:41
私の第3ブログ、6月半ばのある日、一日3000アクセスを越えた。
だがそういうことがわかってみると逆にアクセス数なるものに興味を失う。
それに病みつきになるひともいるのだろうが。

また、毎日1万アクセスぐらいになるとステータスから何から違ってくるのだろうけど。

165毛蟹:2008/08/09(土) 09:52:29
「ニーチェ対デリダ」のスレッドの意味がわかりません。
千手さんにとって1つのテーマを2つの机(ブログとペルセポリス)を使って考えることに積極的な意味があるのかも知れません。しかし読み手にとって何の意味があるでしょう。ご紹介のとおり「ニーチェ対デリダ」の全てのエントリーは千手さんのブログで閲覧可能です。読み手からすると両者の関係は卵とニワトリの関係でしかない。
ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。
ブログで論考を完成し、それをペルセポリスにリンクして意見、感想を求める、つまり完成した論考を批判可能な対象としてペルセポリスで取り上げる、これなら意味があるでしょう。

166毛蟹:2008/08/09(土) 10:17:35
>165を「ニーチェ対デリダ」のスレッドに差し込まなかった(差し込むのを躊躇した)理由を想像してください。
僕が言わなければならないと思ったことはこれで全て言いました。

167千手:2008/08/09(土) 14:28:20
>>165
纏めておけばこれだけ見て議論の概要を掴めるはずです。それがメリットです。

>ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。

今後はそうでなくなることを予想しています。
現在もそういう知識を必要としていません。

168千手:2008/08/24(日) 13:52:43
>>165
参考にします。

169ほかいびと★:2008/09/05(金) 23:34:50
千手さん

トポイポイねっとで紹介されてた動画サイトYou tubeで見れる
Karlheinz Stockhausenの映像は英語?も
含め理解できませんでした。
また、「短波」のCDは5万円とか高価でまだ入手していません。

彼の音楽もよく解りませんが、ひとつの室内に4つでしょうか
複数の楽団がそれと同数の指揮者で演奏してたり、
4機のヘリコプターに4人のヴァイオリン奏者をそれぞれのヘリに乗せて
空中で弦楽四重奏のようなことをさせてたりとか、
なんの意味か解らないけど、不思議で子供でも興味を持ちそうな作品から
理解していけたらと、のんびりかまえております。

以前に、ウグイスの鳴き声を聴いてそれに応えるように
笛を吹いたことを書いておられましたが、
それもシュトックハウゼンに関係あるのかなと、想像してました。

170ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:10:17

岩波書店から新しい「講座・哲学」が20年ぶりくらいに発刊が始まりました。
その中に美学が1巻含まれてるのでそれだけでも最低読みたいと思っています。

1980年代に出版された「講座・美学全5巻」は
夏にかけ一通り読み通しましたが、
その中のXenakisと今道友信の対談があり、
クセナキスが映像の音楽化を情熱的に語るくだりが最高に面白く、
あの時点で次の時代にたくされた
芸術概念上の最重要の課題だったのではないか!と、胸がときめきました。

でも、音楽的な素養も有りクセナキスを子供をあやすように理解してあげて、
助言する今道さえ、演奏家や画家など視覚芸術家がすぐにでも
具体的に表現できる実際の技法や譜面など概念も含めまったく
論文や理論を示せなかったというのにはがっかりしました。

京都造形美術大学の指導方針ばかりでなく、
全国のアート系の大学や専門学校の学生さんや卒業された方々が
CGアートなど動画サイトYou tubeに作品を発表するとのことですしたので、
期待して楽しみにして北京オリンピック期間に捜し廻ってました。
・・・・でも、学生さんのは見つけられず、そのかわり
造形大学の先生の西洋美術史の授業があったので、
それだけ見ました(でも、これもがっかりでしたヨ)。

他にはNHKの「デジタル・スタジアム」もあります。
ぜひ、クセナキスの夢を実現した「視覚の音楽化」を実現成功させて欲しいです。
私は演奏とか絵書きは全くしたことがなく表現出来ないので、
芸術学的な概念のほうを自分なりに空想で組み立てて考えてみたいです。

171ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:14:44
170の訂正

京都造形美術大学→京都造形芸術大学 しつれいしました。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板